改・教皇フランシスコの回勅「DILEXIT NOS( 彼(主)は私たちを愛された)」阿部仲麻呂師による全文試訳

イエス・キリストのみこころの人間らしい愛と神らしい愛に関する教皇フランシスコによる回勅「DILEXIT NOS (彼(主イエス・キリスト)は私たちを愛された)」

(2024年10月24日発布 /2024年10月31日私訳/ 2024年11月22日改訂;阿部仲麻呂)

■目次

はじめに[1項]

第1章 心(心臓)の重要性[2項]

 1 「心」(心臓)とは、いかなる意味なのでしょうか[3-8項]

 2 心(心臓)を取り戻す 9-16項]

 3 心(心臓)は断片を結びつける[17-23項]

 4 ほむら 愛の炎 [24-27項]

 5 世界は変革することができます、心(心臓)をともなってさあ始めましょう[28-31項]

第2章 相手を愛する諸々のわざと諸々のことば[32項]

 1 心(心臓)を映す諸々のわざ[33-38項]

 2 イエスのまなざし[39-42項]

 3 イエスの諸々のことば[43-47項]

第3章 これが、これほど愛した心(心臓)です[48項]

 1 キリストを崇拝すること[49-51項]

 2彼のイメージを崇敬する[52-58項]

 3 具体的な愛 59 63項]

 4 三重の愛[64-69項]

 5 三位一体の神の諸々の観点[70-77項]

 6 教導職の最近の教え[78-81項]

 7 さらなる諸々の考察と現代との諸々の関連性[82-91項]

第4章 飲みものとして自らを与える愛[92項]

 1 愛を渇望する神[93-101項]

 2 歴史におけるみことばの響き合い[102-108項]

 3 キリストのみこころ(心臓)に対する信心の広がり[109-113項]

 4 聖フランソア・ド・サル司教(サレジオの聖フランシスコ) 114 118項]

 5 愛の新たなる宣言 119-124項]

 6 聖クロード・ド・ラ・コロンビエール[125-128項]

 7 聖シャ ル・ド・フーコー(聖シャルル・ド・フコー)と幼きイエスの聖テレーズ[129項]

  ⑴イエスのカリタス(実践的な慈愛)[130-132項]
幼きイエスの聖テレーズ[133-142項]

 8 イエズス会内部での共鳴[143-147項]

 9 内面的な生活の幅広い流れ[148-150項]

 10 慰めの信心 151項]

   十字架上のイエスとともに[152-153項]
心(心臓)の意味合い[154項]
⑶悔い改め[158-160項]
他人を慰めることが自分自身を慰めることにつながる[161-163項]

第5章 愛のための愛[164項]

 1 嘆きと願い 165 166項]

 2 キリストによる愛を兄弟姉妹に広める[167-171項]

 3 霊性の歴史における響き合い[172項]
⑴他者が飲むことができるような泉を掘り起こす[173-176項]
⑵兄弟同士の大切さ(愛 と秘義の立場[177-180項]
⑶償い——廃墟の上に築くこと[181項]
キリストのみこころ(心臓)への償いについての社会的な意義[182―184項]
傷ついた心(心臓)をいやすこと 185 186項]
ゆるしを求めることの美しさ[187-190項]

 4 償い——キリストのみこころ(心臓)の拡張[191-194項]

 5 愛に向かう捧げもの[195-199項]

 6統合と調和[200-204項]

 7 世界に愛をもたらす 205 211項]
奉仕の交わりのなかで[212-216項]

結論[217-220項]

・・・・・・本文

はじめに[1項]

1項 聖パウロはキリストについて「彼(主)は私たちを愛された」と語っています (ローマ 8:37 参照)。それは、何ものも私たちを神の愛から「引き離す」ことなどできない (ローマ 8:39)ということを私たちに理解させるためです。聖パウロが確信をもって述べることができたのは、イエスが弟子たちに「私はあなたがたを愛した」と語っておられたからです(ヨハネ15:9, 12)。

 いまでも主は私たちに「私はあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっています (ヨハネ15:15)。主の開かれた心は 私たちのはるか前へと進みゆき、無条件に私たちを待っており[訳註;スペイン語版とイタリア語版では、以下のようになっています(英語版では盛り込まれていません) 無条件に私たちを愛し、私たちに無条件に彼の友情を差し出し得るために、何らの前提要件をも決して要請することなく 、ただひたすらに愛と友情とを差し出すことだけを求めているのです。

 なぜなら「主が まず私たちを愛してくださった」からです (ヨハネ第一4:10参照)。イエスのおかげで、「私たちは神が私たちに対していだいている愛を知り、また信じるようになりました」(ヨハネ第一4:16)。

 

第1章  心(心臓)の重要性[2項]

2項 心(心臓) のシンボルは、イエス・キリストの愛を表現するために、これまでたびたび使われてきました。このシンボルが今日でも意味を持つのかどうかを疑問視する人もいます。しかし、私たちは表面的な時代に生き、理由もわからないままに次から次へと狂ったように駆け回るだけで、人生のより深い意味に関心のない市場の仕組みの飽くことのない消費に加担しつつも奴隷になり下がってしまっているため、私たち全員が心(心臓)の重要性を再発見する必要があるのです( 註1)。

1.「心(心臓)」とは、いかなる意味なのでしょうか[3-8項]

3項 古代のギリシア語で カルディア という言葉は、人間や動物や植物の最も内側の部分を意味します。ホメロスにとって、それはからだの中心としてだけでなく、人間の魂や精神をも意味しています。 イリアス では、思考と感情とは心から生じ、互いに密接に結びついています( 註2)。

 そして、心は欲望の拠点であり、重要な決断が形づくられる場所として現れます 註3 プラトンの思想では、心は、言わば人間の理性と本能とを結びつける役割を果たすものとされています。なぜなら、高次の能力と情熱の両方の衝動が心臓(心)に集約される静脈のなかを通り過ぎると考えられていたからです( 註4 )。そのため、古代から、人間とは 単にさまざまな技能を集積したものとして理解されることはなく、むしろ自分たちが経験するあらゆることに意味を与えつつも生きてゆく方向性を明らかにするような背景を提供する調整の中核を備えた肉体と魂との統一体であるという事実が認識されてきました。

4項 聖書では次のように述べています。「神の言葉は生きていて、力があります… それは心(心臓)の思いや意図を判断することができます」(ヘブライ人への手紙4:12)。このように、あらゆる外見のもとに、私たちを迷わせる可能性のある表面的な考えがはびこるとしても、隠されている核としての心があることを聖書が語っています。エマオに向かう弟子たちは、復活したキリストとともに秘義的な旅をしながら、苦悩、混乱、絶望、失望の瞬間を経験しました。

 しかし、それらを超えて、それにもかかわらず、彼らの心(心臓)の奥底で何かが生じていました。「イエスが道で私たちに話しかけておられるとき、私たちの心の内側は燃えていたではないか (ルカ24:32)。

5項 心(心臓)は誠実さの源でもあり、そこには偽りや偽装の余地などは微塵もありません。心(心臓)はたいてい、私たちのほんとうの意図、本当に考えていること、信じていること、望んでいること、誰にも話すことのない「秘密」、つまり私たち自身のむき出しの真実を示しています。

 それは、見せかけや幻想などではなく、ほんもので、真実で、完全に「私たち自身」である私たちの一部なのです。だからこそ、デリラに自分の強さの秘密を隠していたサムソンは、彼女から「あなたの心(心臓)が私とともにないのに、どうして『愛している』と言えるのですか」と尋ねられました(士師記16:15)。サムソンが彼女に心を開いたとき、彼女は「彼が自分の秘密をすべて彼女に話した」ことに初めて気づきました(士師記16:18)。

6項 それぞれの人間の心の内面の現実は、しばしば「過剰な言葉の数々」の(「数多くの葉」の かげに隠されてしまっています。「心は何よりも狡猾である。誰がそれを理解できようか( エレミヤ17:9)」 。箴言の忠告も助けとなります。「心を用心深く保ちなさい。そこからいのちの泉が流れ出るからである。だから曲がった心を棄てなさい」(同4・23-24)。

 単なる見せかけ、不誠実さ、ごまかしは心を傷つけ、歪めます 私たちが自分ではない何かとして見せようとあらゆる試みをしても、私たちの心は、私たちが他人から何を見せたり隠したりするかではなく、私たちが本当に誰であるかの最終的な判断者です。それは、あらゆる健全な人生設計のための土台となるものです。心から離れては、価値あることは何も引き受けることができません。偽りの外見や虚偽の姿は、最終的に私たちを手ぶらのままにします[訳註;取引先で何の実りもないままで、手ぶらで帰らされて、とぼとぼと家に帰るはめになります]。

7項 このことを例証するために、別の機会に話した話を繰り返します。「私たちが子どもの頃、カーニバルのために、祖母はとてもうすい生地にバターを混ぜて、ねりものを作りました。祖母がその薄い生地を油のたくさんはいっている鍋のなかに落とすと、生地は大きく膨らむのですが、かじってみると中は空っぽでした。

 私たちが話していた方言では、そのクッキーは「嘘 訳註;スペイン語では “mentiras”、そしてポルトガル語では “mentirinhas”であり、イタリア語では “bugie”、ポーランド語でも«bugie»というイタリア語表記が採用されており、仏語では“mensonges”、英語では‘lies’ですが、すべて 嘘」という意味です、なお独語版ではmentirasというスペイン語が使用されています。アラビア語では(bugie)”بِذَالك”としてイタリア語を後につけて補足してあります。

 こうしてスペイン語やイタリア語を底本として諸外国語訳が作成されていることがうかがえます と呼ばれていました 祖母はその理由をこう説明してくれました。「嘘のように、大きく見えるけれど、なかは空っぽだよ見かけ倒しで なかみは何もないのだよ (註5)。

8項 私たちは表面的な満足を追い求め続けたり、他人からの賞賛を得るためだけに何らかの役割を演じるのではなく、むしろ人生でほんとうに重要な疑問について考えたほうがよいでしょう。私は ほんとうは何者なのでしょうか 私は 何を求めているのでしょうか。 自分の人生、自分の決断、自分の行動にどのような方向性を与えたいのか。 なぜ、そして何のためにこの世にいるのでしょうか 人生の終わりを迎えるときに、自分の人生をどのように振り返りたいのでしょうか。 自分のあらゆる経験に一体どのような意味を与えたいのでしょうか 他人の前で、私は果たして何者でありたいのでしょうか。 神にとって私とは一体何者なのでしょうか。 これらの疑問の数々は、私たちに心(心臓)を取り戻させる方向に導きます。

 

2.心(心臓)を取り戻す[9-16項]

9項 この「流動的な」世界において、私たちはもう一度心(心臓)について語り、さまざまな階級や境遇のあらゆる人が、物事をまとめあげる状況を創り出し、自分の強さ、信念、情熱、決断の根本的な源泉に出合う場について考え始める必要があります。しかし、私たちは、ただひたすら生きのびるために消費し続けるような果てしのない悪循環の社会に浸りきっており、分刻みで動くことによって支配され、テクノロジーに翻弄され 心(心臓)の内面を深めるような生活を目指すうえで本来必要となるプロセスに集中するだけの忍耐力に欠けています。

 まさに、この現代社会では、あらゆる人は「物事の中心、とくに自分自身の中心を失う危険にさらされています」(註6 「実際、現代の男性や女性は しばしば混乱し、引き裂かれ、自分の生き方と行動とを統合するとともに調和を生み出すことができる内なる原理をほとんど失っています。悲しいことに、現在広まっている行動モデルは、私たちの合理的で技術的な側面、または逆に私たちの本能の側面を誇張し
ているに過ぎないのです (註7 )。つまり、ゆとりある心(心臓)が失われているのです。

10項 今日の流動的な社会が提起する問題は頻繁に議論されてはいるのですが、人間性の奥底に潜む心に気づかずに、心(心臓)を軽視する状況には、非常に長い歴史があります。ギリシア文化やキリスト教以前の合理主義、キリスト教以後の観念論、そしてさまざまな形での唯物論において、すでに心(心臓)の軽視が見受けられます。

 特に人間学の分野では心は無視されており、偉大な哲学の諸伝統においても心を異質な概念とみなし、かえって理性、意志、自由など他の概念のほうを好むありさまでした 心(心臓)という言葉の意味そのものが不正確になりがちで、人間の経験において位置づけるのが難しいのです。おそらくこれは、心(心臓)を「明確な概念」として扱うのが難しいためであるとともに、 自分そのものの在り方を見究めなければならない、という難題を伴うためなのでしょう。

 私たちの思考パターンが不健全な個人主義に支配されてしまっているがゆえに、他者との出会いが必ずしも自分自身をわかりきる出会いになるとは限らないからです。 ほとんどの人は、知性や意志というコントロールしやすい領域でものの考え方のシステムを構築する方が安全だと感じているものです。人間的な力や情念を互いに分離してながめるのとは異なる、心(心臓)のための場所を作ることに失敗した結果、ひとりひとりの人間性の核という発想そのものが阻害されることになったわけです。

11項 もしも心(心臓)を軽視すれば、心(心臓)から話すこと、心(心臓)で行動すること、心(心臓)を育んで相手をいやすことの意味もまた必然的に軽視することにつながります。心(心臓)の特殊性を理解しなければ、心(心臓)でしか伝えられないメッセージを見逃すばかりか、他者との出会いの豊かさをも見逃すことになるとともに、詩作の機微をも見逃すことになります。そればかりか、歴史や自分自身の過去までも忘れてしまうことになりかねません。なぜなら、私たちのほんとうの個人的な人生の歩みは心(心臓)でこそ築かれるからです。人生の終わりには、心(心臓)だけが重要になります。

12項 ですから、私たちには心(心臓)があり、その心(心臓)は他者の心(心臓)と共存して「汝」となると言わなければなりません。このテーマを長々と展開することはできないので、ここではドストエフスキーの小説の登場人物であるニコライ・スタヴローギンを採り上げます(註8 ロマーノ・グァルディーニは、スタヴローギンがまさに悪の化身であると主張しています。なぜなら、彼のおもだった特徴が無情さだからです。「スタヴローギンには心がありません。

 したがって、彼の精神は冷たく空虚で、彼の肉体は獣のような怠惰と官能性に沈んでいるのです。彼には心がないのです。したがって、彼は誰に対しても近づくことができず、誰も彼に本当に近づくことができません。なぜなら、心だけが親密さを つまり二人のあいだをつなげているほんとうの親しさを生み出すからです。(心臓)だけが相手を歓迎し、もてなしをすることができるのです。親密さは、心(心臓)の正しい活動であり、心(心臓)の領域であるのです。

 スタヴローギンは常に自分自身からさえも無限に遠い状況を生きています。なぜなら、人は心(心臓)をとおしてしか自分自身の内面に入ることができず、私たちの心(心臓)にとっては真剣に集中するこ
としか他に手立てがないからです。したがって、心(心臓)が生きていないと、人は自分自身にとってさえも謎に満ちた者となってしまうのです」(註9)

13項 私たちの行動はすべて、 政治的な現実を根底から基礎づけている心(心臓)による支えと配慮」のもとに置かれる必要があります。このようにして私たちの攻撃性や強迫的な慾望とは、心(心臓)が望むような、より大きな善に向かい 私たちは悪に抵抗する心(心臓)の力のなかにこそ安らぎを見出すことになるでしょう。心(心臓)と意志とは、科学的な立場で私たちが行いがちになる何らかの傾きなどに決して左右されることなく、そして真実を習得しようとするのではなく、むしろ真実を感じ取りつつ味わうことによって、より大きな善のために用いられることになるのです。意志は心(心臓)が認識す
るより大きな善を望み、想像力と感情は心臓(心)の鼓動によって導かれるからです。

14項 ですから、私とは自分の心(心臓)であると言えるでしょう。なぜなら、私の心は私を際立たせ、私の精神的なアイデンティティ を形作り、私を他の人びとと交わらせるものだからです。デジタルの世界で機能するアルゴリズム(機械的な解決策)[註釈;アルゴリズム(algorithm)とは計算式、問題を解決する方法、目標を達成するための手順、のことですが、ここでの意味は「機械的で自動的で無味乾燥なシステムによる解決方法」というものでしょう。「味わい深さがなく、あたたかみのない解決方法」とも言い換えられるかもしれません]は、私たちの思考と意志とが以前考えられていたよりはるかに「均一」なものであることを示します。アルゴリズム(機械的な解決策)は簡単に予測可能であり、したがって操作することが容易です。しかし心(心臓)の場合は決してそうではありません。

 15項 「心」(心臓)という言葉は、哲学や神学が物事を統合するべく努力することにおいて その価値を証明しています。しかも心(心臓)の意味は、生物学、心理学、人類学、その他の科学によっても解明されることはないでしょう 心(心臓)は、「人間が一つの全体(肉体的かつ精神的な人間)である限りにおいて、まさに人間に属する現実を描写する」原始的な言葉の一つです(註10 したがって、生物学者は心臓(心)について論じるとき、心臓(心)の一側面しか見ていないので、心臓(心)の全体的な把握の仕方が「現実的」であるわけではありません。

 全体は決して現実的ではないのではなく、むしろより現実的なものです。また、抽象的な言語が心臓(心)と同じ具体的で統合的な意味を獲得することは決してできないでしょう。「心臓」(心)という言葉は、私たちの人格の最も奥深い核心を呼び起こし、それによって、私たちは自分自身を、孤立した一つの側面だけではなく、統合された形で理解することができるのです。

16項 このような心(心臓)の独創的な力は、私たちが心(心臓)で現実を捉えると、現実をより良く、より完全に理解できるという事実を理解する際に役立ちます。このことは必然的に、心(心臓)が備えている愛へと私たちを導きます。なぜなら、「現実の最も奥深い核心は愛である」からです(註11)。 最も有力な現代の思想家のひとりであるハイデガーにとって、彼の解釈が示すように、哲学は単純な概念や確信から始まるのではなく、むしろ衝撃から始まるのです。

 思考するに際して、概念を扱い始める以前にも、または概念を扱っているさなかにも刺激が続いていなければなりません。深い感情がなければ、思考は始まらないからです。したがって、心(心臓)のなかに思い浮かぶ最初のイメージこそが鳥肌を立たせるのです。考え始めさせるきっかけを与えるとともに、疑問を抱くように刺激するのは深い感情なのです。

 哲学は常に基礎的な気分 Stimmung(訳註;独;シュティムング;雰囲気、ムード、風潮)によって行われます(註12 )。ここで心(心臓)が関係してきます。なぜなら、心(心臓)というものは「心(心臓)の状態を宿す まさに『心(心臓)の状態の管理者 として機能するからです。 心 (心臓)は比喩的ではない方法で存在の 沈黙の声 に耳を傾け、それによって自らを和らげ、決定づけられるのです (註13)。

 

 

3.心(心臓)は断片を結びつける[17-23項]

 

17項 同時に、心(心臓)はあらゆる真の絆を可能たらしめます。なぜなら、心(心臓)によって形作られていない関係は、個人主義によって引き起こされた断片化を克服することができないからです。つまり二つのモナド(訳註;個別的な独立存在)は互いに近づくかもしれませんが、真につながることはありません。ナルシシズム(訳註;自己陶酔主義)と自己中心性が支配する社会は、ますます「無情」になります。他者が視野から消えるにつれて、私たちは自らこしらえた壁のなかに閉じ込められ、もはや健全な人間関係を築くことができなくなるからです(註14)。その結果、私たちは神に対しても心(心臓)を開くことができなくなります。ハイデガーが言うように、神に対して心(心臓)を開くためには「もてなしの家」をしつらえる必要があるのです(註15)。

18項 こうして、各人の心(心臓)には、自己認識とともに他者に対して心(心臓)を開くこと、つまり個人の独自性の実感とともに他者に自分を捧げる意欲とのあいだに秘義的なつながりがあることがわかります。他者を認める能力を獲得した分だけ、私たちは自分自身になることができ、自分自身を認めて受け容れることができる人だけが他者と出会うことができるのです。

19項 心(心臓)は、絶望的なほどに断片化しているように見えるのかもしれない私たちの個人的な歩みを統合し、調和させることができるので、心(心臓)こそがあらゆることを意味づける場であることがわかります。物事を心(心臓)で見究めた聖母マリアについて語ることで、このことを福音書が私たちに伝えています。聖母は、経験した物事を心(心臓)で熟考し、記憶を大切にし、より大きな視点でながめることで、それらと対話することができました。

 心(心臓)がどのように考えるかを最もよく表現しているのは、聖ルカによる福音書の二つの箇所です。マリアは「これらすべてのことを 心(心臓)に留めて』 シュネテレイ[synetérei 思い巡らしていた シュンバルーサ[symbállousa 」と語られています(ルカ2:19および51を参照のこと 。ギリシア語の動詞の「熟考する」(シュンバレイン[symbállein とは、二つのもの 二つの「象徴」)を心(心臓)のなかで組み合わせ、自分自身との対話においてそれらについて熟考するというイメージを呼び起こします。

 ルカ2:51において使用されている動詞は「ディエテレイ(dietérei) で、「留める 保つ」という意味です。マリアが「留めた 保った 」のは、彼女が見たり聞いたりしたことの記憶だけでなく、彼女がまだ理解していなかったことがらも含まれていました。それでも、それらは彼女の記憶のなかに存在し、生きており、彼女の心(心臓)において「組み合わせられる」のを待っていたのです。

20項 人工知能が発達するこの時代において、私たちは詩と愛とが人間性を救うために必要であることを決して忘れてはなりません。たとえば、年齢や居住地に関係なく、母親や祖母が家で作るパイの縁をフォークで閉じるのを初めてどのように行ったかを思い出すときに、私たち全員が感じるノスタルジア(訳註;心のなかの郷愁)を、アルゴリズムで捉えることは決してできません。それは、子どもの遊びと大人の中間にある、料理の見習いの頃で、初めて互いに協力して助け合う責任を感じた瞬間でした。

 フォーク以外にも、誰にとっても大切な人生の小さな出来事が何千とあります。冗談を述べることで引き起こした笑顔、窓からの光に照らされて描いた絵、ぼろ布でできたボールで遊んだあの初めてのサッカー、靴箱で集めたミミズ、本のページに押し花を挿したこと、巣から落ちた雛鳥を心配したこと、デイジーを摘むときに願ったこと などです。私たちにとっては普通でありながら特別なこれらの小さな出来事は、アルゴリズムでは決して捉えられません。フォーク、冗談、窓、ボール、靴箱、本、鳥、花、これらすべてが、私たちの心(心臓)の奥深くに「留められた 保管された、保たれた 」大切な思い出として生き続けます。

21項 男女を問わず、あらゆる人に存在するこの深遠な核は、魂の核ではなく、その人独自の心身のアイデンティティー(自分らしさ)における人間全体の核です。あらゆることは心(心臓)のなかで統一されており、心(心臓)は、精神的な次元や霊的な次元ばかり、さらには肉体的な次元のすべてにおいて愛の住処となり得ます。一言で言えば、愛が私たちの心(心臓)に君臨すれば、私たちは完全で輝かしい方法で、私たちがなるべき理想の人になることができます。なぜなら、あらゆるものは何よりも愛のために創造されているからです。私たちの存在の最も深い場でつむがれるいのちという織物において、私たちは愛するとともに愛されるために創造されました。

22項 そのため、他国の共謀、不寛容、無関心による新たな戦争の勃発や、党派的な利益をめぐるささいな権力闘争を目撃すると、世界には心が失われつつあると結論づけたくなるかもしれません。私たちは、これらの壊滅的な紛争に翻弄されている両陣営の老女たちをながめて、耳を傾けるだけで十分です。孫を殺されたことを嘆き悲しんだり、一生を過ごした家を失った後に自ら死を望んだりする老女たちの姿を見るにつけて、胸が張り裂ける思いです。

 人生の困難や苦難のなかで、強さと回復力の支柱となることが多かった老女たちは、人生の終わりを迎えたいま、十分に得るべき休息の代わりに、苦悩、恐怖、憤りだけを経験しています。他人を責めても、これらの恥ずべき悲劇的な状況は解決しません。老女たちが涙を流し、これが耐え難いことだと感じていないのを見るのは、世界が無情になっていることの兆候です。

23項 人が自分自身にとってのほんとうの自分らしさ(アイデンティティ) について考え、疑問を持ち、熟考したり、人生のより深い疑問を理解して神を求めようと努力したり、真実を垣間見る興奮を経験したりするたびに、人間としての充足感は愛のなかにあるという認識に至ります。愛することで、私たちはこの世界に存在する目的と目標とを知るようになります。すべてが一貫性と調和の状態で一つになります。したがって、人生の意味について熟考する際に、おそらく最も決定的な質問は「私には心(心臓)があるのか」
というものなのです。

 

4.ほむら 愛の炎 24-27項

24項 これまで私たちが述べたことはすべて、精神的な生活に関係しています。たとえば、聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操の根底にある神学は、「愛情( affectus )にもとづいています。霊操の構造は、人生を「再編成」したいという確固とした心からの願望を前提としており、その願望は今度はその目標を達成するための力と手段を提供します。聖イグナチオが提示する規則と場所の構成は、もっと重要なもの、つまり人間の心(心臓)の秘義を理解する際に役立っています。

 ミシェル・ド・セルトーは、聖イグナチオが語る「動き」が、瞑想の秩序ある進行のなかで神の望みと私たち自身の心の望みとが「浸透し合った」ものであることを示しています。予期せぬ、これまで知られていなかった何かが私たちの心(心臓)のなかで語り始め、私たちの表面的な知識を打ち破るとともに疑問視させます。これは、心(心臓)から始まる「私たちの生活を整える」新しいプロセスの始まりです。それは、感情と実践とが知識のデータの結果にすぎず、知識に依存しているかのように、私たちの日常生活で実践する必要がある知的な概念に関するものではありません(註16)。

25項 哲学者の思考が止まるところで、信仰者の心(心臓)は愛と崇拝、ゆるしの嘆願、そして主が私たちに選ぶことをゆるすいかなる場所でも喜んで奉仕し、主の足跡をたどるという意志によって前進します。その時点で、私たちは神の目には「汝」として映るのであり、まさにそのために「私」になれるのだと気づかされます。実際、主だけが私たち一人一人を常に永遠に「汝」として扱うことを申し出てくださいます。主の友情を受け容れることは心(心臓)の問題なのです。心(心臓)こそが 私たちをその言葉が示す最も完全な意味で、私たちを人たらしめるのです。

26項 聖ボナヴェントゥラは、最終的に私たちは光ではなく「燃える火」(ほむら)の到来を祈るべきであると教えています(註17 )。彼は、「信仰は知性のなかにあり、愛情を引き起こすようなものです。この意味で、たとえば『キリストが私たちのために死んだ』という知識は知識のままではなく、必然的に愛情になります」と教えています(註18)。

 同様に、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンは、「心(心臓)は心(心臓)に語る( Cor ad corloquitur )」という標語を、自分の人生の生き方としていました。なぜなら、私たちのあらゆる考えをはるかに超えて、主はみこころから私たちの心(心臓)に語りかけることによって私たちを救うからです。この理解の仕方により、著名な知識人であった聖ニューマンは、自分自身と主との最も深い出会いは読書や熟考からではなく、生きて、いまここにいるキリストのみこころと私の心(心臓)とが響き合う祈りの対話から来るものであることを理解しました。聖ニューマンがイエスの生きたみこころに出会ったのは聖体においてでした。

 その心(心臓)は私たちを自由にし、人生のあらゆる瞬間に意味を与え、真の平和を与えることができます。「ああ、いとも神聖で、いとも慈愛に満ちたイエスのみこころ(心臓)よ、あなたは聖体のなかに隠され、今も私たちのために鼓動を打ち続けておられます。……私は最高の愛と畏敬の念、熱烈な愛情、最も抑制された、最も決然とした意志をもってあなたを崇拝します。ああ、わが神よ、あなたが私をお迎えし、あなたを食べ、飲むことをゆるし、あなたがしばらくのあいだ私のなかに住まわれるとき、私の心(心臓)をあなたのみこころ(心臓)で鼓動させてください。地上のもの、傲慢で官能的なもの、冷酷で残酷なもの、あらゆる邪悪なもの、あらゆる無秩序、あらゆる死から私の心(心臓)を清めてください。そして、その日やその時の状況がそれをかき乱す力を持たないように、あなたの愛と畏れのなかに私の心(心臓)が平和を保つようにしてください」(註19)。

27項 いまも生きており、ここにいてくださるイエスのみこころ(心臓)の前で、聖霊によって啓かれた私たちの心(心臓)は、主のみことばの学びをとおして成長し、主のみことばを実践する意志が強く突き動かされます。その際 私たちは、ある種の自己中心的な道徳主義のレベルに留まる危険性に容易におちいる場合があります。しかし、主の呼びかけに耳を傾け、味わい、主に対してふさわしい敬意を払うことは、心(心臓)の問題なのです。心(心臓)だけが、私たちの他の力や情熱、そして私たちの全人格を、主の前で畏敬の念と愛にもとづいた服従の姿勢に留まらせることができるのです。

 

5.世界は変革することができます、心(心臓)をともなってさあ始めましょう 28-31項

28項 心(心臓)から始めて、私たちの共同体は、異なる者たちの心(心臓)と意志とを統合し、和解させることに成功し、聖霊が私たちを兄弟姉妹として団結へと導くことができるのです。和解と平和もまた心(心臓)から生まれます。キリストのみこころ(心臓)は「自分の狭さから解放されて他者へと心(心臓)を開くこと( エクスタシー[脱自])」であり、開放性であり たまものであり、出会いなのです。心(心臓)のなかで、私たちは健全で幸せな方法でおたがいに関わることを学び、この世界に神の愛と正義の王国を築き上げます。キリストのみこころ(心臓)と結びついた私たちの心(心臓)は、このように社会的な奇跡を起こすことができるようになります。

29項 ですから、相手の心(心臓)を真剣に受け留めることは、社会全体に影響を及ぼします。第二バチカン公会議は、「私たち一人ひとりが心(心臓)を変える必要があります。私たちは全世界に目を向け、人類の向上をもたらすために私たち全員が一緒に実行できる奉仕に目を向けなければなりません」(註20)と教えています。「今日の世界に影響を与えている不均衡は、実際には人間の心(心臓)に根ざしたより深い不均衡の兆候です」(註21 )。

 私たちの世界を苦しめている悲劇について熟考するなかで、第二バチカン公会議は私たちに心(心臓)を取り戻すように促しています。公会議は、人間は「その内なる生活によって、物質的な宇宙全体を超越します。人は自分の心にわけ入るとき、この深い内面性を経験します。そこには、心(心臓)を探る神が待ち構えており、人間は神の御前で自分の運命を決めるのです (註22)。

30項 決して自分の能力に過度に頼ることを意味するものではありません。私たちの心(心臓)は自立しているのではなく、もろく傷ついているということを決して忘れないようにしましょう。心は存在論的な尊厳を備えていますが、同時に、よりいっそう尊厳のある生活を求めなければなりません(註23 )。

 第二バチカン公会議は、「福音の発酵は、人間の尊厳への抑えきれない渇望を人間の心(心臓)に呼び起こし、いまも呼び起こし続けています (註24)と指摘しています。しかし、この尊厳に従って生きるためには、福音を知ることや、その要求を機械的に実行するだけでは十分ではありません。神の愛の助けが必要なのです。それでは、キリストのみこころ(心臓)に目を向けましょう。キリストの存在の核心は、神と人間との愛とが燃え盛る炉であり、人類が目指すことのできる最も崇高な達成を私たちに実感させることです。そのみこころ(心臓)において、私たちはついに真に自分自身を知り、愛することを学びます。

31項 結局のところ、キリストのみこころ(心臓)は、あらゆる現実を統合する原理です。なぜなら、「キリストは世界の中心であり、キリストの死と復活の過越の秘義は歴史の中心であり、キリストのおかげで歴史は救いの歴史となっている」(註25)からです。

あらゆる被造物は「私たちとともに、私たちを通して、神という共通の到達点に向かって前進しています。その超越的な充足のなかで、復活したキリストはあらゆるものを抱きしめ、照らします (註26 キリストのみこころ(心臓)の面前で、私はもう一度、主が私たちの一人として住むことを選んだこの苦しみに満ちた世界に慈悲を与えてくださるよう祈ります。彼が光と愛という活き活きとした宝を注ぎ出し、戦争や社会経済的格差や人間性を脅かすテクノロジーの使用にもかかわらず 前進する私たちの世界が、何よりも重要で必要なもの、つまりその心(心臓)を取り戻すことができますように。

 

第2章  愛の諸々のわざと諸々の言葉

32項 キリストのみこころ(心臓)は、私たちに対する彼の愛の最も深く最も個人的な源の象徴として、福音の最初の説教のまさに核心です。それは私たちの信仰の原点であり、私たちのキリスト教信仰を刷新しつつ活気づける源泉なのです。

 

1.心(心臓)を映す諸々のわざ[33-38項]

33項 キリストは、長々とした説明ではなく、具体的な行動によって、私たちへの愛の深さを示しました。聖書をじゅうぶんに読み深めて、キリストによる他者との関わりかたを調べることによって、キリストが私たち一人ひとりをどのように扱っているのかがわかります。たとえ最初は見えにくいことがあったとしても、丁寧に聖書を読めばキリストの姿が理解できるようになります それでは、信仰のまなざしによって真実を見究めることができる現場としての「神のことば」に目を向けましょう。

34項 福音書は、イエスが「自分の民のところに来られた」(ヨハネ1:11参照)と語っています。この言葉は私たちのことを指しています。主は私たちを他人としてではなく、絶えず見守り、大切にする宝として扱うからです。主は私たちをほんとうに「自分の民」として扱ってくださいます。これは、私たちが主の奴隷であるという意味ではありません。主ご自身もそれを否定しています。「私は あなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ15:15)。むしろ、友人に特有な、おたがいに関わり合うような帰属意識を指しています。

 イエスはあらゆる距離を乗り越えて、橋渡しする意図によって私たちに会いに来られました。イエスは私たちの生活の最も単純な日常の現実と同じくらいに私たちに近づいてくださいました。実際に、イエスは「インマヌエル」という別の名前を持っています。これは「神は私たちとともにおられる」という意味であり、私たちの生活の一部として神が一体化するようになじんでおり、私たちのまっただなかに住まわれる神の親密さを意味しています。まさに神の子は受肉し、「自分を無にして、奴隷の姿をとりました(フィリピ2:7∼35項)」。

 いま述べたことは、イエスの働きを見ると明らかになります。イエスは人びとを探し出し、彼らに近づき、彼らとの出会いを常に受け​​容れます。イエスが水を汲みに行った井戸のそばで立ち止まってサマリア人の女性と会話をされたときに、そのことがわかります(ヨハネ4:5-7参照)。夜の闇のなかで、イエスの前に姿を見せることを恐れていたニコデモに会ったときにも、そのことがわかります(ヨハネ3:1-2参照)。イエスが遊女に足を洗われるにまかせたとき(ルカ7:36-50参照)、姦淫の現場で捕まった女性に「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言ったとき、また弟子たちの無関心を叱責し、道ばたの盲人に「何をしてほしいのか」と静かに尋ねたとき(マルコ10:51)のことを読むときに、 私たちは驚嘆させられます。キリストは、神が親しい態度で私たちに近づくこと、同情心をいだくこと、優しい愛を示すことを私たちに実感させるのです。

36項 イエスは誰かをいやすとき、遠くからではなく、近くから癒すことを好まれました。次の言葉を読めばわかります。「イエスは手を伸ばして彼に触れた」(マタイ8:3)。「彼女の手に触れた」(マタイ8:15)。「彼らの目に触った」(マタイ9:29)。ある時、イエスはまるで母親のように、耳の聞こえない人を自分の唾液で治すことさえしました(マルコ7,33参照)。それは、イエスが人びとの生活から切り離された存在だと思われないようにするためでした。「主は愛撫の優れた効果を知っておられる。神はその慈悲において、言葉で私たちを愛するのではなく、私たちに会いに来て、その親密さによって、そ
の優しい愛の深さを示してくださるのです」(註27)。

37項 嘘や傷害、失望によって傷ついたために他人を信頼することが難しいと感じているなら、主は私たちの耳元で「息子よ、元気を出しなさい」(マタイ9:2 )「娘よ、元気を出しなさい」(マタイ9:22 )とささやいてくださいます。主は、恐れを克服し、主がかたわらにいれば失うものは何もないことに気づくよう、私たちを励ましてくださいます。

 恐れていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかみ」、こう言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:31 )。あなたも恐れる必要はありません。イエスがあなたのそばに近づき、あなたをそばに座らせてくださいます。私たちが信用できない人はたくさんいるかもしれませんが、イエスはそうではありません。自分の罪のためにためらってはいけません。多くの罪びとが「イエスのもとに来て座った」(マタイ9:10 )のに、イエスは誰に対しても憤慨しなかったことを心に留めてください。

 イエスを「大食漢、大酒飲み、取税人や罪びとたちの友」(マタイ11:19)として不平を言い、扱ったのは宗教指導者たちでした。イエスは、いやしくて罪深い者とみなされる人びとと親しくしていることをファリサイ人が非難した時、すかさずイエスは次のように答えました。「私が求めるのは憐みであって、いけにえではない(マタイ9:13)。

38項 その同じイエスがいま、あなたの人生に光をもたらし、あなたを引き上げ、彼の力であなたを満たす機会をあなたに与えてくれるのを待っているのです。死の前に、イエスは弟子たちにこう約束しました。「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに来ます。しばらくすると、世はもはや私を見なくなりますが、あなたが私を見るようになります」(ヨハネ 14:18-19)。イエスは常にあなたの人生のなかに存在し、あなたがイエスに出会うことができるようにしてくださいます。

 

2.イエスのまなざし[39-42項]

39項 福音書には、ある金持ちが理想に燃えながらも人生を変える力に欠けた状態でイエスのもとにやって来たと書かれています。イエスは「彼を見つめました」(マルコ10:21)。その瞬間を つまり彼の目とイエスの目とが合う瞬間を想像できますか。 イエスがあなたを召し、使命に授けるとき、まずあなたを見て、あなたの心の奥底を探り、あなたのことをすべて理解してから、あなたに視線を向けます。「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられ、二人の兄弟に会われ、そこから立ち去られると、ほかに二人の兄弟を眺めた (マタイ 4:18、21)ときもそうでした。

40項 福音書のほとんどのページは、イエスがいかに個人に、とりわけ彼らの問題や必要に気を配っていたかを示しています。「イエスは群衆を見て、彼らが困窮し、助けを必要としているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とも書かれています。誰もが私たちを無視し、私たちの身に何が起きても誰も気にかけず、私たちは誰にとっても重要ではないと感じるときでさえも、イエスだけは私たちのことを気遣ってくれます。ナタナエルが自分のことで忙しく、離れて立っていたとき、イエスはこう言うことができました。「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」(ヨハネ1:48)。

41項 イエスは まさに私たちへの気づかいから、私たちの善意や小さな慈善行為をすべて知っています。福音書には、イエスがかつて「貧しいやもめが神殿の献金箱に小さな銅貨二つを入れているのを見て」(ルカ21:2)、すぐに弟子たちにそのことを伝えたと書かれています。このようにイエスは、私たちの心のなかに見られる善良さを評価します。百人隊長が完全な信頼をもってイエスに近づくと、「イエスは耳を傾け、驚嘆されました」(マタイ8:10)。たとえ他​​の人が私たちの善意や行為に気づかなくても、イエスだけは私たちを見て高く評価しているというのは、なんと心強いことでしょう。

 42項 イエスは人間として、母マリアから次のことを学びました。聖母マリアは自分が経験したことを注意深く思いめぐらせました。彼女は「それを心に留めておいた」(ルカ2:19, 51)のですし、聖ヨセフとともに、幼いころからイエスに同じように注意を払うよう教えました。

 

3.イエスの諸々のことば[43-47項]

43項 聖書には、常に生き生きとした時宜にかなったイエスの言葉が保存されていますが、イエスが私たちの内面に語りかけ、呼びかけ、より良い場所へと導く瞬間があります。そのより良い場所とは、 イエスのみこころ(心臓) です。そこでイエスは、新たな力と平和を見つけるよう私たちを招いています。「疲れた人、重荷を負っている人は、だれでも私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう (マタイ11:28)。この意味で、イエスは弟子たちに「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)と言うことができました。

44項 イエスの言葉は、イエスの聖性が深い感情を排除しなかったことを示しています。イエスはさまざまな場面で、情熱的で思いやりのある愛を示しました。イエスは深く感動し、悲しみ、涙を流すことさえありました。イエスが人びとの疲労や飢えといった日々の心配や心配事に無関心ではなかったことは明らかです。「私はこの群衆がかわいそうに思う。彼らは食べるものがなく、途中で弱り果ててしまうだろう。彼らのなかには遠くから来た者もいる」(マルコ 8:2-3)。

45項 福音書は、エルサレムに対するイエスによる愛を隠していません。「イエスは近づいて都を見て、そのために泣かれた」(ルカ 19:41)。そして、心の奥底にある願いを口にしました。「あなたがたが、この日に平和をもたらすものを悟ってさえいればよかったのに」(ルカ 19:42)。

 福音記者たちは、イエスの力と栄光を時々示す一方で、死に直面したイエスの深い感情や友人たちの悲しみも描きます。福音書は、イエスがラザロの墓の前に立って「泣き始めた」(ヨハネ11:35)ことを語る前に、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5 と記し、マリアと彼女と一緒にいた人びとが泣いているのを見て、「心を痛め、心を動かされた」(ヨハネ11:33)とも記しています。福音書の記述は、イエスの涙が本物であり、心の動揺のしるしであったことに疑いの余地を残していません。

 また、福音書は、イエスが深く愛していた人々の手による差し迫った暴力的な死に対するイエスの苦悩を隠そうとはしていません。イエスは「心を痛め、心をかき乱し始めた」(マルコ14:33)、「私​​は悲しみのあまり死なんばかりだ」(マルコ14:34)と叫ぶほどでした。この心の動揺は、十字架上での彼の叫びに最も力強く表れています。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。

46項 一見すると、これらすべてについては敬虔な感傷主義の匂いがするかもしれません。しかし極めて深刻で決定的な重要性があり、十字架につけられたキリストに最も崇高な表現を見いだしています。十字架はイエスの最も雄弁な愛の言葉なのです。浅薄でも感傷的でも、単に啓発的な言葉ではありません。それは愛であり、しかも純粋な愛です。だからこそ、キリストとの関係を表す適切な言葉を見つけようと苦闘していた聖パウロは、「私を愛し、私のためにご自身をお与えになった神の子」(ガラテヤ2:20)について語ることができたのです。これがパウロの最も深い確信でした。

 つまり、自分が愛されているという実感です。十字架上でのキリストの自己犠牲はパウロの人生の原動力となりましたが、それが彼にとって意味を成したのは、その背後にさらに大きな何か、つまり「彼が私を愛した」という事実があることを理解していたからです。多くの人びとが救いや繁栄、安全を他の場所で求めていた時代に、聖霊に動かされたパウロは、さらに先を見通すことができ、何よりも偉大で最も重要なことに驚嘆しました。「キリストは私を愛しておられました」。

47項 さて、キリストについて考え、キリストの行動と言葉がどのようにしてキリストのみこころを理解する助けとなるのかをながめた後で、主のみこころ(心臓)の神聖な秘義についての教会による考察を見渡すことにしましょう。

 

 

第3章 これがこれほど愛した心(心臓)です[

48項 キリストのみこころ(心臓)に対する信心は、イエスの人格から離れた単一の器官を崇拝することではありません。私たちが黙想しつつ崇拝するのは、神の子が人となったときのイエス・キリストの全体なのであり、そのみこころ(心臓)を強調するイメージで表現されています。その肉の心(心臓)は、受肉した子の最も内なる存在と、神と人間の両方の愛の特別なしるしと見なされています。イエスのからだの他のどの部分よりも、イエスのみこころ(心臓)は「彼の無限の愛の自然なしるしであり象徴」なのです(註28)。

 

1.キリストを崇拝すること[49-51項]

49項 イエス・キリストの人格に対する私たちの関わりは、彼のみこころ(心臓)のイメージのもとで表された愛によって引き寄せられた友情と崇拝をもたらすものであることを理解することが重要です。私たちは心臓(心)のイメージを崇拝しますが、この崇拝は、キリストの人間的で神聖な愛に抱かれるために、彼の神らしさ(神性)と完全な人間らしさ(人間性)とにおいて、生きているキリストにのみ向けられています。

50項 どのようなイメージが用いられようとも、シンボルが重要なわけではなく、むしろキリストの生きたみこころ(心臓)こそが、私たちの礼拝の対象であることは明らかです。なぜなら、心臓(心)はキリストの聖なる復活したからだの一部であり、そのからだは永遠の相のもとで受肉した神の子と切り離すことができないからです。

 私たちが心臓(心)を礼拝するのは、それが「みことば キリスト のペルソナ 独立した主体的な人間としての存在性]の心(心臓)であり、切り離すことのできないかたちでペルソナと結びついている」からです(註29 )。また、私たちは心臓(心)をそれ自体のために礼拝するのではなく、受肉した御子[キリスト]がこのみこころ(心臓)をともなって生きており、私たちを愛して、その愛を私たちから返礼されて受け容れることになるからです。したがって、キリストのみこころ(心臓)に対する愛の行為や礼拝はどれも「実際に、そして真にキリスト自身に捧げられる」ものなのです(註30) 。

 こうして心臓(心)はおのずとキリストに集中する私たちの姿勢を生み出すので 私たちは「イエス・キリストの無限の愛の象徴であり、優しいイメージとしての心臓(心)」にたどり着くことになるわけです(註31)。

51項 そのためイエスのみこころ(心臓)に対する信心が私たちをイエスとその愛から逸らしたり引き離したりするなどと決して考えるべきではありません。その信心はごく自然で直接的な方法で、対話や愛情や信頼や崇拝を特徴とする貴重な友情に招いてくださるキリストに向かわせるばかりではなく しかもキリストだけに私たちを導きます。私たちが眺めることになる、刺し貫かれて燃える心臓(心)を備えるキリストは、私たちへの愛のためにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを通り抜けて病人を癒し、罪びとを抱きしめ、慈悲を示した、あの同じキリストなのです。十字架上で両腕を広げて私たちを最後まで、
きわみまで愛し、その後で死から立ち上がり いまは栄光のうちに私たちのあいだで生き続ける、あの同じキリストなのです。

 

2.彼のイメージを崇敬する[52-58項]

52項 キリストとその心臓(心)の像は、それ自体が崇拝の対象なのではありませんが、他の表現の数多くの可能性のある像の一つなのでもありません。それは机上で考案されたり、藝術家によってデザインされたりしたものではありません。それは「架空のシンボルではなく、もっと中心的なものであり、全人類に開かれた救いの源を表す現実的なシンボル」なのです(註32)。

53項 普遍的な人間の経験により、心臓(心)の像は独創的なものになりました。実際に、歴史を通じて、そして世界のさまざまな地域で、心臓(心)は個人的な親密さ、愛情、感情的な愛着、そして愛する能力の象徴とされてきました。科学的なあらゆる説明の仕方を超えて、友人の胸元(心臓、心)に手を当てることは特別な愛情を表します。二人の人が恋に落ちてたがいに近づくと、彼らの心臓(心)の鼓動は早まります。しかし、愛する人に捨てられたり騙されたりすると、私たちの心(心臓)は沈みます[張り裂けそうな痛みを感じます]。同様に、私たちが深く個人的なこと表現したいときに、私たちはしばしば「心(心臓)から」話していると言います。詩の言葉はこれらの経験の力を反映しています。歴史の過程で、心臓(心)は単なる慣習を超えた独特な象徴的価値を帯びてきました。

54項 したがって、教会が心臓(心)のイメージを、イエス・キリストの人間らしい神聖な大切さ(愛 と彼の人格の最も内なる核心を表すために選んだことを理解することができます。しかし、燃える心臓(心)の描写はイエス・キリストの燃える大切さ(愛 )の雄弁な象徴なのかもしれませんが、この心臓(心臓)が彼から離れて表現されないことが重要です。このようにして、出会いと対話という個人的な関わりへの主からの呼びかけは、さらに意味のあるものとなるでしょう(註33 大切さ(愛 の心(心臓)を差し出すキリストを描いた尊い像は、キリストが私たちをじっと見つめ、出会い、対話し、信頼へと
招いていることを示します。その像は、私たちを支えることができるキリストの力強い手と、私たち一人ひとりに個人的に語りかけるキリストの唇を示しています。

55項 心臓(心)もまた、他の個々の器官とは異なり、身体の深遠な統合の中心、つまり人格の全体性の表現としてすぐに理解できるという利点があります。全体を表す部分として、主ご自身から離れてそれを観想すると、簡単に誤解してしまう可能性があります。心臓(心)の像は、キリストの人間としての性質および神としての性質との美しさと豊かさとを、余すところなく観想するように私たちを導くはずなのです。

56項 私たちがキリストの心臓(みこころ)のさまざまな描写の前でひざまずいて祈るときに、その描写にどのような特別な美的な性質を帰するとしても、「それらに何かを求めたり、かつて異邦人が行っていたように盲目的に偶像に信頼したりする」わけでは決してありません。むしろ、「私たちがキスをし、ひざまずいて、頭を覆わないままで、ありのままの自分をさらして向き合う、この像を通して、私たちはキリスト御自身を崇拝しているのです」(註34)。

57項 これらの表現には、確かに趣味が悪く、愛情や祈りにとって特に役立つものではない、と感じられるものがあるのかもしれません。しかし、これはあまり重要ではありません。なぜなら、それらは祈りへの招待の入り口に過ぎず、東洋の諺を引用すると、私たちは月を指し示す指に視線を限定すべきではないからです。聖体は崇拝されるべき現実の存在ですが、聖像は祝福されているとはいえ、それ自体を超えて指し示し、私たちの心(心臓)を持ち上げ、生けるキリストのみこころ(心臓)に結びつけるよう招きます。

 したがって、私たちが崇拝する像は、キリストとの出会いのための場所を作り、私たちが思い描く方法で彼を崇拝するための召喚状として機能します。像の前に立つと、私たちはキリストの前に立ち、彼の存在につつまれることで、 愛するがゆえに、立ち止まり、秘義に思いを致し、沈黙のうちでそれを愉しむことになるのです (註35)。

58項 同時に、心臓(心)の像が私たちに肉体と地上の現実について語っていることを決して忘れてはなりません。このようにして、心臓(心)の像は、私たちの一人、私たちの歴史の一部、そして地上の旅の仲間になることを望まれた神を指し示すことになります。より抽象化されつつ様式化された形の信心は、必ずしも福音の内容に忠実であるとは限りません。なぜなら、この雄弁で具体的なしるしのなかに、神がご自身を明らかにし、私たちに近づこうと望まれたことがわかるからです。

 

3.具体的な愛[59-63項]

59項 一方、愛と人間の心(心臓)とは必ずしも重なるわけではありません。憎しみ、無関心、利己主義が私たちの心(心臓)を支配することがあるからです。しかし、私たちは他の人に心(心臓)を開かない限り、人間としての充足感を得ることはできません。愛を通してのみ、私たちは完全に自分自身となることができます。愛のために創造された私たちの最も深い部分は、私たちが愛することを学ぶ場合にのみ、神の計画を成就します。そして、心(心臓)は愛の象徴なのです。

60項 神の永遠の子は、その完全な超越性において、人間の心(心臓)で私たち一人ひとりを愛することを選ばれました。イエスの人間らしい感情は、その無限で終わりのない愛の秘跡となりました。したがって、イエスのみこころ(心臓)は、単に肉体のない霊的な真実の象徴ではありません。主のみこころ(心臓)を見つめるとき、私たちは、イエスの人間的な肉体という物理的な現実を観想することになります。

 この肉体は、イエスが私たちと同じように、神の愛によって完全に変容しているとはいえ、真の人間らしい感情や感覚を持つことを可能にします。私たちの信仰は、神の子のペルソナの無限の愛へと昇らなければなりませんが、イエスの神らしい愛は人間らしい愛と切り離せないことを心に留めておく必要があります。イエスの肉の心(心臓)のイメージが、まさに役立ちます。

