♰「預言は、私たちを平穏な生活でなく、神の”挑発”に委ねた時に生まれる」聖ペトロ・聖パウロ祭日に

(2020.6.29 バチカン放送)

 教皇フランシスコは29日、ローマの保護聖人、使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日にあたり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられ、ミサの中の説教で、「一致」と「預言」という二つのキーワードを用いて、以下のようにお話になった。

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 ローマの二人の使徒の祭日に、私は二つのキーワードを皆さんと分かち合いたいと思います。それは「一致」と「預言」です。

 まず「一致」まずについて。

 私たちが今日祝うのは非常に異なる二人の人物です。ペトロは漁師として、舟と網の間を行き来していました。パウロはファリサイ派の教養人で、シナゴーグで教えていました。彼らが宣教に行く時、ペトロはユダヤ人に、パウロは異邦人のもとに向かいました。彼らが道中出会う時、激しく議論することもありました。

 それはパウロが書簡の中で恥じることなく語っている通りです(ガラテヤの信徒への手紙2章11節参照)。しばしば言い合うことがあっても、常に愛し合う家族のように、多くの違いの中で、彼らは兄弟のように感じていました。彼らを結びつけていたこの親しさは、本来の性質から来るものではなく、主から来るものでした。主は互いに気に入るようにと命じたのではなく、互いに愛し合うように、と命じられました。そして、主は私たちを画一化することなしに、一致させられます。主は私たちを多様性の中に一致させるのです。

 今日の第一朗読(使徒言行録12章1-11節)は、この一致の源泉に私たちを導きます。ここでは、生まれたばかりの教会が、試練の時を過ごしていたことが記されています。ヘロデは怒り、その迫害は暴力的となり、使徒ヤコブは殺害されてしまいました。そして今や、ペトロも捕らえられました。共同体は指導者を失ったかのように見え、それぞれが自分の命を心配しなければなりませんでした。

 しかし、このような悲劇的な時にもかかわらず、誰一人、逃げ出すことはありませんでした。自分だけ助かろうとしたり、他の人を見捨てたりすることなく、皆が一致して祈っていました。祈りから、勇気をくみ出し、祈りから、あらゆる脅威に打ち勝つ力を得ていたのです。

 使徒言行録には、「ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた」(12章5節)とあります。「一致」とは、祈りをもって実現する原則です。なぜなら、祈りは、希望に開き、距離を縮め、困難において結束するための、聖霊の介入を可能にするからです。

 もう一つ注目すべきことは、この劇的な局面において、誰一人、ヘロデの悪と迫害について嘆いていないことです。私たちは責任者を非難することに慣れていますが、彼らは誰もヘロデを非難しません。キリスト者が世の中や社会など、うまくいかない事柄について嘆いて時間を費やすのは、無駄であり、煩わしいことでもあります。嘆いても何も変わりません。

 聖霊降臨の日にお話ししたように、嘆くことは、聖霊に扉を閉ざすことです。聖霊に扉を閉ざすもの、それはナルシズム、被害者意識、悲観主義です。ナルシズムはあなたを鏡の前に連れていき、自分だけを眺めさせます。被害者意識は嘆かせ、悲観主義は闇をもたらします。これら3つの態度が聖霊に扉を閉ざすのです。

 これらのキリスト教徒たちは誰のせいにもせず、祈っていました。彼らの共同体の中では、「ペトロがもっと慎重だったなら、私たちはこんな状況に陥らずにすんだのに」とは誰も言いませんでした。ペトロには人間的に非難されても仕方がない点があったとしても、誰も非難せず、彼のために祈っていました。人の陰口を言うのではなく、神と向き合って話していました。

 今日、私たちは自問してみましょう。「祈りをもって私たちの一致、教会の一致を守っているだろうか。他者のために祈っているだろうか」と。もっと多く祈り、嘆きを減らすならば、何が起きるでしょうか。それは牢獄につながれたペトロに起きたことです。あの時のように、隔てていた多くの扉は開かれ、縛っていた多くの鎖がはずれ落ちることでしょう。そして、門の前にペトロを見て、喜びのあまり門を開けもしないで、それを告げるために家に駆け込んだ少女のように、私たちも驚くことでしょう(使徒言行録12章10-17参照)。

 互いのために祈り合える恵みを神に願いましょう。聖パウロはキリスト教徒たちに、為政者のためにも祈るようにと最初に勧めています(テモテへの手紙1・2章1-3節参照)。「しかし、あの為政者は…」と言いたくなるようなことがあっても、神に委ね、彼らのために祈りましょう。彼らは祈りを必要としているからです。

 祈ること、それは主から私たちに託された課題です。祈りますか、それとも、非難して終わりでしょうか。神は、私たちが祈る時、自分と同じ考えを持たない人、自分に冷たくした人、赦し難い人のことをも思い出すように、と願っておられます。ペトロに起きたように、祈りだけが鎖を解き、一致の道を切り開くのです。

 今日、祝別するパリウムは、枢機卿団の首席と、この一年に任命された首都大司教の方々に授与されます。パリウムは、羊たちと羊飼いとの一致を思い起こさせるものです。羊飼いは、イエスのように決して羊と離れないようにと、子羊を背に担ぎます。

 また、今日は、素晴らしい伝統に従い、私たちは特にコスタンティノポリのエキュメニカル総主教府と一致します。(ローマの守護者)ペトロと(エキュメニカル総主教府の守護者)アンデレは兄弟でした。私たちは祝日など、機会あるごとに、兄弟的な訪問を交換します。それは単なる礼儀ではなく、主が示される目的地、すなわち完全な一致に向かって共に歩むためです。

 今日、エキュメニカル総主教府の使節は、新型コロナウイルスの影響でローマに来ることはできませんでした。しかし、私がペトロの墓に降りて祈った時、愛する兄弟バルトロメオス一世総主教の存在を、そばに感じることができました。彼らは今日、私たちと共に、ここにいます。

 今日の祭日の、二つ目のキーワードは「預言」です。

 私たちのこの二人の使徒は、イエスによって「挑発」されました。ペトロは、イエスが「あなたがたは私を何者だと言うのか」(マタイ福音書16章15節)と尋ねるのを聞きました。この時、パウロは、主にとって重要なのは一般的な意見ではなく、主に従うという個人的な選択であることを悟りました。パウロの人生もイエスの挑発の後に変わりました。

 「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」(使徒言行録9章4節)。主はパウロを内側から揺さぶりました。主はダマスコ途上でパウロを地に倒した以上に、自分は信心深く正しい者である、というパウロの思い上がりを打ち倒しました。

