・「人間の脆さを自覚し、新型ウイルスへの戦いに国際的連帯と協力を」バチカン生命アカデミーが訴え(全文付き)

 

貧しい人々への支援物資を運ぶ修道女たち 2020年5月 ケニアで貧しい人々への支援物資を運ぶ修道女たち 2020年5月 ケニアで 

 教皇庁生命アカデミーは、新型コロナウイルスの世界的大感染の影響とそこからの再生を考察する文書を発表した。

 「“Humana communitas in the age of pandemic: Untimely meditations on life’s rebirth”(世界的大感染の時期における人類共同体ー命の再生についての時期尚早の考察」と題した文書は、「リスクに対する倫理の醸成」「国際協力の具体化」「責任ある連帯の推進」の三つをキーワードとしている。

 そして、今回の新型コロナウイルスの世界的大感染から、我々が学んだのは、「人間の脆さ」と「命は恵み」、ということであり、感染が国境を越えて拡大する中で、相互依存の関係にある人類とその共同体の脆弱さに、もっと関心を払う必要がある、としている。

 そして、情報の共有、支援の供給、資源の分配のための努力を呼びかけ、特に、今回の新型ウイルスに対する医療とワクチン開発の重要性を強調。そのための調整と協力の欠如は、感染の早期終息にとっての大きな妨げになる、と警告している。

 文書は、新型コロナウイルスと闘うために、第一に「リスクに対する倫理の大切さ」を説き、健康、生命、尊厳が最も脅かされやすい人々、対応力が弱い途上国に対する責任ある態度と連帯した対応を関係者に求め、ている。また、質の高い医療と治療薬を障害なく得られることを「普遍的な人権」として認識するよう、国際社会の一致した取り組みと協力を訴え、各分野が協力する利害関係に捕らわれない自由で平等で、私的利益の犠牲になることのない研究が進むことを強く希望している。

 最後に、文書は「すべての人により良い未来を可能にする人類の共存」を展望し、実現に希望をもって取り組むよう全世界の人々に求めている。

(編集「カトリック・あい」)

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カトリック中央協議会が7月27日に出した日本語訳全文以下の通り。

教皇庁生命アカデミー「Pontifical Academy for Life Humana Communitas in the Age of Pandemic:Untimely Meditations on Life’s Rebirth(パンデミック時代における人間のコミュニティ:生命の復活についての季節外れの省察)」

Covid-19 は世界に悲嘆をもたらした。我々はすでに長い悲嘆の時を過ごしているが、まだ終わっていない。それはさらに長く続くかもしれない。我々はこの事態をどのように解釈できるだろう? 我々が勇気をもって立ち向かうよう求められていることは確かである。ワクチンと、大惨事を引き起こした原因の綿密な科学的解明の研究が、それを証明する。

しかし我々は、より深い自覚も求められているのではないだろうか? もしそうなら、現在我々が強いられている人との距離は、どのような仕方で、我々を無関心、あるいはいっそう悪いことに、諦めによる黙認という無気力に陥らないようにするだろうか? ただじっとしていることとは別の、慎重な「一歩後退」、すなわち、生命の復活への通路のような、与えられた生命
に対する感謝へと変化させうる思考はあるだろうか?

Covid-19 は、グローバルな危機(パンデミック:世界的大流行)の名称である。それは、様々な切子面と出現を示しているが、疑いなく共通の現実である。我々は以前から長いこと予測されていたが、決して真剣に取り組まれてこなかったこの奇妙な状況が我々をさらに団結させたことを、決して以前のようにではなく理解するに至った。現代世界における多くのプロセスと同様、Covid-19 は、グローバル化の直近の現象である。

純粋に経験的なパースペクティブから見ると、グローバル化は、多くの恩恵を人類にもたらした。科学的知識、医科学技術、および保健事業。それは、潜在的に全員の恩恵のために利用し
うるすべてを普及させた。同時に、Covid-19 によって、不測の出来事(contingency)(cum-tangere〔=contingence:接触〕)の共通の経験を共有することで、別の仕方で接続している我々自身を発見した。パンデミックは誰も見逃すことなく、我々全員を等しく傷つきやすい、等しく危険にさらされた者にした(cfr. 教皇庁生命アカデミー「グローバル・パンデミックと普遍的同胞愛」2020 年 3 月 30 日*1)。

かかる自覚は高いコストで獲得された。どのような教訓を我々は学びとったのか? さらに、人類家族に対して共通の責任をもって生きるために、我々は思考と行動をどのように転換させる準備をしたのか(教皇フランシスコ「人間のコミュニティ」2019 年 1 月 6 日*2)?

