・教皇フランシスコの回勅「DILEXIT NOS( 主は私たちを愛された)」阿部仲麻呂師による全文試訳

イエス・キリストのみこころの人間らしい愛と神らしい愛に関する教皇フランシスコによる回勅「DILEXIT NOS( 主は私たちを愛された)」

2024年10月24日発布   /2024年10月31日私訳;阿部仲麻呂

■目次

はじめに[1項]

第1章 心の重要性[2項]

1 「心」とは、いかなる意味なのでしょうか[3-8項]

2 心を取り戻す 9-16項]

3 心は断片を結びつける[17-23項]

4 ほむら 愛の炎 [24-27項]

5 世界は変革することができます、心をともなってさあ始めましょう[28-31項]

第2章 愛の諸々のわざと諸々のことば[32項]

1 心を映す諸々のわざ[33-38項]

2 イエスのまなざし[39-42項]

3 イエスの諸々のことば[43-47項]

第3章 これが、これほど愛した心です[48項]

1 キリストを崇拝すること[49-51項]

2彼のイメージを崇敬する[52-58項]

3 具体的な愛 59 63項]

4 三重の愛[64-69項]

5 三位一体の神の諸々の観点[70-77項]

6 教導職の最近の教え[78-81項]

7 さらなる諸々の考察と現代との諸々の関連性[82-91項]

第 4 章 飲みものとして自らを与える愛[92項]

1 愛を渇望する神[93-101項]

2 歴史におけるみことばの響き合い[102-108項]

3 キリストのみこころに対する信心の広がり[109-113項]

4 聖フランソア・ド・サル司教(サレジオの聖フランシスコ) 104 108項]

5 愛の新たなる宣言[109-124項]

6 聖クロード・ド・ラ・コロンビエール[125-128項]

7 聖シャ ル・ド・フーコー(聖シャルル・ド・フコー)と幼きイエスの聖テレーズ[129項]

 ・イエスのカリタス(実践的な慈愛)[130-132項]

 ・幼きイエスの聖テレーズ[133-142項]

8 イエズス会内部での共鳴[143-147項]

9 内面的な生活の幅広い流れ[148-150項]

10 慰めの信心 151項]

 ・十字架上のイエスとともに[152-153項]
・心の意味合い[154項]
・悔い改め[158-160項]
・他人を慰めることが自分自身を慰めることにつながる[161-163項]

第5章 愛のための愛[164項]

1 嘆きと願い 165 166項]

2 キリストの愛を兄弟姉妹に広める[167-171項]

3 霊性の歴史における響き合い[172項]

 ・他者が飲むことができるような泉を掘り起こす[173-176項]
・兄弟愛と神秘主義[177-180項]
・償い——廃墟の上に築くこと[181項]
・キリストのみこころへの償いについての社会的な意義[182―184項]
・傷ついた心をいやすこと 185 186項]
・赦しを求めることの美しさ[187-190項]

4.償い——キリストのみこころの拡張[191-194項]

5 愛に向かう捧げもの[195-199項]

6.統合と調和[200-204項]

7 世界に愛を・もたらす 205 211項]

・奉仕の交わりのなかで[212-216項]

結論[217-220項]

【本文】

はじめに[1項]

1項 聖パウロはキリストについて「主は私たちを愛された」と語っています (ローマ8:37 参照)。それは、何ものも私たちをその愛から「引き離す」ことなどできない (ローマ
8:39)ということを私たちに理解させるためです。聖パウロが確信をもって述べることができたのは、イエスが弟子たちに「私はあなたがたを愛した」と語っておられたからです (ヨハネ15:9, 12) いまでも主は私たちに「私はあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっています (ヨハネ15:15)。主の開かれた心は 私たちのはるか前へと進みゆき、無条件に私たちを待っており( 訳註;スペイン語版とイタリア語版では、次のようになっています=英語版では盛り込まれていません= 無条件に私たちを愛し、私たちに無条件に彼の友情を差し出し得るために、何らの前提要件をも決して要請することなく 、ただひたすらに愛と友情とを差し出すことだけを求めているのです。なぜなら「主が まず私たちを愛してくださった」からです (ヨハネ第一4:10参照)。イエスのおかげで「私たちは神が私たちに対していだいている愛を知り、また信じるようになりました」(ヨハネ第一4:16)。

第1章 心の重要性[2項]

2項 心のシンボルは、イエス・キリストの愛を表現するために、これまでたびたび使われてきました。このシンボルが今日でも意味を持つのかどうかを疑問視する人もいます。しかし、私たちは表面的な時代に生き、理由もわからないままに次から次へと狂ったように駆け回るだけで、人生のより深い意味に関心のない市場の仕組みの飽くことのない消費に加担しつつも奴隷になり下がってしまっているため、私たち全員が心の重要性を再発見する必要があるのです( 註1)。「心」とは、いかなる意味なのでしょうか[3-8項]

3項 古代のギリシア語で カルディア という言葉は、人間、動物、植物の最も内側の部分を意味します。ホメロスにとって、それはからだの中心としてだけでなく、人間のや精神をも意味しています。 イリアス では、思考と感情とは心から生じ、互いに密接に結びついています 註2 そして、心は欲望の拠点であり、重要な決断が形づくられる場所として現れます( 註3 )。プラトンの思想では、心は、言わば人間の理性と本能とを結びつける役割を果たすものとされています。なぜなら、高次の能力と情熱の両方の衝動が心臓に集約される静脈のなかを通り過ぎると考えられていたからです (註4 )。

 そのため、古代から、人間とは 単にさまざまな技能を集積したものとして理解されることはなく、むしろ自分たちが経験するあらゆることに意味を与えつつも生きてゆく方向性を明らかにするような背景を提供する調整の中核を備えた肉体と魂との統一体であるという事実が認識されてきました。

4項 聖書では次のように述べています。「神の言葉は生きていて、力があります。……それは心の思いや意図を判断することができます」(ヘブライ人への手紙4:12)。このように、あらゆる外見のもとに、私たちを迷わせる可能性のある表面的な考えがはびこるとしても、隠されている核としての心があることを聖書が語っています。エマオに向かう弟子たちは、復活したキリストとともに秘義的な旅をしながら、苦悩、混乱、絶望、失望の瞬間を経験しました。しかし、それらを超えて、それにもかかわらず、彼らの心の奥底で何かが生じていました。「イエスが道で私たちに話しかけておられるとき、私たちの心の内側は燃えていたではないか (ルカ24:32)。

5項 心は誠実さの源でもあり、そこには偽りや偽装の余地などは微塵もありません。心はたいてい、私たちの本当の意図、本当に考えていること、信じていること、望んでいること、誰にも話すことのない「秘密」、つまり私たち自身のむき出しの真実を示しています。それは、見せかけや幻想などではなく、本もので、真実で、完全に「私たち自身」である私たちの一部なのです。だからこそ、デリラに自分の強さの秘密を隠していたサムソンは、彼女から「あなたの心が私とともにないのに、どうして『愛している』と言えるのですか」と尋ねられました(士師記16:15)。サムソンが彼女に心を開いたとき、彼女は「彼が自分の秘密をすべて彼女に話した」ことに初めて気づきました(士師記6:18)。

6項 それぞれの人間の心の内面の現実は、しばしば多くの「葉」のかげに隠されています。「心は何よりも狡猾である。誰がそれを理解できようか」 エレミヤ17:9 。箴言の忠告も助けとなります。「心を用心深く保ちなさい。そこからいのちの泉が流れ出るからである。だから曲がった心を棄てなさい」(同4・23-24)。

 単なる見せかけ、不誠実さ、ごまかしは心を傷つけ、歪めます 私たちが自分ではない何かとして見せようとあらゆる試みをしても、私たちの心は、私たちが他人から何を見せたり隠したりするかではなく、私たちが本当に誰であるかの最終的な判断者です。それは、あらゆる健全な人生設計のための土台となるものです。心から離れては、価値あることは何も引き受けることができません。偽りの外見や虚偽の姿は、最終的に私たちを手ぶらのままにします。

7項 このことを例証するために、別の機会に話した話を繰り返します。「私たちが子どもの頃、カーニバルのために、祖母はとてもうすい生地にバターを混ぜて、ねりものを作りました。祖母がそのうすい生地を油のたくさんはいっている鍋のなかに落とすと、生地は大きく膨らむのですが、かじってみると中は空っぽでした。

 私たちが話していた方言では、そのクッキーは「ブジヤ」 (訳註; 嘘」という意味)と呼ばれていました 祖母はその理由をこう説明してくれました。「嘘のように、大きく見えるけれど中は空っぽだよ 見かけ倒しで なかみは何もないんだよ (註5)。

8項 私たちは表面的な満足を追い求めたり、他人からの賞賛を得るためだけに何らかの役割を演じるのではなく、むしろ人生で本当に重要な疑問について考えたほうがよいでしょう。私は 本当は何者なのでしょうか 私は 何を求めているのでしょうか 自分の人生、自分の決断、自分の行動にどのような方向性を与えたいのか なぜ、そして何のためにこの世にいるのでしょうか。

 人生が終わったとき、自分の人生をどう振り返りたいのでしょうか。 自分のあらゆる経験に一体どのような意味を与えたいのでしょうか。 他人の前で、私は果たして何者でありたいのでしょうか 神にとって私とは一体何者なのでしょうか。 これらの疑問の数々は、私たちに心を取り戻させる方向に導きます。

2.心を取り戻す[9-16項]

9項 この「流動的な」世界において、私たちはもう一度心について語り、あらゆる階級や状況のあらゆる人が、物事をまとめあげる状況を創り出し、自分の強さ、信念、情熱、決断の根本的な源泉に出合う場について考え始める必要があります。しかし、私たちは、ただひたすら生きのびるために消費し続けるような果てしのない悪循環の社会に浸りきっており、分刻みで動くことによって支配され、テクノロジーに翻弄され 心の内面を深めるような生活を目指すうえで本来必要となるプロセスに集中するだけの忍耐力に欠けています。

 まさに、この現代社会では、あらゆる人は「物事の中心、とくに自分自身の中心を失う危険にさらされています」(註6 )。「実際、現代の男性や女性は しばしば混乱し、引き裂かれ、自分の生き方と行動とを統合するとともに調和を生み出すことができる内なる原理をほとんど失っています。悲しいことに、現在広まっている行動モデルは、私たちの合理的で技術的な側面、または逆に私たちの本能の側面を誇張しているのです (註7)つまり、ゆとりのある心が失われているのです。

10項 今日の流動的な社会が提起する問題は頻繁に議論されてはいるのですが、人間性の奥底に潜む心に気づかずに、心を軽視する状況には、非常に長い歴史があります。ギリシア文化やキリスト教以前の合理主義、キリスト教以後の観念論、そしてさまざまな形での唯物論において、すでに心の軽視が見受けられます 特に人間学の分野では心は無視されており、偉大な哲学の諸伝統においても心を異質な概念とみなし、かえって理性、意志、自由など他の概念のほうを好むありさまでした。

 心という言葉の意味そのものが不正確になりがちで、人間の経験において位置づけるのが難しいのです。おそらくこれは、心を「明確な概念」として扱うのが難しいためであるとともに 自分そのものの在り方を見究めなければならないという難題を伴うためなのでしょう 私たちの思考パターンが不健全な個人主義に支配されてしまっているがゆえに、他者との出会いが必ずしも自分自身をわかりきる出会いになるとは限らないからです。

 ほとんどの人は、知性や意志というコントロールしやすい領域でものの考え方のシステムを構築する方が安全だと感じているものです。人間的な力や情念を互いに分離してながめるのとは異なる、心のための場所を作ることに失敗した結果、ひとりひとりの人間性の核という発想そのものが阻害されることになったわけです

11項 もしも心を軽視すれば、心から話すこと、心で行動すること、心を育んで相手をいやすことの意味もまた必然的に軽視することにつながります。心の特殊性を理解しなければ、心でしか伝えられないメッセージを見逃すばかりか、他者との出会いの豊かさをも見逃すことになるとともに、詩作の機微をも見逃すことになります。

 そればかりか、歴史や自分自身の過去までも忘れてしまうことになりかねません。なぜなら、私たちの本当の個人的な人生の歩みは心でこそ築かれるからです。人生の終わりには、心だけが重要になります。

12項 ですから、私たちには心があり、その心は他者の心と共存して「汝」となると言わなければなりません。このテーマを長々と展開することはできないので、ここではドストエフスキーの小説の登場人物であるニコライ・スタヴローギンを取り上げます(註8)。ロマーノ・グァルディーニは、スタヴローギンがまさに悪の化身であると主張しています。

 なぜなら、彼の主だった特徴が無情さだからです。スタヴローギンには心がない。したがって、彼の精神は冷たく空虚で、彼の肉体は獣のような怠惰と官能性に沈んでいる。彼には心がない。したがって、彼は誰に対しても近づくことができず、誰も彼に本当に近づくことができません。なぜなら、心だけが親密さ、二人の人間のあいだにほんとうの親密さを生み出すからです。

 心だけが相手を歓迎し、もてなしをすることができるのです。親密さは、心の正しい活動であり、心の領域であるのです。スタヴローギンは常に自分自身からさえも無限に遠い状況を生きています。なぜなら、人は心でしか自分自身に入ることができず、心では入ることしか他に手立てがないからです。したがって、心が生きていないと、人は自分自身にとってさえも謎に満ちた者となってしまうのです」(註9)

13項 私たちの行動はすべて、心の「政治的な支配」のもとに置かれる必要があります。このようにして、私たちの攻撃性と強迫的な欲望は、心が提案するような、より大きな善に向かい 私たちは悪に抵抗する心の力のなかにこそ安らぎを見出すことになるでしょう。

 心と意志とは、科学が行う傾向にあるように真実を習得しようとするのではなく、真実を感じ取りつつ味わうことによって、より大きな善のために用いられることになるのです。意志は心が認識するより大きな善を望み、想像力と感情は心臓の鼓動によって導かれるからです。

14項 ですから、私とは自分の心であると言えるでしょう。なぜなら、私の心は私を際立たせ、私の精神的アイデンティティ を形作り、私を他の人々と交わらせるものだからです。デジタルの世界で機能するアルゴリズム[註釈;アルゴリズム(algorithm)とは計算式、問題を解決する方法、目標を達成するための手順、のことですが、ここでの意味は「機械的で自動的で無味乾燥なシステムによる解決方法」というものでしょう。

 「味わい深さがなく、あたたかみのない解決方法」とも言い換えられるかもしれません は、私たちの思考と意志とが以前考えられていたよりもはるかに「均一」なものであることを示します アルゴリズムは簡単に予測可能であり、したがって操作することが容易です。しかし心の場合は決してそうではありません。

15項 「心」という言葉は、哲学や神学が物事を統合するべく努力することにおいてその価値を証明しています。しかも心の意味は、生物学、心理学、人類学、その他の科学によっても解明されることはないでしょう 心は、「人間が一つの全体(肉体的かつ精神的な人間)である限りにおいて、まさに人間に属する現実を描写する」原始的な言葉の一つです(註10)。

 したがって、生物学者は心臓について論じるとき、心臓の一側面しか見ていないので、心臓の全体的な把握の仕方が「現実的」であるわけではありません。全体は決して現実的ではないのではなく、むしろより現実的なものです また、抽象的な言語が心臓と同じ具体的で統合的な意味を獲得することは決してできないでしょう。

「心臓」という言葉は、私たちの人格の最も奥深い核心を呼び起こし、それによって、私たちは自分自身を、孤立した一つの側面だけではなく、統合された形で理解することができるのです。

16項 このような心の独創的な力は、私たちが心で現実を捉えると、現実をより良く、より完全に理解できるという事実を理解する際に役立ちます。このことは必然的に、心が備えている愛へと私たちを導きます。なぜなら、「現実の最も奥深い核心は愛である」からです(註11) 最も有力な現代思想家のひとりであるハイデガーにとって、彼の解釈が示ように、哲学は単純な概念や確信から始まるのではなく、むしろ衝撃から始まるのです。

「思考するに際して、概念を扱い始める以前にも、または概念を扱っているさなかにも刺激が続いていなければなりません。深い感情がなければ、思考は始まらないからです。したがって、心のなかに思い浮かぶ最初のイメージこそが鳥肌を立たせるのです。考え始めさせるきっかけを与えたり、疑問を抱くように刺激するのは深い感情なのです。哲学は常に基礎的な気分(Stimmung)によって行われます」(註12) ここで心が関係してきます。なぜなら、心というものは「心の状態を宿す まさに『心の状態の管理者 として機能するからです。 心 は比喩的ではない方法で存在の 沈黙の声 に耳を傾け、それによっ
て自らを和らげ、決定づけられるのです (註13)。

 

3.心は断片を結びつける[17-23項]

 

17項 同時に、心はあらゆる真の絆を可能たらしめます。なぜなら、心によって形作られていない関係は、個人主義によって引き起こされた断片化を克服することができないからです。つまり二つのモナド(訳註;個別的な独立存在)は互いに近づくかもしれませんが、真につながることはありません。

 ナルシシズム(訳註;自己陶酔主義)と自己中心性が支配する社会は、ますます「無情」になります。他者が視野から消えるにつれて、私たちは自らこしらえた壁のなかに閉じ込められ、もはや健全な人間関係を築くことができなくなるからです(註14)。その結果、私たちは神に対しても心を開くことができなくなります。ハイデガーが言うように、神に対して心を開くためには「もてなしの家」を建てる必要があるのです(註15)。

18項 こうして、各人の心には、自己認識とともに他者に対して心を開くこと、つまり個人の独自性の実感とともに他者に自分を捧げる意欲とのあいだに神秘的なつながりがあることがわかります。他者を認める能力を獲得した分だけ、私たちは自分自身になることができ、自分自身を認めて受け容れることができる人だけが他者と出会うことができるのです。

19項 心は、絶望的なほどに断片化しているように見えるのかもしれない私たちの個人的な歩みを統合し、調和させることができるので、心こそがあらゆることを意味づける場であることがわかります。物事を心で見究めた聖母マリアについて語ることで、このことを福音書が私たちに伝えています。聖母は、経験した物事を心で熟考し、記憶を大切にし、より大きな視点でながめることで、それらと対話することができました。

 心がどのように考えるかを最もよく表現しているのは、聖ルカによる福音書の二つの箇所です。マリアは「これらすべてのことを 心に留めて」 シュネテレイ[synetérei]) 思い巡らしていた、シュンバルーサ[symbállousa])」と語られています(ルカ2:19および51を参照のこと 。ギリシア語の動詞の「熟考する」(シュンバレイン[symbállein])とは、二つのもの 二つの「象徴」)を心のなかで組み合わせ、自分自身との対話においてそれらについて熟考するというイメージを呼び起こします。

 ルカ2:51において使用されている動詞は「ディエテレイ」[dietérei]で、「留める 保つ 」という意味です。マリアが「留めた 保った 」のは、彼女が見たり聞いたりしたことの記憶だけでなく、彼女がまだ理解していなかったことがらも含まれていました。それでも、それらは彼女の記憶のなかに存在し、生きており、彼女の心において「組み合わせられる」のを待っていたのです。

20項 人工知能が発達するこの時代において、私たちは詩と愛が人間性を救うために必要であることを決して忘れてはなりません。たとえば、年齢や居住地に関係なく、母親や祖母が家で作るパイの縁をフォークで閉じるのを初めてどのように行ったかを思い出すときに私たち全員が感じるノスタルジア(訳註;心のなかの郷愁)を、アルゴリズムで捉えることは決してできません。

 それは、子どもの遊びと大人の中間にある、料理の見習いの頃で、初めて互いに協力して助け合う責任を感じた瞬間でした。フォーク以外にも、誰にとっても大切な人生の小さな出来事が何千とあります。冗談を述べることで引き起こした笑顔、窓からの光に照らされて描いた絵、ぼろ布でできたボールで遊んだあの初めてのサッカー、靴箱で集めたミミズ、本のページに押し花を挿したこと、巣から落ちた雛鳥を心配したこと、デイジーを摘むときに願ったこと などです。

 私たちにとっては普通でありながら特別なこれらの小さな出来事は、アルゴリズムでは決して捉えられません。フォーク、冗談、窓、ボール、靴箱、本、鳥、花、これらすべてが、私たちの心の奥深くに留められた 保管された、保たれた 」大切な思い出として生き続けます。

21項 男女を問わず、あらゆる人に存在するこの深遠な核は、魂の核ではなく、その人独自の心身のアイデンティティーにおける人間全体の核です。すべては心のなかで統一されており、心は、精神的、心霊的、さらには肉体的次元のすべてにおいて愛の住処となり得ます。

 一言で言えば、愛が私たちの心に君臨すれば、私たちは完全で輝かしい方法で、私たちがなるべき理想の人になります。なぜなら、あらゆる人間は何よりも愛のために創造されているからです。私たちの存在の最も深い場でつむがれるいのちという織物において、私たちは愛するとともに愛されるために創造されました。

22項 そのため、他国の共謀、不寛容、無関心による新たな戦争の勃発や、党派的な利益をめぐるささいな権力闘争を目撃すると、世界には心が失われつつあると結論づけたくなるかもしれません。私たちは、これらの壊滅的な紛争に翻弄されている両陣営の老女たちをながめて、耳を傾けるだけで十分です。孫を殺されたことを嘆き悲しんだり、一生を過ごした家を失った後に自ら死を望んだりする老女たちの姿を見るにつけて、胸が張り裂ける思いです。

 人生の困難や苦難のなかで、強さと回復力の支柱となることが多かった老女たちは、人生の終わりを迎えたいま、十分に得るべき休息の代わりに、苦悩、恐怖、憤りだけを経験しています。他人を責めても、これらの恥ずべき悲劇的な状況は解決しません。老女たちが涙を流し、これが耐え難いことだと感じていないのを見るのは、世界が無情になっていることの兆候です。

23項 人が自分の本当のアイデンティティ について考え、疑問を持ち、熟考したり、人生のより深い疑問を理解して神を求めようと努力したり、真実を垣間見る興奮を経験したりするたびに、人間としての充足感は愛のなかにあるという認識に至ります。愛することで、私たちはこの世界に存在する目的と目標を知るようになります。すべてが一貫性と調和の状態で一つになります。したがって、人生の意味について熟考する際に、おそらく最も決定的な質問は「私には心があるのか」というものなのです。

 

4.ほむら 愛の炎][24-27項]

24項 これまで私たちが述べたことはすべて、精神的な生活に関係しています。たとえば、聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操の根底にある神学は、「愛情」(affectus)に基づいています。霊操の構造は、人生を「再編成」したいという確固とした心からの願望を前提としており、その願望は今度はその目標を達成するための力と手段を提供します。聖イグナチオが提示する規則と場所の構成は、もっと重要なもの、つまり人間の心の秘義を理解する際に役立っています。

 ミシェル・ド・セルトーは、聖イグナチオが語る「動き」が、瞑想の秩序ある進行のなかで神の望みと私たち自身の心の望みとが「浸透し合った」ものであることを示しています。予期せぬ、これまで知られていなかった何かが私たちの心のなかで語り始め、私たちの表面的な知識を打ち破るとともに疑問視させます。これは、心から始まる「私たちの生活を整える」新しいプロセスの始まりです。

 それは、感情と実践とが知識のデータの結果にすぎず、知識に依存しているかのように、私たちの日常生活で実践する必要がある知的な概念に関するものではありません(註16)。

25項 哲学者の思考が止まるところで、信仰者の心は愛と崇拝、ゆるしの嘆願、そして主が私たちに選ぶことをゆるすいかなる場所でも喜んで奉仕し、主の足跡をたどるという意志によって前進します。その時点で、私たちは神の目には「汝」として映るのであり、まさにそのために「私」になれるのだと気づかされます。

 実際、主だけが私たち一人一人を常に永遠に「汝」として扱うことを申し出てくださいます。主の友情を受け容れることは心の問題なのです。心こそが 私たちをその言葉が示す最も完全な意味で、私たちを人たらしめるのです。

26項 聖ボナヴェントゥラは、最終的に私たちは光ではなく「燃える火」(ほむら)の到来を祈るべきであると教えています(註17 彼は、「信仰は知性のなかにあり、愛情を引き起こすようなものです。この意味で、たとえばキリストが私たちのために死んだという知識は知識のままではなく、必然的に愛情になります」と教えています(註18)。

 同様に、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンは、「心は心に語る」(Cor ad cor loquitur)という標語を自分の人生の生き方としていました。なぜなら、私たちのあらゆる考えをはるかに超えて、主はみこころから私たちの心に語りかけることによって私たちを救うからです。

 この理解の仕方により、著名な知識人であった聖ニューマンは、自分自身と主との最も深い出会いは読書や熟考からではなく、生きて今ここにいるキリストのみこころと私の心とが響き合う祈りの対話から来るものであることを理解しました。聖ニューマンがイエスの生きたみこころに出会ったのは聖体においてでした。その心は私たちを自由にし、人生のあらゆる瞬間に意味を与え、真の平和を与えることができます。

