【2025年3月の巻頭言】世界的な危機に直面して、教会は内外の「不都合な真実」から目を背けていないか

*歴史の危険な転換点、世界の、日本の教会の存在が見えにくくなっている… 

 

 ロシアによるウクライナ軍事侵略が4年目に入り、”和平“早期実現一直線のトランプ米大統領は、ウクライナ侵略の張本人、プーチン露大統領との親密さをアピールし、彼の責任を問うこともなく、ウクライナのゼレンスキー大統領抜きの二者合意を図ろうとしている。

 ロシアによる軍事侵攻について、国際司法裁判所は2022年3月、「国際法に照らして重大な問題を提起している」として直ちに軍事行動をやめるようロシア政府に暫定的な命令を出し、ハーグの国際刑事裁判所も2023年3月に、戦争犯罪でプーチン大領領に逮捕状を出している。だが、ロシアは全く無視したまま。ロシアに対する欧米などの経済制裁も、中国などがロシア原油などを買い込むなど、十分な効果を挙げずにいる。

 2月24日の国連総会でロシア軍の撤退を求める決議が採択されたが、米国はロシアを批判する文言に反対し支持せず、安全保障理事会では、米国提出の対露非難を含まない「紛争終結」を求める決議が採択されている。国際社会における正義も人道主義も全く踏みにじられている、と言っていい。

 司法、立法、行政の三権を事実上掌握し”独裁者”のように振る舞うトランプ、任期無しの独裁が“保証されたプーチン、そしてそのロシアと軍事同盟を結びウクライナ侵略に兵隊を送り込む北朝鮮の金正恩総書記、対露政策に加わらず漁夫の利を得ようとする中国の習近平主席の3者… 核兵器を背景に強権を振るう”指導者“たちに、世界の命運が握られようとしている。

 だが、世界が歴史の危険な転換点に直面しようとしている今、民主主義、人道主義の根幹をなすキリスト教を奉じるカトリック教会やプロテスタント教会の存在が見えにくくなっている。

 

 

*口だけでなく行動の人、教皇フランシスコになぜ倣おうとしないのか

 

 そうした中で、教皇フランシスコは、ロシアの軍事侵略開始直後に、ご自身でロシア大使館に足を運ばれて即時停止を働きかけ、その後も、特使をロシア、ウクライナ両国に派遣して、捕虜の交換や、ロシアが拉致したウクライナの子供たちの救出、それを契機にした和平への対話実現へ具体的な努力を重ねてこられた。

 主日の正午の祈りなど機会あるごとに、関係国指導者などに即時停戦、和平への対話開始を繰り返し訴えてこられたが、今、長期治療を余儀なくされる身だ。23日、年間第7主日の正午の祈りの説教原稿で、24日のウクライナ侵攻開始3周年を取り上げ、「全人類にとって痛ましく恥ずべき出来事」と指弾されたが、その言葉には、思うように力を尽くすことのできない無念さが、にじみ出ている。

 だが教皇以外、バチカンの外交部門担当者やウクライナ関係者を除いて、他の世界のカトリック教会の指導者たちは、このような単にウクライナに留まらない世界的な危険な転換点にあって、具体的にどのように現状を理解し、識別し、行動しようとしているのか。多くは、従来通り、「平和」「対話」を口にするだけで、事実上、傍観しているだけではなかろうか。

 日本の教会も“ご多分に漏れず”だ。日本の教会には、自国の政府などへの批判には勇ましくても、「海外の問題には関わらない、という、”不文律“がある」と、ある高位聖職者から聞いたことがある。不都合な真実から逃げている、と言われても仕方ないだろう。

 

 

*19日の「神言会裁判」の前、21日は「性被害者のための祈りと償いの日」-日本の教会は、司教団は何を「償う」のか?

 

 不都合な真実から逃げている、と言えば、国内の問題でもそうだ。その最たるものが聖職者による信者たちへの性的虐待への対応だ。

 3月の日本の教会の「祈りの意向」は、「性虐待被害者のために…性虐待被害者の受けた心と体の傷が癒され、神との交わりの中で生きる希望を見出すことができますように」であり、3月21日は日本のカトリック司教団が定めた「性被害者のための祈りと償いの日」だ。だが、カトリック中央協議会のホームページで、この日についての項目を検索しても、司教協議会会長の菊地枢機卿(東京大司教)が早々と2月1日付けで出したメッセージしか出て来ない。

 ホームページの「お知らせ」に書かれた3月の行事は、「日本カトリック部落差別人権委員会・ハンセン病問題学習会(15日)」と「長崎教区・日本の信徒発見の聖母記念ミサ・ライブ配信(17日)」だけだ。日本の教会、各教区の具体的な取り組みの紹介も皆無。会長メッセージだけで済まそうとしているように見える。

 そのメッセージは、「世界において、また日本にあっても、神からの賜物である命に対する暴力を働き、なかでも性虐待という神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにする行為を、聖職者や共同体の指導者が働いたという事例が、近年相次いで報告されています」と、日本でもそのようなことがあることを公式に認め、「被害を受けられた多くの方々に、心から謝罪します」と述べてはいる。

 だが、具体的に謝罪の相手は誰なのか、どこで誰が、どのような被害をもたらしたのか、など、具体的事例も、「被害を受けられた方」がどのような苦しみを受け、教会としてケアをしているのかいないのかの説明もない。「被害者の人権に配慮して具体的な言及はできません」と言うなら、有名人の性的加害を隠ぺいしたフジテレビ首脳たちの当初の釈明と同じではないか。人権に配慮した表現の工夫などいくらでもできる。それとも、工夫できる”言語能力”が不足しているのだろうか。加害司祭あるいは教区、修道会を守ることを優先させ、被害者側に立った対応を怠ってきたのが、これまでの日本の教会、そして外国の多くの教会ではなかったか。

 21日は日本の教会の「祈りと償いの日」というが、メッセージには、具体的に被害者に対してどのような「償い」をするのか、肝心の説明がない。償いを本当にするつもりなら、「口」だけでなく、加害者とそれが属する教区、修道会が被害者に誠意をもって対応し、謝罪し、傷ついた心身のケアを助け、教会に温かく迎え入れる体制を整え、実行する、という行動が伴わねばならない。

 しかし、被害者の信徒が司祭あるいは教区を訴えた性的虐待裁判が終結した長崎教区、仙台教区の場合、筆者の知る限りでは、最後まで加害者も教区も被害者に謝罪せず、物心両面で精魂尽きた被害者が“和解”に応じたことで、賠償金ではなく、和解金を払っただけだ。あまつさえ、仙台教区では、被害者に対し「お金のために訴えたのだろう」という教会内部の心無い声が被害者の耳に入り、精神的な苦痛を倍加させ、聖堂に足を踏み入れることもできないでいる、と聞いている。

 

 

*「償い」とは、謝罪し、心身のケアを責任を持って助け、改めて教会に受け入れることだ

 

 「祈りと償いの日」の二日前、3月19日には東京地裁で、性的虐待被害女性による犯行当時司祭だった男が所属していた神言会に対する損害賠償請求裁判の第8回が行われる。初回から2年目に入ったこの裁判で、被告側は3人も弁護士を雇い、原告被害者の訴えを認めようとしていない。

 このような事件では、当然ながら、加害を立証するための「第三者の目撃証言」や「現場に残された物証」などを欠くことが少なくない。被告側はそれをいいことに、被害者の悲痛な訴えに耳を背け、あくまで知らぬ存ぜぬを決め込み、自費で弁護費用を工面する被害者側が裁判を続けられなくなるのを待ち、”最悪”でも「和解」で済ます、ということが、過去のケースでもあった。一年を超えて続く今回の裁判でも、そうした意図が被告側にはあるのではないか、と多くの関係者は感じている。