1.学びとった教訓の厳しい現実

パンデミックは、空っぽの通りとゴーストタウンのような都市、傷ついた身近な人々、物理的距離の光景を、我々にもたらした。それは、旺盛な抱擁、優しい握手、愛情のこもったキスを我々から奪い、人間関係を、見知らぬ者との間の恐ろしい相互作用の関係、防護具の匿名性に覆い隠された、顔のない個人のあいまいな交流に代えた。社会的接触の制限は、ぎょっとさせるようなものである。

それは、孤立状態、絶望、怒り、そして虐待へと導きうる。生の最終段階にある高齢者にとっては、身体的苦痛に加えて、QOL の低下や家族や友人の訪問がなくなることで、苦痛はいっそう著しいものになる。

1.1 取られる生命、与えられる生命:脆弱性(fragility)の教訓

今、我々の通常の言語を侵食している支配的な隠喩は、敵意と充満する脅迫感を強調する。ウィルスとの「戦い」の激励、「戦時速報」のように聞こえるプレスリリース、感染者数の、間もなく「倒れた犠牲者」数に転じる、日々の更新。

あまりにも多くの苦痛と死において、我々は、脆弱性の教訓を学んだ。多くの国において、病院は、資源の消費制限の苦悩と、ヘルスケア・スタッフの疲労困憊に直面しつつ、なお圧倒的な需要と苦闘している。言葉にできない無数の悲嘆、生き残りの最低限の必要のための闘争は、囚人、社会の周縁で極度の貧困を生きている人々、とりわけ発展途上国における、難民キャンプの地獄で忘却を運命づけられた見捨てられた人々の状態を暴露した。

我々は、最も悲劇的な死に直面した。身体的にも精神的にも、別離の孤独を体験している人。別れの挨拶も、相応の埋葬という基本的な敬虔を示すことさえできない家族を何もできないまま取り残す人。我々は、年齢、社会的地位、あるいは健康状態の区別なく、終わりを迎える生命を目撃した。

「脆弱性」。これが我々全員の状態である。それは、我々の存在の核心において、有限性の経験によって徹底的にしるしづけられたものである。それは、単に偶発的にそこにあるものではない。過ぎていく現在のやさしい接触によって我々に軽く触れるのではない。すべてが我々の計画に従って進行することを確信して、邪魔されずに計画を生きることをさせない。我々は神秘的な起源の夜から浮上する。

いかなる選択も超える力を与えられると、我々が単に与えられたものを、我々のものとして主張しつつ、我々はすぐに慢心と不平に達する。我々がそこから来て、最後にそこに帰還する闇を受け入れることを自覚するのは、あまりにも遅い。

これはすべて不条理の物語だ、と言う者もある。なぜならそれは、すべて無に終わるからである。しかしいかにして、この無が最後の言葉でありうるのか? もしそうなら、なぜ戦うのか? なぜ、このパンデミックにおいて我々が経験していることがすべて終わるときに、よりよい日々を期待することへとお互いに励まし合うのか?

生命は到来して去る、とシニカルな分別(prudence)の管理人は言う。しかし我々人間の状態の脆弱性によって、今やいっそう明らかになったその上昇と下降は、別の知恵(wisdom)、別の自覚へと我々を開くかもしれない(cfr. 詩篇 8)。生命の脆弱性の悲惨な証明は、それが賜であるという我々の自覚も新たにすることができる。

この度の不測の事態のアンビバレントな果実を味わった後に生命へと帰還することで、我々はより賢くなるのではないだろうか? 我々はより傲慢でなく、より感謝に満ちるの- 3 –
ではないだろうか?

