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・「愛ある船旅への幻想曲」(67)社会に開かれた教会を目指ざすなら、まず日本社会を真摯に知ることだ
「教会とは何か」と疑問を感じ始めた私は、森一弘司教の著書『 心の闇を乗り越えて—私の歩んできた道』を購入し一気読みした。
聖職者でこれほど正直に自分の意見を世に発表する司教の存在を知 った私の喜びは、半端でなかった。そして、森司教のコラムが掲載さ れたインターネットマガジン「カトリックあい」に出会い、森司教 の嘘のない身近な感覚の文章に毎回目から鱗が落ち、愛読するよう になった。
そもそも私の教会への疑問は、 教区の会議に委員として出席せねば生じなかったと思う。
司教の定年は75歳と案内されている。私が知る宗教組織であるカ トリック教会の教区では、司教が変わるたびに組織運営の方向性が変わり、 既存の小教区や教区評議会規約も暗黙のうちに変えられている。
順応性がある? 信者は素直に従うかもしれないが、私みたいに「何?」 と思う信徒もいるわけだ。今までのことは何だったんだろう、時間 をかけて話し合い決めた規約が新しく着座した司教によって、信徒に は何の相談もなく変わるわけだ。首長が変わるたびに案件が変わ る行政と同様の宗教組織を、私は受け入れることができないのかもし れない。
「教会とは何か」と悩み続けている私に当時の担当司祭が「 森司教を黙想会にお呼びしましょうか?」と提案があり、 私は賛成の挙手を一番にした。
初めて森司教とお会いできた。森司教の教会への思い、 本来あるべき姿の教会像の話を生の声で聞くことができた。 まだまだ分からないことが山積みではあったが、 森司教と対面でお話しする機会が与えられ、森司教から「 あなたも書きなさい」と勧められたことが、今も”カトリックあい” に拙い投稿を私が続ける所以である。文章を書くことによって自分 自身の考えも整理されていくことを、森司教は私に力説された。
また以前から私は、井上洋治司祭、 遠藤周作氏の著書を愛読しているが、今お二方の憂いが、違う場で生 じている、と思っている。
ここは日本であり、私は日本人であり日本の教会で受洗した。日本人として日本の歴史を理解し、今日本にある法律を守り、 日本社会のルールで私は生きている。
外国人司祭や外国人信者が持つ自国のルールは、日本では受け入れら れないことが多々ある。 外国人信者が日本社会で生きていくために知らねばならないルール を、誰が教えるのだろうか。
だが先ずは、日本人信者が日本の社会を真摯 に知ることが必要かもしれない。 社会に開かれた教会を目指すのであれば…
(西の憂うるパヴァーヌ)
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」㉙「本音」で語らう機会を工夫してみよう!
『本音」で語らう時のスッキリした気持ちは何とも言えない。 偽りのない本心からの言葉は、すうっと心根に届き、自分の素直な 気持ちに触れ、本音が誘われて出て来るのを感じます。
確かに、人の飾らない、見せかけない姿言葉は、周囲を穏やかな雰 囲気にしますよね。自分が人目にどう映っているか、 見られていると意識する時、心の面が濁った感じがします。真実な 方である神様の前に素直に純な動機で在り、生きたいと日頃願って います。
「本音」の語源を調べてみました。楽器の本当の音色から来たもので、 人が語る「本当の言葉」本音の意味合いに使われるようになったの だそうです。それで本音には魅せられるのですね。
『本音で出会い、語らう集い』を毎月、やっていたことがあります。
以前の任地長崎と神戸で若者たちと、その後タイ国の宣教に派遣さ れて間もない頃から、私が去る280回目まで。その後も続き29 6回目の集いに至っているとの事。
2時間ちょっとの、普段のありのままの気持ちで出会い語らう集い です。その日の司会役がテーマ記事を、本や新聞雑誌などから選ん で用意します。短い沈黙で気持ちを落ち着け、 司会の導入に続き題材記事を輪読。そして15分前後の沈黙、各自 ゆっくり素直な本音で味わい自由に思い巡らします。
その後、それ ぞれの思い考え感じた事を分かち合い、相槌、質疑応答や対話無し に聴きます。分かち合っていただくことを恭しく聞くのです。分か ち合いが終わり、感謝しながら沈黙のひと時を持ち終了、至極シン プルです。
