・改・兄弟愛と社会的友愛についての新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」日本語試訳の全文

教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」

  ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP

 (「カトリック・あい」試訳担当者=章ごとの担当順=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子)

 

1.「FRATELLI  TUTTI」(1)-この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。

聖フランシスコは、簡潔で直接的な仕方で、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられました-それは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。

 2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは自分自身を太陽、海、そして風の兄弟、と感じ、しかも、肉親よりも、もっと近いことを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。

 

境界を設けない WITHOUT BORDERS

 3.聖フランシスコの人生には、「窮まるところを知らず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した彼の心の広さ」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。

 フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。

4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。

 当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系間の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。

5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。

今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられました。アブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、義務、尊厳において平等に創造し、彼らに兄弟姉妹として一緒に暮らすよう求められた」(5)のです。これは単なる外交儀礼ではなく、対話と共通の約束から生まれた省察でした。この回勅で、私たちが署名した文書で提起さ​​れた、素晴らしいテーマのいくつかを取り上げ、発展させています。また、私自身の考えとともに、世界中の多くの個人やグループからいただいた多くの手紙、文書、意見を取り入れています。

  1. 前文に続くページが、兄弟愛についての完全な教えを提供する、とは断言しません。というよりも、その普遍的な視野、すべての男性と女性への開放性を考慮しています。私はこの社会的回勅を、継続的な反省へのささやかな貢献として提供します。他者を排除あるいは無視しようとする試みに直面している今日、言葉のレベルに留まらない兄弟愛と社会的友愛の新しい展望をもって対処することが可能だと証明できるように願っています。私を励まし、支えてくれるキリスト教徒の信念からこの回勅を書きましたが、この省察を、「善意のすべての人々の間の対話へ招き」となるよう努めました。

7. 私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました。この危機に対して、さまざまな国がさまざまな対応をしましたが、国同士が協力できないことは非常に明白になりました。私たちのすべてのハイパー・コネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)において、私たち全員に影響を与える問題を解決することをより困難にする“断片化”を目の当たりにしました。『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」。

 

  1. 私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです。すべての男性と女性の間の友愛。 「ここに、どのように夢を見、人生を素晴らしい冒険に変える方法を示す、素敵な秘密があります。誰も孤立した状態で人生に立ち向かうことはできません… 私たちは、自分を支え、助けてくれる共同体-前を見続けるために互いに助け合うことのできる共同体-を必要としています。共に夢を見ることが、どれほど重要か… 私たちには、蜃気楼-そこに実在しないものを見る危険があります。一方で、夢は共に構築されます」(6)。

 それでは、共に夢を見ましょう-ひとつの人間家族として、同じ肉体を共有する仲間の旅人として、共通の家である同じ地球の子供たちとして、一人ひとりが、彼または彼女それぞれの信念と確信の豊かさをもたらすことを夢見てみましょう-私たちそれぞれが、彼あるいは彼女自身の声、兄弟姉妹の皆と共に。

 

 

第一章 閉じられた世界を覆う暗雲 

CHAPTER ONE DARK CLOUDS OVER A CLOSED WORLD 

9. ここでは徹底的な分析を実行したり、私たちの現在の経験のあらゆる側面を研究したりすることはせず、単に普遍的な友愛の発展を妨げている私たちの世界の特定の傾向を考えて行くつもりです。

*打ち砕かれた夢 

 10.これまで何十年もの間、世界は多くの戦争や災害から教訓を学び、さまざまな形の統合に向かってゆっくりと動いていたように見えました。たとえば、欧州の共通のルーツを認め、その豊かな多様性を讃えることのできる、統一された欧州の夢がありました。私たちは「分かれているところを橋渡しし、欧州大陸のすべての人々の間の平和と交流を促す能力に基づいて未来を構想した欧州連合の創設者の確固たる信念」(7)を思い浮かべています。

 ラテンアメリカでの統合への欲求も高まり、この方向にいくつかの措置が講じられました。一部の国や地域では、和解の試みが実を結び、他の地域でも大きな期待が寄せられました。

11.しかし、私たち自身の日々をみると、特定の後退の兆候を示しているようです。長い間埋もれていたと考えられていた昔の紛争が新たに発生し、近視眼的で過激な、いきり立った攻撃的なナショナリズムがあちこちで台頭しています。一部の国では、さまざまなイデオロギーに影響されたポピュリズムと挙国一致の概念が、国益の保護を装って、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出しています。

 このことは、「それぞれの新しい世代は、過去の世代が行った闘争と成果を引き受け、その目標をさらに高く設定することが求められている」ことを、改めて思い出させてくれます。これが、私たちがとるべき道です。善は、愛、正義、連帯とともに、一回限りで、それで終わり、というものではなく、毎日、実現していかねばなりません。兄弟姉妹の多くが、依然として、私たちに『注意を向けてくれ』と叫ばねばならないような状況に耐えている、という現実を、なぜか無視できるかのようにして、過去に達成されたことをもって良し、とし、自己満足的に謳歌することはできないのです」(8)。

12. 「世界に門戸を開く」は、現在は、経済・金融セクターによって採用され、外国の利益に対して独占的に使われる、あるいは、すべての国において障害や複雑さを伴わずに投資するための経済力の自由に使われる表現です。地域紛争と公益の無視は、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって悪用されています。このような文化は世界を統合しますが、人々と国々を分けてしまいます。「社会は、グローバル化するにつれて、私たちを”隣人”にしますが、私たちを”兄弟”にはしない」からです(9)。

 個人の利益を伸長させ、生活の共同体的側面を弱める一段と大規模化する世界で、私たちは、従来以上に孤独です。確かに、個人が”単なる消費者”あるいは”傍観者”になる市場は存在します。一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることができる強い地域のアイデンティティを強化しますが、それより弱い地域、貧しい地域のアイデンティティを弱め、いっそう脆弱に、依存度を高める傾向があります。このようにして、政治活動は、「分割統治」の原則に基づいて運営され、国境を越える経済力を前にして、一層、脆弱になっています。

 

*歴史的思考の終焉 

 

13. その結果、歴史的思考がますます失われ、さらに分裂につながっていきます。「人間の自由がゼロからすべてを創造する」と主張する一種の「脱構築主義」が、今日の文化の中で進展しています。それが結果として残すものの一つが「際限ない消費と空虚な個人主義の表現」への衝動です。そうした懸念が、私に、若い人たちへのいくつかのアドバイスをさせました。

 「誰かが若い人々に、『自分たちの歴史を無視し、年長者の経験を拒絶し、過去を軽蔑し、そして自分自身が抱く未来を楽しみにするように』と言うなら、その方向に彼らを引き寄せ、その者の言うことだけをするようにするのが、容易になるのではないか?その者は、若者に浅薄で、根無しで、他に不信感を抱くことを求め、その者が約束することだけを信じ、その者の計画に従って行動するようにするのです。それが、さまざまなイデオロギーのなす業です。(注:人々の間に存在する)すべての違いを破壊(または脱構築)し、抵抗なく統治できるようにします。しかし、そうするためには、歴史を必要とせず、過去の世代から受け継いだ精神的、人間的な富を拒絶し、彼らの前に来るすべてのものに無知な若い人々、を必要とするのです」(10)。

14.こうしたことは、新しい形の「文化的な植民地化」です。 忘れないようにしましょう、それによって、自分たちの文化を捨て、そして、「伝統を放棄し、他人を模倣したり、暴力を助長したりすることから、あるいは、許されないような怠慢や無関心から、自分の魂を奪わせ、精神的なアイデンティティだけでなく、道徳的な一貫性、そして最終的には知的、経済的、政治的な独立性をも失う」ことを(11)。

 歴史的な意識、批判的思考、正義のための闘争、統合のプロセスを弱める効果的な方法の一つは、それらの意味の素晴らしい言葉を空にするか、それらを操作することです。 今日、民主主義、自由、正義、団結のような言葉は、本当は何を意味するのでしょうか? それらは、支配のための道具として、あらゆる行動を正当化するために使える無意味な奉仕をするための下げ札として機能するように、曲げられ、形を作られています。

*皆のための計画が欠けている 

 15. 人々を支配し、支配するために最もいい方法は、特定の価値観を擁護することを装ってでも、絶望と落胆を人々の間に広めることです。今日、多くの国で、誇張、過激主義、二極化が、政治的な道具になっています。「嘲笑と疑惑、執拗な批判の戦略」を採用し、さまざまな方法で、人々が存在したり意見を述べたりする権利を否定します。人々の真実と価値観の共有は拒絶され、結果として、人々の生活は貧しくなり、権力者の傲慢に翻弄されます。  

 政治的活動はもはや、「人々の生活を改善し、公益を促進するための長期計画に関する健全な議論」と関係しなくなり、他の人々の信用を傷つけることを目的とした巧妙な商いの手法とだけ関係を持ちます。そうした告訴と反訴の卑劣なやり取りの中で、議論は不一致と対立の永続的な状態へと退化していきます。

16. 勝つことの目的が敵を排除することにある”利益相反の争い”の中で、私たちは、どのようにしたら、視力を向上し、隣人を認識したり、途中で倒れた人々を助けたりできるのでしょうか? 今の世の中では、私たち人間家族全員の発展へ素晴らしい目標を設定する計画を立てる、というのは、狂気のように聞こえます。私たちの互いの距離はどんどん遠くなってきています。人々が強く結びついた公正な世界に向けたゆっくりとした、苦労に満ちた行進は、新しくて劇的な挫折を味わっています。

17. 私たちが住んでいるこの世界を大切にすることは、自分自身を世話することに通じます。しかも、自分たちを”共通の家”に住む一つ家族として考えることが一層、必要になって来ています。「大切にする」ことは、目先の利益を要求する経済的な力に関心をもちません。多くの場合、環境を守るために上げられた声は、特別な利益のための単なる隠れ蓑である一見、合理的な論法によって、黙らされ、笑いものにされます。しかし、私たちが作り上げた浅薄で近視眼的な文化は、共通のビジョンを失い、「いったん特定の資源が枯渇してしまえば、気高い主張を装ってはいるいるものの、新たな戦いための道具建てがなされる、ということが予見できる」(12)のです

*「使い捨て」の世界 

 18. 私たち人間家族の中には、苦労の無い生き方がふさわしいと考えられる人のために、たやすく犠牲にされるような人がいるようです。 結局のところ、「人は、特に、貧しく、身体が不自由だったり、胎児のように『まだ役に立たない』、あるいは高齢者のように『もう必要ない』とされたりする場合、もはや、世話をされ、敬意を払われる最も高い価値のあるもの、とは見なされません。 私たちは、この上なく嘆かわしい食べ物の無駄を始めとする、あらゆる種類の無駄に、いっそう無関心になってきています」(13)

 19. 出生率が低下しているー悲しみと孤独の存在への高齢者の格下げをともなう、人口の高齢化につながるーは、それが私たちに関する全てだ、私たちの個々の関心がただ一つの重要事だ、とする巧妙な言い方です。そのようにして、捨てられるのは「食べ物や必要不可欠な物だけでなく、しばしば、人間自身」(14)です。

 新型コロナウイルスの大感染の結果、世界の特定の場所で、高齢者たちに何が起こったのかを私たちは見てきました。彼らは死ぬ必要がなかったのです。同様のことは、熱波や他の災害によって、これまでも起きてきました。そして、高齢者たちは、自分が残酷に見捨てられていることに気づきました。でも私たちは気づいていませんー高齢者たちを隔離し、家族の親密さやいたわりもなく、他人の世話に任せることで、家族そのものをそこない、衰えさせることを。そして結局は、若い人たちから、自分のルーツとの欠かすことのできない繋がりと自分自身だけでは得られない知恵を、奪うことになるのです。

20.他の人を捨て去るこのやり方は、さまざまな形をとる可能性があります。例えば、失業を引き起こし貧困を拡大させるという深刻な結果をもたらすことを考えずに、労働コストを下げることに執着することです(15)。また、他の人を捨て去る気持ちは、人種差別など、ずっと昔からあり、影を潜めても繰り返し現れる、敵意に満ちた振る舞いに、滲み出ます。人種差別の数々の出来事は、私たちに恥ずかしい思いをさせ続けています。私たちが思っている社会の進歩が、自分で考えるほど本当でも、信頼できるものでもない、ということを、それが示しているからです。

21.いくつかの経済ルールは、成長に効力を発揮していますが、統合的な人間開発(integral human development=注:パウロ6世教皇が1967年に出された回勅『ポプロールム・プログレシオ ― 諸民族の進歩推進 について 』のキーワード、「発展」は経済的、および物質的成長に限定するものではなく、「すべての人の全体としての開発を促進すること」を意味する)には効力を発揮していません(16)。富は増加しましたが、不平等とともに、「新しい形態の貧困が出現する」結果になりました(17)。

 現代世界で貧困が減っている、という主張は、現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することでなされています。たとえば、電気の供給する体制が欠けていることが「貧困のしるし」とは見なされず、困窮の原因ともされなかった、というケースもあります。貧困は常に、時々の歴史的な期間において採用可能な実際の条件の文脈で理解され、測られねばなりません。

*万人に行き渡っていない「人権」

22.ひんぱんに明確になっているのは、実際問題として、人権がすべての人に平等ではない、ということです。人権の尊重は「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳に敬意が払われ、彼あるいは彼女の権利が認められ、保証されれば、創造性と相互依存関係が成長し、人間の個性の創造性は、共通善を促進する行動を通して発揮されます」(18)。

 しかし、「現代社会を注意深く観察することで、70年前に厳粛に宣言された『すべての人間の平等な尊厳」が、あらゆる状況で真に認識され、尊重され、保護され、促進されているのか、疑問を生じるような、数多くの矛盾があることが分かります。

 今日の世界では、還元主義的な人類学の考え方(注:上位階層において成立する基本法則や基本概念が「常に必ずそれより下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方-を指していると思われる)によって、また、人間を搾取し、捨て、さらには殺すことさえためらわない利益本位の経済モデルによって、様々な形の不平等が続いています。

 一部の人たちは豊かに暮らしていますが、他の人たちは、尊厳そのものが否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的権利が取り上げられ、あるいは侵害されています」(19)。このことは、生来の人間の尊厳に基づいた権利の平等について、私たちに何を語るのでしょうか?

23.  同じように、世界中の社会組織は、女性が男性と同じ尊厳、同一の権利を持っていることを明確に反映するには、まだほど遠い状態です。私たちは、言葉である事を話しますが、決定と現実は別の話です。確かに、「重ね重ね哀れなのは、のけ者にされ、虐待され、暴力を振るわれることに耐える女性たちだ。それは、彼女たちがしばしば自分の権利を守れないためである」(20)。

 

24. また、「国際社会は、あらゆる形態の奴隷制を終わらせることを目的とした数多くの協定を採択し、この事態と戦うためのさまざまな戦略に手を付けましたが、現在も、何百万の人々-子供、そしてあらゆる年齢の女性、男性-の自由が奪われ、奴隷のような境遇で生きることを強制されています… 奴隷制は今も、過去と同じように、彼または彼女を物として扱うのを認めるような、人間についての考え方に根ざしているのです… 強制され、だまされ、あるいは肉体的、精神的に強迫されることで、神の似姿として創られた人間が、自由を奪われ、売られ、他人の所有物になり、目的達成の手段として扱われます…

 犯罪組織のネットワークは、世界のさまざまな地域で、若い男性と女性を誘惑する方法として最新の通信手段を使うことに習熟しています」(21) 。女性を意のままに操り、妊娠中絶を強制する時、あらゆる規制をかいくぐる悪行。臓器売買のために人々を誘拐までする憎悪すべき行為。人身売買やその他の現代的な形で引き起こされている奴隷制は、人類全体が真剣に取り組む必要のある世界的な問題です。「犯罪組織が目標達成に世界的な犯罪網を使っている以上、こうした行為を消し去る取り組みも、共通の、社会のさまざまな部門における世界的な努力が必要です」(22)。

*争いと恐怖 

 25. 戦争、テロリストによる襲撃、人種的あるいは宗教的な迫害、その他の、人間の尊厳を踏みにじる数多くの行為は、特定の、主として経済的な利益にどれほど都合がいいかによって、異なった判断が下されています。権力を持つ者にとって都合がいい場合に真実である事が、都合が悪くなれば真実でなくなります。悲しいことに、これらの暴力行為は「ばらばらな状態で実際に起きている『第三次世界大戦』を構成するほど一般的になってきています」(23)。

26.  私たちを結びつける共通の領域が、もはや無いことに気付いたとしても、驚くべきことではありません。 確かに、どの戦争でも最初に犠牲となるのは「人間家族の友愛への、本来備わっている神から召された使命」です。 その結果、「あらゆる脅迫的な状況が不信感を生み、人々を自分の安全圏に引きこもらせる」(24)。 私たちの世界は奇妙な矛盾に陥っているーその世界で、私たちは、自分が「恐怖と不信の心性によって支えられた誤った安心感を通して、安定と平和を確保できるのだ」(25)と信じているのです。

 27. 逆説的ですが、私たちには、技術開発が排除することに成功していない、という先祖代々の恐れがあります。確かに、そうした恐れは、新技術の裏に隠れて広がることができました。今日でも、古代から続く町の壁の外には、計り知れない深み、未知の領域、荒れ野があります。そこから来るものは、何であろうと信頼できません。なぜなら、それは未知で、なじみがなく、村の一部ではないからです。それは「野蛮人」の領土であり、そこから私たちはどんな犠牲を払っても自分自身を守らなければなりません。

 その結果、自衛のために新しい壁が建てられ、外の世界は存在をやめ、「私」の世界だけが残り、他の人々は、もはや奪われることのない尊厳を持っている人間とは見なされず、ただの「彼ら」になります。

 もう一度、私たちは「他の文化や他の人々と出会うのを防ぐために『壁の文化』を構築し、壁-心の壁、土地の壁を立てたい、という誘惑に出会います。そして、壁を立てる人々は、自分が立てたまさにその壁の中で奴隷になってしまうでしょう。彼らは視野を失ったまま残されます。他の人々との交流を欠いているからです」(26)。

28. システムに見捨てられたと感じる人々が経験する孤独、恐れ、不安は、さまざまな「マフィアたち」のための肥沃な土地を作り出します。彼らは繁栄します。なぜなら、犯罪によって利益を追求している時でさえも、社会から忘れられた人々に、様々な形の援助をひんぱんに提供することで、擁護者である、と主張するからです。そして、偽りの共同体主義の神秘的雰囲気を振り撒くことで、抜け出すのがとても難しい「依存と忠誠の絆」作り出す、典型的な“mafioso(マフィアの一員)”の”教育学”も存在するのです。

*共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 

 29. アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師も同じお考えですが、私たちは、科学、技術、医学、産業、福祉の分野で、とりわけ先進国においてなされた疑いようのない進歩を無視することはしません。それにもかかわらず、それが「歴史的な進歩、偉大で価値あるものであると同時に、国際的な活動に影響を与える道徳的な劣化、そして、精神的価値と責任感の弱体化が起きていることも、強調しておきたいと思います。これは、欲求不満、孤立、絶望という一般的な感覚を生む一因となります」。

 私たちが目にするのは「不確実性、幻滅、未来への恐れに支配され、限られた経済的利益によって支配されている世界的な状況の中で、敵対関係の発生と武器と弾薬の蓄積」です。また、「重大な政治的危機、不正がはびこり、天然資源の公平な分配の欠如… 貧困と飢餓から衰弱した何百万人もの子供たちの死をもたらすような危機に直面しているにもかかわらず、容認することのできない国際的なレベルでの沈黙があります」(27)。このような世界は、その否定できない進歩にもかかわらず、より人間的な未来につながるようには見えません。

30. 今日の世界では、「ひとつの人間家族に属している」という感覚は薄れつつあり、「正義と平和のために力を合わせる」という夢は、時代遅れのユートピアのよう思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた「クールで、心地よく、グローバル化された無関心」です。

 私たちは、全員が同じ船に乗っていることに気づかず、「自分が全能だ」と考えます-このような幻想は、偉大な友愛の価値を意識せず、「一種の冷笑的な考え」につながります。 それは、私たちが幻滅と失望の道を進んだ場合に直面する誘惑です… 孤立し、自己の利益に逃げ込むことは、希望を取り戻し、再生をもたらす道ではありません。希望、再生に必要なのは、親密さです。 出会いの文化です。 孤立はノー、親密さはイエス。文化の衝突はノー、 出会いの文化はイエス、です」(28)。

31. 速いスピードで進むものの、共通の工程表がない現在の世界では、「『個人の幸福への関心』と、より大きな『人間家族の繁栄』の間のギャップが、個々人と人間的な共同体社会の間に完全な分裂をもたらすまで広がっているように思われます… 『共に暮らすことを余儀なくされている』と感じることと、強く求め育てる必要のある共同生活の種子の豊かさと素晴らしさに価値を置くことは、まったく別です」(29)。

 技術は絶えず進歩していますが、「科学技術革新の進展が、もっと平等で多様性を包み込む社会に繋がるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。私たちが遠くの惑星を発見するとともに、私たちの周りを回る兄弟姉妹が求めているものを再発見することは、どれほど素晴らしいことでしょう」(30)。

*歴史における新型コロナウイルス大感染と他の悲惨な出来事 PANDEMICS AND OTHER CALAMITIES IN HISTORY

32. 新型コロナウイルスの世界的大感染の悲劇は、私たちが皆、世界的な共同体の船に乗っているのだ、という感覚を、ほんの一瞬、復活させましたーそこでは、一人の問題が、全員の問題です。改めて、一人だけで救われる人はいない、ということに気づきました。私たちは一緒にしか救われません。先に私が申し上げたように、「(注:コロナ大感染の)嵐は私たちの弱さを露呈し、確かだと思っていたことー日々の日程、計画、習慣、優先すべきもの…などーが間違っていた、過信していたことを明らかにしました… この嵐の最中に、私たちが偽装した自分のエゴ、いつも外見を気にしていた「固定概念の建物の正面」が崩れ去り、『私たちが互いの一部であり、互いに兄弟姉妹だ』という避けがたく、神に祝福された認識が、改めて明るみに出されたのです」[31]。

33. 世界は、「技術進歩で『人的損失』の削減を目指す経済」に向かって執拗に進んできました。市場の自由はすべてを保証するに足るもの、と私たちを信じ込ませた人々がいました。しかし、現在の制御不能な新型コロナ感染の、残忍で予期しない打撃は、人間への配慮を、少数者の利益でなく、すべての人のために取り戻すように、私たちに強く教えました

 今、私たちは知ることができます。「私たちは素晴らしさと壮大さの夢の上に生き、結局は、娯楽、偏狭、孤独に時間を費やすことになった。ネットワーキングに夢中になり、友愛の味を忘れた。安直に手に入る安全な結果を探し求めたが、焦りと不安に圧倒された。仮想現実の囚人たち-私たちは本当の現実の味と香りを無くした」(32)。コロナ大感染によってもたらされた痛み、不確実さ、恐れ、そして自分自身の限界の認識は、これまでの生活様式、人間関係、社会の組織、そして何よりも、自分の存在の意味を考え直すことを、これまで以上に緊急の課題として、私たちに提示しているのです。

34.すべてが繋がっていますーこの地球規模の災害が、私たちが現実にアプローチする方法、自分自身の人生と存在するすべてのものの「至高の主人」である、という私たちの主張と無関係だというのは想像しがたいことです。私は神の報復について話したくありませんし、私たちの自然に与える害がそれ自体、私たちの罪に対する罰である、と言うだけでは不十分です。世界そのものが反逆の声を上げています。私たちは「tears of things」-人生と歴史の不幸を呼び起こす詩人ウェルギリウスの有名な詩を思い起こします(33)。

(「カトリック・あい」注:プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro=紀元前70年10月15日? – 紀元前19年9月21日)=共和政ローマ末の内乱の時代からオクタビアヌスの台頭に伴う帝政の確立期に生涯を過ごし、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ、欧州文学史上、ラテン文学において最も重視される人物)

35. しかし、私たちはあまりにも早く、歴史の教訓-「人生の教師」(34)を忘れてしまいます。現在のコロナ危機が過ぎ去った後の、私たちの最悪の対応は、熱狂的な消費主義と新しい形の身勝手な自己保存に、さらに深くのめりこんでしまうことです。

 神が希望されるのは、現在の危機がすべて終わった後、私たちがもはや「彼ら」と「それら」の観点から考えることをせず、「私たち」の観点から考えることです。そうすることで、「私たちが何ら教訓を学ばない歴史上の単なる悲劇」の一つではないことを証明できればいい。毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを肝に銘じることができればいい。この計り知れない悲しみが、無駄にならず、私たちが新しい人生の過ごし方に一歩踏み出させればいい。私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいい。

 36. 私たちが、「親密な関係を持つ共同体、自分たちの時間、エネルギー、資源の価値のある連帯」を作り上げる共通の情熱を取り戻さない限り、私たちを惑わした世界的な幻想は崩壊し、多くの人々が苦悩と空虚に支配されてしまうでしょう。また、「消費者主義の生活様式への執着は、特にそれを維持できる人がほとんどいない場合、暴力と相互破壊につながるだけだ」(35)という見方を、安易に拒むべきではありません。「すべての人は自分自身のために」という考えは、どのような感染症の大流行よりもひどい「気ままなやりたい放題」へと堕落していくでしょう。

*国境における人間の尊厳の欠如 

 37. 特定のポピュリスト的な政治体制や、特定のリベラルな経済的な取り組みを進める人々は、「移民の流入はどのようなコストを払っても防ぐ必要がある」と言い張っています。 貧しい国々への援助を抑えることの妥当性についても、そのような主張をします。その結果、そうした国々がどん底に落ち込み、縮政策を強いられることになるかも知れません。そのような観念的で,支持しがたい主張の裏で、多くの命が危機に瀕していることに気付かないのです。

 多くの移民たちは、戦争、迫害、自然災害から逃れてきました。 そうでない人たちは、当然のことながら、「自分自身と自分の家族のための良い機会を求めています。より良い未来を夢見ており、それを手に入れる条件を整えたいと思っています」(36)。

38. 悲しいことに、一部の人は「西洋文化に惹かれ、時には非現実的な期待を抱き、深刻な失望にさらされます。麻薬カルテルや武器カルテルに頻繁に関わる悪意をもった人身売買業者は、移民の弱点を悪用します。移民は、移動中に暴力、人身売買、精神的および肉体的虐待など、計り知れない苦しみを頻繁に味わいます」(37)。移住する人々は「故郷との関係を断たれ、しばしば文化的および宗教的の喪失を経験します。

 離散は、彼らが残した共同体社会にも感じられ、彼らは最も活発で進取の気風を失い、特に両親の一方または両方が、子供たちを生まれた国に残して、移住する時に、それを感じます」(38)。このような理由から、「移住しない、つまり故郷に留まる権利を、再確認する必要もあります」(39)。

39. それからまた、「一部の移民受入国では、移住は恐怖と警戒を引き起こし、しばしば政治目的のために煽り立てられ、利用されます。移民たちが自分自身の中に閉じこもることが、外国人恐怖症につながる恐れがあり、それに断固として対応する必要があります」(40) 。移民は、他の人のように「移住先の社会生活に参加する資格がある」とは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることが忘れられています。

 したがって、彼らは「自分自身の贖罪の代理人」であるべき(41)なのです。 彼らが人間であることを公然と否定する人は誰もいませんが、実際には、私たちの判断と彼らへの対応によって、彼らを価値が低く、重要性が低く、人間性が低い、と見なしていることを示すことになり得るのです。 キリスト教徒にとって、このような考え方と振る舞いは受け入れられません。それが、信仰ー出自、人種あるいは宗教にかかわらず、奪うことが許されない一人ひとりの尊厳、そして「友愛」という最高法規ーへの強い確信よりも、特定の政治的な選好を、上に置くからです。

