10月の巻頭言 「カトリック・あい」創刊10年を迎えて

*高位聖職者から相談を受けて始まった

 

 十数年前のある日、高校の先輩で、東京教区の生涯養成委員会(現在の同名の委員会とは全く違う、一般信徒30名近くと司祭数名で構成し、第二バチカン公会議の「内外に開かれた共に喜びをもって歩む教会」を目指す様々な企画を立て、信者育成を実践していた)の担当司教とチームリーダーの関係などもあり、長年懇意にさせていただいていた森司教と食事をしながら、カトリック新聞などカトリックの広報が抱える問題などについて話をしている時のこと。

 いきなり、「新しい新聞やらない?」と相談を持ち掛けられた。 しばらく考えてこう答えた。「紙の新聞を出すとなると、取材、編集、校閲など経験者が必要で人件費もかさみ、印刷、配送などの費用がかかる。そのうえ、カトリック新聞のように小教区などに購読を”強制”できればともかく、自分で売ろうとすれば、そのための人員も必要。そんな予算もなければ、物理的にも無理です」と答えた。

 ただし、「インターネット・メディアなら、出来ないことはないかも知れません」と付け加えると、ゴーサインを出された。幸いにも、その方面の専門知識と技術を持つ高校や大学の後輩などが仲間として名乗りを上げてくれ、皆で資金を出し合って、2016年秋にスタートしたのが、この「カトリック・あい」だ。

 

*日本の教会の主日のミサ参加者8万人弱に対して、年間閲覧件数23万台に

 

 それから10年、編集委員は4人と発足当初と変わらないが、コラム執筆者は何人か入れ替わりながら、現在は6人が毎月、2人が不定期の投稿の形で多角的な視点から執筆し、好評を博している。 提携海外メディアも、バチカン放送はじめ,Crux Now(米)、 Bitter Winter(伊)、そして最近、Global Catholic(仏)も加わった。

 そうした体制の中で、2016年10月の月間529件から始まった閲覧件数は翌2017年12月に1万件を超え、年間では教皇が秋に訪日された2019年に18万件、2020年には26万4000件と”教皇フィーバー“で急増、それが収まった後も、2024、2025年と23万件台を続けている。2025年の「カトリック教会現勢」で日本の信者総数は41万人弱。うち主日のミサ参加者は7万9000人弱にまで減っている中で、かなりの支持を得ていると言えるだろう。 しかも閲覧者は日本国内だけでない。米国を筆頭に70前後の国に広がっている。

 

*十年間に起きた大きな動き、緩慢な日本の教会、司教団の対応

 

 2016年10月の創刊から10年の間に、日本と世界の教会では首脳人事だけ見ても、2017年10月の東京大司教に菊地師任命、2019年11月の教皇フランシスコ来日、2025年4月の教皇フランシスコの死、・初の米国人教皇レオ14世の登場という大きな出来事があった。

 そして、今、2028年の”シノドスの道“の当面の仕上げを目指す世界教会会議に向けて、”道“の原点とも言える第二バチカン公会議の学び直しの講話をレオ14世は始めておられる。聖職者による性的虐待問題などに世界の教会にとって深刻な数々の問題に対しても、前教皇フランシスコの遺志を受け継ぐ形で、解決に努力を続けておられる。

 さらに今年5月、教皇就任後初の回勅『Magnifica Humanitas』を発出。教皇レオ13世が産業革命時に出された社会回勅『Rerum Novarum』を受ける形での、この「AI時代の社会回勅」について、「今日の教会もまた、福音と人間の尊厳の光に照らして、この時代の『新しい事柄』を解釈するよう求められています」と語られ、言葉だけでなく、ご自身が先頭に立って取り組みを始められた。

 このような教皇、それに応えようとする世界の教会の動きに対し、日本の司教団の対応は緩慢で、世界的な課題と共に、大きな社会変化の中で信徒、聖職者の高齢化・減少、性的虐待などスキャンダルがもたらす信頼性の低下などに各教区、司教連帯して対応することも、将来への希望を全信者に与えるような具体的取り組みも、皆無と言っていい。

 

*現状認識は10年で深刻化、だが、「教会活性化」の努力は止めない

 

 10年前、私たちは、「日本のカトリック教会は、少子高齢化が急激に進む日本社会以上に、元気を失っているように思われる。だが、悩み、苦しみながら日々の生活を送る人々を元気づけ、生きる希望をもつことができるように頑張っている聖職者、信徒も少なくない」との現状認識をもとに、「教皇の言動、さまざまな場で活動する方々の声を集め、解説、意見も合わせて、世のため、人のために役立てるような教会へ活性化させるきっかけを作っていく」という主旨のもとに、「カトリック・あい」を始めた。

 残念ながら、そのような現状認識は変わるどころか、より深刻化しているが、そうした中にあっても、創刊の主旨で述べた「教会活性化のきっかけ作り」の努力をやめるつもりはない。

 最近の例を挙げれば、”シノドスの道”の節目となる世界代表司教会議第16回総会の最終文書を、続いてレオ14世の新回勅を、対応の遅い司教団に先んじで速やかに全文翻訳・掲載し、さらに日々の教皇の講話、発言を詳細に翻訳して、無償で読者諸兄姉にお届けしている。コラムや読者投稿、内外のニュース、「評論」の翻訳など、日本の幅広い信者の声をお伝えし、時には教会改革などの提言をし、現在の陣容で出来る限りの努力を重ねている。

 

*教区長・司教の大量退任は、日本の教区再編統合、司教ポスト削減など教会改革の好機

 

 そうした中で、日本の司教団には、大きな変化の可能性のある”事件“が起ころうとしている。先日の広島教区長、白浜司教の突然の辞任表明に始まり、今年から来年にかけて”司教定年“を迎える教区長の方々の大量辞任(白浜司教を含めて、少なくとも5人)が起きることが予想されるのだ。

 信徒、聖職者の高齢化・減少が加速する一方で、司教候補の人材不足。しかも教区、司教の連帯が図れない一因が、信徒、聖職者の数に対して、世界水準からみても多すぎる15もの教区、司教・教区長ポストにあるとすればなおさらのこと、この機会に、抜本的な教区の再編統合、司教ポストの削減の勇断を振るい、”シノドスの道“を連帯、率先して歩む、日本の教会の真のリーダーとなる体制に変化すべきではないか。

 これは、決して「カトリック・あい」の勝手な思い込みではない。日本の教会の現状を憂い、明るい展望を開こうと努力する、少なくない聖職者、信徒たちに共通した思いだ。

 

*「首都圏教区」構想の失敗に何も学ばない日本の教会、司教団はどうする

 

 今から半世紀近く前、東京教区と横浜、さいたま(現)両教区を統合し、「首都圏教区」とする構想が、高位聖職者の中から提起されたことがある。おそらく、これをきっかけに、日本の全ての教区を対象に再編統合を進めようという考えがあったかも知れない。だが、この構想は、「自分の時代に教区や司教ポストが減るのは受け入れられない」という”多数派“の声でつぶされてしまった。噂ではなく、当事者から筆者が直接聞いた話だ。

 私たちは、この大量の司教退任、そして退任によって生じる”空白“を教会変革の機会とするか、それとも、議論すらされず、”惰性“で機械的にポストを埋めて行くだけにするのか。関係者の対応を見守っていきたい。 読者の方々のご理解、ご支援をお願いしたい。

(「カトリック・あい」代表:南條俊二・2026.10.1記)

2026年9月30日

9月の巻頭言「『カトリック・あい』の閲覧数に表れた信者の関心から”シノドスの道“の歩み停滞の原因が見える」

「カトリック・あい」閲覧数に表れた信者の関心から”シノドスの道“の歩み停滞の原因が見える

 

 2025年度版「カトリック教会現勢」がこのほど「カトリック中央協議会」のホームページに発表されたが、発表のままでは傾向などがよくつかめないので、「カトリック・あい」で20年前までさかのぼってデータを集め分析した。

 その結果、日本の信徒は20年間に8.6%減少、聖職者・修道者・神学生は37.6%の大幅減少と、日本の総人口の減少率を上回り、前年2024年の20年前比の減り方よりもさらに大幅になるという深刻な事態になっていることが確認できた。

 だが、こうした大まかな傾向は分かるものの、日本の教会の現状を理解し、今後のあり方を具体的に考えるために欠かせない信徒や聖職者などの年齢別分析、信徒の国籍別などのデータが「教会現勢」にない、「教会現勢」そのものも、ホームページに載せているとはいえ、よほど関心を持って探さないかぎり見ることができないなど、日本全国の信者に幅広く共有するに足る内容にも体制にもなっていない。本来なら「カトリック司教協議会」などとすべき「現勢」の発表者が「カトリック中央協議会広報部管理課」とされていることにも、データの重要性のに関する司教団の認識の低さがうかがわれる。

 

 

   *「カトリック・あい」の閲覧で圧倒的は「鹿児島教区問題」、「沖縄平和学習」、そして性的虐待の「神言会裁判」*

 データと言えば、「カトリック・あい」では、記事の全体の閲覧状況と共に、個別の閲覧状況も日々チェックし、信者を中心とした読者の関心がどこにあるかを把握し、意義のある報道に役立てている。

 8月の閲覧は全体で前月に続き1万5000件強。個別記事で際立っているのが、読者投稿の「反シノドス的な鹿児島教区」続ー信徒から疑問の声噴出、意味不明の知牧区創立100年記念…で破綻しつつある『献金増額』」で、7月31日からの掲載ですでに1600件を超えた。同じ投稿子の第一報は5月18日からの掲載で1800件に。

 同じく読者投稿の「死亡”事故”家族への心からの謝罪もない反基地活動家の一方的な話を聞くのが『沖縄平和学習』と言えるのか」 も7月7日からの掲載で約560件だ。

 ちなみに2019年5月6日掲載開始の「(解説)”定年”まで10年以上残して辞任する司教が6年で3人-明治に出来た教区割、”司教定員″見直し必要?」は今でも毎月40件前後が閲覧され、累計で8011件に達している。

 聖職者による性的虐待問題も関心が高い。

 「『神言会裁判』15回目、原告側「告解を性的虐待に使った加害司祭」「司祭叙階の司教、神言会」の責任を、民法のみならず教会法上も問う」は7月9日の掲載開始で250件を超えている。

 3年前に掲載を始めた「カトリック東京教区が『子どもと女性の権利擁護委員会」担当司祭を更迭、休養扱いに-説明は今後に』は累計で5591件に上っている。

 「現勢」の総信者数40万人、うち半分が日本国籍とみて20万人、うち毎日曜にミサに行く人が5分の1の4万人とすれば、「カトリック・あい」の月間閲覧件数1万4000件前後は、教会員としての自覚を持つ信者の関心、問題意識がどこにあるのかを知る一助になっている、と言ってもいいだろう。

 

 

   *「神言会裁判」、日本の教会の監査報告に象徴される性的虐待問題への司教団の消極姿勢*

  東京地裁での神言会裁判は、9月7日で16回、2023年1月に始まった長期にわたる神言会裁判はいよいよ大詰めを迎える。これまで15回の裁判で代理人弁護士に任せ一度も出廷しなかった神言会日本管区の代表、そして、この件に沈黙を続ける神言会会員で、同会で世界に二人しかいない枢機卿の一人である日本の司教協議会会長の菊地・東京大司教の対応も含め、原告被害者女性を支援する会のメンバーだけでなく、多くの人々が関心を持って見守っていることが、閲覧件数でも分かる。

 聖職者による性的虐待に関しては既に、長崎、仙台両教区で裁判となり、両教区に和解命令が出されているほか、他の教区でも、教区や司祭を相手にすることに躊躇し、声を上げられずに”泣き寝入り”を余儀なくされる被害が少なくない。神言会裁判の被害者支援の会のメンバーにも、司祭などによる虐待被害の経験者がおり、「カトリック・あい」にも直接、間接の被害者の声が寄せられている。

 未成年者・弱者保護について、日本の司教団も遅ればせながら「未成年者・弱者保護のためのガイドライン」(2021年)などを形のうえで整備したが、それに基づいて毎年作成、発表する「日本の教区における性虐待に関する監査報告」は、はっきり言って、監査報告の体をなしていない。

 昨年12月発表の2024年度報告、そして前年の2023年度報告も、「性被害の申し立ては2教区、3件…性虐待の申し立てのあった各教区には、監査役から提出された調査報告書に記載された所見を通知し、ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」と、偶然なのか、全く同じ抽象的な説明が繰り返されている。

 具体的にどの教区でどのような申し立てがあったのか、「所見の通知」に対して当該教区はどのように対応し、加害者とされている者に対し、申立者に対してどのような措置を取ったのかなど、社会一般の常識からしても当然、明記されるべき内容も全く見られない。報告をもとに今後の対策にどう生かすかも不明だ。

 報告の主体も「・・・ガイドライン運用促進委員会」とあるだけで、責任者もスタッフも不明。報告に対する司教団のトップ、あるいは担当司教のコメントも皆無。 被害者に対する思いやりも、性的被害を根絶しようとする意気込みも、誠意も全く感じられない。

 性的虐待は、ほとんどが”密室”で行われるため、第三者の証言はまず得られない。「証拠物件」も大きなショックを受けた被害者が、保存しておくことは考えられない。したがって、教会を敵に回してまで訴え出ても、適切な対応がどこまで期待できるか不安があり、まして重い財政負担をし、長期にわたって自分を人前にさらすような訴訟は、よほどの勇気と犠牲をいとわない被害者でなければ不可能だ。司教団や関係司祭たちは、それを見透かし、バチカンの指示に最低限、応じているのではないか、とさえ思いたくなる。ゼロトレランス(一切の妥協を許さない)の厳正な対処を訴えた歴代の教皇の意向とは明らかに反する対応だ。

 

 

   *”シノダル”な教会のあり方と現実とのあまりに大きい落差、内外の識者、信徒の鋭い批判*

 Jean D’Cunha氏(ジェンダー専門家。「国連女性機関」で上級管理職などを務め、現在は、インド・カトリック司教協議会とアジア司教協議会連盟に、アジア地域の環境問題・対策で助言中)は、「シノダル(共働的)教会に必要なのは構造的浄化、聖職者主義の解体だ」のGlobal Catholicの評論(「カトリック・あい」に掲載中)で主張している。

 「聖職者による未成年者および社会的弱者に対する性的虐待に対し…妥協のない透明性…被害者への強力な支援をもって立ち向かい、ゼロトレランス政策を徹底し、隠蔽の悪しき遺産を永久に断ち切る… 『上からの一方的な議論』を『祈りながら、注意深く耳を傾けること』に置き換え、『支配』ではなく『識別力』を実践し、疎外された人々の声が最終決定に直接反映されるようにすべきだ」。

