教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」
ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP
(「カトリック・あい」試訳担当者=章ごとの担当順=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子)
1.「FRATELLI TUTTI」(1)-この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。
聖フランシスコは、簡潔で直接的な仕方で、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられました-それは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。
2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは自分自身を太陽、海、そして風の兄弟、と感じ、しかも、肉親よりも、もっと近いことを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。
境界を設けない WITHOUT BORDERS
3.聖フランシスコの人生には、「境界を意識せず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した、開かれた心」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。
フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。
4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。
当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系間の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。
5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。
今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられました。アブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、義務、尊厳において平等に創造し、彼らに兄弟姉妹として一緒に暮らすよう求められた」(5)のです。これは単なる外交儀礼ではなく、対話と共通の約束から生まれた省察でした。この回勅で、私たちが署名した文書で提起された、素晴らしいテーマのいくつかを取り上げ、発展させています。また、私自身の考えとともに、世界中の多くの個人やグループからいただいた多くの手紙、文書、意見を取り入れています。
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前文に続くページが、兄弟愛についての完全な教えを提供する、とは断言しません。というよりも、その普遍的な視野、すべての男性と女性への開放性を考慮しています。私はこの社会的回勅を、継続的な反省へのささやかな貢献として提供します。他者を排除あるいは無視しようとする試みに直面している今日、言葉のレベルに留まらない兄弟愛と社会的友愛の新しい展望をもって対処することが可能だと証明できるように願っています。私を励まし、支えてくれるキリスト教徒の信念からこの回勅を書きましたが、この省察を、「善意のすべての人々の間の対話へ招き」となるよう努めました。
7. 私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました。この危機に対して、さまざまな国がさまざまな対応をしましたが、国同士が協力できないことは非常に明白になりました。私たちのすべてのハイパー・コネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)において、私たち全員に影響を与える問題を解決することをより困難にする“断片化”を目の当たりにしました。『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」。
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私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです。すべての男性と女性の間の友愛。 「ここに、どのように夢を見、人生を素晴らしい冒険に変える方法を示す、素敵な秘密があります。誰も孤立した状態で人生に立ち向かうことはできません… 私たちは、自分を支え、助けてくれる共同体-前を見続けるために互いに助け合うことのできる共同体-を必要としています。共に夢を見ることが、どれほど重要か… 私たちには、蜃気楼-そこに実在しないものを見る危険があります。一方で、夢は共に構築されます」(6)。
それでは、共に夢を見ましょう-ひとつの人間家族として、同じ肉体を共有する仲間の旅人として、共通の家である同じ地球の子供たちとして、一人ひとりが、彼または彼女それぞれの信念と確信の豊かさをもたらすことを夢見てみましょう-私たちそれぞれが、彼あるいは彼女自身の声、兄弟姉妹の皆と共に。
第1章 閉じられた世界を覆う暗雲
CHAPTER ONE DARK CLOUDS OVER A CLOSED WORLD
9. ここでは徹底的な分析を実行したり、私たちの現在の経験のあらゆる側面を研究したりすることはせず、単に普遍的な友愛の発展を妨げている私たちの世界の特定の傾向を考えて行くつもりです。
*打ち砕かれた夢
10.これまで何十年もの間、世界は多くの戦争や災害から教訓を学び、さまざまな形の統合に向かってゆっくりと動いていたように見えました。たとえば、欧州の共通のルーツを認め、その豊かな多様性を讃えることのできる、統一された欧州の夢がありました。私たちは「分かれているところを橋渡しし、欧州大陸のすべての人々の間の平和と交流を促す能力に基づいて未来を構想した欧州連合の創設者の確固たる信念」(7)を思い浮かべています。
ラテンアメリカでの統合への欲求も高まり、この方向にいくつかの措置が講じられました。一部の国や地域では、和解の試みが実を結び、他の地域でも大きな期待が寄せられました。
11.しかし、私たち自身の日々をみると、特定の後退の兆候を示しているようです。長い間埋もれていたと考えられていた昔の紛争が新たに発生し、近視眼的で過激な、いきり立った攻撃的なナショナリズムがあちこちで台頭しています。一部の国では、さまざまなイデオロギーに影響されたポピュリズムと挙国一致の概念が、国益の保護を装って、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出しています。
このことは、「それぞれの新しい世代は、過去の世代が行った闘争と成果を引き受け、その目標をさらに高く設定することが求められている」ことを、改めて思い出させてくれます。これが、私たちがとるべき道です。善は、愛、正義、連帯とともに、一回限りで、それで終わり、というものではなく、毎日、実現していかねばなりません。兄弟姉妹の多くが、依然として、私たちに『注意を向けてくれ』と叫ばねばならないような状況に耐えている、という現実を、なぜか無視できるかのようにして、過去に達成されたことをもって良し、とし、自己満足的に謳歌することはできないのです」(8)。
12. 「世界に門戸を開く」は、現在は、経済・金融セクターによって採用され、外国の利益に対して独占的に使われる、あるいは、すべての国において障害や複雑さを伴わずに投資するための経済力の自由に使われる表現です。地域紛争と公益の無視は、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって悪用されています。このような文化は世界を統合しますが、人々と国々を分けてしまいます。「社会は、グローバル化するにつれて、私たちを”隣人”にしますが、私たちを”兄弟”にはしない」からです(9)。
個人の利益を伸長させ、生活の共同体的側面を弱める一段と大規模化する世界で、私たちは、従来以上に孤独です。確かに、個人が”単なる消費者”あるいは”傍観者”になる市場は存在します。一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることができる強い地域のアイデンティティを強化しますが、それより弱い地域、貧しい地域のアイデンティティを弱め、いっそう脆弱に、依存度を高める傾向があります。このようにして、政治活動は、「分割統治」の原則に基づいて運営され、国境を越える経済力を前にして、一層、脆弱になっています。
*歴史的思考の終焉
13. その結果、歴史的思考がますます失われ、さらに分裂につながっていきます。「人間の自由がゼロからすべてを創造する」と主張する一種の「脱構築主義」が、今日の文化の中で進展しています。それが結果として残すものの一つが「際限ない消費と空虚な個人主義の表現」への衝動です。そうした懸念が、私に、若い人たちへのいくつかのアドバイスをさせました。
「誰かが若い人々に、『自分たちの歴史を無視し、年長者の経験を拒絶し、過去を軽蔑し、そして自分自身が抱く未来を楽しみにするように』と言うなら、その方向に彼らを引き寄せ、その者の言うことだけをするようにするのが、容易になるのではないか?その者は、若者に浅薄で、根無しで、他に不信感を抱くことを求め、その者が約束することだけを信じ、その者の計画に従って行動するようにするのです。それが、さまざまなイデオロギーのなす業です。(注:人々の間に存在する)すべての違いを破壊(または脱構築)し、抵抗なく統治できるようにします。しかし、そうするためには、歴史を必要とせず、過去の世代から受け継いだ精神的、人間的な富を拒絶し、彼らの前に来るすべてのものに無知な若い人々、を必要とするのです」(10)。
14.こうしたことは、新しい形の「文化的な植民地化」です。 忘れないようにしましょう、それによって、自分たちの文化を捨て、そして、「伝統を放棄し、他人を模倣したり、暴力を助長したりすることから、あるいは、許されないような怠慢や無関心から、自分の魂を奪わせ、精神的なアイデンティティだけでなく、道徳的な一貫性、そして最終的には知的、経済的、政治的な独立性をも失う」ことを(11)。
歴史的な意識、批判的思考、正義のための闘争、統合のプロセスを弱める効果的な方法の一つは、それらの意味の素晴らしい言葉を空にするか、それらを操作することです。 今日、民主主義、自由、正義、団結のような言葉は、本当は何を意味するのでしょうか? それらは、支配のための道具として、あらゆる行動を正当化するために使える無意味な奉仕をするための下げ札として機能するように、曲げられ、形を作られています。
*皆のための計画が欠けている
15. 人々を支配し、支配するために最もいい方法は、特定の価値観を擁護することを装ってでも、絶望と落胆を人々の間に広めることです。今日、多くの国で、誇張、過激主義、二極化が、政治的な道具になっています。「嘲笑と疑惑、執拗な批判の戦略」を採用し、さまざまな方法で、人々が存在したり意見を述べたりする権利を否定します。人々の真実と価値観の共有は拒絶され、結果として、人々の生活は貧しくなり、権力者の傲慢に翻弄されます。
政治的活動はもはや、「人々の生活を改善し、公益を促進するための長期計画に関する健全な議論」と関係しなくなり、他の人々の信用を傷つけることを目的とした巧妙な商いの手法とだけ関係を持ちます。そうした告訴と反訴の卑劣なやり取りの中で、議論は不一致と対立の永続的な状態へと退化していきます。
16. 勝つことの目的が敵を排除することにある”利益相反の争い”の中で、私たちは、どのようにしたら、視力を向上し、隣人を認識したり、途中で倒れた人々を助けたりできるのでしょうか? 今の世の中では、私たち人間家族全員の発展へ素晴らしい目標を設定する計画を立てる、というのは、狂気のように聞こえます。私たちの互いの距離はどんどん遠くなってきています。人々が強く結びついた公正な世界に向けたゆっくりとした、苦労に満ちた行進は、新しくて劇的な挫折を味わっています。
17. 私たちが住んでいるこの世界を大切にすることは、自分自身を世話することに通じます。しかも、自分たちを”共通の家”に住む一つ家族として考えることが一層、必要になって来ています。「大切にする」ことは、目先の利益を要求する経済的な力に関心をもちません。多くの場合、環境を守るために上げられた声は、特別な利益のための単なる隠れ蓑である一見、合理的な論法によって、黙らされ、笑いものにされます。しかし、私たちが作り上げた浅薄で近視眼的な文化は、共通のビジョンを失い、「いったん特定の資源が枯渇してしまえば、気高い主張を装ってはいるいるものの、新たな戦いための道具建てがなされる、ということが予見できる」(12)のです
*「使い捨て」の世界
18. 私たち人間家族の中には、苦労の無い生き方がふさわしいと考えられる人のために、たやすく犠牲にされるような人がいるようです。 結局のところ、「人は、特に、貧しく、身体が不自由だったり、胎児のように『まだ役に立たない』、あるいは高齢者のように『もう必要ない』とされたりする場合、もはや、世話をされ、敬意を払われる最も高い価値のあるもの、とは見なされません。 私たちは、この上なく嘆かわしい食べ物の無駄を始めとする、あらゆる種類の無駄に、いっそう無関心になってきています」(13)。
19. 出生率が低下しているー悲しみと孤独の存在への高齢者の格下げをともなう、人口の高齢化につながるーは、それが私たちに関する全てだ、私たちの個々の関心がただ一つの重要事だ、とする巧妙な言い方です。そのようにして、捨てられるのは「食べ物や必要不可欠な物だけでなく、しばしば、人間自身」(14)です。
新型コロナウイルスの大感染の結果、世界の特定の場所で、高齢者たちに何が起こったのかを私たちは見てきました。彼らは死ぬ必要がなかったのです。同様のことは、熱波や他の災害によって、これまでも起きてきました。そして、高齢者たちは、自分が残酷に見捨てられていることに気づきました。でも私たちは気づいていませんー高齢者たちを隔離し、家族の親密さやいたわりもなく、他人の世話に任せることで、家族そのものをそこない、衰えさせることを。そして結局は、若い人たちから、自分のルーツとの欠かすことのできない繋がりと自分自身だけでは得られない知恵を、奪うことになるのです。
20.他の人を捨て去るこのやり方は、さまざまな形をとる可能性があります。例えば、失業を引き起こし貧困を拡大させるという深刻な結果をもたらすことを考えずに、労働コストを下げることに執着することです(15)。また、他の人を捨て去る気持ちは、人種差別など、ずっと昔からあり、影を潜めても繰り返し現れる、敵意に満ちた振る舞いに、滲み出ます。人種差別の数々の出来事は、私たちに恥ずかしい思いをさせ続けています。私たちが思っている社会の進歩が、自分で考えるほど本当でも、信頼できるものでもない、ということを、それが示しているからです。
21.いくつかの経済ルールは、成長に効力を発揮していますが、統合的な人間開発(integral human development=注:パウロ6世教皇が1967年に出された回勅『ポプロールム・プログレシオ ― 諸民族の進歩推進 について 』のキーワード、「発展」は経済的、および物質的成長に限定するものではなく、「すべての人の全体としての開発を促進すること」を意味する)には効力を発揮していません(16)。富は増加しましたが、不平等とともに、「新しい形態の貧困が出現する」結果になりました(17)。
現代世界で貧困が減っている、という主張は、現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することでなされています。たとえば、電気の供給する体制が欠けていることが「貧困のしるし」とは見なされず、困窮の原因ともされなかった、というケースもあります。貧困は常に、時々の歴史的な期間において採用可能な実際の条件の文脈で理解され、測られねばなりません。
*万人に行き渡っていない「人権」
22.ひんぱんに明確になっているのは、実際問題として、人権がすべての人に平等ではない、ということです。人権の尊重は「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳に敬意が払われ、彼あるいは彼女の権利が認められ、保証されれば、創造性と相互依存関係が成長し、人間の個性の創造性は、共通善を促進する行動を通して発揮されます」(18)。
しかし、「現代社会を注意深く観察することで、70年前に厳粛に宣言された『すべての人間の平等な尊厳」が、あらゆる状況で真に認識され、尊重され、保護され、促進されているのか、疑問を生じるような、数多くの矛盾があることが分かります。
今日の世界では、還元主義的な人類学の考え方(注:上位階層において成立する基本法則や基本概念が「常に必ずそれより下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方-を指していると思われる)によって、また、人間を搾取し、捨て、さらには殺すことさえためらわない利益本位の経済モデルによって、様々な形の不平等が続いています。
一部の人たちは豊かに暮らしていますが、他の人たちは、尊厳そのものが否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的権利が取り上げられ、あるいは侵害されています」(19)。このことは、生来の人間の尊厳に基づいた権利の平等について、私たちに何を語るのでしょうか?