40. 「移住は、これまで以上に、私たちの世界の将来に、極めて重要な役割を果たすでしょう」(42)。しかし現在、移住は「すべての市民社会の基盤となっている兄弟姉妹に対する責任感の喪失」の影響を受けています(43)。たとえば、欧州は、そうした道を歩むリスクを冒しています。にもかかわらず、「その偉大な文化的および宗教的遺産に助けられ、人間が中心であるという考えを守り、そして『市民の権利を守り、移民を助け、受け入れることを保証する、という二重の道徳的責任』の間に適切な均衡を見つける手段を持っています」(44)。

41. 私は、移民に戸惑い、恐れている人がいることを承知しています。これは、私たちの自然な自己防衛の本能の一部だと思います。しかしまた、一人の個人、一つの集団は、他の人々への創造的な開放性を育てる場合に限って、実り豊かで生産的になることも、事実です。

 私は皆さんに、こうした最初の反応を乗り越えて振る舞うようにお願いします。なぜなら、「(注:私たちの移民の人たちに対する)疑いや恐れが、私たちを不寛容で、閉鎖的で、そして恐らく自覚無しに、人種差別主義者にまでしてしまう、考えと振る舞いを条件づける、という問題があるからです。そのようにして、恐れが、『他の人と出会いたい』という強い希望と能力を、私たちから奪うのです」(45)。

*コミュニケーションの幻想 

 42. おかしなことに、他の人々に対する閉鎖的で不寛容な態度が高まる一方で、(注:人と人の間の)距離が縮み、あるいはプライバシーの権利がほとんど消えてしまうほどに薄らいでいます。すべてが調べられ、検閲される一種の惨状が起き、人々の生活は、常に監視されるようになっています。

 デジタル通信は、すべてを白日の下に晒そうとしています。人々の生活は、情報がバーコード化され、むき出しにされ、あちこちに言いふらされ、それがしばしば匿名でなされます。他の人への敬意が崩れ、たとえ他の人々をはねつけ、無視し、距離を置いても、彼らの生活の隅々を、臆面もなく、のぞき込むことができるのです。

 

43. 憎悪と破壊のデジタル促進運動は、それ自体、私たちが信じ込まされているような、相互支援の前向きなものではなく、認識された共通の敵に対して一つになった、単なる個人の集団の動きです。「デジタルメディアはまた、人々を、中毒になり、孤立し、現実との接触を徐々に失っていく危険にさらし、本当の人間関係が育つのを妨げる可能性がある」(46)。デジタルメディアは、私たちに話しかけ、人間的なコミュニケーションの一部であるものー身体的表現、顔の表情、沈黙の瞬間、身振りや手振り、そして匂い、手の震え、赤面と発汗さえもー欠いています。

 デジタルによる関係-友情が徐々に育っていくことや、安定した交流、あるいは時間とともに成熟する総意の構築を必要としない関係-は、社交的なように見えます。だが、実際には、共同体社会を構築せず、個人主義であることを隠して、広げていく傾向があり、それは、よそ者を嫌い、弱い者を軽蔑する中に、自然と現れます。デジタルによる接続は、”橋”を作るのに十分ではありません。人類を一つにすることはできないのです。

*臆面もない侵略 

 44. そうした人々は、個人個人で心地よい消費者主義者の孤独を保っている時でさえも、他の人を打ち壊すような、あからさまな敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、言葉の暴力をかきたてる、絶え間ない熱狂的な結びつきを、「物理的な接触では皆を引き裂かないために求められる、自制心」を欠いたまま、選択することが可能です。社会的な侵略は、コンピューターやモバイル・デバイスを介した拡大の未だかつてなかった場を見つけたのです。

 45. このことは、今や、諸々のイデオロギーに完全な行動の自由を与えました。数年前まで、皆の尊敬を失う危険を冒さずに口にできなかったことを、今では、責任を問われることなく、極めて粗雑な言葉で、一部の政治家さえも話すようになっています。そして、忘れてならないのは、次のようなことですー「デジタルの世界では巨大な経済的利益が働いており、その世界は、侵略的で、良心と民主主義的な手続きを操作するメカニズムを作るのと同じような、巧妙な管理形態を実行することができる。

 多くの(注:デジタル)プラットフォームの機能は、結局は、同じような考えを持つ人同士の出会いを促し、議論をさせないようにすることにつながる。こうした閉鎖された回路は、偽のニュースや虚偽の情報の拡散を促進し、偏見や憎悪を助長する」(47)。

46. 私たちが認識すべきことは、キリスト教徒を含む宗教を信じる人々の間で、破壊的な形の狂信的振る舞いが散見されることです-そうした人々もまた、「インターネットやデジタル通信によるさまざまな公開討論の場を通じて、言葉による暴力のネットワークに巻き込まれる可能性があります。

 カトリックのメディアさえも、限界を超え、名誉毀損や誹謗中傷が当たり前になり、あらゆる倫理基準と他の人の名誉の尊重を捨てる可能性があります」(48)。このことが、私たちの父が求める友愛に、どのように貢献できるのでしょうか。

 

*叡智を欠いた情報 

 47. 真の叡智は、現実との出会いを求めます。しかし今日では、すべてを作り上げ、偽装し、変えてしまうことが可能です。したがって、ほんの初歩的な現実をもっての直接の出会いさえも、耐え難いものになる可能性があります。そうすると、選択のメカニズムが働きます。これによって、好きなものと嫌いなもの、魅力的と思うものと、そうでないものを、一瞬のうちに区別することができます。

 同じ様に、私たちは自分たちの世界を共有したい人を選ぶことが可能です。今日の仮想現実のネットワークでは、不快な人、あるいは不快と思われる人や状況が削除され、仮想のサークルが作成され、自分が住んでいる現実の世界から切り離されてしまいます。

48.腰を下ろして人の話を聞く能力は、対人関係特有のもので、自己愛を超え、他の人を受け入れ、気遣い、自分の生活に喜んで迎える人々によって示される、歓迎の態度の典型です。 しかし、「今の世界は、全体的に”耳が遠い”世界になっています… 時には、現代世界の我を忘れたような動きが、他の人の話に注意深く耳を傾けるのを妨げます。相手の話の途中に割り込み、その人がまだ言い終えていない意見に反論しようとします。

 私たちは 聞く能力を失ってはなりません」。 聖フランシスコは「神の声を聞き、貧しい人々の声を聞き、弱い人々の声を聞き、自然の声を聞きました。 彼はそれを、生き方にしました。 私の強い願いは、聖フランシスコの植えた種が、多くの人の心の中で育つことです」(49)。

49. 静かに、注意して聴く習慣が、(注:SNSなどによる)メッセージ交換の狂乱に取って代わられることで、知者の人間的コミュニケーションの基本構造が危機に瀕しています。欲しいものだけを作り、コントロールできないものや、簡単に表面的に知ることができないものは、すべて排除する、という新しい生活様式が生まれ、その固有の論理によって、私たちを共有の知恵に導くような、静かに、深く考えることを、できなくしてしまいます。

50. 共に、私たちは対話、リラックスした会話、あるいは情熱的な討論で真実を探し求めることができます。そのためには忍耐力が必要です。沈黙と苦しみの瞬間を伴いますが、それでも個人と人々の広い経験を辛抱強く受け入れることができます。

 私たちの”指先での情報”の洪水は、大きな知恵にはなりません。知恵は、インターネットでの迅速な検索から生まれるものでも、未検証のデータの塊でもありません。そのようなやり方は、真実との出会いの中で成熟する方法ではありません。そのようなやり方の会話は、最新のデータだけを中心に展開され、単に水平的なものの積み重ねになります。

 注意を集中し続け、問題の核心に入り、生活に意味を与えるために何が欠かせないかを認識する、ということができません。そうして、自由は、自分があちこちに売られている、という幻想になり、インターネットをあやつる能力とたやすく混同されてしまいます。

 友愛を築く取り組みは、それが地域的であろうと普遍的であろうと、自由な、本物の出会いに開かれた精神によってのみ、始めることができるのです。

*服従と自己卑下の構造 

 51. 特定の経済的に繁栄している国は、発展途上国のための文化的なモデルとして提案される傾向があります。 それよりも、これらの国々が独自の方法で成長し、適切な文化の価値を尊重しながら変革能力を高めていくように支援する必要があります。 他人を模倣したい、という浅薄で情けない欲求は、創造ではなく、コピーと消費につながり、国民に低い自尊心を育ててしまいます。

 多くの貧しい国の富裕層や、最近貧困から抜け出した人々には、先住民の考え方や行動に抵抗があり、すべての病いの唯一の原因であるかのように、自分自身の文化的アイデンティティを軽蔑する傾向があります。

52. 自尊心を壊すことは、他の人を支配する容易な方法です。私たちの世界を平準化しがちなこうした時代的流れの背後には、メディアやネットワークを通じて上流階級に奉仕する新たな文化を創造する試みをする一方で、低い自尊心を利用する強い関心が蔓延しています。

 金融の投機家や乗っ取り屋のご都合主義の思うつぼにはまり、貧しい人々がいつも敗者になってしまいます。そして、人々の文化を無視することは、多くの政治指導者が、自由に受け入れられ、長期にわたって維持されるような効果的な開発計画を考案できないことに繋がっています。

53. 私たちはくよくよ悩みませんー「誰にも属さず、根こそぎにされた、と感じることほど悪い形の疎外感はない。土地が人々の帰属意識を育み、各世代の間と異なる共同体社会の間の統合の絆を生み出し、他の人に鈍感にさせ、疎外感を強めさせるすべてのことが避けられる限り、その土地は豊かになり、人々は実を結び、未来を生み出す」(50)ということを。

 

*希望 

 54. このような無視できないような黒雲にもかかわらず、私はこれからのページで、多くの新たな希望の道を取り上げ、議論したいと思います。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからです。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせました。

 私たちは気づき始めました-私たちの生活が、共有する歴史の決定的な出来事を果敢に形成する人々-医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士…と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解しました(51)。

55. 私はすべての人に、新たな希望を求めます-希望は「すべての人の心に深く根差す何かについて、それと別に、私たちの環境と歴史的な条件について、私たちに話しかける」からです。希望は、渇き、大望、充実した人生への憧れ、偉大なことを成し遂げたい強い希望、私たちの心を満たし、私たちの精神を真、善、美、正義と愛のような高遠な現実に引き上げることを、私たちに語ります…。

 希望は大胆です-それは私たちの視野を制限するような個人的な都合、ささやかな安心、報酬の先を見据え、人生をもっと素晴らしく、価値のあるものにする壮大な理想に私たちの心を広げます」(52)。それでは、希望の道に沿って前進を続けようではありませんか。

第二章 道端の異邦人  A STRANGER ON THE ROAD

56. 前章は、今日の問題の、冷淡で切り離されたような記述として読まれるべきではありません。なぜなら、「現代の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々の喜びや希望、悲しみや苦悩は、キリストに従う者の喜びや希望、悲しみや苦悩でもある。真に人間的なものは全て、彼らの心に響く」(53)からです。

 私たちが経験していることの中に一筋の光を探そうとする試みとして、また、いくつかの行動を提案する前に、私は今、2000年前にイエス・キリストによって語られたたとえ話に1章を割きたいと思います。本回勅は、宗教的信念に関係なく、善意のあるすべての人々に向けられていますが、次のたとえ話は、私たちの誰もが共感し、また困難であると感じることができます。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は答えた。『「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。

 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章25節~37節)。

 *背景 

57.このたとえ話は、古くからある問題に関係しています。聖書は、世界と人間の創造についての記述後、間もなく、人間関係の問題を取り上げています。カインは弟アベルを殺し、神が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」 (創世記4章9節)と問われるのが聞こえます。彼の答え「私は弟の番人でしょうか」(同書)とは、私たちがよく答えにするものです。神が問われるまさにそのご質問によって、私たちの無関心の正当化として、決定論や宿命論に訴える余地が与えられてはいません。代わりに、神は、私たちが対立を解決し、お互いを守りあう異なる文化の創出を勧めておられるのです。

58.「私を胎内に造った方は彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを母の胎に形づくられたのではないか」(ヨブ記 31章15節)。ヨブ記は、唯一の創造主における私たちの起源を、特定の共通の権利の基礎と見なします。何世紀も後に、聖エイレナイオスは旋律のイメージを使って同様に主張しています。「真理を求める者は、音符と音符の違いに集中して、それぞれが別々に、そして他から離れて作られたかのように考えるべきではない。代わりに、一人の同じ人物が全体の旋律を作曲したことに気づくべきだ」(54)。

 59.初期のユダヤの伝統では、他人を愛し、大切にする義務は、同じ国の人々の間の関係に限られていたようです。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)という古代の戒めは、通常、自分の同胞を指すものと理解されていましたが、その境界は次第に拡大されていき、とりわけ、イスラエルの地の外で発展したユダヤ教にてそうである。私たちは、自分が他人にしてほしくないことを他人にしてはならない」(トビト記4章15節参照)という戒めに出会います。

 紀元前1世紀に、ラビ・ヒルレル(紀元前一世紀の律法学者、ユダヤ教の著名な宗教指導者)がこのように語っています-「これがトーラー全体なのだ。それ以外はすべて解説だ」(55)。「人の憐れみは、その隣人に及ぶが、主の憐れみは、肉なる者すべてに及ぶ」(シラ書18章13節)というように、神ご自身の行動を模倣したい、という気持ちは、次第に、自分に最も近い人だけを考える傾向に取って代わっていきました。

 60.新約聖書では、ヒルレルの教えが前向きな言葉で表現されています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)。天の御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせて」(マタイによる福音書5章45節)くださるので、この掟は普遍的な範囲であり、私たちが共有している人間性に基づいてすべての人を包含しています。それゆえ、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)という呼びかけがなされているのです。

61.聖書の最も古い文書の中に、私たちの心が外国人を受け入れるように広げるべき理由が見つかります。それは,ユダヤ人自身がかつてエジプトで外国人として生活していたという,ユダヤ人の永続的な記憶に由来しています。

 「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)(注:[聖書の訳本によって節が違っている=英語訳・21節、日本語訳・20節)

 「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。

 「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった」(レビ記19章34節)。

 「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。

 兄弟愛への呼びかけは、新約聖書全体に響き渡っています。「なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)。「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいる」(ヨハネの手紙1・2章10節~11節)。「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています」(ヨハネの手紙1・3章14節)。「目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(ヨハネの手紙1・4章20節)。

62.しかし、この愛の呼びかけは誤解される可能性があります。キリスト者の初期の共同体が、閉鎖的で孤立した集団を形成する誘惑を認識している聖パウロは、弟子たちに「互いの愛とすべての人への愛」(テサロニケの信徒への手紙1・3章12節)に豊かに満ち溢れるように促しました。ヨハネ文書の共同体においては、たとえ「よそからきた人たち」(ヨハネの手紙3・5節)であっても、同胞のキリスト者が歓迎されることになっています。このような背景の中で、「善きサマリア人」のたとえ話の意義は、よりよく理解できるのです。

 すなわち、愛は、困っている兄弟姉妹がどこから来たかを気にしません。なぜなら、「愛は、私たちを孤立させ、分離させ続ける鎖を打ち砕き、 その代わりに橋を架けてくれます。 愛は、私たち全員がくつろぐことのできる一つの偉大な家族、を作ることを可能にしてくれます… 愛は慈悲と尊厳を醸し出す」(56)からです。

*道端に見捨てられた人 

 63.イエスは、強盗に襲われ、道端で負傷して横たわっている男の人の話をされています。何人かが彼のそばを通りましたが、足を止めませんでした。彼らは、重要な社会的地位にあるにもかかわらず、共通善に対する真の関心を欠いていたのです。けがをした男の人を介抱したり、助けを呼んだりするのに数分も費やそうとしません。

 そうした中で、ある一人の人が立ち止まり、男の人の所に行って、介抱し、必要なものを提供するために自分のお金まで使いました。皆が忙しく立ち回る世の中で、しっかりとつかまるものを与えました。自分の時間を与えました。男の人を助けた人には当然、その日の予定、必要としているもの、約束や強く希望するもの、がありました。

 それでも、助けが必要な人に出会った時、そうしたことを全部、脇に置きました。けがをしている人について何も知らないにもかかわらず、彼のことを自分の時間を費やし、世話をするに値する人だ、と見なしたのです。

64.あなたはこれらの人のうち, 誰を自分と同一視するでしょうか?これは唐突な質問ですが、率直で鋭い質問です。このたとえ話の登場人物の誰に似ているでしょうか?他の人、特に弱い人を無視しよう、という誘惑に常に駆られていることを認識する必要が、私たちにはあります。

 これまで成し遂げてきたあらゆる進歩にもかかわらず、この進んだ社会でいちばん弱く、壊れやすい人々に付き添い、思いやりをし、支援することについて、私たちはまだ 「無学」 であることを認めましょう。私たちは、自分が直接、影響を受けるまで、周りの状況を無視したり、通り過ぎたり、背を向けたりすることに慣れてしまっているのです。

65.私たちの街で、誰かが襲われ、多くの人は気づかなかったかのように急いで立ち去る… 自分の車で誰かをはねた人が、その場から逃げ出すーそうした人たちの動機は「問題を避ける」こと。自分がその場から逃げることによって、その人が死ぬかもしれない、というのは問題ではありません。

 こうしたことは、様々な形で、巧妙な仕方で、人々の間に広がっている”処世術”の兆候です。私たちは、自分自身の必要を満たすことに夢中になり、苦しんでいる人の姿が邪魔になる… それでいて、他人の問題に費やす時間がないことが、私たちを不安にさせるーこうしたことは、不健全な社会の症状です。繁栄を求め、苦しみに背を向ける社会です。

66.私たちがこのような深みに沈むことがないように!善きサマリア人のたとえ話を振り返りましょう。イエスのたとえ話は、私たちがそれぞれの国、そして全世界の市民として、新しい社会的な絆の構築者である召命を再発見するように招いているのです。この招きはいつも新しいものではすが、私たちの存在の基本的な法則に基づいています。

 私たちは、共通善の追求に社会を向かわせ、その目的を念頭に置いて、政治的、社会的秩序、関係性の基盤、人間の目標を強化することに全力を尽くすように求められています。善きサマリア人は、その振る舞いによって「一人一人の存在は、他の人の存在と深く結びついている。人生は、単に過ぎ去る時間ではなく、相互作用のための時間だ」ということを示しています(57)。

67.. このたとえ話は、私たちの傷ついた世界を立て直すために、私たちが下す必要のある基本的な決断を雄弁に表しています。このように多くの痛みと苦しみに直面している中、私たちの唯一の道は、善きサマリア人を見習うことです。それ以外のどんな決定では、私たちを強盗の一人か、道端の男の苦しみに思いやりを示さずに通りかかった一人にするでしょう。

 このたとえ話は、他の人の脆弱性に共感し、排除的な社会の創出を拒否し、代わりに隣人として行動し、倒れた者を持ち上げ、更生する男女によって、共通善のために、共同体がどのように再建できるかを示してくれます。それと同時に、自分のことしか考えず、人生の必然的な責任をありのままに背負うことを怠る人たちの態度についても警告してくれます。

 68.このたとえ話は明らかに、抽象的な道徳に耽っておらず、その伝えたいことは単に社会的かつ倫理的なものでもありません。私たちは愛の中でのみ見つけられる成就のために造られたのだ、という私たちの共通の人間性の本質的で、忘れられがちな側面を語ってくれているのです。

 私たちは苦しみに無関心でいられません。誰もが除け者として人生を送ることを許すことができません。代わりに、私たちは憤りを感じ、快適な孤立からの抜け出しに迫られ、人間の苦しみとの接触によって変えられるべきです。それが尊厳の意味です。

 *絶えず繰り返されている物語 

69.このたとえ話は明快で分かりやすいものですが、それはまた、私たちが兄弟姉妹との関係を通して徐々に自分自身を知るようになるにつれて、私たち一人一人が経験する内面的な葛藤をも呼び起こします。遅かれ早かれ、私たちは誰もが苦しんでいる人に出会うことになるでしょう。今日では、そのような人たちがますます増えています。道端に横たわる負傷者を含めるか、除外するかの決定は、あらゆる経済的、政治的、社会的、宗教的プロジェクトを判断する基準となり得ます。

  私たちは毎日、善きサマリア人になるか、無関心な傍観者になるか、を決めなければなりません。そして、自分の人生の歴史と全世界の歴史に目を向けてみると、私たちは皆、たとえ話の中の各登場人物のようであり、あるいはそうであったことがあるのです。私たちは皆、自分の中には、負傷した男の面、強盗の面、通行人の面、そして善きサマリア人の面があります。

70.道端での可哀想な男の痛ましい光景に一度直面すると、物語の様々な登場人物がどのように変わっていくか、はっきりします。ユダヤ人とサマリア人と、祭司と商人との区別は、取るに足らないことになっていきます。今では、「傷ついている人の世話をする人」と「通りすがりの人」、あるいは「身をかがめて助けようとする人」と「背を向けて急いで立ち去る人」の二種類しかいません。ここでは、私たちのあらゆる区別、レッテル、仮面がはがれていきます。それは真実の瞬間です。

 私たちは身をかがめて他人の傷に触れ、癒すのでしょうか。私たちは身をかがめて、立ち上がるために他人を助けるのでしょうか?これが今日の課題であり、私たちはそれに向き合うことを恐れるべきではなりません。危機の瞬間には、決断は急務となります。今ここで、強盗でも通行人でもない人は、自分自身が負傷しているか、負傷者を肩に担いでいるかのどちらかだと言えるでしょう。

71.善きサマリア人の物語は絶えず繰り返されています。国内的および国際的な紛争や機会の奪い合いが、多くの周縁化された人々を道端に置き去りにされている中で、社会的、政治的な惰性が世界の多くの地域を荒涼とした脇道に変えつつあることが、はっきり見えます。  

イエスはたとえ話の中で代替案を提示されなく、もし負傷した男や彼を助けた人が怒りや復讐への渇望に屈していたらどうなっていただろうかとは問いかけておられません。イエスは人間の精神の最善を信頼しておられます。

このたとえ話によって、イエスは、私たちが愛のうちにたゆまず努力し続け、苦しんでいる人たちへの尊厳を取り戻し、その名にふさわしい社会を築くことができるように励ましてくださいます。

 

*物語の登場人物

72.たとえ話は強盗から始まります。イエスは、私たちが犯罪そのものとそれを犯した泥棒のことにこだわらないように、強盗がすでに起こったときに始めることを選ばれました。けれども、私たちはそれらのことをよく知っています。私たちは、権力や利得、分裂といった些細な利益に奉仕する、怠慢と暴力の暗い影が、私たちの世界に降り立っているのを見てきました。

 本当の問いかけは、私たちが負傷した人を見捨てて、暴力を受けないように逃げるのか、それとも泥棒を追いかけるのか、ということです。負傷した人への対応は、私たちの和解のできない分裂、非情な無関心、内紛を正当化するものになってしまうのでしょうか?

 73.  たとえ話は私たちに、通りすがりの人にしっかりと目を向けるよう求めています。悪気があろうとなかろうと、軽蔑あるいは注意散漫によるものであろうと、自分たちを道の反対側に通らせてしまう、びくびくとした無関心は、あの祭司とレビ人のことを、私たち自身と周囲の世界との間に拡大しつつある大きな隔たりを示す悲しむべき姿にして見せます。  

 安全な距離をおいて通り過ぎるためには、その人を避けるように歩いたり、無視したり、苦しみに無関心でいたりするなど、様々なやり方があります。

 あるいは、ただ単に見て見ぬふりをすることもあるでしょう。一部の国やその国の特定の分野で見られるように、です。そこでは、貧しい人たちや彼らの文化が軽蔑されているにもかかわらず、あたかも、外から持ち込まれた開発計画が、彼らを徐々に排除することができるかのように、見て見ぬふりがされます。

これが、自分たちの無関心を正当化するやり方です。貧しい人々は-その必死に助けを求める声は心に触れるかも知れないが-単に、存在しないのだ、と。貧しい人たちは、彼らの関心の視界の外にあるのです。

 74.通り過ぎて行った人たちについての詳しい言及にも、注意を向けましょう。彼らは信心深く、神の崇拝に献身する祭司とレビ人でした。この点を見落としてはなりません。彼らの振る舞いは「神への信仰と崇拝だけでは、神に喜ばれるような生き方を私たちが実際にしている、と保証するには不十分だ」ということを示しています。

自身の信仰に求められていること全てに忠実でないにもかかわらず、「自分は神の近くにおり、他の人よりも優れている」と考える信徒がいます。だが、私たちの兄弟姉妹に心を開く信仰の実践こそ、神に対して真の素直な心を開く保証になるのです。

 聖ヨハネ・クリゾストモは、当時のキリスト教徒の聴衆に挑戦的な姿勢を取った際、このように辛らつな言葉を投げかけました。「救い主の御体を敬いたいですか?御体が裸になった時、軽蔑してはいけません。御体が、戸外で裸で寒さに震えているのに、教会の中で絹の祭服を着て敬ってはなりません」(58)と。逆説的ですが、「自分はキリスト教徒でない」と言う人の方が、キリスト教徒よりも神の御旨をよく実行できることがあります。

 *(「カトリック・あい」注:  聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(347年ごろ-407年)は、シリアのアンティオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、神学やギリシャ哲学も修めた。年少時から修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となり、すばらしい説教で人々を感動させたことから、後世になって「クリゾストモ」(黄金の口)と讃えられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放され、その地で多くの手紙・著作を書いた。)

75.「強盗たち」は通常、「通り過ぎる、または目をそらす」者たちの中に、”秘密の味方”が見つけます。社会を操り欺く人々と、「(自分は)自立した公正な批評家だ」と言いながら、その社会の構造と利益で暮らしを立てている人々の間には、一定の相互作用があります。犯罪の責任を免れ、個人や企業の利益のための制度を悪用し、そして撲滅することが不可能に見える他の悪事が、あらゆるものに対する容赦のない批判、不信と混乱をもたらす絶え間ない”疑惑の種まき”を伴っているところに、「嘆かわしい偽善」が存在します。

  「すべてが壊されている」との不満には、「修理できない」あるいは「私に何ができるというのか」という言葉で答えられています。それは、幻滅と絶望につながり、結束と寛大さの精神を促すことはありません。人々を絶望に陥らせることは、完全に捻じ曲げられた循環を閉ざします。これが、人的物的な資源と思考や意見表明の可能性を共に支配する隠れた利権の”目に見えない独裁権力”の計略なのです。

76.最後に、襲われてけがをした男の人に目を向けましょう。私たちも、彼のように、ひどいけがをし、道端に置き去りにされていることを感じる時があります。また、私たちの組織が、軽視されて必要なものが足りないことで、あるいは単に内外の少数者の利益に奉仕していることで、無力感を覚えることもあります。

 確かに「グローバル化された社会は、しばしば視線を逸らす優雅な方法をとる。政治的な正しさやイデオロギー的な流行を装って、苦しんでいる人々を、触れずに、眺める。彼らのライブ映像をテレビで放映し、婉曲的な言葉を使い、見かけだけの寛大さで、彼らについて語ることさえある」(59)のです。

*新たな出発

 77.私たちには日々、新たな機会、新たな可能性が与えられています。全てのことを、私たちを治める者に期待すべきではありません。子供じみているからです。私たちには、物事の新しい進め方や変化を創造し、実行に移すための共同責任に必要な余地があります。問題を抱えた社会の再生と支援に積極的に参加していきましょう。今日、私たちは、生来の友愛の感覚を表現し、さらなる憎しみや恨みを煽るのではなく、他人の苦難の痛みを担う「善きサマリア人」になる絶好の機会に恵まれています。

