(評論)第二バチカン公会議が始めた教会変革は未だに完了していない(Global Catholic )

(2026.9.17 Global Catholic  )

 第二バチカン公会議が開かれて64年が経った今、カトリック教会を大きく変革したが、より深い回心への呼びかけは未だ完了していない。真の試練は公会議を擁護することではなく、それを実践することにある。

*公会議が求めた「回心の精神」に、教会は真に身を委ねているか

 第二バチカン公会議は、完璧な教会を作り出すことを目的として開催されたわけではなかった。教会がその最も深いアイデンティティを再発見し、変化する世界に対してより説得力のある福音を語ることが目的だった。その開会から64年が経った現在、決定的な問題は、第二バチカン公会議が完全に「実施」されたかどうかではなく、「公会議が求めた回心の精神に、教会は真に身を委ねているか」である。

戦争、宗教的分断、移民、不平等、環境危機、そして制度への信頼の低下といった問題が蔓延する世界において、公会議のビジョンは依然として教会に課題を突きつけている。実際、教会の最も重要な役割のいくつかは、これから始まるのかもしれない。

 第二バチカン公会議の最大の功績の一つは、教会に対する新たな理解をもたらしたことだ。

 『教会憲章』は、教会を単に上から統治される組織としてではなく、神の民、すなわち洗礼を受けたすべての人々が共通の尊厳と責任を分かち合う共同体として描写した。また、教会は人類と神との一致、そして人類の統一のしるしであり、手段でもあると提示した。

 そのビジョンは根付き、信徒たちは自らの使命をより意識するようになった。聖書はカトリックの生活においてより中心的な位置を占めるようになり、司教協議会、教区評議会、教会運動、そして新たな形の信徒指導者の育成が世界中で発展してきた。

*公会議が提起した「全員参加」はまだ実現せず、「聖職者中心主義」も消滅していない

 

 しかし、「参加」というビジョンはまだ実現していない。多くの場所で、カトリック信者は依然として教会生活や使命において、「積極的な参加者」というよりも、「受け手」として扱われている。

 「聖職者中心主義」は消滅していない。女性たちは、意思決定や指導的立場における自分たちの役割について、依然として難しい問いを投げかけている。若者たちは、教会が自分たちの声に耳を傾けるよりも、「自分たちのことを語る方が簡単だ」と感じることが多い。

 世界代表司教会議(シノドス)のプロセスは、聖職者中心のモデルを超越することの可能性と難しさの両方を示してきた。2024年のシノドス総会は、交わり、参加、そして宣​​教を教会の未来の中心に据え、この取り組みを第二バチカン公会議の「神の民」というビジョンと明確に結びつけた。

 

*ヨハネ23世が求めたように「恐れることなく現代世界と向き合って」いるか

 

 第二バチカン公会議を始めたヨハネ23世は、公会議に「時代の徴」を読み取るよう求めたことで有名だ。それは、「現代社会が提案するすべてを受け入れる」という意味ではなく、「恐れることなく現代世界と向き合う」という意味だった。

 この点において、第二バチカン公会議は依然として革新的である。『現代世界憲章』は、人類の喜びや希望、悲しみや不安は、キリストの信徒にとっても関心事であると主張した。

 公会議はカトリック信者に対し、「現代文化から後退するのではなく、現代文化と真剣な対話を行うように」と奨励した。

 そのアプローチは大きな成果を上げてきた。カトリック教会の人権、平和、開発、信教の自由、社会正義への取り組みは、公会議によって大きく形作られてきた。例えば、公会議の信仰の自由に関する宣言『人間の尊厳』(Dignitatis humanae)は、信教の自由を人間の尊厳に基づく権利として肯定した。

 公会議はまた、カトリック教会と他のキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、そしてその他の宗教の信者との関係を大きく変革した。宗教的アイデンティティが疑念や対立の火種となりやすい現代において、これは特に重要な意味を持つ。

 しかし、社会が政治的、文化的に分断されると、対話は困難になる。カトリック教徒自身も、対立する陣営に分かれて生きる誘惑に駆られることが増えている。ある者は公会議以前の教会に戻りたいと願い、またある者は第二バチカン公会議をあらゆる問題に対する最終的な結論であるかのように語る。どちらのアプローチも、公会議のより深い目的を見失っている。

 

*公会議の深い目的は「福音によって絶えず回心する教会」の実現にあったが

 

 第二バチカン公会議は”政治的なプログラム”ではなく、その実績は典礼の変更、新たな組織構造、あるいは採用された改革の数だけで測れるものではない。その深い目的は、「教会の刷新」、すなわち「福音によって絶えず回心する教会」の実現であった。それは、まだ、完了していない。

 聖職者による性的虐待が世界の教会にもたらした危機は、「説明責任」、「透明性」、そして「組織文化」における欠陥を露呈させたが、これらは、「聖性と奉仕に向かう共同体としての教会」という、公会議の理解とは、両立し得ないものだ。

 移民、貧困層、そして社会の周縁に追いやられた人々への対応は、教会が声を聞かれる機会の少ない人々の中に真にキリストを見出しているかどうかを試すものでもある。

 

 第二バチカン公会議は、単なる一連の決定事項を完了させるだけのものではなかった。それは、「絶え間ない刷新」への招きだった。「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」というそのビジョンは、今もなお進行中のものである。

*『典礼刷新』だけでなく、公会議の成果全体を受け入れる必要

 

 もう一つ未解決の課題がある。それは、「公会議全体を受け入れること」だ。第二バチカン公会議は、典礼に関する議論に矮小化されがちだ。

 しかし、公会議は、ミサの祝い方という問題にとどまらず、はるかに大きな意義を持っていた。教会に対し、聖書に立ち返り、洗礼を受けたすべての人々の召命を深め、現代社会に関わり、キリスト教の一致を追求し、信教の自由を尊重し、人類に奉仕するよう呼びかけたのだ。

 フランシスコ教皇は、第二バチカン公会議60周年の式典において、「教会が自らを省察し、神の民としての自らを再発見した瞬間であった」と述べ、教会の本質を的確に捉えた。同時に、教会が絶え間ない批判、争い、分裂の場となることへの警鐘も鳴らした。

*「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」のビジョンはまだ進行中

 

 第二バチカン公会議はその構想と使命を果たしたと言えるのだろうか? 率直に言うと、答えは「イエス」でもあり「ノー」でもある。

 「イエス」。公会議はカトリック教会を根本的に変革した。その言語、神学、典礼、他のキリスト教徒や宗教との関係、信徒への理解、そして現代世界との関わり方など、すべてが永続的な影響を残した。公会議の決定は簡単に覆せるものではない。

 「ノー」。第二バチカン公会議は、単に完了すべき一連の決定事項ではなかった。それは、絶え間ない刷新への招きだった。「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」というそのビジョンは、今もなお進行中のものである。

 おそらく、60年を経て公会議がもたらした最大の贈り物はここにあるのだろう— 教会が性急に自己満足に陥ることを許さない。「教会は耳を傾けているか、奉仕しているか、対話能力があるか、そして福音を必要としている場所を聞き取れるほど、世界の傷に寄り添っているか」と問い続けているのだ。

 アジアでは、キリスト教徒は仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、そして土着信仰の信者たちと共に、少数派として暮らしていることが多い。対話と連帯を求める公会議の呼びかけは抽象的な理想ではなく、日々の生活に不可欠なものだ。ロヒンギャの人々から湾岸諸国の移民労働者に至るまで、この地域の傷は、まず耳を傾け、恐れることなく奉仕する教会を必要としている。

 第二バチカン公会議がカトリック教会に課した真の試練は、信者が公会議を擁護できるかどうかではなく、公会議の教えを実践できるかどうかにあるのだ。

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年9月19日

(評論)バチカンのシノドス研究グループ報告書で、司教候補者の選考方法にどのような変化があるのか?(Global Catholic)

 「シノダリティ(共働性)」に関する世界代表司教会議(シノドス)第16回総会で課題として残されたテーマを検討する10の研究グループのうち、司教候補者の選考基準などについて検討してきた第7グループが、9月8日に最終報告書の第2部を公表した。

 この報告書の提案の核心は、純粋に事務的に見える一文に集約されている。すなわち、(各国に駐在する)教皇大使は「教会会議と宣教の資質」を備えているべきであり、それによって、司教候補として推薦される人物に共通すべき資質、つまり、「交わりを築く能力、対話の習慣、地域文化に関する実践的な知識」を見抜くことができる、というものだ。

 教会用語を分かりやすく言い換えると、「ゲームのルールはこれまでと変わらない。変わるのは、候補者の名前が教皇の机に届けられる前に、誰の意見が聞かれるかということ」である。

 教会法では、各教区の司教に、司教候補者の推薦を委ねているが、報告書は、それを定めた第377条には手を加えず、規定されているこの推薦のプロセスをより体系的にするよう求めている。それは”静かな改革”であり、教皇の自発教令を必要とするものではない。必要なのは、「特定の感性を持つように訓練された、これまでとは異なるタイプの教皇大使を任命すること」だけであり、そうすることで、時間をかけて司教となる人々の人物像を再構築することができるのだ。

 また、この話の裏には別の物語もある。プレヴォー枢機卿を通じて、第7グループは、教皇から、決して自動的に得られるものではない権限、すなわち司教任命に関する教皇大使に送られた機密指示を閲覧する権限、そして多くの枢機卿でさえもアクセスできないファイルへのアクセス権を得たのだ。

 現在議論を巻き起こしている第7グループのこの報告書は、2025年5月8日に教皇に選出されたレオ14世自身の手による部分もある。教皇の選出される前のバチカンのポストで、世界中の司教を選出する仕組みに深く関わっていた人物が、今やその仕組みを公表しているのだ。

 以前、教会史家であるヴァルター・ブランドミュラー枢機卿は、現在のシノドス(共働性)体制を「プロテスタントのモデルに一部影響を受けている」として批判した。しかし、この報告書自体の系譜は、その批判に、実に巧みに反駁している。ここに外部から”輸入”されたものは何もなく、教会そのものと同じくらい古い協議の慣習を体系化したに過ぎないのだ。

 実際、この報告書は、批判者たちが最も恐れる解釈、つまり「司教任命を各派間の交渉に変えてしまう」ような関係者の数的拡大ではなく、法律で既に認められている関係者に限定した「傾聴の質の向上」という解釈を排除するために、細心の注意を払っている。つまり、「投票」ではなく、「異なる耳で聞く」ということだ。

 司教候補者に求められる感性が、長年にわたり、共通のスタイルで認識できる司教団を生み出すのか、それとも単にそれを生み出した”官僚主義”に埋没してしまうのかは、まだ分からない。

 この報告書で本当に問われているのは、教義というよりも”人口動態”の問題である。司教は一度任命されると何十年もその職にとどまり、ローマで署名されたいかなる文書よりもはるかに大きな影響力で、一度に一人ずつの任命を重ねることで、教会会議の真の姿を形作っていくのである。

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年9月19日

・2028年世界教会会議に向け欧州司教会議後援の「欧州におけるシノダリティ(共働性)の形成」に関する会議開く

At the European Synod Conference in Puchberg, near WelsAt the European Synod Conference in Puchberg, near Wels 

(2026.9.17 Vatican News   Gudrun Sailer – Wels, Austria)

  「シノダリティ(共働性)」に関する欧州会議(霊的、神学的フォーラム)がオーストリア、ヴェルスで、15日から3日間にわたって開かれ、教会の今後の”シノドスの道”の歩みにおける重要な分野として、洗礼、傾聴、人間関係、そして新たなリーダーシップの文化が挙げられた。

 「欧州におけるシノダリティの形成」と題された会議は、欧州カトリック司教協議会(CCEE)後援のもとにリンツ・カトリック私立大学が主催。CCEEのギンタラス・グルシャス会長、ラディスラフ・ネメット、ジャン=クロード・オロリッシュ両副会長のほか、ポルトガル、アイスランドからウクライナに至る31カ国、187名が参加した。

 17日の会見で、会議の議長を務めたリンツ・カトリック私立大学副学長でシノダリティ学科長のクララ・チシザール氏は、「今回の会議は、欧州各地の教会の経験を結びつけ、シノダリティに基づく協力の新たな形態を探求した」と述べた。

 会議冒頭の基調講演では、シノダリティの教会が持つさまざまな側面が取り上げられ、チェコのカレル大学社会学部教授で世界的に著名な神学者、哲学者のトマーシュ・ハリク師は、欧州の世俗化について「教会の影響力や信仰の伝承を弱める一方で、良心の自由を促進し、宗教と政治権力との密接な結びつきを断ち切った。キリスト教にとって、社会的特権の喪失は、浄化の過程となり、多元的な社会において教会が対話志向的な存在へと向かう道筋となる可能性がある」と述べた。

 オーストリアのカトリック神学者でオーストリア司牧研究所長のガブリエレ・エダー=カクル氏は、様々な国からの司牧事例を用いて、「欧州の教会が、移民問題、エキュメニズム、デジタルな生活様式、そして洗礼を求める若者の増加にどのように対応しているか」について語った。

 3日目の会議では、”シノドスの道”や教会改革の権威、イエズス会の神学者クリストフ・テオバルト師が、シノダル(共働的)な教会における共同責任の神学的基盤として「洗礼を受けたすべての人の平等な尊厳」を強調。教会法学者で独エアフルト大学カトリック神学部教授のミリアム・ウィーレンス氏は、洗礼による尊厳が指導や意思決定のプロセスに及ぼす具体的な影響を検証し、教会指導層への信徒や女性のより積極的な参加を可能にする、教会法上の既存の規定にも言及した。

 これらの講演をもとに、会議で参加者たちは21のグループに分かれ、シノダリティに関する世界代表司教会議で用いられた「聖霊に導かれた対話」という手法を用いて、特に傾聴、個人的体験、そして霊的識別を重視しながら議論を進めた。3日間はいずれも、典礼と祈りで始まり、祈りで締めくくられた。

*「経験、緊張、希望、矛盾、そして未解決の課題が結集された」

 グループ別協議からの報告を踏まえ、チシザール議長が、欧州のロードマップに向けたいくつかのテーマを提示。「議論を通じて、経験、緊張、希望、矛盾、そして未解決の課題が結集された」とし、会議の成果を「霊的な共鳴の場」と表現した。

 また、議論の中心の一つとなった「尊厳と責任の共通の基盤としての洗礼」に関して、議長は「洗礼以上に偉大なものがないのであれば、なぜ、洗礼は、教会としての私たちの生活において目に見える影響をほとんど及ぼさないのでしょうか?」と問いかけた。

 「傾聴」もまた、議論において中心的な役割を果たしたが、「教会は、人々が実際に抱えている疑問や、人々の経験が教会の在り方をどのように変える可能性があるかについて、もっと注意を払う必要がある。『傾聴』とは、自分の話が中断されることを許すこと」と議長は指摘。

 各テーブルグループの議論では、「もてなし」「親密さ」、そして「寄り添い」も強調された。議長は「この点において、教区は、人々が認められ、共同体の一員であることを実感し、信頼を築くことができる重要な場であり続けるでしょう」と述べた。

*「欧州の傷」

 また会議では、「欧州の傷」をテーマに、「戦争、避難、分極化、孤独、虐待、そして宗教からの疎外」について議論された。

 議長は、これらを「平和、共同体、尊厳、正義、そして希望への渇望」と対比させ、「若者を単に司牧プログラムの対象グループとして捉えるべきではありません。彼らは信者であり、真理を求める者であり、問いを投げかける者であり、教会の生活を形作り、責任を担うことができる才能ある個人です」と指摘した。

 また議長は、会議の議論を通して、「リーダーシップや意思決定プロセスにおける具体的な示唆を得ることができました」と述べた。グルーブ別協議の報告で、協議、責任、意思決定、説明責任のためのより明確な道筋、ならびに効果的な参加の必要が強調された。

 議長は「教会の役職は所有物ではない。それは奉仕、一致への奉仕、識別への奉仕、そして教会全体の使命への奉仕です」とも述べ、実践の場として、召命指導、司教やその他の指導者への伴走、そして召命アカデミーを挙げた。

 シノダリティ研究グループと欧州タスクフォースは、今後、今会議の議論の結果を評価し、各グループの報告書は、欧州司教協議会(CCEE)議長団に提出され、参加者にも送付される予定だ。会議の結果の評価、報告書を踏まえて作成されるこれからの(”シノドスの道”の)ロードマップは、2028年に開かれる世界教会会議に先立って欧州で行われるさらなる協議にも反映される。

 チシザール議長はまた、今回会議を踏まえたさらなる一歩として、来年にベルギーのルーヴァン=ラ=ヌーヴでシンポジウムを開く可能性にも言及した。

 

 

The European conference on synodality—a spiritual and theological forum—brought together Churches from all corners of the continent, and interpreted social developments in the light of the Gospel. Pastoral theologian Klara-Antonia Csiszar, Vice-Rector of the Catholic Private University Linz and head of its Department of Synodality, said the European Church Forum also connected experiences from local Churches and explored new forms of synodal cooperation.

The three-day event, “Shaping Synodality in Europe,” brought together 187 participants from 31 countries stretching from Portugal and Iceland to Ukraine at Schloss Puchberg, an educational centre near Wels—a city near Linz. In 21 table groups, participants worked with the “Conversations in the Spirit” method used during the Synod on Synodality, placing particular emphasis on listening, personal experience and spiritual discernment. Each of the three days began and ended with liturgies and prayers. The final prayer was led by Frère Matthew, Prior of the Taizé Community.

The content

The keynote theological presentations highlighted different dimensions of a synodal Church. The Prague theologian Tomáš Halík described the secularization of Europe as an ambivalent process. It has weakened the Church’s influence and the transmission of faith, but at the same time it has promoted freedom of conscience and broken the close ties between religion and political power. For Christianity, therefore, the loss of social privileges could also represent a process of purification and lead the Church towards a more dialogue-oriented presence in a pluralistic society. Gabriele Eder-Cakl used pastoral examples from various countries to illustrate how Europe’s Churches are responding to migration, ecumenism, digital ways of life and the growing number of young people seeking baptism.

On the third working day, Jesuit theologian Christoph Theobald emphasized the equal dignity of all baptized people as a theological foundation for shared responsibility in a synodal Church. Canon lawyer Myriam Wijlens examined the concrete implications of this baptismal dignity for leadership and decision-making processes. Wijlens also pointed to existing provisions in canon law that allow for greater participation by lay people and women in Church leadership.

From the table-group reports

Drawing on the reports from the table groups, Csiszar identified several themes for a European roadmap. The discussions had brought together experiences, tensions, hopes, contradictions and open questions. The pastoral theologian described the results of this conference as “a space of spiritual resonance.”

One particular focus was baptism as the common foundation of dignity and responsibility. Csiszar posed the question: “If nothing is truly greater than baptism, why does it so often have so little visible influence on our life as a Church?”

Listening also played a central role in the discussions. The Church needs to become more attentive to the questions that actually concern people and to how their experiences might change the way the Church acts. “Listening means allowing oneself to be interrupted,” Csiszar said. The table groups also emphasized hospitality, closeness and accompaniment. In this regard, parishes would remain important places where people could experience recognition and community and develop trust.

“The wounds of Europe”

War, displacement, polarization, loneliness, abuse and religious alienation were discussed under the heading “The wounds of Europe.” Csiszar contrasted these with a longing for peace, community, dignity, justice and hope. Young people, the theologian said, should not be regarded merely as a target group for pastoral programs. They are believers, seekers, questioners and gifted individuals who can help shape the life of the Church and take on responsibility.

Csiszar also saw concrete implications for leadership and decision-making processes. The table-group reports called for clearer pathways for consultation, responsibility, decision-making and accountability, as well as effective participation. An ecclesial office “is not a possession. It is service—service to unity, service to discernment and service to the mission of the whole Church,” she said. As possible spaces for experimentation, Csiszar mentioned vocation coaching, accompaniment for bishops and other leaders, and vocation academies.

The Synodality Research Group and the European task force will now continue to evaluate the results of these discussions. The table-group reports are to be submitted to the Council of European Bishops’ Conferences (CCEE) Presidency and sent to the participants. The resulting roadmap is also intended to feed into further European consultations ahead of the 2028 assembly of the Synod at the level of the universal Church.

Csiszar also mentioned a possible symposium in 2027 in Louvain-la-Neuve, Belgium, as a further step. The Catholic Private University Linz organized the “Shaping Synodality in Europe” conference under the patronage of the CCEE. Its President Archbishop Gintaras Grušas and the two Vice-Presidents, Cardinal Ladislav Nemet and Cardinal Jean-Claude Hollerich, represented the CCEE Presidency at the conference.

