・「植えられたものが、どのような実りを生み出すか」が問われている―菊地東京大司教、年間第27主日メッセージ

2026年10月 3日 (土)週刊大司教第271回:年間第27主日A

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 10月4日はアシジの聖フランシスコの祝日ですが、今年は日曜日と重なりました。今年の10月4日は年間第27主日です。

 メッセージでも触れていますが、10月4日をもって、9月1日から始まった「すべてのいのちを守る月間」が終わりとなります。とはいえ、ともに暮らす家を護り豊かにする勤めは終わりませんから、今後も、「ラウダート・シ」の精神を具体化する取り組みを続けていきましょう。

 9月30日と10月1日、日本の司教団は潮見のカトリック会館に集まり、特別臨時司教総会を行いました。潮見の日本カトリック会館の建物は、現在リニューアル工事中で、1階から3階までが使えませんので、会議はお隣りの潮見教会の信徒会館を拝借して行われました。

 現在日本には、教区司教などの役職を退いた司教を除いて、15教区に17名の司教がおります。司教は司祭と同じく叙階ですから、役職を降りても終身で司教です。叙階されて司教であることと、どこかの教区の教区司教(または教区長とも呼んでいます)であることはイコールではありません。

 教会の中には、引退されている司教様を含め、教皇大使やバチカンの役所などで働く司教もおられます。現在日本の司教協議会を構成しているのは、現役の教区司教と補佐司教であり、その17名が潮見に集まりました。

 今回は議決する事項が一つしかなかったので(詳細は中央協議会からの発表をご覧ください)、それ以外の時間を十分に使い、日本の教会における福音宣教と司牧の様々な課題について、意見交換を致しました。また数年前から関係者と話し合いながら計画を練り上げ、今年の2月の司教総会で決定した、新しい委員会体制が、秘書や委員の任命によって、9月から正式に始まりました。

 司教だけによって構成される、社会司教委員会、福音宣教司教委員会、広報司教委員会のもとに、秘書や委員を広くお願いする様々な委員会が置かれています。どんな委員会が、それぞれ三つの司教委員会の元にあるかは、こちらをご覧ください。これ以外にも、常任司教委員会の元に置かれた委員会や、事業体としてのカリタスジャパンもあります。

 この諸委員会の司教と秘書の合同会議も、一日目の午後に行われました。中央で企画し実施する諸委員会の事業に、全国から協力者に集まって実行していただくという上から下への体制から、各教区や小教区が中心になって行う取り組みを、中央から支援し支える形の委員会制度に変えていこうとしています。

 シノドスの歩みの成果の一つとしての考え方の転換です。主役は教区であり小教区であり、それに仕える司教協議会の諸委員会と口で言うのは簡単ですが、実現するには様々な工夫と知恵と、特に時間が必要です。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第271回、年間第27主日のメッセージです。

年間第27主日A 2026年10月04日

 マタイ福音は、ぶどう園を農夫たちに任せる家の主人のたとえ話が記されています。あたかもぶどう園が既得権益であるかのようにあぐらをかき、忠実に務めを果たすことのない農夫たちから、「季節ごとに収穫を納める他の農夫」に任せるだろうと記されています。

 もちろんこのたとえ話が語られた背景には、神から選ばれた民という立場にあぐらをかき、救いはすでに約束されているとして、実際には神の思いに従うことのない民の存在があります。

 それに対してイエスは、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と述べることで、神の救いの福音は一部の選ばれた人だけのものではなく、全世界のすべての民に宣べ伝えられなくてはならないという、神の救いの計画を明示します。

 教会は本日10月4日をもって、9月初めから続いた「すべてのいのちを守る月間」を終わります。もちろんこの月間が終わったからと言って、教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で呼びかけたことが終わるわけではありません。

 教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」に、命が関係する三つの関わりとして、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を挙げたうえで、こう記しています。「聖書によれば、命に関わるこれら三つの関わりは、外面的にも私たちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です(66)」

 その上で教皇は、「私たちが、ずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました。このことによって、私たちに賦与された、地を従わせ、そこを耕し、守るという統治の任にゆがみが生じたのです」と記します。

 まさしくあの農夫たちと同じように、私たちは任せられた務め、すなわち、神が創造されて私たちに「地を従わせ、そこを耕し、守る」という任務を与えられたにもかかわらず、私たち人類は、それを、あたかも既得権益のように浪費し搾取し、神から与えられた務めを忠実には果たしてこなかったのだ、と教皇フランシスコは指摘されました。

 そのことを教皇は、はっきりとこう記されます。「今日では、私たちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが、他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する、との見解は、断固退けねばなりません(67)。」

 第一の朗読でイザヤは、ぶどうを植えたものの、よい実を得ることができなかったことへの、神の憤りを記しています。

 「私がぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだある、というのか。私は良いぶどうがなるのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」

 さまざまな紆余曲折を経て私たちの人生の歩みを導かれる神は、まさしくぶどうを植え、その管理を任せられた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでしなかったことは、何一つありません。

 残されているのは、植えられたものが、これからどのような実りを生み出すか、であります。私たちは、神からの問いかけに、どのように答えているのでしょうか。

2026年10月4日

・「神の目をごまかすことはできない」菊地・東京大司教の年間第26主日メッセージ

2026年9月26日 (土)週刊大司教第270回:年間第26主日A

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 9月の最後の主日となりました。 メッセージでも触れていますが、9月最後の主日は「世界難民移住移動者の日」と定められています。今年の教皇様のメッセージは、こちらのリンクからご覧頂けます。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第270回、年間第26主日のメッセージとビデオです。

【年間第26主日A 2026年9月27日】

 教会は、9月最後の主日を、「世界難民移住移動者の日」と定め、「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」(中央協HP)としています。

 難民や移住者への配慮を繰り返し呼びかけられ、また行動された教皇フランシスコは、ご自身の使徒的勧告「福音の喜び」に、「そこにおられるキリストに気づくよう、私たちは招かれているのです。