 こうして誇り高かったサウロは、パウロになりました。パウロとは「小さい」という意味です。このイエスの挑発、この人生の大きな転換に、次のような預言が続きます。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ福音書16章18節)。そして、主はパウロについてこう言いました。「あの者は… 私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言行録9章15節)。

 預言は、私たちが神の働きかけに自分自身を委ねる時に生まれます。それは、自分の平穏な生活を守り、それをすべて管理している時には生まれません。自分の考えや、閉じた心からは生まれません。預言は私たちが神の挑発に委ねた時に生まれるのです。

 福音が確信を覆す時、預言があふれ出ます。神のもたらす驚きに自身を開く人だけが、預言者になれるのです。ペトロとパウロは先を見通すことができました。ペトロは最初にイエスを「メシア、生ける神の子」(マタイ福音書16章16節参照)であると宣言しました。パウロは自分の生涯の終わりを先見して言いました。「今や、義の栄冠が私を待っているばかりです」(テモテへの手紙2・4章8節)。

 今日、私たちは預言、真の預言を必要としています。それは不可能を可能と約束するむなしい言葉ではなく、福音は可能であるという証しです。奇跡的な出来事は必要ありません。私はこの言葉を聞くたびに痛みを覚えます。「私たちは預言的な教会が欲しいのです」。

 よろしい。では、教会が預言的であるために、何をしますか。神の愛の奇跡を示す生き方が必要です。力ではなく、言動一致の態度です。言葉ではなく、祈りです。宣言ではなく、奉仕です。論理ではなく、証しです。金持ちになることではなく、貧しい人を愛することが必要です。自分たちのために稼ぐのではなく、他者のために使うのです。必要なのは、世の同意ではなく、来る世界の喜び、効果的に見える司牧計画ではなく、自分の命を与える司牧者、神を深く愛する者たちです。

 こうして、ペトロとパウロは、イエスを深く愛する者として、イエスを告げました。ペトロは、十字架にかかる前に、自分ではなく、主を思い、イエスのように死ぬのは自分にふさわしくないと考え、頭を下に、逆さに十字架にかかることを申し出ました。パウロは斬首刑を受ける前に、自分の命を捧げることだけを考え、「すでにいけにえとして献げている」と書簡に記しました(テモテへの手紙2・4章6節参照)。これが預言です。これは単なる言葉ではなく、預言、歴史を変える預言です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。イエスはペトロにこのように預言されました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」。私たちのためにも、同じような預言があります。それは聖書の最後の書で、イエスがご自分の忠実な証人たちに、「白い小石を与えよう。その小石には… 新しい名が記されている」(ヨハネの黙示録2章17節)と約束される場面です。

 主がシモンをペトロに変容されたように、主は私たち一人ひとりを呼ばれ、教会と新しい人類を築く、生きた石となるように招かれます。一致を壊す者、預言を消す者がいつもいたとしても、主は私たちを信頼され、あなたにこのように尋ねられます。「あなたは一致を築く者となりたいか。あなたは地上における私の天国の預言者となりたいか」と。

 兄弟姉妹の皆さん、イエスの働きかけに自らを委ね、このように答える勇気を見出しましょう-「はい、私はそのような者になりたいのです」。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用。表記は当用漢字表などをもとに修正しました)

2020年6月30日

♰「十字架なしに真の愛はない、だが一人で負うことはない、イエスがいてくださる」日曜正午の祈りで

(2020.6.28 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは28日日曜正午の祈りの前の説教で、信徒たちに、広い心と感謝の気持ちを持って、自分の十字架を担い、イエスの足跡をたどるように、強く促された。

 この日のミサで朗読されたマタイ福音書の箇所(10章37-42節)で、イエスはご自分の弟子であることに求められるものを、はっきりと示されている。

*イエスへの愛は家族への愛につながる

 教皇は、「ご自分に付き従る人々に示された第一になすべきことは、家族への愛情よりも、イエスへの愛を上に置くことでした」とされたうえで、ただし、「イエスが望まれたのは、両親と子どもたちへの愛を過小評価することではありません… それを第一にしたら、家族の結束は真の善から外れてしまう可能性があることを、イエスはご存じだったからです」と説かれた。

 そして、家族への愛情が福音に反する選択に繋がってしまうというような経験を、私たちは皆している、とされ、「両親と子どもたちに向けられた愛が、主への愛によって力づけられ、純粋なものとされた時、完全に実りあるものとなり、家族の善のための果実を生み、家族をこえるのです」と語られた。

 また、イエスへの心からの愛は、私たちの両親と子どもたちを心から愛することを求めるが、家族を第一にすれば、「私たちはいつも、誤った道に運ばれてしまいます」と注意された。

 

*十字架を担う

 続いて教皇は、私たちが自分の十字架を担い、彼に従うように、とのイエスの勧めについて言及され、これこそがイエスご自身が歩まれた道であり、”近道”はない、と指摘。「十字架なしに、自分個人の代償を払うことなしに、真の愛はありません… しかし私たちが忘れてならないのは、私たちは決して一人で十字架を担うことはない、私たちが試練に遭う時、イエスがいつも、私たちに力と勇気を与え、支えるために、そこにいてくださる、ということを覚えておく必要があります」、だから、「恐ろしい、自己中心的な行動で自分の人生を保つために、いらだつ必要もありません」と語られた。

 

*イエスが語られた”逆説”の福音

 教皇はまた、この福音書の箇所でイエスが、”逆説”の福音を示されていることを指摘された。それは「自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」と語られている箇所であり、このイエスの言葉が真実であることは、歴史が多くの実例を私たちに示している、とされた。

 そして「現在も、他の人々を助けようと十字架を担う人々が多くいます… 現在の新型コロナウイルスの大感染の最中に助けを必要としている人々を助けるために、自分を犠牲にしています。イエスと共にいれば、私たちはどんなこともできるのです」とし、「あふれる命と喜びは、(注:助けを必要としている人々に)心を開き、歓迎し、親切にすることで、福音と他者のために、自らを捧げることによって得られるのです」と強調された。

*感謝と広い心をもって

 他者を助けるために自分の命を提供すること、例えば、一杯の冷たい水を飲ましてあげることによって、私たちは神の心の広さと感謝を経験することができる。

 教皇はこのことと関連して、ある司祭から聞いた、心の広い子どもの話をなさった-ある日、その子どもが司祭の所に来て、「神父さま。これは私がためたお金です。ほんの少しです。新型コロナウイルスの大感染で助けを必要としている人たちのために使ってください」と頼んだという。「小さいことですが、大きなことです」と教皇は言われた。