61項 心(心臓)は、一般の人びとの心(心臓)のなかで、各人の感情の中心として見られ続けているため、完全に人間らしい大切さ(愛 と永遠に切り離せない形で結びついたキリストの神聖なる愛を表す最良の手段であり続けています 教皇ピウス12世は、福音書がキリストのみこころ(心臓)の愛について言及する際に、「神の慈愛だけでなく、人間の愛情についても」語っていると述べています。実際に、「神のみことば[キリスト]の位格[神聖なるペルソナ]と位格的に結びついたイエス・キリストのみこころ(心臓)とは、疑いなく愛とあらゆる優しい愛情とで脈打っていました」(註36)。

62項 教父たちは、キリストの真の人間性を否定したり軽視したりする人びとに反対し、主の人間らしい愛情の具体的な実在性を主張しました。聖大バシレイオスは、主の受肉が決して空想的なものではなく、「主は私たちの自然な愛情を所有していた」と強調しました(註37 )。聖ヨアンネス・クリゾストモスはたとえを挙げて、「主が私たちの性質を所有していなかったら、時々悲しみを経験することはなかったでしょう」と述べました(註38 )、聖アンブロジウスは、「人間の魂を選び取ったことで、彼は魂の情熱を引き受けました」と述べたのです(註39 )。

 聖アウグスティヌスにとって、キリストが引き受けた私たちの人間らしい愛情は、いまや恩寵に満たされた命として開かれています。「主イエスは、私たち人間の弱さとしての愛情を引き受け、私たち人間の弱さとしての肉体を引き受けました。その際、必要に迫られてではなく、意識的に、そして自発的に……人生の試練のなかで悲しみや苦しみを感じる人が、主の恵みから切り離されたと思うことのないよ
うにするためです (註40)。

 最後に、ダマスコの聖ヨアンネスは、キリストがその人間性において示した真の愛情は、キリストが私たちの本性を完全に引き受け、それを完全にあがない、変容させたことの証拠であるとみなしました。つまり、キリストはあらゆる人が聖化されるように、人間の本性の一部であるあらゆるものを引き受けたのです(註41)。

63項 ここで、私たちは、「ギリシア思想の影響により、神学は長いあいだ、身体や感情のことを人類が知性を発達させる以前の時代の原始的な要素として扱っていたばかりか、あるいは人間の下等状態の能力であるかのように理解しており さらには無意識のうちに非人間的な状況として無視してきましたが、神学が理論上では解決できなかったことを、霊性の実践においては解決したのです」と主張する神学者の考えから恩恵を受けることができます この考え方のおかげで、民衆の信心深さとともに、イエスの肉体的、心理的、歴史的な現実との関わりを意味のあるものとして保つことにつながりました。

 十字架の道行き、キリストの傷、尊い血とみこころに対する信心、そして聖体に対するさまざまな信仰が歴史上見受けられるのですが……これらすべてが、私たちの心(心臓)と想像力、キリストへの優しい愛、希望と記憶、願望と感情を養うことで、神学理論との溝を埋めることにつながりました。理性と論理のほうは別の方向に向かってしまったにもかかわらず(註42)。

 

 

4.三重の愛[64-69項]

 

64項 私たちは、主の人間的な感情のレベルに留まるのではなく、さらに前進します。たしかに主の人間的な感情のレベルは美しく感動的なものです。しかし、一歩進んで、キリストのみこころを観想するときに、私たちは、主の立派で高貴な感情、優しさ、そして真の人間的な愛情のしるしのなかに、主における無限なる神の愛のより深い真実が明らかにされていることにも気づけます。

教皇ベネディクト16世の言葉にもとづけば、「神は、その愛の無限の地平から、人類の歴史と人間の状態の限界に入り込むことを望まれました。神は肉体と心とを身にまとわれました。こうして、私たちは有限のなかに無限を、ナザレのイエスの人間らしい心のなかに、目に見えず言い表せない秘義を観想し、出会うことができるのです」(註43)。

65項 主の心臓のイメージは、実際には、私たちに三重の愛を語りかけます。①まず、私たちは主の姿の内に無限なる神の愛を観想します。②それから、私たちの思いはイエスの人間性の精神的な側面に向かいます。その側面では、心は「イエスの魂に注ぎ込まれ、イエスの人間らしい意志を豊かにする最も熱烈な愛のシンボル」となるのです。③最後に、心臓は「イエスの感覚的な愛のシンボルでもあります」(註44)。

66項 これらの三重の愛は、それぞれ別々に独立したものではなく、並行状態をたどるものでもなく、しかもたがいに切り離されたものではなく、むしろ一緒に作用し、絶え間なく生き生きとした一体性によって表現されるものです。なぜなら、「人間らしさと神らしさとがキリストのペルソナ(人間性)において一体となったことを実感する信心によって、イエスの肉体的な心の優しい愛と、人間らしくて神らしくもあるような二重の霊的な愛とのあいだに最も密接なつながりを見つけることができるからです」(註45)。

67項 キリストのみこころに包み込まれると、私たちは自分たちと同じような愛情と感情に満たされた人間らしい心によって愛されていると感じます。イエスの人間らしい意志は、私たちを愛することを自由に選択し、その霊的な愛は恵みと慈愛とに満ちています。キリストのみこころの奥底に飛び込むとき、永遠の子としてのキリストの無限の愛の計り知れない栄光に圧倒され、もはやその愛をキリストの人間らしい愛から切り離すことは決してできません。

キリストの人間らしい愛のうちに包まれてこそ、私たちはキリストの神らしい愛に出会うことになるのです。私たちは「有限なもののまっただなかに無限なるものを見出す」のです(註46)。

68項 キリストの人格に対する私たちの礼拝は分割されず、キリストの神らしさと人間らしさの両方を不可分に包含するものであるというのが、教会の一貫した明白な教えです。古代から教会は、「神と人の子である唯一のキリストを礼拝し、分離できない二つの不可分の性質から成り、そのなかに存在するキリストを礼拝する」べきであると教えてきました(註47)。

そして私たちは「一つの礼拝行為で……言葉が肉となったように」そうします(註48)。キリストは決して「二つの性質のままで礼拝されることはありませんので、二つの礼拝行為が導入されることもありません」。その代わりに、私たちは「一つの礼拝行為によって、みことばが肉となったという神の姿を、その肉をいただくことで、ともに崇敬する」のです(註49)。

69項 十字架の聖ヨハネは自分の秘義の経験を記録することで、復活したキリストの限りない愛は私たちの生活とは決して無縁のものとして認識されるのではないということを説明しようとしました。キリストの限りない愛は、ある意味で「謙遜」な姿勢によって、開かれた心を通して、私たちが真に相互的な愛の出会いを経験できるようにしてくれます。

なぜなら、「低く飛ぶ鳥が高みの王者としての鷲を捕らえることができるためには、この鷲が捕らえられたいと願って降りて来るのを信じて待つしかない」からです(註50)。十字架の聖ヨハネはまた、花婿が「花嫁が自分への愛で傷ついているのを見て、彼女のうめき声を聴くにおよんで、彼もまた彼女への愛で傷つくことになります。恋人同士のあいだでは、一人の傷は二人の傷であるからです」とも説明しています(註51)。

十字架の聖ヨハ
ネは、キリストの刺し貫かれたわき腹のイメージを、主との完全な一致への招待と見なしています。キリストは傷ついた雄鹿です。私たちがキリストの愛に触れられなかったときに傷つき、渇きを癒すために水の流れのほとりに降りてくださるので、私たちがキリストに目を向けるたびに慰めを受けることになるわけです。「鳩よ、帰れ。傷ついた雄鹿が丘の上に見えています。流れ去る、そよ風が涼しく身に
打ち寄せます」(註52)。

 

 

5.三位一体の神の諸々の観点[70-77項]

 

70項 イエスのみこころへの献身は、私たちを主との一体化へと導く主への直接的な観想として、明らかにキリスト論的な性質を備えています。この視点はヘブライ人への手紙に見られます。そこでは「私たちの前に置かれている競争を、イエスを見つめながら忍耐強く走りなさい」(同12:2)と勧められています。同時に、イエスがご自身を父への道として語っていること気づく必要があります。「私が道です。私を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)。

イエスは私たちを御父のもとへ連れて行きたいと願っています。だからこそ、教会の教えは最初からイエスで終わるのではなく、御父で終わるのです。源であるとともに物事の最終的な完成者である御父こそが、歴史の終末において栄光を受けるべき方なのです(註53)。

71項 たとえば、エフェソ人への手紙を見てみると、私たちの礼拝が御父に向けられていることがはっきりとわかります。「私は御父の前にひざまずきます」(同3:14)。「すべてのものの父である唯一の神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを通してあり、すべてのものの内におられます」(同4:6)。「いかなるときでも、すべてのことについて、御父である神に感謝しなさい」(同5:20)。「私たちは御父のために存在しています」(1コリント8:6)。

この意味で、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は「キリスト教生活全体が父の家への大巡礼のようなものだ」と言うことができました(註54)。これは、殉教の道を歩むアンティオケイアの聖イグナティオスの経験でもありました。「私の心のなかには、もはや世俗的なことへの欲望の火花は残っていません。ただ、私の心のなかで『父のもとに来なさい』とささやきかける生ける水によるささやきだけが残っています」(註55)。

72項 御父は、何よりもまず、イエス・キリストの父です。「私たちの主イエス・キリストの神であり御父である方がほめたたえられますように」(エフェソ1:3)。彼は「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父」(エフェソ1:17)です。御子が人となられたとき、彼の人間としての心のあらゆる希望や願望は御父に向けられました。キリストが御父について語った方法を考えれば、彼の人間としての心が御父に対して感じた愛や愛情、この完全で絶え間ない御父への指向を理解することができます(註56)。イエスのもとで生きる私たちの人生も、御父のもとに来なさいという、彼の人間としての心の絶え間ない呼びかけに応える旅をたどるものとなります(註57)。

73項 私たちは、イエスが御父に呼びかけるときに使ったアラム語が「アッバ」であったことを知っています。これは親密で馴染みのある言葉ですが、ある人は当惑させられました(ヨハネ5:18参照)。イエスが差し迫った死に対する苦悩を表現するときに御父に呼びかけた言葉です。「アッバ、父よ、あなたには、あらゆることが可能です。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、あなたの願いがかなえられるように」(マルコ14;36)。

 イエスは、自分が常に御父に愛されていたことをよく理解していました。「あなたは、世界のもといが置かれる前から私を愛しておられました」(ヨハネ17;24)。イエスは、人間としての心のなかで、御父が次のように言われるのを聞いて喜んだのです。「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜びとする」(マルコ1;11)。

74項 第四福音書は、永遠の子が常に「父の心に近かった」(ヨハネ1;18)と語っています(註58)。聖エイレナイオスは、このようにして「神の子は初めから御父と共におられた」と宣言しています(註59)。一方、オリゲネスは、御子は「御父の奥底を絶えず観想し」続けていると主張しています(註60)。御子が肉体を受け取ったとき、山頂で愛する御父と一晩中語り合っていました(ルカ6;12参照)。

 イエスは「私は父の家にいるはずです」と私たちに告げました(ルカ2:49)。イエスがどのように讃美を表明したかも分かります。「イエスは聖霊において喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、感謝します』」(ルカ10:21)。イエスの最後の言葉は、まさに信頼に満ちたものでした。「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。

75項 それでは、聖霊に目を向けましょう。聖霊の火がキリストのみこころを満たしています。教皇聖ヨハネ・パウロ2世がかつて言ったように、キリストのみこころは「聖霊の傑作」です(註61)。これは単なる過去の出来事ではありません。なぜなら、いまでも「キリストのみこころは聖霊の働きで生きているからです。イエスは聖霊に宣教のひらめきを与え(ルカ4:18、イザヤ61:1参照)、最後の晩餐の席上で聖霊の派遣を約束されました。聖霊は、教会がそこから生まれたキリストの刺し貫かれたわき腹のしるしの豊かさを、わたしたちに理解させてくれます(『典礼憲章』5項参照)(註62)。

 一言で言えば、「聖霊だけが、キリストのみこころに含まれる『内なる人』の豊かさを私たちの前に開くことができます。聖霊だけが、わたしたちの人間的な心を、その豊かさから一歩ずつ力づけることができるのです」(註63)。

76項 聖霊の秘義的な働きをさらに深く探究しようとするなら、聖霊が私たちの心のなかでうめき、「アッバ」と叫んでいることが理解できるようになります。実際に、「あなたがたが子どもであることの証拠は、神が御子の霊をわたしたちの心に遣わして、『アッバ、父よ』と叫ばせてくださったからです」(ガラテヤ4:6)。「聖霊は私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることをあかししてくださいます」(ローマ8:16)。キリストの人間的な心のなかで働く聖霊は、キリストを絶えず御父のもとに引き寄せます。聖霊が恵みを通して私たちをキリストの気持ちに結びつけるとき、聖霊は私たちを御子と御父との関係にあずかる者とし、それによって私たちは「子としての霊を受け、その霊によって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(ローマ 8:15)。

77項 聖霊の促しによって、キリストのみこころと私たちの心との関係はこのように変化します。聖霊は私たちを、いのちの源であり、恵みの究極の源である御父へと導きます。キリストは私たちがただ漫然と彼のなかに留まることを期待しておられません。キリストの愛は「御父の慈悲の啓示」(註64)なのであり、彼の望みは、彼のみこころから湧き出る聖霊に促されて、私たちが「彼とともに、また彼のなかで」御父のもとへと昇ることなのです。私たちは「キリストを通して」(註65)、「キリストとともに」(註66)、「キリストのなかで」御父に栄光をささげます(註67)。

 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、「救い主のみこころは、あらゆる真の愛の源である御父の愛に戻るよう私たちを招きます」(註68)と教えました。これはまさに、キリストのみこころを通して私たちのもとに来る聖霊が私たちの心を育くもうとしていることなのです。このため、典礼は聖霊の活力ある働きを通して、キリストの復活したみこころから常に御父に語りかけるのです。

 

 

6.教導職の最近の教え[78-81項]

 

78項 キリストのみこころは、キリスト教の霊性の歴史において、さまざまな形で常に続いてきました。聖書において、あるいは教会の初期の時代においては、キリストのみこころは、主の傷ついたわき腹のイメージのもとに、恵みの泉として、また深く愛に満ちた出会いへの呼びかけとして現われました。この同じ姿で、過去と現在の多くの聖人の著作のなかに再び現われています。ここ数世紀、キリストのみこころの霊性は徐々に、イエスのみこころの信心という特定の形をとるようになりました。

79項 私の前任者の多くは、さまざまな方法でキリストのみこころについて語り、私たちがそれと一体化するように勧めてきました。19世紀末の教皇レオ13世は、みこころに自らを捧げるように私たちに勧めました。こうして、キリストとの一体化への呼びかけと、キリストの無限の愛の壮大さを前にしたときに、私たちは驚かされることになります(註69)。

それから約30年後、教皇ピウス11世は、この信心をキリスト教の信仰経験の「総括」として提示しました(註70)。教皇ピウス12世は、さらに、みこころの礼拝は、イエス・キリストに対する私たちの崇拝を、崇高な総合として、際立った方法で表現するものである、と宣言しました(註71)。

80項 さらに最近では、教皇聖ヨハネ・パウロ2世が、この信心がここ数世紀に高まったものであることを、主の慈悲の豊かさを無視した、厳格で肉体のない形の霊性の台頭への反応として提示しました。同時に、彼はこれを、神の余地を残さない世界を作ろうとする試みに抵抗するための時宜を得た呼びかけであると見なしました。

「みこころに対する信心は、いまから2世紀前にヨーロッパで聖マルグリット・マリー・アラコックの秘義の経験に刺激されて発展しましたが、それは神の無限の慈悲を無視するジャンセニストの厳格さに対する反応でした……第三千年紀の男性と女性は、神を知り、自分自身を知るためにキリストのみこころを必要としています。愛の文明を築くためにキリストのみこころが必要なのです」(註72)。

81項 教皇ベネディクト16世は、私たちの生活において親密で日常的なキリストのみこころを理解するように求めました。「あらゆる人は自分の生活の『中心』、日々の生活の出来事、状況、闘争のなかで引き出す真実と善の源を必要としています。私たち全員が沈黙のうちで立ち止まるとき、自分の心臓の鼓動だけでなく、さらに深く、信仰の感覚で物事を感知するとともに、さらにはるかに現実的な信頼できる相手の鼓動を感じる必要があります。それは、世界の心であるキリストの存在です」(註73)。

 

 

7.さらなる諸々の考察と現代との諸々の関連性[82-91項]

 

82項 キリストのみこころの表現力豊かで象徴的なイメージは、聖霊が私たちにキリストの愛に出会うために与えてくれた唯一の手段ではありませんが、これまで私たちが眺めてきたように、特に特権的な手段なのです。それでも、黙想、福音書の朗読、そして霊的成熟の成長を通して、キリストのみこころのイメージは常に豊かにされ、深められ、新たにされる必要があります。

教皇ピウス12世は、教会は「私たちはイエスの心のなかに『形式的な』イメージ、つまり彼の神聖な愛の完全で絶対的なしるしを観想し、崇拝しなければなりません。なぜなら、この愛の本質は、様々な想像を伴うイメージによってさえも十分には表現できないからです」と明確に述べました(註74)。

83項 キリストのみこころに対する信心は、主による神と人への愛の秘義に対する信仰と崇拝の開放性を表現する限りにおいて、私たちのキリスト教生活にとって不可欠です。この意味で、私たちはみこころが福音の総合であることを改めて断言することができます(註75)。

キリストのみこころに対する信心を熱心に奨励したある聖人たちが語った幻視や秘義的な示現は、ちょうど信徒が神の言葉であるかのように信じなければならないものではないことを、ここで覚えておく必要があります(註76)。それでも、それらは励ましの豊かな源であり、非常に有益であることが証明されます。

たとえ、それが自分の霊的な旅に役立たないことが判明したとしても、誰もそれらに従うことを強いられる必要はありません。しかし同時に、教皇ピウス12世が指摘したように、この信心は「個人的な啓示に由来する」とは言えないことを心に留めておく必要があります(註77)。

84項 たとえば、毎月第一金曜日の聖体拝領の推奨は、多くの人びとが神の慈悲とゆるしとをもはや信じておらず、聖体拝領を完全な者への一種の報酬とみなしていたために聖体拝領を受けなくなっていた時代に、強力な呼びかけを与えました。ジャンセニスムが蔓延する生活の現場では、この慣習の普及は非常に有益であることが証明されました。なぜなら、聖体拝領において、キリストの慈悲深く、常に存在する愛が、私たちをキリストとの一体化へと招いているという明確な理解の仕方につながったからです。

また、この慣習は、別の理由で、現代においても同様に有益であると言えます。今日の世界の慌ただしい時間の流れと、自由時間、消費や娯楽、携帯電話やソーシャルメディアへの執着が強くなる環境において、私たちは聖体の力で私たちの生活を養うことを忘れているからです。

85項 いまや、毎週木曜日に一時間を礼拝に費やす義務を保とうとする人はほとんどおりませんが、この慣習は確かに推奨されるべきです。多くの兄弟姉妹と一体となって、敬虔に聖体礼拝を実行し、聖体におけるキリストのみこころの計り知れない愛を見出すときに、私たちは「教会とともに、受肉したみことばのみこころを通して人類を愛するまでに至った神の愛のしるしと現われとを崇拝する」のです(註78)。86項 数多くのジャンセニストにとって、聖体拝領や聖体礼拝はまったく理解しがたいものでした。なぜなら、彼らは人間的なもの、感情的なもの、肉体的なもののすべてを疑いの目で見ていたため、御聖体への敬虔さは私たちを至高の神への純粋な崇拝から遠ざけるものだとみなしていたからです。

こうしたジャンセニスムに見受けられるように、神をあまりに崇高で、隔絶した、遠い存在とみなし、民衆の信心の感情的表現を危険で教会の監督を必要とするものとみなしたグループのエリート主義的な態度を教皇ピウス12世は、「偽りの神秘主義」(註79)として戒めました。

87項 今日、私たちはジャンセニスムに代わって、神から逃避して専ら人間だけの力で自由な世界を築こうとするような強力な世俗化の波に直面していると言えるかもしれません。私たちの社会では、愛の神との個人的な関係とはまったく関係のない、肉体的な要素が欠如した霊性の新たな現われとしての、さまざまな形態の宗教の急増も見られます。

教会においても、有害なジャンセニスムの二元論が新たな形で再び現われていることを警告しておかなければなりません。特に、ここ数十年で新たな力を得ていますが、それは「肉の救済」の現実を認めなかったためにキリスト教の初期の世紀に大きな精神的脅威となったグノーシス主義の再来なのです。このため、私はキリストのみこころに目を向け、私たち全員にキリストへの信仰を新たにするように呼びかけます。これが現代の感受性にも訴えかけ、この信心が効果的な対応策を提供する古い二元論や新しい二元論に立ち向かう助けとなることを私は願っています。

88項 キリストのみこころは、外部の活動、福音とはほとんど関係のない構造改革、強迫観念的な再編計画、世俗的なプロジェクト、世俗的な考え方、義務的なプログラムに過度に巻き込まれたコミュニティ や司祭に見られる別の種類の二元論からも私たちを解放します。その結果、多くの場合、信仰の優しい慰め、他者に奉仕する喜び、使命に対する個人的な献身の熱意、キリストを知ることの素晴らしさ、キリストが与えてくれる友情から生まれる深い感謝、そしてキリストが私たちの人生に与えてくれる究極の意味が剥奪されたキリスト教になります。これもまた、幻想的で肉体のないこの世のものとは思えない表現です。

89項 現代に広く見られるこれらの態度に屈すると、私たちはそれらを治したいという欲求をすべて失いかねません。このことから 私は全教会にキリストのみこころの信心によって表されたキリストの愛について改めて考えるよう提案したいと思います。なぜなら、そこには、私たちの信仰の真理の総合、私たちが信仰において崇拝し求めるすべてのもの、私たちの最も深い欲求に応えるすべてのもの、まさに福音全体があるからです。

90項 キリストのみこころ そして福音の受肉した総合を観想するとき、私たちは幼きイエスの聖テレーズの例に倣って、「私たち自身ではなく、私たちを無条件に愛し、イエス・キリストの十字架においてすでにすべてを与えてくださった神の無限の慈悲に心から信頼を置く」ことができるようになります(註80 聖テレーズがこれを行うことができたのは、キリストのみこころにおいて神が愛として働いていることを発見したからです。「神は私に無限の慈悲を与えてくださいました。そして、私は神による無限の慈悲によって神の完全性を観想し、崇拝します」(註81 だからこそ、キリストのみこころに矢のように向けられた一般的な祈りは、単に「イエスよ、私はあなたに信頼します」と言っているのです(註82 。もはや他の言葉は必要ありません。

91項 次の章では、みこころに対する現代の信心が、私たちを養い、福音に近づけ続けるために組み合わせる必要がある二つの重要な側面、つまり個人的な霊的経験と共同体の宣教への取り組みを強調しておきたいと思います。

第 4 章 飲みものとして自らを与える愛[92項]

92項 それでは、聖書に戻りましょう。聖書は、何よりも神の啓示に出会うための霊感を受けたテクストです。聖書に描かれた教会の生きた伝統において、私たちは主が歴史のなかで私たちに伝えたかったことを聴くことができます。旧約聖書および新約聖書のいくつかのテクストを読むことで、私たちは時代を超えて神の民の偉大なる心の巡礼を導いてくださった神のことばに対する洞察を得ることができるのです。

1.愛を渇望する神[93-101項]

93項 聖書は、砂漠を旅して自由を切望した人びとが、いのちを与える豊富な水の約束を受けたことを示しています。「あなたたちは喜びをもって救いの井戸から水を汲むだろう」(イザヤ12:3)。メシアの到来の預言は、次第に清めの水のイメージを中心にまとまりました。「わたしは清い水をあなたたちに振りかける。あなたたちは清くなる。わたしは新しい霊をあなたたちのうちに授ける」(エゼキエル6:25-26)。この水は、神殿から流れ出る泉のように、神の民に豊かないのちと救いとをもたらすでしょう。「わたしは川の岸に、こちら側にもあちら側にも多くの樹木があるのを見た。川が流れる所では、あらゆる生き物が生きる。川が海に入ると、その水は清くなり、川が流れる所では、あらゆるものが生きる」(エゼキエル47:7-9)。

94項 イスラエルの砂漠での40年間の滞在を思い起こさせるユダヤの仮庵の祭り(スッコット)は、徐々に水の象徴を中心的な要素として採り入れました。その際に、水を毎朝捧げる儀式が含まれていましたが、祭りの最終日には最も厳粛なものとなり、神殿に向かって大行列が行われ、祭壇を七度回り、大きな歓喜の叫びのなかで神に水が捧げられました(註83)。

95項 メシア時代の幕開けは、人びとのために湧き出る泉として描写されました。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民に、あわれみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者を仰ぎ見るであろう。……その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れから彼らをきよめる泉が開かれるであろう」(ゼカリヤ12:10、同 13:1)。

96項 刺し貫かれた者、湧き出る泉、あわれみと祈りの霊のほとばしり。初期のキリスト者は、これらの約束がキリストの刺し貫かれたわき腹、新しいいのちの源泉において実現したと必然的に考えました。ヨハネによる福音書では、その成就について熟考しています。イエスの傷ついたわき腹から聖霊の水が流れ出しました。「兵士のひとりが槍でイエスのわき腹を刺すと、たちまち血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:34)。福音記者は、エルサレムに泉が開き、刺された者について語った預言を思い出します(ヨハネ19:37 ゼカリヤ12:10参照)。開いた泉は、キリストの傷ついたわき腹であるとされました。

97項 以前、ヨハネによる福音書はこの出来事について語っていました。「祭りの最後の日」(ヨハネ7:37)に、イエスは大行列を祝う人びとに向かって叫びました。「渇いている者はだれでもわたしのもとに来て飲みなさい。……その人の心から生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)。しかし、これが達成されるためには、イエスの「時」が到来することが必要でした。なぜなら、イエスは「まだ栄光を受けておられなかった」(ヨハネ7:39)からです。その成就は、十字架上で、主のわき腹から流れ出る血と水とによってもたらされました。

98項 黙示録は、刺し貫かれた者と泉に関する預言を採り上げています。「あらゆる人の目が、彼を刺し貫いた者たちでさえも、彼を見るであろう」(黙示録1:7)。「渇いている者はみな来なさい。いのちの水をたまものとして受けなさい」(黙示録22:17)。

99項 イエスの刺し貫かれたわき腹は、神が数え切れないほど多くの方法でその民に示した愛の源です。では、イエスのみことばのいくつかを思い出してみましょう。

「あなたはわたしの目に尊ばれ、尊ばれる者だから、わたしはあなたを愛する」(イザヤ43:4)。

「女が乳飲み子を忘れ、自分の胎内の子をあわれまないだろうか。たとえこれらの者が忘れたとしても、わたしはあなたを決して忘れない。見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた」(イザヤ49:15-16)。「山々は移り、丘は移っても、私の慈しみはあなたから移らず、私の平和の契約は移らない」(イザヤ54:10)。

「私は永遠の愛をもってあなたを愛し、それゆえ、私はあなたに忠実であり続けた」(エレミヤ31:3)。

「あなたの神、主はあなたのなかにおられ、あなたに勝利を与える勇士である。主は喜びをもってあなたのことを喜び、その愛をもってあなたを新たにし、大声であなたのことを喜ばれるであろう」(ゼファ3:17)。

100項 預言者ホセアは、神の心について語っています。神は「慈悲の綱と愛の帯をもって彼らを導いた」(ホセア11:4)。その愛が拒絶されたとき、主は「わたしの心はわたしのうちに揺り動かされ、わたしのあわれみは熱く、やさしくなった」(ホセア11:8)と言うことができました。神の慈悲深い愛は常に勝利を収め(ホセア11:9参照)、その最も崇高な表現は、神の決定的な愛のみことばであるキリストにおいて見出されるのです。

101項 キリストの刺し貫かれた心は、聖書にある神の愛の宣言をすべて体現しています。その愛は単なる言葉の問題ではありません。むしろ、神の子の開かれたわき腹は、神が愛する人びとにとってはいのちの源であり、神の民の渇きをいやす泉なのです。いみじくも教皇聖ヨハネ・パウロ2世が指摘したように、「[みこころに対する]信心の本質的な要素は、教会の歴史を通じて、教会の霊性に永続的に属しています。なぜなら、教会は初めから、十字架で刺し貫かれたキリストのみこころを仰ぎ見てきたからです」(註84)。

2.歴史におけるみことばの響き合い[102-108項]

102項 これらの預言が実現したことを、キリスト教信仰の歴史のなかでは いったいどのように確かめたのでしょうか。確認のためのいくつかの方法を考えてみましょう。教会のさまざまな教父、特に小アジアの教父は、イエスの傷ついたわき腹が聖霊の水の源であると述べました みことば、その恵み、そしてそれを伝える秘跡が重要です。殉教者たちの勇気は、「キリストのわき腹から流れ出る天の生ける水の源」(註85 から生まれたものです。ルフィヌスの訳では、「キリストのみこころから流れ出る天の永遠の流れ」(註86)となっています。私たち信者は、聖霊によって生まれ変わり、岩の裂け目から現れますす。「私たちはキリストの心から出てきたのです」(註87 )。

 キリストの傷ついたわき腹、つまり心臓は聖霊に満たされ、生ける水の洪水となって私たちのところにやって来ます。「聖霊の源は完全にキリストにあります」(註88 しかし、私たちが受けた聖霊は、復活した主から私たちを遠ざけるのではなく、その臨在で私たちを満たします。なぜなら、聖霊を飲むことで、私たちは同じキリストを飲むからです。聖アンブロジウスの言葉を借りれば、次のようになります。「キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストは洪水のように水を注ぎ出す岩だからです。キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストはいのちの源だからです。キリストを飲みなさい。なぜなら、キリストは流れ出る川であり、その流れは神の都を喜ばせているからです。キリストを飲みなさい。彼は私たちの平和です。キリストを飲みなさい。彼のわき腹から生ける水が流れ出るからです」(註89)。

103項 聖アウグスティヌスは、主との個人的な出会いの場としてみこころに対する信心への道を開きました。聖アウグスティヌスにとって、キリストの傷ついたわき腹は、恵みと秘跡の源であるだけではなく、キリストとの親密な結合の象徴でもあり、愛の出会いの場でもあるのです。そこに私たちは、キリストを知るという最も貴重な知恵の源を見出します。実際に 聖アウグスティヌスは、最の晩餐でイエスの胸に寄りかかった愛弟子のヨハネが、知恵の秘密の場所に近づいたと書いています(註90 )。

 ここでは、抽象的な神学上の真理を単に知的に熟考しているだけではありません むしろ、ちょうど聖ヒエロニムスが説明しているように、熟考できる人は「その水の流れの美しさに喜びを感じるのではなく、主のわき腹から流れる生ける水を飲む」(註91)ことになるのです。

104項 聖ベルナルドゥスは、主の刺し貫かれたわき腹の象徴を採り上げ、それを主のみこころの愛のすべてが明らかになり、ほとばしったものとして明確に理解しています。その傷を通して、キリストは私たちにそのみこころを開き、その愛と慈悲の限りない秘義を私たちが受け取れるようにしてくれます。「私は主のわき腹から、私に欠けているものを取ります。なぜなら、主のわき腹の穴は慈悲であふれているからです。主を十字架につけた者たちは、その手足を刺し、槍でわき腹を刺しました。そして、その傷の穴から私は野生の蜜と火打ち石の油を味わうことができます。つまり、私は主が善良であることを味わい、見ることができるのです。…… 槍は主の魂を貫き、心臓のあたりまで達しました。主はもはや私の弱さを憐れむことができません。主のからだに負わされた傷は、主のみこころの秘密を私たちに明らかにしました。それは、主の慈悲の偉大な秘義を熟考することを可能にするのです (註92)。

105項 この主題は、特にサン・ティエリのウィリアムの思想において再び現われます。彼は、イエスの胸に私たちを招き入れ、イエスがご自分の胸から私たちを養うのです(註93 )。これは、ウィリアムにとって「藝術の藝術は愛の藝術です……愛は自然の創造主によって目覚めさせられ、魂の力であり、まるで自然の重力のように、魂をその本来の場所と目的へと導きます」ということを思い出せば、驚くには当たりません(註94)。 愛が満ち溢れるその本来の場所とは、キリストのみこころです。

 「主よ、あなたが抱擁し、あなたの心にしがみつく人びとを、あなたはどこへ導くのでしょうか。イエスよ、あなたのみこころは、あなたの魂の黄金の壺のなかにあなたが持つ、あなたの神らしさの甘いマンナです(ヘブライ9:4参照)。それは、あらゆる知識を超えています。その深みに飛び込んで、あなたのみこころの奥にあなたによってかくまわれた人びとは幸いです」(註95)。

106項 聖ボナヴェントゥラは、この二つの霊的な潮流を結び合わせます。彼はキリストのみこころを秘跡と恩寵の源として示し、そのみこころを観想することが友人同士の関係、愛の個人的な出会いとなるよう促しています。

107項 聖ボナヴェントゥラは、主の傷ついたわき腹といういのちの泉から流れ出る恩寵と秘跡の美しさをまず理解するよう促しています。「十字架の上に眠るキリストのわき腹から教会が形作られ、『彼らは自分たちが突き刺した者を見るであろう』という聖書の言葉が実現されるように、兵士の一人が槍でキリストを刺し、わき腹を切り裂きました。これは神の摂理によってゆるされたことであり、その傷から流れる血と水とのなかに、私たちの救いの代価が彼のみこころの隠れた源から流れ出るようになり、教会の秘跡が恩寵のいのちを与え、キリストに生きる人びとにとって永遠のいのちへと湧き上がる生ける泉
から満たされた杯となるようにしたのです」(註96)。

108項 聖ボナヴェントゥラは、私たちが恩寵に近づくことが、一種の魔法や新プラトン主義的な発散としてではなく、むしろキリストとの直接的な関係として つまりキリストのみこころの住まいに入ることとして見られるように、さらに一歩踏み出すよう求めています。そうすれば、その源から飲む人は誰でもキリストの友とされて、愛のみこころ(心臓)とひとつになれるのです。「さあ、キリストの友である魂よ、立ち上がれ。岩の裂け目に巣を作る鳩となり、家を見つけて いつも見守る雀となり、その最も神聖な裂け目に純潔な愛の子を隠す山鳩となりなさい」(註97)。

 

3.キリストのみこころに対する信心の広がり[109-113項]

109項 こうして徐々に、キリストの傷ついたわき腹は、彼の愛の住処であり恩寵のいのちの源泉として、特に修道生活において彼のみこころと結びつけられるようになりました。歴史の進展の過程で、キリストのみこころに対する信心が常に同じように表現されたわけではなく、さまざまな霊的な経験に関連するその現代的な発展が、その信心の種が垣間見える聖書の内容から派生したものではなく、かといって中世の生活の形式から直接派生したものでもないことを私たちはよく理解しています。それにもかかわらず、今日の教会は、聖霊が何世紀にもわたって私たちに授けてきた善を一切拒否しません。なぜなら、その信心の特定の側面からは、より明確で深い意味を見出すことが常に可能であり、時が経つにつれて新たな洞察を得ることが可能であることを教会は知っているからです。

110項 多くの聖なる女性が、キリストとの出会いの経験を語っていますが、主のみこころに安らぐことが、いのちと心の平安の源であると語っています。聖ルトガルディスとハッケボルンのメヒティルド、フォリーニョの聖アンジェラ、ノリッジのジュリアン夫人などがその例です。シトー会の修道女であるヘルフタの聖ゲルトルードは、祈りの最中にキリストのみこころに頭をもたせかけ、その鼓動を聞いたときのことを語っています。聖ゲルトルードは、福音記者聖ヨハネとの対話のなかで、なぜ同じことをした時のあの経験を福音書に記していないのかと尋ねました。聖ゲルトルードは、「あの鼓動の甘美な音は
現代のために取っておかれたものであり、それを聴くことで、老いぼれの生ぬるい世界が神の愛のなかで新たにされるであろう」と結論づけています(註98)。

 これはまさに私たちの時代へのメッセージであり、私たちの世界がいかに「老い」てきたかに気づき、キリストの愛のメッセージを新たに理解し直す必要があるという呼びかけであると考えるべきではないでしょうか。聖ゲルトルードと聖メヒティルドは「みこころの最も親しい相談相手」の一人とみなされてきたのです(註99)。

111項 カルトゥジオ会の修道士たちは、とりわけザクセンのルドルフに励まされ、みこころに対する信心にキリストへの愛情と親密さとを増すための手段を見いだしました。キリストのみこころの傷を通してなかに入る者は皆、愛に燃えます。シエナの聖カタリナは、主の苦しみは私たちには理解できないが、キリストの開かれたみこころは、キリストの限りない愛と生き生きとした個人的な出会いを可能にすると書いています。「私は、私の心の秘密をあなたに明らかにし、それを開いて見せたいと思いました。そうすれば、私がかつて耐え忍んだ苦しみによって証明できた以上に、私があなたを愛していたことを、あなたが理解できるでしょう」(註100)。

112項 キリストのみこころに対する信心は、徐々に修道院の壁を越えて、聖なる教師、説教者、修道会の創立者たちの精神を豊かにし、彼らはそれを地球の果てまで広めてゆきました(註101)。

113項  特に重要なのは、聖ジャン・ユードが主導権を握ったことです。彼は「レンヌで仲間たちとともに熱心な使命を説いた後、その教区の司教を説得して、主イエス・キリストの崇敬すべきみこころの祝日を祝うことを承認させました。これは、教会でそのような祝日が公式に認可された初めてのケースでした。その後、1670年から1671年にかけて、クタンス、エヴルー、バイユー、リジュー、ルーアンの司教が、それぞれの教区で祝日を祝うことを認可しました」(註102)。

 

4.聖フランソア・ド・サル司教(サレジオの聖フランシスコ)[104-108項]

114項  この現代においては、聖フランソア・ド・サル司教の重要な貢献について言及すべきです。聖フランソア司教は、キリストの開かれたみこころについて頻繁に考察しました。そのみこころは、キリストの生涯の秘義に光を当てる個人的な愛の関係において、私たちをそこに住まわせるよう招きます。聖なる教会博士は、著作のなかで、イエスのみこころを、神の恵みの秘義的な働きに完全に信頼するようにという呼びかけとして提示することにより、厳格な道徳と律法主義的な態度に反対しています。聖ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルに対する手紙に、このことが表現されています。「私たちはもはや自分自身の内にとどまることはなく、永遠に主の傷ついた脇腹に住むことになるのだと確信しています。なぜなら、主を離れては、私たちは何もできないだけではなく、たとえできたとしても、何かをする意欲がなくなるからです」(註103)。

115項 聖フランソア ド・サル司教にとって、真の信心は迷信やおざなりな信心とは何の関係もないものでした。なぜなら、真の信心は、私たち一人ひとりがキリストに唯一かつ個別に知られて、愛されていると感じる個人的な関係を伴うからです。「主が私たちに告白する愛に燃える、この最も愛らしく愛すべき心は、私たち全員の名前が書かれているみこころなのです……私たちを常に心に抱いておられる主に深く愛されていることを知ることは、確かに深い慰めの源です (註104 キリストのみこころに書かれた私たちの名前のイメージで、聖フランソアは、私たち一人ひとりに対するキリストの愛が決して抽象的
で一般的なものなどではなく、むしろ完全に個人的なものであり、キリスト者一人ひとりが自分が誰であるのかを知られ、尊重されていると感じることができることを表現しようとしました。「主が太陽であり、主の胸が愛の泉であり、祝福された人びとが心ゆくまでそれを飲むこの天国は、なんと美しいことでしょうか 私たちひとり一人は、そこに目を向けると、愛の文字で刻まれた自分の名前を見ることができます。それは真の愛だけが読むことができ、真の愛が書いたものです。愛しい神よ そして、愛する娘よ、私たちの愛する人たちはどうでしょうか 彼らもそこにいるはずです。たとえ私たちの心に愛がなくても、愛への欲求と愛の始まりは持っているからです」(註105)。

116項 聖フランソア司教は、キリストの愛の経験が霊的生活には不可欠であり、まさに信仰の偉大な真実の一つであることをわきまえていました。「そうです、私の愛する娘よ、彼はあなたのことだけではなく、あなたの頭の一番細い髪の毛のことまでも考えています。これは信仰の条項であり、決して疑ってはならないものです」(註106)。その結果、キリスト者はキリストのみこころに完全に身を委ねることができるようになり、そのなかで安らぎと慰めと力を見出します。「ああ、神よ このように抱かれ、救い主の胸に寄りかかるとは、何という幸福でしょう。愛する娘よ、このようにしていなさい。そしてもう一人の小さな聖ヨハネのように、他の人びとが主の食卓でさまざまな食べ物を味わっているあいだに、この愛する主の愛情深い胸に、完全な信頼のしるしとして、あなたの頭、あなたの魂、あなたの精神を置きなさい」(註107 「あなたが山鳩の裂け目と私たちの愛する救い主の刺し貫かれた脇腹にて休んでいることを望みます……私の愛する娘よ、この主はなんと善良な方なのでしょう そのみこころは何と愛に満ちたものなのでしょう この聖なる住まいに留まりましょう (註108)。

117項 同時に、聖フランソア司教は日常生活の聖化に関する教えに忠実に、この経験が私たちの日常生活の活動、仕事、義務のまっただなかに起こることを提案しています。「あなたは私に、祈りのなかで神聖な単純さ、神への完全な委ねに惹かれる魂が あらゆる行動においてどのように振る舞うべきかと尋ねました。私は、祈りだけではなく、日常生活の振る舞いにおいても、彼らは常に単純さの精神で前進し、魂、行動、成果を神の意志に委ね、完全に明け渡すべきだと答えます。そして、完全で絶対的な信頼を特徴とする愛をもって生きることで、神の摂理が彼らに対して感じる永遠の愛の恩寵と配慮に身を委ねます」(註109)。

118項 このため、聖フランソア ド・サル司教は、霊的生活のビジョンを伝えるシンボルを探していたときに、次のように結論づけました。「愛する母よ、もしあなたが同意されるならば、私たちは二本の矢で貫かれた一つの心臓を、茨の冠で包んだものを象徴として採用すべきだと考えました」(註110)。

 

5.愛の新たなる宣言[109-124項]

119項 この聖フランソア・ド・サル司教の精神の有益な影響のもとで、17世紀末にはパレ・ル・モニアルの出来事が起こりました。聖マルグリット・マリ ・アラコックは、1673年12月末から1675年6月のあいだにキリストの驚くべき出現が続いたと報告しています。これらの出現の根本となったのは、最初の出現のときに際立っていた愛の宣言でした。イエスはこう言いました。「私の聖なるみこころは、人びと、特にあなたへの愛で燃え上がっています。そのため、その熱烈な愛の炎をもはや心の内に収めることができず、あなたを通してその炎を注ぎ出し、人びとに現わさなければなりません。私が、いま、あなたに示すその貴重な宝物で人びとを豊かにするためです」(註111)。

120項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの記述は力強く、深くて感動的です。「イエスは、その愛の驚異と、これまで私に隠していたみこころの不可解な秘密を私に明らかにしました。そして、初めてその秘密を私に明らかにし、非常に印象的で賢明な方法で、私に対して決して疑いの余地を残しませんでした」(註112 その後の出現で、慰めのメッセージが繰り返されました。「イエスは、その純粋な愛の言い表せない驚異と、それが人類を愛するようにイエスを導いた極限を私に明らかにしました」(註113)。

121項 聖マルグリット・マリ ・アラコックが私たちに残してくれたイエス・キリストの愛の力強い理解の仕方は、私たちを彼とのより深い一致へと駆り立てます。彼女の霊的経験のあらゆる報告の詳細を受け容れたり、自分のものにしたりする義務を感じる必要はありません。なぜなら、よくあることですが、神の介入が、個人の願望、関心、内なるイメージに関連した人間的な要素と結びついているからです(註114)。 こうした経験は、常に福音と教会の豊かな霊的伝統の光のなかでこそ解釈されなければなりません。同時に、私たちは、これらの経験が数多くの兄弟姉妹に対して及ぼした影響や成し遂げた善を認め
なければなりません。

 このようにして、私たちは、信仰と愛の経験の内に存在する聖霊のたまものを理解することができるようになります。個々の報告の詳細よりも重要なことは、私たちに伝えられたメッセージの核心のほうなのであり、それは聖マルグリット・マリ・アラコックが聴いた次の言葉に要約できます。「このみこころは、人間を愛したので、愛を示すために、何も惜しまず、空っぽにして消耗することさえしたのです (註115)。

122項 ですから、この出現は、私たちがキリストとの出会いのなかで成長し、彼の愛に完全に信頼を置き、キリストとの完全で決定的な一致に達するように招いています。「イエスの神聖なみこころが何らかの形で私たちの心に取って代わることが必要です。イエスだけが私たちの心のなかで、私たちのために生き、働くことが必要です。彼の意志は……絶対に、私たちの側に何の抵抗もなく働くことが必要です。そして最後に、その愛情、考え、欲求が私たちの愛情、考え、欲求、特に彼の愛に取って代わって、彼が彼自身のみこころ(心臓)のなかで、私たちのために愛されるようになる必要があります。そして、この愛すべき、みこころ(心臓)が、私たちのすべてであるので、私たちは聖パウロとともに、私たちはもはや自分の人生を生きているのではなく、彼が私たちのなかに生きていると言うことができるようになるのです」(註116)。

123項 聖マルグリット・マリ ・アラコックが最初に受け取ったメッセージでは、この招きは生き生きとした、熱烈な、愛情深い言葉で表現されていました。「主は私の心を求められ、私はそれを受け取るよう頼みました。主はそれを受け取り、それから私をご自身の愛らしいみこころのなかに置き、そこから私の心がご自身の燃える炉で焼き尽くされる小さな原子のように見えるようにしてくださったのです」(註117)。

124項 別の箇所で、私たちにご自身を与えてくださるのは、復活して栄光を受けたキリストであり、いのちと光とに満ちていることがわかります。確かに、キリストはさまざまな場面で、私たちのために耐え忍んだ苦しみと、それに対する恩知らずの対応について語っていましたが、ここで私たちが見るのは、キリストの血や痛ましい傷ではなく、むしろいのちの主の光と火です。受難の傷は消えたのではなく、今や変容したのです。ここで、私たちは過越の秘義の輝きを見ることができます。「かつて、聖体が露出されたとき、イエスは栄光に輝いて現われました。その五つの傷は、彼の神聖な人間性から、そして何よりも燃える炉のようだった彼の愛らしい胸から、たくさんの太陽が燃えているように見えました。彼は衣を開き、その最も愛情深く愛らしいみこころを露わにしました。それがそれらの炎の生きた源でした。その時、私は彼の純粋な愛の言い表せない驚異を発見しました。彼はその愛で人びとを最大限に愛し抜きますが、彼らからは恩知らずな態度と無関心しか受け取れませんでした (註118)。

 

6.聖クロード・ド・ラ・コロンビエール[125-128項]

125項 聖クロード・ド・ラ・コロンビエールは、聖マルグリット・マリ ・アラコックの経験を知ると、すぐに彼女の弁護を引き受け、出現の話を広め始めました。聖クロードは、みこころに対する信心と、福音の光に照らして眺めたときの意味づけについての理解を深める上で特別な役割を果たしました。

126項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの言葉のいくつかは、よく理解されなければ、私たちの個人的な犠牲や捧げ物に対する過度の信頼を示唆するのかもしれません。聖クロードは、イエスのみこころを真摯に観想することは、自己満足や私たち自身の経験や人間の努力に対するむなしい信頼を引き起こすのではなく、むしろ私たちの人生を平和、安心、決断で満たす、言い表せないほどのキリストへの献身を引き起こすものだと主張しています。彼はこの絶対的な信頼を、有名な祈りのなかで最も雄弁に表現しました。

 「私の神よ、私はあなたに希望を抱く人びとをあなたが見守ってくださり、私たちがあなたにすべてを求めるとき、私たちは何一つ不足することはありません、と確信しています。そのため、私は将来、あらゆる心配から解放されて生き、あらゆる不安をあなたに委ねる決心をしています……私は決して希望を失いません。私は人生の最後の瞬間までそれを持ち続けます。そしてその瞬間、地獄のすべての悪魔が私からそれを奪い取ろうとするでしょう…… 他の人は富や才能に幸福を求めるかもしれないし、他の人は人生の無邪気さ、苦行の厳しさ、施しの額、祈りの熱意に頼るのかもしれません。主よ、私にとっては、あらゆる自信は主への自信そのものなのです。この自信は誰も欺いたことがないものです…… それゆえ、私は永遠に幸福であると確信しています。なぜなら、私はそうすることを固く望んでいるし、神よ、私がそれを望むのはあなたに対してだからなのです (註119)。

127項 1677年1月のメモで、クロードは自分の使命について感じた確信について述べた後で、次のように続けています。「私は、神が私に内密に伝え、その人物のために私の弱さを利用することを望んだ人物に示唆した献身に関する神の望みをかなえることによって、神に仕えることを望んでいるのだと知るようになりました。私はすでにその弱さを利用して何人かの人びとを助けたのです (註120)。

128項 聖クロード・ド・ラ・コロンビエールの霊性は、聖マルグリット・マリ ・アラコックの深く感動的な霊的経験と、聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操に見られる鮮明で具体的な観想形態との見事な統合をもたらしたことを理解すべきでしょう。霊操の三週目の初めに、聖クロードは次のように回想しています。「二つのことが私を感動させました。

 第一に、キリストを捕らえようとした人びとに対するキリストの態度です。彼の心は苦い悲しみに満ちています。あらゆる激しい情熱が彼に対して解き放たれ、自然界全体が混乱しています。しかし、このあらゆる混乱やあらゆる誘惑のなかで、彼の心はしっかりと神に向けられたままでした。彼は最高の徳が彼に示唆した役割をためらうことなく担います。

 第二に、彼を裏切ったユダ、卑怯にも彼を見捨てた使徒たち、彼が受けた迫害の責任者である祭司たち、その他の人びとに対する偏りのない心を保った一貫性のある態度です。これらのことは どれも彼のみこころにおいては憎しみや憤りの感情をみじんも呼び起こすことができなかったのです こうして、キリストのみこころを垣間見た私は怒りや苦々しさから解放され、その代わりに敵に対する真の同情心で満たされて、キリストのみこころ対して新たに自分自身を差し出せるようになるのです (註121)。

 

7.聖シャール・ド・フーコー(シャルル・ド・フコー)と幼きイエスの聖テレーズ

129項 聖シャ ル・ド・フーコーと幼きイエスの聖テレーズは、意図せずして、キリストのみこころに対する信心の特定の側面を再構築し、それによって私たちがそれをさらに福音主義的な精神で理解するのを助けました。それでは、この信心が彼らの人生において一体どのように表現されたのかを眺めてみましょう。次の章では、彼らの生き方に戻り、彼らがそれぞれ信心にもたらした独特な宣教的な側面を説明します。

1 イエスのカリタス(実践的な慈愛)[130-132項]

130項 ルイエでは、聖シャ ル・ド・フーコーは従妹のマリー・ド・ボンディと一緒に聖体拝領に行くのが習慣でした。ある日、彼女はみこころの御像を彼に見せました。(註122 )。従妹は聖シャ ルの改宗において基本的な役割を果たしました。彼自身も認めています。「神はあなたを私に対する慈悲の最初の道具にされました。あなたから他のすべてが始まりました。もしも、あなたが私を回心させ、イエスのもとに導き、少しずつ、一字一句、聖なる善なるものをすべて教えてくれなかったとしたら、私はいまごろどうなっていたでしょうか (註123 )。