23. 同じように、世界中の社会組織は、女性が男性と同じ尊厳、同一の権利を持っていることを明確に反映するには、まだほど遠い状態です。私たちは、言葉である事を話しますが、決定と現実は別の話です。確かに、「重ね重ね哀れなのは、のけ者にされ、虐待され、暴力を振るわれることに耐える女性たちだ。それは、彼女たちがしばしば自分の権利を守れないためである」(20)。
24. また、「国際社会は、あらゆる形態の奴隷制を終わらせることを目的とした数多くの協定を採択し、この事態と戦うためのさまざまな戦略に手を付けましたが、現在も、何百万の人々-子供、そしてあらゆる年齢の女性、男性-の自由が奪われ、奴隷のような境遇で生きることを強制されています… 奴隷制は今も、過去と同じように、彼または彼女を物として扱うのを認めるような、人間についての考え方に根ざしているのです… 強制され、だまされ、あるいは肉体的、精神的に強迫されることで、神の似姿として創られた人間が、自由を奪われ、売られ、他人の所有物になり、目的達成の手段として扱われます…
犯罪組織のネットワークは、世界のさまざまな地域で、若い男性と女性を誘惑する方法として最新の通信手段を使うことに習熟しています」(21) 。女性を意のままに操り、妊娠中絶を強制する時、あらゆる規制をかいくぐる悪行。臓器売買のために人々を誘拐までする憎悪すべき行為。人身売買やその他の現代的な形で引き起こされている奴隷制は、人類全体が真剣に取り組む必要のある世界的な問題です。「犯罪組織が目標達成に世界的な犯罪網を使っている以上、こうした行為を消し去る取り組みも、共通の、社会のさまざまな部門における世界的な努力が必要です」(22)。
*争いと恐怖
25. 戦争、テロリストによる襲撃、人種的あるいは宗教的な迫害、その他の、人間の尊厳を踏みにじる数多くの行為は、特定の、主として経済的な利益にどれほど都合がいいかによって、異なった判断が下されています。権力を持つ者にとって都合がいい場合に真実である事が、都合が悪くなれば真実でなくなります。悲しいことに、これらの暴力行為は「ばらばらな状態で実際に起きている『第三次世界大戦』を構成するほど一般的になってきています」(23)。
26. 私たちを結びつける共通の領域が、もはや無いことに気付いたとしても、驚くべきことではありません。 確かに、どの戦争でも最初に犠牲となるのは「人間家族の友愛への、本来備わっている神から召された使命」です。 その結果、「あらゆる脅迫的な状況が不信感を生み、人々を自分の安全圏に引きこもらせる」(24)。 私たちの世界は奇妙な矛盾に陥っているーその世界で、私たちは、自分が「恐怖と不信の心性によって支えられた誤った安心感を通して、安定と平和を確保できるのだ」(25)と信じているのです。
27. 逆説的ですが、私たちには、技術開発が排除することに成功していない、という先祖代々の恐れがあります。確かに、そうした恐れは、新技術の裏に隠れて広がることができました。今日でも、古代から続く町の壁の外には、計り知れない深み、未知の領域、荒れ野があります。そこから来るものは、何であろうと信頼できません。なぜなら、それは未知で、なじみがなく、村の一部ではないからです。それは「野蛮人」の領土であり、そこから私たちはどんな犠牲を払っても自分自身を守らなければなりません。
その結果、自衛のために新しい壁が建てられ、外の世界は存在をやめ、「私」の世界だけが残り、他の人々は、もはや奪われることのない尊厳を持っている人間とは見なされず、ただの「彼ら」になります。
もう一度、私たちは「他の文化や他の人々と出会うのを防ぐために『壁の文化』を構築し、壁-心の壁、土地の壁を立てたい、という誘惑に出会います。そして、壁を立てる人々は、自分が立てたまさにその壁の中で奴隷になってしまうでしょう。彼らは視野を失ったまま残されます。他の人々との交流を欠いているからです」(26)。
28. システムに見捨てられたと感じる人々が経験する孤独、恐れ、不安は、さまざまな「マフィアたち」のための肥沃な土地を作り出します。彼らは繁栄します。なぜなら、犯罪によって利益を追求している時でさえも、社会から忘れられた人々に、様々な形の援助をひんぱんに提供することで、擁護者である、と主張するからです。そして、偽りの共同体主義の神秘的雰囲気を振り撒くことで、抜け出すのがとても難しい「依存と忠誠の絆」作り出す、典型的な“mafioso(マフィアの一員)”の”教育学”も存在するのです。
*共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩
29. アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師も同じお考えですが、私たちは、科学、技術、医学、産業、福祉の分野で、とりわけ先進国においてなされた疑いようのない進歩を無視することはしません。それにもかかわらず、それが「歴史的な進歩、偉大で価値あるものであると同時に、国際的な活動に影響を与える道徳的な劣化、そして、精神的価値と責任感の弱体化が起きていることも、強調しておきたいと思います。これは、欲求不満、孤立、絶望という一般的な感覚を生む一因となります」。
私たちが目にするのは「不確実性、幻滅、未来への恐れに支配され、限られた経済的利益によって支配されている世界的な状況の中で、敵対関係の発生と武器と弾薬の蓄積」です。また、「重大な政治的危機、不正がはびこり、天然資源の公平な分配の欠如… 貧困と飢餓から衰弱した何百万人もの子供たちの死をもたらすような危機に直面しているにもかかわらず、容認することのできない国際的なレベルでの沈黙があります」(27)。このような世界は、その否定できない進歩にもかかわらず、より人間的な未来につながるようには見えません。
30. 今日の世界では、「ひとつの人間家族に属している」という感覚は薄れつつあり、「正義と平和のために力を合わせる」という夢は、時代遅れのユートピアのよう思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた「クールで、心地よく、グローバル化された無関心」です。
私たちは、全員が同じ船に乗っていることに気づかず、「自分が全能だ」と考えます-このような幻想は、偉大な友愛の価値を意識せず、「一種の冷笑的な考え」につながります。 それは、私たちが幻滅と失望の道を進んだ場合に直面する誘惑です… 孤立し、自己の利益に逃げ込むことは、希望を取り戻し、再生をもたらす道ではありません。希望、再生に必要なのは、親密さです。 出会いの文化です。 孤立はノー、親密さはイエス。文化の衝突はノー、 出会いの文化はイエス、です」(28)。
31. 速いスピードで進むものの、共通の工程表がない現在の世界では、「『個人の幸福への関心』と、より大きな『人間家族の繁栄』の間のギャップが、個々人と人間的な共同体社会の間に完全な分裂をもたらすまで広がっているように思われます… 『共に暮らすことを余儀なくされている』と感じることと、強く求め育てる必要のある共同生活の種子の豊かさと素晴らしさに価値を置くことは、まったく別です」(29)。
技術は絶えず進歩していますが、「科学技術革新の進展が、もっと平等で多様性を包み込む社会に繋がるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。私たちが遠くの惑星を発見するとともに、私たちの周りを回る兄弟姉妹が求めているものを再発見することは、どれほど素晴らしいことでしょう」(30)。
*歴史における新型コロナウイルス大感染と他の悲惨な出来事 PANDEMICS AND OTHER CALAMITIES IN HISTORY
32. 新型コロナウイルスの世界的大感染の悲劇は、私たちが皆、世界的な共同体の船に乗っているのだ、という感覚を、ほんの一瞬、復活させましたーそこでは、一人の問題が、全員の問題です。改めて、一人だけで救われる人はいない、ということに気づきました。私たちは一緒にしか救われません。先に私が申し上げたように、「(注:コロナ大感染の)嵐は私たちの弱さを露呈し、確かだと思っていたことー日々の日程、計画、習慣、優先すべきもの…などーが間違っていた、過信していたことを明らかにしました… この嵐の最中に、私たちが偽装した自分のエゴ、いつも外見を気にしていた「固定概念の建物の正面」が崩れ去り、『私たちが互いの一部であり、互いに兄弟姉妹だ』という避けがたく、神に祝福された認識が、改めて明るみに出されたのです」[31]。
33. 世界は、「技術進歩で『人的損失』の削減を目指す経済」に向かって執拗に進んできました。市場の自由はすべてを保証するに足るもの、と私たちを信じ込ませた人々がいました。しかし、現在の制御不能な新型コロナ感染の、残忍で予期しない打撃は、人間への配慮を、少数者の利益でなく、すべての人のために取り戻すように、私たちに強く教えました。
今、私たちは知ることができます。「私たちは素晴らしさと壮大さの夢の上に生き、結局は、娯楽、偏狭、孤独に時間を費やすことになった。ネットワーキングに夢中になり、友愛の味を忘れた。安直に手に入る安全な結果を探し求めたが、焦りと不安に圧倒された。仮想現実の囚人たち-私たちは本当の現実の味と香りを無くした」(32)。コロナ大感染によってもたらされた痛み、不確実さ、恐れ、そして自分自身の限界の認識は、これまでの生活様式、人間関係、社会の組織、そして何よりも、自分の存在の意味を考え直すことを、これまで以上に緊急の課題として、私たちに提示しているのです。
34.すべてが繋がっていますーこの地球規模の災害が、私たちが現実にアプローチする方法、自分自身の人生と存在するすべてのものの「至高の主人」である、という私たちの主張と無関係だというのは想像しがたいことです。私は神の報復について話したくありませんし、私たちの自然に与える害がそれ自体、私たちの罪に対する罰である、と言うだけでは不十分です。世界そのものが反逆の声を上げています。私たちは「tears of things」-人生と歴史の不幸を呼び起こす詩人ウェルギリウスの有名な詩を思い起こします(33)。
(「カトリック・あい」注:プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro=紀元前70年10月15日? – 紀元前19年9月21日)=共和政ローマ末の内乱の時代からオクタビアヌスの台頭に伴う帝政の確立期に生涯を過ごし、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ、欧州文学史上、ラテン文学において最も重視される人物)
35. しかし、私たちはあまりにも早く、歴史の教訓-「人生の教師」(34)を忘れてしまいます。現在のコロナ危機が過ぎ去った後の、私たちの最悪の対応は、熱狂的な消費主義と新しい形の身勝手な自己保存に、さらに深くのめりこんでしまうことです。
神が希望されるのは、現在の危機がすべて終わった後、私たちがもはや「彼ら」と「それら」の観点から考えることをせず、「私たち」の観点から考えることです。そうすることで、「私たちが何ら教訓を学ばない歴史上の単なる悲劇」の一つではないことを証明できればいい。毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを肝に銘じることができればいい。この計り知れない悲しみが、無駄にならず、私たちが新しい人生の過ごし方に一歩踏み出させればいい。私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいい。
36. 私たちが、「親密な関係を持つ共同体、自分たちの時間、エネルギー、資源の価値のある連帯」を作り上げる共通の情熱を取り戻さない限り、私たちを惑わした世界的な幻想は崩壊し、多くの人々が苦悩と空虚に支配されてしまうでしょう。また、「消費者主義の生活様式への執着は、特にそれを維持できる人がほとんどいない場合、暴力と相互破壊につながるだけだ」(35)という見方を、安易に拒むべきではありません。「すべての人は自分自身のために」という考えは、どのような感染症の大流行よりもひどい「気ままなやりたい放題」へと堕落していくでしょう。
*国境における人間の尊厳の欠如
37. 特定のポピュリスト的な政治体制や、特定のリベラルな経済的な取り組みを進める人々は、「移民の流入はどのようなコストを払っても防ぐ必要がある」と言い張っています。 貧しい国々への援助を抑えることの妥当性についても、そのような主張をします。その結果、そうした国々がどん底に落ち込み、縮政策を強いられることになるかも知れません。そのような観念的で,支持しがたい主張の裏で、多くの命が危機に瀕していることに気付かないのです。
多くの移民たちは、戦争、迫害、自然災害から逃れてきました。 そうでない人たちは、当然のことながら、「自分自身と自分の家族のための良い機会を求めています。より良い未来を夢見ており、それを手に入れる条件を整えたいと思っています」(36)。
38. 悲しいことに、一部の人は「西洋文化に惹かれ、時には非現実的な期待を抱き、深刻な失望にさらされます。麻薬カルテルや武器カルテルに頻繁に関わる悪意をもった人身売買業者は、移民の弱点を悪用します。移民は、移動中に暴力、人身売買、精神的および肉体的虐待など、計り知れない苦しみを頻繁に味わいます」(37)。移住する人々は「故郷との関係を断たれ、しばしば文化的および宗教的の喪失を経験します。
離散は、彼らが残した共同体社会にも感じられ、彼らは最も活発で進取の気風を失い、特に両親の一方または両方が、子供たちを生まれた国に残して、移住する時に、それを感じます」(38)。このような理由から、「移住しない、つまり故郷に留まる権利を、再確認する必要もあります」(39)。
39. それからまた、「一部の移民受入国では、移住は恐怖と警戒を引き起こし、しばしば政治目的のために煽り立てられ、利用されます。移民たちが自分自身の中に閉じこもることが、外国人恐怖症につながる恐れがあり、それに断固として対応する必要があります」(40) 。移民は、他の人のように「移住先の社会生活に参加する資格がある」とは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることが忘れられています。
したがって、彼らは「自分自身の贖罪の代理人」であるべき(41)なのです。 彼らが人間であることを公然と否定する人は誰もいませんが、実際には、私たちの判断と彼らへの対応によって、彼らを価値が低く、重要性が低く、人間性が低い、と見なしていることを示すことになり得るのです。 キリスト教徒にとって、このような考え方と振る舞いは受け入れられません。それが、信仰ー出自、人種あるいは宗教にかかわらず、奪うことが許されない一人ひとりの尊厳、そして「友愛」という最高法規ーへの強い確信よりも、特定の政治的な選好を、上に置くからです。
40. 「移住は、これまで以上に、私たちの世界の将来に、極めて重要な役割を果たすでしょう」(42)。しかし現在、移住は「すべての市民社会の基盤となっている兄弟姉妹に対する責任感の喪失」の影響を受けています(43)。たとえば、欧州は、そうした道を歩むリスクを冒しています。にもかかわらず、「その偉大な文化的および宗教的遺産に助けられ、人間が中心であるという考えを守り、そして『市民の権利を守り、移民を助け、受け入れることを保証する、という二重の道徳的責任』の間に適切な均衡を見つける手段を持っています」(44)。
