☩「裏切られ、間違う可能性があっても、対話をあきらめるべきでない」教皇、対中国で・(解説)問題は「対話」の中身だ

(2021.9.3 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは、Vatican News が1日報じたスペインのジャーナリスト、カルロス・ヘレーラ氏との会見で、現在の様々な課題について語られたが、その中で、対中国関係について、「容易ではなく、だまされたり、間違いを犯したりする可能性」を認めつつ、「それでも、対話をあきらめるべきではない」と強調された。

 バチカンが2018年秋に中国政府に申し合わせ、昨年秋に2年延長した司教任命に関する暫定合意について、「教皇の道徳的権威を危機に落としかねない、として合意の再更新に反対する声が出ています。多くの人が教皇としての道をとることを望んでいる、とお感じになってはいませんか」とヘレーラ氏が質問したのに答えられたものだ。

 Vatican News が報じた教皇の答えの全文の英語訳は次の通り。

 中国(問題を扱うの)は容易ではありませんが、対話をあきらめるべきではない、と確信しています。裏切られる可能性があります。間違いを犯す可能性があります。それでも(対話を続けようとするのが)とるべき道です。心を閉ざすことは、決して、とるべき道ではありません。

 中国との間でこれまでに達成されたのは、少なくとも「対話」でした…新しい司教の任命のようないくつかの具体的なことはゆっくりと…しかし、これらは問題を含んだ歩みであり、評価も分かれます。

 この問題すべてを考えるうえで、最も重視し、助けと刺激をいただいているのは、カサロリ枢機卿(1998年6月没。バチカン国務長官として、旧ソ連圏の国々での教会迫害に対処するため重要な役割を果たした)です。

 彼に対して、ヨハネ23世教皇は(旧ソ連共産圏下の)中東欧と”橋を架ける”よう求めました。偉大な著作「The Martyrdom of Patience(忍耐の殉教)」の中で、彼は自分の経験について触れています。小さな歩みをいくつも重ねて、橋を架けました。難しい時期に、戸外で、あるいは”水道の蛇口を開いた状態”で、相手と話す必要がありました。ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、外交関係を結ぶ準備を重ねて行きました。そして、最終的に、中東欧諸国で新しい司教たちを任命し、信徒たちの司牧ができるようにしたのです。

 今日、この(中国で)最も問題のある状況の下で、なんとかして、対話の道を一歩一歩、進まねばなりません。

 私のイスラム教との対話の経験、例えばグランドイマーム・アルタイエブとの対話では、とても前向きの成果があり、彼に非常に感謝しています。その後に私が出した回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」の”胚芽”にもなりました。

 対話すること、常に対話すること、あるいは対話に努めることで、とてもいいことがあります。カサロリ枢機卿は、聖ヨハネ・パウロ2世教皇に最後に会った時、ご自分がされていることを話しました… (枢機卿は毎週末、ローマのカサ・デル・マルモだったと思いますが、少年刑務所を訪問していました。そこで少年たちと過ごしたのですが、普通の司祭が着るカソック姿だったので、誰も彼が枢機卿だとは知りませんでした)。

 そして、2人の話が終わり、カサロリ枢機卿が出口のドアのところで別れの挨拶をしようとすると、教皇は彼を呼び、こう聞かれましたー「あなたは、今も少年たちの所に行っておられるのですか?」。枢機卿が「もちろん、そうしています」と答えると、 「決して彼らから離れないでください」と教皇が願われたのでした。

 聖人である教皇の、優れた外交官に対する申し送りの言葉ー「外交の道を歩み続けなさい、しかし、あなたが司祭であるということを忘れないように」。これは私にとって、気持ちを奮い立たせる言葉です。

 

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*(解説)問題は「対話」の中身だ、「人権抑圧」「信教の自由の侵犯」など”不都合な真実”を避けてはならない

 教皇のこの発言からは、”対中対話”に前のめりの印象が強いバチカンの外交責任者、パロリン国務長官の姿勢に比べて、慎重、冷静な姿勢がうかがわれる。「対話」継続の努力を重ねることは必要だが、問題がある。対話を推進しようとするあまり、中国にとって”不都合な真実”に目をつぶろうとする気配が感じられることだ。

 世界の様々な地域、国で起きている一般市民への迫害、人権の著しい侵害に対して警告を繰り返している教皇だが、中国政府・共産党が新疆ウイグル自治区、チベット自治区などで宗教的迫害、人権の侵犯、香港で民主活動家を弾圧していることなどについては、米欧など国際社会から強く批判の声が上がり、国際的に報道が繰り返しされているにもかかわらず、公的な場ではこれまでのところ一切触れていない。意識的に言及を避けているように見える。

 司教任命に関する暫定合意がされた2018年秋以降、カトリック教会をはじめ、プロテスタント教会、仏教やイスラム教の司祭、信徒で政府・共産党の支配を拒む人たちへの弾圧は強まる一方だ。そればかりでなく、政府・党の支配・統制を受け入れた”地上教会”に対しても、「中国化」を名目にした宗教統制が激しさを増しているようだ。対話を続けようとするなら、こうした問題も明確に議題に取り上げ、軌道修正を求めていくのが、世界の諸宗教のリーダーでもあるバチカンのとるべき「道」だろう。

 そうした姿勢を欠き、”不都合な真実”に目をつぶったまま、対話を続けるなら、教皇がインタビューで言われた「だまされたり、間違いを犯す」ことが重なり、結果として、世界で覇権獲得の姿勢を高める中国に利用されることにもなりかねない。第二次大戦中、バチカンはナチスのユダヤ人集団虐殺が起きているのを知りながら、”信徒を守る”ことを優先して、この問題に沈黙を続け、結果として歴史的な大惨事”ジェノサイド”を放置した過ちを繰り返すのでは、との懸念を強める関係者は、決して少なくない。

 バチカンの国務省幹部の中には、中国との交渉では、相手が限定されていて、取り上げる問題も限定されている、と限界を感じる声も出ているようだが、実際のところ、バチカンとの交渉の中国側代表は、中国政府の機関である国務院の外務省であり、中国国内であらゆる宗教活動の監督・統制の全権を握る中国共産党統一戦線工作部ではない。

 つまり、いくら外務省が約束しても、統一戦線工作部がそれを守る保証はないし、中国における力は後者の方がはるかに強いとあれば、「基本合意」がバチカン側が希望するような形で守られる保証がどこまであるのか。実際に、合意後に司教に叙階された人々は、すべて党の監督・統制下にある中国天主教愛国協会のメンバーであり、監督・統制に服さない”地下教会”の司教の中には降格されたり、逮捕・拘禁される人が目立っているのだ。

 教皇が中国との対話の重要性を強調するのであれば、このような中国国内の実態を正確に把握し、弾圧、迫害に苦しむ信徒たちの声に耳を傾け、対話の中身も、それを反映した、信教の自由、人権の確保がなされるように、バチカンの対中外交担当者たちに指示していくべきではなかろうか。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年9月3日