2026年9月18日

・シノドス事務局が第6、第7研究グループの最終報告書発表ー司教団と修道会の連携強化、教会の意思決定機関への一般信徒参加など提言

(2026.9.8  Vatican News)

 

 バチカンのシノドス事務局が8日、先のシノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)の最終文書で残された課題を検討する10の研究グループのうち、「司教、奉献生活、および教会団体間の関係」を検討した第6グループの最終報告書、および「司教の人格と務めに関するいくつかの側面(特定の側面」を検討した第7グループ最終報告書の第2部(アド・リミナ訪問に関する部分)を公表した。

 事務局が発表したプレスリリースによると、教皇レオ14世は、「(各研究グループで)行われた省察と識別の実りを神の民全体と分かち合い、それによって『シノダル(共働的)教会』の本質的な特徴の一つである『透明性と説明責任』を具体的に表現するため」、今回の二つのグループの最終報告書を公表するよう指示された、としている。

 また、「この二つの文書は、各研究グループの作業終了時に教皇に提出された提案をまとめたもの」であることも強調。「これらはすでに決定された事項ではなく、所管の教皇庁各部局およびシノドス事務局が、教皇に提出するための実行可能な提案へと具体化していくべき指針」と説明している。

 公表に当たって、シノドス事務局長のグレック枢機卿は、これらの研究グループの最終報告書を要約する形で、「”関係性”の変革なくして宣教はありません。司教と修道会との関係、司教と彼に委ねられた神の民との関係、また、地方教会、同一地域内の諸教会、そして教皇との関係においても、同じ原則が当てはまります。それは、互いに耳を傾け、理解を深め、賜物を分かち合うこと。二つの文書は、『差別化された共同責任』とシノドスが呼ぶものに焦点を当てています」と述べた。

 今回公表された二つの研究グループの最終報告書のうち、第6グループのテーマは、「司教、奉献生活、教会共同体間の関係に関する文書を、シノダル(共働的)かつ宣教的視点から見直すこと」、第7グループは、5月に公表された第1部「司教職候補者の選定基準、司教の司法機能」などに続く第2部「アド・リムナ(各国司教団のバチカン定期訪問)」に関するもの。

 

 

【第6グループの最終報告書】

—”関係性”の回心を促進する

  第6グループの最終報告書は、「司教、奉献生活、および教会団体―信徒団体、教会運動、新しい共同体―の間で『関係性の回心』を促進する」という緊急の必要性に関して、教皇に考察と実践的な提言を提示するために作成された。目的は、機能的あるいは単に階層的なアプローチを超え、「信頼、相互の傾聴、そして賜物の寛大な交換に基づいた関係」へと進むことにある。これには、「内面的(心や態度)および構造的(言葉、方法、出会いの場)な変革への具体的な取り組みが伴う」としている。

 提案は、『司教と奉献生活との関わり』『司教協議会と修道会総長協議会との協力』、そして『教会団体と地方教会との関係』という3つの分野を中心に構成されており、「その結果は段階的に比較・検討され、最終的に実践志向の総合報告書としてまとめられた」という。

 

 

 

—司教と奉献生活との関わり

 

 「司教と奉献生活との関わり」では、「新たな修道会、使徒的生活団体、および新たな形態の承認を判断するための神学的・法的な基準の策定」を提案している。

 具体的には、① 各教区に奉献生活担当の代表者または副司教を任命し、司教、奉献者、主要修道院長協議会による年次会合を開催する ②多くの修道会が直面している、召命の減少、共同体の廃止、資産の配分といったよりデリケートな移行期において、個別の訪問、対話の場、霊的支援を通じて、シノダルの精神に基づく伴走を行う、などを提示。

 そのうえで、「宣教、養成、男女平等、報酬、資産管理を規定する教区と修道会間の義務的な契約または了解覚書の締結」を求めており、「これには調停委員会、期限、説明責任の指標が伴う」としている。

 

—教会の意思決定機関への奉献奉仕者、一般信徒の代表参加を提言

 

 構造的なレベルにおいては、司牧協力と利用可能な(人的、物的)資源を規定する明確な手順、司教協議会への修道会代表の参加、そして意思決定機関への奉献生活者および一般信徒の代表としての参加を求めている。

 

—教区司牧計画への教会団体の組み込み

 教会団体と地方教会との関係については、「具体的な課題や実践を特定できる指導者や司教への質的な傾聴に裏打ちされた、(信徒団体、運動、新しい共同体の)用語の明確化を提示。

 また、教会団体を教区の司牧計画や参加型機関―諮問機関、司牧評議会、教会会議―に体系的に組み込むことを求め、「共通のプロジェクト、資源の共有、カリスマの相補性の促進に向けた団体間のネットワーク構築」を提案している。

 養成の分野では、信徒団体会員向けの「リーダーシップ、意思決定プロセス、自由と交わりの関係に関するプログラム」、神学生向けの「一般信徒の召命に関する養成」、そして司教向けの「これらの可能性と特徴に関する養成」を提案。とりわけ、個人的な交流や定期的な訪問を通じて促進される「相互の意識改革の必要性」を強調している。

 

 

【第7グループ最終報告書第2部】

—アド・リミナ(各国司教団のバチカン定期訪問)に対する新たな理解と手続きの見直し

 第7グループ最終報告書の第2部は、「教皇フランシスコの使徒憲章『Praedicate Evangelium』に沿って、アド・リミナ(各国司教団のバチカン定期訪問)に対する新たな理解と手続きの見直しを提供することを目指している。

 

—バチカン定期訪問を司教団と修道会が共同で準備するなど協力強化

 司教協議会と主要修道院長会議との協力に関して、まず、アド・リミナ(各国司教団のバチカン定期訪問)を両者が共同で準備することを提案している。これにより、使徒座との対話が、特定の地域の教会全体の現実を反映したものとなるようにするためだ。

 また、 Retreat(日常生活を離れて祈りや人生を見つめ直すための静修=黙想会)やJubilee(聖年を記念する行事)といった兄弟愛を深める機会の創出、相互理解を促進するための各事務局による年次会合、神学校、修練院、養成センターにおいて共同で提供される「シノダリティ(共働性)」「教会論」「リーダーシップ」などをテーマとした共同養成、そして辺境地域に奉仕するための年次の多分野横断的取り組みも提案している。

 

 

—アド・リミナの準備には一般信徒も参加すること

 報告書は、アド・リミナが「単に地方教会の内部運営に関する事項のみを扱うのではなく、キリスト教共同体が世の中で果たすべき使命を支えるものでもあり、それによって、日常の司牧生活の宣教的回心のために奉仕する手段となるべきだ」と強調。

 そのうえで、アド・リミナを「地方教会と使徒座との間の通常の対話の枠組みの中に位置づけ、その準備、実施、およびフォローアップに関するもの… 宣教の実りを見据え、教区の組織、意思決定プロセス、および教会主体の間の関係において達成された回心」と規定している。

 またアド・リミナの準備について、教区司教に対し、事前に一般信徒を招集するよう求め、そうすることで、「教会的な見極めを通じて、一般信徒が共同責任を持って、訪問に先立ち聖座に送付される教区の状況に関する予備報告書の作成に参加できるようになる」と言明。

 教区での検討の結果は、教区管区の司教総会または司教協議会に提示され、司教たちが、「司牧上の協力と共同計画を強化し、また、可能な限り共同の識別による成果として、その管轄区域の可能性と必要性を概観したものを、教皇とその協力者たちに提示することを目的として、教区の状況を共同で評価する」ことを提言している。

 

 

—司教たちのローマ滞在において霊的側面の優先

 アド・リミナにおける司教団のローマ滞在に関しては、霊的側面への配慮が優先されることを強調。

 司教たちが小グループに分かれ、訪問に十分な時間を確保することを推奨し、「『賜物の交換』として理解され、共議的精神に基づいて行われる対話は、率直かつ親密で、一方通行ではなく、現地教会の豊かさと必要性の両方が浮き彫りになり、優れた実践例の共有が促進されるものでなければならない」としている。

 またアド・リムナ実施にあたって、「最も適切とみなされる方法により、教区代表団が司教に同行することが望ましい… その際、現地レベルで準備に関わった者たちを優先すべきである」と述べている。

 そして、アド・リミナ終了後について、「事後対応には特に注意が払われる必要がある」とし、①バチカンの各機関は、司教協議会および東方教会の階層組織に対し、訪問に関する報告書を送る②各教区司教は、ローマへ同行した信徒と共に、その成果について地元の教会に報告を行う③その後、参加機関および管轄の教区事務局が、取るべき措置を検討する—などを具体的に提示。

 アド・リミナの結果、「さらなる対話を必要とする問題が浮き彫りになった場合、オンライン会議や、バチカンの代表者による”現地訪問”が手配される」ことがあり得る、とし、「全プロセスを評価するため、独立した教会委員会が定期的に設置されること」を提言している。

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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・バチカンのシノドス事務局による第6、第7研究グループの最終報告の説明

新しい修道会を選定するための共通基準、各教区における奉献生活担当者の配置、そして養成、男女平等、報酬、資産管理を網羅する契約書または覚書。さらに、地域教会全体と共同で準備されたアド・リミナ訪問は、「一方通行」ではない対話における「贈り物の交換」として体験され、独立した評価の対象となる。

 

 本日、シノドス事務局は、第6研究グループの最終報告書「司教、奉献生活、および教会団体間の関係に関する文書のシノドス宣教的観点からの改訂」と、第7研究グループの最終報告書「司教の人格と職務のいくつかの側面(司教候補者の選任基準、司教の司法機能、使徒的訪問の性質と過程)の宣教的シノドス的観点から」の第2部(使徒的訪問に関する部分)を公表する。第1部は5月5日に公表されている。

 教皇レオ14世は、最終報告書を公開することで、行われた考察と識別の成果を神の民全体と分かち合い、それによってシノドス教会の本質的な特徴の一つである透明性と説明責任を具体的に表現するよう指示しました(最終文書、第97項参照)。この2つの文書は、それぞれのグループの作業の終了時に教皇に提出された提案を示している。したがって、これらは既に決定されたものではなく、所管省庁とシノドス事務局が教皇に提出する実行可能な提案に翻訳するよう求められる指示である(シノドス事務局の覚書、2026年3月3日参照)。

「この二つの報告書は、一見すると異なる問題を取り上げているように見えるかもしれませんが、どちらも同じことを述べています。それは、改宗した関係なしには宣教は成り立たないということです。司教と修道会、司教と彼に託された神の民、地方教会、同じ地域の教会、そしてローマ司教の間には、同じ原則が適用されます。私たちは互いに耳を傾け、報告し合い、贈り物を交換します。どちらの文書も、シノドスが『分化された共同責任』と呼んでいるものを中心に据えています」と、シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿は述べている。

【第6研究グループの最終報告書】

 第6研究グループの最終報告書は、司教、奉献生活者、そして信徒団体、教会運動、新しい共同体といった教会組織の間で「関係性に基づく変革」を促進する必要性について、「教皇聖下に考察と実践的な提案を提供する」ために作成された。その目的は、機能的あるいは単なる階層的なアプローチを超え、信頼、相互の傾聴、そして惜しみない贈り物の交換に基づいた関係へと移行することにある。これは、内面的な変革(心と態度)と構造的な変革(言語、方法、そして出会いの場)の両方において、具体的な取り組みを必要とする。

 2024年4月から2026年2月にかけて会合を開き、3つのテーマ別小グループに分かれて活動したこのグループは、司教、聖職者、教会団体の代表者へのアンケート調査やインタビューを通して直接意見を聴取することを活動の基盤とした。得られた結果は段階的に比較検討され、最終的に実践に即した総合的な結論へと至った。

 これらの提案は、司教と修道生活者との関係、司教協議会と修道会総長協議会との連携、そして教会団体と地方教会との関係という3つの分野を中心に構成されている。

 最初の分野では、グループは、新しい修道会、使徒的生活会、および新たな形態の承認を識別するための神学的および法的基準の開発、各教区における奉献生活担当の代表者または代理者の任命、司教、奉献者、および大管長会議による年次会合、そして多くの修道会が経験しているより繊細な移行期(召命の減少、共同体の解散、資産の配分など)における、個別の訪問、対話の場、および霊的支援を通じたシノドスによる支援を提案している。報告書はまた、教区と修道会の間で、宣教、養成、男女平等、報酬、および資産管理を規定する義務的な契約または覚書を締結し、調停委員会、期限、および説明責任指標を付記することを求めている。

 司教協議会と修道会総長協議会の連携に関して、報告書はまず、使徒座との対話が特定の地域の教会全体の実態を反映できるよう、両者が共同でアド・リミナ訪問を準備することを提案している。

 また、相互理解を深めるための黙想会や祝祭などの友愛の機会、それぞれの総務局の年次会合、神学校、修練院、養成センターで共同で提供されるシノドス性、教会論、リーダーシップに関するモジュール、そして周辺地域に奉仕する年次の学際的取り組みを提案している。

 構造レベルでは、報告書は、司牧的連携と利用可能な資源を規定する明確なプロトコル、司教協議会への宗教代表者の参加、そして意思決定機関における奉献者と信徒の完全な代表を求めている。

 教会団体と地方教会との関係に関して、報告書は、具体的な課題や実践を特定できる議長や司教への質の高い傾聴を基盤として、用語の明確化(信徒団体、運動、新しい共同体など)を求めている。

 また、教会団体を教区の司牧計画や参加型組織(諮問機関、司牧評議会、シノドス会議など)に体系的に組み込まれるよう求め、共通のプロジェクト、資源の共有、カリスマ的補完性の促進のために、団体間のネットワークを構築することを提案している。

 養成の分野では、団体会員向けにリーダーシップ、意思決定プロセス、自由と交わりの関係に関するプログラム、神学生向けに信徒の召命に関する養成、司教向けにこれらの教会的現実の可能性と特徴に関する養成を提案している。何よりも、このグループは、個人的な交流と定期的な訪問を通して育まれる、相互の意識改革の必要性を強調している。

 

【研究グループ7の最終報告書の第2部】

 第7研究グループ最終報告書の第2部は、フランシスコ教皇の使徒憲章『福音宣教憲章』に沿って、アド・リミナに関する新たな理解と手続き上の見直しを提示することを目的としている。報告書は、訪問は地方教会の内部運営に関する事項のみを扱うべきではなく、キリスト教共同体が世界で遂行するよう召されている使命を支援するものでなければならず、それによって日常の司牧生活における宣教的転換に奉仕する手段となるべきであることを強調している。

 評価基準として提案されているのは、宣教活動の成果という観点から、教区組織、意思決定プロセス、教会関係者間の関係において達成された変革である。提案では、アド・リミナを地方教会と使徒座との間の通常の対話の枠組みの中に位置づけ、その準備、実施、フォローアップについて規定している。

 訪問の準備として、報告書は教区司教に対し、信徒を招集し、教会的な識別を通して、教区の現状に関する予備報告書の作成に共同責任をもって参加するよう求めている。この予備報告書は、訪問に先立ち教皇庁に送付される。教区における一連のプロセスの結果は、教区管区または司教協議会の司教会議に提示される。司教たちは、司牧上の協力と共同計画の強化、そして可能な限り共通の識別の成果として、教皇とその協力者たちに教区の潜在力とニーズの概要を提供することを目的として、各教区の現状を共同で評価する。

 ローマ滞在に関しては、霊的な側面への配慮が最優先事項とされています。報告書は、司教たちを小グループに分け、訪問に十分な時間を確保することを推奨している。対話は「贈り物の交換」として理解され、協力的な精神で行われるべきであり、率直で友好的、かつ一方的なものであってはならず、地方教会の豊かさとニーズの両方が明らかになり、良き実践の普及が促進されるべきだ。報告書はまた、アド・リミナ訪問中は、最も適切と思われる方法で、教区代表団が司教に同行することが望ましいと考えており、地方レベルで訪問準備に携わった人々を優先すべきであるとしている。

 特にフォローアップに重点が置かれる。ローマ教皇庁の各機関は、訪問に関する報告書を司教協議会および東方教会の階層組織に提出する。各教区司教は、ローマに同行した信徒とともに、訪問の結果を地元の教会に報告する。参加機関および管轄の教区事務所は、取るべき措置を検討する。訪問によってさらなる対話が必要な問題が明らかになった場合は、オンライン会議や教皇庁代表による現地訪問が手配される。最後に、独立した教会委員会が定期的に設置され、プロセス全体を評価する予定である。

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*10の研究グループは、ローマ教皇庁の各省庁とシノドス事務局との協力に関する教皇フランシスコの文書により、2024年3月に設立された。

*第7研究グループは、委託された3つ目のテーマである「司教の司法機能」に関する作業を継続しており、作業完了後にその成果が公表される予定。

2026年9月9日

(評論)シノダル(共働的)教会に必要なのは構造的浄化、聖職者主義の解体だ(Global Catholic)

(2026.8.26 Global Catholic   Jean D’Cunha)

 聖職者主義とシノダリティ(共働性)は正反対のものである。聖職者の特権、無償の家事労働、閉鎖的な統治を終わらせ、信徒の洗礼の尊厳を取り戻すことこそ、シノダル(共働的)教会に必要な構造的な浄化だ。

*「聖職者主義の解体」とは、洗礼の尊厳を取り戻し、大多数の信徒の預言者としての使命を回復すること

 聖職者主義の解体とシノダルな教会であることは、表裏一体の関係にある。聖職者主義が教会の最も奥深く、最も遠い隙間に根付いた古くからの腐敗だとすれば、シノドス主義は構造的な浄化を意味する。

 聖職者主義の解体とは、聖職制度を解体することではなく、洗礼の尊厳を取り戻し、教会の大多数の信徒が持つ預言者としての使命を回復することだ。 聖職者主義とは、カトリック教会を排他的な男性聖職者のみで構成される組織へと体系的に縮小する現象。叙階を奉仕への召命から「地上における神の代理人」としての権力と権威の崇高な領域へと高めることで、聖職者を孤立した高位の地位に置き、崇拝と偶像化の対象とする。 対照的に、洗礼を受けた信徒は受動的で従順な傍観者に追いやられ、密室で行われる聖職者主導の意思決定から締め出されている。 シノダリティは、教会を、傾聴し、識別し、平等な「神の民」として、意思決定、責任、説明責任を共有するという第二バチカン公会議のビジョンを復活させることで、厳格な階層制を覆す。それは、司祭職を謙遜な奉仕として捉え直し、密室での布告を、聖職者と信徒間の「円卓会議」による傾聴、対話、祈りによる識別へと置き換える。

*聖職者の特権打破には、人間尊重、公正な慣行、共同意思決定、責任感を根付かせる必要

聖職者の特権を打破するには、日常的な敬意の文化を解体し、基本的な人間尊重、尊厳、公正な慣行、共同意思決定、そして責任感を根付かせる必要がある。

 指輪にキスをしたり、ひざまずいたり、「閣下」や「閣下」といった敬称を使ったりといった、形式的な敬意の表れをなくすことで、隷属的な称号を根絶しよう。「おはようございます、X枢機卿様」や「Y司教様」といった、標準的で敬意のこもった呼びかけは、彼らを王族のように崇めることなく、人間性を尊重する。

 聖職者による階層行為を根絶するため、信徒や修道女が食事の列を乱したり、聖職者に料理を配るために皿を片付けたりする光景をなくすべきだ。司祭や司教は、他のすべての人と同様に列に並び、同じ手順に従うべきである。

 教会における搾取的な介護労働を終わらせ、家事労働を専門職化するために、修道女たちが聖職者のために無償の家事労働(料理、洗濯、家事など)を提供するという古くからの慣習を拒否することで、本来の使命を取り戻すよう働きかけよう。これは霊的な義務ではなく、差別的で制度化された無償の介護労働だ。

 修道院の指導者や教会機関は、こうした隷属状態を解消するために、これらの責任を、標準的で公正な労働慣行に基づいて雇用された、専門的で倫理的に適切な報酬を受け取る労働者に移管し、修道女たちが本来の使命に専念できるようにすべきだ。

 

 *信徒が共同責任を担うために、進んで奉仕活動をし、司祭と相談しながら教会活動を主導すること

 共同責任を担うためには、聖職者の許可を待つのではなく、自ら進んで奉仕活動に参加したり、小規模なアウトリーチグループを立ち上げたり、聖職者と相談しながら積極的に教会活動を主導したりすることで、洗礼の使命を再認識しよう。洗礼は教会における完全な所有権を与えるものであり、単なる招待券ではない。

 聖職者から財務管理、施設管理、あらゆる司牧上の問題といった非聖礼典的な職務を免除することで、聖職者の負担を軽減し、彼らが本来の霊的・牧会的な使命に専念できるようにする。一方、運営上のガバナンスやその他の社会問題は、信徒の専門家が担当する。

 聖職者も過ちを犯す人間であることを認めることで、聖職者に対する神秘主義を払拭しよう。そうすることで、聖職者の完璧さという神話が払拭され、真の組織的責任体制の構築につながる。

 閉鎖的な統治体制を、開かれた教区評議会やその他の意思決定会議、共有された財務報告、そして信徒と聖職者による共同意思決定の枠組みに置き換えることにより、構造的な透明性を制度化する。

*聖職者による性的虐待に、”ゼロ・トレランス”の徹底、隠蔽を永久に断ち切ることも必要

 

 聖職者による未成年者および社会的弱者に対する性的虐待に対し、妥協のない透明性、改正された教会法の遵守、そして被害者への強力な支援をもって立ち向かい、性的虐待に対するゼロトレランス政策を徹底し、隠蔽の悪しき遺産を永久に断ち切る。

 委員会や省庁の場で、「上からの一方的な議論」を「祈りながら、注意深く耳を傾けること」に置き換え、「支配」ではなく「識別力」を実践し、疎外された人々の声が最終決定に直接反映されるようにする。

 

*信徒の専門知識を尊重、聖職者の不適切行為には厳格な対応を

 

 社会経済問題や運営上の問題を扱う一般人の専門家を認め、その地位を高めることで、専門的な一般人の専門知識を尊重し、聖職者が地位上の権限を用いて一般人の専門知識を横取りしたり、不当に能力を主張したりする慣行を終わらせる。

 聖職者が不適切な行政判断を下したり、配慮に欠ける説教をしたり、性差別的な立場を取ったりした場合は、陰口をたたくのではなく、率直で建設的なフィードバックを与えるべきだ。なぜなら、沈黙は聖職者主義を助長するからである。

*Jean D’Cunha博士は、女性の労働移動と、ジェンダー、気候変動、紛争、移住の関連性に関する継続的な研究を行っているジェンダー専門家。彼女は国連女性機関で世界各地で上級管理職および技術職を務め、国際移住およびディーセントワーク担当上級グローバルアドバイザーを務めた。現在は、インド・カトリック司教協議会(CCBI)およびアジア司教協議会連盟に対し、COP30(気候変動に関する第30回締約国会議)の成果を地域レベルで実施するための助言を行っている。

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年8月29日

「(”シノドスの道”の)歩みが、キリストをより明確に宣べ伝えるのに役立っているのか」ーオランダの司教が教皇に公開書簡

(2026.8.26  カトリックあい) 

 Diane Montagna from Diane Montagna’s Substack dianemontagna@substack.com が24日付けで伝えるところによると、 オランダのスヘルトーヘンボス教区のロブ・ムツァールツ補佐司教が、教皇レオ14世にあてた公開書簡で、現在進行中の「シノダリティ(共働性)に関するシノドス(世界代表司教会議)」の歩みに疑問を呈した。

 13日に自身のブログに掲載した公開書簡の中で、ムツァールツ補佐司教は、「問題は、(シノドスの道の歩み)すべてが実際に何をもたらしたのか? 会議が何回開かれたか、あるいは報告書がいくつ出されたかではなく、キリストをより明確に宣べ伝えられたか、カトリックとしてのアイデンティティが深まったか、そしてより多くの人々が回心に至ったかということではないか」と問いかけている。

 教皇フランシスコが始めた”シノドスの道”の歩みは、23,24両年に開かれた「シノダリティ(共働性)に関するシノドス(世界代表司教会議)』総会を経て、2028年10月に開催予定の世界教会会議に向けて続いており、シノドス事務局が示した指針では「参加者が2028年以降もこのプロセスを継続する意思を持っていることが不可欠である」とし、「結論」ではなく「継続」が前提となりつつある。

 こうした流れに対して、以前から教皇フランシスコの路線に批判的な高位聖職者の間で、ムツァールツ司教と同様の”懸念”を示しているのは、レイモンド・バーク枢機卿、ヴァルター・ブランドミュラー枢機卿、ロバート・サラ枢機卿、ゲルハルト・ミュラー枢機卿、ジョセフ・ゼン・ゼキウン枢機卿、フアン・サンドバル・イニゲス枢機卿、ジョセフ・ストリックランド司教、アタナシウス・シュナイダー司教、マリアン・エレガンティ司教などがいると言われている。

 教皇も、シノドス事務局もこうした声に、きちんとした答えをし、”シノドスの道”を歩み続けることに重要性を改めて説き、参加を求める努力が必要だろう。

*以下にオランダ語原文からの翻訳を掲載する。

 