41. 私は、移民に戸惑い、恐れている人がいることを承知しています。これは、私たちの自然な自己防衛の本能の一部だと思います。しかしまた、一人の個人、一つの集団は、他の人々への創造的な開放性を育てる場合に限って、実り豊かで生産的になることも、事実です。
私は皆さんに、こうした最初の反応を乗り越えて振る舞うようにお願いします。なぜなら、「(注:私たちの移民の人たちに対する)疑いや恐れが、私たちを不寛容で、閉鎖的で、そして恐らく自覚無しに、人種差別主義者にまでしてしまう、考えと振る舞いを条件づける、という問題があるからです。そのようにして、恐れが、『他の人と出会いたい』という強い希望と能力を、私たちから奪うのです」(45)。
*コミュニケーションの幻想
42. おかしなことに、他の人々に対する閉鎖的で不寛容な態度が高まる一方で、(注:人と人の間の)距離が縮み、あるいはプライバシーの権利がほとんど消えてしまうほどに薄らいでいます。すべてが調べられ、検閲される一種の惨状が起き、人々の生活は、常に監視されるようになっています。
デジタル通信は、すべてを白日の下に晒そうとしています。人々の生活は、情報がバーコード化され、むき出しにされ、あちこちに言いふらされ、それがしばしば匿名でなされます。他の人への敬意が崩れ、たとえ他の人々をはねつけ、無視し、距離を置いても、彼らの生活の隅々を、臆面もなく、のぞき込むことができるのです。
43. 憎悪と破壊のデジタル促進運動は、それ自体、私たちが信じ込まされているような、相互支援の前向きなものではなく、認識された共通の敵に対して一つになった、単なる個人の集団の動きです。「デジタルメディアはまた、人々を、中毒になり、孤立し、現実との接触を徐々に失っていく危険にさらし、本当の人間関係が育つのを妨げる可能性がある」(46)。デジタルメディアは、私たちに話しかけ、人間的なコミュニケーションの一部であるものー身体的表現、顔の表情、沈黙の瞬間、身振りや手振り、そして匂い、手の震え、赤面と発汗さえもー欠いています。
デジタルによる関係-友情が徐々に育っていくことや、安定した交流、あるいは時間とともに成熟する総意の構築を必要としない関係-は、社交的なように見えます。だが、実際には、共同体社会を構築せず、個人主義であることを隠して、広げていく傾向があり、それは、よそ者を嫌い、弱い者を軽蔑する中に、自然と現れます。デジタルによる接続は、”橋”を作るのに十分ではありません。人類を一つにすることはできないのです。
*臆面もない侵略
44. そうした人々は、個人個人で心地よい消費者主義者の孤独を保っている時でさえも、他の人を打ち壊すような、あからさまな敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、言葉の暴力をかきたてる、絶え間ない熱狂的な結びつきを、「物理的な接触では皆を引き裂かないために求められる、自制心」を欠いたまま、選択することが可能です。社会的な侵略は、コンピューターやモバイル・デバイスを介した拡大の未だかつてなかった場を見つけたのです。
45. このことは、今や、諸々のイデオロギーに完全な行動の自由を与えました。数年前まで、皆の尊敬を失う危険を冒さずに口にできなかったことを、今では、責任を問われることなく、極めて粗雑な言葉で、一部の政治家さえも話すようになっています。そして、忘れてならないのは、次のようなことですー「デジタルの世界では巨大な経済的利益が働いており、その世界は、侵略的で、良心と民主主義的な手続きを操作するメカニズムを作るのと同じような、巧妙な管理形態を実行することができる。
多くの(注:デジタル)プラットフォームの機能は、結局は、同じような考えを持つ人同士の出会いを促し、議論をさせないようにすることにつながる。こうした閉鎖された回路は、偽のニュースや虚偽の情報の拡散を促進し、偏見や憎悪を助長する」(47)。
46. 私たちが認識すべきことは、キリスト教徒を含む宗教を信じる人々の間で、破壊的な形の狂信的振る舞いが散見されることです-そうした人々もまた、「インターネットやデジタル通信によるさまざまな公開討論の場を通じて、言葉による暴力のネットワークに巻き込まれる可能性があります。
カトリックのメディアさえも、限界を超え、名誉毀損や誹謗中傷が当たり前になり、あらゆる倫理基準と他の人の名誉の尊重を捨てる可能性があります」(48)。このことが、私たちの父が求める友愛に、どのように貢献できるのでしょうか。
*叡智を欠いた情報
47. 真の叡智は、現実との出会いを求めます。しかし今日では、すべてを作り上げ、偽装し、変えてしまうことが可能です。したがって、ほんの初歩的な現実をもっての直接の出会いさえも、耐え難いものになる可能性があります。そうすると、選択のメカニズムが働きます。これによって、好きなものと嫌いなもの、魅力的と思うものと、そうでないものを、一瞬のうちに区別することができます。
同じ様に、私たちは自分たちの世界を共有したい人を選ぶことが可能です。今日の仮想現実のネットワークでは、不快な人、あるいは不快と思われる人や状況が削除され、仮想のサークルが作成され、自分が住んでいる現実の世界から切り離されてしまいます。
48.腰を下ろして人の話を聞く能力は、対人関係特有のもので、自己愛を超え、他の人を受け入れ、気遣い、自分の生活に喜んで迎える人々によって示される、歓迎の態度の典型です。 しかし、「今の世界は、全体的に”耳が遠い”世界になっています… 時には、現代世界の我を忘れたような動きが、他の人の話に注意深く耳を傾けるのを妨げます。相手の話の途中に割り込み、その人がまだ言い終えていない意見に反論しようとします。
私たちは 聞く能力を失ってはなりません」。 聖フランシスコは「神の声を聞き、貧しい人々の声を聞き、弱い人々の声を聞き、自然の声を聞きました。 彼はそれを、生き方にしました。 私の強い願いは、聖フランシスコの植えた種が、多くの人の心の中で育つことです」(49)。
49. 静かに、注意して聴く習慣が、(注:SNSなどによる)メッセージ交換の狂乱に取って代わられることで、知者の人間的コミュニケーションの基本構造が危機に瀕しています。欲しいものだけを作り、コントロールできないものや、簡単に表面的に知ることができないものは、すべて排除する、という新しい生活様式が生まれ、その固有の論理によって、私たちを共有の知恵に導くような、静かに、深く考えることを、できなくしてしまいます。
50. 共に、私たちは対話、リラックスした会話、あるいは情熱的な討論で真実を探し求めることができます。そのためには忍耐力が必要です。沈黙と苦しみの瞬間を伴いますが、それでも個人と人々の広い経験を辛抱強く受け入れることができます。
私たちの”指先での情報”の洪水は、大きな知恵にはなりません。知恵は、インターネットでの迅速な検索から生まれるものでも、未検証のデータの塊でもありません。そのようなやり方は、真実との出会いの中で成熟する方法ではありません。そのようなやり方の会話は、最新のデータだけを中心に展開され、単に水平的なものの積み重ねになります。
注意を集中し続け、問題の核心に入り、生活に意味を与えるために何が欠かせないかを認識する、ということができません。そうして、自由は、自分があちこちに売られている、という幻想になり、インターネットをあやつる能力とたやすく混同されてしまいます。
友愛を築く取り組みは、それが地域的であろうと普遍的であろうと、自由な、本物の出会いに開かれた精神によってのみ、始めることができるのです。
*服従と自己卑下の構造
51. 特定の経済的に繁栄している国は、発展途上国のための文化的なモデルとして提案される傾向があります。 それよりも、これらの国々が独自の方法で成長し、適切な文化の価値を尊重しながら変革能力を高めていくように支援する必要があります。 他人を模倣したい、という浅薄で情けない欲求は、創造ではなく、コピーと消費につながり、国民に低い自尊心を育ててしまいます。
多くの貧しい国の富裕層や、最近貧困から抜け出した人々には、先住民の考え方や行動に抵抗があり、すべての病いの唯一の原因であるかのように、自分自身の文化的アイデンティティを軽蔑する傾向があります。
52. 自尊心を壊すことは、他の人を支配する容易な方法です。私たちの世界を平準化しがちなこうした時代的流れの背後には、メディアやネットワークを通じて上流階級に奉仕する新たな文化を創造する試みをする一方で、低い自尊心を利用する強い関心が蔓延しています。
金融の投機家や乗っ取り屋のご都合主義の思うつぼにはまり、貧しい人々がいつも敗者になってしまいます。そして、人々の文化を無視することは、多くの政治指導者が、自由に受け入れられ、長期にわたって維持されるような効果的な開発計画を考案できないことに繋がっています。
53. 私たちはくよくよ悩みませんー「誰にも属さず、根こそぎにされた、と感じることほど悪い形の疎外感はない。土地が人々の帰属意識を育み、各世代の間と異なる共同体社会の間の統合の絆を生み出し、他の人に鈍感にさせ、疎外感を強めさせるすべてのことが避けられる限り、その土地は豊かになり、人々は実を結び、未来を生み出す」(50)ということを。
*希望
54. このような無視できないような黒雲にもかかわらず、私はこれからのページで、多くの新たな希望の道を取り上げ、議論したいと思います。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからです。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせました。
私たちは気づき始めました-私たちの生活が、共有する歴史の決定的な出来事を果敢に形成する人々-医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士…と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解しました(51)。
55. 私はすべての人に、新たな希望を求めます-希望は「すべての人の心に深く根差す何かについて、それと別に、私たちの環境と歴史的な条件について、私たちに話しかける」からです。希望は、渇き、大望、充実した人生への憧れ、偉大なことを成し遂げたい強い希望、私たちの心を満たし、私たちの精神を真、善、美、正義と愛のような高遠な現実に引き上げることを、私たちに語ります…。
希望は大胆です-それは私たちの視野を制限するような個人的な都合、ささやかな安心、報酬の先を見据え、人生をもっと素晴らしく、価値のあるものにする壮大な理想に私たちの心を広げます」(52)。それでは、希望の道に沿って前進を続けようではありませんか。
第2章 道端の異邦人 A STRANGER ON THE ROAD
56. 前章は、今日の問題の、冷淡で切り離されたような記述として読まれるべきではありません。なぜなら、「現代の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々の喜びや希望、悲しみや苦悩は、キリストに従う者の喜びや希望、悲しみや苦悩でもある。真に人間的なものは全て、彼らの心に響く」(53)からです。
私たちが経験していることの中に一筋の光を探そうとする試みとして、また、いくつかの行動を提案する前に、私は今、2000年前にイエス・キリストによって語られたたとえ話に1章を割きたいと思います。本回勅は、宗教的信念に関係なく、善意のあるすべての人々に向けられていますが、次のたとえ話は、私たちの誰もが共感し、また困難であると感じることができます。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は答えた。『「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。
律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章25節~37節)。
*背景
57.このたとえ話は、古くからある問題に関係しています。聖書は、世界と人間の創造についての記述後、間もなく、人間関係の問題を取り上げています。カインは弟アベルを殺し、神が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」 (創世記4章9節)と問われるのが聞こえます。彼の答え「私は弟の番人でしょうか」(同書)とは、私たちがよく答えにするものです。神が問われるまさにそのご質問によって、私たちの無関心の正当化として、決定論や宿命論に訴える余地が与えられてはいません。代わりに、神は、私たちが対立を解決し、お互いを守りあう異なる文化の創出を勧めておられるのです。
58.「私を胎内に造った方は彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを母の胎に形づくられたのではないか」(ヨブ記 31章15節)。ヨブ記は、唯一の創造主における私たちの起源を、特定の共通の権利の基礎と見なします。何世紀も後に、聖エイレナイオスは旋律のイメージを使って同様に主張しています。「真理を求める者は、音符と音符の違いに集中して、それぞれが別々に、そして他から離れて作られたかのように考えるべきではない。代わりに、一人の同じ人物が全体の旋律を作曲したことに気づくべきだ」(54)。
59.初期のユダヤの伝統では、他人を愛し、大切にする義務は、同じ国の人々の間の関係に限られていたようです。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)という古代の戒めは、通常、自分の同胞を指すものと理解されていましたが、その境界は次第に拡大されていき、とりわけ、イスラエルの地の外で発展したユダヤ教にてそうである。私たちは、自分が他人にしてほしくないことを他人にしてはならない」(トビト記4章15節参照)という戒めに出会います。
紀元前1世紀に、ラビ・ヒルレル(紀元前一世紀の律法学者、ユダヤ教の著名な宗教指導者)がこのように語っています-「これがトーラー全体なのだ。それ以外はすべて解説だ」(55)。「人の憐れみは、その隣人に及ぶが、主の憐れみは、肉なる者すべてに及ぶ」(シラ書18章13節)というように、神ご自身の行動を模倣したい、という気持ちは、次第に、自分に最も近い人だけを考える傾向に取って代わっていきました。
60.新約聖書では、ヒルレルの教えが前向きな言葉で表現されています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)。天の御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせて」(マタイによる福音書5章45節)くださるので、この掟は普遍的な範囲であり、私たちが共有している人間性に基づいてすべての人を包含しています。それゆえ、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)という呼びかけがなされているのです。
61.聖書の最も古い文書の中に、私たちの心が外国人を受け入れるように広げるべき理由が見つかります。それは,ユダヤ人自身がかつてエジプトで外国人として生活していたという,ユダヤ人の永続的な記憶に由来しています。
「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)(注:[聖書の訳本によって節が違っている=英語訳・21節、日本語訳・20節)
