(2026.9.7日 ピ-ス・ウインズ・ジャパン イ・チャンウ)
8月28日、11年ぶりのネパール。2015年に起きた大地震の際に救援活動で初めてこの地を踏み、今回は洪水災害の初動調査で現地入りしました。
11年前は、ネパールがこれほど美しい国だということを知ることはできませんでした。全土が被害を受け、余震は何週間も続き毎日が緊張の連続で、目の前にそびえるヒマラヤの存在さえ目に入らなかったのです。
今回、カトマンズから被害が大きいと言われる北へ向かう道中、初めてこの国の美しい川と山々を眺めていましたが、数時間後、その光景は一変します。川の濁流が村を丸ごと消し去った跡を見ることになりました。
*”洪水”ではなく、川をくだってきた“津波”による大災害だ
洪水は、8月26日午前9時頃、チベット国境側で始まりました。氷河湖が決壊し、土石流が発生。ラスワ、ヌワコットの二つの郡の川沿いの集落や町を一気にのみ込んでいきました。9月3日の時点で死者は1,200人以上、行方不明者も5,000人を超えたといいます。行方不明者の中には多くの外国人が含まれていると伝えられ、国境貿易とトレッキングの要衝で起きた災害だったことが、さらに被害を大きくしたと言われています。
私たちが到着した日にも、上流の湖が再び決壊するおそれがあるとして警報が鳴り響いたことがあります。川岸で救助活動をしていた要員と住民全員に避難指示が発令され、現場は一時、騒然となるなか、私たちも引き返さざるを得なくなりました。
ピース・ウィンズが海外で緊急支援の活動を行うとき、現地の地理に明るいドライバーを雇うことが多いのですが、今回、そのドライバーを探すことさえ容易ではありませんでした。政府から二次、三次の洪水発生の可能性が警告され、被災地の方へは行かない、あるいは行きたくないという方が多かったのです。「被災地にどのように入るか」その移動手段を見つけることに苦労しました。
こうした事実からも、今回の被害の大きさを想像させられました。
なんとかドライバーを確保し、初動調査を開始。初日は、ヌワコットのデビガット村を訪れましたが、その光景を見て、「これを“洪水被害”と呼んでいいのか」と疑いました。建物の1階まで土砂と瓦礫が押し寄せ、建物そのものが埋もれて見えなくなっている場所もあります。住民たちは膝まで沈む泥の中で、家財を掘り出し、商店や食堂、宿があった橋の向こう側は、川底になっていました。
活動2日目、ラスワのベトラワティ・バザールに行ったとき、その疑いは確信に変わりました。川が合流する地点にあったはずの町は川になっていて、横倒しになったスクールバスが川の真ん中に埋まっていました。町が丸ごと消えてしまったのです。
災害支援の観点からはこれは洪水ではなく、川を下ってきた「津波」として捉えるべきだと考えました。支援の方法が、まったく異なってくるからです。
*「政府の倉庫に入れて帰れ」と言われることも
3日目、カトマンズで食料と生活必需品を購入してトラックに積み込み、災害調整委員会のあるビドゥールへ。途中の検問所では、トラックに積んだ物が何か、誰に配付するものなのかを問われる一幕もありましたが、いろいろ説明した末になんとか通過できました。
ビドゥールの災害調整委員会(DCC)の事務所で物資を配付したいと伝えると、第一声は「政府が必要な場所に配分するから、政府の倉庫に入れて帰れ」。しかし、近隣一帯は、す「でに政府が十分にカバーしているので、もし直接届けたいのであればもっと北のエリアへ行ってほしい」とも言われました。
11年前、救援物資を積んだトラックで山道を上っていた時、村の住民たちに道をふさがれたことを思い出しました。若者や妊婦まで出てきて、「物資を自分たちの村に下ろさなければ道を空けない」と言ってきたのです。
村の人びとも食料不足で苦しんでいましたが、ここで奪われるように物資を渡してしまえば、彼らを強盗にしてしまうことになる…一時間以上かけて説得と交渉を重ね、なんとか通させてもらい、当初の目的地だった支援が行き届いていない村へと向かったのでした。
あの時に比べれば、今回のネパール政府の統制ははるかによく機能していたように思います。物資がどこから入り、どこへ出ていくのかがきちんと記録され、11年前のようなカオスと呼ぶべき状況は少なかったからです。