 「ああ、いとも神聖で、いとも慈愛に満ちたイエスのみこころよ、あなたは聖体のなかに隠され、今も私たちのために鼓動を打ち続けておられます。……私は最高の愛と畏敬の念、熱烈な愛情、最も抑制された、最も決然とした意志をもってあなたを崇拝します。ああ、わが神よ、あなたが私をお迎えし、あなたを食べ、飲むことをゆるし、あなたがしばらくのあいだ私のなかに住まわれるとき、私の心をあなたのみこころで鼓動させてください。地上のもの、傲慢で官能的なもの、冷酷で残酷なもの、あらゆる邪悪なもの、あらゆる無秩序、あらゆる死から私の心を清めてください。そして、その日やその時の状況がそれをかき乱す力を持たないように、あなたの愛と畏れのなかに私の心が平和を保つようにしてください」(註19)。

27項 いまも生きており、ここにいてくださるイエスのみこころの前で、聖霊によって啓かれた私たちの心は、主のみことばの学びをとおして成長し、主のみことばを実践する意志が強く突き動かされます。

 その際 私たちは、ある種の自己中心的な道徳主義のレベルに留まる危険性に容易におちいる場合があります。しかし、主の呼びかけに耳を傾け、味わい、主に対してふさわしい敬意を払うことは、心の問題なのです。心だけが、私たちの他の力や情熱、そして私たちの全人格を、主の前で畏敬の念と愛の服従の姿勢に留まらせることができるのです。

 

5.世界は変革することができます、心をともなってさあ始めましょう[28-31項]

28項 心から始めて、私たちの共同体は、異なる者たちの心と意志とを統合し、和解させることに成功し、聖霊が私たちを兄弟姉妹として団結へと導くことができるのです。和解と平和もまた心から生まれます。

 キリストのみこころは「自分の狭さから解放されて他者へと心を開くこと」 エクスタシー[脱自])であり、開放性であり たまものであり、出会いなのです。

 心のなかで、私たちは健全で幸せな方法でおたがいに関わることを学び、この世界に神の愛と正義の王国を築き上げます。キリストのみこころと結びついた私たちの心は、このように社会的な奇跡を起こすことができるようになります。

29項 ですから、相手の心を真剣に受け留めることは、社会全体に影響を及ぼします。第二バチカン公会議は、「私たち一人ひとりが心を変える必要があります。私たちは全世界に目を向け、人類の向上をもたらすために私たち全員が一緒に実行できる奉仕に目を向けなければなりません」(註20)と教えています。

「今日の世界に影響を与えている不均衡は、実際には人間の心に根ざしたより深い不均衡の兆候です」(註21)。 私たちの世界を苦しめている悲劇について熟考するなかで、公会議は私たちに心を取り戻すように促しています。公会議は、人間は「その内なる生活によって、物質的な宇宙全体を超越します。人は自分の心にわけ入るとき、この深い内面性を経験します。そこには、心を探る神が待ち構えており、人間は神の御前で自分の運命を決めるのです (註22)。

30項 決して自分の能力に過度に頼ることを意味するものではありません。私たちの心は自立しているのではなく、もろく傷ついているということを決して忘れないようにしましょう。心は存在論的な尊厳を備えていますが、同時に、よりいっそう尊厳のある生活を求めなければなりません(註23)。

 第二バチカン公会議は、「福音の発酵は、人間の尊厳への抑えきれない渇望を人間の心に呼び起こし、今も呼び起こし続けています (註24)と指摘しています。しかし、この尊厳に従って生きるためには、福音を知ることや、その要求を機械的に実行するだけでは十分ではありません。神の愛の助けが必要なのです。それでは、キリストのみこころに目を向けましょう。キリストの存在の核心は、神と人間との愛
とが燃え盛る炉であり、人類が目指すことのできる最も崇高な達成を私たちに実感させることです。そのみこころにおいて、私たちはついに真に自分自身を知り、愛することを学びます。

31項 結局のところ、キリストのみこころは、あらゆる現実を統合する原理です。なぜなら、「キリストは世界の中心であり、キリストの死と復活の過越の秘義は歴史の中心であり、キリストのおかげで歴史は救いの歴史となっている」(註25)からです。あらゆる被造物は「私たちとともに、私たちを通して、神という共通の到達点に向かって前進しています。その超越的な充足のなかで、復活したキリストはあらゆるものを抱きしめ、照らします (註26)。

 キリストのみこころの面前で、私はもう一度、主が私たちの一人として住むことを選んだこの苦しみに満ちた世界に慈悲を与えてくださるよう祈ります。彼が光と愛の宝を注ぎ出し、戦争、社会経済的格差、人間性を脅かすテクノロジーの使用にもかかわらず前進する私たちの世界が、何よりも重要で必要なもの、つまりその心を取り戻すことができますように。

第2章 愛の諸々のわざと諸々のことば[32項]

32項 キリストのみこころは、私たちに対する彼の愛の最も深く最も個人的な源の象徴として、福音の最初の説教のまさに核心です。それは私たちの信仰の原点であり、私たちのキリスト教信仰を刷新しつつ活気づける源泉なのです。

 

1.心を映す諸々のわざ[33-38項]

33項 キリストは、長々とした説明ではなく、具体的な行動によって、私たちへの愛の深さを示しました。聖書をじゅうぶんに読み深めて、キリストによる他者との関わりかたを調べることによって、キリストが私たち一人ひとりをどのように扱っているのかがわかります。たとえ最初は見えにくいことがあったとしても、丁寧に聖書を読めばキリストの姿が理解できるようになります それでは、信仰のまなざしによって真実を見究めることができる現場としての「神のことば」に目を向けましょう。

34項 福音書は、イエスが「自分の民のところに来られた」(ヨハネ1:11参照)と語っています。この言葉は私たちのことを指しています。主は私たちを他人としてではなく、絶えず見守り、大切にする宝として扱うからです。主は私たちをほんとうに「自分の民」として扱ってくださいます。これは、私たちが主の奴隷であるという意味ではありません。主ご自身もそれを否定しています。「私は あなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ15:15)。むしろ、友人に特有な、おたがいに関わり合うような帰属意識を指しています。

 イエスはあらゆる距離を乗り越えて、橋渡しする意図によって私たちに会いに来られました。イエスは私たちの生活の最も単純な日常の現実と同じくらいに私たちに近づいてくださいました。実際に、イエスは「インマヌエル」という別の名前を持っています。これは「神は私たちとともにおられる」という意味であり、私たちの生活の一部として神が一体化するようになじんでおり、私たちのまっただなかに住まわれる神の親密さを意味しています。まさに神の子は受肉し、「自分を無にして、奴隷の姿をとりました」(フィリピ2:7)。

35項 いま述べたことは、イエスの働きを見ると明らかになります。イエスは人びとを探し出し、彼らに近づき、彼らとの出会いを常に受け​​容れます。イエスが水を汲みに行かれます(ヨハネ4:5-7参照)。夜の闇のなかで、イエスの前に姿を見せることを恐れていたニコデモに会ったときにも、そのことがわかります(ヨハネ3:1-2参照)。イエスが遊女に足を洗われるにまかせたとき(ルカ7:36-50参照)、姦淫の現場で捕まった女性に「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言ったとき、また弟子たちの無関心を叱責し、道ばたの盲人に「何をしてほしいのか」と静かに尋ねたとき(マルコ10:51)のことを読むときに 私たちは驚嘆させられます。

 キリストは、神が親しい態度で私たちに近づくこと、同情心をいだくこと、優しい愛を示すことを私たちに実感させるのです。

36項 イエスは誰かをいやすとき、遠くからではなく、近くからいやすことを好まれました。次の言葉を読めばわかります。「イエスは手を伸ばして彼に触れた」(マタイ8:3)。「彼女の手に触れた」(マタイ8:15)。「彼らの目に触った」(マタイ9:29)。あるとき、イエスはまるで母親のように、耳の聞こえない人を自分の唾液で治すことさえしました(マルコ7,33参照)。

 それは、イエスが人びとの生活から切り離された存在だと思われないようにするためでした。「主は愛撫の優れた効果を知っておられる。神はその慈悲において、言葉で私たちを愛するのではなく、私たちに会いに来て、その親密さによって、その優しい愛の深さを示してくださるのです」(註27)。

37項 嘘や傷害、失望によって傷ついたために他人を信頼することが難しいと感じているなら、主は私たちの耳元で「息子よ、元気を出しなさい」(マタイ9,2)、「娘よ、元気を出しなさい」(マタイ9,22)とささやいてくださいます。主は、恐れを克服し、主がかたわらにいれば失うものは何もないことに気づくよう、私たちを励ましてくださいます。

 恐れていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかみ」、こう言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14,31)。あなたも恐れる必要はありません。イエスがあなたのそばに近づき、あなたをそばに座らせてくださいます。私たちが信用できない人はたくさんいるかもしれませんが、イエスはそうではありません。自分の罪のためにためらってはいけません。多くの罪びとが「イエスのもとに来て座った」(マタイ9:10) のに、イエスは誰に対しても憤慨しなかったことを心に留めてください。イエスを「大食漢、大酒飲み、取税人や罪びとたちの友」(マタイ11:19)として不平を言い、扱ったのは宗教指導者たちでした。

 イエスが、いやしくて罪深い者とみなされる人びとと親しくしていることを、ファリサイ人が非難したとき、すかさずイエスは次のように答えました。「わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない」(マタイ9:13)。

38項 その同じイエスがいます、あなたの人生に光をもたらし、あなたを引き上げ、彼の力であなたを満たす機会をあなたに与えてくれるのを待っているのです。死の前に、イエスは弟子たちにこう約束しました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに来ます。しばらくすると、世はもはやわたしを見なくなりますが、あなたがわたしを見るようになります」(ヨハネ 14:18-19)。イエスは常にあなたの人生のなかに存在し、あなたがイエスに出会うことができるようにしてくださいます。

2.イエスのまなざし[39-42項]

39項 福音書には、ある金持ちが理想に燃えながらも人生を変える力に欠けた状態でイエスのもとにやって来たと書かれています。イエスは「彼を見つめました」(マルコ10:21)。その瞬間を つまり彼とイエスの目が出会う瞬間を想像できますか イエスがあなたを召し、使命に授けるとき、まずあなたを見て、あなたの心の奥底を探り、あなたのことをすべて理解してから、あなたに視線を向けます。「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられ、二人の兄弟に会われ、そこから立ち去られると、ほかに二人の兄弟を眺めた (マタイ 4:18、21)ときもそうでした。

40項 福音書のほとんどのページは、イエスがいかに個人に、とりわけ彼らの問題や必要に気を配っていたかを示しています。「イエスは群衆を見て、彼らが困窮し、助けを必要としているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とも書かれています。誰もが私たちを無視し、私たちの身に何が起きても誰も気にかけず、私たちは誰にとっても重要ではないと感じるときでさえも、イエスだけは私たちのことを気遣ってくれます。ナタナエルが自分のことで忙しく、離れて立っていたとき、イエスはこう言うことができました。「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」(ヨハネ1:48)。

41項 イエスは まさに私たちへの気遣いから、私たちの善意や小さな慈善行為をすべて知っています。福音書には、イエスがかつて「貧しいやもめが神殿の献金箱に小さな銅貨二つを入れているのを見て」(ルカ21:2)、すぐに弟子たちにそのことを伝えたと書かれています。このようにイエスは、私たちの心のなかに見られる善良さを評価します。百人隊長が完全な信頼をもってイエスに近づくと、「イエスは耳を傾け、驚嘆されました」(マタイ8:10)。たとえ他​​の人が私たちの善意や行為に気づかなくても、イエスだけは私たちを見て高く評価しているというのは、なんと心強いことでしょう。

42項 イエスは人間として、母マリアから次のことを学びました。聖母マリアは自分が経験したことを注意深く思いめぐらせました。彼女は「それを心に留めておいた」(ルカ2:19, 51)のですし、聖ヨセフとともに、幼いころからイエスに同じように注意を払うよう教えました。

3.イエスの諸々のことば[43-47項]

43. 聖書には、常に生き生きとした時宜にかなったイエスの言葉が保存されていますが、イエスが私たちの内面に語りかけ、呼びかけ、より良い場所へと導く瞬間があります。そのより良い場所とは、 イエスのみこころ」です。そこでイエスは、新たな力と平和を見つけるよう私たちを招いています。「疲れた人、重荷を負っている人は、だれでもわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう (マタイ11:28)。この意味で、イエスは弟子たちに「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)と言うことができました。

44項 イエスの言葉は、イエスの聖性が深い感情を排除しなかったことを示しています。イエスはさまざまな場面で、情熱的で思いやりのある愛を示しました。イエスは深く感動し、悲しみ、涙を流すことさえありました。イエスが人々の疲労や飢えといった日々の心配や心配事に無関心ではなかったことは明らかです。「わたしはこの群衆がかわいそうに思う。彼らは食べるものがなく、途中で弱り果ててしまうだろう。彼らの中には遠くから来た者もいる」(マルコ 8:2-3)。

45項 福音書は、エルサレムに対するイエスの愛を隠していません。「イエスは近づいて都を見て、そのために泣かれた」(ルカ 19:41)。そして、心の奥底にある願いを口にしました。「あなたがたが、この日に平和をもたらすものを悟ってさえいればよかったのに」(ルカ 19:42)。福音記者たちは、イエスの力と栄光を時々示す一方で、死に直面したイエスの深い感情や友人たちの悲しみも描きます。福音書は、イエスがラザロの墓の前に立って「泣き始めた」(ヨハネ11:35)ことを語る前に、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5 と記し、マリアと彼女と一緒にいた人びとが泣いているのを見て、「心を痛め、心を動かされた」(ヨハネ11:33)とも記しています。

 福音書の記述は、イエスの涙が本物であり、心の動揺のしるしであったことに疑いの余地を残していません。また、福音書は、イエスが深く愛していた人々の手による差し迫った暴力的な死に対するイエスの苦悩を隠そうとはしていません。イエスは「心を痛め、心をかき乱し始めた」(マルコ14:33)、「私​​は悲しみのあまり死なんばかりだ」(マルコ14:34)と叫ぶほどでした。この心の動揺は、十字架上での彼の叫びに最も力強く表れています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。

46項 一見すると、これらすべてについては敬虔な感傷主義の匂いがするかもしれません。しかし極めて深刻で決定的な重要性があり、十字架につけられたキリストに最も崇高な表現を見いだしています。十字架はイエスの最も雄弁な愛の言葉なのです。浅薄でも感傷的でも、単に啓発的な言葉ではありません。それは愛であり、しかも純粋な愛です。だからこそ、キリストとの関係を表す適切な言葉を見つけようと苦闘していた聖パウロは、「私を愛し、私のためにご自身をお与えになった神の子」(ガラテヤ2:20)について語ることができたのです。

 これがパウロの最も深い確信でした。つまり、自分が愛されているという認識です。十字架上でのキリストの自己犠牲はパウロの人生の原動力となりましたが、それが彼にとって意味を成したのは、その背後にさらに大きな何か、つまり「彼が私を愛した」という事実があることを知っていたからです。

 多くの人びとが救いや繁栄、安全を他の場所で求めていた時代に、聖霊に動かされたパウロは、さらに先を見通すことができ、何よりも偉大で最も重要なことに驚嘆しました。「キリストは私を愛しておられました」。

47項 さて、キリストについて考え、キリストの行動と言葉がどのようにしてキリストのみこころを理解する助けとなるのかをながめた後で、主のみこころの神聖な秘義についての教会による考察を見渡すことにしましょう。

第3章 これがこれほど愛した心です[48項]

 

48項 キリストのみこころへの信仰は、イエスの人格から離れた単一の器官を崇拝することではありません。私たちが黙想しつつ崇拝するのは、神の子が人となったときのイエス・キリストの全体なのであり、そのみこころを強調するイメージで表現されています。その肉の心は、受肉した子の最も内なる存在と、神と人間の両方の愛の特別なしるしと見なされています。イエスのからだの他のどの部分よりも、イエスのみこころは「彼の無限の愛の自然なしるしであり象徴」なのです(註28)。

 

1.キリストを崇拝すること[49-51項]

49項 イエス・キリストの人格に対する私たちの関わりは、彼のみこころのイメージのもとで表された愛によって引き寄せられた友情と崇拝をもたらすものであることを理解することが重要です。私たちは心臓のイメージを崇拝しますが、この崇拝は、キリストの人間的で神聖な愛に抱かれるために、彼の神性と完全な人間性とにおいて、生きているキリストにのみ向けられています。

50項 どのようなイメージが用いられようとも、シンボルが重要なわけではなく、むしろキリストの生きたみこころこそが、私たちの礼拝の対象であることは明らかです。なぜなら、心臓はキリストの聖なる復活したからだの一部であり、そのからだは永遠の相のもとで受肉した神の子と切り離すことができないからです。私たちが心臓を礼拝するのは、それが「みことばのペルソナの心であり、切り離すことのできないかたちでペルソナと結びついている」からです(註29)。

また、私たちは心臓をそれ自体のために礼拝するのではなく、受肉した御子がこのみこころをもって生きており、私たちを愛し、その愛を返していただくからです。したがって、キリストのみこころに対する愛の行為や礼拝はどれも「実際に、そして真にキリスト自身に捧げられる」ものなのです(註30)。こうして心臓はおのずとキリストに集中する私たちの姿勢を生み出すので、私たちは「イエス・キリストの
無限の愛の象徴であり、優しいイメージ」にたどり着くことになるわけです(註31)。

51項 そのためイエスのみこころの信心が私たちをイエスとその愛から逸らしたり引き離したりするなどと決して考えるべきではありません。その信心はごく自然で直接的な方法で、対話や愛情や信頼や崇拝を特徴とする貴重な友情に招いてくださるキリストに向かわせるばかりではなく、しかもキリストだけに私たちを導きます。私たちが眺めることになる、刺し貫かれて燃える心臓を持つキリストは、私たちへの愛のためにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを通り抜けて病人をいやし、罪びとを抱きしめ、慈悲を示した、あの同じキリストなのです。十字架上で両腕を広げて私たちを最後まで愛し、その後で死から立ち
上がり、いまは栄光のうちに私たちのあいだで生き続ける、あの同じキリストなのです。

 

2.彼のイメージを崇敬する[52-58項]

52項 キリストとその心臓の像は、それ自体が崇拝の対象なのではありませんが、他の表現の数多くの可能性のある像の一つなのでもありません。それは机上で考案されたり、藝術家によってデザインされたりしたものではありません。それは「架空のシンボルではなく、もっと中心的なものであり、全人類に開かれた救いの源を表す現実的なシンボル」なのです(註32)。

53項 普遍的な人間の経験により、心臓の像は独創的なものになりました。実際に、歴史を通じて、そして世界のさまざまな地域で、心臓は個人的な親密さ、愛情、感情的な愛着、そして愛する能力の象徴とされてきました。科学的なあらゆる説明の仕方を超えて、友人の心臓に手を当てることは特別な愛情を表します。

二人の人が恋に落ちてたがいに近づくと、彼らの心臓の鼓動は早まります。愛する人に捨てられたり騙されたりすると、私たちの心は沈みます。同様に、私たちが深く個人的なこと表現したいときに、私たちはしばしば「心から」話していると言います。詩の言葉はこれらの経験の力を反映しています。歴史の過程で、心臓は単なる慣習を超えた独特な象徴的価値を帯びてきました。

54項 したがって、教会が心臓のイメージを、イエス・キリストの人間的で神聖な愛と彼の人格の最も内なる核心を表すために選んだことを理解することができます。しかし、燃える心臓の描写はイエス・キリストの燃える愛の雄弁な象徴なのかもしれませんが、この心臓が彼から離れて表現されないことが重要です。

このようにして、出会いと対話という個人的な関わりへの主からの呼びかけは、さらに意味のあるものとなるでしょう(註33)。愛の心を差し出すキリストを描いた尊い像は、キリストが私たちをじっと見つめ、出会い、対話し、信頼へと招いていることを示します。その像は、私たちを支えることができるキリストの力強い手と、私たち一人ひとりに個人的に語りかけるキリストの唇を示しています。

55項 心臓もまた、他の個々の器官とは異なり、身体の深遠な統合の中心、つまり人格の全体性の表現としてすぐに理解できるという利点があります。全体を表す部分として、主ご自身から離れてそれを観想すると、簡単に誤解してしまう可能性があります。心臓の像は、キリストの人間としての性質および神としての性質との美しさと豊かさとをあますところなく観想するように私たちを導くはずなのです。

56項 私たちがキリストの心臓のさまざまな描写の前でひざまずいて祈るときにn、その描写にどのような特別な美的な性質を帰するとしても、「それらに何かを求めたり、かつて異邦人が行っていたように盲目的に偶像に信頼したりする」わけでは決してありません。むしろ、「私たちがキスをし、ひざまずいて、頭を覆わないままで、ありのままの自分をさらして向き合う、この像を通して、私たちはキリスト御自身を崇拝しているのです」(註34)。

57項 これらの表現には、確かに趣味が悪く、愛情や祈りにとって特に役立つものではないと感じられるものがあるのかもしれません。しかし、これはあまり重要ではありません。なぜなら、それらは祈りへの招待の入り口に過ぎず、東洋の諺を引用すると、私たちは月を指し示す指に視線を限定すべきではないからです。

 聖体は崇拝されるべき現実の存在ですが、聖像は祝福されているとはいえ、それ自体を超えて指し示し、私たちの心を持ち上げ、生けるキリストの心に結びつけるよう招きます。したがって、私たちが崇拝する像は、キリストとの出会いのための場所を作り、私たちが思い描く方法で彼を崇拝するための召喚状として機能します。

 像の前に立つと、私たちはキリストの前に立ち、彼の存在につつまれることで、「愛するがゆえに、立ち止まり、秘義に思いを致し、沈黙のうちでそれを愉しむことになるのです」(註35)。

58項 同時に、心臓の像が私たちに肉体と地上の現実について語っていることを決して忘れてはなりません。このようにして、心臓の像は、私たちの一人、私たちの歴史の一部、そして地上の旅の仲間になることを望まれた神を指し示すことになります。より抽象化されつつ様式化された形の信心は、必ずしも福音の内容に忠実であるとは限りません。なぜなら、この雄弁で具体的なしるしのなかに、神がご自身を明らかにし、私たちに近づこうと望まれたことがわかるからです。

 

3.具体的な愛[59-63項]

59項 一方、愛と人間の心とは必ずしも重なるわけではありません。憎しみ、無関心、利己主義が私たちの心を支配することがあるからです。しかし、私たちは他の人に心を開かない限り、人間としての充足感を得ることはできません。愛を通してのみ、私たちは完全に自分自身となることができます。愛のために創造された私たちの最も深い部分は、私たちが愛することを学ぶ場合にのみ、神の計画を成就します。そして、心はその愛の象徴なのです。

60項 神の永遠の子は、その完全な超越性において、人間の心で私たち一人ひとりを愛することを選ばれました。イエスの人間らしい感情は、その無限で終わりのない愛の秘跡となりました。したがって、イエスのみこころは、単に肉体のない霊的な真実の象徴ではありません。主のみこころを見つめるとき、私たちは、イエスの人間的な肉体という物理的な現実を観想することになります。

この肉体は、イエスが私たちと同じように、神の愛によって完全に変容しているとはいえ、真の人間らしい感情や感覚を持つことを可能にします。私たちの信仰は、神の子のペルソナの無限の愛へと昇らなければなりませんが、イエスの神らしい愛は人間らしい愛と切り離せないことを心に留めておく必要があります。イエスの肉の心のイメージは、まさに役立ちます。

61項 心は、一般の人びとの心のなかで、各人の感情の中心として見られ続けているため、完全に人間らしい愛と永遠に切り離せない形で結びついたキリストの神聖なる愛を表す最良の手段であり続けています。教皇ピウス12世は、福音書がキリストの心の愛について言及する際に、「神の慈愛だけでなく、人間の愛情についても」語っていると述べています。実際に、「神のみことばの位格位格的に結びついたイエス・キリストのみこころとは、疑いなく愛とあらゆる優しい愛情とで脈打っていました」(註36)。

62項 教父たちは、キリストの真の人間性を否定したり軽視したりする人びとに反対し、主の人間らしい愛情の具体的な実在性を主張しました。聖大バシレイオスは、主の受肉は空想的なものではなく、「主は私たちの自然な愛情を所有していた」と強調しました(註37)。聖ヨハネ・クリゾストモスはたとえを挙げて、「主が私たちの性質を所有していなかったら、時々悲しみを経験することはなかったでしょう」と述べました(註38)。

聖アンブロジウスは、「人間の魂を選び取ったことで、彼は魂の情熱を引き受けました」と述べたのです(註39)。聖アウグスティヌスにとって、キリストが引き受けた私たちの人間らしい愛情は、いまや恩寵に満たされたいのちとして開かれています。「主イエスは、私たち人間の弱さとしての愛情を引き受け、私たち人間の弱さとしての肉体を引き受けました。その際、必要に迫られてではなく、意識的に、そして自発的に……人生の試練のなかで悲しみや苦しみを感じる人が、主の恵みから切り離されたと思うことのないようにするためです」(註40)。

