(2022.7.17 カトリック・あい)
8月6日からの教会の平和旬間を前に、菊地・東京大司教が、東京教区の信徒あてと別に、日本の司教協議会会長として、我が国の全信徒あての談話を発表した。全文次の通り。
(「カトリック・あい」では、一部ひらがな表記になっている部分を、新聞など一般に使用されている当用漢字表記に修正しました。「命」などには漢字自体に深い意味があり、文章としても読みやすく、意味が通じやすい、との判断からです。「命」の成り立ちは「令」に「口」を合わせたもので、「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」という意味が込められています。ひらがな表記では、そのような意味は伝えられません。日本のカトリック教会が、なぜ、「命」や「私」をわざわざ「ひらがな表記」にする”慣習”があるのでしょうか。)
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2022年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話 「平和は可能です。平和は義務です」
平和が暴力的に踏みにじられた年になりました。命の尊厳がないがしろにされ、その保護が後回しにされる年になりました。
私たちは、2022年の平和旬間を、また新たな命の危機の現実の中で迎えます。2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、命を守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。2020年9月2日には、この危機的状況から、以前よりよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけています。
しかしながらこの半年の間、私たちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。
感染症による命の危機に直面する世界では、戦争こそしてはならないはずです。しかし、世界の指導者たちの考えは、私たちとは異なるようです。
ウクライナへのロシアの武力侵攻は、平和を求めてこれまで積み重ねてきた国際社会の努力を踏みにじる大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えました。そして、命を守り平和を希求する多くの人の願いを顧みることなく事態は展開しています。
感染症の状況の中で、私たちは互いに支え合うこと、互いの命を思いやること、つまり連帯して支え合うことこそが、命を守る最善の道であることを体験から学びました。平和とは、単に争いがない状況のことではなく、争いが起こりうる社会のさまざまな要因を取り除き、互いが支え合いながら命を生きる状況のことです。
しかし戦争によって暴力的に命を奪われる多くの存在に触れ、その理不尽さに心が打ちのめされるとき、湧き上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません。
今年の復活祭メッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけました。
「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的に関わりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(2022年4月17日)。
同時に、戦争という事実があまりにも大きい力をもっているため、その陰で、多くの命の危機が忘れ去られています。さまざまな理由から祖国を追われ避難の旅路にある人たち、経済状況からいのちをつなぐことが難しい人たち、政治や信条に対する迫害から命の危機に直面する人たち――。
こうした、長年にわたって放置されている人間の命に関わる課題も、世界には山積しています。私たちの周囲にも、法律の狭間で翻弄されながら助けを求めている人はいます。神から与えられた賜物である命は、その始まりから終わりまで守られなくてはなりません。
互いに支え合ってこの共通の家で生きる私たちは、「人間の命と、地球上のあらゆる形態の命を守ることが求められていることを認識し、エコロジカルな正義を推進するよう」求められています(ラウダート・シ目標2)。
平和旬間を迎え、私たちはさまざまな角度から平和について学び行動する時を与えられています。
「すべての戦争は全人類に影響を与え、死別や難民の悲劇、経済危機や食糧危機に至るまで、さまざまな後遺症をもたらします」。そう述べたうえで教皇フランシスコは、復活祭メッセージを次のような呼びかけで締めくくっています。
「兄弟姉妹の皆さん、キリストの平和において勝利を収めましょう。平和は可能です。平和は義務です。平和はすべての人が責任をもって第一に優先するべきものです」。
皆さん、この平和旬間に、「暴力によらない平和は可能だ」と、「連帯こそが平和を生み出すのだ」と改めて声を上げ、行動しましょう。
2022年7月7日 日本カトリック司教協議会会長 カトリック東京大司教 菊地 功