 マリーが彼の心のなかに目覚めさせたのは、イエスの愛に対する強い自覚でした。それが本質的なことであり、イエスのみこころに対する献身を中心としており、その経験において彼は限りない慈悲に出合いました。「あなたが私にそのみこころを知らせてくださったお方の限りない慈悲を信頼しましょう」(註124)。

131項 後に、彼の霊的指導者であるアンリ・ユヴラン神父は、聖シャ ルが「あなたが何度も私に語ってくれた この祝福されたみこころ」の計り知れない秘義に対する理解を深めるのを助けました(註125)。 1889年6月6日、聖シャ ルはみこころに献身し、その経験において限りない愛を見つけました。彼はキリストに対してこう言いました。「あなたは私に数多くの恩恵を与えてくださいました。あなたのみこころはどんなに偉大なものでも私にあらゆる善を与えようとしており、あなたの愛と寛大さとは無限であると信じないのは、あなたのみこころに対する恩知らずとしか思えません」(註126)。 彼は「イエスのみこころの名のもとに」隠者になることになっていました(註127)。

132項 1906年5月17日、聖シャール修士がもはや自力ではミサを捧げることができなくなったその日に、彼は「イエスのみこころを私の心のなかに住まわせ、もはや私が生きるのではなく、ナザレでイエスが生きていたように、私の心(心臓)のなかにイエスのみこころ(心臓)が生きるようにする」という約束を書きました(註128 )。イエスとの心(心臓)からの友情は、私的な信心深さとはほど遠いものでした。何よりもキリストにならいたいと願う気持ちから生まれた感慨は、ナザレでの彼の禁欲的な生活に影響を与えました。イエスのみこころ(心臓)に対する彼の愛情深い信心は、彼の生活様式に具体的な影響を及ぼし、彼のナザレはキリストのみこころ(心臓)との個人的な関係によって育まれました。

 

2 幼きイエスの聖テレーズ[133-142項]

133項 聖シャ ル・ド・フーコーと同様に、幼きイエスの聖テレーズも、19 世紀フランスを席巻した信仰の大きな刷新の影響を受けました。彼女の家族の霊的指導者であった司祭のアルミール・ピション師は、みこころの熱心な使徒とみなされていました。彼女の姉妹の一人は、修道生活の際に みこころのマリー姉妹」という名前を名乗り、聖テレーズ勢は、当時の慣習的な信心深さとは対照的に、ある独特の特徴を帯びていました。

134項 聖テレーズは 15 歳のとき、イエスを「私の心と調和して鼓動する方です」と表現することができました(註129 )。その二年後、彼女はイバラの冠をかぶったキリストの心臓(心)のイメージについて、手紙の中でこう書いています。「あなたもご存知のように、私自身はみこころを他の人と同じようには見ていません。私の心(心臓)の中が彼の心臓(心)だけで占められているように、私の花婿の心臓(心)もまた私のものだと私は思っています。そして、この愉しい心(心臓)と心(心臓)とのつながりの孤独のなかで、私は彼に語りかけ、いつの日か彼と顔を合わせて観想することを待ち望むのです (註130)。

135項 彼女の詩の一つで、聖テレーズは彼女の献身の意味を表明しましたが、それは彼女の犠牲に対する信頼よりも、友情と確信に関わっていました。「私には優しさに燃える心(心臓)が必要です。永遠に私の支えとなる心(心臓)、私の弱ささえも愛してくれる心(心臓)…そして昼も夜も決して私から離れない心(心臓)…私の本性を引き受け、私の兄弟となり、苦しむことができる神が私には必要です…あ 私はよく知っています、私たちの正義はみなあなたの目には無価値であるということを…すから私は、煉獄の霊魂のために、あなたの燃えるような愛を選びます、神のみこころ(心臓)よ」(註131)。

136項 おそらく、聖テレーズがキリストのみこころに傾倒していたことを理解するうえで最も重要な文章は、彼女が死の三ヶ月前に友人のモーリス・ベリエールに書いた手紙でしょう。「マグダラの聖マリアが大勢の客たちの前を歩き、初めて触れる敬愛する主の足を涙で洗うのを見ると、彼女の心はイエスのみこころの愛と慈悲の深淵を理解したのだと感じます。そして、彼女が罪びとであったにもかかわらず、この愛の心は彼女をゆるすだけではなく、神の親密さの恵みを惜しみなく与え、彼女を観想の最高の頂点に引き上げようとしたのです。ああ 親愛なる兄弟よ、私にもイエスのみこころの愛を理解する恵み
を与えられたので、それが私の心からあらゆる恐れを消し去ったことを認めます。私の過ちを思い出すと、私は謙虚になり、弱い者にしか過ぎない私の強さに頼らなくなるのですが、この思い出は私にさらに慈悲と愛を語るものなのです (註132)。

137項 神の慈悲と恩寵とを厳しく抑制しようとする道徳家は、聖テレーズは聖人だからそう言えるが、単純な人間には同じことは言えないと主張するかもしれない。そのようにして、彼らは聖テレーズの霊性から、福音の核心を反映するその素晴らしい独創性を排除するのです。残念なことに、一部のキリスト教界では、すべてを自分たちの監視下に置くことができるように、聖霊をある特定の先入観に当てはめようとする試みにしばしば遭遇するものです。しば遭遇するものです。しかし、この賢明な教会博士は彼らを沈黙させ、次の明確な言葉で彼らの単純化された見解に真っ向から反論するのです。「もしも私が考えられうるあらゆる犯罪を犯したとしても、私は常に変わらぬ信頼をいだいていたことでしょう。こうした無数の罪は、火の燃えさかる炉に投げ込まれた一滴の水のようなものだと感じるからです」(註133)。

138項 殉教さえも受け容れる覚悟で神への寛大な愛を称えたマリー修道女に、聖テレーズは長文の手紙で応答しましたが、それこそ霊性の歴史における偉大な里程標 マイルストーン の一つなのです。この手紙は、深さ、明快さ、美しさのゆえに、何千回も読む必要があります。ここで聖テレーズは、姉妹である「みこころのマリー」が、この信心を理解する際にもっぱら苦しみに集中しないように助けています。なぜなら、 主に犠牲と善行の積み重ねを捧げるように」という償いを指示した人もいるからです。

 一方、聖テレーズは、信頼こそがキリストのみこころに喜ばれる最大かつ最良の捧げものであるのだと述べています。「殉教への私の願いは無意味です。それは、私が心に感じる限りない信頼を与えるものではありません。実を言うと 自己満足で安住し、それらが何か偉大なものだと信じるとき、人を不当な状態に追い込む、精神的な富なのです…… [イエス]を喜ばせるのは、私が自分の小ささや貧しさを愛し、彼の慈悲に盲目的に希望を抱いているのを彼が見るときだけです…それが私の唯一の宝なのです…… 喜びを感じたいというなら そして苦しみに惹かれたいなら、それがあなたが求めている慰めなのですが…彼の愛の犠牲者になるには、欲望や美徳のない弱い人ほど、この愛によって焼き尽くされて変革するほどの愛の働きに適しているということを理解してください……ああ、私が感じていることをあなたに理解してもらいたいです……私たちを愛に導くのは信頼なのであり、信頼以外の何ものでもありません」(註134)。…

139項 聖テレーズは、数多くの著作のなかで、人間の努力、個人の功績、犠牲を捧げて「天国を勝ち取る」ための特定の行為を実行することに過度に重点を置いた霊性の形との闘いについて語っています。彼女にとって、「功績とは、多くをなすことや与えることではなく、むしろ受け取ることにあるのです (註135 。彼女がこの点を強調し、それを「主のみこころ」をつかむ簡単で素早い方法として示している、意味深い文章のいくつかをもう一度読んでみましょう。

140項 妹のレオニーに宛てて、彼女はこう書いています。「私はあなたが信じているよりも、神はずっと善良な方だと断言します。神は一瞥だけで つまり愛のため息だけで満足されます。……私にとっては、完璧さを実践するのはとても簡単です。なぜなら、それはイエスのみこころをつかむことだけだと理解しているからです。……たったいま母親を困らせたばかりの小さな子どもを見てください。……もし彼が母親のところにやって来て、小さな腕を広げ、微笑みながら、「キスして、もう二度としないから」と言ったとしたら、母親はひたすら優しく彼を胸に抱き寄せるだけで、子どもじみたいたずらを思わず忘れ去るはずでしょう。しかし、彼女は愛する子どもが次にまた同じことをすることを知ってはいますが、そのようなことは決して問題にはなりません。彼がもう一度彼女の心をつかめば、罰は受けないでしょうから (註136)。

141項 また、アドルフ・ルーラン師に宛てた手紙において、彼女はこう書いています。「私の道は信頼と愛です。このように優しい友を恐れる魂が理解できません。時には、無数の障がいを通して完全性が示されている精神的な論文を、たくさんの幻想に囲まれて読んでいると、私の貧しい小さな心はすぐに疲れてしまいます。頭を悩ませ、心を枯らすような学術書を閉じて、聖書を読みます。すると、すべてが私には明るく見えます。一言で私の魂に無限の地平が開かれ、完全性は私にとっては単純なものに思えてきます。自分の無価値さを認め、まるで子どものように神の腕に身を委ねるだけで十分なのだとわかり
ます」(註137)。

142項 さらに別の手紙では、彼女はこれを親の示す愛に関連づけて こう書いています。「父親の心が、子どもの誠実さと愛とを知っている子どもの親孝行の信頼に抵抗できるとは思えません。しかし、彼は息子が同じ過ちを何度も犯すだろうと理解してはいるが、息子がいつも彼を心から受け容れるなら、いつでもゆるす用意がある」(註138)。

 

 

8.イエズス会内部での共鳴[143-147項]

 

143項 これまで、聖クロード・ド・ラ・コロンビエールが聖マルグリット・マリ ・アラコックの霊的経験と霊操の目的とをどのように組み合わせたかを見てきました。こうしてイエズス会の歴史におけるみこころの位置については、少しだけ触れておく価値があると思います。

144項 イエズス会の霊性は常に「主をより完全に愛して、従うために、主を内なる知識で知る」ことを提案してきました(註139)。 聖イグナチオは霊操において、私たちに「[キリストの]脇腹は槍で刺され、血と水が流れ出た」と語る福音書の前に立つよう勧めています(註140 十字架にかけられた主の傷ついたわき腹を黙想する時、聖イグナチオは彼らがキリストのみこころに入ることを示唆しています。このようにして、私たちには自分の心を広げる方法があります。これは、聖ピエール・ファーヴルが聖イグナチオに宛てた手紙のなかで述べた「愛情の達人」であった人物によって勧められたものです(註141)。
 フアン・アルフォンソ・デ・ポランコ神父は、聖イグナチオの伝記のなかで同じ表現を繰り返しています。「彼(ガスパロ・コンタリーニ枢機卿)は、イグナチオ師のなかに入ることで愛情の達人に出会ったことに気づいたのです」(註142 )。聖イグナチオが提案した対話は、この心の訓練に不可欠な部分です。なぜなら、対話のなかで私たちは福音のメッセージを心で感じ、味わい、それについて主と話し合うからです。聖イグナチオは、私たちが自分の懸念を主と共有し、助言を求めることができると語っています。この修練に従う人なら誰でも、それが心と心の対話であることをすぐに理解できるようになります。

145項 聖イグナチオは十字架の足元で観想を最高潮に高め、十字架につけられた主に「友として、主人に対する召使いとして」、自分のために何をしてくださるのかを深い愛情をもって尋ねるよう、黙想者を招きます(註143) 。こうして修練が進行するにつれて「愛を得るための観想」で最高潮に達します。この観想は感謝を生み、あらゆる善の源泉であり起源であるみこころに「記憶、理解、意志」を捧げます(註144)。 この内なる観想は、決して理解と努力の成果などではなく、むしろたまものとして懇願されるべきものです。

146項 この同じ経験は、イエスのみこころについてはっきりと語ったイエズス会の司祭たちの偉大な後継者たちに霊的なひらめきを与えました。聖フランシスコ・ボルジア、聖ピエール・ファーヴル、聖アルフォンソ・ロドリゲス、アルバレス・デ・パス師、ヴィンツェンツォ・カラファ師 カスパー・ドルズビツキ師 Kasper Drużbicki 、その他数え切れ​​ないほどの人たちです。1883年、イエズス会は「イエズス会は、私たちの主イエス・キリストから託された、神のみこころへの信心を実践し、促進し、広めるという最も喜ばしい義務を、あふれる喜びと感謝の精神で受け容れ、受け留めます」と宣言しました(註
145 1871年9月、ピーテル・ヤン・ベックス師は、イエスのみこころに会を奉献しました。

 そして、それが会の生活のなかで傑出した要素であり続けることのしるしとして、ペドロ・アルペ師は1972年に奉献を更新しました。その際、アルぺ師は次のような確信を述べました。「それゆえ、私は、黙っていられないと感じていることを会に伝えたいと思います。私は修練期の頃から、みこころに対する信心と呼ばれるものは、聖イグナチオの霊性の最も深遠なものの象徴的な表現であり、それ自体の完成度と使徒的な実りとの両面において並外れた効力(超越的な効力)を備えていると常に確信してきました。私はこの同じ確信を持ち続けています……この信心において、私は自分の内的生活の最も深い源泉の一つに出会います」(註146)。

147項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世が「この信心は、私たちの時代の期待にこれまで以上に応えている」と述べて「会衆全員に、さらに熱心にこの信心を推進するよう」促したのは、キリストのみこころに対する信心と聖イグナチオの霊性とのあいだに深いつながりがあることを理解していたからです。「『主を深く知る』こと、そして主と心と心とで『対話する』ことへの欲求は、霊操の鍛錬の積み重ねによって聖イグナチオの霊的で使徒的なダイナミズムの特徴であり、このダイナミズムは完全に神のみこころの愛に奉仕している」からなのです(註147)。

 

 

9.内面的な生活の幅広い流れ[148-150項]

 

148. キリストのみこころに対する信心は、おたがいにまったく異なる数多くの聖人の霊的な旅路に再び現われ、その信心は一人ひとりにおいて新たな色合いを帯びるものです。たとえば、聖ヴァンサン・ド・ポールは、神が望んでいるのは心だとよく言っていました。「神がまず求めているのは、私たちの心です。大切なのは心です。富を持たない人が、多くの財産を手放す人よりも、なぜ大きな功績を持つのでしょうか。それは、何も持たない人のほうが、より大きな愛をもってそれをするからです。そして、神は特にそれを望んでおられるのです…… (註148 )これは、自分の心をキリストのみこころと一つにするこ
とを意味しています。「シスターが自分の心を主のみこころと一つにするために最善を尽くすなら、神からどんな祝福を期待しないでいられるでしょうか」(註149)。

149項 時には、この愛の秘義を過去の素晴らしい遺物のように あるいは他の時代にふさわしい素晴らしい霊性として考えたくなるかもしれません。しかし、ある聖なる宣教師がかつて言ったように、「敵の槍に突き刺され、その聖なる傷から教会を形成した秘跡を注ぎ出したこの神聖なみこころは、決して愛することをやめたことがない」ということを、私たちは常に思い起こす必要があります(註150 )。ピエトレルチーナの聖ピオ、カルカッタの聖テレサなど、最近の聖人たちは、キリストのみこころ(心臓)に対しての深い信心をもって語っています。

 ここで、復活した主の栄光ある生涯とその神の慈しみを大いに強調することにより、キリストのみこころ(心臓)に対する信心を改めて提案している聖ファウスティナ・コヴァルスカの経験についても触れておきたいと思います。彼女の経験と聖ヨゼフ・セバスティアン・ペルチャール 1842 1924年 の精神的な遺産とに触発されて(註151 )。

 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、神の慈しみについての考察をキリストのみこころ(心臓)への信心と密接に結びつけて次のように語っています。「教会が、キリストのみこころに自らを向けるとき、独特の方法で神の慈しみを告白し、それを崇敬しているように思われます。実際に、まさにこのキリストのみこころ(心臓)の秘義においてキリストに近づくことによって、御父の慈しみ深い愛の啓示ということがらに深く入ることができるのです。この啓示は、人の子の救世主としての使命の中心的な内容をなすものでした」(註152)。 教皇聖ヨハネ・パウロ2世はまた、みこころ(心臓)について非常に個人的な言葉で語り、「みこころ(心臓)は私が若い頃からずっと私に語りかけてきた」と認めています(註153)。

150項 キリストのみこころ(心臓)に対する信心を永続的に続けるべき重要性とは、キリストの探究とも関連性のある信心を深めることから始まった数多くの男女の修道会によって行われた福音宣教と教育の活動において特に明らかです。それらの活動の名称をすべて挙げるのは果てしない仕事です。

 ここではランダムに選んだ二つの例だけを考えてみましょう。「創立者[聖ダニエル・コンボニ]は、イエスのみこころ(心臓)の秘義において宣教の使命の強さの源泉を発見しました」(註154)。「私たちはイエスのみこころ(心臓)の願いに心を引き寄せられつつ あらゆる人びとが人間として、そして神の子として尊厳をもって成長することを望みます。私たちの出発点は福音であり、福音が私たちに求める愛、赦し、正義、そして貧しく生きることを余儀なくされて世に拒絶された人びととの連帯を生きるのです」(註155)。

 同様に、キリストのみこころ(心臓)に捧げられた世界中の数多くの聖地は、祈りと精神的な熱意の印象的な再生の源であり続けています。これらの信心と慈善の場と何らかの形で関わっているあらゆる人に、私は父としての祝福を送ります。

 

 

10.慰めの信心[151項]

151項 キリストの脇腹の傷は生ける水の源であり、復活した救い主の体の中にに開いたままです。槍で負わされた深い傷と、みこころ(心臓)の表現によく見られるイバラの冠の傷は、この信心の切り離せない部分であり、私たちはその雰囲気のなかで、最後まで自らを犠牲として捧げたキリストの愛を黙想するのです。復活した主のみこころ(心臓)は、私たちのために激しい苦しみを伴う、その完全な自己の明け渡しのしるしを保っています。ですから、キリスト者があふれ出る愛だけではなく、主が愛のゆえに耐えることを選んだ苦しみにも応えたいと思うのは当然なことなのです。

 

 

1 十字架上のイエスとともに[152-153項]

 

152項 キリストのみこころ(心臓)に対する信心に伴って発達してきた霊性の特定の側面について、すなわち、キリストのみこころ(心臓)に慰めを与えたいという心の内なる願いについて、ここで再び採り上げるのは適切なことです。ここでは「償い」の実践については論じません。それは、次の章で論じるこの信心の社会的な側面で扱うほうがふさわしいと私が考えているからです。むしろ、私はキリストの受難の秘義を愛情深く見つめて、それを思い出すだけではなく、神の恵みによって私たちの前に現われる秘義として、あるいはもっと詳しく言うとするならば、私たちが贖いの瞬間に秘義的な意味で立ち会えるようにしてくれる奥深さとして経験するキリスト者たちの心にしばしば感じられる欲求に焦点を当てたいと思います。私たちが本当に主を愛しているなら、どうして主を慰めたいと思わないでいられるでしょうか。

153項 教皇ピウス11世は、キリストの受難による私たちの贖いの秘義は、神の恵みによって、時間と空間のあらゆる境界を超越するという理解の仕方に、この特別な信心を根づかせたい、と考えました。十字架上でのイエスは、この社会でこれから犯される罪も含めて そして私たち自身の罪をも含めて あらゆる罪のためにご自身を捧げました。同じように、私たちがいま、イエスの慰めのために捧げる行為も、時間を超えて、イエスの傷ついた心に触れます。「もし、私たちの罪のために、まだ未来ではあるが、すでに予見されていたイエスの魂が死に至るまで悲しみに暮れたのなら、同時に、同じように予見されて
いた私たちの償いから、イエスがいくらかの慰めを得たことは疑いようがありません。それは『天使が天から現れた』とき(ルカ22:43 、疲労と苦悩によって圧迫されていたイエスのみこころ(心臓)において慰めを見い出すためでした。そして、いまでさえ、私たちは恩知らずな人びとの罪によって絶えず傷つけられているあの最も聖なるみこころ(心臓)を、驚くべき、しかし真実な方法で慰めることができるし、そうすべきなのです」(註156)。

 

 

2 心(心臓)の意味合い[154項]

 

154項 これまで述べてきた、みこころ(心臓)に対する信心には、堅固な神学的根拠が欠けているように思われる人もいるかもしれませんが、心を主題にすることにはそれなりの理由があります。キリストの受難は決して過去の出来事であるにとどまらず むしろ信仰を通して私たちが共有できるものであると悟ることができるからです。十字架上でのキリストの自己奉献についての黙想は、キリスト教における信心深さにとって、単なる記憶以上のものを含みます。この確信は、しっかりとした神学的根拠を備えています(註157)。 また、心臓の破れを眺めることで、あのイエスが傷ついたその肩に負ってくださった私たち自身の罪と、常に無限に偉大な永遠の愛の前での私たちの不十分さを理解できるようになることも加えることができます。

155項 それから、死から復活し栄光のうちに君臨するいのちの主に祈りながら、同時に彼の苦しみのまっただなかにまします彼を慰めるには一体どうすればよいのか、という疑問も生じてきます。ここで私たちは、彼の復活した心がその傷を、決して色あせることのない鮮明な記憶として保持していること、そして恵みの働きが、過去の一瞬に限定されない、という永続的な経験を可能にすることをも理解する必要があります。このことを熟考するにつけて、私たちは、精神的な限界を超えながらも神のことばにしっかりと根ざした秘義的な道を歩むよう招かれていることに気づかされます。

 教皇ピウス11世は、このことを明確に述べています。「キリストがすでに天国の至福のなかで君臨しているいま、これらの償いの行為が一体どのようにして慰めを与えることができるのでしょうか。この質問に対して、ここでは非常に適切な聖アウグスティヌスの言葉で答えることができます。「愛する者を私に与えてください。そうすれば、私の言うことを理解するようになるでしょう」 神への大きな愛をいだき、過去を振り返る人は誰でも、キリストについて瞑想し、キリストが人びとのために働き、悲しみ、最大の苦難に耐え、「私たち人間のため、私たちの救いのために」、悲しみと苦悩でほとんど疲れ果て、いや、「私たちの罪のために傷つけられ」(イザヤ53:5 )たことを黙想することを、聖アウグスティヌスは勧めるのです。

156項 教皇ピウス11世の言葉は真剣に考えるだけの価値があります。聖書が、信仰に従って生きない者は「神の子を再び十字架につけている」(ヘブライ6:6)と述べているとき、または聖パウロが他の人のために苦しみを捧げて「キリストの苦しみの欠けたところを、私の肉において補っている」(コロサイ1:24)と述べているとき、あるいはキリストが受難のなかで当時の弟子たちだけではなく、「彼らの言葉によって私を信じる人びと (ヨハネ17:20)のためにも祈ったとき、これらすべての言葉は私たちの通常の考え方に対して挑戦します。

 それらは、私たちの心がこれを理解するのがいかに困難であっても、過去と現在とを完全に切り離すことはできないという事実を示しているのです。福音書は内容の充実した豊かさによって、深い瞑想の祈りを究めるためだけではなく、愛のわざと内なる生活とがつながっているという現実を経験できるようにするためにも書かれました。このことは特にキリストの死と復活の秘義について、確かに当てはまります。私たちが通常用いている時間的な区別の感覚では、信仰経験の豊かさを心のなかに含み込むことができないのです。信仰経験はキリストの受難と復活という両面を私たちに実感させます。つまり第一にキリストの苦しみをおもうときの私たちとキリストとの心の一致を実感させるとともに 第二にキリストの復活のいのちにおいて私たちがキリストとともに受け容れる強さや慰めや友情をも実感させるのです。

157項 ですから、私たちは、この切り離すことのできない、おたがいに豊かにし合う二つの側面に、過越の秘義の統一性を見出だします。これら二つの次元において 恵みによって存在するただ一つの秘義は、私たちがキリストの慰めのために自分の苦しみを捧げるときに、その苦しみがキリストの愛の過越の光のなかで照らされて変容することを保証するのです。私たちは、キリスト自身がまずいのちにあずかることを選んでくださったことを出発点として その歩みをたどることで自分たちのいのちにおいてもこの秘義にあずかることができるようになったのです。イエスは、頭として、そのからだである教会で経
験することになるものを、すなわち私たちの傷と慰めの両方をまず経験したいと望んでいました。私たちが神の恵みのなかで生きるときに、この相互の分かち合いは私たちにとって霊的な経験となります。

 一言で言えば、復活した主は、その恵みの働きによって、私たちを秘義の状態に招きつつご自分の受難と結びつけるのです。復活の喜びを経験しながらも、同時に主の受難にあずかりたいと願うキリスト者の心は、このことを理解しています。彼らは、自分たちの生活の一部である苦しみ、闘争、失望、恐れを主に捧げることで、主の苦しみにあずかりたいと願っています。また、彼らはこれを決して孤立した個人として経験しているわけではありません。なぜなら、彼らの苦しみは、あらゆる時代と場所でキリストの受難にあずかるキリストの秘義に満たされたからだ つまり神の聖なる巡礼の民の苦しみにもあずかることだからです。したがって、慰めをもたらす信心は、決して非歴史的なものでもありませんし、しかも抽象的なものでもありません。慰めをもたらす信心は、壮大な歴史の流れをたどりなおす教会の巡礼において、血肉となるのです。

 

 

3 悔い改め[158-160項]

 

158項 キリストを慰めたいという、ごく自然な望みは、キリストが私たちのために耐え忍んだことを思い巡らす悲しみから始まり、私たちの悪い習慣、強迫観念、執着、弱い信仰、むなしい目標、そして実際の罪とともに、主の愛と人生に対する主の計画に応えられない私たちの心の失敗を正直に認めることで、ますます大きくなります。この経験には浄化作用があります。なぜなら、愛が深まるためには涙による浄化が必要であり、その結果、私たちは神への欲求が高まり、自分自身への執着が薄れるからです。

159項 このように、主を慰めたいという私たちの望みが深まれば深まるほど、私たちの真摯な「悔い改め」の感覚もまた深まることがわかります。悔い改めとは、「私たちを落胆させたり、自分の無価値さに執着させる罪悪感でなどはなく、むしろ心を浄化しつついやす有益な『刺し貫くこと』なのです。罪を認めれば、聖霊の働きに心を開くことができます。聖霊は、私たちの心の底から湧き上がり、目に涙をもたらす生ける水の源なので……これは、私たちがしばしば誘われるような、自己憐憫の状況で泣くことなどではありません……良心の呵責の涙を流すということは、自分の罪によって神を悲しませたこと
を真剣に悔い改めることを意味します。私たちが常に神に対して借りがあることを理解することなのです……水滴が石をすり減らすように、涙は固くなった心をゆっくりと和らげることができます。ここに悲しみの奇跡、つまり大らかな平安をもたらす「有益な悲しみ」が見受けられます……ですから、良心の呵責は私たちによる行いなのではなく、むしろ神のほうから与えられる恵みなのであり、それゆえに祈りのなかで求めなければなりません」(註159) 。

 悔い改めとは、「キリストの悲しみとともに悲しみを求め、キリストの苦悩とともに苦悩を求め、キリストが私のために堪え忍んだ大きな苦痛に対する涙と深い痛みの感覚を求める」ことを意味するのです(註160)。

160項 ですから、神の聖なる忠実な民の熱心な信心を決して軽視しないようにお願いいたします。民衆の信心深さは キリストを慰めようと努めるものなのです。また、主を慰めようとする愛の表現には、より思慮深く、洗練され、成熟した信仰を持っていると主張する人びとが時々行う、冷たく、よそよそしく、打算的で、名ばかりの愛の行為よりも、はるかに大きな合理性を備えているばかりではなく、真実性や知恵が宿っているのではないか、と皆が考えるように勧めます。

 

 

4 他人を慰めることが自分自身を慰めることにつながる[161-163項]

 

161項 単にキリストのみこころを思い出すだけではなく さらに、死を前にして自らを明け渡して捧げ尽くしたキリストの姿を思い巡らすことで、私たち自身も大きな慰めを見出します。私たちが心のなかで感じる悲しみは完全な信頼に変わり、最終的に残るのは感謝、優しさ、平和なのです。残るのは私たちの生活を支えつつ配慮するキリストの愛なのです。ですから、悔い改めは「不安の源ではなく、魂のいやしの源です。悔い改めは罪の傷に塗る軟膏として働き、主の愛撫を受ける準備を整えてくれるからです」(註161) 。

 私たちの苦しみは十字架上のキリストの苦しみと結びついています。恵みがあらゆる距離を橋渡しできると信じるなら、これはキリストがご自身の苦しみによって、あらゆる時代と場所の弟子たちの苦しみと結びついたことを意味します。このように、私たちが苦しみに耐えるときはいつでも、キリストが私たちとともに苦しんでくださることを知ることで、内なる慰めを経験することもできます。キリストを慰めようと努めることで、私たち自身も慰められるでしょう。

162項 しかし、ある時点で、私たちは観想において、主の切実な願いをも聴くべきです。「慰めよ、わが民を慰めよ」(イザヤ40:1)。聖パウロが言うように、神は私たちに慰めを与えてくださり、「私たち自身が神から慰められているように、いかなる苦しみのなかにいる人をも慰めることができるように」(コリント人への手紙二1:4)慰めを与えてくださいます。

163項 私たちはキリストのみこころへの真の献身の共同体的、社会的、宣教的な側面をより深く理解するよう求められています。キリストのみこころは私たちを御父のもとへ導くと同時に、私たちを兄弟姉妹のもとへ送り出すからです。キリストのみこころが私たちの生活にもたらす奉仕、友愛、宣教の果実において、御父の意志は成就されます。このようにして、私たちは御父に立ち帰ります。「あなたがたが多くの実を結ぶことによって、私の父は栄光をお受けになるのです (ヨハネ15:8)。

 

 

第5章 愛のための愛[164項]

 

164項 聖マルグリット・マリ ・アラコックの霊的経験において、私たちはイエス・キリストへの熱烈な愛の宣言とともに、私たちの人生を主に委ねるという、非常に個人的で挑戦的な招きに出会います。私たちが愛されているという認識と、その愛に対する完全な信頼は、私たちの弱さや数多くの欠点にもかかわらず、寛大に応えたいという私たちの願いを決して弱めるものではありません。

 

 

1.嘆きと願い[165-166項]

 

165項 聖マルグリット・マリ ・アラコックに対する二度目の偉大な出現から、イエスは人類に対する彼の偉大な愛が「恩知らずと無関心」、「冷淡と軽蔑」と引き換えに受けた悲しみについて語りました。そして、「私が受難で耐えたあらゆることよりも私にとって悲しいことです」と付け加えました(註162)。

166項 イエスは愛への渇きについて語り、その渇きに私たちがどう反応するかについて彼の心は無関心ではないことを明らかにしました。彼の言葉によれば、「私は渇いています。しかし、それは聖体において人びとに愛されることへの熱烈な渇きであり、この渇きが私を蝕んでいます。そして、私の渇きを癒し、私の愛に報いてくれるような、私の望みどおりの努力をする人に出会ったことがありません」(註163 )。イエスは愛を求めます。信仰深い心がこれを悟ると、その自発的な反応は愛の反応となり、犠牲を増やしたり、単に重荷となる義務を果たしたりしたいという願望ではなくなります。「私は神から、その愛の恵みを惜しみなく受け、その一部に応え、愛に対して愛をもって応えたいという願望に動かされました (註164)。 私にとって、イエスのみこころを重んじた前任者であった教皇レオ13世が指摘したように、キリストの愛は「愛に愛で応えるよう私たちを動かす」のです(註165)。

 

2.キリストの愛を兄弟姉妹に広める[167-171項]

167項 私たちはもう一度 神のことばを受け容れて、キリストのみこころの愛に対する最善の応答が兄弟姉妹を愛することであることを理解する必要があります。愛に対して愛で応えるには、これより優れた方法はありません。聖書はこれを明白に示しています。私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしてくれたことなのです」(マタイ25:40)。「律法全体は、この一つの戒めに要約される。『隣人を自分自身のように愛しなさい』」(ガラテヤ5:14)。「私たちは、互いに愛し合っているからこそ、死からいのちに移ったことを知っています。愛さない者は死のなかにとどまっています」(ヨハネ第一 3:14)。「目に見える兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することはできません」(ヨハネ第一 4:20)。

168項 兄弟姉妹に対する愛は、単に私たち自身の努力の結果ではありません。利己的な心を変えることが必要です。この認識から、「イエス様、私たちの心をあなたのみこころと同じものにしてください」という、よく繰り返される祈りが生まれました。一方、聖パウロは、聴衆に、善行を行う力を求めるのではなく、「キリスト・イエスにあって同じ思いをあなた方のあいだでいだくように」祈るよう勧めました(フィリピ 2:5)169項 ローマ帝国では、社会の周縁に住んでいた貧しい人、外国人、その他の数多くの人びとが、キリスト者から尊敬や愛情や気遣いを受けていたことを忘れてはなりません

 これは、背教した皇帝ユリアヌスが、手紙のなかで、キリスト者が尊敬され、模倣される理由の一つは、通常は無視されたり軽蔑されている貧しい人びとや外国人たちを彼らが援助したことであると認めた根拠を説明しています。皇帝ユリアヌスにとって、彼が軽蔑していたキリスト者が「自分たちの仲間を養うことに加えて、私たちからの援助を受けていない私たちの貧しい人びとや困窮者にも食事を与えている」ことは耐え難いことでした(註166)。

 したがって、皇帝は、キリスト者の慈善団体と競争し、社会の尊敬を得るために慈善団体を設立する必要があると主張しました。「移民が私たちの慈善活動を享受できるように、各都市に数多くの宿泊施設を設立する必要があります……そして、ギリシア人がそのような寛大な活動に慣れるようにしたいものです (註167 。皇帝ユリアヌスが目的を達成することができなかったのは、それらの活動の根底に、各人の独自の尊厳を尊重するキリスト教の慈善活動に匹敵するものがなかったためであることは間違いありません。

170項 社会の最下層の人びとと交わることで(マタイ25:31-46参照)、イエスはあらゆる人、特に「価値がない」とみなされていた人びとの尊厳を認めるという、人生における偉大な新機軸をもたらしました。人間の歴史におけるこの新しい原則は、個人が弱く、軽蔑され、苦しみ、人間の「姿」を失うときにこそ、私たちの尊敬と愛にさらに「値する」ことを強調し、世界の様相を変えました。この原則は、捨てられた乳児、孤児、支援を受けられずにいる高齢者、精神病患者、不治の病や重度の障がいを持つ人びと、路上生活者など、恵まれない状況にある人びとをケアする施設にいのちを吹き込みました(註168

171項 「私たちの弱さを負い、私たちの病を負われた」(マタイ8:17)、主の刺し貫かれた心を思い巡らすと、私たちも他の人の苦しみや必要にもっと注意を払うように促され、主の愛を広める道具として主の解放の働きに加わる努力を強められます(註169 。あらゆる人のためにキリストが自らを捧げられたことを黙想すると、なぜ私たちも他の人のためにいのちを捧げる覚悟をすべきではないのかと自問するようになります。「キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことにより、私たちは愛を知りました。ですから、私たちも互いのために命を捨てるべきです」(ヨハネの手紙一3:16)

 

 

3.霊性の歴史における響き合い

 

172項 イエスのみこころに対する献身と兄弟姉妹に対する献身との結びつきは、キリスト教の霊性の歴史において決して変わることなく保たれ続けたものでした。これから、いくつかの例を考えてみましょう。

 

 

1 他者が飲むことができるような泉を掘り起こす[173-176項]

 

173項 オリゲネスに始まり、教会のさまざまな教父たちはヨハネ7:38の「その心(心臓)から生ける水の川が流れ出る」という言葉について熟考しました。これはキリストを飲み、キリストに信仰の基礎を置いた人びとについて述べています。キリストとの私たちの結びつきは、私たち自身の渇きを満たすためだけではなく、他の人びとにとっての生ける水の泉となるためでもあるわけです。オリゲネスは、キリストが私たちの心(心臓)の中に新鮮な水の泉を湧き出させることによって約束を果たした、と書いています。「神のかたちに造られた人間の魂は、それ自体が井戸、泉、川を含み、豊かな水を注ぎ出すことができます」(註170】。

174項 聖アンブロジウスは、「永遠の命に至る水の泉があなたのなかであふれ出るようになるため」、キリストから深く飲むことを勧めました(註171)。 マリウス・ヴィクトリヌスは、聖霊が自分自身を豊かに与えたので、「彼を受け容れる人は誰でも生ける水の川を注ぐ心となる」と確信していました(註172 )。聖アウグスティヌスは、信者から流れ出るこの流れを慈悲とみなしました(註173)。 聖トマス・アクィナスは、誰かが「神から受けたさまざまな恵みの賜物を分かち合おうと急いでいるときはいつでも、その人の心から生ける水が流れ出る」と主張しました(註174)。

175項 「愛にもとづく服従において十字架上で捧げられた犠牲は、人類の罪に対する最も豊かで無限の償いとなる」(註175 のですが、キリストのみこころから生まれた教会は、あらゆる時代や場所において、人びとを主との直接の一致へと導く、その唯一の贖いの情熱の果実を延長しつつ授けるものなのです176項 教会共同体の精神性において、私たちの仲介者であり母であるマリアの仲介は、「唯一の源泉、すなわちキリスト自身の仲介にあずかること」としてのみ、理解できます(註176) 。

 キリストこそが唯一の救い主です。このため、「教会はマリアの従属的な役割を公言することをためらいません」(註177 マリアのみこころに対する信心は、キリストのみこころのみに捧げられるべき崇拝を決して損なうものではなく、むしろそれを強めるものです。「人類の母としてのマリアの役割は、キリストのこの唯一の仲介を決して不明瞭にしたり弱めたりするのではなく、むしろその力を示しているのです」(註178 キリストの開かれた脇腹からあふれ出る豊かな恵みのおかげで、教会、聖母マリア、そしてあらゆるキリスト者は、さまざまな方法で自ら生ける水の流れとなります。このようにして、キリストは私たちの小ささのなかで、そしてそれを通して、その栄光を現わすのです。

 

 

2 兄弟同士の大切さ(愛)と秘義主義[177-180項]

 

177項 聖ベルナルドゥスは、キリストのみこころ(心臓)と一体となるよう私たちに勧めるなかで、この信心の豊かさを利用して、愛に根ざした回心を呼びかけています。聖ベルナルドは、快楽に隷従している私たちの愛情は、戒律への盲目的な服従を選ぶのではなく、むしろキリストの甘美な愛に応えて、それでもなお変容し、解放される可能性があるものだ、と信じていました。悪は善によって克服され、愛の開花によって征服されます。「全身全霊の深い愛情をもって、あなたの神である主を愛しなさい。完全に注意を払い、一心に主を愛しなさい。全力を尽くして主を愛しなさい。主への愛のたなら死ぬことも恐れないほどに… イエスに対するあなたの愛情は、官能的な生活の甘い誘惑に対抗するために、甘く親密なものでなければなりません。一本の釘が他の釘を打ち抜くように、甘さは甘さを打ち負かします」(註179)。

178項 聖フランソア ド・サル司教は、イエスの次の言葉に特に心を打たれました。「私から学びなさい。『私は心(心臓)の柔和でへりくだった者だからである (マタイ11:29)。最も単純で平凡なことでさえ、主の心(心臓)を「盗む」ことができるとイエスは言いました。「主に喜ばれるように仕えようとする者は、高尚で重要なことだけでなく、卑しいことやささいなことにも注意を払わなければなりません。なぜなら、その両方によって、私たちは主の心(心臓)と愛を勝ち得ることができるからです……私が言っているのは、日々の忍耐、頭痛、歯痛、ひどい風邪、夫や妻のうんざりする癖、割れたガラス、指輪、ハンカチ、手袋の紛失、隣人の冷笑、祈りや聖餐のために早起きするために早く寝る努力、公然と宗教的義務を果たすときに感じるちょっとした恥ずかしさ… これらすべての苦しみは、たとえ小さなものであっても、愛をもって受け入れるなら、神の慈悲に大いに喜ばれるものであることを忘れないでください」(註180)。

 しかし、究極的には、キリストのみこころ(心臓)の愛に対する私たちからの応答は、隣人への愛として表されます。「堅固で、不変で、揺るぎなく、些細なことや人びとの社会的な地位に執着がなく、変化や敵意にも左右されない愛が必要なのです。… 主は私たちを絶えず愛し、私たちの数多くの欠点や欠陥を我慢してくださいます。まさに このため私たちも兄弟姉妹に対して同じことをし、彼らに飽きることなく我慢しなければなりません」(註181)。

179項 聖シャ ル・ド・フーコーは、イエスが自分の代わりにしたであろうことを常に行うように努め、イエスと同じように生き、行動することでイエスに倣おうとしました。キリストのみこころの感情に従うことによってのみ、彼はこの目標を完全に達成することができました。ここにも「愛に対する愛」という概念が見られます。彼の言葉によれば、「私は愛に愛を返すために、彼に倣うために、……彼の仕事に参加し、私の無を彼と共に捧げるために、人びとの聖化のために犠牲として、つまりいけにえとして自分を捧げるために、苦しみを望みます」(註182 )。

 イエスの愛を他の人びとに伝えたいという願いをいだきつつも、私たちの世界で最も貧しく忘れられた人びとへの宣教活動が、十字架で飾られたキリストのみこころ(心臓)のシンボルである「イエスのカリタス」という言葉を彼の紋章に採用するきっかけとなりました(註183 )。

 ​​これは決して軽い決断などではありませんでした。「私は全力を尽くして、これらの貧しい失われた兄弟たちに、私たちの宗教はすべて慈善であり、すべて友愛であり、その紋章は心(心臓)であるということを示し、証明しようと努めています」(註184 )。彼は他の兄弟たちと一緒に「イエスのみこころ(心臓)のみ名において」モロッコに定住することを望みました(註185 )。このようにして、彼らの福音宣教の働きは外にまで広がることができました。「愛が、イエスのみこころから広がるように、私たちの兄弟愛からも広がる必要があります」(註186 )。

 この願いにより、彼は徐々に「普遍的な兄弟」となりました。キリストのみこころ(心臓)によって形作られることを許しながら、彼は兄弟愛の心の内に 苦しむ全人類を迎え容れて保護しようとしました。「私たちの心(心臓)は、イエスのみこころ(心臓)のように、あらゆる男性や女性を受け容れなければなりません」(註187 )。「男性や女性に対するイエスのみこころ(心臓)の愛、彼が受難のさなかで示した愛、これこそが、私たちがあらゆる人間に対していだく必要があるものです」(註188)。

180項 聖シャ ル・ド・フーコーの霊的指導者であったアンリ・ユヴラン師は、「私たちの主が心(心臓)に住むとき、彼はそのような感情を与え、この心(心臓)は私たちの兄弟姉妹の最も小さい者にまで届きます」と述べました。聖ヴィンサン ド ポールの心はまさにこれでした … 主が司祭の魂に住まわれるとき、主は司祭を貧しい人びとに手を差し伸べさせます」(註189)。 ユヴラン師が述べているように、聖ヴァンサン・ド・ポールの使徒的な熱意は、キリストのみこころ(心臓)に対する信心によって養われたことを理解することが重要なのです。

 聖ヴァンサン・ド・ポールは、同志たちに「主のみこころのなかに、貧しい病人のための慰めの言葉を見つけなさい」と勧めました(註190)。 その言葉が説得力を持つためには、私たち自身の心が、まずキリストのみこころの愛と優しさによって変えられなければなりません。聖ヴァンサン・ド・ポール(聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ)は、説教や勧告のなかでこの確信を頻繁に繰り返し、それは彼の修道会の会憲の注目すべき特徴となりました。

 「私たちは、キリストによっても教えられた次の教訓を学ぶよう、多大な努力を払うべきです。『私は柔和で謙遜な人間だから、私に学びなさい』。私たちは、柔和さによって地を受け継ぐとキリスト自身が言ったことを忘れてはなりません。これにもとづいて行動すれば、人びとを味方につけ、主に立ち帰らせることができるでしょう。人びとを厳しく、または辛辣に扱っていたら、それは起こりません」(註191)。償い—廃墟の上に築くこと。

181項 これまで述べてきたすべてのことにもとづいて、神のことばの光のなかで、主が私たちに対して、神の恵みの助けを借りて「捧げる」ように期待しているキリストのみこころへの「償い」の正しい意味を理解することができるようになります。この問題はよく議論されてきましたが、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、今日のキリスト者を福音書の立場に、もっと近づいた償いの精神と導くことができるための明確な答えを与えてくれました。

 

 

4 キリストのみこころ(心臓)に対する償いについての社会的な意義[182―184項]

 

182項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、私たち自身をキリストのみこころ(心臓)に共に委ねることで、「憎しみや暴力によって積み重なった廃墟の上に、大いに望まれている愛の文明、キリストのみこころの王国を築くことができる」のだ、と説明しました。これは明らかに、私たちが「神への親しみのある愛と隣人への愛を一つにする」ことを要求しており、実際に、これが「救い主のみこころ(心臓)が求める真の償い」となるものなのです(註192 )。キリストと一体となって、私たちが罪によってこの世に残した廃墟のなかで、私たちは愛の新しい文明を築くよう求められています。それが、キリストのみこころ(心臓)が望むように償いをする、ということです。悪がもたらした荒廃のなかで、キリストのみこころ(心臓)は私たちが彼と協力して世界に善と美を取り戻すことを望んでいます。

183項 あらゆる罪は教会と社会に害を及ぼします。その結果、「あらゆる罪は間違いなく社会的な罪とみなすことができます」。それから、これは特に「それ自体が隣人への直接的な攻撃を構成する」罪に当てはまります(註193 。教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、他者に対するこれらの罪の繰り返しは、しばしば「罪の構造」を強化し、それが人びとの発展に影響を与えると説明しました(註194 多くの場合、これは単なる利己主義と無関心を正常または合理的と見なす支配的な考え方の一部です。これが社会的な疎外を引き起こします。「社会組織、生産、消費の形態が、自己の贈り物を提供することと人々のあいだに連帯を確立することをより困難にする場合、社会は疎外されています。」(註195)。

 疎外された社会構造を明らかにして抵抗し、社会内で共通善を回復して強化する努力を支援するように私たちを導くのは、道徳的な規範だけではありません。むしろ、これらの構造を修復する「義務を課す」(註196 のは私たちの「心の回心」です。それは、イエスのみこころの愛に対する私たちの応答であり、それが私たちに愛することを教えます。

184項 福音的な償いがこの重要な社会的側面を持っているからこそ、私たちの愛、奉仕、和解の行為が真に償いとなるためには、キリストによって触発され、動機づけられ、力を与えられる必要があります。聖ヨハネ・パウロ2世も、「愛の文明を築くために」(註197 、今日の世界にはキリストのみこころが必要であると述べています。キリスト教における償いは、たとえそれがいかに不可欠で、時には称賛に値するものであっても、単に外的な行為の寄せ集めとして理解することはできません。これらには「神秘性」、魂、力、意欲、たゆまぬ創造性を与える意味が必要です。キリストのみこころから発せられる命、火、光が必要です。

 

 

5 傷ついた心を癒すこと[185-186項]

 

185項 それにしても、私たちの世界にとっても、キリストのみこころ(心臓)にとっても、外的な償いだけでは決して十分ではありません。私たち一人ひとりが自分の罪とそれが他人に与える影響について考えるなら、この世界に与えられた損害を修復するには、最も深い損害が与えられ、最も痛みを伴う傷ついた心を癒すという願望も必要であることに気づくはずでしょう。

186項 したがって、償いの精神は、「どんなに深い傷であっても、あらゆる傷が癒される、という希望を私たちに与えます。完全な賠償は、財産や愛する人が決定的に失われたときや、ある状況が修復不可能になったときなど、時には不可能に思えるかもしれません。しかし、「償いをする」という意志、そしてそれを具体的な方法で行うことは、和解のプロセスと心の平和への回帰に不可欠なのです(註198)。

 

 

6 赦しを求めることの美しさ[187-190項]

 

187項 善意だけでは十分ではありません。外面的な行動に表れる内面的な願望がなければなりません。「償いが、傷つけられた人の心に触れ、単なる交換的な正義の行為で終わらないのであれば、そしてキリスト教的であるためには、二つの事柄が前提となることが要求されます。つまり、まず自分の罪を認めること、それからゆるしを請うことです… 兄弟姉妹に対して行った不正を正直に認めること、そして愛が損なわれたことを深く真摯に認識することから、償いたい、という願望が生まれるのです」(註199)。

188項 他人の前で自分の罪を認めることが、人間としての尊厳を貶めたり、侮辱したりするなどと決して考えるべきではありません。それどころか、それは、特に兄弟姉妹を傷つけた場合に、自分を欺くのをやめ、罪によって傷つけられた過去をありのままに認めることを要求します。「自己非難はキリスト教の知恵の一部です…それは主を喜ばせます。なぜなら主は悔い改めた心を受け容れてくださるからです」(註200)。

189項 この償いの精神についての考え方は、兄弟姉妹にゆるしを請う習慣でもあり、それは人間の弱さのなかで偉大な高潔さが備わっていることを示しています。ゆるしを請うことは関係をいやす手段です。なぜなら それは「対話を再開し、兄弟愛の絆を再構築する意志を表明するからです……それは兄弟姉妹の心に触れ、慰めをもたらし、求められた赦しを受け容れるよう促します。たとえ修復不可能なものが完全に修復されなくても、愛は常に生まれ変わり、傷を耐えられるものにします」(註201)。

190項 悔い改めの心は兄弟愛と連帯のなかで成長します。そうでなければ、「私たちは退行し、内面的に老いていきます」が、「私たちの祈りがより単純で深くなり、神の前での崇拝と驚嘆に根ざすようになると、私たちは成長し成熟します」。「私たちは自分自身への執着が減り、キリストへの執着が増します。心が貧しくなると、神にとって最も大切な貧しい人びとに近づくようになるのです」(註202 これは真の償いの精神につながります。

 「心からの良心の呵責を感じる人は、ますます自分がこの世のあらゆる罪びとの兄弟姉妹であると感じます。彼らは優越感や厳しい判断を捨て、愛を示し、償いたいとい
う燃えるような願いに満たされます」(註203)。 良心の呵責から生まれる連帯感は、和解をも可能にします。良心の呵責を感じることができる人は、「兄弟姉妹の失敗に怒りや憤りを感じるのではなく、むしろ彼らの罪のために泣きます。ある種の逆転が起こり、自分に甘く、他人に頑固になるという自然な傾向が覆され、神の恵みにより、自分に厳しく、他人に慈悲深くなるのです (註204)

 

 

 

4.償い——キリストのみこころの拡張[191-194項]

 

191項 償いには、兄弟姉妹への具体的な献身という側面を排除することなく、キリストのみこころと さらに直接的な関係にそれを位置づけることができる、補完的な別の理解の仕方が備わっています。

192項 私は別のところで、「神は、私たちが悪、危険、苦しみの源と考える多くのものが、実際には神が私たちを創造主との協力行為に引き込むために用いる産みの苦しみの部であるように、何らかの方法で自分自身を制限しようとしました」と述べました(註205項)。 私たちの側からの協力は、神の力と愛とが私たちの生活と世界に広がることを可能にしますが、私たちが拒否したり無関心になったりすると、それを妨げる可能性があります。聖書のいくつかの箇所は、主が「イスラエルよ、あなたが私に立ち返ってくれればよいのに」と叫ぶときのように、これを比喩的に表現しています(エレミヤ4:1参照)。あるいは、民の拒絶に直面して、彼はこう言います。「私の心は私のなかでひるみ、私のあわれみは熱く、優しくなる」(ホセア11:8)。