最後に、ダマスコの聖ヨハンネスは、キリストが人間性において示した真の愛情は、キリストが私たちの本性を完全に引き受け、それを完全に贖い、変容させたことの証拠であるとみなしました。つまり、キリストはあらゆる人が聖化されるように、人間の本性の一部であるあらゆるものを引き受けたのです(註41)。

63項 ここで、私たちは、「ギリシア思想の影響により、神学は長いあいだ、身体や感情のことを人類が知性を発達させる以前の時代の原始的な要素として扱っていたばかりか、あるいは人間の下等状態の能力であるかのように理解しており、さらには無意識のうちに非人間的な状況として無視してきましたが、神学が理論上では解決できなかったことを、霊性の実践においては解決したのです」と主張する神学者の考えから恩恵を受けることができます。

この考え方のおかげで、民衆の信心深さとともに、イエスの肉体的、心理的、歴史的な現実との関わりを意味のあるものとして保つことにつながりました。十字架の道行き、キリストの傷、尊い血とみこころに対する信心、そして聖体に対するさまざまな信仰が歴史上見受けられるのですが……これらすべてが、私たちの心と想像力、キリストへの優しい愛、希望と記憶、願望と感情を養うことで、神学理論との溝を埋めることにつながりました。理性と論理のほうは別の方向に向かってしまったにもかかわらず」(註42)。

 

4.三重の愛[64-69項]

64項 私たちは、主の人間的な感情のレベルに留まるのではなく、さらに前進します。たしかに主の人間的な感情のレベルは美しく感動的なものです。しかし、一歩進んで、キリストのみこころを観想するときに、私たちは、主の立派で高貴な感情、優しさ、そして真の人間的な愛情のしるしのなかに、主における無限なる神の愛のより深い真実が明らかにされていることにも気づけます。

教皇ベネディクト16世の言葉にもとづけば、「神は、その愛の無限の地平から、人類の歴史と人間の状態の限界に入り込むことを望まれました。神は肉体と心とを身にまとわれました。こうして、私たちは有限のなかに無限を、ナザレのイエスの人間らしい心のなかに、目に見えず言い表せない秘義を観想し、出会うことができるのです」(註43)。

65項 主の心臓のイメージは、実際には、私たちに三重の愛を語りかけます。①まず、私たちは主の姿の内に無限なる神の愛を観想します。②それから、私たちの思いはイエスの人間性の精神的な側面に向かいます。その側面では、心は「イエスの魂に注ぎ込まれ、イエスの人間らしい意志を豊かにする最も熱烈な愛のシンボル」となるのです。③最後に、心臓は「イエスの感覚的な愛のシンボルでもあります」(註44)。

66項 これらの三重の愛は、それぞれ別々に独立したものではなく、並行状態をたどるものでもなく、しかもたがいに切り離されたものではなく、むしろ一緒に作用し、絶え間なく生き生きとした一体性によって表現されるものです。なぜなら、「人間らしさと神らしさとがキリストのペルソナ(人間性)において一体となったことを実感する信心によって、イエスの肉体的な心の優しい愛と、人間らしくて神らしくもあるような二重の霊的な愛とのあいだに最も密接なつながりを見つけることができるからです」(註45)。

67項 キリストのみこころに包み込まれると、私たちは自分たちと同じような愛情と感情に満たされた人間らしい心によって愛されていると感じます。イエスの人間らしい意志は、私たちを愛することを自由に選択し、その霊的な愛は恵みと慈愛とに満ちています。キリストのみこころの奥底に飛び込むとき、永遠の子としてのキリストの無限の愛の計り知れない栄光に圧倒され、もはやその愛をキリストの人間らしい愛から切り離すことは決してできません。

キリストの人間らしい愛のうちに包まれてこそ、私たちはキリストの神らしい愛に出会うことになるのです。私たちは「有限なもののまっただなかに無限なるものを見出す」のです(註46)。

68項 キリストの人格に対する私たちの礼拝は分割されず、キリストの神らしさと人間らしさの両方を不可分に包含するものであるというのが、教会の一貫した明白な教えです。古代から教会は、「神と人の子である唯一のキリストを礼拝し、分離できない二つの不可分の性質から成り、そのなかに存在するキリストを礼拝する」べきであると教えてきました(註47)。

そして私たちは「一つの礼拝行為で……言葉が肉となったように」そうします(註48)。キリストは決して「二つの性質のままで礼拝されることはありませんので、二つの礼拝行為が導入されることもありません」。その代わりに、私たちは「一つの礼拝行為によって、みことばが肉となったという神の姿を、その肉をいただくことで、ともに崇敬する」のです(註49)。

69項 十字架の聖ヨハネは自分の秘義の経験を記録することで、復活したキリストの限りない愛は私たちの生活とは決して無縁のものとして認識されるのではないということを説明しようとしました。キリストの限りない愛は、ある意味で「謙遜」な姿勢によって、開かれた心を通して、私たちが真に相互的な愛の出会いを経験できるようにしてくれます。

なぜなら、「低く飛ぶ鳥が高みの王者としての鷲を捕らえることができるためには、この鷲が捕らえられたいと願って降りて来るのを信じて待つしかない」からです(註50)。十字架の聖ヨハネはまた、花婿が「花嫁が自分への愛で傷ついているのを見て、彼女のうめき声を聴くにおよんで、彼もまた彼女への愛で傷つくことになります。恋人同士のあいだでは、一人の傷は二人の傷であるからです」とも説明しています(註51)。

十字架の聖ヨハ
ネは、キリストの刺し貫かれたわき腹のイメージを、主との完全な一致への招待と見なしています。キリストは傷ついた雄鹿です。私たちがキリストの愛に触れられなかったときに傷つき、渇きを癒すために水の流れのほとりに降りてくださるので、私たちがキリストに目を向けるたびに慰めを受けることになるわけです。「鳩よ、帰れ。傷ついた雄鹿が丘の上に見えています。流れ去る、そよ風が涼しく身に
打ち寄せます」(註52)。

 

5.三位一体の神の諸々の観点[70-77項]

70項 イエスのみこころへの献身は、私たちを主との一体化へと導く主への直接的な観想として、明らかにキリスト論的な性質を備えています。この視点はヘブライ人への手紙に見られます。そこでは「私たちの前に置かれている競争を、イエスを見つめながら忍耐強く走りなさい」(同12:2)と勧められています。同時に、イエスがご自身を父への道として語っていること気づく必要があります。「私が道です。私を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)。

イエスは私たちを御父のもとへ連れて行きたいと願っています。だからこそ、教会の教えは最初からイエスで終わるのではなく、御父で終わるのです。源であるとともに物事の最終的な完成者である御父こそが、歴史の終末において栄光を受けるべき方なのです(註53)。

71項 たとえば、エフェソ人への手紙を見てみると、私たちの礼拝が御父に向けられていることがはっきりとわかります。「私は御父の前にひざまずきます」(同3:14)。「すべてのものの父である唯一の神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを通してあり、すべてのものの内におられます」(同4:6)。「いかなるときでも、すべてのことについて、御父である神に感謝しなさい」(同5:20)。「私たちは御父のために存在しています」(1コリント8:6)。

この意味で、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は「キリスト教生活全体が父の家への大巡礼のようなものだ」と言うことができました(註54)。これは、殉教の道を歩むアンティオケイアの聖イグナティオスの経験でもありました。「私の心のなかには、もはや世俗的なことへの欲望の火花は残っていません。ただ、私の心のなかで『父のもとに来なさい』とささやきかける生ける水によるささやきだけが残っています」(註55)。

72項 御父は、何よりもまず、イエス・キリストの父です。「私たちの主イエス・キリストの神であり御父である方がほめたたえられますように」(エフェソ1:3)。彼は「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父」(エフェソ1:17)です。御子が人となられたとき、彼の人間としての心のあらゆる希望や願望は御父に向けられました。キリストが御父について語った方法を考えれば、彼の人間としての心が御父に対して感じた愛や愛情、この完全で絶え間ない御父への指向を理解することができます(註56)。イエスのもとで生きる私たちの人生も、御父のもとに来なさいという、彼の人間としての心の絶え間ない呼びかけに応える旅をたどるものとなります(註57)。

73項 私たちは、イエスが御父に呼びかけるときに使ったアラム語が「アッバ」であったことを知っています。これは親密で馴染みのある言葉ですが、ある人は当惑させられました(ヨハネ5:18参照)。イエスが差し迫った死に対する苦悩を表現するときに御父に呼びかけた言葉です。「アッバ、父よ、あなたには、あらゆることが可能です。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、あなたの願いがかなえられるように」(マルコ14;36)。

イエスは、自分が常に御父に愛されていたことをよく理解していました。「あなたは、世界のもといが置かれる前からわたしを愛しておられました」(ヨハネ17;24)。イエスは、人間としての心のなかで、御父が次のように言われるのを聞いて喜んだのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びとする」(マルコ1;11)。

74項 第四福音書は、永遠の子が常に「父の心に近かった」(ヨハネ1;18)と語っています(註58)。聖エイレナイオスは、このようにして「神の子は初めから御父と共におられた」と宣言しています(註59)。一方、オリゲネスは、御子は「御父の奥底を絶えず観想し」続けていると主張しています(註60)。御子が肉体を受け取ったとき、山頂で愛する御父と一晩中語り合っていました(ルカ6;12参照)。

イエスは「わたしは父の家にいるはずです」と私たちに告げました(ルカ2:49)。イエスがどのように讃美を表明したかも分かります。「イエスは聖霊において喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、感謝します』」(ルカ10:21)。イエスの最後の言葉は、まさに信頼に満ちたものでした。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。

75項 それでは、聖霊に目を向けましょう。聖霊の火がキリストのみこころを満たしています。教皇聖ヨハネ・パウロ2世がかつて言ったように、キリストのみこころは「聖霊の傑作」です(註61)。これは単なる過去の出来事ではありません。なぜなら、いまでも「キリストのみこころは聖霊の働きで生きているからです。イエスは聖霊に宣教のひらめきを与え(ルカ4:18、イザヤ61:1参照)、最後の晩餐の席上で聖霊の派遣を約束されました。聖霊は、教会がそこから生まれたキリストの刺し貫かれたわき腹のしるしの豊かさを、わたしたちに理解させてくれます(『典礼憲章』5項参照)(註62)。

一言で言えば、「聖霊だけが、キリストのみこころに含まれる『内なる人』の豊かさを私たちの前に開くことができます。聖霊だけが、わたしたちの人間的な心を、その豊かさから一歩ずつ力づけることがで
きるのです」(註63)。

76項 聖霊の秘義的な働きをさらに深く探究しようとするなら、聖霊が私たちの心のなかでうめき、「アッバ」と叫んでいることが理解できるようになります。実際に、「あなたがたが子どもであることの証拠は、神が御子の霊をわたしたちの心に遣わして、『アッバ、父よ』と叫ばせてくださったからです」(ガラテヤ4:6)。「聖霊は私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることをあかししてくださいます」(ローマ8:16)。キリストの人間的な心のなかで働く聖霊は、キリストを絶えず御父のもとに引き寄せます。聖霊が恵みを通して私たちをキリストの気持ちに結びつけるとき、聖霊は私たちを御子と御父との関係にあずかる者とし、それによって私たちは「子としての霊を受け、その霊によって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(ローマ 8:15)。

77項 聖霊の促しによって、キリストのみこころと私たちの心との関係はこのように変化します。聖霊は私たちを、いのちの源であり、恵みの究極の源である御父へと導きます。キリストは私たちがただ漫然と彼のなかに留まることを期待しておられません。キリストの愛は「御父の慈悲の啓示」(註64)なのであり、彼の望みは、彼のみこころから湧き出る聖霊に促されて、私たちが「彼とともに、また彼のなかで」御父のもとへと昇ることなのです。私たちは「キリストを通して」(註65)、「キリストとともに」(註66)、「キリストのなかで」御父に栄光をささげます(註67)。

教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、「救い主のみこころは、あらゆる真の愛の源である御父の愛に戻るよう私たちを招きます」(註68)と教えました。これはまさに、キリストのみこころを通して私たちのもとに来る聖霊が私たちの心を育くもうとしていることなのです。このため、典礼は聖霊の活力ある働きを通して、キリストの復活したみこころから常に御父に語りかけるのです。

 

 

6.教導職の最近の教え[78-81項]

78項 キリストのみこころは、キリスト教の霊性の歴史において、さまざまな形で常に続いてきました。聖書において、あるいは教会の初期の時代においては、キリストのみこころは、主の傷ついたわき腹のイメージのもとに、恵みの泉として、また深く愛に満ちた出会いへの呼びかけとして現われました。この同じ姿で、過去と現在の多くの聖人の著作のなかに再び現われています。ここ数世紀、キリストのみこころの霊性は徐々に、イエスのみこころの信心という特定の形をとるようになりました。

79項 私の前任者の多くは、さまざまな方法でキリストのみこころについて語り、私たちがそれと一体化するように勧めてきました。19世紀末の教皇レオ13世は、みこころに自らを捧げるように私たちに勧めました。こうして、キリストとの一体化への呼びかけと、キリストの無限の愛の壮大さを前にしたときに、私たちは驚かされることになります(註69)。

それから約30年後、教皇ピウス11世は、この信心をキリスト教の信仰経験の「総括」として提示しました(註70)。教皇ピウス12世は、さらに、みこころの礼拝は、イエス・キリストに対する私たちの崇拝を、崇高な総合として、際立った方法で表現するものである、と宣言しました(註71)。

80項 さらに最近では、教皇聖ヨハネ・パウロ2世が、この信心がここ数世紀に高まったものであることを、主の慈悲の豊かさを無視した、厳格で肉体のない形の霊性の台頭への反応として提示しました。同時に、彼はこれを、神の余地を残さない世界を作ろうとする試みに抵抗するための時宜を得た呼びかけであると見なしました。

「みこころに対する信心は、いまから2世紀前にヨーロッパで聖マルグリット・マリー・アラコックの秘義の経験に刺激されて発展しましたが、それは神の無限の慈悲を無視するジャンセニストの厳格さに対する反応でした……第三千年紀の男性と女性は、神を知り、自分自身を知るためにキリストのみこころを必要としています。愛の文明を築くためにキリストのみこころが必要なのです」(註72)。

81項 教皇ベネディクト16世は、私たちの生活において親密で日常的なキリストのみこころを理解するように求めました。「あらゆる人は自分の生活の『中心』、日々の生活の出来事、状況、闘争のなかで引き出す真実と善の源を必要としています。私たち全員が沈黙のうちで立ち止まるとき、自分の心臓の鼓動だけでなく、さらに深く、信仰の感覚で物事を感知するとともに、さらにはるかに現実的な信頼できる相手の鼓動を感じる必要があります。それは、世界の心であるキリストの存在です」(註73)。

 

 

7.さらなる諸々の考察と現代との諸々の関連性[82-91項]

82項 キリストのみこころの表現力豊かで象徴的なイメージは、聖霊が私たちにキリストの愛に出会うために与えてくれた唯一の手段ではありませんが、これまで私たちが眺めてきたように、特に特権的な手段なのです。それでも、黙想、福音書の朗読、そして霊的成熟の成長を通して、キリストのみこころのイメージは常に豊かにされ、深められ、新たにされる必要があります。

教皇ピウス12世は、教会は「私たちはイエスの心のなかに『形式的な』イメージ、つまり彼の神聖な愛の完全で絶対的なしるしを観想し、崇拝しなければなりません。なぜなら、この愛の本質は、様々な想像を伴うイメージによってさえも十分には表現できないからです」と明確に述べました(註74)。

83項 キリストのみこころに対する信心は、主による神と人への愛の秘義に対する信仰と崇拝の開放性を表現する限りにおいて、私たちのキリスト教生活にとって不可欠です。この意味で、私たちはみこころが福音の総合であることを改めて断言することができます(註75)。

キリストのみこころに対する信心を熱心に奨励したある聖人たちが語った幻視や秘義的な示現は、ちょうど信徒が神の言葉であるかのように信じなければならないものではないことを、ここで覚えておく必要があります(註76)。それでも、それらは励ましの豊かな源であり、非常に有益であることが証明されます。

たとえ、それが自分の霊的な旅に役立たないことが判明したとしても、誰もそれらに従うことを強いられる必要はありません。しかし同時に、教皇ピウス12世が指摘したように、この信心は「個人的な啓示に由来する」とは言えないことを心に留めておく必要があります(註77)。

84項 たとえば、毎月第一金曜日の聖体拝領の推奨は、多くの人びとが神の慈悲とゆるしとをもはや信じておらず、聖体拝領を完全な者への一種の報酬とみなしていたために聖体拝領を受けなくなっていた時代に、強力な呼びかけを与えました。ジャンセニスムが蔓延する生活の現場では、この慣習の普及は非常に有益であることが証明されました。なぜなら、聖体拝領において、キリストの慈悲深く、常に存在する愛が、私たちをキリストとの一体化へと招いているという明確な理解の仕方につながったからです。

また、この慣習は、別の理由で、現代においても同様に有益であると言えます。今日の世界の慌ただしい時間の流れと、自由時間、消費や娯楽、携帯電話やソーシャルメディアへの執着が強くなる環境において、私たちは聖体の力で私たちの生活を養うことを忘れているからです。

85項 いまや、毎週木曜日に一時間を礼拝に費やす義務を保とうとする人はほとんどおりませんが、この慣習は確かに推奨されるべきです。多くの兄弟姉妹と一体となって、敬虔に聖体礼拝を実行し、聖体におけるキリストのみこころの計り知れない愛を見出すときに、私たちは「教会とともに、受肉したみことばのみこころを通して人類を愛するまでに至った神の愛のしるしと現われとを崇拝する」のです(註78)。86項 数多くのジャンセニストにとって、聖体拝領や聖体礼拝はまったく理解しがたいものでした。なぜなら、彼らは人間的なもの、感情的なもの、肉体的なもののすべてを疑いの目で見ていたため、御聖体への敬虔さは私たちを至高の神への純粋な崇拝から遠ざけるものだとみなしていたからです。

こうしたジャンセニスムに見受けられるように、神をあまりに崇高で、隔絶した、遠い存在とみなし、民衆の信心の感情的表現を危険で教会の監督を必要とするものとみなしたグループのエリート主義的な態度を教皇ピウス12世は、「偽りの神秘主義」(註79)として戒めました。

87項 今日、私たちはジャンセニスムに代わって、神から逃避して専ら人間だけの力で自由な世界を築こうとするような強力な世俗化の波に直面していると言えるかもしれません。私たちの社会では、愛の神との個人的な関係とはまったく関係のない、肉体的な要素が欠如した霊性の新たな現われとしての、さまざまな形態の宗教の急増も見られます。

教会においても、有害なジャンセニスムの二元論が新たな形で再び現われていることを警告しておかなければなりません。特に、ここ数十年で新たな力を得ていますが、それは「肉の救済」の現実を認めなかったためにキリスト教の初期の世紀に大きな精神的脅威となったグノーシス主義の再来なのです。このため、私はキリストのみこころに目を向け、私たち全員にキリストへの信仰を新たにするように呼びかけます。これが現代の感受性にも訴えかけ、この信心が効果的な対応策を提供する古い二元論や新しい二元論に立ち向かう助けとなることを私は願っています。

88項 キリストのみこころは、外部の活動、福音とはほとんど関係のない構造改革、強迫観念的な再編計画、世俗的なプロジェクト、世俗的な考え方、義務的なプログラムに過度に巻き込まれたコミュニティ や司祭に見られる別の種類の二元論からも私たちを解放します。その結果、多くの場合、信仰の優しい慰め、他者に奉仕する喜び、使命に対する個人的な献身の熱意、キリストを知ることの素晴らしさ、キリストが与えてくれる友情から生まれる深い感謝、そしてキリストが私たちの人生に与えてくれる究極の意味が剥奪されたキリスト教になります。これもまた、幻想的で肉体のないこの世のものとは思えない表現です。

89項 現代に広く見られるこれらの態度に屈すると、私たちはそれらを治したいという欲求をすべて失いかねません。このことから 私は全教会にキリストのみこころの信心によって表されたキリストの愛について改めて考えるよう提案したいと思います。なぜなら、そこには、私たちの信仰の真理の総合、私たちが信仰において崇拝し求めるすべてのもの、私たちの最も深い欲求に応えるすべてのもの、まさに福音全体があるからです。

90項 キリストのみこころ そして福音の受肉した総合を観想するとき、私たちは幼きイエスの聖テレーズの例に倣って、「私たち自身ではなく、私たちを無条件に愛し、イエス・キリストの十字架においてすでにすべてを与えてくださった神の無限の慈悲に心から信頼を置く」ことができるようになります(註80 聖テレーズがこれを行うことができたのは、キリストのみこころにおいて神が愛として働いていることを発見したからです。「神は私に無限の慈悲を与えてくださいました。そして、私は神による無限の慈悲によって神の完全性を観想し、崇拝します」(註81 だからこそ、キリストのみこころに矢のように向けられた一般的な祈りは、単に「イエスよ、私はあなたに信頼します」と言っているのです(註82 。もはや他の言葉は必要ありません。

91項 次の章では、みこころに対する現代の信心が、私たちを養い、福音に近づけ続けるために組み合わせる必要がある二つの重要な側面、つまり個人的な霊的経験と共同体の宣教への取り組みを強調しておきたいと思います。

第 4 章 飲みものとして自らを与える愛[92項]

92項 それでは、聖書に戻りましょう。聖書は、何よりも神の啓示に出会うための霊感を受けたテクストです。聖書に描かれた教会の生きた伝統において、私たちは主が歴史のなかで私たちに伝えたかったことを聴くことができます。旧約聖書および新約聖書のいくつかのテクストを読むことで、私たちは時代を超えて神の民の偉大なる心の巡礼を導いてくださった神のことばに対する洞察を得ることができるのです。

1.愛を渇望する神[93-101項]

93項 聖書は、砂漠を旅して自由を切望した人びとが、いのちを与える豊富な水の約束を受けたことを示しています。「あなたたちは喜びをもって救いの井戸から水を汲むだろう」(イザヤ12:3)。メシアの到来の預言は、次第に清めの水のイメージを中心にまとまりました。「わたしは清い水をあなたたちに振りかける。あなたたちは清くなる。わたしは新しい霊をあなたたちのうちに授ける」(エゼキエル6:25-26)。この水は、神殿から流れ出る泉のように、神の民に豊かないのちと救いとをもたらすでしょう。「わたしは川の岸に、こちら側にもあちら側にも多くの樹木があるのを見た。川が流れる所では、あらゆる生き物が生きる。川が海に入ると、その水は清くなり、川が流れる所では、あらゆるものが生きる」(エゼキエル47:7-9)。

94項 イスラエルの砂漠での40年間の滞在を思い起こさせるユダヤの仮庵の祭り(スッコット)は、徐々に水の象徴を中心的な要素として採り入れました。その際に、水を毎朝捧げる儀式が含まれていましたが、祭りの最終日には最も厳粛なものとなり、神殿に向かって大行列が行われ、祭壇を七度回り、大きな歓喜の叫びのなかで神に水が捧げられました(註83)。

95項 メシア時代の幕開けは、人びとのために湧き出る泉として描写されました。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民に、あわれみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者を仰ぎ見るであろう。……その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れから彼らをきよめる泉が開かれるであろう」(ゼカリヤ12:10、同 13:1)。

96項 刺し貫かれた者、湧き出る泉、あわれみと祈りの霊のほとばしり。初期のキリスト者は、これらの約束がキリストの刺し貫かれたわき腹、新しいいのちの源泉において実現したと必然的に考えました。ヨハネによる福音書では、その成就について熟考しています。イエスの傷ついたわき腹から聖霊の水が流れ出しました。「兵士のひとりが槍でイエスのわき腹を刺すと、たちまち血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:34)。福音記者は、エルサレムに泉が開き、刺された者について語った預言を思い出します(ヨハネ19:37 ゼカリヤ12:10参照)。開いた泉は、キリストの傷ついたわき腹であるとされました。

97項 以前、ヨハネによる福音書はこの出来事について語っていました。「祭りの最後の日」(ヨハネ7:37)に、イエスは大行列を祝う人びとに向かって叫びました。「渇いている者はだれでもわたしのもとに来て飲みなさい。……その人の心から生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)。しかし、これが達成されるためには、イエスの「時」が到来することが必要でした。なぜなら、イエスは「まだ栄光を受けておられなかった」(ヨハネ7:39)からです。その成就は、十字架上で、主のわき腹から流れ出る血と水とによってもたらされました。

98項 黙示録は、刺し貫かれた者と泉に関する預言を採り上げています。「あらゆる人の目が、彼を刺し貫いた者たちでさえも、彼を見るであろう」(黙示録1:7)。「渇いている者はみな来なさい。いのちの水をたまものとして受けなさい」(黙示録22:17)。

99項 イエスの刺し貫かれたわき腹は、神が数え切れないほど多くの方法でその民に示した愛の源です。では、イエスのみことばのいくつかを思い出してみましょう。

「あなたはわたしの目に尊ばれ、尊ばれる者だから、わたしはあなたを愛する」(イザヤ43:4)。

「女が乳飲み子を忘れ、自分の胎内の子をあわれまないだろうか。たとえこれらの者が忘れたとしても、わたしはあなたを決して忘れない。見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた」(イザヤ49:15-16)。「山々は移り、丘は移っても、私の慈しみはあなたから移らず、私の平和の契約は移らない」(イザヤ54:10)。