 1月29日の第7回裁判後に開かれた説明会・支援集会では、参加した30人を超える信徒や聖職者から、訴状で「告解で聴いたことを利用して被害者をマインド・コントロール下に置き、4年にわたって繰り返し性的暴行を繰り返した」とされる神言会のバルガス神父(当時)の行為について、「人間の尊厳を踏みにじる行為、それを司祭がするというのは赦されることではない」など批判の声が次々と出され、自らも若い時に、他の司祭から性的被害に遭ったことを打ち明けた方も2人いた。

 神言会に対しても「何故このような元司祭を切り捨てず、守ろうとするのか、バルガス以外にも同様な行為をしている会員がいるのでは、と疑いたくなる」「原告の弁護士は1人なのに、高い弁護費用を払って3人も弁護士を雇い、原告被害者と裁判で戦うよりも、加害者とされる元司祭に回心を促す必要があるのではないか」など、対応に疑問が呈された。

 「“あの時のこと”が繰り返し思い出され、一人でいると生きた心地がしなかった。だが、皆さんに励まされ、このような思いを口に出してもいいんだと思えるようになった。この一年間、苦しい裁判の私を支えてくれた神に、皆さんに感謝します。これが信仰を持つことだ、と教えられました」と感謝の言葉を忘れない原告・被害者の田中時枝さん。彼女を救う道は、神言会と加害者が訴えの内容を認め、口ではなく、行動で「償い」を果たすことではないか。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

2025年2月28日

改【2025年2月の巻頭言】性的虐待者が所属した神言会に損害賠償を求める裁判一年、司教団トップの「祈りと償いの日」に向けた呼びかけとの落差は

【2025年2月の巻頭言】

 性的虐待者が所属した神言会に損害賠償を求める裁判一年、司教団トップの「祈りと償いの日」に向けた呼びかけとの落差は

 

 神言会に損害賠償を求める東京地裁での裁判が始まって一年。1月29日の第7回公判には40人を超す傍聴者。公判後の説明会・支援者集会では、自身のつらい体験や励ましの言葉が全員から出された。

 「カトリック・あい」の1月月間の閲覧状況を見ると、29日の公判を予告した「原告被害者の悲痛な訴え」が163件、公判の内容を報じた「加害者とされる人物の”匿名”申し立て却下」は掲載開始からわずか一日半で76件と、週間の個別記事別件数でこれまでトップを独走していた「聖年の全免償などを認める規範」を上回り、1位と2位を占めた。

 また日本司教団の性虐待に関する監査報告についての論評も月間で個別閲覧件数4位の124件に上り、「カトリック・あい」の閲覧者である日本内外の方々から、聖職者の性的虐待問題に大きな関心がもたれていることを示している。

 

 

*聖職者による人の尊厳を踏みにじる行為が日本でもされていることを認め、被害者に謝罪したが…

 

 間もなく”恒例”の日本のカトリック司教団が制定した「性被害者のための祈りと償いの日」を迎える。四旬節第2金曜日だから、今年は3月21日だ。司教団のトップである日本カトリック協議会会長の菊地東京大司教(枢機卿)が”恒例”の呼びかけを、昨年よりも半月早く、1月31日に発表した。その内容には、昨年の呼びかけに比べて、前進は見られる。

 呼びかけの内容を昨年と比べると、「世界において、また日本にあっても、神からの賜物であるいのちに対する暴力を働き、なかでも性虐待という神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにする行為を、聖職者や共同体の指導者が働いたという事例が、近年相次いで報告されています」とし、初めて、日本でもそのようなことがあることを公式に認めたこと、昨年の呼びかけでは、誰に対して「謝罪」するのが明確でなかったのを、「被害を受けられた多くの方々に、心から謝罪します」と、相手を特定しての「謝罪」も評価できるだろう。

 

 

*具体的事例も、誰が相手なのかも、具体的な対応も説明がない

 

 だが、どこで何が起きたのかなど、具体的事例も、「被害を受けられた方」がどのような苦しみを受けたのかもはっきりしない。謝罪の具体的な相手も見えない。しかも「謝罪」をするだけで、具体的に被害者に対してどのような「償い」をするのか、傷ついた心身のケア、教会に改めて温かく迎え入れる体制をどうするのか、など肝心なことが欠落している。

「被害者の人権」を守る必要があるのは当然だが、それを理由にすべて曖昧にするのでは、「加害者ファースト」とも受け取られ、大きな社会問題になっているフジテレビの対応と同じではないのか。

 

 呼びかけでは、昨年10月に閉幕した2年にわたる世界代表司教会議(シノドス)通常総会の最終文書を引用する形で、「被害者は、最新のうちに歓迎され、支援されなければならない」としているが、日本の現状は、全くされていないに等しい。さらに、「最終文書では、透明性、説明責任、評価の重要性が説かれている」としている。

 

 

*「教会全体の声を聴き、対応のあり方や組織改編を検討」というが、これまで何をしてきたのか

 

 そのうえで、現在、「司教協議会と男女の修道会協議会とで、既存の枠を越えた協働関係の枠組み構築を急いでいる」「被害を受けられた方々と歩みをともにするためには、教会内外のいわゆる外部専門家の協力と協働がなければ、ふさわしく対応することはできない… 教会全体の声に耳を傾け、よりふさわしく十分な対応のあり方やそのための組織の改編、さらには聖職者や共同体の指導者の啓発などを検討してまいります」というが、現状はどうか。

 カトリック教会の聖職者による性的虐待は、米国で有力紙Boston Globeが2002年にその隠蔽を暴く報道をしたのをきっかけに、欧米を中心に世界の教会を揺るがす深刻な問題となった。2013年に教皇に就任されたフランシスコは、この問題に積極的に取り組まれ、2016年に全世界の教会に「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定め、日本の司教団も2017年から四旬節第二金曜日として、「祈りと償い」を始めた。だが、それから4年以上経過した今も、対応に実のある進展はない。

 

 

*2023年度監査報告は「性虐待の申し出は2教区、3件」というが、内容不明、どう対応したのかも不明

 

 昨年12月27日に司教団が発表した「2023年度日本の教区における性虐待に関する監査報告」によれば、「2022年4月から2023年3月の間に性虐待の申し立てがあったのは2教区、3件」とわずかな”数字”を上げるのみで、どの教区で、どのような内容の申し立てがあり、具体的に教区としてどのように対応しているのかなど、全く明らかにされていない。日本の全16教区のうち、性虐待防止に関する行事・研修会を実施したのは、わずか6教区、司祭・修道者の研究を実施したのも7教区のみ。「性虐待の申し立てのあった教区には…(未成年者・弱者保護の)ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」とあいまいな表現で、他人事のような”対応”を述べただけで、教区の申し立ての内容がどのようなものなのか、その教区はどのような対応をし、しているのかなど、大事な点が判然としない。

 

 

*今年の「性虐待防止に関する研修会」申し出は、全16教区中、名古屋、京都の2教区のみ

 

 この問題を扱うはずの司教協議会の「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の事務局会議について、協議会のホームページで明らかになっている最新のものは、昨年12月5日に開かれたものだが、それによれば、「研修会」の依頼は3月の名古屋教区司祭研修会、7月の京都教区司牧者研修会(オンライン)の二件のみ。あとは、2025年「祈りと償いの日」リーフレットの印刷、教区への納付、それに、「ガイドライン対応マニュアルの継続審議」となっている。

 

 菊地会長の1月31日の呼びかけでは、おそらくこのような状態も念頭に、「現状の教会の組織形態や日本の法律上の組織形態では、それぞれの司教区や修道会は独立しており、一致協力して透明性、説明責任、評価に取り組むことができておらず、この点は多くの被害者の方々、支援者の方々から厳しく指摘されています」と”率直”に述べているのは良しとしても、「祈りと償いの日」制定からみても、すでに8年が経過している。司教団は一体何をやってきたのか。「研修会」の低調な依頼状況を見ても、会長の「呼びかけ」とは、あまりにも乖離している、と言わざるを得ない。