 すなわち、家のない人、依存症の人、難民、先住民族、孤独のうちに見捨てられてしまう高齢者などのことです」と記され、神の慈しみそのものである主イエスに倣い、教会が、そして私たちが慈しみの無償で無尽蔵な提供者となるように、呼びかけられていました。

 今年の世界難民移住移動者の日にあたり、教皇レオ14世は、「これらの小さな者を一人でも」という言葉をマタイ福音書から選ばれ、テーマとされています。

 メッセージで教皇は、特に過酷な環境にさらされている未成年者に目を向けて、次のように呼びかけておられます。

 「彼らは具体的な顔と固有の歴史をもっており、私たちの良心に訴えかけます。・・・残念ながら、未成年の移住者は、彼らを保護し支える大人がいないために、無視されがちです。それゆえ、通過する国や目指す国において保護し受け入れるだけでなく、出身国においても、彼らが避難せざるをえない原因を取り除くための対応が必要です」

 その上で教皇は、「議論の軸を、単なる移住の管理から、人権の完全かつ即時的な保護へと移さねばなりません」と指摘し、「移住者の保護と受け入れと真の統合の機会を保障しうる、協調的・連帯的・実効的な対応をするようにと呼びかけておられます。私たち自身には、「これらの小さな者」のために何ができるでしょうか。

 マタイ福音は、父親の命令に対する兄と弟の答えと、それに続く具体的な行動についてのイエスのたとえ話を記します。兄は命令を拒んだものの、実際には父親の望み通りにした。しかし弟は、命令に従うそぶりを見せ父親を喜ばせた者の、実際には従うことはありませんでした。

 「どちらが父親の望み通りにしたか」とイエスは尋ねます。当たり前ですが、兄の方です。すなわち神にとって大切なのは、結果として神の望み通りに行動することであって、表向きに神を喜ばせるようなジェスチャーをすることではないのです。

 残念ながら私たちは、表向きのジェスチャーに簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時に、目に見え他者から評価される表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだとすら勘違いします。しかしそれは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、残念ながら神の目をごまかすことはできません。

2026年9月26日

・「神にとって、ご自分が創造された命はすべて等しく大切な存在」菊地・東京大司教の年間25主日メッセージ

2026年9月19日 (土)週刊大司教第269回:年間第25主日A

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 九月に入り、東京はなかなか秋晴れとは行かず、曇り空や雨が続いていますが、涼しくなってきました。連休を前に、台風の影響を受け始めた地域も少なくありません。

 本日(19日)土曜日は、年に四回開催されている東京教区の宣教司牧委員会の開催日です。東京教区は地区制度を採用しておらず、3から4の小教区が一つになり、22の宣教協力体に別れています。

 岡田大司教様が考えられた当初は、その一つ一つが小教区に発展していくことも考えられていたようですが、現時点では、宣教協力体内で互いに情報交換をしたり、行事を共催したりと、それぞれの宣教協力体で取り組みは異なっています。

 その宣教協力体から信徒の代表に出席いただき、教区全体の司祭を代表して数名の司祭が司祭評議会から派遣され、教区司教からの諮問に答えるためにに協議を重ねています。

 それぞれの宣教協力体代表の信徒の方の立場が異なっているため、以前からどの程度までの決定権があるのかは議論があったところです。

 現在は、あくまでも教区司教の諮問機関として、アドバイスをする立場となっていただいており、教区全体の議決決定機関ではありません。特に、現在進められているシノドスの歩みに関して、この宣教司牧委員会が率先してシノドス的なあり方を模索し、それを各宣教協力体に持ち帰り、実践することを目指し、いまは、教区司教の諮問事項として、東京教区の宣教司牧方針の見直しのために、シノドス的な霊における会話を繰り返しておこない、宣教司牧の優先課題を見いだすことを続けていただいています。

 議題があって議論を重ねて結論を出す、というのが従来の会議体ですが、シノドスの歩みが目指しているのは全く異なる道です。試行錯誤が続くとは思いますが、宣教司牧評議会での実践が、各宣教協力体へのシノドスの歩みの浸透への道筋になることを祈っています。

 参加してくださっている各宣教協力体の代表の方々、司祭の代表の方々には、雲をつかむようなことに挑戦していただき、感謝申し上げます。

 なお、日本の教会では、敬老の日の前日の主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」としています。今年は明日、9月20日です。今年の教皇様のメッセージ、「わたしがあなたを忘れることは決してない」は、こちらのリンクからご覧いただけます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第269回、年間第25主日のメッセージです。

【年間第25主日A 2026年9月20日】

 教会は9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と名付け、日本の教会では「すべてのいのちを守るための月間」と位置づけています。

 回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。東京教区を始め多くの教区では、その直後の日曜日、今年は9月6日でしたが、この意向でミサを捧げる日としています。この意向のための特別なミサ典礼も準備され、中央協議会のサイトなどから見ることができます。

 「ラウダート・シ」が求める「共通の家を守る」という理念の啓発に取り組み、また霊的に深めていくために、この期間を、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な時とすることが求められています。
今年の「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、教皇レオ14世はメッセージを発表され、そのタイトルを、イザヤ書2章から、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とされています。

 メッセージの中で教皇は、「国々が「剣を打ち直して鋤とし」、命を損なうものを、命を支えるものへと変える時が来ると語りました。ところが、今日、私たちは、それとはまったく逆のことばかりを目にします。暴力と戦争へと心血を注ぎ続けているのです」と指摘されています。

 その上で教皇は、戦争こそは「次々と犠牲者を生み、家族を引き裂き、何百万人もの人を故郷から追いやり、恐怖と不正義と分断を募らせ」ると述べ、「何世代にもわたる社会の荒廃と環境の破壊を残す」ことによって、悪循環を生じさせていると指摘され、「真理、対話、忍耐、善意、正義、いつくしみ、理解、配慮、愛」によって、人々の心に癒しを生み出そうと呼びかけています。