「私は永遠の愛をもってあなたを愛し、それゆえ、私はあなたに忠実であり続けた」(エレミヤ31:3)。

「あなたの神、主はあなたのなかにおられ、あなたに勝利を与える勇士である。主は喜びをもってあなたのことを喜び、その愛をもってあなたを新たにし、大声であなたのことを喜ばれるであろう」(ゼファ3:17)。

100項 預言者ホセアは、神の心について語っています。神は「慈悲の綱と愛の帯をもって彼らを導いた」(ホセア11:4)。その愛が拒絶されたとき、主は「わたしの心はわたしのうちに揺り動かされ、わたしのあわれみは熱く、やさしくなった」(ホセア11:8)と言うことができました。神の慈悲深い愛は常に勝利を収め(ホセア11:9参照)、その最も崇高な表現は、神の決定的な愛のみことばであるキリストにおいて見出されるのです。

101項 キリストの刺し貫かれた心は、聖書にある神の愛の宣言をすべて体現しています。その愛は単なる言葉の問題ではありません。むしろ、神の子の開かれたわき腹は、神が愛する人びとにとってはいのちの源であり、神の民の渇きをいやす泉なのです。いみじくも教皇聖ヨハネ・パウロ2世が指摘したように、「[みこころに対する]信心の本質的な要素は、教会の歴史を通じて、教会の霊性に永続的に属しています。なぜなら、教会は初めから、十字架で刺し貫かれたキリストのみこころを仰ぎ見てきたからです」(註84)。

2.歴史におけるみことばの響き合い[102-108項]

102項 これらの預言が実現したことを、キリスト教信仰の歴史のなかでは いったいどのように確かめたのでしょうか。確認のためのいくつかの方法を考えてみましょう。教会のさまざまな教父、特に小アジアの教父は、イエスの傷ついたわき腹が聖霊の水の源であると述べました みことば、その恵み、そしてそれを伝える秘跡が重要です。殉教者たちの勇気は、「キリストのわき腹から流れ出る天の生ける水の源」(註85 から生まれたものです。ルフィヌスの訳では、「キリストのみこころから流れ出る天の永遠の流れ」(註86)となっています。私たち信者は、聖霊によって生まれ変わり、岩の裂け目から現れますす。「私たちはキリストの心から出てきたのです」(註87 )。

 キリストの傷ついたわき腹、つまり心臓は聖霊に満たされ、生ける水の洪水となって私たちのところにやって来ます。「聖霊の源は完全にキリストにあります」(註88 しかし、私たちが受けた聖霊は、復活した主から私たちを遠ざけるのではなく、その臨在で私たちを満たします。なぜなら、聖霊を飲むことで、私たちは同じキリストを飲むからです。聖アンブロジウスの言葉を借りれば、次のようになります。「キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストは洪水のように水を注ぎ出す岩だからです。キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストはいのちの源だからです。キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストは流れ出る川であり、その流れは神の都を喜ばせているからです。キリストを飲みなさい。彼は私たちの平和です。キリストを飲みなさい。彼のわき腹から生ける水が流れ出るからです」(註89)。

103項 聖アウグスティヌスは、主との個人的な出会いの場としてみこころに対する信心への道を開きました。聖アウグスティヌスにとって、キリストの傷ついたわき腹は、恵みと秘跡の源であるだけではなく、キリストとの親密な結合の象徴でもあり、愛の出会いの場でもあるのです。そこに私たちは、キリストを知るという最も貴重な知恵の源を見出します。実際に 聖アウグスティヌスは、最の晩餐でイエスの胸に寄りかかった愛弟子のヨハネが、知恵の秘密の場所に近づいたと書いています(註90 )。

 ここでは、抽象的な神学上の真理を単に知的に熟考しているだけではありません むしろ、ちょうど聖ヒエロニムスが説明しているように、熟考できる人は「その水の流れの美しさに喜びを感じるのではなく、主のわき腹から流れる生ける水を飲む」(註91)ことになるのです。

104項 聖ベルナルドゥスは、主の刺し貫かれたわき腹の象徴を採り上げ、それを主の心の愛のすべてが明らかになり、ほとばしったものとして明確に理解しています。その傷を通して、キリストは私たちにそのみこころを開き、その愛と慈悲の限りない秘義を私たちが受け取れるようにしてくれます。「私は主のわき腹から、私に欠けているものを取ります。なぜなら、主のわき腹の穴は慈悲であふれているからです。主を十字架につけた者たちは、その手足を刺し、槍でわき腹を刺しました。そして、その傷の穴から私は野生の蜜と火打ち石の油を味わうことができます。つまり、私は主が善良であることを味わい、見ることができるのです。…… 槍は主の魂を貫き、心臓のあたりまで達しました。主はもはや私の弱さを憐れむことができません。主のからだに負わされた傷は、主のみこころの秘密を私たちに明らかにしました。それは、主の慈悲の偉大な秘義を熟考することを可能にするのです (註92)。

105項 この主題は、特にサン・ティエリのウィリアムの思想において再び現われます。彼は、イエスの胸に私たちを招き入れ、イエスがご自分の胸から私たちを養うのです(註93 )。これは、ウィリアムにとって「藝術の藝術は愛の藝術です……愛は自然の創造主によって目覚めさせられ、魂の力であり、まるで自然の重力のように、魂をその本来の場所と目的へと導きます」ということを思い出せば、驚くには当たりません(註94 愛が満ち溢れるその本来の場所とは、キリストのみこころです。

 「主よ、あなたが抱擁し、あなたの心にしがみつく人びとを、あなたはどこへ導くのでしょうか。イエスよ、あなたのみこころは、あなたの魂の黄金の壺のなかにあなたが持つ、あなたの神らしさの甘いマンナです(ヘブライ9:4参照)。それは、あらゆる知識を超えています。その深みに飛び込んで、あなたのみこころの奥にあなたによってかくまわれた人びとは幸いです」(註95)。

106項 聖ボナヴェントゥラは、この二つの霊的な潮流を結び合わせます。彼はキリストのみこころを秘跡と恩寵の源として示し、そのみこころを観想することが友人同士の関係、愛の個人的な出会いとなるよう促しています。

107項 聖ボナヴェントゥラは、主の傷ついたわき腹といういのちの泉から流れ出る恩寵と秘跡の美しさをまず理解するよう促しています。「十字架の上に眠るキリストのわき腹から教会が形作られ、『彼らは自分たちが突き刺した者を見るであろう』という聖書の言葉が実現されるように、兵士の一人が槍でキリストを刺し、わき腹を切り裂きました。これは神の摂理によってゆるされたことであり、その傷から流れる血と水とのなかに、私たちの救いの代価が彼のみこころの隠れた源から流れ出るようになり、教会の秘跡が恩寵のいのちを与え、キリストに生きる人びとにとって永遠のいのちへと湧き上がる生ける泉
から満たされた杯となるようにしたのです」(註96)。

108項 聖ボナヴェントゥラは、私たちが恩寵に近づくことが、一種の魔法や新プラトン主義的な発散としてではなく、むしろキリストとの直接的な関係として つまりキリストのみこころの住まいに入ることとして見られるように、さらに一歩踏み出すよう求めています。そうすれば、その源から飲む人は誰でもキリストの友とされて、愛のみこころとひとつになれるのです。「さあ、キリストの友である魂よ、立ち上がれ。岩の裂け目に巣を作る鳩となり、家を見つけて いつも見守る雀となり、その最も神聖な裂け目に純潔な愛の子を隠す山鳩となりなさい」(註97)。

3.キリストのみこころに対する信心の広がり[109-113項]

109項 こうして徐々に、キリストの傷ついたわき腹は、彼の愛の住処であり恩寵のいのちの源泉として、特に修道生活において彼のみこころと結びつけられるようになりました。歴史の進展の過程で、キリストのみこころに対する信心が常に同じように表現されたわけではなく、さまざまな霊的な経験に関連するその現代的な発展が、その信心の種が垣間見える聖書の内容から派生したものではなく、かといって中世の生活の形式から直接派生したものでもないことを私たちはよく理解しています。それにもかかわらず、今日の教会は、聖霊が何世紀にもわたって私たちに授けてきた善を一切拒否しません。なぜなら、その信心の特定の側面からは、より明確で深い意味を見出すことが常に可能であり、時が経つにつれて新たな洞察を得ることが可能であることを教会は知っているからです。

110項 多くの聖なる女性が、キリストとの出会いの経験を語っていますが、主のみこころに安らぐことが、いのちと心の平安の源であると語っています。聖ルトガルディスとハッケボルンのメヒティルド、フォリーニョの聖アンジェラ、ノリッジのジュリアン夫人などがその例です。シトー会の修道女であるヘルフタの聖ゲルトルードは、祈りの最中にキリストのみこころに頭をもたせかけ、その鼓動を聞いたときのことを語っています。聖ゲルトルードは、福音記者聖ヨハネとの対話のなかで、なぜ同じことをした時のあの経験を福音書に記していないのかと尋ねました。聖ゲルトルードは、「あの鼓動の甘美な音は
現代のために取っておかれたものであり、それを聴くことで、老いぼれの生ぬるい世界が神の愛のなかで新たにされるであろう」と結論づけています(註98)。

 これはまさに私たちの時代へのメッセージであり、私たちの世界がいかに「老い」てきたかに気づき、キリストの愛のメッセージを新たに理解し直す必要があるという呼びかけであると考えるべきではないでしょうか。聖ゲルトルードと聖メヒティルドは「みこころの最も親しい相談相手」の一人とみなされてきたのです(註99)。

111項 カルトゥジオ会の修道士たちは、とりわけザクセンのルドルフに励まされ、みこころに対する信心にキリストへの愛情と親密さとを増すための手段を見いだしました。キリストのみこころの傷を通してなかに入る者は皆、愛に燃えます。シエナの聖カタリナは、主の苦しみは私たちには理解できないが、キリストの開かれたみこころは、キリストの限りない愛と生き生きとした個人的な出会いを可能にすると書いています。「私は、私の心の秘密をあなたに明らかにし、それを開いて見せたいと思いました。そうすれば、私がかつて耐え忍んだ苦しみによって証明できた以上に、私があなたを愛していたことを、あなたが理解できるでしょう」(註100)。

112項 キリストのみこころに対する信心は、徐々に修道院の壁を越えて、聖なる教師、説教者、修道会の創立者たちの精神を豊かにし、彼らはそれを地球の果てまで広めてゆきました(註101)。

113項  特に重要なのは、聖ジャン・ユードが主導権を握ったことです。彼は「レンヌで仲間たちとともに熱心な使命を説いた後、その教区の司教を説得して、主イエス・キリストの崇敬すべきみこころの祝日を祝うことを承認させました。これは、教会でそのような祝日が公式に認可された初めてのケースでした。その後、1670年から1671年にかけて、クタンス、エヴルー、バイユー、リジュー、ルーアンの司教が、それぞれの教区で祝日を祝うことを認可しました」(註102)。

4.聖フランソア・ド・サル司教(サレジオの聖フランシスコ)[104-108項]

114項  この現代においては、聖フランソア・ド・サル司教の重要な貢献について言及すべきです。聖フランソア司教は、キリストの開かれたみこころについて頻繁に考察しました。そのみこころは、キリストの生涯の秘義に光を当てる個人的な愛の関係において、私たちをそこに住まわせるよう招きます。聖なる教会博士は、著作のなかで、イエスのみこころを、神の恵みの秘義的な働きに完全に信頼するようにという呼びかけとして提示することにより、厳格な道徳と律法主義的な態度に反対しています。聖ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルに対する手紙に、このことが表現されています。「私たちはもはや自分自身の内にとどまることはなく、永遠に主の傷ついた脇腹に住むことになるのだと確信しています。なぜなら、主を離れては、私たちは何もできないだけではなく、たとえできたとしても、何かをする意欲がなくなるからです」(註103)。

115項 聖フランソア ド・サル司教にとって、真の信心は迷信やおざなりな信心とは何の関係もないものでした。なぜなら、真の信心は、私たち一人ひとりがキリストに唯一かつ個別に知られて、愛されていると感じる個人的な関係を伴うからです。「主が私たちに告白する愛に燃える、この最も愛らしく愛すべき心は、私たち全員の名前が書かれているみこころなのです……私たちを常に心に抱いておられる主に深く愛されていることを知ることは、確かに深い慰めの源です (註104 キリストのみこころに書かれた私たちの名前のイメージで、聖フランソアは、私たち一人ひとりに対するキリストの愛が決して抽象的
で一般的なものなどではなく、むしろ完全に個人的なものであり、キリスト者一人ひとりが自分が誰であるのかを知られ、尊重されていると感じることができることを表現しようとしました。「主が太陽であり、主の胸が愛の泉であり、祝福された人びとが心ゆくまでそれを飲むこの天国は、なんと美しいことでしょうか 私たちひとり一人は、そこに目を向けると、愛の文字で刻まれた自分の名前を見ることができます。それは真の愛だけが読むことができ、真の愛が書いたものです。愛しい神よ そして、愛する娘よ、私たちの愛する人たちはどうでしょうか 彼らもそこにいるはずです。たとえ私たちの心に愛がなくても、愛への欲求と愛の始まりは持っているからです」(註105)。

116項 聖フランソア司教は、キリストの愛の経験が霊的生活には不可欠であり、まさに信仰の偉大な真実の一つであることをわきまえていました。「そうです、私の愛する娘よ、彼はあなたのことだけではなく、あなたの頭の一番細い髪の毛のことまでも考えています。これは信仰の条項であり、決して疑ってはならないものです」(註106)。その結果、キリスト者はキリストのみこころに完全に身を委ねることができるようになり、そのなかで安らぎと慰めと力を見出します。「ああ、神よ このように抱かれ、救い主の胸に寄りかかるとは、何という幸福でしょう。愛する娘よ、このようにしていなさい。そしてもう一人の小さな聖ヨハネのように、他の人びとが主の食卓でさまざまな食べ物を味わっているあいだに、この愛する主の愛情深い胸に、完全な信頼のしるしとして、あなたの頭、あなたの魂、あなたの精神を置きなさい」(註107 「あなたが山鳩の裂け目と私たちの愛する救い主の刺し貫かれた脇腹にて休んでいることを望みます……私の愛する娘よ、この主はなんと善良な方なのでしょう そのみこころは何と愛に満ちたものなのでしょう この聖なる住まいに留まりましょう (註108)。

117項 同時に、聖フランソア司教は日常生活の聖化に関する教えに忠実に、この経験が私たちの日常生活の活動、仕事、義務のまっただなかに起こることを提案しています。「あなたは私に、祈りのなかで神聖な単純さ、神への完全な委ねに惹かれる魂が あらゆる行動においてどのように振る舞うべきかと尋ねました。私は、祈りだけではなく、日常生活の振る舞いにおいても、彼らは常に単純さの精神で前進し、魂、行動、成果を神の意志に委ね、完全に明け渡すべきだと答えます。そして、完全で絶対的な信頼を特徴とする愛をもって生きることで、神の摂理が彼らに対して感じる永遠の愛の恩寵と配慮に身を委ねます」(註109)。

118項 このため、聖フランソア ド・サル司教は、霊的生活のビジョンを伝えるシンボルを探していたときに、次のように結論づけました。「愛する母よ、もしあなたが同意されるならば、私たちは二本の矢で貫かれた一つの心臓を、茨の冠で包んだものを象徴として採用すべきだと考えました」(註110)。

5.愛の新たなる宣言[109-124項]

119項 この聖フランソア・ド・サル司教の精神の有益な影響のもとで、17世紀末にはパレ・ル・モニアルの出来事が起こりました。聖マルグリット・マリ ・アラコックは、1673年12月末から1675年6月のあいだにキリストの驚くべき出現が続いたと報告しています。これらの出現の根本となったのは、最初の出現のときに際立っていた愛の宣言でした。イエスはこう言いました。「私の聖なるみこころは、人びと、特にあなたへの愛で燃え上がっています。そのため、その熱烈な愛の炎をもはや心の内に収めることができず、あなたを通してその炎を注ぎ出し、人びとに現わさなければなりません。私が、いま、あなたに示すその貴重な宝物で人びとを豊かにするためです」(註111)。

120項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの記述は力強く、深くて感動的です。「イエスは、その愛の驚異と、これまで私に隠していたみこころの不可解な秘密を私に明らかにしました。そして、初めてその秘密を私に明らかにし、非常に印象的で賢明な方法で、私に対して決して疑いの余地を残しませんでした」(註112 その後の出現で、慰めのメッセージが繰り返されました。「イエスは、その純粋な愛の言い表せない驚異と、それが人類を愛するようにイエスを導いた極限を私に明らかにしました」(註113)。

121項 聖マルグリット・マリ ・アラコックが私たちに残してくれたイエス・キリストの愛の力強い理解の仕方は、私たちを彼とのより深い一致へと駆り立てます。彼女の霊的経験のあらゆる報告の詳細を受け容れたり、自分のものにしたりする義務を感じる必要はありません。なぜなら、よくあることですが、神の介入が、個人の願望、関心、内なるイメージに関連した人間的な要素と結びついているからです(註114)。 こうした経験は、常に福音と教会の豊かな霊的伝統の光のなかでこそ解釈されなければなりません。同時に、私たちは、これらの経験が数多くの兄弟姉妹に対して及ぼした影響や成し遂げた善を認め
なければなりません。

 このようにして、私たちは、信仰と愛の経験の内に存在する聖霊のたまものを理解することができるようになります。個々の報告の詳細よりも重要なことは、私たちに伝えられたメッセージの核心のほうなのであり、それは聖マルグリット・マリ・アラコックが聴いた次の言葉に要約できます。「このみこころは、人間を愛したので、愛を示すために、何も惜しまず、空っぽにして消耗することさえしたのです (註115)。

122項 ですから、この出現は、私たちがキリストとの出会いのなかで成長し、彼の愛に完全に信頼を置き、キリストとの完全で決定的な一致に達するように招いています。「イエスの神聖なみこころが何らかの形で私たちの心に取って代わることが必要です。イエスだけが私たちの心のなかで、私たちのために生き、働くことが必要です。彼の意志は……絶対に、私たちの側に何の抵抗もなく働くことが必要です。そして最後に、その愛情、考え、欲求が私たちの愛情、考え、欲求、特に彼の愛に取って代わって、彼が彼自身のみこころのなかで、私たちのために愛されるようになる必要があります。そして、この愛すべきみこころが私たちのすべてであるので、私たちは聖パウロとともに、私たちはもはや自分の人生を生きているのではなく、彼が私たちのなかに生きていると言うことができるようになるのです」(註116)。

123項 聖マルグリット・マリ ・アラコックが最初に受け取ったメッセージでは、この招きは生き生きとした、熱烈な、愛情深い言葉で表現されていました。「主は私の心を求められ、私はそれを受け取るよう頼みました。主はそれを受け取り、それから私をご自身の愛らしいみこころのなかに置き、そこから私の心がご自身の燃える炉で焼き尽くされる小さな原子のように見えるようにしてくださったのです」(註117)。

124項 別の箇所で、私たちにご自身を与えてくださるのは、復活して栄光を受けたキリストであり、いのちと光とに満ちていることがわかります。確かに、キリストはさまざまな場面で、私たちのために耐え忍んだ苦しみと、それに対する恩知らずの対応について語っていましたが、ここで私たちが見るのは、キリストの血や痛ましい傷ではなく、むしろいのちの主の光と火です。受難の傷は消えたのではなく、今や変容したのです。ここで、私たちは過越の秘義の輝きを見ることができます。「かつて、聖体が露出されたとき、イエスは栄光に輝いて現われました。その五つの傷は、彼の神聖な人間性から、そして何よりも燃える炉のようだった彼の愛らしい胸から、たくさんの太陽が燃えているように見えました。彼は衣を開き、その最も愛情深く愛らしいみこころを露わにしました。それがそれらの炎の生きた源でした。その時、私は彼の純粋な愛の言い表せない驚異を発見しました。彼はその愛で人びとを最大限に愛し抜きますが、彼らからは恩知らずな態度と無関心しか受け取れませんでした (註118)。

6.聖クロード・ド・ラ・コロンビエール[125-128項]

125項 聖クロード・ド・ラ・コロンビエールは、聖マルグリット・マリ ・アラコックの経験を知ると、すぐに彼女の弁護を引き受け、出現の話を広め始めました。聖クロードは、みこころに対する信心と、福音の光に照らして眺めたときの意味づけについての理解を深める上で特別な役割を果たしました。

126項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの言葉のいくつかは、よく理解されなければ、私たちの個人的な犠牲や捧げ物に対する過度の信頼を示唆するのかもしれません。聖クロードは、イエスのみこころを真摯に観想することは、自己満足や私たち自身の経験や人間の努力に対するむなしい信頼を引き起こすのではなく、むしろ私たちの人生を平和、安心、決断で満たす、言い表せないほどのキリストへの献身を引き起こすものだと主張しています。彼はこの絶対的な信頼を、有名な祈りのなかで最も雄弁に表現しました。

 「私の神よ、私はあなたに希望を抱く人びとをあなたが見守ってくださり、私たちがあなたにすべてを求めるとき、私たちは何一つ不足することはありません、と確信しています。そのため、私は将来、あらゆる心配から解放されて生き、あらゆる不安をあなたに委ねる決心をしています……私は決して希望を失いません。私は人生の最後の瞬間までそれを持ち続けます。そしてその瞬間、地獄のすべての悪魔が私からそれを奪い取ろうとするでしょう…… 他の人は富や才能に幸福を求めるかもしれないし、他の人は人生の無邪気さ、苦行の厳しさ、施しの額、祈りの熱意に頼るのかもしれません。主よ、私にとっては、あらゆる自信は主への自信そのものなのです。この自信は誰も欺いたことがないものです…… それゆえ、私は永遠に幸福であると確信しています。なぜなら、私はそうすることを固く望んでいるし、神よ、私がそれを望むのはあなたに対してだからなのです (註119)。

127項 1677年1月のメモで、クロードは自分の使命について感じた確信について述べた後で、次のように続けています。「私は、神が私に内密に伝え、その人物のために私の弱さを利用することを望んだ人物に示唆した献身に関する神の望みをかなえることによって、神に仕えることを望んでいるのだと知るようになりました。私はすでにその弱さを利用して何人かの人びとを助けたのです (註120)。

128項 聖クロード・ド・ラ・コロンビエールの霊性は、聖マルグリット・マリ ・アラコックの深く感動的な霊的経験と、聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操に見られる鮮明で具体的な観想形態との見事な統合をもたらしたことを理解すべきでしょう。霊操の三週目の初めに、聖クロードは次のように回想しています。「二つのことが私を感動させました。

 第一に、キリストを捕らえようとした人びとに対するキリストの態度です。彼の心は苦い悲しみに満ちています。あらゆる激しい情熱が彼に対して解き放たれ、自然界全体が混乱しています。しかし、このあらゆる混乱やあらゆる誘惑のなかで、彼の心はしっかりと神に向けられたままでした。彼は最高の徳が彼に示唆した役割をためらうことなく担います。

 第二に、彼を裏切ったユダ、卑怯にも彼を見捨てた使徒たち、彼が受けた迫害の責任者である祭司たち、その他の人びとに対する偏りのない心を保った一貫性のある態度です。これらのことは どれも彼のみこころにおいては憎しみや憤りの感情をみじんも呼び起こすことができなかったのです こうして、キリストのみこころを垣間見た私は怒りや苦々しさから解放され、その代わりに敵に対する真の同情心で満たされて、キリストのみこころ対して新たに自分自身を差し出せるようになるのです (註121)。

7.聖シャール・ド・フーコー(シャルル・ド・フコー)と幼きイエスの聖テレーズ[129項]

129項 聖シャ ル・ド・フーコーと幼きイエスの聖テレーズは、意図せずして、キリストのみこころに対する信心の特定の側面を再構築し、それによって私たちがそれをさらに福音主義的な精神で理解するのを助けました。それでは、この信心が彼らの人生において一体どのように表現されたのかを眺めてみましょう。次の章では、彼らの生き方に戻り、彼らがそれぞれ信心にもたらした独特な宣教的な側面を説明します。

1 イエスのカリタス(実践的な慈愛)[130-132項]

130項 ルイエでは、聖シャ ル・ド・フーコーは従妹のマリー・ド・ボンディと一緒に聖体拝領に行くのが習慣でした。ある日、彼女はみこころの御像を彼に見せました。(註122 )。従妹は聖シャ ルの改宗において基本的な役割を果たしました。彼自身も認めています。「神はあなたを私に対する慈悲の最初の道具にされました。あなたから他のすべてが始まりました。もしも、あなたが私を回心させ、イエスのもとに導き、少しずつ、一字一句、聖なる善なるものをすべて教えてくれなかったとしたら、私はいまごろどうなっていたでしょうか (註123 )。

 マリーが彼の心のなかに目覚めさせたのは、イエスの愛に対する強い自覚でした。それが本質的なことであり、イエスのみこころに対する献身を中心としており、その経験において彼は限りない慈悲に出合いました。「あなたが私にそのみこころを知らせてくださったお方の限りない慈悲を信頼しましょう」(註124)。

