・「神はすべての命を同じように愛され、守ろうとされる、私たちも…」菊地大司教の年間第25主日ミサ説教

2020年9月19日 (土) 年間第二十五主日@東京カテドラル

年間第二十五主日となりました。

 本日から、ミサに参加される方の年齢制限を解除いたしました。これまでは75歳以上の方には自宅からお祈りくださるようにお願いしていましたが、現在の対策を忠実に行う限り当面は大丈夫であろうと判断しました。もっとも不安のある方や健康に課題のある方にあっては、これまで通り自宅でお祈りすることを勧めます。また主日のミサ参加義務を、今後も当分の間、免除しております。

 ただ慎重な対応はまだまだ必要ですし、これから冬に向かってどのように状況が変化するか分かりませんので、状況に応じて判断をしていくように心掛けます。皆様のご理解と協力を、お願いいたします。

 9月20日からの一週間は、叙階の秘跡に関わる週間です。まず20日が私自身の司教叙階16年目の記念日であり、なおかつ22日は新潟教区において私の後任となる成井司教の司教叙階式があります。さらに26日の土曜日には、イエズス会の村山師の司祭叙階式も控えています。さらに昨年2月に秋津教会で助祭叙階式を行った御受難修道会の稲葉師の司祭叙階式も、関西で26日に行われるとうかがっています。それぞれ叙階を受けられる皆さんのために、お祈りください。その後、10月3日は、東京教区のホルヘ師の司祭叙階と古市師の助祭叙階も控えております。

 以下、本日午後6時からの主日ミサ(公開配信ミサ)の説教の原稿です。

【年間第25主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年9月19日】

 

「パンデミックは、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました」ー8月26日にバチカンで行われた一般謁見での、教皇フランシスコの言葉です。「パンデミックは、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました」

教皇の言葉を待つまでもなく、今回の新型コロナウイルスによる感染症は、世界各地で、病気そのものとしても命への脅威となっていますが、同時に経済の側面からも、命への脅威となっています。

未知の病気に直面して感染症対策をとるにあたり、社会全体が立ち止まらざるを得なかった中で、勢い経済活動は停滞し、特に不安定な雇用状況にある人たちや、援助を必要とする人たちに、命への脅威が襲いかかりました。

教皇は一般謁見で、こう続けておられます。

「ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために貨幣を発行できますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します」

途上国などの開発や発展を見守る国連開発計画は、2015年から2030年までの15年間で、持続可能な発展のためのさまざまな目標を掲げ、とりわけ過酷な環境の中でいのちをつないでいる世界の多くの人たちの生活改善に取り組んでいます。

その国連開発計画は、ホームページ上で、今回の事態に直面する中で、「世界の教育、健康、生活水準を総合した尺度である人間開発指数が、今年、測定を開始した1990年以来、初めて減少する可能性があると予測」していると記しています。

2000年からの15年の指針であったミレニアム開発目標と、2015年以降の15年の指針である持続可能な開発目標(SDGs)を実現し、すべての人がそれぞれの人間としての幸福を実感できる世界を目指そうとしていた国際社会は、ゆっくりではあるものの、確実に前進を続けていました。それが、1990年以来はじめて、前進を止め後退する危機に直面しているというのです。

国連開発計画は、「新型コロナウイルスには国境は関係なく、もっとも弱い立場にある人々がもっとも大きな打撃を受け続ける」と警告を発しています。

8月19日の一般謁見で、教皇フランシスコは、今回の感染症への対策には、まず治療法を見つけることと、さらに「社会の不正義、機会の不平等、疎外、もっとも貧しい人の保護」への取り組みという二つの癒しの対応が必要だ、と指摘し、こう言われました。

「この二つの癒しの対応において、福音書は、不可欠な一つの選択を示しています。それは、貧しい人々への優先的配慮という選択です」

もちろん教会は、これまで長年にわたって、さまざまなレベルでの援助活動や社会福祉に関わる事業を行ってきました。信徒の皆さんにも、教会内外で、積極的に社会貢献の活動をしておられる方が少なくありません。特に近年は、災害などが起こったときに、ボランティアとして現場に駆けつける人も増えてきていますし、そういったボランティア活動自体が、当たり前のこととして社会的に認知されるようになりました。

ただ今回のコロナ禍の事態による影響は、社会のさまざまな方面に及んでおり、日本においても、社会的に、経済的に、また法的に、弱い立場に置かれた多くの人たちを直撃しているという事例を耳にいたします。