 そして、「私たちの必要に応じてくれる人たちに感謝”するようにさせるのは、”感染性”の感謝の気持ち」であり、感謝の気持ちは、礼儀正しさのしるしであり、キリスト教徒の(注:もつべき)重要な特質、と説かれた。「それは簡素だが神の王国、無償で、喜びに満ちた愛の王国のしるしなのです」と説かれた。

 

*聖母に倣って

 説教の最後に、教皇は、聖母マリアに、私たちが自分たちの十字架を担い、キリストの足跡をたどれるよう、助けを祈られた。judge

 「御言葉が私たちの行いと私たちの選んだことを裁かれるのを受け入れ、私たちが、前向きの心で、いつも神の御前にいるように、助けてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年6月28日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」⑧ダビデに学ぶ、喜び苦しみすべてを「あなた」に向ける「祈りの力」

 

教皇フランシスコによる一般謁見 2020年6月24日教皇フランシスコによる一般謁見 6月24日  (Vatican Media)

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 祈りをめぐるカテケーシスを続ける中で、今日、私たちはダビデ王と出会います。彼は少年の時から神に愛され、神の民の歴史、私たちの信仰の歴史の中心を担う、比類なき使命のために、選ばれました。

 福音書の中で、イエスは何度も「ダビデの子」と呼ばれています。実際、イエスは、ダビデと同じようにベツレヘムに生まれました。神の契約によれば、ダビデの子孫からメシアがやって来ることになっていました。ダビデは、御父への全面的な従順を通して、完全に神のみ心に従った王であり、その行動は、神の救いの計画を忠実に実行するものでした。(「カトリック教会のカテキズム」2579項参照)。

 ダビデの物語はベツレヘム周辺の丘の上から始まります。ダビデはそこで、父エッサイの羊の番をしていました。まだ少年で、数多い兄弟たちの一番末の子でした。預言者サムエルが神の命によって新しい王を探していた時、ダビデの父エッサイは、一番下の息子である彼の存在を忘れているかのようでした(旧約聖書・サムエル記上16章1-13節参照)。

 ダビデは自然の中で働いていました。私たちは彼を、風や、自然が奏でる音、陽の光の友だちだった、と想像することができます。魂を慰めるために、ダビデが持っていた唯一のもの、それは竪琴でした。また石投げ紐で遊んでいました。

 ダビデは第一に、羊飼いでした。家畜の世話をし、危険から守り、養うための餌を調達する人でした。ダビデが神のみ旨によって、民の世話をするようになった時も、特別に異なることをしたわけではありません。こうしたことから、聖書においてダビデは、しばしば「羊飼い」のイメージで表されます。イエスもまたご自分を「良い羊飼い」と呼ばれました。イエスの態度は金で雇われた傭兵のそれではありませんでした。イエスは羊のために命を捨て、羊を導き、それぞれの羊の名前を知っておられました(ヨハネ福音書10章11-18節参照)。

 ダビデは自分の最初の職業から多くのことを学びました。預言者ナタンが彼の非常に重い罪を面と向かって非難した時(サムエル記下12章1-15節)、ダビデは、すぐに自分が悪い牧者である、と気づきました。自分が他の男が慈しみ養っていた、ただ一匹の子羊を奪い取ったこと、もはや自分は謙遜な僕ではなく、権力に病んだ、殺し略奪する密猟者だ、と悟ったのです。

 ダビデの召命のもう一つの面は、彼が「詩人の魂」を持っていたことです。この小さな観察から、ダビデは、「社会から長く隔離されて暮らさざるを得なかった人」にしばしばあるような「粗野な人物」ではなかった、と推し量ることができます。ダビデは音楽と歌を愛する「繊細な人物」でした。竪琴はいつもダビデの生活の中にありました。竪琴と共に、時には喜びの賛歌を神に捧げ(サムエル記下6章16節)、時には嘆き、自らの罪を告白しました(旧約聖書・詩編51章3節)。

 ダビデの目に映る世界は「音のない風景」ではありませんでした。彼の眼差しは、込み入った物事の後ろにある、より大きな神秘を捉えていました。祈りは、まさにそこから生まれます。「人生はむなしく過ぎ去るものではなく、驚嘆すべき神秘だ」という確信が、私たちの中に、詩や音楽、感謝や賛美、あるいは嘆きや懇願を生むのです。

 ある人にこの詩的な側面が欠けている時、その魂は「足を引きずっている」と言えるでしょう。伝承は、ダビデを「偉大な詩編作者」としています。詩編はその前半をイスラエルの王とその生涯の様々な出来事に帰属するものとしています。

 ダビデには一つの夢がありました。それは「良い羊飼い」であることでした。その課題を立派に果たすこともあれば、そうでないこともありました。しかし、救いの歴史を背景にした時、重要なことは、「ダビデが『別の王』を予言する存在だ」ということです。そこで彼はただ、「別の王の訪れを告げる前ぶれ」としての役割を果たしています。

 ダビデを見つめ、彼について考えましょう。「聖人にして罪人」「迫害される者であると同時に迫害者」「犠牲者であると共に非情な人物」である彼は、矛盾に満ちた人です。ダビデはこれらを全部合わせた人でした。私たちも人生の中で矛盾した面をよく体験します。生きていく上で、人は皆、無意識のうちにしばしば罪を犯します。

 ダビデの生涯で起きる様々な出来事を結びつける唯一の赤い糸、それが彼の祈りです。それは、決して消えることのない彼の声でした。ダビデは聖人として祈り、罪人として祈ります。迫害され祈り、迫害者として祈ります。被害者として祈り、加害者となって祈ります。これが彼の人生の赤い糸です。祈りの人として、その声は消えることがありませんでした。その声は喜びにあふれることもあれば、嘆きに満ちていることもありましたが、同じ祈りの声であり、メロディーだけが違っていたのです。

 このように、ダビデは、神との対話に完全に入ることを教えてくれます。喜びや罪、愛や苦しみ、友情や病、これらすべてが、「あなた(神)」に向けられた言葉となり、神はこうした私たちにいつも耳を傾けてくださいます。

 ダビデは孤独を知っていましたが、実際は、決して独りぼっちではありませんでした。それは、生活の中で祈りに時間を割く全ての人にある「祈りの力」によるものなのです。

 祈りはあなたに尊さを与えます。ダビデに尊さがあるのは、彼が祈るからです。祈っているのが非情な人間であっても、祈りのおかげで、悔い改め、尊さを取り戻すのです。祈りは尊厳を与えます。