 

 

*司教団の緊張感のなさはどこから来るのか…

 

 この司教団の緊張感の無さはどこに起因しているのか。「黙っていればすぐ終わる、忘れてしまう」と思っているのだろうか。「裁判に訴えても、性的虐待という事案の性質上、第三者の目撃証言が得られることはまずないし、”証拠物件”も時間の経過もあり残っていない、自身で裁判費用を負担するには重すぎで、訴訟を長引かせることもない」と見ているのだろうか。

 何千件、何万件と被害訴えが噴出している欧米や、南米の現状に比べれば、「2件や3件は大したことはない」ということなのだろうか。実際はそうではない、いまだに”神父様”を崇め奉る風土が残る日本では、酷いことをされた、と言う思いを持ち続けながら、多額の裁判費用を払って、教会や修道会を相手にする勇気を持てない被害者が少なくないのだ。「カトリック・あい」にもそのような情報がいくつも寄せられている。

 

 

*被害者が、莫大な物心両面の犠牲を払って裁判をしても、長崎、仙台教区は”和解金”を払うだけで、まともな謝罪もケアもなし

 

 そうした中で勇気を奮って教区に訴えても、取り上げてもらえず、やむなく莫大な物心の犠牲を払って裁判に持ち込んでも、長崎教区や仙台教区のように、弁護士を教区側が雇って、否定にかかり、”二次被害”を原告・被害者に与えるケースも見られる。

 そうした犠牲に耐えられず、裁判所から和解の働きかけを受け、応じたものの、教区側は”和解金”(損害賠償金ではない)を支払っただけで、被害者が何よりも求めていた、性的虐待の事実の認定、謝罪、そして心身のケア、教会への迎え入れの環境造りなどは皆無。さらに、仙台教区の場合は、心無い信徒から「あの人はお金のために裁判をした」などという噂をたてられるという”三次被害”に遭い、いまだに、怖くて、聖堂の中に入れないでいる。

 

 

*東京地裁での神言会に対する損害補償請求裁判、被告側は3人も弁護士を雇い、すでに1年、原告支援者たちから批判の声

 

 1月29日の東京地裁での神言会損害賠償裁判第7回公判の後開かれた、原告と代理人弁護士による説明会・支援集会では、参加した30人を超える信徒や聖職者から、訴状で「告解で聴いたことを利用して被害者をマインド・コントロール下に置き、4年にわたって繰り返し性的暴行を繰り返した」とされている神言会のバルガス神父(当時)について、「人間の尊厳を踏みにじる行為、しかもそれを司祭がするというのは赦されることではない」「加害者とされる司祭(当時)には良心があるのか。彼のとった行動が理解できない」と批判の声が次々と出され、自らも若い時に、他の司祭から性的被害に遭ったことを打ち明けた方が2人いた。

 また、神言会に対しても「神言会は、なぜこのような元司祭を切り捨てずに守ろうとするのか、バルガス以外にも同様な行為をしている会員がいるのではないか、と疑いたくなる」「原告の弁護士は1人なのに、高い弁護費用を払って3人も弁護士を雇い、原告被害者と裁判で戦うよりも、加害者とされる元司祭に回心を促す必要があるのではないか」など、その対応に疑問が呈された。

 原告・被害者の田中時枝さんは、「あの時のことが繰り返し思い出され、一人でいると生きた心地がしなかった。夜も寝られない日があった。体をもぎ取られそうな気持。だが、皆さんに励まされ、このような思いを口に出してもいいんだと思えるようになった。この一年間、苦しい裁判の私を支えてくれた神に、皆さんに感謝。これが信仰を持つことだ、と教えられた」と感謝の言葉を忘れなかったが、彼女を救う道は、神言会と加害者が訴えの内容を認め、謝罪し、心身のケアに努めることを約束することではないか。

 

 

*「心から謝罪」するなら、原告の苦しみを受け止め、具体的な行動で率先垂範する必要が

 

 「呼びかけ」をしている司教協議会の菊地会長(東京大司教・枢機卿)は、まさにその神言会の会員であり、日本管区長も経験されている。神言会のホームページによれば、現在の日本管区長は、菊地大司教の秘書役を数年前に勤めていたディンド師だ。

 菊地会長は「呼びかけ」で、「信頼していた聖職者から暴力を受け、心に深く消えることのない傷を負われた方々に対して、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で加害者を擁護するなど、二次加害によってさらに被害を受けられた方々を傷つけた事例も、教会内にあります。これらの言動が、人間の尊厳をさらに深く傷つけています。責任は優位な立場を利用した加害者にあるのは当然です」としている。

 本当に「心から謝罪」するのであれば、この目前にある東京地裁での裁判をこれ以上長引かせ、反対弁論で原告・被害者の「尊厳」をさらに傷付け、苦痛を与え続けることがないように、自らが関わりのある修道会と”行為”をした当時の会員、加害者の責任を認め、謝罪させ、被害者を責任を持って心身のケアをするように、率先垂範して指導する必要があるのではなかろうか。それがないままで、せっかくの”心からの呼びかけ”が、説得力を持つだろうか。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

 

 

 

2025年1月30日

【2025年新年1月の巻頭言】「カトリック・あい」10月で創刊10年、「カトリック新聞」3月で廃刊を機に考えるべきことは

 新年おめでとうございます。「希望の巡礼」の聖年に当たって、皆さまが、そして世界が、平和への希望を持つことのできる一年となることをお祈りいたします。

 日本で唯一のカトリック系独立インターネット新聞である私たちの「カトリック・あい」は、今年2025年11月で10年目に入ります。これと前後して、日本のカトリック教会で唯一の月刊紙、創刊100年の伝統を持つ「カトリック新聞」が今年3月30日付けをもって事実上の廃刊を余儀なくされることとなります。同紙は公称発行部数9000部といわれていますが、「カトリック・あい」の月間閲覧件数は創刊時の数千件から現在では2万件前後、2024 年の年間累計閲覧件数は23万件に増えています。

 むろん、発行部数と閲覧件数を単純に比較することはできませんが、この二つの出来事が、広く日本の教会の発信力の現状とあり方のついて考える、きっかけの一つになるのは間違いないと思います。

 

 

*高位聖職者のオピニオン紙の発行の打診に「”紙”の新聞は無理、インターネットなら」と

 「カトリック・あい」創刊は、2015年秋、すでに「カトリック新聞」に限界を感じておられた故森一弘司教から、新しいオピニオン紙の発行について打診を受けたことに遡ります。

 筆者は、日本、というよりも自由世界の日刊紙として最大の部数を持つ新聞社に40年以上も籍を置き、地方記者から、本社の経済記者、デスク、論説委員、東南アジア地域の新聞発行統括を務めた経験から、日本のカトリック教会が全国の信者はもちろん、教会外の人々とも共に歩む、外に開かれた教会に脱皮していくためには、それに役立つ内外の情報、評論などを提供する新たな媒体が必要、とかねてから考えていました。

 しかし、人々の新聞離れ、”紙”離れが加速度を増している今、取材、執筆、編集、印刷、発行に多くの人員をそろえ、印刷、配布にも多額の資金が必要な”紙媒体”を創刊するのは無理。インターネットを媒体とするものなら、引き受けてもいいのではないかと考え、そのようにお答えしたところ、「資金援助は無理だが、他のことは協力するので、準備を進めてほしい」との答え。パチカンや教区のひも付きとせず、森司教の意図をくみつつ、協力を得ながら独立・自由な発信をするのであれば… ということで準備に着手しました。

 そして、カトリック信徒やその理解者の知人たちから、インターネットの専門家、大手業界団体の広報経験者、カトリック系の出版責任者の参加を得、四人で運営資金を出し合って、2016年10月から本格発行を始めることになったのです。