 冒頭の鹿児島教区献金問題の投稿子は「一番の問題は信徒の意見を聞かずに、一方的に決めたことにある。シノドス(共働性)の道を共に歩くことに無関心な教区における『反シノドス的』手法だ」としたうえで、 「もっとも、これは鹿児島教区に限ったことではないのではないか。信徒も司祭も、司教も教皇も共に歩む教会を目指すシノドスの道を、”霊における対話”の”シノドス流”にすり替え、司祭・信徒の高齢化、減少、若者たちの教会離れなど緊急の問題を司教、司祭、信徒が皆で率直に話し合い、具体策に力を合わせて取り組むことをしない日本の教会、司教団に共通した現象かもしれない」

 「教区財政の現状と課題について分かち合い、具体的な財政再建の方策と司教、司祭、信徒が一体となって作り上げ、実施していくことこそ、”シノドスの道“の正道ではないか」と指摘する。

 ”シノドスの道“の歩みに対する懸念は、日本の信徒だけでなく、世界の枢機卿、司教,そして識者の間からも出ている。米国のレイモンド・バーク枢機卿がこのほど、The College of Cardinals Reportの取材に応じ、最近の臨時枢機卿会議での小グループ単位で議論*を進める”シノドスの道”方式に疑問を呈し、「神学的な根拠に乏しい。枢機卿団内での率直な意見表明を損なう恐れがあり、(聖職者の性的虐待など)教会が直面する重要な問題を覆い隠してしまう危険性がある」と警告した。(カトリック・あい2026.7.9 The College of Cardinals Report )

 Cruxの Charles Collins編集局長は評論で「バチカンは、いまだに聖職者の性的虐待疑惑への対処法を学んでいない」(カトリック・あい掲載中)」、Global CatholicのAndrew Phelan氏は「豪州の教会は「シノダリティ」という言葉が「目的のない参加」を意味するだけにとどまっている」(同)とし、オランダの司教は教皇に宛てた公開書簡で 「(”シノドスの道”の)歩みが、キリストをより明確に宣べ伝えるのに役立っているのか」(同2026.8.26) と疑問を呈している。

 

 

   *説明責任も被害者へのケアもなく、真心からの「傾聴、識別、実践」もなければ”シノドスの道“は歩めない*

  「カトリック・あい」の閲覧件数に表れた”シノドスの道”に外れたと言われても致し方のない鹿児島教区などの高位聖職者の振る舞い、神言会裁判に見られる被告・修道会の対応など。それが、現在の日本の、”忘れられたシノドスの道”に繋がっている。性的虐待はじめ数々のスキャンダルに対して、明確な説明もなく、謝罪もなく、被害者へのケアもされない状態、「耳を傾け、識別し、実践する」こともないまま、シノドスの道の道を進もうとしても、まともな信徒の参加は得られない、それが実態だ。

その中で、日本のカトリック教会の信者数は、日本の人口減少率上回るテンポで減少が続く、危機的な状況にあるが、司教も、司祭も、信徒も互いに「傾聴し、識別し、実践する」、本来の”シノドスの道”の歩みがなされず、具体的な対応もされていない。

 

 

  *「シノドス意見箱」の提案に司教団はどう応えるのか*

 当然ながら批判ばかりして済むものではない。巻頭言子自身も様々な場で可能な限りの努力を続けているが、「カトリック・あい」の読者からも、「シノドス意見箱の設置について」(「カトリック・あい」に掲載中)のタイトルで次のような具体的な提言が寄せられており、8月27日から掲載わずか5日で閲覧件数は既に約80件に達し、読者の関心の高さを示している。

 日本の教会の”シノドスの道”の取り組みで、「気になるのは、シノドスを継続的に推進していくための明確なロードマップが見えにくく、具体的なアクションプランも十分に示されていないこと」とし、“道”の出発点としての「聴く」に戻り、「具体的に実行できる取り組みの一つとして、「シノドス意見箱』の設置」を提案。

 「教会に箱を置くだけでなく、QRコードなどを利用したWebフォーム、SNS等による意見の受付も可能」、「今までのような『聴いておしまい』にならぬよう。”シノドスの道“は、司教も、司祭も、修道者も、信徒も、共に歩むものです… 『シノドス意見箱』が、教会を『聴き合う教会』『共に歩む教会』にと変えていく、大きな一歩になることを願う」と結んでいる。

 果たして、この提案に”聴く耳”を持つ司教、担当司祭がいるだろうか。もっとも、これまで何度も繰り返されてきたように、「聴いておしまい」あるいは「聴いて約束して、実行しない」では、「聴く」意味がないが。

(「カトリック・あい」代表:南條俊二)

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2026年8月30日

2026年8月の巻頭言 「 世界も教会も、二度の世界大戦に至った『危機の20年』から何も学ばないのか」

【2026年8月の巻頭言】

 「世界も教会も、二度目の世界大戦に至った『危機の20年』から何も学ばないのか」

 8月15日、日本は81年目の終戦記念日を迎える。その9日前の6日は、広島平和記念日、9日は長崎原爆の日。6日から15日は日本のカトリック教会の平和旬間だ。

 世界全体で5000万人から8000万人、日本だけで300万人の死者を出し、広島、長崎への世界初の原爆投下で幕を下ろした世界史で最大の悲劇、第二次世界大戦。それから81年経った今、世界も日本もそして教会も、その教訓から学び、実践に生かすことができず、”戦い”の主役たち、そして中身の革命的変質の中で、何倍も大きな危機に瀕している。

 

*大国が利己的行動に走る1930年代の様相は、現代世界と驚くほど重なる

 

 細谷雄一・慶応大学教授は、近著『危機の30年-冷戦後秩序はなぜ崩壊したか』(新潮選書)で、英国の歴史家で国際政治学者、E.H.カーの名著「危機の20年」を取り上げ、現在の「危機の30年」と比較して論じている。

 カーは、「(第一次大戦終結後の)1919年から1939年までの20年間に及ぶ危機には… 最初の10年の夢想的な願望から次の10年の容赦ない絶望へ、…現実をあまり考慮しないユートピアから、ユートピアのあらゆる要素を厳しく排除したリアリティへと急降下するところに、その特徴があった」と分析した。

 これを受けて、細谷教授は「第二次大戦後の冷戦終結からウクライナ戦争勃発に至る30年間の歴史も… 最初の15年において…人々は民主主義や新自由主義のイデオロギーが、国境を越えて、グローバルに拡がることが自明と考えていた。そして、次の15年においては、そのようなユートピア主義が破綻し、米ソを基調とする大国間協調が崩れ、ロシアと西側の相互不信と対決が深まり、さらには暴力的で非人道的な戦争へと突き進んでいった。まさに『容赦ない絶望』という『リアリティ』へと急降下したのである」と指摘。

 さらに、「戦間期の1930年代にポピュリズムやナショナリズムが高まり、各国で排外主義的な政治や、民主主義を批判する運動が広がっていった… 平和を保証するはずであった国際機構による集団安全保障は、大国間の対立によって機能麻痺を起こし…国際協調が大きく衰退し、国際機構がもはや平和を保証する力を失い、大国が利己的な行動に走る。パワー・ポリティックスが国際関係の基調となる1930年代の様相は、現代の世界と驚くほど重なるところが大きい」と断じている。

 

*「ユートピア主義とリアリズムの相互補完的な融合」に安定的秩序の平和的確立のカギが

 そのうえで教授は、「21世紀の現在に、むき出しのリアリズムによって勢力圏を確立し、近隣諸国を武力によって抑圧する中国やロシア、そしてトランプ政権の米国のような19世紀的な帝国主義の論理を、われわれは自明のものとし受け入れるべきでない… カーが提唱したように、ユートピア主義とリアリズムを相互補完的に融合させることで、安定的な新秩序を平和的に確立する必要を認識することができるだろうか… カーの古典から学べる教訓は、現在、よりいっそう大きくなっている」と強調している。

 

*核武装の専制独裁国の台頭、そして核兵器・通常兵器に留まらない“超限戦”への革命的変質

 こうした歴史認識とそこから教訓を引き出すことに合わせて、「平和」への具体的道筋を考えるのに必要なのは、今の「危機の30年」に大きく変質している“戦争”の主体、そしてその中身だ。

 終戦直後から、日本にとっての軍事的脅威とされてきたのは米国と並ぶ核保有国ソ連だったが、東西冷戦終結、ソ連崩壊の中で核大国として台頭し、今や米国と並ぶ軍事大国、経済大国となった中国、それに新たな核武装国として日韓と敵対する北朝鮮。産油国として力を取り戻したロシアとともに、専制独裁政権の3国が日本を”包囲“し、軍事演習名目で、艦船や爆撃機で日本周辺の海域への侵入を常態化させている。

 AI(人工知能)の急激な発展を背景に、”戦争“の中身も、中国の増産が際立つ核兵器、通常兵器などにとどまらず、宇宙兵器、インターネットによるサイバー攻撃、情報戦、心理戦、金融、貿易面での制裁、メディア工作など、中国軍部が『超限戦』と呼ぶ、軍事と非軍事、軍人と非軍人の境界なく、あらゆる手段、人員を使って、中国であれば「中華民族の偉大な復興」を目指すものに大きく変質している。

 そして、軽視できないのは『超限戦』の一つの柱、情報戦の中で、特に中国において顕著なのが、ナラティブ(客観的に裏付けられる内容でなく、語り手が都合のいいように作る主観的なストーリー)による攻撃だ。

 

*中国の“ナラティブ攻撃”に、知らずのうちに”協力“してしまう危うさ

 「中国による情報戦-対日ナラティブと沖縄をめぐる情報戦」中曽根平和研究所・情報空間のリスク研究会(NPI クオータリー2026年夏号)によると、2023年からの中国の国営メディアの報道の分析から出て来る、日本の外交・安全保障をめぐる主なナラティブを挙げると、①日本は大国化を志向して防衛力を増強し、軍国化を進めている②アジア諸国は日本の軍国化を強く懸念している③「台湾有事」や「中国脅威論」は西側の憶測で、中国は平和国家だ④日本は平和憲法を堅持すべきだ、などとなる。

 具体的には、昨年11月の高市首相の存立危機事態に関する野党の質問に対する国会答弁を利用して日本の安全保障政策を「新型軍国主義」と位置づけ、「日本の戦争犯罪」「国際法違反」「沖縄(琉球)の独立」といった論調を、動画や生成AIなどを活用して英語・中国語で国際的に発信しているのもその流れだ。ロシアや北朝鮮と連携して、「日本の新軍国主義は破滅を招く」とするナラティブの拡散も図っている。

 だが、実際には、中国は、世界の核軍縮の声を無視して核兵器の増産を続け、四つの空母打撃群の編成、大陸間弾道弾発射原潜の増強などで2026年の国防予算は前年比7.0%増、円換算約43兆円と過去最大規模。米国(円換算約141兆円)に続く世界第2位で、日本の防衛費の約4倍。急増する国防予算、軍備増強が、周辺海域への武力進出とともに、周辺国の懸念を招いているのに…「厚顔無恥」という言葉は、中国の辞書には無いらしい。

 

*「平和旬間談話」に欠落する「危機の20年」から教訓を学び取る姿勢、”戦争“の革命的変質への認識

 そうした現状にもかかわらず、日本のカトリック司教協議会会長が早々と7月初めに出した「2026年平和旬間 談話」は、「危機の30年」を振り返り、その中に現状を位置づける姿勢も、「危機の20年」から教訓を学び取る姿勢も、専制独裁国家群による軍事的脅威など日本を巡る安全保障環境の激変、平和を崩す「戦い」そのものの革命的な変質への認識も欠落している。

 もっともらしく、”公平”さを装っていても、中身は、どこかの政党の十年一日の主張の繰り返しに近い。教会として”平和”と”祈り”を呼びかけるのは当然だが、談話では、「近年、憲法第9条の解釈は変更され… 安全保障環境の変化を理由に防衛費も急激に増大しています…『専守防衛』…の実質は大きく変化し続けています… 戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法の平和主義は、先人たちが戦争の惨禍の中から学び取った大切な知恵です。その精神を、なし崩し的に骨抜きにし、加えて十分な国民的議論も経ないままに軍備増強を進めることが、本当の平和の確立につながるのかどうか、立ち止まって考える必要があります」。

 まさに先に述べた中国の”ナラティブ”と歩調を合わせ、その戦略に協力しているように受け取られかねない記述が突出している。

 「危機の20年」から実践的な教訓を引き出すことなく、「危機の30年」が繰り返されようとしている。だが、この談話に見る限り、日本のカトリック教会には、「危機の20年」から教訓をくみ取ることも、現在の核武装・専制独裁国の覇権の動きや”戦争”の中身の革命的変質への認識も欠落している。当然ながら、このような状況の中で、日本のみならずアジアの、世界の平和を守り、発展させていくか、真摯に考え、実践しようとする姿勢も伺えない。残念としか言いようがない。

(「カトリック・あい」代表:南條俊二)

2026年7月31日

2026年7月の巻頭言 「日本の教会の終身助祭に未来はあるか-『日本初』だった今井氏の帰天を機に考える」

2026年7月の巻頭言

「日本の教会の終身助祭に未来はあるか-『日本初』だった今井氏の帰天を機に考える」

 

 

*6月の個別閲覧件数で「教皇のAI回勅」、そして「鹿児島教区のいきなりの献金増額」が圧倒的

 

 6月の「カトリック・あい」の閲覧件数は、月間総数で約1万4000件前後。個別閲覧件数で際立っているのは、5月下旬の発表2日後に掲載を始めた教皇回勅『Magnifica Humanitas-人工知能(AI)の時代における人間の人格の擁護』と、読者投稿「財政赤字に窮したカトリック鹿児島教区が取った、あまりにも”反シノドス的”な、いきなりの献金増額要請」 の二つ。 5月下旬からの累計で前者は800件、後者は700件をそれぞれ大きく上回っている。後者には、読者から共感と怒りの声も寄せられている。このような問題に対する読者の方々の関心の強さを示していると言っていいだろう。

 

 

 

 

*日本の教会で最初の、東京教区で”ただ一人“の終身助祭が亡くなった

 

  詳細な背景説明がいるので、記事には載せることができなかったが、東京教区の終身助祭、今井康雄氏が5月に亡くなられた。

 この巻頭言で、どうして彼の訃報を取り上げたのか。理由は二つある。

 まず、終身司祭制度は、第二バチカン公会議の教会憲章で約1000年ぶりに復活し、日本の司教団が1995年に教皇認可を得て導入され、今井氏は、東京教区だけでなく、日本のカトリック教会で初の終身助祭。そして、今に至るまで27年の間、東京教区で叙階された唯一の終身助祭だったことだ。

 そして、筆者は、四半世紀前、白柳枢機卿、森補佐司教の時代に、第二バチカン公会議の精神をもとにした福音宣教全国推進会議の成果を受けて東京教区に設けられた、森司教をトップとする司祭、信徒約30人で構成する生涯養成委員会のメンバーとして、今井氏と共に活動した仲間だったことである。

 

 

 

 

*第二バチカン公会議の「教会憲章」で終身助祭導入を決定、欧米などは対応したが…

 

