*歴史の危険な転換点、世界の、日本の教会の存在が見えにくくなっている…
ロシアによるウクライナ軍事侵略が4年目に入り、”和平“早期実現一直線のトランプ米大統領は、ウクライナ侵略の張本人、プーチン露大統領との親密さをアピールし、彼の責任を問うこともなく、ウクライナのゼレンスキー大統領抜きの二者合意を図ろうとしている。
ロシアによる軍事侵攻について、国際司法裁判所は2022年3月、「国際法に照らして重大な問題を提起している」として直ちに軍事行動をやめるようロシア政府に暫定的な命令を出し、ハーグの国際刑事裁判所も2023年3月に、戦争犯罪でプーチン大領領に逮捕状を出している。だが、ロシアは全く無視したまま。ロシアに対する欧米などの経済制裁も、中国などがロシア原油などを買い込むなど、十分な効果を挙げずにいる。
2月24日の国連総会でロシア軍の撤退を求める決議が採択されたが、米国はロシアを批判する文言に反対し支持せず、安全保障理事会では、米国提出の対露非難を含まない「紛争終結」を求める決議が採択されている。国際社会における正義も人道主義も全く踏みにじられている、と言っていい。
司法、立法、行政の三権を事実上掌握し”独裁者”のように振る舞うトランプ、任期無しの独裁が“保証されたプーチン、そしてそのロシアと軍事同盟を結びウクライナ侵略に兵隊を送り込む北朝鮮の金正恩総書記、対露政策に加わらず漁夫の利を得ようとする中国の習近平主席の3者… 核兵器を背景に強権を振るう”指導者“たちに、世界の命運が握られようとしている。
だが、世界が歴史の危険な転換点に直面しようとしている今、民主主義、人道主義の根幹をなすキリスト教を奉じるカトリック教会やプロテスタント教会の存在が見えにくくなっている。
*口だけでなく行動の人、教皇フランシスコになぜ倣おうとしないのか
そうした中で、教皇フランシスコは、ロシアの軍事侵略開始直後に、ご自身でロシア大使館に足を運ばれて即時停止を働きかけ、その後も、特使をロシア、ウクライナ両国に派遣して、捕虜の交換や、ロシアが拉致したウクライナの子供たちの救出、それを契機にした和平への対話実現へ具体的な努力を重ねてこられた。
主日の正午の祈りなど機会あるごとに、関係国指導者などに即時停戦、和平への対話開始を繰り返し訴えてこられたが、今、長期治療を余儀なくされる身だ。23日、年間第7主日の正午の祈りの説教原稿で、24日のウクライナ侵攻開始3周年を取り上げ、「全人類にとって痛ましく恥ずべき出来事」と指弾されたが、その言葉には、思うように力を尽くすことのできない無念さが、にじみ出ている。
だが教皇以外、バチカンの外交部門担当者やウクライナ関係者を除いて、他の世界のカトリック教会の指導者たちは、このような単にウクライナに留まらない世界的な危険な転換点にあって、具体的にどのように現状を理解し、識別し、行動しようとしているのか。多くは、従来通り、「平和」「対話」を口にするだけで、事実上、傍観しているだけではなかろうか。
日本の教会も“ご多分に漏れず”だ。日本の教会には、自国の政府などへの批判には勇ましくても、「海外の問題には関わらない、という、”不文律“がある」と、ある高位聖職者から聞いたことがある。不都合な真実から逃げている、と言われても仕方ないだろう。
*19日の「神言会裁判」の前、21日は「性被害者のための祈りと償いの日」-日本の教会は、司教団は何を「償う」のか?