 祈りは神との絆を保証します。人生の数多くの試練の中で、神は人間の歩みの真の同伴者です。良いこと、あるいは悪いことがあっても、常に祈ることです。「主よ、感謝します。主よ、私は恐れています。主よ、お助けください。主よ、お赦しください…」。ダビデは追われて、誰も守ってくれる者がないまま、一人で逃亡しなければならなかった時も、神を大いに信頼していました。「もし私の神が私に屈辱をお与えになるなら、そうなさる理由があるのだ」と考えていました。

 祈りの尊さが、私たちを神の手に委ねます。あの愛によって傷ついた御手、それは、私たちが知る、ただ一つの確かな手なのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年6月25日

♰「難民・移民を守り、環境をたいせつにしよう」-国連・世界難民の日に

An Afghan refugee in a slum area in Lahore, PakistanAn Afghan refugee in a slum area in Lahore, Pakistan  (AFP or licensors)

 20日は国連・世界難民の日だったが、教皇フランシスコは翌21日正午の祈りの後の説教で、これに関連し、「新型コロナウイルスの世界的大感染が、難民・移民を守り、環境を大切にする重要さを際立たせている」と語られた。

 教皇はこの中でまず、「新型コロナウイルスがもたらしている危機は、難民の尊厳と安全を保証するために、難民に必要な保護を確保する必要性」を改めて私たちに知らせている、とされたうえで、世界の全ての信徒に対して、「全ての人、特に重大な危機的状況に置かれた結果、故郷を離れることを余儀なくされた人たちを守るために、私たち皆で効果的な対応ができるように祈りましょう」と呼び掛けられた。

 

*環境への配慮

 さらに教皇は「新型ウイルスの大感染が私たちに改めて私たちに示した、もう一つのことは、人間と環境との関係です」とされ、「多くの地域で行われた都市の封鎖は、汚染を減らし、交通と騒音のない場所の素晴らしさを改めて私たちに知らせました」と述べて、私たちが経済・社会活動を再開させようとしている今、「共通の家」をたいせつにする意識と責任をいっそう自覚して対応するように、信徒たちを促した。

 新型ウイルスの感染者と死者の増加が世界の一部地域で減速するにつれて、段階的な封鎖解除に踏み切る国が増えているが、「制限の緩和は、主に経済活動の再開の必要と失業や貧困の増大を止める狙いからなされている」と語り、失業や貧困拡大を防ぐために、世界各地で顕著になっている多くの”草の根”の活動を高く評価し、こうしたことが、人々の間で、共通善への認識を高めることに繋がることに期待を表明された。

 教皇は、この点に関して世界中で浮上している多くの「草の根」イニシアチブへの感謝を表明し、「この本質的な共通の善についてますます認識している市民権を育む」ことへの希望を表明した。

*聖アロイジオ・ゴンザガを讃える

 このことに関連して、教皇は、16世紀に欧州を襲ったペスト大流行の中でローマで感染者の看病に当たり、自身も感染して23歳で亡くなった「聖アロイジオ・ゴンザガ」を思い起こされ、「神と隣人への愛に満ちた若い若者」として讃え、彼を範として、新型コロナウイルス大感染とその後の対応に当たるよう、暗に求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年6月21日

♰「恐れるな、天の父が私たちを慈しんでくださる」日曜正午の祈りで

 

Pope Francis during the AngelusPope Francis during the Angelus  (Vatican Media)

(2020.6.21 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは21日、日曜日の正午の祈りの中の説教で、敵対され、迫害され、神から見放されたと感じる時も、「恐れてはなりません」と、キリストの弟子である信徒たちに訴えかけられた。

*イエスの弟子が出遭う三つの危険

 この説教で、教皇はこの日、第12主日のミサで読まれたマタイ福音書10章26節から33節を取り上げられた。

 そして、この箇所の冒頭で、イエスが弟子たちに、「恐れてはならない」(26節)と言われたことを受けて、「イエスは彼らに『恐れるな』と執拗に告げ、彼らがこれから出遭うことになる三つのことについて説明なさいます」と語られた。

*敵意に遭う

 その一つは「神の御言葉に砂糖をまぶすことで、あるいは御言葉を宣言する人を黙らせることで、御言葉を抑え込もうとする人々」の敵意だが、イエスは、弟子たちに、御言葉を「多くの人の前で、隠すことなく語るように」と促されている、と教皇は説明された。

*迫害に遭う

 二つ目にイエスが弟子たちに予告されるのは「直接的で暴力的な迫害」。教皇は「この予告は、あらゆる時代において実際に起きること」であり、多くのキリスト教徒が世界中で、現在においても迫害に遭っていることを指摘。

 そのうえで、「福音のゆえに、愛を持って、迫害を受けるなら、そうした人々は現代の殉教者です… しかし、傲慢さと暴力をもって福音宣教の力を消し去ろうとする人々を恐れることはありません」とされ、私たちイエスの弟子が持つべき唯一つの恐れは「神の賜物を失い、福音に従った生きることを諦めることで、道徳的な死、罪の結果を受け入れることです」と説かれた。

 

*「神に見捨てられた」という思いに襲われる

 そして三つ目は、弟子たちがしばしば襲われる「神は私をお捨てになった」という恐れと不安の気持ち。しかし、このような状態になっても、「私たちは、恐れてはなりません… 弟子たちの人生は、私たちを愛され、慈しんでくださる神の御手の中にあるのですから… 御父は私たちを慈しんでくださいます。それは、神の目には私たちが価値あるものだからです」と教皇は語られ、大事なことは、「私たちの信仰の証しの率直さ… それが救いー天の国で主と共に永遠の命を生きることーを得る条件です」と強調された。

 最後に教皇は、聖母マリアの取り次ぎを願う次の祈りで説教を締めくくられた。「聖母マリア、神への信頼と献身の鑑。逆境と危険に瀕する時に、失望に屈するのではなく、いつも自身を主に委ね、悪に勝る力である主の賜物に委ねるように、私たちをお助けください」。

 

2020年6月21日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」⑦モーセにならい、主に「執り成し」を願おう

(2020.6.17 バチカン放送)教皇フランシスコ 2020年6月17日の一般謁見

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見中の「祈りの神秘」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、聖書に描かれたモーセを中心に語られた。カテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 私たちの祈りをめぐる一連の考察の中で、神は「安易に祈る者」と絆をもつことを、決して愛されなかったと気づきます。あのモーセでさえ、召し出しの最初の日から「頼りない」仲介者でした。