   たとえ話の中の、たまたまその場に居合わせた旅人のように、私たちに必要なのは、「倒れた者を助け上げ、歩みを共にし、包み込むために絶え間なく努力する人や共同体になろう」という純粋で、素朴な願望を持つことだけです。私たちはしばしば、暴力的な人、盲目的な野心家、不信と嘘を広める人の心的傾向に屈してしまうかもしれません。政治や経済を自分たちの権力闘争の場と見なし続ける人もいるかもしれません。私たちは、善なるものを育み、奉仕に身を置きましょう。

 78.私たちは底辺から始め、一件づつ、最も具体的かつ地域レベルで行動することができ、その後、あのサマリア人が負傷した男のそれぞれの傷に示したのと同じような世話と関心を持って、私たちの国と世界の最も遠くまで展開することができます。痛みや能力不足を恐れずに、他者を探し出し、ありのままの世界を受け入れましょう。そこに神が人間の心に植え付けられた全ての善が見いだされるからです。圧倒されそうな困難は、成長の機会であって、ただ黙認につながる陰気な諦めの言い訳にはなりません。とは言え、一人の個人としてこのようなことをしないようにしましょう。

   マタイ福音書に登場するサマリア人には、自分の世話をしてくれる宿屋の主人がいました。私たちもまた、「小さな個人の集合体」よりも「強い家族」として団結するように求められています。それは「全体は部分よりも大きいが、また、部分の総和よりも大きい」(60) からです。無用な争いと絶え間ない対立をもたらしている心の狭さと憤りを捨てましょう。自分自身に同情するのをやめ、自分の罪、無関心、嘘を認めましょう。償いと和解が、私たちに新しい命を与え、私たち皆を恐怖から解放してくれるでしょう。

 79.途中で立ち止まったサマリア人は、何のお礼も感謝も期待することなく、その場を離れて行きました。人を助けようとする努力は、彼の人生に、そして神の前で大きな満足感を与え、そうして、義務となりました。自分の民族、そして地球上の全ての民族の傷を負った人々に対する責任が、私たち全員にあります。「善きサマリア人」が見せたのと同じ友愛の精神による気配りと親密さをもって,すべての老若男女が必要としていることに、気を配りましょう。

*境界をもたない隣人 

 80. イエスは、「私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、善きサマリア人のたとえ話をされました。イエスの時代の社会では、「隣人」という言葉は通常、「自分たちに最も近い人たち」を意味していました。助けは、主に「自分の集団や種族に与えられるべきものだ」と考えられていました。

 当時のユダヤ人の一部にとっては、サマリア人が見下され、不潔な者と見なされ、助けられるべき存在ではありませんでした。自らもユダヤ人であるイエスは、そのような認識を完全に改められます。イエスは私たちに、「誰が、私たちの隣人になれるほど親しいか」決めるのではなく、私たち自身がすべての人の隣人になるようにと、求めておられます。

 

81. イエスは、私たちに、「助けを必要としている人たちが、私たちの社会的な集団に属しているかどうか、にかかわらず、その人たちに寄り添うように」と求めておられます。たとえ話のサマリア人は、けがをしたユダ人の隣人となりました。彼は身をもって、けがをした人に近づき、寄り添うことで、すべての文化的、歴史的な境界を渡りました。

イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)という言葉で、たとえ話を締めくくられます。言い換えれば、イエスは私たちに、すべての違いを脇に置いて、苦しみを前にする時には、”問答無用”で他者に寄り添うように、促しておられるのです。私たちはもはや、「私には助けてくれる隣人がいる」と言うべきではなく、「私自身が他人の隣人にならねばならない」と言うべきです。

 

82.  しかし、このたとえ話には悩ましい側面があります。と言うのは、けがをした人はユダ人であり、立ち止まって彼を助けた人はサマリア人だったと、イエスが言われるからです。この点は、すべての人を包み込む愛について私たちが深く思いめぐらすために、とても重要です。サマリア人は異教の儀式が行われていた地域に住んでいました。それが、ユダヤ人にとって、彼らを不潔で、忌まわしく危険な存在にしたのです。実際、あるユダヤの古文書では、ひどく嫌われた国々に言及した箇所で、サマリア人のことを「民ではない者たち」(シラ書50章25節)と語っています。「シェケムに住む愚かな者ども」(50章26節)としてもいます。

83. このことは、あのサマリア人の女性がイエスに「水を飲ませてください」と言われた時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしい、と頼むのですか」(ヨハネ福音書4章9節)と、そっけなく答えた理由、を説明しています。

イエスの信用を落としたい者たちがもたらそうとした最も侮辱的な容疑は、イエスが「悪霊に取りつかれている」と「サマリア人だ」(ヨハネ福音書8章 48節)ということでした。 

それで、この(注:けがをした)サマリア人と(彼に寄り添った)ユダヤ人の間の”慈しみの出会い”は、非常に挑戦的であり、イデオロギー的に操作の余地がなく、未開拓の分野を広げるようにと、私たちに迫ります。それは、すべての偏見、すべての歴史的および文化的な壁、すべてのささいな利益を超越する、普遍的な広がりを、私たちの愛への呼びかけに与えてくれるのです。

 

*助けを求めるよそ者の声 

 84. 最後に、福音書の別の一節で、イエスは、「(あなたがたは、私が)よそ者であったときに、宿を貸し(てくれた)」(マタイ福音書25章35節)と言われていることに注目したいと思います。イエスは、他人の困難に敏感であり、寛大な御心を持っておられるため、その御言葉を話されることができました。

 聖パウロは私たちに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)と促しています。私たちが心を込めてそのように行うと、相手がどこで生まれたのか、どこから来たのかを気にすることなく、彼らに共感することができるのです。その過程で、私たちは、他者のことを「自分の肉親」(イザヤ書58章7節)として体験するようになります。

85. キリスト信者にとって、イエスの御言葉はさらに深い意味を持っています。それは、私たちの見捨てられた、あるいは除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25章40節、45節を参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するように、導いてくれます。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力があります。信者たちは、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るようになるからです(61)。

 同じように、私たちは、キリストが私たち一人ひとりのために御血を流してくださったこと、そして、キリストの普遍的な愛の及ばない者はいないことを信じています。私たちは、三位一体の神の存在そのものである、愛の究極の源に向かうならば、聖三位のペルソナの交わりの中で、社会におけるすべての命の原点と完全な模範に出会うことになります。神学は、この偉大な真理を思いめぐらすことによって、豊かさを増し続けています。

 86.  このことを考えると、「なぜ教会が奴隷制や様々な形の暴力をはっきりと非難するのに、こんなにも長い時間がかかったのだろう」と不思議に思うことが、私にはあります。私たちの霊性と神学が発達した今日では、私たちには言い訳がありません。それでも、様々な偏狭で暴力的な民族主義、外国人嫌悪や軽蔑、さらには自分たちと異なる人たちを虐待するのを支援するように、信仰によって励まされている、あるいは、少なくとも許されている、と感じている人たちがいるようです。

 信仰と、それに鼓舞される人道主義は、これらの傾向に直面しても批判的な感覚を保ち、それらが頭をもたげるたびに、すぐに対応を促さなければなりません。このため、教理教育(カテキ-シス)と説教は、存在の社会的な意味、霊性の友愛的な側面、各人の不可侵の尊厳に対する私たちの信念、そしてすべての兄弟姉妹を愛し、受け入れる我々の理由について、より直接的かつ明確に話すことが重要です。

 

 

第三章 開かれた世界を考え生み出す 

ENVISAGING AND ENGENDERING AN OPEN WORLD

87.人間は「心から自分を他者に与えることに於いて」(62)しか生き、発展し、満足することはできないように造られています。また、他者との出会いなしに、自分を十分に知ることもできません。「私は、他者と理解し合うことによってのみ自分自身をきちんと理解することができるのです」(63)。誰も、他者とかかわりを持つことなく、真に愛することなく、人生の本当の美しさを経験することはできません。

これは、真正な人間存在の神秘です。「心の絆、親交、兄弟愛のある所に人生があるのです。そして、それが真の結びつきと忠誠心の絆の上に建てられているとき、生きることは死よりも強いのです。その反対に、自己満足を求め、孤独に生活するなら、生きているとは言えません。こういう態度で生きるなら、死の方が勝ります」(64)。

 

*自分自身から抜け出す 

 88.すべての人の心の底深くに、愛は絆を作り、存在を広げます。愛は人に、自分自身から抜け出させ、他者へと向かわせるからです(65)。私たちは愛のために造られているので、私たち各々の中で、「ekstasisの法則」が働くようです-「愛するものは他者の中でもっと充実した存在になることを求めて自己の“外に出てゆく”のです(66)。そのために「人はいつも自分自身から抜け出すという覚悟を持たねばならないのです」(67)。

89.また、私の人生を小さなグループ、たとえ自分の家族でも、との関係だけに縮小することもできません;私より先に生まれ、私の全人生を形作ってくれた人々を含め、もっと広い人間関係のネットワークから離れて自分自身を知ることは出来ません。私が大切に思う人々との関係では、彼らが私のためだけに生きているのでもなければ、私が彼らのためだけに生きているのでもないという事実に気付かねばなりません。

 私たちの関係は、もし健全で確実なものなら、私たちを広げ、私たちを豊かにしてくれる他者へ向けて開いてくれます。昨今は、あたかも深い関係であるかのような印象を与える自己中心的なチャットによって、私たちの最も気高い社会的本能が簡単にくじかれます。

反対に、本物の、成熟した愛と、真の友情は、他者との関係を通じて成長するよう開かれた心に深く根をおろすのみです。夫婦や友人として、私たちが自分たちの外に足を踏み出し、他者を抱擁するとき、私たちの心は広がるのです。他者を自分たちと区別する閉じたグループや夫婦は、自分本位や単なる自己保存に傾きがちです。

 90.意義深いことに、人里離れた地域に住む多くの小さな共同体は、「人を親切にもてなす」という神聖な義務を果たすために、巡礼者たちを歓迎する、という素晴らしい慣習を作り上げました。聖ベネディクトの宗規にもみられるように、中世の修道院も、同様でした。それは修道院の規律や静寂には邪魔になったはずですが、それにもかかわらず、ベネディクトは「貧しい人たちや巡礼者たちを最大の心遣いで世話するべきだ」(66)と主張しました。

 親切にもてなすことは、自分たちの仲間の外の人々との出会いで、外に心を開こうと行動する挑戦であり、贈り物です。修道士たちは、外に喜んで目を向け、他者に心を開いていくことが必要だ、とはっきり理解していました。

 

*ユニークな愛の価値 

 91.人々は、不屈の精神やまじめさ、勤勉、などのような道徳的に価値があるように思える習慣を身に着けていくことができます。しかし、様々な道徳的価値のある行為を目指すなら、他者に向けどれだけ心を開き一致していけるかも考える必要があります。それは、神が注がれる慈愛によって可能になるのです。

 慈愛なくしては、おそらく美徳に見得るものをもっているだけで、それでは人生全般を支えることはできません。それ故、聖トマス・アクイナス(注:1225年頃 – 1274年3月=中世ヨーロッパイタリア神学者哲学者ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者)は、その言葉を引用するなら、「欲深い人の節制は決して有徳ではない」(69)と言い得たのです。一方、聖ボナヴェントゥラ(注:1221頃-1274=トマス・アクィナスと並び称されるフランシスコ会学派の二大神学者の一人)は、慈愛がないなら、ほかのどんな徳も、厳密に言って、「神が彼らに望むように」(70)という掟を満たしていない、と言っています。

 92.人の一生の霊的価値は、愛によって測られます。愛が、最終的に「その人生に価値があったか、欠けていたか、の決定的基準」(71)となるのです。しかし、それは自分たちのイデオロギーをほかの人たちに押し付けることにあるとか、激しく真実を防御することにあるとか、印象的に力を証明することにあると考える信者たちもいます。信者として、私たちすべてが、まず愛が一番大切であることを認識する必要があるのです。決して愛が危険にさらされてはならず、最大の危険は、愛がないことにあるのです。(コリントの信徒への手紙1・13章1~13節参照)

93.トマス・アクイナスは、おそらく神の恩恵によってつくられた他者のために外へ向かう愛を述べようとしました。その愛によって私たちは「何かで私たち自身と結ばれた愛しい人たち」(72)のことを考えます。私たちは他者への愛情から、自然に彼らに良かれと求めます。

 これはすべて、他者への好意や、彼らの価値を認識することから発しています。これは突き詰めれば「慈愛」という言葉の裏にある考え方です。すなわち、愛される人々は私にとって「いとしい人」、または「大きな価値のあると思われる人々」(73)なのです。そして、「幸せにしてもらえる愛があるために、無償で何かを与える」(74)のです。

94.それなら、愛とはただの一連の慈悲深い行為以上のものになります。これらの好意は他者を身体的、または道徳的外観とは別に、価値あるもの、魅力的で美しいものと考えてますます他者へと向かう結びつきから出たものです。他者への愛は、それがだれであれ、私たちに彼らの最良の人生を求めさせます。お互いに関係を持つこのやり方を育てることによってのみ、誰をも排除しない社会的友情、すべての人に開かれた友愛を可能にすることができるのです。

 

*ますます開かれた愛 

 95.愛は私たちを、普遍的な交わりへと向かわせます。誰も他者から離れて成熟し、達成感を得ることは出来ません。愛はもともと、より大きく開かれた心と、周囲すべてをより大きな意味で共通の財産と思わせる予期せぬ経験の連続として他者をうけいれる能力を求めるのです。イエスが言っています-「あなたたちはみな兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)と。

96.このためには、異なる地域や国に対して私たち自身が持っている境界を超えることが必要です。実に、今日の世界の、ますます広がる交流や情報伝達は、私たちに国家間の共通の結束と共通の運命を強く意識させます。歴史の流れや民族のグループ,社会や文化の中に、私たちはお互いに受け入れ、気遣う兄弟姉妹からなる共同体をつくるという召命の種を見るのです。

 

*すべての人を融和させる開かれた社会

 97.町の中心部であれ、家族間であれ、私たちに閉ざされた周辺があります。それゆえ、普遍的に開かれた愛には地理的よりむしろ存在にかかわる側面があるのです。私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。私が住んでいる社会に見捨てられたり、無視されたりしている兄弟姉妹は、同じ国に生まれているにもかかわらず、実際にはそこに存在する外国人(よそ者)なのです。彼らは立派に権利を持つ市民でありながら、自分の国で外国人のように扱われているのです。人種差別は素早く突然変異するウイルスです。消えるのではなく、隠れ、潜伏するのです。

98.私は社会の中でやはり異質のものとして扱われている「精神的追放」をされている人々のことを述べたいと思います(76)。障害のある多くの人たちが、「社会の一員として、社会に参加することなく存在していると感じています」。そればかりか、完全な自由権を妨げられています。

私たちは、彼らを、世話することだけでなく、民間または教会の共同体に活動的に参加できるようにすることに関心を持つべきです。それは、時間のかかる、骨の折れる作業ですが、一人一人の人間を類のないかけがえのないもの、と認めることのできる心を育てることにだんだんと貢献していきます。

 私は、また「障害があるゆえに、時に重荷と考えられている高齢者」のことも考えます。しかし、高齢者はそれぞれ、「彼らの素晴らしい人生の経験を通して皆のために独特の貢献」ができるのです。もう一度繰り返します。私たちは、「悲しいことに、いくつかの国では、今日でさえ、障害のある人たちを『同じ尊厳を持つ人々だ』と認めることがなかなかできないでいる。だからこそ、障害の故に差別されている人々に発言できる機会を与える勇気」(77)を持つことが必要です。

*普遍的愛の不十分な理解 

 99.教会を超えることのできる愛は、あらゆる都市や国で「社会的友情」と呼ぶことのできるものの基礎となります。社会の中での本物の社会的友情は、真の普遍的な心の広さを可能にします。これは、「自分自身の国の人々を我慢できないとか、愛せないために、絶えず海外に出掛ける人々」の誤った普遍主義とは、まったく違うものです。

 自分自身の国民を見下す人々は、社会の中に、「ファーストクラス」と「セカンドクラス」、あるいは「重要な人」と「劣る人」、「大きな権利をもつ人」と「そうでない人」とという区別を作りがちです。こんな風に、彼らはすべての人のために場所があることを否定するのです。

100.私は決して、少数のグループによって立案または計画され、人を平準化したり支配したりするための理想として提示された権威主義的、あるいは抽象的な普遍主義を提案しているのではありません。

 実際に、ある”グローバル化”のモデルでは、「意識的に皮相的な均一性を目指し、表面的な画一性を求めるあまり、すべての違いや伝統を無くそうとします。もし、ある種の”グローバル化”が、すべての人を同じにし、すべての人を均一化しようと求めるなら、そのグローバル化は、各人、各国民の豊かな才能とユニークさを破壊することになります」(78)。

 このような誤った普遍性は、世の中から様々な色合い、その美しさ、最後にはその人間性まで奪ってしまうことになりかねません。しかし、未来は“モノクローム”ではありません。もし私たちに勇気があるなら、各個人が提供するはずのあらゆる多様性や相違点を考えに入れて、未来を描くことができるのです。私たちのすべてが同じでなくても、調和して平和に共に生きるために、私たち人類家族は多くを学ばねばならないでしょう。

*「仲間」の世界を超えて

 101.善きサマリア人のたとえ話に戻りましょう。それは、今でも私たちに言えることがたくさんあるからです。道端に怪我をした人が倒れています。通りかかる人たちは、隣人として行動せよ、という心の内なる命令に注意を払いませんでした。社会の中で、自分たちの仕事、社会的地位や職業的立場が大事だったのです。当時の社会で、自分たちを重要だと思っていて、自分たちに相応の役割を果たしたい、と切に思っていました。

 道端に怪我をして見捨てられた人は、そのすべてを邪魔する迷惑な存在でしかありませんでした。いずれにしても、大切な存在ではありませんでした。平凡な、取るに足らない人で、自分たちの将来に、無関係の人でした。

よきサマリア人は、このような狭量な人々を超えていました。彼らのどの範疇にも当てはまりませんでした。社会では居場所のない異国人にすぎません。名も地位もなく、旅を中断しても特に支障はなく、予定を変更して、助けを求めている傷ついた人を、前もっての用意もなく助けたのです。

102.他の人から自分たちを引き離すアイデンティティにしがみつく社会集団が絶え間なく現れ、成長する今日の世界では、この同じ物語が起きたら、そうした人々はどのように反応するでしょうか。彼らのアイデンティティや、閉ざされた自分だけに関係した組織を脅かされない異質の人たちを防ごう、と団結する人々の行動に、どう影響するでしょうか。

 隣人として行動する、という可能性は除外したとしても、彼らの目的にかなった人たちにだけ、隣人なのです。そこでは「隣人」という言葉がすべての意味を失います。ある利益を遂行するパートナーである「仲間」という言葉でしかなくなります。

*自由、平等、友愛 

 103.「友愛」という言葉は、個人の自由を尊重する社会的風土だけでなく、行政的にも保障された平等の風土の中で生まれます。友愛は、必然的に、何かもっと偉大なもの、自由と平等を高めるようなものを求めます。友愛が意識的に育成されなかったら、教育を通じて、対話を通じ、また相互作用や互いに豊かにし合うことの価値を認識することを通じて、友愛を奨励しよう、とする政治的意思が欠けていたら、一体何が起こるでしょう。

 「自由」とは、私たちが誰と何に属するかを、全く自由に選べ、また単に全く自由に所有したり、利用したりして生活する状況、というだけのことになってしまいます。このような浅い理解は、とりわけ愛へと導く自由の豊かさとは無縁のものです。

 

* 愛はいつも開かれている   

 104.また平等は、「男も女も含めすべての人間は平等である」というような、観念的な宣言によって達成されるものでもありません。それは、友愛を意識的に、注意深く育んだ結果なのです。「仲間」だけしかつくれない人々は閉ざされた世界を作ります。そのような枠組みの中で、仲間のグループには入れないが、それでも自分自身や家族のためにより良い生活を求める人々に居場所はあるのでしょうか。

105. 個人主義は、私たちをもっと自由に、もっと平等に、もっと友愛に満ちたものにしてはくれません。個人的な利益を集めただけでは、人類という家族全体のためにより良い世界を生み出すことはできません。また、今ますますグローバル化している多くの病気から私たちを救うこともできません。

 過激な個人主義は、取り除くのが非常に難しいウイルスです。それは賢いからです。それは、私たちに、あたかもますます膨らむ野望を追いかけ、何とか共有の利益に役立つ安全網を作り上げることによって、すべて自分自身の野望のまま、やりたいようにできることにある、と信じ込ませるからです。

 

*人を高める普遍の愛 

 106.いつでも、どこでも、社会的な友情と普遍的な友愛は、必ず一人一人の人間の価値を認めることを求めます。各個人が皆、大きな価値があるのですから「資源に乏しく、発展していない場所に生まれたという事実だけで、その人たちが、尊厳を欠いた生活をしている、という現実を正当化することにはならない」(81)ことは、明確に、断固として述べられねばなりません。これは、彼らの世界観に合わないとか、彼らの目的に貢献しない、と感じる人々によって、色々なやり方で無視されがちな社会生活の基本的な原則なのです。

 107.すべての人間は、尊厳をもって、完全に発展する権利を持っています。いかなる国も、この基本的な権利を否定することはできません。たとえ非生産的に生まれても、欠陥を持って生まれても、人にはこの権利があります。これは、彼らの人間としての偉大な尊厳を減ずることにはなりません。それは、境遇を基にした尊厳ではなく、彼らの存在に本来、備わっている尊厳です。もしこの基本的な原則が擁護されないなら、友愛にも人間性の存続にも、未来はないでしょう。

 108.この原則をある程度受け入れている社会もあります。機会はすべての人に与えられるべきだ、ということに同意しています。そして、すべては個人次第だ、というのです。このゆがんだ大局観からは、「遅い人々、弱い人々、才能に恵まれない人々が、人生の機会を見つけるのを助ける努力に投資するのを支持するのは、無意味に思えることでしょう」(82)。弱者を援助することに投資しても利益がないだろうとか、物事の能率を悪くするだろう,と思うのです。

 実際、私たちに必要なのは、現存し、活動的な国家や民間組織で、ある種の経済的、政治的イデオロギー的組織の自由で効率的な働きを超えたその先を見て、まず第一に、個人と共通善に関心をもつ国家や民間組織なのです。

109.経済的に安定した家庭に生まれ、立派な教育を受け、よく成長し、また、天性の素晴らしい才能を持っている人々もいます。彼らには確かに積極的な取り組みをする国家は必要ないでしょう。彼らは自由を求めるだけで事足ります。

 しかし、障害のある人や、悲惨な貧困の中に生まれた人や、良い教育を受けられず、十分な健康管理を受ける手段を持たない人に、同じルールは明らかに当てはまりません。もし社会が主として市場の自由と効率の良さの基準で統治されているなら、そのような人々の居場所はなく、友愛はただのうつろな理想のままになるでしょう。

 110 実際、「現実の状況のせいで、多くの人の手に届かず、雇用の可能性も減少している状況で経済的自由を要求することは意味がありません」(83)。自由や民主主義や友愛などという言葉は、意味のないものとなる。それは、「私たちの経済的社会的システムが、もはや一人の犠牲者も生み出さず、一人も置き去りにしない時に初めて、私たちは普遍的友愛の宴を祝うことができるようになるからなのです」(84)。

  本当に人間的で友愛に満ちた社会では、その構成員の誰もが、人生のあらゆる段階で、効率的かつ安定した方法で寄り添い助けてもらえるのです。必要最低限のものを与えるだけでなく、うまくできなくとも、ペースが遅くとも、効率よくできなくても、彼らが最大の力を発揮できるように助けるのです。

 111.人には、奪うことのできない権利があり、生まれつき関係を持つように開かれているのです。私たちのうちに深く植え付けられているは、他者との出会いを通して自分自身を超えよ、という呼びかけです。その理由で、「人権という概念と、その誤った使い方に注意しなければなりません。今日、もっと広い意味での個人的-私は個人主義的と言いたくなりますが-な権利を要求する傾向があります。その根本には、一段と他者と関わりを持たない個体であるかのような『すべての社会的、人類学的文脈人から切り離された人間関係』という概念が潜んでいます。…もし、各個人の権利がより大きな善のために調和するよう命じられないなら、これらの権利は最終的には際限がなくなり、絶えず闘争や暴力の源となるでしょう」(85)。

*道徳的善を促進する

 112. 他者の利益と人類家族全体の利益を求め追及することは、総合的な人間の発展を助長する道徳的な価値を個人や社会が成熟させるのを助けることを意味する、ということも述べたいと思います。新約聖書は、霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)のことをギリシャ語でagathosyneと表現しています。それは「善を愛し,善を追い求める」ことを意味します。更に、それは、他者の美点と他者のため最上のものを目指して努力することを示唆しています。

  彼らの成熟度や健康が増すこと、彼らの価値を高めることで、単に物質的な幸福だけではありません。同様の表現がラテン語にもあります。Venevolentiaです。これは、他者の「幸福を願う」態度のことです。これは、善へのあこがれと、素晴らしく、卓越したものへの傾倒、他者の人生を美しく、崇高で、啓発的なもので満たしたい、という願望を示します。

 113.しかし、残念なことに、ここで、私は「私たちが十分に不道徳で、倫理、善、信仰、正直さを軽視してきたことも、繰り返し言わねばならない、と感じます。軽率な気持ち、皮相的なものは私たちのためになっていない、ということを認める時です。一度、社会生活の基礎がむしばまれたら、起こることは利害の対立をめぐっての闘いです」(86)。

 私たち自身と、全人類家族のために善の促進に立ち返りましょう。そして、このようにして本物の総合的な成長に向かって進みましょう。すべての社会は、確実に価値観が伝えられることを必要としています。さもないと、子供たちに伝わるものは、利己主義と、暴力と、いろいろな形の堕落、無関心、そして、最後には閉ざされた、超越のない生活、個人の利益に凝り固まった生活だけです。

*連帯の価値 

 114.私は、特に「連帯」について述べたいと思います。それはこのようなことです。

 「個人的回心から生まれた倫理的美徳と社会的態度として、教育や育成に責任のある人々に、献身的に関わることを求める。私はまず、家庭を考えるー家庭は、教育について最も重要な任務を負っている。家庭は、愛や兄弟姉妹の愛、連帯感と分かち合い、他者を思いやり、気遣うことの価値観を持って生涯を生き抜き、次の世代に伝えられる最初の場所である。家庭は、また、母親が子供たちに教える最初の簡単な信仰を表す身振りから始まり、信仰を伝える最高の場所だ。

 そして教師たち-子供たちや若者たちを学校やその他の場所で教えるという、やりがいのある仕事を持つ人たち-は、自分たちの彼らへの責任が人生の道徳的、精神的、社会的な側面にまで及ぶ、と意識する必要がある。自由や互いに敬意を払うことや、連帯の価値は、幼い頃から伝えることができる…。情報伝達に携わる人たちにも教育と人間形成に責任がある。特に、情報と伝達の手段がこれほど幅広く普及した今日においては」(87)。

115.すべてが、ばらばらで、一貫性を無くしているように見える時には、「連帯」(88)に訴えることが有効です。それは、私たちが共通の未来を作り上げて行く努力の中で、他の人々の弱さに責任がある、という意識から生まれたもの。連帯には、奉仕するための具体的な表現方法があり、他の人々を大切にしようと努める中で、あらゆる形をとることが可能です。

 そして、奉仕は主として「弱さへのいたわり、私たちの家庭、社会、そして国民の中の弱い仲間を守る」ことを意味します。そのような奉仕を提供することで、人は学ぶのです。「最も弱い人々が実際に見つめる瞳の前では、自分の願いや願望、自分の権力の追及などをわきに置くことを。…奉仕するときはいつも彼らの顔を見て、彼らの体に触れ、彼らとの近さを感じ、時にはその近さに『苦しみ』さえして、彼らを助けようとするのです。奉仕は決して観念的なものではない。なぜなら、私たちは”観念”に奉仕するのではなく、”人々”に奉仕するから」(89)です。