本日の福音は、ぶどう園の主人と労働者の話でありますが、実に理解が難しい話でもあり、さまざまな側面から、それを解説することが出来る話でもあります。

そこには、命をつなぐために雇ってほしいと願う労働者が描かれ、また一日に5回も広場に出かけていって、そのたびに労働者を雇用するぶどう園の主人が描かれています。

客観的に見るならば、主人が5回も広場に出かけていくことによって多くの労働者が雇われたのですから、喜ぶべき出来事であります。しかしながら、世の常識から言えば、賃金は労働への対価ですから、長く働く方がより多く報いを受けて当然となりますので、なんとも釈然としない話でもあります。ただ単に、この主人のように優しくありなさい、と諭す話でもないように思います。

私はこのたとえ話は、人間の価値はどこにあるのかを教えている話であると思います。すなわち、どれほど働けるか、どれほど稼いでいるか、どれほど役に立つかと言った価値基準ではないところに、神は人間の価値を見い出していることを示す話であります。

確かに私たちが生きているいまの社会では、どれほど社会に貢献するかが、その人の命の価値であるかのように理解されるきらいがあります。

それは障害と共に生きている方々に生きている価値はないと断言していのちを奪った事件のような極端な事例に限らず、例えば、感染症が収束しない中で、感染した人を攻撃するような価値判断にも現されています。病気になって周囲への脅威だからという判断ではなく、社会に対する脅威となった命には価値がない、という判断を、如実に表している行動です。今回の事態に伴って発生する個人への攻撃や差別的言動の根源には、単なる優しさや思いやりの欠如ではなく、社会を支配する人間の命への価値観が反映されているように、私は思います。

「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」と記すイザヤ書は、自らが創造されたいのちを決して見捨てようとはしない、神の憐れみ深さを教えています。

「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」というぶどう園の主人の言葉は、雇われることのなかった労働者が、一日中必死になって働く場所を求めている姿を、「一日中ここに立って」という言い回しから想起させてくれます。必死になって命をつなごうと努力する人間の命を、無条件に豊かに憐れみで包もうとする父である神の姿勢が、労働の時間に関係なく、同じように報いを与えるぶどう園の主人の姿に投影されています。命を創造し与えられた神は、その命が存在するというその事実だけを持って、すべての命を同じように愛され、守ろうとされています。そこから離れていくのは神の側ではなく、私たちであります。

命の危機を肌で感じたこの時だからこそ、私たちは、改めて、神の視点から見た人間の命の価値を思い起こしたいと思います。私たちに命を与えられた神が、条件なしにすべての命を愛おしく思うように、私たちも、困難に直面する多くの命に思いを馳せ、手を差し伸べ、支え合って生きたいと思います。共にいてくださる主に導かれ、すべての命を守るための行動をとり続けたいと思います。

(表記は当用漢字表記にさせていただいています=「カトリック・あい」)

2020年9月19日

・「コロナ禍の中、心を落ち着け、大切にすべきことを思い起こそう」菊地大司教の年間第24主日説教

年間第24主日@東京カテドラル 菊地東京大司教

年間第24主日となりました。

 東京教区では、現在の検査陽性者などの状況から、感染対策のステージは変更しないものの、いくつかの制限を変更することを検討しており、最終調整中です。9月14日月曜日の午後に、公表いたしますのでお待ちください。ただし、まだ慎重な対応は不可欠だと思いますので、大きな緩和は難しいと思われます。

 以下、本日土曜日の夕方6時から関口教会の主日ミサ(公開配信)で行った、ミサ説教の原稿です。

【年間第24主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年9月12日)

 「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」ー教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

 その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘しますー「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

 本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、赦しと和解について記しています。

 自分と他者との関わりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中で赦しをいただくことは出来ない。

 当然、私たちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよ、と求めます。赦しと和解を実現しなければ、どうして神に赦しを求めることができるだろうかと、シラ書は指摘します。

 マタイは、借金の帳消しに関わる王と家来とその仲間の話を持ち出し、イエスの言葉として「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と記しています。もちろん490回赦せばよい、という話ではなく、七の七十倍という言葉で、「赦しの限りない深さ」を示します。

 なぜ赦し続けなくてはならないのか。それをパウロは、ローマの教会への手紙で「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、私たちの人生は、主ご自身が生きられた通りに生きることが目的なのだ、と指摘します。

 そして、私たちが倣おうとしている主イエスは、自らの命を奪う者を十字架上で赦す方であり、まさしくヨハネパウロ二世が言われるように、「哀れみ豊かな神を・・・父として現して」くださる方です。ですから、私たちは、哀れみ・慈しみそのものである神に倣い、徹底的に赦し、和解への道を歩まなくてはならず、それは私たち一人ひとりの性格が優しいからではなくて、主イエスに従うのだ、と人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

 私たちはこのところ、どちらへ進んだらよいのか迷い続ける、はっきりとしない状況の中に取り残されているような思いを、抱いています。感染症の事態は終息はせず、今日もまた、懸命に命を守るため努力を続ける医療関係者の方々がおられます。医療関係者の働きに敬意を持って感謝すると共に、迷い続けながらも、やはり命を守るために慎重な行動をとりながら、私たちも共に最善の道を模索し続けていきたいと思います。