  終身助祭制度は第二バチカン公会議の教会憲章で導入が決定。29項で、「助祭職を聖職位階の固有の永続的な段階として再興ことが可能」とし、導入は「教皇自身の認可の下に、種々の地域の管轄権を有する司教団が決定する」「壮年男子には、結婚生活をしていても授けることができ、適性があれば青年にも授けることができる」とされた。

 この決定を受けて、欧米を中心に世界の教会で1970年代から導入が進んだ終身助祭制度が、日本の教会では、判断を委ねられた司教たちがなかなか対応しようとしなかった。

 

 

 

 

*終身助祭を決意した今井氏の働きかけで、東京教区が制度導入を決定し、日本の第一号に

 

 商社マンとして欧米などで活躍されていた今井氏は、現地の教会で、終身助祭が典礼奉仕や信徒支援などで貢献しているのを知り、帰国後、所属していた東京教区の白柳枢機卿、森補佐司教に働きかけ、制度整備を促すとともに、自分自身がその先頭に立とうと決断。

 白柳大司教(後に枢機卿)は、日本の各教区に先駆けて、教皇の認可を受け、「終身助祭制度に関する教書」を出し、「現代社会の生ける複雑な課題や教会の公的役務を果たすために、信徒と司祭の架け橋となる新たな奉仕職」として、司祭への昇叙を前提としない「終身助祭」の採用を言明。

 養成プログラムなどと共に教区の全司祭、修道者、信徒に提示し、今井氏は商社を早期退職して、神学校などで研修を続け、1999年3月に東京カテドラルで、教皇から導入の認可を得た白柳枢機卿によって、日本の終身助祭第一号として叙階された。

 

 

 

*大々的に祝われて終身助祭に叙階されたが、司祭、司教の支援なく、”後続“もないままに

 

 

 叙階式は、司祭の叙階の式よりも大掛かりで、参列者も多く、特に信徒たちの期待の大きさを示すものだった。今井氏の終身助祭叙階は、当時の「東京教区ニュース」の160号(1999年3月1日)、161号(同4月1日)と、2号にわたって「教会の新たな召命の道―東京教区終身助祭制度を導入」「祈りと喜びのうちに、東京教区に助祭誕生!!終身助祭、今井康雄さん」の見出しで大々的に取り上げられた。

 そして担当司祭からは「開かれた教会作りの課題に取り組む日本の教会にとって新制度は、活性化のカギを握る…今井氏の終身助祭叙階の日は、東京教区にとって画期的な日となる。21世紀の日本の教会に活力をもたらす終身助祭制度を育てて行こう」とエールが送られた。

 

 共に神学校で学んだ新司祭や神学生から「本来の助祭が現代に復活してことは大いに喜ぶべき…終身助祭の活躍は、教会が文字通り『信徒の教会』になっていくためにも、また日本の教会が文化的に真に受容されていくためにも望まれる…日本の教会に今井さんに続く助祭が何人も誕生することを願っています」と期待の声が寄せられた。

 

 だが、今井氏が、それこそ「青雲の志」を抱いて終身助祭として奉仕を始めた後の、このエールや期待との”落差“は、あまりにも大きかった。

 今井氏は、毎年の年賀状での新年の挨拶にも一切、辛い胸の内を漏らすことは無かったが、仄聞するところ、支援どころか少なくない司祭たちから疎んじられ、思い描いていたようなポストも与えられず、叙階後に病を得て10年後に帰天した白柳大司教・枢機卿の後を継いだ岡田大司教からも支援を得られず、日本の終身助祭の模範となるような役割を果たすことができなかった。

 

 

 

*東京教区のHPで、あまりにそっけない訃報、東京大司教など関係者の追悼文も無し

 

 東京教区ニュースの訃報にある彼の終身助祭叙階後の略歴に、1999年3月から関口教会付、2002年3月から教区本部付、2005年3月から2011年3月まで大司教秘書、としか書かれていないのが、それを物語る。

 実際に、彼に続く終身助祭は東京教区には今に至るまで誕生せず、そのような制度があったことすら、忘れ去られようとしている。

 教区事務局長名のその訃報には、「今井助祭は、日本の司教団が終身助祭制度導入を決定して初めての助祭になります」としか書かれなかった。 菊地大司教(枢機卿)はもちろん、関係者の追悼の言葉も皆無。”素早かった“のは、亡くなってわずか6日後の葬儀。広報が徹底せず、筆者も含め、親しくしていたにもかかわらず参加がかなわなかった信徒も少なくないようだ。

 

 

 

 

*日本司教団の毎年発表の「カトリック教会現勢」に、終身助祭のデータは皆無

 

 そして、日本の教会の終身助祭の現状は…まず、実態を日本の司教団の公式資料から把握しようとしても、毎夏、司教協議会発表の「カトリック教会現勢」は、終身助祭のデータは日本全体も教区別も皆無だ。

 個人的に調べて判明したのは、後続を断った東京を始め、大阪(高松教区を合併する前)、長崎の大司教区は導入せず、首都圏でも横浜教区が2001年に「当面見送り」を公式表明したまま。終身司祭の活動している教区は、札幌、さいたま、名古屋、鹿児島、旧高松、那覇の六つ。人数は、それぞれ数人前後のようだが、彼らが、どのような働きを具体的にし、貢献しているのか、どうなのか、改善の余地があるのかないのか、ほとんど分からない。。

 

 

 

 

*司教団の「終身助祭養成委員会」が「司祭・終身助祭養成員会」に変わったが積極姿勢は伺えず

 

 カトリック中央協議会のHPには、「2025年に日本司教協議会の司祭生涯養成部門および終身助祭養成委員会を統合し、司祭・終身助祭養成委員会を新設した…終身助祭の生涯養成については教皇庁教育省/聖職者省『終身助祭養成基本要綱:役務と生活のための指針』(1998年公布)をもとに、制度を導入している教区と連絡・調整を行い、研修等を企画する」とあるのみ。

 終身助祭の四半世紀にわたる活動を分析・評価し、それをもとに他教区にも広げていく価値があるのかないのか、価値があるならどのようにして広げて行ったらいいのか、その様な問題意識も、意欲も見られない。

 

 

 

*司祭の減少、高齢化、病弱化がもたらす「教会の危機」深刻化に、司教団の対応が全く見えない

 

 日本、そして欧米の教会で「召命の危機」が起きて既に半世紀以上。深刻の度は増すばかりだ。 「カトリック教会現勢」によると、2024 年 12 月末現在の日本の聖職者・修道者・神学生合わせて5613人、20年間で34.8%も減っている。司祭の数の減少だけでない。高齢化、病弱化も急速に進んでいる。

 こうした結果、1人の司祭が二つの小教区掛け持ちは当たり前、三つ、教区によっては四つ、五つも持たされる。相対的に司祭が多いとされている東京教区でさえ、程度の差はあれ、変わらない。高齢・病弱の司祭も小教区の現場に出されるケースが散見され、特に司祭が少ない教区では、信徒が主日のミサに与れるのは月に一回という小教区も増えている。

 日本人の若者の司祭志願者減少が常態となる中で、司祭叙階の条件が”緩和“されたのか、「日本語での信徒との対話が満足にできない」「ミサ中の説教がよく理解できない」など困惑する小教区信徒の声が、巻頭言子の耳にも入るようになっている。

 例外と思いたいが、叙階されて何年も経っていない司祭が、組織的な麻薬密輸が問題になっている母国の男に頼まれて(それと知らずに?)麻薬を教会で受け取り、警察当局に逮捕され、一か月も拘留、取り調べを受ける(後に処分保留のまま釈放)という事態も発生している。

 日本の教会は、そのリーダーである司教団は、こうした「危機の事態」にどのように対応しているのか。残念ながら、全く見えない。

 

 

 

*司教団は、危機克服の重要な柱として終身助祭育成強化に連帯して取り組むべきだ

 

 単に司祭不足・高齢化を補うため(それも現状では重要だが)だけでなく、故白柳枢機卿が終身助祭制度導入の際に説明した「現代社会の生ける複雑な課題や教会の公的役務を果たすために、信徒と司祭の架け橋となる新たな奉仕職」として、叙階を祝う担当司祭が期待した「21世紀の日本の教会に活力をもたらす」ものとして、日本の教会全体、全教区連携して、全日本レベルの終身助祭制度の確立、育成に取り組むべきだ。

 健康寿命が延びる中で、実社会で多くの経験を積み、定年後にさらに社会貢献で第二の人生を送りたい、と希望する健康な人も多くなっている。それだけ終身助祭の人材も増えているということだ。「終身助祭」という名称そのものに抵抗があるなら、「特任助祭」に改めたらどうか。

 これまで日本で行われてきた教区ごとの終身助祭育成で、財政負担や育成の体制・人材が壁になっているなら、司祭と同じように日本の教会全体で育成を考えるべきだ。

 具体的には、日本カトリック神学校に、司祭養成と並んで、「終身助祭養成部」を創り、育成側の人材が足りなければ、教育修道会であるイエズス会などの力を借りればいい。定年退職を前提にすれば、退職金、厚生年金、国民年金などの収入があるから、少ない給与でも、第二の人生として、自身も生きがいを得られるメリットに惹かれる人も少なくないはずだ。

 

 

 

 

*教皇フランシスコの終身助祭への期待の言葉は、日本のリーダーたちに届いているのか

 

 教皇フランシスコは2021年6月、ローマ司教区の終身助祭とその家族などとの集まりで、「終身助祭は…教会の典礼奉仕などで重要な役割を果たしている…『聖職者主義』の悪臭を克服するのに役立つ」と強調され、「謙虚であるように」、「善き夫、父、あるいは祖父として、困難の中にあるカップルに希望を慰めをもたらすように」、そして「『貧しい人や疎んじられている人の中におられ、彼らを通して私たちの心の扉をたたかれるイエス』を教会共同体が見つめるのを助ける”番兵“になるように」と求められていた。

 このような教皇の願いは、日本の教会のリーダーとされる司教たちに届いているのだろうか。

 

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2026年6月30日

【6月の巻頭言】教皇のAI回勅と、私たち日本の司教、司祭、信徒が歩むべき”シノドスの道“

(2026.5.31 「カトリック・あい」代表・南條俊二)

*「反シノドス的な、いきなりの献金増額要請」「教皇初のAI回勅」―閲覧件数に現れた読者の問題意識

 「カトリック・あい」の月間閲覧件数が5月は、4か月ぶりに1万4000件台を回復した。増加の要因は明確だ。

 まず、記事別閲覧でトップに立った読者投稿「財政赤字に窮したカトリック鹿児島教区が取った、あまりにも”反シノドス的”な、いきなりの献金増額要請」。月半ばからの掲載にもかかわらず、個別閲覧件数で圧倒的、300件を大きく上回り、読者から共感の声も寄せられている。

 司祭や信徒の減少、高齢化、結果としての財政面からの教会運営の困窮など、司教、司祭、信徒がこうした目前の問題について認識を分かち合い、共に対策を考え、実施する必要がある。教皇フランシスコが始められた共に歩む”シノドスの道“の日本の教会のテーマまであるはずにもかかわらず、日本の教会、司教団が真剣に取り組もうとしない。そうした現状への率直な疑問と批判が共感を呼んでいる、とみていいだろう。

 そして、26日の掲載開始から一週間も経たない段階で閲覧300件台に乗せたのが、教皇レオ14世の初の回勅『Magnifica Humanitas-人工知能(AI)の時代における人間の人格の擁護』の全文仮和訳+公式英語訳だ。

 この二つは、まさに今の教会を取り巻く、切迫した大きな課題—小教区運営からAIの急激な台頭を背景にした世界全体の政治、経済、社会にいたる様々な課題—に対する現状認識と対応を、世界、そして日本の教会と私たち一人ひとりに迫る問題に関係することで共通している。

*AIの急激な台頭、回勅は、日常生活に与える深刻な影響にも切り込んでいる

 その意味でも新回勅はまさに時宜を得ているが、内容が極めて正確な現状把握と提言に満ちていることも注目される。AIの武器化、戦争への影響への厳しい批判と警告されるなど世界レベルも政治、経済、社会だけでなく、日常生活に浸透しつつある問題にも、次のように触れ、具体的に対応を求めておられる。

 「デジタル機器やソーシャル・メディアが手軽に、誰からもチェックを受けずに利用できることが、特に人生の最も脆弱な段階において、睡眠、集中力、感情や人間関係のコントロールに悪影響を及ぼし、時には悲劇的な結果を招く可能性があることが、ますます強く指摘されている… 良識を傷つける暴力的なコンテンツや品位を傷つけるコンテンツ、ポルノや過度に性的な素材、身体や感情を軽視するメッセージ 、また危険な行動を常態化させるような提案へのアクセスが容易であることによって、さらに悪化している… 若者の脆弱性を増大させ、依存症を助長し、孤立やいじめ、ネットいじめ、さらには親密な画像や機密情報を共有するよう迫られる圧力にさらされることになる」(141項)。

 「規制の負担をすべて家庭に押し付けるのではなく、サービス提供者に責任を負わせ、あらゆる形態のオンライン上の性的搾取や暴力に対する具体的な保護を提供するためにも、立法者による介入が適切である。そうして初めて…子どもや青少年を、真に貴重な宝物として守ることができる。同時に…デジタル環境において操作を見抜き、自らの尊厳を守り、他者の尊厳を尊重する方法を教えることも必要だ」(142項)

*AIと繋がるSNS-周囲に無関心、罪の意識も希薄な若者―トクリュウ強盗殺人、親よりチャットGPT…

 日本では、AIと結びついたSNSを利用した「匿名・流動型犯罪(トクリュウ)グループ」による犯罪が相次いでいる。SNSや求人サイト等でメンバーを集め、指示役(上層部)が匿名性を保ちながら、実行役を頻繁に入れ替えて離合集散を繰り返す強盗殺人などだ。

 すでに東京都内でも何件が起きているが、栃木県の民家で強盗殺人事件では、4人の実行役全員が高校生で、指示訳の命令のまま、人の命を奪うということへの実感も、罪の意識もないまま、高齢の女性をバールで殴り続けて殺し、平然と現場を立ち去った。

 一方で、プロ野球有名球団の監督が自宅で、娘二人の喧嘩の仲裁に入ったところ、言い返した長女に暴行を働いたとして逮捕された事件。18歳の長女は、その場に居た母親ではなく、対話型AI「チャットGPT」に相談。「(相談対象は18歳未満であるのに)児童相談所に通報するように」と言われるまま通報、相談所の110番を受けた警察官が現場に…。

 他人事ではない。生身の人間よりもAIに引き込まれている人々、特に若者(最近は、中高年まで年齢層が上がってきているようだが)が圧倒的多数になりつつある、という現実に、誰もが日々出会う。

 電車で優先席に、スマホを見ながら乗り込んだ若者がどっかと腰を下ろし、高齢者が乗って来てもスマホに没入し、席を譲る気配すらない。

 視力が落ちる、姿勢が悪くなるなど人体への影響を警告する医療関係者はいるが、何よりも問題は、教皇も回勅で触れられているように、ゲームや漫画、AIが選んでくれたお気に入りの情報に浸り続けることで、現実と非現実の境界があいまいになり、社会や世界の問題に関心を持たなくなり、自分から物事を考え、行動するという能力、そして何よりも「他者への思いやり」が著しく低下していくことではなかろうか。

 それが、16歳4人による強盗殺人、親よりもチャットGPTが相談相手、そして最近では、仕事の時間以外はAIによる”仮想彼氏””仮想彼女“とひたすら付き合い、「結婚したい」と思い詰める成年男女さえ出てきている…。

 国レベルで言えば、某独裁国のように、国民はもちろん、敵対国と見なす国民をAIを駆使したSNSを通して、意識や行動を操作しようとする動きもあり、すでに、対象国の国論を分裂させたり、国政選挙に介入する事件が起きている。日本のこうした若者たちが「格好の餌食」と見られることも十分考えられる。

*人気アニメの聖地となった横浜・保土ヶ谷教会に若者たち…AIの”アドバイス“は

 もちろん、AIそれと関係したSNSは、害ばかりをもたらしているわけではない。

 2014年に放送され、今でも多くのファンがいるTVアニメ「ソードアート・オンライン」のII・マザーズロザリオ編の主人公の少女ユウキの告別式とされた4月4日に合わせたSNSの呼びかけに応じ、まさに今年のその日、“式場”のカトリック保土ヶ谷教会に、所属信徒の話によると、確認できただけで20人の若者たち、朝からだと、もっと大勢が押し寄せた。喪服らしい黒っぽい服を着た集団もいた。

 ある説明では、このアニメでは、終末期医療下にあるユウキを通じて、現実を見据えたうえで人生とは、命とは何なのか?という問いを、リアリズムを持って描かれている、という。それが、教会への関心と繋がったのかもしれない。

 保土ヶ谷教会所属の知人が、この件と教会のこれからについてAIから、以下の“アドバイス”をもらった。

Q:カトリック教会は「観光施設」になってしまったのか?