 116.貧しい人々は、一般的に貧困者同士の間で、特別に連帯しています。そして、私たちの文明は、それを忘れているように見え、実際、忘れていたいのです。

 「連帯」は「いつも良く思われるとは限らない言葉だ。ある状況では、それは禁句で、あえて言わない言葉となっている。『連帯』とは、散発的に寛大な行為に従事する以上のことを意味します。それは、地域共同体の点から考え、行動することを意味する。それは、すべての人の生活が、少数の人々が富を占有することよりも大切だ、ということを意味する」「それはまた、貧困、不平等、仕事や土地や住まいの不足、社会的な労働の権利の否定などの原因となる構造、と闘うことを意味する。それは、お金の帝国の破壊的な影響と対決すること意味する…  連帯とは、その最も深い意味で理解するなら、歴史を作る方法で、これが、今の人々のしている運動の在り方」(90)なのです。

117.私たちの共通の家である地球を守る必要について話すとき、私たちは、まだ人々の心の中にあるかもしれない普遍的な意識と、相互の関心のひらめきに訴えます。豊富な水を謳歌し、より大きな人類家族のために大切に使うことを選ぶ人たちは、自分たちや自分たちの属する集団を超越してものを見ることのできる、道徳的な高さに達しています。

 人間は何と素晴らしいのでしょう!私たちがすべての人たちの権利、自分自身の境界を超えて生まれた人々の権利を認めることができるかどうか、同じ態度が求められているのです。

 

*財産の社会的役割を改めて考える 

 118.世界は、すべての人のために存在します。それは、私たちすべてが、同じ尊厳をもって生まれたからです。肌の色、宗教、才能、生まれた場所、住んでいる場所、その他、色々な違いを、ある者たちだけが特権を持つことを正当化するために、使うことはできません。共同体として、私たちには、すべての人が尊厳をもって、完全に発展するための十分な機会を持つことを、保証する義務があるのです。

 119.キリスト教の初期の時代に、多くの思想家たちが、創造物の共通の目的についての考察で、普遍的な見方を発展させました(91)。尊厳をもって生きるのに必要なもの欠く人が一人でもいたら、それは、他の人がそれを奪っているからだ、と悟らせました。

 聖ヨハネス・クリュソストモス(注:347年に シリアのアンティオキア生まれた。カトリック教会の他、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されている)は、それを、このように要約しています-「私たちの富を貧しい人々に分け与えないことは、彼らから強奪し、彼らの生計を奪うことです。私たちが所有する富は、私たち自身のものではなく、彼らのものでもあるのです(92)。また、大聖グレゴリウス(注: 540?生まれの教皇グレゴリウス1世のこと。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人)は、こう言っています-「貧しい人々に最低必要限のものを与える時、私たちは、私たちのものでなく、もともと彼らのものを与えているのだ」(93)と。

120.もう一度、聖ヨハネ・パウロ2世が語られたことを繰り返したいと思います-彼の力強さは、おそらく十分に認識されていません-「神は、地球に、全人類のため、生きるために必要なものを与えられた。誰一人除外することなく、誰一人特別扱いすることなく」(94)。

 私としては、こう言いたいと思います。「キリスト教の伝統は、財産を絶対的で、不可侵のものとして所有することを、決して認めていません。そして、あらゆる形の私的財産の社会的目的を強調している」(95)と。創造物を共有して使う原則は「すべての倫理的、社会的順序の中で、一番の原則です」(96)。それは、他の何より優先される生来の本来備わった権利なのです(97)。

 人が目的を完全に満たすために必要な、すべての他の権利は、私的財産や他の種類の財産を含め、聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「決してこの権利を妨げてはならず、その実行を積極的に促進するものでなければならない」(98)のです。私的財産の権利は、創造物の普遍的な目的の原則からすると、二次的な生来の権利でしかありません。これは、社会の働きの中でよく考えられねばならない明確な重要性をもつものです。それでも、二次的な権利が第一の、最優先の権利にとって代わり、まったく見当違いのことが行われることがよくあります。

*境界を持たない権利 

 121.ですから、出生地ゆえに、まして、より大きな機会に恵まれた土地に生まれた人たちが享受する特権ゆえに、誰もが排除されたままでいることはできません。個々の国の制限や境界が、妨げてはなりません。女性だという理由で、権利が(注:男性より)少ないことを容認できないように、単に出生地や居住地のせいで、発展した堂々たる人生の機会が減ってしまうことも、受け入れがたいことです。

122.発展は、少数の人が富を蓄積するように意図されてはなりません。「人権-個人的そして社会的に、経済的そして政治的に、国家や人々の権利を含めた人権」(99)を保障するものでなくてはなりません。自由企業や市場の自由への誰かの権利は、人々の権利、貧しい人々の尊厳に取って代わることはできない、さらに言えば、自然環境への敬意に取って代わることはできません。「もし私たちが何かを自分のものとするなら、すべての人の利益のためにそれを管理するためだけ、なのです」(100)。

 123.経済活動は、本質的に「富を生み、私たちの世界をより良くするための、気高い使命」(101)です。神は、私たちに与えられた才能を伸ばすように仕向けられ、私たちの世界を、計り知れないほど可能性のあるもの、とされました。神の計画では、それぞれの人に自己開発を促進することを求め(102)、これには、商品を何倍にもし、富を増やす最良の経済的、技術的な手段を見つけることも含まれています。

 神から与えられた経済活動の能力は、いつでも、明確に他の人々の発展に向けられ、特に、さまざまな就業の機会を産み出すことを通して、貧困を無くすことに向けられるべきです。私的財産の権利には、「すべての私的財産は地球の財の世界的な最終目的に従う」という第一の優先原則が、常に伴うのです。そして、このようにして、すべて人の権利は、その使用に帰するのです(103)。

 

*諸国民の権利 

 124.今日では、地球の財の共通の目的への確固たる信念は、この原則が国家、領土、資源にも適用されることを求めています。私的財産や市民権の正当性だけでなく、「財の共通の目的」という第一の原則に立てば、それぞれの国も、自国の領土の財を「他から来た貧しい人々に使わせない」と言ってはならない、といえます。

 米国の司教たちが教えているように「神によって造られたそれぞれの人に認められた尊厳から流れ出てくるがゆえに、どのような社会にも優先する基本的な権利」(104)があるのです。

125.これは、国家間の関係や交流を違った方法で理解することを前提としています。仮に、すべての人間が奪うことのできない尊厳を持っているなら、仮に、すべての人々が私の兄弟姉妹であるなら、そして、仮に、世界が本当にすべての人のものであるなら、私の隣人が私の国で生まれていようが、他の地で生まれていようが、どうでもよいことです。私自身の国が、その人の発展の責任を負っているのです。

 どのように責任を果たせるか、色々方法がありますが、緊急に助けを求めている人々を寛大に受け入れることもできるし、国民の尊厳ある発展を妨げている腐敗した組織を助けることや搾取するのを拒絶したり、天然資源が奪われることを拒絶したりすることで、自分が生まれた国の生活環境改善のために働くこともできます。

 国に当てはまることは、国内の地域にも当てはまります。そこに、とても大きな不平等がしばしば存在しているからです。人間の対等な尊厳を認めることができないと、国内の発展した地域は、貧しい地域という「重荷」を捨てて、自分たちの消費水準を高めようと考える時もあります。

126.私たちは、国際関係の新しいネットワークについて、実際に話しているのです。仮に、私たちが、個人間や小さなクループ間での相互援助の観点からしか考え続けられないなら、世界の重大な問題を解決することは、決してできないからです。また、私たちは「不公平が、個人だけでなく国家全体に影響することを忘れるべきではない。それは、私たちに国際関係の倫理について考えさる」(105)。実際のところ、正義は、個人の権利だけでなく、社会的権利や国民の権利も認め、尊重することを求めます(106)。

 これは、「国民の生存と進歩、という基本的権利」(107)-対外債務で生み出される圧力によって、時として厳しく制限されることのある権利です。多くの場合、債務返済の負担は、経済的発展の促進を不可能にするだけでなく、重大な制限や条件付けをします。

 「すべての合法的な公的な借金は、返還されなければならない」という原則を尊重することは必要ですが、多くの貧しい国々が、返済義務を果たすために、生存や成長を危うくすることになってはなりません。

 127.確かに、このことすべてのためには、別の考え方をすることが必要です。その努力なしにはー私の言うことは、はなはだしく非現実的に思われるでしょうが。一方で、私たちには、奪うことのできない人間の尊厳から生まれた権利がある-という大原則を受け入れるなら、新しい人間性を求める挑戦に立ち上がることができるのです。

 私たちは、すべての人に土地と住居と仕事を与えることを、世界に求めることができます。これは、外部の脅威に直面しての『恐怖と不信の種をまく、無分別で近視眼的な戦略』ではなく、真の平和への道です。真に永続的な平和は「人類家族全体の独立と、責任の分担で実現する、『未来に貢献する連帯と協力のグローバルな倫理』を基礎として初めて可能」(108)なのです。

第四章  世界に開かれた心  A HEART OPEN TO THE WORLD

 128. もしすべての人々が兄弟姉妹であるという確信が、抽象的な考えに留まるのではなく、具体的なものとして見いだせるならば、多くの関連する諸問題が明らかになり、私たちは新しい光で、新たな対応を展開できるようになるでしょう。

 

*国境とその限界 

 129. たまたま隣人が移民であると、複雑な問題が発生します(109)。理想としては不必要な移住は避けるべきです。そのためには、母国での尊厳のある生活と総合的な発展を必要とする環境の創出が必然的に求められます。しかし、この目的の達成という実体的な発展を遂げるまで、移民やその家族が基本的なニーズにかなう場所を見つけ、すべての個人が充足感を得られるように、すべての個人の権利を尊重する義務が私たちにあります。

 移民が到着した時の私たちの反応は、歓迎、保護、支援、統合の四つの言葉に要約することができます。なぜならば、「これはトップダウン形式の福祉プログラムを実施するケースではなく、むしろこれらの四つの行動を通して都市や国を構築するための旅を一緒に始めるというケースだからです。旅の目的は、相互の文化と宗教上のアイデンティティを維持しつつ、相違に心を開き、人間の兄弟愛という精神から、いかにして移住者を支援するかを知っている都市や国を構築することです」(110)。

130. このために幾つかの必要不可欠なステップを踏む必要があります。特に深刻な人道的危機に瀕している人々への対応です。

 次のような例を挙げることができます。ビザ申請の簡素化と許可数の増加、個人あるいはコミュニティ支援プログラムの採用、最も弱い立場にある難民に対する人道回廊を開くこと、適切で尊厳の維持できる住居の提供、個人の身の安全の保障と基本的なサービスを受けられること、十分な領事館の支援と個人の身分証明の書類を保有できる権利の保障、公正な司法制度へのアクセス、銀行口座の開設と最低限の生活保障、移動の自由と就業、未成年者の保護と通常の教育が受けられること、一時的な身元引受人(後見人)やシェルタープログラムの提供、宗教の自由の保障、社会への適合の促進、家族再会の支援、統合プロセスに役立つ地域コミュニティの準備です(111)。

131. 最近移住したのではなく、すでにすでに社会に組み込まれている移民にとって、「市民権」という概念の適用は重要です。なぜなら市民権は「すべての人々が公平を享受する元となっている、権利と義務の同等性に基づいているからです。故に、私たちの社会で『完全な市民権』の概念を明確にして、孤立感と劣等感を生む『マイノリティ』という差別用語の使用を拒否することが重要になります。差別用語の使用は敵意と不和への道となるからです。それはいかなる成功をも台無しにし、差別待遇をされている市民の宗教の権利と市民権を奪い取るものです」(112)。

132. たとえ人々がこのような重要なステップを踏んだときでさえ、国家は十分な解決策を彼らだけで実行することはできません。「なぜなら、それぞれの国家が決めた結論は、すべての国際的なコミュニティに影響を及ぼすことが不可避だからです」。結果として、「私たちの対応は」移民の移住に関してグローバルなガバナンスという形態を発展させるための「共同の努力の結実でしかないのです」(113)。このように「緊急的対応に限定されない、中期と長期にわたる計画が必要」です。

 このような計画は、受け入れ国で移民が社会に適合するために有効な支援を含まなければなりません。しかし、同様に両国の連帯によって生まれた政策を用いて彼らの祖国の発展を促進させる有効な支援も含まれるべきです。しかし、そのとき、支援される人々(移民)の文化とかけ離れた、あるいは反対のイデオロギー的な政策や慣習に支援を関連づけるべきではありません」(114)。

 

*互いに与え合う贈り物

 133. 生活様式や文化の異なる所から来た移民の到来は贈り物になり得ます。なぜなら「移住者のストーリーは常に個人間、文化間の出会いのストーリーでもあるからです。移住先のコミュニティや社会にとって、移住者はあらゆるものの豊かさと総合的な人間成長のチャンスをもたらします」(115)。

 このために、私は特に若者に、強く促したいと思います。「自分たちの国に新しくやってきた若者に反対するよう煽るだけでなく、彼らを脅威と見なし『我々と同じ尊厳を持っていない』と見なすように誘う人たちの、術中に陥らないように」(116)と。

134. 実際に、私たちが自分とは異なる人々に心を開くと、彼らは自分自身を保ちつつも新しい方法で成長することができます。何世紀にも渡って繁栄してきた異文化は, 私たちの世界が貧弱にならないように保存されるべきです。同時に、それらの異文化が他者の持つ現実と出会い、新しい体験に触れることも勧められるべきです。なぜなら、文化面での硬化症に陥るリスクが常に存在するのです。

 そのリスクに陥らないために、「私たちは互いに連絡をとり、一人ひとりが持つ贈り物を発見し、私たちを結びつけているものを強め、尊敬し合いながら成長するチャンスとして、私たちの相違を見なす必要があります。対話では忍耐と信頼が求められます。忍耐と信頼は、彼ら自身の文化の価値を伝えつつ、他からの与えられる良い体験を喜んで受け入れるために、個人、家族、コミュニティを容認することを可能にします」(117)。

135. 私がこれまでに取り上げた幾つかの例について述べたいと思います。ラテンアメリカ人の文化は「アメリカを非常に豊にすることのできる価値と可能性を発酵させる種」です。なぜなら、「奮闘する移民は移住先の文化に影響を与え、変革させるからです。アルゼンチンでは奮闘するイタリアからの移民が社会の文化に痕跡を残し、およそ20万人のユダヤ人の存在はブエノスアイレスの文化の『形』に大きな影響を与えました。移民は社会に統合するように支援されるなら、神からの恵みとなり、社会を成長に導く豊かさの源であり、新しい贈り物となるのです」(118)。

 136. さらにもっと広範囲に及ぶスケールで、グランドイマームのアハメド・エルタエブ師と私は次のように確認しました。

 「東西間の良い関係は議論の余地もなく双方に必要であり、互いに無視してはいけません。実りをもたらすやりとりと対話を通して東西が互いに豊かになるからです。西側の人々は、蔓延る物質主義が原因となっている精神的および宗教的な病弊に対する治療法を東側の人々のなかに見いだすことができます。また、東側の人々は、弱さ、分断、争い、そして科学的、技術的、文化的な衰退から抜け出る助けとなる様々な要素を西側に見いだすことができます」。

 「東側の人々の特徴、文化、文明を形成する重要な構成要素である、宗教的、文化的、歴史的な相違点に注目することは重要です。同様に東西のすべての男女に対して尊厳ある生活を保障する手助けとなる基本的人権の保障を強固にすることも大切です。そのとき、ダブルスタンダードによる政治判断は避けなければなりません」(119)。

*実り多い交流 

 137. 国家間の相互支援が、双方に豊かさをもたらすことが証明されています。自分たちに固有の文化的土台にしっかりと根ざして前進する国は、全人類にとっての宝です。今日、私たち皆が助かるか、あるいは誰も助からないか、のどちらかである、という自覚を高める必要があります。

 地球の一部に存在する貧困、衰退、苦しみは、やがて全世界に悪影響を及ぼすことになる諸問題に対して、無言の血を流す根拠となっています。たとえ私たちがある特定の種類のものが消滅し、そのことで悩むにしても、貧しさや構造的な限界によって個人や人々の持つ可能性や美しさの発展が奪われる地域が世界に幾つかあるということで、もっと悩むでしょう。最終的に、そのようにして私たち皆が貧しくなってしまうのです。

138. このことはこれまでも常に事実でしたが、世界がグローバル化されて相互に関わり合っている今日ほど明白になったことは決してありませんでした。私たちは「連帯しつつすべての人々が発展するように国際的な協力を強め、目指すことのできる」グローバルな司法的、政治的、経済的な秩序を達成する必要があります」(120)。最終的に相互支援(国際協力)は、全世界の利益になるでしょう。なぜなら「貧しい国への発展支援」は「すべての人々に豊かさをもたらすこと」を意味するからです(121)。

 総合的発展という見地から、相互支援は、「より貧しい国民に、双方の意思決定に基づいた有効な声を届け」(122)、「貧困と開発途上という苦しみを抱える国々に、国際的なマーケットへのアクセスを容易にする」資格(地位)を「与えることが前提となります」(123)。

*無償で他者に開放する 

 139. たとえそうであっても、私はこのような提示を功利的なアプローチに限定したくはありません。すなわち、常に「無償」の要素があります。個人的な利得や報酬を気にせずに、それ自体が良いという理由だけで、何かを実行できることです。たとえ即座に目に見える利点がもたらされなくても、無償の行為は見知らぬ人を歓迎できるように導きます。科学者や投資家のみであれば、受け入れたい、と思っている国々もありますが。

140. 兄弟的な無償の行為がない生活は、猛烈なビジネスの形をとり、絶えず、何を与えて、何を貰うかを計算します。一方、神は不忠実な人々さえ無償で助けるほどです。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせます」(マタイ福音書5章45節)。イエスが私たちに語られたことに理由があります。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(同6章3-4節)。私たちは無償で命を受け取りました。そのために1円たりとも払っていません。従って、私たちは誰でも何も返礼を期待せずに、良く待遇してくれることを要求せずに、他者に親切にすることができるのです。イエスが弟子に告げられたように、です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(同10章8節)。

141. 世界の国々がそれぞれ異なることの真の価値は、ただ単に一つの国としてだけではなく、より大きな人間家族の一部として考える、という能力によって計ることができます。特に危機にあるときはこのことがよく分かります。ナショナリズム(国家主義・民族主義)という狭義の形は、この無償の意味を把握できていない極端な表われです。ナショナリズムは、他者の破滅を無視して自分たちだけで発展できる、また、他者にドアを閉めることで、自分たちがより安全である、と考える過ちを犯します。

 移民たちは何も与えるものを持たない強奪者とみなされます。この考えは、貧しい人々は危険で役に立たない、一方、権力のある人々は寛大な恩恵を施す人々、という最も単純な信念に導きます。「無償で」他者を快く歓迎する、という社会的、政治的な文化のみが、未来を手に入れることができるでしょう。

*地域と普遍 

142. 私たちが頭に入れておくべきことは、次のことですー「『グローバル化』と『ローカル(地域)化』の間には、本質的な緊張が存在する。狭量で陳腐な考えを避けるために『グローバル』に注意を払う必要があるが、『ローカル』にも目を向ける必要があるーそうすることが、私たちの足を地に着いたものにするからだ。この二つが、人々は抽象的な概念、『グローバル化された世界』に巻き込まれる、あるいは、世界と離れ、目新しいものに挑まれることも、神が境界に置かれた素晴らしいものを正当に評価することもできず、同じことの繰り返しを運命づけられた”地域の民族伝承館”に入り込む、という、グローバル、ローカルの両極端に落ち込むのを防いでくれる」(124)。

 狭量な地域愛から私たちを救い出す「グローバルな視野」を持つ必要があります。私たちの家が、家庭であることをやめ、壁で囲まれた場所、”刑務所の監房”になろうとする時、「グローバル」が、私たちを救けに来ますー私たちを実践にひきつける”final cause(目的因)”+のように。しかし同時に、「ローカル」も喜んで受け入れねばなりません。「グローバル」が持っていないもの持っているからです。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができます。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たします。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことでしょう。

アリストテレスの説く、事物が生成するための四原因のひとつ。例えば、家に対しては、家としての役割・働きがこれにあたる=三省堂刊「大辞林」

 

*郷土の香り 

 143. その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではありません。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ません。堅固な基盤の上に立っていなければ、私は他の人々と真の出会いをすることができないーなぜなら、私が贈り物を受け取とった相手に、自分自身の本物の贈り物を返すことができるのは、そうした基盤の上に立っているからです。異なる人々を喜んで受け入れ、彼らがするに違いない素晴らしい貢献の価値を認めることができるのは、私が自分自身の仲間と文化にしっかりと根を下ろしている場合に限られます。

 誰もが、彼の、あるいは彼女の郷土と村を愛し、大切にすることは、ちょうど、彼らが家庭を愛し、大切にし、個人的に家庭を維持する責任をもつこと同じです。それと同じように、共通善は、私たちが郷土を守り、愛することを求めています。そうしなければ、ある国の災害が、最終的にこの地球全体に悪影響を及ぼすことになってしまいます。これらすべてのことは、所有物に対する権利について肯定的な意味をもたらしますーすべての善に貢献できるようなやり方で、私は自分の持っているものを大切にし、育てるのです。

 144. それはまた、健康的で豊か交流を生みます。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれます。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しません。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからです。

それが、昔からあるバベルの塔の物語で言及されている誘惑です。天まで届く塔を建てる試みは、さまざまな土地から来た多様な人々の団結の表明ではありませんでした。そうではなく、諸民族のために作られた、神の意図された計画とは別の単一なものを作り上げようとする、高慢と野心から生まれた誤った試みだったのです(創世記11章1~9節参照)。

145. 偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性があります-それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因します。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばなりません。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、です。

私たちは、神からの贈り物である自分の故郷の肥沃な土地と歴史に、もっと深く根を張る必要があります。私たちは、近隣で、小規模であっても、大きな視野をもって働けます… 全世界が息苦しい思いをする必要はないし、特定の地域が不毛だと証明することもありません」(125)。私たちの手本は、多面体のようなものであるべきですー個人それぞれの価値がたいせつにされ、そこでは「全体は部分よりも大きいが、それは各部分の総体よりもさらに大きい」(126)からです。

*普遍的な視野 

 146. 自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルなナルシズム(自己陶酔)」があります。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれます。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全な「ローカル」であることは不可能です。 

 一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心します。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになります。このようにローカルなレベルの生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなります。このようにして地域発展の可能性は狭められ、地域は退屈し、脆弱になります。

 一方、健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的です。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えません」(127)。

147. 私たちの精神と心が狭くなっている時、周りの世界を理解することがより難しくなっている、ということを理解しましよう。互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身とその郷土をも明確に、且つ完全に理解することが困難になります。他の文化は、私たちが自身を守るための「敵」ではなく、人間の生活が持つ尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのです。私たちがもう一人の自分、つまり他者の観点で自分自身を見ると、私たちと私たちの文化がそれぞれ持つ、ユニークな特徴、つまり、豊かさ、可能性、限界がよりよく理解できます。私たちのローカルな体験は、様々な文化的環境の中で生きている人々の体験と「対照的」に、かつ「調和」して発展させる必要があります(128)。

148. 実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりしません。他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合します。輸入された要素自身が豊になり、最終的にすべての人々にとって益となる新しい統合体となります。これが、私たちが地元の人々に自身のルーツと先祖の文化を大切に育てるように、強く勧める理由です。

  同時に、「いかなる類いの混血の人々(メスティーソ)をも拒否するような、壁に囲まれた完全な閉鎖、変わらずに続いてきた歴史的な静止状態の『原住民主義』」を提案するつもりはない,と強調したいと思います。なぜなら、「私たちの文化的な独自性は、それと異なる独自性をもつ他の文化との対話によって強められ豊かになるからです。さらに、私たちの真の独自性は、不毛な孤立によって維持されることはありません」(129)。いかなる文化的な押しつけもない、開かれた文化間に生まれた統合を維持することで、世界は成長し、新しい美しさで満たされるのです。

149. 郷土への愛と、もっと大きな人類家族に属しているという、しっかりした感覚の間にある健全な関係のために、「グローバルな社会とは、異なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体だ」ということを念頭に置くことが役に立ちます。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのです。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの美を発見するのです。出自が何であれ、個々人すべてが、より大きな人間家族の構成員であることを知るのです。それなしには、自分自身を十分に理解することはできないでしょう。

 150. このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という喜ばしい認識をもたらします。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのです。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵、となるのです。なぜなら「人間は無限でありながら限界のある存在」だからです(130)。

*自分の地域から始める

 151. 地域的な交流によって、より貧しい国々が、より広い世界に対して開放的になりますが、普遍性が彼らの独自な特徴を弱めることには、必ずしもなりません。世界に向けた適切かつ信頼できる開放性は、(地域の)国々の集団の中で隣人に開放的であることを前提とします。ですから、隣国の人々との文化的、経済的、政治的な統合は、隣人愛の価値を奨励する教育を伴う必要がありますーそれが、健全な普遍的統合を成し遂げるため、最初に、絶対必要なステップなのです。

152. 私たちの都市のいくつかの地域で、生き生きとした隣人関係が続いています。一人ひとりが、彼、あるいは彼女の隣人に寄り添い、助ける必要のあることを極めて自然に理解しています。このような共同体の価値観が保持されている所で、感謝、連帯、互恵が特徴的に見られる親密さを、人々は体験しています。隣人関係は、”shared identity(自他同一性)”の感覚を人々にもたらします(131)。同じように近隣諸国が”隣人の精神”を人々の間に奨励できるとよいのですが!

