(2024.10.24 Crux Senior Correspondent Elise Ann Allen)
ローマ 発– 教皇フランシスコは24日発表した、イエス・キリストの人間的かつ神聖な愛をテーマとする新回勅『Dilexit nos』で、キリストの愛の社会的側面と、神との個人的で親密な愛の関係の延長としての他者への思いやりの必要を強調。それが「教会の時代遅れの仕組み」やさまざまな形の「狂信」に対する救済策となる、と説いている。
今回の回勅は教皇フランシスコにとって、2013年の「信仰の光」、2015年の「ラウダート・シ」、2020年の「兄弟の皆さん」に次ぐ、四つ目の回勅だ。
この回勅で「あらゆるものが売買される世界では、人々の価値は、ますます金銭の力で蓄積できるものに左右されるようです」とする教皇は、「私たちは常に買い続け、消費し、気を紛らわすよう圧力をかけられ、目先のつまらないニーズを超えて見ることを妨げる屈辱的なシステムに囚われています」と言明。
「キリストの愛は、この歪んだメカニズムには居場所がない」が、「キリストの愛は、私たちの世界に心を与え、『愛する能力が決定的に失われた』と思われるところなら、どこでも愛を復活させることができるのです」としたうえで、 「教会もこの愛を必要としています。それは、キリストの愛-私たちを解放し、活気づけ、心に喜びをもたらし、コミュニティを築く神の無償の愛-が、時代遅れの構造や懸念、私たち自身の考えや意見への過度の執着、そしてさまざまな形の狂信に取って代わられないようにするためなのです」と強調している。
5つの章に分かれたこの回勅は、キリスト教の精神性における心のイメージと、キリスト教の精神性の歴史を通じてイエスの心への信仰が発展してきたことについて、長文で考察している。
教皇は、現代を「皮相的な時代、理由も分からずに次から次へと狂ったように駆け回り、飽くことのない消費者となり、人生のより深い意味に関心のない『市場の仕組み』の奴隷になってしまう時代」と表現し、「心の重要性とそれに伴う象徴性を再発見する必要があります」と説いている。
心は、「人間の最も深い部分、肉体と魂の中心で、単なる外見を超えた何かを表している、秘密が隠されることのない真実の場所」であり、流動的な現代社会-人々が日々を生きる”連続消費者”となり、慌ただしいペースに支配され、テクノロジーに襲われ、内面の生活に本質的に必要なプロセスに従事するのに必要な忍耐力に欠けてしまう社会―で、人類は再び『心と自省のための場所』を作らねばなりません」と強調。
そして、「心に焦点を合わせる」行為は、「個人のレベルを超え、国際的な政治、経済の領域にも波及せねばなりません… 私たちのすべての行動は、心の『政治的支配』の下に置かれる必要があります。そうすることで、私たちの攻撃性と強迫的な欲望は、心が提案するより大きな善と、悪に抵抗する心の力の中に安らぎを見出すでしょう」と述べた。
さらに、「個人主義によって生じた分裂を統合できる場所」として心を強調し、心を失い、「ナルシシズムと自己中心主義に支配された社会は、ますます『無情』になる… そして、『欲望の喪失』につながるでしょう。なぜなら、他の人々が地平線から消えると、私たちは自分自身が作った壁の中に閉じ込められ、もはや健全な関係を築くことができなくなるからです。その結果、私たちは神に対して心を開くこともできなくなります」と警告した。
また教皇は、この「心に焦点を合わせる」ことの霊的意味合いには、「神との関係の成長と、『異なる心と意志』の一致と和解が含まれます、と指摘した。
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回勅の第2章で、教皇は「聖書に記されているイエス自身の行動と愛の言葉」について振り返り、福音書には「神が親密さ、思いやり、優しい愛であることを示すキリストの言葉や振る舞いが多く出てきます」としたうえで、「嘘や傷害、失望によって傷ついたために他人を信頼することが難しいと感じた場合、主は私たちの耳元で『息子よ、元気を出しなさい!』『娘よ、元気を出しなさい!』とささやきます。主は私たちが恐怖を克服し、主が側にいれば失うものは何もないことに気づくように励ましてくれるのです」と語った。
