2025年3月15日 (土)週刊大司教第201回:四旬節第二主日C
この一週間、月曜日の夜に始まって金曜日の夕方まで、タイのバンコクを会場に、アジア司教協議会連盟(FABC)の中央委員会が開催されましたので,バンコクまで旅をしてきました。
中央委員会は、FABCに加盟しているアジアの19司教協議会の会長と、司教協議会を構成していない香港、マカオ、ネパールの司教で構成されています。19の司教協議会の中には、マレーシア、シンガポール、ブルネイや中央アジアのように、いくつかの国で構成されているところと、インドのように三つの典礼(ラテン典礼と二つの東方典礼)とその全体で4司教協議会が存在するところなどがあり、19は国の数ではありません。日本の司教協議会は私が会長を務めていますので職責で参加しましたが、同時に現在二期目のFABC事務局長も務めており、その立場でも参加しました。
中央委員会は年に一度開かれ、中央委員会がその時代の必要に応じて設置している諸部局からの報告を受けた後、中央委員会だけの会議を開き、その後、今回は木曜日と金曜日に、OHD(人間開発局)の主催で、環境回勅「ラウダート・シ」の10周年を記念したワークショップを行いました。日本から女子メリノール会のシスター・ジョイが参加し、日本の司教団のラウダート・シデスクの活動について報告してくださいました。
今年の11月にブラジルで開かれるCOP30(国連気候変動枠組み条約第30回締約国会議)に向けて、アフリカや南米の司教協議会連盟と協力して、政策提言活動や啓発活動を行うことで一致しました。また、「ラウダート・シ」の10周年を記念して、今回の中央委員会は、司牧書簡を採択し、公表しています。
また中央委員会では、(昨年10月に閉幕した)世界代表司教会議(シノドス)第16回総会を受けて,シノダル(共働的)的な教会を育むための委員会を設けることで合意され、副会長のフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿が責任者として,各国の司教協議会に働きかけていくことになりました。さらに、各国、各教区にシノダリティ(共働性)を育むための部署を設けるよう求める決議がされました。(左の写真、向かって左から、ビル・ラルース事務局次長、わたし、会長のフィッポ・ネリ枢機卿、副会長のパブロ・ダビド枢機卿)
なお、以上のFABC事務局の公式発表は、英語ですが、こちらから読むことができます。
環境問題に関して素晴らしく先進的な取り組みをしている国もあれば、シノダリティを育むことに力を入れ始めた国もあり、日本の教会も、アジアの教会と歩みを共にして行くために、シノダリティを育むための部門を設け、すでに活動している「ラウダート・シ」デスクを充実させるなど、必要な対応をして行かねばなりません。
なお11月にはマレーシアのペナンでアジア宣教大会が開かれます。11月27日から30日までの予定です。(前回は2006年にタイのチェンマイで行われ、私も参加しました。そのときの模様はこちらの司教の日記に記してあります。)
今回の中央委員会で、いくつかの候補の中から、今回の宣教大会のロゴマークが決まり、プログラムの骨子も明らかになってきました。千人以上の参加が期待されており、日本からもFABC枠で参加する私以外に三名の司教様と、そのほか20名以上の参加が期待されています。前回も、私を含め司教三名と、総勢21名が参加しています。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第201回め、四旬節第二主日のメッセージです。
【四旬節第二主日C 2025年3月16日】
四旬節は、私たちが信仰の原点に立ち返る時です。「希望の巡礼者」として歩んでいる私たちに、福音は、共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることの重要性を教えています。栄光に光り輝くイエスにこそ、私たちの信仰の原点である希望があることを、ルカ福音は伝えています。
ペトロ、ヨハネ、ヤコブにとって、信仰の原点は、御変容の出来事の経験でした。私たちの原点としての体験は何でしょうか。この四旬節に、改めて、私たちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。
創世記は、まだ「アブラム」と呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向かって人間の想像を遙かに超えた約束を与えられた、その夜の驚きであったと思います。
ルカ福音は、御変容の出来事とそれを体験した弟子たちの驚きを記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。きっとペトロはその輝く栄光の中にとどまりたかったのでしょう。
福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。この二人は律法と預言書の象徴、すなわち旧約における神とイスラエルの民との契約を象徴します。その中で神はイエスを名指しして、旧約ではなくイエスこそがそれを凌駕する存在であるとして、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げた、と記されています。この日の神の栄光を目の当たりにした驚きと、その中でイエスこそが旧約を凌駕する新しい契約の主であると告げられた弟子たちの驚きは、教会の信仰の原点でもあります。私たちの希望の源はイエスにあることが明示されました。
教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、このように記しておられます。
「希望と忍耐が影響し合うことから、次のことが明らかになります。つまり、キリスト者の人生は目的地である主キリストとの出会いへと導いてくださるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会を必要とする旅路だということです(5項)」
巡礼の旅路は、忍耐を必要とする旅路です。私たちは「主との出会い」にこそ、救いの希望があることを心に刻み、忍耐のうちに、しかし希望を持って歩みを続けます。この世の栄光にとどまることはしません。そこに希望はありません。イエスとの出会いは、この世の栄光をうち捨て、苦難の道を忍耐を持って歩み続けた先に存在します。私たちの信仰の原点は、「イエスの言葉と行い」との出会いです。そこにこそ希望があります。その希望に導かれた、私たちはイエスとの出会いへと歩みを進める者でありたいと思います。
(編集「カトリック・あい」)