 神がモーセを召し出された時、彼は人間的には「落後者」でした。旧約聖書の「出エジプト記」は、彼をミディアンの地における逃亡者として描いています。

 モーセは若い時、同胞のヘブライ人に憐みを抱き、虐げられた人々を守る側にもつきました。しかし、たとえ良かれと思ってしたことでも、彼の手から正義はあふれず、暴力を生み出したことに気づきます。こうして、彼の栄光の夢ははかなく壊れました。モーセはもう将来を約束された官吏ではなく、チャンスを逃した者であり、今は自分の所有でもない羊の群れを飼っている身分でした。

 まさにこのミデアンの荒れ野の沈黙の中で、神は燃え上がる柴の間からモーセに声をかけられました。「『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』。モーセは顔を隠した。神を見ることを恐れたからである」(出エジプト記3章6節)。

 神はモーセに話しかけ、再びイスラエルの民の世話をするように、と求めます。モーセは神に対し、恐れと抵抗を示します。自分はこの使命に向いていない、神の名を知らない、イスラエルの人々は信じないだろう、自分は雄弁ではない等々、多くの理由を挙げ、異議を唱えました。

 モーセの口にしばしば上ってくる言葉は、神に向けるあらゆる祈りにあるように、それは「なぜ?」という問いでした。なぜ、私を遣わされるのか?なぜあなたはこの民を解放しようとするのか?

 「モーセ五書」には、神がモーセの信頼の欠如を面と向かって非難され、それゆえに彼を約束の地に導き入れることを拒む、劇的なくだりがあります(参照:民数記20章12節)。この恐れの気持ち、しばしば揺れる心を持ったモーセは、どのように祈ることができたでしょうか。モーセは私たちと同じ人間のように見えます。同様のことが私たちにも起きます。私たちに疑念がある時、どうやって祈ることができるでしょうか。

 私たちは、モーセの強さよりも、このような弱さのために、心を打たれるのです。神の掟を民に伝える任務を負った者、神の祭礼の基礎を築いた者、崇高な神秘の仲介者。モーセは、特に民が誘惑と罪にさらされている時も、彼らとの連帯の固い絆を保ち続けました。モーセは常に民に愛着を持ち、自分の民の記憶を忘れることはありませんでした。民を忘れない、ルーツを忘れない、これが司牧者の偉大さです。

 それは使徒パウロが、愛する弟子、若い司教テモテに、彼の先祖や、祖母や母を思い起こさせている通りです。モーセは神と深い友情で結ばれ、それゆえに神と顔と顔を合わせて語ることができました(出エジプト記33章11節参照)。同時に、モーセは人々との友情を保ち、彼らの罪や誘惑、彼らのエジプトにいた時代に対する突然の郷愁にも、憐みを感じることができたのです。

 モーセは神を拒絶することも、民を拒絶することもしません。彼は自分の民に忠実であると同時に、神の声にも言動一致の態度を示しました。いずれにせよ、モーセは権威を振りかざす独裁的な指導者ではありませんでした。「民数記」はモーセを「この地上の誰よりも謙遜な人であった」(民数記12章3節)と記しています。自分の恵まれたその立場にもかかわらず、モーセは、神への信頼を旅路の糧として生きる「心の貧しい人々」の群れに、自ら属すことを望み続けました。彼は民の人でした。

 このように、モーセに特徴的な祈りの形は、「執り成し」であると言うことができるでしょう(「カトリック教会のカテキズム」2574項)。モーセの神への信仰は、彼が民に対して育む父性と切り離すことのできないものです。聖書は、モーセを「両手を高く、神に向かって挙げた姿」で描きます。それは、まるでモーセ自身が天と地の架け橋となるかのようです。

 最も厳しい試練の時、民が、神と指導者モーセを否認し、金の子牛を造った日にも、モーセは民を突き放すことを望みませんでした。彼は神も民も拒絶することはありませんでした。モーセは神に言います。「この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から、私を消し去ってください」(出エジプト記32章31-32節)。

 モーセは民を見捨てることはありませんでした。彼は神と民の架け橋、仲介者でした。彼は自分の立身出世のために民を差し出すことなく、自分の血肉、自分の歴史である民のため、そして自分を召し出された神のための仲介者、架け橋となりました。皆の架け橋となるべきすべての司牧者にとって、なんと素晴らしい模範でしょうか。

 それゆえ司牧者をpontifex(橋を築く者)と言うのです。司牧者は、自分が属する民と、自らの召命を通して結びつく神との架け橋です。モーセもそうでした。「主よ、彼らの罪をお赦しください。お赦しくださらないなら、あなたが書き記された書から、私を消し去ってください。私の民を踏み台に、出世したくないのです」。

 これは、神を真に信じる者たちが自身の霊的生活の中に育む祈りです。たとえ人々の欠点や、神から遠いその生活を知っていても、これらの祈る者たちは、人々を裁くことも、拒むこともしません。執り成しの態度は、まさにイエスに倣う聖人たちの態度、神と民との架け橋です。モーセは、この意味で、私たちの弁護者であり仲介者であるイエスの最も偉大な預言者でした(「カトリック教会のカテキズム」2577項参照)。

 今日もイエスは橋を築く方、私たちと御父との架け橋です。イエスは、私たちの救いのために払われた犠牲の傷跡を御父に見せながら、私たちのために執り成されます。モーセは、今日も私たちのために祈り執り成しされるイエスの予型なのです。

 モーセは、イエスと同じ情熱をもって祈り、世のために執り成しを願い、自分のすべての弱さにも関わらず常に神に属していることを思い出すように、私たちを励まします。すべての人が神に属しています。最もひどい罪びと、最も悪辣な人々、最も腐敗した指導者たちも神の子であり、イエスは皆のために執り成しをなさいます。

 そして、義人の祝福、聖人、義人、司祭、司教、教皇、信徒、あらゆる信者が、人々のためにいつの時代にも上げ続ける憐みの祈りのおかげで、世は生き、繁栄するのです。モーセの執り成しを思いましょう。私たちが誰かを裁こうとする時、そして、私たちが腹を立てている時、腹を立てても、人を非難するのはよくありません。非難する代わりに、その人のために執り成しを願いましょう。そうすることは、私たちにとって、大きな助けとなるでしょう。

(編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2020年6月18日

♰「聖体は私たちの”ひ弱な記憶”を癒してくださる 」-キリストの聖体の祝日ミサで

 

(2020.6.14 Vatican News)

