・「収容所の”囚人”たちは日常的に殺されている」殺害免れたウイグル人学者が告白

(2022.1.4 Bitter Winter Alexandra Cavelius and Sayragul Sauytbay*)

China Protokolle - book cover. A book on Xinjiang.

 中国の新疆ウイグル自治区、首都ウルムチ近郊の収容所で虐待を受けた末に妻と共に欧州に脱出したウイグル人学者が自身の体験を詳細に語った「China Log: Annihilation Strategies of the CCP in the World’s Largest Surveillance State(中国日記:世界最大の監視国家、共産中国の抹殺戦略)」(ミュンヘン:Europa Verlag刊2021)の英訳版が近く刊行される。以下は、Bitter Winterによる要約。

 現在は欧州に暮らす学者夫婦が初めて口を開いた。ただし、中国国内にいる親族に危害が及ばないよう、氏名はもちろん、本人と識別されるような表記は一切しない、という条件付きである。

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 中国政府・共産党は、国外にいても、どこに居ても、私たちを捜索しています。スパイは、私たちのいる国をまだ見つけていませんが、私たちを探し続けています。もし彼らがこの本で私の名前を見つけたら、彼らはすぐに私たちの子供たちを殺してしまうでしょう。自分以外の親族も、互いに引き裂かれ、肉体的にも精神的にも、強制収容所での経験でひどく傷ついています。

 私は、すべての人を大切にする環境で育ちました。地域の学者の集まりに所属し、年齢は60代で、高齢と言えましたが、非常に活発に活動していました。私は政治に興味を持ったことはなく、問題を引き起こしたこともありませんでしたが、彼らは私をすべて破壊しました。

 2016年、私たちは子供たちの何人かをトルコに留学させました。トルコでなら、より自由に、安全に暮らせるからです。当時、中国当局はすべてのウイグル人にパスポートの申請を命じていました。パスポートを申請しない人は敵対的であると見なされ、「お前は政府に反対している!」と言われ、15〜20日間拘束されました。ですから、パスポートを申請し、手に入れれば自由に海外に行けると多くの人が思ったのです。

 ところが、私たちが逮捕、投獄される理由となったのは、まさにこの海外旅行でした。同時に、パスポートを持っているにもかかわらず海外に旅行しなかった何千人もの人々が「お前の行動は疑わしい」と非難されました。「反政府活動を計画しているに違いない!」と言われ、懲役20年、あるいは終身刑を受けた人もいました。あるケースでは、3世代にわたる親族84人がトルコに移住しました。帰国すれば逮捕されるのは間違いないので、二度と帰ってこなかった。非常に賢明でした。

 私たち夫婦はそうではなかった。2016年、トルコにいる娘の結婚式に出るためにトルコに行き、帰国して一年後、当局から何回も尋問を受けました。「どうしてトルコに行ったのか。お前は外国のスパイではないか」と。翌2017年に、当局は国境を閉鎖し、私たちは国を離れることができなくなりました。

 しかし、妻と私はすぐに彼らの罠に陥りました。私たちは2016年に娘の結婚式のためにトルコに旅行し、それが終わったときに家に帰りました。かろうじて1年後、彼らは私たちに対してこの旅行を何度も尋問しました。 「なぜあなたはトルコにいたのですか?あなたは外国のスパイです!」政府は2017年に国境を閉鎖しました。私たちはもはや国を離れることができませんでした。

 そして、その年の10月2日、3人の警官が深夜に私たちの別荘にやって来ました。私たちは裕福で、別荘には広い庭がありました。ある警官が「どこにいる?」と叫び、私たち夫婦を見つけると、頭に黒い布の鞄をかぶせ、私と妻を別々に連行しました。

 私たちは犯罪者のように手錠をかけられ、足枷をされ、さまざまな場所で何日も休みなく尋問されました。「なぜお前はトルコにいたのか?」何度も何度も。私は「娘の結婚式に出るためだ」と答えると、 「本当の事を言え。なぜお前はトルコに行ったのか」。壊れたレコードのように同じ質問を繰り返しました。

 当局の幹部が、逮捕した私たち全員を一度に殺さなかったのは、おそらく大量殺戮に関係する物理的な能力と関係があったのでしょう。彼らは何百万もの死体を一度に処分することはできません。

 ただし、”駆除ネットワーク”全体はよく計画されています。まず、犯罪の重大性に基づいて”囚人”を類別します。囚人が尋問中に「中国共産党よりも強力なものはない」などと言うと、”第2ラウンド”で処刑されました。