 一方で、個人主義の精神も、諸国間の関係に影響を与えます。互いに相手から自分を守るべきだ、と考えることの危険性、あるいは他者を競争相手、危険な敵と見なすことの危険性は、同じ地域の人々との関係にも、影響を与えます。おそらく私たちは、この類いの恐怖と不信の中で教育されてきたのです。

 153. このような孤立から利益を得、それぞれの国と別々に交渉することを好む、強国や大企業があります。その一方で、小さな、あるいは貧しい国々は、地域の一員として交渉することを認める隣国と協定を結ぶことで、分断され、孤立し、大国に依存せねばならなくなる事態を避けることが可能です。今日、孤立したままでは、どの国も人々の共通善を確保することはできません。

第五章 より良い政治 A BETTER KIND OF POLITICS

 

 154. 諸国民と諸国家による社会的友愛の実践を基礎に置いた兄弟愛の世界的な共同体社会の発展には、より良い政治、真に共通善に奉仕する政治が必要とされます。残念なことに、今日の政治はしばしば、今とは違う世界に向けた進歩を妨げる形をとっています。

*「ポピュリズム」と「リベラリズム」

 155. 弱者への思いやりの欠如は、それ自体の目的のために彼らを煽り立て、搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に役立つ「リベラリズム」の背後に隠れることがあります。どちらの場合も、最も弱い人々を含む、すべての人のための場を作り、異なる文化を尊重する開かれた世界を心に描くことを難しくします。

*「ポピュラー」と「ポピュリスト」

 156. 近年、「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉が、メディアや日常会話によく使われるようになっています。その結果、そうした言葉が持っていたかもしれない価値を失い、すでに分裂した社会で二極化のもう一つの原因になっています。国民、集団、社会、政府の全体を「ポピュリスト」かそうでないか、に分類する努力がされています。今日では、どちらかに分類されずに、いかなる課題についても見解-それが、不当に評判を落とすか、絶賛されるか、いずれかにしても-を述べることができなくなっています。

157. ”ポピュリズム”を社会的現実の解釈の鍵、と見なそうとする試みは、別の方法で問題があります。「人々」という言葉の正当な意味を無視するからです。この意味を一般的な用語から取り除く努力は、「人民による政治」という民主主義の概念そのものの排除につながる可能性があります。社会が「単なる個人の集合体ではない」ことを堅持したいなら、「人々」という言葉が必要です。多数派を生み出す社会的な現象だけでなく、時代の大きな流れや共同体主義への強い願望もあります。

 男性と女性は、違いを超越する共通の目標を考え出すことができ、共に努力することができます。だが、それが「共有された願望」にならないなら、長期的な計画を実行するのは、とても難しい。こうした要因のすべては、「人々」と「人気」という言葉の使われ方の背後にあります。それらが考慮されない限り、”煽動”への健全な批判とともに、社会的現実の基本的な側面が見過ごされることになるでしょう。

158. ここで、誤解が生じる可能性があります。

 「『人々』は論理的な分類ではなく、神秘的な分類でもないー仮に、このことで、人々が行うすべてのことが善であり、あるいは人々が『天使のような』実在だ、ということを意味するなら、である。それよりも、神話に分類されるべきだろう… 『人々』が何を意味するか説明せねばならない時、あなたは説明のために論理的な分類を使います。必然的にそうなる。だが、そのようなやり方で、『人々』に属することの意味を説明することはできない。『人々』は、純粋に論理的な言葉で説明できない、もっと深い意味を持っている。『 人々』の一員になることは、社会的、文化的絆から生まれる共有のアイデンティティーの一部となることだ。 それは自動的に得られるものではなく、かなりゆっくりと、困難な経路をたどり… 共通の計画に向けて進むもの」(132)だからです。

 159. ”人気”のあるリーダーたち、人々の感情や文化的な活動、そして社会の重要な流れを読み取ることのできるリーダーたちは、確かに存在します。彼らが一致して主導する努力によって提供するサービスは、変革と成長の永続的なビジョンの基礎となりますーそれは、共通善を追求する中で、他の人々のための場を作ることも含むでしょう。

 しかし、どのようなお題目を立てようと、個々人が、個人的な利益を得る、あるいは権力支配を続けるために、人々の文化を政治的に不当に利用できるようになれば、不健全な”ポピュリズム”に堕落することが、在り得ます。あるいは、他の場合、人々のうち特定の分野の人が持つ最も卑しく、最も利己的な性向に訴えることで人気を得ようとする場合も、そうです。このことは、粗雑なやり方だろうと、もっと狡猾なやり方だろうと、制度と法の乱用に繋がる場合、一段と深刻なものになります。

 160.  閉鎖的なポピュリストの集団は、「人々」という言葉を歪めています。彼らが「本当の人々」について話していないからです。 「人々」の概念には、実際に制限がありません。 生き生きと活動的な人々、未来のある人々は、違いを歓迎する能力を通じて、常に新しい統合を受け入れます。 人々は、適切な独自性を否定しませんが、他者に動かされ、挑戦され、拡大され、そして豊かにされ、そうしてさらに成長し、発展いくことに開かれています。

161.”人気”のあるリーダーシップの衰退のもう一つの兆候は、目先の利益への気遣いです。選挙での票や支持を得るために、多くの人の要求に応えますが、人々が開発を必要とする資源を生み出し、自分自身の努力と創造性によって生計を立てる根気のいる不断の努力がなされません。

この点で、私は「無責任なポピュリズムを提案するつもりがない」ことを明確にしています(133)。不平等をなくすには、それぞれの地域の潜在性を引き出し、持続可能な平等を保証するのを助けることのできる経済成長が必要です(134)。同時に、「福祉事業-特定の緊急の要請に応えるもの-は、単に一時的な対応と見なされるべきだ」ということになります(135)。

 162. 最大の問題は雇用です。真に”人気”があるのは、人々の善を促進するために神が私たち一人一人に植えられた種、つまり私たちの才能、進取の精神、そして私たちの生来の才覚を育てる機会を、すべての人に提供することです。これは私たちが貧しい人々にできる最高の助けであり、尊厳ある人生への最良の道です。ですから、私が主張しているのは、「差し迫った必要がある場合に貧しい人々を経済的に助けることは、常に暫定的な対応策でなければならない。より幅広く目指すべきは、常に人々が仕事を通して、尊厳のある生き方ができるようにする」(136)ことです。

 生産システムは変わり得るので、政治システムが、彼、彼女が自分の才能と努力を生かせる機会を手にするような社会を構築するために、働き続けねばなりません。 「仕事と仕事の尊厳を奪うことよりも悪い貧困はない」(137)からです。真に発展した社会では、仕事は社会生活の不可欠な要素です。それは、仕事は毎日のパンを稼ぐ手段であるだけでなく、個人の成長、健全な関係の構築、自己表現、贈り物を交換する手段でもあるからです。仕事は、私たちに世界の発展、そして最終的には人としての私たちの人生に対する共通の責任感を与えてくれます。

*既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 

 163. コミュニティと文化的絆の前向きな見方を必然的に伴う「人々」の概念は、通常、社会を単に「共存する利益の総和」と見なす個人主義的な既存の概念にとらわれないアプローチによって拒否されます。 ある人は自由の尊重について話しますが、共有された物語に根を持ちません。 特定の状況では、社会の最も脆弱な構成員の権利を擁護する人々は、「ポピュリスト」として批判される傾向があります。「 人々」という概念は、抽象的な複合概念、実際には存在しないもの、と考えられています。 しかし、これは不必要な二項対立を作ります。 「人々」の概念も「隣人」の概念も、社会組織、科学や市民の機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような仕方で、純粋に抽象的な、あるいはロマンチックなもの、と見なすことはできません(138)。

164. 一方、慈善活動は、抽象的側面と制度的側面の両方を持っていますー制度、法律、技術、経験、専門知識、科学的分析、行政手続きなど、すべてを包含する歴史的変遷の効果的なプロセスを必要とするからです。 さらに言えば、「私的生活は、公的な秩序によって守られない限り存在できない。 家の炉端は、法律によって、法律に基づく安全な状態によって、守られない限り、本当の暖さがない。守られることで、分業、商取引、社会正義、および政治的市民権によって保証される最小限の幸福を享受する」(139)ことができるのです。

165. 真の慈善活動は、これらすべての要素を他者への関心に組み込むことができます。遠く離れた、あるいは忘れ去られた兄弟姉妹を含めた、個人的な出会いにおいて、そうしたことは、可能ですー「組織化され、自由で創造的な社会の諸団体が生み出すことのできる資源」をすべてを利用することで。たとえば、善きサマリア人でさえ、(注:自分が助けた人に)彼個人ではできないような助けができる近くの宿が必要でした。隣人への愛は具体的であり、「貧しい人々や不利な立場にある人々に利益をもたらす可能性のある歴史的な変化」に必要な資源を、無駄使いすることはありません。

 時には、個人主義的な行動様式や効果のない手順に結び付いた左翼主義者のイデオロギーや社会原理が、ほんの少しだけ、人々に影響を与えます。大部分の人は、他の人の善意に依存し続けます。このことは、より大きな友愛精神の必要だけでなく、貧しい国で苦しみ、死に瀕している”捨てられた人々”を悩ませている問題の解決を助ける、より効率的な世界的な組織の必要性を明確に示しています。また、すべてに無差別に適用できるような、一つの解決策、単一の受け入れ可能な方法論、経済的な対策が無い、ということも示しています。最も綿密な科学研究でさえ、さまざまな行動方針を提案しないとも限らないのです。

 

166. したがって、すべては、心、態度、生活様式の変化の必要性を理解する、私たちの能力に依存しています。そうでなければ、政治宣伝、メディア、世論形成者は、個人主義的で批判精神に乏しい文化ーすでに過剰な権力を享受している人々に奉仕する無秩序な経済的利益や社会制度に利するような文化ーを促進し続けることになるでしょう。

 私の専門技術者的なものの見方に対する批判は、「行き過ぎをうまくコントロールできるだろう」と単純に考える以上のものを含みます。より大きなリスクは、特定の対象、物質的な現実あるいは制度そのものからではなく、それらの使われ方から生じます。それは人間の弱さーキリスト教の伝統が「concupiscence(貪欲)」と呼ぶものの一部である利己主義の性癖、自分自身、自分の集団、自分自身のささいな興味だけに関心を持つ人間の性癖と関係があります。

 貪欲は、私たちが生きている今に限られた欠陥ではなく、人類の初めから存在し、歴史のそれぞれの時に、使える手段なら何でも使って、これまでずっと様々な形に変化し、続いてきました。しかし、貪欲は、神の助けを借りて克服することができるのです。

 167. 教育としつけ、他者への配慮、人生と精神的成長の十分に一体化したものの見方。これらはすべて、質の高い人間関係のために、経済、技術、政治、メディアの不正、常軌を逸した対応、権力の乱用に、社会そのものが対応できるようにするために、欠かせません。いくつかの自由主義的な対応は、人間の弱さのそうした要素を無視し、決まった秩序に従って、それ自体で明るい未来を保証でき、あらゆる問題の解決策を提供することができる、という世界を心に描きます。

168. 市場は、それ自身ですべての問題を解決することはできませんが、それでも、私たちは、この”ネオ・リベラリズム(注:個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきとする考え方)信仰”の教義を信じるように求められています。課題が何であれ、この不毛で繰り返しなされる”流派”は、常に同じ”調理法”を提示します。”ネオ・リベラリズム”は、社会問題の唯一の解決策として、名前を使わずに、「溢出」あるいは「漏出」の魔法の理論に頼ることで、それ自体を単純に再現します。主張されている「溢出」が、社会構造を脅かす新たな形の暴力を引き起こす不平等を解決しない、という事実への正当な評価が少しもありません。

 強く求められているのは、「生産的な多様性とビジネスの創造性を優先する経済の促進」(140)に向けた積極的な経済政策を持つこと、雇用を作り出し、減らさないことを可能にすること、です。手早く利益を上げることを目的とした金融投機が、大きな混乱を引き起こし続けています。実際、「連帯と相互信頼が市場関係者の間になければ、市場は適切な経済的機能を完全に果たすことはできない。そして今日、この信頼は存在しなくなっている」(141)のです。

 物語は、それが意図された方法を終えておらず、「主流となっている経済理論の独断的な公式は完全無欠ではない」ことが証明されました。新型コロナウイルスの大感染に直面した世界システムの脆弱性は、「市場の自由によってすべてが解決できるわけではない」ことを実証しています。また、金融の指示に従わない健全な政治生活を取り戻すことに加えて、「私たちは人間の尊厳を再び中心に置き、その柱の上に、私たちが必要とする社会構造を構築しなければならない」ことも明らかにしています(142)。

169.たとえば、一部の閉鎖的で単色の経済的な対応では、大衆運動-失業者、臨時・非公式雇用の労働者、そして既存の構造で働く場所を簡単に見つけることができない他の多くの労働者を団結させる運動-の場が不在のように思われますが、このような運動は、さまざまな形態の大衆経済と共同体生産を巧みに扱います。必要なのは、社会的、政治的、経済的な参加のモデル-大衆運動を含めることができ、共通の運命の構築において排除されたものを包含することから生じる、道徳的なエネルギーの本流をもって、地方、国内、および国際的な統治構造を活気づけることができるモデル-です。そして「この惑星の下層土から成長する連帯の経験は、一緒になり、調整され、互いに出会い、続けられる」ことを保証します(143)。

 しかし、これは、「変化の種を蒔く人、何百万もの行動を伴うプロセスの促進者、大きい者、小さい者、詩の言葉のように創造的に編み合わされた者」として行動する、彼らの独特のやり方を裏切らない方法でされる必要があります。その意味で、このような運動は、独自の方法で活動し、提案し、促進し、発散する、”社会詩人”です。「社会政策は”貧しい人々のため”の政策だが、””貧しい人々共に”や”貧しい人々の”では決してなく、人々を再結集させるプロジェクトの一部でもないという考え」(145)を超えた、欠ける所のない人間開発を可能にするのに役立ちます。それは煩わしいことかもしれませんし、特定の”理論家たち”は、分類するのが難しいと感じるかもしれませんが、それでも私たちは、知る勇気を持たねばなりませんーそれなしには、「民主主義は単なる言葉、形式になってしまう。代表的な性格を失い、実体を無くしてしまう。なぜなら、未来を作る中で、尊厳を求める日々の戦いの中に人々を置き去りにしてしまうから」(146)です。

 

*国際的な力

 170. 「2007年から2008年にかけての国際金融危機は、新しい経済-倫理的原則にもっと注意を払う経済-と、投機的な金融慣行と仮想的な財力に対する新たな規制の方法を開発する機会を提供した。だが、この危機への対応には、世界を支配し続けている時代遅れの基準を見直することは含まれていなかった」(147)。たしかに、この危機をきっかけに世界中で実際に開発された戦略は、いつも危機を無傷で逃れる方法を見つける真に力のある人々のために、以前よりもっと強烈な個人主義、もっと少ない協調、そしてもっと大きな自由を、助長したように思われます。

171. 私はまた、このように主張したいと思います-「『各人に各人のものを』という古典的な『正義』の定義は、いかなる個人あるいは集団も、自分を、他の個人や社会的集団の尊厳と権利を凌駕する資格を与えられている『絶対的な存在』と見なすことができない、ということを意味する。複数の主体間での力(特に政治的、経済的、防衛関連、そして技術的な力)の効果的な分配、そして、主張と利益の調整のための司法制度の創設は、力を制限するひとつの具体的な方法だ。だが、それでもなお、今日の世界は、多くの誤った権利を、同時に、脆弱な幅広い領域、酷く使われた力による犠牲者たちを、私たちに見せている」(148)ということを。

172. 21世紀は、「国民国家の弱体化を目の当たりにしています。なぜなら、国境を超えた経済、金融の活動分野が、政治よりも優先する傾向になっているからです。このような状況を考えれば、各国政府間の合意で公正に任命され、制裁を課す権限を与えられた責任者を置く、強力で効率的に組織された国際機関を立案することが、どうしても必要です。

法律によって規制された何らかの形の世界的権威を持つ機関の可能性(150)について話す場合、必ずしも個人的な権威について考える必要はありません。それでも、そうした権威は、少なくとも、世界的な共通善を提供する力、飢餓と貧困をなくし、基本的人権をしっかりと守る力を備えた、効果的な世界的組織を推進すべきです。

173. この点で、私はまた、国連、そして経済関係機関と国際金融制度の改革の必要性を指摘したいと思います。これらの改革によって、「国家の家族についての概念は、本当の効力を持つ」(151)のです。言うまでもなく、これには、少数の国だけが権力を握るのを避け、イデオロギーの違いによる文化的押し付けや弱い国の基本的自由の制限を防ぐために、明確な法規制が求められます。それは、「この国際共同体は、加盟各国の主権に基づいた法的な共同体であり、その独立を否定または制限するような拘束を受けない」(152)からです。

 同時に「国連の基本綱領の序文と最初の条項に定められた原則よれば、国連の活動は、法の支配の発展と促進として見ることができる。それは、正義が、普遍的な友愛の理想を実現するための不可欠な条件だということだ… 基本的な法規範を真に構成する国連憲章が提起しているように、議論の余地のない法の支配と、交渉、調停、仲裁をひたすら頼みとする体制を確かなものとする必要」(153)があります。そして、国連が非合法化されないようにせねばなりません。その問題と欠点は、共同で対応し、解決できるからです。

174.共通の目標を進んで確立し、特定の重要な規範を世界全体で遵守するためには、勇気と寛容さが必要です。これが本当に役立つためには、「pacta sunt servanda(注:「合意は拘束する」「合意は守られなければならない」などと日本語訳されるラテン語起源の成句。主に国際法および契約法で用いられる)」(154)を堅持し、「『法の力』ではなく『力の法則』に訴えようとする誘惑」を避けることが不可欠」(155)です。これは、「紛争の平和的解決のための規範的手段… その範囲と拘束力の強化」(156)を強固にすることを意味します。これらの規範的手段の中で、国家間の多国間協定を優先する必要があります。なぜなら、二国間協定よりも、真に普遍的な共通善の促進と、弱い国の保護を保証するからです。

175 時宜を得た形で、市民社会の多くの集団や組織は、国際社会の欠点、複雑な状況での調整の欠如、基本的人権への注意の欠如、そして特定の集団の重要な必要性を補うのに役立ちます。国の活動を統合、補完する手段として、下位レベルの共同体社会や組織の参加と活動を正当化する、補完性原理の具体的な適用を見ることができます。これらの集団や組織は、公益のために称賛に値する努力をすることが多く、その構成員たちは時には真の英雄となり、人類がまだ実現可能な多少の素晴らしい事柄を展望しています。

*社会的および政治的慈善

 176. 今日、多くの人々にとって「政治」は不快な言葉であり、多くの場合、一部の政治家の過ち、汚職、非効率性が原因です。政治の信用を傷つけたり、経済に置き換えたり、一つのイデオロギーあるいは他のイデオロギーに捻じ曲げたりする試みもあります。でも、私たちの世界は政治なしで機能することができるでしょうか?健全な政治活動抜きに、普遍的な友愛と社会的平和に向けた効果的な成長のプロセスが存在するでしょうか?(157)

*必要とされる政治 

 177. 私がここでもう一度、注視したいのは、「政治は経済の影響を受けてはならず、経済はテクノクラートの効率主導の規範の命ずるところを受けてはならない」(158)ということです。権力の乱用、汚職、法の無視、非効率性は、はっきりと拒絶せねばなりませんが、「政治のない経済は正当化できない。現在の危機のさまざまな側面に対処する他の方法を支持することを不可能にするから」です。必要なのは、「先見の明があり、危機のさまざまな側面に対処するための、新しい、統合された学際的なアプローチが可能な政治」(160)をすること。言い換えれば、「健全な政治… 制度を改革し、調整し、最善の措置を進め、過度の圧力と官僚的な慣性を克服することができる政治」(161)です。こうしたことを行うように経済に期待することも、国の真の力を引き継ぐのを経済に認めることも、私たちは当然のことと考えることはできません。

178. 目先の利益に焦点を当てた多くのささいな政治の形を前にして、私は繰り返しますー「困難な時期に、私たちが大義名分を掲げて、長期的な共通善を考えるとき、真の政治手腕ははっきりしている。政治権力は、国家建設の事業においてこの義務を担うのは容易ではない」(162)、現在そして将来、人類家族のための共通の事業計画を構築する可能性はずっと少ない。私たちの後に来る人々のことを考えることは、選挙の目的としては役立ちませんが、それでも、それは真の正義が求めるものです。ポルトガルの司教団が教えているように、地球は「各世代に貸し出され、次の世代に引き継がれる](163)のです。

179.グローバル社会は、断片的な解決策や手早い修正では解決できない重大な構造的欠陥に苦しんでいます。抜本的な改革と大幅な刷新による多くの変化が必要です。この過程を監督できるのは、最も多様な分野と技術を巻き込んだ健全な政治だけです。「公共の利益に向けられた政治的、社会的、文化的、そして大衆的なプログラムの不可欠な部分」である経済は、「人間の創造性とその進歩の理想を抑圧することを伴わない、さまざまな可能性への道を開くことができるが、それよりもむしろ、新たな流れに沿ったエネルギーを指向」(164)します。

*政治的な愛 

 180. 「すべての人が私たちの兄弟姉妹であること」を認識し、「すべての人を包含する社会的友愛の形」を求めることは、単なるユートピアではありません。この理想実現のために効果的な手段を考える、という決定的な関与が求められます。そうした線に沿ったあらゆる努力をすることは、慈善の高潔な動きとなります。個人が困っている人を助けられるのに対し、人々が一緒になって、すべての人のために友愛と正義の社会的取り組みを始めるとき、「最も幅広い慈善、すなわち政治的な慈善の現場」に入っていきます。これは、核心が社会的慈善である社会的、政治的な秩序のために働くことを伴います(166)。再度、訴えます。「共通善を追求する限り、高遠な召命であり、慈善の最高の形の1つ」(167)である、と。

181. 教会の社会教説に触発されたすべての誓約は「慈愛から生まれたものであり、イエスの教えによれば、それは律法全体を合わせたもの(マタイ福音書22章36-40節参照)」(168) です。それは、次のことを認めることを意味します-「愛、互いのいたわりの小さな振る舞いであふれる愛はまた、市民的かつ政治的でもあり、それ自体を、より良い世界を作ろうとするすべての行動に自体を感じさせる」(169)。 ですから、慈愛は、親密で懇意な関係に、だけでなく、「マクロ的な関係、つまり社会的、経済的、政治的な関係」(170)にも表れるのです。

182. この政治的な慈愛は、すべての個人主義的な考え方を超越する社会的認識をもとに生まれます。「『社会的な慈愛は、私たちに共通善を愛するようにさせる』、それは私たちに、すべての人の善-個々、あるいは私人としてだけでなく、それらを結びつける社会的側面として考えられる(171)-を効果的に求めるようにさせる。私たちが人々の一部であるとき、私たち一人一人は完全に人です。同時に、一人ひとりの個性を尊重しない人はいない。『人々』と『人』は相関関係にある言葉だが、にもかかわらず、今日では、見せかけの利益を追求する権力によって、人々を、容易に操作される孤立した個人に矮小化する試みがされているのです。優れた政治は、グローバリゼーションを再調整、方向転換させ、それによってグローバリゼーションの破壊的な影響を回避するために、社会生活のあらゆるレベルで、共同体を構築する方法を追求します。

*効果的な愛 

 183. 「社会的愛」(172)は、私たち全員が呼ばれていると感じることのできる”愛の文明”に向かって進むことを可能にします。慈愛は、全体に広めたいという衝動をもって、新しい世界を構築すること可能です(173)。単なる感情ではなく、すべての人にとって効果的な発展の道を見つけるための最良の手段です。「社会的な愛」とは、「今日の世界の問題に取り組む、新しい方法の策定を刺激し、社会の仕組み、組織、法制度を内側から大幅に刷新できる力」(174)です。

184. 慈愛は、すべての健康で開かれた社会の核心ですが、今日では「道徳的責任を解釈し、指示を与えることとは無関係だ、として簡単に却下されてしまいます」(175)。慈愛は、真実への責任を伴う場合、個人的な感情以上のものであり、「偶発的かつ主観的な感情や意見の餌食になる」(176)必要はありません。確かに、真実との密接な関係は、その普遍性を促進し、「関係のない狭い分野に限定される」ことから守ります(177)。そうでなければ、「知識と実践の間の対話で、普遍的な人間開発を促進する計画と過程から除外さてしまう」(178)でしょう。真実がなければ、感情は相関的、社会的な内容を欠いてしまいます。そして、真実に開かれた慈愛は、「人間的で普遍的な幅の広さを奪う信仰主義(宗教上の真理は、理性によってではなく, 信仰によるとする主義)から守ります(179)。

 

  1.  慈愛は、私たちが常に求めている真理の光を必要とします。「その光は、理性の光であり、信仰の光」(180)でもあり、そして、いかなる形の相対主義も認めません。 ただし、科学の発展と、望ましい結果をもたらすのに最も確実で最も実用的な手段を見つけるための科学の不可欠な貢献を、尊重します。 他の人々の福利が危機に瀕しているとき、善意だけでは十分ではありません。 彼らと彼らの国が発展するのに必要なものら何でも提供するために、具体的な努力がされねばなりません。

*政治的な愛の行使

 

186. 「導き出される」という愛の形がありますーその行為は慈愛の美徳から直接始まり、個々人と人々に向けられます。より健全な制度、より公正な規制、より支援的な構造を作るように人々を励ます慈愛の活動で表される「統率された」愛もあります(181)。それは当然、「隣人が貧困に陥らないように社会を組織し構築しようと努力することも、同様にかけがえのない愛の行為」(182)ということになります。

 苦しむ人を助けるのは慈愛の行為ですが、相手を知らないとしても、彼あるいは彼女の苦しみを引き起こしている社会的な状況を変えるために働くことも、慈愛の行為です。高齢者が川を渡るのを手伝うなら、それは素晴らしい慈愛の行為です。

   政治家は橋を架けますが、それも慈愛の行為です。ある人が食べ物を提供することで他の人を助ける一方で、政治家はその人のために働き口を作り、彼または彼女の政治的な活動を気高くする慈愛の高潔な形を実践します。

*愛から生まれた犠牲 

 

187. 政治の精神的な核心であるこの慈愛は、常に最も必要としている人々に示される選択的な愛ですーそれは、私たちが彼らに代わって行うすべてのことを補強します(183)。慈愛によって変えられた眼差しだけが、他の人々の尊厳が認められることを可能にし、その結果として、貧しい人々が認識され、尊厳が重んじられ、彼らの独自性と文化に敬意が払われ、そうして、真に社会に受け入れられるのです。

 その眼差しは、本物の政治精神の核心であり、魂のない実利主義の道とは異なる道が開かれるのを確かめます。 それは、私たちにはっきりと理解させますー「貧困の恥ずべきことに、貧しい人々を落ち着かせ、従順にし、無害にするだけの”封じ込め戦略”を進めることでは対処できない。利他的といわれる仕事の裏で、受け身的になっているのを知るのは何と悲しいことだろうか」(184)。必要なのは、自己表現と社会への参加の新たな小道です。教育は、一人ひとりの人間が自分の将来を形成できるようにすることで、そのことに役立ちます。ここでも、「連帯の原則」と切り離すことにできない「補完性の原則」の重要性が分かります。

188. これらの考察は、基本的人権を脅かす、あるいは侵害するすべてのものと戦う、差し迫った必要性を認識するのに役立ちます。政治家は「個々人や人々のニーズに応えるよう求められている。機能的で私営化された思考、無情にも”使い捨て文化”につながる思考が幅を利かす中で、困窮している人々を世話するためには、力と優しさ、努力と寛容さがひつようであり…それは、社会からの完全な疎外と苦悩の状況とともに、今現在に責任を取ること、それに尊厳を与えることができることも含む」(185)のです。

 同様に、それは「人間の社会的な身分と尊厳を守るためにすべてが行われる」(186)のを確実にする激しい努力を奮い立たせるでしょう。政治家は、野心的な目標を持った実行者であり、建設者であり、自身の境界を越えてものを見る、広く現実的で実利的な眼差しを持っています。

 彼らの最大の関心事は、世論調査で支持率が落ちることではなく、諸問題の効果的な解決方法を見つけることにあります-「”社会的および経済的な排除”の現象、その有害な結果”としての、人身売買、人間の臓器や生体組織の売買、少年少女の性的搾取、少女、売春を含む奴隷労働、麻薬と武器の取引、テロリズム、国際組織犯罪。これらの状況の悲惨さ、そして無実の命の犠牲は、ありにも大きく、私たちの良心を癒やすような”declarationist nominalism(宣言主義者の唯名論)”に陥らせるあらゆる誘惑を避けねばなりません。私たちの機関・組織がこれら全ての悲惨な事態との闘いにおいて、本当に効果的に働くことを、私たちは確実にする必要」(187)があります。これには、技術開発によってもたらされる膨大な資源を、知性をもって活用することが含まれます。

189. 私たちは、最も基本的な人権の”グローバル化”にはまだほど遠い状態にあります。だからこそ、世界の政治は、飢餓を効果的に無くすことを最重要かつ不可欠な目標の一つにする必要があります。確かに現在の世界では「投機資金が食糧価格を操作し、食糧を単なる商品一つとして扱い、それによって何百万もの人々が飢餓に苦しみ、亡くなっています。その一方で、たくさんの食べ物が捨てられています」。これは「正真正銘の不祥事です。飢餓は犯罪です。食物は不可侵の権利なのです」(188)。

 多くの場合、私たちが意味論的、あるいはイデオロギー的な論争を続けるとき、兄弟姉妹が避難所や医療の提供を受けられず、飢えと渇きで亡くなっていきます。こうして基本的な援助を満足にできないことに加えて、人身売買は、人類にとってもう一つの恥の源です。国際社会で政治分野の責任者たちは、”素晴らしいスピーチ”と”善意”に留まってはならない、こうした事態を許してはなりません。これはぜひとも必要なことです。先延ばしはできないのです。