教皇レオ14世聖下への公開書簡

聖父様、

 聖ペトロの後継者としてお預かりになった御職に対し敬意を表し、また、キリストが使徒たちの上に築かれた教会との連帯を胸に、この公開書簡をもって御方に申し上げさせていただきます。これは決して軽率な行為ではありません。私がこれらの言葉を公に述べるに至ったのは、他のあらゆる教会の配慮を超越する、究極の懸念、すなわち「魂の救い」によるものです。Salus animarum suprema lex――魂の救いは最高の法です。

 私の問いは単純かつ深刻なものです。すなわち、シノドスのプロセスは、魂を実際にキリストに、そして永遠の救いに近づける助けとなるのでしょうか。それこそが、私にとって決定的な問いです。

 聖父様、私は、ペトロの務めが、その務めから離れた者には想像することしかできないような責任を背負っていることを、十分に理解しております。まさにそれゆえに、私は教皇の務めに対する敬意を欠くからではなく、その務めへの愛から、これらの言葉を記しているのです。何しろ、ペトロはキリストから、兄弟たちを団結させるという使命だけでなく、信仰において彼らを強めるという使命も受けたのです:「そして、あなたがたは、悔い改めたならば、兄弟たちを強めなさい。」結局のところ、世がすでに考えていることをただ繰り返すだけの教会は、世にとってほとんど何の役にも立ちません。世には、愛をもって、しかし恐れずに、キリストを指し示してくれる教会が必要なのです。

「シノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)」に対する私の懸念は、こうした観点から理解されるべきものです。そして何よりも、教会に絶え間ないプロセスではなく、神への道についての明確さを求めている一般の信徒にとって、これらすべてが何を意味するのか、私は自問しています。

 したがって、この手紙は特定の個人に対する非難ではありません。また、シノダリティのプロセスに誠実に尽力してこられた多くの方々の善意を否定するつもりもありません。善意は評価されるべきものです。しかし、善意があるからといって、その成果を吟味する義務から免れるわけではありません。

 キリストご自身が、そのための単純な基準を私たちに与えてくださいました。「その実によって、彼らを知ることができる」。それゆえ、長年にわたるシノドスの協議、集会、報告書、文書を経て、今こそ、あらゆる透明性をもってその実について問う時が来たのだと私は考えます。

 それは、皮肉からではなく、教会への愛からなのです。理想化された過去への郷愁からではなく、教会の未来への配慮からであります。また、教会政治的な争いを繰り広げるためではなく、あらゆる議論の背後には、それよりもはるかに重要な現実――キリストが御自身の教会に託された魂たちの永遠の救い――があるからです。その配慮に基づき、聖父様、私は以下の考察を御提示いたします。

*「シノダリティ」に関するシノドス

 「シノダリティ(共働性)」に関する世界代表司教会議(シノドス)を、その目的のみに基づいて評価するなら、容易に肯定的な記事を書くことができるでしょう。人々の声に耳を傾けました。議論が行われました。何千人もの人々に意見を求めました。司教、司祭、修道者、そして信徒たちが一堂に会しました。共同体、参加、そして宣教について語り合われました。さらには、「シノダリティ」、「傾聴」、「識別」、「参加」、「御霊による対話」、「プロセスの推進」といった、新たな教会用語さえ生まれました。

 しかし、この一連の出来事は、まったく異なる視点からも捉えることができます。あえて不都合な質問を投げかけてみましょう。

 「これらすべては、実際に何をもたらしたのでしょうか?」 開催された集会の数ではありません。作成された報告書の数でもありません。参加した人の数でもありません。そうではなく、「信仰はより強固になったでしょうか?」「キリストはより明確に宣べ伝えられたでしょうか?」「カトリックとしてのアイデンティティは深まったでしょうか?」「より多くの人々が回心に至ったでしょうか?」「日曜日のミサへの出席率は向上したでしょうか?」「司祭への召命は増えたでしょうか?」「カテキズム教育はより力強いものになったでしょうか?」「聖体に対する敬意は高まったでしょうか?」「教会の道徳教義はより明確になったでしょうか?」「宣教への勇気は増したでしょうか?」

 このような問いを投げかけるなら、シノドスを成功と見なすことは到底できません。

 さらに、もう一つ付け加えるべき点があります。シノドスの取り組みは、実際にはまだ完了していません。公式な実施段階は続いており、教区、国、大陸ごとの会合を経て、最終的には2028年10月にローマで開催される教会総会へと至ることになっています。2026年5月、バチカンはそのための新たな詳細なロードマップを公表しました。それゆえ、批判は一層重要性を増しています。かつて2021年から2024年までのシノドスとして始まったものが、恒久的な統治形態になりかねないのです。

 まず注目すべき点は、その名称「シノダリティに関するシノドス」にあります。伝統的に、シノドスは教会が何らかの事柄について議論する必要があるために招集されてきました。伝道、結婚と家族、司祭職、聖体、聖書、異端、司牧上の危機、あるいは具体的な問題などについてです。しかし、「シノダリティに関するシノドス」では、そのプロセスそのものが議題となっています。これは、今後どのように会議を行うべきかを議論するために、延々と会議を続けるようなものと言えるでしょう。

 教会には、古代から公会議や教会会議という伝統があります。使徒たちはエルサレムに集まりました。司教たちは互いに協議しました。教皇たちは司教たちと相談しました。主要な公会議は、教会全体の協議なしには考えられません。しかし、それは恒久的な教会のパラダイムとしての「シノダリティ」とは異なります。古典的な教会会議は手段に過ぎませんでした。現代の教会会議に関する議論においては、シンオダリティそのものが目的となりかねない危険性があります。そして、まさにそこに、伝統的なカトリックの視点から見た問題の根源があります。

*教会とは「対話」ではなく、受け継がれた現実だ

 

 なぜなら、教会は私たちの対話から始まるのではありません。教会はキリストから始まるのです。これは当然のことのように聞こえますが、その影響は甚大です。キリストは討論の集まりを設立されたのではありません。キリストは使徒たちを召され、彼らに権威を与え、宣教し、洗礼を授け、教えるために彼らを遣わされました。

 「だから、行って、すべての民を私の弟子にしなさい」 。その際、方向性が極めて重要です。信仰は、教会がまず人々が何を信じているかを洗い出し、その後、それらの経験すべてから共通の確信を導き出すことによって生まれるのではありません。信仰は受け継がれるものです。

 パウロは、そのことを示すために、常に「受け取る」、「伝える」、「守る」といった言葉を用いています。教会が啓示を所有しているのは、それを自ら考案したからではなく、それを受け取ったからです。つまり、キリスト教は本質的に民主的であることはできないということです。それは、民主主義という国家形態が悪いからではなく、真理が多数決によって生まれるものではないからです。

 もし明日、カトリック信者の90パーセントが、聖体におけるキリストの真の臨在をもはや信じなくなったとしても、それによってキリストの臨在が現実的に薄れることはありません。もし80パーセントが特定の道徳的教義を拒否したとしても、それによってその教義が自動的に誤りになるわけではありません。真理は合意によって生み出されるものではありません。これこそが、シノドス・プロジェクトをめぐる最初の大きな緊張の源となっています。

*「耳を傾ける」:誰に?

 このプロセス全体を通じてのキーワードは、「耳を傾ける」(まるで私たちがこれまで一度もそうしたことがないかのように)でした。それ自体に異論の余地はありません。司教は耳を傾けなければなりません。司祭も耳を傾けなければなりません。キリスト教徒は互いに耳を傾けなければなりません。自分の群れに決して耳を傾けない羊飼いは、良い羊飼いとは言えません。しかし、すぐに次のような疑問が浮かびます。教会は、何よりも誰の声に耳を傾けるべきなのでしょうか。

 伝統的な答えは、キリスト、聖書、使徒的伝統、聖人たち、20世紀にわたるキリスト教の証し、そして教導権の声に耳を傾ける、というものです。そしてもちろん、信徒たちの声にも耳を傾けるべきです。

 しかし、特定の教会会議の文書では、この順序が容易に逆転してしまうようです。現代の人々の経験、願望、不満、期待から出発し、その後、教会がそれらにどう応えるべきかを問うのです。それは牧会的に魅力的に見えますが、危険を孕んでいます。なぜなら、現代人の願いが福音と衝突したとき、どうなるのでしょうか。

 その場合、変えるべきは福音ではなく、人間の方です。キリスト教において、それは「回心」と呼ばれます。そして、まさにその言葉が、多くの現代の教会における議論の中で、驚くほどほとんど聞かれないのです。

*大きく欠けているもの:回心

 ここに、このプロジェクト(注:シノドスの道)全体の最も根本的な弱点があります。教会の存在意義は、第一に、人々がすでに持っているありのままの姿を肯定することにあるのではありません。教会は、人々をキリストのもとへと導くために存在するのです。

 イエスが公の説教で最初に語られた言葉は、「まず、現在の教会の組織について、どのように感じているか教えてください」というものではありませんでした。そうではなく、「悔い改め、福音を信じなさい」というものでした。これは、はるかに官僚的ではありません。そして、はるかに過激なものです。

 殉教者たちの教会は、ローマ人がキリスト教共同体をいかにしてより包摂的に感じられるかというテーマで、聴衆を集める集会を開くことによって、ローマ世界を変えたのではありません。教会はキリストを宣べ伝えたのです。ペトロはキリストを宣べ伝えました。パウロはキリストを宣べ伝えました。フランシスコはキリストを宣べ伝えました。ドミニコはキリストを宣べ伝えました。フランシスコ・ザビエルはキリストを宣べ伝えました。ジャン=マリー・ヴィアンネはキリストを宣べ伝えました。マザー・テレサはキリストを宣べ伝えました。ヨハネ・パウロ二世はキリストを宣べ伝えました。彼らも間違いなく人々の声に耳を傾けていました。しかし、耳を傾けることが目的だったことは決してありません。目的は、キリストへの回心でした。

*シノドスの会議室に潜む「象」

 

 さらに、シノドスのプロセスで詳細に議論されている問題と、とりわけ西洋の教会が直面している実際の危機との間には、注目すべき乖離があります。オランダ、ベルギー、とりわけドイツ、そして西ヨーロッパの大部分における教会の根本的な問題は、容易に認識できます。教会は空っぽになりつつあります。教区は統合されています。修道院は姿を消しています。修道会は高齢化が進んでいます。

 カトリック信仰に関する知識は薄れつつあります。多くのカトリック信徒にとって、告解は事実上消え去ってしまいました。多くの地域で、司祭への召命の数は依然として少ないままです。洗礼を受けた人々の多くは、信仰の根本的な真理をほとんど信じていません。多くのカトリック信徒の間で、秘跡の生活は著しく弱体化しています。

 こうした背景を踏まえると、世界的な教会活動においては、とりわけ一つの問いが提起されることが期待されるでしょう。「どうすれば、世界を再びキリストのもとに導くことができるのか?」

 しかし、多くの注目は、組織構造、参加、意思決定プロセス、女性の責任、包摂性、権威関係、そして教会機関の機能の在り方に向けられています。これらは正当なテーマであるかもしれません。しかし、火事になっている家には、内部管理上の問題とは異なる優先順位があるのです。

*教会における「パーキンソンの法則」

 本来の目的を見失った組織は、しばしば自らの組織体制についてますます熱心に語り始めるものです。企業はプロセスについて延々と語り、大学はガバナンスについて、行政機関は参加モデルについて、そして教会組織は構造について議論します。伝道活動が少なくなればなるほど、伝道に関する委員会は増え、召命が少なくなればなるほど、召命に関する文書は増えるのです。教会に来る人が減れば減るほど、「教会であること」についての会議は長引きます。

 これは皮肉に聞こえるかもしれませんが、その背後には深刻な考えがあります。すなわち、「官僚主義は活動の幻想を生み出す一方で、現実はその正反対を示している」のです。人々は羅針盤なしに進んでいるのです。

*実現不可能な期待

 教会会議のプロセスは、期待を煽りました。その主な理由は、様々な協議段階において、教会がすでに明確な教義を持っている事柄に関わるテーマが取り上げられたからです。女性の助祭職。司祭職。性的道徳。同性愛関係。信徒と聖職者の関係。教会の権威。権限の分散。女性の地位。

 こうしたテーマが長年にわたり「議論」され続けると、最終的にはそれらも「変更可能である」という印象が自然と生じてしまいます。そうでなければ、これほど延々と議論されることはないでしょうから。

 そこで、司牧的パラドックスが生じます。人々は自らの期待を表明するよう求められます。しかしその後、「カトリック教義との連続性を危うくすることなく、一部の期待を満たすことは不可能」であることが判明します。そうなるとどうなるでしょうか? 至る所で失望が広がります。教会は、結局のところ応えることのできない期待を自ら抱かせたことになるのです。それは司牧的な成果とは言えません。それはフラストレーションを生む要因に他なりません。

*カトリックの教会観におけるプロテスタント化

 さらに、伝統主義的な視点から見ると、ここには歴史的な皮肉が見て取れます。現代の”シノダル(共働的)文化”のいくつかの要素は、むしろ、プロテスタント教会で数十年にわたり観察されてきた動向と類似点を示しています。

 参加の重視。運営への発言権の拡大。協議体制の充実。地域共同体への重き。個人の体験の重視。変化する社会的価値観をめぐる議論の増加。階層的権威の当然視の減少。それ自体が必ずしも間違っているわけではありません。しかし、歴史的な問いは避けられません。このモデルは、プロテスタントの世界において、目覚ましいキリスト教の復興をもたらしたのでしょうか?西ヨーロッパの大部分において、その答えは明らかに「いいえ」です。

 それでは、なぜカトリック教会は、しばしばより早く、より強く同じ世俗化を経験してきた教団の、統治や司牧上のパターンをそのまま受け継ごうとするのでしょうか。患者が、隣のベッドで自分よりもさらに重篤な状態にある患者の薬をそのまま受け継いだところで、治癒することはめったにありません。

*忘れ去られた選択肢:聖性への歩み

 カトリック教会の大きな改革は、組織体制から始まったことはほとんどありません。それらは聖人たちから始まったのです。腐敗の時代を経て、改革者たちが現れました。ベネディクト、ベルナルド、フランシスコ、ドミニコ、シエナのカタリナ、ロヨラのイグナチオ、アビラのテレサ、カロルス・ボロメオ、サレジオのフランシスコ、ヨハネ・ボスコ、リジューのテレーズ、マクシミリアン・コルベ、ヨハネ・パウロ二世。彼らのプログラムは驚くほど単純でした。「聖人になりなさい」と。

 なぜなら、聖人には、いかなる政策文書にも匹敵し得ない宣教の力があるからです。聖なる司祭がいる小教区は、シンオダリティに関する20の作業部会と高額の報酬を受ける管理職を抱える教区よりも、将来性があります。10人の熱意あふれる修道者がいる修道院は、100ページにも及ぶ教会用語の文書よりも、より多くの人々に福音を伝えます。祭壇の前で神の御前に立っていると心から信じている司祭は、参加型典礼に関する会議よりも、より多くの人々を信仰へと導くことができます。

 ここには、おそらくシノドスが十分に強調しきれなかった「もう一つの道」があるのです。それは、聞くことを減らすのではなく、聖性を高めること。参加を減らすのではなく、回心を深めること。対話を減らすのではなく、福音を宣べ伝えることを増やすことです。

*試金石としての典礼

 伝統的な視点から見ると、典礼の危機が比較的あまり中心的な議題として取り上げられなかったことも注目に値します。なぜなら、教会の現状を真に知りたいのであれば、その礼拝を見なければならないからです。Lex orandi, lex credendi。どのように祈るか、そこに信仰が表れるのです。

 カトリック信徒が、ミサがキリストの犠牲を秘跡的に現すものであることをほとんど理解しなくなったり、聖なるものへの意識が薄れたり、静寂が失われたり、告解室が空っぽになったり、聖体礼拝が周辺的なものになったりしているとき、教会には運営上の問題があるわけではありません。そこには信仰上の問題があるのです。新たな参加型構造では、これを解決することはできません。新たな会議も同様です。神の再発見なら、もしかすると解決できるかもしれません。

*参加のパラドックス

 シノダルのプロジェクトは「参加」を重視しています。しかし、ここに奇妙なパラドックスが現れます。

 教会の協議プロセスに熱心に参加している人々が、必ずしも教会全体を代表しているとは限りません。毎朝ミサに出席し、ロザリオを唱え、孫たちにカテキズムを教えている物静かなカトリック信者は、通常、シノドスの報告書など書きません。伝統的な典礼に参加するために3時間もかけて通う若いカトリック信者は、通常、教区の作業部会には参加していません。6人の子供をカトリックとして育てようと努めている母親は、意見聴取会に参加する時間がほとんどないかもしれません。黙想生活を送る修道女は、アンケートに回答することはありません。しかし、彼女たちの信仰は、教会の会議に常に参加する専門家たちよりも、より深く根付いている可能性があります。

 マイクの前に立つ人々の声だけに耳を傾けていると、神の民が会議のテーブルを囲む人々よりもはるかに広い存在であることを、つい忘れてしまいがちです。

*「シノダリティ(共働性)」か、「共議制」か?

 言葉遣いをより正確にすれば、混乱の一部は解消されるかもしれません。カトリックの伝統には、「共議制」という明確な概念があります。司教たちは、ペトロと共に、またペトロの下で、司教団を構成しています。そのほかにも、司祭評議会、牧会評議会、教会会議、教区会議、修道会、そして数え切れないほどの他の協議形態が存在します。なぜ、それらを包括する新たなカテゴリー、すなわち「シノダリティ」が必要だったのでしょうか?

 まさにその概念があまりにも広範であるため――定義を思いつくことさえできません。誰もがそれぞれ異なる意味をそこに読み取ってしまうのです。ある人にとっては「傾聴」を意味し、別の人にとっては「権限の分散」、また別の人にとっては「民主化」、さらに別の人にとっては「司牧上の刷新」、また別の人にとっては「聖職制度の改革」、そしてまた別の人にとっては「異なる性的道徳」を意味します。

 あらゆる意味を持ち得る概念は、結局のところ何の意味も持ちません。だからこそ、比例性の問いは正当化されるのです。これに、あとどれだけのエネルギーを注ぐべきなのでしょうか? どれだけの会議が必要なのでしょうか? どれだけのシノドス・チームが必要なのでしょうか? どれだけの報告書が必要なのでしょうか? 評価の評価を、どれほど繰り返すべきなのでしょうか?

 そして何より:もし同じだけの時間、資金、知的エネルギー、そして司教たちの関心が、カテキズム、神学校、カトリック教育、典礼、告解、聖体礼拝、結婚牧会、そして直接的な福音宣教に注ぎ込まれたら、何が起こるでしょうか? これは修辞的な問いだと、私は思います。

*最も根本的な問題:教会論

 

 結局のところ、この議論は実際には「会議」そのものについてのものではありません。それは、「教会とは何か」という問いに関するものです。教会とは、まず第一に、自らが何になるべきかを共に模索する共同体なのでしょうか。それとも、まず第一に、あるべき姿を授かった神聖な実体なのでしょうか。カトリックの答えは、後者しかあり得ません。

 教会は絶えず回心しなければなりませんが、教会は使徒たちの上に築かれています。教会は、自ら生み出したものではない信仰を守り続けています。それゆえ、あらゆる「シノダリティ」は、最終的には、シノダリティの枠内で議論の対象とはならないもの――すなわち、キリストが啓示された真理――によって制限されなければなりません。

*世界は「シノダリティ的な教会」を待ってはいない

 

 そして、ここにおそらく最大の悲劇があるのです。現代世界は、並外れた精神的危機に直面しています。人々は意味を求めています。若者たちはアイデンティティを求めています。孤独感が増大しています。家族は崩壊しつつあります。テクノロジーは人間の存在にますます深く浸透しています。ポルノグラフィーはセクシュアリティを歪めています。物質主義は満足をもたらしません。気候変動は、多くの人々にとって代用となる宗教となっています。人々は死を恐れていますが、何のために生きているのか、もはやほとんどわかっていません。

 そして、そのような世界のただ中にあって、教会は並外れたものを所有しています。それは福音です。秘跡です。聖体です。告解です。二千年にわたる知恵です。聖書。教父たち。トマス・アクィナス。アウグスティヌス。神秘家たち。聖人たち。芸術、音楽、哲学、道徳、そして霊性における比類なき伝統。そして何よりも:イエス・キリストです。

 世界は、自分たちの声に耳を傾ける「もう一つの組織」を待っているわけではありません。そのような組織はすでに十分にあります。世界が待っているのは、自分たちが何のために創造されたのかを伝えてくれる存在なのです。

*エマオからエルサレムへ

 おそらく、エマオへの旅人の福音書こそが、真のカトリックの「シノダリティ」にとって、最終的に最良のモデルとなるのでしょう。キリストは弟子たちと共に歩まれます。確かに、彼らの話に耳を傾けられます。彼らの心を悩ませていることが何かを尋ねられます。彼らに語らせるのです。彼らの失望にも、受け入れる余地が与えられます。

 ここまでは、どのシノダリティの手引書も熱心に賛同できるでしょう。しかし、そこで決定的な出来事が起こります。キリストは彼らの解釈を肯定されません。むしろ、それを正されます。聖書を解き明かされ、出来事をどう理解すべきかを教えられます。そして最終的に、彼らはパンを裂く瞬間にキリストを認めます。これこそが、最も純粋な形でのカトリックの「シノダリティ」です。

 その後、弟子たちはエマオに延々と留まって、その旅の経験を評価し続けることはありません。彼らは立ち上がり、エルサレムへと戻りました。そして、福音を宣べ伝え始めたのです。シノダリティのプロセスはエマオに停滞したままとなっており、彼らがそこから抜け出せるかどうかが問われています。私たちは、教会がどのように共に歩むべきかについて議論することに忙殺されすぎて、教会がどこへ向かっているのかを見失ってしまうことがあります。

 カトリック教会は、結局のところ、教会自身について恒久的なシノドスを必要としているわけではありません。

 教会が必要としているのは、「聖人」たちです。教えを説く司教たち。祈りを捧げる司祭たち。神のために徹底的に生きる修道者たち。信仰を次世代に伝える両親。真理とは単なる意見以上のものであると気づく若者たち。神が真に中心に据えられている典礼。罪人が赦しを見出す告解室。キリストに自らの命を捧げる覚悟のある男性たちが養成される神学校を必要としています。

 教会がどのように世界に適応すべきか絶えず問うのではなく、世界に対し、キリストによって変えられていくよう招く勇気を持つカトリック信者を必要としています。

 なぜなら、結局のところ、キリストは教会を世の中に送り出す際、「行って、至る所でシノドスのプロセスを組織しなさい。」とはおっしゃらなかったからです。キリストはこう言われました。「全世界に出て行き、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。」こうして教会は始まりました。そして、教会が真に刷新されるたびに、その点から再び始まってきたのです。