*「カトリック・あい」の経験もとに、5年前、”紙”離れに対応した「カトリック新聞」の抜本改革を提言したが…

 

 無償で協力してくださるコラム執筆者も増えて、発行が軌道に乗った2019年秋、「カトリック・あい」での経験も踏まえ、当時の「カトリック新聞」編集長の司祭と面談し、このまま魅力の薄い内容の紙の媒体だけの新聞を続けていても、早晩、限界を迎えてしまう、と申し上げたうえで、抜本的な改革案-インターネット・ニュースとタプロイド版週刊誌紙のハイブリッド化、スタッフの人員、能力の強化など―を具体的に提言しました。しかし、改革を試みたその司祭は、新聞内部関係者の抵抗に遭って頓挫し、ご本人もポストを去ってしまった。

 翌年、司教団の事実上のトップについていた方に、改めて「カトリック新聞」の抜本改革について同様の提言をしたのですが、新聞内部の同意が得られそうにないことを理由に棚上げ。さらに2年後の2022年秋に改めて、「カトリック新聞を含めた広報体制の刷新・強化、発信力の強化、そのために、発信すべきメッセージとなる情報を的確に受け止め、文章にし、的確、効果的に発信する能力を持ち、思想的にも偏りのない公正な人材のスカウト、育成の体制が必要」と申し上げたところ、「広報の問題はS司教が担当することになり、カトリック新聞、出版、広報についての見直しを始めているので、任せている。改革となると司教協議会の総会にかけねばならないし…」との返事。

*司教団が、事実上の2025年3月で廃刊を決めたが… 改革の方向は?

 

 それから1年半後の2024年2月、司教団が司教総会で「カトリック新聞」の「休刊」という名目で廃刊を決定。2025年3月30日付をもって発行を停止し、同年4月以降は、Webで情報提供をし、紙媒体は月1回程度、無料で小教区や修道会に配布する、ということになったのです。信者の間には、「上位下達のお触ればかり。聖職者の訃報以外役立つ情報がない」「典礼や教会暦に関する手垢のついた解説が多く、読む気がしなかった」など”廃刊やむなし”の声もありましたが、「慣れ親しんだ情報ツールをつぶさないで」「投書欄は、信徒が発信できる数少ない場、読者が信仰を問い直す貴重な場」など存続を求める声もあり、存続を求める署名運動も起きました(カトリック社会問題研究所「福音と社会」333号など)が、廃刊の方針が変わることはありませんでした。

 事実上廃刊に至った事情について、司教協議会会長の菊地東京大司教は、2024年3月3日付けのカトリック新聞紙上で、「近年、定期購読者数が減少し、経営的には厳しい状況が続いており…現在の新聞事業の経営状況と、インターネットの普及のスピードを考え合わせたとき、日本のカトリック教会の情報発信をどのようにするべきか、数年前からそのあるべき姿について検討を重ねて参りました。 その結果、数年後を見据えて、現在、カトリック新聞、広報、出版と独立しているカトリック中央協議会における情報発信の部門を統合し、新たな形での情報発信の姿を確立するために、具体的な作業に入ることを決定致しました」と説明。「2025年4月以降は、インターネットでの発信へと転換することにするが、いわゆる『新聞』という紙媒体での発行も毎月1度の形で、無料広報誌とし、各小教区や修道院、教会関係施設に配布するなどの方法をとる、編集方針は今後の検討課題だが、詳細で速報的なニュースはインターネットで、教会全体の流れは紙媒体でという棲み分けになろうかと思う」としている。

 筆者が2019年秋に当時の編集長だった司祭に、抜本見直しを提言したほぼ同じ内容が、5年も経って”実現“することになった、というわけです。教会の内外の情勢は急速な変化を続けています。そうした中で、この対応の遅さはどうしたことでしょうか。しかも、肝心の内容に直接関わる取材、執筆、編集を担う能力のある人材を確保できているのか、不明です。

 

*一般信徒に分かりやすく内容豊富な月刊誌も相次いで廃刊

 

 日本のカトリック教会の福音宣教の重要な柱であり、教皇フランシスコが強く促されている”シノドス(共働性)の道”を聖霊の導きに従って共に歩むのに不可欠な情報共有の要の一つとなるはずの定期刊行物が相次いで廃刊に追い込まれる例は、「カトリック新聞」にとどまりません。読みやすく、幅広い内容、執筆者も多様で、信者以外の読者も少なくなかった月刊誌が相次いで廃刊しています。

 聖パウロ女子修道会(東京都港区)が発行していた「あけぼの」は創刊60年目を迎えた2015年に4月号を持って終了。ドン・ボスコ社の経営母体であるサレジオ会日本管区が1928年に創刊した「カトリック生活」も2024年3月号をもって廃刊となりました。編集長の関谷義樹氏(サレジオ修道会司祭)は、「メディアを取り巻く環境が激変する今日、紙媒体の雑誌を発行し続けることが困難であると、修道会として判断せざるを得なかった」と語っています。

 

*翻訳力の低下も目立つ

 このように、”紙媒体”の柱となってきた新聞や月刊誌が相次いで存続不能となり、劣化する一方の教会の発信力、情報共有能力を他の媒体によって補完することがほとんどできずにいるのが、今の日本の教会の実状です。発信力の劣化に関してさらに申し上げれば、翻訳力の低下も深刻です。

 昨年12月で88歳になられた教皇フランシスコが世界中の聖職者、一般信徒に対して、今も様々な形での語りかけを、メッセージの発出を、不自由な体をおして、連日のように続けておられます。その内容は実に豊かで、私たちが今、そしてこれからの福音宣教を具体的な進めるために、示唆的な内容がちりばめられています。にもかかわらず、バチカン文書も含めて、司教団が、そのイタリア語の原文を日本語に翻訳することは、ほぼ皆無。英訳の翻訳さえも長文であれば何か月もかかり、メッセージの共有がなかなか進まない事態になっています。

 最近の具体例を挙げれば、教皇が2021年10月に始められ、2023年10月、2024年10月の二度にわたる世界代表司教会議総会に至る”シノドスの道”の成果となる最終文書は2024年10月26日の総会最終日に採択され、イタリア語の全文が発表され、さらに2週間後に英語訳がシノドス事務局から出されていますが、2024年12月末現在、日本語の”公式”訳が出たとは聞きません。

 教皇は、シノドス総会での最終文書採択後の最終講話で、これを受けた使徒的勧告は出さない、と語られたうえで、「この文書にはすでに、特定の大陸と状況における教会の使命の指針となり得る非常に具体的な指示が含まれている。文書で示された共通の経験が、神の民に奉仕する具体的な行動を促すことを確信しています」と、世界の司教たちに、この文書を踏まえた具体的な使命遂行を促されました。最終文書はそれだけ、世界の教会の今後にとって重要なのです。その内容の共有の遅れは、現在の激動を続ける世界における福音宣教にとっても、大げさだと思われるかもしれませんが、致命的になりかねません。

 

*「カトリック・あい」は、シノドス最終文書や最新の回勅の全文試訳をいち早く日本の教会、信者の皆さんに全文試訳を提供

 

 そのような認識から、「カトリック・あい」では、その概要をVatican Newsをもとに即日報道し、全文についても、協力者の力をいただいて、まずイタリア語原文から翻訳を始め、英語訳が出たのと前後して、11月中旬には全文の試訳を終え、掲載しています。

 また教皇は、この最終文書発表の2日前の10月24日に、教皇就任後4回目の回勅 『Dilexit nos(私たちを愛してくださった)』を発表され、「イエス・キリストの心にある人間的で神的な愛 」に関する思想の伝統と関連性を辿り、信仰の優しさ、奉仕の喜び、宣教の熱意を忘れないために、真の献身を新たにするように、と呼びかけられました。5章220項から成るこの回勅は、イエス・キリストの御心の人間的で神聖な愛に捧げられています― 「イエス・キリストの開かれた心は、私たちよりも先に進み、無条件に私たちを待ち望んでおられます。イエスはまず私たちを愛された』(ヨハネの手紙1・4章10節参照)。イエスのおかげで、『私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じる』(同4章16節)ようになったのです」と教皇は述べておられます。

