・秋の”若者シノドス”に向けた討議要綱の概要と事務局長会見内容

(2018.6.19 バチカン放送)

 今年10月、バチカンで開催される「若者」をめぐるシノドスのための討議要綱が発表された。 世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会は「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに、2018年10月3日から28日まで開かれる。同シノドス開催に先立ち発表された討議要綱は、「序文」に続き、「認める」「判断する」「選択する」の3つのアクションを伴う全3部と、「結び」からなる。

 討議要綱の構成は以下のとおり。

・序文

・第一部 認める:現実に耳を傾ける教会
第1章:今日、若者であるということ 第2章:経験と表現 第3章:切り捨ての文化の中で 第4章:人間学的・文化的挑戦 第5章:若者に耳を傾ける

・第二部 判断する:信仰と召命の識別
第1章:若さの祝福 第2章:信仰の光に照らされた召命 第3章:召命識別のダイナミズム 第4章:共にいて見守る技術

・第三部 選択する:司牧的・宣教的回心の歩み
第1章:統合的な展望 第2章:日常生活に深く分け入る 第3章:福音化された、福音宣教する共同体 第4章:司牧の活性化と組織化

・結び

 同討議要綱は、インターネットを通した質問書に対するおよそ10万人の青少年の回答や、シノドス準備会議の結果など、多くの資料を基に起草され、若者たちの現実を読み解くための鍵を提供している。

 その中では特に、「今日の若者たちは何を望んでいるのか」「教会に何を求めているのか」ということが注目される。若者たちは第一に、模範となり、権威ある、文化的に堅固な「真の教会」を求めていることがわかる。

 また、若い人たちは、教会が「透明性を持ち、受容的で、誠実、魅力的で、コミュニケーション能力があり、近づきやすく、喜びに満ち、双方向的」であることを望んでいる。その一方で、教会に何も期待しない、あるいは教会の対話者としての役割を重要視しない、さらには、教会の存在をわずらわしいと感じる若者たちもいる。

 こうした背景として、教会の様々なスキャンダル、青少年司牧における司祭たちの養成不足、現代社会において教会の教えと道徳的立場を説明するのに困難が伴うことなどが、指摘される。

 討議要綱には、青少年司牧を考える上でのいくつかのキーワードが浮かび上がる。それらは、「聞く」「寄り添い」「回心」「識別」「挑戦」「召命」「聖性」などの言葉である。

 「聞く」:若者たちは自分が置かれた状況を深い理解をもって聞いてもらい、彼らの日常の体験を分かち合いたいと思っている。また、教会の中で自分の意見が尊重され、教会の一員として認められることを望んでいる。

 「寄り添い」:若者たちに、霊的・心理的・教育的に、また家庭司牧・召命司牧の立場から寄り添うことは、教会にとって本質的な義務であり、若い人たちにとっては権利である。

 「回心」:討議要綱は様々な意味での「回心」に言及している。それは、キリスト教徒が少数派である場所で、暴力をもって「回心(改宗)」を迫られる若者たちの悲劇であったり、教会において若者たちの統合的な養成・教育を目指す上での「組織的回心」や、また教会の勇気ある「文化的回心」を望む声であったりする。

 「識別」:この要綱において、「識別」とは、若者たちの必要に応えて「外に向かう教会のスタイル」であり、「神の御旨を具体的に知り、受け入れるための霊的活力」「神の時・神の招き」を知り、それを無駄にしないための「道具」として認識されている。

 「挑戦」:宗教的差別、人種差別、就業の不安定、貧困、薬物・アルコール中毒、いじめ、搾取、孤独などに対する挑戦の必要が示される。

 「召命」:「召命」という言葉に対し、若者たちは偏見や先入観を持っており、この言葉を司祭や修道者への召命に限定せず、青少年司牧の中でさらに広い意味で使う必要に言及。厳密な司祭召命という意味では、召し出しの減少を真剣に捉え、魅力ある召命司牧の模索を望んでいる。

 「聖性」:討議要綱は「聖性」というテーマをもって締めくくられる。「若さとは聖性のための時」であるとし、聖性をすべての若者たちが到達できるものとして示している。

シノドス事務局長会見の内容

(2018.6.19 「カトリック・あい」がバチカンの公式発表文をもとにまとめた)