聖父様、

 この手紙を、私が冒頭で述べたのと同じ考え、すなわち「魂の救い」をもって締めくくらせてください。あなたの教皇在位期間中、教会が自らを際限なく議論することではなく、キリストを宣べ伝えること、時代の風潮を反映することではなく、世界を永遠の命へと導くことに召されているということが、再び極めて明確に示されることを願って祈ります。

 まさにペトロの後継者である方こそ、信者たちは、現代の混乱の只中で、信仰の兄弟姉妹を力づけてくださることを期待しています。教会が宣べ伝える真理は、私たちが自由に処分できる所有物ではなく、受け継いだ貴重な宝であり、傷つけることなく伝え続けなければならないものであることを、私たちに思い出させてくださることを。また、召命に忠実に従う司祭たち、神に生涯を捧げた修道者たち、世の潮流に逆らって子供たちをカトリックとして育てようとする両親、そして相対主義が蔓延するこの時代にあっても、真理、聖性、美、そしてキリストと共に生きるという徹底した冒険を渇望する若者たちに、勇気を与えてくださることを期待します。

 ですから、皆様への私の願いは単純です。私たちに明快さをお与えください。世界が曖昧な言葉を口にする時、ペトロが明確に語れるようにしてください。教会が内部の議論に疲弊した時、私たちを再びキリストへと導いてください。私たちが手続きや組織に迷い込んだときは、私たちの使命を思い出させてください。現代人を不快にさせるかもしれないという理由で、福音をその全容のまま宣べ伝えることを恐れるようになったときは、ペトロ自身の言葉を思い出させてください:「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたの言葉は、永遠のいのちの言葉です。」

 聖父様、私は、あなたの職務に対する心からの敬意と、教会への愛を込めて、これらすべてを記しております。シノドス・プロセスに対する私の批判は、分裂を招こうとする願望から生じたものではなく、多くの人々がもはやキリストを知らないという状況の中で、私たちが貴重な時間を失ってしまうのではないかという懸念から生じたものです。収穫は多いのに、働き手は少ないのです。西欧の教会は空っぽになりつつある一方で、新しい世代は再び真理と超越性を求めているようです。まさに今、私たちに必要なのは躊躇する教会ではなく、自らの宝が何であるかを理解し、その宝を世界に示すことを恐れない宣教的な教会なのです。

 それゆえ、私は、あなたの教皇在位期間が、あらゆる真の教会改革の核心をなすもの――すなわち、キリスト、回心、聖性、聖体、福音宣教、そして魂の救い――への新たな集中によって特徴づけられるよう、祈ります。なぜなら、すべての公会議が終わり、すべての文書が書き上げられ、すべての委員会が解散し、私たち自身の名前さえも忘れ去られた後にも、真に重要な問いだけが残るからです。それは、「私たちの世話に委ねられた人々を、イエス・キリストに近づけることができたか」という問いです。

 聖ペトロが、皆様のために執り成してくださいますように。聖母マリア、Mater Ecclesiaeが、皆様をその御保護の下に守ってくださいますように。そして、主が、その教会を真理と愛のうちに導くための知恵、勇気、そして父のような確固たる決意を、皆様に授けてくださいますように。

心からの敬意を込めて、祈りの中で結ばれ、

キリストにあって、

+ロブ・ムツァールツ  『ス・ヘルトゲンボス』教区 補佐司教

2026年8月13日

*オランダ語の原文以下の通り。

Open brief aan Zijne Heiligheid paus Leo XIV

Heilige Vader,

Met eerbied voor het ambt dat u als opvolger van de heilige Petrus is toevertrouwd, en in verbondenheid met de Kerk die Christus op de apostelen heeft gebouwd, richt ik mij tot u met deze open brief. Ik doe dat niet lichtvaardig. Wat mij ertoe brengt deze woorden openbaar uit te spreken, is een zorg die uiteindelijk iedere andere kerkelijke overweging overstijgt: het heil van de zielen. Salus animarum suprema lex — het heil van de zielen is de hoogste wet. Mijn vraag is een eenvoudige en ernstige: helpt het synodale proces de zielen daadwerkelijk dichter bij Christus en bij het eeuwige heil te brengen? Dat is voor mij de beslissende vraag.

Heilige Vader, ik besef ten volle dat het Petrusambt een verantwoordelijkheid draagt waarvan iemand die buiten dat ambt staat slechts een vermoeden kan hebben. Juist daarom schrijf ik deze woorden niet vanuit gebrek aan eerbied voor het pauselijk ambt, maar vanuit liefde voor datzelfde ambt. Petrus heeft van Christus immers niet alleen de opdracht ontvangen de broeders te verenigen, maar ook hen in het geloof te versterken: “En gij, wanneer gij eenmaal tot inkeer zijt gekomen, versterk dan uw broeders.” De wereld heeft uiteindelijk weinig aan een Kerk die slechts herhaalt wat de wereld zelf reeds denkt. Zij heeft behoefte aan een Kerk die haar, met liefde maar zonder vrees, wijst op Christus.

Mijn bezorgdheid over de Synode over Synodaliteit moet in dat licht worden gelezen. En bovenal vraag ik mij af wat dit alles betekent voor de eenvoudige gelovige die van zijn Kerk geen permanent proces verwacht, maar duidelijkheid over de weg naar God.

Deze brief is daarom geen aanklacht tegen personen. Evenmin wil ik de goede bedoelingen ontkennen van de velen die zich oprecht voor het synodale proces hebben ingezet. Goede bedoelingen verdienen erkenning. Maar goede bedoelingen ontslaan ons niet van de plicht de vruchten te onderzoeken. Christus zelf heeft ons daarvoor een eenvoudig criterium gegeven: “Aan hun vruchten zult gij hen kennen.” Daarom meen ik dat na jaren van synodale consultaties, bijeenkomsten, rapporten en documenten de tijd gekomen is om in alle openheid naar die vruchten te vragen. Niet vanuit cynisme, maar vanuit liefde voor de Kerk. Niet vanuit nostalgie naar een geïdealiseerd verleden, maar vanuit zorg voor haar toekomst. En niet om een kerkpolitieke strijd te voeren, maar omdat achter alle discussies een werkelijkheid ligt die oneindig belangrijker is: het eeuwige heil van de zielen die Christus aan zijn Kerk heeft toevertrouwd. Vanuit die zorg, Heilige Vader, leg ik u de volgende beschouwing voor.

 

De Synode over synodaliteit

Wie de Synode over Synodaliteit uitsluitend beoordeelt aan de hand van haar eigen doelstellingen, kan zonder moeite een positief verhaal schrijven. Er is geluisterd. Er is gesproken. Er zijn duizenden mensen geraadpleegd. Bisschoppen, priesters, religieuzen en leken kwamen bijeen. Er werd gesproken over gemeenschap, participatie en missie. Er ontstond zelfs een nieuwe kerkelijke woordenschat: synodaliteit, luisteren, onderscheiding, participatie, conversation in the Spirit, processen op gang brengen.

Maar men kan dezelfde geschiedenis ook vanuit een geheel ander perspectief bekijken. Laat ik maar de ongemakkelijke vraag stellen: Wat heeft dit alles eigenlijk opgeleverd? Niet: hoeveel bijeenkomsten zijn er georganiseerd? Niet: hoeveel rapporten zijn er geschreven? Niet: hoeveel mensen hebben deelgenomen? Maar: is het geloof sterker geworden? Is Christus duidelijker verkondigd? Is de katholieke identiteit verdiept? Zijn meer mensen tot bekering gekomen? Is de zondagsmis beter bezocht? Zijn er meer priesterroepingen? Is de catechese krachtiger geworden? Is er grotere eerbied voor de Eucharistie ontstaan? Is de morele leer van de Kerk duidelijker geworden? Is de missionaire moed toegenomen?

Wanneer men dergelijke vragen stelt, kan men onmogelijk de Synode als een succes beschouwen. Daar komt inmiddels nog iets bij. De synodale onderneming is niet werkelijk afgesloten. De officiële implementatiefase loopt door en moet via diocesane, nationale en continentale bijeenkomsten uiteindelijk uitkomen bij een kerkelijke assemblee in Rome in oktober 2028. In mei 2026 heeft het Vaticaan daarvoor opnieuw een uitgebreid traject gepubliceerd. Dat maakt de kritiek des te relevanter. Wat ooit begon als een synode van 2021–2024 dreigt een permanente bestuursvorm te worden.

Een synode over een synode

Het eerste merkwaardige aspect zit al in de naam: Synode over Synodaliteit. Traditioneel werd een synode bijeengeroepen omdat de Kerk ergens over moest spreken. Over evangelisatie, huwelijk en gezin, priesterschap, Eucharistie, de Schrift, een ketterij, een pastorale crisis of een concreet probleem. Bij de synode over synodaliteit wordt het proces zelf tot onderwerp gemaakt. Men zou het kunnen vergelijken met een vergadering die eindeloos bijeenkomt om te bespreken hoe men voortaan moet vergaderen.

De Kerk kent sinds de oudheid concilies en synodes. De apostelen kwamen in Jeruzalem bijeen. Bisschoppen beraadslaagden met elkaar. Pausen raadpleegden bisschoppen. De grote oecumenische concilies zijn ondenkbaar zonder gezamenlijk kerkelijk overleg. Maar dat is iets anders dan synodaliteit als permanent kerkelijk paradigma. De klassieke synode was een middel. In het hedendaagse synodale discours dreigt synodaliteit zelf een doel te worden. En precies daar begint vanuit traditioneel katholiek perspectief het probleem.

De Kerk is geen gesprek maar een ontvangen werkelijkheid

De Kerk begint namelijk niet met onze dialoog. Zij begint met Christus. Dat klinkt vanzelfsprekend, maar het heeft verstrekkende gevolgen. Christus heeft geen discussiegroep opgericht. Hij riep apostelen. Hij gaf hun gezag. Hij zond hen uit om te verkondigen, te dopen en te onderwijzen: “Gaat dus en maakt alle volkeren tot mijn leerlingen.” De richting is daarbij fundamenteel. Het geloof ontstaat niet doordat de Kerk eerst inventariseert wat mensen geloven en vervolgens uit al die ervaringen een gemeenschappelijke overtuiging destilleert. Het geloof wordt ontvangen.

Paulus gebruikt daarvoor voortdurend woorden als ontvangen, overleveren, bewaren. De Kerk bezit de Openbaring niet omdat zij haar heeft bedacht, maar omdat zij haar heeft ontvangen. Dat betekent dat het christendom in wezen niet democratisch kan zijn. Niet omdat democratie als staatsvorm slecht zou zijn, maar omdat waarheid niet bij meerderheid van stemmen ontstaat. Als morgen 90 procent van de katholieken niet meer in de werkelijke tegenwoordigheid van Christus in de Eucharistie zou geloven, zou Christus daarom niet minder werkelijk tegenwoordig zijn. Als 80 procent een bepaalde morele leer afwijst, wordt die leer daardoor niet automatisch onwaar. Waarheid wordt niet geproduceerd door consensus. Dat vormt het eerste grote spanningsveld rond het synodale project.

Luisteren: naar wie?

Een sleutelwoord tijdens het gehele proces was luisteren (alsof we dat nooit gedaan hebben). Op zichzelf is daar niets tegen in te brengen. Een bisschop moet luisteren. Een priester moet luisteren. Christenen moeten naar elkaar luisteren. Een herder die nooit luistert naar zijn kudde is geen goede herder. Maar onmiddellijk volgt de vraag: Naar wie moet de Kerk vooral luisteren? Het traditionele antwoord luidt: naar Christus, naar de Schrift, naar de apostolische Traditie, naar de heiligen, naar het getuigenis van twintig eeuwen christendom, naar het leergezag. En uiteraard óók naar de gelovigen.

In bepaalde synodale teksten lijkt de volgorde echter gemakkelijk te worden omgekeerd. Men begint bij ervaringen, verlangens, frustraties en verwachtingen van hedendaagse mensen en vraagt vervolgens hoe de Kerk daarop moet reageren. Dat lijkt pastoraal aantrekkelijk, maar bevat een gevaar. Want wat gebeurt er wanneer de verlangens van de moderne mens botsen met het Evangelie? Dan moet niet het Evangelie veranderen; dan moet de mens veranderen. Dat heet in het christendom bekering. En juist dat woord klinkt opmerkelijk weinig in veel moderne kerkelijke discussies.

De grote afwezige: bekering

Hier ligt de diepste zwakte van het hele project. De Kerk bestaat niet primair om mensen te bevestigen in wat zij reeds zijn. Zij bestaat om hen tot Christus te brengen. De eerste woorden van Jezus’ openbare prediking zijn niet: “Vertel Mij eerst hoe u zich bij de huidige kerkelijke structuren voelt.” Maar: “Bekeert u en gelooft in de Blijde Boodschap.” Dat is aanzienlijk minder bureaucratisch. En aanzienlijk radicaler.

De Kerk van de martelaren heeft de Romeinse wereld niet veranderd door luisterbijeenkomsten te organiseren over de vraag hoe Romeinen de christelijke gemeenschap inclusiever zouden kunnen ervaren. Zij verkondigde Christus. Petrus verkondigde Christus. Paulus verkondigde Christus. Franciscus verkondigde Christus. Dominicus verkondigde Christus. Franciscus Xaverius verkondigde Christus. Johannes Maria Vianney verkondigde Christus. Moeder Teresa verkondigde Christus. Johannes Paulus II verkondigde Christus. Zij luisterden ongetwijfeld naar mensen. Maar luisteren was nooit het eindpunt. Het eindpunt was bekering tot Christus.

De olifant in de synodale vergaderzaal

Er is bovendien een merkwaardige discrepantie tussen de problemen waarover in het synodale proces uitvoerig gesproken wordt en de feitelijke crisis waarin vooral de westerse Kerk verkeert. De fundamentele problemen van de Kerk in Nederland, België, met name Duitsland, maar ook van grote delen van West-Europa zijn niet moeilijk te herkennen. Kerken lopen leeg. Parochies worden samengevoegd. Kloosters verdwijnen. Religieuze orden vergrijzen. Kennis van het katholieke geloof neemt af. De biecht is voor veel katholieken vrijwel verdwenen. Het aantal priesterroepingen blijft op veel plaatsen gering. Veel gedoopten geloven nauwelijks nog in wezenlijke geloofswaarheden. Onder grote groepen katholieken is het sacramentele leven ernstig verzwakt. Tegen die achtergrond zou men verwachten dat een wereldwijde kerkelijke operatie vooral één vraag stelde: Hoe kunnen wij de wereld opnieuw voor Christus winnen?

Maar veel aandacht gaat uit naar structuren, participatie, besluitvormingsprocessen, verantwoordelijkheid voor vrouwen, inclusiviteit, gezagsverhoudingen en de manier waarop kerkelijke organen functioneren. Dat kunnen legitieme onderwerpen zijn. Maar een brandend huis heeft andere prioriteiten dan zaken van huishoudelijke aard.

Een kerkelijke Parkinsonwet

Instellingen die hun oorspronkelijke doel uit het oog verliezen, gaan vaak steeds intensiever over hun eigen organisatie praten. Bedrijven spreken dan eindeloos over processen. Universiteiten over governance. Overheden over participatiemodellen. En kerkelijke organisaties over structuren. Hoe minder evangelisatie, des te meer commissies over evangelisatie. Hoe minder roepingen, des te meer documenten over roepingen. Hoe minder mensen naar de kerk komen, des te langer de vergaderingen over kerk-zijn worden. Dat klinkt cynisch, maar er zit een ernstige gedachte achter: bureaucratie kan de illusie van activiteit wekken terwijl de realiteit  het tegendeel laat zien. Men koerst zonder kompas.

De verwachtingen die niet waargemaakt kunnen worden

Het synodale proces heeft verwachtingen gewekt. Dat gebeurde vooral doordat tijdens de verschillende consultatiefasen thema’s werden toegelaten die raken aan zaken waarover de Kerk reeds duidelijke leer bezit. Het vrouwelijk diaconaat. Het priesterschap. Seksuele moraal. Homoseksuele relaties. De verhouding tussen leken en clerus. Kerkelijk gezag. Decentralisatie. De positie van vrouwen. Wanneer zulke onderwerpen jarenlang worden “besproken”, ontstaat vanzelf de indruk dat zij uiteindelijk ook veranderd kunnen worden. Anders zou men er immers niet eindeloos over spreken.

Daar ontstaat een pastorale paradox. Mensen wordt gevraagd hun verwachtingen uit te spreken. Vervolgens blijken sommige verwachtingen onmogelijk te vervullen zonder de continuïteit met de katholieke leer in gevaar te brengen. Wat gebeurt er dan? Teleurstelling alom. De Kerk heeft dan zelf verwachtingen gewekt die zij uiteindelijk niet kan honoreren. Dat is geen pastorale winst. Het is een recept voor frustratie.

De protestantisering van het katholieke kerkbegrip

Vanuit traditionalistisch perspectief is hier bovendien een historische ironie zichtbaar. Een aantal elementen van de moderne synodale cultuur vertoont juist overeenkomsten met ontwikkelingen die men in protestantse kerken al decennialang kan waarnemen. Meer nadruk op participatie. Meer bestuurlijke inspraak. Meer overlegstructuren. Meer gewicht voor plaatselijke gemeenschappen. Meer nadruk op individuele ervaring. Meer discussie over veranderende maatschappelijke opvattingen. Minder vanzelfsprekendheid van hiërarchisch gezag. Dat hoeft op zichzelf niet allemaal verkeerd te zijn. Maar de historische vraag is onvermijdelijk: Heeft dit model in de protestantse wereld geleid tot een spectaculaire christelijke herleving? In grote delen van West-Europa luidt het antwoord duidelijk: nee. Waarom zou de katholieke Kerk dan precies de bestuurlijke en pastorale patronen overnemen van kerkgenootschappen die dezelfde secularisatie vaak nog eerder en sterker hebben ondergaan? Een patiënt geneest zelden door het medicijn over te nemen van de patiënt in het bed naast hem die er nog slechter aan toe is.

Het vergeten alternatief: steven naar heiligheid

De grote katholieke hervormingen zijn bijna nooit begonnen met structuren. Ze begonnen met heiligen. Na perioden van corruptie kwamen hervormers. Benedictus, Bernardus, Franciscus, Dominicus, Catharina van Siena, Ignatius van Loyola, Teresa van Ávila, Carolus Borromeus, Franciscus van Sales, Johannes Bosco, Thérèse van Lisieux, Maximiliaan Kolbe, Johannes Paulus II. Hun programma was verrassend eenvoudig: word heilig.

Want een heilige heeft een missionaire kracht die geen beleidsdocument kan evenaren. Een parochie met een heilige pastoor heeft meer toekomst dan een bisdom met twintig werkgroepen over synodaliteit en duur betaalde managers. Een klooster met tien vurige religieuzen evangeliseert meer dan honderd pagina’s kerkelijk jargon. Een priester die zichtbaar gelooft dat hij bij het altaar voor God staat, kan meer mensen tot geloof brengen dan een conferentie over participatieve liturgie.

Hier ligt misschien het alternatief dat de Synode onvoldoende heeft benadrukt: niet minder luisteren, maar meer heiligheid. Niet minder participatie, maar meer bekering. Niet minder dialoog, maar meer verkondiging.

De liturgie als lakmoesproef

Vanuit traditioneel perspectief is het bovendien opvallend dat de crisis van de liturgie relatief weinig centraal stond. Want als men werkelijk wil weten hoe het met een Kerk gesteld is, moet men kijken naar haar eredienst. Lex orandi, lex credendi. Hoe men bidt, daarin uit zich het geloof.

Wanneer katholieken nauwelijks meer begrijpen dat de Mis het offer van Christus sacramenteel tegenwoordig stelt, wanneer het besef van het heilige verzwakt, wanneer stilte verdwijnt, wanneer biechtstoelen leegstaan en eucharistische aanbidding marginaal wordt, dan heeft de Kerk geen bestuursprobleem. Dan heeft zij een geloofsprobleem. Een nieuwe participatiestructuur kan dat niet oplossen. Een nieuwe vergadering evenmin. Een herontdekking van God misschien wel.

De paradox van participatie

Het synodale project benadrukt participatie. Maar hier verschijnt een merkwaardige paradox. De mensen die intensief deelnemen aan kerkelijke consultatieprocessen zijn niet noodzakelijk representatief voor de gehele Kerk. De stille katholiek die iedere ochtend de Mis bezoekt, de rozenkrans bidt en zijn kleinkinderen catechese geeft, schrijft doorgaans geen synodaal rapport. De jonge katholiek die drie uur reist om een traditionele liturgie bij te wonen, zit doorgaans niet in de diocesane werkgroep. De moeder van zes kinderen die haar gezin katholiek probeert op te voeden, heeft wellicht weinig tijd voor luisterbijeenkomsten. Een contemplatieve zuster vult geen enquête in. Maar hun geloof kan dieper geworteld zijn dan dat van professionele kerkelijke vergaderaars. Wie alleen luistert naar degenen die naar de microfoon komen, kan gemakkelijk vergeten dat het Volk Gods groter is dan de kring rond de vergadertafel.

Synodaliteit of collegialiteit?

Misschien zou een deel van de verwarring verdwijnen wanneer men opnieuw preciezer sprak. De katholieke traditie kent een helder begrip: collegialiteit. De bisschoppen vormen samen met en onder Petrus het bisschoppencollege. Daarnaast bestaan priesterraden, pastorale raden, synodes, kapittels, religieuze gemeenschappen en talloze andere vormen van beraad. Waarom was daarvoor een nieuwe allesomvattende categorie nodig: synodaliteit?

Juist omdat het begrip zo ruim is – er is geen definitie van te bedenken –  kan iedereen er iets anders onder verstaan. Voor de een betekent het luisteren. Voor de ander decentralisatie. Voor een derde democratisering. Voor een vierde pastorale vernieuwing. Voor een vijfde hervorming van het ambt. Voor een zesde een andere seksuele moraal. Een begrip dat alles kan betekenen, betekent uiteindelijk niets. Daarom is de vraag naar proportionaliteit gerechtvaardigd. Hoeveel energie moet hierin nog worden gestoken? Hoeveel vergaderingen? Hoeveel synodale teams? Hoeveel rapporten? Hoeveel evaluaties van evaluaties?

En vooral: wat zou er gebeuren wanneer dezelfde hoeveelheid tijd, geld, intellectuele energie en bisschoppelijke aandacht zou worden geïnvesteerd in catechese, seminaries, katholiek onderwijs, liturgie, biecht, eucharistische aanbidding, huwelijkspastoraal en directe evangelisatie? Dat is een retorische vraag, dunkt mij.