193項 栄光を受けた主の新たな苦しみについて語ることはできませんが、「キリストの過越の秘義……そしてキリストのすべて、すなわち彼があらゆる人のために行い、苦しんだことすべては、神の永遠の領域に属しており、それゆえにあらゆる時代を超越し、あらゆる時代に現存しているのです」(註206 。主は、私たちが自由に主のみこころに協力できるよう、復活の壮大な栄光を制限し、その計り知れない 燃えるような愛の拡散を抑えたのだと言えるでしょう。私たちが主の愛を拒絶すると、その恵み深いたまものに障壁が築かれることになりますが、私たちが主の愛を信頼して受け容れると、その愛が私たち
の心に注ぎ込むための空間もしくは通路が開かれます。しかし、私たちが拒絶したり無関心になったりすると、主の力の効果と私たちに対する主の愛の豊かさとが制限されてしまいます。もしも、神が私の心のなかに開いてくださった信頼を私たちが見いださなければ、神の愛は、神自身が望んだように、私の人生とこの世において、唯一無二のまたとない広がりを失います。神は、私を神の現存において呼び求めておられるのです。繰り返しになりますが、これは神の弱さからではなく、むしろ神の無限の自由、秘義的な力、そして私たち一人ひとりに対する神の完全な愛から来るものです。神の力が私たち人間の自由の弱さにおいて現れるとき、「信仰だけがそれを見分けることができる」のです(註207)。

194項 聖マルグリット・マリ ・アラコックは、キリストが出現した際に、キリストが私たちに対する情熱的な愛について語り、「燃える愛の炎を抑えることができず、それを広めなければならない」と告げたと語っています(註208 すべてを成し遂げることができる主が、神の自由において私たちに協力を求めてくださいました。私たちの信頼は消え去り、感謝がうすれ、自己犠牲が忘れ去られるたびにキリストの愛が世界に広がることがはばまれることになるのですが、こうした障壁を取り除くことが「償い」であることがわかります。

 

 

 

5.愛に向かう捧げもの[195-199項]

 

195項 こうした秘義について さらに深く考えるために、私たちは幼きイエスの聖テレーズの輝かしい霊性にもう一度目を向けることができるでしょう 聖テレーズは他者のために自分を犠牲にし、ある意味で神の正義の懲罰に対する「避雷針」となることをいとわない極端な形の償いが発達していることに気づいていました。彼女の言葉によれば、「私は、罪びとに下される罰を回避し、自ら罰を引き寄せるために、神の正義の犠牲者として自らを捧げる魂について考えました」(註209 と述べられています。しかし、そのような捧げものがどれほど偉大で寛大なものに見えたとしても、彼女はそれをあまり魅力的だと
は思いませんでした。「私はそれをすることに魅力を感じるどころではありませんでした」(註210 )。

 神の正義をそれほどまでに強調すると、最終的には、キリストの犠牲はどういうわけか不完全であったり部分的にしか効力を発揮しなかったり、キリストの慈悲は十分に強力ではなかった という考えにつながる危険性があります。

196項 聖テレーズは、その偉大な霊的な洞察力によって、神の正義を満たす必要はなく、主の無限の愛が自由に広がるようにすることで、別の方法で自分自身を捧げることができることを発見しました。「ああ、私の神よ、あなたの軽蔑された愛は、あなたのみこころ(心臓)のなかに閉じ込められたままになるのでしょうか。あなたの愛のためにホロコーストの犠牲として自らを捧げる魂を見つけたら、あなたはすぐに、彼らを焼き尽くすいけにえとして受け取ろうとするだろうと思います。私にも、あなたは自分の内にある限りない優しさの波を抑えない方が幸せだと思えるのです」(註211)。

197項 キリストの唯一の贖いの犠牲に何も付け加える必要はありませんが、私たちの自由な拒否が、キリストのみこころ(心臓)「限りない優しさの波」を広げるのを妨げることは事実です。これもまた、主が私たちの自由を尊重したいと望んでいるからです。神の正義よりも、キリストの愛が拒否されるかもしれない、という事実が聖テレーズの心を悩ませました。なぜなら、彼女にとって、神の正義は神の愛の光のなかでのみ理解されるからです。すでに見たように、彼女は神の慈悲を通して神のあらゆる完全性を黙想し、それによってそれらが愛で変容し、輝くのを見ました。彼女の言葉によれば、「神の正義さえも(そしておそらくこれは他のものよりもさらに)愛に包まれているように私には思えます」(註212)。

198項 これが、神の正義ではなく、神の慈悲深い愛に対する彼女の奉献のわざの起源でした。「私はあなたの慈悲深い愛にホロコーストの犠牲者として自分を捧げ、私を絶えず焼き尽くすいけにえとして捧げ尽くし、あなたのなかに閉じ込められた無限の優しさの波が私の魂にあふれ出るのを許し、こうして私があなたの愛の殉教者となることを願います」(註213)。聖テレーズにとって、これは、完全な信頼を通してキリストのみこころ(心臓)が彼女の心(心臓)を満たすことをゆるすだけではなく、その愛が彼女の人生を通して他の人びとにまで広がり、世界を変えることを許すことでもあったことを理解することが重要です。再び彼女の言葉を引用しておきましょう。「教会の精神性の内で、私の母よ、私は愛になります…そして私の夢は実現します」(註214 )。キリストのみこころ(心臓)と私の心(心臓)という、二つの側面は切り離せない形で結びついていました。

199項 主は彼女の捧げものを受け容れました。その後すぐに、彼女は他者への強い愛を感じたと述べ、それはキリストのみこころから来ており、彼女を通して続いていると主張していることがわかります。そこで彼女は妹のレオニーにこう言いました。「私は普通の姉妹がお互いを愛するよりも千倍も優しくあなたを愛しています。なぜなら私は天国の配偶者の心であなたを愛することができるからです」(註215 後に彼女はモーリス・ベリエールにこう書きました。「イエスのみこころ(心臓)の優しさ、イエスがあなたに何を期待しているのかを、あなたに理解してもらいたいと、どれほど願っていることでしょう」(註216)。

 

 

 

6.統合と調和[200-204項]

 

200項 兄弟姉妹の皆さん、私は、この償いの手段を発展させようと提案します。一言で言えば、私たちがキリストのみこころ(心臓)に対して関わる際に、この世界においてキリストの熱烈で慈悲深い愛の炎を広げる新たな可能性を提供することです。償いには、「過失であれ、重大な違反であれ、被造物ではない愛に与えられた損害を償う」という願いが伴うことは事実ですが(註217)。 最もふさわしい方法は、私たちの愛が主に、主の愛が拒絶されたり拒絶されたりしたあらゆる機会に対する償いとして、広がる可能性を提供することです。これは、前章でお話ししたキリストの「慰め」以上のものです。兄弟愛の行為として表現され、教会と世界の傷をいやすことです。このようにして、私たちはキリストのみこころによる癒しの力に、新たな表現方法を提供します。

201項 隣人愛の行為に必要な犠牲と苦しみは、私たちをキリストの受難に結びつけます。このようにして、「使徒が語るあの秘義的な十字架刑によって、私たちは自分自身と他の人びとのために、その贖罪と償いの豊かな実りを受けるのです」(註218)。

 キリストだけが十字架上の捧げものによって私たちを救い、私たちを救うのです。なぜなら、「神は唯一であり、神と人とのあいだの仲介者も唯一であり、人であるキリスト・イエスであり、キリストは、あらゆる人の身代金としてご自身をお与えになったのです」(テモテ第一2:5-6 )。私たちが捧げる償いは、キリストの贖いの愛と唯一の犠牲に、自由に受け容れられて参加することです。こうして私たちは、自分の肉体において「キリストのからだである教会のために受けた苦しみの欠けたところを補う」のです(コロサイ 1:24)。そしてキリストご自身が、私たちを通して、その完全で愛に満ちた自己奉献の効果を延ばしてくださるのです。

202項 たいていの場合、私たちの苦しみは、私たち自身の傷ついた自我と関係があります。キリストのみこころの謙遜さは、私たちを卑下する道へと導きます。神は、謙遜と小ささをもって私たちのもとに来ることを選ばれました。旧約聖書は、歴史の中心に入り、民に拒絶されることを許す神を、すでにさまざまな比喩で示していました。キリストの愛は、民の日常生活の中で示され、いわば応答を懇願し、栄光を現す許可を求めるかのようでした。しかし、「おそらく、主イエスがご自分のみこころ(心臓)について、ご自分の言葉言及したのは、たった一度だけでしょう。そして、この唯一の特徴を強調します。『柔和で謙遜であること』は、この方法によってのみ、私たちを自分の元に引き寄せたいとおっしゃるかのようです」(註219 )。

 イエスは、「私に学びなさい。私は柔和で謙遜な者だから」 (マタイ 11:29) とおっしゃったとき、私たちに「自分を知らせるためには、私たちの小ささ、自己卑下が必要なのです」ということを示されました(註220)。

203項 これまで述べたことの中で、いくつかの切り離せない側面に注目することが重要です。隣人愛の行為は、それに伴う放棄、自己否定、苦しみ、努力を伴いますが、キリスト自身の愛によって養われている場合にのみ、隣人愛となることができます。

 キリストは、キリストが愛したように私たちが愛することを可能にし、このようにして、私たちを通して他の人びとを愛し、奉仕します。キリストは、私たちの行為を通して愛を示すために謙虚になりますが、私たちのほんのわずかな慈悲の行為でさえ、キリストのみこころ(心臓)は栄光に輝き、その偉大さをすべて示します。私たちの心がキリストの愛を完全に信頼して受け容れ、そのほむら(愛の炎)が私たちの生活のなかで広がるようにすると、私たちはキリストがなされたように、謙虚に、あらゆる人に親しく、他の人びとを愛することができるようになります。

 このようにして、キリストは渇きを満たし、私たちのなかに、そして私たちを通して、熱烈で慈悲深い、愛のほむら(炎)を輝かしく広げます。これらすべてのことにおいて存在する素晴らしい調和を、どうして見逃すことができるでしょうか。

204項 最後に、この信仰の豊かさをすべて理解するためには、三位一体の神の働きについて述べたことを踏まえて、「キリストが人間性において成し遂げた償いは、私たち一人ひとりの聖霊の働きを通して御父に捧げられる」ということを、付け加える必要があります。したがって、私たちがキリストのみこころ(心臓)に捧げる償いは、最終的には御父に向けられ、御父は私たちがキリストを通して、キリストとともに、キリストの内で自分自身を捧げるたびに、私たちがキリストと一つになるのを見て喜んでおられます。

 

 

7.世界に愛をもたらす[205-211項]

205項 キリスト教のメッセージは、単に敬虔な考えの避難所や印象的な儀式の機会としてではなく、その全体を経験して表現するときに魅力的なものとなります。 もしも私たちがキリストとの個人的な関係に満足し、他の人の苦しみを和らげたり、より良い生活を送るのを助けたりすることに関心を示さなかったとしたら、果たして私たちはキリストに対して一体どのような崇拝を捧げることになる、というのでしょうか。つまり、私たちが住んでいるこの社会への影響を無視しながら個人的な宗教経験に浸っているだけで満足するのならば、私たちを愛してくださるキリストのみこころを喜ばせることができる、というのでしょうか。すなおに、神のことばをまるごと受け容れましょう。

 その一方で、社会の改善のためにキリスト者として働くことで、その信仰にもとづく独自の霊的なひらめきを決して曖昧にすべきではありません。もしも 霊的なひらめきに気づかないままで生きるとすれば、最終的には神が兄弟姉妹に与えたいと望んでいるものよりも、はるかに少ないものを求めることになってしまうからです。このため、この章をしめくくるにあたって、キリストのみこころに対する私たちの愛の宣教的な側面を想い起こすことが欠かせないのです。

206項 教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、キリストのみこころ(心臓)に対する信心の社会的な側面について語られましたが、同時に「世界を救うための使徒的な協力である償い」についても語られました(註221)。したがって、キリストのみこころ(心臓)への奉献は「教会の宣教活動との関連で捉えられるべきです。なぜなら、イエスの御国への完全な献身を、キリストのからだのメンバーを通して世界中に広めたいというイエスのみこころ(心臓)の願いに応えるものであるからです」(註222)。その結果、「キリスト者の証しを通して、愛が人びとの心(心臓)に注がれ、キリストのからだである教会を築き上げ、正義と平和と友愛の社会を築くことになるのです」(註223)。

207項 イエスのみこころ(心臓)の愛のほむら(炎)は、キリストに示された神の愛のメッセージを宣べ伝える教会の宣教活動を通しても広がります。聖ヴァンサン ド ポールは、弟子たちに対して、主に「この精神、この心、私たちをどこへでも行かせてくれる神の子の心(精神)、主が行かれたように私たちを行かせてくれる主の心(心臓)…主は私たちを、使徒たちのように、どこにでも愛のほむら(炎)を運ぶように遣わすのです」と祈るよう勧め、このことをうまく表現しました(註224)。

208項 教皇聖パウロ6世は、みこころに対する信心を広めることに献身している修道会に対して講話を行い、次のように述べました。「司祭も信徒も同じように、神の栄光を広めたいという願いにおいて、キリストが示してくださった永遠の愛の模範を黙想し、あらゆる男女がキリストの計り知れない富を共有できるように努力するならば、司牧的な献身と宣教の熱意が燃え上がることは間違いありません」(註225 )。みこころを黙想するとき、宣教は、愛の問題になります。宣教における最大の危険は、私たちが言うことや行うことのすべてにおいて、私たちを抱きしめ、救ってくれるキリストの愛との喜びに満ちた出会いをもたらさないことです。

209項 キリストのみこころ(心臓)の愛の放射としての宣教には、愛のなかにあり、キリストに魅了され、自分たちの人生を変えたこの愛を分かち合う義務を感じている宣教師が必要です。彼らは、二次的な問題を議論したり、真理や規則に集中したりして時間を無駄にすると、いら立ちます。なぜなら、彼らの最大の関心事は、自分が経験したことを分かち合うことだからです。彼らは、たとえ不十分であっても、自分の努力を通して、愛する人の善良さと美しさとを他の人に感じてもらいたいのです。それは、いかなる愛する者にも当てはまることではないでしょうか。ダンテ・アリギエーリがの愛の論理を表現しようとした言葉を例に挙げてみましょう。「私は自分の価値を思い、愛は甘く、私の心は愛で満たされているが しかし他人は愛を欲しがらない」(註226)。

210項 証人や言葉でキリストについて語り、他の人がキリストを愛するように仕向けることは、あらゆる魂の宣教師の最大の願いです。この愛のダイナミズムは布教とはまったく関係がありません。愛する人の言葉は他人を煩わせたり、要求したり、義務づけたりはしません。ただ、そのような愛に驚嘆させるだけです。愛する人は、彼らの自由と尊厳を深く尊重しながら、自分の人生をこれほど大きな喜びで満たしてくれた愛について尋ねてくれるのをただ待つだけです。

211項 キリストは、あなたがたが自分とキリストとの友情について、十分な慎重さと敬意をもって他の人に話すことを決して恥じてはならないと求めています。キリストは、あなたがたがキリストを見つけたことがどれほど素晴らしく、美しいのかを、他の人にも大胆に伝えるよう求めています。「人の前で私を認める人はみな、私も天の父の前でその人を認めます」(マタイ10:32)。愛する心にとって、これは義務ではなく、抑えることのできない欲求なのです。「福音を宣べ伝えなければ、私は不幸です」(コリント第一9:16)。「私の内には、燃える火のようなものが骨のなかに閉じ込められています。私はそれを抑えておくのに疲れ、もうできません」(エレミヤ20:9)。

 

 

1 奉仕の交わりのなかで[212-216項]

 

212項 キリストを伝えるというこの使命を、イエスと私だけの問題として考えるべきではありません。使命は、私たちの共同体および教会全体との交わりのなかで経験されます。私たちが共同体から離れれば、イエスから離れることになります。私たちが共同体に背を向ければ、イエスとの友情は冷えてしまいます。これは事実であり、決して忘れてはなりません。私たちの共同体(修道会、教区、教区など)の兄弟姉妹に対する愛は、イエスとの友情を育む一種の燃料です。共同体内の兄弟姉妹に対する私たちの愛の行為は、イエス・キリストへの愛を他の人に証しする最善の方法であるとともに、時には唯一の方法かもしれません。イエスは自らこう言っています。「互いに愛し合うなら、それによってあなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるようになる」(ヨハネ3:35)。

213項 この愛は共同体内での奉仕となります。イエスはできるだけ明確な言葉でこうおっしゃったことを、私は何度も繰り返して言います。「私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしてくれたことである」(マタイ25:40)。イエスは今、兄弟姉妹一人ひとり、特に貧しい人、軽蔑されている人、社会から見捨てられた人のなかで、イエスに出会うように、あなたに求めています。なんと素晴らしい出会いでしょうか。

214項 他の人を助けることに関心があるとしても、それはイエスに背を向けているということではありません。むしろ、別の方法でイエスに出会うのです。他の人を助け、気遣おうとするときには いつでも、イエスは私たちのそばにいます。イエスが弟子たちを宣教に遣わされたとき、「主は彼らとともに働かれた」(マルコ 16:20)ことを決して忘れてはなりません。イエスはいつもそこにいて、いつも働いており、善を行うための私たちの努力を分かち合ってくれます。秘義的な方法で、イエスの愛は私たちの奉仕を通して現存します。イエスは、時には言葉を必要としない言語で世界に語りかけるからです。

215項 イエスはあなたを呼び、この世界に善を広めるためにあなたを送り出しています。イエスの呼びかけは奉仕であり、医者、母親、教師、司祭など、善を行うための召し出しです。どこにいても、イエスの呼びかけを聴き、イエスがその使命を果たすために、あなたを送り出していることに気づくことができます。イエスは自ら「私があなたを送り出す」(ルカ10:3)とおっしゃっています。これはイエスと友人になるということの一部です。しかし、この友情が成熟するには、イエスにこの世界の使命に送り出してもらうこと、そして自信を持って、寛大に、自由に、恐れることなくそれを遂行することが あなた次第の出来事として任されているのです。

 自分の居心地のよい場所にとどまっていると、本当の意味での安心感は決して得られません。疑いや恐れ、悲しみや不安が常に地平線に迫ってきます。この地上で使命を果たさない人は、幸福ではなく失望を見つけるでしょう。イエスがあなたのそばに常にいることを決して忘れないでください。イエスはあなたを奈落の底に突き落としたり、放っておいたりはしません。イエスはいつもあなたを励まし、伴って歩んでくださいます。イエスは約束したことを必ず果たしてくださいます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるからである」(マタイ28:20)。

216項 あなたも、自分なりの方法で宣教師にならなければなりません。イエスの使徒や最初の弟子たちが神の愛を宣べ伝え、キリストは生きておられ、知る価値があることを他の人びとに伝えるために出かけて行ったように。聖テレーズは、慈悲深い愛への捧げものの不可欠な部分としてこれを経験しました。「私は、愛する人に水を飲ませたいと思いました。そして、魂への渇きに満たされるのを感じました」(註227) 。

 このことは、あなたの使命でもあります。私たち一人ひとりが、自分のやり方で、それを実行しなければなりません。あなたは宣教師になる方法を知るようになるでしょう。イエスはそれに値します。あなたがその挑戦を受け容れるなら、イエスはあなたを啓発し、あなたに伴ってあなたを強め、あなたは多くの幸福をもたらす豊かな経験をするでしょう。すぐに結果が出るかどうかは重要ではありません。ひたすら私たちの心の奥底で働いている主に、お任せしましょう。キリストの愛を他の人と分かち合う努力から生まれる喜びを、経験し続けましょう。

 

 

 

結論[217-220項]

 

217項 この文書は、社会的な回勅 ラウダート・シ』および回勅『兄弟のみなさん』の教えが、イエス・キリストの愛との出会いと無関係ではないことを理解するのに役立ちます。なぜなら、同じ愛を飲むことで、私たちは兄弟姉妹としての愛の絆を築き、各人の尊厳を理解し、共通の家を守るために協力することができるようになるからです。

218項 あらゆるものが売買される世界では、人びとの自己価値は、お金の力で蓄積できるもの次第になっているようです。私たちは、目先のささいな必要性を超えて見ることを妨げる屈辱的なシステムに捕らわれ、常に買い続け、消費し、気を散らし続けるように迫られています。キリストの愛はこの倒錯した仕組みには入り込む余地がありませんが、その愛だけが、もはや無償の愛の余地がない狂気の追撃から私たちを解放することができます キリストの愛は、愛する能力が決定的に失われたと思われるところならどこでも、私たちの世界に心を与え、愛を復活させることができるのです。

219項 教会もキリストの愛を必要としています。キリストの愛がないと、キリストの愛が時代遅れの構造や関心、私たち自身の考えや意見への過度の執着、そしてさまざまな形の狂信に取って代わられてしまいます。そうした執着による愛着は、解放し、活気づけ、心に喜びをもたらし、共同体を築く神の無償の愛に取って代わってしまうのです。キリストの傷ついたわき腹は、神の無償の愛を今日も注ぎ続けます。その流れは決して枯渇せず、消えることもなく、彼のように愛したいと願うあらゆる人に何度でも差し出されます。彼の愛だけが新しい人間性をもたらすことができるからです。

220項 私たちの主イエス・キリストに願いましょう。私たちが引き起こした傷を癒し、他者を愛して奉仕する能力を強め、公正で連帯した兄弟姉妹同士の愛に満ちあふれた世界に向かってともに歩むことができるように、私たちを鼓舞する生ける水の流れを、彼のみこころ(心臓)が今日も私たちに対して注ぎ続けることを、どうか認めてくださいますように。復活した主の御前で、天国の宴をともに祝うその日まで、主は開かれたみこころ(心臓)から永遠に放たれる光のなかで、私たちのあらゆる違いを調和させます。主が永遠に祝福されますように。

ローマのサン・ピエトロ大聖堂にて、2024年10月24日、教皇在位12年目にこの文書を授けます

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(1)この第1章の考察の多くは、故ディエゴ・ファレス師の未発表の著述草稿に触発されたものです。主が彼に永遠の安息を与えられますように。
(2)ホメロス『イリアス』第21章441項を参照のこと。
(3)同上『イリアス』第10章244項を参照のこと。
(4)プラトン『ティマイオス』第65章c-dおよび70章を参照のこと。
(5)教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教」2016年10月14日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2016年10月15日号、8頁所載)。
(6)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「アンジェラス」2000年7月2日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2000年7月3~4日号、4頁所載)。
(7)同「カテケーシス」1994年6月8日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1994年6月9日号、5頁。
(8)ドストエフスキー『悪霊』 (1873年)。
(9)ロマーノ・グァルディーニ『ドストエフスキーの作品に登場する宗教者たち』マインツ/パーダーボルン、1989年、236頁以降。
(10)カール・ラーナー「みこころへの献身の神学のためのいくつかの論文」(『神学探究』第III巻所載)ボルチモア/ロンドン、1967年、332頁。
(11)同上、332-333頁。
(12)ビョンチョル・ハン『ハイデガーの心——マルティン・ハイデガーにおける気分の概念について』ミュンヘン、1996年、39頁。
(13)同上、60頁および176頁参照。
(14)同『エロスの苦悶』ベルリン、2012年参照。

(15)マルティン・ハイデガー『ヘルダーリンの詩の解説』フランクフルト・アム・マイン、1981年 120頁参照。
(16)ミシェル・デ・シェルトゥー「欲望の空間あるいは霊操の基礎」(『クリストゥス』第77号、1973年、118-128頁所載)参照。 
(17 )聖ボナヴェントゥラ 魂の神への道程 第7章6項。
(18) 同『命題集註解』第一文、質疑第三問。
(19)聖ジョン・ヘンリー・ニューマン『瞑想と献身』 第3部 [第16巻]、第1章 3項 ロンドン、1912年 、573-574頁。
(20)『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)82項。
(21)同上、10項。
(22)同上、14項。
(23)教理省宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』2024年4月2日 8項参照(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年4月8日号所載)
(24)『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)26項。
(25)教皇聖ヨハネ・パウロ二世「アンジェラス」1998年6月28日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1998年6月30日~7月1日号、7頁。
(26)教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ(Laudato Si’)』2015年5月24日付、83項(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』所載[AAS 107 (2015)p. 880].
(27)教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教」2013年6月7日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2013年6月8日号、8頁。
(28)教皇ピウス12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス(Haurietis Aquas)』1956年5月15日付、1項 [AAS 48 (1956)、316]。
(29)教皇ピウス6世回勅『アウクトーレム・フィデイ(Auctorem Fidei)』1794年8月28日付、63項 [DH 2663].
(30)教皇レオ13 世回勅『アンヌム・サクルム(Annum Sacrum)』1899年5月25日付[SS 31 (1898-1899)p. 649].
(31)同上 「みこころには、イエス・キリストの無限の慈愛の象徴のイメージが含まれているとともに、その慈愛を表現することでイメージ化してあります
(32)教皇フランシスコ「アンジェラス」2013年6月9日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2013年6月10 11日号、8頁。
(33)教会が祭壇上にイエスの心臓やマリアの心臓の像だけを置くことを禁じている理由がこれで理解できます( シャルル・ルコック師への聖体礼儀省からの回答 1879年4月5日付 聖体礼儀に関する信心
深さについての教令 第3巻、107-108頁、3492番 参照)。典礼以外では、「個人的な信心」(同)として、心臓の象徴は、教育の補助、美的象徴、キリストの愛について黙想するよう促す象徴として使用できますが、これは心臓をキリストの人格から切り離して崇拝や霊的対話の対象とみなす危険があります。聖体礼儀省は1887年3月31日付で同様の回答を再度出しました(同、187頁、3673番)。
(34)トリエント公会議、第25討議後の憲章『マンダット・サンクタ・シノドス』1563年12月3日付(DH 1823).
(35)第 5 回ラテン・アメリカおよびカリブ海司教総会『アパレシーダ文書』 (2007年6月29日付) 259項
(36)回勅『ハウリエーティス・アクアス』(1956年5月15日)1項[AAS 48 (1956)、323-324].
(37 )聖大バシレイオス『書簡261』3項[PG 32, 972].
(38 )聖ヨハネス・クリュゾストモス『ヨハネによる福音書についての説教』63章2項[PG 59, 350].
(39 )聖アンブロジウス『グラティアヌス宛ての信仰理解』第2巻7章56項[PL 16, 594 ](ed. 1880)。
(40) 聖アウグスティヌス『詩篇註解』第87章3節[PL 37, 1111].
(41) ダマスコの聖ヨアンネス『正統な信仰の解明』第3巻6章20節を参照のこと[PG 94, 1006, 1081].
(42)オレガリオ・ゴンザレス・デ・カルデダル『キリスト教の核心』サラマンカ、2010年、70-71頁
(43)教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008年6月1日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2008年6月2-3日号、1頁。
(44)教皇ピウス12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス』1956年5月15日、2項[AAS 48 (1956)327-328].
(45)同上: AAS 48 (1956)343-344.
(46 )教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008年6月1日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2008年6月2~3日号、1頁。
(47)ヴィルギリウス『無数の懸念のなかの憲法』553年5月14日付(DH 420)。
(48)エフェソス公会議「アレクサンドレイアのキュリロスのアナテマ」8項(DH 259).
(49)第 二コンスタンティポリス公会議、第8討議 (553年6月2日付) 『教会法』9項[DH 431]).
(50)十字架の聖ヨハネ『霊の賛歌』red. A, Stanza 22, 4.
(51)同上Stanza 12, 8.
(52)同上Stanza 12, 1.(53)「御父なる神はただ一人おられ、万物はその方からあり、その方のために我々は存在している」(1 コリント8:6)。「私たちの神であり父である方に、世々限りなく栄光がありますように。アーメン」(フィリピ4:20)。「私たちの主イエス・キリストの神であり父である方、慈悲の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」(コリント第二1:3)。
(54 )教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元二千年の到来』1994年11月10日付 49項[AAS87(1995)、35]。
(55 )アンティオケイアの聖イグナチオス「ローマの信徒への手紙」7項[PG5、694頁
(56)「私が父を愛していることを世が知るようになるため」(ヨハネ14:31)、「父と私は一つである」(ヨハネ10:30)、「私は父におり、父は私におられます」(ヨハネ14:10)。
(57)「私は父のもとに行く」(プロス・トン・パテラ:ヨハネ16:28)。「私はあなたのところに来ます」(ヨハネ17:11)。
(58)「私はあなたのところに来ます」。
(59)聖エイレナイオス『異端駁論』第3巻18章1節[PG 7, 932]。
(60) オリゲネス『ヨハネ福音書註解』第2巻2項[PG 14, 110]。
(61)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「アンジェラス」2002年6月23日付 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2002年6月24-25日 1頁
(62)教皇 聖ヨハネ・パウロ2世 人類によるイエスのみこころへの奉献100周年のメッセージ ワルシャワ、1999年6月11日におけるイエスのみこころの祭儀、3項 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1999年6
月12日 5頁所載)。
(63) 同 アンジェラス 1986年6月8日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ 1986年6月9-10日号、5頁
(64)教皇フランシスコ説教 ジェメッリ病院とカトリック聖心大学医学部訪問 2014年6月27日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2014年6月29日号、7頁
(65 )エフェソ1:5、同1;7 2:18 3:12
(66) エフェソ2:5、2;6 4:15.
(67 )エフェソ1:3、1;4 1;6 1;7 1;11 1;13 1;15 2:10 2;13 2;21 2;22 3:6 3;11 3;21.
(68)教皇聖ヨハネ・パウロ2世「人類がイエスのみこころに奉献されてから100周年のメッセージ ・ワルシャワ、1999年6月11日におけるイエスのみこころの祭儀、2項(『オッセルバトーレ・ロマーノ 1999年6月12日号、5頁所載)。
(69 )みこころには、私たちがたがいに愛し合うように促すイエス・キリストの無限の愛の象徴と明確なイメージがあるので、私たちがその最も聖なる心に身を捧げることは適切で正しいことです。それは、
イエス・キリストに自分自身を捧げ、結びつけることに他なりません。なぜなら、この神聖な心に捧げられる名誉、崇敬、愛は、すべてキリスト自身に捧げられるからです… そして今、今日、私たちの前に
もう一つの祝福された天国のしるしが差し出されています。それは、十字架がそびえ立ち、愛の炎のなかでまばゆいばかりの輝きを放っているイエスの最も聖なる心です。そのみこころに私たちのあらゆる希望を託し、そこから人びとの救いを確信を持って祈るべきです」(教皇レオ13世回勅『聖なる年(AnnumSacrum)』1899 年 5 月 25 日)[ASS 31 [1898-1899]、649-651]。
(70) 「すべての宗教の総体、したがってより完全な生活のパターンは、最も吉兆とそこから生じる敬虔さの形態の中に含まれていないでしょうか。それは、人々の心を私たちの主キリストの親密な知識へとより容易に導き、彼らの心をより熱烈にキリストを愛し、より密接に彼に倣うようにより効果的に動かすからです 教皇ピウス11世回勅 救世主 ミゼレンティッシムス・レデンプトール [1928年5月8日
](AAS 20 [1928]、167)。
(71) 「この信心は、その本来の性質を調べれば、最も優れた信仰の行為であることが完全に明らかです。なぜなら、傷ついた心臓は神の救い主の愛の生きたしるしであり象徴であり、神の救い主の愛に自分自身を完全に明け渡し、捧げるという完全な決意を要求するからです。……そのなかで、私たちは象徴だけではなく、言わば私たちの救済の秘義全体の統合をも観想することができます……キリストは、人びとが彼の愛を認識し、認めるように引き寄せられる象徴として彼のみこころをはっきりと繰り返し指摘し、同時にそれを、現代の教会の必要に対する彼の慈悲と恩寵のしるしと保証としました」(教皇ピウス12世回勅 ハウリエ ティス・アクアス [1956年5月15日]、プロエミウム、III、IV[AAS 48[1956]、311、336、340]。
(72 )教皇ヨハネ・パウロ2世 カテケ シス 2項 1994 年 6 月 8 日付 [『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1994 年 6 月 9 日号、5頁]。
(73) 教皇ベネディクト16世「アンジェラス」2008 年 6 月 1 日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2008 年 6月 2 3 日 1頁
(74 )教皇ピウス12世回勅 ハウリエ ティス・アクアス 1956 年 5 月 15 日、4項(AAS 48[1956]344).
(75 )同上:AAS 48(1956)336.
(76) 「私的な啓示の価値は、公的な啓示の価値とは本質的に異なります。後者は信仰を必要とします…私的な啓示…は提供される助けですが、それを使用することは義務ではありません」(教皇ベネデ
ィクト16世使徒的勧告『主のみことば』2010年9月30日付 14項[AAS 102(2010)696]。
(77 )教皇ピウス12世回勅 ハウリエ ティス・アクアス (1956年5月15日付 4項[AAS48(1956)340]。
(78) 同上:AAS 48(1956)344.
(79 )同上。
(80) 教皇フランシスコ使徒的勧告『信頼の道——聖テレーズ生誕150周年を記念して』(2023年10月15日付 20項(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2023年10月16日号、4頁以下 [訳註;邦訳は以下のとおりです;教皇フランシスコ(片山はるひ訳)使徒的勧告『信頼の道——聖テレーズ生誕150周年を記念して カトリック中央協議会、2024年]。
(81)幼いイエスの聖テレーズ『自叙伝 手稿A、83項)。[訳註;邦訳は以下のとおりです;東京女子跣足カルメル会訳/伊従信子改訳『改訂 幼いイエスの聖テレーズ自叙伝——その三つの原稿』ドン・ボスコ社、1996年改訂版(1962年初版)。聖テレーズの幼年時代を描いた「手稿A」は『小さな白い花の物語』という主題を備えており、1895年1月初旬から1896年1月20日にかけて、リジューのカルメル会院長だったイエスのアニェス(聖テレーズの姉のポリーヌ)の依頼によって聖テレーズ自身によって書かれました。
(82 )聖マリア・ファウスティナ・コヴァルスカ 日記 47項(1931年2月22日)、マリアン・プレス、ストックブリッジ、2011年、46頁
(83 )『ミシュナー・スッカ』IV・5・9.
(84) 教皇聖ヨハネ・パウロ2世「イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル(フランス)、1986年10月5日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1986年10月7日号、9項)。
(85 )カエサレイアのエウセビオス『ライオンによる殉教者の記録』(『教会史』第5巻)1項[PG20、418].
(86 )エウセビオス2世「ルフィヌス」1項(『教会史』第5巻1章22節)411頁および413頁以降。
(87 )聖ユスティノス『対話』135項3節[PG 6, 787].
(88)ノヴァティアヌス『三位一体論』29項[PL 3, 994]。エルヴィラの聖グレゴリオス『正典聖書冊子 第20巻12項[CSSL 69、144].
(89 )聖アンブロジウス『詩篇註解』第1巻第33項[PL 14, 983-984].
(90 )聖アウグスティヌス「講解 『ヨハネ福音書註解』第61章第6節)[PL 35,1801]。
(91 )聖ヒエロニムス「ルフィヌスへの手紙」第3巻第4章3節[PL 22,334].
(92) 聖ベルナルドゥス『雅歌についての説教』第61章第4節[PL 183,1072].
(93 )サン・ティエリのウィリアム『雅歌に関するもうひとつの考察』1項[PL 180, 487.].
(94) サン・ティエリのウィリアム『愛の本性と尊厳』1項[PL 184, 379].
95 )同上『黙想の祈り』第8章6項[PL 180, 230.]
(96 )聖ボナヴェントゥラ『生命の樹——受難の秘義』30項。[訳註;邦訳は以下のとおり;小高毅訳『愛の観想——生命の樹・神秘の葡萄の樹』あかし書房、2002年、65 66頁] 小高師による訳文は以下のとおり;「30項 さらに、十字架の上に眠っておられるキリストの脇腹から教会が形成されるために、また『彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者を見つめる』(ゼカ12・10)と語る聖書の言葉が成就されるために、神の決定によって、兵士の一人が槍で聖なる脇腹を開き貫くのをよしとされたのです。その結果、水と一緒に血が流れ出て、私たちの救いの貴い代価が注ぎ出されました。泉から、つまり心の奥底から流れ出たものは、恩恵の命をもたらすための力を教会の諸秘跡に与え、すでにキリストのうちに生きている人々にとっては『永遠の命へと湧き上がる生きた泉』(ヨハ4・14)から汲まれた杯となります」。
(97) 同上、47項。[訳註;小高師による邦訳では90頁以下]。
(98) 同上『神の慈悲を伝える御使いについて』第4巻第4章4項[SCh 255, 66].
(99)レオン・デオン『イエスのみこころに依拠する司祭の霊的名簿』トゥルンハウト、1936年の第2章および第7章の141項を参照のこと。
(100)フィオーリ・M・カルメラス編 神の御摂理についての対話 75項、バーリ、1928 年、144頁
101 例えば、アンジェルス・ウォルツ『説教者修道会[ドミニコ会]におけるイエスのみこころに対
する神聖なる崇拝について』教皇庁立アンジェリクム大学、ローマ、1937 年を参照のこと
102)ラファエル・グラシャ・ヘレロス『ジャン・ユードの生涯』ボゴタ、1943年、42頁
103 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1610年4月
24日付
104 聖フランソア・ド・サル司教「四旬節第2主日の説教 1622年2月20日付
105 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1612年の主
の昇天の祭日付
106 聖フランソア・ド・サル司教「マリー・エメ・ド・ブロネへの手紙 1618年2月18日付
107 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1609年11
月下旬付
108 聖フランソア・ド・サル司教「ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1610年2月
25日頃。
109)聖フランソア・ド・サル司教『公式発言記録』14巻に収載されている 修道生活者の簡素さと慎
重さについて
[110] 聖フランソア・ド・サル司教 ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタルへの手紙 1611年6月10
日付
111 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 53項
112 同上。
113 同上、55項。
114 教皇庁教理省『超自然的とされる現象をめぐる新しい規則』[訳註; 疑惑を伴う超自然現象の識別を
推進するための規則 とも訳せる]2024年5月17日付 第I部A12項を参照のこと。
115 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 92項
116 聖マルグリット・マリ ・アラコック スール・ド・ラ・バルジュへの手紙 1689年10月22日付
60
117 聖マルグリット・マリ ・アラコック 自叙伝 53項
118 同上、55項
119 クロード・ド・ラ・コロンビエール『神への信頼に関する説教 (『全集』第5テクスト リヨン
・ペリス、1854年 100頁。
120 クロード・ド・ラ・コロンビエール ロンドンでの霊操 1677年2月1日~8日)」(『全集』第7テ
クスト)アヴィニョン・セガン、1832年、93頁
121 クロード・ド・ラ・コロンビエール「リヨンでの霊操 1674年10月~11月)(『全集』)同上
、45頁
122 聖シャール・ド・フーコー ボンディ夫人への手紙 1897年4月27日付
123)同 ボンディ夫人への手紙 1901年4月28日付 同「ボンディ夫人への手紙 1909年4月5日付を参
照のこと:「あなたを通して、私は聖体、祝福、みこころの礼拝を知るようになりました」。
124)同 ボンディ夫人への手紙 1890 年 4 月 7 日付
125)同 ユヴラン修道院への手紙 1892 年 6 月 27 日付
126)同『古代の聖書の瞑想』(1896-1897年 第30章1-21項
127)同 ラベ・ユヴェランへの手紙 1900 年 5 月 16 日付
128)同 日記 1906 年 5 月 17 日付
129)同 ゲラン夫人への手紙 67項 1888年11月18日付
130)幼いイエスの聖テレーズ セリーヌへの手紙 122項、1890年10月14日付
131 同 詩23番 イエスのみこころに」1895年6月または10月。
132 同 モーリス・ベリエール師への手紙 247項、1897年6月21日。
133 同 最後の会話 黄色いノート』に収載されています 1897年7月11日付 6頁
134 同「みこころのマリー修道女への手紙 197項、1896年9月17日付。これは、聖テレーズがキリス
トの苦しみに同調するために犠牲、悲しみ、悩みを捧げなかったという意味ではなく、結局のところ、彼
女はこれらの捧げものに対して本来持っていない重要性を与えないように気を配っていたという意味です

135 同 セリーヌへの手紙 142項、1893 年 7 月 6 日付
136 同 レオニーへの手紙 191項、1896 年 7 月 12 日付
137 同 ローラン師への手紙 226項、1897 年 5 月 9 日付
138 同 モーリス・ベリエール修道院への手紙 258項、1897 年 7 月 18 日付
139 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操』第104番を参照のこと
140 同上、第297番
141 聖ピエール・ファーベル イグナティウス・デ・ロヨラへの手紙 1541 年 1 月 23 日付
142 ホアン・アルフォンソ・デ・ポランコ『イグナチオ師の生涯とイエズス会のはじまり』の8項や96
項を参照のこと。
61
143 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操 第54番
144 同上 第230番以下
145 イエズス会第33総会における教令46 1項(『報告集』第2巻)イエズス会研究所、フィレン
ツェ、1893年 511頁
146)ピーター・ファン・ベック総長 キリストのみに私たちの希望があります——キリストのみこころ
に関するテクスト セントルイス、1984年。
147)教皇聖ヨハネ・パウロ2世 イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル、1986年10月5日付
(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1986年10月6日、7頁
148 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話 貧しさ について 1655年8月13日付
149 「苦行、書簡、食事、旅( 共通規則 第24 27条)」愛徳姉妹会総会、1657年12月9日付
150 聖ダニエル・コンボニ『覚え書き』ボローニャ、1991年、998頁 第3324番)。
151 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 列聖ミサの説教 2003年5月18日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2003年5月19 20日 6頁)。
152 教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』(1980年11月30日付)1項(AAS 72
[1980]1219).
153 同 カテケーシス 1979年6月20日付)(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1979年6月22日、1
頁)
154 イエスのみこころのコンボニア宣教師会 生活の規則 3項
155 聖心会『会憲』1982年 7項
156 教皇ピウス11世回勅『慈悲の心で救う者』(1928年5月8日)(AAS 20 [1928]174)。
157 信者の信仰行為の目的は、単に教義が提示されるだけでなく、神との一致でもある。キリスト自
身、その神的ないのちの現実において生きておられたのである」(聖トマス・アクィナス『神学大全』IIII、q. 1、a. 2、ad 2; q. 4、a. 1 を参照のこと
158 教皇ピウス 11 世回勅『慈悲深い贖い主』(1928 年 5 月 8 日)(AAS 20[1928 ]174)。
159)教皇フランシスコ 聖香油ミサ説教 2024 年 3 月 28 日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙
』2024 年 3 月 28 日、2 頁)
160 聖イグナチオ デ・ロヨラ 霊操 第203番
161)教皇フラシスコ 聖香油ミサ説教 2024 年 3 月 28 日(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024
年 3 月 28 日、2 頁)
162 聖マルグリット・マリー・アラコック 自叙伝 55項。
163 聖マルグリット・マリー・アラコック クロワゼ師への手紙 133項
164 聖マルグリット・マリー・アラコック『自叙伝』92項。
165 教皇レオ13世回勅『聖なる年』 (1899 年 5 月 25 日付)(ASS 31[1898-1899]649)。
166 ユリアヌス皇帝『ガラテアのアルサシウス司教宛ての書簡49』マインツ、1828年 90-91頁
167 同上。
168 教皇庁教理省宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』(2024 年 4 月 2 日付)19項(『オッセルバト
ーレ・ロマーノ紙』2024 年 4 月 8 日
169 教皇ベネディクト16世 回勅 ハウリエ ティス・アクアス』発布50周年を記念してイエズス会総長
に宛てた書簡 (2006年5月15日付)(AAS 98[2006]461).
170 オリゲネス『説教』第12章第1節[PG 12,657].
171 聖アンブロジウス『書簡』29 第24項[PL 16,1060].
172)マリウス・ヴィクトリヌス『アリウス派駁論』第 1章第8節[PL 8,1044].
173)聖アウグスティヌス「講話」(『ヨハネ福音書註解』第32章第4節)[PL 35,1643]。
174 聖アウグスティヌス『福音記者ヨハネについての註釈』第7章に関する第五の講話。
175 教皇ピウス 12 世回勅『ハウリエーティス・アクアス( Haurietis Aquas)』(1956 年 5 月 15 日付)(AAS 48[1956]321).
176 教皇聖ヨハネ パウロ 2 世回勅『贖い主の母( Redemptoris Mater)』(1987 年 3 月 25 日付)38項(AAS 79[1987]411).
177 第二バチカン公会議『教会憲章(Lumen Gentium)』62項
178 同上、60項
179 聖ベルナルドゥス『雅歌についての説教』第20章4節[PL 183,869]。
180 聖フランソワ・ド・サル司教 信心生活入門』第3部第35章
181 聖フランソワ・ド・サル司教「聖霊降臨後の第 17 主日の説教
182)聖シャール・ド・フーコー『霊的著述』パリ 1947年 67頁
183 1902年3月19日以降、聖シャール・ド・フーコーの手紙はすべて、十字架を載せた心臓の印を伴った「イエス-カリタス」という言葉で始まっています
184 聖シャール・ド・フーコー ラベ・ユヴランへの手紙 1904 年 7 月 15 日付
185 聖シャール・ド・フーコー ドン・マルタンへの手紙 1903 年 1 月 25 日付
186 ルネ・ヴォイヨーム『フーコー師の友愛会』1946 年、173頁 を参照のこと
187 聖シャール・ド・フーコー『15の美徳を備えた仲間たち——ナザレでの1897 1898年』愛徳 (マタイ 13:3)篇、60頁
188 同上 愛徳 (マタ 22:1)篇 90頁
189 アンリ・ユブラン『17世紀の霊的指導者たち パリ、1911年 97頁。
190 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話「病人への奉仕と自らの健康管理について」1657年11月11日付
191 聖ヴァンサン・ド・ポール 宣教者会の共通規則 1658年5月17日、第2章第6節。
192 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 イエズス会総長への手紙 パレ・ル・モニアル、1986年10月5日付
(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙 1986年10月6日 7頁
193 教皇聖ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『和解と記憶』(1984年12月2日付 16項(AAS77[1985]215).
63
194)教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅 社会的関心(Sollicitudo Rei Socialis)』(1987 年 12 月 30 日付)36項(AAS 80 [1988]561-562).
195 教皇聖ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題——教会と社会の百年をふりかって(CentesimusAnnus)』 (1991 年 5 月 1 日付)41項(AAS 83[1991]844-845)。
196 カトリック教会のカテキズム 1888 年版
197 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 カテケーシス」1994 年 6 月 8 日付、2項(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1994 年 5 月 4 日、5頁
198)教皇フランシスコ 国際コロキウム 修復不可能なものの修復 参加者への演説 パレ・ル・モニアルにおけるイエス出現350周年記念、2024年5月4日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年5月
4日、12頁)。
199 同上
200 教皇フランシスコ「サンタ・マルタの家での朝のミサにおける説教 2018年3月6日付 オッセルバトーレ・ロマーノ 2018年3月5-6日、8頁
201 教皇フランシスコ「国際コロキウム 修復不可能なものの修復 参加者への演説 パレ・ル・モニアルにおけるイエス出現350周年記念、2024年5月4日付( オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年5月4
日、12頁
202 教皇フランシスコ「聖香油ミサの説教 2024年3月28日付( オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2024年3月28日、2頁
203 同上
204 同上
205 教皇フランシスコ回勅 ラウダート・シ 2015年5月24日付、80項(AAS 107[2015]879).
206 カトリック教会のカテキズム 1085項
207 同上 268項
208 リジューの聖テレーズ『自叙伝』53頁。
209 リジューの聖テレーズ『手稿A 』84項
210 同上。
211 同上。
212 リジューの聖テレーズ『手稿A 』83項。1897年5月9日付の ルーランド師宛の手紙 第226番も参照のこと
213 リジューの聖テレーズ 慈悲深い愛への奉納 1895年6月9日付 第2部第2項
214 リジューの聖テレーズ『手稿B』3項 [訳註;1896年9月13日から16日にかけて、リジューのカルメル会修道女みこころのマリー(聖テレーズの長姉、代母)に向けて書かれたものであり、心の内を物語る親密な手紙です]。
215 リジューの聖テレーズ レオニーへの手紙 186項、1896 年 4 月 11 日付
216 リジューの聖テレーズ ベリエール修道院への手紙 258項、1897 年 7 月 18 日付
217 教皇ピウス 11 世回勅『最もいつくしみ深い救い主』1928 年 5 月 8 日付(AAS20[1928]169).
218 同上(AAS 20[1928]172).
219 教皇聖ヨハネ・パウロ 2 世 カテケ シス 1979 年 6 月 20 日付( オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙』1979 年 6 月 22 日、1頁
220 教皇フランシスコ 聖マルタの家のミサでの説教 2014年6月27日付(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2014年6月28日、8頁
221 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 人類がイエスのみこころに奉献されてから100周年を記念するメッセージ ワルシャワ、1999年6月11日 イエスのみこころの祭日) 『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』1999
年6月12日、5頁
222 同上
223 教皇聖ヨハネ・パウロ2世 パレ巡礼に際してのリヨン大司教への手紙——人類がイエスの聖心に奉献されてから100年を記念する教皇庁記念式典の式辞 1999年6月4日付、133項(『オッセルバトーレ
・ロマーノ紙 1999年6月12日、4頁
224 聖ヴァンサン・ド・ポールによる講話「祈りを繰り返し続けるべきこと」1655年8月22日。
225 教皇聖パウロ6世書簡『砂漠における通訳者』(1965年5月25日付 第4項(『奉献生活者提要』ボローニャ ミラノ、2001年、3809番所載)
226 ダンテ・アリギエーリ 神曲——復活篇、新しきいのち』第19章5-6項:「私は宣言します、その価値を考えると、こんなに甘い愛は、もし私の勇気が私を失わなかったら、私は声を上げて他のみんなを
恋に落ちさせるだろうと私に感じさせます」。
227 リジューの聖テレーズ『手稿A』45項