1人ではなかなか作れない大事な空間と時間、自分の気持ち本音 と向き合う、できるようでできない状況を仲間と用意するわけです 。自分の内の感性、気付きに対峙する心のブレイクです。これが凄 い事なのだと思います。そして仲間の分かち合いをじっと聴く。
「え?私すごいこと言ってる」と、自分で驚く若者がいました。若い 神父が参加して「赦しの秘跡の場にいるようだ」と、若者の素直な 本音の分かち合いに感動。
自分の本当の気持ちに素直に出会う、本音に触れる機会に先ず感じ 入り、そして他人の本音触れて更に響くわけです。
私はいつも、心を開き分かち合ってくださる仲間に合掌するような 気持ちで聞き入ります。お互いに豊かになります。カトリックの信 仰に導かれた人も、召命の惠を受けた人も、結婚に至る出会いまで の例もありました。
たった一度でも分かち合った仲間と、深い絆ができるから不思議で す。長年親しく付き合った関わりも顔負けです。魂のWF感性の素 晴らしい霊に結ばれた絆です。
情報過多、忙しく騒がしい渦中、じっと自分の内の本音に聞く機会 、そして友の本音と語らう機会を!ぜひ工夫してみてください。せ っかくですから、生き生き感動した人生を生きてみませんか?
香ばしい珈琲を満喫するようなひと時、人生をリセットしスッキリ させて…心身の免疫力も高まります。AIも降参、創造主の傑作= 人間の魂の本音で出会い語らいましょう。(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
・「エクソシズム(悪魔祓い)―伝統と現代的意義」のシンポジウム、10月10日に清泉女子大で
国際シンポジウム「エクソシズム(悪魔祓い)―伝統とアクチュアリティ(現代的意義)について考える」が2026年10月10日(土)、東京・五反田の清泉女子大学で以下の要領で開かれる。研究者、学生、一般の方も歓迎。参加申し込みはn-sakata@seisenn-u.ac.jp へ。「
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【日時】 2026年10月10日(土)13:00開始 場所: 清泉女子大学1号館140教室
【テーマ】 神学・教父学・宗教学から「エクソシズム(悪魔祓い)」の伝統と現代的意義(アクチュアリティ)について考える
【講師】
*田中昇(カトリック東京教区司祭、教皇庁立ウルバノ大学で教会法学教授資格取得、上智大学神学部、南山大学人文学部非常勤講師)「カトリック教会における祓魔四季神学・典礼・歴史・教会法則」
*渡辺優(大学院人文社会系研究科准教授=基礎文化研究専攻・宗教学宗教史学)「善、それでもなお―ジャン=ジョゼフ・スュランと悪魔体験の彼方」
*Francesco Scarsella(イタリア・司祭、神学者) 「エクソシズム—過去と現在」
【主催】坂田 奈々絵 ・清泉女子大学総合文化学部准教授
・「パトモスの風 」⑯神は、私たちの父、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に子となる権能を与えた
ヨハネ福音書が、新約の司祭職を中心テーマとして書かれたのではないかと考えて、考察をしてみようと始めたのですが、その冒頭の記述から創世記に引っぱられ、今に至っています。でもそのおかげで、ヨハネ福音書に父の名の記載があまりに多いことの理由に辿り着いたことは、大きな収穫でした。
創世記で「善悪の知識の木から取って食べることを人に禁じられた神は、私たちの父なのだ」と捉え直してから、3章で神に背いた初めの二人の物語や、4章でカインの殺人事件を読んでみると、そこには、子供たちの後始末に追われる父の姿と、罪を犯してしまった子にきちんと向き合い、「何とかして救おう」とする父の姿が見えてきました。
この理解は、イエスが最期の食卓で祈った「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」(ヨハネ福音書17章12節)という言葉の意味に行きつくものでした。このイエスの言葉は、私たち信者にとって、神を父と呼ぶことそれ自体に、計り知れない可能性が秘められていることを示唆しています。