 「カトリック・あい」では、この回勅も、概要を速報したうえで、阿部仲麻呂師の協力により,同師の試訳全文を10月31日から掲載しています。

 これら、カトリック教会の現在から将来を左右する、最近出された二つの重要文書が、2か月たった今も、いまだに司教団による翻訳が出ていない(2025年1月1日現在)のです。イタリア語でまず公式発表されることの多いバチカン文書に、イタリア語翻訳能力が実質皆無。英語翻訳能力も数年前に優秀な人材が司教協議会事務局から転出して以降、急激に落ちている、との見方が、複数の関係者から示されています。

 教会文書の翻訳は、正確性、厳密性が求められる、そのための人材がいないので遅くならざるを得ない、というような話も聞きますが、そうでしょうか。日本全国の司祭、修道士、一般信徒には、神学や聖書学の知識を持ち、しっかりとした翻訳能力をもつ人が少なくありません。現に「カトリック・あい」には翻訳を協力してくれる優秀な人材が複数います。

*”シノドスの道”を共に歩むために欠かせない教会の発信力、情報共有力、信徒の人材活用が必要

 

 翻訳力にとどまりません。まず何が情報として重要か否か、というニュース価値の識別力、取材力、執筆力など、教会の発信力を回復するために必要な能力を持つ人材を発掘し、協力を呼びかけ、育てる努力を、日本の司教団は、司教たちは、担当者たちはしているでしょうか。今の日本の教会の現状を憂い、自分の経験や能力を生かすことがあれば喜んで協力したい、と思っている人がいるに違いないのです。

 今から半世紀近く前、東京教区では当時の補佐司教が大司教と相談して、教区の一般信徒を対象に様々な分野で経験と能力を持つ人材の情報を収集、コンピューターを使って分類、データ化し、必要な時にそれを活用して、協力を求める、というシステムを作り始めたことがありました。しかし、当時はまだコンピューターの能力も低く、コストばかりが高くなり、関係者の理解も進まないまま、中途で挫折してしまったことを覚えています。当然ながら、今ならそうした性能も格段に上がり、ソフトも長足の進歩を遂げていますから、人材活用の大きな力になると思います。一番の問題はそうしたシステムを動かすトップの意志と能力です。

 新年を迎えるにあたって、教会にとって貴重な定期刊行物の相次ぐ廃刊、しかも全国の教会をつなぐ情報共有の要となるべき新聞の廃刊という事態に直面して、共にシノドスの道を聖霊の導きに従って歩むために不可欠な情報共有手段が劣化している問題を深刻に受け止め、自身の問題として、それを克服しようとする意志、気力をもっていただくことを、日本全国の聖職者、信徒の皆さん、として何よりも司教協議会会長をトップとする司教の皆さんに、強く期待します。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年12月31日

【12月の巻頭言】改・枢機卿となった菊地・東京大司教が「決断」と「行動」を求められる課題

 

 教皇フランシスコが新たに選任された21人の枢機卿の叙任式が12月7日にバチカンの聖ペトロ大聖堂で行われる。国際カリタス総裁、アジアカトリック司教協議会連盟事務局長、日本カトリック司教協議会会長、そして、カトリック東京大司教区長。これだけ多くの役職を務める菊地大司教を、教皇が新任の21人の枢機卿の一人にお選びになったのは、「これまでの実績」を評価したため、と言うよりも、「これからの実績」を期待してのこと、と思われる。

 菊地大司教は、2017年10月、ペトロ岡田大司教の引退に伴い、教皇フランシスコより、新潟司教から、9代目の東京大司教に任命され12月に着座。2022年2月14日、日本カトリック司教協議会会長、2025年2月再任予定。2023年5月13日、第22回国際カリタス総会で、ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿の後任として国際カリタス総裁に選出された。だが、失礼ながら、どのポストも実績と言えるようなものはまだ、見えてこない。

 

 

*東京大司教就任から8年目に入ろうとする中で・・・

 

 東京大司教に就任して8年目に入ろうとしているが、”実績”と言えるのは、既に存在するカリタス・ジャパンに加えて東京カリタスを作ったこと、カテキスタ制度を作り養成を始めたことの二つだが、小教区信徒の目からは、前者は具体的な活動が見えない、後者は、教区司祭、信徒の幅広いコンセンサスが不十分なまま始めたものの、2025年度に向けて養成希望者が足らず、カテキスタの新規養成は”終了“となった。

 小教区レベルからの要請を受けて宣教司牧方針で約束した”共に歩む“教会のための小教区運営規約のモデル提示、岡田体制で司祭減少・高齢化に対処する小教区再編成を狙いとしたものの3年で事実上破綻した宣教協力体制度の見直しは、6年経過した今も、原案の提示さえ、されていない。

 

 

*国際カリタス総裁、アジア司教協議会連盟事務局長の課題

 

 国際カリタスは2022年、突然、理由も明らかにされないまま、教皇が総裁以下の幹部を更迭、一年の空白を経て、菊地新総裁の就任となったが、関係方面に大きな動揺を与え、カリタスに対する信頼を揺るがせたにもかかわらず、いまだに総括も、それにもとずく信頼回復の再建方針も提示されたとは聞かない。

 アジア司教協議会連盟も、”シノドスの道”の歩みで役割が認識され、公的な団体としてバチカンの承認を得たうえで、事務局機能も整備強化する必要があるが、その具体的な取り組みは見えない。

 

 

*日本の司教教会のシノダル(共働的)な具体的取り組みは見えず

 

 日本の司教協議会も、30年以上前に第二バチカン公会議の精神を受けて始まった福音宣教推進全国会議(NICE)が破綻して以降、全司教が協力した具体的な福音宣教の取り組みも見えないまま。日本の教会に共通する緊急の課題である司祭、修道者など聖職者の高齢化、減少への対応に、共に知恵を出し合い、司祭や信徒のアイデアや力も借りて具体的な対処策についての、全日本レベルでのシノダル(共働的)取り組みも見られない。

 

 

*聖職者性的虐待問題への具体的対応も真剣さが見えない

 

 世界中で教会への信頼を揺るがし続ける聖職者の性的虐待問題への対処も、教皇の強い意向を受け止めることなく、形ばかりの窓口を教区ごとに設置したリ、担当司祭を決め、おざなりのアンケート調査をする程度で、共働して真剣に対処するには程遠い。

 

 

*シノドス総会、そして最終文書への司教団としての反応は・・・

 

 象徴的なのが、教皇フランシスコの呼びかけで2021年10月に始まった“シノダル(共働的)”な教会を目指すシノドスの道の重要な節目となる昨年、今年と2期にわたる世界代表司教会議総会、その結果としての最終文書への、日本の司教団の極めて消極的な対応だ。

 教皇フランシスコは10月26日夜、世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第2会期の最後の講話で、シノドスの最終文書を「三重の贈り物」として紹介された。10月2日に始まったシノダリティに関するシノドス総会の第2回会期の討議で、傾聴と対話のプロセスを経て書かれた最終文書が「3年以上にわたる神の民の声に耳を傾けた成果」であることを強調しておられる。

 

 

*教皇は「最終文書をもとに創造的な実践と、交わり、参加、宣教への新たな取り組み」を求めている

 