「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。
「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった」(レビ記19章34節)。
「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。
兄弟愛への呼びかけは、新約聖書全体に響き渡っています。「なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)。「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいる」(ヨハネの手紙1・2章10節~11節)。「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています」(ヨハネの手紙1・3章14節)。「目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(ヨハネの手紙1・4章20節)。
62.しかし、この愛の呼びかけは誤解される可能性があります。キリスト者の初期の共同体が、閉鎖的で孤立した集団を形成する誘惑を認識している聖パウロは、弟子たちに「互いの愛とすべての人への愛」(テサロニケの信徒への手紙1・3章12節)に豊かに満ち溢れるように促しました。ヨハネ文書の共同体においては、たとえ「よそからきた人たち」(ヨハネの手紙3・5節)であっても、同胞のキリスト者が歓迎されることになっています。このような背景の中で、「善きサマリア人」のたとえ話の意義は、よりよく理解できるのです。
すなわち、愛は、困っている兄弟姉妹がどこから来たかを気にしません。なぜなら、「愛は、私たちを孤立させ、分離させ続ける鎖を打ち砕き、 その代わりに橋を架けてくれます。 愛は、私たち全員がくつろぐことのできる一つの偉大な家族、を作ることを可能にしてくれます… 愛は慈悲と尊厳を醸し出す」(56)からです。
*道端に見捨てられた人
63.イエスは、強盗に襲われ、道端で負傷して横たわっている男の人の話をされています。何人かが彼のそばを通りましたが、足を止めませんでした。彼らは、重要な社会的地位にあるにもかかわらず、共通善に対する真の関心を欠いていたのです。けがをした男の人を介抱したり、助けを呼んだりするのに数分も費やそうとしません。
そうした中で、ある一人の人が立ち止まり、男の人の所に行って、介抱し、必要なものを提供するために自分のお金まで使いました。皆が忙しく立ち回る世の中で、しっかりとつかまるものを与えました。自分の時間を与えました。男の人を助けた人には当然、その日の予定、必要としているもの、約束や強く希望するもの、がありました。
それでも、助けが必要な人に出会った時、そうしたことを全部、脇に置きました。けがをしている人について何も知らないにもかかわらず、彼のことを自分の時間を費やし、世話をするに値する人だ、と見なしたのです。
64.あなたはこれらの人のうち, 誰を自分と同一視するでしょうか?これは唐突な質問ですが、率直で鋭い質問です。このたとえ話の登場人物の誰に似ているでしょうか?他の人、特に弱い人を無視しよう、という誘惑に常に駆られていることを認識する必要が、私たちにはあります。
これまで成し遂げてきたあらゆる進歩にもかかわらず、この進んだ社会でいちばん弱く、壊れやすい人々に付き添い、思いやりをし、支援することについて、私たちはまだ 「無学」 であることを認めましょう。私たちは、自分が直接、影響を受けるまで、周りの状況を無視したり、通り過ぎたり、背を向けたりすることに慣れてしまっているのです。
65.私たちの街で、誰かが襲われ、多くの人は気づかなかったかのように急いで立ち去る… 自分の車で誰かをはねた人が、その場から逃げ出すーそうした人たちの動機は「問題を避ける」こと。自分がその場から逃げることによって、その人が死ぬかもしれない、というのは問題ではありません。
こうしたことは、様々な形で、巧妙な仕方で、人々の間に広がっている”処世術”の兆候です。私たちは、自分自身の必要を満たすことに夢中になり、苦しんでいる人の姿が邪魔になる… それでいて、他人の問題に費やす時間がないことが、私たちを不安にさせるーこうしたことは、不健全な社会の症状です。繁栄を求め、苦しみに背を向ける社会です。
66.私たちがこのような深みに沈むことがないように!善きサマリア人のたとえ話を振り返りましょう。イエスのたとえ話は、私たちがそれぞれの国、そして全世界の市民として、新しい社会的な絆の構築者である召命を再発見するように招いているのです。この招きはいつも新しいものではすが、私たちの存在の基本的な法則に基づいています。
私たちは、共通善の追求に社会を向かわせ、その目的を念頭に置いて、政治的、社会的秩序、関係性の基盤、人間の目標を強化することに全力を尽くすように求められています。善きサマリア人は、その振る舞いによって「一人一人の存在は、他の人の存在と深く結びついている。人生は、単に過ぎ去る時間ではなく、相互作用のための時間だ」ということを示しています(57)。
67.. このたとえ話は、私たちの傷ついた世界を立て直すために、私たちが下す必要のある基本的な決断を雄弁に表しています。このように多くの痛みと苦しみに直面している中、私たちの唯一の道は、善きサマリア人を見習うことです。それ以外のどんな決定では、私たちを強盗の一人か、道端の男の苦しみに思いやりを示さずに通りかかった一人にするでしょう。
このたとえ話は、他の人の脆弱性に共感し、排除的な社会の創出を拒否し、代わりに隣人として行動し、倒れた者を持ち上げ、更生する男女によって、共通善のために、共同体がどのように再建できるかを示してくれます。それと同時に、自分のことしか考えず、人生の必然的な責任をありのままに背負うことを怠る人たちの態度についても警告してくれます。
68.このたとえ話は明らかに、抽象的な道徳に耽っておらず、その伝えたいことは単に社会的かつ倫理的なものでもありません。私たちは愛の中でのみ見つけられる成就のために造られたのだ、という私たちの共通の人間性の本質的で、忘れられがちな側面を語ってくれているのです。
私たちは苦しみに無関心でいられません。誰もが除け者として人生を送ることを許すことができません。代わりに、私たちは憤りを感じ、快適な孤立からの抜け出しに迫られ、人間の苦しみとの接触によって変えられるべきです。それが尊厳の意味です。
*絶えず繰り返されている物語
69.このたとえ話は明快で分かりやすいものですが、それはまた、私たちが兄弟姉妹との関係を通して徐々に自分自身を知るようになるにつれて、私たち一人一人が経験する内面的な葛藤をも呼び起こします。遅かれ早かれ、私たちは誰もが苦しんでいる人に出会うことになるでしょう。今日では、そのような人たちがますます増えています。道端に横たわる負傷者を含めるか、除外するかの決定は、あらゆる経済的、政治的、社会的、宗教的プロジェクトを判断する基準となり得ます。
私たちは毎日、善きサマリア人になるか、無関心な傍観者になるか、を決めなければなりません。そして、自分の人生の歴史と全世界の歴史に目を向けてみると、私たちは皆、たとえ話の中の各登場人物のようであり、あるいはそうであったことがあるのです。私たちは皆、自分の中には、負傷した男の面、強盗の面、通行人の面、そして善きサマリア人の面があります。
70.道端での可哀想な男の痛ましい光景に一度直面すると、物語の様々な登場人物がどのように変わっていくか、はっきりします。ユダヤ人とサマリア人と、祭司と商人との区別は、取るに足らないことになっていきます。今では、「傷ついている人の世話をする人」と「通りすがりの人」、あるいは「身をかがめて助けようとする人」と「背を向けて急いで立ち去る人」の二種類しかいません。ここでは、私たちのあらゆる区別、レッテル、仮面がはがれていきます。それは真実の瞬間です。
私たちは身をかがめて他人の傷に触れ、癒すのでしょうか。私たちは身をかがめて、立ち上がるために他人を助けるのでしょうか?これが今日の課題であり、私たちはそれに向き合うことを恐れるべきではなりません。危機の瞬間には、決断は急務となります。今ここで、強盗でも通行人でもない人は、自分自身が負傷しているか、負傷者を肩に担いでいるかのどちらかだと言えるでしょう。
71.善きサマリア人の物語は絶えず繰り返されています。国内的および国際的な紛争や機会の奪い合いが、多くの周縁化された人々を道端に置き去りにされている中で、社会的、政治的な惰性が世界の多くの地域を荒涼とした脇道に変えつつあることが、はっきり見えます。
イエスはたとえ話の中で代替案を提示されなく、もし負傷した男や彼を助けた人が怒りや復讐への渇望に屈していたらどうなっていただろうかとは問いかけておられません。イエスは人間の精神の最善を信頼しておられます。
このたとえ話によって、イエスは、私たちが愛のうちにたゆまず努力し続け、苦しんでいる人たちへの尊厳を取り戻し、その名にふさわしい社会を築くことができるように励ましてくださいます。
*物語の登場人物
72.たとえ話は強盗から始まります。イエスは、私たちが犯罪そのものとそれを犯した泥棒のことにこだわらないように、強盗がすでに起こったときに始めることを選ばれました。けれども、私たちはそれらのことをよく知っています。私たちは、権力や利得、分裂といった些細な利益に奉仕する、怠慢と暴力の暗い影が、私たちの世界に降り立っているのを見てきました。
本当の問いかけは、私たちが負傷した人を見捨てて、暴力を受けないように逃げるのか、それとも泥棒を追いかけるのか、ということです。負傷した人への対応は、私たちの和解のできない分裂、非情な無関心、内紛を正当化するものになってしまうのでしょうか?
73. たとえ話は私たちに、通りすがりの人にしっかりと目を向けるよう求めています。悪気があろうとなかろうと、軽蔑あるいは注意散漫によるものであろうと、自分たちを道の反対側に通らせてしまう、びくびくとした無関心は、あの祭司とレビ人のことを、私たち自身と周囲の世界との間に拡大しつつある大きな隔たりを示す悲しむべき姿にして見せます。
安全な距離をおいて通り過ぎるためには、その人を避けるように歩いたり、無視したり、苦しみに無関心でいたりするなど、様々なやり方があります。
あるいは、ただ単に見て見ぬふりをすることもあるでしょう。一部の国やその国の特定の分野で見られるように、です。そこでは、貧しい人たちや彼らの文化が軽蔑されているにもかかわらず、あたかも、外から持ち込まれた開発計画が、彼らを徐々に排除することができるかのように、見て見ぬふりがされます。
これが、自分たちの無関心を正当化するやり方です。貧しい人々は-その必死に助けを求める声は心に触れるかも知れないが-単に、存在しないのだ、と。貧しい人たちは、彼らの関心の視界の外にあるのです。
74.通り過ぎて行った人たちについての詳しい言及にも、注意を向けましょう。彼らは信心深く、神の崇拝に献身する祭司とレビ人でした。この点を見落としてはなりません。彼らの振る舞いは「神への信仰と崇拝だけでは、神に喜ばれるような生き方を私たちが実際にしている、と保証するには不十分だ」ということを示しています。
自身の信仰に求められていること全てに忠実でないにもかかわらず、「自分は神の近くにおり、他の人よりも優れている」と考える信徒がいます。だが、私たちの兄弟姉妹に心を開く信仰の実践こそ、神に対して真の素直な心を開く保証になるのです。
聖ヨハネ・クリゾストモは、当時のキリスト教徒の聴衆に挑戦的な姿勢を取った際、このように辛らつな言葉を投げかけました。「救い主の御体を敬いたいですか?御体が裸になった時、軽蔑してはいけません。御体が、戸外で裸で寒さに震えているのに、教会の中で絹の祭服を着て敬ってはなりません」(58)と。逆説的ですが、「自分はキリスト教徒でない」と言う人の方が、キリスト教徒よりも神の御旨をよく実行できることがあります。
*(「カトリック・あい」注: 聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(347年ごろ-407年)は、シリアのアンティオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、神学やギリシャ哲学も修めた。年少時から修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となり、すばらしい説教で人々を感動させたことから、後世になって「クリゾストモ」(黄金の口)と讃えられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放され、その地で多くの手紙・著作を書いた。)
75.「強盗たち」は通常、「通り過ぎる、または目をそらす」者たちの中に、”秘密の味方”が見つけます。社会を操り欺く人々と、「(自分は)自立した公正な批評家だ」と言いながら、その社会の構造と利益で暮らしを立てている人々の間には、一定の相互作用があります。犯罪の責任を免れ、個人や企業の利益のための制度を悪用し、そして撲滅することが不可能に見える他の悪事が、あらゆるものに対する容赦のない批判、不信と混乱をもたらす絶え間ない”疑惑の種まき”を伴っているところに、「嘆かわしい偽善」が存在します。
「すべてが壊されている」との不満には、「修理できない」あるいは「私に何ができるというのか」という言葉で答えられています。それは、幻滅と絶望につながり、結束と寛大さの精神を促すことはありません。人々を絶望に陥らせることは、完全に捻じ曲げられた循環を閉ざします。これが、人的物的な資源と思考や意見表明の可能性を共に支配する隠れた利権の”目に見えない独裁権力”の計略なのです。
76.最後に、襲われてけがをした男の人に目を向けましょう。私たちも、彼のように、ひどいけがをし、道端に置き去りにされていることを感じる時があります。また、私たちの組織が、軽視されて必要なものが足りないことで、あるいは単に内外の少数者の利益に奉仕していることで、無力感を覚えることもあります。
確かに「グローバル化された社会は、しばしば視線を逸らす優雅な方法をとる。政治的な正しさやイデオロギー的な流行を装って、苦しんでいる人々を、触れずに、眺める。彼らのライブ映像をテレビで放映し、婉曲的な言葉を使い、見かけだけの寛大さで、彼らについて語ることさえある」(59)のです。
*新たな出発
77.私たちには日々、新たな機会、新たな可能性が与えられています。全てのことを、私たちを治める者に期待すべきではありません。子供じみているからです。私たちには、物事の新しい進め方や変化を創造し、実行に移すための共同責任に必要な余地があります。問題を抱えた社会の再生と支援に積極的に参加していきましょう。今日、私たちは、生来の友愛の感覚を表現し、さらなる憎しみや恨みを煽るのではなく、他人の苦難の痛みを担う「善きサマリア人」になる絶好の機会に恵まれています。
たとえ話の中の、たまたまその場に居合わせた旅人のように、私たちに必要なのは、「倒れた者を助け上げ、歩みを共にし、包み込むために絶え間なく努力する人や共同体になろう」という純粋で、素朴な願望を持つことだけです。私たちはしばしば、暴力的な人、盲目的な野心家、不信と嘘を広める人の心的傾向に屈してしまうかもしれません。政治や経済を自分たちの権力闘争の場と見なし続ける人もいるかもしれません。私たちは、善なるものを育み、奉仕に身を置きましょう。
