・教皇が 聖フランシスコ・サレジオ帰天400年に使徒的書簡

聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士 

(2022.12.28 バチカン放送)

 聖フランシスコ・サレジオの帰天から400年を迎えた28日、教皇フランシスコが記念の使徒的書簡『Totum amoris est(すべては愛のもの)』を発表された。

 この表題は、聖人の著書『神愛論』中の「聖なる教会において、すべては愛に属し、愛において生き、愛のために行い、愛から来ている」という言葉からとられている。

 教皇は、この使徒的書簡を通し、同聖人の生涯を振り返りつつ、その言葉や思想から霊的遺産を汲み取っている。

 聖フランシスコ・サレジオは1567年8月21日、サヴォワ公国アヌシー近郊のサール城に生まれた。パリで人文科学を、パドヴァで法学と神学を学んだ。宗教戦争によって荒廃したパリでは、内的危機に陥ったが、サン・テティエンヌ・デ・グレ教会の聖母像の前で捧げた、神に完全に自らを委託する祈りが、闇に沈んだ心に灯をともした。そして、この炎は彼の心に一生灯り続け、その時の体験は神を通して自身や他者の心を読み取るための鍵となっていった。

 学業を終え故郷に戻った彼は、父の反対を押し切り、1593年12月18日、司祭に叙階され、アヌシー教区管轄内にあるシャブレに派遣された。シャブレはカルヴァン派が多数を占める地域であり、そこでの活動は、波乱に富んだものだったが、その中で自身の仲介者、対話者としての素質を知ることになった。また、チラシを印刷し、いたる場所に貼り、さらには家々の扉の下に滑り込ませるなど、大胆で独創的な司牧方法を開拓した。

 彼は、当時アヌシーに座を置いていたジュネーブ司教と使徒座の命を受け、複雑な政治・宗教事情を抱えるジュネーブ教区での司牧に取り組んだ。ジュネーブでの司牧活動は困難を極め、努力に値する成果をもたらさなかったが、教会のもつ人間的・文化的・宗教的豊かさを発見することができた。ジュネーブでの司牧活動のかたわら、フランス王の宮廷で説教などを行い、宗教戦争に疲弊したかつてのパリにはない「新しい世界、霊的な春、人々の神への渇き」ともいえるものを知った。

 このような時代を読み取った彼は、霊的指導者として精力的な司牧を行い、『信仰生活の入門』、『神愛論』などの著作、修道者や、宮廷の人々、また一般の信徒らに宛てた無数の書簡の執筆、また聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタルとの協力による「聖母訪問修女会」の創立など、その幅広い活動は、彼の霊的躍進を表すものとなった。

 1602年、フランシスコ・サレジオは、ジュネーブの司教となった。「使徒、説教者、著者、行動と祈りの人、トレント公会議の理想の実現者、プロテスタントとの議論と対話、実りある人間関係と慈愛、ヨーロッパの外交ミッション、社会的課題の仲介と和解の推進者」(ベネディクト16世、一般謁見での講話=2011年3月2日)であった彼が、当時と後世の司教たちに与えた大きな影響を教皇は指摘している。

 聖フランシスコ・サレジオは、1622年、リヨンで帰天したが、最後の日々まで、告解を聞き、対話し、説教し、多くの霊的書簡を記しながら、自身のすべてを人々への司牧に捧げた。あらゆる機会、あらゆる選択、あらゆる人生の局面において、どこにより大きな愛があるかを探し求めた。聖ヨハネ・パウロ2世が彼を「神の愛の博士」と呼んだのは、『神愛論』を著しただけでなく、まさに神の愛の証し人であったため、と教皇は述べている。

 教皇は、聖フランシスコ・サレジオのこのような生涯をたどり、その人となり、言葉、霊性を紹介しながら、この機会に同聖人に対する崇敬を新たにするよう招くとともに、神がご自身の民の歩みに聖霊を豊かに注いでくださるよう、その取り次ぎを祈っておられる。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年12月30日