 教皇フランシスコは14日、キリストの聖体の祝日のミサを聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」でささげられた。

 新型コロナウイルス感染防止対策で一般信徒を含め約50人に出席が限定されたミサ中の説教で、教皇はまず、神の多くの贈り物を記憶することの重要さを思い起こされた。

 そして、「記憶しなければ、私たちは、養ってくれる土壌から自分を引き抜き、風の中の木の葉のように自分を吹き飛ばされるに任すことになります」とされたうえで、「記憶するという行為は、私たちが最強の絆を作り直すのを助け、もっと大きな物語の一部であることを私たちに感じさせます… 記憶は個人的なことではなく、神や他の人々に私たちを結び付ける道なのです」と指摘された。

 

*「ひ弱な記憶」の私たちに神はパンをくださった

 また、聖書は、主と私たちの関係がどのようにして、口頭で何世代にもわたって伝えられてきたのか、を語っているが、「そうした記憶伝達の鎖が壊されたら、何が起きるでしょうか」と、教皇は会衆に問いかけ、神は、私たちの記憶がどれほど不足しているかをご存じなので、「私たちに、言葉や印をはるかに超える”記念の品”をくださいました」とし、次のように語られた。

 「神は食べ物をくださったのです。私たちは実際に”味わったもの”をなかなか忘れないからです。それで、私たちにパンをくださいました。そのパンの中に、愛のすべての味わいと共に、実存され、生きておられ、そしてそれは真実です」。

 そして、聖体は単なる「記憶」ではなく「事実」である、とされ、「ミサにおいて、イエスの死と復活が私たちの前にしっかりと用意されるのです」と説かれた。

*聖体は私たちの「遺棄された記憶」を癒してくださる

 次に教皇は、私たちの弱った記憶を聖体が癒してくださる働きには三つの側面がある、とされた。

 そのうち最も重要なのは、主の体と血の祭儀が、私たちの「遺棄された記憶」を癒してくれることであり、多くの人は、愛をくれるはずの人から心情的に捨てられたことで特徴づけられるような「愛情の欠如と辛い失望」で特徴づけられる記憶を持っているが、神は私たちの記憶を、そうした痛みに勝る大きな愛で満たし、私たちを癒してくだるとし、次のように続けられた。

 「聖体は私たちに、父の真心の愛をもたらし、『自分は親に捨てられた子だ』という私たちの思いを癒し、聖霊の慰めの愛で私たちの心を満たしてくださいます」。

*「負の記憶」を癒してくださる

 聖体の癒しの側面の二つ目は、自分の問題や失敗だけに焦点を当てている私たちの「負の記憶」を癒してくださること。イエスは、私たちがご自分の目には貴重で、ご自分とテーブルを囲む価値のある存在だ、と私たちにお告げになる為に来られた、と教皇は語り、「それはイエスが心の広い方であるからだけでなく、真に私たちを愛しておられるからです。イエスは私たちの素晴らしさ、善さをご存じで、愛しておられるのです」と強調された。 また教皇は、聖体は私たちに、悲しみに対する免疫をくださる、それは「私たちの負の記憶に対する抗体を持っている」から、とされ、このようにして私たちは、神の使い、「喜びの使い」に変えられるのだ、と説かれた。

*「閉じられた記憶」を癒してくださる

 三つ目の側面は、聖体が私たちの「閉じられた記憶」を癒してくださることだ。

 私たちの記憶につけられた傷は、他人を恐れ、疑うようにさせ、結果として、どのような状況も制御できるという誤った希望を抱き、他の人々と距離を置いてしまうことがある、と考えられるが、教皇は「それは、幻想です。愛が、その根源にある恐怖を癒し、私たちを閉じ込めている自己中心主義から解放してくれるからです」と説かれた。

 そして、イエスは、武器なしの弱々しい主人の姿で私たちの所に来られ、私たちの自己中心の殻を砕き、私たちの内なる壁と心の麻痺を取り除かれる、飾りのないパンとして、ご自分をお与えになることで、イエスは、役に立たないことで自分の人生を無駄にしないようにと、私たちに勧めておられる、と語り、「聖体は物質的なものに対する私たちの飢えを満たし、私たちの奉仕へ願望に火を付けます」とされた。

*私たちは皆、連帯の鎖で結ばれている

 最後に、教皇は、聖体が、私たち皆を連帯の鎖で結ばれていることを、改めて思い起こされて、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年6月14日

♰「『祈り』と『貧しい人たちとの連帯』は切り離せない」ー11月の「世界貧者の日」に向けて

Pope Francis has lunch with the poor in the Paul VI HallPope Francis has lunch with the poor in the Paul VI Hall  (Vatican Media)

 さらに、「弱い人を支え、苦しむ人を慰め、痛みを和らげ、身の回りの物を取り去られた人の尊厳を回復するために、積極的に働くことは、人生を全うするための条件です」とされ、「神の恵みの力は、いつも自分を第一に考える利己的な傾向に妨げられることがありません」とされたうえで、「貧しい人たちに視線を常に注ぐことの難しさ」を認めつつ、「自分の私生活と社会生活に正しい方向性を与えたいなら、それが、これまで以上に必要になるのです」と説かれた。

 

*新型コロナウイルスの大感染の中で、「隣にいる聖人たち」に賛辞を

 教皇は、このメッセージの相当のスペースを新型コロナウイルスの世界的大感染の問題に割かれ、これまで感染者たちの治療に当たって来た医師や看護師によって「差し伸べられた手」に心を向けられ、管理・運営に当たっている人、薬剤師、司祭、ボランティアなど、昼夜を問わず、賛辞を浴びることもなく自身を捧げてきた人たちが「差し伸べた手」にも称賛の言葉をかけられた。

 そして、「今経験していることは、私たちの沢山の思い込みを覆しています。自分たちは弱く、自分だけではやっていけない、と感じています。それは、私たちの限界、私たちの自由が制限されていることを知るようになったからです… 雇用の喪失、愛する人や知人にいつも会うことのできる機会の喪失は、これまでずっと当たり前だと思っていたことが、そうではないことに私たちを気付かせました」と指摘。

 そのうえで、教皇は「今こそ、『私たちが互いを必要としている、他者と世界に対する責任を共有している』という確信を取り戻す、絶好の機会」と強調しつつ、「私たちが隣人とすべての人に対する責任感を取り戻すようになるまで、深刻な経済的、財政的、政治的危機が続く」ことへの心構えも説かれた。