1.2. 自律の不可能な夢と有限性の教訓

パンデミックによって、我々の自律的な自己決定とコントロールの要求は、間もなく厳しい打撃、すなわち、より深い識別を要求する危機の瞬間に立ち至った。それは、遅かれ早かれ、いつか起こらなければならなかった。その魔力はあまりに長く続いた。

Covid-19 の流行は、我々の地球の侵略と、その内在的価値の略奪と大いに関係する。それは、我々の地球の愁訴と我々の無能な取り扱いの徴候である。それはさらに、我々自身の精神的愁訴の徴候である(教皇フラシスコ回勅「ラウダート・シ」119)*3。

我々は、自然界との不和を修復することできるだろうか? 我々はあまりにも頻繁に、我々の独断的な主観性を、創造への脅威、他者への脅威に転換してきた。

次のような現象を関連づけるつながりの鎖を考えよ。増加する森林伐採は、野生動物を人の居住地の近くに追いやる。動物に寄生するウィルスは、次いで人に移り、かくして動物原生感染症の現実を悪化させる。科学者には多くの疾患の媒体として、よく知られた現象である。

第一世界の国々における食肉の過度の需要は、動物農場や市場開発の巨大産業の複合体を生じさせる。これらの相互作用が、国際的な輸入、人の集団移動、ビジネス・トラベリング、ツーリズム等を通して、最終的にウイルス拡散の誘因となりううることは容易に理解できる。

Covid-19 の現象は、単なる自然の出来事ではない。自然において生じていることは、すでに経済的選択と発展モデルという人間の世界による複雑な媒介の結果であり、それ自体、我々自身の創造した別の「ウイルス」のまさに「感染」によるものである。

それは、放縦で過度の消費によって定義される、財政的大食、ライフスタイルの放埒の原因というよりも結果である。我々は、我々自身のために、言い逃れのエートスを構築し、創造の根本的な約束において我々に与えられたものを無視してきた。これが、我々が、自然環境への我々の関係を再考するよう要求されている理由である。我々は支配者や君主としてではなく、地球に執事として居住することを承認する必要がある。

我々 はす べ て を与 え られ たが 、我々の ものは 、単 に与 え られ た 、絶対的 でない統治権(sovereignty)である。その起源を自覚すると、それは有限性の重荷と傷つきやすさを刻印される。我々の状態は、負傷した自由である。我々はそれを呪い、すぐに克服される仮の状態として拒否するかもしれない。

しかし我々は、別の忍耐を学びとることもできる。有限性への同意、近くの隣人と遠くの他者との相互作用を新たなものにする可能性。貧しい国の苦境、特に南半球の国と比較するとき、「発展した」世界の苦境はより贅沢なもののように見える:富裕な国においてのみ、人々は安全を要求する余裕がありうる。

それほど幸運でない国においては、他方、「物理的距離physical distancing)」は、最低限のニーズとすさまじい環境の重圧のゆえに、全く不可能である。群衆で混み合った周辺環境と、ふさわしい距離の欠如が、打ち勝ちがたい事実として、全人口集団の前に立ちはだかる。二つの状況のコントラストは、再び貧しい国と富裕な国の富の不釣り合いを物語りつつ、不協和音のようなパラドックスを際立たせる。

有限性を学ぶこと、そして我々自身の自由の限界に同意することは、哲学的リアリズムの穏健な行使以上のものである。それは、この肉における限界を超える人間の現実の前で、我々の目を開くことを必要とする。生存のための最小限の条件を保障するための、自分の子どもと家族を養うための、災害の脅威を克服するための、生き残りのための日々の挑戦において。他方では、入手するには余りに高価で維持できない医療が使用できるのに。南半球における計り知れない生命の喪失を考えよ。

マラリア、結核、飲料水と基本それは、孤立状態、絶望、怒り、そして虐待へと導きうる。生の最終段階にある高齢者にとっては、身体的苦痛に加えて、QOL の低下や家族や友人の訪問がなくなることで、苦痛はいっそう著しいものになる。
とができるだろう。どれほど多くの生命が救済され、どれほど多くの疾患が根絶され、どれほど多くの苦しみを避けることができるだろう!