 

*集合し、結束させる愛  

 190. 政治的慈愛はまた、「すべての人に開かれた精神」で表現されます。 政府指導者は、出会いを育てるように犠牲を払い、少なくともいくつかの問題について意見の一致を求める第一人者となるべきです。 他の人々の視点に耳を傾け、すべての人のために道をあける用意をする必要があります。 犠牲と忍耐を通して、誰もが場を持つ素晴らしい多面体の現実を作り上げるのを助けることが可能です。 ここでは、経済的なやり方は機能しません。 他のやり方ー共通善の贈り物の交換ーが必要です。これはあまりにも純真で、夢想的に見えるかも知れませんが、このような高遠な目的を捨てることはできないのです。

191. さまざまな形の原理主義的不寛容が、個人、集団、そして人々の間の関係を傷つけている時、私たちは努めましょうー彼あるいは彼女の考え、意見、習慣、さらには罪を超えて、他人に敬意を払うことの大切さ、違いを進んで受け入れる愛、そしてすべての人間の尊厳を最優先することを実践し、教えるように。現代社会で、狂信、偏見、そして社会的、文化的な断片化が蔓延しているとしても、優れた政治家は、最初の一歩を踏み出し、異なる声が聞こえると主張します。意見の不一致は紛争を引き起こす可能性がありますが、均一であることは息苦しく、文化の衰退につながります。私たちは、現実の一つの断片に取り囲まれて満足していいのでしょうか。

192. この点で、グランドイマーム・ アーマド・タイーブ(Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb)と私は、国際政治と世界経済のリーダーたちに対して「寛容の文化を広め、平和的に共存するために精力的に取り組むこと、罪のない血の流出を止めるために最も早い機会に介入すること」(189)を求めました。特定の政策が、自国の繁栄の名の下に、他国に対する憎悪と恐怖をまき散らすとき、進路を修正することを気にかけ、遅滞なく、速やかに対応するようにする必要があります。

 

*結果を超える実りの豊かさ

 193. たゆまぬ活動を続ける政治家は(注:私たちと同じ)男性、女性でもあります。日常の対人関係で愛を実践するように求められています。 人として、彼らは次のことを考慮する必要があります。

 「技術進歩により、現代の世界は、人間の欲求の満たすよう機能する傾向を一段と強め、さまざまなサービスに分類され、細分化されています。 人々が名前で呼ばれることは、ますます少なくなり、このようなユニークな存在が、彼または彼女自身の感情、苦しみ、問題、喜びおよび家族を持つ人として扱われることは、ますます少なくなるでしょう。彼らの病いは癒すためにだけに知られ、金融は彼らの為に提供されるだけに必要とされ、彼らに宿舎を与えるだけに住まいが不足し、彼らを満足させるためだけの保養と娯楽への彼らの欲求です」。

  だが忘れてならないのは、「兄弟として最も取るに足らない人間を愛することは、まるでこの世界に、彼のほかは誰もいないかのように、時間の無駄とは見なされない」(190)ということなのです。

194. 政治もまた、他人の優しい愛に道を開けねばなりません。 「優しさとは何でしょうか?近くに行き、現実になるのが愛です。私たちの心から始まり、目、耳、手に届く動き… 優しさは、最も強く、最も勇敢な男性と女性が選択する道」(191)です。

政治生活の日々の関心事の中で「最も小さく、最も弱く、最も貧しい人々が、私たちの心に触れるようにすべきです。彼らは、私たちの心と魂に訴える「権利」を持っています。彼らは、私たちの兄弟姉妹であり、そのために私たちは彼らを愛し、世話をしなければなりません」(192)。

195.これらすべてが、「重要なのは、常に素晴らしい結果をもたらさない」ということを理解するのに役立ちます。結果達成が常に可能であるとは限らないからです。政治活動で、覚えておく必要があるのは次のことです-「外見にもかかわらず、すべての人は非常に神聖であり、愛するに値する。だから、少なくとも一人の人がより良い生活を送るのを助けることができれば、それはすでに私の人生の捧げ物を正当化します。神の忠実な民であることは素晴らしいことです。壁を壊し、心がさまざまな顔と名前で満たされるとき、私たちは充実感を得るのです!」(193)。

 私たちの夢と計画の大きな目標は、部分的にしか達成できない可能性があります。それでも、こうした問題を乗り越え、愛し、政治を単に権力の追求と見なさなくなった人々は、「自分たちの愛の行為は失われず、他の人々に対する誠実な配慮の行為も失われないことを確信するかもしれません。神への愛の単一の行為が失われることはなく、寛大な努力で無意味なものはなく、痛みを伴う忍耐が無駄になることもありません。これらすべてが、生命力のように私たちの世界を取り巻いています」(194)。

196. このような理由から、私たちが蒔く善の種の隠された力に、希望を置き、それによって他の人が実を結ぶプロセスを開始することは、本当に気高いことです。良い政治は、愛と希望、そして人間の心に存在する善の蓄えへの自信を兼ね備えています。確かに「法の尊重と個人間の率直な対話に基づいて構築された本物の政治活動は、すべての女性と男性、そしてすべての新しい世代が『新しい相関的、知的、文化的、精神的なエネルギーの展望をもたらす』という認識がされるたびに、常に新しくされる」(195)のです。

 197. こうして見てくると、政治は、思わせぶりな言動、物の取引に関係する活動、目まぐるしいメディアの動きよりも、気高いものであるはずです。分裂や争い、共通の目標を追求するように人々を動かすこともできない陰鬱な冷笑的な考えの種を蒔く以外の何ものでもありません。将来について考えるとき、時として、私たちはこのように自問します。「なぜ、私は、これをしているのか?」「私の本当の目標は何だろうか?」。

 時が経ち、過去を振り返ったとき、私たちが自己に問うのは「何人が、私を支持したのか?」「何人が、私に投票したのか?」「何人が、私に前向きなイメージを持っていたのか?」ではなく、現実的で、そして潜在的に痛みを伴う次のような問いになるでしょう。

「自分の仕事に、私はどれだけ愛を注いだのか?」「人々の進歩のために、私は何をしたのか?」 「どのような痕跡を、私は社会の営みに残したのか?」 「どのような本当の絆を、私は築いたのか?」 「どのような前向きな力を、私は発揮したのか?」 「どれほど多くの社会的平和の種を、私は蒔いたのか?」 「自分に任された立場で、私はどのように役立てたのか?」。

第六章 社会における対話と友情 DIALOGUE AND FRIENDSHIP IN SOCIETY

198. 近づくこと、話すこと、聴くこと、目を向けること、互いに知り合い理解し、共有できる場を見つけようとすることーこれらのことは「対話」という一語に尽きます。互いに出会い、助けたいと思うのであれば、対話が必要です。私が対話の利点を強調する必要性はありません。私が考えなければならないのは唯一つ、家庭と共同体を維持している、多くの寛容な人々の忍耐強い対話がなかったら、この世界はどうなるか、ということです。不一致や戦いと違って、不断の勇気ある対話は、ニュースの主見出しにはなりませんが、私たちが考える以上に、世界中の人々がずっとよく生きる助けとなるのです。

*新しい文化に向かう社会的な対話 

 199. 自分の小さく安全な世界に避難し、現実から逃れようとする人々もいれば、現実に対して破壊的な暴力で対応しようとする人々もいます。しかし、「『自己中心的な無関心』と『暴力的な抗議』の間に、常にもう一つの可能な選択があります。それは「対話」です。世代間の対話、私たち国民の対話、真実に心を開き、受け取ろう、与えようとする意欲です。沢山の豊かな文化-大衆文化、大学文化、若者文化、芸術的文化、技術的文化、経済的文化、家庭文化、そしてメディアの文化-の間で建設的な対話がなされるとき、国は繁栄する」(196)のです。

 200. 対話は、かなり違ったものと、よく混同されます。いつも信頼できるとは限らないメディアの情報にしばしば基づいた「ソーシャルネットワーク上の熱に浮かされたような意見のやり取り」と混同されるのです。こうしたやり取りは、どこまで行っても交わることのない独り言に過ぎません。そのような独り言は、鋭く攻撃的な口調のために、ある程度の注目を浴びるかもしれませんが、誰とも交わることはなく、内容はしばしば利己的で、矛盾しています。

 201. 実際のところ、メディアによる事実と意見の耳障りな寄せ集めは、しばしば対話の邪魔になります。なぜなら、そうしたメディア情報は、「他の人は間違っている」を口実にして、彼、あるいは彼女の考え、関心事、選択に頑固に固執させるようにするからです。そして、それは、より深いレベルでの合意を目指す、相手に敬意を払う対話に心を開くことなく、最初から相手の信用を傷つけ、侮辱するのを容易にします。さらに悪いことには、政治の動きをカバーするメディアから通常引き出されるこの種の言葉は、日常会話の一部になるほど広く行き渡ってしまいます。

 議論は、力のある特定の利害関係者によって、しばしば操作されますー世論を、自分たちに都合のいいように捻じ曲げようとします。この種の操作は、政府によって行われるだけでなく、経済、政治、情報、宗教、およびその他の分野でもなされます。自分たちの経済的、あるいはイデオロギー的な利益に導こうとするときに、そうした操作を正当化しようとしたり、弁明しようとしたりする可能性があります。しかし、早かれ遅かれ、まさにそうした利益とは反対の結果を招くことになります。

 202. 対話の不足は、これらの個々の分野で、人々が共通善について関心を持つのではなく、有利な権力の立場、あるいは、よくても彼ら自身の考えを強いる手段に関心があることを意味します。このようにして、”円卓会議”は、単なる交渉の会合となり、参加者それぞれが、共通善を協力して追求しようとするよりも、得られそうな利益なら何でも手に入れようと試みます。将来、英雄となる人たちは、不健全な考え方を捨て、個人的な利益を脇に置いて、誠実さを推し進めることを、敬意をもって決意できる人たちです。幸いにも、そのような英雄たちは、現在でも、私たちの社会の中に、目立たない形で現れ出ています。

*共に作り上げる 

 203. 真の社会的対話には、相手の観点に敬意を払い、「その観点には、正当な信念や関心事が含まれることもある」ということを受け入れる能力も必要です。他の人々は、それぞれの独創性と経験に基づいた貢献ができ、さらに実りのある、開かれた議論のために彼らの立場を明確に示すことが望まれます。個人や集団が首尾一貫した考えを持ち、価値と信念を守り、議論を発展させる時、確実に社会に恩恵をもたらします。

しかし、これは真の対話と他者に心を開く場合にのみ、起こり得ます。まさに、「対話という真の精神において、たとえ他者の言動を私たちの信念として受け入れることができなくても、私たちは彼らの言動の意味を理解する能力を大きく成長させることができる。このようにして議論しながら、私たちの信念について率直であり、開放的であり、接点を求め、そして何よりも共に働き、懸命に努力できるようになる」(197)のです。

 もし、誰にでも場所を空け、情報を操作したり、隠ぺいしたりしないなら、開かれた議論は、絶えず刺激され、真理のよりよい把握に導き、あるいは、少なくとも、そのような議論のより効果的な表われとなります。それは、それぞれの領域の人々が、彼らの見解と範囲内の関心事に満足し、自己中心的になるのを防ぎます。「違いは『創造的』であること、違いは『緊張』をもたらし、緊張の解決の中に『人類の進歩』がある」ということを忘れないようにしましょう(198)。

 204. 専門的な科学の進歩とともに、より広い学際的なコミュニケーションを必要としている、との確信が大きくなりつつあります。現実は一つであっても、異なる方法で、様々な角度から近づくことができるからです。ただ、科学の進歩だけでは、生活、社会、世界の特定の一面だけを見る唯一のレンズになってしまう恐れがあります。自分が担当する分野の専門家でありながら、他の科学や専門分野にも精通している研究者なら、研究対象の他の側面も認識できる立場にあり、結果として、現実に関する包括的、統合的な知識に開放的になるはずです。

205. 今日のグローバルな社会は、このように言うこともできるでしょう。「私たちはメディアを通して互いにより近いと感じ、人間家族としての一体感が生まれる。その一体感は、すべての人々に、さらに尊厳のある生活を保障するための連帯と、真摯な努力を奨励する…。ヒューマン・コミュニケーションのネットワークは、これまでにないほど発展してきたが、メディアは、特に今日、私たちを大いに助けることができる。特にインターネットは、出会いと連帯のための計り知れない可能性を提供している。これは実に素晴らしいことで、神からの贈り物である」(199)。

 私たちが常に確実にする必要があるのは、「現代のコミュニケーションのさまざまな形が、実際に、他の人々との豊かな出会い、すべての真理に対する誠実な追求、奉仕、恵まれていない人々への寄り添い、共通善の増進へと私たちを絶えず導く」ことです。オーストラリアのある司教さまが指摘されたように、「私たちの弱さに付け込み、人々の中にある最悪なものを引き出そうとする、デジタルの世界」(200)を受け入れることはできません。

*合意の根幹 

 206. この問題の答えは相対主義(注:哲学用語。人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、 真理の絶対的な妥当性を認めない立場)ではありません。相対主義は、寛大さを装って、最終的に倫理的価値の解釈を力のある者たちに委ね、彼らは自分に都合がいいように定義します。「私たち自身の欲求と目先の必要を満たすことだけで、客観的事実、あるいは健全な原則を欠く場合は… 政治的努力あるいは法律の力は十分だろう、と考えてはなりません… 文化そのものが堕落して、客観的な真実と普遍妥当(注:どんなものにも、どんなときにも適切に当てはまること)の原則がもはや是認されないとき、法律は、一方的な強制、あるいは避けるべき障害と見なされるだけです」(201)。

207. 真実を気遣い、命の最も深い意味に応える真実を得ようと努力することが、できるでしょうか。長年に渡って培われた熟考と非常にすばらしい知恵から生まれた確信、つまり、一人ひとりが神聖で、犯すべからざる存在である、という確信がなければ、法律とは何でしょうか。もし、社会に未来があるのであれば、社会は、人間の持つ尊厳という真理に敬意を払い、従わなければなりません。

 殺人が間違っているのは、それが社会的に容認できず、法律によって罰を受ける、という理由だけではなく、それよりも、もっと深い確信のためです。その確信は、理性によって得られ、良心に受け入れられた、交渉の余地のない真理なのです。真実の追究を応援し、真理の最も基本的なことを厳守するために、社会は高潔で良識的であらねばなりません。

208. 公的、あるいは、私的な会話の中で、真実を操作し、歪め、隠蔽するというさまざまな手法を用いる時につける仮面をいかにして剥がすかについて、私たちは学ぶ必要があります。いわゆる「真実」は、私たちが新聞で読む事実や出来事の単なる報告ではなく、私たちの決断や法律を維持している確固とした根拠を、まず、追求することなのです。そうするには、当面の心配事を超えて、過去のみならず現在も変わることのない、特定の真実を把握することのできる心を人間は持っている、という認識が必要です。真実が人間の本性に目を凝らす時、理性は、そこに普遍的な価値を見いだすのです。

209. さもなければ、私たちが「疑う余地もない」と考えている基本的人権が、権力を持つ者たちが「無関心な、あるいは、怖気づいた人々」からいったん「合意」を得てしまうと、彼らによって否定されてしまう、ということは考えられないでしょうか?同様に、異なる国々の間にある単なる合意は、操作されやすく、国々を守るのに十分ではないのではありませんか。

 私たちは、素晴らしいことができる、という十分な裏付けを持っていますが、私たちの中にある破壊的な性向も認めなければなりません。私たちの陥っている無関心と薄情な個人主義も、目先の必要を超えた価値、より大切な価値を、追求することを怠った結果でないでしょうか。

 相対主義は常に危険をもたらします。何らかの主張された事実が、権力をもつ者や如才ない人々によって押しつけられる、という危険です。しかし、「内在する悪を禁じる道徳規範ということになると、誰にも特別扱いや例外はありません。この地球上で、世界の征服者か、「貧しい人々の中で最も貧しい人」かも、関係ありません。道徳律を求められる前に、私たちはみな完全に平等なのです」(202)。

210. 現在起きている”歪んだ不毛の思考法”に私たちを引き寄せるのは、倫理学と政治学が、物理学のレベルになったからです。善悪は、倫理学にも、政治学にも、もはや存在していません。”利益と負担の微積分学”があるだけです。道徳理論が置き換えられた結果、法律は、もはや正義についての基本的な観念を反映するものとしてではなく、現在流行している観念を鏡に映すものとして見られます。その結果、崩壊が起き、浅薄な交換による合意で、すべてが”水準を落とし、最終的に、最も力のある人々の法律が支配してしまうのです。

*合意と真理

 211. 多元的な社会では、一時的な合意は別として、対話は、何が常に肯定され、尊重されるべきかを理解するための、最良の方法です。そのような対話は、明確な思考、合理的な議論、多種多様な視点、様々な分野の知識と観点によって豊かにされ、啓発される必要があります。そして、それは、常に支持され、特定の基本的な真理に到達できるか、という確信を排除してはなりません。
特定の永続する価値を認めることは、その価値を識別することがどれほど必要とされるにしても、健全で堅固な社会倫理に役立ちます。これらの基本的な価値が、ひとたび対話と合意によって認められ、採り入れられると、それらの価値が合意を超えることが分かりますー私たちの具体的な状況を超越し、妥協はなくなります。価値の意味と領域についての理解が増すことができ、この点で、合意は動的な現実になりますが、それ自身の中で、その本来の意味のおかげで永続すると思われます。

212. もし、何かが社会がうまく働くのに常に役立つとすれば、その先に、識者たちに理解しやすい永続的な真理があるから、ではないのでしょうか。人間とその社会に本質的に備わっている、私たちの進歩と生存を支えるための特定の基本的構造が、存在するのです。このように特定の必要な事項が後に続き、そして、それらは対話を通して見つけられるにもかかわらず、厳密に言えば、合意によっては作り出されません。特定のルールが社会にまさに活気を与えるのに不可欠だ、という事実は、それ自体として「善である」ということの表われ、なのです。ですから、社会の利益、合意、客観的真理という現実に反対する必要はありません。対話を通して、物事の核心に達するのを恐れないとき、いつもこれらの三つの現実が調和できるのです

213.  他者の尊厳は、いかなる状況においても、大切にされねばなりません。なぜなら、尊厳は、私たちが創り出したり、想像したりするものではなく、人間が固有の価値-有形物や不確定な状況の価値に勝るもの-を持っているからです。このことは、人々がそれぞれ異なる仕方で扱われることを求めます。一人ひとりが奪われることのない尊厳を持っているということは、あらゆる文化的変容の影響を受けない人間性に一致する真理です。

 こうした理由から、人間はいつの時代も、同じ不可侵の尊厳を持っており、この信念を否定したり、背いたりするように特別な立場によって権威づけられている、と考えることは、誰にもできません。識者たちは、熟考、経験、対話を通して、物事の現実を詳しく調べることができ、その現実の中に、普遍的な倫理上の要求の根幹を認識するようになるのです。

 214.不可知論者(注:人間は神の存在を証明することも反証することもできないと主張する者)に対して、このような認識の基盤は、基本的で譲歩の余地がない倫理的な原則-さらなる破滅的状況を回避するのに役立ちうる原則-について、堅固で安定した普遍的な正当性を与えることを、十分に証明できるでしょう。

 信仰者として、私たちは、人間の本性は、倫理的な原則の源として、神によって創造され、最終的にこれらの原則に確固とした基盤を与えたのも神だ、と確信しています(203)。このことは、倫理的な頑固さをもたらすことでも、道徳律のうちのどれか一つを押しつけようとすることでもありません。なぜなら、基本的で普遍的に正当な根拠のある倫理的な原則は、異なった実用的なルールに具現化できるからです。このように、対話のための機会は常に存在するでしょう。

 

*新しい文化 

 215. 「人生は、多くの対立があるにもかかわらず、”出会いの芸術”です」(204)。私は、何度も違いや境界を越えた、文化の出会いとその成長を呼びかけてきました。これは、多くの側面からなる一つの多面体を創出するために働くことを意味し、それらの異なる側面が、多様性を持つ統一をもたらし、そこでは「それぞれの側面より全体が重要」(205)になります。

 多面体のイメージは、「違いが共存する社会」、「対立や疑念の渦中にあっても、互いを補い合い、豊かにし、啓発し合う社会」として示すことができます。私たちは誰でも他の人から何かを学ぶことができ、誰一人として、役に立たない人も、使い捨てにされてよい人も、いません。これは同じように、社会の周縁部にいる人たちをも包含する道を見つけることを意味します。それは、周辺部にいる人たちは、物事を別の角度から見ており、自己に有利な決定をする権力の中心にいる人たちには見えない、現実の様々な側面を見ているからです。

*文化となる出会い 

 216. 「文化」という言葉は、民族の中で最も大切に培われてきた信念と生活様式が深く埋め込まれたものを指します。民族の文化は、抽象的な概念ではなく、彼らの欲求、関心、究極的には人生の生き方と関連があります。「出会いの文化」について語ることは、私たちが民族として、他者と会うことに情熱を燃やすこと-接点を探し求め、橋を架け、すべの人を含む計画を立てること-を意味します。それが、強い願望と生活様式になるのです。このような文化の主体はその民族。専門家やメディアの力を借りて他の人々を鎮めるような社会の単なる一部ではありません。

 217. 社会的平和は、大変な努力、熟練を必要とします。器用さと少ない資源で自由と相違を維持するのはそれよりも易しいかもしれません。しかし、そのようにして得られた平和は、浅薄で脆弱で、永続する安定をもたらす”出会いの文化”の成果を生まないでしょう。違いをまとめることは、はるかに難しく、時間のかかるプロセスとなりますが、本物の永続する平和を保証します。そのような平和は、純粋で無傷の人々だけに頼ることでは獲得できません。なぜなら、「過失のために疑問をもたれる人々でさえ、見過ごすことのできないものを持っている」(206)からです。

  社会的な要求を無視したり、騒ぎを鎮めたりしても、平和は訪れません。平和は「書類上の合意や満足した少数者のための、つかの間の平和」(207)ではないからです。重要なことは、出会いのプロセス、違いを受け入れることのできる人々を作りあげるプロセスを作り上げることです。私たちの子どもたちに、「対話」という武器で持たせましょう!”出会いの文化”を善戦するよう教えましょう!

*他者を認めることの喜び 

218. これらのことすべては、他の人々にも、自分自身らしくする権利、違いをもつ権利があることを認識する能力を要求します。そのような認識が文化となり、社会契約の創出を可能とします。社会契約がなければ、他の人々を、社会にとって取るに足りない、無関係の、価値のないものとみなす、悪賢い方法を見つけてしまう可能性があります。目に見えるような形の暴力を退けても、もっと狡猾な類いの暴力が根を下ろす可能性があります。それは、自分とは違う人々、特に彼らの要求が自分の利益を損なわせるような人々、を嫌悪する者たちの暴力です。

 219. 社会の一部が、世界の人々が提供せねばならないものすべてを不当に利用し、あたかも貧しい人々は存在しないかのように振る舞うなら、結局は重大な結果を持たることになるでしょう。他の人々の存在と権利を無視することは、早晩、何らかの暴力の形をとって、噴き出してくるでしょう。自由、平等、友愛が一人ひとりに適用されないかぎり、高遠な理想のままであり続けてしまいます。

 出会いは、経済的、政治的、学術的な力をもつ者の間だけのものであるはずがありません。本物の社会的な出会いは、大多数の人々によって共有される文化に関わる対話が必要です。よくあるのは、良い考えが社会の貧しい人々に受け入れられないことですが、それは、そうした考えが、彼ら自身のものではなく共感できない文化的な体裁で提示されるからです。現実的で包括的な社会契約もまた、「文化契約」、異なる世界観、文化、生活様式の共存を尊重し、認める契約でなければなりません。

220.たとえば、先住民の人々は進歩に反対ではありませんが、進歩の概念が違っていて、先進国の現代的な進歩よりも人間的なことがよくあります。彼らの考える進歩は、自分たちだけで「ある種の世俗的な楽園」を作ろうとする力を持つ者たちを利するような文化ではありません。固有の大衆文化に対する不寛容と敬意の欠如は、冷たく批判的な彼らに対する見方に根差した暴力の一形態です。

 本物の、深みと持続力のある変化は、異なる文化、特に貧しい人々の文化から始まるのでなければ、可能ではありません。文化契約は、特定の場所のもつ独自性を一枚岩的に理解することを控えます。すべての人に前進と社会的な融合の機会を提供することによって、多様性への敬意を必ず引き起こします。

221. そのような契約はまた、共通善のためにいくつかのことを捨てねばならない場合もある、ということを認めるよう求めます。誰にも、すべての真実を所有することも、彼、あるいは彼女の欲求をすべて満たすこともできません。なぜなら、そのようなことができると主張することは、相手の権利を否定し、力をそぐことに繋がるからです。

寛容についての誤った考えは、人々に同じことをする権利があることを認める一方で、自分自身の信条に忠実であり続ける人々、男女の側の、対話の現実主義に道を譲らねばなりません。これが他の人々についての本当の認識、愛だけで可能になるものなのです。もしも、他の人々の動機と関心の中に、本物、あるいは少なくとも理解できるものを見出さねばならない、とすれば、私たちは他の人々の立場に立たねばなりません。

*思いやりを取り戻す

 222. 大量消費・個人主義は、ひどい不正につながっています。私たちは、他の人々を、自分の平穏な生活の単なる”障害物”と見なすようになり、さらには”頭痛の種”として扱い、次第にけんか腰になっていきます。恐慌、大災害、困窮の時には、こうした傾向がさらに強まり、古い諺にあるように「自分の身は自分で守れ」と思いたくなります。でも、そのような時でさえ、私たちは思いやりを養うことを選ぶことができるのです。そうする人は、闇のただ中で「輝く星」になります。

 223. 聖パウロは、思いやり(kindness)を「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と記述しています。彼はギリシャ語の chrestotesでこの意味を表現していますが、ギリシャ語のこの言葉は「優しい」「温かい」「同情」という人の態度を表わし、「無礼「粗野」ではありません。このような資質の人たちは、他の人々の生活の重荷-特に彼らが抱える問題、困窮、恐怖といった重荷-を分かち合うことで、彼らが耐え易くなるように手助けをします。他にも様々な形の対応-親切な行為、言葉や行為で相手を不快にさせない配慮、喜んで彼らの重荷を軽減する-があります。それには「慰め、力、安らぎ、勇気という言葉を話すこと」が含まれますが、「貶める、悲しませる、怒る、侮蔑を示す」(208)ような言葉はありません。

 224. 思いやりは、時として人間関係を汚染する残酷さから、他の人々について考えないようにする不安な気持ちから、他の人々も自分と同じように幸せになる権利があることを忘れる激しく動揺した振る舞いから、私たちを解放します。最近、私たちには、足を止めて他人に思いやりを示す、あるいは「すみません」「ごめんなさい」「ありがとう」と言う時間もエネルギーもないことが、よくあります。

 それでも時折、奇跡的にも、思いやりのある人が現われ、皆が無関心の中で、他の人のことに関心を示し、自分がしていた事をすべて脇に置いて、ほほえみをプレゼントし、励ましの言葉をかけ、耳を傾けます。もし私たちが、この人と同じ努力を日々するなら、健全な社会環境を作ることができ、誤解は克服され、争いの芽は摘まれることになるでしょう。思いやりは養われるべきものです。浅薄なブルジョアの美徳ではありません。思いやりは他の人々への尊重と尊敬を伴うものであるからこそ、ひとたび思いやりが社会の中で文化になると、それは生活様式、交流関係、意見を交わし、比べるやり方一変させるのです。思いやりは合意を求めやすくし、敵意と衝突が全ての関係を断とうとするところに、新たな道を開くのです。