バチカンのシノドス(全世界司教会議)事務局が19日、記者会見を開き、今年10月3日から28日にかけてバチカンで「若者、信仰、召命の識別」をテーマに開かれる世界代表司教会議・第15回通常総会(通称”若者シノドス”)のInstrumentum Laboris(討議要綱)を発表した。シノドスを主宰される教皇フランシスコを受けたもので、シノドスの討議のたたき台となる極めて重要な文書だ。

 会見では、まず、事務局長のロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿が、つづいて幹部3人が概要以下の通り、説明を行った。

*ロレンツォ・バルディッセーリ事務局長の説明

はじめに

 この記者会見にご出席いただき感謝します。これからお話しすることが、「若者、信仰、召命の識別」をテーマに10月3日から28日にかけて開く”若者シノドス”のための、この討議要綱についての、皆さん一人ひとりの理解の助けになることを期待します。

 この討議要綱は、一見してお分かりの通り、かなり広範で、明確な内容になっています。この場で、私は今回のシノドスの目的、進め方、そして要綱の概要について、いくつかの要点に絞ってお話ししようと思います。

 今回のシノドスの第一の狙いは、愛の喜びに向けた一人ひとりの若者たちと、例外なく共に歩む、という重要な使命を、全教会が認識するようにすること。そして、第二に、この使命を真剣に受け止めることで、教会自身が新たにされた若い力を取り戻せるようにすること。そして第三に、召命の識別に自身を置く機会とすることが、教会にとって重要です-この世の心、光、塩、パン種となるように、との呼びかけに最もよく応えることができる方法を再発見するように。

 このような目的の帰結として、討議要綱は「識別の方法」でまとめられました。端的に言えば、シノドスは識別の実習です-自身の使命に光を当てるように若者を助けるのと同じ段階を踏むことで、それは達成されます。教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の51項で、識別の進め方を三つの言葉で説明されています-認識し、理解し、選択する-と。このような理由から、この要綱は、この三つの言葉に従って、三つの部分に分けられています。

 識別の第一の過程は、「recognize(認識する)」という動詞で特徴づけられます。ここで、すぐに思い出されるのは、エマオ(で2人の弟子が復活されたイエスと出会った場所)での出来事-「二人の目が開け、イエスだと分かった(recognized)」(ルカ福音書24章31節)です。つまり、はっきりしているのは、この「分かる(recognized)」が、「見る」とか、単に「耳にする」ではなくて、もっと多く-恩寵を受けた弟子の凝視すること、本質を見る目で現実を理解すること、私たち一人ひとりの中にある慈悲の深い思いから生じる理解力-を意味している、ということです。 「Recognizing(認識する)」は、現実において神の凝視に加わり、それを通して私たちに語りかける神がなさり方に気づく、ことを意味しています。

 第二の過程は、「interprit(判断する)」という動詞を目指します。現実は着想よりも重要ですが、現実から生まれる訴えが認識された時に、着想が必要になります。現実を判断するために基準が必要で、それがなければ、私たちは皮相的なものに囚われたままになってしまうのです。聖書学の、人類学の、神学の、教会学の、教育学の、そして霊的な高みに向けて、探求することが、求められています。優れた着想は、不可欠で調和した未来像に向けて、それを解明し、明確化し、結び目をほどき、もつれを解き、混乱を乗り越え、分裂を解決し、共に歩みを進めます。

 第三の段階は、「choose(選択する)」ことに集中します。認識し、判断した後の、最も慎重を要し、重要な段階は、これまでの経験を踏まえて、勇敢で、先見の明のある判断をすることです。識別は、堅固で先見的で実際的な決断に向けた実りをもたらすことのない、際限のない分析と多くの異なった解釈、にひんぱんに苦しめられます。ここにおいて、司牧的、宣教的な改変の旅で私たちを助ける分かち合われた選択を通して、旅を完結することが重要になります。

 討議要綱のポイント

 今回の討議要綱の内容すべてにわたって、ここでご説明することはとでもできないので、内容のいくつかについて、以下に手短かに述べさせていただき、基本的な理解をしていただきたいと思います。