不都合な真実から逃げている、と言えば、国内の問題でもそうだ。その最たるものが、聖職者による信者たちへの性的虐待への対応だ。
3月の日本の教会の「祈りの意向」は、「性虐待被害者のために…性虐待被害者の受けた心と体の傷が癒され、神との交わりの中で生きる希望を見出すことができますように」であり、3月21日は日本のカトリック司教団が定めた「性被害者のための祈りと償いの日」だ。だが、カトリック中央協議会のホームページで、この日についての項目を検索しても、司教協議会会長の菊地枢機卿(東京大司教)が早々と2月1日付けで出したメッセージしか出て来ない。
ホームページの「お知らせ」に書かれた3月の行事は、「日本カトリック部落差別人権委員会・ハンセン病問題学習会(15日)」と「長崎教区・日本の信徒発見の聖母記念ミサ・ライブ配信(17日)」だけだ。日本の教会、各教区の具体的な取り組みの紹介も皆無。会長メッセージだけで済まそうとしているように見える。
そのメッセージは、「世界において、また日本にあっても、神からの賜物である命に対する暴力を働き、なかでも性虐待という神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにする行為を、聖職者や共同体の指導者が働いたという事例が、近年相次いで報告されています」と、日本でもそのようなことがあることを公式に認め、「被害を受けられた多くの方々に、心から謝罪します」と述べてはいる。
だが、具体的に謝罪の相手は誰なのか、どこで誰が、どのような被害をもたらしたのか、など、具体的事例も、「被害を受けられた方」がどのような苦しみを受け、教会としてケアをしているのかいないのかの説明もない。「被害者の人権に配慮して具体的な言及はできません」と言うなら、有名人の性的加害を隠ぺいしたフジテレビ首脳たちの当初の釈明と同じではないか。人権に配慮した表現の工夫などいくらでもできる。それとも、工夫できる”言語能力”が不足しているのだろうか。加害司祭あるいは教区、修道会を守ることを優先させ、被害者側に立った対応を怠ってきたのが、これまでの日本の教会、そして外国の多くの教会ではなかったか。
21日は日本の教会の「祈りと償いの日」というが、メッセージには、具体的に被害者に対してどのような「償い」をするのか、肝心の説明がない。償いを本当にするつもりなら、「口」だけでなく、加害者とそれが属する教区、修道会が被害者に誠意をもって対応し、謝罪し、傷ついた心身のケアを助け、教会に温かく迎え入れる体制を整え、実行する、という行動が伴わねばならない。
しかし、被害者の信徒が司祭あるいは教区を訴えた性的虐待裁判が終結した長崎教区、仙台教区の場合、筆者の知る限りでは、最後まで加害者も教区も被害者に謝罪せず、物心両面で精魂尽きた被害者が“和解”に応じたことで、賠償金ではなく、和解金を払っただけだ。あまつさえ、仙台教区では、被害者に対し「お金のために訴えたのだろう」という教会内部の心無い声が被害者の耳に入り、精神的な苦痛を倍加させ、聖堂に足を踏み入れることもできないでいる、と聞いている。
*「償い」とは、謝罪し、心身のケアを責任を持って助け、改めて教会に受け入れることだ
「祈りと償いの日」の二日前、3月19日には東京地裁で、性的虐待被害女性による犯行当時司祭だった男が所属していた神言会に対する損害賠償請求裁判の第8回が行われる。初回から2年目に入ったこの裁判で、被告側は3人も弁護士を雇い、原告被害者の訴えを認めようとしていない。
このような事件では、当然ながら、加害を立証するための「第三者の目撃証言」や「現場に残された物証」などを欠くことが少なくない。被告側はそれをいいことに、被害者の悲痛な訴えに耳を背け、あくまで知らぬ存ぜぬを決め込み、自費で弁護費用を工面する被害者側が裁判を続けられなくなるのを待ち、”最悪”でも「和解」で済ます、ということが、過去のケースでもあった。一年を超えて続く今回の裁判でも、そうした意図が被告側にはあるのではないか、と多くの関係者は感じている。
1月29日の第7回裁判後に開かれた説明会・支援集会では、参加した30人を超える信徒や聖職者から、訴状で「告解で聴いたことを利用して被害者をマインド・コントロール下に置き、4年にわたって繰り返し性的暴行を繰り返した」とされる神言会のバルガス神父(当時)の行為について、「人間の尊厳を踏みにじる行為、それを司祭がするというのは赦されることではない」など批判の声が次々と出され、自らも若い時に、他の司祭から性的被害に遭ったことを打ち明けた方も2人いた。
神言会に対しても「何故このような元司祭を切り捨てず、守ろうとするのか、バルガス以外にも同様な行為をしている会員がいるのでは、と疑いたくなる」「原告の弁護士は1人なのに、高い弁護費用を払って3人も弁護士を雇い、原告被害者と裁判で戦うよりも、加害者とされる元司祭に回心を促す必要があるのではないか」など、対応に疑問が呈された。
「“あの時のこと”が繰り返し思い出され、一人でいると生きた心地がしなかった。だが、皆さんに励まされ、このような思いを口に出してもいいんだと思えるようになった。この一年間、苦しい裁判の私を支えてくれた神に、皆さんに感謝します。これが信仰を持つことだ、と教えられました」と感謝の言葉を忘れない原告・被害者の田中時枝さん。彼女を救う道は、神言会と加害者が訴えの内容を認め、口ではなく、行動で「償い」を果たすことではないか。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)