 

 

第7章 新しい出会いの道のり PATHS OF RENEWED ENCOUNTER

 

225. 世界の多くの地域では、深い傷を癒すための、平和の道が必要とされています。また、癒しと新たな出会いの取り組みを始めるために、大胆かつ創造的に活動し、平和をもたらす男女が必要です。

*真実から新たに始める 

 226. 新たな出会いとは、紛争以前に戻ることではありません。私たちは皆、時とともに変わっていきます。痛みと争いが私たちを変えます。現実を覆い隠すような空虚な外交、偽り、”二枚舌”、隠された思惑、現実を隠す巧みな振る舞いは、もはや通用しません。凶暴な敵同士であった者たちは、苛酷で明白な真実から話さねばなりませんー自分たちの後悔や問題や計画で未来を曇らせないために、過去を受け入れることのできる、悔悟の記憶を思い起こす力の養い方を学ばねばなりません。  出来事の歴史的真実に基づくことによってのみ、彼らはお互いを理解し、万人の利益のために、新たな統合を目指し、広く、粘り強い努力をすることができるのです。

 すべての「和平交渉には、永続的な取り組みが必要です。それは、真実と正義を求め、犠牲者を偲び、復讐の念よりも強い共通の希望への道を、一歩一歩、切り開くための忍耐強い努力です」(209)。コンゴの司教団が、繰り返し起きる紛争に関して言っているように、「紙の上の和平合意は十分ではありません。私たちは、繰り返される危機の本当の原因を明らかにすることを求める声に十分配慮することで、さらに進まねばなりません。人々は、何が起こったかを知る権利がある」(210)のです。

227. 「実際、真実とは、正義と憐れみの不可分の仲間です。平和を築くためには、この3つを欠かすことができず、さらに、互いに他方が変えられることを防ぎます…。真実は復讐につながるのではなく、むしろ和解と赦しにつながるべきです。真実とは、痛みで引き裂かれた家族に、行方不明になった親族に、何が起こったのかを伝えることです。真実とは、残酷で凶暴な者たちに徴用された未成年者の身に何が起こったのかを、告白することです。真実とは、暴力や虐待の被害者である女性の痛みを認識することです…。人間に対して行われるすべての暴力行為は、人類の体の傷であり、すべての暴力による死は、人間としての私たちの尊厳を損ないます…。暴力は、もっと多くの暴力を生み、憎しみは、もっと多くの憎しみを、死は、もっと多くの死をもたらします。私たちは、この避けられないように見える循環を断ち切らねばなりません」(211)。

*平和の巧みなわざと構造 

 228.平和への道は、社会を当たり障りのない、画一的なものにすることではなく、すべての人を益する目標を追求するために、人々が力を合わせ、協力し合うことです。様々な実践的な提案と多様な経験は、共通の目標を達成し、共通善に役立てることができます。社会が経験している問題は明確に識別される必要があります。そうした問題を認識し、解決する異なった方法があることが十分に理解されるように。

   社会的な一致への道は常に、他人が、少なくとも部分的でも、正当な観点や貢献できる価値のあるものを持っている可能性を認めることを、必然的に伴います。たとえ彼らが間違っていたとしても、あるいは不適切な行動をとっていたとしても、です。私たちは、「他の人たちが言ったことや行ったことで、その人たちを制約してはならず、むしろ彼らが体現している約束を大切にすべき」(212)です。それは、常に新しい希望の火花をもたらす約束なのです。

 229.南アフリカの司教団は、真の和解が積極的に達成されるために必要なことについて、次のように言明しています。「新しい社会-他の人々を支配するよりも、奉仕することを基礎に置いた社会、可能な限り多くの富を得ようと奪い合うよりも、持っているものを他の人々と分かち合うことを基礎に置いた社会、人間として共に生きる価値が、家族、国家、民族、あるいは文化などよりも、極めて重要である社会-を形成することだ」(213)。

 韓国の司教団が指摘しているように、真の平和は「対話を通じて、和解と相互の発展の追求を通し、正義のために努力することによってのみ、達成される」(214)のです。

 230. 一人ひとりとしての独自性を失わずに、私たちの分裂を克服しようとするためには、すべての人に基本的な帰属意識があることが前提となります。確かに、「各人や社会集団が本当に居心地よく感じるときに、社会はその恩恵を受けます。家族の中では、親、祖父母、子供は皆、居心地よくいられるのです。誰も除外されません。誰かが問題を抱えている場合、たとえ深刻な問題であっても、たとえ本人が自ら招いたことであっても、他の家族の者が彼を助け、彼を支えます。彼の問題は家族の問題なのです 。

  家族の中では、全員が共通の目標に貢献し、全員が共通の益のために働き、各々の個性を否定せずに、励ましたり、支えたりします。喧嘩はするかもしれませんが、変わらないものがあります。それは家族の絆です。家族の論争は必ずその後に解決されます。家族の一人ひとりの喜びや悲しみを全員が感じ取ります。これこそ、家族であることの意味なのです。

 私たちが、政治の分野での競争相手や隣人のことを、自分の子供たちや配偶者、母親、父親のことと同じように見なすことができれば、なんと良いことでしょう。私たちは自分たちの社会を愛しているのでしょうか。それとも、それは何かまだ遠く離れた存在で、私たちの関与しない何か匿名のもので、私たちがそのために尽力することのないもの、なのでしょうか」(215)。

 231.平和への具体的な道筋をつけるためには、しばしば交渉が必要となります。けれども、永続的な平和につながる変化の取り組みは、何よりも人々によって作られています。一人ひとりが、各自の日々の生活の仕方によって効果的なパン種として機能できます。素晴らしい変化は、机に向かっていたり、オフィスにいたりしては、生み出されません。これは、「一つの偉大な創造的な事業の中で果たすべき基本的な役割―希望と平和と和解に満ちた歴史の新しいページを書く役割-が誰にもあること」(216)を意味します。それぞれの専門分野に応じて、異なる社会制度が貢献する平和の「構造」がありますが、私たち全員が関わる平和の「巧みなわざ」もあります。

 世界各地で行われてきた様々な和平交渉から、「私たちは、このような平和のもたらし方、復讐よりも理性を優先させる方法、政治と法律の微妙な調和は、一般の人々の関与を無視できないことを学んできました。平和は、善意の政治的、または経済的集団間の規範的な枠組みや制度的な取り決めによって、達成されることではありません…。 様々な共同体自身が集合記憶(注:集団や社会全体に共有されている記憶のこと)の進歩に影響を与えることができるように、しばしば見過ごされてきた分野の経験を私たちの和平プロセスに取り入れることは、常に有益なことです」(217)。

 232. 一国の社会的平和の構築に終わりはありません。むしろ、それは終わりのない努力であり、すべての人の献身を要求し、国民の団結を構築するために、たゆまぬ努力をするように、私たちに迫ります。 平和共存の達成に向ける途中にある障害、相違、様々な視点にもかかわらず、この取り組みは、『出会いの文化』 を促進するための闘いを粘り強く続けることを、私たちに呼び掛けます。そのためには、私たちは最高の尊厳を享受する人間、および共通善の尊重を、すべての政治的、社会的、経済的活動の中心に置く必要があります。 この決意が、復讐の誘惑と短期的な党派的利害の満足から、私たちを逃す助けとなることを願いましょう。」(218)。

   暴力的な大衆的政治行動は、どちらの側にとっても、解決策を見つける助けにはなりません。その主な理由は、コロンビアの司教団が正しく指摘しているように、「市民のデモの原因と目的は必ずしも明確ではない。特定の政治的な操作が存在し、場合によっては党派的利害のために利用されてきた」(219)からです。

*最も小さな者から始める 

 233.社会的な友好関係の構築とは、歴史上の問題を抱えていた時期に、異なる立場にあった集団間の和解が求められるだけでなく、社会の最も貧しく脆弱な部門との新たな出会いを求めることでもあります。なぜなら、平和とは、「単に戦争がない、ということではなく、見過ごされたり、無視されたりすることが多い、私たちの兄弟姉妹の尊厳を認識し、守り、そして具体的に回復させるための、たゆまぬ努力することであり、とりわけ、大きな責任を負っている者たちにとって、それによって、自分自身を自分たちの国の運命の主な主役と見なすことができる」(220)からです。

234.多くの場合、社会のより脆弱な人たちが、”不公正な一般化”の犠牲者です。貧しい人々や疎外された人々が、反社会的に見える態度で反応することがあったら、そうした反応は多くの場合、軽蔑や社会的排除の歴史から生まれたものであることを認識すべきです。中南米の司教団は、「今日の貧しい人々の価値観、正当な望み、そして彼ら自身の信仰の生き方を、深く理解できるのは、私たちを友人にしてくれる親密さだけだ。貧しい人たちのための選択肢は、私たちを貧しい人たちとの友情に導くはず」(221)ということに気付いています。

235.平穏な社会的共存のために活動している人たちは、不平等と、統合的な人間開発の欠如が平和を不可能にしていることを、決して忘れてはなりません。確かに、「均等な機会がなければ、異なる形態の攻撃と紛争が増殖する肥沃な地勢を見つけ、いつか爆発してしまうでしょう。地域であれ、国家であれ、世界であれ、社会が自らの一部を周縁部に残すことを厭わないとき、法の執行や監視システムに費やされる、いかなる政治的な取り組みや人的物的資源も、いつまでも平穏を保障することはできません」(222)。私たちが新たに始めなければならないとしたら、それは常に私たちの兄弟姉妹の中で「最も小さな者」からでなければなりません。

*赦しの価値と意味 

 236.和解について語らない方がいい、と考えている人たちがいます。なぜなら、彼らは紛争、暴力、崩壊は「社会の正常な機能の一部」と考えているからです。どのような人間の集団においても、常に様々な当事者の間では、多かれ少なかれ、微妙な権力闘争が存在するのです。他の人たちは、赦しを促進するのは、自分の立場と影響力を他人に譲歩することを意味すると考えています。そのため、彼らは異なる集団間の勢力の均衡を保ちつつ、現状を維持した方が良い、と考えています。さらに、和解とは、弱さの表れだ、と考える人もいます。その人たちは本当の意味での真剣な対話ができず、不正なことを無視することによって、問題を回避することを選択します。彼らは問題に対処することができず、見かけ上の”平和”を選んでしまいます。

 

*避けられない対立 

 237. 赦しと和解は、キリスト教の中心的なテーマであり、そして様々な形で、他の宗教の中心的なテーマでもあります。しかし、これらの深い信念の理解と提示が不十分だと、運命論や無関心、不正、さらには不寛容や暴力につながる危険性があります。

 238.イエスは決して暴力や不寛容を促されませんでした。イエスは、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ福音書20章25節~26節)と、他人に対する権力を得るための武力行使を公然と非難しました。

 代わりに、福音書は「七の七十倍」(マタイ福音書18章22節)赦すように、私たちに教えており、また、自分自身は赦されているのに他人を赦すことができなかった、無慈悲な召使いの例を示してくれています(マタイ福音書18章23節~35節参照)。

239.新約聖書の他の箇所を読むと、腐敗と逸脱が蔓延した異教の世界に住む初期のキリスト教共同体が、いかに揺るぎない忍耐、寛容、理解を示そうとしたか、が分かります。いくつかの箇所には、この点について非常に明確なものがあります。

 私たちは、反対する者を「柔和な心で」教え導くように教えられており(使徒パウロのテモテへの手紙2・2章25節)、「誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。私たち自身もかつては無分別」(使徒パウロのテトスへの手紙3章2節~3節)だったからだ、と促されています。使徒言行録には、一部の権威によって迫害されていたにもかかわらず、弟子たちは「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章47節、4章21節、33節、5章13節参照)と記されています。

 240. しかし、赦しと平和と社会的調和について深く考えるとき、私たちはまた、キリストの耳障りな御言葉にも出会います―「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。/人をその父に/娘を母に/嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる」(マタイ福音書10章34節~36節)。

 これらの御言葉は、それが出てきた章の文脈の中で理解される必要があります。そこで、イエスがご自分に従う私たちの決断への忠実さ、を語っておられるのは明らかです。たとえその決断が様々な苦難を伴うものであっても、そして私たちの愛する人でさえ、それを受け入れるのを拒否しても、私たちはその決断を恥じるべきではありません。

   キリストの御言葉は、私たちに争いを求めるように勧めるのではなく、家族や社会の想定された平和のための他人への恭順が私たち自身の忠実さを損なうことのないように、避けられないときには耐え忍ぶことを促しているのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、教会は「あらゆる可能性のある社会的紛争を非難するつもりはありません。教会は、歴史の経過の中で、異なる社会集団間の利害の衝突が必然的に生じることを十分に認識しており、そのような紛争に直面する、キリスト者はしばしば、正直に、そして断固として、立場を取らなければならない」(223)と述べています。

 

*正当な対立と赦し 

 241.また、これは、私たち自身の権利を放棄したり、腐敗した役人や犯罪者、あるいは私たちの尊厳を傷つけたりするような人たちに立ち向かうことになっても、赦しを呼びかける、という意味でもありません。私たちは例外なく、すべての人を愛するように召されています。同時に、抑圧者を愛することは、その人が私たちを抑圧し続けることを許したり、彼がすることが許容されると思わせたりすることを、意味しません。そうではなく、抑圧者に対する真の愛とは、「抑圧をやめさせる方法を模索すること」であり、「彼が行使の仕方の分からない、自分と他人の人間性を損なう権力を剥ぎ取ること」を意味します。

    赦しとは、抑圧者が自分の尊厳と他人の尊厳を踏みにじり続けることを許したり、犯罪者が悪行を続けることを許したりすることではありません。不正に苦しむ人々は、神様からの愛情深い賜物として授かった尊厳を守らなければならないからこそ、自分と家族の権利を積極的に守らなければなりません。犯罪者が私や愛する人に危害を加えた場合、私が正義を求め、この人あるいは他の誰かが、再び私や他の人に危害を加えないように保障することを誰も禁じることはできません。これは完全に公正なことです。赦しはそれを禁じるのではなく、実際にはそれを要求します。

242. 大切なのは、私たち自身の魂や民族の魂にとって不健康な怒りを煽ったり、復讐や相手を滅ぼすようなことに執着したりしないことです。そのようなやり方では、誰も内なる平安を達成したり、普通の生活に戻ったりすることはできません。真実は、「人々を団結させ、一緒にし、違いを解決する力が、復讐と憎しみから生まれるものであるなら、いかなる家族にも、隣人の集団にも、いかなる民族にも、ましてや国にも、未来はない」ということです。 「私たちは、復讐のために和解し、団結することはできません。他人が私たちに遭わせたのと同じ暴力で、他人に遭わせたり、一見合法的な庇護の下で、報復の機会を計画したりすることもできません」(224)。そのようにして得られるものは何もなく、結局、すべてが失われてしまうのです。

243.確かに「紛争が残した不正、敵意、不信という苦い後遺症を克服するのは簡単なことではありません。それは、善をもって悪を克服し(使徒パウロのローマの信徒への手紙12章21節)、和解、団結、平和を育む美徳を培うことによってのみ可能」(225)なのです。そのようにして「善良な心を養う人は、困難や誤解の中にあっても、善良さが平和な良心と深い喜びに繋がることに気付くのです。たとえ怒っていても、善は決して弱くはなく、むしろ復讐を拒むことで強さを示します」(226)。

 私たち一人一人が気付くべきです。「私たちが自分の兄弟や姉妹に対して抱く手厳しい見方、癒されなかった傷、決して許されなかった罪、自分を傷つけるだけの憎しみさえも、全ては自分の心の中に抱える苦悶、大きく激しい炎になる前に消される必要のある”心の奥深くに燃える小さな炎””だ」(227)ということを。

*先に進むための最良の方法 

244. 対立が解消されず、隠されたり、過去に終わったこととされたりする場合、黙っていることは、重大な犯罪の共犯者になってしまう可能性があります。 本物の和解は、対立から逃げず、対話と、率直、誠実で忍耐強い交渉をすることで、達成されます。 異なる集団の間の対立は「憎しみや互いの嫌悪を自制すれば、正義への欲求に基づく、互いの相違についての率直な議論に徐々に変化」(228)します。

245. 私は何度もこのように話してきました。「社会における友情の構築に不可欠な原則、すなわち、一致は、対立よりも優れている… それは、一種の混合主義(syncretism=異なる信仰や一見相矛盾する信仰を、結合・混合すること、さまざまな学派・流派の実践・慣習を混合すること)や、一方の他方への吸収を選ぶのではなく、もうひとつ高いレベルで、双方が妥当で有益なものを保てるような解決を選ぶことだ」(229)と。

 私たち皆が知っているのは、「私たちが、個人や共同体として、自分や特定の利益よりも先を見ることを学ぶとき、対立、緊張、そして集団でさえ反目していると考えられていたものが、新しい命のもととなる多面的な一致を成し遂げることが可能な状況の中で、理解と相互の関わり合いが実を結ぶ…」(230)ということです。

*記憶について

 246. 多くの不当で残酷な苦しみに耐えてきた人々について、一種の「社会的な赦し」が求められてはなりません。 和解は個人的な行為であり、誰もそれを社会全体に押し付けることはできません。ただ、それを促進する必要性は非常に大きい。 それが社会とその司法制度によって全く合法的にそうすることが求められたとしても、厳密に個人的なやり方で、自由で寛大な判断によって、誰かが罰することを求めることを選ばない(マタイ福音書5章44-46節)ことはできます。

しかし、命令によって傷口を縛ったり、“忘却のマント”で不正行為を覆い隠したりすることで”包括的な和解”を宣言することはできません。誰が他の人の名において、赦す権利を主張できますか?受けた危害を忘れておくことのできる人によって示される赦しは感動的ですが、それはまた、赦すことのできない人にとっては人間的に理解しがたいことです。どのような場合にも、忘れることは決して、答えになりません。

247. 「ショア」(注:フランスのクロード・ランズマン監督が1985年に完成した長編映画。ユダヤ人絶滅政策ーホロコーストーに関わった人々へのインタビュー集だが、演出もところどころにされており、全くのドキュメンタリーではない)を忘れてはなりません。 それは、「誤ったイデオロギーに駆り立てられ、民族の起源や宗教的な信念に関係なく無条件に尊敬に値する一人ひとりの基本的な尊厳が見えなくなった時に、人の悪が沈む深さの永続的なシンボル」(231)です。

このことについて考える時、私はこのような祈りを繰り返さずにはいられません。「主よ、あなたの憐れみの中で私たちを思い起こしてください。 私たちに、自分たち人間がしたことを恥じ、この巨大な偶像崇拝を、あなたが土から創られ、その息で命を与えられた私たち自身の肉を軽んじ、打ち砕いたことを恥じる恵みを、お与えください。 そのようなことは二度と、主よ、二度といたしません!」(232)。

248. 広島と長崎に投下された原子爆弾も、忘れてはなりません。 もう一度、言います。「私はすべての犠牲者の方々に敬意を表します。そして、最初の瞬間を生き延び、その後何年もの間、肉体的な酷い苦しみと、活力を枯渇させた死の精神的な源に耐えた人々の力強さと尊厳に頭を下げます。 現在そして将来の世代が、過去に起きたこのようなことの記憶を失うことは、許されません。

それは、より公正で友愛に満ちた未来の構築を確実にし、奨励する記憶なのです」(233)。 また、さまざまな国で続いている迫害、奴隷取引、民族の抹殺、そして私たち人類を恥じさせる他の多くの歴史的出来事を、忘れてはなりません。 それらは常に、そして新たに記憶する必要があります。 私たちは決して、そうしたことに習慣化したり、慣れたりしてはなりません。

249.今では、ページをめくり、「これらすべてのことは、ずっと昔に起きたことだ。未来に目を向けるべきだ」と考えたくなるのは簡単です。でも、どうか、そのように考えないように!過去を振り返らずに、前に進むことはできません。正直で曇りのない記憶を欠いては、進歩しません。私たちは「集合意識(注:社会の成員に共通している信念や感情の総体)の炎を燃やし続け、起こったことの恐怖を次の世代に証言していく必要があります。なぜなら、証言は、「犠牲となった人々の記憶を蘇らせ、保存し、それによって、支配と破壊のあらゆる欲求に対して、人間の良心が立ち上がるようにする」(234)からです。

 犠牲者自身、個人、社会集団または国家が、そうする必要があります。大きな罪悪への忍耐という理由を付けて、報復とあらゆる種類の暴力を正当化する思考に負けないように。そのために、私が考えるのは、残虐行為だけでなく、そのように大きな非人道性と腐敗の中で尊厳を保ち、連帯、赦し、そして友愛を選んだすべての人々を、記憶することの必要性です。善いことを記憶することも、健全なことです。

*赦すことは「忘れること」ではない 

 250. 赦すことは「忘れること」を意味しませんー否定したり、相対化したり、隠蔽したりを決してできない現実に直面するとき、赦しがなお可能になるということです。決して容認できない、正当化できない、あるいは言い訳のできない行為に直面した時、私たちはそれでも赦すことができるのです。何らかの理由で忘れることのできないものに直面したとき、私たちはそれでも赦すことができるのです。強制されたのではない、心からの赦しは、気高く、赦すという神の無限の力の反映なのです。もし赦しが無償であれば、悔い改めに抵抗のある、赦しを乞えない人にさえ、示すことができるのです。

251. 本当に赦す人は、「忘れた」のではありません。忘れる代わりに、自分をひどく苦しめた破壊的な力と同じ力に従わない道を選んだのです。本当に赦す人は悪循環を断ち切り、破壊力が進むのを止めます。大打撃をもたらすような復讐心を、社会に広めない道を選びます。復讐が犠牲になった人を満足させることは、決してありません。犯罪があまりにもおぞましく、残酷であるため、犯人を罰しても受けた損害を償うのに十分ではないからです。犯人を殺したとしても、十分ではないし、どのように拷問をしても、犠牲になった人に与えられた苦痛に見合わないことは明らかです。復讐は何も解決しません。

 252. これは、処罰を免れることを意味しません。正義は、個人的な怒りのはけ口としてではなく、新たな罪を防ぎ、共通善を守る手段として、愛の正義と犠牲者への敬意から、適切な形で追求されるべきです。赦しはまさに、復讐の悪循環や忘却という不正に陥ることなく、正義を追求することを可能にするのです。

 253. 不正行為が双方に起きたとき、それが同程度に重大なのか、それとも何らかの方法で比べられるのかを、明確に考慮に入れることが重要です。国家が、組織や権力を使って犯した暴力は、特定の集団による暴力と同じ程度ではありません。いかなる出来事においても、一方の不当な被害だけを悼むべきだと主張することはできません。クロアチアの司教団は言明しています。「私たちは罪のない犠牲者一人ひとりに対して同等の敬意を払わなくてはならない。人種、国家、信仰、あるいは党派による差異は存在しえない」(235)と。

 254. 私は神に祈ります。「兄弟姉妹との出会いのために、私たちの心の準備をさせてくださいますように。そうすれば、私たちは政治的な考えや、言葉、文化、宗教から来る違いを克服できるやようになります。神の慈しみの香油で私たちの全身を聖別し、過ち、誤解、不和から生じた傷を癒やしてくださいますように。そして平和を求める厳しくも豊かな道へ、謙遜と優しさをもって、私たちを派遣してくださる恵みを、神にお願いしましょう」(236)。

*戦争と死刑 

 255.  特に劇的な環境での”解決策”として目にするかも知れない二つの極端な選択肢があります。そのような選択肢は、問題の解決にはならない誤った回答、そして国と国際社会の構造を破壊するような新たな要素をもたらす以外の何ものでもないものだ、という自覚を欠いたもの。つまり、それは「戦争」と「死刑」です。

 

*戦争の不正 

 256. 「悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜び」(箴言12章20節)があります。それでも、「戦争」に解決策を見出そうとする人々がいます。戦争は、さまざまな関係の崩壊、覇権主義的な野心、権力の乱用、他者への恐怖、多様性を障害物と見なす傾向、によって煽られることがよくあります(237)。戦争は過去からやってくる亡霊ではなく、常に存在する脅威なのです。私たちの世界は、「すでに活動を始め、良い実をつけ始めた平和への遅々とした歩み」の途上において、増大するさまざまな困難に遭遇しています。

257. 戦争の勃発を支持する状況が再び拡大していることから、私は何度も繰り返してこう言います。「戦争は、あらゆる権利の否定であり、環境への酷い攻撃です。もし私たちが真の人類の発展を望むなら、国家や人々の間の争いを避けるように、根気強く働かねばなりません。そのために、争う余地のない法の支配と、交渉、仲裁、調停に軸を置く姿勢を確実にする必要がありますー基本的な法的規範を定めた国連憲章が提示(238)しているように」。

 国連創設から75年と二千年期の最初の20年の経験は、国際的な規範の完全な適用がまさに有効であること、そしてその規範の適用に失敗することが害をもたらすことを教えました。
国連憲章は、透明性と誠実さをもって注意深く対象を観察し、適用されれば、守るべき正義の基準、平和への道筋になります。そこには、不当な意図を偽装したり、国や集団の党派的な利益を全地球的な共通善に優越させる余地はありません。諸規律が、都合の良い時に使われ、そうでなければ無視される、単なる手段として考えられるなら、制御できない力が解き放たれ、様々な社会、貧しく、傷つきやすい人々、友愛的な関係、環境、文化財に深刻な損害を与え、地球社会のとって取り返しのつかない損失をもたらします。

 258.戦争は、容易に選択されますーあらゆる種類のいわゆる人道主義的、防御的、あるいは予防的な言い訳に訴えることで、そして情報を操作することで、です。この数十年間、どの戦争も、表面的には「正当化」されてきました。「カトリック教会のカテキズム」は、軍事力を手段とした合法的な防御の可能性について語っています。そこには、特定の「倫理的正当性の厳格な条件」(239)がそろっていることを示すことも含まれています。 

 ただ、防御の権利を使うことについて、行き過ぎた拡大解釈に陥るのは容易です。そのようにして、ある人々は、”予防的”な攻撃や戦争行為-「取り除こうとする害よりも、もっと深刻な害や混乱」(240)を伴うのがほとんど避けられない行為-さえも、不当に正当化します。

 核兵器、生物化学兵器の開発や、新たな技術によって、もたらされる巨大で増大する(注:兵器としての)可能性が、戦争に、とても多くの罪のない一般人に対する制御不能の破壊力をもたらしているかどうかについて、議論が続いています。真理は「人類が自らに対してそのような力を持ったことは一度もなく、 しかも、そのような力が賢明に使われる保証は何もない」(241)ことにあります。

 私たちはもはや、戦争を解決策として考えることはできません。戦争がもたらす危険の可能性が、想定される利益よりも、恐らく、常にはるかに大きいからです。このような観点から、「正義の戦い」の可能性について語るために、これまで何世紀にもわたって入念に作られた合理的な基準を引き合いに出すことは、今日では極めて難しい。戦争は二度とあってはならない(242)のです!