 ただし、「私は何をしましたか?私は法律に違反していません!公平ではありません!」などと言うと、すぐに処刑です。まず、独房から出され、「健康診断に行きましょう」と看守から言われます。数時間後、あるいはその晩のうちに独房に戻されますが、ほとんど意識を失っており、完全にぐったりして、ろくに話すことができなくなっていました。

 連れて行かれる前には歩くことができる普通の人でした。戻されて、通常は2、3時間後、いったん意識が正常に戻り、最後の息を吐きました。その前に、自分たちが注射をされたこと、「連中は、これで…私たちを殺している」という言葉を残していく人もいました。外見的には拷問の痕が見られなかったので、致死的な注射を打たれたのは、間違いありません。

 私のいた収容所では、毎日5人か6人の囚人が独房から呼び出され、何人かは尋問の後に連れ戻されました。戻ってきたのは1人だけの日もあれば、まったく戻ってこなかった日もありました。 生じた”欠員”は、新しい入所者が、他の独房からの囚人で補填されました。私がいる間に最終的に何人が殺されたか、正確に言うことはできません。

 私たちは夜、寝ているふりをしながら、他の房の新しい囚人たちの声に耳を傾け、他の収容所の人々がどのように殺されているかを知りました。 「聞いたことがありますか?」毎晩、私たちの独房は、あえぎ声、咳、喘鳴だけでなく、死者についてのうわさでいっぱいでした。 「あの男は今日亡くなった。昨日は一人亡くなり、もう一人は…」私たちは、亡くなった方の名前を知りませんでした。番号だけです。

 私の5回目の尋問中に、彼らは私の背中を激しく殴打し、私の肺の1つが損傷しました。その後何が起こったのかわかりません。独房に連れ戻されたのでしょう。失神状態から目が覚めた時、血を吐くのを止められませんでした。私は約2リットルの血液を失いました。心臓が不規則に鼓動し、脈拍が激しくなりました。 「彼を医者に連れて行け!」。看守が叫び、顔に布をかけられ、ストレッチャーで建物の出口まで運ばれる間、布の間から、窓の外にある大きなコンクリートの構築物が目に入りました。何マイルも木が見えませんでした。 2階建ての長い建物がいくつか並んでいました。

 看守は、私と15〜20人の重傷者を棒でたたいてから、すりガラスの小さな窓しかないミニバスに詰め込み、立たされ,手錠をかけられ、天井のパイプにつながれました。息苦しく、何人かは失神しました。それも、バスは15分ほど走り続けました…。

 収容所に入れられると、ほとんどの囚人は殴りつけられ、それから”健康診断”に連れて行かれます。外の世界から見れば、収容所の看守たちは規則に正確に従っているように見えました。彼らは、地方政府が指示したことを忠実に実行する善良な市民でした。だが、彼らが受けた指示は、できるだけ多くの囚人を短時間で殺すことでした。

 私たち全員を一度に殺すことは、おそらく物理的な能力だけでなく、政府・党が、その行為を、外の世界に向けて正当化することが困難だ、ということもあったでしょう。”最優先”の囚人は即座に殺されましたが、他の囚人たちは酷い拷問の末に、拘留中に、あるいは釈放直後に亡くなりました。

 私は、移送された治療所で非常に思い病気の高齢者に会いましたが、ベッドには寝かされず、手足を椅子に鎖でつながれたままでした。用を足したいときは、人を呼ばねばなりませんが、ある時、警官が2人でやって来て、彼の頭を殴り、「おしっこをすることができます、おじいさん!」と言い放ちました。

 私の場合、診察をした医師が「肺の損傷が大きすぎるので、ここでは治療できない。ウルムチの肺の専門医のところに連れて行きなさい。そうしないと、ここで死んでしまう」と、監視役の警官に言ってくれました。

 どういうわけか、彼らは、私がその治療所で死ぬことを望んでいませんでした。私を、医師が指定した病院に入院させ、損傷した肺の出血は止められました。 3日間、気を失ったままでした。意識を取り戻すと、部屋の中で医師と警察官が私について話し合うのが耳に入りました。

 「彼はとても高齢だから、すぐに死ぬだろう」「では、彼を収容所に連れ戻すのは意味があるのか」ーそして、私は、釈放されました。彼らは私が釈放されても生き残ることはない、と確信していたのです。釈放後、私は、自分で治療費を払わねばなりませんでしたが。

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2022年1月6日