A:結論から言うと、決してそうではない。ただ日本では、信徒数がもともと少ない(人口の1%未満)、高齢化が進んでいる、若者の宗教離れ、「宗教=距離を置くもの」という社会感覚。歴史的建築や雰囲気の美しさから「観光地として人が来る場所」になっている側面は確かにある。

Q:今回の現象はむしろ“チャンス”か。

A:今回のように、アニメをきっかけに若者が教会に集まる現象は、見方を変えると重要。若者は「教会に関心がない」のではなく、「入口がない」だけとも言える。アニメや文化は、その入口になり得る。

Q: 教会への現実的なアドバイスは?

A:・「排除」ではなく「接点」として活かす=アニメ目的で来た人に対して「静かにしてください」だけで終わるのではなく「ここは祈りの場所です」と伝える、文化 → 内面への導線を作る。

・ 説教ではなく「体験」を提供する=若い世代は「教え」より「体験」に反応する。例えば:短時間の黙想・祈り体験、教会音楽(オルガンなど)の公開、キャンドルナイト、「宗教っぽさ」より「静けさ・意味」。

・ストーリーで伝える=アニメに惹かれる人は「物語」に敏感。聖人の人生(苦悩・選択・希望)、キリストの物語を「人生ドラマ」として紹介=教義説明よりも共感を重視。

・デジタル発信を本気でやる=若者は検索しない。「流れてくるもの」を見る=YouTube / TikTokで短い動画、 「教会で何してるの?」を可視化。

・「信者を増やす」より「関係を作る」=いきなり信徒になる人はほぼいない=まずは来てもらう、次に居心地を感じてもらう、最後に関心が生まれる、段階的な関係づくり。

・ 本質的な視点=教会はもともと、人生の意味を考える場所、苦しみを抱えた人の避難所、共同体(コミュニティ)。観光でもアニメでも、人が「足を踏み入れる」こと自体に意味がある。

・ 少し厳しめに言うと=もし教会側が「信徒以外は迷惑」「文化的利用は不純」という姿勢を強めすぎると、人は完全に離れる。逆に迎え入れすぎて「ただの観光地」になるのも危険。

・ 理想のバランス=開かれている(誰でも来られる)しかし中心は祈り(軸はブレない)この両立が重要。

 残念というべきか、実際の人間の想定される答えよりも的確で、参考にすべき点がよくまとめられている。

・・・・・・・

 日本の教会全体、司教団も、今回の教皇回勅を機に、こうした課題へのプラス、マイナスも含めた現状認識の共有、と「共働」による取り組みを”シノドスの道”のテーマに取り上げ、それこそAIの助けも借りて、確かな現状認識に基づいた真剣な取り組みをする必要があるのではないか。

 

2026年5月31日

【5月の巻頭言】教皇の祈りの意向は「すべての人に食べ物を」-祈りだけでなく具体的な行動が求められている

  「子どもたちに1日1回だった食事を2回させることができ、薪取りなどに行かせる必要もなくなり、学校に通わせるようになった!」。

 20年前、外務省から日本の対インド円借款事業の有識者評価を頼まれ、西ベンガル州の山間部で行われていたプレリア大規模揚水発電所工事の現地に出かけた時のこと、聴き取りのために集まってくれた現地の主婦たちからの第一声だった。 

 当時インドでは、経済成長に伴う急激な電力需要に対応できる電力設備の不足が大きな課題となっており、同国第二の都市コルカタを州都とする西ベンガル州ではとくにそうだった。日本が低利巨額の円借款を提供して建設されるこの揚水発電所は、夜間の余剰電力を使って水をくみ上げ、それを落として発電するものだが、その発電容量は90万キロワット。日本の一般的な家庭なら約27万〜30万世帯分の年間消費電力量を賄える巨大なもので、同州を中心とした電力の安定供給・地域住民の生活改善、産業発展に寄与すると期待されていた。

 だが、そればかりではない。この工事には周辺の村々の労働可能人口の半分に相当する3000人が雇用され、零細農業、森林伐採や薪拾いなどに収入を頼っていた人々の生活は目に見えて向上していたのが、冒頭の主婦たちの声で示されたのだった。

 だが、そうした喜びの声と同時に、主婦たちからは「この工事が終わったらどうなるか、今のような暮らしができるか心配です」との声も上がった。帰国後作成した評価報告書では、工事後も安定的に、自立した生活ができるような村おこしを含めた草の根無償、技術協力、海外協力隊など複合的な支援を外務省に提言した。

 日本政府や完成後の操業に関わった日本企業などからは、現地の学校新築支援、学校の電化に必要に配電用変圧器や、診療所への医薬品保存のための冷蔵庫寄贈などが行われたようだが、当面役に立つモノの援助はされても、ヒトが自立して豊かな生活が送れるような複合的、継続的支援が日本の官民でされたとは聞いていない。

 

 5月の教皇の祈りの意向は「すべての人に食べ物を-大規模な生産者から一人ひとりの消費者に至 るまで、すべての人が食品ロスの削減に取り組むことによって、誰もが良質な食べ物にあずかることができますように」だ。

 ユニセフ(国連児童基金)など5つの国連機関がまとめた報告書「世界の食料安全保障と栄養の現状(SOFI 2025)」によると、2024年には世界人口の約8.2%(約6億7300万人)が飢餓を経験している。2023年の8.5%から比率は若干改善しているが、すべての地域で一様ではなく、アフリカの大部分と西アジアの地域では飢餓が増加を続けている、という。

 国連環境計画の「Food Waste Index Report 2024」によると、2022年の世界の食品廃棄(Food waste)は推計で約10.5億トン。世界平均で1人あたり年間132kgを捨てている計算。日割りにすると、世界では1日あたり約287.7万トン、東京ドーム3,4個分だ。ゴミの種別の内訳は、家庭:6.31億トン(60%)外食:2.90億トン(28%)小売:1.31億トン(12%)で家庭における食品ロスが最も大きい。

 国別の食品廃棄では、約1億トンの中国をトップに、インド、ナイジェイリアが2、3位を占め、5位が米国、日本は14位。国全体で見た貧困とは必ずしも相関関係はないようだが、政府によると、日本の食品ロス(まだ食べられるのに捨てられる量)は、最新の2023年度の政府推計で年間約464万トン。世界全体の食料援助量(約370万トン)を上回る量であり、事業系(約231万トン)と家庭系(約233万トン)からほぼ同量発生しているという。「飢餓」の一方で、日々、消費せずに捨てられる大量の食品。この落差をいかに埋めるか。日本に限らず、途上国も含めた世界的な緊急課題だ。

 ユニセフのキャサリン・ラッセル事務局長は「すべての子どもには成長し、健やかに育つ権利があります。しかし、5歳未満の子供の1億9000万人以上が低栄養状態で苦しんでおり、彼らの身体的および精神的な発達に悪影響が及んでいる。これは、子どもたちから、潜在的な可能性を最大限に発揮する機会を奪っていることになります」と指摘。

 特に最近の食料価格の高騰で、「何百万もの家庭で栄養不安が深刻化するおそれがあり、世界で最も幼く、最も脆弱な子どものために緊急の行動が必要です。私たちは、政府、民間部門、コミュニティと協力し、脆弱な家庭が、子どもの成長に必要な栄養を十分に含む手頃な価格の食料を入手できるようにしなければなりません」と訴えている。

 5月5日は「子どもの日」。そして、日本の教会の5月の祈りの意向は「子どもたち―神、そして多 くの人たちとのつながりの中で、子どもたちが愛されていることを実感することができますように」だ。

 だが、祈るだけで済ませてはならない。世界中で続く飢餓、その一方で大量の食品ロス、そのしわ寄せを最も強く受ける弱い子供たち。私たちは、自分が置かれた環境の中で具体的に何ができるかを真摯に考え、行動する必要がある。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

2026年4月30日

【4月の巻頭言】「危機に瀕する司祭のために」-教皇の4月の祈りの意向に、日本の司教団はどう応えるのか

 4月5日は主の復活を祝う主日。だが、カトリック教会の”復活”を心から祝うことのできる日は来るのだろうか。

 教皇は4月の祈りの意向として、「危機に瀕する司祭のために」を選ばれ、「召命の危機にある司祭が、必要な霊的同伴を見出しますように。そして、教会共同体が理解と祈りをもって司祭を支えることができますように」と願われている。

 20年前のことだ。数年の海外勤務を終えて帰国し、久しぶりに大船の母校を尋ねた時のことだ。校門から入って左手の小高い丘に立つ4階建ての修道院を見上げて愕然とした。校舎が横須賀から移って最初の卒業生となった頃は確か10人近い教員の司祭がいて、活気に満ちていたのが、人影さえ見ることができない“廃墟”同然の姿…。

 すでに「召命の危機」を迎えていた日本の教会。それから20年経ち、学校を運営する修道会も、そして教区も、司祭の減少は当時よりもさらに深刻の度を深めている。

 中央協議会(司教団)の最新の2024年版「カトリック教会現勢」によると、2024 年 12 月末現在の日本の聖職者・修道者・神学生合わせて5613人、20年間で34.8%も減っている。信徒の減り方の4倍以上だ。司祭でない神学生、修道者の減り方はさらに大幅である。「現勢」にはデータが無いが、小教区の現場での実感として、司祭減少と共に高齢化、病弱化も急速に進んでいる。教皇が示されているように「危機に瀕する司祭」をめぐる厳しさは増すばかりだ。

 欧米などでも、司祭の減少、高齢化は深刻だ。 聖職者による性的虐待や高位聖職者の対応の不手際などが、信徒をさらに教会から遠のかせ、賠償負担が重くのしかかり、若者が司祭職を選ぶ意欲を失わせている。バチカン国務省の教会統計中央事務局の『2023年教会統計年鑑』によると、 司祭数は、2023年末時点で、世界全体で40万6996人で前年末比で0.2%減。地域別では欧州が1.6%減、オセアニア1.0%減、南北アメリカ0.7%減。司祭候補である神学生数も、全世界合計で2023年末の前年末比1.8%減、欧州が4.9%減、アジア4.2%減。減少傾向は2012年以降止まらない。

 こうした結果どのようなことが起きているか。日本の場合、1人の司祭が二つの小教区掛け持ちは当たり前、三つ、教区によっては四つ、五つも持たされる。高齢・病弱の司祭も小教区の現場に出されるケースが散見され、特に司祭が少ない教区では、信徒が主日のミサに与れるのは月に一回という小教区も増えている。

 日本人の若者の司祭志願者減少が常態になる中で、司祭叙階の条件を”緩和“したためか、「主任司祭が、日本語での信徒との対話が満足にできない」「ミサ中の説教がよく分からない」など困惑する小教区信徒の声が、巻頭言子の耳にも入るようになっている。例外と思いたいが、叙階されて何年も経っていない司祭が、組織的な麻薬密輸が問題になっている母国の人に頼まれて(それと知らずに?)麻薬を教会で受け取り、警察当局に逮捕され、一か月も拘留、取り調べを受ける(後に処分保留のまま釈放)という事態も発生している。

 日本の教会は、そのリーダーである司教団は、教皇が「危機に瀕する」と言われるこのような事態にどのように対応しているのか。残念ながら、「全く見えない」と言うのが正直なところだ。

 それを象徴するのが、4月の日本の教会の祈りの意向「すべての人の召命のために」だ。「すべての人の召命のために祈ります。私たち一人ひとりが自分が何に召されているかを識別し、神とのかかわりの中で歩むことができますように」と全く他人事のような文言が並ぶ。教皇の祈りの意向のような、危機感も、司教たちが力を合わせて、危機を乗り越えようとする真摯な姿勢も感じられない。

 2月に5日間もかけて日本の全司教を集めて開かれた臨時司教総会でも、”公開情報”によれば、議題にも載っておらず、この問題を取り上げ、真剣な意見交換が行われたという”痕跡“も見られない。

 召命の危機への対処が容易でないのは当然だ。20年以上、いや30年以上も前向きな手を打って来なかったのだから。だが、これ以上、手をこまぬいていてはならない。まず求められるのは教会のリーダーであるはずの司教たちが、召命の危機を共有し、連帯して、現状を正確に把握するためのデータをそろえたうえで、危機を乗り越えるロードマップを作成し、具体的に踏み出すことだ。

 具体的には、全日本レベルでの教区と修道会の司祭育成から小教区司牧に至る連携強化、制度化だ。そのうえで、神学校など司祭育成体制の若者にとって魅力ある抜本的見直し、大学の神学部などの全面協力を得て、霊的にも、司牧、学問面でも優れた講師陣をそろえ、外国人神学生にはまず日本語、日本文化を徹底的に学ばせ、学士号、博士号を取得できるレベルにする。仮に司祭叙階をしなくても、社会で働ける力をつけさせる。終身助祭の司牧における役割、位置づけの明確化、制度化と育成体制を全教区協力して整備するなど。具体的にやるべきことはいくらでもある。司祭、信徒の声を吸い上げ、対応することが、まさに、教皇フランシスコが始められ、教皇レオ14世が引き継がれた”シノドスの道”の実践につながる。