 人生には不確定要素がつきものだとはいえ、いわば五里霧中のような状態が続けば続くほど、私たちは不安が増し、心に壁を築き上げ、自分を守ろうとするあまり、人間の身勝手さが社会の中で目につくようになってしまいます。

 「自粛警察」などという言葉も聞かれましたが、他者の言動に不寛容になるのは、自分の世界を守ろうとする心の壁を、強固に築き上げているからではないでしょうか。徹底的に異質なものを排除し、心の安定を得ようとするのは、それだけ心に余裕が失われているからではないかと思います。

 攻撃的な声も、そこここに聞こえてきます。感染症に限らず、例えば暴力的な行為の被害を受けた人に対する攻撃的な言動には、理不尽さを越えて、命に対する暴力性すら感じさせられます。私たちは、心を落ち着けて、何を大切にしなくてはならないのかを、いま一度、心に思い起こしたいと思います。

 東京ドームでのミサの説教で、教皇フランシスコは「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、慈しみという基準です」と指摘されました。

 またこのカテドラルに集まった青年たちに、「恐れは、常に善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、慈しみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。私たちキリスト者は、恐れることはない、と弟子たちに言われるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。私たちが神と共におり、神とともに兄弟姉妹を愛するなら、その愛は恐れを吹き飛ばすからです」と呼びかけられました。

 長期にわたる感染症の事態のなかにあって、改めてこの教皇の言葉を思い起こしたいと思います。今、私たちに必要なのは、愛と平和のための行動であり、慈しみという判断基準です。

 もっとも、神の慈しみは、ただただ優しければよい、何でもかんでも、とがめることなく赦せばよい、と言っているわけでもありません。何でも赦されて、何をしても良い、というのであれば、この社会に共同体は存在できません。私たちが、ただばらばらになってしまうだけ、だからです。七の七十倍のたとえは、犯した罪の責任を免除するものではありません。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いつくしみ深い神」に、こう記されています。

 「出し惜しみしないで赦す要求が、正義の客観的諸要求を帳消しにするわけでないことは、言うまでもありません。・・・福音のメッセージのどのあたりを見ても、赦しとか、赦しの源泉である慈しみは、悪とか人をつまずかせることとか、損害をかけ侮辱したりするのを許容する赦し、というような意味ではありません。どんな時でも、悪とか、人をつまずかせたこととかは償い、損害は弁償し、侮辱は埋め合わせをするのが、赦しの条件となっています。(14)」

 他者の言動を裁くのは、常に私たちにとって大きな誘惑の一つです。特に不安と不確実さが社会を支配する時、その原因を求めて他者を裁いてしまう誘惑が増大します。教会共同体の中にさえ、互いを裁く傾向があることは、何年も前から指摘されてきたことでした。私たちは常に、裁きの共同体ではなく、赦しと和解の共同体になりたいと思います。

 教皇フランシスコの指摘ですー「必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分を赦すことです。他者にも同じ姿勢でいられるようにです。(「愛のよろこび」107)

 慈しみそのものである神に倣い、互いに赦しと和解を実現し、神の正義に支配される社会の実現を目指していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年9月13日

・菊地大司教の第23主日説教「賜物である互いの命を守り、『共通の家』を大切にして共に歩もう」

年間第23主日@東京カテドラル

 9月に入りました。最初の日曜日は被造物を大切にする世界祈願日です。

 また今年から、9月1日から10月4日までは、教皇フランシスコ訪日を記念して、「すべてのいのちを守るための月間」となっています。これについて解説する司教協議会会長の高見大司教の文章の注には、次のように記されています。

 「すでに正教会は、コンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス一世のイニシアティブにより、1989年から9月1日を「被造物の保護を祈る日」としていました。その後2007年に開催された第3回ヨーロッパエキュメニカル会議において、その9月1日からアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までを「被造物のための期間」とすることが提唱され、世界教会会議(WCC)がそれを支持し、現在では「被造物の季節(Season of Creation)」としてエキュメニカルな年間行事になっています」(全文はこちら

 すなわち9月は、日本のカトリック教会だけではなく、世界中のキリスト者が、ともに天地の創造主である御父の与えてくださった共通の家のために、思いを馳せ、心を砕き、祈りをささげる「時」です。

 東京教区のホームページには、FABCの人間開発局(OHD)が整えた毎日の祈りの翻訳が掲載されています。すでに触れたように、原文が送付されてきたのが8月末で、9月に間に合わせるため、教区本部広報担当が急遽翻訳してくれました。短いけれど、豊かなテーマの祈りです。ご活用いただければと思います。リンクはこちらです