原註(スペイン語)
[1] Buena parte de las reflexiones de este primer capítulo se han dejado inspirar por escritos inéditos del sacerdote
Diego Fares, S.I., que el Señor lo tenga en su santa gloria.
[2] Cf. Homero, Ilíada, 21, 441.
[3] Cf. ibíd., 10, 244.
[4] Cf. Timeo, 65 c-d y 70.
[5] Homilía durante la Santa Misa, Domus Sanctae Marthae (14 octubre 2016): L’Osservatore Romano, ed. semanal en
lengua española (21 octubre 2016), p. 9.
[6] S. Juan Pablo II, Ángelus (2 julio 2000): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (7 julio 2000), p. 1.
[7] Íd., Catequesis (8 junio 1994): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (10 junio 1994), p. 3.
[8] Los demonios, Alianza, Madrid 2011.
[9] Romano Guardini, Religiöse Gestalten in Dostojewskijs Werk. Studien über den Glauben, Grünewald/Schöningh,
Mainz/Paderborn 1989, 236 f.
[10] Karl Rahner, Algunas tesis para la teología del culto al corazón de Jesús, en Escritos de Teología, t. 3, Taurus,
Madrid 1961, 370.
[11] Ibíd., 371.
[12] Byung-Chul Han, El corazón de Heidegger. El concepto de “estado de ánimo” de Martín Heidegger, Herder, Barcelona 2021, 68-69.
[13] Ibíd., 107; cf. 313.
[14] Cf. íd., La agonía del Eros, Herder, Barcelona 2014, 9-11.
[15] Martin Heidegger, Aclaraciones a la poesía de Hölderlin, Alianza, Madrid 2005, 133.
[16] Cf. Michel de Certeau, L’espace du désir ou le «fondement» des Exercices spirituels: Christus 77 (1973), pp. 118-
128.
[17] Itinerarium mentis in Deum, VII, 6, en Obras de San Buenaventura, I, BAC, Madrid 1945, 633.
[18] Proemium in I Sent., q. 3, en Opera Omnia, vol. 1, Ex typographia Colegii S. Bonaventurae, Quaracchi 1882, 13.
[19] S. John Henry Newman, Meditaciones y devociones, Edibesa, Madrid 2007, 310.
[20] Const. past. Gaudium et spes, 82.
[21] Ibíd., 10.
[22] Ibíd., 14.
[23] Cf. Dicasterio para la Doctrina de la Fe, Declaración Dignitas infinita (2 abril 2024), 8: L’Osservatore Romano, ed.
semanal en lengua española (12 abril 2024), p. 7.
[24] Const. past. Gaudium et spes, 26.
[25] S. Juan Pablo II, Ángelus (28 junio 1998): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (3 julio 1998),
p. 1.
[26] Carta enc. Laudato si’ (24 mayo 2015), 83: AAS 107 (2015), 880.
[27] Homilía durante la Santa Misa, Domus Sanctae Marthae (7 junio 2013): L’Osservatore Romano, ed. semanal en
lengua española (14 junio 2013), p. 2.
68
[28] Pío XII, Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 6: AAS 48 (1956), 316.
[29] Pío VI, Constitución Auctorem fidei (28 agosto 1794), 63: DH, 2663.
[30] León XIII, Carta enc. Annum Sacrum (25 mayo 1899): ASS 31 (1898-99), 649.
[31] Ibíd.: « Inest in Sacro Corde symbolum atque expressa imago infinitae Iesu Christi caritatis».
[32] Ángelus (9 junio 2013): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (14 junio 2013), p. 4.
[33] Se comprende así por qué la Iglesia haya prohibido que se coloquen sobre el altar representaciones del solo
corazón de Jesús o de María (cf. Respuesta de la S. Congregación de Ritos al sacerdote Charles Lecoq, P.S.S., 5 abril
1879: Decreta Authentica Congregationis Sacrorum Rituum ex actis ejusdem Collecta, vol. 3, n. 3492, Ex typographia
polyglotta S. C. de Propaganda Fide, Roma 1900, 107-108). Fuera de la Liturgia, “para la devoción privada” ( ibíd.)
puede utilizarse el simbolismo de un corazón como expresión didáctica, figura estética o “emblema” que invita a pensar
en el amor de Cristo, pero se corre el riesgo de tomar el corazón como objeto de adoración o de diálogo espiritual
separadamente de la persona de Cristo. El 31 de marzo de 1887 la Congregación dio otra respuesta semejante ( ibíd., n. 3673, 187).
[34] Conc. Ecum. de Trento, Ses. XXV, Decreto Mandat Sancta Synodus (3 diciembre 1563): DH, 1823.
[35] V Conferencia General del Episcopado Latinoamericano y del Caribe, Documento de Aparecida (29 junio 2007),
259.
[36] Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 11-12: AAS 48 (1956), 323-324.
[37] Ep. 261, 3: PG 32, 972.
[38] In Ioann., Homil. 63, 2: PG 59, 350.
[39] De fide ad Gratianum, lib. 2, cap. 7, 56: PL 16, 594 (ed. 1880).
[40] Enarr. in Ps. 87, 3, en Obras de San Agustín, XXI, Enarraciones sobre los salmos (3°), BAC, Madrid 1956, 274-
275.
[41] Cf. De fide orth. 3, 6.20: PG 94, 1006.1081.
[42] Olegario González de Cardedal, La entraña del cristianismo, Secretariado Trinitario, Salamanca 2010, 70-71.
[43] Ángelus (1 junio 2008): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (6 junio 2008), p. 1.
[44] Pío XII, Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 15: AAS 48 (1956), 327-328.
[45] Ibíd., 28: AAS 48 (1956), 343-344.
[46] Benedicto XVI, Ángelus (1 junio 2008): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (6 junio 2008), p.
1.
[47] Vigilio, Constitución Inter innumeras solicitudines (14 mayo 553): DH, 420.
[48] Conc. Ecum. de Éfeso, Anatematismos de Cirilo de Alejandría, 8: DH, 259.
[49] Conc. Ecum. II de Constantinopla, Ses. 8 (2 junio 553), Canon 9: DH, 431.
[50] Cántico espiritual (A – primera redacción), Canción 22, 4, en S. Juan de la Cruz, Obras completas, Monte Carmelo,
Burgos 2010, 1234.
[51] Ibíd., Canción 12, 8, 1188.
[52] Ibíd., Canción 12, 1, 1184.
[53] «No hay más que un solo Dios, el Padre, de quien todo procede y a quien nosotros estamos destinados» ( 1
Co 8,6). «A Dios, nuestro Padre, sea la gloria por los siglos de los siglos. Amén» ( Flp 4,20). «Bendito sea Dios, el
Padre de nuestro Señor Jesucristo, Padre de las misericordias y Dios de todo consuelo» ( 2 Co 1,3).
[54] Carta ap. Tertio millennio adveniente (10 noviembre 1994), 49: AAS 87 (1995), 35.
[55] In Ep. ad Rom., 7: PG 5, 694.
[56] «Que el mundo sepa que yo amo al Padre» ( Jn 14,31). «El Padre y yo somos una sola cosa» ( Jn 10,30). «¿No
crees que yo estoy en el Padre y que el Padre está en mí?» ( Jn 14,10).
69
[57] «Voy al Padre» ( pros ton Patéra: Jn 16,28). «Yo vuelvo a ti» ( pros se: Jn 17,11).
[58] « Eis ton kolpon tou Patrós».
[59] Adv. Haer. III, 18, 1: PG 7, 932.
[60] In Ioann. II, 2: PG 14, 110.
[61] Ángelus (23 junio 2002): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (28 junio 2002), p. 1.
[62] S. Juan Pablo II, Mensaje con motivo del centenario de la consagración del género humano al Sagrado Corazón
realizada por León XIII, Varsovia (11 junio 1999): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (2 julio
1999), p. 7.
[63] Íd., Ángelus (8 junio 1986), 4: L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (15 junio 1986), pp. 1 y 4.
[64] Homilía, Visita al Policlínico Gemelli y a la Facultad de Medicina de la Università Cattolica del Sacro Cuore (27
junio 2014): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (4 julio 2014), p. 11.
[65] Cf. Ef 1,5.7; 2,18; 3,12.
[66] Cf. Ef 2,5.6; 4,15.
[67] Cf. Ef 1,3.4.6.7.11.13.15; 2,10.13.21.22; 3,6.11.21.
[68] Mensaje con motivo del centenario de la consagración del género humano al Sagrado Corazón realizada por León
XIII, Varsovia (11 junio 1999): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (2 julio 1999), p. 6.
[69] «Puesto que el Sagrado Corazón es el símbolo y la imagen expresa de la caridad infinita de Jesucristo, caridad
que nos incita a devolverle amor por amor, es natural que nos consagremos a este corazón tan santo. Obrar así, es
darse y unirse a Jesucristo […]. Hoy, tenemos aquí otro emblema bendito y divino que se ofrece a nuestros ojos: Es el
Corazón sacratísimo de Jesús, sobre el que se levanta la cruz, y que brilla con un magnífico resplandor rodeado de
llamas. En él debemos poner todas nuestras esperanzas; tenemos que pedirle y esperar de él la salvación de los
hombres». León XIII, Carta enc. Annum Sacrum (25 mayo 1899): ASS 31 (1898-99), 649, 651.
[70] «En este faustísimo signo y en esta forma de devoción consiguiente, ¿no es verdad que se contiene la suma de
toda la religión y aun la norma de vida más perfecta, como que más expeditamente conduce los ánimos a conocer
íntimamente a Cristo Señor Nuestro, y los impulsa a amarlo más vehementemente, y a imitarlo con más eficacia?». Pío
XI, Carta enc. Miserentissimus Redemptor (8 mayo 1928), 3: AAS 20 (1928), 167.
[71] «Es el acto de religión por excelencia, esto es, una plena y absoluta voluntad de entregarnos y consagrarnos al
amor del Divino Redentor, cuya señal y símbolo más viviente es su Corazón traspasado. […] En él podemos considerar
no sólo el símbolo, sino también, en cierto modo, la síntesis de todo el misterio de nuestra Redención. […] Jesucristo
expresamente y en repetidas veces mostró su Corazón como el símbolo más apto para estimular a los hombres al
conocimiento y a la estima de su amor; y al mismo tiempo lo constituyó como señal y prenda de su misericordia y de su
gracia para las necesidades espirituales de la Iglesia en los tiempos modernos». Pío XII, Carta enc. Haurietis aquas (15
mayo 1956), 2, 24, 26: AAS 48 (1956), 311, 336, 340.
[72] Catequesis (8 junio 1994), 2: L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (10 junio 1994), p. 3.
[73] Ángelus (1 junio 2008): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (6 junio 2008), p. 1.
[74] Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 28: AAS 48 (1956), 344.
[75] Cf. ibíd., 24: AAS 48 (1956), 336.
[76] «El valor de las revelaciones privadas es esencialmente diferente al de la única revelación pública: ésta exige
nuestra fe […]. Una revelación privada […] es una ayuda que se ofrece pero que no es obligatorio usarla». Benedicto
XVI, Exhort. ap. Verbum Domini (30 septiembre 2010), 14: AAS 102 (2010), 696.
[77] Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 26: AAS 48 (1956), 340.
[78] Ibíd., 28: AAS 48 (1956), 344.
[79] Ibíd.
[80] Exhort. ap. C’est la confiance (15 octubre 2023), 20: L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (20
octubre 2023), p. 4.
[81] Ms A, 83vº, en Santa Teresa del Niño Jesús y de la Santa Faz, Obras completas, Monte Carmelo, Burgos 2006,
70
245.
[82] S. María Faustina Kowalska, Diario, 47 (22 febrero 1931), Marian Press, Stockbridge 2012, 46.
[83] Cf. Mišna Sukkâ IV, 5.9.
[84] Carta al Prepósito general de la Compañía de Jesús, Paray-le-Monial (5 octubre 1986): L’Osservatore Romano, ed.
semanal en lengua española (19 octubre 1986), p. 4.
[85] Acta de los mártires de Lyon, en Eusebio de Cesarea, Historia eclesiástica, libro 5, c. 1, 22, BAC, Madrid 2008,
272.
[86] Rufino, libro 5, c. 1, 22: GCS 9/1, Eusebius, II, 1, 411.
[87] S. Justino, Dial. 135: PG 6, 787.
[88] Novaciano, De Trinitate, 29: PL 3, 944. Cf. S. Gregorio de Elvira, en Tractatus Origenis de libris Sanctarum
Scripturarum, XX, 12: CCSL 69, 144.
[89] S. Ambrosio, Expl. Ps. I, 33: PL 14, 983-984.
[90] Cf. Tract. in Ioann. 61, 6, en Obras de San Agustín, XIV, Tratados sobre el Evangelio de san Juan (36-124), BAC,
Madrid 1957, 339.
[91] Carta 3, A Rufino, 4, en S. Jerónimo, Obras completas, Xa, Epistolario I, BAC, Madrid 2013, 18-19.
[92] Sermón 61, 4, en S. Bernardo, Obras completas, II, BAC, Madrid 1955, 405.
[93] Cf. Exposición sobre el Cantar de los Cantares, Sígueme, Salamanca 2013, 79.
[94] Guillermo de Saint-Thierry, Acerca de la naturaleza y la dignidad del amor, Sígueme, Salamanca 2023, 13.
[95] Íd., Oraciones meditadas 8, 6, en Carta de oro y oraciones meditadas, Monte Carmelo, Burgos 2013, 232.
[96] S. Buenaventura, Jesucristo, árbol de la vida, 30, en Obras de San Buenaventura, II, BAC, Madrid 1946, 331.
[97] Ibíd.
[98] S. Gertrudis de Helfta, en Revelaciones de Santa Gertrudis la Magna, virgen de la Orden de San Benito,
Monasterio de Santo Domingo de Silos, Burgos 1932, 415.
[99] Léon Dehon, Directoire spirituel des prêtres du Sacré Cœur de Jésus, II, cap. VII, n. 141, Anciens Etablissement
Splichal, Turnhout 1936.
[100] El Diálogo, 75, en Obras de Santa Catalina de Siena, BAC, Madrid 1996, 183.
[101] Cf. Por ejemplo: Angelus Walz, De veneratione divini cordis Iesu in Ordine Praedicatorum, Pontificium Institutum
Angelicum, Roma 1937.
[102] Rafael García Herreros, San Juan Eudes, Imprenta Olivieres y Domínguez, Bogotá 1943, 42.
[103] Carta a santa Juana Francisca de Chantal (24 abril 1610), en Œuvres de Saint François de Sales, t. 14, Cartas,
vol. 4, Monastère de la Visitation, Annecy 1906, 289.
[104] Sermón en el segundo domingo de Cuaresma (20 febrero 1622), en Œuvres de Saint François de Sales, t. 10,
Sermones, vol. 4, Niérat, Annecy 1898, 243-244.
[105] Carta a santa Juana Francisca de Chantal (31 mayo 1612), en Œuvres de Saint François de Sales, t. 15, Cartas,
vol. 5, Monastère de la Visitation, Annecy 1908, 221.
[106] Carta a Marie Aimée de Blonay (18 febrero 1618), en Œuvres de Saint François de Sales, t. 18, Cartas, vol. 8,
Monastère de la Visitation, Annecy 1912, 170-171.
[107] Carta a santa Juana Francisca de Chantal (fines de noviembre 1609), en Œuvres de Saint François de Sales, t.
14, 214.
[108] Ibíd. (aprox. 25 febrero 1610), 253.
[109] Entretenimientos espirituales 12. Sobre la sencillez y la prudencia religiosas, en Œuvres de Saint François de
Sales, t. 6, Niérat, Annecy 1895, 217.
71
[110] Carta a santa Juana Francisca de Chantal (10 junio 1611), en Œuvres de Saint François de Sales, t. 15, 63.
[111] S. Margarita María Alacoque, Autobiografía, c. IV, El Mensajero, Bilbao 1890, 106-107.
[112] Ibíd., 106.
[113] Ibíd., c. V, 114.
[114] Cf. Dicasterio para la Doctrina de la Fe, Normas para proceder en el discernimiento de presuntos fenómenos
sobrenaturales (17 mayo 2024), Presentación – Motivos para la nueva redacción de las Normas; I, A, 12.
[115] Autobiografía, c. VIII, 187.
[116] S. Margarita María Alacoque, Carta 110, A la Hermana de la Barge, Moulins (22 octubre 1689), en Vida y Obras
completas, El Mensajero del Corazón de Jesús, Bilbao 1948, 400.
[117] Íd., Autobiografía, c. IV, 107.
[118] Ibíd., c. V, 114-115.
[119] S. Claudio de La Colombière, Acto de confianza, en Escritos Espirituales del beato Claudio de La Colombière,
S.J., Mensajero, Bilbao 1979, 110.
[120] Ibíd., Ejercicios espirituales en Londres (1-8 febrero 1677), 11, Devoción al Sagrado Corazón, 103-104.
[121] Ibíd., Ejercicios espirituales en Lyon (oct.-nov. 1674), Tercera Semana, 2, Prendimiento de Jesucristo, 71.
[122] Cf. Carta a Madame de Bondy (27 abril 1897), en Écrits spirituels, De Gigord, París 1923, 79.
[123] Carta a Madame de Bondy (15 abril 1901), en Lettres à Madame de Bondy. De la Trappe à Tamanrasset, Desclée
de Brouwer, París 1966, 83. Cf. ibíd. (abril 1909), 180: «Por ti conocí las exposiciones del Santísimo, las bendiciones y
el Sagrado Corazón».
[124] Carta a Madame de Bondy (7 abril 1890), en Lettres à Madame de Bondy, 30.
[125] Carta al abate Huvelin (27 junio 1892), en C. Foucauld – H. Huvelin, Correspondance inédite, Desclée de Brouwer, Tournai 1957, 22.
[126] Méditations sur Ancien Testament, Roma 1896.
[127] Carta al abate Huvelin (16 mayo 1900), en C. Foucauld – H. Huvelin, Correspondance inédite, 156.
[128] Diario (17 mayo 1906).
[129] Cta 67, A la señora de Guérin (18 noviembre 1888), 391.
[130] Cta 122, A Celina (14 octubre 1890), 449.
[131] Poesía 23, Al Sagrado Corazón de Jesús (21 junio u octubre 1895), 679-680.
[132] Cta 247, Al abate Bellière (21 junio 1897), 601.
[133] Últimas conversaciones. Cuaderno amarillo (11 julio 1897), 833.
[134] Cta 197, A sor María del Sagrado Corazón (17 septiembre 1896), 554-555. Esto no significa que santa Teresa del
Niño Jesús no ofreciera sacrificios, dolores, angustias como un modo de asociarse al sufrimiento de Cristo, pero
cuando quería ir al fondo se preocupaba por no dar a estos ofrecimientos una importancia que no tienen.
[135] Cta 142, A Celina (6 julio 1893), 476.
[136] Cta 191, A Leonia (12 julio 1896), 545.
[137] Cta 226, Al P. Roulland (9 mayo 1897), 587.
[138] Cta 258, Al abate Bellière (18 julio 1897), 611.
[139] S. Ignacio de Loyola, Ejercicios espirituales, 104.
[140] Ibíd., 297.
[141] Cf. Carta a Ignacio de Loyola (23 enero 1541), en Lettres et instructions, Lessius, Namur 2017, 84.
72
[142] Vida de Ignacio de Loyola, c. 8, 96, Mensajero-Sal Terrae, Bilbao-Santander 2021, 147.
[143] Ejercicios espirituales, 54.
[144] Cf. ibíd., 230 ss.
[145] XXIII Congregación General de la Compañía de Jesús, Decreto 46, 1: Institutum Societatis Iesu, 2, Florencia
1893, 511.
[146] En Él solo… la esperanza, Secretariado General del Apostolado de la Oración, Roma 1982, 180.
[147] Carta al Prepósito general de la Compañía de Jesús, Paray-le-Monial (5 octubre 1986): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (19 octubre 1986), p. 4.
[148] Conferencias a los Misioneros. La pobreza, 55 (13 agosto 1655), en S. Vicente de Paúl, Obras completas, t. 11/3,
Sígueme, Salamanca 1974 , 156.
[149] Conferencias a las Hijas de la Caridad. Mortificación, correspondencia, comidas, salidas (Reglas comunes, arts.
24-27), 89 (9 diciembre 1657), t. 9/2, 974.
[150] S. Daniel Comboni, Carta pastoral para la Consagración del Vicariato al Sagrado Corazón, El-Obeid (1 agosto
1873), en Escritos, 515 (485), 3324.
[151] Cf. Homilía durante la Santa Misa de canonización (18 mayo 2003): L’Osservatore Romano, ed. semanal en
lengua española (23 mayo 2003), p. 5.
[152] Carta enc. Dives in misericordia (30 noviembre 1980), 13: AAS 72 (1980), 1219.
[153] Catequesis (20 junio 1979): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (24 junio 1979), p. 3.
[154] Misioneros Combonianos del Corazón de Jesús, Regla de Vida. Constituciones y Directorio General, Roma
1988, 3.
[155] Religiosas del Sagrado Corazón de Jesús (Sociedad del Sagrado Corazón), Constituciones 1982, 7.
[156] Carta enc. Miserentissimus Redemptor (8 mayo 1928), 10: AAS 20 (1928), 174.
[157] Cuando se ejercita la fe, referida a Cristo, el alma accede no sólo a unos recuerdos, sino a la realidad de su vida
divina (cf. S. Tomás de Aquino, Summa Theologiae, II-II, q. 1, a. 2, ad 2; q. 4, a. 1).
[158] Pío XI, Carta enc. Miserentissimus Redemptor (8 mayo 1928), 10: AAS 20 (1928), 174.
[159] Homilía en la Misa Crismal (28 marzo 2024): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (29 marzo
2024), pp. 4-5.
[160] S. Ignacio de Loyola, Ejercicios espirituales, 203.
[161] Homilía en la Misa Crismal (28 marzo 2024): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (29 marzo
2024), p. 4.
[162] S. Margarita María Alacoque, Autobiografía, c. V, 115.
[163] Íd., Carta 133 (3 noviembre 1689), Al P. Croiset, en Vida y Obras completas, 464.
[164] Íd., Autobiografía, c. VIII, 187.
[165] Carta enc. Annum Sacrum (25 mayo 1899): ASS 31 (1898-99), 649.
[166] Juliano, Carta a Arsacio, sumo sacerdote de Galacia, Antioquía (invierno de 362-363): Boletín del Instituto de
Estudios Helénicos, 5 (1971), p. 94.
[167] Ibíd., pp. 93-94.
[168] Dicasterio para la Doctrina de la Fe, Declaración Dignitas infinita (2 abril 2024), 19: L’Osservatore Romano, ed.
semanal en lengua española (12 abril 2024), p. 9.
[169] Cf. Benedicto XVI, Carta al Prepósito general de la Compañía de Jesús, con motivo del 50° aniversario de la
encíclica Haurietis aquas (15 mayo 2006): AAS 98 (2006), 461.
[170] In Num., Homil. 12, 1: PG 12, 657.
73
[171] Ep. 29, 24: PL 16, 1060.
[172] Adv. Arium 1, 8: PL 8, 1044.
[173] Cf. Tract. in Ioann. 32, 4, en Obras de San Agustín, XIII, Tratados sobre el Evangelio de san Juan (1-35), BAC,
Madrid 1955, 749.
[174] Expos. in Ev. S. Ioannis, cap. 7, lectio 5.
[175] Pío XII, Carta enc. Haurietis aquas (15 mayo 1956), 26: AAS 48 (1956), 321.
[176] S. Juan Pablo II, Carta enc. Redemptoris Mater (25 marzo 1987), 38: AAS 79 (1987), 411.
[177] Conc. Ecum. Vat. II, Const. dogm. Lumen gentium, 62.
[178] Ibíd., 60.
[179] Sermón 20, 4, en S. Bernardo, Obras completas, II, 122.
[180] Introducción a la vida devota, III, c. 35, en Obras selectas, BAC, Madrid 2010, 186-187.
[181] Sermón en el domingo XVII después de Pentecostés (30 septiembre 1618), en Œuvres de Saint François de
Sales, t. 9, Sermones, vol. 3, Niérat, Annecy 1897, 200-201.
[182] Retiro hecho en Nazaret del 5 al 15 de noviembre de 1897. Jesús en su pasión, en Escritos espirituales, Studium,
Madrid 1964, 58.
[183] Desde el 19 de marzo de 1902 todas sus cartas están encabezadas con las palabras Iesus Caritas, separadas
por un corazón coronado por una cruz.
[184] Carta al abate Huvelin (15 julio 1904), en C. Foucauld – H. Huvelin, Correspondance inédite, 211.
[185] Carta a dom Martin (25 enero 1903), en Cahiers Charles de Foucauld, vol. 2, 154.
[186] Anexo VI en René Voillaume, Les fraternités du Père de Foucauld, Cerf, París 1946, 173.
[187] Méditations des saints Évangiles sur les passages relatifs à quinze vertus (Nazaret 1897-
1898), Charité 77 ( Mt 20,28), en C. Foucauld, Aux plus petits de mes frères, Nouvelle Cité, París 1973, 82.
[188] Ibíd., Charité 90 ( Mt 27,30), 95.
[189] Quelques directeurs d’âmes au XVII siècle, Libraire Victor Lecoffre J. Gabalda, París 1911, 97.
[190] Conferencias a las Hijas de la Caridad. Servicio de los enfermos, cuidado de la propia salud (Reglas comunes,
arts. 12-16), 85 (11 noviembre 1657), t. 9/2, 917.
[191] Reglas comunes de la Congregación de la Misión, c. 2, 6 (17 mayo 1658), t. 10, 470.
[192] Carta al Prepósito general de la Compañía de Jesús, Paray-le-Monial (5 octubre 1986): L’Osservatore
Romano, ed. semanal en lengua española (19 octubre 1986), p. 4.
[193] S. Juan Pablo II, Exhort. ap. postsin. Reconciliatio et Paenitentia (2 diciembre 1984), 16: AAS 77 (1985), 215.
[194] Cf. Carta enc. Sollicitudo rei socialis (30 diciembre 1987), 36: AAS 80 (1988), 561-562.
[195] Carta enc. Centesimus annus (1 mayo 1991), 41: AAS 83 (1991), 844-845.
[196] Catecismo de la Iglesia Católica, 1888.
[197] Cf. Catequesis (8 junio 1994), 2: L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (10 junio 1994), p. 3.
[198] Discurso a los participantes del Coloquio internacional “Réparer l´irréparable”, en el 350 aniversario de las
apariciones de Jesús en Paray-le-Monial (4 mayo 2024): L’Osservatore Romano (4 mayo 2024), p. 12.
[199] Ibíd.
[200] Homilía durante la Santa Misa, Domus Sanctae Marthae (6 marzo 2018): L’Osservatore Romano, ed. semanal en
lengua española (16 marzo 2018), p. 10.
[201] Discurso a los participantes del Coloquio internacional “Réparer l´irréparable”, en el 350 aniversario de las
apariciones de Jesús en Paray-le-Monial (4 mayo 2024): L’Osservatore Romano (4 mayo 2024), p. 12.
74
[202] Homilía en la Misa Crismal (28 marzo 2024): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (29 marzo
2024), p. 5.
[203] Ibíd.
[204] Ibíd.
[205] Carta enc. Laudato si’ (24 mayo 2015), 80: AAS 107 (2015), 879.
[206] Catecismo de la Iglesia Católica, 1085.
[207] Ibíd., 268.
[208] Autobiografía, c. IV, 107.
[209] Ms A, 84 r°, 246.
[210] Ibíd.
[211] Ibíd.
[212] Ms A, 83v°, 245; cf. Cta 226, Al P. Roulland (9 mayo 1897), 585-589.
[213] Oración 6, Ofrenda de mí misma como víctima de holocausto al amor misericordioso de Dios (9 junio 1895), 759.
[214] Ms B, 3vº, 261.
[215] Cta 186, A Leonia (11 abril 1896), 538.
[216] Cta 258, Al abate Bellière (18 julio 1897), 611.
[217] Pío XI, Carta enc. Miserentissimus Redemptor (8 mayo 1928), 5: AAS 20 (1928), 169.
[218] Ibíd., 8: AAS 20 (1928), 172.
[219] S. Juan Pablo II, Catequesis (20 junio 1979): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (24 junio
1979), p. 3.
[220] Homilía durante la Santa Misa, Domus Sanctae Marthae (27 junio 2014): L’Osservatore Romano, ed. semanal en
lengua española (4 julio 2014), p. 10.
[221] Mensaje con motivo del centenario de la consagración del género humano al Sagrado Corazón realizada por
León XIII, Varsovia (11 junio 1999): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (2 julio 1999), p. 6.
[222] Ibíd.
[223] Carta a Mons. Louis-Marie Billé, Arzobispo de Lyon, con motivo de la peregrinación a Paray-le-Monial (4 junio
1999): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (2 julio 1999), p. 7.
[224] Conferencias. Repetición de la oración (22 agosto 1655), 58, t. 11/3, 190.
[225] Carta Diserti interpretes (25 mayo 1965), 4, en Francisco Cerro Chaves y Víctor Castaño Moraga
[eds.], Encíclicas y Documentos de los Papas sobre el Corazón de Jesús, Monte Carmelo, Burgos 2009, 141.
[226] Vita Nuova XIX, 5-6.
[227] Ms A, 45 v°, 166.

La Santa Sedeのサイトから個人的に翻訳しました;スペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英、2024年10月24日から10月31日にかけて参照しました; Dilexit nos (24 de octubre de 2024) |
Francisc

2025年1月4日

(評論)なぜ教皇フランシスコは、新回勅『Dilexit nos』 のテーマに「聖心」を選んだのか(La Croix)

(2024.10.25 La Croix    Mikael Corre (with Matthieu Lasserre)

 聖心への献身に捧げられた新回勅“Dilexit nos” で、教皇フランシスコは、ピオ11世とピオ12世の両教皇の現代思想に対する批判を繰り返し述べている。これは、カトリック思想のある種の「過ち」を批判する機会にもなるようだ。

 ではな。。教皇は、現在強い関心を持たれているはずの社会問題から離れて、彼の4番目の回勅を古代の献身であるイエスの聖心に捧げることを選んだのだろうか?

 前任のベネディクト16世教皇が神学的美徳(希望、慈善、信仰)に関する三部作を完成させるために作成したテキストを引き継いだ『Lumen fidei』(2013年)に続き、教皇フランシスコの次の2つの回勅は『Laudato si’』(2015年)で環境に焦点を当て、『Fratelli tutti』(2020年)ではポピュリズムと戦争に反対する友愛に焦点を当てた。そして、10月24日に出した新回勅「Dilexit nos」(「彼は私たちを愛した」)で、教皇は、自身が批判する近代性に対する精神的な解毒剤を提供したのだ。

 「飽くなき消費者」「表面的な満足感」「強迫観念」、戦争、合理主義、人工知能、そして「標準化された思考」…この回勅の4ページに1ページには、文化的、科学的、地政学的、経済的に近代性を否定的に描写する箇所が出てくる。だが、イエスの聖心への献身とは何の関係があるのだろうか?

 19世紀には、イタリアの神学者エンリコ・カッタネオが指摘したように、この霊性は、教会内と現代世界との関係の両方で「無神論的で反聖職者の文化を煽る広範な合理主義的メンタリティに対する障壁」として機能した、と、イエズス会は2022年のLa Civiltà Cattolicaの記事で明確に述べた。教皇フランシスコは、「聖心への献身が再び信仰を救うことができる」と信じているようだ。

 教皇はしばしば、前任者から離脱し、あるいは「左派の教皇」として評されるが、新回勅ではピオ11世の視点と一致している。ピオ11世は回勅『Miserentissimus Redemptor』で、聖心の饗宴を「神と自然の法に反する人々の法律と運動に対する砦」と表現した。教皇フランシスコは、ピオ12世が聖心に関する回勅『Haurietis aquas』で、「宗教的無関心に汚染された社会」へのこの献身に反対した、その足跡をたどっている。

 だが、新回勅『Dilexit nos』は単なる反近代的な文書ではない。ピウス11世に焦点を当てた論文を書いた現代史の専門家、ファブリス・ブーティヨンは「『恐怖政治』に対抗してVendée (買い手)のシンボルになる前は、聖心は『典型的なイエズス会の信心』であったことを忘れてはなりません」と語っている。

 聖マーガレット・メアリー・アラコックは17世紀にこの信心を始め、彼女はイエズス会士、クロード・ラ・コロンビエール神父を霊的な師としていた。したがって、教フランシスコのイエズス会士としてのアイデンティティが、それに引き戻した可能性がある。さらに、それは伝統的に反ジャンセニストの献身でもあり、復讐ではなく、愛の神を強調してきました。ジャンセニスムは、教皇の権威と、「人間は善行によって救われる」という考えに反対する厳格な運動で。イエズス会は17世紀にそれに反対した。

 新回勅『Dilexit nos』の中で、教皇はこのことに5回言及しており、カトリックの知的な過ち、すなわち非妥協性、知性主義、大衆の敬虔さに対する軽蔑との戦いを再開するつもりのようだ。教皇は、大衆の敬虔さに一定の制限を設けた—象徴への崇拝、ドロリズム(一種の厭世主義)、または儀式的な引きこもりを禁じた。それでも、彼の主な批評は 「福音を欠いた(…)構造改革にのみ集中する共同体や司牧者たち 」に焦点を当てているようだ。

 2019年6月29日、教皇フランシスコは、教会における女性の役割拡大と性道徳の改革を求めた”シノドスの””を歩むドイツのカトリック教徒に宛てた書簡で、まさにこれらの言葉を使用っている。シノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)総会の第2会期が終了する4日前に、「イエスの聖心の霊性を再発見する」という呼びかけを発表することによって、教皇フランシスコは、このプロセスを主要な構造改革の機会と見なす人々にメッセージを送っているのかも知れない。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。
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2024年10月26日

☩教皇、新回勅『Dilexit nos』で、「キリストの聖心」が「教会の 時代遅れの仕組み」や「狂信 」の救済策になる、と

(2024.10.24 Crux  Senior Correspondent Elise Ann Allen)

 ローマ 発– 教皇フランシスコは24日発表した、イエス・キリストの人間的かつ神聖な愛をテーマとする新回勅『Dilexit nos』で、キリストの愛の社会的側面と、神との個人的で親密な愛の関係の延長としての他者への思いやりの必要を強調。それが「教会の時代遅れの仕組み」やさまざまな形の「狂信」に対する救済策となる、と説いている。

 今回の回勅は教皇フランシスコにとって、2013年の「信仰の光」、2015年の「ラウダート・シ」、2020年の「兄弟の皆さん」に次ぐ、四つ目の回勅だ。

 この回勅で「あらゆるものが売買される世界では、人々の価値は、ますます金銭の力で蓄積できるものに左右されるようです」とする教皇は、「私たちは常に買い続け、消費し、気を紛らわすよう圧力をかけられ、目先のつまらないニーズを超えて見ることを妨げる屈辱的なシステムに囚われています」と言明。

 「キリストの愛は、この歪んだメカニズムには居場所がない」が、「キリストの愛は、私たちの世界に心を与え、『愛する能力が決定的に失われた』と思われるところなら、どこでも愛を復活させることができるのです」としたうえで、 「教会もこの愛を必要としています。それは、キリストの愛-私たちを解放し、活気づけ、心に喜びをもたらし、コミュニティを築く神の無償の愛-が、時代遅れの構造や懸念、私たち自身の考えや意見への過度の執着、そしてさまざまな形の狂信に取って代わられないようにするためなのです」と強調している。

 5つの章に分かれたこの回勅は、キリスト教の精神性における心のイメージと、キリスト教の精神性の歴史を通じてイエスの心への信仰が発展してきたことについて、長文で考察している。

 教皇は、現代を「皮相的な時代、理由も分からずに次から次へと狂ったように駆け回り、飽くことのない消費者となり、人生のより深い意味に関心のない『市場の仕組み』の奴隷になってしまう時代」と表現し、「心の重要性とそれに伴う象徴性を再発見する必要があります」と説いている。

 心は、「人間の最も深い部分、肉体と魂の中心で、単なる外見を超えた何かを表している、秘密が隠されることのない真実の場所」であり、流動的な現代社会-人々が日々を生きる”連続消費者”となり、慌ただしいペースに支配され、テクノロジーに襲われ、内面の生活に本質的に必要なプロセスに従事するのに必要な忍耐力に欠けてしまう社会―で、人類は再び『心と自省のための場所』を作らねばなりません」と強調。

 そして、「心に焦点を合わせる」行為は、「個人のレベルを超え、国際的な政治、経済の領域にも波及せねばなりません… 私たちのすべての行動は、心の『政治的支配』の下に置かれる必要があります。そうすることで、私たちの攻撃性と強迫的な欲望は、心が提案するより大きな善と、悪に抵抗する心の力の中に安らぎを見出すでしょう」と述べた。

 さらに、「個人主義によって生じた分裂を統合できる場所」として心を強調し、心を失い、「ナルシシズムと自己中心主義に支配された社会は、ますます『無情』になる… そして、『欲望の喪失』につながるでしょう。なぜなら、他の人々が地平線から消えると、私たちは自分自身が作った壁の中に閉じ込められ、もはや健全な関係を築くことができなくなるからです。その結果、私たちは神に対して心を開くこともできなくなります」と警告した。

  また教皇は、この「心に焦点を合わせる」ことの霊的意味合いには、「神との関係の成長と、『異なる心と意志』の一致と和解が含まれます、と指摘した。

 

・・・・・・

 回勅の第2章で、教皇は「聖書に記されているイエス自身の行動と愛の言葉」について振り返り、福音書には「神が親密さ、思いやり、優しい愛であることを示すキリストの言葉や振る舞いが多く出てきます」としたうえで、「嘘や傷害、失望によって傷ついたために他人を信頼することが難しいと感じた場合、主は私たちの耳元で『息子よ、元気を出しなさい!』『娘よ、元気を出しなさい!』とささやきます。主は私たちが恐怖を克服し、主が側にいれば失うものは何もないことに気づくように励ましてくれるのです」と語った。

 そして、「神を信頼しない理由は、絶対にありません… 福音書で、イエスは常に人々の個人的な問題や必要に気を配っています… 誰もが私たちを無視し、私たちの身に何が起ころうと誰も気にかけず、『自分は、誰にとっても重要な存在ではない』と感じるときも、イエスは、私たちのことを気にかけ続けるのです」と述べた。

 さらに、「イエスは、人々の日々の心配や懸念に無関心ではなく、心を動かされ、同情を示し、怒り、悲しみ、喜びさえも示された… 一見すると、このような振る舞いには、『敬虔な感傷主義の匂い』がするかもしれませんが、そうではない。これは、極めて重要な行為であり、十字架にかけられたキリストにその崇高な頂点があるのです」とし、「十字架は、イエスの最も雄弁な愛の表現です。浅薄でも、感傷的でもない。単に啓発的な言葉でもありません。それは愛、純粋な愛なのです」と強調した。

 

・・・・・・・・

 教皇は回勅の第3章で、「イエスの聖心への信仰は、人と神というイエスの人格のすべてを含むもの」と強調。キリストの聖心の像は崇敬されているが、「その人間的かつ神聖な愛に私たちが抱かれるようにされている」と明言した。そして、キリストの愛の人間的および神聖な側面を認めることは、「個人的な出会いと対話の関係」への呼びかけであり、「キリストを神性と人間性の両方で熟考すると、より意味のあるものになります」と述べた。

 教皇は、聖体を「崇拝すべきキリストの真の存在」とし、しばしば私たちの心を覆う憎しみ、利己主義、無関心に対する治療法になる、と指摘。イエスの愛の三位一体の性質を強調し、聖心への信仰に関するご自身以前の教え、レオ13世、ピウス11世、ピウス12世、そして聖ヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世にまで遡る先人の教えを引用した。

 また私たちは、「瞑想、福音書の朗読、霊的成長を通して、自分自身が常に豊​​かにされ、深められ、新たにされる必要があります」とし、キリストの聖心に関する幻視や神秘体験をした、と主張するさまざまな聖人に言及し、「彼らのことを信じるかどうかは、キリスト教徒にとって必須ではないが、霊的生活にとって、非常に有益な励ましの源であり続けています」と語った。

 教皇は、聖体を「キリストの心の慈悲深く、常に存在する愛。信者をキリストとの一体化へと招くもの」とし、「聖体への信仰は、特に現代社会において深める必要があります… 今日の世界の慌ただしい生活のペースと、自分の自由になる時間や、消費と娯楽、携帯電話やソーシャルメディアへの執着の中で、私たちは聖体の力で人生を養うことを忘れている」と述べ。必須ではないが、聖体の崇拝に時間を費やすよう、信者たちに促した。

 また、「イエスの心への信仰は、神の恩寵を強調しながらも、人間の自由意志を否定したジャンセニスムのような”古代の異端”に対する反応。現代の教会は、ジャンセニスムに代わって『神から自由な世界を築こうとする強力な世俗化の波』を受けています… 愛の神との個人的な関係とは、まったく関係のない、肉体のない精神性の新たな顕現であるさまざまな形態の宗教の急増も見られています」と述べている。

 さらに、教会内部でも「有害なジャンセニスト二元論が新たな形で再浮上している」と警告。この傾向は「ここ数十年で新たな勢いを増しているが、これは、肉の救済という現実を認めなかったためにキリスト教初期の数世紀に非常に大きな精神的脅威となったグノーシス主義の再来です」としたうえで、「私は、キリストの心に目を向け、私たち全員にキリストへの信仰を新たにするよう呼びかけます… そうすることは、現代の人々の感受性に訴えかけ、『古い二元論』と『新しい二元論」に立ち向かう助けとなります… キリストの心への献身は、信者を教会共同体や司牧者たちの間での『別の種類の二元論』から解放する」とも述べた。

 また、現代の教会は、「外部活動、福音とはほとんど関係のない構造改革、強迫観念的な再編計画、世俗的なプロジェクト、世俗的な考え方、義務的なプログラムに過度に巻き込まれ、その結果、信仰の優しい慰め、他者に奉仕する喜び、使命に対する個人的な献身の熱意、キリストを知ることの素晴らしさ、キリストが与えてくれる友情から生まれる深い感謝、そしてキリストが私たちの人生に与えてくれる究極の意味を奪われてしまうことが多い」と注意された。

 教皇はこれを「幻想的で、肉体のない別世界」と表現し、「現代に広く見られるこうした態度に屈すると、私たちは、それを治したいという欲求をすべて失う恐れがあります」と​​し、聖心に表されているキリストの愛について改めて考えるよう、教会に促した。

 

・・・・・・・・・

 次の2つ章で教皇は、聖書やさまざまな聖人の著作を引用しながら、「イエスの愛が人類の渇きを癒し、他者の苦境に個人的に関わるもの」であることを振り返った。

 教皇は、「私たちはもう一度、神の言葉を受け入れ、そうすることで、『キリストの心の愛に対する最善の答えは、兄弟姉妹を愛することだ』ということを認識する必要があります。愛に愛を返すのにこれ以上の方法はありません」と述べ、「隣人への愛は、単に私たち自身の努力の成果ではありません。『利己的な心』の変革が必要です」と説いた。

 また、イエスが福音書全体を通して、貧しい人々や疎外された人々に「特別な愛」を示されたことを指摘し、この優先事項が「不利な状況にある人々を世話する組織、団体に命を与えている」とし、このイエスの愛は「罪の構造-社会の発展に影響を与え、単なる利己主義や無関心を正常または合理的とみなす支配的な考え方の一部であることが多い―を拒否するもの」と述べた。

 「道徳的規範だけが、疎外された社会構造に抵抗し、社会における共通の利益を取り戻し、強化する努力を助け導くのではありません。社会構造を修復する義務を課すのは、私たちの心の回心なのです」と訴え、この愛の一部として、償いをし、自分の過ちの赦しを求めることの重要性を強調し、「赦しは、人間関係を癒し、心に触れることを可能にします」、また、良心の呵責に耐えられる心は、「友愛と連帯の中で成長する」と述べた。

 「隣人愛の行為は、放棄、自己否定、苦しみ、努力を伴いますが、キリスト自身の愛によって養われている場合にのみ、愛となります… たとえ小さな慈悲の行為でも、キリストの心を讃え、「その偉大さをすべて示す」ことになる、と指摘した。

 さらに教皇は、「キリスト教徒は、世界に愛をもたらすよう求められています… キリスト教のメッセージは、単に敬虔な考えの避難所や印象的な儀式の機会としてではなく、その全体を体験し、表現したときに、魅力のあるものとなります」としたうえで、「しかし、私たちがキリストとの個人的な関係に満足し、他人の苦しみを和らげたり、より良い生活を送るのを助けたりすることに関心を示さなかったら、キリストにどのような崇拝を捧げることになるのでしょうか」「私たちが個人的な宗教体験に浸りながら、それが私たちが住む社会に与える影響を無視したら、私たちを愛するキリストの心は、喜ぶでしょうか」と問いかけた。

 また教皇は、キリストの心には「宣教的側面」もあり、「キリスト教徒は、キリストとその愛をこの世で証しせねばなりません」とし、自身が先に出した回勅『ラウダート・シ』と『兄弟の皆さん』が「イエス・キリストの愛との出会いと関係している」ことを示していると述べて、「同じ愛を”飲む”ことで、私たちは友愛の絆を築き、各人の尊厳を認識し、共通の家を守るために協力することができるようになるのです」と強調。

 最後に、「私たちが引き起こした傷を癒し、他者を愛し奉仕する私たちの能力を強め、公正で連帯と友愛に満ちた世界に向かって共に旅するよう、私たちを鼓舞する生ける水の流れを、聖心が注ぎ続けてくださいますように」と主に願い求め、回勅を締めくくった。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2024年10月25日

☩回勅『DILEXIT NOS』の公式英語訳全文 

ENCICLICAL LETTER DILEXIT NOS  OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE HUMAN AND DIVINE LOVE OF THE HEART OF JESUS CHRIST

1. “HE LOVED US”, Saint Paul says of Christ (cf. Rom 8:37), in order to make us realize that nothing can ever “separate us” from that love (Rom 8:39). Paul could say this with certainty because Jesus himself had told his disciples, “I have loved you” (Jn 15:9, 12). Even now, the Lord says to us, “I have called you friends” (Jn 15:15). His open heart has gone before us and waits for us, unconditionally, asking only to offer us his love and friendship. For “he loved us first” (cf. 1 Jn 4:10). Because of Jesus, “we have come to know and believe in the love that God has for us” (1 Jn 4:16).

CHAPTER ONE

THE IMPORTANCE OF THE HEART

2. The symbol of the heart has often been used to express the love of Jesus Christ. Some have questioned whether this symbol is still meaningful today. Yet living as we do in an age of superficiality, rushing frenetically from one thing to another without really knowing why, and ending up as insatiable consumers and slaves to the mechanisms of a market unconcerned about the deeper meaning of our lives, all of us need to rediscover the importance of the heart. [1]

WHAT DO WE MEAN BY “THE HEART”?

3. In classical Greek, the word kardía denotes the inmost part of human beings, animals and plants. For Homer, it indicates not only the centre of the body, but also the human soul and spirit. In the Iliad, thoughts and feelings proceed from the heart and are closely bound one to another. [2] The heart appears as the locus of desire and the place where important decisions take shape. [3] In Plato, the heart serves, as it were, to unite the rational and instinctive aspects of the person, since the impulses of both the higher faculties and the passions were thought to pass through the veins that converge in the heart. [4] From ancient times, then, there has been an appreciation of the fact that human beings are not simply a sum of different skills, but a unity of body and soul with a coordinating centre that provides a backdrop of meaning and direction to all that a person experiences.

4. The Bible tells us that, “the Word of God is living and active… it is able to judge the thoughts and intentions of the heart” (Heb 4:12). In this way, it speaks to us of the heart as a core that lies hidden beneath all outward appearances, even beneath the superficial thoughts that can lead us astray. The disciples of Emmaus, on their mysterious journey in the company of the risen Christ, experienced a moment of anguish, confusion, despair and disappointment. Yet, beyond and in spite of this, something was happening deep within them: “Were not our hearts burning within us while he was talking to us on the road?” (Lk 24:32).

5. The heart is also the locus of sincerity, where deceit and disguise have no place. It usually indicates our true intentions, what we really think, believe and desire, the “secrets” that we tell no one: in a word, the naked truth about ourselves. It is the part of us that is neither appearance or illusion, but is instead authentic, real, entirely “who we are”. That is why Samson, who kept from Delilah the secret of his strength, was asked by her, “How can you say, ‘I love you’, when your heart is not with me?” (Judg 16:15). Only when Samson opened his heart to her, did she realize “that he had told her his whole secret” (Judg 16:18).

6. This interior reality of each person is frequently concealed behind a great deal of “foliage”, which makes it difficult for us not only to understand ourselves, but even more to know others: “The heart is devious above all else; it is perverse, who can understand it?” (Jer 17:9). We can understand, then, the advice of the Book of Proverbs: “Keep your heart with all vigilance, for from it flow the springs of life; put away from you crooked speech” (4:23-24). Mere appearances, dishonesty and deception harm and pervert the heart. Despite our every attempt to appear as something we are not, our heart is the ultimate judge, not of what we show or hide from others, but of who we truly are. It is the basis for any sound life project; nothing worthwhile can be undertaken apart from the heart. False appearances and untruths ultimately leave us empty-handed.

7. As an illustration of this, I would repeat a story I have already told on another occasion. “For the carnival, when we were children, my grandmother would make a pastry using a very thin batter. When she dropped the strips of batter into the oil, they would expand, but then, when we bit into them, they were empty inside. In the dialect we spoke, those cookies were called ‘lies’… My grandmother explained why: ‘Like lies, they look big, but are empty inside; they are false, unreal’”. [5]

8. Instead of running after superficial satisfactions and playing a role for the benefit of others, we would do better to think about the really important questions in life. Who am I, really? What am I looking for? What direction do I want to give to my life, my decisions and my actions? Why and for what purpose am I in this world? How do I want to look back on my life once it ends? What meaning do I want to give to all my experiences? Who do I want to be for others? Who am I for God? All these questions lead us back to the heart.

RETURNING TO THE HEART

9. In this “liquid” world of ours, we need to start speaking once more about the heart and thinking about this place where every person, of every class and condition, creates a synthesis, where they encounter the radical source of their strengths, convictions, passions and decisions. Yet, we find ourselves immersed in societies of serial consumers who live from day to day, dominated by the hectic pace and bombarded by technology, lacking in the patience needed to engage in the processes that an interior life by its very nature requires. In contemporary society, people “risk losing their centre, the centre of their very selves”. [6] “Indeed, the men and women of our time often find themselves confused and torn apart, almost bereft of an inner principle that can create unity and harmony in their lives and actions. Models of behaviour that, sadly, are now widespread exaggerate our rational-technological dimension or, on the contrary, that of our instincts”. [7] No room is left for the heart.

10. The issues raised by today’s liquid society are much discussed, but this depreciation of the deep core of our humanity – the heart – has a much longer history. We find it already present in Hellenic and pre-Christian rationalism, in post-Christian idealism and in materialism in its various guises. The heart has been ignored in anthropology, and the great philosophical tradition finds it a foreign notion, preferring other concepts such as reason, will or freedom. The very meaning of the term is imprecise and hard to situate within our human experience. Perhaps this is due to the difficulty of treating it as a “clear and distinct idea”, or because it entails the question of self-understanding, where the deepest part of us is also that which is least known. Even encountering others does not necessarily prove to be a way of encountering ourselves, inasmuch as our thought patterns are dominated by an unhealthy individualism. Many people feel safer constructing their systems of thought in the more readily controllable domain of intelligence and will. The failure to make room for the heart, as distinct from our human powers and passions viewed in isolation from one another, has resulted in a stunting of the idea of a personal centre, in which love, in the end, is the one reality that can unify all the others.

11. If we devalue the heart, we also devalue what it means to speak from the heart, to act with the heart, to cultivate and heal the heart. If we fail to appreciate the specificity of the heart, we miss the messages that the mind alone cannot communicate; we miss out on the richness of our encounters with others; we miss out on poetry. We also lose track of history and our own past, since our real personal history is built with the heart. At the end of our lives, that alone will matter.

12. It must be said, then, that we have a heart, a heart that coexists with other hearts that help to make it a “Thou”. Since we cannot develop this theme at length, we will take a character from one of Dostoevsky’s novels, Nikolai Stavrogin. [8] Romano Guardini argues that Stavrogin is the very embodiment of evil, because his chief trait is his heartlessness: “Stavrogin has no heart, hence his mind is cold and empty and his body sunken in bestial sloth and sensuality. He has no heart, hence he can draw close to no one and no one can ever truly draw close to him. For only the heart creates intimacy, true closeness between two persons. Only the heart is able to welcome and offer hospitality. Intimacy is the proper activity and the domain of the heart. Stavrogin is always infinitely distant, even from himself, because a man can enter into himself only with the heart, not with the mind. It is not in a man’s power to enter into his own interiority with the mind. Hence, if the heart is not alive, man remains a stranger to himself”. [9]

13. All our actions need to be put under the “political rule” of the heart. In this way, our aggressiveness and obsessive desires will find rest in the greater good that the heart proposes and in the power of the heart to resist evil. The mind and the will are put at the service of the greater good by sensing and savouring truths, rather than seeking to master them as the sciences tend to do. The will desires the greater good that the heart recognizes, while the imagination and emotions are themselves guided by the beating of the heart.

14. It could be said, then, that I am my heart, for my heart is what sets me apart, shapes my spiritual identity and puts me in communion with other people. The algorithms operating in the digital world show that our thoughts and will are much more “uniform” than we had previously thought. They are easily predictable and thus capable of being manipulated. That is not the case with the heart.

15. The word “heart” proves its value for philosophy and theology in their efforts to reach an integral synthesis. Nor can its meaning be exhausted by biology, psychology, anthropology or any other science. It is one of those primordial words that “describe realities belonging to man precisely in so far as he is one whole (as a corporeo-spiritual person)”. [10] It follows that biologists are not being more “realistic” when they discuss the heart, since they see only one aspect of it; the whole is not less real, but even more real. Nor can abstract language ever acquire the same concrete and integrative meaning. The word “heart” evokes the inmost core of our person, and thus it enables us to understand ourselves in our integrity and not merely under one isolated aspect.