131項 後に、彼の霊的指導者であるアンリ・ユヴラン神父は、聖シャ ルが「あなたが何度も私に語ってくれた この祝福されたみこころ」の計り知れない秘義に対する理解を深めるのを助けました(註125)。 1889年6月6日、聖シャ ルはみこころに献身し、その経験において限りない愛を見つけました。彼はキリストに対してこう言いました。「あなたは私に数多くの恩恵を与えてくださいました。あなたのみこころはどんなに偉大なものでも私にあらゆる善を与えようとしており、あなたの愛と寛大さとは無限であると信じないのは、あなたのみこころに対する恩知らずとしか思えません」(註126)。 彼は「イエスのみこころの名のもとに」隠者になることになっていました(註127)。

132項 1906年5月17日、聖シャ ル兄弟だけがミサを捧げることができなくなったその日に、彼は「イエスのみこころを私の心のなかに住まわせ、もはや私が生きるのではなく、ナザレでイエスが生きていたように、私の心のなかにイエスのみこころが生きるようにする」という約束を書きました(註128 イエスとの心からの友情は、私的な信心深さとはほど遠いものでした。何よりもキリストにならいたいと願う気持ちから生まれた感慨は、ナザレでの彼の禁欲的な生活に影響を与えました。イエスのみこころに対する彼の愛情深い信心は、彼の生活様式に具体的な影響を及ぼし、彼のナザレはキリストのみこころと
の個人的な関係によって育まれました。

2 幼きイエスの聖テレーズ[133-142項]

133項 聖シャ ル・ド・フーコーと同様に、幼きイエスの聖テレーズも、19 世紀フランスを席巻した信仰の大きな刷新の影響を受けました。彼女の家族の霊的指導者であった司祭のアルミール・ピション師は、みこころの熱心な使徒とみなされていました。彼女の姉妹の一人は、修道生活の際に みこころのマリー姉妹」という名前を名乗り、聖テレーズ勢は、当時の慣習的な信心深さとは対照的に、ある独特の特徴を帯びていました。

134項 聖テレーズは 15 歳のとき、イエスを「私の心と調和して鼓動する方です」と表現することができました(註129 。その二年後、彼女はイバラの冠をかぶったキリストの心臓のイメージについて、手紙のなかでこう書いています。「あなたもご存知のように、私自身はみこころを他の人と同じようには見ていません。私の心のなかが彼の心臓だけで占められているように、私の花婿の心臓もまた私のものだと私は思っています。そして、この愉しい心と心とのつながりの孤独のなかで、私は彼に語りかけ、いつの日か彼と顔を)。合わせて観想することを待ち望むのです (註130)。

135項 彼女の詩の一つで、聖テレーズは彼女の献身の意味を表明しましたが、それは彼女の犠牲に対する信頼よりも、友情と確信に関わっていました。「私には優しさに燃える心が必要です。永遠に私の支えとなる心、私の弱ささえも愛してくれる心……そして昼も夜も決して私から離れない心……私の本性を引き受け、私の兄弟となり、苦しむことができる神が私には必要です……ああ 私はよく知っています、私たちの正義はみなあなたの目には無価値であるということを……ですから私は、煉獄の霊魂のために、あなたの燃えるような愛を選びます、神のみこころよ」(註131)。

136項 おそらく、聖テレーズがキリストのみこころに傾倒していたことを理解するうえで最も重要な文章は、彼女が死の三ヶ月前に友人のモーリス・ベリエールに書いた手紙でしょう。「マグダラの聖マリアが大勢の客たちの前を歩き、初めて触れる敬愛する主の足を涙で洗うのを見ると、彼女の心はイエスのみこころの愛と慈悲の深淵を理解したのだと感じます。そして、彼女が罪びとであったにもかかわらず、この愛の心は彼女をゆるすだけではなく、神の親密さの恵みを惜しみなく与え、彼女を観想の最高の頂点に引き上げようとしたのです。ああ 親愛なる兄弟よ、私にもイエスのみこころの愛を理解する恵み
を与えられたので、それが私の心からあらゆる恐れを消し去ったことを認めます。私の過ちを思い出すと、私は謙虚になり、弱い者にしか過ぎない私の強さに頼らなくなるのですが、この思い出は私にさらに慈悲と愛を語るものなのです (註132)。

137項 神の慈悲と恩寵とを厳しく抑制しようとする道徳家は、聖テレーズは聖人だからそう言えるが、単純な人間には同じことは言えないと主張するかもしれない。そのようにして、彼らは聖テレーズの霊性から、福音の核心を反映するその素晴らしい独創性を排除するのです。残念なことに、一部のキリスト教界では、すべてを自分たちの監視下に置くことができるように、聖霊をある特定の先入観に当てはめようとする試みにしばしば遭遇するものです。しかし、この賢明な教会博士は彼らを沈黙させ、次の明確な言葉で彼らの単純化された見解に真っ向から反論するのです。「私が考えられるすべての犯罪を犯し
たとしても、私は常に同じ自信を持っていただろう。この無数の罪は、火の燃える炉に投)。げ込まれた一滴の水のようなものだと感じるからです (註133)。

138項 殉教さえも受け容れる覚悟で神への寛大な愛を称えたマリー修道女に、聖テレーズは長文の手紙で応答しましたが、それこそ霊性の歴史における偉大な里程標 マイルストーン の一つなのです。この手紙は、深さ、明快さ、美しさのゆえに、何千回も読む必要があります。ここで聖テレーズは、姉妹である「みこころのマリー」が、この信心を理解する際にもっぱら苦しみに集中しないように助けています。なぜなら、 主に犠牲と善行の積み重ねを捧げるように」という償いを指示した人もいるからです。

 一方、聖テレーズは、信頼こそがキリストのみこころに喜ばれる最大かつ最良の捧げものであるのだと述べています。「殉教への私の願いは無意味です。それは、私が心に感じる限りない信頼を与えるものではありません。実を言うと 自己満足で安住し、それらが何か偉大なものだと信じるとき、人を不当な状態に追い込む、精神的な富なのです…… [イエス]を喜ばせるのは、私が自分の小ささや貧しさを愛し、彼の慈悲に盲目的に希望を抱いているのを彼が見るときだけです……それが私の唯一の宝なのです…… 喜びを感じたいというなら そして苦しみに惹かれたいなら、それがあなたが求めている慰めなのですが…… 彼の愛の犠牲者になるには、欲望や美徳のない弱い人ほど、この消費し変革する愛の働きに適しているということを理解してください……ああ 私が感じていることをあなたに理解してもらいたいです……私たちを愛に導くのは自信であり、自信以外の何ものでもありません」(註134)。

139項 聖テレーズは、数多くの著作のなかで、人間の努力、個人の功績、犠牲を捧げて「天国を勝ち取る」ための特定の行為を実行することに過度に重点を置いた霊性の形との闘いについて語っています。彼女にとって、「功績とは、多くをなすことや与えることではなく、むしろ受け取ることにあるのです (註135 。彼女がこの点を強調し、それを「主のみこころ」をつかむ簡単で素早い方法として示している、意味深い文章のいくつかをもう一度読んでみましょう。

140項 妹のレオニーに宛てて、彼女はこう書いています。「私はあなたが信じているよりも、神はずっと善良な方だと断言します。神は一瞥だけで つまり愛のため息だけで満足されます。……私にとっては、完璧さを実践するのはとても簡単です。なぜなら、それはイエスのみこころをつかむことだけだと理解しているからです。……たったいま母親を困らせたばかりの小さな子どもを見てください。……もし彼が母親のところにやって来て、小さな腕を広げ、微笑みながら、「キスして、もう二度としないから」と言ったとしたら、母親はひたすら優しく彼を胸に抱き寄せるだけで、子どもじみたいたずらを思わず忘れ去るはずでしょう。しかし、彼女は愛する子どもが次にまた同じことをすることを知ってはいますが、そのようなことは決して問題にはなりません。彼がもう一度彼女の心をつかめば、罰は受けないでしょうから (註136)。

141項 また、アドルフ・ルーラン師に宛てた手紙において、彼女はこう書いています。「私の道は信頼と愛です。このように優しい友を恐れる魂が理解できません。時には、無数の障がいを通して完全性が示されている精神的な論文を、たくさんの幻想に囲まれて読んでいると、私の貧しい小さな心はすぐに疲れてしまいます。頭を悩ませ、心を枯らすような学術書を閉じて、聖書を読みます。すると、すべてが私には明るく見えます。一言で私の魂に無限の地平が開かれ、完全性は私にとっては単純なものに思えてきます。自分の無価値さを認め、まるで子どものように神の腕に身を委ねるだけで十分なのだとわかり
ます」(註137)。

142項 さらに別の手紙では、彼女はこれを親の示す愛に関連づけて こう書いています。「父親の心が、子どもの誠実さと愛とを知っている子どもの親孝行の信頼に抵抗できるとは思えません。しかし、彼は息子が同じ過ちを何度も犯すだろうと理解してはいるが、息子がいつも彼を心から受け容れるなら、いつでもゆるす用意がある」(註138)。

 

8.イエズス会内部での共鳴[143-147項]

143項 これまで、聖クロード・ド・ラ・コロンビエールが聖マルグリット・マリ ・アラコックの霊的経験と霊操の目的とをどのように組み合わせたかを見てきました。こうしてイエズス会の歴史におけるみこころの位置については、少しだけ触れておく価値があると思います。

144項 イエズス会の霊性は常に「主をより完全に愛して、従うために、主を内なる知識で知る」ことを提案してきました(註139)。 聖イグナチオは霊操において、私たちに「[キリストの]脇腹は槍で刺され、血と水が流れ出た」と語る福音書の前に立つよう勧めています(註140 十字架にかけられた主の傷ついたわき腹を黙想する時、聖イグナチオは彼らがキリストのみこころに入ることを示唆しています。このようにして、私たちには自分の心を広げる方法があります。これは、聖ピエール・ファーヴルが聖イグナチオに宛てた手紙のなかで述べた「愛情の達人」であった人物によって勧められたものです(註141)。
 フアン・アルフォンソ・デ・ポランコ神父は、聖イグナチオの伝記のなかで同じ表現を繰り返しています。「彼(ガスパロ・コンタリーニ枢機卿)は、イグナチオ師のなかに入ることで愛情の達人に出会ったことに気づいたのです」(註142 )。聖イグナチオが提案した対話は、この心の訓練に不可欠な部分です。なぜなら、対話のなかで私たちは福音のメッセージを心で感じ、味わい、それについて主と話し合うからです。聖イグナチオは、私たちが自分の懸念を主と共有し、助言を求めることができると語っています。この修練に従う人なら誰でも、それが心と心の対話であることをすぐに理解できるようになります。

145項 聖イグナチオは十字架の足元で観想を最高潮に高め、十字架につけられた主に「友として、主人に対する召使いとして」、自分のために何をしてくださるのかを深い愛情をもって尋ねるよう、黙想者を招きます(註143) 。こうして修練が進行するにつれて「愛を得るための観想」で最高潮に達します。この観想は感謝を生み、あらゆる善の源泉であり起源であるみこころに「記憶、理解、意志」を捧げます(註144)。 この内なる観想は、決して理解と努力の成果などではなく、むしろたまものとして懇願されるべきものです。

146項 この同じ経験は、イエスのみこころについてはっきりと語ったイエズス会の司祭たちの偉大な後継者たちに霊的なひらめきを与えました。聖フランシスコ・ボルジア、聖ピエール・ファーヴル、聖アルフォンソ・ロドリゲス、アルバレス・デ・パス師、ヴィンツェンツォ・カラファ師 カスパー・ドルズビツキ師 Kasper Drużbicki 、その他数え切れ​​ないほどの人たちです。1883年、イエズス会は「イエズス会は、私たちの主イエス・キリストから託された、神のみこころへの信心を実践し、促進し、広めるという最も喜ばしい義務を、あふれる喜びと感謝の精神で受け容れ、受け留めます」と宣言しました(註
145 1871年9月、ピーテル・ヤン・ベックス師は、イエスのみこころに会を奉献しました。

 そして、それが会の生活のなかで傑出した要素であり続けることのしるしとして、ペドロ・アルペ師は1972年に奉献を更新しました。その際、アルぺ師は次のような確信を述べました。「それゆえ、私は、黙っていられないと感じていることを会に伝えたいと思います。私は修練期の頃から、みこころに対する信心と呼ばれるものは、聖イグナチオの霊性の最も深遠なものの象徴的な表現であり、それ自体の完成度と使徒的な実りとの両面において並外れた効力(超越的な効力)を備えていると常に確信してきました。私はこの同じ確信を持ち続けています……この信心において、私は自分の内的生活の最も深い源泉の一つに出会います」(註146)。

147項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世が「この信心は、私たちの時代の期待にこれまで以上に応えている」と述べて「会衆全員に、さらに熱心にこの信心を推進するよう」促したのは、キリストのみこころに対する信心と聖イグナチオの霊性とのあいだに深いつながりがあることを理解していたからです。「『主を深く知る』こと、そして主と心と心とで『対話する』ことへの欲求は、霊操の鍛錬の積み重ねによって聖イグナチオの霊的で使徒的なダイナミズムの特徴であり、このダイナミズムは完全に神のみこころの愛に奉仕している」からなのです(註147)。

 

9.内面的な生活の幅広い流れ[148-150項]

148. キリストのみこころに対する信心は、おたがいにまったく異なる数多くの聖人の霊的な旅路に再び現われ、その信心は一人ひとりにおいて新たな色合いを帯びるものです。たとえば、聖ヴァンサン・ド・ポールは、神が望んでいるのは心だとよく言っていました。「神がまず求めているのは、私たちの心です。大切なのは心です。富を持たない人が、多くの財産を手放す人よりも、なぜ大きな功績を持つのでしょうか。それは、何も持たない人のほうが、より大きな愛をもってそれをするからです。そして、神は特にそれを望んでおられるのです…… (註148 )これは、自分の心をキリストのみこころと一つにするこ
とを意味しています。「シスターが自分の心を主のみこころと一つにするために最善を尽くすなら、神からどんな祝福を期待しないでいられるでしょうか」(註149)。

149項 時には、この愛の秘義を過去の素晴らしい遺物のように あるいは他の時代にふさわしい素晴らしい霊性として考えたくなるかもしれません。しかし、ある聖なる宣教師がかつて言ったように、「敵の槍に突き刺され、その聖なる傷から教会を形成した秘跡を注ぎ出したこの神聖なみこころは、決して愛することをやめたことがない」ということを、私たちは常に思い起こす必要があります(註150 )。ピエトレルチーナの聖ピオ、カルカッタの聖テレサなど、最近の聖人たちは、キリストのみこころに対しての深い信心をもって語っています。

 ここで、復活した主の栄光ある生涯とその神のいつくしみを大いに強調することにより、キリストのみこころに対する信心を改めて提案している聖ファウスティナ・コヴァルスカの経験についても触れておきたいと思います。彼女の経験と聖ヨゼフ・セバスティアン・ペルチャール 1842 1924年 の精神的な遺産とに触発されて(註151 )。教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、神のいつくしみについての考察をキリストのみこころへの信心と密接に結びつけて次のように語っています。「教会が、キリストのみこころに自らを向けるとき、独特の方法で神のいつくしみを告白し、それを崇敬しているように思われます。実際に、まさにこのキリストのみこころの秘義においてキリストに近づくことによって、御父のいつくしみ深い愛の啓示ということがらに深く入ることができるのです。この啓示は、人の子の救世主としての使命の中心的な内容をなすものでした」(註152)。 教皇聖ヨハネ・パウロ2世はまた、みこころについて非常に個人的な言葉で語り、「みこころは私が若い頃からずっと私に語りかけてきた」と認めています(註153)。

150項 キリストのみこころに対する信心を永続的に続けるべき重要性とは、キリストの探究とも関連性のある信心を深めることから始まった数多くの男女の修道会によって行われた福音宣教と教育の活動において特に明らかです。それらの活動の名称をすべて挙げるのは果てしない仕事です。ここではランダムに選んだ二つの例だけを考えてみましょう。「創立者[聖ダニエル・コンボニ]は、イエスのみこころの秘義において宣教の使命の強さの源泉を発見しました」(註154)。「私たちはイエスのみこころの願いに心を引き寄せられつつ あらゆる人びとが人間として、そして神の子として尊厳をもって成長することを望みます。私たちの出発点は福音であり、福音が私たちに求める愛、ゆるし、正義、そして貧しく生きることを余儀なくされて世に拒絶された人びととの連帯を生きるのです」(註155)。

 同様に、キリストのみこころに捧げられた世界中の数多くの聖地は、祈りと精神的な熱意の印象的な再生の源であり続けています。これらの信心と慈善の場と何らかの形で関わっているあらゆる人に、私
は父としての祝福を送ります。

 

 

10.慰めの信心[151項]

151項 キリストの脇腹の傷は生ける水の源であり、復活した救い主のからだのなかに開いたままです。槍で負わされた深い傷と、みこころの表現によく見られるイバラの冠の傷は、この信心の切り離せない部分であり、私たちはその雰囲気のなかで、最後まで自らを犠牲として捧げたキリストの愛を黙想するのです。復活した主のみこころは、私たちのために激しい苦しみを伴う、その完全な自己の明け渡しのしるしを保っています。ですから、キリスト者があふれ出る愛だけではなく、主が愛のゆえに耐えることを選んだ苦しみにも応えたいと思うのは当然なことなのです。

 

1 十字架上のイエスとともに[152-153項]

152項 キリストのみこころに対する信心に伴って発達してきた霊性の特定の側面について、すなわち、キリストのみこころに慰めを与えたいという心の内なる願いについて、ここで再び採り上げるのは適切なことです。ここでは「償い」の実践については論じません。それは、次の章で論じるこの信心の社会的な側面で扱うほうがふさわしいと私が考えているからです。むしろ、私はキリストの受難の秘義を愛情深く見つめて、それを思い出すだけではなく、神の恵みによって私たちの前に現われる秘義として、あるいはもっと詳しく言うとするならば、私たちが贖いの瞬間に秘義的な意味で立ち会えるようにしてくれ
る奥深さとして経験するキリスト者たちの心にしばしば感じられる欲求に焦点を当てたいと思います。私たちが本当に主を愛しているなら、どうして主を慰めたいと思わないでいられるでしょうか。

153項 教皇ピウス11世は、キリストの受難による私たちの贖いの秘義は、神の恵みによって、時間と空間のあらゆる境界を超越するという理解の仕方に、この特別な信心を根づかせたいと考えました。十字架上でのイエスは、この社会でこれから犯される罪も含めて そして私たち自身の罪をも含めて あらゆる罪のためにご自身を捧げました。同じように、私たちがいま、イエスの慰めのために捧げる行為も、時間を超えて、イエスの傷ついた心に触れます。「もし、私たちの罪のために、まだ未来ではあるが、すでに予見されていたイエスの魂が死に至るまで悲しみに暮れたのなら、同時に、同じように予見されて
いた私たちの償いから、イエスがいくらかの慰めを得たことは疑いようがありません。それは『天使が天から現れた』とき(ルカ22:43 、疲労と苦悩によって圧迫されていたイエスのみこころにおいて慰めを見いだすためでした。そして、いまでさえ、私たちは恩知らずな人びとの罪によって絶えず傷つけられているあの最も聖なるみこころを、驚くべき、しかし真実な方法で慰めることができるし、そうすべきなのです」(註156)。

 

2 心の意味合い[154項]

154項 これまで述べてきた、みこころに対する信心には、堅固な神学的根拠が欠けているように思われる人もいるかもしれませんが、心を主題にすることにはそれなりの理由があります。キリストの受難は決して過去の出来事であるにとどまらず むしろ信仰を通して私たちが共有できるものであると悟ることができるからです。十字架上でのキリストの自己奉献についての黙想は、キリスト教における信心深さにとって、単なる記憶以上のものを含みます。この確信は、しっかりとした神学的根拠を備えています(註157)。 また、心臓の破れを眺めることで、あのイエスが傷ついたその肩に負ってくださった私たち自身の罪と、常に無限に偉大な永遠の愛の前での私たちの不十分さを理解できるようになることも加えることができます。

155項 それから、死から復活し栄光のうちに君臨するいのちの主に祈りながら、同時に彼の苦しみのまっただなかにまします彼を慰めるには一体どうすればよいのか、という疑問も生じてきます。ここで私たちは、彼の復活した心がその傷を、決して色あせることのない鮮明な記憶として保持していること、そして恵みの働きが、過去の一瞬に限定されない、という永続的な経験を可能にすることをも理解する必要があります。このことを熟考するにつけて、私たちは、精神的な限界を超えながらも神のことばにしっかりと根ざした秘義的な道を歩むよう招かれていることに気づかされます。

 教皇ピウス11世は、このことを明確に述べています。「キリストがすでに天国の至福のなかで君臨しているいま、これらの償いの行為が一体どのようにして慰めを与えることができるのでしょうか。この質問に対して、ここでは非常に適切な聖アウグスティヌスの言葉で答えることができます。「愛する者を私に与えてください。そうすれば、私の言うことを理解するようになるでしょう」 神への大きな愛をいだき、過去を振り返る人は誰でも、キリストについて瞑想し、キリストが人びとのために働き、悲しみ、最大の苦難に耐え、「私たち人間のため、私たちの救いのために」、悲しみと苦悩でほとんど疲れ果て、いや、「私たちの罪のために傷つけられ」(イザヤ53:5 たことを黙想することを、聖アウグスティヌスは勧めるのです。

156項 教皇ピウス11世の言葉は真剣に考えるだけの価値があります。聖書が、信仰に従って生きない者は「神の子を再び十字架につけている」(ヘブライ6:6)と述べているとき、または聖パウロが他の人のために苦しみを捧げて「キリストの苦しみの欠けたところを、私の肉において補っている」(コロサイ1:24)と述べているとき、あるいはキリストが受難のなかで当時の弟子たちだけではなく、「彼らの言葉によって私を信じる人びと (ヨハネ17:20)のためにも祈ったとき、これらすべての言葉は私たちの通常の考え方に対して挑戦します。

 それらは、私たちの心がこれを理解するのがいかに困難であっても、過去と現在とを完全に切り離すことはできないという事実を示しているのです。福音書は内容の充実した豊かさによって、深い瞑想の祈りを究めるためだけではなく、愛のわざと内なる生活とがつながっているという現実を経験できるようにするためにも書かれました。このことは特にキリストの死と復活の秘義について、確かに当てはまります。私たちが通常用いている時間的な区別の感覚では、信仰経験の豊かさを心のなかに含み込むことができないのです。信仰経験はキリストの受難と復活という両面を私たちに実感させます。つまり第一にキリストの苦しみをおもうときの私たちとキリストとの心の一致を実感させるとともに 第二にキリストの復活のいのちにおいて私たちがキリストとともに受け容れる強さや慰めや友情をも実感させるのです。

157項 ですから、私たちは、この切り離すことのできない、おたがいに豊かにし合う二つの側面に、過越の秘義の統一性を見出だします。これら二つの次元において 恵みによって存在するただ一つの秘義は、私たちがキリストの慰めのために自分の苦しみを捧げるときに、その苦しみがキリストの愛の過越の光のなかで照らされて変容することを保証するのです。私たちは、キリスト自身がまずいのちにあずかることを選んでくださったことを出発点として その歩みをたどることで自分たちのいのちにおいてもこの秘義にあずかることができるようになったのです。イエスは、頭として、そのからだである教会で経
験することになるものを、すなわち私たちの傷と慰めの両方をまず経験したいと望んでいました。私たちが神の恵みのなかで生きるときに、この相互の分かち合いは私たちにとって霊的な経験となります。

 一言で言えば、復活した主は、その恵みの働きによって、私たちを秘義の状態に招きつつご自分の受難と結びつけるのです。復活の喜びを経験しながらも、同時に主の受難にあずかりたいと願うキリスト者の心は、このことを理解しています。彼らは、自分たちの生活の一部である苦しみ、闘争、失望、恐れを主に捧げることで、主の苦しみにあずかりたいと願っています。また、彼らはこれを決して孤立した個人として経験しているわけではありません。なぜなら、彼らの苦しみは、あらゆる時代と場所でキリストの受難にあずかるキリストの秘義に満たされたからだ つまり神の聖なる巡礼の民の苦しみにもあずかることだからです。したがって、慰めをもたらす信心は、決して非歴史的なものでもありませんし、しかも抽象的なものでもありません。慰めをもたらす信心は、壮大な歴史の流れをたどりなおす教会の巡礼において、血肉となるのです。

 

 

3 悔い改め[158-160項]

158項 キリストを慰めたいという、ごく自然な望みは、キリストが私たちのために耐え忍んだことを思い巡らす悲しみから始まり、私たちの悪い習慣、強迫観念、執着、弱い信仰、むなしい目標、そして実際の罪とともに、主の愛と人生に対する主の計画に応えられない私たちの心の失敗を正直に認めることで、ますます大きくなります。この経験には浄化作用があります。なぜなら、愛が深まるためには涙による浄化が必要であり、その結果、私たちは神への欲求が高まり、自分自身への執着が薄れるからです。