 さて、新型コロナウイルスの感染は、毎日新規に公表されるPCR検査の陽性者数が、若干低い数字で推移しているようですし、このところ東京の実効再生産数も1を切る日が続いています。まだまだ慎重な対応が必要ですが、現在の教会における感染症対策としての活動制限を、多少緩和することが出来るかどうか、意見を交換中です。とはいえ、即座に制限を撤廃できる要素はあまりありませんから、しばらくは慎重な対応が必要だと判断しています。したがって、9月6日から13日までの一週間も、これまで通りの感染症対策を継続します

 以下、本日の東京カテドラルにおける公開配信ミサの説教原稿です。

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年間第23主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)2020年9月6日 被造物を大切にする世界祈願日

 「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ(私の主よ、あなたは讃えられますように)」というアシジの聖フランシスコの言葉で始まる回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本の教会は、9月1日が平日となることも多いことから、その直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月6日が「被造物を大切にする世界祈願日」であります。

 教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となる、という自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理を私たちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べておられます。

 教皇フランシスコが語られる「被造物への配慮」とは、単に「気候変動に対処しよう」とか、「温暖化を食い止めよう」という環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇が最も強調する課題は「共に暮らす家を大切に」することであり、究極的には「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めるものです。

 そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とする、と指摘され、それを「総合的エコロジーの視点」と呼んでおられます。

 そこでは、私たちが暮らす「共通の家」で発生しているすべての課題が教会の、そして全人類の取り組むべき課題であって、全体を総合的に考察することの重要性が強調されています。

 日本の教会は、昨年の教皇訪日を記念し、今年からこの世界祈願日にあわせて、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。

 日本の司教団は呼びかけのメッセージで、「すべての命を守るためには、ライフスタイルと日々の行動の変革が重要であることは言うまでもありませんが、とくにこの月間に、日本の教会全体で、すべてのいのちを守るという意識と自覚を深め、地域社会の人々、特に若者たちとともに、それを具体的な行動に移す努力をしたいと思います」と、その趣旨を説明しています。

 パウロはローマの教会への手紙で「その他どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記していました。

 パウロは「隣人への愛こそが、すべての掟の根本にあるのだ」と強調します。

 同じように、「共通の家」への配慮も、単に「住環境を良くしたい」とか、「健康を守りたい」とか、自分の利益を中心にした考えではなく、まさしく自分以外のすべての人に対する愛、隣人への愛に基づく配慮であり、行動です。

 新型コロナウイルス感染症によってもたらされた混乱の中に、私たちは立ちすくんでいます。今回の事態は、私たちに価値観を転換する機会を提供しています。これまで生活のために不可欠だ、変えることはできない、と思われていたことが、実は他にも選択肢があり得ること、変える可能性があることを、今回の事態は教えています。

 もちろん、感染拡大以前の世界に戻ることが一番簡単でしょう。しかし、今回の事態は、命を守るために、私たちは何を大切に生きるのかを問いかけています。隣人への愛を生きるために、どのような道を歩むべきなのかを、問いかけています。共通の家を守るために、何を選び、何を捨て去るのかと、問いかけています。

 しばしば耳にするようになった「新しい生活様式」とは、単に「物理的な行動の変革で感染を防止しよう」という消極的な視点に留まらず、「神からのたまものである命を守るために、いったい、人類が何を優先するべきなのか」を今一度考え直し、隣人愛に基づいて命を生きる新たなスタイルを確立するように求める概念であるように思います。

 しかしながら同時に、「共通の家」への配慮は、単に表面的な行動の改革を求めているものではありません。

 教皇は「ラウダート・シ」に、こう記されています。

 「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています』。こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります」(217)

 その上で、教皇フランシスコは「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界との関わりの中で証しさせます。(217)… 永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

 私たちは賜物として与えられている命を、一人で生きてはいません。創世記に記されているように「「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう(創世記2章18節)」と言われて、神は命を与えてくださいました。ですから私たちには、「共通の家」にあって互いに助ける者として存在し、互いへの愛、すなわち隣人愛の実践において、命を守る務めがあります。

 「この世界で私たちは何のために生きるのか」「私たちはなぜここにいるのか」「私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか」「私たちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えを見いだそうとすることは、まさしく回心の第一歩であり、私たちはその回心を共同体として共に行わなければなりません。そしてその回心こそが、私たちを信仰における「新しい生活様式」へと導いてくれるでしょう。

 福音にあるように「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」という、主ご自身の約束に信頼するとき、共同体としての回心の歩みには、常に主ご自身が同伴してくださることを私たちは確信します。