 さて、マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。給与は労働の対価だ、という考え方に基づくならば、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたとしら、あっという間に労働争議になってしまうことでしょう。

 しかしイエスの本意は、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という言葉にあります。イエスが語るのは、ご自分の慈しみです。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられたいのちを、どれほど大切にしておられるか。その命に対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、慈しみのうちに包み込む対象なのだということ、この言葉は明確にしています。

 司教団のラウダート・シ部門担当の成井司教様の言葉ですが、「『ラウダート・シ』が教えるように、この世界のすべてのものはつながっており、生きるために互いを必要としています。この「すべての命を守るための月間」の間、私たちは、命のつながりを大切にする小さな取り組みを続け、それが家庭へ、地域社会へ、そして被造物全体へと流れ出ていくよう努めましょう。」

 命の与え主である神にとって、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造された命は、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

2026年9月19日

・「主イエスの生き方に倣って、常に互いを受け入れ合う道を歩む」菊地・東京大司教の年間第24主日メッセージ

2026年9月12日 (土)週刊大司教第268回:年間第24主日A

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 九月に入っても各地で大雨が続くなど、落ち着くことのない天候に左右させられる日が続いています。国内だけでなく、世界各地で自然災害の被害が報告され、亡くなられた方も多数おられます。

 被害を受けられた多くの方のために祈りを捧げるとともに、教会共同体が存在している地域にはカリタスがありますから、各地のカリタスを通じて被災された方々と共にありたい、と思います。以前にも増して、大きな国としてのカリタス組織より、地域の小教区共同体に根ざした地域のカリタスの存在が重要になっています。

 日本の教会は普遍教会と連帯して「すべてのいのちを守るための月間」を、10月4日まで続けています。

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 東京教区の取り組みとして、先週土曜日、5日の午後、司教協議会の「ラウダート・シ」部門担当の成井司教様においでいただき、講演をしていただき、その後、カテドラルでミサを捧げていただきました。100名ほどの方にお集まりいただいたことを感謝いたします。

 当日の講演は、撮影してありますので、後日公開されるものと思います。

 また本日12日午後後2時から、カトリック麹町聖イグナチオ教会で、イエズス会の司祭叙階式が行われ、イエズス会員のコエーリョ・ニティン・リズボン師が、司祭に叙階されました。司祭叙階、おめでとうございます。これからの活躍に期待しております。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第268回、年間第24主日のメッセージです。

【年間第24主日A 2026年9月13日】

 マタイ福音は赦しと和解について語ります。私たちは基本的に身勝手な存在です。自分が犯した間違いはできるだけ寛大に赦してほしいと思う反面、自分に対する他者の過ちに対しては、それほど寛大になれないどころか、時として、できる限る厳しく罰してしまおう、とさえします。

 赦しを願っている相手の立場に立つことを想像できるのであれば、相手がどれほど過酷な状況にあるのかは、分かりそうなものですが、なかなかそうは簡単に寛大にはなれないものです。

 この世界に生きていく限り、全く他者との関係なしに生きていくことができませんから、私たちは常に他者との関係の中で命を生きています。人間関係における経験から、自分と全く同じ人に遭遇する可能性が、極めて低いことに気がつきます。

 ですから私たちの人生は、常に互いの理解の相違にあふれ、互いを理解することができないために、どうしても相手を裁いてしまいます。時として、その裁きは私の心の中に怒りを生みだし、怒りは憎しみに発展し、結果として対立関係が生み出されます。

 第一朗読のシラ書に是非とも目を通してください。今日の朗読はこう始まります。「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう… 隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、おまえの罪は赦される。」

 他者に対して憤りと怒りの感情を抱き、相手を裁いたままでは、自分と神との関係をただすこともできないと、シラ書は記しています。

 私たちは完全な者ではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度、そういった過ちを犯すことでしょう。

 社会はそういう私たちの集まりなのですから、その中にある教会共同体も、同じように罪人の集まりです。教会は決して罪を犯さない聖人のような選ばれた人だけの集まりではありません。教会共同体は社会に対する証しの印として、罪人が共に集い、互いの関係を赦しの心のうちに修復し、そのうえで、共に神に向かい、共に神の赦しを求めるのだ、ということを明確に示す存在でなければなりません。私たち同士の赦しと寛容さの無いところに、神の赦しはありません。

 マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言うイエスの言葉を記しています。七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神の慈しみを示します。また「その赦しをいただいた者が、その憐みを他者との関係において分かち合うことなく、かえって隣人を無慈悲に裁いた話」をイエスはたとえとして語られ、「他者を裁く者には、神の赦しがないこと」も明示されています。

 信仰者としての私たちの人生は、主ご自身が生きられた通りに生きることを目的としています。その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、ご自分に襲いかかるものを赦す慈しみであり、愛するすべての命の救いのために、自らを犠牲として捧げた、隣人愛の極みであります。ですから私たちは、憐み、慈しみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的に赦し、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。

 主イエスの生き方に倣って、証しの人生を歩みましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年9月12日

・「環境を大切にする取り組みは隣人愛の行動」-菊地・東京大司教の年間第23日メッセージ

2026年9月 5日 (土)週刊大司教第267回:年間第23主日A

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 8月いっぱいお休みさせていただいた週刊大司教は、今回から再開します。これまでも常時、3回分ほどは事前に撮影してストックしてきたのですが、枢機卿を拝命して以来、不在にすることが多く、お休みさせていただくこともまれにあるかと思います。

 8月は国際カリタスの緊急な要務のためローマに数日だけ出かけざるを得なかったり、一年前から引き受けていた香港での一週間の黙想指導などがあり、その合間に、広島でも平和行事、東京での平和旬間、聖母被昇天祭などの重要な国内行事もありましたので、大変にバタバタしておりました。

Img20260821wa0012 香港では神言会の台湾・香港の会員27名ほどの黙想指導で貴重な霊的な体験を私自身がさせていただきました。香港とマカオは神言会の中国管区の一部分で、現在の管区長は台湾におられます。