78.私たちは底辺から始め、一件づつ、最も具体的かつ地域レベルで行動することができ、その後、あのサマリア人が負傷した男のそれぞれの傷に示したのと同じような世話と関心を持って、私たちの国と世界の最も遠くまで展開することができます。痛みや能力不足を恐れずに、他者を探し出し、ありのままの世界を受け入れましょう。そこに神が人間の心に植え付けられた全ての善が見いだされるからです。圧倒されそうな困難は、成長の機会であって、ただ黙認につながる陰気な諦めの言い訳にはなりません。とは言え、一人の個人としてこのようなことをしないようにしましょう。
マタイ福音書に登場するサマリア人には、自分の世話をしてくれる宿屋の主人がいました。私たちもまた、「小さな個人の集合体」よりも「強い家族」として団結するように求められています。それは「全体は部分よりも大きいが、また、部分の総和よりも大きい」(60) からです。無用な争いと絶え間ない対立をもたらしている心の狭さと憤りを捨てましょう。自分自身に同情するのをやめ、自分の罪、無関心、嘘を認めましょう。償いと和解が、私たちに新しい命を与え、私たち皆を恐怖から解放してくれるでしょう。
79.途中で立ち止まったサマリア人は、何のお礼も感謝も期待することなく、その場を離れて行きました。人を助けようとする努力は、彼の人生に、そして神の前で大きな満足感を与え、そうして、義務となりました。自分の民族、そして地球上の全ての民族の傷を負った人々に対する責任が、私たち全員にあります。「善きサマリア人」が見せたのと同じ友愛の精神による気配りと親密さをもって,すべての老若男女が必要としていることに、気を配りましょう。
*境界をもたない隣人
80. イエスは、「私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、善きサマリア人のたとえ話をされました。イエスの時代の社会では、「隣人」という言葉は通常、「自分たちに最も近い人たち」を意味していました。助けは、主に「自分の集団や種族に与えられるべきものだ」と考えられていました。
当時のユダヤ人の一部にとっては、サマリア人が見下され、不潔な者と見なされ、助けられるべき存在ではありませんでした。自らもユダヤ人であるイエスは、そのような認識を完全に改められます。イエスは私たちに、「誰が、私たちの隣人になれるほど親しいか」決めるのではなく、私たち自身がすべての人の隣人になるようにと、求めておられます。
81. イエスは、私たちに、「助けを必要としている人たちが、私たちの社会的な集団に属しているかどうか、にかかわらず、その人たちに寄り添うように」と求めておられます。たとえ話のサマリア人は、けがをしたユダ人の隣人となりました。彼は身をもって、けがをした人に近づき、寄り添うことで、すべての文化的、歴史的な境界を渡りました。
イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)という言葉で、たとえ話を締めくくられます。言い換えれば、イエスは私たちに、すべての違いを脇に置いて、苦しみを前にする時には、”問答無用”で他者に寄り添うように、促しておられるのです。私たちはもはや、「私には助けてくれる隣人がいる」と言うべきではなく、「私自身が他人の隣人にならねばならない」と言うべきです。
82. しかし、このたとえ話には悩ましい側面があります。と言うのは、けがをした人はユダ人であり、立ち止まって彼を助けた人はサマリア人だったと、イエスが言われるからです。この点は、すべての人を包み込む愛について私たちが深く思いめぐらすために、とても重要です。サマリア人は異教の儀式が行われていた地域に住んでいました。それが、ユダヤ人にとって、彼らを不潔で、忌まわしく危険な存在にしたのです。実際、あるユダヤの古文書では、ひどく嫌われた国々に言及した箇所で、サマリア人のことを「民ではない者たち」(シラ書50章25節)と語っています。「シェケムに住む愚かな者ども」(50章26節)としてもいます。
83. このことは、あのサマリア人の女性がイエスに「水を飲ませてください」と言われた時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしい、と頼むのですか」(ヨハネ福音書4章9節)と、そっけなく答えた理由、を説明しています。
イエスの信用を落としたい者たちがもたらそうとした最も侮辱的な容疑は、イエスが「悪霊に取りつかれている」と「サマリア人だ」(ヨハネ福音書8章 48節)ということでした。
それで、この(注:けがをした)サマリア人と(彼に寄り添った)ユダヤ人の間の”慈しみの出会い”は、非常に挑戦的であり、イデオロギー的に操作の余地がなく、未開拓の分野を広げるようにと、私たちに迫ります。それは、すべての偏見、すべての歴史的および文化的な壁、すべてのささいな利益を超越する、普遍的な広がりを、私たちの愛への呼びかけに与えてくれるのです。
*助けを求めるよそ者の声
84. 最後に、福音書の別の一節で、イエスは、「(あなたがたは、私が)よそ者であったときに、宿を貸し(てくれた)」(マタイ福音書25章35節)と言われていることに注目したいと思います。イエスは、他人の困難に敏感であり、寛大な御心を持っておられるため、その御言葉を話されることができました。
聖パウロは私たちに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)と促しています。私たちが心を込めてそのように行うと、相手がどこで生まれたのか、どこから来たのかを気にすることなく、彼らに共感することができるのです。その過程で、私たちは、他者のことを「自分の肉親」(イザヤ書58章7節)として体験するようになります。
85. キリスト信者にとって、イエスの御言葉はさらに深い意味を持っています。それは、私たちの見捨てられた、あるいは除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25章40節、45節を参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するように、導いてくれます。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力があります。信者たちは、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るようになるからです(61)。
同じように、私たちは、キリストが私たち一人ひとりのために御血を流してくださったこと、そして、キリストの普遍的な愛の及ばない者はいないことを信じています。私たちは、三位一体の神の存在そのものである、愛の究極の源に向かうならば、聖三位のペルソナの交わりの中で、社会におけるすべての命の原点と完全な模範に出会うことになります。神学は、この偉大な真理を思いめぐらすことによって、豊かさを増し続けています。
86. このことを考えると、「なぜ教会が奴隷制や様々な形の暴力をはっきりと非難するのに、こんなにも長い時間がかかったのだろう」と不思議に思うことが、私にはあります。私たちの霊性と神学が発達した今日では、私たちには言い訳がありません。それでも、様々な偏狭で暴力的な民族主義、外国人嫌悪や軽蔑、さらには自分たちと異なる人たちを虐待するのを支援するように、信仰によって励まされている、あるいは、少なくとも許されている、と感じている人たちがいるようです。
信仰と、それに鼓舞される人道主義は、これらの傾向に直面しても批判的な感覚を保ち、それらが頭をもたげるたびに、すぐに対応を促さなければなりません。このため、教理教育(カテキ-シス)と説教は、存在の社会的な意味、霊性の友愛的な側面、各人の不可侵の尊厳に対する私たちの信念、そしてすべての兄弟姉妹を愛し、受け入れる我々の理由について、より直接的かつ明確に話すことが重要です。
第3章 開かれた世界を考え生み出す ENVISAGING AND ENGENDERING AN OPEN WORLD
87.人間は「心から自分を他者に与えることに於いて」(62)しか生き、発展し、満足することはできないように造られています。また、他者との出会いなしに、自分を十分に知ることもできません。「私は、他者と理解し合うことによってのみ自分自身をきちんと理解することができるのです」(63)。誰も、他者とかかわりを持つことなく、真に愛することなく、人生の本当の美しさを経験することはできません。
これは、真正な人間存在の神秘です。「心の絆、親交、兄弟愛のある所に人生があるのです。そして、それが真の結びつきと忠誠心の絆の上に建てられているとき、生きることは死よりも強いのです。その反対に、自己満足を求め、孤独に生活するなら、生きているとは言えません。こういう態度で生きるなら、死の方が勝ります」(64)。
*自分自身から抜け出す
88.すべての人の心の底深くに、愛は絆を作り、存在を広げます。愛は人に、自分自身から抜け出させ、他者へと向かわせるからです(65)。私たちは愛のために造られているので、私たち各々の中で、「ekstasisの法則」が働くようです-「愛するものは他者の中でもっと充実した存在になることを求めて自己の“外に出てゆく”のです(66)。そのために「人はいつも自分自身から抜け出すという覚悟を持たねばならないのです」(67)。
89.また、私の人生を小さなグループ、たとえ自分の家族でも、との関係だけに縮小することもできません;私より先に生まれ、私の全人生を形作ってくれた人々を含め、もっと広い人間関係のネットワークから離れて自分自身を知ることは出来ません。私が大切に思う人々との関係では、彼らが私のためだけに生きているのでもなければ、私が彼らのためだけに生きているのでもないという事実に気付かねばなりません。
私たちの関係は、もし健全で確実なものなら、私たちを広げ、私たちを豊かにしてくれる他者へ向けて開いてくれます。昨今は、あたかも深い関係であるかのような印象を与える自己中心的なチャットによって、私たちの最も気高い社会的本能が簡単にくじかれます。
反対に、本物の、成熟した愛と、真の友情は、他者との関係を通じて成長するよう開かれた心に深く根をおろすのみです。夫婦や友人として、私たちが自分たちの外に足を踏み出し、他者を抱擁するとき、私たちの心は広がるのです。他者を自分たちと区別する閉じたグループや夫婦は、自分本位や単なる自己保存に傾きがちです。
90.意義深いことに、人里離れた地域に住む多くの小さな共同体は、「人を親切にもてなす」という神聖な義務を果たすために、巡礼者たちを歓迎する、という素晴らしい慣習を作り上げました。聖ベネディクトの宗規にもみられるように、中世の修道院も、同様でした。それは修道院の規律や静寂には邪魔になったはずですが、それにもかかわらず、ベネディクトは「貧しい人たちや巡礼者たちを最大の心遣いで世話するべきだ」(66)と主張しました。
親切にもてなすことは、自分たちの仲間の外の人々との出会いで、外に心を開こうと行動する挑戦であり、贈り物です。修道士たちは、外に喜んで目を向け、他者に心を開いていくことが必要だ、とはっきり理解していました。
*ユニークな愛の価値
91.人々は、不屈の精神やまじめさ、勤勉、などのような道徳的に価値があるように思える習慣を身に着けていくことができます。しかし、様々な道徳的価値のある行為を目指すなら、他者に向けどれだけ心を開き一致していけるかも考える必要があります。それは、神が注がれる慈愛によって可能になるのです。
慈愛なくしては、おそらく美徳に見得るものをもっているだけで、それでは人生全般を支えることはできません。それ故、聖トマス・アクイナス(注:1225年頃 – 1274年3月=中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者)は、その言葉を引用するなら、「欲深い人の節制は決して有徳ではない」(69)と言い得たのです。一方、聖ボナヴェントゥラ(注:1221頃-1274=トマス・アクィナスと並び称されるフランシスコ会学派の二大神学者の一人)は、慈愛がないなら、ほかのどんな徳も、厳密に言って、「神が彼らに望むように」(70)という掟を満たしていない、と言っています。
92.人の一生の霊的価値は、愛によって測られます。愛が、最終的に「その人生に価値があったか、欠けていたか、の決定的基準」(71)となるのです。しかし、それは自分たちのイデオロギーをほかの人たちに押し付けることにあるとか、激しく真実を防御することにあるとか、印象的に力を証明することにあると考える信者たちもいます。信者として、私たちすべてが、まず愛が一番大切であることを認識する必要があるのです。決して愛が危険にさらされてはならず、最大の危険は、愛がないことにあるのです。(コリントの信徒への手紙1・13章1~13節参照)
93.トマス・アクイナスは、おそらく神の恩恵によってつくられた他者のために外へ向かう愛を述べようとしました。その愛によって私たちは「何かで私たち自身と結ばれた愛しい人たち」(72)のことを考えます。私たちは他者への愛情から、自然に彼らに良かれと求めます。
これはすべて、他者への好意や、彼らの価値を認識することから発しています。これは突き詰めれば「慈愛」という言葉の裏にある考え方です。すなわち、愛される人々は私にとって「いとしい人」、または「大きな価値のあると思われる人々」(73)なのです。そして、「幸せにしてもらえる愛があるために、無償で何かを与える」(74)のです。
94.それなら、愛とはただの一連の慈悲深い行為以上のものになります。これらの好意は他者を身体的、または道徳的外観とは別に、価値あるもの、魅力的で美しいものと考えてますます他者へと向かう結びつきから出たものです。他者への愛は、それがだれであれ、私たちに彼らの最良の人生を求めさせます。お互いに関係を持つこのやり方を育てることによってのみ、誰をも排除しない社会的友情、すべての人に開かれた友愛を可能にすることができるのです。
*ますます開かれた愛
95.愛は私たちを、普遍的な交わりへと向かわせます。誰も他者から離れて成熟し、達成感を得ることは出来ません。愛はもともと、より大きく開かれた心と、周囲すべてをより大きな意味で共通の財産と思わせる予期せぬ経験の連続として他者をうけいれる能力を求めるのです。イエスが言っています-「あなたたちはみな兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)と。
96.このためには、異なる地域や国に対して私たち自身が持っている境界を超えることが必要です。実に、今日の世界の、ますます広がる交流や情報伝達は、私たちに国家間の共通の結束と共通の運命を強く意識させます。歴史の流れや民族のグループ,社会や文化の中に、私たちはお互いに受け入れ、気遣う兄弟姉妹からなる共同体をつくるという召命の種を見るのです。
*すべての人を融和させる開かれた社会
97.町の中心部であれ、家族間であれ、私たちに閉ざされた周辺があります。それゆえ、普遍的に開かれた愛には地理的よりむしろ存在にかかわる側面があるのです。私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。私が住んでいる社会に見捨てられたり、無視されたりしている兄弟姉妹は、同じ国に生まれているにもかかわらず、実際にはそこに存在する外国人(よそ者)なのです。彼らは立派に権利を持つ市民でありながら、自分の国で外国人のように扱われているのです。人種差別は素早く突然変異するウイルスです。消えるのではなく、隠れ、潜伏するのです。