 与えられた賜物である命を大切にし、互いの命を守り、神によって創造された「共通の家」を大切にしながら、福音に基づいた生きる道を模索し続けましょう。

(「私」「命」「赦し」などは、当用漢字表に基づいた表記にさせていただいています。ひらがな表記よりも漢字表記が、言葉本来が持つ意味を良く伝え、筆者の意図も良く伝えられる、との判断からです=「カトリック・あい」)

 

2020年9月5日

・「『何が神の御心なのか』識別する機会が与えられている」菊地大司教の第22日主日の説教

年間第22主日@東京カテドラル

 2020.8.30

 8月もあと数日で終わりに近づき、今月最後の日曜日は年間第22主日となります。

 次週、9月6日の日曜日は、被造物を大切にする世界祈願日と定められています。教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ-ともに暮らす家を大切に」を発表され、全世界の人に向けて、「私たちの共通の家」という総合的な視点から、エコロジーの様々な課題に取り組むことを呼びかけられました。その上で教皇は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではこの世界祈願日を9月最初の主日と定めています。

 また今年から、昨年の教皇訪日を受けて、9月1日から10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」とすることも決められています。関連メッセージは教区ホームページに掲載しましたが、この月間のための祈りも用意され、カードが配布されています。なお教区本部広報担当では、アジア司教協議会連盟(FABC)の人間開発局(Office for Human Development)が用意した資料に基づいて、この月間のための毎日の「日毎の祈り」を、順次ホームページに掲載する予定です。

 この数日も東京では、PCR検査の陽性者数が一定程度、継続して報告されています。今回の感染はピークを越えたと言う専門家の指摘もありますが、いましばらくは推移を見守り、慎重に判断したいと思います。従って、8月30日から9月6日までの一週間も、これまで通りの感染対策を持って教会の活動を継続していきます

 以下、8月29日(土)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、関口教会の主日ミサ(公開・配信)の説教原稿です。

【年間第22主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年8月30日】

 私たちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのか、といった小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、私たちは人生を歩み続けています。

 新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、私たちの信仰生活の中心であり、共同体の絆の見える形でもある主日のミサを、続けるべきか、中止するべきか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分の間、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

 教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネパウロ二世でした(回勅「教会にいのちを与える聖体」3項)。

 単に、「教会に集まって祈りの時を一緒にできない」ということに留まらず、「聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致する」という信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(同回勅9項)。それを簡単に手放すことなど、できるわけがありません。私自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

 教会全体において、こういった緊急事態に遭遇した時にどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、私自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音の言葉が頭に浮かびました。

 「サタン、引き下がれ、あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16章23節)。

 昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。

 「命の福音を告げるということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となることです」。

 教皇フランシスコは、教会は命の福音を告げるための野戦病院であれ、と言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。今でも悩み続けています。

 同時に教皇フランシスコは、私たちには判断の基準がある、とも言われます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、慈しみという基準です」と指摘されていました。すなわち、私たちは、神の慈しみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

 教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しておられます。

 「イエスは、特に生き方と行動を通して、私たちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを明らかにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接する時です」。

 その上で、教皇は「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書の言葉では「哀れみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

 すなわち教会は今、苦しみに接する時にこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることを証ししなくてはなりませんし、その愛の証しこそは、「哀れみ・慈しみ」と呼ばれる、ということになります。

 神のあふれんばかりの慈しみは、賜物である命への愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神の慈しみという基準からの判断は、命を最優先することに他なりません。

 賜物である命を守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中で命を守ることは、最優先の選択です。

 同時に、それでもなお教会は「野戦病院」であることを止めることも出来ません。私たちは、今のような状況にあっても、「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、「野戦病院」となる道を探らなくてはならないことを意味しています。私たちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

 教皇フランシスコは「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように、主に願いましょう(35項)」と、使徒的勧告「キリストは生きている」に記しておられます。

 今、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも、生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めよう、という誘惑から解き放たれ、教会が「教会らしく、常に若さにあふれた教会」となるための道を選択する機会を与えられています。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)とパウロがローマの教会に呼びかけたように、私たちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと、時間をかけながら識別する機会を与えられています。

 神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。

(注:漢字表記は「カトリック・あい」で使用している当用漢字表記とし、聖書の引用は「聖書協会 共同訳」に改めさせていただいています。)

2020年8月29日

・「命を育むイエスのメッセージを、1人でも多くの人に」菊地大司教の第21主日の説教

2020年8月23日 年間第21主日@東京カテドラル

 暑い毎日が続いています。残暑お見舞い申し上げます。

 新型コロナウイルス感染症による社会生活への影響はまだ続いており、新規陽性者の報告も続く中、今の段階で「感染はそろそろピークに到達しているのではないか」という専門家の指摘も聞かれるようになりました。