(ここまでの翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

1第一部 認識する:現実に耳を傾ける教会

 要綱は導入部で狙い、方法、構成を明らかにした後、本文を5章で構成する第一部から始めます。

 1章、2章は異なった文脈でかなり幅広い考察を提供し、世界の若者たちの間に多くの相違と共通点があることを紹介します-グローバリゼーションは、多くの分野で同一化をもたらしましたが、にもかかわらず、社会的、経済的、文化的、宗教的、そして精神的な相違は依然として多く存在します。そのようなさまざまな関心事のなかで、私が特に強調したいテーマは、大人を若者の協力者というよりも、傾向として競争相手とみなすような世代間の関係と、重要な機会と新たな危険をあわせもつ若者にとって前例のない人生の舞台となっている分野横断的なデジタル大陸の存在です。

 続く3つの章で、それぞれ特定の問題に焦点を当て、その輪郭を明らかにします。

 最初の”拡大鏡”(第3章)は、「買う・使用する・捨てる」という現代の支配的な思考の枠組みをもとにした自己認識の世界から、頻繁に拒絶されている、最も貧しく、見捨てられた若者たちに焦点を当てます。このような「文化」が人間に適用されると、彼らの尊厳に対する配慮は無くなります。(尊厳の不在と搾取の二つから見ることのできる)労働、移住、差別、社会的排除は、「文化」に悲しむべき見本を提供します。

 二つ目の”拡大鏡”(第4章)は、現代の教会が若者に対する司牧において取り組むことを求めらている6つの「人類学的、文化的な挑戦」についての、より深い知識を提供します。

 それは①肉体、情緒、性欲についての新たな理解②真理への道筋を伝える新たな認識の枠組みの出現③時間、空間、人間関係に異なる理解を押しつけるデジタル社会の人類学的影響④世俗社会と教会の両方に見られる一般化された制度への失望⑤制限された、あるいは制限されつつある道に若者世代を閉じ込めるという決断の麻痺した状態、そして最後に⑥あまり「宗教的」ではないが、超越した真の体験にもっと心を開いている若者についての懐古的で霊的な探究、です。

 第一部の最後の力点として、若者の世界に耳を傾けることについて、言及しています。「教会は若者に耳を傾けなければならない」という認識をもとに、若者たちの要求と関心が明らかになってきています。彼らは、一貫性、真理、霊性を求めています。新しくされた関係を受け入れる包容力、先見的な受け入れの原動力を求めています。生気のある典礼を求めています。世界の正義に対する私心のない誓約を希望しています。彼らは兄弟愛に飢え渇いています。このような問題についての、神学生、聖職者、深い信仰を持つ少年少女たちの声は特に貴重です。

(以上「カトリック・あい」田中典子、南條俊二訳)

第二部 判断する:信仰と召命の識別

 第二部は四つの章から成り立っています。信仰と言う観点から、このシノドスのキーワードである「若さ」「召命」「識別」「寄り添い」のそれぞれの異なった観点から、全体の概観を提示します。

 第1章は、福音的、人類学的な性格のもので、基本的な特性を照らし出す福音的に一定不変の事柄からはじまる若者の考えを深めさせるために、読者に寄り添う仕事です。いろいろな文脈から、青少年期とは、愛と喜び、不屈の精神、克服と危険、不安と恐れ、堕落と回心、聞く準備のできた、成長の時期であることが表されています。とりわけ、若者である時期というのは、満たされた豊かな人生を送るために、聖書にあるように契約の,そして愛の神との救いとなる触れ合いの、神と彼との結びつきの時期なのです。

 第2章は、神学的、教会学的性格のものです。若者たちと教育者/トレーナーの意見を聞くと、幅広い召命の問題の理解の枠組み提供する必要性が明らかです。それによって、一人も漏らさず、すべての若者にとって意味深いものとすることが出来るのです。司祭叙階という最も具体的な召命においてだけでなく、奉献的な生き方への召命に於いてもです。このために、この章は召命の層位(あらゆる種類の召命)からの生き方を照らし出す必要から始まり、カトリック教会や世界の中でのあらゆる種類の召命に招くことで終わるのです。

 これらの召命の中では、家庭が確実に一番重要な立場にあり、我々を強く前回のシノドスに結び付けます。また、結婚か叙階かとか言及はしないが、「独身」のままでいることを選択する人たちの召命的位置づけについてカトリック教会内での適合性ということも、頻繁ではないにしても、現れていることに注目しています。実際、多くの国において、その数が増えていることは顕著です。