 そして教皇は、「この文書は、言葉だけでなく、あらゆる行為と交流を通じて福音を体現する『シノダル(共働的)教会』への共通の道を示しています」とされ、「この文書には世界のそれぞれの大陸と状況における教会の使命の指針となり得る非常に具体的な指示が含まれています。文書で示された共通の経験が、神の民に奉仕する具体的な行動を促すことを確信しています」と述べられ、さらに、11月25日、最終文書に添える覚書を発表され、同文書を世界の教会、司教たちに「創造的な実践と、交わり、参加、宣教への新たな取り組みするようにに」と呼びかけられた。11月29日には、教皇庁立神学委員会の総会に出席して神学者たちと会見され、「キリストを中心としたシノダリティ(共働性)の神学を発展」させるよう促しておられる。

 

 

*最終文書の全容さえいまだに公式説明がない中で、「カトリック・あい」の全訳に強い関心

 

 日本の教会、司教団の対応はどうか。中央協議会のHpでシノドス関連を探すと、最終文書の全文翻訳どころか、概要の公式説明もいまだにない。掲載されているのは、今総会開会前に総会参加者を対象にバチカンで行われた黙想会の4回にわたるティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)による講話全文訳と、10月のシノドス総会に参加したシスターによる11月6日の難民移動者委員会定例委員会での報告が11月27日付けで掲載されているのみのようだ。(12月1日現在)当然というべきか、上記に述べた教皇の最終文書の重要性を強調される発言など、まったく伝えていない。

 「カトリック・あい」は、このような現状から、最終文書に関する教皇のメッセージ、そして最終文書の全容を一刻も早く日本の信徒、司祭、教会に伝えたいと、まず、今シノドス総会閉幕直後から概要と関連の解説を掲載し、最終文書全文も、バチカンからイタリア語版公式文書が出された直後から試訳を始め、バチカンから英語公式訳が出たのと前後して11月21日に試訳を終え、掲載している。

 シノドス総会とその最終文書が、日本の聖職者や信徒の間で強い関心がもたれているのは、「カトリック・あい」の11月の月間閲覧件数を見れば明らかだ。最終文書の全文閲覧は、日本語試訳を主体に英語公式訳も併せると400件に迫り、記事別閲覧件数で群を抜いている。

 付け加えると、個別記事の閲覧2位が2025聖年関係、3位は東京地裁での神言会司祭の性的虐待裁判で、第一回公判からずっと多数の読者が続いている。「『カトリック・あい』の記事を見て」と27日の第6回口頭弁論傍聴、支援の会参加者も二人おられ、他にも、バチカンで聖職者の性的虐待問題を担当する「未成年と弱者保護委員会」の委員長談話や教皇メッセージ、虐待を隠ぺいしたと報道された聖公会の世界の指導者、カンタベリー大主教の引責辞任なども、多く閲覧件数になっている。

 

 

*まず必要なのは、日本の司教団の実質のある連帯、シノダリティ(共働性)の回復

 

 このように「カトリック・あい」の閲覧状況などからも見て取れる、シノドス総会最終文書をはじめとする諸課題に対する日本の司祭、信徒の高い関心とは対照的な、日本の司教団の対応の鈍さ、拙劣さの原因の一つに、先にご説明した30年以上前のNICEの破綻を契機とする司教団の連帯喪失がある、と考える。その背景には、司教のみならず、司祭、信徒の連帯に欠かせない情報の共有の手段の劣化がある。「カトリック生活」はじめ定期刊行物の廃刊、そして来春のカトリック新聞の廃刊等、日本の教会全体を対象とした“紙”による在来型のコミュニケーション手段の消滅が相次ぐ一方で、SNSなどの効果的活用の努力もなされているとは言い難い

 とすれば、枢機卿として、まず日本の福音宣教の立場から教皇の取り組みを補佐することになった菊地大司教に求められるのは、”シノドス“の道の歩みの中で日本の司教団の実質のある連帯の回復、教皇の求める今シノドス総会の最終文書で示された歩みの全司教、そして全司祭、全信徒がシノダリティ(共働性)をもって諸課題解決の計画立案、そして実践の先頭に立つことだ。

 NICEが破綻して以来、30年もの長き空白で惰性に陥っているように見える現状の中で、それが困難なのは十分承知している。しかし、今、このタイミングでその取り組みを始めない限り、日本の教会の将来はない、と言ってもいい。教会暦で新たな年が始まり、”希望の巡礼“も始まる中で、日本の教会のリーダーとしての奮起を望みたい。

 7日の枢機卿叙任式を前に、菊地大司教は自身のホームページで「私自身が先頭に立ち、『主の道を真っすぐにせよ』と叫ぶ覚悟を持たねば」と決意を語っているが、「叫ぶ」だけでは足りない。「決断」と「行動」が必要なことはご自身も十分に自覚されているだろうし、そう願いたい。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年11月30日

【11月号の巻頭言】シノドス総会最終文書、教皇の言葉、そしてバチカンの性的虐待報告を受け、日本の教会、司教団に求められるのは

・10月の月間閲覧件数は2万3000件を上回り。昨年11月以来一年ぶりの高い件数となった。閲覧件数がここまで伸びた原因は、個別記事別の閲覧件数に明確に出ている。

 教皇による菊地大司教ら新枢機卿の指名、10月27日に最終文書を採択して閉幕したシノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期、そして神言会裁判など聖職者の性的虐待問題と月末に発表されたバチカンの未成年・弱者保護委員会による世界の教会の性的虐待に関する報告、この三つに、読者の方々の閲覧が集中した。

 月間で100件以上閲覧されている上位8つの記事は、新枢機卿指名関連が3、聖職者の性的虐待関連が4と圧倒的だ。もっとも直近の一週間で見ると、シノドス総会の経過と結果に関心が集まり、週間で25件以上閲覧されている12の記事のうち、シノドス総会関連が最終文書の「日本語試訳中」を含め5つ、24日に教皇が発表された新回勅「Dilexit nosa」関連で2つの記事が読まれている。

・日本の教会、司教団の“シノドスの道”への取り組みは極めて消極的だった。小教区レベルで分かち合った内容、提言を教区の担当に挙げても、事実上、無視されたケースもあり、広島教区などごく一部の教区の取り組みの成果もアジア大陸レベル、そして今回のバチカンでの総会での議論にも、最終文書を見る限り、ほとんどと反映されていないようだ。

 それにもかかわらず、日本の教会の現状を憂い、名実ともに「シノダル(共働的な)教会」に向けて積極的に改革の道を模索しようとする真面目な信徒、司祭は、1か月にわたる総会の状況を「カトリック・あい」を通じて少しでも知ろう、今後に役立てたい、と思っていただけた。それが、この閲覧状況に現れているのではなかろうか。

・たとえば、教会における女性の役割を高める象徴的な課題として、総会前から議論されていた「女性助祭の叙階」。日本のように、司祭の高齢化、減少が著しく、”恵まれている“とされている東京教区でさえも、教区司祭の数が小教区の数を下回り、4つの小教区を一人の司祭で担当せざるを得ない地域も出てきている、という状況の中で、当然、関心を持つべき課題だが、司祭不足に悩むアマゾン流域の司教たちなどのように、積極的に総会で発言したとは聞いていない。

・女性助祭など賛否が分かれる問題の具体的検討は、研究チームの一つ(実際はバチカン教理省が所管)に委ねられ、来年6月を目途に答えを出すことになり、総会の最終文書に明確な方向が書かれることはなかったが、かなりのスペースで書き込まれたのは、第3部の「祈りと対話において、教会の識別」「意思決定への配慮」「透明性と説明責任」だ。

 最終文書の80項は「この三つの実践は、密接に絡み合っている… 意思決定プロセスには教会の識別が必要であり、そのためには透明性と説明責任に支えられた信頼の雰囲気の中で耳を傾ける必要がある」とし、 「意思決定プロセスの構造」、「透明性、説明責任、評価」、「シノダリティ(共働性)と参加機関」について103項まで、具体的に書かれている。今シノドス総会の経験から生まれた”シノドスの道“を歩み続けるための一連の提案の核心と言えるだろう。