Het diepste probleem: ecclesiologie

Uiteindelijk gaat de discussie daarom niet werkelijk over vergaderen. Zij gaat over de vraag: Wat is de Kerk? Is zij primair een gemeenschap die gezamenlijk zoekt wat zij moet worden? Of is zij primair een goddelijke werkelijkheid die heeft ontvangen wat zij moet zijn? Het katholieke antwoord kan slechts het tweede zijn. De Kerk moet zich voortdurend bekeren, maar zij is gebouwd op de apostelen. Zij bewaart een geloof dat zij niet zelf heeft uitgevonden. Daarom moet iedere synodaliteit uiteindelijk begrensd worden door iets dat niet synodaal ter discussie staat: de waarheid die Christus heeft geopenbaard.

De wereld wacht niet op een synodale Kerk

En hier ligt wellicht de grootste tragiek. De moderne wereld verkeert in een buitengewone geestelijke crisis. Mensen zoeken betekenis. Jongeren zoeken identiteit. Eenzaamheid neemt toe. Gezinnen vallen uiteen. Technologie dringt steeds dieper het menselijk bestaan binnen. Pornografie vervormt seksualiteit. Materialisme bevredigt niet. Klimaatverandering wordt voor velen een surrogaatgodsdienst. Mensen zijn bang voor de dood maar weten nauwelijks nog waarvoor zij leven. En midden in die wereld bezit de Kerk iets buitengewoons. Zij bezit het Evangelie. De sacramenten. De Eucharistie. De biecht. Tweeduizend jaar wijsheid. De Schrift. De kerkvaders. Thomas van Aquino. Augustinus. De mystici. De heiligen. Een ongeëvenaarde traditie van kunst, muziek, filosofie, moraal en spiritualiteit. En bovenal: Jezus Christus.

De wereld wacht niet op nóg een organisatie die naar haar luistert. Daarvan zijn er genoeg. De wereld wacht op iemand die haar vertelt waarvoor zij geschapen is.

Van Emmaüs naar Jeruzalem

Misschien biedt het evangelie van de Emmaüsgangers uiteindelijk het beste model voor authentieke katholieke synodaliteit. Christus loopt met de leerlingen mee. Hij luistert inderdaad. Hij vraagt wat hen bezighoudt. Hij laat hen spreken. Hun teleurstelling krijgt ruimte. Tot zover zou iedere synodale handleiding enthousiast kunnen instemmen. Maar dan gebeurt het beslissende. Christus bevestigt hun interpretatie niet. Hij corrigeert haar. Hij opent voor hen de Schriften. Hij leert hun hoe zij de gebeurtenissen moeten verstaan. En uiteindelijk herkennen zij Hem bij het breken van het brood. Dat is katholieke synodaliteit in haar zuiverste vorm. En daarna blijven de leerlingen niet eindeloos in Emmaüs bijeen om hun wandelervaring te evalueren. Ze staan op. Ze keren terug naar Jeruzalem. Ze gaan verkondigen. Het synodale proces is in Emmaus blijven hangen en de vraag is of ze daar nog weg geraken. We zijn zo druk bezig te bespreken hoe de Kerk samen op weg moet zijn, dat we soms vergeten waarheen zij onderweg is.

De katholieke Kerk heeft uiteindelijk geen behoefte aan een permanente synode over zichzelf. Zij heeft behoefte aan heiligen. Aan bisschoppen die onderwijzen. Aan priesters die bidden. Aan religieuzen die radicaal voor God leven. Aan ouders die het geloof doorgeven. Aan jongeren die ontdekken dat waarheid meer is dan een mening. Aan liturgie waarin God werkelijk centraal staat. Aan biechtstoelen waarin zondaars vergeving vinden. Aan seminaries waarin mannen gevormd worden die bereid zijn hun leven aan Christus te geven. Aan katholieken die niet voortdurend vragen hoe de Kerk zich aan de wereld moet aanpassen, maar die de moed hebben de wereld uit te nodigen zich door Christus te laten veranderen.

Want uiteindelijk heeft Christus zijn Kerk niet de wereld ingestuurd met de woorden: Ga heen en organiseert overal synodale processen. Hij zei: “Gaat uit over de hele wereld en verkondigt het Evangelie aan heel de schepping.” Daarmee begon de Kerk. En telkens wanneer zij werkelijk vernieuwd werd, begon zij daar opnieuw.

 

Heilige Vader,

Sta mij toe deze brief te besluiten met dezelfde gedachte waarmee ik hem begon: het heil van de zielen. Ik hoop en bid dat onder uw pontificaat opnieuw met grote helderheid zichtbaar mag worden dat de Kerk niet geroepen is zichzelf eindeloos te bespreken, maar Christus te verkondigen; niet de tijdgeest te weerspiegelen, maar de wereld naar het eeuwige leven te leiden.

Juist van de opvolger van Petrus mogen de gelovigen verwachten dat hij, te midden van de verwarring van onze tijd, de broeders in het geloof versterkt. Dat hij ons eraan herinnert dat de waarheid die de Kerk verkondigt geen bezit is waarover wij naar believen kunnen beschikken, maar een kostbare schat die wij hebben ontvangen en ongeschonden moeten doorgeven. Dat hij moed geeft aan priesters die trouw hun roeping vervullen, aan religieuzen die hun leven aan God hebben toegewijd, aan ouders die tegen de stroom in hun kinderen katholiek proberen op te voeden, en aan jonge mensen die juist in een tijd van relativisme verlangen naar waarheid, heiligheid, schoonheid en het radicale avontuur van een leven met Christus.

Mijn bede aan u is daarom eenvoudig: geef ons duidelijkheid. Wanneer de wereld onzeker spreekt, laat Petrus helder spreken. Wanneer de Kerk vermoeid raakt door interne discussies, wijs ons opnieuw naar Christus. Wanneer wij ons verliezen in processen en structuren, herinner ons dan aan onze opdracht. Wanneer wij bang worden het Evangelie in zijn volheid te verkondigen omdat het de moderne mens zou kunnen ergeren, herinner ons dan aan de woorden van Petrus zelf: “Heer, naar wie zouden wij gaan? Uw woorden zijn woorden van eeuwig leven.”

Heilige Vader, ik schrijf dit alles in oprechte eerbied voor uw ambt en met liefde voor de Kerk. Mijn kritiek op het synodale proces komt niet voort uit het verlangen verdeeldheid te zaaien, maar uit de vrees dat wij kostbare tijd verliezen terwijl zoveel mensen Christus niet meer kennen. De oogst is groot. De arbeiders zijn weinig. De kerken van het Westen lopen leeg, terwijl tegelijk nieuwe generaties opnieuw naar waarheid en transcendentie lijken te zoeken. Juist nu hebben wij geen aarzelende Kerk nodig, maar een missionaire Kerk die weet wat haar schat is en die niet bevreesd is die schat aan de wereld te tonen.

Daarom bid ik dat uw pontificaat gekenmerkt mag worden door een hernieuwde concentratie op wat uiteindelijk het hart van iedere ware kerkelijke hervorming vormt: Christus, bekering, heiligheid, Eucharistie, evangelisatie en het heil van de zielen. Want wanneer eenmaal alle synodes zijn afgelopen, alle documenten zijn geschreven, alle commissies zijn opgeheven en onze eigen namen zijn vergeten, blijft slechts de vraag die er werkelijk toe doet: hebben wij de mensen die aan onze zorg waren toevertrouwd dichter bij Jezus Christus gebracht?

Moge de heilige Petrus voor u ten beste spreken. Moge Onze-Lieve-Vrouw, Mater Ecclesiae, u onder haar bescherming bewaren. En moge de Heer u de wijsheid, moed en vaderlijke vastberadenheid schenken om zijn Kerk te leiden in waarheid en liefde.

Met gevoelens van oprechte eerbied, in gebed verbonden,

in Christo,

+Rob Mutsaerts  Aux. bisschop Bisdom van ‘s-Hertogenbosch

op augustus 13, 2026

 

2026年8月26日

(評論)「シノダリティ(共働性)は『傾聴、識別、そして責任の共有』という教会の本質的な姿勢だ」(Global Catholic)

(2026.8.16 Global Catholic David Timbs)

 聖書の「道」に根差し、初期教会が実践してきたシノダリティ(共働性)は、単なる「手続き」ではなく、「傾聴、識別、そして責任の共有」という本質的な姿勢だ。

 シノダリティの道は、イザヤとイエスの先駆者である洗礼者ヨハネを結びつける預言の伝統に深く根ざした聖書的伝統を持っている。ヨハネはイザヤの預言「主の道を備え、その道をまっすぐにせよ」(イザヤ40:3)を成就した。「私は荒野で叫ぶ者の声である。『主のために道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1章23節)。

 「道」は福音書における重要なモチーフだ(マルコ8章22-26節、9章12節、10章46-52節、12章14節、マタイ22章16節、ルカ20章21節)。イエスは弟子たちと共に歩み、彼らを教え、正し、励まし、慰めた。ヨハネ14章5-7節では、イエス自身が「道であり、真理であり、命である」とされている。部外者は初期のキリスト教徒を「道に属する者たち」 (ギリシャ語でhodos 、使徒行伝9:12; 19:9, 23; 22:4; 24:14, 22)と認識した。

 シノダリティ(共働性)は、初期教会の信徒や、3世紀から4世紀の原始修道院制度から現代に至るまでの修道会にとって、ごく自然なものであった。しかしながら、概して、教会においては近年までほとんど機能していなかった。

 第二バチカン公会議後、一部の枢機卿はパウロ六世教皇に対し、「教皇職は一人の人物にとって重荷になりつつあり、共同指導体制が望ましい」と進言した。しかしパウロ六世は、教皇職の尊厳が損なわれることを恐れ、この提案を却下し、代わりに、常設の世界代表司教会議(「シノドス」と呼ぶ)の設立を約束した。これまでに29回のシノドスが開催されている。

 バチカンのシノドス事務局長であるマリオ・グレック枢機卿は、「シノドスは受動的な話し合いの場ではなく、すべてのメンバーが継続的なプロセスに積極的に関与することを必要とする」とし、「神の民によるこの協議の根本原則は、『すべての人に関わることは、すべての人によって承認されなければならない』という古代の原則に基づいている」と説明した。

*「シノダリティ」とは、一部の司教の一時的参加ではなく、教会全体が常に参加することを意味する

 フランシスコ教皇は、シノダリティは「司牧活動における一時的な特徴ではなく、教会全体の生活における恒久的な特徴だ」と教えられた。彼は前任者たちとは異なり、新しいシノドスの参加者には聖職者ではない男女も含まれるように指示された。

 聖霊の導きによるシノダリティとは、「一部の司教が一時的に参加するのではなく、教会全体が常に参加する」ことを意味する。

 2023年から2024年にかけて開かれた、シノダリティに関する世界代表司教会議(シノドス)を最も率直に批判した人物の一人が、故ジョージ・ペル枢機卿(オーストラリア出身)だった。

 彼は、2022年の四旬節の間、「デモス」というで、シノドスを非難し、2023年1月には、シノドスを「有害な悪夢」と呼び、その議題を「ローマから送られた文書の中で最も支離滅裂なものの1つ」、「新マルクス主義の専門用語で表現されている」、「使徒伝承に敵対的」、「最後の四つの事柄などの基本的なキリスト教の教義に反する」と酷評した。ペルはオックスフォード大学で教会史の博士号を取得していたが、それは彼にとって大きな失敗だった。彼の神学も同様だった。

*第二バチカン公会議は最終会期の終了で終わったのではなく、解釈と受容の継続的な作業で今もなお続いている

 著名な歴史神学者である故リチャード・マクブライエンは、「カトリックの伝統において正式に啓示された教義はごくわずかであり、残りはすべて神学的解説や意見だ」と述べている。人々が「教会の教義」と呼ぶもののほとんどは、実際には「中核」となる教えや確立された教義ではなく、互いに矛盾する様々な意見の集まりだ。マクブライエンは、「歴史を研究すると、『教会に関して変化できないことはほとんどない』ということが分かる」と明言している。

 ビル・グリム神父は、2012年の記事「事実を正そう」で、こう述べている。「第二バチカン公会議は最終会期の終了をもって終わったのではなく、解釈と受容のプロセスという継続的な作業において、今もなお続いている」と。

 11世紀から12世紀にかけてカンタベリー大司教を務めたアンセルムスは、「信者の心は、より深い人間的理解のレベルで信仰を表現しようと絶えず努力している」と説いた(Fides quaerens intellectum)。理解と実践の過程は、教会の本質であり、教会の活動様式そのものなのである。

 

*「シノダリティ(共働性)こそが全教会の進むべき道」とレオ教皇も明言

 レオ教皇は、シノダリティ(共働性)とは「教会が世界における主要な役割、すなわち宣教、福音の宣べ伝えという役割を果たすのを助けるものである」と断言し、「神の言葉に耳を傾けることから始まり、互いに耳を傾け、男性と女性、教会員、そしてまだ教会員ではないかもしれない探求者の中に見出す知恵に耳を傾けることの価値を思い起こさせる」と述べた。

 6月27日に開かれた臨時枢機卿会議総会の開会式で、レオ教皇は、「シノダリティ(共働性)こそが全教会の進むべき道だ」と強調し、次のように語っておられる。

 「世界の傷、共通善の構築、そして教会の使命に直面する中で、シノダリティは前進への道を示しています。それは、主が私たちに託された選択に、共に耳を傾け、識別し、責任を負っていくことです。シノダリティは、何よりもまず、一連の手続きではありません。私が幾度となく述べてきたように、シノダリティとは、姿勢であり、開かれた心であり、理解しようとする意志なのです。時には、権威の縮小と解釈されることもありますが、実際には、それは、交わりを守り、すべての人々の参加を促し、教会の共通の歩みを導くために存在する権威そのものの意味を、より深く理解する助けとなります」。

*David Timbsは、オーストラリアの聖書学者。長年にわたりオーストラリアの神学校で教鞭を執った。研究は主にパウロ書簡、共観福音書、聖書解釈学、釈義法に焦点を当てていた。豪州の教会における参加、説明責任、透明性の向上を推進する「カトリック刷新運動」の活動的なメンバーだった。

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年8月20日

・豪州の教会は「シノダリティ」という言葉が「目的のない参加」を意味するだけにとどまっている(Global Catholic)

(2026.8.13 Global Catholic  Andrew Phelan)

 豪州のカトリックのある大司教区の度重なる評議会や総会は、信頼関係の崩壊、そして何よりもビジョンの欠如を反映しており、「シノダリティ(共働性)」は、「目的のない参加」を意味するだけの言葉になってしまっている。

 その大司教区では、4つの小教区が1つに統合されたが、統合すべきかどうかについての事前協議は一切行われなかった。

 構成員や教会法上の根拠が不明確な大司教区暫定識別評議会はそのままで、司教総代理によって招集された大司教区司牧評議会作業部会が新たに組織され、8月に開催される大司教区総会で最初の報告を行う予定だ。この総会自体、”中央”で管理された議題を予定し、どうやら”中央”から提供されるシノダリティ(共働性)でなされるようだ。

 これは、豪州の教会が近年の歴史において最も重要な改革に手を付けようとする際に、構造的な問題を抱えていることを示している。

*豪州の教会が直面している問題は、少なくとも3つの失敗の結果

 思慮深いカトリック改革者たちが最もよく主張する論点―ティモシー・ラドクリフ枢機卿(英国出身の神学者、元ドミニコ会総長)は先に世界代表司教会議でもそれを指摘した―は、「(教会が改革を進めるうえで)聖職者の惰性が中心的な障害であり、教会のあり方についての継続的な養成こそがその解決策だ」というものだ。

 これは間違いではないが、不十分だ。豪州の教会が直面している問題は、少なくとも3つの複合的な失敗の結果であり、そのどれもが養成だけで解決できるものではない。

 第一の失敗は、虐待スキャンダルとそれに対する組織側の対応だ。それを主因に、教会組織に対する信頼が壊滅的なまでに崩壊し、しかもその崩壊は未だに十分に認識されていない。これは極めて深刻な信頼性の問題である。

 教会を去った人々、あるいは距離を置いている人々は、教会のあり方についての教育を受けるのを待っているわけではない。彼らの多くは、真摯な信仰と高い知性を持つ人々であり、教会という組織に欠陥がある、と感じている。その欠陥は、必ずしも教義上の欠陥ではなく、組織としての「基本的な誠実さの欠如」である。欠陥をそのままにして、教会内にいる人々を対象とした教育をしようとしても、彼らには届かないだろう。

 第二の失敗は、聖職者と信徒の間の相互不信だ。これは単なる文化的傾向ではなく、教育によって和らげられるものではない。

 これは、司教にほぼ絶対的な権限を与え、信徒の真の参加を権利ではなく司教の裁量に委ねるという、教会法上の枠組みにおける構造的な問題だ。このような枠組みでは、「透明性」と「説明責任」は「培うべき美徳」ではなく、「管理すべき脅威」とみなされる。 

 ビジョンは人々から生まれる。その前提条件は、ビジョンを受け入れるだけの誠実な組織構造が存在することだ。地域的な例を挙げると、統合予定のキャンベラ北部の小教区では、新しい教区評議会で奉仕を希望する者の名前さえも、大司教区の承認を得るために提出しなければならない。これは、神学としてではなく、組織的な反射反応として表れた「聖職者主義」だ。

 相互不信のもう一つの側面は、「信教の自由」というスローガンの下、教会が”文化戦争”にますます深く関与していることだ。これは、教会がすでに大多数の信徒との議論に敗れた問題に対する″後方支援の戦い”であり、教会の対外的な信頼性が著しく損なわれている大きな理由の一つである。

 存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない。目標が定められていない場所へ変化を導くこともできない。そして、協議の仕組みや戦略的な枠組みがなければ、コミュニティの未来に関する重大な決定を下すことは不可能だ。

 第三の失敗、そして最も一貫して見過ごされてきた失敗は、「豪州の教会が、実際にどのような存在になろうとしているのか」という、一貫した展望が全く存在しないことである。

 私は2020年に書いた論文でこのことを述べたが、それ以来、その真実味はますます増大している。この期間、将来の豪州のカトリック教会がどのような姿であるべきか、あるいはどのような姿になり得るのか、つまり人々を鼓舞し、興奮させ、活力を与え、入信、再入信、あるいは留まりへと導くような展望は、微塵も示されませんでした。

 その代わりに出てきたのは、まとまりがなく、しばしば陳腐な手続き上の提案の数々だった。5年経った今も、状況は実質的に改善されていない。

 集会、識別評議会、作業部会、養成プログラムなど、運動として提示されるプロセス活動は数多く存在するが、明確な目的地は示されていない。このような状況下では、シノダリティ(共働性)はビジョンではなく、単なる言葉になってしまう。参加者に、何を目指して参加しているのかを明示することなく、参加を示す言葉になってしまうのだ。

 

*なぜこの失敗がこれほど長く続いているのか

 なぜこの失敗がこれほど長く続いているのかを問う価値がある。第二バチカン公会議は、教会を交わり、信徒を共同責任へと招き、バチカンから教区に至るまで、共に働く構造を定め、神学的な観点からその目指す方向性を示した。だが、その神学は教区や小教区レベルで、それを支える統治構造へと具体化されることはなかった。

 小教区評議会と教区評議会は、公会議およびそれに続く1983年の教会法典によって義務付けられていたが、多くは適切に組織されることはなく、組織された場合も、司教を拘束するものではなく、諮問機関としての役割にとどまっていた。

 公会議の60年後、まさにそのギャップを埋めるために世界代表司教会議の総会が招集されたが、そこでも同じパターンが繰り返された。最終文書でも、共働性、識別力、洗礼を受けた者の尊厳が肯定されたものの、司教が単独で決定できなくなった事項は何なのか、信徒が教区財政にどこまで発言する権利を持つのか、あるいは教区が健全であると判断されるために何を証明する必要があるのか、など​​について具体的に規定されなかった。

 もし教区の信徒たちが、何らかの決定が下される前に真摯に意見を求められていたなら、彼らは自分たちのコミュニティが抱える傷や、教区事務所ではなく街の匂いが漂う教会がどのようなものであるべきかなどについて、大司教区に多くのことを伝えることができたはずだ。

 再生は価値として肯定された。しかし、具体的な設計図は示されず、それがない価値は、実現することはできず、ただその方向性を示すにとどまる。

 つまり、私が「ビジョン」と言うとき、それは単なる願望よりも具体的なものであり、行政能力とは異なるものを意味する。

 教会の業務、財務の透明性、そして安全文化の維持は重要だが、それらは組織が誠実に機能するために必要な条件であって、誰かが「その組織に所属したい」と思う理由にはならない。

 人々が所属したり、留まったりする教会は、どのような共同体を目指しているかを明確に述べ、それを実現しようとしていることを示すことのできる教会だ。

 見知らぬ人を信仰を問うことなく歓迎し、女性を上層部から管理される例外的な存在としてではなく、奉仕活動や運営において対等なパートナーとして扱い、手続きに逃げ込むのではなく、社会正義や貧困層、疎外された人々の問題について率直に語り、自らの組織的存続のためではなく、社会の周縁にいる人々のために資源を惜しみなく投入する教会である。

 それは、福音書の「山上の垂訓」に描かれているビジョンであり、それを真剣に追求する教区であれば、さらに具体的な行動をとることができるはずだ。

 集会が開かれる前に、どのような行動や組織の変化がそのビジョンに向かって進む証拠となるのか、いつまでに達成すべきなのか、そして誰がその変化が起こったかどうかを判断する権限を持つのか、を明記すべきなのだ。しかし、現在、豪州の教区でこれができるところはほとんどない。

*信者減少と財政難で重大な決断を迫られた教区で必要な規定が欠如すると…

 

 キャンベラ・ゴールバーン大司教区は例外的な事例ではなく、信者数の減少と財政難によって重大な決断を迫られた教区において、そうした規定が欠如するとどのような事態が生じるかを示す典型的な例だ。

 権限が明確に定められていない選考委員会、公的な手続きを経ない作業部会、中央で議題が決められた集会といった、同じようなパターンは全国の教区で繰り返されている。キャンベラ北部で起きていることは、全国的なパターンからの逸脱ではなく、その地域的な事例に過ぎない。

 その影響は、現在大司教区で進行中の一連のプロセスに表れている。代表性に欠ける構成員からなる大司教区暫定識別評議会は、何年も断続的に会合を開いてきたが、いまだに司牧評議会を発足させていない。

 司教総代理は、公的な協議プロセスを経ることなく、作業部会(過去6年間で3番目)を設置し、その評議会の設立を推進している。そして、その最初の報告書は、奉仕を謳う地域社会ではなく、総会に提出される予定である。

 並行して進められているのは、北部の4つの小教区を1つに統合する計画だ。この決定は、統合の是非や代替案の有無について、影響を受ける地域社会との事前協議を一切行わずに下された。決定が下された後になってようやく教区民へのアンケート調査が実施されたが、これは既に決着済みの問題に対する、遅すぎる協議の姿勢と言えるだろう。

