就任直後、早過ぎる死に多くの疑惑、いまだに解明されず(「カトリック・あい」解説)
ヨハネ・パウロ1世は、誠実、清貧、人々と共に歩む教会の再生を目指す、現在の教皇フランシスコの”先輩”とも言える教皇だった。2人の聖人の名前を合わせた教皇名を歴史上はじめて使われ、旧来の虚飾的な慣習を破ろうと努められた。例えば、教皇演説の中で、これまでの教皇が伝統的に自らを「Pluralis Majestatis(朕)」 と呼んでいたのを「私」に改めたほか、教皇となるにあたって、豪華な教皇戴冠式 や教皇冠 も拒否した。
さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めた。中南米 やアフリカ 諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、アルゼンチン で行われていた「汚い戦争 」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ 大統領 (上記の「ロッジP2」は同大統領を支援していた」)が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。
バチカン改革にも着手し、就任後間もなくバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明、実際に、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続け、国際的な犯罪捜査の対象となった同行総裁のポール・マーチンクス大司教の更迭を決め、国務長官のジャン・マリー・ヴィヨ枢機卿をはじめとするバチカン銀行の汚職に関係するバチカン内部の関係者の更迭も決めた。
このような第二バチカン公会議の精神を具現化する思い切った改革の姿勢が、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持を受けていたにもかかわらず、教皇在位わずか33日目の1978年 9月28日 の午前4時45分にバチカン内の自室で倒れておられるのが発見された。
わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから最短の在位記録となった。
だが、発見からわずか15分後に個人秘書がヴィヨ国務長官に連絡したものの、官はすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後に医師団次席に連絡。午前6時過ぎに同医師が検死、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、死因を急性心筋梗塞 と断定。
それ以前、医師団への連絡も行われていない午前5時前に、バチカン御用達の葬儀社、シニョラッティ社が呼ばれて、遺体解剖も行われないまま防腐処理が行われてしまった。そして、午前7時27分にバチカン放送 によって逝去の発表がされた際には、この検死内容がそのまま発表された。遺体の発見者が教皇の世話をしていた修道女であるにもかかわらず「個人秘書のマギー神父」、遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表。
さらに、更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、通常は常時用意されている遺言状が、前日教皇から解任を言い渡されたヴィヨ国務長官により持ち去られており、その後、所在が不明になるなど、不審な点が数多く残った。
このため、人事を含め大胆な改革に手を付けようとした教皇に、自らの悪事が暴かれることなどを恐れ、強い危機感を抱いたバチカン内外の保守勢力の関与などを疑う声が高まるなど、疑惑の目が向けられたが、死を受けて直ちに行われた教皇選挙で、東西冷戦の終結、ソ連・東欧の共産主義体制の崩壊を象徴するポーランド出身の50代の若い教皇ヨハネ・パウロ二世が誕生し、内外の関心がそちら集中するに及んで、疑惑は解明されることもなく、”消滅”して現在に至っている。
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