 黙想の家は、日本では白百合学園を運営しているシャルトルの聖パウロ修道女会のシスターによって運営されており、香港の裏手側、深圳との境(国が同じなので国境ではないですが、国境に近い取り扱い)に位置しており、深圳の町並みを望むことができる場所でした。

 黙想会は英語で行いました。私にとって一週間の黙想会でお話しするのは、人生で二回目の経験です。短い講話ならばいくらでも経験がありますが、一週間の黙想指導には、やはりそれなりの経験と霊性の深さが必要だな、と感じさせられました。

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 またこの黙想会終了後、金曜日の午後には、マカオで働いている神言会員に連れられて車で長大な連絡橋を渡り、お隣のマカオを訪問し、日本の殉教者の聖遺物のおかれている、あの正面の壁だけが残っている聖パウロ教会で、数多くの殉教者の聖遺物の前でお祈りさせていただきました。(写真右)Img20260822wa0013

 またその翌日土曜日には、朝から香港の空港の近くにある水の上に広がる大澳村を、青年たちと一緒に訪れてミサを捧げ、対話集会を行う機会も頂きました。集まっていたのは、英語を話す青年たちで、出身も多様な文化圏でした。その中には、学校で日本語を学んでいるという青年も複数おり、英語と日本語が飛び交う不思議な雰囲気でした。

 さらに、8月16日と23日には、香港市内の教会で英語で主日ミサを捧げさせていただいたり、23日にはそのミサ後に、今度は香港日本人会でのミサを捧げさせていただいたりと、多くの出会いがあったことに感謝しています。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第267回、年間第23主日のメッセージです。

【年間第23主日A 2026年9月6日】

 今年の夏は、天候が不順で、非常に暑い地域もあれば、繰り返し台風の被害を受けた地域も少なくありません。また日本では熊本をはじめ世界各地で頻発した地震もありました。

 被害を受けられた皆さまにお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

 同時に、教皇様がこの夏の間の一般謁見やアンジェルスの祈りの時に繰り返されたように、世界各地で戦争や紛争が継続し、神からの賜物であるいのちが暴力にさらされています。

 命に対する暴力は赦されず、神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにしてはならないと、神を信じる私たちは改めて強調したいと思います。暴力を肯定する口実を探すのはやめましょう。

 本日の第二朗読でパウロはローマ人の手紙に、「その他どんな掟があったも、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記しています。その相互の愛の絆によって、私たちはそれぞれ異なっていても、一つに繋がれており、ともに暮らす家において命を生きることで、一つの共同体を作り上げています。

 9月1日は「被造物を大切にする世界祈願日」であり、日本の教会は、9月1日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべての命を守るための月間」と定めています。

 世界的に気候変動の影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」を発表されました。副題は「共に暮らす家を大切に」とされています。

 広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは「信仰上の責務でもある」と強調されました。

 教皇フランシスコが強調されたエコロジーへの配慮とは、単に「気候変動に対処しよう」とか、「温暖化を食い止めよう」とかいう単独の課題への取り組みのことにとどまりません。それは、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、「一人ひとりが真摯に向き合い、答えを見い出そうとすること」に他なりません。

 マタイ福音は、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と記し、主の名によって集められた私たちの共同体には、主ご自身が常に存在されていることを明示します。ます

 この主ご自身の存在によって結び合わされた私たちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

 私たちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。

 それは、「自分自身が生きて行くこと」を肯定しているのと同じように、「交わる他者が命を生きていくこと」を肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

 共に暮らす家を大切にすることも、互いの命を守ることなのですから、まさしくエコロジカルな取り組みは隣人愛の行動であります。

(編集「カトリック・あい」=ひらがなの多用は文章を読みにくくします。また、キーワードの『命』は、「天を仰いで、いただくもの」と言う意味を表す象形文字がもとになっています。ひらがなの『いのち』では、そのような深い意味を表すことができません。以前、ご本人には繰り返し申し上げましたが、ご理解いただけないようで、残念です)

2026年9月5日

・「神の言葉が実現し神の平和が実現するよう、聖母マリアと共に歩もう」菊地・東京大司教の「聖母被昇天の祝日ミサ」説教

2026年8月15日 (土)2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル

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 聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。

 聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。

 この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。

 5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと、永遠の命のうちに誕生したこととして、記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ1世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。

 「マリアの被昇天」の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ12世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

 なお私の洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、私のためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。

 タルチシオという霊名は、私が生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、私たち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が「聖タルチシオが欧州では侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。

 以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

【聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2026年8月15日】

 聖母マリアは平和の元后です。

 なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しておられます。すなわち、神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きている、と言っても過言ではありません。

 果たして、私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、私たち人類は神からの賜物である命に暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。

 そのような命の状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物である命はその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれは私たちが作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。

 神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るために人生を賭けるかけることこそが、平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。

 平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

 教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

 エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とは、いかなる状態なのかが、そこに明示されています。

 そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、慈しみが豊かに向けられていることが記されています。

 聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへの慈しみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。

 また神がどこに人間の価値を見い出すのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見い出すのだと宣言します。

 すなわちすべての命はご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神の命に対する価値観が、そこには明示されています。私たち人間が「価値がない」と見なすところに、神はご自分が大切にされる価値を見い出されます。

 エリザベトは「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神の言葉が実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。

 弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わない、と判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ない、と考えるところに、神の平和は実現しません。

 今もまた、私たち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くの命が暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。

 それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみを私たち自身の心に刻み込みたいと思います。

 2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。

 「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」

 その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です… 罪のない子供たち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発する言葉はただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共に命を守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。

 命に対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日も私たちが生きる道筋を示そうとされています。

 栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心を想い、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年8月15日

・「信仰に生きる姿勢を見直し、過去に謙遜に学ぶ者でありたい」—菊地大司教、「平和祈願ミサ」の説教で

2026年8月 8日 (土)2026年平和旬間@東京教区

 日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。

 もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

 まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

 以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、私は急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2026年8月8日