159項 このように、主を慰めたいという私たちの望みが深まれば深まるほど、私たちの真摯な「悔い改め」の感覚もまた深まることがわかります。悔い改めとは、「私たちを落胆させたり、自分の無価値さに執着させる罪悪感でなどはなく、むしろ心を浄化しつついやす有益な『刺し貫くこと』なのです。罪を認めれば、聖霊の働きに心を開くことができます。聖霊は、私たちの心の底から湧き上がり、目に涙をもたらす生ける水の源なので……これは、私たちがしばしば誘われるような、自己憐憫の状況で泣くことなどではありません……良心の呵責の涙を流すということは、自分の罪によって神を悲しませたこと
を真剣に悔い改めることを意味します。私たちが常に神に対して借りがあることを理解することなのです……水滴が石をすり減らすように、涙は固くなった心をゆっくりと和らげることができます。ここに悲しみの奇跡、つまり大らかな平安をもたらす「有益な悲しみ」が見受けられます……ですから、良心の呵責は私たちによる行いなのではなく、むしろ神のほうから与えられる恵みなのであり、それゆえに祈りのなかで求めなければなりません」(註159) 。

 悔い改めとは、「キリストの悲しみとともに悲しみを求め、キリストの苦悩とともに苦悩を求め、キリストが私のために堪え忍んだ大きな苦痛に対する涙と深い痛みの感覚を求める」ことを意味するのです(註160)。

160項 ですから、神の聖なる忠実な民の熱心な信心を決して軽視しないようにお願いいたします。民衆の信心深さは キリストを慰めようと努めるものなのです。また、主を慰めようとする愛の表現には、より思慮深く、洗練され、成熟した信仰を持っていると主張する人びとが時々行う、冷たく、よそよそしく、打算的で、名ばかりの愛の行為よりも、はるかに大きな合理性を備えているばかりではなく、真実性や知恵が宿っているのではないか、と皆が考えるように勧めます。

 

 

4 他人を慰めることが自分自身を慰めることにつながる[161-163項]

161項 単にキリストのみこころを思い出すだけではなく さらに、死を前にして自らを明け渡して捧げ尽くしたキリストの姿を思い巡らすことで、私たち自身も大きな慰めを見出します。私たちが心のなかで感じる悲しみは完全な信頼に変わり、最終的に残るのは感謝、優しさ、平和なのです。残るのは私たちの生活を支えつつ配慮するキリストの愛なのです。ですから、悔い改めは「不安の源ではなく、魂のいやしの源です。悔い改めは罪の傷に塗る軟膏として働き、主の愛撫を受ける準備を整えてくれるからです」(註161) 。

 私たちの苦しみは十字架上のキリストの苦しみと結びついています。恵みがあらゆる距離を橋渡しできると信じるなら、これはキリストがご自身の苦しみによって、あらゆる時代と場所の弟子たちの苦しみと結びついたことを意味します。このように、私たちが苦しみに耐えるときはいつでも、キリストが私たちとともに苦しんでくださることを知ることで、内なる慰めを経験することもできます。キリストを慰めようと努めることで、私たち自身も慰められるでしょう。

162項 しかし、ある時点で、私たちは観想において、主の切実な願いをも聴くべきです。「慰めよ、わが民を慰めよ」(イザヤ40:1)。聖パウロが言うように、神は私たちに慰めを与えてくださり、「私たち自身が神から慰められているように、いかなる苦しみのなかにいる人をも慰めることができるように」(コリント人への手紙二1:4)慰めを与えてくださいます。

163項 私たちはキリストのみこころへの真の献身の共同体的、社会的、宣教的な側面をより深く理解するよう求められています。キリストのみこころは私たちを御父のもとへ導くと同時に、私たちを兄弟姉妹のもとへ送り出すからです。キリストのみこころが私たちの生活にもたらす奉仕、友愛、宣教の果実において、御父の意志は成就されます。このようにして、私たちは御父に立ち帰ります。「あなたがたが多くの実を結ぶことによって、私の父は栄光をお受けになるのです (ヨハネ15:8)。

 

第5章 愛のための愛[164項]

164項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの霊的経験において、私たちはイエス・キリストへの熱烈な愛の宣言とともに、私たちの人生を主に委ねるという、非常に個人的で挑戦的な招きに出会います。私たちが愛されているという認識と、その愛に対する完全な信頼は、私たちの弱さや数多くの欠点にもかかわらず、寛大に応えたいという私たちの願いを決して弱めるものではありません。

 

1.嘆きと願い[165-166項]

165項 聖マルグリット・マリ ・アラコックに対する二度目の偉大な出現から、イエスは人類に対する彼の偉大な愛が「恩知らずと無関心」、「冷淡と軽蔑」と引き換えに受けた悲しみについて語りました。そして、「私が受難で耐えたあらゆることよりも私にとって悲しいことです」と付け加えました(註162)。

166項 イエスは愛への渇きについて語り、その渇きに私たちがどう反応するかについて彼の心は無関心ではないことを明らかにしました。彼の言葉によれば、「私は渇いています。しかし、それは聖体において人びとに愛されることへの熱烈な渇きであり、この渇きが私を蝕んでいます。そして、私の渇きを癒し、私の愛に報いてくれるような、私の望みどおりの努力をする人に出会ったことがありません」(註163 )。イエスは愛を求めます。信仰深い心がこれを悟ると、その自発的な反応は愛の反応となり、犠牲を増やしたり、単に重荷となる義務を果たしたりしたいという願望ではなくなります。「私は神から、その愛の恵みを惜しみなく受け、その一部に応え、愛に対して愛をもって応えたいという願望に動かされました (註164)。 私にとって、イエスのみこころを重んじた前任者であった教皇レオ13世が指摘したように、キリストの愛は「愛に愛で応えるよう私たちを動かす」のです(註165)。

 

2.キリストの愛を兄弟姉妹に広める[167-171項]

167項 私たちはもう一度 神のことばを受け容れて、キリストのみこころの愛に対する最善の応答が兄弟姉妹を愛することであることを理解する必要があります。愛に対して愛で応えるには、これより優れた方法はありません。聖書はこれを明白に示しています。私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしてくれたことなのです」(マタイ25:40)。「律法全体は、この一つの戒めに要約される。『隣人を自分自身のように愛しなさい』」(ガラテヤ5:14)。「私たちは、互いに愛し合っているからこそ、死からいのちに移ったことを知っています。愛さない者は死のなかにとどまっています」(ヨハネ第一 3:14)。「目に見える兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することはできません」(ヨハネ第一 4:20)。

168項 兄弟姉妹に対する愛は、単に私たち自身の努力の結果ではありません。利己的な心を変えることが必要です。この認識から、「イエス様、私たちの心をあなたのみこころと同じものにしてください」という、よく繰り返される祈りが生まれました。一方、聖パウロは、聴衆に、善行を行う力を求めるのではなく、「キリスト・イエスにあって同じ思いをあなた方のあいだでいだくように」祈るよう勧めました(フィリピ 2:5)169項 ローマ帝国では、社会の周縁に住んでいた貧しい人、外国人、その他の数多くの人びとが、キリスト者から尊敬や愛情や気遣いを受けていたことを忘れてはなりません
。これは、背教した皇帝ユリアヌスが、手紙のなかで、キリスト者が尊敬され、模倣される理由の一つは、通常は無視されたり軽蔑されている貧しい人びとや外国人たちを彼らが援助したことであると認めた根拠を説明しています。皇帝ユリアヌスにとって、彼が軽蔑していたキリスト者が「自分たちの仲間を養うことに加えて、私たちからの援助を受けていない私たちの貧しい人びとや困窮者にも食事を与えている」ことは耐え難いことでした(註166)。

 したがって、皇帝は、キリスト者の慈善団体と競争し、社会の尊敬を得るために慈善団体を設立する必要があると主張しました。「移民が私たちの慈善活動を享受できるように、各都市に数多くの宿泊施設を設立する必要があります……そして、ギリシア人がそのような寛大な活動に慣れるようにしたいものです (註167 。皇帝ユリアヌスが目的を達成することができなかったのは、それらの活動の根底に、各人の独自の尊厳を尊重するキリスト教の慈善活動に匹敵するものがなかったためであることは間違いありません。

170項 社会の最下層の人びとと交わることで(マタイ25:31-46参照)、イエスはあらゆる人、特に「価値がない」とみなされていた人びとの尊厳を認めるという、人生における偉大な新機軸をもたらしました。人間の歴史におけるこの新しい原則は、個人が弱く、軽蔑され、苦しみ、人間の「姿」を失うときにこそ、私たちの尊敬と愛にさらに「値する」ことを強調し、世界の様相を変えました。この原則は、捨てられた乳児、孤児、支援を受けられずにいる高齢者、精神病患者、不治の病や重度の障がいを持つ人びと、路上生活者など、恵まれない状況にある人びとをケアする施設にいのちを吹き込みました(註168

171項 「私たちの弱さを負い、私たちの病を負われた」(マタイ8:17)、主の刺し貫かれた心を思い巡らすと、私たちも他の人の苦しみや必要にもっと注意を払うように促され、主の愛を広める道具として主の解放の働きに加わる努力を強められます(註169 。あらゆる人のためにキリストが自らを捧げられたことを黙想すると、なぜ私たちも他の人のためにいのちを捧げる覚悟をすべきではないのかと自問するようになります。「キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことにより、私たちは愛を知りました。ですから、私たちもおたがいのためにいのちを捨てるべきです」(ヨハネの手紙一3:16)

 

 

3.霊性の歴史における響き合い[172項]

172項 イエスのみこころに対する献身と兄弟姉妹に対する献身との結びつきは、キリスト教の霊性の歴史において決して変わることなく保たれ続けたものでした。これから、いくつかの例を考えてみましょう。

 

1 他者が飲むことができるような泉を掘り起こす[173-176項]

173項 オリゲネスに始まり、教会のさまざまな教父たちはヨハネ7:38の「その心から生ける水の川が流れ出る」という言葉について熟考しました。これはキリストを飲み、キリストに信仰の基礎を置いた人びとについて述べています。キリストとの私たちの結びつきは、私たち自身の渇きを満たすためだけではなく、他の人びとにとっての生ける水の泉となるためでもあるわけです。オリゲネスは、キリストが私たちの心のなかに新鮮な水の泉を湧き出させることによって約束を果たしたと書いています。「神のかたちに造られた人間の魂は、それ自体が井戸、泉、川を含み、豊かな水を注ぎ出すことができます」(註
170】。

174項 聖アンブロジウスは、「永遠のいのちに至る水の泉があなたのなかであふれ出るようになるため」、キリストから深く飲むことを勧めました(註171)。 マリウス・ヴィクトリヌスは、聖霊が自分自身を豊かに与えたので、「彼を受け容れる人は誰でも生ける水の川を注ぐ心となる」と確信していました(註172 )。聖アウグスティヌスは、信者から流れ出るこの流れを慈悲とみなしました(註173)。 聖トマス・アクィナスは、誰かが「神から受けたさまざまな恵みの賜物を分かち合おうと急いでいるときはいつでも、その人の心から生ける水が流れ出る」と主張しました(註174)。

175項 「愛にもとづく服従において十字架上で捧げられた犠牲は、人類の罪に対する最も豊かで無限の償いとなる」(註175 のですが、キリストのみこころから生まれた教会は、あらゆる時代や場所において、人びとを主との直接の一致へと導く、その唯一の贖いの情熱の果実を延長しつつ授けるものなのです176項 教会共同体の精神性において、私たちの仲介者であり母であるマリアの仲介は、「唯一の源泉、すなわちキリスト自身の仲介にあずかること」としてのみ理解できます(註176) 。

 キリストこそが唯一の救い主です。このため、「教会はマリアの従属的な役割を公言することをためらいません」(註177 マリアのみこころに対する信心は、キリストのみこころのみに捧げられるべき崇拝を決して損なうものではなく、むしろそれを強めるものです。「人類の母としてのマリアの役割は、キリストのこの唯一の仲介を決して不明瞭にしたり弱めたりするのではなく、むしろその力を示しているのです」(註178 キリストの開かれた脇腹からあふれ出る豊かな恵みのおかげで、教会、聖母マリア、そしてあらゆるキリスト者は、さまざまな方法で自ら生ける水の流れとなります。このようにして、キリストは私たちの小ささのなかで、そしてそれを通して、その栄光を現わすのです

 

 

2 兄弟愛と神秘主義[177-180項]

177項 聖ベルナルドゥスは、キリストのみこころと一体となるよう私たちに勧めるなかで、この信心の豊かさを利用して、愛に根ざした回心を呼びかけています。聖ベルナルドは、快楽に隷従している私たちの愛情は、戒律への盲目的な服従を選ぶのではなく、むしろキリストの甘美な愛に応えて、それでもなお変容し、解放される可能性があるものだと信じていました。悪は善によって克服され、愛の開花によって征服されます。「全身全霊の深い愛情をもって、あなたの神である主を愛しなさい。完全に注意を払い、一心に主を愛しなさい。全力を尽くして主を愛しなさい。主への愛のたなら死ぬことも恐れない
ほどに。……主イエスに対するあなたの愛情は、官能的な生活の甘い誘惑に対抗するために、甘く親密なものでなければなりません。一本の釘が他の釘を打ち抜くように、甘さは甘さを打ち負かします」(註179)。

178項 聖フランソア ド・サル司教は、イエスの次の言葉に特に心を打たれました。「私から学びなさい。『私は心の柔和でへりくだった者だからである (マタイ11:29)。最も単純で平凡なことでさえ、主の心を「盗む」ことができるとイエスは言いました。「主に喜ばれるように仕えようとする者は、高尚で重要なことだけでなく、卑しいことやささいなことにも注意を払わなければなりません。なぜなら、その両方によって、私たちは主の心と愛を勝ち得ることができるからです……私が言っているのは、日々の忍耐、頭痛、歯痛、ひどい風邪、夫や妻のうんざりする癖、割れたガラス、指輪、ハンカチ、手袋の紛失、隣人の冷笑、祈りや聖餐のために早起きするために早く寝る努力、公然と宗教的義務を果たすときに感じるちょっとした恥ずかしさ……これらすべての苦しみは、たとえ小さなものであっても、愛をもって受け入れるなら、神の慈悲に大いに喜ばれるものであることを忘れないでください」(註180)。

 しかし、究極的には、キリストのみこころの愛に対する私たちからの応答は、隣人への愛として表されます。「堅固で、不変で、揺るぎなく、些細なことや人びとの社会的な地位に執着がなく、変化や敵意にも左右されない愛が必要なのです。……主は私たちを絶えず愛し、私たちの数多くの欠点や欠陥を我慢してくださいます。まさに このため私たちも兄弟姉妹に対して同じことをし、彼らに飽きることなく我慢しなければなりません」(註181)。

179項 聖シャ ル・ド・フーコーは、イエスが自分の代わりにしたであろうことを常に行うように努め、イエスと同じように生き、行動することでイエスに倣おうとしました。キリストのみこころの感情に従うことによってのみ、彼はこの目標を完全に達成することができました。ここにも「愛に対する愛」という概念が見られます。彼の言葉によれば、「私は愛に愛を返すために、彼に倣うために、……彼の仕事に参加し、私の無を彼とともに捧げるために、人びとの聖化のために犠牲として、つまりいけにえとして自分を捧げるために、苦しみを望みます」(註182 イエスの愛を他の人びとに伝えたいという願いをいだきつつも、私たちの世界で最も貧しく忘れられた人びとへの宣教活動が、十字架で飾られたキリストのみこころのシンボルである「イエスのカリタス」という言葉を彼の紋章に採用するきっかけとなりました(註183 )。

 ​​これは決して軽い決断などではありませんでした。「私は全力を尽くして、これらの貧しい失われた兄弟たちに、私たちの宗教はすべて慈善であり、すべて友愛であり、その紋章は心であるということを示し、証明しようと努めています」(註184 )。彼は他の兄弟たちと一緒に「イエスのみこころのみ名において」モロッコに定住することを望みました(註185 このようにして、彼らの福音宣教の働きは外にまで広がることができました。「愛が、イエスのみこころから広がるように、私たちの兄弟愛からも広がる必要があります」(註186 )。

 この願いにより、彼は徐々に「普遍的な兄弟」となりました。キリストのみこころによって形作られることを許しながら、彼は兄弟愛の心の内に 苦しむ全人類を迎え容れて保護しようとしました。「私たち
の心は、イエスのみこころのように、あらゆる男性や女性を受け容れなければなりません」(註187 「男性や女性に対するイエスのみこころの愛、彼が受難のさなかで示した愛、これこそが、私たちがあらゆる人間に対していだく必要があるものです」(註188)。

180項 聖シャ ル・ド・フーコーの霊的指導者であったアンリ・ユヴラン師は、「私たちの主が心に住むとき、彼はそのような感情を与え、この心は私たちの兄弟姉妹の最も小さい者にまで届きます」と述べました。聖ヴィンサン ド ポールの心はまさにこれでした。 …… 主が司祭の魂に住まわれるとき、主は司祭を貧しい人びとに手を差し伸べさせます」(註189 ユヴラン師が述べているように、聖ヴァンサン・ド・ポールの使徒的な熱意は、キリストのみこころに対する信心によって養われたことを理解することが重要なのです。

 聖ヴァンサン・ド・ポールは、同志たちに「主のみこころのなかに、貧しい病人のための慰めの言葉を見つけなさい」と勧めました(註190) その言葉が説得力を持つためには、私たち自身の心が、まずキリストのみこころの愛と優しさによって変えられなければなりません。聖ヴァンサン・ド・ポール(聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ)は、説教や勧告のなかでこの確信を頻繁に繰り返し、それは彼の修道会の会憲の注目すべき特徴となりました。「私たちは、キリストによっても教えられた次の教訓を学ぶよう、多大な努力を払うべきです。『私は柔和で謙遜な人間だから、私に学びなさい』。私たちは、柔和さによって地を受け継ぐとキリスト自身が言ったことを忘れてはなりません。これにもとづいて行動すれば、人びとを味方につけ、主に立ち帰らせることができるでしょう。人びとを厳しく、または辛辣に扱っていたら、それは起こりません」(註191)。償い——廃墟の上に築くこと[181項]

181項 これまで述べてきたすべてのことにもとづいて、神のことばの光のなかで、主が私たちに対して、神の恵みの助けを借りて「捧げる」ように期待しているキリストのみこころへの「償い」の正しい意味を理解することができるようになります。この問題はよく議論されてきましたが、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、今日のキリスト者を福音書の立場にもっと近づいた償いの精神と導くことができるための明確な答えを与えてくれました。

 

 

4 キリストのみこころに対する償いについての社会的な意義[182―184項]

182項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、私たち自身をキリストのみこころにともに委ねることで、「憎しみや暴力によって積み重なった廃墟の上に、大いに望まれている愛の文明、キリストのみこころの王国を築くことができる」のだと説明しました。これは明らかに、私たちが「神への親しみのある愛と隣人への愛を一つにする」ことを要求しており、実際に、これが「救い主のみこころが求める真の償い」となるものなのです(註192 キリストと一体となって、私たちが罪によってこの世に残した廃墟のなかで、私たちは愛の新しい文明を築くよう求められています。それが、キリストのみこころが望むように償いを
するということです。悪がもたらした荒廃のなかで、キリストのみこころは私たちが彼と協力して世界に善と美を取り戻すことを望んでいます。

183項 あらゆる罪は教会と社会に害を及ぼします。その結果、「あらゆる罪は間違いなく社会的な罪とみなすことができます」。それから、これは特に「それ自体が隣人への直接的な攻撃を構成する」罪に当てはまります(註193 。教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、他者に対するこれらの罪の繰り返しは、しばしば「罪の構造」を強化し、それが人びとの発展に影響を与えると説明しました(註194 多くの場合、これは単なる利己主義と無関心を正常または合理的と見なす支配的な考え方の一部です。これが社会的な疎外を引き起こします。「社会組織、生産、消費の形態が、自己の贈り物を提供することと人々のあいだに連帯を確立することをより困難にする場合、社会は疎外されています。」(註195)。

 疎外された社会構造を明らかにして抵抗し、社会内で共通善を回復して強化する努力を支援するように私たちを導くのは、道徳的な規範だけではありません。むしろ、これらの構造を修復する「義務を課す」(註196 のは私たちの「心の回心」です。それは、イエスのみこころの愛に対する私たちの応答であり、それが私たちに愛することを教えます。

184項 福音的な償いがこの重要な社会的側面を持っているからこそ、私たちの愛、奉仕、和解の行為が真に償いとなるためには、キリストによって触発され、動機づけられ、力を与えられる必要があります。聖ヨハネ・パウロ2世も、「愛の文明を築くために」(註197 、今日の世界にはキリストのみこころが必要であると述べています。キリスト教における償いは、たとえそれがいかに不可欠で、時には称賛に値するものであっても、単に外的な行為の寄せ集めとして理解することはできません。これらには「神秘性」、魂、力、意欲、たゆまぬ創造性を与える意味が必要です。

 キリストのみこころから発せられるいのち、火、光が必要です。

 

 

5 傷ついた心をいやすこと[185-186項]

185項 それにしても、私たちの世界にとっても、キリストのみこころにとっても、外的な償いだけでは決して十分ではありません。私たち一人ひとりが自分の罪とそれが他人に与える影響について考えるなら、この世界に与えられた損害を修復するには、最も深い損害が与えられ、最も痛みを伴う傷ついた心を癒すという願望も必要であることに気づくはずでしょう。

186項 したがって、償いの精神は、「どんなに深い傷であっても、あらゆる傷がいやされる、という希望を私たちに与えます。完全な賠償は、財産や愛する人が決定的に失われたときや、ある状況が修復不可能になったときなど、時には不可能に思えるかもしれません。しかし、償いをするという意志、そしてそれを具体的な方法で行うことは、和解のプロセスと心の平和への回帰に不可欠なのです(註198)。

 

 

6 ゆるしを求めることの美しさ[187-190項]187項 善意だけでは十分ではありません。外面的な行動に表れる内面的な願望がなければなりません。「償いが、傷つけられた人の心に触れ、単なる交換的な正義の行為で終わらないのであれば、そしてキリスト教的であるためには、二つの事柄が前提となることが要求されます。つまり、まず自分の罪を認めること、それからゆるしを請うことです
。……兄弟姉妹に対して行った不正を正直に認めること、そして愛が損なわれたことを深く真摯に認識することから、償いたい、という願望が生まれるのです」(註199)。

188項 他人の前で自分の罪を認めることが、人間としての尊厳を貶めたり、侮辱したりするなどと決して考えるべきではありません。それどころか、それは、特に兄弟姉妹を傷つけた場合に、自分を欺くのをやめ、罪によって傷つけられた過去をありのままに認めることを要求します。「自己非難はキリスト教の知恵の一部です……それは主を喜ばせます。なぜなら主は悔い改めた心を受け容れてくださるからです」(註200)>

189項 この償いの精神についての考え方は、兄弟姉妹にゆるしを請う習慣でもあり、それは人間の弱さのなかで偉大な高潔さが備わっていることを示しています。ゆるしを請うことは関係をいやす手段です。なぜなら それは「対話を再開し、兄弟愛の絆を再構築する意志を表明するからです……それは兄弟姉妹の心に触れ、慰めをもたらし、求められたゆるしを受け容れるよう促します。たとえ修復不可能なものが完全に修復されなくても、愛は常に生まれ変わり、傷を耐えられるものにします」(註201)。

190項 悔い改めの心は兄弟愛と連帯のなかで成長します。そうでなければ、「私たちは退行し、内面的に老いていきます」が、「私たちの祈りがより単純で深くなり、神の前での崇拝と驚嘆に根ざすようになると、私たちは成長し成熟します」。「私たちは自分自身への執着が減り、キリストへの執着が増します。心が貧しくなると、神にとって最も大切な貧しい人びとに近づくようになるのです」(註202 これは真の償いの精神につながります。「心からの良心の呵責を感じる人は、ますます自分がこの世のあらゆる罪びとの兄弟姉妹であると感じます。彼らは優越感や厳しい判断を捨て、愛を示し、償いたいとい
う燃えるような願いに満たされます」(註203 良心の呵責から生まれる連帯感は、和解をも可能にします。良心の呵責を感じることができる人は、「兄弟姉妹の失敗に怒りや憤りを感じるのではなく、むしろ彼らの罪のために泣きます。ある種の逆転が起こり、自分に甘く、他人に頑固になるという自然な傾向が覆され、神の恵みにより、自分に厳しく、他人に慈悲深くなるのです (註204)

 

 

 

4.償い——キリストのみこころの拡張[191-194項]

191項 償いには、兄弟姉妹への具体的な献身という側面を排除することなく、キリストのみこころと さらに直接的な関係にそれを位置づけることができる、補完的な別の理解の仕方が備わっています。