1.3. 相互依存のチャレンジと共通の傷つきやすさ(vulnerability)の教訓

モナド論的孤独への我々の要求は、粘土の足を持つ。それによって、グローバルな、そして単に国家的でないスケールにおける共通善の責任を受け付けない、ゆがんだ自己充足のイメージに歪曲された打算的な合理性の倫理学に向かうエゴイスティックな疑いの上に建設された、新しいモナド論的社会哲学への偽の希望は崩壊する。

我々の相互関連(interconnectedness)は、事実の事象である。それは、相互関連に対する我々自身の態度によって、我々全員を強くするか、反対に傷つきやすくする。国家レベルでのその重要性をまず考えよ。

Covid-19 は全員を襲う可能性があるが、それは、高齢者や、あるいは持病や免疫システムに損傷のある人のような、一定の人口集団にとって特に有害である。政治的施策は、すべての市民を平等に考慮する。それらの施策は、最も傷つきやすい人と、若く健康な人の連帯を必要とする。それらは、公的な相互作用と、彼らが生きるための経済活動に依存する多くの人の犠牲を要求する。より富裕な国においては、これらの犠牲は一時的に補償されうる。しかし大多数の国において、かかる保護政策は全く不可能である。

確かに、すべての国において、公衆衛生という共通善は、経済的利益とバランスをとる必要がある。パンデミックの初期段階の間、ほとんどの国は、最大限、生命を救うことに焦点を合わせた。病院と、特に集中治療サービスは不十分だった。そして、莫大な苦闘の後にようやく拡大された。ケアサービスは顕著に、テクノロジカルな投資以上に、医師、看護師、そして他のケア専門職の印象的な犠牲のゆえに、生き残った。

しかし病院のケアに焦点を合わせることは、他のケア制度から我々の注意をそらした。たとえば高齢者施設は深刻にパンデミックに襲われ、十分な防護具や検査は遅い段階になって初めて使用可能になった。資源配分の倫理的議論は、より高いリスクとより重い傷つきやすさを経験している人々に注意を払わずに、主として功利主義的考察に基づいていた。多くの国々において、一般的なケア従事者は、―多くの人にとって、彼らがケアシステムにおける最初の接触先であるのに― 無視された。結果は、Covid-19 以外を原因とする死者と障害者の増加だった。

共通の傷つきやすさは、国際協力も、そして、パンデミックはグローバル・レベルで、誰もがアクセスしうる、ふさわしい医療のインフラなしには抵抗しおおせないという認識も要求する。突然感染したある国民の窮状は、国際同意を締結せずに、隔離によって、また多数の様々なステークホルダーによって、対応することはできない。情報の共有、救助の提供、不足した資源の配置は、すべて努力のシナジー〔共同作用〕によって対処しなければならないテーマである。国際的な鎖の強さは、最も弱いリンクによって決定される。

教訓は、深い所で消化吸収される必要がある。もちろん、希望の種子は、世に知られない小さな功績の陰に隠れて、数えるには多すぎる、言い広めるには貴重すぎる連帯の行為によって確実に撒かれてきた。

コミュニティは、全体に関わりなく、誇りをもって戦った。時に彼らの政治的リーダーシップの愚かさに反して、連帯と相互配慮の理想に基づく生を新たな仕方でイメージしながら、倫理学的プロトコルを起草し、規範的システムを考案するために。

これらの実例に対する満場一致の感謝は、生命の真正な意味の深い理解と、その実現の望ましい様相を示すものである。それでもなお、我々は、特にグローバルなレベルで、人間の相互依存と共通の脆弱性に対して十分な注意を払っていない。

ウイルスは境界を認識しないのに、国は国境を封鎖する。他の災害とは対照的に、パンデミックは、すべての国を同時に襲わない。これは、他国の経験や政策から学ぶ機会を提供しえ
たのに、グローバル・レベルでの学習のプロセスは最小限だった。率直に言うと、いくつかの国は、時々相互非難というシニカルなゲームに専念した。

同じ相互関連の欠如は、治療薬とワクチンの開発の努力においても観察されうる。調整と協力の不在は、今やますます Covid-19 に対処するための障害として認識されている。我々は共にこの災害に直面しており、人間のコミュニティとしての協力的な努力を通してのみ我々はそれを克服しうるという自覚が、共有された義務に命を与えている。