16. This unique power of the heart also helps us to understand why, when we grasp a reality with our heart, we know it better and more fully. This inevitably leads us to the love of which the heart is capable, for “the inmost core of reality is love”. [11] For Heidegger, as interpreted by one contemporary thinker, philosophy does not begin with a simple concept or certainty, but with a shock: “Thought must be provoked before it begins to work with concepts or while it works with them. Without deep emotion, thought cannot begin. The first mental image would thus be goose bumps. What first stirs one to think and question is deep emotion. Philosophy always takes place in a basic mood ( Stimmung)”. [12] That is where the heart comes in, since it “houses the states of mind and functions as a ‘keeper of the state of mind’. The ‘heart’ listens in a non-metaphoric way to ‘the silent voice’ of being, allowing itself to be tempered and determined by it”. [13]

THE HEART UNITES THE FRAGMENTS

17. At the same time, the heart makes all authentic bonding possible, since a relationship not shaped by the heart is incapable of overcoming the fragmentation caused by individualism. Two monads may approach one another, but they will never truly connect. A society dominated by narcissism and self-centredness will increasingly become “heartless”. This will lead in turn to the “loss of desire”, since as other persons disappear from the horizon we find ourselves trapped within walls of our own making, no longer capable of healthy relationships. [14] As a result, we also become incapable of openness to God. As Heidegger puts it, to be open to the divine we need to build a “guest house”. [15]

18. We see, then, that in the heart of each person there is a mysterious connection between self-knowledge and openness to others, between the encounter with one’s personal uniqueness and the willingness to give oneself to others. We become ourselves only to the extent that we acquire the ability to acknowledge others, while only those who can acknowledge and accept themselves are then able to encounter others.

19. The heart is also capable of unifying and harmonizing our personal history, which may seem hopelessly fragmented, yet is the place where everything can make sense. The Gospel tells us this in speaking of Our Lady, who saw things with the heart. She was able to dialogue with the things she experienced by pondering them in her heart, treasuring their memory and viewing them in a greater perspective. The best expression of how the heart thinks is found in the two passages in Saint Luke’s Gospel that speak to us of how Mary “treasured (synetérei) all these things and pondered (symbállousa) them in her heart” (cf. Lk 2:19 and 51). The Greek verb symbállein, “ponder”, evokes the image of putting two things together (“symbols”) in one’s mind and reflecting on them, in a dialogue with oneself. In Luke 2:51, the verb used is dietérei, which has the sense of “keep”. What Mary “kept” was not only her memory of what she had seen and heard, but also those aspects of it that she did not yet understand; these nonetheless remained present and alive in her memory, waiting to be “put together” in her heart.

20. In this age of artificial intelligence, we cannot forget that poetry and love are necessary to save our humanity. No algorithm will ever be able to capture, for example, the nostalgia that all of us feel, whatever our age, and wherever we live, when we recall how we first used a fork to seal the edges of the pies that we helped our mothers or grandmothers to make at home. It was a moment of culinary apprenticeship, somewhere between child-play and adulthood, when we first felt responsible for working and helping one another. Along with the fork, I could also mention thousands of other little things that are a precious part of everyone’s life: a smile we elicited by telling a joke, a picture we sketched in the light of a window, the first game of soccer we played with a rag ball, the worms we collected in a shoebox, a flower we pressed in the pages of a book, our concern for a fledgling bird fallen from its nest, a wish we made in plucking a daisy. All these little things, ordinary in themselves yet extraordinary for us, can never be captured by algorithms. The fork, the joke, the window, the ball, the shoebox, the book, the bird, the flower: all of these live on as precious memories “kept” deep in our heart.

21. This profound core, present in every man and woman, is not that of the soul, but of the entire person in his or her unique psychosomatic identity. Everything finds its unity in the heart, which can be the dwelling-place of love in all its spiritual, psychic and even physical dimensions. In a word, if love reigns in our heart, we become, in a complete and luminous way, the persons we are meant to be, for every human being is created above all else for love. In the deepest fibre of our being, we were made to love and to be loved.

22. For this reason, when we witness the outbreak of new wars, with the complicity, tolerance or indifference of other countries, or petty power struggles over partisan interests, we may be tempted to conclude that our world is losing its heart. We need only to see and listen to the elderly women – from both sides – who are at the mercy of these devastating conflicts. It is heart-breaking to see them mourning for their murdered grandchildren, or longing to die themselves after losing the homes where they spent their entire lives. Those women, who were often pillars of strength and resilience amid life’s difficulties and hardships, now, at the end of their days, are experiencing, in place of a well-earned rest, only anguish, fear and outrage. Casting the blame on others does not resolve these shameful and tragic situations. To see these elderly women weep, and not feel that this is something intolerable, is a sign of a world that has grown heartless.

23. Whenever a person thinks, questions and reflects on his or her true identity, strives to understand the deeper questions of life and to seek God, or experiences the thrill of catching a glimpse of truth, it leads to the realization that our fulfilment as human beings is found in love. In loving, we sense that we come to know the purpose and goal of our existence in this world. Everything comes together in a state of coherence and harmony. It follows that, in contemplating the meaning of our lives, perhaps the most decisive question we can ask is, “Do I have a heart?”

FIRE

24. All that we have said has implications for the spiritual life. For example, the theology underlying the Spiritual Exercises of Saint Ignatius Loyola is based on “affection” ( affectus). The structure of the Exercises assumes a firm and heartfelt desire to “rearrange” one’s life, a desire that in turn provides the strength and the wherewithal to achieve that goal. The rules and the compositions of place that Ignatius furnishes are in the service of something much more important, namely, the mystery of the human heart. Michel de Certeau shows how the “movements” of which Ignatius speaks are the “inbreaking” of God’s desire and the desire of our own heart amid the orderly progression of the meditations. Something unexpected and hitherto unknown starts to speak in our heart, breaking through our superficial knowledge and calling it into question. This is the start of a new process of “setting our life in order”, beginning with the heart. It is not about intellectual concepts that need to be put into practice in our daily lives, as if affectivity and practice were merely the effects of – and dependent upon – the data of knowledge. [16]

25. Where the thinking of the philosopher halts, there the heart of the believer presses on in love and adoration, in pleading for forgiveness and in willingness to serve in whatever place the Lord allows us to choose, in order to follow in his footsteps. At that point, we realize that in God’s eyes we are a “Thou”, and for that very reason we can be an “I”. Indeed, only the Lord offers to treat each one of us as a “Thou”, always and forever. Accepting his friendship is a matter of the heart; it is what constitutes us as persons in the fullest sense of that word.

26. Saint Bonaventure tells us that in the end we should not pray for light, but for “raging fire”. [17] He teaches that, “faith is in the intellect, in such a way as to provoke affection. In this sense, for example, the knowledge that Christ died for us does not remain knowledge, but necessarily becomes affection, love”. [18] Along the same lines, Saint John Henry Newman took as his motto the phrase Cor ad cor loquitur, since, beyond all our thoughts and ideas, the Lord saves us by speaking to our hearts from his Sacred Heart. This realization led him, the distinguished intellectual, to recognize that his deepest encounter with himself and with the Lord came not from his reading or reflection, but from his prayerful dialogue, heart to heart, with Christ, alive and present. It was in the Eucharist that Newman encountered the living heart of Jesus, capable of setting us free, giving meaning to each moment of our lives, and bestowing true peace: “O most Sacred, most loving Heart of Jesus, Thou art concealed in the Holy Eucharist, and Thou beatest for us still… I worship Thee then with all my best love and awe, with my fervent affection, with my most subdued, most resolved will. O my God, when Thou dost condescend to suffer me to receive Thee, to eat and drink Thee, and Thou for a while takest up Thy abode within me, O make my heart beat with Thy Heart. Purify it of all that is earthly, all that is proud and sensual, all that is hard and cruel, of all perversity, of all disorder, of all deadness. So fill it with Thee, that neither the events of the day nor the circumstances of the time may have power to ruffle it, but that in Thy love and Thy fear it may have peace”. [19]

27. Before the heart of Jesus, living and present, our mind, enlightened by the Spirit, grows in the understanding of his words and our will is moved to put them into practice. This could easily remain on the level of a kind of self-reliant moralism. Hearing and tasting the Lord, and paying him due honour, however, is a matter of the heart. Only the heart is capable of setting our other powers and passions, and our entire person, in a stance of reverence and loving obedience before the Lord.

THE WORLD CAN CHANGE, BEGINNING WITH THE HEART

28. It is only by starting from the heart that our communities will succeed in uniting and reconciling differing minds and wills, so that the Spirit can guide us in unity as brothers and sisters. Reconciliation and peace are also born of the heart. The heart of Christ is “ecstasy”, openness, gift and encounter. In that heart, we learn to relate to one another in wholesome and happy ways, and to build up in this world God’s kingdom of love and justice. Our hearts, united with the heart of Christ, are capable of working this social miracle.

29. Taking the heart seriously, then, has consequences for society as a whole. The Second Vatican Council teaches that, “every one of us needs a change of heart; we must set our gaze on the whole world and look to those tasks we can all perform together in order to bring about the betterment of our race”. [20] For “the imbalances affecting the world today are in fact a symptom of a deeper imbalance rooted in the human heart”. [21] In pondering the tragedies afflicting our world, the Council urges us to return to the heart. It explains that human beings “by their interior life, transcend the entire material universe; they experience this deep interiority when they enter into their own heart, where God, who probes the heart, awaits them, and where they decide their own destiny in the sight of God”. [22]

30. This in no way implies an undue reliance on our own abilities. Let us never forget that our hearts are not self-sufficient, but frail and wounded. They possess an ontological dignity, yet at the same time must seek an ever more dignified life. [23] The Second Vatican Council points out that “the ferment of the Gospel has aroused and continues to arouse in human hearts an unquenchable thirst for human dignity”. [24] Yet to live in accordance with this dignity, it is not enough to know the Gospel or to carry out mechanically its demands. We need the help of God’s love. Let us turn, then, to the heart of Christ, that core of his being, which is a blazing furnace of divine and human love and the most sublime fulfilment to which humanity can aspire. There, in that heart, we truly come at last to know ourselves and we learn how to love.

31. In the end, that Sacred Heart is the unifying principle of all reality, since “Christ is the heart of the world, and the paschal mystery of his death and resurrection is the centre of history, which, because of him, is a history of salvation”. [25] All creatures “are moving forward with us and through us towards a common point of arrival, which is God, in that transcendent fullness where the risen Christ embraces and illumines all things”. [26] In the presence of the heart of Christ, I once more ask the Lord to have mercy on this suffering world in which he chose to dwell as one of us. May he pour out the treasures of his light and love, so that our world, which presses forward despite wars, socio-economic disparities and uses of technology that threaten our humanity, may regain the most important and necessary thing of all: its heart.

CHAPTER TWO

ACTIONS AND WORDS OF LOVE

32. The heart of Christ, as the symbol of the deepest and most personal source of his love for us, is the very core of the initial preaching of the Gospel. It stands at the origin of our faith, as the wellspring that refreshes and enlivens our Christian beliefs.

ACTIONS THAT REFLECT THE HEART

33. Christ showed the depth of his love for us not by lengthy explanations but by concrete actions. By examining his interactions with others, we can come to realize how he treats each one of us, even though at times this may be difficult to see. Let us now turn to the place where our faith can encounter this truth: the word of God.

34. The Gospel tells us that Jesus “came to his own” (cf. Jn 1:11). Those words refer to us, for the Lord does not treat us as strangers but as a possession that he watches over and cherishes. He treats us truly as “his own”. This does not mean that we are his slaves, something that he himself denies: “I do not call you servants” (Jn 15:15). Rather, it refers to the sense of mutual belonging typical of friends. Jesus came to meet us, bridging all distances; he became as close to us as the simplest, everyday realities of our lives. Indeed, he has another name, “Emmanuel”, which means “God with us”, God as part of our lives, God as living in our midst. The Son of God became incarnate and “emptied himself, taking the form of a slave” (Phil 2:7).

35. This becomes clear when we see Jesus at work. He seeks people out, approaches them, ever open to an encounter with them. We see it when he stops to converse with the Samaritan woman at the well where she went to draw water (cf. Jn 4:5-7). We see it when, in the darkness of night, he meets Nicodemus, who feared to be seen in his presence (cf. Jn 3:1-2). We marvel when he allows his feet to be washed by a prostitute (cf. Lk 7:36-50), when he says to the woman caught in adultery, “Neither do I condemn you” (Jn 8:11), or again when he chides the disciples for their indifference and quietly asks the blind man on the roadside, “What do you want me to do for you?” (Mk 10:51). Christ shows that God is closeness, compassion and tender love.

36. Whenever Jesus healed someone, he preferred to do it, not from a distance but in close proximity: “He stretched out his hand and touched him” ( Mt 8:3). “He touched her hand” ( Mt 8:15). “He touched their eyes” ( Mt 9:29). Once he even stopped to cure a deaf man with his own saliva (cf. Mk 7:33), as a mother would do, so that people would not think of him as removed from their lives. “The Lord knows the fine science of the caress. In his compassion, God does not love us with words; he comes forth to meet us and, by his closeness, he shows us the depth of his tender love”. [27]

37. If we find it hard to trust others because we have been hurt by lies, injuries and disappointments, the Lord whispers in our ear: “Take heart, son!” (Mt 9:2), “Take heart, daughter!” (Mt 9:22). He encourages us to overcome our fear and to realize that, with him at our side, we have nothing to lose. To Peter, in his fright, “Jesus immediately reached out his hand and caught him”, saying, “You of little faith, why did you doubt?” (Mt 14:31). Nor should you be afraid. Let him draw near and sit at your side. There may be many people we distrust, but not him. Do not hesitate because of your sins. Keep in mind that many sinners “came and sat with him” (Mt 9:10), yet Jesus was scandalized by none of them. It was the religious élite that complained and treated him as “a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners” (Mt 11:19). When the Pharisees criticized him for his closeness to people deemed base or sinful, Jesus replied, “I desire mercy, not sacrifice” (Mt 9:13).

38. That same Jesus is now waiting for you to give him the chance to bring light to your life, to raise you up and to fill you with his strength. Before his death, he assured his disciples, “I will not leave you orphaned; I am coming to you. In a little while the world will no longer see me, but you will see me” (Jn 14:18-19). Jesus always finds a way to be present in your life, so that you can encounter him.

JESUS’ GAZE

39. The Gospel tells us that a rich man came up to Jesus, full of idealism yet lacking in the strength needed to change his life. Jesus then “looked at him” (Mk 10:21). Can you imagine that moment, that encounter between his eyes and those of Jesus? If Jesus calls you and summons you for a mission, he first looks at you, plumbs the depths of your heart and, knowing everything about you, fixes his gaze upon you. So it was when, “as he walked by the Sea of Galilee, he saw two brothers… and as he went from there, he saw two other brothers” (Mt 4:18, 21).

40. Many a page of the Gospel illustrates how attentive Jesus was to individuals and above all to their problems and needs. We are told that, “when he saw the crowds, he had compassion for them, because they were harassed and helpless” (Mt 9:36). Whenever we feel that everyone ignores us, that no one cares what becomes of us, that we are of no importance to anyone, he remains concerned for us. To Nathanael, standing apart and busy about his own affairs, he could say, “I saw you under the fig tree before Philip called you” (Jn 1:48).

41. Precisely out of concern for us, Jesus knows every one of our good intentions and small acts of charity. The Gospel tells us that once he “saw a poor widow put in two small copper coins” in the Temple treasury (Lk 21:2) and immediately brought it to the attention of his disciples. Jesus thus appreciates the good that he sees in us. When the centurion approached him with complete confidence, “Jesus listened to him and was amazed” (Mt 8:10). How reassuring it is to know that, even if others are not aware of our good intentions or actions, Jesus sees them and regards them highly.

42. In his humanity, Jesus learned this from Mary, his mother. Our Lady carefully pondered the things she had experienced; she “treasured them… in her heart” (Lk 2:19, 51) and, with Saint Joseph, she taught Jesus from his earliest years to be attentive in this same way.

JESUS’ WORDS

43. Although the Scriptures preserve Jesus’ words, ever alive and timely, there are moments when he speaks to us inwardly, calls us and leads us to a better place. That better place is his heart. There he invites us to find fresh strength and peace: “Come to me, all who are weary and are carrying heavy burdens, and I will give you rest” (Mt 11:28). In this sense, he could say to his disciples, “Abide in me” (Jn 15:4).

44. Jesus’ words show that his holiness did not exclude deep emotions. On various occasions, he demonstrated a love that was both passionate and compassionate. He could be deeply moved and grieved, even to the point of shedding tears. It is clear that Jesus was not indifferent to the daily cares and concerns of people, such as their weariness or hunger: “I have compassion for this crowd… they have nothing to eat… they will faint on the way, and some of them have come from a great distance” (Mk 8:2-3).

45. The Gospel makes no secret of Jesus’ love for Jerusalem: “As he came near and saw the city, he wept over it” (Lk 19:41). He then voiced the deepest desire of his heart: “If you had only recognized on this day the things that make for peace” (Lk 19:42). The evangelists, while at times showing him in his power and glory, also portray his profound emotions in the face of death and the grief felt by his friends. Before recounting how Jesus, standing before the tomb of Lazarus, “began to weep” (Jn 11:35), the Gospel observes that, “Jesus loved Martha and her sister and Lazarus” (Jn 11:5) and that, seeing Mary and those who were with her weeping, “he was greatly disturbed in spirit and deeply moved” (Jn 11:33). The Gospel account leaves no doubt that his tears were genuine, the sign of inner turmoil. Nor do the Gospels attempt to conceal Jesus’ anguish over his impending violent death at the hands of those whom he had loved so greatly: he “began to be distressed and agitated” (Mk 14:33), even to the point of crying out, “I am deeply grieved, even to death” (Mk 14:34). This inner turmoil finds its most powerful expression in his cry from the cross: “My God, my God, why have you forsaken me?” (Mk 15:34).

46. At first glance, all this may smack of pious sentimentalism. Yet it is supremely serious and of decisive importance, and finds its most sublime expression in Christ crucified. The cross is Jesus’ most eloquent word of love. A word that is not shallow, sentimental or merely edifying. It is love, sheer love. That is why Saint Paul, struggling to find the right words to describe his relationship with Christ, could speak of “the Son of God, who loved me and gave himself for me” (Gal 2:20). This was Paul’s deepest conviction: the knowledge that he was loved. Christ’s self-offering on the cross became the driving force in Paul’s life, yet it only made sense to him because he knew that something even greater lay behind it: the fact that “he loved me”. At a time when many were seeking salvation, prosperity or security elsewhere, Paul, moved by the Spirit, was able to see farther and to marvel at the greatest and most essential thing of all: “Christ loved me”.

47. Now, after considering Christ and seeing how his actions and words grant us insight into his heart, let us turn to the Church’s reflection on the holy mystery of the Lord’s Sacred Heart.

CHAPTER THREE

THIS IS THE HEART THAT HAS LOVED SO GREATLY

48. Devotion to the heart of Christ is not the veneration of a single organ apart from the Person of Jesus. What we contemplate and adore is the whole Jesus Christ, the Son of God made man, represented by an image that accentuates his heart. That heart of flesh is seen as the privileged sign of the inmost being of the incarnate Son and his love, both divine and human. More than any other part of his body, the heart of Jesus is “the natural sign and symbol of his boundless love”.[28]

WORSHIPING CHRIST

49. It is essential to realize that our relationship to the Person of Jesus Christ is one of friendship and adoration, drawn by the love represented under the image of his heart. We venerate that image, yet our worship is directed solely to the living Christ, in his divinity and his plenary humanity, so that we may be embraced by his human and divine love.

50. Whatever the image employed, it is clear that the living heart of Christ – not its representation – is the object of our worship, for it is part of his holy risen body, which is inseparable from the Son of God who assumed that body forever. We worship it because it is “the heart of the Person of the Word, to whom it is inseparably united”.[29] Nor do we worship it for its own sake, but because with this heart the incarnate Son is alive, loves us and receives our love in return. Any act of love or worship of his heart is thus “really and truly given to Christ himself”,[30] since it spontaneously refers back to him and is “a symbol and a tender image of the infinite love of Jesus Christ”.[31]

51. For this reason, it should never be imagined that this devotion may distract or separate us from Jesus and his love. In a natural and direct way, it points us to him and to him alone, who calls us to a precious friendship marked by dialogue, affection, trust and adoration. The Christ we see depicted with a pierced and burning heart is the same Christ who, for love of us, was born in Bethlehem, passed through Galilee healing the sick, embracing sinners and showing mercy. The same Christ who loved us to the very end, opening wide his arms on the cross, who then rose from the dead and now lives among us in glory.

VENERATING HIS IMAGE

52. While the image of Christ and his heart is not in itself an object of worship, neither is it simply one among many other possible images. It was not devised at a desk or designed by an artist; it is “no imaginary symbol, but a real symbol which represents the centre, the source from which salvation flowed for all humanity”.[32]

53. Universal human experience has made the image of the heart something unique. Indeed, throughout history and in different parts of the world, it has become a symbol of personal intimacy, affection, emotional attachment and capacity for love. Transcending all scientific explanations, a hand placed on the heart of a friend expresses special affection: when two persons fall in love and draw close to one another, their hearts beat faster; when we are abandoned or deceived by someone we love, our hearts sink. So too, when we want to say something deeply personal, we often say that we are speaking “from the heart”. The language of poetry reflects the power of these experiences. In the course of history, the heart has taken on unique symbolic value that is more than merely conventional.

54. It is understandable, then, that the Church has chosen the image of the heart to represent the human and divine love of Jesus Christ and the inmost core of his Person. Yet, while the depiction of a heart afire may be an eloquent symbol of the burning love of Jesus Christ, it is important that this heart not be represented apart from him. In this way, his summons to a personal relationship of encounter and dialogue will become all the more meaningful.[33] The venerable image portraying Christ holding out his loving heart also shows him looking directly at us, inviting us to encounter, dialogue and trust; it shows his strong hands capable of supporting us and his lips that speak personally to each of us.

55. The heart, too, has the advantage of being immediately recognizable as the profound unifying centre of the body, an expression of the totality of the person, unlike other individual organs. As a part that stands for the whole, we could easily misinterpret it, were we to contemplate it apart from the Lord himself. The image of the heart should lead us to contemplate Christ in all the beauty and richness of his humanity and divinity.

56. Whatever particular aesthetic qualities we may ascribe to various portrayals of Christ’s heart when we pray before them, it is not the case that “something is sought from them or that blind trust is put in images as once was done by the Gentiles”. Rather, “through these images that we kiss, and before which we kneel and uncover our heads, we are adoring Christ”.[34]

57. Certain of these representations may indeed strike us as tasteless and not particularly conducive to affection or prayer. Yet this is of little importance, since they are only invitations to prayer, and, to cite an Eastern proverb, we should not limit our gaze to the finger that points us to the moon. Whereas the Eucharist is a real presence to be worshiped, sacred images, albeit blessed, point beyond themselves, inviting us to lift up our hearts and to unite them to the heart of the living Christ. The image we venerate thus serves as a summons to make room for an encounter with Christ, and to worship him in whatever way we wish to picture him. Standing before the image, we stand before Christ, and in his presence, “love pauses, contemplates mystery, and enjoys it in silence”.[35]

58. At the same time, we must never forget that the image of the heart speaks to us of the flesh and of earthly realities. In this way, it points us to the God who wished to become one of us, a part of our history, and a companion on our earthly journey. A more abstract or stylized form of devotion would not necessarily be more faithful to the Gospel, for in this eloquent and tangible sign we see how God willed to reveal himself and to draw close to us.

A LOVE THAT IS TANGIBLE

59. On the other hand, love and the human heart do not always go together, since hatred, indifference and selfishness can also reign in our hearts. Yet we cannot attain our fulfilment as human beings unless we open our hearts to others; only through love do we become fully ourselves. The deepest part of us, created for love, will fulfil God’s plan only if we learn to love. And the heart is the symbol of that love.

60. The eternal Son of God, in his utter transcendence, chose to love each of us with a human heart. His human emotions became the sacrament of that infinite and endless love. His heart, then, is not merely a symbol for some disembodied spiritual truth. In gazing upon the Lord’s heart, we contemplate a physical reality, his human flesh, which enables him to possess genuine human emotions and feelings, like ourselves, albeit fully transformed by his divine love. Our devotion must ascend to the infinite love of the Person of the Son of God, yet we need to keep in mind that his divine love is inseparable from his human love. The image of his heart of flesh helps us to do precisely this.

61. Since the heart continues to be seen in the popular mind as the affective centre of each human being, it remains the best means of signifying the divine love of Christ, united forever and inseparably to his wholly human love. Pius XII observed that the Gospel, in referring to the love of Christ’s heart, speaks “not only of divine charity but also human affection”. Indeed, “the heart of Jesus Christ, hypostatically united to the divine Person of the Word, beyond doubt throbbed with love and every other tender affection”.[36]

62. The Fathers of the Church, opposing those who denied or downplayed the true humanity of Christ, insisted on the concrete and tangible reality of the Lord’s human affections. Saint Basil emphasized that the Lord’s incarnation was not something fanciful, and that “the Lord possessed our natural affections”.[37] Saint John Chrysostom pointed to an example: “Had he not possessed our nature, he would not have experienced sadness from time to time”.[38] Saint Ambrose stated that “in taking a soul, he took on the passions of the soul”.[39] For Saint Augustine, our human affections, which Christ assumed, are now open to the life of grace: “The Lord Jesus assumed these affections of our human weakness, as he did the flesh of our human weakness, not out of necessity, but consciously and freely… lest any who feel grief and sorrow amid the trials of life should think themselves separated from his grace”.[40] Finally, Saint John Damascene viewed the genuine affections shown by Christ in his humanity as proof that he assumed our nature in its entirety in order to redeem and transform it in its entirety: Christ, then, assumed all that is part of human nature, so that all might be sanctified.[41]

63. Here, we can benefit from the thoughts of a theologian who maintains that, “due to the influence of Greek thought, theology long relegated the body and feelings to the world of the pre-human or sub-human or potentially inhuman; yet what theology did not resolve in theory, spirituality resolved in practice. This, together with popular piety, preserved the relationship with the corporal, psychological and historical reality of Jesus. The Stations of the Cross, devotion to Christ’s wounds, his Precious Blood and his Sacred Heart, and a variety of Eucharist devotions… all bridged the gaps in theology by nourishing our hearts and imagination, our tender love for Christ, our hope and memory, our desires and feelings. Reason and logic took other directions”.[42]

A THREEFOLD LOVE

64. Nor do we remain only on the level of the Lord’s human feelings, beautiful and moving as they are. In contemplating Christ’s heart we also see how, in his fine and noble sentiments, his kindness and gentleness and his signs of genuine human affection, the deeper truth of his infinite divine love is revealed. In the words of Benedict XVI, “from the infinite horizon of his love, God wished to enter into the limits of human history and the human condition. He took on a body and a heart. Thus, we can contemplate and encounter the infinite in the finite, the invisible and ineffable mystery in the human heart of Jesus the Nazarene”.[43]

65. The image of the Lord’s heart speaks to us in fact of a threefold love. First, we contemplate his infinite divine love. Then our thoughts turn to the spiritual dimension of his humanity, in which the heart is “the symbol of that most ardent love which, infused into his soul, enriches his human will”. Finally, “it is a symbol also of his sensible love”.[44]

66. These three loves are not separate, parallel or disconnected, but together act and find expression in a constant and vital unity. For “by faith, through which we believe that the human and divine nature were united in the Person of Christ, we can see the closest bonds between the tender love of the physical heart of Jesus and the twofold spiritual love, namely human and divine”.[45]

67. Entering into the heart of Christ, we feel loved by a human heart filled with affections and emotions like our own. Jesus’ human will freely choose to love us, and that spiritual love is flooded with grace and charity. When we plunge into the depths of his heart, we find ourselves overwhelmed by the immense glory of his infinite love as the eternal Son, which we can no longer separate from his human love. It is precisely in his human love, and not apart from it, that we encounter his divine love: we discover “the infinite in the finite”.[46]

68. It is the constant and unequivocal teaching of the Church that our worship of Christ’s person is undivided, inseparably embracing both his divine and his human natures. From ancient times, the Church has taught that we are to “adore one and the same Christ, the Son of God and of man, consisting of and in two inseparable and undivided natures”.[47] And we do so “with one act of adoration… inasmuch as the Word became flesh”.[48] Christ is in no way “worshipped in two natures, whereby two acts of worship are introduced”; instead, we venerate “by one act of worship God the Word made flesh, together with his own flesh”.[49]

69. Saint John of the Cross sought to explain that in mystical experience the infinite love of the risen Christ is not perceived as alien to our lives. The infinite in some way “condescends” to enable us, through the open heart of Christ, to experience an encounter of truly reciprocal love, for “it is indeed credible that a bird of lowly flight can capture the royal eagle of the heights, if this eagle descends with the desire of being captured”.[50] He also explains that the Bridegroom, “beholding that the bride is wounded with love for him, because of her moan he too is wounded with love for her. Among lovers, the wound of one is the wound of both”.[51] John of the Cross regards the image of Christ’s pierced side as an invitation to full union with the Lord. Christ is the wounded stag, wounded when we fail to let ourselves be touched by his love, who descends to the streams of water to quench his thirst and is comforted whenever we turn to him:

Return, dove!

         The wounded stag

         is in sight on the hill,

         cooled by the breeze of your flight”.[52]

TRINITARIAN PERSPECTIVES

70. Devotion to the heart of Jesus, as a direct contemplation of the Lord that draws us into union with him, is clearly Christological in nature. We see this in the Letter to the Hebrews, which urges us to “run with perseverance the race that is set before us, looking to Jesus” (12:2). At the same time, we need to realize that Jesus speaks of himself as the way to the Father: “I am the way… No one comes to the Father except through me” (Jn 14:6). Jesus wants to bring us to the Father. That is why, from the very beginning, the Church’s preaching does not end with Jesus, but with the Father. As source and fullness, the Father is ultimately the one to be glorified.[53]

71. If we turn, for example, to the Letter to the Ephesians, we can see clearly how our worship is directed to the Father: “I bow my knees before the Father” (3:14). There is “one God and Father of all, who is above all and through all and in all” (4:6). “Give thanks to God the Father at all times and for everything” (5:20). It is the Father “for whom we exist” (1 Cor 8:6). In this sense, Saint John Paul II could say that, “the whole of the Christian life is like a great pilgrimage to the house of the Father”.[54] This too was the experience of Saint Ignatius of Antioch on his path to martyrdom: “In me there is left no spark of desire for mundane things, but only a murmur of living water that whispers within me, ‘Come to the Father’”.[55]

72. The Father is, before all else, the Father of Jesus Christ: “Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ” (Eph 1:3). He is “the God of our Lord Jesus Christ, the Father of glory” ( Eph 1:17). When the Son became man, all the hopes and aspirations of his human heart were directed towards the Father. If we consider the way Christ spoke of the Father, we can grasp the love and affection that his human heart felt for him, this complete and constant orientation towards him. [56] Jesus’ life among us was a journey of response to the constant call of his human heart to come to the Father. [57]

73. We know that the Aramaic word Jesus used to address the Father was “Abba”, an intimate and familiar term that some found disconcerting (cf. Jn 5:18). It is how he addressed the Father in expressing his anguish at his impending death: “Abba, Father, for you all things are possible; remove this cup from me; yet, not what I want, but what you want” (Mk 14:36). Jesus knew well that he had always been loved by the Father: “You loved me before the foundation of the world” (Jn 17:24). In his human heart, he had rejoiced at hearing the Father say to him: “You are my Son, the Beloved; with you I am well pleased” (Mk 1:11).

74. The Fourth Gospel tells us that the eternal Son was always “close to the Father’s heart” (Jn 1:18).[58] Saint Irenaeus thus declares that “the Son of God was with the Father from the beginning”.[59] Origen, for his part, maintains that the Son perseveres “in uninterrupted contemplation of the depths of the Father”.[60] When the Son took flesh, he spent entire nights conversing with his beloved Father on the mountaintop (cf. Lk 6:12). He told us, “I must be in my Father’s house” (Lk 2:49). We see too how he expressed his praise: “Jesus rejoiced in the Holy Spirit and said, ‘I thank you, Father, Lord of heaven and earth’ (Lk 10:21). His last words, full of trust, were, “Father, into your hands I commend my spirit” (Lk 23:46).

75. Let us now turn to the Holy Spirit, whose fire fills the heart of Christ. As Saint John Paul II once said, Christ’s heart is “the Holy Spirit’s masterpiece”.[61] This is more than simply a past event, for even now “the heart of Christ is alive with the action of the Holy Spirit, to whom Jesus attributed the inspiration of his mission (cf. Lk 4:18; Is 61:1) and whose sending he had promised at the Last Supper. It is the Spirit who enables us to grasp the richness of the sign of Christ’s pierced side, from which the Church has sprung (cf. Sacrosanctum Concilium, 5)”.[62] In a word, “only the Holy Spirit can open up before us the fullness of the ‘inner man’, which is found in the heart of Christ. He alone can cause our human hearts to draw strength from that fullness, step by step”.[63]

76. If we seek to delve more deeply into the mysterious working of the Spirit, we learn that he groans within us, saying “Abba!” Indeed, “the proof that you are children is that God has sent the Spirit of his Son into our hearts, crying, ‘Abba! Father!’” (Gal 4:6). For “the Spirit bears witness with our spirit that we are children of God” (Rom 8:16). The Holy Spirit at work in Christ’s human heart draws him unceasingly to the Father. When the Spirit unites us to the sentiments of Christ through grace, he makes us sharers in the Son’s relationship to the Father, whereby we receive “a spirit of adoption through which we cry out, ‘Abba! Father!’” (Rom 8:15).

77. Our relationship with the heart of Christ is thus changed, thanks to the prompting of the Spirit who guides us to the Father, the source of life and the ultimate wellspring of grace. Christ does not expect us simply to remain in him. His love is “the revelation of the Father’s mercy”,[64] and his desire is that, impelled by the Spirit welling up from his heart, we should ascend to the Father “with him and in him”. We give glory to the Father “through” Christ,[65] “with” Christ,[66] and “in” Christ.[67] Saint John Paul II taught that, “the Saviour’s heart invites us to return to the Father’s love, which is the source of every authentic love”.[68] This is precisely what the Holy Spirit, who comes to us through the heart of Christ, seeks to nurture in our hearts. For this reason, the liturgy, through the enlivening work of the Spirit, always addresses the Father from the risen heart of Christ.

RECENT TEACHINGS OF THE MAGISTERIUM

78. In numerous ways, Christ’s heart has always been present in the history of Christian spirituality. In the Scriptures and in the early centuries of the Church’s life, it appeared under the image of the Lord’s wounded side, as a fountain of grace and a summons to a deep and loving encounter. In this same guise, it has reappeared in the writings of numerous saints, past and present. In recent centuries, this spirituality has gradually taken on the specific form of devotion to the Sacred Heart of Jesus.

79. A number of my Predecessors have spoken in various ways about the heart of Christ and exhorted us to unite ourselves to it. At the end of the nineteenth century, Leo XIII encouraged us to consecrate ourselves to the Sacred Heart, thus uniting our call to union with Christ and our wonder before the magnificence of his infinite love.[69] Some thirty years later, Pius XI presented this devotion as a “summa” of the experience of Christian faith.[70] Pius XII went on to declare that adoration of the Sacred Heart expresses in an outstanding way, as a sublime synthesis, the worship we owe to Jesus Christ.[71]

80. More recently, Saint John Paul II presented the growth of this devotion in recent centuries as a response to the rise of rigorist and disembodied forms of spirituality that neglected the richness of the Lord’s mercy. At the same time, he saw it as a timely summons to resist attempts to create a world that leaves no room for God. “Devotion to the Sacred Heart, as it developed in Europe two centuries ago, under the impulse of the mystical experiences of Saint Margaret Mary Alacoque, was a response to Jansenist rigor, which ended up disregarding God’s infinite mercy… The men and women of the third millennium need the heart of Christ in order to know God and to know themselves; they need it to build the civilization of love”.[72]

81. Benedict XVI asked us to recognize in the heart of Christ an intimate and daily presence in our lives: “Every person needs a ‘centre’ for his or her own life, a source of truth and goodness to draw upon in the events, situations and struggles of daily existence. All of us, when we pause in silence, need to feel not only the beating of our own heart, but deeper still, the beating of a trustworthy presence, perceptible with faith’s senses and yet much more real: the presence of Christ, the heart of the world”.[73]

FURTHER REFLECTIONS AND RELEVANCE FOR OUR TIMES

82. The expressive and symbolic image of Christ’s heart is not the only means granted us by the Holy Spirit for encountering the love of Christ, yet it is, as we have seen, an especially privileged one. Even so, it constantly needs to be enriched, deepened and renewed through meditation, the reading of the Gospel and growth in spiritual maturity. Pius XII made it clear that the Church does not claim that, “we must contemplate and adore in the heart of Jesus a ‘formal’ image, that is, a perfect and absolute sign of his divine love, for the essence of this love can in no way be adequately expressed by any created image whatsoever”.[74]

83. Devotion to Christ’s heart is essential for our Christian life to the extent that it expresses our openness in faith and adoration to the mystery of the Lord’s divine and human love. In this sense, we can once more affirm that the Sacred Heart is a synthesis of the Gospel.[75] We need to remember that the visions or mystical showings related by certain saints who passionately encouraged devotion to Christ’s heart are not something that the faithful are obliged to believe as if they were the word of God.[76] Nonetheless, they are rich sources of encouragement and can prove greatly beneficial, even if no one need feel forced to follow them should they not prove helpful on his or her own spiritual journey. At the same time, however, we should be mindful that, as Pius XII pointed out, this devotion cannot be said “to owe its origin to private revelations”.[77]

84. The promotion of Eucharistic communion on the first Friday of each month, for example, sent a powerful message at a time when many people had stopped receiving communion because they were no longer confident of God’s mercy and forgiveness and regarded communion as a kind of reward for the perfect. In the context of Jansenism, the spread of this practice proved immensely beneficial, since it led to a clearer realization that in the Eucharist the merciful and ever-present love of the heart of Christ invites us to union with him. It can also be said that this practice can prove similarly beneficial in our own time, for a different reason. Amid the frenetic pace of today’s world and our obsession with free time, consumption and diversion, cell phones and social media, we forget to nourish our lives with the strength of the Eucharist.

85. While no one should feel obliged to spend an hour in adoration each Thursday, the practice ought surely to be recommended. When we carry it out with devotion, in union with many of our brothers and sisters and discover in the Eucharist the immense love of the heart of Christ, we “adore, together with the Church, the sign and manifestation of the divine love that went so far as to love, through the heart of the incarnate Word, the human race”.[78]

86. Many Jansenists found this difficult to comprehend, for they looked askance on all that was human, affective and corporeal, and so viewed this devotion as distancing us from pure worship of the Most High God. Pius XII described as “false mysticism”[79] the elitist attitude of those groups that saw God as so sublime, separate and distant that they regarded affective expressions of popular piety as dangerous and in need of ecclesiastical oversight.

87. It could be argued that today, in place of Jansenism, we find ourselves before a powerful wave of secularization that seeks to build a world free of God. In our societies, we are also seeing a proliferation of varied forms of religiosity that have nothing to do with a personal relationship with the God of love, but are new manifestations of a disembodied spirituality. I must warn that within the Church too, a baneful Jansenist dualism has re-emerged in new forms. This has gained renewed strength in recent decades, but it is a recrudescence of that Gnosticism which proved so great a spiritual threat in the early centuries of Christianity because it refused to acknowledge the reality of “the salvation of the flesh”. For this reason, I turn my gaze to the heart of Christ and I invite all of us to renew our devotion to it. I hope this will also appeal to today’s sensitivities and thus help us to confront the dualisms, old and new, to which this devotion offers an effective response.

88. I would add that the heart of Christ also frees us from another kind of dualism found in communities and pastors excessively caught up in external activities, structural reforms that have little to do with the Gospel, obsessive reorganization plans, worldly projects, secular ways of thinking and mandatory programmes. The result is often a Christianity stripped of the tender consolations of faith, the joy of serving others, the fervour of personal commitment to mission, the beauty of knowing Christ and the profound gratitude born of the friendship he offers and the ultimate meaning he gives to our lives. This too is the expression of an illusory and disembodied otherworldliness.

89. Once we succumb to these attitudes, so widespread in our day, we tend to lose all desire to be cured of them. This leads me to propose to the whole Church renewed reflection on the love of Christ represented in his Sacred Heart. For there we find the whole Gospel, a synthesis of the truths of our faith, all that we adore and seek in faith, all that responds to our deepest needs.

90. As we contemplate the heart of Christ, the incarnate synthesis of the Gospel, we can, following the example of Saint Therese of the Child Jesus, “place heartfelt trust not in ourselves but in the infinite mercy of a God who loves us unconditionally and has already given us everything in the cross of Jesus Christ”. [80] Therese was able to do this because she had discovered in the heart of Christ that God is love: “To me he has granted his infinite mercy, and through it I contemplate and adore the other divine perfections”. [81] That is why a popular prayer, directed like an arrow towards the heart of Christ, says simply: “Jesus, I trust in you”. [82] No other words are needed.

91. In the following chapters, we will emphasize two essential aspects that contemporary devotion to the Sacred Heart needs to combine, so that it can continue to nourish us and bring us closer to the Gospel: personal spiritual experience and communal missionary commitment.

CHAPTER FOUR

A LOVE THAT GIVES ITSELF AS DRINK

92. Let us now return to the Scriptures, the inspired texts where, above all, we encounter God’s revelation. There, and in the Church’s living Tradition, we hear what the Lord has wished to tell us in the course of history. By reading several texts from the Old and the New Testaments, we will gain insight into the word of God that has guided the great spiritual pilgrimage of his people down the ages.

A GOD WHO THIRSTS FOR LOVE

93. The Bible shows that the people that journeyed through the desert and yearned for freedom received the promise of an abundance of life-giving water: “With joy you will draw water from the wells of salvation” (Is 12:3). The messianic prophecies gradually coalesced around the imagery of purifying water: “I will sprinkle clean water upon you, and you shall be clean… a new spirit I will put within you” (Ezek 36:25-26). This water would bestow on God’s people the fullness of life, like a fountain flowing from the Temple and bringing a wealth of life and salvation in its wake. “I saw on the bank of the river a great many trees on the one side and on the other… and wherever that river goes, every living creature will live… and when that river enters the sea, its waters will become fresh; everything will live where the river goes” (Ezek 47:7-9).

94. The Jewish festival of Booths ( Sukkot), which recalls the forty-year sojourn of Israel in the desert, gradually adopted the symbolism of water as a central element. It included a rite of offering water each morning, which became most solemn on the final day of the festival, when a great procession took place towards the Temple, the altar was circled seven times and the water was offered to God amid loud cries of joy. [83]

95. The dawn of the messianic era was described as a fountain springing up for the people: “I will pour out a spirit of compassion and supplication on the house of David and the inhabitants of Jerusalem, and they shall look on him whom they have pierced… On that day, a fountain shall be opened for the house of David and the inhabitants of Jerusalem, to cleanse them from sin and impurity” (Zech 12:10; 13:1).

96. One who is pierced, a flowing fountain, the outpouring of a spirit of compassion and supplication: the first Christians inevitably considered these promises fulfilled in the pierced side of Christ, the wellspring of new life. In the Gospel of John, we contemplate that fulfilment. From Jesus’ wounded side, the water of the Spirit poured forth: “One of the soldiers pierced his side with a spear, and at once blood and water flowed out” (Jn 19:34). The evangelist then recalls the prophecy that had spoken of a fountain opened in Jerusalem and the pierced one (Jn 19:37; cf. Zech 12:10). The open fountain is the wounded side of Christ.

97. Earlier, John’s Gospel had spoken of this event, when on “the last day of the festival” (Jn 7:37), Jesus cried out to the people celebrating the great procession: “Let anyone who is thirsty come to me and drink… out of his heart shall flow rivers of living water” (Jn 7:37-38). For this to be accomplished, however, it was necessary for Jesus’ “hour” to come, for he “was not yet glorified” (Jn 7:39). That fulfilment was to come on the cross, in the blood and water that flowed from the Lord’s side.

98. The Book of Revelation takes up the prophecies of the pierced one and the fountain: “every eye will see him, even those who pierced him” (Rev 1:7); “Let everyone who is thirsty come; let anyone who wishes take the water of life as a gift” (Rev 22:17).

99. The pierced side of Jesus is the source of the love that God had shown for his people in countless ways. Let us now recall some of his words:

“Because you are precious in my sight and honoured, I love you” (Is 43:4).

“Can a woman forget her nursing child, or show no compassion for the child of her womb? Even if these may forget, yet I will not forget you. See, I have inscribed you on the palms of my hands” (Is 49:15-16).

“For the mountains may depart, and the hills be removed, but my steadfast love shall not depart from you, and my covenant of peace shall not be removed” (Is 54:10).

“I have loved you with an everlasting love; therefore I have continued my faithfulness to you” (Jer 31:3).

“The Lord, your God, is in your midst, a warrior who gives you victory; he will rejoice over you with gladness, he will renew you in his love; he will exult over you with loud singing” (Zeph 3:17).

100. The prophet Hosea goes so far as to speak of the heart of God, who “led them with cords of human kindness, with bands of love” (Hos 11:4). When that love was spurned, the Lord could say, “My heart is stirred within me; my compassion grows warm and tender (Hos 11:8). God’s merciful love always triumphs (cf. Hos 11:9), and it was to find its most sublime expression in Christ, his definitive Word of love.

101. The pierced heart of Christ embodies all God’s declarations of love present in the Scriptures. That love is no mere matter of words; rather, the open side of his Son is a source of life for those whom he loves, the fount that quenches the thirst of his people. As Saint John Paul II pointed out, “the essential elements of devotion [to the Sacred Heart] belong in a permanent fashion to the spirituality of the Church throughout her history; for since the beginning, the Church has looked to the heart of Christ pierced on the Cross”. [84]

ECHOES OF THE WORD IN HISTORY

102. Let us consider some of the ways that, in the history of the Christian faith, these prophecies were understood to have been fulfilled. Various Fathers of the Church, especially those in Asia Minor, spoke of the wounded side of Jesus as the source of the water of the Holy Spirit: the word, its grace and the sacraments that communicate it. The courage of the martyrs is born of “the heavenly fount of living waters flowing from the side of Christ” [85] or, in the version of Rufinus, “the heavenly and eternal streams that flow from the heart of Christ”. [86] We believers, reborn in the Spirit, emerge from the cleft in the rock; “we have come forth from the heart of Christ”. [87] His wounded side, understood as his heart, filled with the Holy Spirit, comes to us as a flood of living water. “The fount of the Spirit is entirely in Christ”. [88] Yet the Spirit whom we have received does not distance us from the risen Lord, but fills us with his presence, for by drinking of the Spirit we drink of the same Christ. In the words of Saint Ambrose: “Drink of Christ, for he is the rock that pours forth a flood of water. Drink of Christ, for he is the source of life. Drink of Christ, for he is the river whose streams gladden the city of God. Drink of Christ, for he is our peace. Drink of Christ, for from his side flows living water”. [89]

103. Saint Augustine opened the way to devotion to the Sacred Heart as the locus of our personal encounter with the Lord. For Augustine, Christ’s wounded side is not only the source of grace and the sacraments, but also the symbol of our intimate union with Christ, the setting of an encounter of love. There we find the source of the most precious wisdom of all, which is knowledge of him. In effect, Augustine writes that John, the beloved disciple, reclining on Jesus’ bosom at the Last Supper, drew near to the secret place of wisdom. [90] Here we have no merely intellectual contemplation of an abstract theological truth. As Saint Jerome explains, a person capable of contemplation “does not delight in the beauty of that stream of water, but drinks of the living water flowing from the side of the Lord”. [91]

104. Saint Bernard takes up the symbolism of the pierced side of the Lord and understands it explicitly as a revelation and outpouring of all of the love of his heart. Through that wound, Christ opens his heart to us and enables us to appropriate the boundless mystery of his love and mercy: “I take from the bowels of the Lord what is lacking to me, for his bowels overflow with mercy through the holes through which they stream. Those who crucified him pierced his hands and feet, they pierced his side with a lance. And through those holes I can taste wild honey and oil from the rocks of flint, that is, I can taste and see that the Lord is good… A lance passed through his soul even to the region of his heart. No longer is he unable to take pity on my weakness. The wounds inflicted on his body have disclosed to us the secrets of his heart; they enable us to contemplate the great mystery of his compassion”. [92]

105. This theme reappears especially in William of Saint-Thierry, who invites us to enter into the heart of Jesus, who feeds us from his own breast. [93] This is not surprising if we recall that for William, “the art of arts is the art of love… Love is awakened by the Creator of nature, and is a power of the soul that leads it, as if by its natural gravity, to its proper place and end”. [94] That proper place, where love reigns in fullness, is the heart of Christ: “Lord, where do you lead those whom you embrace and clasp to your heart? Your heart, Jesus, is the sweet manna of your divinity that you hold within the golden jar of your soul (cf. Heb 9:4), and that surpasses all knowledge. Happy those who, having plunged into those depths, have been hidden by you in the recess of your heart”. [95]

106. Saint Bonaventure unites these two spiritual currents. He presents the heart of Christ as the source of the sacraments and of grace, and urges that our contemplation of that heart become a relationship between friends, a personal encounter of love.

107. Bonaventure makes us appreciate first the beauty of the grace and the sacraments flowing from the fountain of life that is the wounded side of the Lord. “In order that from the side of Christ sleeping on the cross, the Church might be formed and the Scripture fulfilled that says: ‘They shall look upon him whom they pierced’, one of the soldiers struck him with a lance and opened his side. This was permitted by divine Providence so that, in the blood and water flowing from that wound, the price of our salvation might flow from the hidden wellspring of his heart, enabling the Church’s sacraments to confer the life of grace and thus to be, for those who live in Christ, like a cup filled from the living fount springing up to life eternal”. [96]

108. Bonaventure then asks us to take another step, in order that our access to grace not be seen as a kind of magic or neo-platonic emanation, but rather as a direct relationship with Christ, a dwelling in his heart, so that whoever drinks from that source becomes a friend of Christ, a loving heart. “Rise up, then, O soul who are a friend of Christ, and be the dove that nests in the cleft in the rock; be the sparrow that finds a home and constantly watches over it; be the turtledove that hides the offspring of its chaste love in that most holy cleft”. [97]

THE SPREAD OF DEVOTION TO THE HEART OF CHRIST

109. Gradually, the wounded side of Christ, as the abode of his love and the wellspring of the life of grace, began to be associated with his heart, especially in monastic life. We know that in the course of history, devotion to the heart of Christ was not always expressed in the same way, and that its modern developments, related to a variety of spiritual experiences, cannot be directly derived from the mediaeval forms, much less the biblical forms in which we glimpse the seeds of that devotion. This notwithstanding, the Church today rejects nothing of the good that the Holy Spirit has bestowed on us down the centuries, for she knows that it will always be possible to discern a clearer and deeper meaning in certain aspects of that devotion, and to gain new insights over the course of time.