・教皇は12月8日の叙任式を控えた新枢機卿たちに書簡を送られ、十字架の聖ヨハネを特徴づける「目を上げ、手を挙げ、裸足でいる」という3つの姿勢を体現するよう呼びかけられ、「あなたがたは裸足でいなければなりません… あなたがたは、そうすることで、痛みと苦しみに圧倒されている世界のあらゆる地域の厳しい現実に触れるからです」と強調。

 シノドス総会閉幕のミサでの説教では、マルコ福音書の「盲人のバルティマイ」の箇所を引用され、「私たちが、自信を持って、共にシノダリティ(共働性)の旅を続けられるように」、「バルティマイのように、私たちも主の呼びかけを聞いて勇気を奮い起し、自分の盲目を主に委ね、立ち上がって、福音の喜びを世界の街に運ぶことができますように」と祈られた。

・シノドス総会閉幕直後の29日、バチカンの未成年者・弱者保護委員会が、5大陸にまたがる広範な調査を行った作業グループの報告書を発表。地域別調査の結果では、中南米、アフリカ、アジアの一部の国が対象となったが、「教会組織や教会当局の中には、虐待被害の予防や被害者保護に対する明確な責任体制をとるところがある一方、虐待に対処する責任を引き受け始めたばかりのところもある」と指摘。

 さらに、教皇が2019年5月の「虐待や暴力を届け出るための新しい手続きを定め、司教や修道会の長上らにとるべき態度を周知させる」自発教令で指示された「虐待被害の報告体制や被害者に対するケアの体制」を欠いているところもある、と批判している。

 報告書の発表で記者会見に出席したある委員は、教会当局に苦情を申し立てた被害者たちが長い間、待たされ、被害に関する情報提供も十分なされないことで、苦痛を強め、 「再トラウマ化 」に陥る人も出ている、とし、被害者のこうした苦痛の訴えは、バチカンだけでなく、世界各地の教区の対応についても寄せられている、と述べた。

・日本の教会はどうか。司教協議会は、教皇フランシスコの自発教令などに押される形で、2021年に「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」を決定したが、各教区レベルで目立った動きはなく、2年半後の昨年9月に「2022年度日本の教区における性虐待に関する監査報告」を発表。

 だが、その内容はというと、「各教区から提出された確認書」をもとにした」という性的虐待の申し立ては2022年4月から2023年3月の間に4教区、5件。具体的な教区名も、申し立ての内容など具体的な記述は皆無。「性虐待の申し立てのあった各教区には、監査役から提出された調査報告書に記載された所見を通知し、ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」とあるだけで、どの教区に、どのような「所見」を通知したのか、「さらなる対応」はどのようなものなのか、まったく明らかにされず、性的虐待問題に、被害者に寄り添って真剣に取り組もうとする姿勢はまったく感じられない。そして、一年以上たった今、2023年度版の発表はおろか、そのようなものが作成されるかどうかさえ、判然としない。

・こうした中で、長崎、仙台の二つの教区で被害者から、教区の司祭による性的虐待の訴えがそれぞれの地方裁判所に出され、教区側は認めようとしないまま数年を経過、裁判所の和解勧告に従って賠償金は払ったものの、被害者の精神的ケアや教会に温かく迎え入れるような努力はされていない。ほかにも東京教区や札幌教区で小教区の司祭による性的不祥事が伝えられているが、誠実に受け止めるどころが、事実上無視、あるいは圧力をかけるような動きさえあると聞く。

 東京地方裁判所では、菊地・東京大司教や成井・新潟司教の出身母体である神言会の司祭から告解を悪用した卑劣な繰り返しの性的虐待を受け、PTSDを発症した被害者が昨年、神言会を相手取って訴えを起こし、すでに第5回口頭弁論まで進んでいる。だが、被告の神言会は、過ちを認めるどころか、弁護士を3人も立て、虐待はなかった、との主張を続けるばかりか、「原告は虚偽の訴えをしている」とまで言い、被害者にさらなる精神的な傷を負わせている。

・バチカンの未成年・弱者保護委員会の記者会見に出た委員の一人、コロンビアの首都ボゴタのエレーラ補佐司教は、「自分が愛し、自分の人生を捧げてきた組織の(被害者への訴えに対する)抵抗を目の当たりにすることは、私にとって十字架だった」と、そうしたことが世界で起きていることを裏付けた。それでも、「間違いなく、この数年間で多くの重要な変化も起きている… 虐待予防と被害者保護に関する教会の内部文化を変える戦いは困難だが、ゆっくりと前進している」と前を向いた。

・シノドス総会の最終文書、教皇の言葉、そして、バチカンの委員会による性的虐待報告、10月下旬に出されたこれらの指針を真摯に受け止め、過去を振り返り、「神の民」の声に真摯に耳を傾け、識別し、これからの「シノダルな教会」の実現に向けて、それを具体的な歩みに反映していくことが、日本の司教団のトップである菊地・新枢機卿以下の司教の方々に、そして司祭、信徒に強く求められている。日本の教会が「前を向いて」進めるように。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年10月31日

【10月の巻頭言】「10月はシノドス総会第二会期の会合、そして東京地裁で修道会司祭の性的虐待裁判が続く」

・9月の「カトリックあい」月間閲覧件数は、前月より日数が少ないことや、読者の皆様に強い関心を引くニュースか少なかったためでしょうか、前月より若干減って約1万7600件となりました。

 個別記事では、トップが「来年の聖年に向けて聖地巡礼などを全免償とするとバチカン発表」約160件で、「イタリアの司祭が妻と子のために司祭返上」約140件、「カトリック東京教区が『子供と女性の権利擁護委員会』担当司祭更迭」約120件がこれに次いでいます。月間閲覧60件以上の記事12本をテーマ別にみると、聖職者の性的虐待関連、シノドス関連がそれぞれ4本と、高い関心が続いているのが読み取れます。

 

・「Synod on Synodality」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第二会期の会合が10月2日から始まります。

  バチカンのシノドス事務局が7月に発表した準備要綱で、シノドス総会第2会期に取り上げるべき課題として多くのスペースを割いているのは、「女性の活躍の促進」と「透明性と説明責任」です。

 「基礎編」で「教会生活のあらゆる領域における女性の役割」について、女性のカリスマと召命を「さらに十分に認める必要」を強調し、女性の助祭叙階などを念頭に、具体的な方策の検討に踏み込むことを求めています。

  「本編」で「重要かつ緊急」を要する課題として7項にわたって触れられているのは、「透明性」と「説明責任」ですシノダル(共働的)な教会に求められる文化として『透明性と説明責任を実践する』を挙げ、 「現在、教会内における透明性と説明責任の要求は、財政上のスキャンダル、とどまることのない性的虐待、その他の未成年者や弱者への虐待などによる信頼性の喪失の結果として起きている」と現状分析、具体的な取り組みの検討を提起しています。

 

・「カトリックあい」の9月の月間閲覧状況で、読者の関心が高いのは「シノドス」と「聖職者の性的虐待」と申し上げましたが、討議要綱もまさに、この二つをつなぐものとして、「透明性」と「説明責任」を重要テーマとして挙げているのです。

 第二会期直前の9月27日、ベルギー訪問中の教皇フランシスコは、同国の政治、経済、市民社会など各界代表、外交団、そして司教団などを前にしたあいさつで、聖職者による性的虐待問題を取り上げ、「カトリック教会は、キリスト教徒としての謙虚さをもって児童性的虐待の『恥』と向き合い、二度とこのようなことが起こらないようあらゆる努力をしなければならない…。今日、私たちはこの問題と向き合い、赦しを請い、虐待の恥、未成年者への虐待の恥を解決せねばなりません」と、教会関係者以外の政府や民間のリーダーたちを前にした異例の訴えをされました。