そして、「私と父とは一つである」(同10章30節)と言われたイエスの言葉によって、私たちが神を「天の父」と呼ぶことはイエスを呼ぶことでもある、ということになるのです。イエスの名には、天使が夢でヨセフに告げた秘められた意味である「この子は自分の民を罪から救う」ということと、その名の在り方である「神は私たちと共におられる」ということが、イエスにおいて同時に実現されたという事実が込められています(マタイ福音書1章21~23章参照)。
イエスは、この事実を計画された神を、天の父と呼ぶように求めておられます。ヨハネ福音書に、「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」(ヨハネ福音書1章16節)とあるのは、イエスが私たちに、神が父であることを徹底的に記憶させようとされたことにあったのだと思います。そして、イエスご自身が、父から遣わされ、父を現す方なのです。
神は、私たちの父です。イエスの言葉によって育まれたその感覚は、「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(1章12節)とある、「神の子となる権能を与えた」というところに注目させます。
私たちはイエスの養成に応えて、神を天の父と呼ぶことで、その恵みに答え、イエスを受け入れ、その名を信じて、授かった「神の子となる権能」を守ることができます。私たちには、守るものがあるのです。そのために神を天の父だと自覚することが、新約の司祭職を与えられた民であることのしるしなのだと思います。
私たちは、黙示録のヨハネと共に、「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙示録1章6節)と祈ることができるのです。
(横浜教区信徒 Maria K. M.)
・「カトリック精神を広める」㉞勧めたい本紹介・17「聖カルロ・アクーティス-デジタル時代の使徒」いつくしみセンター著
今回取り上げるのは、「聖カルロ・ アクーティス-デジタル時代の使徒」いつくしみセンター著(2026年8月15日初版 税込み1,320円)だ。。
カルロ ・アクーティスは、2006年に15歳で亡くなり、2025年9月7日に、カトリックの聖人に上げられた。ジーンズを履き、ポケモン等の ゲームにも興じたことのある現代の普通の少年が、聖人となったの である。その伝記が本書だ。
聖人とは何か。一言で言えば、いま現在、確実に天国にいて、私たち信 者の模範となり、天国でイエスキリスト様への取り次ぎをしてくだ さる方、と言える。聖人に認定されるためには、聖人の取り次ぎで起 こった2つの奇跡が必要だ。本書にはその経緯が記されている 。そのご遺体は、神様の恵みにより腐敗から免れ、 イタリアのアッシジのサンタ・マリア・マッジョーレ教会に置かれ ており、信者はガラス越しでご遺体を見ることができる。
聖カルロ・アクーティスが生前もっとも心血を注いだのは、ご聖体 への信仰を広めることで、彼が作ったホームページには、世界各 地のご聖体にまつわる奇跡が紹介されている。その一つには、聖変 化を疑った神父のもとで起こった「パンとぶどう酒が本物の 血と肉となった奇跡」がある。それは現在に至るまで腐敗することな く、イタリア、ランチャーノの教会で保存されている。
わずか15歳の聖カルロ・アクーティスが、インターネットやス マホが跋扈(ばっこ)する現代において、なぜ聖人の位に上げられた のか。しかも聖人の家族は、毎日ミサに預かる敬虔なカトリックの 家族ではなかった。彼らは、わずか15歳の聖人に感化されて熱心なカトリ ック教徒になっていったのである。 その秘密は本書に記されている。
(横浜教区信徒・森川海守=もりかわうみまもる):noteに記事を書いています。ご覧いただければ幸いです。(https://note.com/mamoru_umi)
・「余白の想い」⑧AIの著しい進歩の中で、キリスト教が問われているのは
キリスト教とAIについてごく簡単に述べる。あらかじめお断りしておくが、私はこの分野の専門家ではないため、思い違いや誤りがあるかもしれない。その点はどうかご寛容に願いたい。