「政府が管理する」という言葉は、時に歯がゆく聞こえるかもしれませんが、災害現場で政府の調整が機能し、物資が避難所に配付されていることは、良い知らせです。言い換えれば、「政府が把握できていないエリアには物資が行き届かない」ということでもあり、その政府の担当者は、ラスワ側のベトラワティにある救援物資の集積拠点を指定し、迂回路まで教えてくれたのです。
*夜通し山道に閉じ込められて

しかし、教えられた迂回路は、30分もたたないうちに車一台がやっと通れる土の道に変わっていきました。あちこちで水が道を遮るように流れ、日が暮れると雨が降りはじめました。ある地点では、道を横切る水の勢いが目に見えて強く、高くなり、先頭を走っていた車両の合図で、すべての車両は停止しました。
「これ以上、前に進むのは危険だ。雨がやめば水の流れも落ち着くから待とう」
その言葉を信じて私たちもエンジンを切り、灯りひとつない漆黒の闇のなか、窓を閉めたまま車内で待つことに。
コーディネーターとして同行してくださっていたバクタさんが「水が上がってきている」と知らせてくれ、実際に車の外を見ると、水の流れは車のすぐ近くまで来ていました。
このまま流れがもっと強くなってきたら、ここも川にのみ込まれる―そうした緊張した状態が3時間近く続きました。そして午前3時45分頃、ようやく雨がやみ、車列が再び動き出しましたが、ところどころ車が埋まってしまうほどの深い水たまりが残っていた道では、車に乗っていた全員が降りて、みんなで石を運んで道を補修しながら前に進んでいきました。
この夜の出来事で、陸路で迂回路を使って物資を運ぶのはとても危険で、さらに時間がかかることを学びました。今、この地域に必要な支援は、トラックをもう一台送ることではなく、別の形の支援を設計することでした。
*生き残った550人の生徒、うち120人が親を失った
午前5時、ラスワのカリカスタンに到着。村の人びとが家の外の高い場所に集まっていました。「4時半ごろ山のほうで洪水が起き、外に出て避難した」といいます。
人びとの目には不安と恐怖が宿り、私たちはしばらく彼らのそばに寄り添い、話を聞くことにしました。不安を抱える人の多くはその不安を言葉にすることで、少しだけ落ち着くことができるからです。
少し明るくなって、物資が集積しているという丘の上のシュリー・ニーラカンタ中等学校に到着。生徒550人が通う学校で、高い場所にあったため生徒たちは生き残ったといいます。
しかし生徒たちの家はほとんど川沿いのベトラワティ・バザールにあり、土石流で流されたといいます。校長先生が状況をこう説明してくれました。
「生徒のうち120人ほどが親や家族を失った… うすればいいのか分からない」—物資を運んでいる間、ずっとその言葉が耳から離れません。
集積拠点は、厳しい状況の中でもよく運営されていて、食料とそのほかの生活用品は分けて保管され、入ってきた物資を文書で記録。最も近い避難所から配分していく体制が整っていました。
ですが、この拠点の先、道が途絶えた国境側の集落には、政府と軍のヘリコプター以外、誰もたどり着けない、といいます。
近くの避難所を訪ね、「必要なものは何か」と尋ねると、彼らが真っ先に挙げたのは寝具とマット、タオル、そして調理用のガスでした。「道が途絶えたことで、LPGのガス燃料が地域全体で底をつきかけ、調理ができない状況だ」と説明してくれました。
そのほか、電気もなく携帯電話が使えないため、「ソーラーランプと充電器、できれば発電機が必要だ」と訴えてきました。口には出さなかったのですが、衣類や衛生用品、枕、靴下やサンダル、子どものための物も不足していたように思います。
また、名簿に記載されていない人びとが実はたくさんいることも分かりました。多くの家族が同じ地域や別の地域の親戚の家に身を寄せていたのです。一軒に数十人が一緒に暮らしているケースもあります。
こうした人びとは、避難所の名簿にはないため、支援の対象からは漏れやすくなります。もしも被災者を受け入れている家が崩れれば、こうした“見えない”多くの被災者も行き場を失ってしまう、危い状況でした。
*「国内外の関心が薄れる一か月後のほうが心配」
今、食料等はアクセス可能な地域から入って来ています。問題は一か月後です。ニュースの露出が急激に減っていき、国内外の関心が薄れるころには、支援もなくなっていくのは、日本でも海外の災害現場も同じです。