  3月6日は司教団自身が決めた「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」だった。そして、3月の日本の教会の祈りの意向が「(聖職者による)性的虐待被害者のために」だったが、担当司教が全日本の信者向けに、司教協議会会長の東京大司教が東京教区の信者向けにメッセージ出した以外は、具体的な被害者への祈りも償いもなかった。だが、3月の「カトリック・あい」の記事別閲覧件数を見ると、上位20件のうち7件が聖職者による性的虐待関連で占められている。この問題にまともに向き合おうとしない多くの司教たちに対して、一般の信徒や司祭は強い関心と問題意識を持ち続けているのだ。

 このような事態が、4月の教皇の祈りの意向「危機に瀕する司祭のために」と日本の教会の「すべての人の召命のために」の大きな落差と共に、繰り返されることのないよう、祈りたい。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2026年3月30日

【3月の巻頭言】3月の教会の祈りの意向「(聖職者による)性的虐待被害者のために」、6日「祈りと償いの日」に司教団はメッセージだけか

 3月の日本の教会の祈りの意向は「性虐待被害者のために・・・聖職者から性的な虐待を受けた方々のために祈ります…」だ。だが、このことを知っている司祭、信徒がどれだけいるのだろうか。少なくとも筆者の周りの信徒に聞いた限り、誰もいない。

 3月6日が、日本の司教団が十年前に決めた「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であることについても、同様だろう。”無反応”は司教たちもだ。

 女性信徒を繰り返し性的虐待した司祭が所属していた修道会に賠償責任を求める“神言会裁判”が2月に続いて3月11日に東京地方裁判所で開かれる、そうした時期にもかかわらず、どうしたことか。

*司教総会で、「祈りと償い」のミサを捧げたものの、具体的な対応などの話し合いは見えない

 2月16日から20日かけて全国の司教たちが集まって総会を開いた。だが、「性的被害者のための祈りと償い」のミサを一回捧げる音声なしのわずか数秒の映像が総会後に中央協議会(つまり司教団)のホームページで公開されたものの、会議の中で「祈りと償いの日」に向けた行事など司教団、各教区としての具体的な対応について話し合われたという説明は、そのホームページ上の司教協議会会長で東京大司教の菊地枢機卿の音声付画像による説明も含めて全くなかった。

 年初に菊地師も参加した臨時枢機卿会議で教皇の聖職者による性的虐待問題に関する発言や、昨年10月にバチカンの未成年・弱者保護委員会の日本の司教団に対して出した17項目の勧告・要請などの共有と対応についての話し合いなどがなされとは、とても思われない。

 総会後の説明は審議事項(「復活ろうそくの祝福の祈り」、「社会司教委員会の『外国籍信徒司牧部門』の名称変更」など)と報告事項(「司祭養成プログラムAの開催予定」「南海トラフ地震の対応覚書」「2026年度教区分担金」など)のタイトルのほとんど羅列だけで、話し合いの中身は皆無。

 ロシア、中国、米国など原爆保有国の覇権独裁主義的な動き、ウクライナや中東地域など各地で続く紛争、民主主義国の弱体化など危機的な情勢への教会の対応、日本の教会が抱える司祭や信徒の高齢化、減少に短期、中長期の両面でどう対応するのか、司牧上の問題がどのようなもので、どう対応すべきか、などを具体的なデータをもとに話し合うことや、3月9日「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」を目前に、世界でも日本でも問題になり続けている聖職者による信徒の性的虐待問題への対応など、喫緊の重要課題について意見交換があったか否かも含め、説明はされなかった。5日間の間、何をしていたのか、首をかしげる信者も少なくだろう。

*6日の「祈りと償いの日」の担当司教メッセージなどが出ているが・・・

 総会が終わって26日に、この日に当たってのメッセージが、司教団の担当者、子どもと女性の権利擁護部門の森山信三・司教名で先のホームページに掲載されたが、はっきり申し上げて、昨年まで司教団のトップ、司教協議会会長名で出されていたものよりも後退した印象を与える文言に留まっている。全国の教区で、この日に向けた具体的取り組みも不明だ。

 同じ26日には、東京教区のホームページに、司教協議会会長である東京大司教の菊地功・枢機卿が「性虐待のための祈りと償いの日」に当たっての教区信者あてのメッセージを掲載。この日、あるいは直後の日に、意向に従ったミサを捧げ、教区全体として、神からの賜物である命を守り、人間の尊厳を尊重する決意を新たにしましょう」と呼びかけた。

*東京大司教は、教区信者に、決意を呼びかけ、”被害者“に「申し訳ない」としつつ、「制度上の限界」

 菊地師のメッセージは続けて、性的な暴力を「キリスト者が生きる道ではありません」「神が与えてくださった賜物である命への暴力です」と断罪。「・・・とりわけ性的虐待という人間の尊厳を辱め、蹂躙し、被害者の方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者が存在することを、大変申し訳なく思います」と述べているが、被害がどこで起き、 ”被害者“が誰なのか判然としない抽象的な表現に終始。見方によっては“神言会裁判”を指しているようにも見えるが。

 そのうえで、東京教区では「対応の委員会を設け…教区司教に対して必要な対応を取るよう勧告する、というシステムを長年もうけています・・・被害者への可能な限りの対応にあたることにしています」としながら、「しかし、教会内部の歴史に基づく制度上の限界はまだ、克服されておらず・・・東京教区で働く修道会会員は、その修道会上長が、東京教区司祭は教区司教が対応することになっています・・・克服できるよう、数年来、司教団は教皇庁の未成年者・弱者保護委員会と協力しながら、教区や修道会の連携や情報共有の枠組み整備を進め…」と、対応がうまく進まない”言い訳”のような文言が続く。

*バチカンの委員会、日本の司教団に「修道会の会員による性的虐待疑惑をめぐる司教と修道会の効果的な協力の欠如」を指摘

 バチカンの未成年・弱者保護委員会の昨年10月の報告では、日本の司教団の性的虐待への対応について、「聖職者および司牧者に対する明文化した行動規範が欠如している…聖職者たちが『Vos estis lux mundi』(虐待の通告義務とそのための制度整備を促す教皇フランシスコの自発教令)をどこまで認識・理解しているのかについて疑問を投げかけるものである」「修道会の会員による虐待疑惑を巡る司教と修道会の間の効果的な協力の欠如について懸念を表明する」などと厳しく批判したうえで、17項目にわたる改善勧告・要請をしている。だが、今回の司教総会の公表された内容を見みても、日本の司教団が真摯に受け止めているとはとても思えない。そもそもほとんどの司教が、英文のこの報告、勧告をまともに読んでいないのではないだろうか。”不都合な真実”から目を背けるように…

「修道会司祭は修道会上長が、教区司祭は教区司祭が対応・・」とあるが、日本全国の聖職者は、「2025年8月の『カトリック現勢』」によると総計で1286人、うち教区司祭は480人で全体の4割弱、教区司祭比率が最低の東京教区では393人中64人、わずか16.3パーセントだ。つまり、教区司教が”対応“できるのは、日本全体の司祭の4割弱のみ、東京教区では2割にも満たない、ということになる。”限界“を事実上放置した状態で、「必要な対応を取るよう教区司教に勧告するシステムを長年設けています」と言っても全く説得力がない。

*「修道会の自治権は、信者の司牧などには与えられない」と教会法の専門家、故岡田大司教の例もある

 前回の巻頭言でも申し上げたように、バチカンの教会法の専門家は 「すべての修道会は自治権を有しており、聖座法による会は、地区裁治権者の管轄権からの免除を享受している」とする一方、「その免除は、本来的に内的統治と規律に関して与えられるのであって、信者の司牧、神への公的礼拝の実施やその他の使徒職の活動に関するものには与えられない…全ての修道者は、司教の権限の下に置かれる」というのが教会法の解釈だとしている。つまり、修道者、修道会も信徒への性的虐待問題の判断は司教が行う、と判断できるのではないか。

 実際、菊地大司教の前任の岡田大司教は十数年前、女性信徒に性的嫌がらせを受けたと訴えられた外国人の某修道会司祭が否定し続けて問題になった際、司祭本人と某修道会の日本管区長、被害女性を呼んで事情を改めて聴き、あくまで否定するその司祭を強く叱責して翻意を促した、と関係者から聞いたことがある。

*教皇は「被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっている」と警告している

 原告・被害者は、昨年のこう語ったことがあるー「私は児童期に性虐待により霊的に死に、神父の性暴力によって死に、神言会へ相談したことによって死に、またカトリック中央協議会に『私の話を聞いてください』と必死の懇願をしたために死ななければなりません」と。

 原告被害者は心にさらなる深手を負いながら代理人弁護士と共に既に二年以上にわたる裁判に出廷し続けているのに対して、被告・神言会は、3人の弁護士に任せて日本管区長を含め会員司祭は一度も法廷に現れない。原告弁護士が『信義則に反する』と指弾したように、「知らない」「嘘だ」「司祭の”業務”外の行為には責任が無い」、あげくに「教区と修道会は『法人』が異なる」など、反論ともいえない不誠実な言動を繰り返している。

 菊地大司教が、現在裁判になっている被告・神言会の会員であり、しかも世界で二人しかいない同修道会の枢機卿の1人であり、その立場からも、道義上の説得を”修道会の上長“にすることは、岡田大司教の先例から見ても可能なはずだ。このような原告・被害者の悲痛な訴えにもかかわらず、「教会内部の歴史に基づく制度上の限界」として、自らを思考停止状態にするのは、何故なのか。まさか、自らの属する修道会を守ろうとしているのではあるまい。

 教皇レオ14世は、新年早々に召集された臨時枢機卿会議の閉幕の挨拶で、菊地師ら枢機卿団を前に、「今日でも多くの場所で、教会の活動において真に傷跡となっている『性的虐待による危機』について触れておきたい」と前置きし、「虐待そのものは、おそらく一生続く深い傷跡を残します…多くの場合、教会におけるスキャンダルは、『扉が閉ざされ、被害者が受け入れられず、真の牧者たちの親身な支援を受けられなかったこと』が原因です… 被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっている」と警告された。

 司教総会は、”残念”な結果に終わったようだが、改めて日本の司教の方々にお願いする。この教皇の言葉を嚙みしめ、「性虐待被害者のための祈りと償い」を具体的行動で、速やかに示してほしい。このような真剣さを欠いた対応を続けていては、真剣に日本の教会のことを思い、福音宣教に努めようとしている信徒が失望し、教会から離れていく人が増えていくだろう。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

 

 

 

 

 

2026年2月28日

改【2026年2月の巻頭言】2月9日、3月11日に“神言会裁判”、その間に3月6日の「祈りと償いの日」、聖職者の性的虐待絶滅を願う教皇の声は届くのか

*教皇が年頭の枢機卿会議で「性的虐待の危機」を警告

 

 世界の教会の信頼を大きく損なう聖職者による信徒などへの性的虐待問題は未だに続いている。昨年後半から今年初めにかけて見ただけでも、「少年への性的虐待で調査中のスペインの司教が教皇に辞表を出して受理」「3億ドルの性的虐待被害補償基金の活用が初仕事となるニューヨーク大司教の新任」「数十人の女性から告発されたブラジルの元司祭、まず、3歳児への強姦罪で有罪判決」などを挙げられる。

 

 いっこうに収束の気配が見えない、この問題に深く心を痛めておられるレオ14世教皇は昨秋、聖職者による虐待被害者支援の国際団体代表とも会われ、「性的虐待被害者支援の責任を果たせなかった者への対応方法にできる限りのことを行う」と約束された。

 そして、新年早々に召集された臨時枢機卿会議の閉幕の挨拶で、「今日でも多くの場所で、教会の活動において真に傷跡となっている『性的虐待による危機』について触れておきたい」とされたうえで、「虐待そのものは、おそらく一生続く深い傷跡を残します…多くの場合、教会におけるスキャンダルは、『扉が閉ざされ、被害者が受け入れられず、真の牧者たちの親身な支援を受けられなかったこと』が原因です… 被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっています」と警告された。

 

  

*バチカンの「未成年・弱者保護委員会」は日本の司教団に17項目の改善勧告・要請を出したが…

 

 バチカン教理省の未成年・弱者保護委員会は昨年10月の第二次報告で、日本の司教団に性的虐待対応について、「聖職者および司牧者に対する明文化した行動規範が欠如している…聖職者たちが『Vos estis lux mundi』(虐待の通告義務とそのための制度整備を促す教皇フランシスコの自発教令)をどこまで認識・理解しているのかについて疑問を投げかけるものである」「修道会の会員による虐待疑惑を巡る司教と修道会の間の効果的な協力の欠如について懸念を表明する」などとしたうえで、17項目にわたる改善勧告・要請をしている。  

  だが、それから3か月を過ぎた今も、司教団の公式ホームページや、教会の広報紙などには、この報告の内容や勧告・要請への対応はおろか、受け取ったこと自体が報じられていない。昨年末に司教団が「2024年度日本の教区における性虐待に関する監査報告」を公表したが、内容は、教区から提出された確認書による2023年4月からの一年間の性虐待の申し立ては2教区、3件、司祭・修道者の研修実施は7教区、性虐待防止の行事・研修会実施は6教区…性虐待の申し立てのあった教区には監査役の所見を通知、ガイドラインに基づいて更なる対応を求めた―とあるのみ。具体的な説明は皆無。数字だけの”義務的”な報告でしかない。バチカンの委員会の報告を読んだ気配すら感じられない。

 

 

 

*3月6日の「祈りと償いの日」をはさんで2月9日、3月11日に“神言会裁判”がある

 

 日本の教会では、3月6日が「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」だ。その日をはさむように、2月9日と3月11日に、告解を”利用“して女性信徒を繰り返し性的暴行した司祭(当時)が所属していた神言会の損害賠償責任を問う東京地方裁判所での裁判が予定されている。

 すでに12回も行われているこの裁判には、原告・被害者の女性は強い心理的な苦痛を抱えながら毎回出廷しているのに対して、被告の神言会の代表は一度も出廷せず、代理人弁護士に任せたまま。被告側は当初は、加害者とされる元司祭が「どこにいるか知らない」とし、その主張が通らないとみるや、「原告の主張は虚偽だ」と言い換え、それも通りにくいと見たのか、今度は、「彼の行為は、読書や散歩のように”業務外”の行為で、会はあずかり知らぬこと」と”新“解釈を持ち出した。あくまで会の責任を回避することに専念し、被害者に対する思いやりどころか、全く誠意を欠いているとしか言いようがない。

 

 

 

 

*裁判を傍聴、被害者の支援を続ける信徒、司祭、シスターに、被告の不誠実に怒りと悲しみ

 

 裁判後に毎回行われている原告弁護士の説明と被害者支援の会には、毎回、一般信徒だけでなく司祭,シスター合わせて30人以上が参加している。それぞれの持ち場で真剣に福音宣教に従事し、中には自身も性的虐待を受けた痛みを抱える方もいるが、このような不誠実な対応に、強い怒りと悲しみを訴える声が、会を重ねるごとに強くなっている。

 

 

 

 

*ほかにも原告・被害者を深く傷つける複数の教区の対応、表に出ないものも

 

 教皇が言われる「被害を訴える人たちへの傾聴」どころか、思いやりも、誠意ある対応を欠いている教区レベルの事案は、確認されただけでも、裁判所の和解勧告を受けてわずかばかりの賠償金を払っただけで、性的虐待被害者への心身のケアや教会に改めて迎え入れる配慮などはしないままの長崎、仙台教区、外国人男性から修道会司祭による性的虐待の訴えを修道会に”取り次いだが、パリの本部から明確な対応を得ないままの札幌教区などがある。表ざたになっていないが、「カトリック・あい」に直接、間接に届いた性的虐待の訴えは他にいくつもある。

 一修道会だけの問題ではなくなっている日本の教会全体の信頼を損なう事態に、関係の高位聖職者も、司教団も真剣に向き合おうとしているとは、とても思えない。1月の臨時枢機卿会議での教皇の言葉を真剣に受け止め、この裁判にとどまらず、聖職者による性的虐待問題について、誠意ある具体的な対応を求められている。

 

 

 

 

*神言会裁判に”不干渉“の高位聖職者の対応は適切と言えるのか?