 さらに29日のローマへの帰国途上の機中会見で、教皇は「虐待の被害者の声に耳を傾けることは義務です… 私たちには虐待を受けた人々の声に耳を傾け、彼らをケアする責任があります。被害者の中には、心理療法が必要な人もいる」とし、「被害者のケアだけでなく、加害者も処罰されなければならない」と強調。さらに、「司祭が告発され有罪判決を受けた後、司教の中には教区や子供たちから離れた図書館で働く任務を与える者もいます」と批判、「このような行為は改めねばならない。教会の恥は『隠蔽すること』です。私たちは隠蔽してはならない」と強い言葉で”隠蔽体質”を糾弾しています。

 この発言の裏には、児童のみならず未成年、成人の男女に対する聖職者の性的虐待と高位聖職者などによる隠ぺいが、教会全体の信頼を大きく損ない、教会離れを加速する要因になっている、しかも対策が目立った効果を上げていないこと、透明性が確保されず、説明責任も十分に果たされていないことへの、強い危機意識りがあるように思われます。

 

・日本の教会はどうでしょう。

 教皇フランシスコは2021年10月に”シノドスの道”の歩みを始めるにあたり、この歩みについて、「世界の教会のあらゆるレベルで行われる、互いに耳を傾け合う、大きな動き、として考えています…シノドス(共働性)という言葉には、私たちが理解すべき全てのものが含まれている。それは『共に歩く』ということです」(同年9月18日の講話)と語られました。日本の教会の”共に歩く”は、いまだにこの教皇の思いとはかけ離れた状態です。現状を見る限り、「共に歩く」ことも、聖霊の助けを借りて、全ての信者の声に「耳を傾け」、「識別」し、「具体的な行動」に生かしていく努力を、日本の司教団が十分にしているとは、残念ですが、とても思えません。末端から声を挙げようにも、それを受け止める体制すら無きに等しい状態ではないでしょうか。

 そうした中で、聖職者による性的虐待も、欧米に比べれば件数は多くありませんが、司教や司祭の皆さんに、説明責任を果たし、被害者に謝罪し、教会に戻れるようケアをするという努力は皆無と言っていい状態です。加害者司祭は無論のこと、教区や修道会の責任者も被害者と誠実に向き合おうとせず、長崎、仙台では裁判所が和解勧告をし、教区が損害賠償金を払ったことになっていますが、司教も司祭も、教会への復帰の支援、温かく迎える対応どころか、教会関係者が被害者に心無い非難の声をかけ、さらに心の傷を深くさせ、教会に足を踏み入れることもできないケースもあると聞きます。

 東京地裁でも、繰り返し神言会の司祭から繰り返し性的虐待を受けた女性がこの修道会を相手に損害賠償の訴えを起こして公判中(第五回口頭弁論が10月9日午後3時から東京地裁第615法廷で開かれた)ですが、被告側の修道会は謝罪や和解の努力をすることなく、あくまで訴えそのものを拒否する姿勢で、第4回口頭弁論から弁護士を3人に増やしています。

 教皇フランシスコが2021年10月に始められた”シノドスの道“の大きな”山場“とも言うべきシノドス総会第二会期の会合が約1か月にわたって開かれる間に、「聖霊の導き」のもとに、どこまで踏み込んだ議論をし、来年前半までに出される10のテーマの研究会最終報告にどうつなげ、具体的な取り組みに踏み出せるのか。そして日本の代表たちが、どのように対応するのか。「カトリックあい」は、東京地裁での裁判の行方なども併せて、強い関心をもってフォローしていきます。

 

(「カトリックあい」代表・南條俊二)

2024年9月29日

【9月の巻頭言】シノドス総会第2会期目前、改めて日本の司教たちの姿勢を問う

・月間閲覧件数は1万9516件と前月を大きく上回りました。猛暑や豪雨が繰り返され、体調を崩される方も少なくないと拝察しますが、そうした中でのご愛読に感謝いたします。

・8月の閲覧状況で特徴的なのは、10月2日から約1か月にわたって開かれる世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期会合を目前にしたシノドス関連記事、そして聖職者による性的虐待関連が引き続き多く読まれていることで、月間閲覧件数50件以上の記事25本のうち、前者が7件、後者が11件を占めています。読者の皆さんが、この二つの問題に強い関心を持ち続けていることの証しでしょう。

 

・第二会期に向けたシノドス事務局の準備要綱の「カトリック・あい」による全文試訳は、7月中旬の掲載開始からの閲覧が英語公式訳を合わせて200件を超えていますが、日本の司教団・中央協議会のホームページには、準備要綱発表から2か月もたって、9月7日にようやく翻訳が掲載されました。

 8月上旬にはバンコクでアジア司教協議会連盟に加盟する17か国の司教や信徒の代表が集まって、準備要綱の検討を含め総会第2会期への対応を話し合いましたが、日本から参加したのは一般信徒の”代表”だけでした。

 教皇フランシスコは2021年10月に”シノドスの道”の歩みを始めるにあたり、この歩みについて、「世界の教会のあらゆるレベルで行われる、互いに耳を傾け合う、大きな動き、として考えています…シノドス(共働性)という言葉には、私たちが理解すべき全てのものが含まれている。それは『共に歩く』ということです」(同年9月18日の講話)と語られました。日本の教会の”共に歩く”は、いまだにこの教皇の思いとはかけ離れた状態です。

 

・準備要綱で、シノドス総会第2会期に取り上げるべき課題として強調されているのは、「女性の活躍の促進」と「透明性と説明責任」です。

 「基礎編」で、「教会生活のあらゆる領域における女性の役割」の考察に最も多くのスペースを割き、女性のカリスマと召命を「さらに十分に認める必要」を強調し、具体的な方策の検討に踏み込むことを求めています。

  「本編」で「重要かつ緊急」を要する課題として7項にわたって触れられているのは、「透明性」と「説明責任」です。「シノダル(共働的)な教会には『透明性と説明責任を実践する』という文化が求められる」(73項)と指摘。 「現在、教会内における透明性と説明責任の要求は、財政上のスキャンダル、とどまることのない性的虐待、その他の未成年者や弱者への虐待などによる信頼性の喪失の結果として起きている」と現状分析し、具体的な取り組みの検討を提起しています。

 

・8月の記事別閲覧状況では、性的虐待関連は、東京教区の担当司祭の更迭、その後の謹慎処分が合わせて200件強。神言会元司祭の性的虐待裁判、北海道でのパリ外国宣教会司祭の性的虐待など、日本の教会の不祥事のほか、欧州や南米で新たに明るみに出た不祥事、関連の評論もよく読まれています。

 その背景には、日本の教会、司教たちが、十分に説明責任を果たさず、透明性を欠いていることへの、信徒、読者の批判意識があるように思われますが、日本の司教たちはどのように受け止めているのでしょうか。それとも、不都合な批判には「耳を傾けること」さえしていないのでしょうか。

 

・シノドス総会第2会期の会合は「シノダル(共働的)な教会を目指すための課題への取り組み」(Vatican News 2024.2.17)の話し合いがなされます。女性助祭の叙階の是非など教義的、司牧的、倫理的諸課題や司教候補の選定基準・法的機能など10の課題はそれぞれの専門家による研究会で、2025年6月末までに結論を出すことになっており、教皇フランシスコが言われているように”シノドスの道“の歩みはもちろん、総会第2会議で終わるわけではありませんが、これまで3年間にわたる歩みが具体的な成果を生むための大きな節目を迎えていることは否定できません。

 

・太平洋諸島司教協議会(CEPAC)は3月のオンライン会議で、ライアン・ヒメネス会長が、一部の司祭が”シノドスの道“の歩みにいまだに参加していないことを認めたうえで、「この歩みに、聖霊が忍耐強く協力して働いてくださるように努めることが、私たちに求められているのです」と訴えました。この会議の主題は「舟に乗るのに遅すぎることはない」でした。

 日本の司教たちも「努め」を放棄してはなりません。「遅すぎることはない」のです。

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年9月29日