・福岡司教にヨゼフ・アベイヤ・大阪補佐司教-東京補佐、新潟、宮城は空席続く

(2020.4.15 カトリック・あい)

 バチカン広報局が14日発表したところによると、教皇フランシスコが同日、福岡教区の司教にヨゼフ・アベイヤ大阪教区補佐司教(クラレチアン宣教会)を任命された。福岡教区では、昨年4月に当時の宮原良治司教が辞任して以来、司教ポストが空席となっていた。

 アベイヤ新福岡司教は1949年11月 3日、スペイン生まれの70歳。クラレチアン宣教会に入会し、バルセロナで哲学・神学を学んだ後、日本へ派遣され、1975年 にスペインで司祭叙階。名古屋教区、大阪教区で司牧、同会日本管区長、同会総長を経て、2015年に帰日し、2018年 6月から大阪教区補佐司教を務めていた。

 日本の教会ではこれまで、東京(補佐)、新潟、福岡、仙台の4教区で司教が空席となっており、その一つが埋められたことになる。だが、先月18日に平賀徹夫・司教が辞任した仙台教区はともかくとして、東京教区の補佐司教、新潟教区司教については、2017年12月に菊地功・大司教が東京教区に就任した直後に幸田和生・東京教区補佐司教が引退し、菊地大司教の前任地・新潟教区の司教の後任の任命がバチカンから棚上げされたまま、すでに2年5か月が経過している。

 世界の教区のほどんどで、教皇は司教の辞任を認めるのとほぼ同時に後継者を任命していることから見て、これは明らかに”異常”な状態と言えるだろう。

 いうまでもなく、今、新型コロナウイルスの世界的な大感染が続き、教会も世界の多くの教区で公開ミサの長期閉鎖を余儀なくされるなど、深刻な事態に置かれており、各教区のトップとしてこうした事態への対処に指導力を発揮すべき司教、あるいは多数の信徒を抱える東京教区で大司教を補佐する司教が空席のままであって、いいはずがない。

 日本側からはすでにかなり以前からバチカンに候補者を提示していると聞く。日本など世界の宣教地の司牧に責任を持つバチカンの福音宣教省の長官には、日本などアジアの事情に精通したフィリピン出身のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿が3月に就任している。早急に、このような異常な事態を解消するよう努力を期待したい。

 司教人事で異常な事態が続いている背景には二つのことが考えられる。一つは、最近、日本の教会で、司教定年とされる75歳まで任期を10年以上残して”若い”司教が自らの意思で辞任する”異常事態”が相次いだことだ。2013年7月に、さいたま教区の谷大二・司教(当時60歳)、2018年6月に、東京教区の幸田和生・補佐司教(当時63歳)、そして2019年4月に、福岡教区の宮原良治司教(当時同)が、相次いでバチカンに辞表を出して辞めている。

 カトリックの教会法によると、司教は「神の制定に基づき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり、教理の教師、聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者として立てられる」(第375条〈1〉)とされ、教皇から直接任命され、司教区という”独立王国”の君主ともいわれる大きな権限を教区の教会、司祭、聖職者に対して与えられている。

 それだけ重い責任を負っているので、いったん教皇から任命を受けたら、司教定年とされている75歳に達するまでは「健康を損なうか、または他の重大な理由により、司教の職務を続けることが困難になった場合」(教会法401条2項)を除いて、辞任しない、辞任させられない、というのが重い役割に見合う司教の権利であり、義務でもあるといえる。

 だが、3人の場合、いずれも、辞任の理由を、一般信徒を含めて教会関係者に納得いく説明はなく、噂だけが飛び交ったままになっている。一般に大手企業や政府機関のトップが任期を全うせずに突然辞任する場合、記者会見など何らかの形で公式の説明がなされるのが常識だが、教会には、いまだに「説明責任」を果たす常識が共有されていない。

 当然ながら、バチカンもこのような日本の教会の動きに不信感を強め、司教の選任に慎重になり、人事の異常な遅れにつながったことは、想像に難くない。

 もう一つは、この2月までバチカン福音宣教省の長官として、宣教地域の司教人事を事実上握っていたフェルナンド・フェロー二枢機卿の存在だ。

 枢機卿は、「新求道共同体・道」と呼ばれる団体の会員。1964年にスペイン人信徒キコ・アルグェヨ氏らによって創設された「キリスト教入信と信仰の継続養成」のバチカン公認の団体だが、日本では、高松教区に、日本の司祭養成課程とは別の「国際神学院」を開設したが、小教区での信徒の分裂などの問題がたびたび指摘され、当時の教区司教を被告とする裁判にまで発展。日本の司教団も、日本の教会全体の問題と捉えて、関係者や教皇庁と対応を協議し、2008年には高松教区の国際神学院を閉鎖、「道」の司祭養成はローマへ移転してしていったんは決着が図られた。

 だが、ここ1,2年、「道」が今度は東京教区内への同神学院開設の具体的準備を始め、フィローニ枢機卿も日本の教会に暗に圧力をかけてきた。これに対して、一部の司教を除く日本の司教団が、前回と同じ混乱を司祭や信徒たちの間に巻き起こす懸念が強いことから、強く抵抗。結果として、昨年、「道」は進出を諦めたが、司教人事の事実上の”棚上げ”は枢機卿の”意趣返し”との見方も関係者の中にある。信じたくない話であるが、そうだとすれば、高位聖職者としてあるまじき行為であり、教皇フランシスコが枢機卿を事実上の更迭としたことも納得がいく。

 以上のような問題が、日本の司教人事を巡る異常事態にあると考えられるのだが、我々日本の信徒がバチカンに強く望むのは、一刻も早く、教会のリーダーにふさわしい指導力、精神力を持った司教を選任し、新型コロナウイルスの大感染がもたらしている社会と教会の危機の中で“迷える子羊”たちを導くべき”羊飼い”がいない、という異常事態を解消してくれることだ。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2020年4月15日