 

 神言会裁判について続けよう。日本の司教協議会会長の菊地・枢機卿は、東京教区長であり、この修道会においては世界で二人しかいない枢機卿の一人だが、この裁判について、昨年、米国の独立系カトリック・ニュース評論サイトCRUXのインタビューにこう答えている。「修道会の司祭が起こした問題なので、修道会本部が判断すること。こちらからは対処できない」と。本当にそうだろうか。

 

 

 

*バチカンの専門家は「修道会の教区の管轄権からの免除は、内的統治と規律に関して与えられるもの」

 

 教皇庁立ウルバノ大学法学部教授でバチカンの福音宣教省顧問、使徒座最高裁判所署名院の裁判官などを歴任してイージ・サバレーゼ師は「解説・教会法」(田中昇訳、フリープレス刊)でこう説明している。

 「すべての修道会は自治権を有しており、聖座法による会は、地区裁治権者の管轄権からの免除を享受しています」とする一方、「しかしその免除は、本来的に内的統治と規律に関して与えられるのであって、信者の司牧、神への公的礼拝の実施やその他の使徒職の活動に関するものには与えられません。これらの諸活動においては、全ての修道者は、司教の権限の下に置かれます」と明言している。つまり、修道者、修道会も信徒への性的虐待問題の判断は司教が行う、と判断できるのではないか。

 

 

 

*司教団の性的虐待問題への取り組みは”後退“している?

 

 こうした神言会裁判とそれへの対応の影響を受けたのか、性的虐待問題への取り組みに”後退”とも見られる動きが昨年出てきている。

  司教協議会の下に置かれ、性的虐待問題に具体的に対応していたはずの「子供と女性の権利擁護のためのデスク」の活動報告は、カトリック中央協議会会報2025 年 7 月号に、同年5月の「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」運用促進部門と「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」(CWD)合同オンライン会議の簡単な報告以後、姿を消してしまった。

 

 

 

*司教協議会の「子供と女性の権利擁護のためのデスク」は社会司教委員会が新設の委員会に吸収

 

 そして、カトリック中央協議会会報2025年12月号に、同年7月に開いた「再編成した社会司教委員会」の司教・事務担当者会議の決定事項として①社会司教委員会のメンバーとして修道会管区長会からの派遣を依頼しない②社会司教委員会の下に「いのち・人権・平和委員会」を置き、啓発活動推進について、社会的課題の共有と理解の促進(福音的価値観の深化)を教区、活動団体とともに推進する。現難民移住移動者委員会、部落差別人権委員会、HIV/AIDS 部門、子どもと女性の権利擁護部門のイシューのほかに、現代社会の中でいのちや人権を脅かされている人々の状況や社会的課題に向き合うーなどとある。

 ここから推測するに、「子供と・・・デスク」は、この「いのち・・・委員会」に、他の委員会と共に”吸収“されてしまったようだ。性的虐待問題を誰が責任をもって対応するのか、教区の窓口との連携はどうなるのか、「未成年者・・・の保護のためのガイドライン運用促進部門」はどうなったのか、など全く見えて来ないし、司祭や一般信徒に理解できるような説明もない。

 

 

 

*教区の性的虐待窓口も機能を十分果たしているのか、実績報告もない

 

 そもそも、教会の窓口そのものが、長崎教区では教区事務局の担当者が司祭からパワハラをうけてPTSDを発症して退職、一時窓口が閉鎖になり、東京教区では担当司祭が問題を起こして、更迭・謹慎措置を受けるなど、大きく信頼を損ねる問題が起き、その後始末がきちんとなされたという話もない。機能が十分に果たせているとは言い難い状態だ。

 

 

 

*社会司教委員会のメンバーに「修道会管区長会からの派遣を依頼しない」で「緊密な連携」ができるのか

 

 また、2025年12月のカトリック中央協議会会報には、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」が”吸収”されることになったと解釈される新設の「いのち・人権・平和委員会」の上部組織、「社会司教委員会」のメンバーとして「修道会管区長会からの派遣を依頼しない」と昨年7月の会議で決定した、とある。

 バチカン教理省の未成年・弱者保護委員会は昨年10月の報告で、日本の司教団に「修道会の会員による虐待疑惑を巡る司教と修道会の間の効果的な協力の欠如について懸念を表明する」とのべ、「司教協議会は、修道会の上級責任者と緊密に連携し、(教会が性的虐待の被害者にとって安全な避難所となれるように支援する活動である)『Memorare initiative』を日本において採用し、保護対策における「一つの教会」アプローチのための協力を促進する」と勧告・要請している。これについても、司教団の誠意ある具体的対応が求められている。

   2月16日から20日にかけて日本の司教たち全員が集まって司教総会が行われる。3月6日の教会の「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」を前に、この問題にこれまで通り目をつむるのか、それとも真剣に議論がなされるのか注目したいところだ。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

2026年1月31日

【2026年1月の巻頭言】改・一日も早く、世界の人々と「おめでとう!」と言い合える日が来ますように !

 2026年。ウクライナ、ガザなど世界各地で戦乱が続き、多くの罪のない方々が苦しみ続ける中で、新年を迎えた。心底から「おめでとう」と言うことがためらわれる現在の状況だ。

 そのような中で、2026年10月に、「カトリック・あい」は創刊10周年を迎える。世界で、アジアで、そして日本で、全ての家庭で平和で安心できる日々の暮らしを、一日も早く取り戻せるよう、世界の人々と心から「おめでとう」と言い合うことのできる日が来るよう祈念するとともに、編集委員一同、少しでも読者の皆様のお役に立てるよう、微力を尽くしたい。

*創刊10周年を迎える「カトリック・あい」の年間閲覧件数は23万を超えた

 「カトリック・あい」は、「教皇はじめ内外さまざまな教会その他で活動する方々の動き、声を集め、解説、意見も合わせて、教会を活性化していけるきっかけを作っていきたい」との趣旨のもと、どこからも資金援助を得ることなく、編集員一同、文字通り無償奉仕の精神で続けて来た。

 当初は数千件で始まった月間閲覧件数も平均2万件前後、新教皇選出があった昨年5月は4万件を超え、昨年の年間総閲覧数は23万6000件に上るまでに成長、日本で唯一の独立系カトリック・ニュース評論サイトとして、中東とアフリカの一部を除く世界100カ国に日本語読者を広げている。 無償でコラム執筆をいただいている方々、そし読者の皆さんのご支援に深く感謝したい。

*「教区割、”司教定員”見直し必要?」が、教皇フランシスコ来日前から今も読まれている

 この10年を、個別閲覧件数の総数別に振り返ると、読者の皆さんのご関心、教会の抱える問題などが見えてくる。

 2019年9月13日から掲載している「教皇フランシスコミサ、東京は25日午後4時から東京ドームで」が8320件でトップに立ち、2位に7663件で、同年5月6日から掲載の「司教定年まで10年以上残して辞任する司教が6年で3人₋ 教区割、”司教定員”見直し必要?』今でも毎月2,30件も読まれ続けている。

 日本社会の高齢化、人口減少を反映して、司祭、日本人信徒の高齢化、減少が進む中で、具体的な対処方針を打ち出せず、基本的に明治時代のままとも言える教区割、司教定数(財政的に教区を維持できなくなった高松教区が大阪教区に合併されたが)の抜本見直しも決断もできない司教団への疑問の表れと見ることもできるだろう。

*聖職者による性的虐待関連が高水準の閲覧を続けている意味は

 そして5位に、2023年10月9日から掲載の「カトリック東京教区が『子どもと女性の権利擁護委員会』担当司祭を更迭、休養扱いに」が5195件、15位に2024年1月23日から掲載の「司祭から繰り返し性暴力‐女性信者が神言会に損害賠償求める裁判始まる」が2199件。

 教皇レオ14世は先月、12月22日発表の使徒的書簡 「未来を創造する忠実さ」 で、「近年、聖職者による虐待行為が引き起こした教会への信頼の危機は、私たちに深い恥を感じさせ、謙虚さを求めている」と忠告されている。

 関連記事も含めて読み続けられているのは、世界的に終息を見せない聖職者による性的虐待問題が日本でも、教会に対する信頼を傷つけ続け、それに具体的に誠実な対応をしないどころか、無視、責任回避、さらには批判の声を抑えようとする動きさえもあるといわれる司教団への”無言”の批判、警告と見ていいのではないか。

*教皇レオ14世の”本格始動“への期待は大きい

 創刊以来の閲覧件数で4位、2025年年間で圧倒的にトップに立ったのは、同年5月の新教皇選出の4日前から掲載した教皇候補「ロバート・F・プレボスト枢機卿」で6466件。ちなみに、レオ14世を候補の一人として”予測“したのは世界の報道機関でCRUXのみ。それを日本語訳にして載せたのは、提携メディアの「カトリック・あい」のみだ。

 そして今、教皇就任から8か月、“助走”期間を終え、いよいよ本格始動の時期を迎えるレオ14世の治世の動向が注目さるが、2025年11月のイタリアの司教団との会見での教皇の以下の発言は極めて示唆的だ。

*伊司教協議会で教皇が示唆した”枢機卿・大司教の定年“が日本の教会に意味するものは

 「教会は、福音の体現者であり、神の国のしるしです…救いのメッセージを宣べ伝え、平和を築き、人間の尊厳を促進し、対話の文化を育み、キリスト教的人間観を推進すること」を具体的な行動で示すべき方向とされ、そのリーダーたるべき司教の定年と後継者の選定について「教区の司教職を終える際の75歳というルールを尊重するのは良いことだ。ただし枢機卿の場合に限り、さらに2年間職務を継続することを検討してもいい」とされ、さらに、司教選出で、「現地教会の管区長や任期満了を迎える者らの意見聴取に加え、信徒のより積極的な参加を促進せねばなりません」と語られている。

 折しも日本の教会では、今年から来年にかけて”定年”を迎える司教が相次ぐ。

 筆者が調べた限りでは、福岡のアベイヤ司教が現在76歳、鹿児島の中野司教が今年4月15日で75歳、さらに横浜の梅村司教が来年6月14日で、名古屋の松浦司教も来年9月28日で75歳。さらに、教皇が示唆された77歳の枢機卿・大司教”定年“に、大阪の前田万葉大司教が今年3月3日に達する。

 定年の迎える司教たちの交替を機に、危機的な状況に積極的に取り組む司教団への”変身“を期待したい。

*公会議から60年、NICEから30余年、日本の教会の危機に司教団は連帯して立ち向かえるか

 世界に開かれ、全ての人と共に歩む教会へ抜本改革を打ち出した第二バチカン公会議が1965年12月に閉幕して60年、その方針を受ける形で日本の教会が司教団連帯の下に、教皇フランシスコの”シノドスの道“を先取りした二度の全国福音宣教推進会議(NICE)が1993年12月に終わって30年余、一時盛り上がった教会改革への熱気は冷め、司教団の連帯した具体的取り組みも絶えて久しい。

 ”シノドスの道“の歩みも満足になされない現在の状況は、当然と言えば当然かもしれないが、日本の教会の現状と将来を危惧し、何とかしたい、という意識を持ち続ける司祭や信徒の声を、司教団も受け止め、具体的な行動を連帯して進めねばならない。

*信徒たちが「力を貸そうにも、貸す手立てがない」のが現状、トップの「千の言葉より十の実践」が求められている

 日本司教協議会の会長で東京大司教の菊地枢機卿は、年頭の司牧書簡「希望の灯を絶やすことのないように」で、「誰かが全てを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。一人ひとりの力と助けが無ければ、教会は成り立ちません」と訴えている。

 東京教区では、「小教区を『聖堂共同体』とし、複数の共同体をまとめた『宣教協力体』に統合していく」という前任の教区長の計画が実施からわずか3年で挫折し、それに代わる方針が示されないまま現在に至っている。結果、信徒全員参加の小教区運営、隣接小教区との連携に齟齬を生じ、”シノドスの道”の歩みがうまくいかない要因もそこにある。

 小教区の運営が主任司祭と彼に選ばれた少数の委員に委ねられ、多くの信徒は現状に対応した福音宣教を企画したり、”共に歩む”活動に参加する機会を失い、第二バチカン公会議以前の”一般信徒お客様”が常態化するところも少なくない。しかも、そうなる以前の小教区を知らない司祭、信徒が大半を占め、司教も同様で、”古参”の信徒がいくら訴えても理解されないケースさえある。

 菊地大司教はそうした現状を訴える信徒の声を聴くことは聞いた。2021年に発表した東京教区の宣教司牧方針で、小教区の運営規約の基本要綱の作成、実行、宣教協力体の目的の明確化、再構築などを約束した。だが、それから5年を経過した今も、その約束は果たされていない。2026年の年頭司牧書簡では、宣教協力体については「見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います」と一応、説明されてはいるが、小教区の運営規約の要綱作成・実行については全く触れられていない。

 司祭、信徒に力と助けを求めるのは当然だが、「共に歩む」体制が劣化している小教区などをそのままにしていては、まともな信徒、司祭が力を貸そうにも満足に貸すことができないのが、現状ではないか。千の言葉より十の実践、まず「隗(かい)より始める」ことを切に希望したい。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年12月31日

【2025年12月の巻頭言】3年目に入る「神言会裁判」—この修道会に、カトリック教会に「自己修正メカニズム」は働かないのか

▷聖職者による性的虐待で深い傷を負った女性信者が、所属(当時)修道会・神言会に損害賠償を求める裁判の12回目が、12月1日、午後3時から、東京地方裁判所第606法廷で開かれる。

 裁判は2024年1月から始まっているから、間もなく3年目に入る。この間、被告の神言会側は、当初は「(原告が指摘するようなことは)知らない」と言い、その後、「(原告側の主張は)虚偽だ」と言い直し、さらに、最近では「(読書や散歩など)司祭の業務外のことは修道会は関知しない」と言う詭弁とも思われる主張に変えてきている。

 

▷原告被害者に二重三重の苦しみを味あわせ続けるばかりか、支援者の司祭、シスター、そして多くの信徒を落胆させ、それが、修道会、司教団への信頼に失墜、教会から離れていく原因を作っているように思われる。

