(2021.7.19 LaCroix Andrea Grillo | Italy)
教皇フランシスコの新しい自発教令「Traditionis custodes(TC=伝統の守護者)」の重要性は、14年前に前任者のベネディクト16世が出された自発教令「Summorum Pontificum(SP)ー1970年の改革以前のローマ典礼の使用について」と比べることで最もよく理解できる。
まず第一に、新教令のタイトル「伝統の守護者、司教…」で明らかなように、主人公は教皇ではなく、司教だ。前の自発教令で、ベネディクト16世は、世界の司教たちを特定の権限、とくに教区内の個々のミサ典礼の形について判断する権限から”解放”したが、フランシスコが新教令によって、この権限は正当な所有者に返されることになった。司教のこの権限は、第二バチカン公会議(1962-65)が復元した教会論的および構造的原則であり、重要な権限として擁護されねばならないのだ。
*”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が唯一の道
司教のこの権限が、新自発教令によって回復されると、その権限は卓越したものに回復されることになる。
「第二バチカン公会議で決定した憲章など公文書に従って聖パウロ6世と聖ヨハネパウロ2世が公布した典礼に関する諸文書は、ローマ典礼のlex orandi(祈りの法)の比類ない表現です」(TC第1条)。新自発教令は、 SPが立脚していた大胆不敵な”詭弁”ーつまり相反する二つの典礼形式の”併存”を認めることーを、思い切って覆すものだ。 ”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が、平和構築を可能にする唯一の道である。
他に考えられる対応は、その意図が好ましいものであっても、教会内の分裂と誤解を増大させてしまう。SPのもとで、(注:旧ローマ・ラテン典礼のミサを捧げる際に)司祭は司教からの許可を必要としなかった。SPにおいて、最大の伝統との亀裂は第二項で、叙階された司祭の”司牧上の無責任”を確定したことにあるー聖職者は、人々の参加のある無しにかかわらず、誰の返事を得ることなく、通常の、あるいは例外的な形での、ミサを捧げることができる、ということだ。
このことは、14年前にすでに明らかだったが、それを指摘しようとする人はほとんどいなかったー「これは和解の”原則”ではなく、教会の崩壊の”原則”だ。今、神の意志であるTCが発出されたことで、”詭弁”を克服し、常識に戻ることができる。
TCのもとで、ミサは、司教によって特別に許可されていない限り、すべての人に共通の”1つの典礼の形”で捧げられることになる。 2つの典礼の形の間に元々の争いはありえない。一つの典礼は、第2バチカン公会議後に、それまでの典礼を改める形で策定された。
*「儀式の並列性」の問題
SPの”仮説”を支配する抽象的な定理は、「2つの典礼の形が新しい均衡を生み、互いに何かを学ぶことを可能にする」というものだった。そうではない。それどころか、”高い所”から認められた儀式の並列性のために、分極化はバランスを欠く形で進展した。
今、私たちはただ一つのテーブルー第二バチカン公会議の方針に従って改革されたミサ典礼、というテーブルーがあるだけだ、ということを認識せねばならない。ローマ・ミサ典礼の伝統はそこにあり、他のどこにもない。そして、バチカンの全事務局にとって、効力のなくなったローマ典礼の形を改革するために、時間を無駄にすることは、もうできない。
SPは、司教たちを”迂回”しただけではなく、バチカンの典礼秘跡省を”迂回”し、特定の典礼の問題に関する案件を判断する権限をバチカンの神の教会委員会と教理省に与えた。今、その権限は自然の形ー司教たちと典礼秘跡省ーに戻される。もはや、自律的な存在を持たないローマ典礼の”例外的な形”をめぐる”分けられた権限”は存在しない。
*”並行する教会”、そして第二バチカン公会議への反対
教皇フランシスコは、「前任者が決められた(旧ローマ・ミサ典礼の)許可、を変更する目的は、第二バチカンによって際立たされています」と、TCに付随した世界の司教たちへの書簡で語られている。これは重要なことだ。第二バチカン公会議によって、ローマ典礼は、”別の教会”の存在を確定することなしには”別の典礼”のようなものと併存させることができない、という制限を克服した。SPによる”譲歩”の効果は、第二バチカン公会議の影響を受けないとし、共通の道に反対する教会が増長するのを助けた。
SPの”お陰”で、旧ローマ・ミサ典礼は、第二バチカン公会議への反対の象徴になった。そしてそれ故に、旧ローマ・ミサ典礼が認められる基準は、これまで以上の嫌悪感を生み出さないように、注意深く見直されなければならなかった。
*「もう沢山だ!」とフランシスコは言われる
今回の”事件”全体にとって、本当に特別なことは、TCによって保証される”神の祈り”と”神の信仰”の正常な関係の再確立ではない。私にとって異常に思えるのは、SPが出されて14年の間、不当なことを正当化しようとした人々がいた、という事実だ。教会法の専門家の多くは「法実証主義」(注:実証主義を法学に応用し、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法のみを、法学の対象とする考え方)に陥り、相当数の法律家が”御主人様”が望むところに”スリッパ”を置いてしまった。
多くの新聞や雑誌の記事、そして書物でさえも、未来の司祭たちのための”二つの典礼に応じる育成”を正当化する形で書かれた。そしてそれらすべてが、司教たちと恐らくは有能であると思われる人々によって支持され、是認され、時には、そうした記事が求められたりさえもした。SPは、数多くの神学者たちにとってさえも、「共に生きねばならない、ある種の定め」のように見えたのである。そして、それは”異常な形”での大失敗だった。
こうした流れに対して、第二バチカン公会議の”申し子”である教皇フランシスコは、「もう沢山だ」と言う良識と知恵を持っておられた。彼は、共通で正常、教会的な、人々のミサ典礼が同じ一つののテーブルで演じられる新しい歩みを、賢明に始められた。
これは、「和解の改革は、偽りの言葉を作り出すことによっても、もはや存在しない典礼の形を今一度掘り出すことによっても、止められない」という、小さくて、偉大な知らせである。私たちにとって可能なのは、慎重に、意欲を持って、正直に、留保条件なしに、新しい典礼をもとにした”祈りの仕方”において、共通の形とともに進むことだ。
*Andrea Grillo は1961年生まれ。ローマの教皇庁立聖アンセルモ大学の秘跡神学教授。イタリアのブログ「Comesenon」の筆者で、このエッセイは、同ブログに最初に掲載され、許可を得て英語でLa Croixに掲載する。