 平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは、王にこう言った、と記されています。

 「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

 こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことで命を危機にさらした事例は私たちの身近にもあります。

 太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

 そして今、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

 1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告し続ける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べておられます。

 さらに教皇は、「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

 「人類は、『自己破壊』という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません」

 私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

 教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

 教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影を潜めてしまいました。」と記しています。

 その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているなら、それは未来への希望のメッセージである、と私は信じています」と記され、「主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだ」と強調しておられます。

 私たち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもって、私たちに突きつけられています。

 人間の命を暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。私たちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそが私たちの本当の姿なのかもしれない、と思ってしまいます。

 今もまた、私たち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くの命が奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

 東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるとも知れない内戦状態について実情を伺い、『リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしい』と依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

 私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

 神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るのは、私たちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

 平和旬間にあたり、改めて、私たちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶ者でありましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=何度も繰り返しますが、「命」という漢字は「天を仰いでいただくもの」という深い意味が込められた象形文字です。ひらがなの「いのち」にはそのような意味はありません。もちろん「命」は立派な日本語です。教会の一部にはなぜか「いのち」という表記を好んでか、あるいは何も意図せずにか、使う習慣があるようですが、「カトリック・あい」は、「私」と同様、「命」に表記を統一しています、このことは以前に、菊地大司教に直接申し上げています。)

2026年8月8日

2026年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話「連帯のうちに平和な世界を築く」

2026年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話「連帯のうちに平和な世界を築く」

平和を願うすべての皆様へ

戦後81年目となる今年もまた、広島・長崎への原爆投下の日を中心に据える平和旬間を迎えます。わたしたちは毎年この時期に、過去の記憶を胸に刻み直し、現在の世界に目を向け、将来に対する責任を問い直すよう招かれています。あらためて、戦争で亡くなった、また傷つけられた多くのかたがた、壊された自然環境を心に留め、平和の実現を求めて祈りましょう。

日常を見つめ直す
日本の司教団は昨年、戦後80年を迎えるにあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表し、平和への思いをさらに次の世代へとつないでいく決意を表明しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

わたしたちの生きる世界
1981年、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は広島で、「戦争は人間の仕業です」と訴えられました。わたしたちは今、その「人間の仕業」がいかに世界に襲いかかり猛威を振るっているのかを目撃しています。
ウクライナ、スーダン、ミャンマー、ガザをはじめとする中東地域など、戦争や紛争は世界中に広がっています。これらの戦場で日々傷つき、暴力的にいのちを奪われているのは、わたしたちと同じ、神の似姿として造られた一人ひとりの人間です。
さらに深刻なのは、こうした暴力が「やむをえないもの」として正当化され、国際人道法や人間の尊厳という普遍的な原則がないがしろにされていることです。多国間主義の枠組みも大きく揺らいでいます。かつての戦争の惨禍から、心の叫びとして生み出された「二度と繰り返さない」という人類の誓いは、どこにいってしまったのでしょうか。
日本もまた、大きく変化しています。近年、憲法第9条の解釈は変更され、集団的自衛権の行使が限定的とはいえ容認されています。安全保障環境の変化を理由に防衛費も急激に増大しています。「反撃能力」にも用いられる長射程ミサイルの配備が始まり、南西諸島における自衛隊配備は強化されています。殺傷能力のある武器についても、一定の条件のもとで海外への輸出が原則として可能とされました。「専守防衛」という枠組みは残りながらも、その実質は大きく変化し続けています。戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法の平和主義は、先人たちが戦争の惨禍の中から学び取った大切な知恵です。その精神を、なし崩し的に骨抜きにし、加えて十分な国民的議論も経ないままに軍備増強を進めることが、本当の平和の確立につながるのかどうか、立ち止まって考える必要があります。

平和のために連帯する
この4月16日、アフリカのカメルーンを訪問中に行われた平和の集いであいさつされた教皇レオ十四世は、「わたしたちは、反対の方向へと、すなわち、人間的な兄弟愛に満ちた持続可能な道へとわたしたちを導く、決定的な方向転換を――真の意味での回心を――行わなければなりません」と呼びかけられました。
そのうえで教皇は、「世界は一握りの暴君たちによって荒廃させられています。しかし、世界は連帯する多くの兄弟姉妹によって支えられています」と語りかけ、平和構築のために取り組む多くの人たちをたたえ、その信仰における勇気に見倣い、連帯するように呼びかけられました。
また教皇は、「イエスはいわれました。平和を実現する人々は、幸いであると。しかし、宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言し、宗教間対立を口実として他者のいのちを暴力的に奪う現実に対して、力強く警告されました。
教皇は、アフリカへ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は教会の福音宣教における優先事項であることを明確にされています。
さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。だれかが立ち上り、よりよい方法があるというべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)。

教皇とともに平和への道を歩む
教皇レオ十四世の平和に対するこの立場は、まさしく教会全体の立場です。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、「人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と冒頭で宣言しています。この精神に従って多くの兄弟姉妹と愛のうちに連帯し、いのちを守り、希望を生み出すように、皆様に呼びかけたいと思います。ともに平和を打ち立てましょう。
すべてのいのちは神からの尊いたまものです。国籍も民族も宗教も問わず、すべての人が神から尊厳を与えられています。その尊厳を守ることが、平和の出発点です。平和のために祈り、行動しましょう。いのちの尊さの記憶を語り継いでいきましょう。日々の生活の中で、力のことばではなく愛のことばを選び、愛の文明を育てていきましょう。「あなたがたに平和があるように」と語った主イエス・キリストのいのちの福音を、身近な人々の間で広めていきましょう。
皆様の上に、いのちの与え主である神の祝福と導きがありますように。