今現在、AIの進歩・発展が著しく、AIによって我々は過去の歴史や思想を広く参照しながら考えることのできる時代である。キリスト教はその役割をAIに譲ることになるのだろうか。が、キリスト教が不要になるというよりも、人間がキリスト教に求めてきた事柄をAIが代行するようになる可能性のほうが大きいのではないかと思う。
AIは、人が不安や孤独、喪失、罪責感に襲われる場面を学習し、それぞれにふさわしい教義、儀式、祈祷、音楽、励ましの言葉を提示することができるだろう。そうなれば、既存の教会制度は相対化され、宗教経験そのものが仮想現実やメタバース(仮想空間)の中で再構成されていくかもしれない。
問題は、そのようなものが信仰そのものなのか、それとも信仰の機能的代用品にすぎないのかという点である。キリスト教の礼拝において、いわゆる聖職者と呼ばれる人びとの一部は、将来、不要になるかもしれない。少なくとも、教義や聖書解釈を説明するだけの説教者は、もはや決定的には必要とされなくなるだろう。
聖書の原典を、どの学者よりも広くかつ細かく参照し、それを学識のない一般信徒にもわかりやすく解説することは、AIにとってそれほど難しいことではない。しかも、その速さにおいてAIは人間をはるかに上回る。
しかし、AIにできないことがある。AIは、生きることも死ぬこともできない。身体をもたない故、痛むこともできない。また、祈る主体としての私をもたない。AIは祈りについて語ることはできても、祈ることそのことはできない。そこに、AIと人間との決定的な違いがある。
産業革命以降、人間は直線的に歩み、人間とは何かを見直さなくてよかった。ここで初めて、自ら作り出したものに人間が乗っ取られようとしている。だから今は、人間にとっての最終章かもしれない。人間とは何かを改めて見直し、新たな人間像を打ち出さないと、人間の未来は危ういかもしれない。AIによって作られる自律型の超AIはそれを物語っている。
キリスト教が問われるのは、教義の正しさ以上に、人類の危機に対して何を語り、何を支えうるかという点である。
*参照文献:「AI新世紀」毎日新聞朝刊(2026年8月31日、1~2面)AI研究の巨匠、ヨシュア・ベンジオ教授が、AIの暴走で「人類絶滅」の危機と警告されている。
追記:地球温暖化も避けて通ることは出来ない。AIと同じく地球温暖化も我々の未来を危うくすることは間違いない。この二つの事柄(AIと温暖化)を放置することは許されない。
(東京教区信徒 纐纈康兵)
・「愛ある船旅への幻想曲」(66)「隠蔽と男性中心の組織、一般信徒の悩み・苦しみに寄り添えない教会を変えるには」
今年ほど「神の語りかけ」を感じた夏はない。 戦争や自然災害の怖さから命の大切さを見つめ直し、 全ての人々の心の平安を得るために祈る。 一人の私という人間の答えも、神はご存知だろう。
先日、同級生の男友達と久しぶりに会い、 高校時代にカトリック教会で4人の米国人司祭方から英語を習った ことを互いに懐かしく話した。1人の司祭は米国の超難関・ 理系大学出身で、友達は数学も教えて頂いたようだ。
人生の過渡期に素晴らしい司祭方に私達は出会った。だが、 そのうちの2人の司祭は私達が高校卒業前に結婚した。 この地で愛する人を見つけたようだ。当時、 未信者の英語を習う高校生や高専生は、 司祭が結婚できないことを知らなかった。突然、 英語クラスが閉講された理由を当時は知るすべもなかった私だが、 今ははっきり分かる。。
あれから半世紀以上たった今も司祭の独身制は変わらない。 「カトリックの司祭は結婚できないんだろう?」と友達。 この質問になると、誰もが小声になる。。
最近では、 異なる宗教間の対話は以前よりも活発に行われているかも知れない が、肝心のカトリック信者同士の対話はできているだろうか。
カトリック教会には、 独身制を守る司祭と妻を持つ終身助祭がおり、 独身男女の修道者が別々に組織を形成している。 この組織形態から世間は何を感じるだろうか。 学校の社会の教科書にあるカトリック教会は、 中世ヨーロッパでの権威、 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ ザビエルとイエズス会そして豊臣秀吉に始まる禁教、 ルターの宗教改革等が記載されているが、 司祭の独身制については書かれていない。
近年、司祭の性的虐待事件が世間を騒がせていることから、「