そして、「神を信頼しない理由は、絶対にありません… 福音書で、イエスは常に人々の個人的な問題や必要に気を配っています… 誰もが私たちを無視し、私たちの身に何が起ころうと誰も気にかけず、『自分は、誰にとっても重要な存在ではない』と感じるときも、イエスは、私たちのことを気にかけ続けるのです」と述べた。
さらに、「イエスは、人々の日々の心配や懸念に無関心ではなく、心を動かされ、同情を示し、怒り、悲しみ、喜びさえも示された… 一見すると、このような振る舞いには、『敬虔な感傷主義の匂い』がするかもしれませんが、そうではない。これは、極めて重要な行為であり、十字架にかけられたキリストにその崇高な頂点があるのです」とし、「十字架は、イエスの最も雄弁な愛の表現です。浅薄でも、感傷的でもない。単に啓発的な言葉でもありません。それは愛、純粋な愛なのです」と強調した。
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教皇は回勅の第3章で、「イエスの聖心への信仰は、人と神というイエスの人格のすべてを含むもの」と強調。キリストの聖心の像は崇敬されているが、「その人間的かつ神聖な愛に私たちが抱かれるようにされている」と明言した。そして、キリストの愛の人間的および神聖な側面を認めることは、「個人的な出会いと対話の関係」への呼びかけであり、「キリストを神性と人間性の両方で熟考すると、より意味のあるものになります」と述べた。
教皇は、聖体を「崇拝すべきキリストの真の存在」とし、しばしば私たちの心を覆う憎しみ、利己主義、無関心に対する治療法になる、と指摘。イエスの愛の三位一体の性質を強調し、聖心への信仰に関するご自身以前の教え、レオ13世、ピウス11世、ピウス12世、そして聖ヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世にまで遡る先人の教えを引用した。
また私たちは、「瞑想、福音書の朗読、霊的成長を通して、自分自身が常に豊かにされ、深められ、新たにされる必要があります」とし、キリストの聖心に関する幻視や神秘体験をした、と主張するさまざまな聖人に言及し、「彼らのことを信じるかどうかは、キリスト教徒にとって必須ではないが、霊的生活にとって、非常に有益な励ましの源であり続けています」と語った。
教皇は、聖体を「キリストの心の慈悲深く、常に存在する愛。信者をキリストとの一体化へと招くもの」とし、「聖体への信仰は、特に現代社会において深める必要があります… 今日の世界の慌ただしい生活のペースと、自分の自由になる時間や、消費と娯楽、携帯電話やソーシャルメディアへの執着の中で、私たちは聖体の力で人生を養うことを忘れている」と述べ。必須ではないが、聖体の崇拝に時間を費やすよう、信者たちに促した。
また、「イエスの心への信仰は、神の恩寵を強調しながらも、人間の自由意志を否定したジャンセニスムのような”古代の異端”に対する反応。現代の教会は、ジャンセニスムに代わって『神から自由な世界を築こうとする強力な世俗化の波』を受けています… 愛の神との個人的な関係とは、まったく関係のない、肉体のない精神性の新たな顕現であるさまざまな形態の宗教の急増も見られています」と述べている。
さらに、教会内部でも「有害なジャンセニスト二元論が新たな形で再浮上している」と警告。この傾向は「ここ数十年で新たな勢いを増しているが、これは、肉の救済という現実を認めなかったためにキリスト教初期の数世紀に非常に大きな精神的脅威となったグノーシス主義の再来です」としたうえで、「私は、キリストの心に目を向け、私たち全員にキリストへの信仰を新たにするよう呼びかけます… そうすることは、現代の人々の感受性に訴えかけ、『古い二元論』と『新しい二元論」に立ち向かう助けとなります… キリストの心への献身は、信者を教会共同体や司牧者たちの間での『別の種類の二元論』から解放する」とも述べた。