 259. グローバル化の進展とともに、世界のある一つの地域の即時的、実際的な解決策と思われるものが、暴力の連鎖の始まり、結果として、地球全体に危害を与え、将来の新たな、もっとひどい戦争への道を開く潜在的な作用の始まりに、しばしばなるのだ、ということを、付け加える必要があります。

 今日の世界では、ある国と他の国で別々に戦争が起きることは、もはやありえません。私たちが体験しているのは「(注:一つのものが)断片的になされる世界大戦」です。国々の運命はグローバルな舞台で互いに極めて密接に関係づけられているからです。

 260. 聖ヨハネ23世教皇の「戦争は侵害された正義の修復に適切な道具である、と断言することは、もはや道理にかなっていない」(243)という言葉があります。彼は、大きな国際的緊張の最中に、この言葉によって、冷戦時代に高まった平和への強い願いを表わしたのです。平和を訴えることは、いかなる特定の利益のたくらみや武器使用への信頼よりも有効である、という確信を、彼は支持しました。

 しかし、冷戦終結によってもたらされた機会は、将来に対する洞察と、運命共同体という自覚の共有が足りなかったために、十分に活かされませんでした。その代わりに、普遍的な共通善を掲げずに、党派的な利益を追求する方が容易だ、ということになってしまった。こうして、戦争という恐ろしい怪物が、新たな地歩を固め始めたのです。

261. いかなる戦争も、私たちの世界を戦争前よりも悪化させています。戦争は、政治と人間性の敗北、恥ずべき解決の断念、悪の力の前での手痛い敗北です。”理論的議論”という泥沼にはまり続けるのではなく、傷ついた犠牲者の身体に触れましょう。「巻き添え」にされたすべての一般市民の死を、もう一度見ましょう。犠牲者自身に尋ねましょう。避難民や強制退去させられた人々、放射能や化学兵器の被害を受けた人々、子供を失った母親たち、身体的に不具になったり、”子供として過ごす時”を奪われた少年、少女のことを考えましょう。

 暴力の犠牲者たちの実際の話を聞き、彼らの目を通して現実を見つめ、心を開いて彼らの語る話に耳を傾けましょう。そうすることで、戦争の核心である”悪の地獄”を実感することができるのです。「平和を選ぶ軟弱な連中」とみなされても、私たちが悩むことはないでしょう。

262. もし私たちが、今起きている問題の解決として、核兵器、化学兵器、生物兵器の恐怖、あるいは脅威が「抑止力」になる、と考え続けるなら、ルールだけでは十分でありません。実際、平和と安全に対する最も重大な脅威―21世紀の多極な世界で多くの特性を持つ、たとえば、テロ、不均衡な戦い、ネットワーク上の安全保障(サイバーセキュリティ)、環境問題、貧困― を考えた場合、そのような課題への効果的な対応策としてきた”中途半端な核の抑止力”にかなり多くの疑問が生じます。

 どのような形であっても、核兵器の使用がもたらす、致命的な、人道上の、そして環境上の結果を考慮するとき、これらの懸念は、一層大きくなります。核兵器は、時間と場所を越えて、破壊的、無差別的、抑制不可能な影響を与えるからです。恐怖からくる安定が、実は恐怖を増大させ、人々の信頼関係を徐々に失わせるとき、どのようにして、この安定を持続できるか、私たち自身に問いかける必要があります。国際的な平和と安定は、安全に対する誤った意識、相互破壊や全滅の恐怖、単なる力のバランスの維持に基づくものであってはなりません。

 こうした文脈から、核兵器全廃という最終目的は、課題であり、倫理的、人道的責務となります。相互依存の増大とグローバル化は、「核兵器の脅威に対する対応は、すべて相互信頼に基づき、共同的、協調的であるべきだ」ということを意味します。このような相互信頼は、共通善に誠実に導かれる対話によってのみ、実現できます。ベールに覆われた、あるいは特定の利益を目指すような対話によって、ではありません」(244)。武器やその他の軍事費に使われるお金で、最終的に飢餓を終わらせ、最貧国の発展を奨励するグローバル基金(245)を創設しましょう。そうすれば、それらの国々の人々が、暴力や錯覚した解決策に訴えたり、より尊厳のある人生を求めて祖国を去る必要はなくなるでしょう。

 

*死刑について 

 263. もう一つ、他の人々を排除するやり方があります。それは、国ではなく個人に向けられたものー死刑です。聖ヨハネ・パウロ2世は、死刑は、倫理的観点から不適切であり、罰を科す正義という観点からももはや必要ではない、と明確かつ毅然として主張されています(246)。この立場から後退することはできません。今日、私たちは、はっきりと言います。「死刑は容認できない(247)し、カトリック教会は毅然として死刑廃止を世界中に求め、熱心に取り組む」(248)と。

 264. 新約聖書には、正義の名をもって自分の手で制裁してはならない(ローマの信徒への手紙12章17-19節参照)とする一方で、悪を行う者に権力が罰を科すことは必要(同13章4節、ペトロの手紙1・2章14節参照)との認識も示されています。実に、組織化された共同体を中心に組み立てられた市民生活は、共生のルール-故意の侵害に対して適切な償いを求めること-を必要とします」(249)。それは、合法的な公的権威は「犯罪の重大さに応じた罰を与える」(250)ことができ、そうせねばならないこと、そして司法権は「法律の領域で必要な独立性」(251)が保証されること、を意味します。

 265. 教会の最も初期の時代から、死刑に明確に反対していた人々がいました。例えばラクタンティウス(注:ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス(240頃 – 320頃)=キリスト教初期の神学者。最初のキリスト教徒ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1の助言者となり、その宗教政策が発展するように導いた)は、「一つでも例外があってはならない。一人の人を死刑にするのは常に違法である」(252)と断言しました。教皇ニコラウス1世(820頃? – 867。第105代ローマ教皇で在位は8584 – 867年11月)は、「無罪の人々だけでなく、いかなる有罪の人々も死刑から自由にする」(253)努力がなされるべきである、と強く主張しました。

    二人の司祭を殺害した犯人たちの裁判で、聖アウグスチヌスは、次のような理由を挙げて、彼らの命を奪わないように裁判官に求めました。「私たちは、あなたが、このような邪悪な者たちから、さらに罪を重ねる自由を奪うことに、反対しません。私たちの願いは、彼らの命を奪ったり、肉体の一部を損傷したりせずに、正義が全うされること、そしてまた、法による強制的な手段を用いて、彼らの理不尽な怒りを、健全な精神をもつ人の落ち着きに改め、悪事から何か役立つ職に就くようすること、なのです。有罪判決も考えられますが、そうせずに、野蛮な暴力が抑えられ、悔い改めさせるような矯正措置がとられる場合には、単なる制裁措置よりも有益だ、と考えられるべきです。彼らの罪である残虐な行為が、被害者の復讐心を煽ることなく、そうした行為が彼らの心に与えた傷を癒すことを切望させるように」(254)。.

266. 恐怖と憤りは、罰を、癒しや社会復帰へのプロセスの一環としてよりも、むしろ容易に、執念深く、残虐な手段として見るようになります。今日、いくつかの党派と特定のメディアは、犯罪に責任のある人々に対してだけでなく、立証されているかいないかにかかわらず、法律違反の疑いのある人々に対しての、公的、私的な暴力と報復を煽りたてています。時として意図的に、(注:特定の人や集団を)敵―社会にとっての脅威と感知され、解釈されるような特徴を示す人物―に仕立て上げる傾向もみられます。これらのイメージを形成するメカニズムは、人種差別主義者の考えを拡散させることを許したことと同じです(255)。このことは、世界のいくつかの国で、予防拘禁、裁判なしの投獄、そして死刑を慣行が強まることで、ますます危険性を増しています。

267. ここで私は強調したいと思いますー「今日、国家は、危害を与える者から人々の命を守るために死刑以外の手段をもたない、と考えることはできない」と。これに関して特に重大なのは、いわゆる”裁判外”あるいは超法規的な死刑の執行です。これは、「国家とその代理人に委任された故意になされる殺人行為。だが、『犯罪者とのぶつかり合いの結果だ』として見過ごされたり、『法律に則った理にかなった必要で適正な力の行使による意図しない結果だ』とされたりすることが、しばしばある」(256)のです。

 268. 「死刑に反対する議論は、数多く、よく知られています。カトリック教会は、これらの議論の幾つか-例えば、裁判官が判断を誤る可能性、あるいは、全体主義や独裁主義体制が、政治的な立場の違う人々を抑圧し、宗教的、文化的な少数派を迫害するための手段としての処罰-について注意を喚起してきました。迫害の犠牲者たちすべてが、そうした体制の国では法律で”犯罪者”と見なされるのです。今日、すべてのキリスト教徒と善意の人々は、合法、非合法を問わず、あらゆる形の死刑の廃止だけでなく、自由を奪われた人々の人間的尊厳の重んじることから、刑務所の環境改善へ、働きかけをするように求められています。私は死刑を終身刑と関連ずけたいと思います… 終身刑は、隠された形の死刑です」(257)。

 269. 覚えておきましょう。「殺人者であっても個人の尊厳は存在する。神ご自身がこれを保証すると約束されている」(258)ことを。死刑を断固として拒否することは、奪うことのできない一人ひとりの尊厳をどこまでも認めること、この世界で彼あるいは彼女の居場所がどこまでも存在すること、を受け入れることを示します。もし犯罪者の中で最も極悪な者の尊厳を否定しないなら、私は誰の尊厳も否定しないでしょう。互いの違いにもかかわらず、私は、この地球を分かち合う可能性を全ての人に与えたい。

270. この点について判断をためらい続けているキリスト教徒に、どんな形であれ暴力に屈する誘惑に駆られている人々に、イザヤ書の言葉を心に留めていただきたいと思います。「彼らはその剣を鋤きに打ち直す」(イザヤ書2章4節)。私たちにとって、この預言は、キリスト・イエスにおいて新たにされます。彼は、暴力を振るいそうになった弟子たちを目にして、きっぱりと言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる」(マタイ26章52節)と。これらの言葉は古くからの警告を繰り返しています。「私は人に、命の償いを求める。人の血を流す者は、人によってその血を流される」(創世記9章5-6節)。イエスの御心から湧き出た言葉は、何世紀にも及ぶ間隙を埋め、永続的な訴えとして現在まで届いているのです。

第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教

CHAPTER EIGHT RELIGIONS AT THE SERVICE OF FRATERNITY IN OUR WORLD

271. さまざまに異なった宗教は、神の子と呼ばれる被造物としての1人ひとりの人間への敬意を基礎に置き、社会における友愛を作り上げ、正義を守ることに、重要な貢献をしています。 異なった宗教を信仰する人々の間の対話は、単に外交関係のため、思いやりあるいは寛容さを示すために行われるのではありません。 インドの司教団の言葉を借りれば、「対話が目指すものは、友情、平和、調和を確立し、真理と愛の精神において、霊的、道徳的な価値と経験を共有すること」(259)なのです。

*究極の基礎

 272. 信者として、父に対しすべてにわたって心を開いていなければ、友愛を呼びかける揺るぎない、しっかりとした理由はない、と私たちは確信しています。 「私たちは孤児ではなく、子供なのだ、ということに気付くことだけで、互いに心穏やかに暮らせる」(260)と確信しています。それは、「理性それ自体は、人の間の平等をしっかりと理解し、彼ら市民の共存を安定させられるが、友愛を確立することはできない」(261)からです。

 273. この点に関して、私は記憶に残る次の言葉を引用したいと思います。「もしも、超越的な真理-それに従って人が、自己の完全な主体性を達成する真理-が無いのなら、人々の間の公正な関係を保証する確かな原則もない。階級、集団、国家としての利己心は、必然的に、彼らを対立させるだろう。人が超越的な真理を認めなければ、権力は引き継がれ、他の人々の権利などおかまいなく、自分の利益や自分の意見を押し通すために、それぞれが持てる手段を意のままに最大限に使う傾向に陥る …。現代の全体主義の根源は、「目に見えない神の目に見える姿として、まさにその本質から、何ものも、いかなる個人も、集団も、階級も、国民も、国家も侵害してはならない権利の対象」である人間の超越的な尊厳の否定に見つけることができる。社会的集団の大多数でさえも、少数派に反対することで、これらの権利を侵害することはできないだろう」(262=2011年. ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題 ― 教会と社会の百年を ふりかえって ― 』)

274. 私たちの信仰の経験と何世紀にもわたって蓄積された知恵からだけでなく、多くの弱点と失敗から学んだ教訓から、さまざまな宗教の信者である私たちは、神の証人が私たちの社会のためになることを知っています。誠実な心で神を求める努力は、それがイデオロギー的または自己奉仕的な目的によって決して汚されないなら、私たちが旅の仲間、真の兄弟姉妹としてお互いを認識するのに役立ちます。

 私たちは次のことを確信しています。「イデオロギーの名の下に社会から神を追い出す試みがなされ、偶像を崇拝するようになり、瞬く間に男女が道に迷うとき、彼らの尊厳は踏みにじられ、彼らの権利は侵される。あなた方は、良心の自由と宗教の自由の否定によって、どれほどの苦しみが引き起こされるか、そしてどのようにして、その心の傷が、貧しくされた人を置き去りにするのかを、よく知っている。なぜなら、それを導く希望や理想を欠くからだ」(263)ということを。

 275. 「現代世界の危機の最も重要な原因の中には、鈍感にされた人間の良心、宗教的価値観からの隔たり、そして『人間を神格化し、最高の超越的な規範の代わりに世俗的で物質的な価値観を引き入れる唯物論的な哲学』を伴う個人主義の蔓延がある 」(264)。 公開討論で聞かれる唯一の声が強力で「専門家」の声である場合、それは間違っています。

 何世紀にもわたる経験と知恵の宝庫である宗教的伝統から生まれた反省のための場所を作る必要があります。なぜなら、 「宗教的な古典は、あらゆる時代に、意味があることを証明できる(新たな領域を開き、思考を刺激し、心を広くする)永続的な力がある」からです。 しかし、宗教的古典はしばしば、「近視眼的な合理主義」(265)の結果として、軽蔑の目で見られがちです。

276. このような理由から、教会は、政治生活の自主性を尊重し、その使命を私的な領域に限ることをしません。むしろ、政治生活は、より良い世界を作るにあたっての「わき役に留まることはできないし、そうしてはならない」、あるいは、社会の向上に貢献できるような「精神的な活力を蘇らせる」(266)ことに失敗してはならないのです。

 確かなことは、聖職者たちは、一般信徒の領域である政党政治に関わってはならないが、共通善への絶え間ない関心と欠かすことのできない人作りを含む、生活の政治的な側面を放棄することもできない(267)ということです。

 教会は、「慈善的、教育的な活動に加えて、公的な役割を担っています」。「人類の進歩と普遍的な友愛の発展」(268)のために働いています。世俗的な力と競争することを要求せず、「今日の世界で証人となることを受け入れ、主と主が恵みとしての慈しみをもって愛される人々への信仰の希望と愛を受け入れる、家族の中の家族」(269)として献身します。そして、マリア、イエスの御母に倣って、「人生を共にし、希望を持ち続け、一致のしるしとなるために… 橋を架け、壁を壊し、和解の種を蒔くために、私たちは、奉仕する教会、家から離れ、祈りの場から出て、聖具室から出ていく」(270)のです。

*キリスト教徒の自己認識 

 277. 教会は、他の宗教において神が働かれる仕方に敬意を払います。そして、「こうした宗教における真実で聖なるいかなるものも、拒みません。その生き方と振る舞い、戒めと教義を高く評価し、それはしばしば、すべての男性と女性を教え導く真理の一筋の光を映しています」(271)。

 それでも、私たちキリスト教徒はとてもよく知っています。「福音の調べが私たちの存在の中で共鳴しなくなると、思いやりから生まれる喜び、信頼から生まれる優しい愛、私たちが許され、送り出されるという認識に源を発する和解の能力を失うことになる。私たちの家庭、私たちの公共の空間、私たちの職場、私たちの政治的、経済的生活で、福音の調べが響くのを止めれば、私たちはもう、すべての男女の尊厳を守るように私たちを鼓舞する旋律を聞くことはない」(272)ということを。

 他の人は他の水源から飲みます。私たちにとって、人間の尊厳と友愛の源泉はイエス・キリストの福音にあります。その源泉から「キリスト教徒の思考と教会の行動に、関係、他の神聖な神秘との出会い、すべての召命としての人間家族全体との普遍的な交わりに対して与えられた優先順位」(273)が生まれます。

278. あらゆる場所に根付くように呼ばれている教会は、世界中で何世紀にもわたって存在してきました。それが「カトリック」であることの意味です。このように、教会は自分自身の恵みと罪の経験から、普遍的な愛への招きの素晴らしさを理解できます。確かに、「人間のすべてのものが私たちの関心事です… 諸国の協議機関が集まって人間の権利と義務を確立するどこにおいても、私たちが仲間入りを許されるのを光栄に思います」(274)。 

 多くのキリスト教徒にとって、この友愛の旅には、マリアという名の母も共にいます。十字架の下ですべての人の母親の役割を受け入れ(ヨハネ福音書19章26節)、イエスだけでなく「他の子供たち」も気にかけています(黙示録12章17節参照)。復活された主の力によって、マリアは新たな世界を生み出すことを望みます。そこでは、私たち皆が兄弟姉妹であり、私たちの社会が放棄する人々すべてのための場があり、正義と平和が輝きます。

279. 私たちキリスト教徒は、キリスト教徒でない人々が少数派である所で自由を増進するとともに、私たち自身が少数派である国において自由が保障されるように求めます。友愛と平和を目指す旅で、一つの基本的な人権を忘れてはなりません。それはあらゆる宗教を信じる人々の信教の自由です。

 信教の自由は次のことを明言します。「私たちは異なる文化や宗教の間に、調和と理解を築くことができる。また、私たちが非常に多くの重要なものを共有していることから、穏やかで秩序のある平和的共存の方法を見つけることが可能であり、互いの違いを受け入れ、唯一の神の子供たちとして、私たち皆が兄弟姉妹であることを心から喜ぶ」(275)ことを。

280. 同時に、私たちは、神に対して、教会の中の一致を強めてくださるように願います。それは、聖霊の働きで和解した相違によって豊かにされる一致です。「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けた」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ので、それぞれの人がそれぞれ特色のある貢献をします。聖アウグスティヌスが語っているように「耳は目を通して見、目は耳を通して聞く」(276)のです。

 キリスト教諸宗派との間で、出会いの旅の証しを続けることも喫緊の課題です。「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節参照)というキリストの願いを忘れることはできません。キリストのこの呼びかけを聴く時、私たちは、グローバリゼーションが進む中で、キリスト教諸宗派の一致への預言的、霊的貢献が、なおも欠けていることを、悲しみをもって認めます。そのような現実にもかかわらず、「私たちには、完全な交わりに向けて旅をするとともに、人類への奉仕に共に働くことによってすべての人への神を愛について、共通の証しをする務めがある」(277)のです。

*宗教と暴力 

 281. 平和の旅は諸宗教間で可能です。 その出発点は、ものを見る神のなさり方でなければなりません。 「神はご自分の目でご覧になりません。ご自分の心でご覧になるのです。 そして、神の愛は、宗教に関係なく、すべての人にとって同じです。人が無神論者であっても、神の愛は同じです。 最後の日を迎え、まだ物事の本当の姿を見る十分な光があるとき、私たちは自分自身に非常に驚くことになるでしょう」(278)。

 282. したがって、「私たち信仰を持つ者は、互いに話し合い、共通善と貧しい人々の出世のために、共に働く機会を見つける必要がある。このことは、自分とは異なる考え方をしている人と出会ったとき、自分の最も深い信念を弱めたり隠したりすることとは何の関係もない… 私たちは、信徒としての主体性が深く、強く、豊かになればなるほど、自分自身の適切な貢献で他の人を豊かにすることができる」(279)のです。

  私たち信仰を持つ者は、自分自身の根源に回帰するように強く求められています。それは、欠かすことのできないこと。すなわち、神の崇敬と隣人への愛、私たちの教えのいくつかが文脈を離れ、他の人に対する軽蔑、嫌悪、恐怖症、否定の姿勢を養ってしまうことにならないようにするもの、です。真理は「暴力は、私たちの基本的な宗教的信念ではなく、その歪曲にのみ根拠がある」ということにあります。

283. 神への誠実で謙虚な崇拝は「差別、憎しみ、暴力ではなく、生命の神聖さ、他の人の尊厳と自由の尊重、そしてすべての人の幸せへの愛のこもった献身によって」(280)、実を結びます。それは「愛さない者は神を知りません。神は愛」(ヨハネの手紙1・4章8節)だからです。

 それゆえ、「テロ行為は嘆かわしいものであり、東西南北いずれの人々の安全を脅かし、パニック、恐怖、悲観主義を広める。しかし、テロリストが宗教を手段に利用したとしても、これは宗教によるものではない。それよりも、宗教的な文書の誤った解釈の蓄積と、飢餓、貧困、不正、抑圧、誇りに関連する政策によるものだ。だからこそ、資金供給、武器や戦略の提供によって、メディアされも使って活動を正当化する試みによって、テロリストたちの活動を支援するのを、やめる必要がある。これらはすべて、世界の安全と平和を脅かす国際的犯罪と見なされねばならない。このようなテロ行為は、そのすべての形態と表現において非難されなければならない」(281)のです。

   人の命のもつ神聖な意味についての宗教的信念は、私たちに次のようなことをさせます。「私たちに共通する人間性の基本的な価値、その価値の名において、私たちは協力、建設、そして対話、赦し、成長ができるし、必ずする。それは、異なる様々な声を、憎しみの半狂乱の叫びではなく、崇高な気品と美しさを作り上げることで一つにする」(282)

284 時折、原理主義者の暴力は、首謀者の思慮の無さから、どのような宗教であれ、いつくかの集団で、引き起こされます。 しかし、「平和の戒めは、私たちが代表する宗教的伝統の奥深くに刻まれている… 宗教指導者として、私たちは、真の『対話の人々』であり、『仲介業者』ではなく『正当な調停者』として、平和構築に協力するよう求められている。 仲介業者は、自分たちの得になるものを得るために、すべての人に”値引き”をさせようとするが、調停者は、自分のために何も持たず、平和を得られることだけを願って、力が尽きるまで惜しみなく身を捧げる。私たち一人一人が、分けるのではなく、一致させることで、憎しみにしがみつくのでなく、憎しみを消すことで、壁を作るのではなく、対話の道を開くことで、『平和の職人』となるように求められている」(283)のです。

*一つのアピール 

 285. グランド・イマーム、アフメト・アル・タイエブ師との、今も喜びをもって思い出す、友愛に溢れた会談で、私たちは断固として宣言しました。

 「宗教は、戦争、憎しみにあふれた振る舞い、敵意、過激な考えを、決して煽ってはならず、暴力や流血に駆り立ててはならない。そのような悲劇的な諸現実は、宗教的な教えから逸脱した結果であり、宗教を政治的に操作することから、歴史の過程で男女の心にある宗教的感情の力を利用してきた宗教的集団によって作られた解釈から、生じるものだ… 全能の神は、誰によっても守られる必要はなく、人々を恐怖に陥れるために御名が使われることを望まない」(284=「世界平和と共存のための人類友愛に関する文書」)。

そのような訳で、私は、私たちが共に作成した平和、正義、友愛のアピールを、ここで繰り返させていただきたいと思います。

 「すべての人間を権利、義務、尊厳において平等に創造され、兄弟姉妹として共に生き、地球を満たし、善、愛、平和の価値を知らしめるよう求められた神の名において、

 「神が人を殺す者は誰でも人類全体を殺す者のようであり、人を救う者は人類全体を救う者のようであると断言し、殺すことを禁じられた罪のない人間の命の名において、

 「神がすべての人々、特に富んだ人々や資力のある人々に求められる義務として助けるように、私たちに命じられた、貧しい人々、困窮した人々、疎外された人々、そして助けを必要としている人々の名において、

 「孤児、未亡人、難民、そして自分の住まいや国から追放された人々の名において、戦争、迫害、不正のすべての犠牲者の名において、弱者、恐怖の中で生きる人々、戦争捕虜、そして世界のどこであろうと拷問された人々の名において、

 「安全、平和、そして共に住む可能性を失い、破壊、災害、戦争の犠牲者となった人々の名において、

 「すべての人を包含し、結びつけ、平等にする人類友愛の名において、

    「過激主義と分裂の政策によって、無軌道な利益本位の仕組みによって、あるいは男女の行動と未来を操作する憎悪のイデオロギー的傾向によって引き裂かれた友愛の名の下において、

 「神がすべての人間に、制約の無い、その贈り物で区別した、自由の名において、

 「繁栄の基盤と信仰の礎石である、正義と慈悲の名において、

 「世界のあらゆる場所にいる善意のすべての人の名において、

 「神とこれまでに述べたすべての名において、(私たちは)対話の文化を道を採り、行動規範としての相互協力と方法と基準としての相互理解を進めることを宣言する」(285)。

 

286. 普遍的な友愛についての、以上のような考察を進める中で、私は、特にアッシジの聖フランシスコから霊感を得たと感じましたが、カトリック教徒ではない兄弟姉妹たちーマーティン・ルーサー・キング、デズモンド・ツツ、マハトマ・ガンディーなどからも霊感を得たと感じました。 それでもなお、私は、深い信仰を持ったもう一人の人物-神についての強烈な経験をもとにして、すべての人を兄弟と感じる変容の旅をした方-に言及して締めくくりたいと思います。私は、福者、シャルル・ド・フーコー( 18589月15 – 191612月1日=フランスカトリック教会神父で、探検家地理学者)のことを申し上げているのです。

287. 福者シャルルは、神に完全に身を任せる究極の目標を、アフリカの砂漠の真ん中に打ち捨てられた貧しい人々との一体感に向けました。そのような場で、自分自身がすべての人間の兄弟だと感じたい、という強い願望(286)を表わし、友人に「私が本当にすべての人の兄弟であることを神に祈ってくれる」(287)ように頼みました。結局は、「万人の兄弟」(288)になりたかったのです。けれども、実際には、最も乏しい人々と深く結びつくことによってだけ、すべての人の兄弟になることができたのです。神が私たち一人一人に、そのような夢を呼び起こしてくださいますように。 アーメン。

*(「カトリック・あい」注:福者、シャルル・ド・フーコーは、1858年9月15日 に生まれ 1916年12月1日に亡くなったフランスカトリック教会神父で、探検家地理学者。モロッコを探検して19世紀末の地理学に新時代を開いたが、 現世的名声を捨てて回心し、新しい修道会の創設を模索。 隠修士としてアフリカ・サハラ砂漠の遊牧民と生活していたが、 第一次大戦中に隣人に裏切られ、盗賊団に殺害され、殉教した。2005 年に列福。参考図書=「シャルル・ド・フ-コ-」(ジャン・フランソワ・シックス著、倉田清訳 聖母の騎士社刊)

【創造主への祈り A Prayer to the Creator】

 

主、私たち人類の父よ

  あなたはすべての人間を 尊厳のうちに 等しく創造されました

 私たちの心に友愛の精神を注がれ

  新たにされた出会い、対話、正義と平和の夢を 私たちに吹き込まれました

 私たちを、もっと健全な社会、もっと気高い世界 

  飢餓、貧困、暴力そして戦争の無い世界を作るために 働かせてください

  私たちの心を 地球のすべての人々と国に 開くことができますように

 あなたが 私たちすべてに蒔かれた 善と美を見分け

  一致の絆を 共通の計画を 共有の夢を 築くことができますように

  アーメン。

 

【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り An Ecumenical Christian Prayer】

 

ああ神よ、愛の三位一体

  あなたの神聖な命との深い交わりから 兄弟愛の滝のような流れを 私たちの上に注いでください

 ナザレのイエスの家庭で そして初めのキリスト教共同体で イエスの振る舞いに映された愛を 

私たちにお与えてください

   願いをかなえてください 私たちキリスト教徒が 福音を生きることができますように

  1人ひとりの人の中に キリストを見出し 

この世の 打ち捨てられ そして忘れられた人たちの苦しみの中に

 十字架につけられたキリストがおられるのを

  そして 新たに歩み始める兄弟、姉妹それぞれの中に

 復活されるキリストがおられるのを 知ることができますように

   聖霊来てください

  地球上のすべての人たちの中に映された あなたの素晴らしさを見せてください

  そうして すべてのものが重要で すべてのものが必要であることを

  神がこれほどまでに愛しておられる人類の 様々に異なった顔を 改めて発見できますように  

                                   アーメン

私の教皇職の8年目、2020年10月3日の聖人の祝日の前日に、アッシジの聖フランシスコの墓前で

 

    フランシスコ

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年11月24日