 そして、第3章は、召命の識別の仕方の過程に入ります。世の中で、多くの若者は、混乱し、分裂したように感じ、彼らの人生に起きた出来事を信仰に照らして読み解く助けを求めています。この章では、識別の意味と内容を、認識しー解釈しー選択する、という3つの動詞を使って、明らかにしています。この行程においては、各自の自分の意識との対決がやはり明確な結果をもたらします。

 最終章は、共に寄り添い見守ることがテーマです。共に見守るにも、いろいろなタイプがあります。実際、環境の中で、共同体の中で共にいて見守る、また、時のしるしを読みることで見守る、心理的見守り、そして、もっと霊的な見守りなどです。ちょうど私たちが、家庭や、仲間うちで、共に寄り添われるようにです。和解の秘跡と見守りとの関係もあります。とても興味深いのは、若者たちが彼らに寄り添い見守ってくれる人たちの質についてはっきり言うときの発言です。彼らは、残念ながら多くの場合、また多くの教会関係のことで、十分満足できる適切な人に出会わないのです。

(以上「カトリック・あい」岡山康子訳)

第三部:選択する:司牧的・宣教的回心の歩み

 第三部のタイトルは『福音の喜び』の表現を要約しています。それは、多くを要求する展望です:認め、判断した後、選択への言及は、決定的に、心と精神の回心、司牧的実践の刷新へと向けられます。ここでもまた、第二部と同様に、四つの章で構成されています。

 第1章は導入で、方向づけ(オリエンテーション)としての役目をもっています-それは、若者に対して創造的であることを望む教会の顔(表情)の再定義を行います。その、慣習的なやり方(行い方)と、その紛れもない様式(スタイル)の識別をしながら。教会は呼ばれています:自分のフォルマ(形)と、今日の世界に住む方法に手を付けるように。分裂された世界において、兄弟愛のしるしとなるように。神の国のために、統合的に、利害関係なしに、非集中的(地方分散的)方法で働くように。

  第2章は討議要綱全体の、もっとも一貫した説明です。それは、教会にとって、若い人たちの日々の生活と向かい合い、彼らが具体的な存在を生きている場所に存在して、働くことの必要性を示しています。しばしば、若者たちの多くが教会から離れて行くことを、彼らの責任にしながら非難することがあります。

 しかし、何度も、彼らは、教会が彼らから離れて行ったと彼らに肯定させるような状況を経験したのです。そして、彼らはそれを率直に言います。多くの場合、彼らの生活の、さまざまな経験、さまざまな分
野(学校、大学、仕事の世界、政治的義務、デジタル式環境、音楽、スポーツ、友情)において、教会を感じず、教会の近くにいると感じなかったのです。苦難と疎外 身体障害や病気、依存症やその他の脆さ、刑務所、暴力や戦争、移住と死)においての、必要な近しさと、適した(ふさわしい)支えに関しても。

 第3章は、今日の教会共同体の形と力の上に焦点が置かれます―教会のアイデンティティーと、教会の、若い人々のための使命、若い人々と共にする使命との関係において-。10節の中で、強さ、弱さ、預言、討論の要点が、若者の要請から、また世界中の司教団の答えから浮かび上がりました。深められるべき、多くの要点があります:教会の家族的な形から その霊的提案まで。教育的熱意の評価から、若者の召命に関する司牧における家族のかかわりまで キリスト教入門の質から、神のみことばと典礼の魅力まで。召命の識別を考慮しての、奉仕と自発的な奉仕(ボランティア)から、すべての人々に開かれた教会としての召命まで。

 討議要綱の最後の章は、司牧的配慮の活性化と構成にささげられています。

 ここでもまた、取られるべきさまざまな選択があります。聞くことから浮かび上がる問いかけが数多くあったからです。

 いまだ聖職者至上主義clericalismによって支配されている教会の現状の中で、どのように若いリーダーシップを促進するのか?

 どのように、司牧的配慮のさまざまなレベル(世界的、教区的、小教区的レベル)の間の交わりを造り出すことが出来るのか?

 若者の召命の司牧的配慮に関する異なるテーマ(司祭と修道者、運動と団体)の間の交わりの作業を、どのように始め、強めることが出来るのか?