98.私は社会の中でやはり異質のものとして扱われている「精神的追放」をされている人々のことを述べたいと思います(76)。障害のある多くの人たちが、「社会の一員として、社会に参加することなく存在していると感じています」。そればかりか、完全な自由権を妨げられています。
私たちは、彼らを、世話することだけでなく、民間または教会の共同体に活動的に参加できるようにすることに関心を持つべきです。それは、時間のかかる、骨の折れる作業ですが、一人一人の人間を類のないかけがえのないもの、と認めることのできる心を育てることにだんだんと貢献していきます。
私は、また「障害があるゆえに、時に重荷と考えられている高齢者」のことも考えます。しかし、高齢者はそれぞれ、「彼らの素晴らしい人生の経験を通して皆のために独特の貢献」ができるのです。もう一度繰り返します。私たちは、「悲しいことに、いくつかの国では、今日でさえ、障害のある人たちを『同じ尊厳を持つ人々だ』と認めることがなかなかできないでいる。だからこそ、障害の故に差別されている人々に発言できる機会を与える勇気」(77)を持つことが必要です。
*普遍的愛の不十分な理解
99.教会を超えることのできる愛は、あらゆる都市や国で「社会的友情」と呼ぶことのできるものの基礎となります。社会の中での本物の社会的友情は、真の普遍的な心の広さを可能にします。これは、「自分自身の国の人々を我慢できないとか、愛せないために、絶えず海外に出掛ける人々」の誤った普遍主義とは、まったく違うものです。
自分自身の国民を見下す人々は、社会の中に、「ファーストクラス」と「セカンドクラス」、あるいは「重要な人」と「劣る人」、「大きな権利をもつ人」と「そうでない人」とという区別を作りがちです。こんな風に、彼らはすべての人のために場所があることを否定するのです。
100.私は決して、少数のグループによって立案または計画され、人を平準化したり支配したりするための理想として提示された権威主義的、あるいは抽象的な普遍主義を提案しているのではありません。
実際に、ある”グローバル化”のモデルでは、「意識的に皮相的な均一性を目指し、表面的な画一性を求めるあまり、すべての違いや伝統を無くそうとします。もし、ある種の”グローバル化”が、すべての人を同じにし、すべての人を均一化しようと求めるなら、そのグローバル化は、各人、各国民の豊かな才能とユニークさを破壊することになります」(78)。
このような誤った普遍性は、世の中から様々な色合い、その美しさ、最後にはその人間性まで奪ってしまうことになりかねません。しかし、未来は“モノクローム”ではありません。もし私たちに勇気があるなら、各個人が提供するはずのあらゆる多様性や相違点を考えに入れて、未来を描くことができるのです。私たちのすべてが同じでなくても、調和して平和に共に生きるために、私たち人類家族は多くを学ばねばならないでしょう。
*「仲間」の世界を超えて
101.善きサマリア人のたとえ話に戻りましょう。それは、今でも私たちに言えることがたくさんあるからです。道端に怪我をした人が倒れています。通りかかる人たちは、隣人として行動せよ、という心の内なる命令に注意を払いませんでした。社会の中で、自分たちの仕事、社会的地位や職業的立場が大事だったのです。当時の社会で、自分たちを重要だと思っていて、自分たちに相応の役割を果たしたい、と切に思っていました。
道端に怪我をして見捨てられた人は、そのすべてを邪魔する迷惑な存在でしかありませんでした。いずれにしても、大切な存在ではありませんでした。平凡な、取るに足らない人で、自分たちの将来に、無関係の人でした。
よきサマリア人は、このような狭量な人々を超えていました。彼らのどの範疇にも当てはまりませんでした。社会では居場所のない異国人にすぎません。名も地位もなく、旅を中断しても特に支障はなく、予定を変更して、助けを求めている傷ついた人を、前もっての用意もなく助けたのです。
102.他の人から自分たちを引き離すアイデンティティにしがみつく社会集団が絶え間なく現れ、成長する今日の世界では、この同じ物語が起きたら、そうした人々はどのように反応するでしょうか。彼らのアイデンティティや、閉ざされた自分だけに関係した組織を脅かされない異質の人たちを防ごう、と団結する人々の行動に、どう影響するでしょうか。
隣人として行動する、という可能性は除外したとしても、彼らの目的にかなった人たちにだけ、隣人なのです。そこでは「隣人」という言葉がすべての意味を失います。ある利益を遂行するパートナーである「仲間」という言葉でしかなくなります。
*自由、平等、友愛
103.「友愛」という言葉は、個人の自由を尊重する社会的風土だけでなく、行政的にも保障された平等の風土の中で生まれます。友愛は、必然的に、何かもっと偉大なもの、自由と平等を高めるようなものを求めます。友愛が意識的に育成されなかったら、教育を通じて、対話を通じ、また相互作用や互いに豊かにし合うことの価値を認識することを通じて、友愛を奨励しよう、とする政治的意思が欠けていたら、一体何が起こるでしょう。
「自由」とは、私たちが誰と何に属するかを、全く自由に選べ、また単に全く自由に所有したり、利用したりして生活する状況、というだけのことになってしまいます。このような浅い理解は、とりわけ愛へと導く自由の豊かさとは無縁のものです。
* 愛はいつも開かれている
104.また平等は、「男も女も含めすべての人間は平等である」というような、観念的な宣言によって達成されるものでもありません。それは、友愛を意識的に、注意深く育んだ結果なのです。「仲間」だけしかつくれない人々は閉ざされた世界を作ります。そのような枠組みの中で、仲間のグループには入れないが、それでも自分自身や家族のためにより良い生活を求める人々に居場所はあるのでしょうか。
105. 個人主義は、私たちをもっと自由に、もっと平等に、もっと友愛に満ちたものにしてはくれません。個人的な利益を集めただけでは、人類という家族全体のためにより良い世界を生み出すことはできません。また、今ますますグローバル化している多くの病気から私たちを救うこともできません。
過激な個人主義は、取り除くのが非常に難しいウイルスです。それは賢いからです。それは、私たちに、あたかもますます膨らむ野望を追いかけ、何とか共有の利益に役立つ安全網を作り上げることによって、すべて自分自身の野望のまま、やりたいようにできることにある、と信じ込ませるからです。
*人を高める普遍の愛
106.いつでも、どこでも、社会的な友情と普遍的な友愛は、必ず一人一人の人間の価値を認めることを求めます。各個人が皆、大きな価値があるのですから「資源に乏しく、発展していない場所に生まれたという事実だけで、その人たちが、尊厳を欠いた生活をしている、という現実を正当化することにはならない」(81)ことは、明確に、断固として述べられねばなりません。これは、彼らの世界観に合わないとか、彼らの目的に貢献しない、と感じる人々によって、色々なやり方で無視されがちな社会生活の基本的な原則なのです。
107.すべての人間は、尊厳をもって、完全に発展する権利を持っています。いかなる国も、この基本的な権利を否定することはできません。たとえ非生産的に生まれても、欠陥を持って生まれても、人にはこの権利があります。これは、彼らの人間としての偉大な尊厳を減ずることにはなりません。それは、境遇を基にした尊厳ではなく、彼らの存在に本来、備わっている尊厳です。もしこの基本的な原則が擁護されないなら、友愛にも人間性の存続にも、未来はないでしょう。
108.この原則をある程度受け入れている社会もあります。機会はすべての人に与えられるべきだ、ということに同意しています。そして、すべては個人次第だ、というのです。このゆがんだ大局観からは、「遅い人々、弱い人々、才能に恵まれない人々が、人生の機会を見つけるのを助ける努力に投資するのを支持するのは、無意味に思えることでしょう」(82)。弱者を援助することに投資しても利益がないだろうとか、物事の能率を悪くするだろう,と思うのです。
実際、私たちに必要なのは、現存し、活動的な国家や民間組織で、ある種の経済的、政治的イデオロギー的組織の自由で効率的な働きを超えたその先を見て、まず第一に、個人と共通善に関心をもつ国家や民間組織なのです。
109.経済的に安定した家庭に生まれ、立派な教育を受け、よく成長し、また、天性の素晴らしい才能を持っている人々もいます。彼らには確かに積極的な取り組みをする国家は必要ないでしょう。彼らは自由を求めるだけで事足ります。
しかし、障害のある人や、悲惨な貧困の中に生まれた人や、良い教育を受けられず、十分な健康管理を受ける手段を持たない人に、同じルールは明らかに当てはまりません。もし社会が主として市場の自由と効率の良さの基準で統治されているなら、そのような人々の居場所はなく、友愛はただのうつろな理想のままになるでしょう。
110 実際、「現実の状況のせいで、多くの人の手に届かず、雇用の可能性も減少している状況で経済的自由を要求することは意味がありません」(83)。自由や民主主義や友愛などという言葉は、意味のないものとなる。それは、「私たちの経済的社会的システムが、もはや一人の犠牲者も生み出さず、一人も置き去りにしない時に初めて、私たちは普遍的友愛の宴を祝うことができるようになるからなのです」(84)。
本当に人間的で友愛に満ちた社会では、その構成員の誰もが、人生のあらゆる段階で、効率的かつ安定した方法で寄り添い助けてもらえるのです。必要最低限のものを与えるだけでなく、うまくできなくとも、ペースが遅くとも、効率よくできなくても、彼らが最大の力を発揮できるように助けるのです。
111.人には、奪うことのできない権利があり、生まれつき関係を持つように開かれているのです。私たちのうちに深く植え付けられているは、他者との出会いを通して自分自身を超えよ、という呼びかけです。その理由で、「人権という概念と、その誤った使い方に注意しなければなりません。今日、もっと広い意味での個人的-私は個人主義的と言いたくなりますが-な権利を要求する傾向があります。その根本には、一段と他者と関わりを持たない個体であるかのような『すべての社会的、人類学的文脈人から切り離された人間関係』という概念が潜んでいます。…もし、各個人の権利がより大きな善のために調和するよう命じられないなら、これらの権利は最終的には際限がなくなり、絶えず闘争や暴力の源となるでしょう」(85)。
*道徳的善を促進する
112. 他者の利益と人類家族全体の利益を求め追及することは、総合的な人間の発展を助長する道徳的な価値を個人や社会が成熟させるのを助けることを意味する、ということも述べたいと思います。新約聖書は、霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)のことをギリシャ語でagathosyneと表現しています。それは「善を愛し,善を追い求める」ことを意味します。更に、それは、他者の美点と他者のため最上のものを目指して努力することを示唆しています。
彼らの成熟度や健康が増すこと、彼らの価値を高めることで、単に物質的な幸福だけではありません。同様の表現がラテン語にもあります。Venevolentiaです。これは、他者の「幸福を願う」態度のことです。これは、善へのあこがれと、素晴らしく、卓越したものへの傾倒、他者の人生を美しく、崇高で、啓発的なもので満たしたい、という願望を示します。
113.しかし、残念なことに、ここで、私は「私たちが十分に不道徳で、倫理、善、信仰、正直さを軽視してきたことも、繰り返し言わねばならない、と感じます。軽率な気持ち、皮相的なものは私たちのためになっていない、ということを認める時です。一度、社会生活の基礎がむしばまれたら、起こることは利害の対立をめぐっての闘いです」(86)。
私たち自身と、全人類家族のために善の促進に立ち返りましょう。そして、このようにして本物の総合的な成長に向かって進みましょう。すべての社会は、確実に価値観が伝えられることを必要としています。さもないと、子供たちに伝わるものは、利己主義と、暴力と、いろいろな形の堕落、無関心、そして、最後には閉ざされた、超越のない生活、個人の利益に凝り固まった生活だけです。
*連帯の価値
114.私は、特に「連帯」について述べたいと思います。それはこのようなことです。
「個人的回心から生まれた倫理的美徳と社会的態度として、教育や育成に責任のある人々に、献身的に関わることを求める。私はまず、家庭を考えるー家庭は、教育について最も重要な任務を負っている。家庭は、愛や兄弟姉妹の愛、連帯感と分かち合い、他者を思いやり、気遣うことの価値観を持って生涯を生き抜き、次の世代に伝えられる最初の場所である。家庭は、また、母親が子供たちに教える最初の簡単な信仰を表す身振りから始まり、信仰を伝える最高の場所だ。
そして教師たち-子供たちや若者たちを学校やその他の場所で教えるという、やりがいのある仕事を持つ人たち-は、自分たちの彼らへの責任が人生の道徳的、精神的、社会的な側面にまで及ぶ、と意識する必要がある。自由や互いに敬意を払うことや、連帯の価値は、幼い頃から伝えることができる…。情報伝達に携わる人たちにも教育と人間形成に責任がある。特に、情報と伝達の手段がこれほど幅広く普及した今日においては」(87)。
115.すべてが、ばらばらで、一貫性を無くしているように見える時には、「連帯」(88)に訴えることが有効です。それは、私たちが共通の未来を作り上げて行く努力の中で、他の人々の弱さに責任がある、という意識から生まれたもの。連帯には、奉仕するための具体的な表現方法があり、他の人々を大切にしようと努める中で、あらゆる形をとることが可能です。
そして、奉仕は主として「弱さへのいたわり、私たちの家庭、社会、そして国民の中の弱い仲間を守る」ことを意味します。そのような奉仕を提供することで、人は学ぶのです。「最も弱い人々が実際に見つめる瞳の前では、自分の願いや願望、自分の権力の追及などをわきに置くことを。…奉仕するときはいつも彼らの顔を見て、彼らの体に触れ、彼らとの近さを感じ、時にはその近さに『苦しみ』さえして、彼らを助けようとするのです。奉仕は決して観念的なものではない。なぜなら、私たちは”観念”に奉仕するのではなく、”人々”に奉仕するから」(89)です。
116.貧しい人々は、一般的に貧困者同士の間で、特別に連帯しています。そして、私たちの文明は、それを忘れているように見え、実際、忘れていたいのです。
「連帯」は「いつも良く思われるとは限らない言葉だ。ある状況では、それは禁句で、あえて言わない言葉となっている。『連帯』とは、散発的に寛大な行為に従事する以上のことを意味します。それは、地域共同体の点から考え、行動することを意味する。それは、すべての人の生活が、少数の人々が富を占有することよりも大切だ、ということを意味する」「それはまた、貧困、不平等、仕事や土地や住まいの不足、社会的な労働の権利の否定などの原因となる構造、と闘うことを意味する。それは、お金の帝国の破壊的な影響と対決すること意味する… 連帯とは、その最も深い意味で理解するなら、歴史を作る方法で、これが、今の人々のしている運動の在り方」(90)なのです。
