・菊地東京大司教から霊的聖体拝領、聖体顕示、聖体訪問などについて(改)

(2020.4.1 カトリック・あい」)

 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない中で、聖週間も公開ミサが中止となっているが、ミサの動画配信など対応策に努めている菊地東京大司教が、霊的聖体拝領、聖体顕示、聖体訪問などについて、以下のメッセージを出した。

【聖体顕示、聖体訪問や聖体礼拝】 2020年4月1日

 公開のミサが中止されている現状にあって、関口教会大聖堂では、4月1日から8日まで、土日を除く毎日午前9時から午後5時まで、大聖堂主祭壇で聖体顕示が行われます。(都合により変更もあり得ます)

 聖体訪問や聖体礼拝は、カトリックの長い伝統の中で培われてきた、イエスとの交わりの恵みです。特に、聖体顕示は聖体として現存しておられるイエスと私たち人間が直に向き合うことのできる空間です。そして、聖体礼拝は単なる崇敬ではなく、それを行う人と師イエスとの内的な一致をもたらします。それは霊的聖体拝領にもつながります。

 聖体顕示、聖体礼拝の際は、是非、顕示されている聖体の側近くでお祈り下さい。そして、「今ここ」におられる主イエスと親しく交わる一時を持っていただければと思います。

【霊的聖体拝領に関して】                2020年3月30日

 2月27日の菊地功大司教「司教の日記」より、「霊的聖体拝領」の解説部分を抜粋します。皆さまと主イエス・キリストとの豊かな交わりの助けとしていただければと思います。


 聖ヨハネ・パウロ二世は、回勅『教会にいのちを与える聖体』の中でこう述べています。

 「キリストの現存は、キリストのいけにえによる感謝の祭儀から生じ、拝領されることを目指しますが、それには秘跡による場合と、霊的な仕方による場合の両方があります」(ヨハネパウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体』)

 これが教会が伝統的に教える「霊的聖体拝領」のことであり、それはミサに与ることが様々な事情で不可能な場合のたすけであるだけではなく、聖体礼拝などの信心の持つ意味にも深くつながるものです。

 実際にミサに与って聖体拝領すること(秘跡による場合)は最も重要ですが、それ以外の場合にも、例えば聖体礼拝のうちにあって、またはミサに参加することができない場合にあって祈りのうちに、現存されるキリストとの一致を求めながら霊的に聖体を拝領することも忘れてはいけない教会の伝統です。

 今回の状況にあっては、日々悪化する事態の深刻さに鑑み、また教会が存在する地域社会の共通善へ資するために、主日の公開のミサを行いませんので、秘跡による聖体拝領を受けていただくことができません。(病気など緊急の場合は、司祭にお申し出ください。例えば病院が立ち入り禁止などにならない限り、できる限りの努力をして対応します)そこで、教会には「霊的聖体拝領」の伝統があることを、是非とも思い出してください。

 決まった形式はありませんが、例えばロザリオの祈りを捧げた後に、聖体のうちに現存されるキリストに思いを馳せながら、一致を求めて、心の内で拝領をすることでも良いですし、または主日にあっては、『聖書と典礼』を利用して、三つの聖書朗読を読み、共同祈願を唱え、主の祈りを唱えた後に、心の内で拝領をすることもできます。

 または旧来の伝統に従って、ロザリオなどの祈りの後に、心の内に拝領し、次のような祈りを唱えることもできるでしょう。

 「聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。 全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」

 「主イエス・キリスト、あなたがご聖体の秘跡のうちにまことにおいでになることを信じ、すべてに超えてあなたを愛し、私の心に迎えたいと望みます。今、秘跡によるご聖体を受けることができない私の心に、おいでくださいますように。(少し沈黙で、イエス・キリストを心の中に迎え入れる)あなたが、今私の心にまことにおいでくださったことを信じて感謝します。いつもあなたと一致したいと望む私が、あなたから離れることのないようにしてください」(カルメル会『祈りの友』より)

 もちろん以前よく使われていた公教会祈祷文に掲載された祈りでも構いません。ミサの映像配信がある場合は、通常通りミサの進行に従い、拝領の場面では、心の内に主を迎えながら、霊的に拝領します。なおこういった事情の中で、ミサに与ることができない場合でも、祈りのうちに主と一致を求めることで(霊的聖体拝領)、教会全体で捧げられる感謝の祭儀のうちに教会全体の交わりに与ることになります。状況が少し異なりますが、『司祭不在の時の主日の集会祭儀指針」の34には、次のように記されています。

 「迫害や司祭不足の理由から、短期間あるいは長期間、聖なる感謝の祭儀に参加できないでいる個々の信者あるいは共同体に救い主の恵みが欠けることは決してない。事実、彼らは秘跡に与りたいとの希望で内的に生かされており、さらに祈りにおいて全教会と一つに結ばれて神に哀願し、また自分たちの心を神にあげているからである。彼らは聖霊の力強い働きによって、キリストの生ける体である教会ならびに主ご自身との交わりにあずかっており、秘跡の実りにもあずかっているのである」

 四旬節の始まりに、このような事態になったのは残念ですが、これを是非とも振り返りの機会として、特に御聖体の持っている意味を改めて見つめ直し学ぶときにしていただければと思います。主との一致を求める心と、共同体とともに一致する心を持って祈りを捧げるとき、わたしたちは決して主と、そして共同体との交わりから、見捨てられることはありません。

(この際、ぜひご参考までに、聖ヨハネパウロ二世教皇の回勅『教会にいのちを与える聖体』をお読みください。90ページに満たない短い回勅で、学ぶところが多くあります。)

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2020年4月1日