 これらの決定を開始、情報提供、または評価するための大司教区司牧評議会も司牧計画も存在しなかった。

 作業部会は、こうした事態が始まる前に存在すべきだった組織を設計するよう求められているが、その作業部会が報告を行う議会自体は、真の意味での一般市民の監視を受けたことのない決定を下す階層組織によって構成され、支配されている。

*教皇フランシスコの使徒的勧告『 福音の喜び』の言葉を都合よく解釈している

 

 今回の大司教区の総会のテーマである「渇いた者のための聖域」は、フランシスコ教皇の使徒的勧告『 福音の喜び』 (Evangelii Gaudium)における福音宣教の言葉遣い、すなわち教会が「共同体の共同体」となり、「絶え間ない宣教活動の中心」となるよう呼びかける言葉遣いに基づいている。これはまさに聖書的なイメージである。

 しかし、  『福音の喜び』 は、そのテーマが示唆するよりもはるかに厳しい内容の文書だ。教会に宣教活動を呼びかけたフランシスコ教皇は、同文書の中で「強迫観念と手続きの網に囚われた」教会に対して警告を発し、「真の信仰には常に世界を変えたいという深い願望が伴う」と主張した。

 『福音の喜び』の宣教的な言葉遣いを用い  ながら、同時に統治、財政、教会法上の構造を議題から排除するこの総会は、フランシスコ教皇の言葉を都合よく解釈している。渇望は本物だ。この総会が聖域となるのか、それとも単なる手続きに過ぎないのかは、今後の展開を見守る必要がある。

 総会参加者の構成もまた、示唆に富む。参加者は、教区、学校、組織そして大司教区機関の指導者たちを通して集まっており、これらの組織関係者は多くの場合、大司教区と雇用関係にある。自己推薦は、大司教区総会計画グループによって審査される。先の世界代表司教会議総会の最終文書の第106項で具体的に挙げられているような一般信徒、すなわち女性、若者、社会的に疎外された人々は除外されるわけではないが、特に求められているわけでもない。

*存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない

 制度上の代表者に偏った総会は、最終文書が言うところの代表制ではなく、また 『福音の喜び』が描く貧しい人々のための貧しい教会というビジョンにも当てはまらない。

 存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない。目標が定められていない場所へ変化を導くこともできない。そして、協議の仕組みや戦略的な枠組みがなければ、コミュニティの未来に関する重大な決定を下すことは不可能だ。

 この大司教区で現在進行中のプロセスは、シノダル(共働的)な転換の証拠ではない。シノダリティ(共働性)に関する言葉遣いは、完全に習得されているものの、その本質的な部分は依然として先送りされていることの証拠だ。

 これは、司祭の数は減少の一途をたどり、残っている司祭の平均年齢は上昇し続けている。ごく一部の成長地域を除けば、教会は高齢化と規模縮小が進んでおり、保険、安全対策、および繰延修繕費といった負債が財政的な負担をさらに増大させている。教区の合併、学校の閉鎖や統合、行政組織の統合は、場合によっては本当に避けられないことであり、司教や教区財政委員会が直面するあらゆる困難な決定に、費用のかからない代替案が存在するなどと考えるべきではない。

 しかし、まさにこのような状況においてこそ、有意義な協議が最も重要となるのであり、軽視されてはならない。

 人口動態の変化や財政的な圧力のもとで下される決定は、影響を受ける地域社会だけが持つ知識がなければ、誤った結果を招く可能性が高い。例えば、どの建物がボランティアが集まるような意味を持ち続けているのか、どのような小教区の組み合わせなら、”駐車場を共有する”だけでなく、1つのコミュニティとして機能できるのか、信徒はどのサービスにお金を払い、どのサービスを単に廃止するのか、といったことだ。

 現在のような状況下での協議は、信徒の感情を尊重して行う単なる礼儀ではなく、意思決定に不可欠な情報をもとにしてなされるべきだ。そして、決定が下された後にだけ協議を行う教区は、困難な決断の重荷を軽減されるわけではない。正しい決定を下すために必要だった唯一の情報源を放棄したことになるだけだ。

*教皇フランシスコが自発教令『Ad Theologiam Promovendam」で求めていることを受け止めているか

 

 驚くべきことに、最近の教皇文書は、まさに今、教会に欠けているような、知的で文脈に即した関わり方を認め、いや、むしろ要求している。

 フランシスコ教皇が2023年に出された自発教令『Ad Theologiam Promovendam(神学を促進するために)』 は、教皇自身の言葉を借りれば、教会が自らのあり方や使命について考える方法における「勇気ある文化革命」を呼びかけている。この文書は、神学研究者向けの教令として受け止められた。しかし、それ以上に切迫した意味合いで読むべきだ。

 フランシスコ教皇は、「神学は、過去の定式や枠組みを抽象的に再提示するだけに留まるべきではない」と述べている。神学は「深い文化的変革」に立ち向かわなければならず、「私たちが生きているのは単なる変化の時代ではなく、時代の転換期である」ということを認識する必要がある。

 優れた神学者は、優れた司牧者に似ている、と彼は書いている。豪州のすべての教区作業部会で朗読されるべき一節だ。彼らは「人々と街の匂いを漂わせ、自らの姿を通して人々の傷に油とワインを注ぐ」のだ。

 この教令は、「根本的に文脈に即した神学」、 すなわち人々が置かれている具体的な状況から出発し、「現実によって真剣に問い直される帰納的な方法 」をとることを求めている。また、人々の常識に宿る知恵を「神の多様なイメージが息づく神学的場」として尊重することを提唱している。自身の使徒的勧告『福音の喜び』の宣教的な言葉遣いを用いながら、統治、財政、教会法上の構造を議題から除外する集会は、 フランシスコ教皇の言葉を都合のいいように解釈していると言える。

 

*教皇が提唱する参加型再建のモデルと正反対のことを実践していないか

 

 教令は、豪州の教会が総会プロセスで拒否した、そして中央集権的に議題が管理される議会では提供できない種類の関与を、まさに認めるものである。

 もしキャンベラ・ゴールバーン大司教区のインナーノース教会共同体の人々が、何らかの決定が下される前に真摯に意見を求められていたなら、彼らは自分たちのコミュニティが抱える傷や、教区事務所ではなく街の匂いが漂う教会が実際にはどのようなものになるのかについて、大司教区に多くのことを伝えることができたはずだ。

 だが、彼らは意見を求められなかった。大司教区司牧評議会がどのようなものであるべきか、あるいは自分たちの教区の形態が自分たちのニーズに合致しているかどうかについても、意見を求められなかった。フランシスコ教皇の自発教令『Ad Theologiam Promovendam』 は2023年からバチカン文書館に保管されているが、豪州の聖職者たちは、ほとんど読んでいないようだ。

 教皇レオ14世が5月に出されたの回勅『Magnifica Humanitas(偉大な人類)』の中心的な構造的イメージは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建する姿だ。彼は上から解決策を押し付けるのではなく、人々の声に耳を傾け、組織を作り、責任を割り当て、人々が共に再建するのを助けている。

 これは、真の司牧計画とはどのようなものかを説明するものだ。一連の作業部会、識別評議会、統制された集会といった、それぞれが上から構成され、それぞれが最終的にコミュニティが少なくとも2017年から待ち望んでいる構造を生み出す協議プロセスだ、と主張するようなものを説明するものではない。

 教会の最高位の指導者が共同体的な参加型再建のモデルを提唱しているにもかかわらず、現地の教区が依然として正反対のことを実践しているというのは、養成プログラムでは解決できない矛盾だ。

 

 

*「説明責任」から”保護の三角形”で守られている豪州の教会

 豪州の教会は、その状況が求める「説明責任」から一種の”保護の三角形”に守られている。教会法上の枠組みは「司教を保護」する。「財政と意思決定の不透明性が、教会組織を保護」する。そして、司牧用語―シノダリティ(共働性)、識別、共に歩むこと、育成―は、その二つを保護し、構造的な対応を必要とせず、”応答的な響きを持つ言葉”を提供する。

 この三角形は内部から崩壊することはないだろう。だからこそ、これから述べることが重要なのだ。

*献身的な信徒が今すぐ取り組むべき三つのこと

 豪州のカトリック教会が必要とするビジョンは、司教や作業部会、あるいは学術論文によってもたらされるものではない。それは、真に帰納的で、真に代表的で、そして不快な結論にさえも真に自由にたどり着けるプロセスから生まれる(もし生まれるとすればだが)。そして、そのビジョンを創造するには、献身的なカトリック信徒が今すぐにでも取り組むいくつかのことが必要だ。

 第一に、適切に構成された参加型組織、すなわち、教会法第511条およびシノドス最終文書第106項に従って構成され、真に神の民の多様性を反映した構成員を有する大司教区司牧評議会を強く求めることです。これらの組織は、あらゆる正当なビジョン策定プロセスの前提条件であり、また、偶然ではなく、法が要求するものでもあります。

 第二に、説明責任の枠組みに対する継続的な外部からの圧力。これは、オーストラリア慈善団体・非営利団体委員会(ACNC)による改革提言、基本的な宗教慈善団体免除に関する国会議員との協議、そしてこれらの問題を常に可視化し続けるための継続的な世論の表明などを通じて行われる必要がある。王立委員会は、内部改革では決して成し遂げられなかった方法で教会を変革した。その影響力を放棄すべきではない。

 そして第三に、そしておそらく本誌の読者にとって最も重要な点は、「本物に代わるプロセス」の検証を拒否することである。統治に関する議題を含まない集会に出席すること、メンバーが公に決定されていない作業部会を支持すること、あるいは決定後に送られてきたアンケートに回答することは、いずれも、「本物に代わるプロセス」の正当化の一形態だ。神の民に、そのような正当化に協力する義務はない。

 ビジョンは人々から生まれるか、そうでなければ全く生まれないだろう。その前提条件は、それを受け入れるだけの誠実な組織構造が存在することだ。

*本コラムは元々  Eureka Streetに掲載されたもので、Global Catholicの許可を得て再掲載しています。 

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。

 「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年8月15日

・「率直な意見表明を妨げ、直面する課題を覆い隠す」-”保守派”の米有力枢機卿が、”シノドス方式”の小グループによる臨時枢機卿会議の進め方に異論

〈2026.7.9 The College of Cardinals Report )

 米国のレイモンド・バーク枢機卿がこのほど、The College of Cardinals Reportの取材に応じ、最近の臨時枢機卿会議での小グループ単位で議論*を進める”シノドスの道”方式に疑問を呈し、「神学的な根拠に乏しい。枢機卿団内での率直な意見表明を損なう恐れがあり、教会が直面する重要な問題を覆い隠してしまう危険性がある」と警告した。

 *小グループで参加者の声を聴き合う方法。あくまでも司祭、修道者、信徒すべてが共に歩む”シノドスの道”の手段の一つであり、教会によっては、この方向を「主日の福音を味わう」ために、何年も前から使うなど、様々な教会活動で活用されいるが、日本の教会のシノドス・グループなるものは、これを「霊における対話」と呼び、手段の一つであるものを、あたかも”シノドスの道”の目的であるかのように喧伝している。

 6月26日から27日にかけて教皇レオが招集した枢機卿会議に続き、6月28日に『The College of Cardinals Report』の取材に応じたバーク枢機卿は、フランシスコ教皇の下では長年にわたり行われていなかった枢機卿たちの再集結を歓迎し、より深い兄弟的な交流の機会を「極めて大きな成果」と評価する一方、「会議の進め方が、有意義な議論を抑える結果になっている。会議は”シノドスの道”における議論の進め方をモデルにし、枢機卿たちは小グループに分けられ、あらかじめ設定された質問に沿って議論を進めたからだ」と問題点を指摘。

 そして、「このような会議の進め方が、深い議論を妨げ、”合意に基づく要約”に限定し、異論が出されても、重要な見解が教皇に届かなくなる恐れがある」とし、「報告書は、すべての枢機卿が合意した内容に過ぎない。”多数派が共有しない見解”は、それが重要であっても、小グループの報告に書かれない可能性がある」と述べた。

 その点、この臨時枢機卿会議で、伝統的な参加者全員での公開討論形式で行われた最終セッションを「時間的な制約はあったものの、今回の会合で最も生産的な部分」と評価し、「教皇臨席の下で行われたこの自由な討論は、過去の枢機卿会議が実施されてきた方法そのものだった」と振り返った。

 にもかかわらず、バーク枢機卿は、「討論の主導者が事前に選定されていたこと」、「自由な発言の機会が限られていたこと」などを挙げ、この枢機卿会議は「非常に統制された進め方で行われた。これでは、教皇の助言者としての枢機卿の役割が軽視されることにもなりかねない」と批判した。

 また、教皇フランシスコが2021年に”シノドスの道”の歩みを始めて以来、教会内で「シノダリティ(共働性)」という言葉が多用される傾向が強まっていることについて、バーク枢機卿はその神学的・歴史的根拠に強く疑問を呈し、「明確な定義も教会伝統における先例もない概念」と批判。シノド(教会会議)は長きにわたり、時折行われる諮問の場として存在してきたが、「それらが教会の本質を構成する要素ではない」と強調した。

 さらに、「シノダリティには決まった定義はなく、教会における歴史もない」とし、 枢機卿会議のような確立された構造が、”未定義の概念”と見なすものと融合することへの懸念を表明した。

 そして、 信仰の伝承に関する聖パウロの教え―「私が最初に受けたものを、あなたがたに伝える」―を引用し、連続性が不可欠であるにもかかわらず、現在のシノダリティの定義には連続性が欠けている…だからこそ、この『シノダリティ』という動きを止めさせ、この問題全体について極めて真剣な研究が行われるよう主張しなければならない。なぜなら、我々が論じているのは『教会の命』そのものであり、『魂の救い』についてだからだ」と述べた。

 また、枢機卿は、彼が「現代的であり、十分に検証されていない」と特徴づける考えに基づいて、確立された教会構造を再構築することに対して警告し、「教会にはパラダイムシフトなどない… それは、教会の教えや使命の方向性を根本的に変えることだからだ」と述べ、シノダリティやその他の議論で使われる「パラダイムシフト」を否定した。

 さらに、「現代の懸念に過度に焦点を当てることは、教会の教義的・歴史的連続性の内側から現代世界に向き合うのではなく、教会を世俗的な思考様式に同化させる危険性がある」と警告し、「主が教会を守ってくださると確信しているが、我々も『いいえ、この「シノダリティ」という概念は、『現代の信仰に取り組みたい』という点で善意があるかもしれないが、根本的に欠陥がある』と主張する役割を果たさなければならない」と続けた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年7月18日

・バチカン、10月の使徒的勧告『愛の喜び』に関する世界司教協議会会長会議に向けた準備文書を公表

(2026.7.6  Vatican News)

 バチカンの命・信徒・家庭省とシノドス事務局が6日、10月7日から14日にかけてバチカンで開かれる世界司教協議会会長会議に向けた準備文書、「テーマ別枠組み」を公表した。

この会議は、3月19日に、フランシスコ教皇の使徒的勧告『愛の喜び(Amoris Laetitia)』公布から10周年を記念した際、教皇レオ14世が、開催を発表されていた。教皇は発表の中で、「家族に影響を与え続けている深刻な変化を認識し、この使徒的勧告に照らし、また各地の教会で現在行われている取り組みを考慮に入れつつ、今日の家族に福音を宣べ伝えるために取るべき措置について、互いに耳を傾け合いながら、シノドスの道を進める」との意向を表明された。

 先月の臨時枢機卿会議の閉会挨拶で教皇は、関連する形で、「家族が支えられ、寄り添われるところには、人間関係、連帯、そして希望の学校が育まれます。家族が傷つけられたり孤立したりするところでは、社会全体がその代償を背負うことになります」と語られ、10月の会議に、数組の家族も招待し、実体験を分かち合うことを明らかにしている。

 10月の会議では、東方教会も含む世界の司教協議会会長たちが、「テーマ別枠組み」に示されたテーマについて議論し、互いの声に耳を傾ける予定。そうすることで、各教区に戻った際、家族と共に、家族、人間の生命、そして結婚の召命を支えるための共通の司牧的取り組みを新たにするのが狙いだ。家族の実体験を受け入れ、具体的な人生の物語を分かち合い、教会共同体が家族を伴走するための司牧的取り組みについて省察し、専門家と対話することも予定されている。

 このため、各司教協議会および東方カトリック教会には、今回の準備文書をもとに、それぞれが、あらかじめ考察し、特に各国の教区の家族たちの声に耳を傾けることが求められている。家族を単に「教会の司牧的ケアの受け手」ではなく、「教会の使命の能動的な主体」として、教会の中心に置き、「家族を通じて、福音が日々の関係、選択、葛藤、そして希望の中で具現化される」との考えからだ。

 この会議は、世界代表司教会議(シノドス)の総会ではないが、シノドス的な形で運営される。教皇が、先の臨時枢機卿会議の閉会挨拶で示されたように、この会議は、傾聴、祈り、そして識別によって特徴づけられる”シノドス(共働性)の道”の実施プロセスの精神を共有しているからだ。

 なお、会議の準備文書で示された5つのテーマは次の通りだ。

①「今日の家族:現実、美しさ、そして課題」―家族の経験と今日の教会の牧会的取り組みを通じて、時代のしるしを見極めること

②「若者たちと結婚への召命の発見」―若者の声に耳を傾け、結婚の価値を見出す過程で彼らに寄り添うこと

③「結婚生活。結婚の最初の数年:決定的な時期」――結婚生活の初期および人生のあらゆる段階において、夫婦の声に耳を傾け、彼らに寄り添うこと

④ 人生の困難において:寄り添いと支え――複雑な状況にある家族と共に歩むこと

⑤教会の宣教の主体としてのキリスト教家庭――宣教の原動力として夫婦愛と家族愛を受け入れること。

 

 このテーマ別枠組みは、https://www.laityfamilylife.vaおよびhttps://www.synod.vaで、複数の言語で閲覧できる。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年7月7日

・世界代表司教会議の大陸別代表者会合を開催、最終文書の実践状況と2028年の世界教会会議への道筋を協議

File photo of Pope Leo XIV  (@VATICAN MEDIA)

(2026.6.26 Vatican News

   「シノダリティに関する世界代表司教会議(シノドス)」の(最終文書の)実践状況と2028年の世界教会会議に向けた道筋について検討する会議が、23日から25日にかけてバチカンに大陸別組織の代表者たちを集めて開かれ、議論の締めくくりとして、教皇レオ14世が代表者たちと非公開の会合をもたれた。

 この会合には、中南米、アフリカ、アジア、欧州、オセアニア、中東、北米からの代表者が、各大陸のシノドスチームのコーディネーターを伴って参加。シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿は、教皇との会合について、「参加者が、教会のシノダル(共働的)回心に向けた取り組みを続ける上で、力強い支援と励ましのしるしとなった」と述べた。

 23日に始まった会合の冒頭で、グレック枢機卿は2028年の教会総会に向けた道のりを簡潔に説明し、現在のプロセスの独自性を強調した。記者向け発表によると、同枢機卿は、シノダリティの学校、養成プログラム、シンポジウム、会議、そして傾聴と識別プロセスなど、信徒を巻き込むために各地の教会がすでに実施している数多くの取り組みに言及した。その後の会議は、この「新たなシノドスの時代」における傾聴と識別に捧げられた。

 記者向け発表によると、シノドス第16回通常総会の最終文書を中心とした実践段階は、同総会前のプロセスを単に繰り返すものではなく、各地域共同体が最終文書に盛り込まれた提言を、それぞれが置かれた環境、実情に合わせて実践するよう求められる「新たなプロセス」だ。参加者たちは、各大陸における「最終文書」の実践状況について、重要な経験、困難、未解決の課題、牧会的優先事項を含め、主な進展を共有した。

2028年の教会総会に向けた4段階の道程

 会議での主な討議のもととなったのは、シノドス事務局顧問のジャコモ・コスタ神父(イエズス会)が提示した「2028年10月の教会総会に向けた道程」についての4つの段階に分けての概説だ。

 それによると、第1段階は「振り返り」で、2027年前半に行われ、各教区で評価総会が開かれる。第2段階は「解釈」で、2027年後半に予定し、国別または地域別の司教協議会による総会を通じて行われる。第3段階は「方向づけ」で、2028年の最初の4か月間に実施され、大陸ごとの集まりを通じて、展望報告書が作成される。最後の段階は「祝賀」で、2028年10月にバチカンで教皇と共に世界教会会議へのを開催することで締めくくられる。

 参加者たちは、大陸ごとの組織とそのチームの役割は、何よりも「監督」ではなく、「伴走」にあることを確認した。彼らの任務は、真の補完性の精神に基づき、各地の教会間の賜物の交換を促進することだ。

 また、各地の教会の総会から2028年の教会総会に至るまで、これらの会合は、教会の「シノダル(共働的)回心」の旅の終着点となるものではなく、「今後どのように歩みを進めるかを理解するための祝祭と識別をする時」であることも改めて確認した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年6月27日

・2028年10月の教会総会に向けてー 「シノダリティに関するシノドス」実施への指針

2028年10月の教会総会(エクレジアル・アセンブリー)に向けて 「シノダリティに関するシノドス」実施に向けた指針発表 2026年5月20日

 「振り返り」「解釈」「方向づけ」「祝祭」という四つの段階が、2028年10月にバチカンで開催される「教会総会(エクレジアル・アセンブリー)」に至る道のりにおいて、各地方教会、各国司教協議会、および大陸ごとの教区連合体を導きます。各会議の終了時には、二つの文書が作成されます。共通の問いが、この歩み全体を導くことになります。

 シノドスの実施段階を支援するため、シノドス事務局は本日、本文書、『2027-2028年の「教会会議」に向けて:各ステージ、基準、準備のためのツール』を公表しました。この文書では、世界中の地方教会が、各国および各大陸の教区連合体とともに、2021年から2024年のシノドスの『最終文書』に従って歩んできた道のりの成果を分かち合い、2028年10月の「教会総会」へと至るための日程、方法論、および基準が示されています。

歩みの4ステージ

このプロセスは、各段階において、教会会議の開催が頂点となり、それは、教会的・霊的目的を浮き彫りにする重要な動詞によって特徴づけられた、連続する四つのステージを経て展開されます。

  • 振り返り — 2027年上半期。各教区および東方教会教区における「評価会議」。『最終文書』について実施してきた体験を、「体験の報告」および「他教会への書簡」を通じて読み直すことが求められます。
  • 解釈 — 2027年下半期。各国または地域の司教協議会による教会会議。そこでは、「神学的・司牧的報告書」および「他の地方教会への書簡」を作成します。
  • 方向づけ — 2028年最初の4カ月。「大陸別教会会議」が開催され、そこから共有された優先事項と方向性を特定できる「大局的報告書」が作成されます。
  • 祝祭 — 2028年10月。バチカンにおいて、教皇とともに、全教会を代表する「教会総会」が開催されます。これまで歩んできた道のりが一つにまとめられ、全教会による識別へとゆだねられます。