*「手を差し伸べよ」は、貧困の現実に動じない人々への挑戦

 教皇は、今年のテーマ「貧しい人々に手を差し伸べよ」を改めて取り上げ、それが「人間の家族の一員である男性と女性としての責任と約束への招き」であるとし、人々を強制的に隔離した新型ウイルスの大感染の最中にあっても、神の御言葉は「愛の業をするようにと、常に私たちを促しているのです」と説かれた。

 そして、「貧しい人々に手を差し伸べよ」という言葉は、「手をポケットに入れたまま、自分が加担している貧困の現実に動じないでいることを良しとする人々の態度への、挑戦です… そしてそうした『手』の中には、子供たちを含む人々に死と貧困をもたらすために使われる武器を売り、金を設けるために、『差し伸べ』られている… それなのに、なおも、偽りの尊敬を見せびらかし、自分たちが守りもしない法律を彼ら自身が守っていない法律を定める人もいる」と、その言葉に背く人々を強く批判した。

 

*私たちの最終目標は愛だ

 メッセージの最後に、教皇はシラの書の「何事をするにつけても、お前の終わりの日を思え」と書かれている箇所を思い起こされ、「私たちのすべての活動の『終わり』は、ただ愛のみにすることが可能です。それが私たちの旅の究極の目標であり、何ものも、私たちを踏み外させるべきではありません」とされた。

 そして、笑顔でさえも、貧しい人々と共有できるものであり、愛の源であり、愛を広める手段でもある、とし、「差し伸べられた手は、キリストの弟子の一人として生きることの喜びによってのみ力づけられ、静かに、控えめに支援を申し出る人々の笑顔によって、常に豊かになるのです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年6月14日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」⑥「私たちは人生の夜、格闘しながら自分の惨めさを知り、新たな名をいただく」

 

教皇フランシスコ 2020年6月10日の一般謁見で教皇フランシスコ 2020年6月10日の一般謁見で  (Vatican Media)

(2020.6.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見中の「祈りの神秘」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、今回は「ヤコブの祈り」(創世記 32章 25-30節)をテーマに考察され、ヤコブの”神との格闘”のエピソードに、祈りの比喩があることを指摘された。

教皇のカテケーシスは以下の通り。

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 祈りをめぐるカテケーシスを続けましょう。

 「創世記」に書かれた遠い昔の人々の出来事を通して語られる歴史に、私たちの生活を投影することができます。この一連の父祖たちの物語の中に、才能としての術策にたけた人物-ヤコブを見出すことがきます。聖書は、ヤコブが兄エサウとの間に抱える難しい関係について語っています。彼らは小さい時からライバル関係にあり、この関係はその後も変わることはありませんでした。

 彼らは双子で、ヤコブは次男でした。しかし、ヤコブは策略をつかい、父イサクから長子に与える祝福をかすめ取りました(創世記25章19-34節)。そして、これは、この押しの強い彼が示した多くの抜け目なさの、ごく最初のものでした。ヤコブ、という名前も、人を出し抜く者という意味を持っています。

 兄から遠く離れたところに逃亡しながらも、ヤコブの人生はあらゆる冒険に成功しているように見えます。彼は駆け引きにたけ、多くの富を得、非常に大きな家畜の群れを持つようになりました。一徹さと忍耐をもって、ラバンの二人の娘のうち、彼が本当に愛していた、より美しいラケルと結婚することもできました。

 ヤコブは、今の言葉で言えば「self-made man(たたき上げの人)」です。彼はその才覚、利発さによって、望んだものをすべて手に入れることができました。しかし、彼には足りないものがありました。それは「自分の故郷との生きた関係」でした。

 ある日、ヤコブは「生まれた地、親族のもとに帰りなさい」という神の声を聞きました。そこには、常に最悪の関係にあった兄エサウがまだ住んでいました。ヤコブは呼びかけに応え、数多くの人と家畜を連れた長い旅の末に、最後の地、ヤボク川に到達しました。ここで「創世記」は、記念すべき1ページを示しています(32章23-33節)。

 そこには、ヤコブがすべての人と家畜を連れて川を渡った後、独りその岸に留まったことが記されています。ヤコブは思いにふけりました。「明日、何が起きるだろうか。彼が長子権を奪った兄エサウはどのような態度に出るだろうか」と考えたのです。

 ヤコブが思い巡らせているうちに、夜になり、突然、何者かが彼を捕らえて格闘し始めました。教会のカテキズムはこのように説明します。「教会の霊的伝統は、この物語を、信仰の闘いと忍耐の勝利というように、祈りの象徴として見ています」(「カトリック教会のカテキズム」2573項)。

 ヤコブは、一晩中格闘し、相手に隙を与えませんでした。最後にヤコブは勝ちましたが、腿の関節を相手に打たれ、以来、足を生涯引きずるようになりました。謎に満ちた格闘相手は、彼の名を尋ねた後、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(創世記32章29節)と言いました。

 それは、「お前はもうこんな風に歩いてはいけない、まっすぐ歩きなさい」と言うのと同じです。「お前はこれからはイスラエルと呼ばれる」と言い、彼の名前を、人生を、態度を変えさせたのです。そこでヤコブも相手に尋ねました。「どうか、あなたのお名前を教えてください」。しかし、その人は名を明かさない代わりに、彼を祝福しました。ヤコブは、神と「顔と顔を合わせて」出会ったことを知ったのです(同32章 30-31節参照)。

 「神との格闘」ーこれは祈りの一つの比喩です。他の場面で、ヤコブは神と対話し、その存在を親しく近いものに感じている姿を見せています。しかし、あの夜、延々と続く闘いを通し、ほとんど負けるかと思われた時に、ヤコブは変わることができたのです。彼は名を変え、生き方を変え、性格を変えました。彼は変わったのです。

 ヤコブは、この時ばかりは、自分ではどうしようもできない状況と向かい合いました。彼の策略は、そこでは役立ちませんでした。彼はもう術策と計算の人ではありませんでした。神はヤコブを死すべき人間の真理に立ち帰らせました。それは彼を震わせ、怖れさせるものでした。

 実際、ヤコブは格闘の中で恐れを抱いたのです。この時だけは、ヤコブは自分の脆さと無力、その罪をも、神の前にさらけ出すしかありませんでした。このようなヤコブこそが、神から祝福を受けることができたのです。ヤコブは足を引きずりながら、約束の地に入っていきました。無防備で、傷つき、しかし新しい心を持って。

 あるお年寄りー良い人、良い信者で、罪人として神に深い信頼を置いていましたーが、このように語るのを聞いたことがあります。「神は私を助けてくださるでしょう。私を独りにはなさらないでしょう。私は天国に行きますよ… 足を引きずりながら、それでも、天国に入ります」。