境界を越えた科学プロジェクトの表明は、そのような方向に進む努力である。それは、国際機関の強化を通して、政策においても明確に表明されるべきである。パンデミックはすでに存在する不平等と不正義を増強しており、Covid-19 に適切に対処する資源や構造を与えられていない多くの国が援助を受けるために国際的なコミュニティに依存している。この限りにおいて、
際機関の強化は特に重要である。

2. 新たなビジョンへ:生命の復活と回心への招き

脆弱性、有限性、そして傷つきやすさの教訓は、新たなビジョンの入口に我々を導く。知性の義務と、道徳的回心の勇気を要求する生命のエートスを促進する。教訓を習得することは、謙遜になることを意味する。それまでに開拓されていなかった、おそらくは否定されてきた感覚の資源を捜索しながら変化することを意味する。教訓を習得することは、生命という善を、もう一度自覚するようになることを意味する。

生命は、避けることのできない喪失経験よりも深い場所を流れるエネルギーを放つことで、我々に生命を与え、念入りに練り上げられ、我々の存在の意味に統合されなければならない。この機会は、人間のコミュニティの新たな始まりの約束、生命の復活の約束であることができるだろうか? もしそうなら、どのような条件でか?

2.1. リスクの倫理学へ

我々はまず、リスクの実存的現実の新たな考察に到達しなければならない。すなわち、我々は全員、疾患の打撃、戦争の殺傷、災害の圧倒的脅威に屈服する可能性がある。これに照らして、健康、生命、尊厳のより大きいリスクにさらされている個人や集団の傷つきやすさの前で、個別特殊的な多くの倫理的および政治的責任が出現する。Covid-19 は、一見すると、グローバルなリスクの、単に自然的な決定子とみなされるかもしれない。

もちろん前例はない。しかし、このパンデミックは、多次元的な倫理的挑戦を包含するような多くの追加的ファクターの考察を我々に強いる。かかる脈絡において、決定は、予防措置の原則に従って、リスクに釣り合わされなければならない。世界の国の間の経済的、社会的、政治的不平等を考慮せずに、パンデミックの自然的起源に焦点を合わせることは、その拡散をより早く、対処をより難しくしている状態の意味を把握しないことを意味する。

災害は、その起源が何であれ、人間の生命を左右し、様々な次元で人間の存在を傷つける大惨事である限りにおいて、倫理的な挑戦課題である。

ワクチンの不在によって、我々は、疾患の病理学的強度の自発的消耗を除いて、パンデミックを引き起こしたウイルスを永続的に負かす能力を考えることはできない。Covid-19 に対する免疫は、それゆえ、将来の希望にとどまる。

このことが意味するのは、コミュニティでリスクをもって生きることを承認することは、そのようなリスクが本当に現実になるかもしれないという見込みをもって、それとパラレルに倫理を要求するということである。

同時に、我々は、苦しんでいる者を助ける一般的な義務を超えて拡大する連帯のコンセプトを明確に記述する必要がある。パンデミックは我々全員を、抑圧的で不正義な我々のグローバルなコミュニティの構造的次元 ―宗教的意識が「罪の構造」と定義するもの― に取り組み、新たな形態に造り直すよう促す。人間のコミュニティの共通善は、心と精神の真の回心なしには達成されえない(「ラウダート・シ」217-221)。

回心への要求は、我々の責任感に向けられる。その近視眼の原因は、このように明白なことを見る能力が我々にないからではなく、グローバルなレベルで最も弱い人口集団の傷つきやすさを見ることを我々が拒むことにある。我々が故意に見過ごしてきたものをついに包含することによって、別の開放が、我々の道徳的想像力の地平を拡大しうる。

2.2. グローバルな努力と国際協力への招き

連帯のより広いコンセプトに根差したリスクの倫理学の基本的輪郭は、あらゆる地域第一主義、すなわち内部者(コミュニティへの完全な所属を提示しうる者)と外部者(せいぜいそのコミュニティへの推定的参与を希望しうる者)の虚偽の区別を拒否する。

かかる分離のダークサイドは、観念的不可能性と差別的実践として際立たせられなければならない。誰も、あたかも人間のコミュニティの門で、完全な身分の承認をただ「待って」いる者とみなされることはできない。質の高いヘルスケアと必須医薬品へのアクセス権は、普遍的人権とみなされなければならない(cfr. 「バイオエシックスと人権に関する世界宣言」第 14 条)。かかる前提から、二つの結論が論理的に導かれる。

