(2024.8.2 Vatican News Andrea Tornielli)
教皇聖パウロ6世の回勅『エクレジアム・スアム(彼の教会)』を発表されてから8月6日で60年になる。
「対話は高ぶらず、相手を刺激したり、感情を害するものであってはなりません。対話の権威とは、話す真理、あふれる愛、示す模範のために内在するものであり、命じたり、押し付けるものではありません。それは乱暴な方法を避け、忍耐強く、寛大に、平和的に行われるものです」。
教皇パウロ6世は、60年前の8月6日に発表された最初の回勅『エクレジアム・スアム』でこのように述べておられる。
同教皇の書簡のたぐいまれな今日性を察するには、このわずかな言葉で足りる。パウロ6世はこの回勅を、教皇に選出されて一年あまりの、第二バチカン公会議が開かれている中で、全文を自筆で記した。
北イタリア・ブレーシャ出身の教皇は、「救いの対話」を「イエスの使命」と定義している。そして、イエスは「これを受け入れるようにと、力づくで強制することはされませんでした。それは驚くべき愛の求めでした。この要求を向けられた者にとってそれは恐ろしい責任を成したとしても、それに愛で応えるか、拒むかを自由に委ねられました」と語られた。
それは、「この対話を始める側の清廉さ、尊敬、共感、善良さ」を浮かび上がらせ、「決めつけや、常に攻撃的な議論、意味のない体裁だけの会話」を退ける関係を表すものだった。私たちは、このアプローチが、ありとあらゆることを裁き、軽蔑的な表現を用い、自分が存在するために「敵」を必要とするような人たちの、現在の「デジタル上のやりとりに特徴づけられるアプローチ」とかけ離れていることに気づかざるを得ないだろう。
パウロ6世にとって、福音宣教と同化された対話は、相手の回心をただちに求めることを目標にしていない。ただし、回心とは常に「神の恵みの業」であり、宣教者の叡智ある論法のおかげではないが… この対話は「自分の救いを、『他者のそれを求めることと、もはや切り離すことができない』と感じる人の精神」を前提としている。つまり、「自分一人だけが救われるということはできない」ということである。同時に「純粋さ」を守り、汚染を防ぐために、囲いを上げたり、世から隔離された要塞に閉じこもっても、やはり救われることはないのだ。
対話は「真理と愛、知性と愛の一致です」。それは、「福音を伝えるためには、この世とその時代に順応することが必要だ」と信じる者のアイデンティティーを無にすることではない。また、一方で、他者を上から見下ろすような、隔たりを作るために、アイデンティティーをことさらに強調することでもない。
パウロ6世は言われる―「教会は、自分が置かれ、生きている世界との対話に、向かわなければなりません。教会は言葉となり、メッセージを発し、会話をすべきです」。なぜなら「回心以前に、いや回心のために、教会は世界に近づき、話しかけることが必要だからです… 世界はそうすること以外には救われません」。
パウロ6世のこの回勅は、冒頭の言葉からすでに、私たちが生きている時代のための、他の貴重な示唆をも含んでいる。回勅のタイトルが『エクレジアム・スアム』、すなわち「彼の教会」とあるように、教会は「彼」、創立者イエス・キリストのものなのだ。それは、私たちの手で築いたものでも、私たちの手柄によるものでもない。教会が及ぼす力は、市場調査や、机上で研究されたキャンペーン、視聴率や、動員率によらない。教会は、大きなイベントや、メディアによるプロモーション、インフルエンサー的な作戦ができるから存在するわけではない。
教会は、多くの「貧しいキリストたち」や、赦された罪人たちの日常の証しを通して、救いの出会いの素晴らしさを輝かせ、希望の地平をもたらすために世にある。教会は、すべての人にイエスの眼差しと交差する機会を与えるために世に存在するのだ。
(翻訳「バチカン放送」、編集「カトリック・あい」)