117.私たちの共通の家である地球を守る必要について話すとき、私たちは、まだ人々の心の中にあるかもしれない普遍的な意識と、相互の関心のひらめきに訴えます。豊富な水を謳歌し、より大きな人類家族のために大切に使うことを選ぶ人たちは、自分たちや自分たちの属する集団を超越してものを見ることのできる、道徳的な高さに達しています。
人間は何と素晴らしいのでしょう!私たちがすべての人たちの権利、自分自身の境界を超えて生まれた人々の権利を認めることができるかどうか、同じ態度が求められているのです。
*財産の社会的役割を改めて考える
118.世界は、すべての人のために存在します。それは、私たちすべてが、同じ尊厳をもって生まれたからです。肌の色、宗教、才能、生まれた場所、住んでいる場所、その他、色々な違いを、ある者たちだけが特権を持つことを正当化するために、使うことはできません。共同体として、私たちには、すべての人が尊厳をもって、完全に発展するための十分な機会を持つことを、保証する義務があるのです。
119.キリスト教の初期の時代に、多くの思想家たちが、創造物の共通の目的についての考察で、普遍的な見方を発展させました(91)。尊厳をもって生きるのに必要なもの欠く人が一人でもいたら、それは、他の人がそれを奪っているからだ、と悟らせました。
聖ヨハネス・クリュソストモス(注:347年に シリアのアンティオキア生まれた。カトリック教会の他、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されている)は、それを、このように要約しています-「私たちの富を貧しい人々に分け与えないことは、彼らから強奪し、彼らの生計を奪うことです。私たちが所有する富は、私たち自身のものではなく、彼らのものでもあるのです(92)。また、大聖グレゴリウス(注: 540年?生まれの教皇グレゴリウス1世のこと。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人)は、こう言っています-「貧しい人々に最低必要限のものを与える時、私たちは、私たちのものでなく、もともと彼らのものを与えているのだ」(93)と。
120.もう一度、聖ヨハネ・パウロ2世が語られたことを繰り返したいと思います-彼の力強さは、おそらく十分に認識されていません-「神は、地球に、全人類のため、生きるために必要なものを与えられた。誰一人除外することなく、誰一人特別扱いすることなく」(94)。
私としては、こう言いたいと思います。「キリスト教の伝統は、財産を絶対的で、不可侵のものとして所有することを、決して認めていません。そして、あらゆる形の私的財産の社会的目的を強調している」(95)と。創造物を共有して使う原則は「すべての倫理的、社会的順序の中で、一番の原則です」(96)。それは、他の何より優先される生来の本来備わった権利なのです(97)。
人が目的を完全に満たすために必要な、すべての他の権利は、私的財産や他の種類の財産を含め、聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「決してこの権利を妨げてはならず、その実行を積極的に促進するものでなければならない」(98)のです。私的財産の権利は、創造物の普遍的な目的の原則からすると、二次的な生来の権利でしかありません。これは、社会の働きの中でよく考えられねばならない明確な重要性をもつものです。それでも、二次的な権利が第一の、最優先の権利にとって代わり、まったく見当違いのことが行われることがよくあります。
*境界を持たない権利
121.ですから、出生地ゆえに、まして、より大きな機会に恵まれた土地に生まれた人たちが享受する特権ゆえに、誰もが排除されたままでいることはできません。個々の国の制限や境界が、妨げてはなりません。女性だという理由で、権利が(注:男性より)少ないことを容認できないように、単に出生地や居住地のせいで、発展した堂々たる人生の機会が減ってしまうことも、受け入れがたいことです。
122.発展は、少数の人が富を蓄積するように意図されてはなりません。「人権-個人的そして社会的に、経済的そして政治的に、国家や人々の権利を含めた人権」(99)を保障するものでなくてはなりません。自由企業や市場の自由への誰かの権利は、人々の権利、貧しい人々の尊厳に取って代わることはできない、さらに言えば、自然環境への敬意に取って代わることはできません。「もし私たちが何かを自分のものとするなら、すべての人の利益のためにそれを管理するためだけ、なのです」(100)。
123.経済活動は、本質的に「富を生み、私たちの世界をより良くするための、気高い使命」(101)です。神は、私たちに与えられた才能を伸ばすように仕向けられ、私たちの世界を、計り知れないほど可能性のあるもの、とされました。神の計画では、それぞれの人に自己開発を促進することを求め(102)、これには、商品を何倍にもし、富を増やす最良の経済的、技術的な手段を見つけることも含まれています。
神から与えられた経済活動の能力は、いつでも、明確に他の人々の発展に向けられ、特に、さまざまな就業の機会を産み出すことを通して、貧困を無くすことに向けられるべきです。私的財産の権利には、「すべての私的財産は地球の財の世界的な最終目的に従う」という第一の優先原則が、常に伴うのです。そして、このようにして、すべて人の権利は、その使用に帰するのです(103)。
*諸国民の権利
124.今日では、地球の財の共通の目的への確固たる信念は、この原則が国家、領土、資源にも適用されることを求めています。私的財産や市民権の正当性だけでなく、「財の共通の目的」という第一の原則に立てば、それぞれの国も、自国の領土の財を「他から来た貧しい人々に使わせない」と言ってはならない、といえます。
米国の司教たちが教えているように「神によって造られたそれぞれの人に認められた尊厳から流れ出てくるがゆえに、どのような社会にも優先する基本的な権利」(104)があるのです。
125.これは、国家間の関係や交流を違った方法で理解することを前提としています。仮に、すべての人間が奪うことのできない尊厳を持っているなら、仮に、すべての人々が私の兄弟姉妹であるなら、そして、仮に、世界が本当にすべての人のものであるなら、私の隣人が私の国で生まれていようが、他の地で生まれていようが、どうでもよいことです。私自身の国が、その人の発展の責任を負っているのです。
どのように責任を果たせるか、色々方法がありますが、緊急に助けを求めている人々を寛大に受け入れることもできるし、国民の尊厳ある発展を妨げている腐敗した組織を助けることや搾取するのを拒絶したり、天然資源が奪われることを拒絶したりすることで、自分が生まれた国の生活環境改善のために働くこともできます。
国に当てはまることは、国内の地域にも当てはまります。そこに、とても大きな不平等がしばしば存在しているからです。人間の対等な尊厳を認めることができないと、国内の発展した地域は、貧しい地域という「重荷」を捨てて、自分たちの消費水準を高めようと考える時もあります。
126.私たちは、国際関係の新しいネットワークについて、実際に話しているのです。仮に、私たちが、個人間や小さなクループ間での相互援助の観点からしか考え続けられないなら、世界の重大な問題を解決することは、決してできないからです。また、私たちは「不公平が、個人だけでなく国家全体に影響することを忘れるべきではない。それは、私たちに国際関係の倫理について考えさる」(105)。実際のところ、正義は、個人の権利だけでなく、社会的権利や国民の権利も認め、尊重することを求めます(106)。
これは、「国民の生存と進歩、という基本的権利」(107)-対外債務で生み出される圧力によって、時として厳しく制限されることのある権利です。多くの場合、債務返済の負担は、経済的発展の促進を不可能にするだけでなく、重大な制限や条件付けをします。
「すべての合法的な公的な借金は、返還されなければならない」という原則を尊重することは必要ですが、多くの貧しい国々が、返済義務を果たすために、生存や成長を危うくすることになってはなりません。
127.確かに、このことすべてのためには、別の考え方をすることが必要です。その努力なしにはー私の言うことは、はなはだしく非現実的に思われるでしょうが。一方で、私たちには、奪うことのできない人間の尊厳から生まれた権利がある-という大原則を受け入れるなら、新しい人間性を求める挑戦に立ち上がることができるのです。
私たちは、すべての人に土地と住居と仕事を与えることを、世界に求めることができます。これは、外部の脅威に直面しての『恐怖と不信の種をまく、無分別で近視眼的な戦略』ではなく、真の平和への道です。真に永続的な平和は「人類家族全体の独立と、責任の分担で実現する、『未来に貢献する連帯と協力のグローバルな倫理』を基礎として初めて可能」(108)なのです。
第4章 世界に開かれた心 A HEART OPEN TO THE WORLD
128. もしすべての人々が兄弟姉妹であるという確信が、抽象的な考えに留まるのではなく、具体的なものとして見いだせるならば、多くの関連する諸問題が明らかになり、私たちは新しい光で、新たな対応を展開できるようになるでしょう。
*国境とその限界
129. たまたま隣人が移民であると、複雑な問題が発生します(109)。理想としては不必要な移住は避けるべきです。そのためには、母国での尊厳のある生活と総合的な発展を必要とする環境の創出が必然的に求められます。しかし、この目的の達成という実体的な発展を遂げるまで、移民やその家族が基本的なニーズにかなう場所を見つけ、すべての個人が充足感を得られるように、すべての個人の権利を尊重する義務が私たちにあります。
移民が到着した時の私たちの反応は、歓迎、保護、支援、統合の四つの言葉に要約することができます。なぜならば、「これはトップダウン形式の福祉プログラムを実施するケースではなく、むしろこれらの四つの行動を通して都市や国を構築するための旅を一緒に始めるというケースだからです。旅の目的は、相互の文化と宗教上のアイデンティティを維持しつつ、相違に心を開き、人間の兄弟愛という精神から、いかにして移住者を支援するかを知っている都市や国を構築することです」(110)。
130. このために幾つかの必要不可欠なステップを踏む必要があります。特に深刻な人道的危機に瀕している人々への対応です。
次のような例を挙げることができます。ビザ申請の簡素化と許可数の増加、個人あるいはコミュニティ支援プログラムの採用、最も弱い立場にある難民に対する人道回廊を開くこと、適切で尊厳の維持できる住居の提供、個人の身の安全の保障と基本的なサービスを受けられること、十分な領事館の支援と個人の身分証明の書類を保有できる権利の保障、公正な司法制度へのアクセス、銀行口座の開設と最低限の生活保障、移動の自由と就業、未成年者の保護と通常の教育が受けられること、一時的な身元引受人(後見人)やシェルタープログラムの提供、宗教の自由の保障、社会への適合の促進、家族再会の支援、統合プロセスに役立つ地域コミュニティの準備です(111)。
131. 最近移住したのではなく、すでにすでに社会に組み込まれている移民にとって、「市民権」という概念の適用は重要です。なぜなら市民権は「すべての人々が公平を享受する元となっている、権利と義務の同等性に基づいているからです。故に、私たちの社会で『完全な市民権』の概念を明確にして、孤立感と劣等感を生む『マイノリティ』という差別用語の使用を拒否することが重要になります。差別用語の使用は敵意と不和への道となるからです。それはいかなる成功をも台無しにし、差別待遇をされている市民の宗教の権利と市民権を奪い取るものです」(112)。
132. たとえ人々がこのような重要なステップを踏んだときでさえ、国家は十分な解決策を彼らだけで実行することはできません。「なぜなら、それぞれの国家が決めた結論は、すべての国際的なコミュニティに影響を及ぼすことが不可避だからです」。結果として、「私たちの対応は」移民の移住に関してグローバルなガバナンスという形態を発展させるための「共同の努力の結実でしかないのです」(113)。このように「緊急的対応に限定されない、中期と長期にわたる計画が必要」です。
このような計画は、受け入れ国で移民が社会に適合するために有効な支援を含まなければなりません。しかし、同様に両国の連帯によって生まれた政策を用いて彼らの祖国の発展を促進させる有効な支援も含まれるべきです。しかし、そのとき、支援される人々(移民)の文化とかけ離れた、あるいは反対のイデオロギー的な政策や慣習に支援を関連づけるべきではありません」(114)。
*互いに与え合う贈り物
133. 生活様式や文化の異なる所から来た移民の到来は贈り物になり得ます。なぜなら「移住者のストーリーは常に個人間、文化間の出会いのストーリーでもあるからです。移住先のコミュニティや社会にとって、移住者はあらゆるものの豊かさと総合的な人間成長のチャンスをもたらします」(115)。
このために、私は特に若者に、強く促したいと思います。「自分たちの国に新しくやってきた若者に反対するよう煽るだけでなく、彼らを脅威と見なし『我々と同じ尊厳を持っていない』と見なすように誘う人たちの、術中に陥らないように」(116)と。
134. 実際に、私たちが自分とは異なる人々に心を開くと、彼らは自分自身を保ちつつも新しい方法で成長することができます。何世紀にも渡って繁栄してきた異文化は, 私たちの世界が貧弱にならないように保存されるべきです。同時に、それらの異文化が他者の持つ現実と出会い、新しい体験に触れることも勧められるべきです。なぜなら、文化面での硬化症に陥るリスクが常に存在するのです。
そのリスクに陥らないために、「私たちは互いに連絡をとり、一人ひとりが持つ贈り物を発見し、私たちを結びつけているものを強め、尊敬し合いながら成長するチャンスとして、私たちの相違を見なす必要があります。対話では忍耐と信頼が求められます。忍耐と信頼は、彼ら自身の文化の価値を伝えつつ、他からの与えられる良い体験を喜んで受け入れるために、個人、家族、コミュニティを容認することを可能にします」(117)。
135. 私がこれまでに取り上げた幾つかの例について述べたいと思います。ラテンアメリカ人の文化は「アメリカを非常に豊にすることのできる価値と可能性を発酵させる種」です。なぜなら、「奮闘する移民は移住先の文化に影響を与え、変革させるからです。アルゼンチンでは奮闘するイタリアからの移民が社会の文化に痕跡を残し、およそ20万人のユダヤ人の存在はブエノスアイレスの文化の『形』に大きな影響を与えました。移民は社会に統合するように支援されるなら、神からの恵みとなり、社会を成長に導く豊かさの源であり、新しい贈り物となるのです」(118)。
136. さらにもっと広範囲に及ぶスケールで、グランドイマームのアハメド・エルタエブ師と私は次のように確認しました。
「東西間の良い関係は議論の余地もなく双方に必要であり、互いに無視してはいけません。実りをもたらすやりとりと対話を通して東西が互いに豊かになるからです。西側の人々は、蔓延る物質主義が原因となっている精神的および宗教的な病弊に対する治療法を東側の人々のなかに見いだすことができます。また、東側の人々は、弱さ、分断、争い、そして科学的、技術的、文化的な衰退から抜け出る助けとなる様々な要素を西側に見いだすことができます」。
「東側の人々の特徴、文化、文明を形成する重要な構成要素である、宗教的、文化的、歴史的な相違点に注目することは重要です。同様に東西のすべての男女に対して尊厳ある生活を保障する手助けとなる基本的人権の保障を強固にすることも大切です。そのとき、ダブルスタンダードによる政治判断は避けなければなりません」(119)。