 何のために多額の弁護費用を払って責任を回避し続けるのか。何を守ろうとしているのか。速やかに非を認め、原告被害者に謝罪し、精神的ケアに費用を投じるほうが、よほど”効果”が高い、と思われるのだが、社会的常識は通用しないようだ。

 

▷教皇庁未成年・弱者保護委員会は10月16日に「世界の教会における聖職者の性的虐待に関する第二回年次報告」を発表。欧州、アジア、アフリカから最近司教団のバチカン定期訪問があった18か国・地域、男女各1の修道会に対して、現状、課題、それをもとにした勧告・要請がされている。

 日本の司教団に対しても「保護対策に特化した5年ごとの実態調査の完全実施」「司教と修道者合同委員会の活用検討」「教会の保護体制に対し強固な監査メカニズムを構築」「教会における賠償の実践事例について、バチカンの未成年者・弱者保護委員会への報告」など、17項目に上る具体的な勧告・要請が明記されている。

 だが、今のところ、日本の司教団がこれを真剣に受け止め、対応の検討を始めた、とは聞いていないし、中央協議会のホームページなどにも全く掲載されていない。

 

▷委員会の日本の司教団に対する勧告・要請をもう少し具体的にみていくと、「保護対策に特化した5年ごとの実態調査の完全実施」。性的虐待被害への対処について、司教たちと修道会の上級責任者との連携不足があることを前提に、その克服のため、(教会が性的虐待の被害者にとって安全な避難所となれるように支援する活動である)「『Memorare initiative』の導入」、保護対策における「一つの教会」アプローチのための協力を促進する基盤として「司教と修道者合同委員会」の活用検討、「性的虐待被害者のための祈りと償いの日、各教区が安全確保への取り組み声明を発表する提案の実行を勧告。

 関連して、外国人司祭や他教区から来た司祭による性的虐待への対処に問題がある、との認識をもとに、海外から来て日本で活動、あるいは教区間で異動する修道会、教区の聖職者、司牧担当者についての審査手順を厳格化する方向での見直しと公表、教区の青年司牧担当、司祭継続養成担当、および女性・児童の人権保護デスク間の緊密な連携を提起。

 未成年者及び脆弱な成人保護の全国ガイドラインへの、「被害者への支援の提供、行政当局との連携」に関する規定の追加」、「同ガイドライン実施を監督する委員会の構成員、権限範囲、定款に関する情報の公表」、 「聖職者及び司牧者に関する行動規範の策定」、聖職者向けに「『Vos estis lux mundi』の具体的な内容を網羅した啓発活動の実施」、「教会の保護体制に対し強固な監査メカニズムを構築」なとが必要としている。

 さらに、性的虐待被害者への「賠償」が金銭的損害賠償の提供を超えた幅広い実践(心身のケア、教会への歓迎など)を含むことを念頭に、教会における賠償の実践事例について同委員会に報告することを司教協議会に要請している。

 最後に、国連児童の権利条約市民社会組織連合による指摘を引用して、「日本では性的虐待は、欧米よりもはるかに少ないと考えられているが、統計的な証拠はない… 欧米でも以前は同様の見方がされていたが、実際は多数に上っており、このことは日本の性的虐待の件数が実際には、はるかに多い可能性を示唆している」とし、日本の教会が、自己の調査による件数が少ないことをもって、誤った安心感を持ち、対応に手を抜いていることについて、間接的に警告している。

 

▷11月の「カトリック・あい」の月間閲覧件数を記事別にみると、コラムや巻頭言が圧倒的に上位を占め、「教会には自己修正システムが存在しない」とする東京教区の信徒からの読者投稿が170件近く読まれている。

 これとまさに同じ見方を、著名な歴史学者で哲学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が今春、日本語版を刊行した「NEXUS-情報の人類史」に書いている。

 「人体だけでなく、様々な機関も、自己修正メカニズムが無いと破綻する…カトリック教会は自己修正メカニズムが比較的弱い機関だ。不可謬性を誇っているため、自らの間違いを認めることができない… 内部の人間が誤ったり、罪を犯したりしたことを、時折認める場合もあるが、教会自体はあくまで完璧なまま、という建前になっている」と。『神言会裁判』の行方を追っていると、実にその指摘がぴったりくるように思われる。

 

▷自己修正メカニズムが働いていないのは、「神言会裁判」だけではない、既に結審している長崎地裁、仙台地裁では、それぞれの教区の司祭が女性信徒を性的虐待したことに対して、被害者原告と被告の両教区に和解勧告が出されたが、いずれも教区がわずかな賠償をしただけで、被害者への謝罪も、精神的ケアや教会に迎え入れるような措置を取ったとは聞かない。

 

▷教会は11月30日から待降節で、教会暦的には、新しい年に入った。修道会も、司教団も、御子をこの世界に送られた主の強い思いを改めてかみしめ、被害者と誠実に向き合い、「自己修正メカニズム」を働かせる契機とすべきではなかろうか。

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年11月29日

【2025年11月の巻頭言】“風化”する聖書週間の「全国運動」、「数年先に検討」の時期を迎えた『聖書協会共同訳聖書』の扱いをどうするのか

 11月には日本のカトリック教会でいくつかの行事が予定されているが、毎年恒例の「聖書週間」も16日から行われる。

 

 「カトリック・あい」では2年前、2023年11月に(評論)「聖書週間まったく盛り上がらない『全国運動』、発刊5周年の『新旧約聖書・聖書協会共同訳』をどうするのか」と題する評論を掲載した。

 その冒頭で、「聖書週間が『行われる』といっても、カトリック中央協議会のホームページを見る限り、シンポジウムなどの「行事」はいっさい予定されていない。わずかに、リーフレットとポスターの配布のみだ」と書いたが、2年経った今月も、当時と全く変わらないようだ。

 現在の中央協議会のホームページで「聖書週間」を検索すると、「1979年11月の臨時司教総会で、聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための全国的な運動として「聖書週間」を毎年行うことを決定」とあり、その実施機関としての「聖書委員会は1998年2月に解消されたが…常任司教委員会に引き継がれ…リーフレットとポスターの政策も継続されることになり、今日に至っています」と、2年前と全く同じ説明が繰り返されているだけだ。

 これでは、司教団として「全国的な運動」を主導する気が無い、”風化”するに任せている、と見られても仕方あるまい。それとも、そのような努力をしなくても、日本の信徒たちが「聖書に親しみ、聖書をより正しく理解する」ようになったと判断しているのだろうか?

 

 司教団とは関係なく、日本聖書協会(理事長・石田学・日本ナザレン神学校校長)では、11月24日に同協会150周年記念として、ケルン大学のハイドルン・E・マーダー教授(新約聖書学)による講演会「十字架の愚かさから平等の教会論へ―パウロとマルコの対話」を上智大学四谷キャンパスで予定している。 

 信濃町の真生会館では、聖書入門コースや新・旧訳聖書コースなどの講座を開いているが、これは聖書週間に限って開かれているわけではない。

 中央協議会のホームページには全国の教区レベルでの聖書週間の企画などが全く掲載されていないので、教区の取り組みがどうなっているか、同ページから知ることができない。 東京教区のホームページを見るかぎり、聖書週間に関連した講演会、シンポジウムは皆無だ。 

 東京教区に所属する筆者は小教区で毎月第四土曜日に「主日の福音を味わう会」を10年以上続けており、毎回10人前後、聖書に親しもうと熱心な方々の参加をいただいているが、教区全体に積極的な取り組みが無いこともあり、盛り上がりに欠け、ポスターの掲示や毎日曜日のお知らせなど広報に努めているが、信徒の方々、特に若い信徒への広がりはない。

 私たちの信仰の基本にある聖書について、日本の司教団がどれほど真剣に考えているのか、疑問を抱くのは、「聖書週間」ばかりではない。

その聖書協会が中心となり、カトリックとプロテスタントの高位聖職者や聖書学や宗教学、日本語などの専門家が結集し、10年近くかけて制作した「聖書 聖書協会・共同訳」が刊行されたのは2018年12月だった。

だが、司教協議会は不思議なことに、2010年2月の臨時総会で「聖書の新しい共同訳事業」を承認し、事業着手に同意したにもかかわらず、それが完成し、刊行された直後の2019年1月の常任委員会で「『聖書 聖書協会・共同訳』のカトリック教会の典礼での使用については数年先に検討する」ことを決定。その理由も、「数年先」の根拠も、信者たちに説明のないまま、事実上、使用を棚上げしてしまった。

それから7年近く経ち、「数年先」を迎えているのにさっぱり音沙汰がない。2019年1月の司教協議会常任委員会の決定を忘れてしまったように見える。

 

 「聖書 聖書協会・共同訳」の刊行事業は、「『新共同訳』が刊行されて20年が過ぎた現在、聖書の新しい訳が検討されるべき時期が来ている。過去数十年間に生じた聖書学、翻訳学のどの進展、底本の改訂、日本語や日本社会の変化、また『新共同訳』見直しへの要請が、新しい翻訳を求めている」との認識から始まった。

 日本聖書協会が国内のカトリック、プロテスタントの32教派、1団体から推薦された議員21人による「共同訳事業推進計画諮問会議」(カトリックからは司教協議会の推薦で岩本純一、下窄英知の2名)からを設け、2008年から2009年10月まで4回の会合で「翻訳方針前文」をまとめ、理事評議員会で翻訳事業の開始を決定。

 そして、カトリック司教協議会も2010年2月の臨時総会で「聖書の新しい共同訳事業を日本カトリック司教協議会として承認する」との決議をしたことで、正式にカトリック、プロテスタントが協力して翻訳事業が開始されることになった、という経緯がある。

 翻訳事業には、翻訳委員148人、翻訳者62人(翻訳委員プロテスタント107人、カトリック41人、翻訳者プロテスタント37人、カトリック25人)が参加。翻訳者にはカトリックから川中仁・上智大学神学部長、雨宮慧・上智大学神学部名誉教授、浦野洋司・カトリック神学院東京キャンパス非常勤講師、柊暁生・南山大学人文学部教授、高橋由美子上智大学外国語学部教授、編集委員には、カトリックから宮越利光・カトリック司教協議会典礼委員会秘書(肩書はいずれも当時)など。

 さらに、 検討委員には高見三明・長崎大司教、和田幹男・カトリック神学院聖書学講師。加えて 外部モニター(20人)には、梅村昌弘・横浜司教、岡田武夫・東京大司教、幸田和生・東京補佐司教(梅村師除き、肩書は当時)などが入っていた。

 これを見ても分かるように、 聖書の翻訳事業は、カトリック、プロテスタントの信仰一致の取り組みの重要な柱であるはずだ。その取り組みを司教協議会として総会で承認し、カトリック側から高位聖職者も、トップクラスの専門家も大勢参加して出来上がった知恵と努力と祈りの結晶である「聖書 聖書協会共同訳」を、司教協議会として、いまだに棚上げしたままにしているのは理解できない。

 廃止された司教協議会の「聖書委員会」の業務は常任委員会に引き継がれたとされているが、委員会の誰が担当司教なのか、あるいは2019年の常任委員会で、「典礼での使用は…」となっているから「典礼委員会」が、使用の是非を判断するのか。私たちには、司教協議会のどの部署が担当するのか分からないが、いずれにしても、司教協議会として、カトリック教会への「聖書 聖書協会共同訳」の導入について、明確な判断をする必要がある。

 

 日本の司教団のリーダーである司教協議会の会長、菊地功・枢機卿、東京大司教は、日本聖書協会の副理事長でもある。「聖書週間」実行の、そして「聖書協会・共同訳聖書」のカトリック教会への正式導入の是非を判断するキー・パーソンの判断力、実行力に注目したい。

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年10月31日

【2025年10月の巻頭言】 10月1日で11回目となる東京地裁「神言会裁判」にみる被告側のあまりにも不誠実な対応

【2025年10月の巻頭言】 10月1日で11回目となる東京地裁「神言会裁判」にみる被告側のあまりにも不誠実な対応

  教皇レオ14世は9月18日に公開された米有力カトリック・サイトCruxとのインタビューで次のように語られている。

  「性的虐待被害者は深い敬意をもって扱われねばならない。虐待によって非常に深い傷を負った人々は、その傷を一生背負い続けることもあるのです… 教会は、何よりもまず、司祭、司教、信徒、修道者、男性・女性、カテキスタなど教会関係者によって人々が被った痛みや苦しみに、真摯で深い感受性と慈愛を育まねばなりません」。

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 聖職者による性的虐待で深い傷を負った女性信者が、加害者が属していたカトリック修道会・神言会に対して起こしている損害賠償訴訟の11回目の裁判が、10月1日午後4時から東京地方裁判所第615法廷で開かれた。だが、被告神言会から出された準備書面も相変わらず、会の責任を回避するような文言が目立ち、次回は12月1日、次々回は来年2月9日と、3年目に持ち越されることが確定した。

 裁判は、神言会に所属し、当時、長崎大司教区内の小教区司牧を委嘱されていた会員司祭が女性信徒に対し不同意性交を強いていたとして、被害信徒が神言会日本管区の監督責任を問い損害賠償を求める訴えを起こしたことから、2024年1月23日から始まった。

 被害者の主婦・田中時枝さんが裁判所に提出した訴状によれば、長崎・西町教会で助任司祭を務めていた神父は2012年、「ゆるしの秘跡」を受けた田中さんの告解内容を聴くと「やり直さなければだめだ」と性交を迫り、以後約4年間にわたり被害者女性をマインドコントロール下に置いて、不同意強制性交を重ねていた。

 心の平静を取り戻した田中さんは、加害司祭を「不同意強制性交の罪」で刑事告訴したいと考え、まずその司祭を監督・指導する立場にある神言修道会の上長に事情を打ち明け相談した。修道会側では加害者とされる神父から事情を聴き、本人を派遣先の長崎から引き上げさせた後、母国に送還したものの、「被害者には謝罪など誠意のある対応を見せず、何の救済措置も取らなかった」ため、裁判に至った。

 これまで10回の裁判を振り返ると、この修道会の対応は、上記の教皇の言葉とはまさに真逆だった、と言わざるを得ない。 被告の神言会は、一度として会を代表する者が出席せず、代理人弁護士に任せ続け、 第1回から10回までの、被告代理人弁護団の対応を、傍聴人の立場から見ても、元司祭(加害後に司祭を辞めた)が所属していた神言会の責任を回避しようとする姿勢ばかりが目立ち、被害者に対する誠意や思いやりが全く感じられないのだ。

 まず、原告被害者は本人が毎回裁判に出席しているのと対照的に、被告の神言会は、一度として会を代表する者が出席しなかった。すべてを代理人弁護士に任せ続けている。

 そして、その代理人弁護士の対応は当初、原告の訴えの内容に対して、『不知』(「知らない」の意味)と答え、裁判長から「不知ばかりですが、どういうことか」と問われて、『否認』、そして『虚偽』との言い方を変えていった。当初は「どこにいるか知らない」としていた加害司祭を「補助参加人」として裁判に参加させ、あわせて代理人弁護士3人の強力な体制をとった(原告側は代理人弁護士1人だ)。