どのステージにおいても、「教会会議」は歩みの最終段階ではなく、むしろ評価とまとめを行う祝祭の時であり、何よりも教会がシノドス的に回心することに向けた新たな推進力を得る時です。

共通の問い

この歩みの一貫性を保たせるのは、一つの問いであり、各段階において、それぞれの文脈の中でこれを明確にすることが求められています。

「2021-2024年シノドスの終了後に歩んできた道のりに照らし、その実りを他の教会や教皇へのたまものとしてささげることを念頭に置きつつ。皆さんの共同体において、どのような『宣教するシノドス的教会』の具体像、どういったシノダリティの新たな道筋が現れてきていますか」

各ステージの成果:諸教会間の「たまものの交換」

これは、シノドスの意見聴取を繰り返すことでも、通常の共同体生活にさらなる任務を加えることでもなく、むしろ、すでに体験したことを読み直し、その成果と困難を認識し、得られた経験を教会間の「たまものの交換」という論理の中で共有可能にすることだと、本文書は明確にします。

最初の2度の「教会会議」(地方と国レベルのもの)では、互いに補完し合う二つの文書が作成されます。すなわち、「読み直しの文書」――教区および東方教会教区向けの「体験の報告」、および司教協議会向けの「神学的・司牧的報告」――に加え、「教会会議」自体の期間中に起草される「他の地方教会への書簡」です。まさにこの後者の文書こそが、たまものの交換における具体的な手段となります。つまり、各共同体は、自らが成熟させたものを提供すると同時に、他の教会が提供するものを喜んで受け入れる姿勢を示します。一方、「大陸別教会会議」では、2028年の「教会総会」に向けた『討議要綱』(作業文書)の起草に寄与する「大局的報告書」を作成します。

すべての資料は、厳格な日程に従ってシノドス事務局に提出されます。2027年6月30日までに、教区・東方教会教区ステージ分、2027年12月31日までに、各国司教協議会ステージ分、2028年4月30日までに、大陸ステージ分が、2028年10月の「教会総会」準備のために提出されることになっています。

グレック枢機卿のことば

シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿は述べています。「わたしたちが各地方教会に提案しているのは、追加の働きではなく、むしろともに識別して感謝する時であり、霊が教会の中ではぐくむものをともに読み直し、歩むべき道を認識する時なのです。これらの『教会会議』は、社会学的調査や議論のプロセスとは異なり、技術的評価でもありません。むしろ、それは深い教会的・霊的識別の体験であり、この旅路をまとめ、新たに推進する時なのです。それによって、諸教会間でのたまものの交換が具体的な体験となり、シノダリティが、宣教に奉仕する教会生活の通常の態度として、ますます形づくられていくのです」。

「教会会議」の構成、責任、方法論

本文書は、各「教会会議」の「構成」がその目的に合致していなければならないことを強調しています。参加者の選定にあたっては、男女間のバランスや世代間のバランス、文化的・教会的な多様性(司祭、助祭、男女奉献生活者、諸団体・運動体・新しい共同体のメンバー、および組織体に属さない信者たちを含む)に十分な配慮を払うとともに、弱くされ、周縁化された人々の参加にも配慮すべきです。とくに、小教区で働く司祭が参加するよう、細心の注意を払うべきです。適切な場合には、他の諸教会やキリスト教共同体、また諸宗教の代表者も参加することができます。しかし、重要なのは、選ばれた人々が2028年以降もこのプロセスを支える意思をもち、それによって継続性が確保されるよう貢献することです。

この歩みの「責任」は、地方教会の「教会会議」については教区司教または東方教会教区の司教が、国や地域の「教会会議」については司教協議会会長が、大陸レベルではその責任者が担います。各レベルに設置される「シノドスチーム」が、活動の企画・調整を担当します。

方法論に関しては、本文書は、現在広く実践され採用されている「霊における会話」を、方法上の優れた枠組みとして継続採用することを、本文書は勧めます。

ツールと同伴

本文書は、「シノドス実施ステージ」の中に位置づけられます。これは、使徒憲章『エピスコパーリス・コムニオ』に概説されたプロセスの第3のステージであり、「神の民」からの意見聴取(2021年~2023年)、ならびに2023年10月と2024年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の2回の会期を頂点とする開催のステージに続くものです。このステージは、教皇フランシスコによる『最終文書』発布をもって始まり、その後、教皇レオ十四世によって確認、推進されました。本日発表された文書は、『シノドス実施ステージの旅程』(2025年6月29日)においてすでに示されていた内容を、より具体的な形にしています。

この歩みには、『最終文書』や『旅程』に加え、シノドス第1会期後に教皇フランシスコによって設置された「研究部会」による『最終報告書』も伴っており、これらはウェブサイトwww.synod.vaにて順次公開されます。また、シノドス事務局は、各地方教会における、この歩みの責任者を支援するため、追加の作業資料を提供し、オンラインでの養成の会合を開催する予定です。

(暫定翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年6月5日

・シノドス事務局が、2028年の世界の教会総会に向けた道筋に関する文書を発表

(2026.5.20   Vatican News)

   バチカンのシノドス事務局が20日、2028年10月に予定されているEcclesial Assembly(教会総会)に向けた『2027–2028年総会に向けて:2027–2028年総会に向けた準備の段階、基準、およびツール』と題する世界の現地教会を導くための段階、基準、および手段を概説した文書を公表した。

 この文書は、2021–2024年シノドスの最終文書を受けて始まった歩みの成果を、2028年10月の教会総会に向けて世界中の現地教会およびその国別・大陸別組織が分かち合うために求められる日程、方法論、基準を定めたもの。「記憶し、解釈し、方向づけ、祝う」-が現地の教会、司教協議会、および大陸別グループを導く4つの主要な段階となる、としている。

*歩み

 各段階で総会を開催することにつながるこのプロセスは、その教会的・霊的な目的を強調する重要な動詞によって特徴づけられた、4つの段階を経て展開される。2027年の前半は「回顧」に充てられる。各教区および教区管区における評価総会では、報告書および他教会への書簡を通じて、最終文書を実施した経験を再検討することが求められる。後半は「解釈」の時となり、(国または地域)の司教協議会の総会は、神学的・牧会的報告書と、他の現地教会に向けた書簡を準備する。

*方向づけ

 「方向づけ」は2028年の最初の4か月間の段階となり、大陸レベルの司教協議会総会が、共通の優先事項と方向性を特定できる将来を見据えた報告書を作成。そして同年10月は、「祝う」時となる。世界の全教会の代表が、教皇と共にバチカンに集まる。このようにして、”シノドスの道”の歩みは一つにまとめられ、教会全体の識別へと委ねられることになる。

 国、地域、大陸、世界のどの段階においても、プロセスの最終段階ではなく、評価と統合、そして何よりも教会の「共議的な回心」に向けた新たな推進力を得るための場となる。

*守り

 各段階に合わせて調整された共通の問いが、このプロセスの統一性を守る。2021年の”シノドスの道”の開始から2024年10月の世界代表司教会議第16回定例総会の閉幕以降歩んできた道のりに照らし、「その実りを他の教会や教皇への贈り物として捧げることを念頭に置き、世界各地の教会共同体において、宣教的、シノダル(共働的)な教会の具体的な姿として何が現れ、シノダリティ(共働性)の新たな道として何が浮かび上がっているだろうか?」という問いかけだ。

 この文書は、これがシノドス事務局諮問の繰り返しでも、共同体の生活にさらなる課題を加えるものでもなく、すでに経験されたことを再読し、その実りと困難を確認し、得られた経験を教会間の賜物の交換という論理の中で共有可能にするものだ、ということを明らかにしている。

*大陸段階の総会の報告

 最初の2つの総会(地方および国の段階のもの)は、互いに補完し合う2つの文書を準備する。一つは考察文書(教区向けの記述報告書、司教協議会向けの神学的・牧会的報告書)、もう一つは総会そのものの中で起草される、他の現地教会への書簡だ。 賜物の交換の具体的な手段となるのは、この後者の文書である。すなわち、各共同体は自らが成熟させたものを提供し、他の教会から提供されるものを受け入れる準備を整えるのである。

 一方、大陸段階の総会では、2028年の世界全体の教会総会に向けた『作業文書(Instrumentum laboris)』の起草に資する、将来を見据えた報告書を作成する。

 すべての資料は、教区段階は2027年6月30日までに、司教協議会段階は2027年12月31日までに、そして2028年10月の教会総会に向けた大陸段階は2028年4月30日までにシノドス事務局に送付される。

 

*グレック事務局長「共に識別を行う時」

 今回の文書発表に当たり、シノドス事務局長のグレック枢機卿は、「私たちが各地方教会に提案しているのは、単なる追加の課題ではない… 今は、共に識別を行い、感謝を捧げる時であり、聖霊が教会の中で育まれているものを共に読み解き、私たちが歩むべき道を認識する時なのです。総会は、社会学的調査でも、審議プロセスでも、技術的評価でもない。深い教会的・霊的な識別体験であり、総括と新たな推進力を得る時であり、それによって教会間の賜物の交わりが具体的な体験となり、シノダリティが宣教に奉仕する教会生活の日常的な様式としてますます具現化されるようになるのです」と説明。

 「この文書は、総会の構成がその目的に沿ったものでなければならないこと、また参加者の選定にあたっては、男女間や世代間の関係、ならびに文化的・教会的な多様性に適切な配慮がなされるべきであることを強調している」と述べ、文書では、「これには、司祭、助祭、奉献生活者、諸団体・運動・新しい共同体のメンバー、組織的な構造に属さない信徒に加え、脆弱な状況や周縁化された状況にある人々の参加も含まれる」としている。

 このプロセスの責任は、教区レベルでは教区司教が、国または地域レベルでは司教協議会会長が、大陸レベルでは大陸の機関(注・司教協議会連盟など)の長が負う。各レベルに設置されるシノドス・チームが、組織と調整を監督する。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年5月21日

・「新司教選出の協議には、一般信徒、若者、貧しい人々の代表者も含めることを推奨する」ーシノドス事務局が第7、第9グループの最終報告書発表

Bishops gathered in the New Synod HallBishops gathered in the New Synod Hall  (@Vatican Media)

(2026.5.5 Vatican News   Antonella Palermo)

   バチカンのシノドス事務局が5日、「司教職候補者の選任基準」に関する第7研究グループの最終報告書の第1部、および「教義的・司牧的・倫理的問題を見極めるための神学的基準とシノダル(共働的)な手法」に関する第9研究グループの最終報告書を公表した。

 シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿によると、第7、第9研究グループの最終報告書は、司教選出の核心には「識別」があることを再確認するとともに、教会が直面する最も困難な課題にどう対処すべきかを識別するための具体的な神学的基準を採用している。

・・・・・・・・・・・

【「司教職候補者の選任基準」に関する第7研究グループの最終報告書の第1部】

 

  第7研究グループの最終報告書では、司教の司法的機能、ad limina apostolorum(使徒座への訪問)、および司教養成に関する考察が続く中、第1部の「司教選出の基準」に関する序文部分が公表された。

  そこでは、「羊のいないところには羊飼いはおらず、羊飼いのいないところには羊の群れはない」という根本的な前提を再確認。司教候補者に求める「シノダル(共働的)資質」には、「交わりを築く能力」「対話する能力」「地域文化に対する深い知識」、そしてそれらに「建設的に溶け込もうとする意欲」が含まれる。

  また、教皇大使に対し「シノダル的かつ宣教的な資質」を持つことを求めており、それによって教皇大使もまた、司教候補として提案される人物の中にこの資質を見出せるようにすべきであるとしている。

  そして、各教区が自らの状況と必要性について定期的に見極めのプロセスを実施し、そのプロセスがシノダル的かつ宣教的な教会の基準を満たしているかを確認し、最良の実践例の共有を促進すべきであると述べている。

  新司教の選任については、「司教の継承が近づいた際、司教は司祭評議会および教区司牧評議会を招集しなければならない。そのメンバーは、共同体的(コロギアル)な方法で教区の必要性について意見を表明し、司教職に適任と考える司祭の名前を、封印された封筒に入れて司教に提出する」とし、「可能であれば、協議には大聖堂参事会、財務評議会、信徒評議会、ならびに奉献生活者、若者、貧しい人々の代表者も含めるべきだ」と述べている。

*協議への奉献生活者と信徒の参画

 そして、「神の民のすべての構成員が識別力を高めるのを助ける」ことを目的とした、いわゆる「形成への投資」を奨励。また、「司教が聖職者の継続的な養成を行うのを支援するための専門チーム」を設置することを提案している。

 また、教区長・司教が空席となっている場合、教区内に委員会を設置することを提案。「教皇大使は、教区の状況、新たな司牧者の資質、および候補者候補を明確にするために、この委員会と協議することできる」としている。さらに、協議には「聖職者だけでなく、可能な限り同数の奉献生活者(男女)、および信徒(男女)も参加させること」を推奨、その目的は、「真実を可能な限り完全に引き出すことにある」と説明している。

 報告書はバチカンの各省庁に対し、その手続きをより「シノダル(共働的)」な方向へと見直すよう求め、司教の選任プロセスに対する定期的な独立評価の実施を提案している。

*第7研究グループの最終報告書の第一部公式要約の日本語試訳

 第7研究グループの報告書は、聖霊に導かれ、祈り、傾聴、そして識別という姿勢を特徴とする教会的な出来事として、司教職候補者の選定プロセスを理解し、実行する一助となることを目的としている。このプロセスには、様々な立場で多くの主体が関与している。

 第一に、その司教に導かれる地方教会、次に、同一の教区管区に属する、あるいは司教協議会に集う司教たち、そして最後に、ローマ教皇庁と連絡を保つ、使徒座大使が主宰する教皇庁代表部である。

 司教の選任にあたっては、求められる資質の中に、候補者の「共議的な能力」、すなわち共議的かつ宣教的な教会の必要性に対する感受性を考慮に入れるよう推奨した上で、同グループは、教皇大使自らがまず共議的かつ宣教的な資質を備え、それによって、司教候補として指名された者たちの中にも同様の資質を見出せるようになることを期待している。

 初期の時代から、各地方教会がその司教を選出する過程において様々な形で諮問を受けてきたという認識に基づき、同グループは、各教区が定期的に、自らの現状と必要性に関する識別プロセスを実施することを提案する。

 このプロセスは、一方で教区内で司教職の候補者として提案すべき司祭を特定し、他方でその地方教会の将来の牧者の資質像を策定することを可能にするものである。

 特に、教区管区(または司教協議会)の司教たちが、使徒座に提出する司教職候補者名簿を作成するよう求められている会議に鑑み、 本グループは、司教が少なくとも司祭評議会および教区司牧評議会を招集することを提案する。

 これにより、各構成員は、封印された封筒に、自教区で活動する司祭のうち司教職に適任と判断する者の氏名、ならびに自教会の将来の司教像に関する意見(後継者として適任と考える司教または司祭の氏名を含む)を記し、司教に提出することができる。

 これらの協議の結果は、司教によって教区管区または司教協議会の司教総会に提示され、同総会は可能な限り合意を反映した司教職候補者名簿を作成する。また、当グループは、司牧者の後継者が決定する時期が近づいた際、退任する司教が共同の識別を行うための具体的な機会を設けることを提案する。

 さらに、教区が空位となる時点、あるいは聖座が後継手続きの開始を承認した時点で、教区内に「教区後任者選定委員会」を設置することを提案している。使徒座大使はこの委員会を活用し、教区の状況や新司教の資質を明確にし、また候補者に関する意見を求める。

 一方、教皇大使は、各教区および各教会管区(あるいは司教協議会)で行われた協議の結果を受け取り、さらなる協議と統合する。この点に関して、聖職者だけでなく、同数の信徒および奉献生活者にも相談することを推奨する。

 この協議の目的は、教区の状況やニーズ、そして司教職の候補者たちの資質や適性について、可能な限り真実を明らかにすることにある。本グループは、情報提供者に対して配布する質問票を更新・細分化すること、また、状況や人物について十分な理解を得るために書面による質問票だけでは不十分と思われる場合には特に有用な、個人面談を活用することを提案する。

 第9研究グループは、ローマ教皇が各地の教会を司牧するのを補佐する任務を負うローマ教皇庁の各省庁もまた、教会的な識別の手法が日常の活動に反映されるよう、自らの手続きを見直すよう求められていると考える。2021年から2024年にかけてのシノドス・プロセスの精神に基づき、さらに、司教職候補者の選定プロセスに関する評価の方法を設けることを提案する。

 このような評価は定期的に行われ、そのプロセスがシノダル(共働的)かつ宣教的な教会の基準を満たしているかを確認し、優れた実践例の共有を促進し、必要とされる措置を講じるものでなければならない。最後に、本グループは、教皇の裁量により、定期的に独立した教会委員会を設置することを提案する。同委員会は、その評価においてローマ教皇庁の各省庁の活動も対象に含めるものとする。

 

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【「教義的・司牧的・倫理的問題を見極めるための神学的基準とシノダル(共働的)な手法」に関する第9研究グループの報告書】

 第9研究グループの最終報告書は、『使徒言行録』第10章から第15章に見られる聖書のイメージを引用。そこでは、「福音の新たな本質を裏切ることなく、いかに文化的多様性を尊重できるか」が示されている。そのうえで、教会が最も困難な教義的、司牧的、倫理的な問題に取り組む方法において、パラダイムの転換を提案している。

 第一に、これらの問題を表現する際、「物議を醸す」という形容詞よりも、「出現しつつある」という形容詞を用い、「目的は単に問題を解決することではなく、関係性の回心、共有された学び、そして透明性を通じて、共通の善を築くことにある」と説明している。

 さらに、「すでに聖霊が働いている」対話者に対して責任を負うことなしには、福音の宣教はあり得ないことから、「司牧的原則」を導入している。

 また、これらの課題に取り組むための方法論的ステップとして、「自分自身に耳を傾けること」「現実に耳を傾けること」、そして「多様な知識を統合すること」を挙げ、「聖霊による対話」こそが、教会におけるシノダリティ(共働性)の文化を育むための特権的な手段であり続ける、と指摘している。

*識別のための基盤としての具体的な証言

 最終報告書は、これらの指針を、同性愛者のカトリック信徒の体験や、積極的な非暴力の実践に具体的に適用するよう求め、特に非暴力の形態に関しては、初期教会のキリスト教徒からインスピレーションを得て、ミロシェヴィッチの平和的な失脚に貢献したセルビアの若者たちの運動の証言が、検討グループの指針となったとしている。

 いずれの場合においても、証言は、倫理的・神学的識別への道のり、そして未解決の問いに対する出発点として機能し、それによってあらゆる共同体が、「歴史や人々の経験の中で神が働かれる善を認識し、促進する責任」を担うことができるようになる、と述べている。

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( 第9研究グループ最終報告書の公式要約)

 

 

 

 

 

2026年5月6日

・シノドス事務局、第2研究グループの「貧困と環境」とアフリカ・マダガスカル司教協議会連合の「一夫多妻制」に関する最終報告書を公表

(2026.3.24  Vatican News)

 バチカンのシノドス事務局が24日、第2研究グループによる「貧しい人々と地球の叫びに耳を傾ける」、アフリカ・マダガスカル司教協議会連合(SECAM)委員会による「一夫多妻制の司牧的課題」についてのそれぞれ最終報告書を公表した。

 両報告書は、そのテーマの多様性において、教会のシノダル(共働的)な歩みを証ししている。「耳を傾け、見極め、寄り添い、福音に根ざして、あらゆる男女に寄り添い続け、現代の課題に応えていく教会」の姿だ。 最終報告書および5カ国語による要約は、シノドス事務局のウェブサイトwww.synod.vaで閲覧可能。

 教皇レオ14世は、透明性と説明責任の精神に基づき、シノドス期間中に実施された考察と識別による成果を神の民全体と分かち合うため、これらの最終報告書の公表を指示しておられる。これらは世界代表司教会議(シノドス)の作業文書と見なされ、シノドス総事務局に提出されたことにより、研究グループは任務を完了し、解散したとみなされる。

*第2研究グループ「貧しい人々と地球の叫びに耳を傾ける」最終報告書

 「貧しい人々と地球の叫びに耳を傾ける」をテーマとする第2研究グループの最終報告書は、バチカンの総合的人間開発省のミハエル・チェルニー長官による考察を冒頭に掲げ、教会がいかにして貧しい人々と地球の叫びにより良く耳を傾けることができるかについて、同グループに委ねられた5つの根本的な問いに応えることを目指した。

 そして、「貧しい人々と地球の声に耳を傾けることは、単なる牧会的選択肢ではなく、愛の二重の掟と善きサマリア人の模範に根ざし、教会の使命を構成する信仰の行為だ」という神学的確信に基づいている。チェルニー長官が序文で述べているように、「傾聴」という言葉は、出会い、問題の理解、行動、評価、そして霊的支援を含む包括的なプロセスを指し、自らを貧しいと感じる人々を含め、すべてのキリスト教徒に関わるものである。

 したがって、同グループの活動の指針となる課題は、「貧しい人々の叫びに応えることは地球の叫びに応えることでもあり、その逆もまた然りであることを自覚しつつ、教会はいかにしてこれら二つの相互に関連する叫びにより良く耳を傾けることができるか」ということになる。

 報告書は、採用された作業方法、直面した制約、そして得られた教訓を概説。教会内に既に存在するツール―小教区、基礎共同体、運動団体、カリタス機関、エキュメニカルおよび国際的なネットワークなど―を特定し、その豊かさを強調すると同時に、専門組織への不適切な委任という誘惑を克服するよう求め、すべての洗礼を受けた者に共同責任を想起させている。

 具体的な提案の一つとして、主に障害者で構成される小グループから提言された「Ecclesial Observatory on Disability(障害に関する教会観測所)」の設立が挙げられている。これは、あらゆる周縁化されたグループに発言の場を与えるため、地方や地域レベルで再現可能なモデルとして提案されたものである。

 神学的レベルにおいて、報告書は、貧しい人々や地球を真の神学的「場(loci)」として傾聴することから生まれる神学の必要性を強調し、「最も脆弱な共同体の神学者たちが教導文書作成に積極的に関与するように」と求めている。信者の養成には特に注意が払われ、信徒、修道者、神学生のための養成プログラムが検討されている。プログラムについては、単なる技術や社会分析としてではなく、霊的修練としての「傾聴」の能力、そして「実存的な周縁部との直接的な出会いを統合しなければならない」と指摘されている。