第一は、予防、診断および治療の最善の機会への普遍的アクセスに関わる。それは少数者のみに予約されてはならない。ワクチンの分配は、もしそれが将来使用可能になった時は、その象徴的なケースである。ワクチンの公正な供給と矛盾しない、唯一受け入れることのできるゴールは、誰も排除せず、全員がアクセスしうることである。

第二の結論は、責任ある科学研究の定義である。ここでは危険性が非常に高く、問題は複雑である。

三点が強調に値する。第一に、科学の正確性(integrity)とその進歩を促進する観念に関して。もし完全に「分離されて」いないなら、コントロールされた客観性という理想、および研究の自由の理想、特に利益衝突からの自由。

第二に、危機にさらされているのは、平等、自由および衡平の規則によって、民主主義の文脈において決定された、社会的プラクティスとしての科学的知識の性質それ自体である。かかる決定と政治の領域は、その全体において、科学の力の逸脱からの自らの自律を保持する。 ―特に科学の力が世論の操作に変容するときは。

最後に、ここで問われているのは、その社会に有益な結果の追求における、本質的に「受託者的な(fiduciary)」科学知識の性格である。―特に、科学的知識が、人間に対する実験と、臨床試験で試された治療の約束を通して獲得される場合には。社会の善とヘルスケア領域における共通善の需要は、収益に対するいかなる関心よりも前に来る。研究の公的次元は、私的利益の祭壇に犠牲として供されることはできないからである。生命とコミュニティの福祉が危機にさらされているとき、収益は後部座席を占めなければならない。

連帯は、国際協力におけるどの努力にも広がる。この脈絡において、特権的な場所は、WHO に属する。グローバルなシナジーにおけるガバメントのコミットメントのみが最高の到達可能な健康のスタンダードへの普遍的権利を保護し、有効にすることができるという観念は、国際的なヘルス・ワークを導くためのWHO のミッションに深く根差している。この危機は、前例のない大惨事に対抗する、特にあまり発展していない国のニーズや懸念を含めて、グローバルなアウトリーチを持つ国際機関がどれほど必要とされているかを際立たせる。

自国の利益という視野の狭さは、世界の残余から独立し、孤立する政策を自国のために擁護することへと多くの国を導いた。あたかも調整されたグローバルな戦略なしに、パンデミックに対抗しうるかのように。かかる態度は、補助性(subsidiarity)というアイディア、およびローカルな状況から離れているより高い権威よりも、より低い権威を上席に据えることを要求する戦略的介入の重要性へのリップサービスかもしれない。

補助性は、その能力と責任に公的権限を与えつつ、コミュニティの正当な自律の領域を尊重しなければならない。現実に、問題となっている態度は、分離のロジックに給水する。それは、まず何よりも、Covid-19 に対していっそう有効ではない。〔地域第一主義の〕不利は、さらに、単に事実上近視眼的であるのみではない。それは、不平等を広げ、諸国間での資源のアンバランスを悪化させる結果をも招く。

富裕な者も貧しい者も、全員がウイルスに対して傷つきやすいのに、後者は最も高い対価を払い、協力の欠如の長期にわたる帰結に耐えることを余儀なくされている。パンデミックが、より多くの人々を傷つきやすくすることによって、また保健支援、雇用、社会的緩衝装置なしに周縁化することによって、すでに存在するグローバル化のプロセスに伴う不平等を悪化させることは明白である。

2.3. 連帯の原則を中心とした倫理的釣り合い

最後の分析において、人間家族が現実に直面している本当の問題は、道徳的な、単に戦略的でない、連帯の意味である。連帯は、それを必要としている他者への責任を含んでいる。それは、尊厳を付与された人の主体として、どの人格もそれ自体で目的であり手段ではない、という認識に根差している。

連帯を社会倫理の原則として詳細に記述することは、現実に連帯を必要としている人の具体的な状況にかかっている。

かくして、我々に要求される対応は、同情という感情的な観念に基づいた単なる反応ではない。どの人間もが持つ生来的な価値を合理的に憂慮することを前提とした倫理的配慮を払うこと、それが、他者の注意を要求する他者の尊厳に対する唯一のふさわしい対応である。