 二年目に入ると、被告とされている司祭(当時)がしたとされる教会外での『行為』について、「神言会に責任を問うことはできない」と会の責任を否定。さらに準備書面で、「司祭としての『業務』か、読書や散歩など『私生活』は除外される(この司祭=当時=について原告側が性的虐待を働いたとしている行為があろうとなかろうと責任は神言会にない、と言う意味)という”珍説“を展開している。

 感じられるのは、何とか責任を逃れよう、という姿勢のみ。当然、代理人弁護士は自身の判断で動くわけではなく、神言会の意向に従って対応しているわけだ。そうだとすれば、この修道会は、教皇の意向とも、日本の司教団が毎年出しているメッセージとも全く乖離し、被害者に対する謝罪も、反省も、いたわりも全く欠いたイエス・キリストの説く愛の行為とは真逆、ということになる。

 3月の「性的被害者の日」のメッセージで、日本司教協議会会長で神言会員でもある菊地・枢機卿、東京大司教は、不特定の被害者に謝罪し、対応を約束している。 だが、Cruxとのインタビューで、この裁判について聞かれ、「修道会の問題は会の本部が判断することで、教区長は口をはさめない」と世間一般の常識から判断して理解できない発言をしている。これでは、上記のメッセージの言葉は全く説得力をもたない。

 東京教区で言えば、信徒数の半分近くは、現在入手可能な不完全なデータをもとにすると様々な修道会が会員司祭が運営する教会に所属しているはずだ。そうだとすれば、教区の信徒の半分近くは、司祭たちから問題行為をされ、修道会が対応してくれないからといって、教区に訴えてもどうにもならない、ということになる。

 菊地師は、神言会で世界で二人しかいない枢機卿の一人だ。組織上はともかく、事実上、会を代表する人物の一人と一般社会では誰もが判断するだろうし、この問題についても「助言」は可能、という見方が専門家の間にもある。英語には「peer pressure」という言葉がある。日本語で言えばこの場合は、「友情ある説得」「同じ会の仲間への説得」。どうして、そのことに考えが及ばないのだろうか。

 日本でも信徒が少ない分、表面化した虐待をめぐる訴訟件数は欧米に比べれば少ないが、既に司祭による性的虐待裁判が結審した長崎、仙台両教区では、加害司祭が属していた教区側は裁判所の指示で和解に応じたものの、若干の賠償金を原告被害者に支払っただけで、公式の謝罪は聞かれず、心身のケアも、教会に復帰できるような支援をしているとは聞かない。

 そればかりか、仙台の場合は、「あの人はお金をもらいたくて裁判をした」という心無い教会関係者の声がさらに被害者の心に傷を大きくし、教会に戻ることができずにいる。そうした中で、広島教区でも教区の不誠実な対応に失望した信徒が同様の訴えを裁判所に起こし、裁判が始まっていると聞く。

 ドイツなどでは、聖職者による性的虐待の隠ぺいや被害者への不誠実な高位聖職者の態度が、信徒たちを失望させ、教会離れを加速している要因になっている。

 日本でも、今のような事態を事実上放置したまま、”シノドスの道“を司教、司祭、修道者、そして何よりも一般信徒が、心から共に歩むことができるとは、とても思えないし、ドイツの教会の二の舞になる恐れもある。

 田中時枝さんは11回目の裁判の前に、支援者への感謝を込めた手紙にこう書いている。「私の、失った尊厳は取り戻す方策もなく絶望の日々がさらに鮮明に蘇ります。皆様に送る手紙に切手を貼りながら、はらはらと涙がこぼれ落ちてしまいます。性暴力によりもぎ取られた人生は、失われてしまったまま、返りません… カトリックの赦しの秘跡の秘密を利用した神父によって、今も私は苦しんでいます。修道会に相談しても加害神父の行為を認めず、何も対応してくれなかった。隠蔽され、無いものにされてしまった。その不誠実さに、私は毎日、絶望と地獄のような苦しみを味わっています」。

 このような悲痛な訴えを前に、「私の所に言って来ない」「修道会の問題だから、教区長としてはどうしようもない」といつまで言い続けるつもりなのだろうか。

 菊地枢機卿も、日本の司教団も、そして修道会の幹部も、真剣にこの問題と向き合い、真摯に体勢を立て直し、被害者への誠実な対応、謝罪、補償、心身のケア、そして教会へ復帰できる支援へ具体的行動をする必要がある。 来年には結審する神言会裁判へのこれからの対応が、一つの試金石になる。

(2025年10月1日記「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年9月28日

【2025年9月の巻頭言】   2024年度「カトリック現勢」に思うー日本の教会改革に生かすためのデータ収集、分析が必要だ 

 8月は、広島、長崎原爆投下80周年、平和旬間でしたが、注目されるような関係者の発言やニュースはなかったこともあり、夏休みの最盛期。猛暑で読者の方々の閲覧意欲も鈍られたのか、閲覧件数は月間で1万6000件程度にとどまりそうです。 その中で特筆されるのは、読者投稿と常設コラムの個別閲覧件数が上位10本のうち8本を占めたことです。

 トップは、東京教区ニュースのシノドス担当の某司祭が連載コラムで教皇フランシスコをあしざまに批判したことへの疑問を呈した投稿(155件)と、それに共感する読者の声(162件)。いずれも7月初めから掲載していますが、2か月弱の累計でそれぞれ454件、581件と圧倒的な閲覧件数で、 多くの方の共感を得ていることを示していると言えます。

 常設コラムは、Sr.阿部の「乃木坂の修道院」、女性信徒の「パトモスの風」(サン・ダミアーノの十字架続編)、西方の司祭の「共に歩む信仰に向けて」(教皇制のゆくえ)、「カトリック精神を広める」本紹介、「愛ある船旅への幻想曲」(真理の愛とは)など、硬軟バラエティに富んだ、多くのことを考えさせる内容が好評が続く理由でしょう。

 

 これら以外に10位以内に入っているのは、「所属司祭(当時)による女性信徒性的虐待の責任を神言会に問う東京地裁での裁判の第10回(神言会、「不法行為ない」と全面否定)が97件、掲載開始の7月下旬からの累計で281件。(第8回裁判「『私生活』は司祭の『業務執行に含まれない』と被告側が”珍説“」は累計740件に達しています。)、もう一つは、「信徒も減っているが、聖職者など減少深刻、コロナ明けもミサ参加者、新規受洗者回復せず―日本のカトリック現勢」が8月23日に掲載してわずか一週間で90件も読まれています。この二つの問題を日本の教会のあり方とも関係して深刻にとらえる司祭、信徒が多いことを示している、と思われます。

 

 「カトリック現勢」2024年度版については、上記の通り、「現勢」にはない、過去のデータなどを用いた「分析、説明」を「カトリック・あい」で加え、この「カトリック・あい」に掲載していますので、まだの方は是非お読みいただきたいのですが、本文中の中見出しを再掲すると…

 「日本の一般信徒数は20年間に7.7%減少、聖職者・修道者・神学生は34.8%も減っている」「コロナで激減したミサ参加者、受洗者数などは、今も回復せず、”教会離れ”が常態化?」「教区別信徒数、『札幌』は10年で2割減、1割以上減が『長崎』など4教区。7つの教区が東京・麹町教会に信徒数より少ない」「聖職者・修道者・神学生は10年間で『仙台』で8割減、『福岡』7割減、『京都』『新潟』『鹿児島』も5割超えの減少。東京も26.4%減少」となります。

  日本の信徒や司祭が日本の教会の現状を理解し、今後の在り方を考え、具体的な方策を立てるために、適切なデータ収集、分析を行うことは、必要不可欠です。しかし、そのような役に立つものに「現勢」はなっていない。 毎年8月ごろにカトリック中央協議会のホームページに前年度の数字が発表されているものの、よほど関心のある信者でもない限り、引き出すのは容易でないうえに、内容はデータとグラフのみで、分析や解説などの文章は一切ありません。

 それは、「現勢」が、バチカンに報告が義務付けられていて、そのためにまとめている。やさしく言えば、日本の信者ではなく、バチカンに顔を向けたものだからでしょう。当然、データのとり方も、十年一日で、日本の教会をめぐる環境の大きな変化に対応した工夫もなく、信徒、聖職者の高齢化、若者の教会離れ、外国人信者の増加などを客観的に知るための年齢別、国籍別データもありません。このようなデータがあれば、AI技術などを活用して5年先、10先の日本の教会の姿を予測することも可能だし、具体的な対策を立てるのも容易になるはずです。

 日本の教会の現状の把握、将来の展望に役立つデータを収集、分析し、司教も司祭、一般信徒も皆で共有し、それぞれの立場、環境から、意見を出し合い、これからの日本の教会、福音宣教の使命を果たす教会をどうすれば作って行けるのか、その具体的あり方を考え、実行していく。 それこそ、教皇フランシスコが始められた”シノドスの道“の日本の教会における歩みとすべきではありませんか。

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年8月30日

【2025年8月の巻頭言】神言会裁判記事と某教区ニュースの某司祭の前教皇批判発言の記事が圧倒的閲覧—何を意味するのか

 「かとりっく・あい」の7月の閲覧総件数は、前月より大幅に増加し、2万件を超えました。新教皇の誕生があった5月の4万2685件という、2016年10月の創刊以来の記録には及びませんが、日本国籍を持つカトリック信者が20万人強、 日曜のミサに通っておられる方がその5分の一程度と推定されるとすれば、直に比べられないとしても、かなりの閲覧件数と言えます。

 残念ながら、この高水準の閲覧件数を素直に喜ぶことはできません。圧倒的な閲覧が、開始以来一年を超えたカトリック修道会・神言会の所属司祭(当時)による女性信徒への繰り返しの性的虐待に関する裁判、そして、某教区ニュースの大型コラムにシノドス担当を自任する某司祭が、明らかに故教皇フランシスコを嘲笑、批判すると受け取られるような記事を載せたことへの、司祭、信徒からの批判の投稿で占められているからです。

 トップは、「聖職者性虐待、日本でも」—TBSテレビ「News23」で放映、”修道会”は「係争中」を理由に取材に応じず(534件)で、これを含めて神言会裁判の関連では100件以上の閲覧が6件に上りました。大きな苦難を背負って修道会の責任を訴え続ける被害女性が毎回原告として出廷しているのに対して、神言会は代理人弁護士を3人も雇って任せきり、日本管区長や加害者とされている元司祭は10回の裁判に一度も出廷せず、知らぬ、存ぜぬ、責任がない、と繰り返し、被害者への思いやりのかけらも見せていません。

 2位、3位は(読者投稿)「自分が「古い人間だ」だからといって、前教皇フランシスコをあしざまに批判するのはやめてほしい」(297)と(コラム反響)「日本のカトリック教会の質の低下を示している」「なぜ前教皇をここまで貶めねばならないのか」「何をおっしゃりたいのか、分からない」(359)で合わせて600件を大きく超えました。

 高齢化、世俗化が進み混迷が進む教会と社会の危機感を持ち、何とかして、教会内外の人々と共に歩み、様々な課題解決に努力しようとしている司祭、信徒は少なくないはずです。そうした中で、およそ、一般社会から見てもまともとは思われない、これらの対応が、さらなる教会離れを誘っている、いくら耳に聞こえの良い話をしてもさっぱり説得力を持たない、一部高位聖職者や司祭、修道者への批判や嘆きが、この閲覧状況から伺うことができるでしょう。

 そうした日本の教会の現状の中で、教皇レオ14世が主日正午の祈りに先立つ説教で語られた「教会と世界に必要なのは『都合のいい時に”参加”する人』ではない、『常に宣教の現場で熱心に働く人』だ」との言葉に50件を超える閲覧があったのは示唆的です。

 教皇フランシスコの大きな遺産の一つが”シノドスの道“ですが、教皇レオ14世の同意を得てシノドス事務局が発表した「シノドス実施段階への道筋:2025₋2028」の構成と内容の要約には、105件の閲覧があり、日本の教会の消極的な歩みにもかかわらず、司祭、信徒の間に関心が衰えていないことを示しています。

 ただ、直後に発表された日本の司教団のトップのメッセージ対しては「菊地大司教『シノドスの道の今後について』を読んで—「バチカン指示待ち症候群」から脱しなければ」という読者投稿が98件も寄せられていることにも注目する必要があるでしょう。

 日本中の信徒、修道女、司祭の皆さんから毎月いただいているコラムには、多くの閲覧が続いています。 初参加の「パトモスの風—田園調布教会・聖クララ聖堂の「サン・ダミアーノの十字架」(140件)、・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から—ブーゲンビリア咲く小さなマリアの園で、お祈りをする小学生との対話」が(137件)、「愛ある船旅への幻想曲—”指示待ち族”では教会は成り立たない。だがイエスの愛を生きるには覚悟がいる」(125件)、「神様からの贈り物—人間がAIに近づいている、と感じるのは、私だけ?」(63件)など。

 女性執筆者の方々の”健闘“が目立ちますが、・「共に歩む信仰に向けて」⑦教皇制のゆくえ ・その2「教皇と教皇庁、ヒエラルキー(位階制)秩序は変えられるのか」(112件)、「カトリック精神を広める⑲ 勧めたい本紹介2 フランシス・コリンズ著「ゲノムと聖書 科学者、<神>について考える」(52件)など、男性陣の”硬派”コラムもよく読まれています。

 日本では6日が広島平和記念日(原爆の日)、9日が長崎原爆の日、そして15日が終戦記念日がそれぞれ80年目を迎えます。日本のカトリック教会は6日から15日を「平和旬間」とし、早々と6月に司教団メッセージ、「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」を出していますが、中国の急激な軍備増強と日本への挑発行為、原爆の増産など、日本を取り巻く安全保障環境の急激な悪化にどう対処すべきかという目前にある(不都合な)課題には目を背け、目前の脅威から日本国民を守ろうとする努力を「軍備増強反対」の一言でかたずけ、いたずらに平和を叫ぶ、どこかの政党と同じような部外者的“きれいごと”の繰り返しで、日本の教会全体で、考え、行動する具体的な予定も、また教区ごとの取り組みも、中央協議会のホームページには示されていません。

 世界に目を転じれば、バレスチナ・ガザ地区で激化するイスラエル軍の攻撃と住民の飢餓の深刻化、ロシア軍によるウクライナ軍事侵攻の継続に心を痛めた教皇レオ14世の繰り返しの和平への仲介申し出に、当事者たちは応じる気配がなく、空しく時が過ぎています。

 そうした現実をしっかりと認識したうえで、「日本にいては何もできない。祈るだけだ」とあきらめず、ガザ、ウクライナ、コンゴ、ミャンマー…苦しみ続ける人たちのために早期和平を祈るだけでなく、具体的な努力の可能性を常に模索することも、私たちに、教会に求められているのではないでしょうか。

(2025.7.31 「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2025年7月31日