 どうやって、教会内だけでなく、異なる宗教の間でのネットワーク、国家、社会、宗教が異なる人々と間での協力のネットワークを強化するのか?

 どうやって、並外れた出来事(イベント)と、若い人々の日常生活を結びつけることが可能な、教育的、司牧的プログラムを構成するのか?

 どうやって、司祭職や奉献生活を望む人々のための、適切な訓練(教育)計画を立てるのか-自由における成熟の道において、また、決定的選択を考慮しての漸進的な識別において、彼らに同伴しながら-?

 最後に、どの観点から出発して、真に統合的で、若い人々の重要性に向けられた司牧的配慮を考えることが出来るのか?

 討議要綱は、聖性に向けた「リバイバル」で結ばれています。三つの短い節の中で、聖性が、すべての人々にとって、唯一(特有)で、統合する召命であることが明らかになります。なぜなら、誰も、この、存在の最終目的(ゴール)から潜在的に(能力的に)排斥されないからです。それから、青年期も、その他のすべての年代のように、聖性のために好適な時であることが強調されます。聖性とは、神のみ心(み旨)に従って生きることです。

 最後に、「人生のわくわくする時代である青年期の最上の生き方」を見せてくれた若い聖人たちがいることを、私たちは思い起こします。

(以上、「カトリック・あい」Sr. 岡訳)

希望

 ご覧の通り、「若者シノドス」の討議要綱は、数えきれないほど多くの考えるべき項目を取り上げ、その具体的答えをを積極的に探し求めていきます。これは確かに暫定的な文書で、あらゆるテーマのあらゆる兆候を集めて、それが「認める」、「判断する」、「選択する」助けとなるよう絞っていきます。問題に光を当てて、解決する道をみつけながら歩んでいけるよう導いていくのです。

 とりわけ、これは、もはや夢をみさせてくれない世界で、不可能と思えることに望みを持ち始めること、若者のために、若者と共に偉大なことを夢見ることへの招きとして、読むことが出来ます。

 討議要綱のN.43では、シノドス予備会議の文書の中で、若者が「時に、私たちは終いには夢を捨ててしまいます。我々は、怖くて、中にはもう夢を見ることをやめてしまった者もいます。これは、若者の間で希望を枯渇させてしまう可能性のある多くの社会的ー経済的圧迫と結びついています。時には、私たちは夢を見続ける機会を持つことさえないのです」と発言していると報告しています。

 そしてn.81の、聖書による人間学の箇所では、教皇フランシスコが大切にされるヨエル書からの引用に言及し、「大人たちの夢と若者たちの預言は、世代間の連携の良さを固めて、同時にしか起こりえないのです」と述べている。私たち大人や老人が夢を見ないなら、若者たちは預言することが出来ないのです。

 ここで、若者のためのシノドスは、私たちに良い人生への希望と、司牧の刷新、信仰を共にしたいという願望と教育への情熱を再発見する機会を与えてくれているのです。ここでは希望についてのみ言っていますが、主観的な、一般的な希望のことではなく、キリスト教徒としての希望のことで、私たちがどうしても考えざるを得ない悲しい事実を述べています。

 今回のシノドスのためにここ数年聞き取りを行ったところ、むしろ全般的に希望のない答えが帰ってきました:多くの若者たちが、信頼できる希望を高め、希望を頼りに生きる代わりに、もう常に運任せなのです:あらゆる分野で、賭けが急増し、若者の間で賭博が蔓延し、我々の都会では希望のない賭博場が倍増し、見込みのない運試しに人生を委ねているのです。実際、希望を失うと、一か八かの賭けに走るのです。

 私が伝えたい最大の願いは、このシノドスが若者の人生や希望のための機会となり、教会のための、そして、世界のための良い機会となることです。「すべての若者のために」と言うのは、彼らの愛情や,連携や、展望を盗み取る世界で、彼らが契約と愛の神との幸せな関係から始まる人生の美を再発見する機会となるからです。「教会のために」と言うのは、聖霊の中に確実な識別の過程を通って、新たになった若い活力を取り戻すことが今は困難になっているからです。

 そして、最後に「世界全体のために」と言うのは、男性も女性も、すべての人が、福音の良い知らせを受け取る恩恵に浴していることを再発見できるようにするためです。

(以上「カトリック・あい」岡山康子訳)

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2018年6月19日