 幸い、教会においてクラスターが発生するような事態はこれまで報告されていませんが、以前にも申し上げたように、それが教会の行う活動制限や感染症対策の効果なのか、はたまた現在の感染症の状況がそういう程度なのかは、簡単に判断出来るものではありません。もっとも、さまざまな体験を積み重ねる中で、解明されたことも専門家からは多く報告されていますが、未知の部分も多々あり、命を守るために、現時点ではやはり慎重な行動をとることが賢明だと思われます。

 従って、8月23日から30日までの一週間も、これまで同様の対応を継続いたします。

 以下、本日土曜日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第21主日ミサの説教原稿です。

【年間第21主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)2020年8月23日】

私たちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、私たちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになった私たちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、分かりません。

なぜならば、情報は受け手である私たち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、私たち自身の処理能力には、それほど大きな変化があった、とは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることを私たちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられた命をより良く生きようとする時、私たちは命を豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えば「フェイクニュース」と呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切な命を奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表され、その中で次のように指摘されています。

「私たちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語を紡ぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。命を育むものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、「主イエスご自身によって紡ぎ出される命を育む物語にこそ、普遍的な価値がある」として、耳を傾けるように呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べておられます。

「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、命をより良く生きようとする私たちは、時空を越えて命を育む物語を選び取り、それに生き、そして、その物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は「皆は私のことを何と言っているのだ」と、まるで現代を生きる私たち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きる私たちがそうするように、「あちらではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、私たちは「うわさ話」に取り囲まれています。私たちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容に誰も責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのか私たちの興味をそそります。

大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際に命を奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ、主イエスは弟子たちに「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれる分かりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「私のイエス」について語るように求めているのです。

命を育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち「人となられた神の言葉」である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記されます。

「そうして私たちは、語り手である主ー決定的な視点をもつ唯一の方ーのまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、誰も端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度は私たち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、「たとえどんな物語であっても、命の与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだ」と指摘されています。

「私たちは、『欺きはしない命と愛』という宝と、『誤らせも失望もさせない』メッセージを持っています… それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記されています。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、命を育むメッセージを、1人でも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。

  (原文のまま、表記のみ、当用漢字表に基づくなどして、読みやすく修正させていただきました=カトリック・あい)

2020年8月22日

・「マリアの正義と優しさの力、これこそ福音宣教する教会の模範」菊地大司教の聖母被昇天ミサ説教

聖母被昇天祭@東京カテドラル 2020年8月15日

 8月15日は聖母被昇天祭です。

 暑い毎日が続いています。どうか皆さま、感染症対策と共に熱中症にも対策をされ、健康には、くれぐれもお気をつけください。東京都と千葉県は、感染症の終息はなかなか見通すことができていません。教会でのクラスターなどの発生は、今のことろ教区内からは報告がありませんが、まだまだ慎重に対処したいと思います。幸いなことですが、皆さまにご協力いただいている感染症対策が、功を奏しているものと思います。

 十分に納得いただけないような状況の中で、不便を忍び、ご自分の思いを心に納め、感染症対策にご協力いただいている多くの皆さまに、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます。皆さまの忍耐は、命を守る行動です。

 皆さまの健康が守られ、また私たちを取り巻くこの不安な状況が一日も早く解消されるように、聖母の取り次ぎのもと、父である神の守りと祝福を祈りたいと思います。

 なお、8月16日から23日までの一週間も、これまでと同様の感染症対策をとりながら、気を緩めることなく慎重に、教会活動を続けます。

 以下、15日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた、聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

【聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)2020年8月15日】

 聖母被昇天を祝う今日8月15日は、改めて申し上げるまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年8月6日の広島原爆の日から9日の長崎原爆の日を経て、15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

 1981年2月23日から26日に、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、ご自身を「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけでなく、広島と長崎を訪問されました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名な言葉で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

 当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならない、と考え、その翌年(1982年)から、日本にとって最も身近で忘れることのできない広島と長崎の悲劇を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、私たちが神の平和の実現に至る正しい道を見い出し、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

 広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だ、ということに目覚めようではありませんか」と呼びかけておられます。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動である、と教皇は指摘されます。

 改めて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に「戦争や紛争が無いこと」を意味してはいません。教会が語る「平和」とは、「神の定めた秩序が実現している世界」、すなわち「神が望まれる被造物の状態が達成されている世界」を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

 その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気づくように、と促しておられます。

 今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないか、との不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

 まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

 その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面する命を救うために、命への愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもある、といえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

 教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288項)」と記しておられます。

 聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

 教皇フランシスコは「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘されます。

 その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちと共に歩み、共に闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言されます。

 教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

 マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見い出すだすことができる、と教皇は記されます。

 なぜなら、マリアがこの時、その身をもって引き受けた「主の招き」とは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、「救い主の母」となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために、他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

 そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち「神の秩序の実現」とは具体的に何であるのかを、はっきりと宣言しています。

 「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

 教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

 私たちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにその命を燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

 神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにある私たちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつも私たちをお救いください。

(編集「カトリック・あい」)

2020年8月15日

・「平和実現へ地道に取り組んでいく決意を新たにしよう」-菊地大司教「平和を願うミサ」

2020年平和旬間「平和を願うミサ」@東京カテドラル 8月8日

 8月に入り、東京はやっと梅雨も明け、一気に真夏となりました。新型コロナによる感染症の状況は終息せず、今年の平和旬間は、あらゆる行事を中止としました。毎年の恒例行事となっていただけに残念である反面、平和は一年の一時期だけ考え祈れば実現するものではなく、いつでも思い祈り行動しなくてはならない課題であることを考えるとき、平和への取り組みを振り返り、今後の取り組みを考えてみる機会を与えられたようにも思います。

 国際関係における政治や経済の様々な利害が複雑に絡み合い、そこに自然現象の変化も加わり、加えて歴史の歩みの中での様々な積み重ねがいまにのしかかり、簡単に世界の平和は実現しそうにありません。だからこそ、常に平和について考え祈り行動することは、ますます持って重要ですし、そもそも私たちは「平和」と言って何を目指しているのかを、信仰の立場からはっきりと自覚することも大切であると思います。

 教皇様は、8月6日の広島の原爆忌にメッセージを寄せ、昨年広島と長崎を「平和の巡礼者」として訪問したことを思い起こしながら、「私は、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています」と述べて、平和を祈り求め行動する人たちとの連帯を示されました。

 その上で、教皇様は改めて核兵器の廃絶を訴え、世界の人々に向かって、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と、昨年広島から世界に向けて発信したメッセージを繰り返されます。

 さらに、「広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、私たちと未来の世代への警鐘であり続けますように」と述べてメッセージを締めくくることで、広島と長崎から世界に向けて発信される核兵器廃絶と平和への願いにご自分も連帯して、自らの声を加えて世界に発信されることを誓われています。

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 さて、感染症の状況は流動的ですが、東京教区内においては、現在の感染症対策を緩めることなく守りながら、限定した形での活動を継続します。8月9日から16日までの一週間、現在の対応をこのまま継続いたします。感染症対策だけではなく、熱中症にも十分にご配慮ください。

 以下、8月8日夕方に行われた、今年の平和旬間の「平和を願うミサ」での、説教の原稿です。

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 東京大司教区「平和を願うミサ」(公開配信)2020年平和旬間 東京カテドラル聖マリア大聖堂 

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

 主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、私たちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

 「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べています。

 この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

 教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

 「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

 教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現である、と説きます。

 教皇が指摘する人間の権利とは「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。

 そして教皇は、私たちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

 今年の初めから、私たちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

 感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、命の危機に直面している人は少なくありません。命を守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

 世界を巻き込んで発生した命の危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは、取り残されようとしています。

 教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は7月7日に会見を開き、次のように述べています。

 「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。私たちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

 その上で、枢機卿は今回の感染症という命の危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性に改めて気づかせるとして、こう述べています。

 「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137項)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

 総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

 すべては、私たちの共通の家の未来をどのように描き、それを私たちがどのように実現しようとするか、にかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものである命に関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

 私たちは、改めて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。

(ご本人の主旨を損なわず、かつ、文章として読みやすく、意味を取りやすくするために、表記は当用漢字表記にさせていただきました「カトリック・あい」)

2020年8月9日

・「福音の喜びを伝えることができるように、イエスに祈ろう」菊地大司教の第18主日ミサ説教

年間第18主日@東京カテドラル

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 毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまった、などと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。

 まず、8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ、時間だけが過ぎています。

 東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、私たちは基本の感染症対策に徹して、互いの命を守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

 なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。

 すべて一概に同じような対応をすることは難しいと思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことができるように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されず、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

 現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

 

 以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。

【年間第18主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年8月2日 前晩】

 人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。私たちはそれをよく分かっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

 一番の問題は、幸せというのが、何かを持って量ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

 そうであったとしても、少なくとも私たちは、決して「皆が不幸になるように」ではなく、「皆が幸せになるように」と、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

 第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

 その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

 1966年に定められた社会権規約には「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

 しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満という極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどを占めています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。

 「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

 教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。

 「子としての自由が抑え込まれ弱まる時があることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥る時です。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐ時です。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々に私たちを無関心、無感覚にし、表面的で、はかないことがらに、胸がときめくように仕向けるのです」

 その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいて私たちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たな命を見い出すのです」と指摘されます。

 改めて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、命を得る心の糧であります。本当の幸せは「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びである、と教皇フランシスコは「福音の喜び」の冒頭で指摘します。