 最後に、単に傾聴のための構造を持つだけでなく、その構成員一人ひとりを最も脆弱な人々の傍らに立つ宣教的な存在へと変容させることで、それ自体が傾聴の道具となり得る「シノダルな教会」というビジョンを提示している。

*アフリカ・マダガスカル司教協議会連合の一夫多妻制委員会の沿革

 「一夫多妻制」という問題に焦点を当てたアフリカ・マダガスカル司教協議会連合(SECAM)の委員会は、2023年10月に開かれた世界代表司教会議第16回通常総会第1回会合の要請に応えて設立された。同会合は、SECAMに対し、一夫多妻制に関する神学的・牧会的見極めを促進し、信仰に導かれつつある一夫多妻関係にある人々を伴走するよう奨励していた。これを受け、アフリカの教会は、その大陸機関であるSECAMを通じて専門家チームを設置した。

 アフリカおよびその島々の各地域から集まった12名の専門家で構成され、教義神学・基礎神学、聖書学、司牧、教会法、人類学など多様な分野を代表するこの専門家チームは、対面およびオンラインで会合を開いた。

 まとめられた草案は、シノドス事務局を通じて教理省に提出された。SECAMは、同省庁から前向きなフィードバックと、検討すべき具体的な指摘を受け、文書はさらなる精緻化のため専門家チームに返却された。暫定版は、2025年7月30日から8月4日までルワンダのキガリで開催されたSECAM総会において、司教や神学者らによって提示・討議された。この総会での知見が、文書の最終版に反映された。

 総会での審議を経て、最終案はさらなる指針を得るため、シノドス事務局および教理省に提出され、24日、最終報告書が公表された。

*SECAM報告書の概要

 したがって、SECAMは、アフリカ大陸の文化的、人類学的、神学的文脈に根ざし、一夫多妻制という司牧的問題について有機的な考察を展開した。

 報告書は、人間集団間、先祖、そして神との契約に基づいて築かれたアフリカの家族の神聖な価値を認めることから始まる。そこでは、子供は神からの祝福と見なされ、多くの子孫を望むことは共同体のアイデンティティの不可欠な部分を形成している。一夫多妻制の歴史的実在は、この視野の中に位置づけられる。この現象はアフリカに特有のものではないが、特にアフリカに深く根ざしており、司牧上の緊急性を帯びている。

 聖書的分析は、その両義性を明らかにしている。旧約聖書では容認されていたが、新約聖書の啓示によって次第に超越されていく。そこでは、イエスが創造主の本来の計画を想起し、結婚の一体性と不可解性を明確に断言している。

 そして報告書は、教会の教えを明確に再確認している。すなわち、「キリスト教徒の結婚は、文化的強制によるものではなく、神学的本質において一夫一婦制」だということだ。司牧的な観点から、SECAMは一夫多妻制のいかなる形態の承認も排除し、一夫多妻制を実践する求道者に対しては、「一夫一婦制の結婚への誓約を自発的に受け入れるまでは洗礼を授けない」ことを勧告する。これは排除や烙印を押すことではなく、キリストの憐れみに導かれた、忍耐強く敬意ある伴走である。

 この司牧的アプローチの中心には女性の尊厳が据えられており、文化の中に具現化された福音宣教の模範として、イエスの母マリアが提示されている。結論では、霊的・実存的な周縁に生きる人々に対して教会の扉を開くことのできる「近接の司牧」へと道を開き、あらゆる人を、忠実な愛と契約へと招かれた神の子として認めている。

*一夫多妻制に関する報告書の結論

 報告書は、一夫多妻制が「今日でも、アフリカ社会において現実であり続けていること」を認めつつ、その存在と広がりは「各国の政策、支配的な宗教、伝統的な文化的影響によって異なる」とし、「こうした文脈において、福音の宣教と一夫一婦制の結婚関係を遵守するよう求める提案は、文化的理由によって正当化される一定の抵抗に直面することがある」とも指摘している。

 また、「福音宣教の歴史を通じて、一夫多妻関係にある人々をキリスト教共同体へ受け入れる試みがなされてきたこと」を認めつつ、その形は「多様であり、時には同じ社会文化的空間内にあっても、教区ごとに、あるいは司教協議会ごとに異なる場合があった」とした。

 そして、「教会が、すべての者の交わりと参加の中で、その共議的な性格を十分に生きようとする今、アフリカの教会にとって、「これらの形を共有し、教義的・司牧的に評価し、適切な場合には、すべての人にキリストとその福音との出会いの可能性を提供することを目的として、他の道を提案することが急務となっている」と強調。

 さらも。「教会への受け入れを求める一夫多妻制の夫婦に寄り添うアフリカの教会の司牧活動は、結婚およびキリスト教家庭に関する教会の理解に忠実であろうとする試みとして現れており、個人や家族を受け入れ、伴走する必要性はますます明らかになっている」と指摘。「それは、教会や社会における家族の召命と使命について、福音によって啓示された真理が彼らに投げかける呼びかけに、より明確に答えることができるようになるためだ」と言明している。

 報告書は結論として、「結婚の秘跡を単なる社会的慣習としてではなく、配偶者の聖化と救いのための賜物として理解できるよう助けるために、親密さと配慮に満ちた司牧的アプローチを持つことが緊急に求められている」とし、「召命と使命として、それは賜物として受け取られる」と述べている。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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二つの最終報告書の公式要約英文は以下の通り。

【To Hear the cry of the poor and the earth Executive Summary of the Final Study Group 2 (Original Text: English)】

Study Group 2 explored how the Church can deepen its listening to the interconnected cries of the poor and the earth. Its Final Report begins with a reflective Preamble by Cardinal Michael Czerny, Prefect of the Dicastery for Promoting Integral Human Development. Part 1 of the Report outlines how the Study Group carried out its work, the limitations and lessons learned, while Part 2 provides a synthesis of recommendations responding to the five questions entrusted to the group. Six appendices offer reflections and further details of recommendations.

Methodology

Study Group 2’s methodology was grounded in synodal principles: participation, diversity, encounter, discernment, and collaboration. Its membership brought together clergy, lay experts, theologians, and pastoral practitioners from Asia, Africa, Latin America, Europe, North America, and Oceania, deliberately ensuring diversity of geography, vocation, lived experience, and gender parity. The group met 23 times via Zoom from July 2024 to October 2025, supported by Dicastery staff.

Two specialised subgroups were formed. The Disability Subgroup, largely composed of persons with disabilities, contributed expertise and drafted Appendix B while the Theology Subgroup, composed of theologians engaged with communities experiencing poverty or marginalisation, drafted Appendix E.

The Study Group used multiple methods to gather global insights including:

  • Analysis of Synod-generated materials which showed that they raised significant questions rather than offering answers, signalling a need for deeper listening and research.
  • Four short surveys sent in five languages to bishops, ministries, organisations, theologians, formators, and Dicastery staff exploring obstacles to listening, effective practices, proposals for new structures, and reflections on formation.
  • A session during the Second Assembly of the Synod.
  • A worldwide call for written submissions.
  • Partnering with USIG in a formation survey of Women’s Religious Institutes that generated more than 200 responses, contributing richly to the analysis of Question 5 (Appendix F).
  • A global feedback loop that circulated draft recommendations widely producing responses from every continent, including 21 Bishops Conferences and 15 organisations and individuals, ensuring global testing and refinement of proposals.

The Study Group identifies several constraints that shaped its work including:

  • Geographical gaps, particularly lacking a Middle Eastern member despite receiving some input from the region.
  • Linguistic limitations, as English was the working language, affecting the depth of integration of insights expressed in other languages.
  • Insufficient time and resources for culturally appropriate consultation with Indigenous communities, whose protocols require extended relational processes.
  • Scope boundaries, intentionally excluding topics such as digital listening and LGBTQIA+ issues, which were expected to be addressed by other Study Groups.
  • Limited time for a fully circular synodal process, which would have required more extensive local engagement and feedback loops with communities made poor or marginalised.

Several cross-cutting insights emerge from reflection on the group’s own synodal process:

  • Synodality requires time, trust, and diversity: Truly synodal work depends on patient relationship-building across cultures and states of life, with an intentional effort to include women and people with lived experience of marginalisation.
  • Listening must be relational and participatory: Authentic listening demands sustained, mutual relationships, especially with people who are poor, marginalized, or excluded. Structures alone cannot substitute for relational encounter.
  • Listening to the earth requires new capacities: The group noted gaps in how local churches currently listen and respond to the cry of the earth, suggesting a need for new skills and deeper ecological awareness.
  • Examples must be offered with care: The group struggled to balance the need for concrete examples with the risk of unintentionally privileging certain contexts. General principles were therefore emphasised to support contextual adaptation.
  • Synodal processes are open-ended: Genuine encounter and listening unfold through iterative feedback loops, not linear planning. The group emphasised humility, openness to conflict, and trust in the Holy Spirit in discerning next steps.

Synthesis of Recommendations

Part 2 of the Report gathers the recommendations developed through the Study Group’s listening and discernment. They respond to five overarching questions given to the Study Group related to listening, linking community and service, networking, theological research, and formation.

Listening: Existing and New Means (Question 1)

Key themes included that: the Church already listens through parishes, ministries, participatory bodies, Indigenous Catholic groups, safeguarding structures, and international networks; listening must expand beyond passive consultation to deeper mutual relationships confronting fears, biases, and structural barriers; and the interconnection of the cry of the poor and the cry of the earth must be more intentionally integrated. Appendix A details the Church’s existing spaces, times, and processes of listening, while identifying obstacles and proposing improvements.

The 11 recommendations concerning means of listening included:

  • Establishment of online platforms to share global examples of good practice (e.g., Laudato Si’ Action Platform).
  • Encouragement of use of the Mass for the Care of Creation during the Season of Creation.
  • Expansion of inclusiveness in participatory bodies, ensuring representation of vulnerable groups, women, and those from territories affected by climate change and conflict.
  • Establishment of regional or international structures for listening to Indigenous Peoples and monitoring caste-based discrimination.
  • Creation of an Ecclesial Observatory on Disability and adaption of this model locally to listen to other marginalised groups.

Linking Community and Service (Question 2)

Key messages were that social ministry cannot be delegated; all Christians bear responsibility for listening and responding and that two-way communication between parishes, ministries, bishops, and agencies is essential for shared mission. Appendix C emphasizes that responding to the cries of the poor and the earth is integral to the mission of the entire Christian community, not just specialists.

The 3 recommendations concerning linking community and service addressed:

  • Strengthening communication and collaboration among pastors, bishops, ministries, and agencies.
  • Requiring ongoing formation in social and ecological justice for pastoral personnel, with direct experiences of listening and encounter.
  • Providing spiritual and pastoral support—chaplains, pastoral workers, theologians—to accompany those working in charitable and justice ministries.

Networking Initiatives and Rights-Based Advocacy (Question 3)

Key themes were that: the cries of the poor and the earth must be addressed together, not separately, recognising their structural interconnections; networking—across dioceses, regions, religious traditions, and civil society—strengthens effectiveness; and reflection, evaluation, gender analysis, and transparency are essential to improving listening and action. Appendix D stresses that charitable works, advocacy, research, and ecological care must be interconnected and mutually reinforcing.

The Report’s 7 recommendations concerning networking and combining different kinds of initiatives included:

  • Promotion of integrated responses to both cries, using expertise and multi-level networking.
  • Formation in Catholic Social Teaching of those engaged in social ministry, advocacy, conflict resolution, and alliance-building.
  • Supporting spiritual nourishment and communal discernment practices, including spiritual conversation methods.

 

Theological Research That Listens (Question 4)

Key messages were that the lived experience of the poor and the earth is a privileged locus of theological wisdom and insight, and that theologians must cultivate intercultural competence, deepen relationships with marginalized communities, and work in transdisciplinary ways. Appendix E presents a vision for a synodal theology rooted in encounter with communities made poor and ecological communities.

The Report’s 7 recommendations concerning how theological research can listen to what those made poor and the earth have to teach include:

  • Appointment of theologians from poor, marginalized, or underrepresented communities to advisory bodies across all levels of the Church.
  • Facilitation of access to theological education for lay people, especially women from marginalized communities.
  • Creation of global networks linking theologians with organisations working with people who are poor or ecological communities.
  • Strengthening dialogue among poor communities, Christians of other confessions, and interreligious partners on issues of marginalisation and ecology.
  • Enhancing communication training for theologians, including digital and pastoral communication.

 

Formation for Listening to the Poor and the Earth (Question 5)

Key themes were that formation should be shared across vocations—lay, religious, and ordained—fostering mutual esteem and collaboration and that listening must be taught explicitly, not assumed, and its transformational impact must be evaluated. Appendix F identifies practices that support formation for listening and highlights the need to integrate listening across intellectual, spiritual, relational, and experiential dimensions.

The Report’s 20 recommendations concerning the crucial area of formation included:

  • Prioritising direct encounters with people made poor and vulnerable ensuring a diversity of voices such as women, children, Indigenous communities, and creation itself are heard.
  • Recognizing persons made poor as agents of evangelisation, not just recipients of service.
  • Teaching listening as integral to Catholic Social Teaching, advocacy, and spiritual discernment.
  • Integrating ecological and social concerns.
  • Ensuring access to formation for those on the margins, especially First Nations peoples, women, and people with disabilities.
  •  Providing resources for listening, intercultural competency, gender and cultural analysis, and responsiveness to the cry of the earth.

Conclusion

The Report articulates a synodal vision of listening that is relational rather than merely procedural, inclusive and attentive to those most often unheard, integrated across ministries, disciplines, and levels of the Church, and committed to ongoing conversion through encounter, discernment, action, and evaluation.

The Study Group sought to model the very synodal dynamics it recommends; diverse participation, humble learning, listening across boundaries, and responsiveness to the concrete cries of people and the earth. Its recommendations offer strategic pathways for strengthening the Church’s capacity to become ever more a community that listens with the heart of Christ.

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【The Pastoral Challenge of Polygamy Executive Summary of the Final Report of SECAM Commission (Original Text: English)】

The Pastoral Challenge of Polygamy

 

1.       INTRODUCTION

The African family is built on covenant: covenant between human groups, covenant with ancestors, covenant with God. At the heart of this family, the child represents a priceless treasure, a divine blessing. The child perpetuates the lineage name while also helping to strengthen present life. Having numerous descendants is a gift from God.

It is in this context that the institution of polygamy must be understood. This refers to a marital system in which an individual is bound, at the same time, to several spouses. For a woman with several husbands, the term is polyandry. For a man with several wives, the term is polygyny. This is certainly the most frequent case. The term “polygamy” has become commonplace to describe the practice of a man living with several wives, because polyandry has almost completely disappeared. But this reality is not unique to Africa. It is universal. This is why it challenges the pastoral care of the entire Church. Nevertheless, the practice of polygamy is most visible on the African continent, and it is there that Christians feel most deeply affected.

 

2.       POLYGAMY IN AFRICA, FROM YESTERDAY TO TODAY

The causes of polygamy are numerous. In agrarian or nomadic societies, the pursuit of a large family was driven by imperatives of survival and expansion. Marriage had a strong communal and religious dimension: it involved extended families and inscribed the union within a sacred order. Divorce was exceptional. Anthropological studies, however, show that even within polygamous societies, the symbolic ideal often remained monogamous: the first wife held a unique status, while the others occupied a secondary position. Subsequent contact with Islam and Christianity modified these structures, sometimes reinforcing, sometimes transforming, marital practices.

 

3.       LISTENING TO BIBLICAL EXPERIENCE

To inform pastoral discernment, it is necessary to compare this cultural reality with the biblical understanding of marriage. In the Old Testament, polygamy is attested and legally tolerated. Patriarchs—Abraham and Jacob—as well as royal figures like David and Solomon, lived in polygynous relationships, often linked to the desire for offspring or the assertion of power. Mosaic law regulates these situations without elevating them to an ideal.

However, a theological movement runs through Scripture. The creation narratives present the union of a man and a woman as the original paradigm. The prophets, developing the theology of the Covenant, describe the relationship between God and his people as one of exclusive love. The wisdom literature extols fidelity to “the wife of one’s youth”, and the Book of Tobit offers testimony to a fully embraced monogamous ideal. Thus emerges a divine pedagogy: what was tolerated throughout history is not thereby proposed as a definitive norm.

The New Testament offers a crucial insight. Referring to the Creator’s plan, Jesus recalls the original unity of marriage: “the two will become one flesh”. In the spirit of Matthew’s antitheses, Jesus reaffirms the monogamous marriage willed by the Creator: one man and one woman (cf. Mt 19:4-5). The Apostle Paul incorporates this requirement into the life of the Church, asking leaders to be “husbands of one wife”. The revelation in Jesus Christ thus demonstrates that marital unity and exclusivity belong to the profound truth of marriage as willed by God (cf. 1 Cor 7,2; 1 Tim 3,2.12).

 

4.       CHRISTIAN MARRIAGE: ONE MAN AND ONE WOMAN

The form of marriage is rooted in the Christian theology of marriage, which itself draws inspiration from the word of God. The text of Genesis reminds us that: “God created man in his own image, in the image of God he created them man and woman” (Gen 1,27). This shift from the singular to the plural clearly demonstrates the equal dignity of man and woman before God. The second, older creation text (cf. Gen 2,21-23) is more explicit on this point. Woman is taken from man. Man himself recognizes woman as his partner of the same nature: “This is now bone of my bones and flesh of my flesh; she shall be called Woman – Ishsha – because she was taken out of Man” (Gen 2,23). Is this not one of the places where the unique bond in the couple is affirmed: that of a man and a woman? It is indeed on these passages from the book of Genesis that Jesus relies to affirm the unique value of monogamous marriage.

In the Bible, the human couple is meant to transmit life, even God’s own life, thus continuing his work. However, one of the causes of polygamy is female infertility. While the question of motherhood is crucial, the term “mother” does not refer solely to the one who has given birth. In a biblical sense, the term “mother” is therefore broader than biological motherhood and encompasses other ways of giving and promoting life. This is fundamental for every woman.

From now on, the believer’s gaze is no longer obstinately fixed on biological fertility. The works produced by virtue render one even more immortal than offspring. Sterility is gradually embraced and transfigured. Thus, a spiritual fertility is proclaimed, a testament to the gratuitous nature of God’s salvation and the immensity of His love. Therefore, polygamy is not presented as a palliative to a situation of biological sterility.

 

5.       PASTORAL EXPERIENCES

The pastoral approach implemented by the missionaries focused primarily on combating polygamy. Monogamous marriage was therefore a requirement for being or becoming a Christian. For the missionaries, polygamy was a form of enslavement of women and, as such, profoundly immoral. For the Fathers of SECAM, there could be no ambiguity whatsoever: there was absolutely no room for compromise with the official doctrine of the Church: “the pastoral approach to polygamists […] must avoid anything that could appear as a recognition of polygamy […] by the Church”.[1] The Fathers of SECAM encourage the promotion of the monogamous dimension of marriage by embracing the teachings of Scripture on the uniqueness and indissolubility of marriage.

In the contemporary African context, several pastoral practices have been adopted to address situations of polygamy. Some require a polygamous man wishing to receive the sacraments to choose only one wife, while guaranteeing justice and support for the other wives and their children. Others establish a “permanent catechumenate”, welcoming the individual into the community without access to the sacraments. Sometimes, the first wife is baptized when she is considered a victim of an involuntary polygamous union. Finally, “veiled polygamy” – unofficial multiple unions – requires specific support, often focused on the woman and children.

 

6.       THEOLOGICAL EVALUATION OF PRACTICES

Baptism, by which a human being becomes a person in the Church – that is, a subject of rights and obligations (CIC/83, can. 96) – is the sacrament of faith that transforms us into the image of Christ. In the name of faith in the unity of sacramental marriage, which is closely linked to the sacrament of baptism, and knowing that the latter is a sacrament of character, it would be preferable not to have it brought forward for polygamous catechumens who request it. Doing so would create more problems than it would solve, especially considering the rights that flow from baptism, particularly the right to receive the other sacraments.

Therefore, it is recommended that polygamists who wish to identify with Christ through baptismal grace be thoroughly prepared, free themselves from certain cultural constraints, accept the Gospel message, adhere to the Christian ideal, and commit to monogamous marriage before receiving baptism. Thus, the Church will not baptize a polygamist based on a promise or who will continue to be so, even after receiving this sacrament. Ultimately, there is no need to anticipate the sacrament of baptism for polygamists, but rather a need for accompaniment within the framework of an inculturative pastoral approach, which opens pathways to a pastoral approach to polygamy.

 

7.       A PASTORAL RESPONSE TO POLYGAMY

A patient and demanding preparation, geared towards a concrete commitment to monogamous marriage before receiving baptism, should be prioritized. This is not about rejection or stigmatization, but about accompanying individuals towards genuine conversion and full sacramental integration.

This pastoral care must be characterized by closeness, listening, welcoming people, and respect for their individual journeys. This pastoral care of proximity must also aim to uphold the dignity of women. Like Mary, the mother of Jesus, she is at the forefront of an inculturated pastoral approach to marriage and family. The proclamation of Gospel truth cannot be separated from mercy. The Church is called to support this aspiration, to strengthen marriage preparation, and to broaden the understanding of fertility beyond its purely biological dimension.

Finally, the issue is also ethical, anthropological, and ecclesiological. If marital union represents “the gift of oneself to the other”, one can ask how a man or woman can live this “gift of self” by giving themselves to several wives or husbands at the same time. Similarly, from the beginning, the Creator made them male and female. And He said, “For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife, and the two will become one flesh”. So they are “no longer two, but one flesh”. How can a man or woman in a polygamous relationship “become one flesh” with several wives or husbands? The Christian theology of marriage affirms that its unity and indissolubility stem from God’s creative design. The promotion of monogamy thus contributes to the effective recognition of the dignity and equality of men and women. The question of polygamy does not only concern a family structure; It refers to the truth of the Covenant and to the vocation of conjugal love as a visible sign of the faithful unity of Christ and his Church.

 

8.       CONCLUSION

The Church’s pastoral work in Africa, accompanying polygamous couples seeking acceptance into the Church, appears as an attempt to remain faithful to the Church’s understanding of marriage and the Christian family. The need to welcome and accompany individuals and families is becoming increasingly evident, so that they may respond more clearly to the call of the Gospel’s revealed truth regarding the vocation and mission of the family in the Church and in society.

This pastoral approach of closeness and attentiveness will foster a respectful and fraternal dialogue between these polygamous couples and the pastor (priest, bishop), the representative of the merciful Christ who seeks out the “lost sheep” and accepts to sit at the same table as tax collectors and sinners. It will thus open the doors of the Church to the children of God who languish on the spiritual or “existential” peripheries. This aims to help these people discover the infinite love of God manifested in Christ Jesus, who “did not come to judge men, but to save men through Him”.

 

[1] SCEAM, Recommendations on marriage and family life of Christians in Africa, «Catholic Documentation» (1981), 1021.

2026年3月24日