義務と同様、連帯は、コストなしに、そして富裕な国々が、貧しい人の生き残りと地球全体の持続可能性のために必要な価格を支払う準備なしに、無償では訪れない。これは、共時的にも 経済の様々なセクターに関して、通時的にも、すなわち、未来世代の幸福と使用可能な資源の評価判断についての我々の責任に関して、言えることである。

誰もが自らの役割を果たすよう要求される。危機の帰結を軽減するためには、あたかも助けはすべての責任ある市民を、個人の利益の追求には冷静な平衡状態の外に置くような超現実的な力(deus ex machina)力から来るかのように、「助けは政府から来るだろう」という観念を諦めることを、当然の前提とする。

政策および政治的戦略の透明性は、民主的プロセスの統合性とともに、これとは別のアプローチを要求する。医学的ケアのための破局的な資源不足の可能性(Covid-19 の場合には、防護具、検査キット、人工呼吸器、集中ケア)は、その一例として用いられうる。悲劇的ジレンマに直面しての介入の一般的基準が、資源の配分における公正、誰もの尊厳の尊重、および傷つきやすい人への特別な配慮に基づいて、それらの可能な限りのケアによる合理的相応性において、事前に概略され明確に表明されなければならない。

相互に競合しうる諸々の原則の釣り合いをとる能力と意志は、リスクと連帯の倫理学のもう一つの本質的な柱である。もちろん、第一の義務は、生命と健康の保護である。ゼロ・リスクの状態は不可能なままであるが、身体的距離の尊重と、スローダウンは、もしあらゆる活動が完全に停止するのでなければ、一定の活動が経済の上にドラマティックで持続的な影響力を生む。私的および社会的生活の代価も考慮されなければならなくなるだろう。

二つの決定的に重要な問題が場所を占める。第一は、その実現が、権力と富の状態に差別的効果を生み出す可能性のない、受容しうるリスクの敷居に関連する。診断手段の基本的保護と利用可能性は、差別禁止の原則に従って、全員に供給されなければならない。

第二に、決定的な説明は、「リスクにおける連帯」のコンセプトに関わる。コミュニティによる、個別特殊的ルールの採用は、当該領域の状況の展開に注意深くあることを要求する。それは、単に法律の文言への従属においてではなく、倫理的繊細さに基づく識別を通してのみ実行されうるタスクである。

責任あるコミュニティは、警戒の重荷と相互の支援が、先行学習の影響下で、全員の幸福を展望するビジョンによって共有されるコミュニティである。故意の違法行為、あるいは懈怠に対する有責性と非難の配分の衝突を法的に解決することが、正義のツールとして必要な場合もある

しかし、それらは、人間の相互作用の実質としての信頼と交換することはできない。信頼のみが、危機の間、我々を導くだろう。信頼に基づいてのみ、人間のコミュニティは、最終的に繁栄することができるからである。

我々は、二つの相反する誘惑の並行する影響を超える、希望の態度へと招かれている。一方では、受動的に出来事を耐えるところの放棄、他方では、以前のものにただ憧れる、過去に帰還するためのノスタルジー。

しかし今はそうではなく、各人と全員にとってよりよい未来を可能にする人間の共存のプロジェクトをイメージし、実行する時である。アマゾン地域のために最近構想された夢、「それらが『善い生』を享受することを可能にする、そのあらゆる居住者〔生息動物〕を統合し、促進する」夢は、地球全体のための普遍的な夢になるかもしれない(Querida Amazonia, 8)*4。
(バチカン、2020 年 7 月 22 日)

* 邦訳は英語版とイタリア語版から行った。〔 〕内および注は、訳者による。(秋葉 悦子・訳)

*1 Pontifical Academy for Life, Global Pandemic and Universal Brotherhood: Note on the
Covid-19 emergency, 2020.
*2 Letter of Pope Francisco to the President of the Pontifical Academy for Life for the 25th
Anniversary of the Establishment of the Academy Humana Communitas, 2019.
*3 Francisco, Encyclical Letter Laudato si’, 2015.
*4 Francisco, Post-Synodal Apostolic Exhoration Querida Amazonia, 2020.

 

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2020年7月23日