110. A number of holy women, in recounting their experiences of encounter with Christ, have spoken of resting in the heart of the Lord as the source of life and interior peace. This was the case with Saints Lutgarde and Mechtilde of Hackeborn, Saint Angela of Foligno and Dame Julian of Norwich, to mention only a few. Saint Gertrude of Helfta, a Cistercian nun, tells of a time in prayer when she reclined her head on the heart of Christ and heard its beating. In a dialogue with Saint John the Evangelist, she asked him why he had not described in his Gospel what he experienced when he did the same. Gertrude concludes that “the sweet sound of those heartbeats has been reserved for modern times, so that, hearing them, our aging and lukewarm world may be renewed in the love of God”. [98] Might we think that this is indeed a message for our own times, a summons to realize how our world has indeed “grown old”, and needs to perceive anew the message of Christ’s love? Saint Gertrude and Saint Mechtilde have been considered among “the most intimate confidants of the Sacred Heart”. [99]

111. The Carthusians, encouraged above all by Ludolph of Saxony, found in devotion to the Sacred Heart a means of growth in affection and closeness to Christ. All who enter through the wound of his heart are inflamed with love. Saint Catherine of Siena wrote that the Lord’s sufferings are impossible for us to comprehend, but the open heart of Christ enables us to have a lively personal encounter with his boundless love. “I wished to reveal to you the secret of my heart, allowing you to see it open, so that you can understand that I have loved you so much more than I could have proved to you by the suffering that I once endured”. [100]

112. Devotion to the heart of Christ slowly passed beyond the walls of the monasteries to enrich the spirituality of saintly teachers, preachers and founders of religious congregations, who then spread it to the farthest reaches of the earth. [101]

113. Particularly significant was the initiative taken by Saint John Eudes, who, “after preaching with his confrères a fervent mission in Rennes, convinced the bishop of that diocese to approve the celebration of the feast of the Adorable Heart of our Lord Jesus Christ. This was the first time that such a feast was officially authorized in the Church. Following this, between the years 1670 and 1671, the bishops of Coutances, Evreux, Bayeux, Lisieux and Rouen authorized the celebration of the feast for their respective dioceses”. [102]

SAINT FRANCIS DE SALES

114. In modern times, mention should be made of the important contribution of Saint Francis de Sales. Francis frequently contemplated Christ’s open heart, which invites us to dwell therein, in a personal relationship of love that sheds light on the mysteries of his life. In his writings, the saintly Doctor of the Church opposes a rigorous morality and a legalistic piety by presenting the heart of Jesus as a summons to complete trust in the mysterious working of his grace. We see this expressed in his letter to Saint Jane Francis de Chantal: “I am certain that we will remain no longer in ourselves… but dwell forever in the Lord’s wounded side, for apart from him not only can we do nothing, but even if we were able, we would lack the desire to do anything”. [103]

115. For Francis de Sales, true devotion had nothing to do with superstition or perfunctory piety, since it entails a personal relationship in which each of us feels uniquely and individually known and loved by Christ. “This most adorable and lovable heart of our Master, burning with the love which he professes to us, [is] a heart on which all our names are written… Surely it is a source of profound consolation to know that we are loved so deeply by our Lord, who constantly carries us in his heart”. [104] With the image of our names written on the heart of Christ, Saint Francis sought to express the extent to which Christ’s love for each of us is not something abstract and generic, but utterly personal, enabling each believer to feel known and respected for who he or she is. “How lovely is this heaven, in which the Lord is its sun and his breast a fountain of love from which the blessed drink to their heart’s content! Each of us can look therein and see our name carved in letters of love, which true love alone can read and true love has written. Dear God! And what too, beloved daughter, of our loved ones? Surely they will be there too; for even if our hearts have no love, they nonetheless possess a desire for love and the beginnings of love”. [105]

116. Francis saw this experience of Christ’s love as essential to the spiritual life, indeed one of the great truths of faith: “Yes, my beloved daughter, he thinks of you and not only, but even the smallest hair of your head: this is an article of faith and in no way must it be doubted”. [106] It follows that the believer becomes capable of complete abandonment in the heart of Christ, in which he or she finds repose, comfort and strength: “Oh God! What happiness to be thus embraced and to recline in the bosom of the Saviour. Remain thus, beloved daughter, and like another little one, Saint John, while others are tasting different kinds of food at the table of the Lord, lay your head, your soul and your spirit, in a gesture of utter trust, on the loving bosom of this dear Lord”. [107] “I hope that you are resting in the cleft of the turtledove and in the pierced side of our beloved Saviour… How good is this Lord, my beloved daughter! How loving is his Heart! Let us remain here, in this holy abode”. [108]

117. At the same time, faithful to his teaching on the sanctification of ordinary life, Francis proposes that this experience take place in the midst of the activities, tasks and obligations of our daily existence. “You asked me how souls that are attracted in prayer to this holy simplicity, to this perfect abandonment in God, should conduct themselves in all their actions? I would reply that, not only in prayer, but also in the conduct of everyday life they should advance always in the spirit of simplicity, abandoning and completely surrendering their soul, their actions and their accomplishments to God’s will. And to do so with a love marked by perfect and absolute trust, abandoning themselves to grace and to the care of the eternal love that divine Providence feels for them”. [109]

118. For this reason, when looking for a symbol to convey his vision of spiritual life, Francis de Sales concluded: “I have thought, dear Mother, if you agree, that we should take as our emblem a single heart pierced by two arrows, the whole enclosed in a crown of thorns”. [110]

A NEW DECLARATION OF LOVE

119. Under the salutary influence of this Salesian spirituality, the events of Paray-le-Monial took place at the end of the seventeenth century. Saint Margaret Mary Alacoque reported a remarkable series of apparitions of Christ between the end of December 1673 and June of 1675. Fundamental to these was a declaration of love that stood out in the first apparition. Jesus said: “My divine Heart is so inflamed with love for men, and for you in particular, that, no longer able to contain in itself the flames of its ardent charity, it must pour them out through you and be manifested to them, in order to enrich them with its precious treasures which I now reveal to you”. [111]

120. Saint Margaret Mary’s account is powerful and deeply moving: “He revealed to me the wonders of his love and the inexplicable secrets of his Sacred Heart which he had hitherto kept hidden from me, until he opened it to me for the first time, in such a striking and sensible manner that he left me no room for doubt”. [112] In subsequent appearances, that consoling message was reiterated: “He revealed to me the ineffable wonders of his pure love and to what extremes it had led him to love mankind”. [113]

121. This powerful realization of the love of Jesus Christ bequeathed to us by Saint Margaret Mary can spur us to greater union with him. We need not feel obliged to accept or appropriate every detail of her spiritual experience, in which, as often happens, God’s intervention combines with human elements related to the individual’s own desires, concerns and interior images. [114] Such experiences must always be interpreted in the light of the Gospel and the rich spiritual tradition of the Church, even as we acknowledge the good they accomplish in many of our brothers and sisters. In this way, we can recognize the gifts of the Holy Spirit present in those experiences of faith and love. More important than any individual detail is the core of the message handed on to us, which can be summed up in the words heard by Saint Margaret Mary: “This is the heart that so loved human beings that it has spared nothing, even to emptying and consuming itself in order to show them its love”. [115]

122. This apparition, then, invites us to grow in our encounter with Christ, putting our trust completely in his love, until we attain full and definitive union with him. “It is necessary that the divine heart of Jesus in some way replace our own; that he alone live and work in us and for us; that his will… work absolutely and without any resistance on our part; and finally that its affections, thoughts and desires take the place of our own, especially his love, so that he is loved in himself and for our sakes. And so, this lovable heart being our all in all, we can say with Saint Paul that we no longer live our own lives, but it is he who lives within us”. [116]

123. In the first message that Saint Margaret Mary received, this invitation was expressed in vivid, fervent and loving terms. “He asked for my heart, which I asked him to take, which he did and then placed myself in his own adorable heart, from which he made me see mine like a little atom consumed in the fiery furnace of his own”. [117]

124. At another point, we see that the one who gives himself to us is the risen and glorified Christ, full of life and light. If indeed, at different times, he spoke of the suffering that he endured for our sake and of the ingratitude with which it is met, what we see here are not so much his blood and painful wounds, but rather the light and fire of the Lord of life. The wounds of the passion have not disappeared, but are now transfigured. Here we see the paschal mystery in all its splendour: “Once, when the Blessed Sacrament was exposed, Jesus appeared, resplendent in glory, with his five wounds that appeared as so many suns blazing forth from his sacred humanity, but above all from his adorable breast, which seemed a fiery furnace. Opening his robe, he revealed his most loving and lovable heart, which was the living source of those flames. Then it was that I discovered the ineffable wonders of his pure love, with which he loves men to the utmost, yet receives from them only ingratitude and indifference”. [118]

SAINT CLAUDE DE LA COLOMBIÈRE

125. When Saint Claude de La Colombière learned of the experiences of Saint Margaret Mary, he immediately undertook her defence and began to spread word of the apparitions. Saint Claude played a special role in developing the understanding of devotion to the Sacred Heart and its meaning in the light of the Gospel.

126. Some of the language of Saint Margaret Mary, if poorly understood, might suggest undue trust in our personal sacrifices and offerings. Saint Claude insists that contemplation of the heart of Jesus, when authentic, does not provoke self-complacency or a vain confidence in our own experiences or human efforts, but rather an ineffable abandonment in Christ that fills our life with peace, security and decision. He expressed this absolute confidence most eloquently in a celebrated prayer:

“My God, I am so convinced that you keep watch over those who hope in you, and that we can want for nothing when we look for all in you, that I am resolved in the future to live free from every care and to turn all my anxieties over to you… I shall never lose my hope. I shall keep it to the last moment of my life; and at that moment all the demons in hell will strive to tear it from me… Others may look for happiness from their wealth or their talents; others may rest on the innocence of their life, or the severity of their penance, or the amount of their alms, or the fervour of their prayers. As for me, Lord, all my confidence is confidence itself. This confidence has never deceived anyone… I am sure, therefore, that I shall be eternally happy, since I firmly hope to be, and because it is from you, O God, that I hope for it”. [119]

127. In a note of January 1677, after mentioning the assurance he felt regarding his mission, Claude continued: “I have come to know that God wanted me to serve him by obtaining the fulfilment of his desires regarding the devotion that he suggested to a person to whom he communicates in confidence, and for whose sake he has desired to make use of my weakness. I have already used it to help several persons”. [120]

128. It should be recognized that the spirituality of Blessed Claude de La Colombière resulted in a fine synthesis of the profound and moving spiritual experience of Saint Margaret Mary and the vivid and concrete form of contemplation found in the Spiritual Exercises of Saint Ignatius Loyola. At the beginning of the third week of the Exercises, Claude reflected: “Two things have moved me in a striking way. First, the attitude of Christ towards those who sought to arrest him. His heart is full of bitter sorrow; every violent passion is unleashed against him and all nature is in turmoil, yet amid all this confusion, all these temptations, his heart remains firmly directed to God. He does not hesitate to take the part that virtue and the highest virtue suggested to him. Second, the attitude of that same heart towards Judas who betrayed him, the apostles who cravenly abandoned him, the priests and the others responsible for the persecution he suffered; none of these things was able to arouse in him the slightest sentiment of hatred or indignation. I present myself anew to this heart free of anger, free of bitterness, filled instead with genuine compassion towards its enemies”. [121]

SAINT CHARLES DE FOUCAULD AND SAINT THERESE OF THE CHILD JESUS

129. Saint Charles de Foucauld and Saint Therese of the Child Jesus, without intending to, reshaped certain aspects of devotion to the heart of Christ and thus helped us understand it in an even more evangelical spirit. Let us now examine how this devotion found expression in their lives. In the following chapter, we will return to them, in order to illustrate the distinctively missionary dimension that each of them brought to the devotion.

Iesus Caritas

130. In Louye, Charles de Foucauld was accustomed to visit the Blessed Sacrament with his cousin, Marie de Bondy. One day she showed him an image of the Sacred Heart. [122] His cousin played a fundamental role in Charles’s conversion, as he himself acknowledged: “Since God has made you the first instrument of his mercies towards me, from you everything else began. Had you not converted me, brought me to Jesus and taught me little by little, letter by letter, all that is holy and good, where would I be today?” [123] What Marie awakened in him was an intense awareness of the love of Jesus. That was the essential thing, and centred on devotion to the heart of Jesus, in which he encountered unbounded mercy: “Let us trust in the infinite mercy of the one whose heart you led me to know”. [124]

131.Later, his spiritual director, Father Henri Huvelin, helped Charles to deepen his understanding of the inestimable mystery of “this blessed heart of which you spoke to me so often”. [125] On 6 June 1889, Charles consecrated himself to the Sacred Heart, in which he found a love without limits. He told Christ, “You have bestowed on me so many benefits, that it would appear ingratitude towards your heart not to believe that it is disposed to bestow on me every good, however great, and that your love and your generosity are boundless”. [126] He was to become a hermit “under the name of the heart of Jesus”. [127]

132. On 17 May 1906, the same day in which Brother Charles, alone, could no longer celebrate Mass, he wrote of his promise “to let the heart of Jesus live in me, so that it is no longer I who live, but the heart of Jesus that lives in me, as he lived in Nazareth”. [128] His friendship with Jesus, heart to heart, was anything but a privatized piety. It inspired the austere life he led in Nazareth, born of a desire to imitate Christ and to be conformed to him. His loving devotion to the heart of Jesus had a concrete effect on his style of life, and his Nazareth was nourished by his personal relationship with the heart of Christ.

Saint Therese of the Child Jesus

133. Like Saint Charles de Foucauld, Saint Therese of the Child Jesus was influenced by the great renewal of devotion that swept nineteenth-century France. Father Almire Pichon, the spiritual director of her family, was seen as a devoted apostle of the Sacred Heart. One of her sisters took as her name in religion “Sister Marie of the Sacred Heart”, and the monastery that Therese entered was dedicated to the Sacred Heart. Her devotion nonetheless took on certain distinctive traits with regard to the customary piety of that age.

134. When Therese was fifteen, she could speak of Jesus as the one “whose heart beats in unison with my own”. [129] Two years later, speaking of the image of Christ’s heart crowned with thorns, she wrote in a letter: “You know that I myself do not see the Sacred Heart as everyone else. I think that the Heart of my Spouse is mine alone, just as mine is his alone, and I speak to him then in the solitude of this delightful heart to heart, while waiting to contemplate him one day face to face”. [130]

135.In one of her poems, Therese voiced the meaning of her devotion, which had to do more with friendship and assurance than with trust in her sacrifices:

“I need a heart burning with tenderness,

Who will be my support forever,

Who loves everything in me, even my weakness…

And who never leaves me day or night…

I must have a God who takes on my nature,

And becomes my brother and is able to suffer! …

Ah! I know well, all our righteousness

Is worthless in your sight…

So I, for my purgatory,

Choose your burning love, O heart of my God!” [131]

136. Perhaps the most important text for understanding the devotion of Therese to the heart of Christ is a letter that she wrote three months before her death to her friend Maurice Bellière. “When I see Mary Magdalene walking up before the many guests, washing with her tears the feet of her adored Master, whom she is touching for the first time, I feel that her heart has understood the abysses of love and mercy of the heart of Jesus, and, sinner though she is, this heart of love was disposed not only to pardon her but to lavish on her the blessings of his divine intimacy, to lift her to the highest summits of contemplation. Ah! dear little Brother, ever since I have been given the grace to understand also the love of the heart of Jesus, I admit that it has expelled all fear from my heart. The remembrance of my faults humbles me, draws me never to depend on my strength which is only weakness, but this remembrance speaks to me of mercy and love even more”. [132]

137. Those moralizers who want to keep a tight rein on God’s mercy and grace might claim that Therese could say this because she was a saint, but a simple person could not say the same. In that way, they excise from the spirituality of Saint Therese its wonderful originality, which reflects the heart of the Gospel. Sadly, in certain Christian circles we often encounter this attempt to fit the Holy Spirit into a certain preconceived pattern in a way that enables them to keep everything under their supervision. Yet this astute Doctor of the Church reduces them to silence and directly contradicts their reductive view in these clear words: “If I had committed all possible crimes, I would always have the same confidence; I feel that this whole multitude of offenses would be like a drop of water thrown into a fiery furnace”. [133]

138. To Sister Marie, who praised her generous love of God, prepared even to embrace martyrdom, Therese responded at length in a letter that is one of the great milestones in the history of spirituality. This page ought to be read a thousand times over for its depth, clarity and beauty. There, Therese helps her sister, “Marie of the Sacred Heart”, to avoid focusing this devotion on suffering, since some had presented reparation primarily in terms of accumulating sacrifices and good works. Therese, for her part, presents confidence as the greatest and best offering, pleasing to the heart of Christ: “My desires of martyrdom are nothing; they are not what give me the unlimited confidence that I feel in my heart. They are, to tell the truth, the spiritual riches that render one unjust, when one rests in them with complacence and one believes that they are something great… what pleases [Jesus] is that he sees me loving my littleness and my poverty, the blind hope that I have in his mercy… That is my only treasure… If you want to feel joy, to have an attraction for suffering, it is your consolation that you are seeking… Understand that to be his victim of love, the weaker one is, without desires or virtues, the more suited one is for the workings of this consuming and transforming Love… Oh! How I would like to be able to make you understand what I feel!… It is confidence and nothing but confidence that must lead us to Love”. [134]

139. In many of her writings, Therese speaks of her struggle with forms of spirituality overly focused on human effort, on individual merit, on offering sacrifices and carrying out certain acts in order to “win heaven”. For her, “merit does not consist in doing or in giving much, but rather in receiving”. [135] Let us read once again some of these deeply meaningful texts where she emphasizes this and presents it as a simple and rapid means of taking hold of the Lord “by his heart”.

140. To her sister Léonie she writes, “I assure you that God is much better than you believe. He is content with a glance, a sigh of love… As for me, I find perfection very easy to practise because I have understood it is a matter of taking hold of Jesus by his heart… Look at a little child who has just annoyed his mother… If he comes to her, holding out his little arms, smiling and saying: ‘Kiss me, I will not do it again’, will his mother be able not to press him to her heart tenderly and forget his childish mischief? However, she knows her dear little one will do it again on the next occasion, but this does not matter; if he takes her again by her heart, he will not be punished”. [136]

141. So too, in a letter to Father Adolphe Roulland she writes, “[M]y way is all confidence and love. I do not understand souls who fear a friend so tender. At times, when I am reading certain spiritual treatises in which perfection is shown through a thousand obstacles, surrounded by a crowd of illusions, my poor little mind quickly tires; I close the learned book that is breaking my head and drying up my heart, and I take up Holy Scripture. Then all seems luminous to me; a single word uncovers for my soul infinite horizons, perfection seems simple to me. I see that it is sufficient to recognize one’s nothingness and to abandon oneself like a child into God’s arms”. [137]

142. In yet another letter, she relates this to the love shown by a parent: “I do not believe that the heart of [a] father could resist the filial confidence of his child, whose sincerity and love he knows. He realizes, however, that more than once his son will fall into the same faults, but he is prepared to pardon him always, if his son always takes him by his heart”. [138]

RESONANCES WITHIN THE SOCIETY OF JESUS

143. We have seen how Saint Claude de La Colombière combined the spiritual experience of Saint Margaret Mary with the aim of the Spiritual Exercises. I believe that the place of the Sacred Heart in the history of the Society of Jesus merits a few brief words.

144. The spirituality of the Society of Jesus has always proposed an “interior knowledge of the Lord in order to love and follow him more fully”. [139] Saint Ignatius invites us in his Spiritual Exercises to place ourselves before the Gospel that tells us that, “[Christ’s] side was pierced by the lance and blood and water flowed forth”. [140] When retreatants contemplate the wounded side of the crucified Lord, Ignatius suggests that they enter into the heart of Christ. Thus we have a way to enlarge our own hearts, recommended by one who was a “master of affections”, to use the words of Saint Peter Faber in one of his letters to Saint Ignatius. [141] Father Juan Alfonso de Polanco echoed that same expression in his biography of Saint Ignatius: “He [Cardinal Gasparo Contarini] realized that in Father Ignatius he had encountered a master of affections”. [142] The colloquies that Saint Ignatius proposed are an essential part of this training of the heart, for in them we sense and savour with the heart a Gospel message and converse about it with the Lord. Saint Ignatius tells us that we can share our concerns with the Lord and seek his counsel. Anyone who follows the Exercises can readily see that they involve a dialogue, heart to heart.

145. Saint Ignatius brings his contemplations to a crescendo at the foot of the cross and invites the retreatant to ask the crucified Lord with great affection, “as one friend to another, as a servant to his master”, what he or she must do for him. [143] The progression of the Exercises culminates in the “Contemplation to Attain Love”, which gives rise to thanksgiving and the offering of one’s “memory, understanding and will” to the heart which is the fount and origin of every good thing. [144] This interior contemplation is not the fruit of our understanding and effort, but is to be implored as a gift.

146. This same experience inspired the great succession of Jesuit priests who spoke explicitly of the heart of Jesus: Saint Francis Borgia, Saint Peter Faber, Saint Alphonsus Rodriguez, Father Álvarez de Paz, Father Vincent Carafa, Father Kasper Drużbicki and countless others. In 1883, the Jesuits declared that, “the Society of Jesus accepts and receives with an overflowing spirit of joy and gratitude the most agreeable duty entrusted to it by our Lord Jesus Christ to practise, promote and propagate devotion to his divine heart”. [145] In September 1871, Father Pieter Jan Beckx consecrated the Society to the Sacred Heart of Jesus and, as a sign that it remains an outstanding element in the life of the Society, Father Pedro Arrupe renewed that consecration in 1972, with a conviction that he explained in these words: “I therefore wish to say to the Society something about which I feel I cannot remain silent. From my novitiate on, I have always been convinced that what we call devotion to the Sacred Heart contains a symbolic expression of what is most profound in Ignatian spirituality, and of an extraordinary efficacy – ultra quam speraverint – both for its own perfection and for its apostolic fruitfulness. I continue to have this same conviction… In this devotion I encounter one of the deepest sources of my interior life”. [146]

147. When Saint John Paul II urged “all the members of the Society to be even more zealous in promoting this devotion, which corresponds more than ever to the expectations of our time”, he did so because he recognized the profound connection between devotion to the heart of Christ and Ignatian spirituality. For “the desire to ‘know the Lord intimately’ and to ‘have a conversation’ with him, heart to heart, is characteristic of the Ignatian spiritual and apostolic dynamism, thanks to the Spiritual Exercises, and this dynamism is wholly at the service of the love of the heart of God”. [147]

A BROAD CURRENT OF THE INTERIOR LIFE

148. Devotion to the heart of Christ reappears in the spiritual journey of many saints, all quite different from each other; in every one of them, the devotion takes on new hues. Saint Vincent de Paul, for example, used to say that what God desires is the heart: “God asks primarily for our heart – our heart – and that is what counts. How is it that a man who has no wealth will have greater merit than someone who has great possessions that he gives up? Because the one who has nothing does it with greater love; and that is what God especially wants…” [148] This means allowing one’s heart to be united to that of Christ. “What blessing should a Sister not hope for from God if she does her utmost to put her heart in the state of being united with the heart of our Lord!” [149]

149. At times, we may be tempted to consider this mystery of love as an admirable relic from the past, a fine spirituality suited to other times. Yet we need to remind ourselves constantly that, as a saintly missionary once said, “this divine heart, which let itself be pierced by an enemy’s lance in order to pour forth through that sacred wound the sacraments by which the Church was formed, has never ceased to love”. [150] More recent saints, like Saint Pius of Pietrelcina, Saint Teresa of Calcutta and many others, have spoken with deep devotion of the heart of Christ. Here I would also mention the experiences of Saint Faustina Kowalska, which re-propose devotion to the heart of Christ by greatly emphasizing the glorious life of the risen Lord and his divine mercy. Inspired by her experiences and the spiritual legacy of Saint Józef Sebastian Pelczar (1842-1924), [151] Saint John Paul II intimately linked his reflections on divine mercy with devotion to the heart of Christ: “The Church seems in a singular way to profess the mercy of God and to venerate it when she directs herself to the heart of Christ. In fact, it is precisely this drawing close to Christ in the mystery of his heart which enables us to dwell on this point of the revelation of the merciful love of the Father, a revelation that constituted the central content of the messianic mission of the Son of Man”. [152] Saint John Paul also spoke of the Sacred Heart in very personal terms, acknowledging that, “it has spoken to me ever since my youth”. [153]

150. The enduring relevance of devotion to the heart of Christ is especially evident in the work of evangelization and education carried out by the numerous male and female religious congregations whose origins were marked by this profoundly Christological devotion. Mentioning all of them by name would be an endless undertaking. Let us simply consider two examples taken at random: “The Founder [Saint Daniel Comboni] discovered in the mystery of the heart of Jesus the source of strength for his missionary commitment”. [154] “Caught up as we are in the desires of the heart of Jesus, we want people to grow in dignity, as human beings and as children of God. Our starting point is the Gospel, with all that it demands from us of love, forgiveness and justice, and of solidarity with those who are poor and rejected by the world”. [155] So too, the many shrines worldwide that are consecrated to the heart of Christ continue to be an impressive source of renewal in prayer and spiritual fervour. To all those who in any way are associated with these spaces of faith and charity I send my paternal blessing.

THE DEVOTION OF CONSOLATION

151. The wound in Christ’s side, the wellspring of living water, remains open in the risen body of the Saviour. The deep wound inflicted by the lance and the wounds of the crown of thorns that customarily appear in representations of the Sacred Heart are an inseparable part of this devotion, in which we contemplate the love of Christ who offered himself in sacrifice to the very end. The heart of the risen Lord preserves the signs of that complete self-surrender, which entailed intense sufferings for our sake. It is natural, then, that the faithful should wish to respond not only to this immense outpouring of love, but also to the suffering that the Lord chose to endure for the sake of that love.

With Jesus on the cross

152. It is fitting to recover one particular aspect of the spirituality that has accompanied devotion to the heart of Christ, namely, the interior desire to offer consolation to that heart. Here I will not discuss the practice of “reparation”, which I deem better suited to the social dimension of this devotion to be discussed in the next chapter. I would like instead to concentrate on the desire often felt in the hearts of the faithful who lovingly contemplate the mystery of Christ’s passion and experience it as a mystery which is not only recollected but becomes present to us by grace, or better, allows us to be mystically present at the moment of our redemption. If we truly love the Lord, how could we not desire to console him?

153. Pope Pius XI wished to ground this particular devotion in the realization that the mystery of our redemption by Christ’s passion transcends, by God’s grace, all boundaries of time and space. On the cross, Jesus offered himself for all sins, including those yet to be committed, including our own sins. In the same way, the acts we now offer for his consolation, also transcending time, touch his wounded heart. “If, because of our sins too, as yet in the future but already foreseen, the soul of Jesus became sorrowful unto death, it cannot be doubted that at the same time he derived some solace from our reparation, likewise foreseen, at the moment when ‘there appeared to him an angel from heaven’ ( Lk 22:43), in order that his heart, oppressed with weariness and anguish, might find consolation. And so even now, in a wondrous yet true manner, we can and ought to console that Most Sacred Heart, which is continually wounded by the sins of thankless men”. [156]

Reasons of the heart

154. It might appear to some that this aspect of devotion to the Sacred Heart lacks a firm theological basis, yet the heart has its reasons. Here the sensus fidelium perceives something mysterious, beyond our human logic, and realizes that the passion of Christ is not merely an event of the past, but one in which we can share through faith. Meditation on Christ’s self-offering on the cross involves, for Christian piety, something much more than mere remembrance. This conviction has a solid theological grounding. [157] We can also add the recognition of our own sins, which Jesus took upon his bruised shoulders, and our inadequacy in the face of that timeless love, which is always infinitely greater.

155. We may also question how we can pray to the Lord of life, risen from the dead and reigning in glory, while at the same time comforting him in the midst of his sufferings. Here we need to realize that his risen heart preserves its wound as a constant memory, and that the working of grace makes possible an experience that is not restricted to a single moment of the past. In pondering this, we find ourselves invited to take a mystical path that transcends our mental limitations yet remains firmly grounded in the word of God. Pope Pius XI makes this clear: “How can these acts of reparation offer solace now, when Christ is already reigning in the beatitude of heaven? To this question, we may answer in the words of Saint Augustine, which are very apposite here – ‘Give me the one who loves, and he will understand what I say’. Anyone possessed of great love for God, and who looks back to the past, can dwell in meditation on Christ, and see him labouring for man, sorrowing, suffering the greatest hardships, ‘for us men and for our salvation’, well-nigh worn out with sadness, with anguish, nay ‘bruised for our sins’ ( Is 53:5), and bringing us healing by those very bruises. The more the faithful ponder all these things the more clearly they see that the sins of mankind, whenever they were committed, were the reason why Christ was delivered up to death”. [158]

156. Those words of Pius XI merit serious consideration. When Scripture states that believers who fail to live in accordance with their faith “are crucifying again the Son of God” (Heb 6:6), or when Paul, offering his sufferings for the sake of others, says that, “in my flesh I am completing what is lacking in Christ’s afflictions” (Col 1:24), or again, when Christ in his passion prays not only for his disciples at that time, but also for “those who will believe in me through their word” (Jn 17:20), all these statements challenge our usual way of thinking. They show us that it is not possible to sever the past completely from the present, however difficult our minds find this to grasp. The Gospel, in all its richness, was written not only for our prayerful meditation, but also to enable us to experience its reality in our works of love and in our interior life. This is certainly the case with regard to the mystery of Christ’s death and resurrection. The temporal distinctions that our minds employ appear incapable of embracing the fullness of this experience of faith, which is the basis both of our union with Christ in his suffering and of the strength, consolation and friendship that we enjoy with him in his risen life.

157. We see, then, the unity of the paschal mystery in these two inseparable and mutually enriching aspects. The one mystery, present by grace in both these dimensions, ensures that whenever we offer some suffering of our own to Christ for his consolation, that suffering is illuminated and transfigured in the paschal light of his love. We share in this mystery in our own life because Christ himself first chose to share in that life. He wished to experience first, as Head, what he would then experience in his Body, the Church: both our wounds and our consolations. When we live in God’s grace, this mutual sharing becomes for us a spiritual experience. In a word, the risen Lord, by the working of his grace, mysteriously unites us to his passion. The hearts of the faithful, who experience the joy of the resurrection, yet at the same time desire to share in the Lord’s passion, understand this. They desire to share in his sufferings by offering him the sufferings, the struggles, the disappointments and the fears that are part of their own lives. Nor do they experience this as isolated individuals, since their sufferings are also a participation in the suffering of the mystical Body of Christ, the holy pilgrim People of God, which shares in the passion of Christ in every time and place. The devotion of consolation, then, is in no way ahistorical or abstract; it becomes flesh and blood in the Church’s pilgrimage through history.

Compunction

158. The natural desire to console Christ, which begins with our sorrow in contemplating what he endured for us, grows with the honest acknowledgment of our bad habits, compulsions, attachments, weak faith, vain goals and, together with our actual sins, the failure of our hearts to respond to the Lord’s love and his plan for our lives. This experience proves purifying, for love needs the purification of tears that, in the end, leave us more desirous of God and less obsessed with ourselves.

159. In this way, we see that the deeper our desire to console the Lord, the deeper will be our sincere sense of “compunction”. Compunction is “not a feeling of guilt that makes us discouraged or obsessed with our unworthiness, but a beneficial ‘piercing’ that purifies and heals the heart. Once we acknowledge our sin, our hearts can be opened to the working of the Holy Spirit, the source of living water that wells up within us and brings tears to our eyes… This does not mean weeping in self-pity, as we are so often tempted to do… To shed tears of compunction means seriously to repent of grieving God by our sins; recognizing that we always remain in God’s debt… Just as drops of water can wear down a stone, so tears can slowly soften hardened hearts. Here we see the miracle of sorrow, that ‘salutary sorrow’ which brings great peace… Compunction, then, is not our work but a grace and, as such, it must be sought in prayer.” [159] It means, “asking for sorrow in company with Christ in his sorrow, for anguish with Christ in his anguish, for tears and a deep sense of pain at the great pains that Christ endured for my sake”. [160]

160. I ask, then, that no one make light of the fervent devotion of the holy faithful people of God, which in its popular piety seeks to console Christ. I also encourage everyone to consider whether there might be greater reasonableness, truth and wisdom in certain demonstrations of love that seek to console the Lord than in the cold, distant, calculated and nominal acts of love that are at times practised by those who claim to possess a more reflective, sophisticated and mature faith.

Consoled ourselves in order to console others

161. In contemplating the heart of Christ and his self-surrender even to death, we ourselves find great consolation. The grief that we feel in our hearts gives way to complete trust and, in the end, what endures is gratitude, tenderness, peace; what endures is Christ’s love reigning in our lives. Compunction, then, “is not a source of anxiety but of healing for the soul, since it acts as a balm on the wounds of sin, preparing us to receive the caress of the Lord”. [161] Our sufferings are joined to the suffering of Christ on the cross. If we believe that grace can bridge every distance, this means that Christ by his sufferings united himself to the sufferings of his disciples in every time and place. In this way, whenever we endure suffering, we can also experience the interior consolation of knowing that Christ suffers with us. In seeking to console him, we will find ourselves consoled.

162. At some point, however, in our contemplation, we should likewise hear the urgent plea of the Lord: “Comfort, comfort my people!” (Is 40:1). As Saint Paul tells us, God offers us consolation “so that we may be able to console those who are in any affliction, with the consolation by which we ourselves are consoled by God” (2 Cor 1:4).

163. This then challenges us to seek a deeper understanding of the communitarian, social and missionary dimension of all authentic devotion to the heart of Christ. For even as Christ’s heart leads us to the Father, it sends us forth to our brothers and sisters. In the fruits of service, fraternity and mission that the heart of Christ inspires in our lives, the will of the Father is fulfilled. In this way, we come full circle: “My Father is glorified by this, that you bear much fruit” (Jn 15:8).

CHAPTER FIVE

LOVE FOR LOVE

164. In the spiritual experiences of Saint Margaret Mary Alacoque, we encounter, along with an ardent declaration of love for Jesus Christ, a profoundly personal and challenging invitation to entrust our lives to the Lord. The knowledge that we are loved, and our complete confidence in that love, in no way lessens our desire to respond generously, despite our frailty and our many shortcomings.

A LAMENT AND A REQUEST

165. Beginning with his second great apparition to Saint Margaret Mary, Jesus spoke of the sadness he feels because his great love for humanity receives in exchange “nothing but ingratitude and indifference”, “coldness and contempt”. And this, he added, “is more grievous to me than all that I endured in my Passion”. [162]

166. Jesus spoke of his thirst for love and revealed that his heart is not indifferent to the way we respond to that thirst. In his words, “I thirst, but with a thirst so ardent to be loved by men in the Most Blessed Sacrament, that this thirst consumes me; and I have not encountered anyone who makes an effort, according to my desire, to quench my thirst, giving back a return for my love”. [163] Jesus asks for love. Once the faithful heart realizes this, its spontaneous response is one of love, not a desire to multiply sacrifices or simply discharge a burdensome duty: “I received from my God excessive graces of his love, and I felt moved by the desire to respond to some of them and to respond with love for love”. [164] As my Predecessor Leo XIII pointed out, through the image of his Sacred Heart, the love of Christ “moves us to return love for love”. [165]

EXTENDING CHRIST’S LOVE TO OUR BROTHERS AND SISTERS

167. We need once more to take up the word of God and to realize, in doing so, that our best response to the love of Christ’s heart is to love our brothers and sisters. There is no greater way for us to return love for love. The Scriptures make this patently clear:

“Just as you did it to one of the least of these my brethren, you did it to me” (Mt 25:40).

“For the whole law is summed up in a single commandment: ‘You shall love your neighbour as yourself’” (Gal 5:14).

“We know that we have passed from death to life because we love one another. Whoever does not love abides in death” (1 Jn 3:14).

“Those who do not love a brother or sister whom they have seen, cannot love God whom they have not seen” (1 Jn 4:20).

168. Love for our brothers and sisters is not simply the fruit of our own efforts; it demands the transformation of our selfish hearts. This realization gave rise to the oft-repeated prayer: “Jesus, make our hearts more like your own”. Saint Paul, for his part, urged his hearers to pray not for the strength to do good works, but “to have the same mind among you that was in Christ Jesus” (Phil 2:5).

169. We need to remember that in the Roman Empire many of the poor, foreigners and others who lived on the fringes of society met with respect, affection and care from Christians. This explains why the apostate emperor Julian, in one of his letters, acknowledged that one reason why Christians were respected and imitated was the assistance they gave the poor and strangers, who were ordinarily ignored and treated with contempt. For Julian, it was intolerable that the Christians whom he despised, “in addition to feeding their own, also feed our poor and needy, who receive no help from us”. [166] The emperor thus insisted on the need to create charitable institutions to compete with those of the Christians and thus gain the respect of society: “There should be instituted in each city many accommodations so that the immigrants may enjoy our philanthropy… and make the Greeks accustomed to such works of generosity”. [167] Julian did not achieve his objective, no doubt because underlying those works there was nothing comparable to the Christian charity that respected the unique dignity of each person.

170. By associating with the lowest ranks of society (cf. Mt 25:31-46), “Jesus brought the great novelty of recognizing the dignity of every person, especially those who were considered ‘unworthy’. This new principle in human history – which emphasizes that individuals are even more ‘worthy’ of our respect and love when they are weak, scorned, or suffering, even to the point of losing the human ‘figure’ – has changed the face of the world. It has given life to institutions that take care of those who find themselves in disadvantaged conditions, such as abandoned infants, orphans, the elderly who are left without assistance, the mentally ill, people with incurable diseases or severe deformities, and those living on the streets”. [168]

171. In contemplating the pierced heart of the Lord, who “took our infirmities and bore our diseases” ( Mt 8:17), we too are inspired to be more attentive to the sufferings and needs of others, and confirmed in our efforts to share in his work of liberation as instruments for the spread of his love. [169] As we meditate on Christ’s self-offering for the sake of all, we are naturally led to ask why we too should not be ready to give our lives for others: “We know love by this, that he laid down his life for us – and that we ought to lay down our lives for one another” ( 1 Jn 3:16).

ECHOES IN THE HISTORY OF SPIRITUALITY

172. This bond between devotion to the heart of Jesus and commitment to our brothers and sisters has been a constant in the history of Christian spirituality. Let us consider a few examples.

Being a fountain from which others can drink

173. Starting with Origen, various Fathers of the Church reflected on the words of John 7:38 – “out of his heart shall flow rivers of living water” – which refer to those who, having drunk of Christ, put their faith in him. Our union with Christ is meant not only to satisfy our own thirst, but also to make us springs of living water for others. Origen wrote that Christ fulfils his promise by making fountains of fresh water well up within us: “The human soul, made in the image of God, can itself contain and pour forth wells, fountains and rivers”. [170]

174. Saint Ambrose recommended drinking deeply of Christ, “in order that the spring of water welling up to eternal life may overflow in you”. [171] Marius Victorinus was convinced that the Holy Spirit has given of himself in such abundance that, “whoever receives him becomes a heart that pours forth rivers of living water”. [172] Saint Augustine saw this stream flowing from the believer as benevolence. [173] Saint Thomas Aquinas thus maintained that whenever someone “hastens to share various gifts of grace received from God, living water flows from his heart”. [174]

175. Although “the sacrifice offered on the cross in loving obedience renders most abundant and infinite satisfaction for the sins of mankind”, [175] the Church, born of the heart of Christ, prolongs and bestows, in every time and place, the fruits of that one redemptive passion, which lead men and women to direct union with the Lord.

176. In the heart of the Church, the mediation of Mary, as our intercessor and mother, can only be understood as “a sharing in the one source, which is the mediation of Christ himself”, [176] the sole Redeemer. For this reason, “the Church does not hesitate to profess the subordinate role of Mary”. [177] Devotion to the heart of Mary in no way detracts from the sole worship due the heart of Christ, but rather increases it: “Mary’s function as mother of humanity in no way obscures or diminishes this unique mediation of Christ, but rather shows its power”. [178] Thanks to the abundant graces streaming from the open side of Christ, in different ways the Church, the Virgin Mary and all believers become themselves streams of living water. In this way, Christ displays his glory in and through our littleness.

Fraternity and mysticism

177. Saint Bernard, in exhorting us to union with the heart of Christ, draws upon the richness of this devotion to call for a conversion grounded in love. Bernard believed that our affections, enslaved by pleasures, may nonetheless be transformed and set free, not by blind obedience to a commandment but rather in response to the delectable love of Christ. Evil is overcome by good, conquered by the flowering of love: “Love the Lord your God with the full and deep affection of all your heart; love him with your mind wholly alert and intent; love him with all your strength, so much so that you would not even fear to die for love of him… Your affection for the Lord Jesus should be both sweet and intimate, to oppose the sweet enticements of the sensual life. Sweetness conquers sweetness, as one nail drives out another”. [179]

178. Saint Francis de Sales was particularly taken by Jesus’ words, “Learn from me; for I am gentle and humble in heart” ( Mt 11:29). Even in the most simple and ordinary things, he said, we can “steal” the Lord’s heart. “Those who would serve him acceptably must give heed not only to lofty and important matters, but to things mean and little, since by both alike we may win his heart and love… I mean the acts of daily forbearance, the headache, the toothache, the heavy cold; the tiresome peculiarities of a husband or wife, the broken glass, the loss of a ring, a handkerchief, a glove; the sneer of a neighbour; the effort of going to bed early in order to rise early for prayer or communion, the little shyness some people feel in openly performing religious duties… Be sure that all these sufferings, small as they are, if accepted lovingly, are most pleasing to God’s goodness”. [180] Ultimately, however, our response to the love of the heart of Christ is manifested in love of our neighbour: “a love that is firm, constant, steady, unconcerned with trivial matters or people’s station in life, not subject to changes or animosity… Our Lord loves us unceasingly, puts up with so many of our defects and our flaws. Precisely because of this, we must do the same with our brothers and sisters, never tiring of putting up with them”. [181]

179. Saint Charles de Foucauld sought to imitate Jesus by living and acting as he did, in a constant effort to do what Jesus would have done in his place. Only by being conformed to the sentiments of the heart of Christ could he fully achieve this goal. Here too we find the idea of “love for love”. In his words, “I desire sufferings in order to return love for love, to imitate him… to enter into his work, to offer myself with him, the nothingness that I am, as a sacrifice, as a victim, for the sanctification of men”. [182] The desire to bring the love of Jesus to others, his missionary outreach to the poorest and most forgotten of our world, led him to take as his emblem the words, “Iesus-Caritas”, with the symbol of the heart of Christ surmounted by a cross. [183] Nor was this a light decision: “With all my strength I try to show and prove to these poor lost brethren that our religion is all charity, all fraternity, and that its emblem is a heart”. [184] He wanted to settle with other brothers “in Morocco, in the name of the heart of Jesus”. [185] In this way, their evangelizing work could radiate outwards: “Charity has to radiate from our fraternities, as it radiates from the heart of Jesus”. [186] This desire gradually made him a “universal brother”. Allowing himself to be shaped by the heart of Christ, he sought to shelter the whole of suffering humanity in his fraternal heart: “Our heart, like that of Jesus, must embrace all men and women”. [187] “The love of the heart of Jesus for men and women, the love that he demonstrated in his passion, this is what we need to have for all human beings”. [188]

180. Father Henri Huvelin, the spiritual director of Saint Charles de Foucauld, observed that, “when our Lord dwells in a heart, he gives it such sentiments, and this heart reaches out to the least of our brothers and sisters. Such was the heart of Saint Vincent de Paul… When our Lord lives in the soul of a priest, he makes him reach out to the poor”. [189] It is important to realize that the apostolic zeal of Saint Vincent, as Father Huvelin describes it, was also nurtured by devotion to the heart of Christ. Saint Vincent urged his confreres to “find in the heart of our Lord a word of consolation for the poor sick person”. [190] If that word is to be convincing, our own heart must first have been changed by the love and tenderness of the heart of Christ. Saint Vincent often reiterated this conviction in his homilies and counsels, and it became a notable feature of the Constitutions of his Congregation: “We should make a great effort to learn the following lesson, also taught by Christ: ‘Learn from me, for I am gentle and humble of heart’. We should remember that he himself said that by gentleness we inherit the earth. If we act on this, we will win people over so that they will turn to the Lord. That will not happen if we treat people harshly or sharply”. [191]

REPARATION: BUILDING ON THE RUINS

181. All that has been said thus far enables us to understand in the light of God’s word the proper meaning of the “reparation” to the heart of Christ that the Lord expects us, with the help of his grace, to “offer”. The question has been much discussed, but Saint John Paul II has given us a clear response that can guide Christians today towards a spirit of reparation more closely attuned to the Gospels.

The social significance of reparation to the heart of Christ

182.  Saint John Paul explained that by entrusting ourselves together to the heart of Christ, “over the ruins accumulated by hatred and violence, the greatly desired civilization of love, the Kingdom of the heart of Christ, can be built”. This clearly requires that we “unite filial love for God and love of neighbour”, and indeed this is “the true reparation asked by the heart of the Saviour”. [192] In union with Christ, amid the ruins we have left in this world by our sins, we are called to build a new civilization of love. That is what it means to make reparation as the heart of Christ would have us do. Amid the devastation wrought by evil, the heart of Christ desires that we cooperate with him in restoring goodness and beauty to our world.

183. All sin harms the Church and society; as a result, “every sin can undoubtedly be considered as a social sin” and this is especially true for those sins that “by their very matter constitute a direct attack on one’s neighbour”. [193] Saint John Paul II explained that the repetition of these sins against others often consolidates a “structure of sin” that has an effect on the development of peoples. [194] Frequently, this is part of a dominant mind-set that considers normal or reasonable what is merely selfishness and indifference. This then gives rise to social alienation: “A society is alienated if its forms of social organization, production and consumption make it more difficult to offer the gift of self and to establish solidarity between people”. [195] It is not only a moral norm that leads us to expose and resist these alienated social structures and to support efforts within society to restore and consolidate the common good. Rather, it is our “conversion of heart” that “imposes the obligation” [196] to repair these structures. It is our response to the love of the heart of Jesus, which teaches us to love in turn.

184. Precisely because evangelical reparation possesses this vital social dimension, our acts of love, service and reconciliation, in order to be truly reparative, need to be inspired, motivated and empowered by Christ. Saint John Paul II also observed that “to build the civilization of love”, [197] our world today needs the heart of Christ. Christian reparation cannot be understood simply as a congeries of external works, however indispensable and at times admirable they may be. These need a “mystique”, a soul, a meaning that grants them strength, drive and tireless creativity. They need the life, the fire and the light that radiate from the heart of Christ.

Mending wounded hearts

185. Nor is a merely outward reparation sufficient, either for our world or for the heart of Christ. If each of us considers his or her own sins and their effect on others, we will realize that repairing the harm done to this world also calls for a desire to mend wounded hearts where the deepest harm was done, and the hurt is most painful.

186. A spirit of reparation thus “leads us to hope that every wound can be healed, however deep it may be. Complete reparation may at times seem impossible, such as when goods or loved ones are definitively lost, or when certain situations have become irremediable. Yet the intention to make amends, and to do so in a concrete way, is essential for the process of reconciliation and a return to peace of heart”. [198]

The beauty of asking forgiveness

187. Good intentions are not enough. There has to be an inward desire that finds expression in our outward actions. “Reparation, if it is to be Christian, to touch the offended person’s heart and not be a simple act of commutative justice, presupposes two demanding things: acknowledging our guilt and asking forgiveness… It is from the honest acknowledgment of the wrong done to our brother or sister, and from the profound and sincere realization that love has been compromised, that the desire to make amends arises”. [199]

188. We should never think that acknowledging our sins before others is somehow demeaning or offensive to our human dignity. On the contrary, it demands that we stop deceiving ourselves and acknowledge our past for what it is, marred by sin, especially in those cases when we caused hurt to our brothers and sisters. “Self-accusation is part of Christian wisdom… It is pleasing to the Lord, because the Lord accepts a contrite heart”. [200]

189. Part of this spirit of reparation is the custom of asking forgiveness from our brothers and sisters, which demonstrates great nobility amid our human weakness. Asking forgiveness is a means of healing relationships, for it “re-opens dialogue and manifests the will to re-establish the bond of fraternal charity… It touches the heart of our brother or sister, brings consolation and inspires acceptance of the forgiveness requested. Even if the irreparable cannot be completely repaired, love can always be reborn, making the hurt bearable”. [201]

190. A heart capable of compunction will grow in fraternity and solidarity. Otherwise, “we regress and grow old within”, whereas when “our prayer becomes simpler and deeper, grounded in adoration and wonder in the presence of God, we grow and mature. We become less attached to ourselves and more attached to Christ. Made poor in spirit, we draw closer to the poor, those who are dearest to God”. [202] This leads to a true spirit of reparation, for “those who feel compunction of heart increasingly feel themselves brothers and sisters to all the sinners of the world; renouncing their airs of superiority and harsh judgments, they are filled with a burning desire to show love and make reparation”. [203] The sense of solidarity born of compunction also enables reconciliation to take place. The person who is capable of compunction, “rather than feeling anger and scandal at the failings of our brothers and sisters, weeps for their sins. There occurs a sort of reversal, where the natural tendency to be indulgent with ourselves and inflexible with others is overturned and, by God’s grace, we become strict with ourselves and merciful towards others”. [204]

REPARATION: AN EXTENSION OF THE HEART OF CHRIST

191. There is another, complementary, approach to reparation, which allows us to set it in an even more direct relationship with the heart of Christ, without excluding the aspect of concrete commitment to our brothers and sisters.

192. Elsewhere I have suggested that, “God has in some way sought to limit himself in such a way that many of the things we think of as evils, dangers or sources of suffering, are in reality part of the pains of childbirth which he uses to draw us into the act of cooperation with the Creator”. [205] This cooperation on our part can allow the power and the love of God to expand in our lives and in the world, whereas our refusal or indifference can prevent it. Several passages of the Bible express this metaphorically, as when the Lord cries out, “If only you would return to me, O Israel!” (cf. Jer 4:1). Or when, confronted with rejection by his people, he says, “My heart recoils within me; my compassion grows warm and tender” ( Hos 11:8).

193. Even though it is not possible to speak of new suffering on the part of the glorified Lord, “the paschal mystery of Christ… and all that Christ is – all that he did and suffered for all men – participates in the divine eternity, and so transcends all times while being made present in them all”. [206] We can say that he has allowed the expansive glory of his resurrection to be limited and the diffusion of his immense and burning love to be contained, in order to leave room for our free cooperation with his heart. Our rejection of his love erects a barrier to that gracious gift, whereas our trusting acceptance of it opens a space, a channel enabling it to pour into our hearts. Our rejection or indifference limits the effects of his power and the fruitfulness of his love in us. If he does not encounter openness and confidence in me, his love is deprived – because he himself has willed it – of its extension, unique and unrepeatable, in my life and in this world, where he calls me to make him present. Again, this does not stem from any weakness on his part but rather from his infinite freedom, his mysterious power and his perfect love for each of us. When God’s power is revealed in the weakness of our human freedom, “only faith can discern it”. [207]

194. Saint Margaret Mary recounted that, in one of Christ’s appearances, he spoke of his heart’s passionate love for us, telling her that, “unable to contain the flames of his burning charity, he must spread them abroad”. [208] Since the Lord, who can do all things, desired in his divine freedom to require our cooperation, reparation can be understood as our removal of the obstacles we place before the expansion of Christ’s love in the world by our lack of trust, gratitude and self-sacrifice.

An Oblation to Love

195. To help us reflect more deeply on this mystery, we can turn once more to the luminous spirituality of Saint Therese of the Child Jesus. Therese was aware that in certain quarters an extreme form of reparation had developed, based on a willingness to offer oneself in sacrifice for others, and to become in some sense a “lightning rod” for the chastisements of divine justice. In her words, “I thought about the souls who offer themselves as victims of God’s justice in order to turn away the punishments reserved to sinners, drawing them upon themselves”. [209] However, as great and generous as such an offering might appear, she did not find it overly appealing: “I was far from feeling attracted to making it”. [210] So great an emphasis on God’s justice might eventually lead to the notion that Christ’s sacrifice was somehow incomplete or only partly efficacious, or that his mercy was not sufficiently powerful.