192項 私は別のところで、「神は、私たちが悪、危険、苦しみの源と考える多くのものが、実際には神が私たちを創造主との協力行為に引き込むために用いる産みの苦しみの部であるように、何らかの方法で自分自身を制限しようとしました」と述べました(註205項)。 私たちの側からの協力は、神の力と愛とが私たちの生活と世界に広がることを可能にしますが、私たちが拒否したり無関心になったりすると、それを妨げる可能性があります。聖書のいくつかの箇所は、主が「イスラエルよ、あなたが私に立ち返ってくれればよいのに」と叫ぶときのように、これを比喩的に表現しています(エレミヤ4:1参照)。あるいは、民の拒絶に直面して、彼はこう言います。「私の心は私のなかでひるみ、私のあわれみは熱く、優しくなる」(ホセア11:8)。

193項 栄光を受けた主の新たな苦しみについて語ることはできませんが、「キリストの過越の秘義……そしてキリストのすべて、すなわち彼があらゆる人のために行い、苦しんだことすべては、神の永遠の領域に属しており、それゆえにあらゆる時代を超越し、あらゆる時代に現存しているのです」(註206 。主は、私たちが自由に主のみこころに協力できるよう、復活の壮大な栄光を制限し、その計り知れない 燃えるような愛の拡散を抑えたのだと言えるでしょう。私たちが主の愛を拒絶すると、その恵み深いたまものに障壁が築かれることになりますが、私たちが主の愛を信頼して受け容れると、その愛が私たち
の心に注ぎ込むための空間もしくは通路が開かれます。しかし、私たちが拒絶したり無関心になったりすると、主の力の効果と私たちに対する主の愛の豊かさとが制限されてしまいます。もしも、神が私の心のなかに開いてくださった信頼を私たちが見いださなければ、神の愛は、神自身が望んだように、私の人生とこの世において、唯一無二のまたとない広がりを失います。神は、私を神の現存において呼び求めておられるのです。繰り返しになりますが、これは神の弱さからではなく、むしろ神の無限の自由、秘義的な力、そして私たち一人ひとりに対する神の完全な愛から来るものです。神の力が私たち人間の自由の弱さにおいて現れるとき、「信仰だけがそれを見分けることができる」のです(註207)。

194項 聖マルグリット・マリ ・アラコックは、キリストが出現した際に、キリストが私たちに対する情熱的な愛について語り、「燃える愛の炎を抑えることができず、それを広めなければならない」と告げたと語っています(註208 すべてを成し遂げることができる主が、神の自由において私たちに協力を求めてくださいました。私たちの信頼は消え去り、感謝がうすれ、自己犠牲が忘れ去られるたびにキリストの愛が世界に広がることがはばまれることになるのですが、こうした障壁を取り除くことが「償い」であることがわかります。

 

 

5.愛に向かう捧げもの[195-199項]

195項 こうした秘義について さらに深く考えるために、私たちは幼きイエスの聖テレーズの輝かしい霊性にもう一度目を向けることができるでしょう 聖テレーズは他者のために自分を犠牲にし、ある意味で神の正義の懲罰に対する「避雷針」となることをいとわない極端な形の償いが発達していることに気づいていました。彼女の言葉によれば、「私は、罪びとに下される罰を回避し、自ら罰を引き寄せるために、神の正義の犠牲者として自らを捧げる魂について考えました」(註209 と述べられています。しかし、そのような捧げものがどれほど偉大で寛大なものに見えたとしても、彼女はそれをあまり魅力的だと
は思いませんでした。「私はそれをすることに魅力を感じるどころではありませんでした」(註210 )。

 神の正義をそれほどまでに強調すると、最終的には、キリストの犠牲はどういうわけか不完全であったり部分的にしか効力を発揮しなかったり、キリストの慈悲は十分に強力ではなかった という考えにつながる危険性があります。

196項 聖テレーズは、その偉大な霊的な洞察力によって、神の正義を満たす必要はなく、主の無限の愛が自由に広がるようにすることで、別の方法で自分自身を捧げることができることを発見しました。「ああ、私の神よ あなたの軽蔑された愛は、あなたのみこころのなかに閉じ込められたままになるのでしょうか。あなたの愛のためにホロコーストの犠牲として自らを捧げる魂を見つけたら、あなたはすぐに彼らを消費するだろうと思います。私にも、あなたは自分の内にある限りない優しさの波を抑えない方が幸せだと思えるのです」(註211)。

197項 キリストの唯一の贖いの犠牲に何も付け加える必要はありませんが、わたしたちの自由な拒否が、キリストのみこころがこの世に「限りない優しさの波」を広げるのを妨げることは事実です。これもまた、主がわたしたちの自由を尊重したいと望んでいるからです。神の正義よりも、キリストの愛が拒否されるかもしれないという事実が聖テレーズの心を悩ませました。なぜなら、彼女にとって、神の正義は神の愛の光のなかでのみ理解されるからです。すでに見たように、彼女は神の慈悲を通して神のあらゆる完全性を黙想し、それによってそれらが愛で変容し、輝くのを見ました。彼女の言葉によれば、「神
の正義さえも(そしておそらくこれは他のものよりもさらに)愛に包まれているように私には思えます」(註212)。

198項 これが、神の正義ではなく、神の慈悲深い愛に対する彼女の奉献のわざの起源でした。「私はあなたの慈悲深い愛にホロコーストの犠牲者として自分を捧げ、私を絶えず消費し、あなたのなかに閉じ込められた無限の優しさの波が私の魂にあふれ出るのをゆるし、こうして私があなたの愛の殉教者となることを願います」(註213 。聖テレーズにとって、これは、完全な信頼を通してキリストのみこころが彼女の心を満たすことをゆるすだけではなく、その愛が彼女の人生を通して他の人びとにまで広がり、世界を変えることをゆるすことでもあったことを理解することが重要です。再び彼女の言葉を引用してお
きましょう。「教会の精神性の内で、私の母よ、私は愛になります……そして私の夢は実現します」(註214 。キリストのみこころと私の心という、二つの側面は切り離せない形で結びついていました。

199項 主は彼女の捧げものを受け容れました。その後すぐに、彼女は他者への強い愛を感じたと述べ、それはキリストのみこころから来ており、彼女を通して続いていると主張していることがわかります。そこで彼女は妹のレオニーにこう言いました。「私は普通の姉妹がおたがいを愛するよりも千倍も優しくあなたを愛しています。なぜなら私は天国の配偶者の心であなたを愛することができるからです」(註215 後に彼女はモーリス・ベリエールにこう書きました。「イエスのみこころの優しさ、イエスがあなたに何を期待しているのかを、あなたに理解してもらいたいとどれほど願っていることでしょう」(註
216)。

 

 

6.統合と調和[200-204項]

200項 兄弟姉妹の皆さん、私は、この償いの手段を発展させようと提案します。一言で言えば、私たちがキリストのみこころに対して関わる際に、この世界においてキリストの熱烈で慈悲深い愛の炎を広げる新たな可能性を提供することです。償いには、「過失であれ、重大な違反であれ、被造物ではない愛に与えられた損害を償う」という願いが伴うことは事実ですが(註217)。 最もふさわしい方法は、私たちの愛が主に、主の愛が拒絶されたり拒絶されたりしたあらゆる機会に対する償いとして、広がる可能性を提供することです。これは、前章でお話ししたキリストの「慰め」以上のものです。兄弟愛の行為として表現され、教会と世界の傷をいやすことです。このようにして、私たちはキリストのみこころによるいやしの力に、新たな表現方法を提供します。

201項 隣人愛の行為に必要な犠牲と苦しみは、私たちをキリストの受難に結びつけます。このようにして、「使徒が語るあの秘義的な十字架刑によって、私たちは自分自身と他の人びとのために、その贖罪と償いの豊かな実りを受けるのです」(註218 キリストだけが十字架上の捧げものによって私たちを救い、私たちを救うのです。なぜなら、「神は唯一であり、神と人とのあいだの仲介者も唯一であり、人であるキリスト・イエスであり、キリストはあらゆる人の身代金としてご自身をお与えになったのです」(テモテ第一2:5-6 。私たちが捧げる償いは、キリストの贖いの愛と唯一の犠牲に、自由に受け容れられて参加することです。こうして私たちは、自分の肉体において「キリストのからだである教会のために受けた苦しみの欠けたところを補う」のです(コロサイ 1:24)。そしてキリストご自身が、私たちを通して、その完全で愛に満ちた自己奉献の効果を延ばしてくださるのです。

202項 たいていの場合、私たちの苦しみは、私たち自身の傷ついた自我と関係があります。キリストのみこころの謙遜さは、私たちを卑下する道へと導きます。神は、謙遜と小ささをもって私たちのもとに来ることを選ばれました。旧約聖書は、歴史の中心に入り、民に拒絶されることをゆるす神を、すでにさまざまな比喩で示していました。キリストの愛は、民の日常生活の中で示され、いわば応答を懇願し、栄光を現す許可を求めるかのようでした。しかし、「おそらく、主イエスがご自分のみこころについて、ご自分の言葉言及したのは、たった一度だけでしょう。そして、この唯一の特徴を強調します。『柔
和で謙遜であること』は、この方法によってのみ、私たちを自分の元に引き寄せたいとおっしゃるかのようです」(註219 )。

 イエスは、「わたしに学びなさい。わたしは柔和で謙遜な者だから」 (マタイ 11:29) とおっしゃったとき、私たちに「自分を知らせるためには、わたしたちの小ささ、自己卑下が必要なのです」ということを示されました(註220)。

203項 これまで述べたことのなかで、いくつかの切り離せない側面に注目することが重要です。隣人愛の行為は、それに伴う放棄、自己否定、苦しみ、努力を伴いますが、キリスト自身の愛によって養われている場合にのみ、隣人愛となることができます。キリストは、キリストが愛したように私たちが愛することを可能にし、このようにして、私たちを通して他の人びとを愛し、奉仕します。キリストは、私たちの行為を通して愛を示すために謙虚になりますが、私たちのほんのわずかな慈悲の行為でさえ、キリストのみこころは栄光に輝き、その偉大さをすべて示します。私たちの心がキリストの愛を完全に信頼し
て受け容れ、そのほむらが私たちの生活のなかで広がるようにすると、私たちはキリストがなされたように、謙虚に、あらゆる人に親しく、他の人びとを愛することができるようになります。

 このようにして、キリストは渇きを満たし、私たちのなかに、そして私たちを通して、熱烈で慈悲深い愛の炎を輝かしく広げます。これらすべてのことにおいて存在する素晴らしい調和を、どうして見逃すことができるでしょうか。204項 最後に、この信仰の豊かさをすべて理解するためには、三位一体の神の働きについて述べたことを踏まえて、キリストが人間性において成し遂げた償いは、私たち一人ひとりの聖霊の働きを通して御父に捧げられるということを付け加える必要があります。したがって、私たちがキリストのみこころに捧げる償いは、最終的には御父に向けられ、御父は私たちがキリストを通して、キリストとともに、キリストの内で自分自身を捧げるたびに、私たちがキリストと一つになるのを見て喜んでおられます。

 

 

7.世界に愛をもたらす[205-211項]

205項 キリスト教のメッセージは、単に敬虔な考えの避難所や印象的な儀式の機会としてではなく、その全体を経験して表現するときに魅力的なものとなります もしも私たちがキリストとの個人的な関係に満足し、他の人の苦しみを和らげたり、より良い生活を送るのを助けたりすることに関心を示さなかったとしたら、果たして私たちはキリストに対して一体どのような崇拝を捧げることになる、というのでしょうか。つまり、私たちが住んでいるこの社会への影響を無視しながら個人的な宗教経験に浸っているだけで満足するのならば、私たちを愛してくださるキリストのみこころを喜ばせることができる、というのでしょうか。すなおに、神のことばをまるごと受け容れましょう。

 その一方で、社会の改善のためにキリスト者として働くことで、その信仰にもとづく独自の霊的なひらめきを決して曖昧にすべきではありません。もしも 霊的なひらめきに気づかないままで生きるとすれば、最終的には神が兄弟姉妹に与えたいと望んでいるものよりも、はるかに少ないものを求めることになってしまうからです。このため、この章をしめくくるにあたって、キリストのみこころに対する私たちの愛の宣教的な側面を想い起こすことが欠かせないのです。

206項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、キリストのみこころに対する信心の社会的な側面について語りましたが、同時に「世界を救うための使徒的な協力である償い」についても語りました(註221)。したがって、キリストのみこころへの奉献は「教会の宣教活動との関連で捉えられるべきです。なぜなら、イエスの御国への完全な献身を、キリストのからだのメンバーを通して世界中に広めたいというイエスのみこころの願いに応えるものであるからです」(註222)。その結果、「キリスト者のあかしを通して、愛が人びとの心に注がれ、キリストのからだである教会を築き上げ、正義と平和と友愛の社会を築くことになるのです」(註223)。

207項 イエスのみこころの愛のほむらは、キリストに示された神の愛のメッセージを宣べ伝える教会の宣教活動を通しても広がります。聖ヴァンサン ド ポールは、弟子たちに対して、主に「この精神、この心、私たちをどこへでも行かせてくれる神の子の心、主が行かれたように私たちを行かせてくれる主の心……主は私たちを、使徒たちのように、どこにでも愛のほむらを運ぶように遣わすのです」と祈るよう勧め、このことをうまく表現しました(註224)。

208項 教皇聖パウロ6世は、みこころに対する信心を広めることに献身している修道会に対して講話を行い、次のように述べました。「司祭も信徒も同じように、神の栄光を広めたいという願いにおいて、キリストが示してくださった永遠の愛の模範を黙想し、あらゆる男女がキリストの計り知れない富を共有できるように努力するならば、司牧的な献身と宣教の熱意が燃え上がることは間違いありません」(註225 )。みこころを黙想するとき、宣教は愛の問題になります。宣教における最大の危険は、私たちが言うことや行うことのすべてにおいて、私たちを抱きしめ、救ってくれるキリストの愛との喜びに満ちた出会いをもたらさないことです。

209項 キリストのみこころの愛の放射としての宣教には、愛のなかにあり、キリストに魅了され、自分たちの人生を変えたこの愛を分かち合う義務を感じている宣教師が必要です。彼らは、二次的な問題を議論したり、真理や規則に集中したりして時間を無駄にすると、いら立ちます。なぜなら、彼らの最大の関心事は、自分が経験したことを分かち合うことだからです。彼らは、たとえ不十分であっても、自分の努力を通して、愛する人の善良さと美しさとを他の人に感じてもらいたいのです。それは、いかなる愛する者にも当てはまることではないでしょうか。ダンテ・アリギエーリがの愛の論理を表現しようと
した言葉を例に挙げてみましょう。「私は自分の価値を思い、愛は甘く、私の心は愛で満たされているが しかし他人は愛を欲しがらない」(註226)。

210項 証人や言葉でキリストについて語り、他の人がキリストを愛するように仕向けることは、あらゆる魂の宣教師の最大の願いです。この愛のダイナミズムは布教とはまったく関係がありません。愛する人の言葉は他人を煩わせたり、要求したり、義務づけたりはしません。ただ、そのような愛に驚嘆させるだけです。愛する人は、彼らの自由と尊厳を深く尊重しながら、自分の人生をこれほど大きな喜びで満たしてくれた愛について尋ねてくれるのをただ待つだけです。

211項 キリストは、あなたがたが自分とキリストとの友情について、十分な慎重さと敬意をもって他の人に話すことを決して恥じてはならないと求めています。キリストは、あなたがたがキリストを見つけたことがどれほど素晴らしく、美しいのかを、他の人にも大胆に伝えるよう求めています。「人の前で私を認める人はみな、わたしも天の父の前でその人を認めます」(マタイ10:32)。愛する心にとって、これは義務ではなく、抑えることのできない欲求なのです。「福音を宣べ伝えなければ、わたしは不幸です」(コリント第一9:16)。「わたしの内には、燃える火のようなものが骨のなかに閉じ込められています。わたしはそれを抑えておくのに疲れ、もうできません」(エレミヤ20:9)。

 

1 奉仕の交わりのなかで[212-216項]

212項 キリストを伝えるというこの使命を、イエスと私だけの問題として考えるべきではありません。使命は、私たちの共同体および教会全体との交わりのなかで経験されます。私たちが共同体から離れれば、イエスから離れることになります。私たちが共同体に背を向ければ、イエスとの友情は冷えてしまいます。これは事実であり、決して忘れてはなりません。私たちの共同体(修道会、教区、教区など)の兄弟姉妹に対する愛は、イエスとの友情を育む一種の燃料です。共同体内の兄弟姉妹に対する私たちの愛の行為は、イエス・キリストへの愛を他の人に証しする最善の方法であるとともに、時には唯一の方法かもしれません。イエスは自らこう言っています。「たがいに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになる」(ヨハネ3:35)。

213項 この愛は共同体内での奉仕となります。イエスはできるだけ明確な言葉でこうおっしゃったことを、私は何度も繰り返して言います。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしてくれたことである」(マタイ25:40)。イエスは今、兄弟姉妹一人ひとり、特に貧しい人、軽蔑されている人、社会から見捨てられた人のなかで、イエスに出会うように、あなたに求めています。なんと素晴らしい出会いでしょうか。

214項 他の人を助けることに関心があるとしても、それはイエスに背を向けているということではありません。むしろ、別の方法でイエスに出会うのです。他の人を助け、気遣おうとするときには いつでも、イエスは私たちのそばにいます。イエスが弟子たちを宣教に遣わされたとき、「主は彼らとともに働かれた」(マルコ 16:20)ことを決して忘れてはなりません。イエスはいつもそこにいて、いつも働いており、善を行うための私たちの努力を分かち合ってくれます。秘義的な方法で、イエスの愛は私たちの奉仕を通して現存します。イエスは、時には言葉を必要としない言語で世界に語りかけるからです。

215項 イエスはあなたを呼び、この世界に善を広めるためにあなたを送り出しています。イエスの呼びかけは奉仕であり、医者、母親、教師、司祭など、善を行うための召し出しです。どこにいても、イエスの呼びかけを聴き、イエスがその使命を果たすためにあなたを送り出していることに気づくことができます。イエスは自ら「私があなたを送り出す」(ルカ10:3)とおっしゃっています。これはイエスと友人になるということの一部です。しかし、この友情が成熟するには、イエスにこの世界の使命に送り出してもらうこと、そして自信を持って、寛大に、自由に、恐れることなくそれを遂行することが あなた次第の出来事として任されているのです。

 自分の居心地のよい場所にとどまっていると、本当の意味での安心感は決して得られません。疑いや恐れ、悲しみや不安が常に地平線に迫ってきます。この地上で使命を果たさない人は、幸福ではなく失望を見つけるでしょう。イエスがあなたのそばに常にいることを決して忘れないでください。イエスはあなたを奈落の底に突き落としたり、放っておいたりはしません。イエスはいつもあなたを励まし、伴って歩んでくださいます。イエスは約束したことを必ず果たしてくださいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいるからである」(マタイ28:20)。

216項 あなたも、自分なりの方法で宣教師にならなければなりません。イエスの使徒や最初の弟子たちが神の愛を宣べ伝え、キリストは生きておられ、知る価値があることを他の人びとに伝えるために出かけて行ったように。聖テレーズは、慈悲深い愛への捧げものの不可欠な部分としてこれを経験しました。「わたしは愛する人に水を飲ませたいと思いました。そして、魂への渇きに満たされるのを感じました」(註227 。このことは、あなたの使命でもあります。私たちひとり一人が自分のやり方でそれを実行しなければなりません。あなたは宣教師になる方法を知るようになるでしょう。イエスはそれに値します。あなたがその挑戦を受け容れるなら、イエスはあなたを啓発し、あなたに伴ってあなたを強め、あなたは多くの幸福をもたらす豊かな経験をするでしょう。すぐに結果が出るかどうかは重要ではありません。ひたすら私たちの心の奥底で働いている主に任せましょう。キリストの愛を他の人と分かち合う努力から生まれる喜びを、経験し続けましょう。

 

 

結論[217-220項]

217項 この文書は、社会的な回勅 ラウダート・シ』および回勅『兄弟のみなさん』の教えが、イエス・キリストの愛との出会いと無関係ではないことを理解するのに役立ちます。なぜなら、同じ愛を飲むことで、私たちは兄弟姉妹としての愛の絆を築き、各人の尊厳を理解し、共通の家を守るために協力することができるようになるからです。

218項 あらゆるものが売買される世界では、人びとの自己価値は、お金の力で蓄積できるもの次第になっているようです。私たちは、目先のささいな必要性を超えて見ることを妨げる屈辱的なシステムに捕らわれ、常に買い続け、消費し、気を散らし続けるように迫られています。キリストの愛はこの倒錯した仕組みには入り込む余地がありませんが、その愛だけが、もはや無償の愛の余地がない狂気の追撃から私たちを解放することができます キリストの愛は、愛する能力が決定的に失われたと思われるところならどこでも、私たちの世界に心を与え、愛を復活させることができるのです。

219項 教会もキリストの愛を必要としています。キリストの愛がないと、キリストの愛が時代遅れの構造や関心、私たち自身の考えや意見への過度の執着、そしてさまざまな形の狂信に取って代わられてしまいます。そうした愛は、解放し、活気づけ、心に喜びをもたらし、共同体を築く神の無償の愛に取って代わってしまうのです。キリストの傷ついた側面は、その流れを注ぎ続けます。その流れは決して枯渇せず、消えることもなく、彼のように愛したいと願うあらゆる人に何度も差し出します。彼の愛だけが新しい人間性をもたらすことができるからです。

220項 私たちの主イエス・キリストに、私たちが引き起こした傷を癒し、他者を愛して奉仕する能力を強化し、公正で連帯した兄弟姉妹愛の世界に向かってともに歩むことができるように私たちを鼓舞する生ける水の流れを彼のみこころが注ぎ続けることを許してくださいますように。復活した主の御前で、天国の宴をともに祝うその日まで、主は開かれた心から永遠に放たれる光のなかで、私たちのあらゆる違いを調和させます。主が永遠に祝福されますように。


ローマのサン・ピエトロ大聖堂にて、2024年10月24日、教皇在位12年目にこの文書を授けます
__________________________________ 註
(1)この第1章の考察の多くは、故ディエゴ・ファレス師の未発表の著述草稿に触発されたものです。主
が彼に永遠の安息を与えられますように。
(2)ホメロス『イリアス』第21章441項を参照のこと。
(3)同上『イリアス』第10章244項を参照のこと。
(4)プラトン『ティマイオス』第65章c-dおよび70章を参照のこと。
(5)教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教」2016年10月14日付(『オッセ
ルバトーレ・ロマーノ紙』2016年10月15日号、8頁所載)。
(6)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「アンジェラス」2000年7月2日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2000年7月3~4日号、4頁所載)。
(7)同「カテケーシス」1994年6月8日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1994年6月9日号、5頁。
(8)ドストエフスキー『悪霊』 (1873年)。
(9)ロマーノ・グァルディーニ『ドストエフスキーの作品に登場する宗教者たち』マインツ/パーダーボ
ルン、1989年、236頁以降。
(10)カール・ラーナー「みこころへの献身の神学のためのいくつかの論文」(『神学探究』第III巻所載
)ボルチモア/ロンドン、1967年、332頁。
(11)同上、332-333頁。
(12)ビョンチョル・ハン『ハイデガーの心——マルティン・ハイデガーにおける気分の概念について』
ミュンヘン、1996年、39頁。
55
(13)同上、60頁および176頁参照。
(14)同『エロスの苦悶』ベルリン、2012年参照。
(15)マルティン・ハイデガー『ヘルダーリンの詩の解説』フランクフルト・アム・マイン、1981年
120頁参照。
(16)ミシェル・デ・シェルトゥー「欲望の空間あるいは霊操の基礎」(『クリストゥス』第77号
、1973年、118-128頁所載)参照。 
17 聖ボナヴェントゥラ 魂の神への道程 第7章6項。
18 同『命題集註解』第一文、質疑第三問。
(19)聖ジョン・ヘンリー・ニューマン『瞑想と献身』 第3部 [第16巻]、第1章 3項 ロンドン、1912年
、573-574頁。
(20)『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)82項。
(21)同上、10項。
(22)同上、14項。
(23)教理省宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』2024年4月2日 8項参照(『オッセルバトーレ・ロ
マーノ紙』2024年4月8日号所載)
(24)『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)26項。
(25)教皇聖ヨハネ・パウロ二世「アンジェラス」1998年6月28日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』1998年6月30日~7月1日号、7頁。
(26)教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ(Laudato Si’)』2015年5月24日付、83項(『オッセルバ
トーレ・ロマーノ紙』所載[AAS 107 (2015)p. 880].
(27)教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教」2013年6月7日付 『オッセル
バトーレ・ロマーノ紙』2013年6月8日号、8頁。
(28)教皇ピウス12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス(Haurietis Aquas)』1956年5月15日付、1項
[AAS 48 (1956)、316]。
(29)教皇ピウス6世回勅『アウクトーレム・フィデイ(Auctorem Fidei)』1794年8月28日付、63項
[DH 2663].
(30)教皇レオ13 世回勅『アンヌム・サクルム(Annum Sacrum)』1899年5月25日付[SS 31 (1898-
1899)p. 649].
(31)同上 「みこころには、イエス・キリストの無限の慈愛の象徴のイメージが含まれているとともに
、その慈愛を表現することでイメージ化してあります
(32)教皇フランシスコ「アンジェラス」2013年6月9日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2013年6
月10 11日号、8頁。
(33)教会が祭壇上にイエスの心臓やマリアの心臓の像だけを置くことを禁じている理由がこれで理解で
きます( シャルル・ルコック師への聖体礼儀省からの回答 1879年4月5日付 聖体礼儀に関する信心
深さについての教令 第3巻、107-108頁、3492番 参照)。典礼以外では、「個人的な信心」(同)とし
て、心臓の象徴は、教育の補助、美的象徴、キリストの愛について黙想するよう促す象徴として使用でき
ますが、これは心臓をキリストの人格から切り離して崇拝や霊的対話の対象とみなす危険があります。聖
体礼儀省は1887年3月31日付で同様の回答を再度出しました(同、187頁、3673番)。
56
(34)トリエント公会議、第25討議後の憲章『マンダット・サンクタ・シノドス』1563年12月3日付
(DH 1823).
(35)第 5 回ラテン・アメリカおよびカリブ海司教総会『アパレシーダ文書』 (2007年6月29日付) 259項
(36)回勅『ハウリエーティス・アクアス』(1956年5月15日)1項[AAS 48 (1956)、323-324].
37 聖大バシレイオス『書簡261』3項[PG 32, 972].
38 聖ヨハネス・クリュゾストモス『ヨハネによる福音書についての説教』63章2項[PG 59, 350].
39 聖アンブロジウス『グラティアヌス宛ての信仰理解』第2巻7章56項[PL 16, 594 ](ed. 1880)。
40 聖アウグスティヌス『詩篇註解』第87章3節[PL 37, 1111].
41 ダマスコの聖ヨアンネス『正統な信仰の解明』第3巻6章20節を参照のこと[PG 94, 1006, 1081].
(42)オレガリオ・ゴンザレス・デ・カルデダル『キリスト教の核心』サラマンカ、2010年、70-71頁