 私たちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源である、と主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

 今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

 大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように、人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおう、とする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

 集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではない、と指摘するイエスの弟子たちへの指示であります。もちろん、実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、この場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

 世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは「真の幸福の源はどこにあるのかを、もう一度見直すように」と求められました。

 その同じことを、現代に生きる弟子である私たちは、主イエスから同じように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、私たち自身の生き方と、語る言葉で証ししながら伝える務めがあります。

 社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのために私たちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

 教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

 人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

 私たちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

 だから、すべての人の幸せを願いながら、イエスに向かって、「再びあなたに引き寄せてください」と、何度も何度も祈り続けましょう。

(表記は「カトリック・あい」で使用している当用漢字表記にさせていただきました(「カトリック・あい」)

 

 

2020年8月1日

・「たまものである命を共に生きる努力を」菊地大司教の17主日ミサ説教

年間第17主日@東京カテドラル

 このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数と言うことのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

 これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

 したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

 以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。

【年間第17主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月26日】

 「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、私たちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

 人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

 もちろん、趣味で何かを集めている時などに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろ私たちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富として私たちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものを指して、「宝」と呼んでいます。

 マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

 すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

 この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話、でもあります。「自分の人生の利益のために、隠し持っておこう」とする宝の話のようにも聞こえます。

 列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われた時に、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられた、と記されています。

 神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された「すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝」の意味が示されています。

 自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわち私たちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続けるー私たちの宝とは、いったい何でしょうか。

 昨年東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。

 教皇はマタイ福音6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

 「主は、食料や衣服といった必需品が大切でない、とおっしゃっているのではありません。それよりも、私たちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかも命を懸けてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないように、です。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙に私たちを不幸にし、奴隷にします」

 教皇フランシスコは、「無関心のグローバル化」という言葉を使って、現代社会に生きる私たちが、「利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっている」と、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

 ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『私』に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる『私たち』、これしかありません」と指摘されました。

 私たちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善、に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

 教皇ヨハネパウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

 「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

 信仰は、私たちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。私たちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

 教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

 「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

 私たちの宝である信仰は、命は、「神からの贈り物」であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべての命は、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、命は最高の宝物です。

 その宝物である命は、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くす命であるようにと、教皇は強調されました。

 相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳ある命が暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物である命を、互いに与え尽くし、支え合うためではなく、 「価値がない」として暴力的に奪うことは、許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、今でも、「命の価値の差異を強調して選別すること」をよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

 「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、私たちのためにその命を分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従う私たちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合う命を生きていかなくてはなりません。

 私たちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものである命を共に生きる。互いに助け合い、思いやり、絆を深め、豊かな命を生きることができるように、努めてまいりましょう。

(「菊地東京大司教の日記」より」・表記を当用漢字表記にしてあります「カトリック・あい」)

 

 

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2020年7月18日 (土)

年間第16主日@東京カテドラル

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この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

2020年7月25日

・「今こそ、神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりを大切にする時」菊地大司教の第16主日ミサ説教

年間第16主日@東京カテドラル

 この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

 これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って選択肢は二つー「安心・安全」が確立されるまで、すべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて、教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

 6月21日に教会の活動の再開を決めた時の選択は後者です。再開からそろそろ一か月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、「感染しない」ことと「感染させない」ことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

年間第16主日のミサ説教の原稿です。

【年間第16主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月19日】

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
私たちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」である、と私たちは信じています。

 しかしながら、同時に私たちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛と慈しみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

 それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

 教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。

 「私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、私たちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

 すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在無しですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

 人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

 大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

 思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまう私たちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾は、私たちの共通の家の破壊につながりました。

 マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

 創造主である神は、良い麦も、後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別する、と記されていました。一般的に、このたとえ話での刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

 今の世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるその時、を待っておられるのだ、と福音は記します。

 パウロはローマの教会への手紙に「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊が私たちの祈りを執り成してくださるとも記します。

 私たちは、「私たちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

 私たちは改めて、天地の創造主である神の前で謙遜になり、命を与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りを尽くして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

 教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪問された際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をなさいました。その中で、次のように述べておられます。

 「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても、破壊されています。「被造物を守る」という責務を国際社会が果たすのは困難だ、と見なす時、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。私たちは彼らに対し、むなしい言葉でではなく、誠実に応えなければなりません。まやかしではなく、事実によって応えるのです」

その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

 「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどのような立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りの無い人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、命を生み、守る力があるか、によって測られるものなのです」

 知恵の書に「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

 人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちの命を創造された神の慈しみと愛に満ちた心に、耳を傾ける時です。すべての命を守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を大切にする時です。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いの命への思いを馳せる時です。

2020年7月18日