2026年7月10日  日本カトリック司教協議会会長   枢機卿 菊地 功
2026年8月3日

・「共に歩まれる『平和の主』に従って行きたい」・8月6日からの平和旬間を前に、菊地東京大司教の年間第17日メッセージ

2026年7月25日 (土)週刊大司教第266回、年間第17主日A

 7月最後の主日は年間第17主日です。

 今週はアジア司教協議会連盟(FABC)の総会のために、インドネシアのジャカルタに来ています。日本からは、司教協議会会長の私と、代表として成井司教様、ガクタン司教様が、また信徒家庭局の秘書として西村桃子さんが一緒に参加しておられます。

 今回の総会のテーマは「シノドス的な回心と宣教への招き。アジアにおける橋となり、また橋を架けるものとなるために」とされており、バチカンからもシノドス事務局のグレック枢機卿が参加するなど、シノドス的な教会共同体のあり方を実践する場となっています。

 また福音宣教省のタグレ枢機卿が、忙しい中ジャカルタまでおいでくださり、二日目に静修を指導してくださいました。総Fb_img_1784808699952会は話し合いというよりも、祈りと分かち合いの場となっています。

 アジア全体から司教協議会の代表や各部局の担当者など150名ほどが参加していますが、詳細は他の報道に譲ります。またアジアの枢機卿は全員参加する権利がありますが、今のところ12名のアジアの枢機卿が参加しています。

 なお、総会に先立ち、四日間ほどフローレス島のエンデ大司教区を、成井司教様と一緒に訪問してきました。フローレス島は、インドネシアの中でもカトリック信徒の多い地域で、エンデ教区のクレドン大司教様は、少し前まで神言会の総会長でした。これについては後日また。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第266回、年間第17主日のメッセージです。

 なお「週刊大司教」の配信は、8月中はお休みとさせていただきます。今の予定では再開を9月5日土曜日と考えております。また8月8日(土)午後の東京カテドラル聖マリア大聖堂における平和祈願ミサと、8月15日夕方の聖母被昇天ミサは、どちらも私の司式で、ネット配信を行う予定です。

【年間第17主日A 2026年7月26日】

 「宝」という言葉には、経済的な価値を持っているという意味だけではなく、他では代えることのできない大切な存在という意味もあります。私たちが生きている世界は、どちらの価値を大切にしようとしているのでしょう。

 マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を語ります。ここでイエスが語る「宝」は、もちろん数字で量ることのできる価値に富んでいる財産としての「宝」ではなく、自分の人生にとって決定的な意味を持つ「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、命を生かす価値のある「宝」であります。

 私たちキリストに従う者にとっての宝は、福音そのものではないでしょうか。なんと言っても私たちに、命という賜物を与えてくださった神ご自身が、神の言葉という宝物として、常に私たちと歩みを共にしてくださっているのです。私たちはこの宝を、人生のすべてを賭けてでも手に入れて従い、さらに多くの人にその宝を分け与える者でありたいと思います。

 間もなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、日本のカトリック教会にとって大きな意味を持つ平和旬間です。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。私たちは将来の世代に対する責任を担うためにも、過去を忘れ去ることのないようにしたいと思います。

 教皇レオ14世は、先般アフリカ司牧訪問へ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「私たちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、私たちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は福音という宝物を大切にしている教会にとっての優先事項であることを明確にされています。

 さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。誰かが立ち上り、より良い方法があると言うべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)

 間もなく平和旬間を迎えるにあたり、この教皇の言葉を想い起したいと思います。私たちが平和を求めて声を上げるのは、それこそが福音という宝物が私たちに求めていることだからに他なりません。

 暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(「カトリック教会のカテキズム」1753項)。「戦争は死です」。賜物である命を生かす神の「宝」から目をそらすことなく、共に歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

2026年7月25日

・「暴力が支配し、賜物の命が危機に瀕する悲劇的現実と向き合おう」-菊地東京大司教の年間第16主日メッセージ

2026年7月18日 (土)週刊大司教第265回:年間第16主日

 今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。

 来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。

 本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第16主日のメッセージです。

【年間第16主日A 2026年7月19日】

 現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、「神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っている」ような状況です。

 神からの賜物である命に対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にその命を守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、共に歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いで証しする人も多くおられます。

 暴力が支配し、賜物である命が危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、思わず、「神が悪の存在を容認しているのだろうか」と考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。

 福音は、「神は良い麦と悪い麦の存在を知っておられるが、それを刈り入れの時まで、あるがままにされているのだ」と記しています。善と悪を明白に峻別できる、その時を待っておられるのだ、というのです。すなわち、命の与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではないのです。

 そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、私たちは良い麦を一層力強く増やしていく努力をせねなりません。私たちは「ただ荒れ狂う暴力の嵐の前に、力なく傍観する」のではなく、「良い麦を、さらに広く蒔き続ける努力をせねばなりません。私たちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜き取るのに専念することではなく、跋扈する毒麦を凌ぐように、良い麦をさらに広く蒔き続けることです。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、私たちは良い麦を蒔かなくてはならないからです。

 第二バチカン公会議の「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、命の危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたい、と願っています。

 「現代世界憲章」はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない」(29項)と記します。

 私たちが生きている世界は、その命をないがしろにし、あまつさえ人間自身が命をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、命を守るどころか、命を奪う暴力が支配しています。

 このような現実の中で、「現代世界憲章」は、全人類との対話のうちに神の福音を証しするために、「教会は、常に『時のしるし』について吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務がある」と指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点から、そこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要な私たちの務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2026年7月18日

・「私たちの語る言葉は、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためにある」菊地・東京大司教の年間第15主日メッセージ

2026年7月11日 (土)週刊大司教第264回:年間第15主日A

 年間第15主日です。この主日、私は、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で主日ミサを捧げることになっています。

 私が生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

 その時の主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

 その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

【年間第15主日A 2026年7月12日】

 今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが普及し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉が弄ばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っている時、私たちは、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

 神の言葉は、常に私たちと共にいてくださる神の現存です。なぜなら、世の終わりまで私たちと共にいてくださる、と約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」で始まります。私たちの信仰は、「言葉による信仰」です。

 ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(1章10・11節)」と記されている通り、神はご自分の言葉を種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

 私たちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

 今、必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、「言葉には顔があり、心の重みを担っているのだ」ということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人との関わりにおいて、私たち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、最も力のある道具であります。

 神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物である命を徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。命に対して暴力を振るう世界が、神の言葉の種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

 インターネットが普及している現代社会にあって、私たちは、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

 時にキリスト者と言いながら、他者の命や尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、極めて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのか、と悲しく思います。

 私たちの語る言葉こそが、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためにあるのだ、と心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、努めていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=日本語の正しい使い方も、言葉を大切にし、相手にメッセージが伝わりやすくために必要なことです)

2026年7月11日

・「教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているのか」—菊地・東京大司教の年間第14主日

2026年7月 4日 (土)週刊大司教第263回:年間第14主日A

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 7月になりました。年間第14主日です。

 前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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 28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、私もアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

 その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。

 私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサは聖ペトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサは聖ペトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

 聖ペトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、広場から眺めました。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

【年間第14主日A 2026年7月5日】

 心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見い出されます。私たちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

 現代社会にあって、希望を見い出し、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見れば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながら、そうではありません。

 この現実の中にあって、人と人との出会いの中にあって希望を見い出し、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしも命を生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

 その上で教皇は、「私たちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、何がしかの希望を必要としています。しかし、私たちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、「真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成される」ことを明示されています。

 マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

 教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、「すべての人が同じように考え、仲良く過ごす」というのは、現実的ではありません。

 異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、それでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体が「シノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、共に祈り、聖霊の導きを識別しようとして共に歩もうとするからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。「一人ひとりの優しい性格に頼った仲良し共同体」を目指しているのではなく、「互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、共にイエスに身を寄せ合う」からこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

 残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなく、苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、私も含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、私たちの心に主ご自身が来てくださいます。主と共にある私たちは、主が与えてくださる安らぎを、自らも証しし、行動する道を見い出していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年7月4日

・「神の愛と慈しみをいただいて、行動で十字架を証しするものとなろう」菊地・東京大司教の年間第13主日メッセージ

2026年6月27日 (土) 週刊大司教第262回:年間第13主日A

 年間第13主日となりました。間もなく6月も終わりです。Img_20260626_182056548

 教皇様は臨時の枢機卿会議を招集されましたので、私は昨日の金曜日と本日の土曜日、その会議に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

 ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会議はグループセッションのため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。

 一応冷房はあるものの、非常にマイルドな冷房で(確かソーラー発電を使っているはず)、さすがにこれは、ということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでも良いことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会議には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

 枢機卿会議の詳細は後日に。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。

【年間第13主日A 2026年6月28日】

 マタイ福音は、イエスに従うと宣言する私たちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。

 もちろん私たちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」の中で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39項)」と語られ、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しておられます。

 苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、私たちを愛されるがゆえに苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむ私たちと歩みを共にされていることを思い起こさせます。

 教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていく、という意味においてであります。私たちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。

 同時に、福音に記された、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に「苦しみを求めている」というよりも、さらに深いところへと私たちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。

 マタイ福音に記されたこの言葉は、私たちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。

 パウロはローマの教会への手紙に、「私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」と記しています。

 主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、私たちは、十字架を通じて主の死に与り、主と共に新しい命に生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛と慈しみを具体的に証しする、栄光と希望を指し示す存在です。

 その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じて私たちすべてに救い野道を開かれた、目に見える具体的な愛の証しであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛の証しを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。

 私たちが神からよし、とされるのは、神の愛と慈しみをいただいて、自らそれを積極的に証しする行動を選択したときです。十字架を証しするものとなりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月27日

・「信仰を勇気を持って表明する者でありたい」-年間第12主日の菊地東京大司教のメッセージ

2026年6月20日 (土)週刊大司教第261回:年間第12主日A

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 年間第12主日です。

 この一週間、6月15日から19日まで、定例の司教総会が、潮見のカトリック会館で開催されました。カトリック司教協議会の所在地であり、その事務局であるカトリック中央協議会の置かれている日本カトリック会館は、竣工から30年以上が経過し、全面的なリニューアル工事を一年かけて行っています。全体を半分ずつに分け、現在は上半分の工事中ですので、上半分にある事務担当がすべてした半分に移動しています。そのためいつもの総会会場であるマレラホールも仮設の事務所になっているため、今回の司教総会は、一回にある職員の方々の食堂を利用して会議テーブルを配置し、行いました。

 一日目はフランシスコ会の小高神父様による霊的講話を頂き、その後にグループに分かれて分かち合い、そしてミサを捧げ、さらに夕方には、東京教区で働く宣教師のグループが、潮見教会でバーベキューに招待してくださったので、そこで司教たちと宣教師たちの出会いの場となりました。

Pxl_20260616_085729401-002 また二日目の夕方には司教団と男女の修道会の代表とで、教皇庁大使館を訪れ、司教叙階10周年を迎えたモリナ教皇大使と、誕生日であったジョゼッペ参事官のお二人にお祝いを申し上げる機会がありました。

 さらに三日目には、成井司教様を講師に、インターカルチュアリティについての勉強会も行いました。

 司教総会で決定したことは、この後、カトリック中央協議会の広報や、カトリックジャパンニュースで公開されると思いますので、そちらに譲ります。司教たちのためにいつもお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。お祈りの支えがなければ、聖霊の導きに与ってふさわしい判断をすることも難しくなります。皆さまのお祈りをお願い申し上げます。

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 6月23日は沖縄の慰霊の日です。昨年は80周年ということもあり司教団全員で参加しました(写真右は昨年の魂魄の塔)。81周年の今年も、朝6時から小禄教会でミサがあり、魂魄の塔までの平和行進が行われます。ローマにいるため参加できませんが、当日は沖縄の皆さんに思いを馳せ、心を合わせて平和のために祈りたいと思います。皆さまにも、この日に沖縄の歴史と現実に思いを馳せ、神の平和の確立のために、祈りを捧げられますようにお願い致します。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第261回、年間第12主日のメッセージです。