(43)教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008年6月1日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』
2008年6月2-3日号、1頁。
(44)教皇ピウス12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス』1956年5月15日、2項[AAS 48 (1956)327-
328].
(45)同上: AAS 48 (1956)343-344.
46 教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008年6月1日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2008
年6月2~3日号、1頁。
(47)ヴィルギリウス『無数の懸念のなかの憲法』553年5月14日付(DH 420)。
(48)エフェソス公会議「アレクサンドレイアのキュリロスのアナテマ」8項(DH 259).
(49)第 二コンスタンティポリス公会議、第8討議 (553年6月2日付) 『教会法』9項[DH 431]).
(50)十字架の聖ヨハネ『霊の賛歌』red. A, Stanza 22, 4.
(51)同上Stanza 12, 8.
(52)同上Stanza 12, 1.
(53)「御父なる神はただ一人おられ、万物はその方からあり、その方のために我々は存在している
」(1 コリント8:6)。「わたしたちの神であり父である方に、世々限りなく栄光がありますように。アーメ
ン」(フィリピ4:20)。「わたしたちの主イエス・キリストの神であり父である方、慈悲の父、すべての
慰めの神がほめたたえられますように」(コリント第二1:3)。
54 教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元二千年の到来』1994年11月10日付 49項[AAS
87(1995)、35]。
55 アンティオケイアの聖イグナチオス「ローマの信徒への手紙」7項[PG5、694頁
(56)「わたしが父を愛していることを世が知るようになるため」(ヨハネ14:31)、「父とわたしは一
つである」(ヨハネ10:30)、「わたしは父におり、父はわたしにおられます」(ヨハネ14:10)。
(57)「わたしは父のもとに行く」(プロス・トン・パテラ:ヨハネ16:28)。「わたしはあなたのとこ
ろに来ます」(ヨハネ17:11)。
57
58 「わたしはあなたのところに来ます」。
(59)聖エイレナイオス『異端駁論』第3巻18章1節[PG 7, 932]。
60 オリゲネス『ヨハネ福音書註解』第2巻2項[PG 14, 110]。
61)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「アンジェラス」2002年6月23日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2002年6月24-25日 1頁
62)教皇 聖ヨハネ・パウロ2世 人類によるイエスのみこころへの奉献100周年のメッセージ ワルシャ
ワ、1999年6月11日におけるイエスのみこころの祭儀、3項 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1999年6
月12日 5頁所載)。
63 同 アンジェラス 1986年6月8日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ 1986年6月9-10日号、5頁
64)教皇フランシスコ説教 ジェメッリ病院とカトリック聖心大学医学部訪問 2014年6月27日付(『
オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2014年6月29日号、7頁
65 エフェソ1:5、同1;7 2:18 3:12
66 エフェソ2:5、2;6 4:15.
67 エフェソ1:3、1;4 1;6 1;7 1;11 1;13 1;15 2:10 2;13 2;21 2;22 3:6 3;11 3;21.
68)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「人類がイエスのみこころに奉献されてから100周年のメッセージ ワル
シャワ、1999年6月11日におけるイエスのみこころの祭儀、2項(『オッセルバトーレ・ロマーノ 1999
年6月12日号、5頁所載)。
69 みこころには、私たちがたがいに愛し合うように促すイエス・キリストの無限の愛の象徴と明確
なイメージがあるので、私たちがその最も聖なる心に身を捧げることは適切で正しいことです。それは、
イエス・キリストに自分自身を捧げ、結びつけることに他なりません。なぜなら、この神聖な心に捧げら
れる名誉、崇敬、愛は、すべてキリスト自身に捧げられるからです。……そして今、今日、私たちの前に
もう一つの祝福された天国のしるしが差し出されています。それは、十字架がそびえ立ち、愛の炎のなか
でまばゆいばかりの輝きを放っているイエスの最も聖なる心です。そのみこころに私たちのあらゆる希望
を託し、そこから人びとの救いを確信を持って祈るべきです」(教皇レオ13世回勅『聖なる年(Annum
Sacrum)』1899 年 5 月 25 日)[ASS 31 [1898-1899]、649-651]。
70 「すべての宗教の総体、したがってより完全な生活のパターンは、最も吉兆とそこから生じる敬虔
さの形態の中に含まれていないでしょうか。それは、人々の心を私たちの主キリストの親密な知識へとよ
り容易に導き、彼らの心をより熱烈にキリストを愛し、より密接に彼に倣うようにより効果的に動かすか
らです 教皇ピウス11世回勅 救世主 ミゼレンティッシムス・レデンプトール [1928年5月8日
](AAS 20 [1928]、167)。
71 「この信心は、その本来の性質を調べれば、最も優れた信仰の行為であることが完全に明らかです
。なぜなら、傷ついた心臓は神の救い主の愛の生きたしるしであり象徴であり、神の救い主の愛に自分自
身を完全に明け渡し、捧げるという完全な決意を要求するからです。……そのなかで、私たちは象徴だけ
ではなく、言わば私たちの救済の秘義全体の統合をも観想することができます……キリストは、人びとが
彼の愛を認識し、認めるように引き寄せられる象徴として彼のみこころをはっきりと繰り返し指摘し、同
時にそれを、現代の教会の必要に対する彼の慈悲と恩寵のしるしと保証としました」(教皇ピウス12世回
勅 ハウリエ ティス・アクアス [1956年5月15日]、プロエミウム、III、IV[AAS 48
[1956]、311、336、340]。
72 教皇ヨハネ・パウロ2世 カテケ シス 2項 1994 年 6 月 8 日付 [『オッセルバトーレ・ロマーノ
紙』1994 年 6 月 9 日号、5頁]。
73 教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008 年 6 月 1 日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
58
』2008 年 6月 2 3 日 1頁
74 教皇ピウス12世回勅 ハウリエ ティス・アクアス 1956 年 5 月 15 日、4項(AAS 48
[1956]344).
75 同上:AAS 48(1956)336.
76 「私的な啓示の価値は、公的な啓示の価値とは本質的に異なります。後者は信仰を必要とします
……私的な啓示……は提供される助けですが、それを使用することは義務ではありません」(教皇ベネデ
ィクト16世使徒的勧告『主のみことば』2010年9月30日付 14項[AAS 102(2010)696]。
77 教皇ピウス12世回勅 ハウリエ ティス・アクアス (1956年5月15日付 4項[AAS
48(1956)340]。
78 同上:AAS 48(1956)344.
79 同上。
80 教皇フランシスコ使徒的勧告『信頼の道——聖テレーズ生誕150周年を記念して』(2023年10月15
日付 20項(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2023年10月16日号、4頁以下 [訳註;邦訳は以下のとお
りです;教皇フランシスコ(片山はるひ訳)使徒的勧告『信頼の道——聖テレーズ生誕150周年を記念して カトリッ
ク中央協議会、2024年]。
81)幼いイエスの聖テレーズ『自叙伝 手稿A、83項)。[訳註;邦訳は以下のとおりです;東京女子跣足
カルメル会訳/伊従信子改訳『改訂 幼いイエスの聖テレーズ自叙伝——その三つの原稿』ドン・ボスコ社、1996年改
訂版(1962年初版)。聖テレーズの幼年時代を描いた「手稿A」は『小さな白い花の物語』という主題を備えており
、1895年1月初旬から1896年1月20日にかけて、リジューのカルメル会院長だったイエスのアニェス(聖テレーズの姉
のポリーヌ)の依頼によって聖テレーズ自身によって書かれました
82 聖マリア・ファウスティナ・コヴァルスカ 日記 47項(1931年2月22日)、マリアン・プレス、ス
トックブリッジ、2011年、46頁
83 ミシュナー・スッカ』IV・5・9.
84 教皇聖ヨハネ・パウロ2世「イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル(フランス)、1986年
10月5日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1986年10月7日号、9項)。
85 カエサレイアのエウセビオス『ライオンによる殉教者の記録』(『教会史』第5巻)1項[PG
20、418].
86 エウセビオス2世「ルフィヌス」1項(『教会史』第5巻1章22節)411頁および413頁以降。
87 聖ユスティノス『対話』135項3節[PG 6, 787].
88)ノヴァティアヌス『三位一体論』29項[PL 3, 994]。エルヴィラの聖グレゴリオス『正典聖書冊
子 第20巻12項[CSSL 69、144].
89 聖アンブロジウス『詩篇註解』第1巻第33項[PL 14, 983-984].
90 聖アウグスティヌス「講解 『ヨハネ福音書註解』第61章第6節)[PL 35,1801]。
91 聖ヒエロニムス「ルフィヌスへの手紙」第3巻第4章3節[PL 22,334].
92 聖ベルナルドゥス『雅歌についての説教』第61章第4節[PL 183,1072].
93 サン・ティエリのウィリアム『雅歌に関するもうひとつの考察』1項[PL 180, 487.].
94 サン・ティエリのウィリアム『愛の本性と尊厳』1項[PL 184, 379].
59
95 同上『黙想の祈り』第8章6項[PL 180, 230.]
96 聖ボナヴェントゥラ『生命の樹——受難の秘義』30項。[訳註;邦訳は以下のとおり;小高毅訳『愛の
観想——生命の樹・神秘の葡萄の樹』あかし書房、2002年、65 66頁] 小高師による訳文は以下のとおり;「30項 
さらに、十字架の上に眠っておられるキリストの脇腹から教会が形成されるために、また『彼らは、彼ら自らが刺し貫
いた者を見つめる』(ゼカ12・10)と語る聖書の言葉が成就されるために、神の決定によって、兵士の一人が槍で聖
なる脇腹を開き貫くのをよしとされたのです。その結果、水と一緒に血が流れ出て、わたしたちの救いの貴い代価が注
ぎ出されました。泉から、つまり心の奥底から流れ出たものは、恩恵のいのちをもたらすための力を教会の諸秘跡に与
え、すでにキリストのうちに生きている人々にとっては『永遠のいのちへと湧き上がる生きた泉』(ヨハ4・14)から
汲まれた杯となります」。
97 同上、47項。[訳註;小高師による邦訳では90頁以下]。
98 同上『神の慈悲を伝える御使いについて』第4巻第4章4項[SCh 255, 66].
99)レオン・デオン『イエスのみこころに依拠する司祭の霊的名簿』トゥルンハウト、1936年の第2章
および第7章の141項を参照のこと。
100)フィオーリ・M・カルメラス編 神の御摂理についての対話 75項、バーリ、1928 年、144頁
101 例えば、アンジェルス・ウォルツ『説教者修道会[ドミニコ会]におけるイエスのみこころに対
する神聖なる崇拝について』教皇庁立アンジェリクム大学、ローマ、1937 年を参照のこと
102)ラファエル・グラシャ・ヘレロス『ジャン・ユードの生涯』ボゴタ、1943年、42頁
103 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1610年4月
24日付
104 聖フランソア・ド・サル司教「四旬節第2主日の説教 1622年2月20日付
105 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1612年の主
の昇天の祭日付
106 聖フランソア・ド・サル司教「マリー・エメ・ド・ブロネへの手紙 1618年2月18日付
107 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1609年11
月下旬付
108 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1610年2月
25日頃。
109)聖フランソア・ド・サル司教『公式発言記録』14巻に収載されている 修道生活者の簡素さと慎
重さについて
[110] 聖フランソア・ド・サル司教 ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1611年6月10
日付
111 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 53項
112 同上。
113 同上、55項。
114 教皇庁教理省『超自然的とされる現象をめぐる新しい規則』[訳註; 疑惑を伴う超自然現象の識別を
推進するための規則 とも訳せる]2024年5月17日付 第I部A12項を参照のこと。
115 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 92項
116 聖マルグリット・マリ ・アラコック スール・ド・ラ・バルジュへの手紙 1689年10月22日付
60
117 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 53項
118 同上、55項
119 クロード・ド・ラ・コロンビエール『神への信頼に関する説教 (『全集』第5テクスト リヨン
・ペリス、1854年 100頁。
120 クロード・ド・ラ・コロンビエール ロンドンでの霊操 1677年2月1日~8日)」(『全集』第7テ
クスト)アヴィニョン・セガン、1832年、93頁
121 クロード・ド・ラ・コロンビエール「リヨンでの霊操 1674年10月~11月)(『全集』)同上
、45頁
122 聖シャール・ド・フーコー ボンディ夫人への手紙 1897年4月27日付
123)同 ボンディ夫人への手紙 1901年4月28日付 同「ボンディ夫人への手紙 1909年4月5日付を参
照のこと:「あなたを通して、私は聖体、祝福、みこころの礼拝を知るようになりました」。
124)同 ボンディ夫人への手紙 1890 年 4 月 7 日付
125)同 ユヴラン修道院への手紙 1892 年 6 月 27 日付
126)同『古代の聖書の瞑想』(1896-1897年 第30章1-21項
127)同 ラベ・ユヴェランへの手紙 1900 年 5 月 16 日付
128)同 日記 1906 年 5 月 17 日付
129)同 ゲラン夫人への手紙 67項 1888年11月18日付
130)幼いイエスの聖テレーズ セリーヌへの手紙 122項、1890年10月14日付
131 同 詩23番 イエスのみこころに」1895年6月または10月。
132 同 モーリス・ベリエール師への手紙 247項、1897年6月21日。
133 同 最後の会話 黄色いノート』に収載されています 1897年7月11日付 6頁
134 同「みこころのマリー修道女への手紙 197項、1896年9月17日付。これは、聖テレーズがキリス
トの苦しみに同調するために犠牲、悲しみ、悩みを捧げなかったという意味ではなく、結局のところ、彼
女はこれらの捧げものに対して本来持っていない重要性を与えないように気を配っていたという意味です

135 同 セリーヌへの手紙 142項、1893 年 7 月 6 日付
136 同 レオニーへの手紙 191項、1896 年 7 月 12 日付
137 同 ローラン師への手紙 226項、1897 年 5 月 9 日付
138 同 モーリス・ベリエール修道院への手紙 258項、1897 年 7 月 18 日付
139 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操』第104番を参照のこと
140 同上、第297番
141 聖ピエール・ファーベル イグナティウス・デ・ロヨラへの手紙 1541 年 1 月 23 日付
142 ホアン・アルフォンソ・デ・ポランコ『イグナチオ師の生涯とイエズス会のはじまり』の8項や96
項を参照のこと。
61
143 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操 第54番
144 同上 第230番以下
145 イエズス会第33総会における教令46 1項(『報告集』第2巻)イエズス会研究所、フィレン
ツェ、1893年 511頁
146)ピーター・ファン・ベック総長 キリストのみに私たちの希望があります——キリストのみこころ
に関するテクスト セントルイス、1984年。
147)教皇聖ヨハネ・パウロ2世 イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル、1986年10月5日付
(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1986年10月6日、7頁
148 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話 貧しさ について 1655年8月13日付
149 「苦行、書簡、食事、旅( 共通規則 第24 27条)」愛徳姉妹会総会、1657年12月9日付
150 聖ダニエル・コンボニ『覚え書き』ボローニャ、1991年、998頁 第3324番)。
151 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 列聖ミサの説教 2003年5月18日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2003年5月19 20日 6頁)。
152 教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』(1980年11月30日付)1項(AAS 72
[1980]1219).
153 同 カテケーシス 1979年6月20日付)(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1979年6月22日、1
頁)
154 イエスのみこころのコンボニア宣教師会 生活の規則 3項
155 聖心会『会憲』1982年 7項
156 教皇ピウス11世回勅『慈悲の心で救う者』(1928年5月8日)(AAS 20 [1928]174)。
157 信者の信仰行為の目的は、単に教義が提示されるだけでなく、神との一致でもある。キリスト自
身、その神的ないのちの現実において生きておられたのである」(聖トマス・アクィナス『神学大全』IIII、q. 1、a. 2、ad 2; q. 4、a. 1 を参照のこと
158 教皇ピウス 11 世回勅『慈悲深い贖い主』(1928 年 5 月 8 日)(AAS 20[1928 ]174)。
159)教皇フランシスコ 聖香油ミサ説教 2024 年 3 月 28 日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2024 年 3 月 28 日、2 頁)
160 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操 第203番
161)教皇フラシスコ 聖香油ミサ説教 2024 年 3 月 28 日(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024
年 3 月 28 日、2 頁)
162 聖マルグリット・マリー・アラコック 自叙伝 55項。
163 聖マルグリット・マリー・アラコック クロワゼ師への手紙 133項
164 聖マルグリット・マリー・アラコック『自叙伝』92項。
165 教皇レオ13世回勅『聖なる年』 (1899 年 5 月 25 日付)(ASS 31[1898-1899]649)。
166 ユリアヌス皇帝『ガラテアのアルサシウス司教宛ての書簡49』マインツ、1828年 90-91頁
167 同上。
62
168 教皇庁教理省宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』(2024 年 4 月 2 日付)19項(『オッセルバト
ーレ・ロマーノ紙』2024 年 4 月 8 日
[169] 教皇ベネディクト16世 回勅 ハウリエ ティス・アクアス』発布50周年を記念してイエズス会総長
に宛てた書簡 (2006年5月15日付)(AAS 98[2006]461).
170 オリゲネス『説教』第12章第1節[PG 12,657].
171 聖アンブロジウス『書簡』29 第24項[PL 16,1060].
172)マリウス・ヴィクトリヌス『アリウス派駁論』第 1章第8節[PL 8,1044].
173)聖アウグスティヌス「講話」(『ヨハネ福音書註解』第32章第4節)[PL 35,1643]。
174 聖アウグスティヌス『福音記者ヨハネについての註釈』第7章に関する第五の講話。
175 教皇ピウス 12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス( Haurietis Aquas)』(1956 年 5 月 15 日
付)(AAS 48[1956]321).
176 教皇聖ヨハネ パウロ 2 世回勅『贖い主の母( Redemptoris Mater)』(1987 年 3 月 25 日付)38項
(AAS 79[1987]411).
177 第二バチカン公会議『教会憲章(Lumen Gentium)』62項
178 同上、60項
179 聖ベルナルドゥス『雅歌についての説教』第20章4節[PL 183,869]。
180 聖フランソワ・ド・サル司教 信心生活入門』第3部第35章
181 聖フランソワ・ド・サル司教「聖霊降臨後の第 17 主日の説教
182)聖シャール・ド・フーコー『霊的著述』パリ 1947年 67頁
183 1902年3月19日以降、聖シャール・ド・フーコーの手紙はすべて、十字架を載せた心臓の印を伴っ
た「イエス-カリタス」という言葉で始まっています
184 聖シャール・ド・フーコー ラベ・ユヴランへの手紙 1904 年 7 月 15 日付
185 聖シャール・ド・フーコー ドン・マルタンへの手紙 1903 年 1 月 25 日付
186 ルネ・ヴォイヨーム『フーコー師の友愛会』1946 年、173頁 を参照のこと
187 聖シャール・ド・フーコー『15の美徳を備えた仲間たち——ナザレでの1897 1898年』愛徳 (マタ
イ 13:3)篇、60頁
188 同上 愛徳 (マタ 22:1)篇 90頁
189 アンリ・ユブラン『17世紀の霊的指導者たち パリ、1911年 97頁。
190 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話「病人への奉仕と自らの健康管理について」1657年11月11
日付
191 聖ヴァンサン・ド・ポール 宣教者会の共通規則 1658年5月17日、第2章第6節。
192 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル、1986年10月5日付
(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙 1986年10月6日 7頁
193 教皇聖ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『和解と記憶』(1984年12月2日付 16項(AAS
77[1985]215).
63
194)教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅 社会的関心(Sollicitudo Rei Socialis)』(1987 年 12 月 30 日付
)36項(AAS 80 [1988]561-562).
195 教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題——教会と社会の百年をふりかって(Centesimus
Annus)』 (1991 年 5 月 1 日付)41項(AAS 83[1991]844-845)。
196 カトリック教会のカテキズム 1888 年版
197 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 カテケーシス」1994 年 6 月 8 日付、2項(『オッセルバトーレ・ロマ
ーノ紙』1994 年 5 月 4 日、5頁
198)教皇フランシスコ 国際コロキウム 修復不可能なものの修復 参加者への演説 パレ・ル・モニ
アルにおけるイエス出現350周年記念、2024年5月4日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年5月
4日、12頁)。
199 同上
200 教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教 2018年3月6日付 オッ
セルバトーレ・ロマーノ 2018年3月5-6日、8頁
201 教皇フランシスコ「国際コロキウム 修復不可能なものの修復 参加者への演説 パレ・ル・モニ
アルにおけるイエス出現350周年記念、2024年5月4日付( オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年5月4
日、12頁
202 教皇フランシスコ「聖香油ミサの説教 2024年3月28日付( オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2024年3月28日、2頁
203 同上
204 同上
205 教皇フランシスコ回勅 ラウダート・シ 2015年5月24日付、80項(AAS 107[2015]879).
206 カトリック教会のカテキズム 1085項
207 同上 268項
208 リジューの聖テレーズ『自叙伝』53頁。
209 リジューの聖テレーズ『手稿A 』84項
210 同上。
211 同上。
212 リジューの聖テレーズ『手稿A 』83項。1897年5月9日付の ルーランド師宛の手紙 第226番も参
照のこと
213 リジューの聖テレーズ 慈悲深い愛への奉納 1895年6月9日付 第2部第2項
214 リジューの聖テレーズ『手稿B』3項 [訳註;1896年9月13日から16日にかけて、リジューのカルメル会
修道女みこころのマリー(聖テレーズの長姉、代母)に向けて書かれたものであり、心の内を物語る親密な手紙です
]。
215 リジューの聖テレーズ レオニーへの手紙 186項、1896 年 4 月 11 日付
216 リジューの聖テレーズ ベリエール修道院への手紙 258項、1897 年 7 月 18 日付
217 教皇ピウス 11 世回勅『最もいつくしみ深い救い主』1928 年 5 月 8 日付(AAS
64
20[1928]169).
218 同上(AAS 20[1928]172).
219 教皇聖ヨハネ・パウロ 2 世 カテケ シス 1979 年 6 月 20 日付( オッセルヴァトーレ・ロマー
ノ紙』1979 年 6 月 22 日、1頁
220 教皇フランシスコ 聖マルタの家のミサでの説教 2014年6月27日付(『オッセルバトーレ・ロマ
ーノ紙』2014年6月28日、8頁
221 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 人類がイエスのみこころに奉献されてから100周年を記念するメッセー
ジ ワルシャワ、1999年6月11日 イエスのみこころの祭日) 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1999
年6月12日、5頁
222 同上
223 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 パレ巡礼に際してのリヨン大司教への手紙——人類がイエスの聖心に
奉献されてから100年を記念する教皇庁記念式典の式辞 1999年6月4日付、133項(『オッセルバトーレ
・ロマーノ紙 1999年6月12日、4頁
224 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話「祈りを繰り返し続けるべきこと」1655年8月22日。
225 教皇聖パウロ6世書簡『砂漠における通訳者』(1965年5月25日付 第4項(『奉献生活者提要』ボ
ローニャ ミラノ、2001年、3809番所載)
226 ダンテ・アリギエーリ 神曲——復活篇、新しきいのち』第19章5-6項:「私は宣言します、その
価値を考えると、こんなに甘い愛は、もし私の勇気が私を失わなかったら、私は声を上げて他のみんなを
恋に落ちさせるだろうと私に感じさせます」。
227 リジューの聖テレーズ『手稿A』45項

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2024年11月8日