*実り多い交流
137. 国家間の相互支援が、双方に豊かさをもたらすことが証明されています。自分たちに固有の文化的土台にしっかりと根ざして前進する国は、全人類にとっての宝です。今日、私たち皆が助かるか、あるいは誰も助からないか、のどちらかである、という自覚を高める必要があります。
地球の一部に存在する貧困、衰退、苦しみは、やがて全世界に悪影響を及ぼすことになる諸問題に対して、無言の血を流す根拠となっています。たとえ私たちがある特定の種類のものが消滅し、そのことで悩むにしても、貧しさや構造的な限界によって個人や人々の持つ可能性や美しさの発展が奪われる地域が世界に幾つかあるということで、もっと悩むでしょう。最終的に、そのようにして私たち皆が貧しくなってしまうのです。
138. このことはこれまでも常に事実でしたが、世界がグローバル化されて相互に関わり合っている今日ほど明白になったことは決してありませんでした。私たちは「連帯しつつすべての人々が発展するように国際的な協力を強め、目指すことのできる」グローバルな司法的、政治的、経済的な秩序を達成する必要があります」(120)。最終的に相互支援(国際協力)は、全世界の利益になるでしょう。なぜなら「貧しい国への発展支援」は「すべての人々に豊かさをもたらすこと」を意味するからです(121)。
総合的発展という見地から、相互支援は、「より貧しい国民に、双方の意思決定に基づいた有効な声を届け」(122)、「貧困と開発途上という苦しみを抱える国々に、国際的なマーケットへのアクセスを容易にする」資格(地位)を「与えることが前提となります」(123)。
*無償で他者に開放する
139. たとえそうであっても、私はこのような提示を功利的なアプローチに限定したくはありません。すなわち、常に「無償」の要素があります。個人的な利得や報酬を気にせずに、それ自体が良いという理由だけで、何かを実行できることです。たとえ即座に目に見える利点がもたらされなくても、無償の行為は見知らぬ人を歓迎できるように導きます。科学者や投資家のみであれば、受け入れたい、と思っている国々もありますが。
140. 兄弟的な無償の行為がない生活は、猛烈なビジネスの形をとり、絶えず、何を与えて、何を貰うかを計算します。一方、神は不忠実な人々さえ無償で助けるほどです。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせます」(マタイ福音書5章45節)。イエスが私たちに語られたことに理由があります。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(同6章3-4節)。私たちは無償で命を受け取りました。そのために1円たりとも払っていません。従って、私たちは誰でも何も返礼を期待せずに、良く待遇してくれることを要求せずに、他者に親切にすることができるのです。イエスが弟子に告げられたように、です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(同10章8節)。
141. 世界の国々がそれぞれ異なることの真の価値は、ただ単に一つの国としてだけではなく、より大きな人間家族の一部として考える、という能力によって計ることができます。特に危機にあるときはこのことがよく分かります。ナショナリズム(国家主義・民族主義)という狭義の形は、この無償の意味を把握できていない極端な表われです。ナショナリズムは、他者の破滅を無視して自分たちだけで発展できる、また、他者にドアを閉めることで、自分たちがより安全である、と考える過ちを犯します。
移民たちは何も与えるものを持たない強奪者とみなされます。この考えは、貧しい人々は危険で役に立たない、一方、権力のある人々は寛大な恩恵を施す人々、という最も単純な信念に導きます。「無償で」他者を快く歓迎する、という社会的、政治的な文化のみが、未来を手に入れることができるでしょう。
*地域と普遍
142. 私たちが頭に入れておくべきことは、次のことですー「『グローバル化』と『ローカル(地域)化』の間には、本質的な緊張が存在する。狭量で陳腐な考えを避けるために『グローバル』に注意を払う必要があるが、『ローカル』にも目を向ける必要があるーそうすることが、私たちの足を地に着いたものにするからだ。この二つが、人々は抽象的な概念、『グローバル化された世界』に巻き込まれる、あるいは、世界と離れ、目新しいものに挑まれることも、神が境界に置かれた素晴らしいものを正当に評価することもできず、同じことの繰り返しを運命づけられた”地域の民族伝承館”に入り込む、という、グローバル、ローカルの両極端に落ち込むのを防いでくれる」(124)。
狭量な地域愛から私たちを救い出す「グローバルな視野」を持つ必要があります。私たちの家が、家庭であることをやめ、壁で囲まれた場所、”刑務所の監房”になろうとする時、「グローバル」が、私たちを救けに来ますー私たちを実践にひきつける”final cause(目的因)”+のように。しかし同時に、「ローカル」も喜んで受け入れねばなりません。「グローバル」が持っていないもの持っているからです。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができます。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たします。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことでしょう。
+アリストテレスの説く、事物が生成するための四原因のひとつ。例えば、家に対しては、家としての役割・働きがこれにあたる=三省堂刊「大辞林」
*郷土の香り
143. その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではありません。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ません。堅固な基盤の上に立っていなければ、私は他の人々と真の出会いをすることができないーなぜなら、私が贈り物を受け取とった相手に、自分自身の本物の贈り物を返すことができるのは、そうした基盤の上に立っているからです。異なる人々を喜んで受け入れ、彼らがするに違いない素晴らしい貢献の価値を認めることができるのは、私が自分自身の仲間と文化にしっかりと根を下ろしている場合に限られます。
誰もが、彼の、あるいは彼女の郷土と村を愛し、大切にすることは、ちょうど、彼らが家庭を愛し、大切にし、個人的に家庭を維持する責任をもつこと同じです。それと同じように、共通善は、私たちが郷土を守り、愛することを求めています。そうしなければ、ある国の災害が、最終的にこの地球全体に悪影響を及ぼすことになってしまいます。これらすべてのことは、所有物に対する権利について肯定的な意味をもたらしますーすべての善に貢献できるようなやり方で、私は自分の持っているものを大切にし、育てるのです。
144. それはまた、健康的で豊か交流を生みます。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれます。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しません。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからです。
それが、昔からあるバベルの塔の物語で言及されている誘惑です。天まで届く塔を建てる試みは、さまざまな土地から来た多様な人々の団結の表明ではありませんでした。そうではなく、諸民族のために作られた、神の意図された計画とは別の単一なものを作り上げようとする、高慢と野心から生まれた誤った試みだったのです(創世記11章1~9節参照)。
145. 偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性があります-それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因します。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばなりません。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、です。
私たちは、神からの贈り物である自分の故郷の肥沃な土地と歴史に、もっと深く根を張る必要があります。私たちは、近隣で、小規模であっても、大きな視野をもって働けます… 全世界が息苦しい思いをする必要はないし、特定の地域が不毛だと証明することもありません」(125)。私たちの手本は、多面体のようなものであるべきですー個人それぞれの価値がたいせつにされ、そこでは「全体は部分よりも大きいが、それは各部分の総体よりもさらに大きい」(126)からです。
*普遍的な視野
146. 自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルなナルシズム(自己陶酔)」があります。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれます。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全な「ローカル」であることは不可能です。
一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心します。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになります。このようにローカルなレベルの生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなります。このようにして地域発展の可能性は狭められ、地域は退屈し、脆弱になります。
一方、健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的です。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えません」(127)。
147. 私たちの精神と心が狭くなっている時、周りの世界を理解することがより難しくなっている、ということを理解しましよう。互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身とその郷土をも明確に、且つ完全に理解することが困難になります。他の文化は、私たちが自身を守るための「敵」ではなく、人間の生活が持つ尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのです。私たちがもう一人の自分、つまり他者の観点で自分自身を見ると、私たちと私たちの文化がそれぞれ持つ、ユニークな特徴、つまり、豊かさ、可能性、限界がよりよく理解できます。私たちのローカルな体験は、様々な文化的環境の中で生きている人々の体験と「対照的」に、かつ「調和」して発展させる必要があります(128)。
148. 実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりしません。他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合します。輸入された要素自身が豊になり、最終的にすべての人々にとって益となる新しい統合体となります。これが、私たちが地元の人々に自身のルーツと先祖の文化を大切に育てるように、強く勧める理由です。
同時に、「いかなる類いの混血の人々(メスティーソ)をも拒否するような、壁に囲まれた完全な閉鎖、変わらずに続いてきた歴史的な静止状態の『原住民主義』」を提案するつもりはない,と強調したいと思います。なぜなら、「私たちの文化的な独自性は、それと異なる独自性をもつ他の文化との対話によって強められ豊かになるからです。さらに、私たちの真の独自性は、不毛な孤立によって維持されることはありません」(129)。いかなる文化的な押しつけもない、開かれた文化間に生まれた統合を維持することで、世界は成長し、新しい美しさで満たされるのです。
149. 郷土への愛と、もっと大きな人類家族に属しているという、しっかりした感覚の間にある健全な関係のために、「グローバルな社会とは、異なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体だ」ということを念頭に置くことが役に立ちます。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのです。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの美を発見するのです。出自が何であれ、個々人すべてが、より大きな人間家族の構成員であることを知るのです。それなしには、自分自身を十分に理解することはできないでしょう。
150. このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という喜ばしい認識をもたらします。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのです。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵、となるのです。なぜなら「人間は無限でありながら限界のある存在」だからです(130)。
*自分の地域から始める
151. 地域的な交流によって、より貧しい国々が、より広い世界に対して開放的になりますが、普遍性が彼らの独自な特徴を弱めることには、必ずしもなりません。世界に向けた適切かつ信頼できる開放性は、(地域の)国々の集団の中で隣人に開放的であることを前提とします。ですから、隣国の人々との文化的、経済的、政治的な統合は、隣人愛の価値を奨励する教育を伴う必要がありますーそれが、健全な普遍的統合を成し遂げるため、最初に、絶対必要なステップなのです。
152. 私たちの都市のいくつかの地域で、生き生きとした隣人関係が続いています。一人ひとりが、彼、あるいは彼女の隣人に寄り添い、助ける必要のあることを極めて自然に理解しています。このような共同体の価値観が保持されている所で、感謝、連帯、互恵が特徴的に見られる親密さを、人々は体験しています。隣人関係は、”shared identity(自他同一性)”の感覚を人々にもたらします(131)。同じように近隣諸国が”隣人の精神”を人々の間に奨励できるとよいのですが!
一方で、個人主義の精神も、諸国間の関係に影響を与えます。互いに相手から自分を守るべきだ、と考えることの危険性、あるいは他者を競争相手、危険な敵と見なすことの危険性は、同じ地域の人々との関係にも、影響を与えます。おそらく私たちは、この類いの恐怖と不信の中で教育されてきたのです。
153. このような孤立から利益を得、それぞれの国と別々に交渉することを好む、強国や大企業があります。その一方で、小さな、あるいは貧しい国々は、地域の一員として交渉することを認める隣国と協定を結ぶことで、分断され、孤立し、大国に依存せねばならなくなる事態を避けることが可能です。今日、孤立したままでは、どの国も人々の共通善を確保することはできません。