【年間第12主日A 2026年6月21日】

 先日、6月12日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。それにちなんで、6月は「聖心の月」とされています。

 イエスのみこころは、私たちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出た、と記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水は命の泉であり、新しい命を与える生かす聖霊でもあります。

 イエスのみこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、そこから満ちあふれるご自分の愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、回心を呼びかけた、という出来事があったと伝えられています。

 そして主イエスは「みこころの信心を行うものには恵みが与えられる」と告げ、そのため、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別な恵みがあると教会の伝統は教えています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げた、と伝えられています。

 今日の福音には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉があります。どのような形され力を持って信仰に介入しようとする迫害に立ち向かい、福音に基づく真理を語り続けるように、との励ましです。

 教皇レオ14世ご自身が、その模範を示しておられます。信仰に基づいて発言された神の平和への望みに対して、大国の政治家が現実離れしている、と批判され、一般社会でも論争を呼んでいます。しかしながら教皇は、平和への思いを語ることを止めようとはされませんでした。

 教皇は先般アフリカを訪問された際、「宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言されました。その上で、「平和は、隣人を自分の兄弟姉妹として受け入れることによって抱きしめなければならないものです。私たちは自分の兄弟姉妹を選びません。ただ、互いに受け入れ合わなければならないのです。私たちは同じ家に住む、一つの家族です」と呼びかけられました。

 私たちは同じように、この世の力の前で恐れることなく、信仰を表明できているでしょうか。それは単に、「神を信じているのです」と表明することにとどまるのではなく、信じていることに基づいて「どう生きようとしているのか」を具体的に表明することです。

 イエスのみこころが、今、この社会の現実の中で、私たちにどのように生き、どのように行動し、どのように語ることを求めているのか、見つめ直しましょう。信仰を勇気を持って表明する者でありたい

と思います。

(編集「カトリック・あい」)
 

2026年6月20日

・「共に助け合いながら、互いの絆を深め、『働き手』としての役割を果たそう」菊地・東京大司教の年間11主日メッセージ

2026年6月13日 (土)週刊大司教第260回:年間第11主日A

2026_06_07_m_066 年間第11主日です。

 6月15日から17日までフランスのエビアンで開催される主要7か国首脳会議(G7サミット)に先立ち、G7各国のカトリック司教協議会会長が、連名で「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」と題した声明を発表しました。声明の日本語訳(サマリー)はすでに中央協議会のホームページに掲載され、声明全文は翻訳中です。

 声明の策定はフランス司教協議会会長、アブリーヌ枢機卿の呼びかけで始まり、1か月以上かけてオンラインで何度か会議を重ね、作成されました。最終文書はフランス語で書かれ、フランス語と英語が正本です。

 なおこの声明は、以下の署名した司教協議会会長の声明であり、各司教協議会の総意ではありません。

 署名者は、ジャン=マルク・アブリーヌ枢機卿(フランス・カトリック司教協議会会長)、私(日本カトリック司教協議会会長)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(イタリア・カトリック司教協議会会長)、ポール・コークリー大司教(米国カトリック司教協議会会長)、リチャード・モス大司教(イングランド・ウェールズ・カトリック司教協議会会長)、ピエール・グードロー司教(カナダ・カトリック司教協議会会長)、ジョン・キーナン司教(スコットランド・カトリック司教協議会会長)、ハイナー・ウィルマー司教(ドイツカトリック司教協議会会長)、賛同者:マリアーノ・クロチアータ司教(欧州連合=EU)司教協議会連盟会長)です。

 以下13日午後6時配信、年間第11主日のメッセージです。

【年間第11主日A 2026年6月14日】

 「収穫は多いが、働き手が少ない」。神の国の完成のために、私たちが地上ですべきこと、しなければならないことは、神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしている私たちへの警告の言葉です。

 このイエスの言葉について、特に「働き手が少ない」という部分に注目して、司祭や修道者という、いわば専門職にある存在への召命が増大するように、と祈ることが求められていると解釈することもできますが、私はそれよりも、「収穫は多い」という言葉に注目しています。

 私たちが福音の実現のためにしなければならないことは多い。それに取り組むための働き手がもっと必要なのです。そしてそれは司祭や修道者という専門職だけではなくて、「キリストに従う」という意思を表明している私たちキリスト者すべての務めであります。私たち一人ひとりが、どのように、この言葉に応えるかが問われています。

 もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

 教皇レオ14世は先日新しい回勅「マニフィカ・フマニタス」を公布され、人工知能(AI)の倫理性について信仰の立場から踏み込まれました。それに先立って発表された今年の世界広報の日のメッセージに、次のような一節があります。

 「新たなAIシステムがもたらすもう一つの大きな問題は、バイアス(注:誰もが陥りがちな思考のクセや思い込み)です。バイアスは、現実に関するゆがんだ認識の獲得と伝達をもたらします。AIモデルは、それを構築する人々の世界観によって形成されます。そして、それが用いるデータにおける固定観念や偏見を複製することによって、思考様式を押しつける可能性があります… AIは、私たちの顔と声を自分のものとすることにより、並行的な「現実」を作り出すことで私たちを欺くことさえありえます。私たちは多次元世界の中に沈められ、現実と虚構を区別することがますます難しくなっています」。

 私たちは「人工的に生み出された虚構」の中に生きる危険性に直面しています。その中で、人間の存在は具体的な声と顔を失い、痛みや悲しみを訴える心は失われ、本当の希望や喜びに到達することができなくなる可能性があります。私たちは、現実の中にある、人々の心の叫びに耳を傾け、それを心に刻む者でありたいと思います。神が働き手を求めている収穫は、虚構の世界ではなく、現実世界の中に存在しています。

 私たちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手は私たちです。私たちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜなら、キリストの体である共同体にこそ、命があるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、私たちを生かす源である命があります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。共に助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの課題に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年6月13日