 ヤコブは、最初は自信に満ちた人でした。自分の抜け目なさを信じていました。恵みに鈍感で、慈しみと関係のない人でした。慈しみは何かを知らなかったのです。「ここに私がいる。命令するのは私だ」と思い込み、慈しみの必要を感じませんでした。しかし、神は、彼が失ってしまったものを救ったのです。神はヤコブに、彼には限界があること、彼が慈しみを必要とする罪人であることを分からせ、彼を救ったのです。

 私たちは皆、夜に神と出会いますー人生の夜、人生における沢山の夜、暗黒の時、罪を犯した時、方向感覚を失った時にです。そこに、いつも神との出会いがあります。神は思いがけない時、完全に孤立している時に、私たちを驚かせます。その同じ夜、何者かと格闘しながら、自分がただのみじめな人間だと自覚します。

 しかし、恐れることはありません。まさにその時、神は私たちに新しい名前をくださるからです。その名前は私たちの人生のすべての意味を帯び、私たちの心を変え、神によって変えられた者だけに向けた祝福を与えるのです。

 これは神に変えていただくことへの素晴らしい招きです。神にはそれがおできになります。なぜなら、神は私たち一人ひとりをご存じだからです。「主よ、あなたは私をご存じです」。私たち一人ひとりが言うことができるのですー「主よ、あなたは私をご存じです。私を変えてください」と。

(編集「カトリック・あい」)

【以下、公式英語版】

Catechesis of the Holy Father

Dear Brothers and Sisters,

Good morning!

Let us continue with our catechesis on the subject of prayer. The Book of  Genesis, through the occurrences of men and women of a far off time, tells us stories that we can reflect on in our own lives. In the Patriarch Cycle, we also find that of a man who shrewdly developed his best talent: Jacob. The biblical account tells us about the difficult relationship Jacob had with his brother Esau. Ever since childhood, there was a rivalry between them, which was never overcome later on. Jacob is the second-born – they were twins – but through trickery he manages to obtain the blessing and birthright of their father Isaac (cf. Gen 25:19-34). It is only the first in a long series of ploys of which this unscrupulous man is capable. Even the name “Jacob” means someone who is cunning in his movements.

Forced to flee far from his brother, he seems to succeed in every undertaking in his life. He is adept at  business: he greatly enriches himself, becoming the owner of an enormous flock. With tenacity and patience he manages to marry Laban’s most beautiful daughter, with whom he is truly in love. Jacob – as we would say in modern terms – is a “self-made” man; with his ingenuity, his cunning, he manages to obtain everything he wants. But he lacks something. He lacks a living relationship with his own roots.

And one day he hears the call of home, of his ancient homeland, where his brother Esau, with whom he has always had a terrible relationship, still lives. Jacob sets out, undertaking a long journey with a caravan of many people and animals, until he reaches the final step, the Jabbok stream. Here the Book of Genesis offers us a memorable page (cf. 32: 23-33). It describes that the patriarch, after having all of his people and all the livestock – and they were many – cross the stream, remains alone on the bank of the river on the foreign side. And he ponders: what awaits him the following day? What attitude will his brother Esau, from whom he stole his birthright, assume? Jacob’s mind is a whirlwind of thoughts…. And, as it is getting dark, suddenly a stranger grabs him and begins to wrestle with him. The Catechism explains: “the spiritual tradition of the Church has retained the symbol of prayer as a battle of faith and as the triumph of perseverance” (CCC, 2573).

Jacob wrestles the entire night, never letting go of his adversary. In the end he is beaten, his sciatic nerve is struck by his opponent, and thereafter he will walk with a limp for the rest of his life. That mysterious wrestler asks the patriarch for his name and tells him: “Your name shall no more be called Jacob, but Israel, for you have striven with God and with men, and have prevailed” (Gen 32:28). As if to say: you will never be the man who walks this way, straight. He changes his name, he changes his life, he changes his attitude. You will be called Israel. Then Jacob also asks the other: “Tell me, I pray, your name”. The other does not reveal it to him, but blesses him instead. Then Jacob understands he has encountered God “face to face” (vv. 29-30).

Wrestling with God: a metaphor for prayer. Other times Jacob has shown himself able to dialogue with God, to sense Him as a friendly and close presence. But that night, through a lengthy struggle that nearly makes him succumb,  the patriarch emerges changed. A change of name, a change in hits way of life and a personality change: he comes out of it a changed man. For once he is no longer master of the situation – his cunning is no use to him – he is no longer a strategic and calculating man. God returns him to his truth as a mortal man who trembles and fears, because in the struggle, Jacob was afraid. For once Jacob has only his frailty and powerlessness, and also his sins, to present to God. And it is this Jacob who receives God’s blessing, with which he limps into the promised land: vulnerable and wounded, but with a new heart. Once I heard an elderly man – a good man, a good Christian, but a sinner who had great trust in God – who said: “God will help me; He will not leave me alone. I will enter Heaven; limping, but I will enter”. First he was a self-assured man; he trusted in his own shrewdness. He was a man impervious to grace, immune to mercy; he did not know what mercy was. “Here I am, I am in command!”. He did not think he was in need of mercy. But God saved what had been lost. He made him understand that he was limited, that he was a sinner who was in need of mercy, and He saved him.

We all have an appointment during the night with God And there we have an appointment with God, always. He will surprise us at the moment we least expect, when  we find ourselves truly alone. That same night, struggling against the unknown, we will realise that we are only poor men and women – “poor things”, I dare say – but right then, in that moment in which we feel we are “poor things”, we need not fear: because God will give us a new name, which contains the meaning of our entire life; He will change our heart and He will offer us the blessing reserved to those who have allowed themselves to be changed by Him. This is a beautiful invitation to let ourselves be changed by God. He knows how to do it, because He knows each one of us. “Lord, You know me”, every one of us might say. “Lord, You know me. Change me”.

 

 

2020年6月11日

♰「私たち皆に、児童労働に苦しむ子どもたちへの責任がある」ー12日の児童労働反対世界デーに

教皇、6月12日「児童労働反対世界デー」に向けアピール 

 そして、世界の関係機関に、児童労働問題の根底にある経済と社会の欠陥を是正しつつ、未成年の保護のためあらゆる努力を尽くすように求められた。

 さらに、「子どもたちは人類家族の未来」と述べた教皇は、「私たち皆が、子どもたちの成長と健康、平穏な暮らしを守る責任を負っているのです」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年6月10日