また、現代の教会は、「外部活動、福音とはほとんど関係のない構造改革、強迫観念的な再編計画、世俗的なプロジェクト、世俗的な考え方、義務的なプログラムに過度に巻き込まれ、その結果、信仰の優しい慰め、他者に奉仕する喜び、使命に対する個人的な献身の熱意、キリストを知ることの素晴らしさ、キリストが与えてくれる友情から生まれる深い感謝、そしてキリストが私たちの人生に与えてくれる究極の意味を奪われてしまうことが多い」と注意された。
教皇はこれを「幻想的で、肉体のない別世界」と表現し、「現代に広く見られるこうした態度に屈すると、私たちは、それを治したいという欲求をすべて失う恐れがあります」とし、聖心に表されているキリストの愛について改めて考えるよう、教会に促した。
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次の2つ章で教皇は、聖書やさまざまな聖人の著作を引用しながら、「イエスの愛が人類の渇きを癒し、他者の苦境に個人的に関わるもの」であることを振り返った。
教皇は、「私たちはもう一度、神の言葉を受け入れ、そうすることで、『キリストの心の愛に対する最善の答えは、兄弟姉妹を愛することだ』ということを認識する必要があります。愛に愛を返すのにこれ以上の方法はありません」と述べ、「隣人への愛は、単に私たち自身の努力の成果ではありません。『利己的な心』の変革が必要です」と説いた。
また、イエスが福音書全体を通して、貧しい人々や疎外された人々に「特別な愛」を示されたことを指摘し、この優先事項が「不利な状況にある人々を世話する組織、団体に命を与えている」とし、このイエスの愛は「罪の構造-社会の発展に影響を与え、単なる利己主義や無関心を正常または合理的とみなす支配的な考え方の一部であることが多い―を拒否するもの」と述べた。
「道徳的規範だけが、疎外された社会構造に抵抗し、社会における共通の利益を取り戻し、強化する努力を助け導くのではありません。社会構造を修復する義務を課すのは、私たちの心の回心なのです」と訴え、この愛の一部として、償いをし、自分の過ちの赦しを求めることの重要性を強調し、「赦しは、人間関係を癒し、心に触れることを可能にします」、また、良心の呵責に耐えられる心は、「友愛と連帯の中で成長する」と述べた。
「隣人愛の行為は、放棄、自己否定、苦しみ、努力を伴いますが、キリスト自身の愛によって養われている場合にのみ、愛となります… たとえ小さな慈悲の行為でも、キリストの心を讃え、「その偉大さをすべて示す」ことになる、と指摘した。
さらに教皇は、「キリスト教徒は、世界に愛をもたらすよう求められています… キリスト教のメッセージは、単に敬虔な考えの避難所や印象的な儀式の機会としてではなく、その全体を体験し、表現したときに、魅力のあるものとなります」としたうえで、「しかし、私たちがキリストとの個人的な関係に満足し、他人の苦しみを和らげたり、より良い生活を送るのを助けたりすることに関心を示さなかったら、キリストにどのような崇拝を捧げることになるのでしょうか」「私たちが個人的な宗教体験に浸りながら、それが私たちが住む社会に与える影響を無視したら、私たちを愛するキリストの心は、喜ぶでしょうか」と問いかけた。
また教皇は、キリストの心には「宣教的側面」もあり、「キリスト教徒は、キリストとその愛をこの世で証しせねばなりません」とし、自身が先に出した回勅『ラウダート・シ』と『兄弟の皆さん』が「イエス・キリストの愛との出会いと関係している」ことを示していると述べて、「同じ愛を”飲む”ことで、私たちは友愛の絆を築き、各人の尊厳を認識し、共通の家を守るために協力することができるようになるのです」と強調。
最後に、「私たちが引き起こした傷を癒し、他者を愛し奉仕する私たちの能力を強め、公正で連帯と友愛に満ちた世界に向かって共に旅するよう、私たちを鼓舞する生ける水の流れを、聖心が注ぎ続けてくださいますように」と主に願い求め、回勅を締めくくった。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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