196. With her great spiritual insight, Saint Therese discovered that we can offer ourselves in another way, without the need to satisfy divine justice but by allowing the Lord’s infinite love to spread freely: “O my God! Is your disdained love going to remain closed up within your heart? It seems to me that if you were to find souls offering themselves as victims of holocaust to your love, you would consume them rapidly; it seems to me, too, that you would be happy not to hold back the waves of infinite tenderness within you”. [211]

197. While nothing need be added to the one redemptive sacrifice of Christ, it remains true that our free refusal can prevent the heart of Christ from spreading the “waves of his infinite tenderness” in this world. Again, this is because the Lord wishes to respect our freedom. More than divine justice, it was the fact that Christ’s love might be refused that troubled the heart of Saint Therese, because for her, God’s justice is understood only in the light of his love. As we have seen, she contemplated all God’s perfections through his mercy, and thus saw them transfigured and resplendent with love. In her words, “even his justice (and perhaps this even more so than the others) seems to me clothed in love”. [212]

198. This was the origin of her Act of Oblation, not to God’s justice but to his merciful love. “I offer myself as a victim of holocaust to your merciful love, asking you to consume me incessantly, allowing the waves of infinite tenderness shut up within you to overflow into my soul, and that thus I may become a martyr of your love”. [213] It is important to realize that, for Therese, this was not only about allowing the heart of Christ to fill her heart, through her complete trust, with the beauty of his love, but also about letting that love, through her life, spread to others and thus transform the world. Again, in her words, “In the heart of the Church, my Mother, I shall be love… and thus my dream will be realized”. [214] The two aspects were inseparably united.

199. The Lord accepted her oblation. We see that shortly thereafter she stated that she felt an intense love for others and maintained that it came from the heart of Christ, prolonged through her. So she told her sister Léonie: “I love you a thousand times more tenderly than ordinary sisters love each other, for I can love you with the heart of our celestial spouse”. [215] Later, to Maurice Bellière she wrote, “How I would like to make you understand the tenderness of the heart of Jesus, what he expects from you!” [216]

Integrity and Harmony

200. Sisters and brothers, I propose that we develop this means of reparation, which is, in a word, to offer the heart of Christ a new possibility of spreading in this world the flames of his ardent and gracious love. While it remains true that reparation entails the desire to “render compensation for the injuries inflicted on uncreated Love, whether by negligence or grave offense”, [217] the most fitting way to do this is for our love to offer the Lord a possibility of spreading, in amends for all those occasions when his love has been rejected or refused. This involves more than simply the “consolation” of Christ of which we spoke in the previous chapter; it finds expression in acts of fraternal love by which we heal the wounds of the Church and of the world. In this way, we offer the healing power of the heart of Christ new ways of expressing itself.

201. The sacrifices and sufferings required by these acts of love of neighbour unite us to the passion of Christ. In this way, “by that mystic crucifixion of which the Apostle speaks, we shall receive the abundant fruits of its propitiation and expiation, for ourselves and for others”. [218] Christ alone saves us by his offering on the cross; he alone redeems us, for “there is one God; there is also one mediator between God and men, the man Christ Jesus, who gave himself as a ransom for all” (1 Tim 2:5-6). The reparation that we offer is a freely accepted participation in his redeeming love and his one sacrifice. We thus complete in our flesh “what is lacking in Christ’s afflictions for the sake of his body, that is, the Church” ( Col 1:24); and Christ himself prolongs through us the effects of his complete and loving self-oblation.

202. Often, our sufferings have to do with our own wounded ego. The humility of the heart of Christ points us towards the path of abasement. God chose to come to us in condescension and littleness. The Old Testament had already shown us, with a variety of metaphors, a God who enters into the heart of history and allows himself to be rejected by his people. Christ’s love was shown amid the daily life of his people, begging, as it were, for a response, as if asking permission to manifest his glory. Yet “perhaps only once did the Lord Jesus refer to his own heart, in his own words. And he stresses this sole feature: ‘gentleness and lowliness’, as if to say that only in this way does he wish to win us to himself”. [219] When he said, “Learn from me, for I am gentle and humble in heart” ( Mt 11:29), he showed us that “to make himself known, he needs our littleness, our self-abasement”. [220]

203. In what we have said, it is important to note several inseparable aspects. Acts of love of neighbour, with the renunciation, self-denial, suffering and effort that they entail, can only be such when they are nourished by Christ’s own love. He enables us to love as he loved, and in this way he loves and serves others through us. He humbles himself to show his love through our actions, yet even in our slightest works of mercy, his heart is glorified and displays all its grandeur. Once our hearts welcome the love of Christ in complete trust, and enable its fire to spread in our lives, we become capable of loving others as Christ did, in humility and closeness to all. In this way, Christ satisfies his thirst and gloriously spreads the flames of his ardent and gracious love in us and through us. How can we fail to see the magnificent harmony present in all this?

204. Finally, in order to appreciate this devotion in all of its richness, it is necessary to add, in the light of what we have said about its Trinitarian dimension, that the reparation made by Christ in his humanity is offered to the Father through the working of the Holy Spirit in each of us. Consequently, the reparation we offer to the heart of Christ is directed ultimately to the Father, who is pleased to see us united to Christ whenever we offer ourselves through him, with him and in him.

BRINGING LOVE TO THE WORLD

205. The Christian message is attractive when experienced and expressed in its totality: not simply as a refuge for pious thoughts or an occasion for impressive ceremonies. What kind of worship would we give to Christ if we were to rest content with an individual relationship with him and show no interest in relieving the sufferings of others or helping them to live a better life? Would it please the heart that so loved us, if we were to bask in a private religious experience while ignoring its implications for the society in which we live? Let us be honest and accept the word of God in its fullness. On the other hand, our work as Christians for the betterment of society should not obscure its religious inspiration, for that, in the end, would be to seek less for our brothers and sisters than what God desires to give them. For this reason, we should conclude this chapter by recalling the missionary dimension of our love for the heart of Christ.

206. Saint John Paul II spoke of the social dimension of devotion to the heart of Christ, but also about “reparation, which is apostolic cooperation in the salvation of the world”. [221] Consecration to the heart of Christ is thus “to be seen in relation to the Church’s missionary activity, since it responds to the desire of Jesus’ heart to spread throughout the world, through the members of his Body, his complete commitment to the Kingdom”. [222] As a result, “through the witness of Christians, love will be poured into human hearts, to build up the body of Christ which is the Church, and to build a society of justice, peace and fraternity”. [223]

207. The flames of love of the Sacred Heart of Jesus also expand through the Church’s missionary outreach, which proclaims the message of God’s love revealed in Christ. Saint Vincent de Paul put this nicely when he invited his disciples to pray to the Lord for “this spirit, this heart that causes us to go everywhere, this heart of the Son of God, the heart of our Lord, that disposes us to go as he went… he sends us, like [the apostles], to bring fire everywhere”. [224]

208. Saint Paul VI, addressing religious Congregations dedicated to the spread of devotion to the Sacred Heart, made the following observation. “There can be no doubt that pastoral commitment and missionary zeal will fan into flame, if priests and laity alike, in their desire to spread the glory of God, contemplate the example of eternal love that Christ has shown us, and direct their efforts to make all men and women sharers in the unfathomable riches of Christ”. [225] As we contemplate the Sacred Heart, mission becomes a matter of love. For the greatest danger in mission is that, amid all the things we say and do, we fail to bring about a joyful encounter with the love of Christ who embraces us and saves us.

209. Mission, as a radiation of the love of the heart of Christ, requires missionaries who are themselves in love and who, enthralled by Christ, feel bound to share this love that has changed their lives. They are impatient when time is wasted discussing secondary questions or concentrating on truths and rules, because their greatest concern is to share what they have experienced. They want others to perceive the goodness and beauty of the Beloved through their efforts, however inadequate they may be. Is that not the case with any lover? We can take as an example the words with which Dante Alighieri sought to express this logic of love:

“Io dico che, pensando al suo valore

amor si dolce si mi si fa sentire,

che s’io allora non perdessi ardire

farei parlando innamorar la gente”[226]

210. To be able to speak of Christ, by witness or by word, in such a way that others seek to love him, is the greatest desire of every missionary of souls. This dynamism of love has nothing to do with proselytism; the words of a lover do not disturb others, they do not make demands or oblige, they only lead others to marvel at such love. With immense respect for their freedom and dignity, the lover simply waits for them to inquire about the love that has filled his or her life with such great joy.

211. Christ asks you never to be ashamed to tell others, with all due discretion and respect, about your friendship with him. He asks that you dare to tell others how good and beautiful it is that you found him. “Everyone who acknowledges me before others, I also will acknowledge before my Father in heaven” (Mt 10:32). For a heart that loves, this is not a duty but an irrepressible need: “Woe to me if I do not proclaim the Gospel!” (1 Cor 9:16). “Within me there is something like a burning fire shut up in my bones; I am weary with holding it in, and I cannot” (Jer 20:9).

In communion of service

212. We should not think of this mission of sharing Christ as something only between Jesus and me. Mission is experienced in fellowship with our communities and with the whole Church. If we turn aside from the community, we will be turning aside from Jesus. If we turn our back on the community, our friendship with Jesus will grow cold. This is a fact, and we must never forget it. Love for the brothers and sisters of our communities – religious, parochial, diocesan and others – is a kind of fuel that feeds our friendship with Jesus. Our acts of love for our brothers and sisters in community may well be the best and, at times, the only way that we can witness to others our love for Jesus Christ. He himself said, “By this everyone will know that you are my disciples, if you have love for one another” (Jn 13:35).

213. This love then becomes service within the community. I never tire of repeating that Jesus told us this in the clearest terms possible: “Just as you did it to one of the least of these my brethren, you did it to me” (Mt 25:40). He now asks you to meet him there, in every one of our brothers and sisters, and especially in the poor, the despised and the abandoned members of society. What a beautiful encounter that can be!

214. If we are concerned with helping others, this in no way means that we are turning away from Jesus. Rather, we are encountering him in another way. Whenever we try to help and care for another person, Jesus is at our side. We should never forget that, when he sent his disciples on mission, “the Lord worked with them” (Mk 16:20). He is always there, always at work, sharing our efforts to do good. In a mysterious way, his love becomes present through our service. He speaks to the world in a language that at times has no need of words.

215. Jesus is calling you and sending you forth to spread goodness in our world. His call is one of service, a summons to do good, perhaps as a physician, a mother, a teacher or a priest. Wherever you may be, you can hear his call and realize that he is sending you forth to carry out that mission. He himself told us, “I am sending you out” (Lk 10:3). It is part of our being friends with him. For this friendship to mature, however, it is up to you to let him send you forth on a mission in this world, and to carry it out confidently, generously, freely and fearlessly. If you stay trapped in your own comfort zone, you will never really find security; doubts and fears, sorrow and anxiety will always loom on the horizon. Those who do not carry out their mission on this earth will find not happiness, but disappointment. Never forget that Jesus is at your side at every step of the way. He will not cast you into the abyss, or leave you to your own devices. He will always be there to encourage and accompany you. He has promised, and he will do it: “For I am with you always, to the end of the age” (Mt 28:20).

216. In your own way, you too must be a missionary, like the apostles and the first disciples of Jesus, who went forth to proclaim the love of God, to tell others that Christ is alive and worth knowing. Saint Therese experienced this as an essential part of her oblation to merciful Love: “I wanted to give my Beloved to drink and I felt myself consumed with a thirst for souls”. [227] That is your mission as well. Each of us must carry it out in his or her own way; you will come to see how you can be a missionary. Jesus deserves no less. If you accept the challenge, he will enlighten you, accompany you and strengthen you, and you will have an enriching experience that will bring you much happiness. It is not important whether you see immediate results; leave that to the Lord who works in the secret of our hearts. Keep experiencing the joy born of our efforts to share the love of Christ with others.

CONCLUSION

217. The present document can help us see that the teaching of the social Encyclicals Laudato Si’ and Fratelli Tutti is not unrelated to our encounter with the love of Jesus Christ. For it is by drinking of that same love that we become capable of forging bonds of fraternity, of recognizing the dignity of each human being, and of working together to care for our common home.

218. In a world where everything is bought and sold, people’s sense of their worth appears increasingly to depend on what they can accumulate with the power of money. We are constantly being pushed to keep buying, consuming and distracting ourselves, held captive to a demeaning system that prevents us from looking beyond our immediate and petty needs. The love of Christ has no place in this perverse mechanism, yet only that love can set us free from a mad pursuit that no longer has room for a gratuitous love. Christ’s love can give a heart to our world and revive love wherever we think that the ability to love has been definitively lost.

219. The Church also needs that love, lest the love of Christ be replaced with outdated structures and concerns, excessive attachment to our own ideas and opinions, and fanaticism in any number of forms, which end up taking the place of the gratuitous love of God that liberates, enlivens, brings joy to the heart and builds communities. The wounded side of Christ continues to pour forth that stream which is never exhausted, never passes away, but offers itself time and time again to all those who wish to love as he did. For his love alone can bring about a new humanity.

220. I ask our Lord Jesus Christ to grant that his Sacred Heart may continue to pour forth the streams of living water that can heal the hurt we have caused, strengthen our ability to love and serve others, and inspire us to journey together towards a just, solidary and fraternal world. Until that day when we will rejoice in celebrating together the banquet of the heavenly kingdom in the presence of the risen Lord, who harmonizes all our differences in the light that radiates perpetually from his open heart. May he be blessed forever.

 

Given in Rome, at Saint Peter’s, on 24 October of the year 2024, the twelfth of my Pontificate.

2024年10月25日

☩「宣教の熱意を忘れぬために、真の献身を新たにするように」-教皇、イエスの聖心に関する回勅『Dilexit nos(私たちを愛してくださった)』発表

(2024.10.24 Vatican News   Alessandro Di Bussolo)

 教皇フランシスコが24日、4回目の回勅 『Dilexit nos(私たちを愛してくださった)』を発表された。「イエス・キリストの心にある人間的で神的な愛 」に関する思想の伝統と関連性を辿り、信仰の優しさ、奉仕の喜び、宣教の熱意を忘れないために、真の献身を新たにするよう呼びかけている。

 「聖パウロはキリストについて『私たちを愛してくださった』(ローマの信徒への手紙8章37節参照)と述べていますが、それは、『どんな被造物も… 神の愛から私たちを引き離すことはできない』(同8章39)ということを私たちに悟らせるためです」- このように、教皇の回勅-タイトルの「Dilexit nos(私たちを愛してくださった)」は、このパウロの言葉から採られている―は、始まっている。

 5章220項から成るこの回勅は、イエス・キリストの御心の人間的で神聖な愛に捧げられている― 「イエス・キリストの開かれた心は、私たちよりも先に進み、無条件に私たちを待ち望んでおられます。イエスはまず私たちを愛された』(ヨハネの手紙1・4章10節参照)。イエスのおかげで、『私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じる』(同4章16節)ようになったのです」と教皇は述べられている。

(ここまで翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

聖心に表されたキリストの愛

「愛の神との個人的な関係に言及しない様々な宗教性」(87項)が広がる社会において、キリスト教が「信仰の優しさ、奉仕に励む喜び、人から人に宣教する情熱」(88項)を忘れがちである中、教皇フランシスコは、キリストの聖心に表される愛をめぐる新たな深い考察を示す。教皇は、キリストの心の中に「福音のすべてを見出すことができ」(89項)、聖心の中でこそ「私たちはようやく自分自身を知り、愛することを学ぶ」(30項)という事実を思い出させながら、イエスの聖心に対する本物の信心を新たにするよう招いている。

心を失ったように見える世界

 教皇フランシスコは、キリストの愛に出会うことで、私たちは「兄弟的な絆を紡ぎ、すべての人の尊厳を認め、共に暮らすわたしたちの家(=地球)を思いやることが可能になる」(217項)と説明する。そして、「この傷ついた地をもう一度憐れみ」、その上にご自身の「光と愛の賜物」を注ぎ、「戦争、社会・経済的不均衡、消費主義、人間性に反したテクノロジーの利用」の中で世界が生き延び、「最も重要で必要なもの、すなわち心を取り戻すことができるように」と、キリストの聖心を前に、主に願っている(31項)。この文書は、聖マルガリタ・マリア・アラコクへのイエスの最初の出現(1673年)から350年の記念年(2023年12月27日−2025年6月27日)を機会に公布された。

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 イエスの聖心への信心をめぐるこの回勅は、5つの章から構成される。そこには、過去の様々な書物と聖書にさかのぼる長い歴史からの貴重な考察を集めながら、霊的な美しさに満ちたこの信心を今日の全教会に改めて示している。

第1章 心に立ち返ることの大切さ

 第1章「心の重要性」では、「飽くなき消費主義者」(2項)となる危険に陥りがちなこの世界で、「心に立ち返る」ことがなぜ必要かを説明している。教皇は、今日の心を重要視しない傾向は、「理性、意志、自由」などの概念を優先させた「ギリシアおよびキリスト教以前の合理主義、キリスト教以後の観念論、そして唯物論」から生まれたと考察、心のための位置付けを見いだせないままに、「すべてを統合させる、人間の中心にあるもの、すなわち愛についての考えでさえも広く発展させることができなかった」と述べている(10項)。

第2章 イエスの愛の態度と言葉

 第2章は、私たちを友として扱い、神の「親密さ、憐れみ、優しさ」を表すキリストの愛の態度と言葉に捧げられている。キリストの眼差しは、「人々にすべての関心を注ぎ」、その苦しみに寄り添うものである。友ラザロのために泣き、ゲツセマネで苦しみ、「深く愛した人々の手によって」暴力的な死を遂げることを意識したイエスの、最も雄弁な愛の言葉は、「十字架に釘付けされる」ことであった(46項)。

第3章 福音の受肉化した総体に立ち返る

 第3章で、教皇は、キリストの聖心が「三つの愛」を含んでいることを明らかにする。それは、感受性を持った肉体的な心の愛と、人間的かつ神的な二重の霊的な愛である(66項)。そして、わたしたちはそこに「無限の中の無限」を見出す(64項)。教皇フランシスコは、社会に存在する 「肉のない霊性の新しい徴候 」に対抗するためにも、キリストの聖心への信心を新たにするように呼びかけている(87項)。「対外的な活動、福音の欠如した組織改革、強迫観念的な制度、現世的な計画、世俗化された思考」、「時にすべての人に押しつけがちな提案」にのみ力を注ぐ共同体や司牧者を前に(88)、「福音の受肉した総体」に立ち戻る必要を説いている(90項)。

第4章 「渇きをいやす」愛に満たされた聖人たち

 第4章で教皇は、「イエスの脇腹の傷」を、「神の愛への私たちの渇きをいやす、聖霊の水が湧き出でる場所」とする教父たちの言葉を引用。特に聖アウグスティヌスが「主との個人的な出会いの場としての聖心への信心の道を開いた」と指摘する(103項)。この脇腹の傷は、次第に「心臓の形をとるようになった」と教皇は述べると共に、「主の聖心の中に安らぐことを特徴とする、キリストとの出会いの体験」を語った何人かの聖女たちの名を挙げている(110項)。

 聖マルガリタ・マリア・アラコクへの出現

 こうした霊性のもとに、聖マルガリタ・マリア・アラコクは、1673年12月末から1675年6月にかけて、パレ・ル・モニアルで受けた、イエスの最初の出現について語っている。聖マルガリタが伝えたメッセージの核心は、彼女が聞いたこの言葉に集約されている。「自らの愛を彼らに証しするために、使い果たされ、すり切れるまでに」、「人間たちを深く愛したその心を見よ」(121項)。

 リジューの聖テレーズが、イエスを『わたしの心臓と一緒に鼓動する方』と呼んだこと(134項)、聖ファウスティナ・コワルスカがその体験を通し「神のいつくしみ」を強調した信心を再び提示したこと、これに刺激された聖ヨハネ・パウロ2世が「神のいつくしみをめぐる考察を、キリストの聖心への信心と密接に結びつけた」ことを、教皇は思い出している(149項)。

 同回勅は、「なぐさめの信心」について語りながら、復活したキリストの聖心に残された受難のしるしを前にして、「キリストがあまりにも大きな愛のために耐え忍ぶことを受け入れたその痛み」に、「信者たちが応えたいと望む」のは当然であると述べている(151項)。そして、「民間信心を通してキリストをなぐさめようとする、神の忠実な民の信仰的熱情の表現を、誰も嘲笑することがないように」(160項)と願っている。それは、「キリストをなぐさめようとして、わたしたちがなぐさめられる」ためであると同時に、「あらゆる苦しみの中にある人々をわたしたちも慰めることができる」からであると記している(162項)。

第5章 私たちを兄弟たちに向かわせるキリストの聖心への信心

 最終章である第5章は、キリストの聖心への真の信心の共同体的、社会的、宣教的側面について掘り下げている。キリストの聖心への信心は、「わたしたちを御父に導き、兄弟たちに向かわせる(163項)。実際、「兄弟たちへの愛」こそ、「愛に対する愛、としてお返しに差し出すことができる、最も偉大な態度」なのである(167項)。

 教皇は、霊性の歴史に目を向けながら、聖シャルル・ド・フーコーの宣教への熱意が、彼を「普遍的な兄弟」としたこと、彼がキリストの聖心によって自分を形作らせ、苦しむすべての人類を兄弟的な心の中に迎え入れようとしたことを振り返っている(179項)。

 教皇はまた、聖ヨハネ・パウロ2世が説明したように、「贖罪」についても言及。

 「キリストの聖心に自分たちを捧げることによって、憎しみと暴力が積み重なる廃墟の上に、渇望される愛の文明、すなわちキリストの聖心の王国を築くことができるだろう」と述べている(182項)。

 世界に愛をもたらす宣教

 同回勅は、再び聖ヨハネ・パウロ2世と共に、キリストの聖心への奉献は「教会の宣教活動そのものに寄り添わせるべきもの」であると思い起こさせている。その結果として、キリスト者を通して、「教会というキリストの体を築き、正義と平和と兄弟愛の社会をも築くことができるようにと、人の心に愛が注がれる」(206項)。

 また、聖パウロ6世が指摘したように、宣教において「多くが語られ、行われても、キリストの愛との幸福な出会いを生むことができない」という大きなリスクを避けるために(208項)、キリストに魅了され続ける、キリストを深く愛する宣教者たち」が必要と強調している(209項)。

 教皇フランシスコの祈り

 同回勅は、教皇フランシスコのこの祈りをもって締めくくられている。「主イエスに祈ります。私たちを苦しめる傷を癒し、私たちの愛と奉仕の力を強め、公正で連帯した兄弟愛に満ちた世界を目指して共に歩むことを学ぶように、と私たちを励ますために、聖心から皆のために生ける水が川のように流れますように。私たちが天の御国で祝宴を共に喜び祝うその時まで。復活されたキリストは、そこで開かれた聖心から溢れ続ける光を通し、私たちのすべての違いを調和させられるでしょう。キリストがいつも称えられますように !」

(翻訳「バチカン放送」、編集「カトリック・あい」)

2024年10月25日

・フランシスコは自発教令で「1つのローマ典礼の2つの形態」という”詭弁”を克服した(LaCroix)

(2021.7.19 LaCroix   Andrea Grillo | Italy)

 教皇フランシスコの新しい自発教令「Traditionis custodes(TC=伝統の守護者)」の重要性は、14年前に前任者のベネディクト16世が出された自発教令「Summorum Pontificum(SP)ー1970年の改革以前のローマ典礼の使用について」と比べることで最もよく理解できる。

 まず第一に、新教令のタイトル「伝統の守護者、司教…」で明らかなように、主人公は教皇ではなく、司教だ。前の自発教令で、ベネディクト16世は、世界の司教たちを特定の権限、とくに教区内の個々のミサ典礼の形について判断する権限から”解放”したが、フランシスコが新教令によって、この権限は正当な所有者に返されることになった。司教のこの権限は、第二バチカン公会議(1962-65)が復元した教会論的および構造的原則であり、重要な権限として擁護されねばならないのだ。

 

*”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が唯一の道

 司教のこの権限が、新自発教令によって回復されると、その権限は卓越したものに回復されることになる。

 「第二バチカン公会議で決定した憲章など公文書に従って聖パウロ6世と聖ヨハネパウロ2世が公布した典礼に関する諸文書は、ローマ典礼のlex orandi(祈りの法)の比類ない表現です」(TC第1条)。新自発教令は、 SPが立脚していた大胆不敵な”詭弁”ーつまり相反する二つの典礼形式の”併存”を認めることーを、思い切って覆すものだ。 ”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が、平和構築を可能にする唯一の道である。

 他に考えられる対応は、その意図が好ましいものであっても、教会内の分裂と誤解を増大させてしまう。SPのもとで、(注:旧ローマ・ラテン典礼のミサを捧げる際に)司祭は司教からの許可を必要としなかった。SPにおいて、最大の伝統との亀裂は第二項で、叙階された司祭の”司牧上の無責任”を確定したことにあるー聖職者は、人々の参加のある無しにかかわらず、誰の返事を得ることなく、通常の、あるいは例外的な形での、ミサを捧げることができる、ということだ。

 このことは、14年前にすでに明らかだったが、それを指摘しようとする人はほとんどいなかったー「これは和解の”原則”ではなく、教会の崩壊の”原則”だ。今、神の意志であるTCが発出されたことで、”詭弁”を克服し、常識に戻ることができる。

 TCのもとで、ミサは、司教によって特別に許可されていない限り、すべての人に共通の”1つの典礼の形”で捧げられることになる。 2つの典礼の形の間に元々の争いはありえない。一つの典礼は、第2バチカン公会議後に、それまでの典礼を改める形で策定された。

*「儀式の並列性」の問題

 SPの”仮説”を支配する抽象的な定理は、「2つの典礼の形が新しい均衡を生み、互いに何かを学ぶことを可能にする」というものだった。そうではない。それどころか、”高い所”から認められた儀式の並列性のために、分極化はバランスを欠く形で進展した。

 今、私たちはただ一つのテーブルー第二バチカン公会議の方針に従って改革されたミサ典礼、というテーブルーがあるだけだ、ということを認識せねばならない。ローマ・ミサ典礼の伝統はそこにあり、他のどこにもない。そして、バチカンの全事務局にとって、効力のなくなったローマ典礼の形を改革するために、時間を無駄にすることは、もうできない。

 SPは、司教たちを”迂回”しただけではなく、バチカンの典礼秘跡省を”迂回”し、特定の典礼の問題に関する案件を判断する権限をバチカンの神の教会委員会と教理省に与えた。今、その権限は自然の形ー司教たちと典礼秘跡省ーに戻される。もはや、自律的な存在を持たないローマ典礼の”例外的な形”をめぐる”分けられた権限”は存在しない。

*”並行する教会”、そして第二バチカン公会議への反対

 教皇フランシスコは、「前任者が決められた(旧ローマ・ミサ典礼の)許可、を変更する目的は、第二バチカンによって際立たされています」と、TCに付随した世界の司教たちへの書簡で語られている。これは重要なことだ。第二バチカン公会議によって、ローマ典礼は、”別の教会”の存在を確定することなしには”別の典礼”のようなものと併存させることができない、という制限を克服した。SPによる”譲歩”の効果は、第二バチカン公会議の影響を受けないとし、共通の道に反対する教会が増長するのを助けた。

 SPの”お陰”で、旧ローマ・ミサ典礼は、第二バチカン公会議への反対の象徴になった。そしてそれ故に、旧ローマ・ミサ典礼が認められる基準は、これまで以上の嫌悪感を生み出さないように、注意深く見直されなければならなかった。

*「もう沢山だ!」とフランシスコは言われる

 今回の”事件”全体にとって、本当に特別なことは、TCによって保証される”神の祈り”と”神の信仰”の正常な関係の再確立ではない。私にとって異常に思えるのは、SPが出されて14年の間、不当なことを正当化しようとした人々がいた、という事実だ。教会法の専門家の多くは「法実証主義」(注:実証主義を法学に応用し、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法のみを、法学の対象とする考え方)に陥り、相当数の法律家が”御主人様”が望むところに”スリッパ”を置いてしまった。

 多くの新聞や雑誌の記事、そして書物でさえも、未来の司祭たちのための”二つの典礼に応じる育成”を正当化する形で書かれた。そしてそれらすべてが、司教たちと恐らくは有能であると思われる人々によって支持され、是認され、時には、そうした記事が求められたりさえもした。SPは、数多くの神学者たちにとってさえも、「共に生きねばならない、ある種の定め」のように見えたのである。そして、それは”異常な形”での大失敗だった。

 こうした流れに対して、第二バチカン公会議の”申し子”である教皇フランシスコは、「もう沢山だ」と言う良識と知恵を持っておられた。彼は、共通で正常、教会的な、人々のミサ典礼が同じ一つののテーブルで演じられる新しい歩みを、賢明に始められた。

 これは、「和解の改革は、偽りの言葉を作り出すことによっても、もはや存在しない典礼の形を今一度掘り出すことによっても、止められない」という、小さくて、偉大な知らせである。私たちにとって可能なのは、慎重に、意欲を持って、正直に、留保条件なしに、新しい典礼をもとにした”祈りの仕方”において、共通の形とともに進むことだ。

*Andrea Grillo は1961年生まれ。ローマの教皇庁立聖アンセルモ大学の秘跡神学教授。イタリアのブログ「Comesenon」の筆者で、このエッセイは、同ブログに最初に掲載され、許可を得て英語でLa Croixに掲載する。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年7月20日

・教皇の旧ラテン・ミサ典礼規制強化の自発教令に早くも賛否’の反響

ローマ発ー教皇フランシスコの第二バチカン公会議前のラテン語ミサを制限する自発教令は、前任者ベネディクト16世の下で与えられたより広範な同ミサの許可を事実上、帳消しにするものだ。予想通り、世界中のカトリック教徒から「預言的な動き」と讃える声の一方で、「フランシスコの経歴に汚点をを残す」と批判する声など、賛否両論が湧き起っている。

*賛成ー歴史的で大胆、預言的な行為だ

 教皇伝記作家のオースティン・イヴェレイ氏は教皇の決断を高く評価し、ツイッターに「歴史的な日。大胆な動き。預言的な行為」だとして、次のように書き込んだ。「ベネディクト16世は、2007年に出したラテン語典礼の自由化を認める自発教令で『問題が起きたら、見直す』としていました。フランシスコは世界の司教たちの意見と聞き、彼らは問題が起きている、と答えました。一致を促すことを意図した措置が、分裂と第二バチカン公会議の成果否定の種を蒔くのに使われたからです」としている。

*反対ーラテン語ミサ支持派への”宣戦布告”

 これとは正反対に、典礼の専門家で新典礼運動のブログの編集長、グレゴリー・ディピッポ氏は、この決定を聞いて「教皇がとても多くの信徒たちを酷く虐げることになる、と思い、情けなく、落胆しました」と批判。ラテン語ミサの熱烈な愛好家に対する「宣戦布告であり、教皇のイデオロギー的ビジョンに合わない人たちを追い出す意図をもった声明… これまで、ラテン語のミサを愛好するカトリック信徒たちは『教会の中で歓迎されない、求められない存在』というあからさまなレッテルを貼られてきました。そして今回、教皇が正式に、こうした信徒たちの司牧についての考えを全て否定することになる」と強く批判。「それでも、彼らは、とてもよく教理教育を受けており、教会が、このような形で信徒たちを虐げる資格を教皇に与える”個人的な遊び道具”でないこと知っています」と念を押した。

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*ラテン語ミサの”自由化は分裂を生むのに利用された

 今回の自発教令は、教皇自身の権威にもとずくもので、この内容は教会法に盛り込まれることを意味する。教令のタイトルは「伝統の守護者」を意味する「Traditionis Custodes」。第二バチカン公会議以前の世界のカトリック教会で行われてきたラテン語ミサは、「世界に開かれた教会」の一環としての「世界各国、各地域の言語によるミサ」を定めた公会議の決定により、”原則禁止”とされていたが、前教皇のベネディクト16世が、小教区主任司祭を含む司祭の判断で行えるように”自由化”されていた。
 今回の自発教令は、ラテン語ミサは司祭判断で行うことが禁じられ、可否の判断は各教区の責任者である司教が行う、とした。許可する場合の場所と日時の判断も司教が行う。すでにラテン語ミサを行っている司祭は、改めて司教から許可を取らねば、継続できなくなり、教令が出されて以降に叙階された司祭は、司教に正式の申請を出さねばならない。また小教区でのラテン語ミサは認められず、ラテン語ミサのために新しく小教区を設けることも、新しい集団を作ることもできない。司教は許可する場合、事前にバチカンと協議せねばならない。

 自発教令と同時に出された世界の司教たちへの書簡の中で、教皇は、前任者ベネディクト16世が教会の一致を促すためにラテン語ミサを容易に行えるようにして13年経ったが、その措置が「分裂を生み出すために”活用”された… 聖ヨハネパウロ2世とベネディクト16世によってもたらされた多様な典礼の感性を備えた教会共同体の一致を目指すチャンスは、亀裂を広げ、違いを際立たせ、意見の不一致を助長するのに利用されてしまった。教会を傷つけ、進むべき道を妨げ、分裂の危険にさらしている」と”自由化”のもたらした弊害を説明した。

 

*反対ー制限が教会一致に利する、とは言えず、”外”に追いやるもの

 これに対し、ディピッポ氏は「ラテン語ミサを制限するのは、一致を促進するため」という考えは受け入れられない「あからさまな嘘」とし、今回のフランシスコの決定は「間違いなく、信徒たちをさらに分裂させる。伝統的な典礼やそれに類する典礼に特に愛着を感じない人の多くも、この変更が示す司牧的な慈愛の欠如に不快感を覚える、と思います」とあくまで批判の姿勢だ。

 イングランド・ウェールズ・ラテン語ミサ協会のジョセフ・ショー会長は16日に出した声明で、フランシスコの新しい教令は「我々を深く失望させるものであり、厳密に実施されれば、自分たちの司教や教皇と共に伝統ミサに参加することだけを希望する多くのカトリック信徒を、教会外の祭儀、とく聖ピオ十世会の人々の祭儀への参加に駆り立てることになるだろう」と批判。

 我々カトリック信徒は、特に2007年以来、教会の一致のために長年にわたる努力を続けてきた。教会の一致は、第二バチカン公会議が宣言したように、典礼の統一ではなく、教皇の下での信仰の一致によって成し遂げられるものだ」と主張した。 また、ラテン語ミサが小教区で捧げられるのを禁止することは「実行不可能」であり、「”例外的な形のミサ”とそれに参加する共同体を全て否定する判断は、まったくの見当違い。この判断の擁護者に対して、”例外的なミサ”が教会の一致を損なっている、という主張を立証する証拠を、東方典礼、あるいは新求道共同体のような独自の典礼を行なっているものと比べてどうなのか、も含めて提示するよう求めたい」としている。

*賛成ー旧典礼ミサの是非判断を司教に委ねるのは正解

 米国の司教協議会・典礼委員会のジェームス・モロ二ー前事務局長は、Cruxに対して、教皇フランシスコが書簡で述べておられるように、前任者ベネディクト16世の下でのラテン語ミサの”自由化”が、それが目指していた教会の一致と逆の効果をもたらした、例えば、インターネットに「”例外的な形のミサを捧げないなら、司祭はローマ典礼に倣うことにならない」、あるいは「通常の形のミサを独占的に捧げる”不可侵の権利”が司祭にはある」「第二バチカン公会議と公会議を受けた典礼改革には欠陥があったと、多くの人が考えている」といった具合に、「勝手な書き込みが増えるようになった」と分析した。

 そして、「例外的に声の大きい人々の中には、新旧のミサを競わせようとする傾向があります」とし、教会問題の“解説者”の一人が最近、「公会議後の改革は若者たちの心をつかむ力を決定的に失っている」と指摘。

 「教皇がなさろうとしていることは、ご自分の声を、公会議後の改革のための組織的取り組みが対立的になり、公会議の教父たちによって呼びかけられた同じ典礼改革の必要性の認識にほとんど失敗していることを残念に思う多くの司教たちの声と合わせること」と強調した。

*賛成ー典礼を信徒たちの一致の源、頂点と見なす人は教皇に応える

 教皇ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世によって典礼秘跡省の顧問に任命された経験を持つモロニーは、「ラテン・ミサ典礼をどのように規制するかの判断は、実務的には、司教たちに委ねられました。どちらの典礼の形式を選ぶかについて、司祭たちの間には大きな違いがあるためです。それが、世界の司教たちからの『例外的な形の祭儀を規制するための権限が与えられていないために、教会一致のため、あまりにもしばしば妥協してきた』との報告に、単に教皇がお答えになった、ということです」と述べた。

 そして、教皇の今回の決定によってラテン・ミサ典礼の実行を強く制限することで、教皇が希望される教会の一致が育つと思うか、の問いには、「神聖な典礼を私たちの一致の源であり頂点と見なす人々は、教皇の呼び掛けに応えるでしょう… だが、典礼問題を”政治的な球蹴り”のように使いたいと思う人々は、応えないと思います」と答えた。 司牧的なレベルで、フランシスコの規制措置を悲しみ、失望しているラテン語ミサの信奉者たちに助言するとすれば、「深呼吸して、謙遜の心をもって、教皇と司教たちが求めていることに耳を傾けなさい」ということだ、と述べた。

 さらに、「現在の消費文化の中で、すべての体験を自己の欲求に合わせて整形できる”産出物”と見なすことが、私たちにはよくあります… 自分が認識したニーズに合うように典礼を恣意的に整形した人々が、これまで数十年、厳しく批判されたように、すべてのカトリック信徒は、『聖なる典礼は、私たちが教会から分不相応にいただくものだ』ということを認識せねばなりません」とし、「私たち一人一人は、素晴らしい業に値するものではありません。私たちは、神を賛美する大きな犠牲を捧げる中で、自分の声を、教会の声に謙虚に合わせねばならないのです」と強調している。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年7月18日

・教皇、公会議前の旧ミサ典礼書使用の”自由化”覆す自発教令ー司教たちの責任重く(英語公式訳全文付き)

祭壇上で開かれたミサ典礼書

 教皇フランシスコが16日、第二バチカン公会議以前の旧ミサ典礼書の使用方法を再定義する自発教令「Traditionis custodes(伝統の守護者)」を発布。あわせて、その背景を記した世界の司教たちへの書簡を発表された。

 同自発教令によれば、公会議以前の旧典礼書の使用をめぐる判断は、世界の各教区の司教に任され、旧典礼でミサを行うグループについては「典礼改革の正当性、第二バチカン公会議文書、教皇たちの教えを否定してはならない」と厳しい条件を課し、新たなグループの創設は認めない。

 同教令は、公会議以前の典礼書に従ったミサの司式を管理する責任は「教区の典礼生活のモデラトーレである司教に帰する」とし、「教皇庁の指針に従いつつ、1962年のローマ・ミサ典礼書の教区内での使用を許可する権限は、専ら司教に属する」と明確に定めた。

 そして、司教たちに対して、教区内で旧ミサ典礼書によるミサをすでに行っているグループが存在する場合、「典礼改革の有効性と正当性、第二バチカン公会議文書、教皇たちの教えを否定しない」ことを確認するよう求めている。

 また、旧典礼のミサは、今後、小教区の教会では原則として行わないことする。司教は、旧典礼のミサが捧げられる教会と日時を定め、ミサ中の朗読は、各地の司教協議会が認可した翻訳を用い、その「土地の言語」で行われる。ミサは、司教に委任された司祭によって司式される。

 そして、司教は、旧典礼のミサの「霊的成長のための実際の有用性」を確認しつつ、それを維持するかどうかを判断する権限を持つ。旧典礼のミサの司式を委託された司祭に対しては、尊厳ある司式を心にかけるだけでなく、信徒の司牧的・霊的世話にも配慮することが求められる。司教は「新しいグループの創設を認可しない」よう留意する。

  今回の教令発布以降に叙階された司祭で、旧ミサ典礼書でミサを捧げることを望む者は、教区の司教に正式な申請を行わねばならず、司教は許可を与える前に、教皇庁の意見を聴くことを事実上義務付けている。また、すでに旧ミサ典礼書でミサを司式している司祭は、教区の司教にその使用の継続許可を求めねばならない。

 なお、かつて教皇庁エクレジア・デイ委員会によって創立された「奉献生活の会」と「使徒的生活の会」については、バチカンの奉献・使徒的生活会省の管轄下に置き、同省と典礼秘跡省が新教令による新しい規定の順守について監督を行うこと、としている。

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「前任教皇の”譲歩”が意図に反して、公会議の否定、教会の亀裂を招いた」ー教皇、司教あて書簡で新自発教令の理由説明

 教皇は今回の自発教令と共に世界の司教たちに送られた書簡で、まず、前任者(ベネディクト16世)が「1962年ローマ・ミサ典礼書」のミサへの使用について行った”譲歩”について、「何よりも、ルフェーブル大司教が始めた運動(ピオ十世会)との亀裂を修復したい、という願いが動機でした」と述べた。

 そして、また、旧ミサ典書の使用を求める(ピオ十世会の)信徒たちの”正当な要求”を寛大さを持って受け入れるようにとの、司教たちに対する求めも、「教会の一致を取り戻る意図」によって動機づけられていた、としたうえで、「カトリック教会の多くの人々は、こうした(ベネディクト16世)の姿勢を、聖ピオ5世によって16世紀に公布されたローマ・ミサ典礼書を、ミサを捧げる際に、第二バチカン公会議を受けて聖パウロ6世が公布した現在のミサ典礼書と対等に仕えるようになった、と受け止めるようになったのです」と指摘。

 さらに、ベネディクト16世が2007年に公布した、旧ローマ・ミサ典礼書の使用についての自発教令は、第二バチカン公会議の主要な決定事項の一つに対して疑念を与えたり、公会議の権威を矮小化することはない、という確信」のもとにしたもので、当時、彼は「小教区共同体における分裂についての恐れは根拠をもたない。なぜなら、旧典礼書と現行典礼書を使用する二つの形のミサを行うことは、双方を豊かにするものだからだ」と言明したことを、教皇は思い起こされた。

 しかしながら、最近、バチカン教理省が世界の司教たちに出した質問状に対する答えの多くから明らかになった事実が、教皇を「驚かせ、悲しませ、この問題に対応する必要を強く感じるようになった」と、今回の自発教令発出の動機を説明。

 そして、ベネディクト16世の教会一致への強い思いが「しばしば、深刻なまでに無視され」、寛大さを持って示された譲歩が、「亀裂を広げ、逸脱を加速し、教会を傷つけ、道を阻み、分裂の危険に晒す不一致を促進する結果になりました」と語り、「典礼祭儀のあらゆる面で、そうした乱用がされていることを、悲しんでいます… 1962年ローマ・ミサ典礼書の機械的な使用はしばしば、根拠のない、不確かな”確信”で、第二バチカン公会議の典礼改革のみならず、この公会議そのものの否定につながっています」と嘆かれた。

 さらに「第二バチカン公会議に疑念を持つことは、公会議で『ペトロと共に、ペトロの下に』厳粛な仕方で平等に力を行使した教父たちの意向を疑い、最終的には、教会を導く聖霊を疑うことになるのです」と批判された。

 教皇は書簡で、次のように、前任者によって自発教令の形でなされた”譲歩”を修正することを決意した理由を、改めて説明されている。

 「多くの人々の言葉と態度において、これまで以上に明白になっているのは、第二バチカン公会議以前の典礼書による祭儀を選ぶことと、教会と”真の教会”と呼ばれる名の下での慣行の拒否の間の密接な関係です。一つは、聖体祭儀と矛盾し、分裂への傾きを助長する振る舞いです。『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』(コリントの信徒への手紙1・1章12章)と言い合う信徒たちに、使徒パウロは力を込めて対応しました。キリストの体の一致を守るために、私は、前任者によってなされた措置を無効とすることを強いられているのです」

【自発教令と世界の司教宛て説明書簡の公式英語訳全文以下の通り】

APOSTOLIC LETTER ISSUED “MOTU PROPRIO” BY THE SUPREME PONTIFF FRANCIS 

«TRADITIONIS CUSTODES» On the Use of the Roman Liturgy Prior to the Reform of 1970

Guardians of the tradition, the bishops in communion with the Bishop of Rome constitute the visible principle and foundation of the unity of their particular Churches. [1] Under the guidance of the Holy Spirit, through the proclamation of the Gospel and by means of the celebration of the Eucharist, they govern the particular Churches entrusted to them. [2]

In order to promote the concord and unity of the Church, with paternal solicitude towards those who in any region adhere to liturgical forms antecedent to the reform willed by the Vatican Council II, my Venerable Predecessors, Saint John Paul II and Benedict XVI, granted and regulated the faculty to use the Roman Missal edited by John XXIII in 1962. [3] In this way they intended “to facilitate the ecclesial communion of those Catholics who feel attached to some earlier liturgical forms” and not to others. [4]

In line with the initiative of my Venerable Predecessor Benedict XVI to invite the bishops to assess the application of the Motu Proprio Summorum Pontificum three years after its publication, the Congregation for the Doctrine of the Faith carried out a detailed consultation of the bishops in 2020. The results have been carefully considered in the light of experience that has matured during these years.

At this time, having considered the wishes expressed by the episcopate and having heard the opinion of the Congregation for the Doctrine of the Faith, I now desire, with this Apostolic Letter, to press on ever more in the constant search for ecclesial communion. Therefore, I have considered it appropriate to establish the following:

Art. 1. The liturgical books promulgated by Saint Paul VI and Saint John Paul II, in conformity with the decrees of Vatican Council II, are the unique expression of the lex orandi of the Roman Rite.

Art. 2. It belongs to the diocesan bishop, as moderator, promoter, and guardian of the whole liturgical life of the particular Church entrusted to him, [5] to regulate the liturgical celebrations of his diocese. [6] Therefore, it is his exclusive competence to authorize the use of the 1962 Roman Missal in his diocese, according to the guidelines of the Apostolic See.

Art. 3. The bishop of the diocese in which until now there exist one or more groups that celebrate according to the Missal antecedent to the reform of 1970:

§ 1. is to determine that these groups do not deny the validity and the legitimacy of the liturgical reform, dictated by Vatican Council II and the Magisterium of the Supreme Pontiffs;

§ 2. is to designate one or more locations where the faithful adherents of these groups may gather for the eucharistic celebration (not however in the parochial churches and without the erection of new personal parishes);

§ 3. to establish at the designated locations the days on which eucharistic celebrations are permitted using the Roman Missal promulgated by Saint John XXIII in 1962. [7] In these celebrations the readings are proclaimed in the vernacular language, using translations of the Sacred Scripture approved for liturgical use by the respective Episcopal Conferences;

§ 4. to appoint a priest who, as delegate of the bishop, is entrusted with these celebrations and with the pastoral care of these groups of the faithful. This priest should be suited for this responsibility, skilled in the use of the Missale Romanum antecedent to the reform of 1970, possess a knowledge of the Latin language sufficient for a thorough comprehension of the rubrics and liturgical texts, and be animated by a lively pastoral charity and by a sense of ecclesial communion. This priest should have at heart not only the correct celebration of the liturgy, but also the pastoral and spiritual care of the faithful;

§ 5. to proceed suitably to verify that the parishes canonically erected for the benefit of these faithful are effective for their spiritual growth, and to determine whether or not to retain them;

§ 6. to take care not to authorize the establishment of new groups.

Art. 4. Priests ordained after the publication of the present Motu Proprio, who wish to celebrate using the Missale Romanum of 1962, should submit a formal request to the diocesan Bishop who shall consult the Apostolic See before granting this authorization.

Art. 5. Priests who already celebrate according to the Missale Romanum of 1962 should request from the diocesan Bishop the authorization to continue to enjoy this faculty.

Art. 6. Institutes of consecrated life and Societies of apostolic life, erected by the Pontifical Commission Ecclesia Dei, fall under the competence of the Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies for Apostolic Life.

Art. 7. The Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments and the Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies of Apostolic Life, for matters of their particular competence, exercise the authority of the Holy See with respect to the observance of these provisions.

Art. 8. Previous norms, instructions, permissions, and customs that do not conform to the provisions of the present Motu Proprio are abrogated.

Everything that I have declared in this Apostolic Letter in the form of Motu Proprio, I order to be observed in all its parts, anything else to the contrary notwithstanding, even if worthy of particular mention, and I establish that it be promulgated by way of publication in “L’Osservatore Romano”, entering immediately in force and, subsequently, that it be published in the official Commentary of the Holy See, Acta Apostolicae Sedis.

 Given at Rome, at Saint John Lateran, on 16 July 2021, the liturgical Memorial of Our Lady of Mount Carmel, in the ninth year of Our Pontificate.  FRANCIS

 

[1] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23 AAS 57 (1965) 27.

[2] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 27: AAS 57 (1965) 32; Second Vatican Ecumenical Council, Decree concerning the pastoral office of bishops in the Church “ Christus Dominus”, 28 october 1965, n. 11: AAS 58 (1966) 677-678; Catechism of the Catholic Church, n. 833.

[3] Cfr John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988: AAS 80 (1988) 1495-1498; Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 777-781; Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesiae unitatem”, 2 july 2009: AAS 101 (2009) 710-711.

[4] John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988, n. 5: AAS 80 (1988) 1498.

[5] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 41: AAS 56 (1964) 111; Caeremoniale Episcoporum, n. 9; Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacrament, Instruction on certain matters to be observed or to be avoided regarding the Most Holy Eucharist “ Redemptionis Sacramentum”, 25 march 2004, nn. 19-25: AAS 96 (2004) 555-557.

[6] Cfr CIC, can. 375, § 1; can. 392.

[7] Cfr Congregation for the Doctrine of the Faith, Decree “ Quo magis” approving seven Eucharistic Prefaces for the forma extraordinaria of the Roman Rite, 22 february 2020, and Decree “ Cum sanctissima” on the liturgical celebration in honour of Saints in the forma extraordinaria of the Roman Rite, 22 february 2020: L’Osservatore Romano, 26 march 2020, p. 6.

 

LETTER OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO THE BISHOPS OF THE WHOLE WORLD, THAT ACCOMPANIES THE APOSTOLIC LETTER MOTU PROPRIO DATA “TRADITIONIS CUSTODES”

Rome, 16 July 2021

Dear Brothers in the Episcopate,

Just as my Predecessor Benedict XVI did with Summorum Pontificum, I wish to accompany the Motu proprio Traditionis custodes with a letter explaining the motives that prompted my decision. I turn to you with trust and parresia, in the name of that shared “solicitude for the whole Church, that contributes supremely to the good of the Universal Church” as Vatican Council II reminds us. [1]

Most people understand the motives that prompted St. John Paul II and Benedict XVI to allow the use of the Roman Missal, promulgated by St. Pius V and edited by St. John XXIII in 1962, for the Eucharistic Sacrifice. The faculty — granted by the indult of the Congregation for Divine Worship in 1984 [2] and confirmed by St. John Paul II in the Motu Proprio Ecclesia Dei in 1988 [3] — was above all motivated by the desire to foster the healing of the schism with the movement of Mons. Lefebvre. With the ecclesial intention of restoring the unity of the Church, the Bishops were thus asked to accept with generosity the “just aspirations” of the faithful who requested the use of that Missal.

Many in the Church came to regard this faculty as an opportunity to adopt freely the Roman Missal promulgated by St. Pius V and use it in a manner parallel to the Roman Missal promulgated by St. Paul VI. In order to regulate this situation at the distance of many years, Benedict XVI intervened to address this state of affairs in the Church. Many priests and communities had “used with gratitude the possibility offered by the Motu proprio” of St. John Paul II. Underscoring that this development was not foreseeable in 1988, the Motu proprio Summorum Pontificum of 2007 intended to introduce “a clearer juridical regulation” in this area. [4] In order to allow access to those, including young people, who when “they discover this liturgical form, feel attracted to it and find in it a form, particularly suited to them, to encounter the mystery of the most holy Eucharist”, [5] Benedict XVI declared “the Missal promulgated by St. Pius V and newly edited by Blessed John XXIII, as a extraordinary expression of the same lex orandi”, granting a “more ample possibility for the use of the 1962 Missal”. [6]

In making their decision they were confident that such a provision would not place in doubt one of the key measures of Vatican Council II or minimize in this way its authority: the Motu proprio recognized that, in its own right, “the Missal promulgated by Paul VI is the ordinary expression of the lex orandi of the Catholic Church of the Latin rite”. [7] The recognition of the Missal promulgated by St. Pius V “as an extraordinary expression of the same lex orandi” did not in any way underrate the liturgical reform, but was decreed with the desire to acknowledge the “insistent prayers of these faithful,” allowing them “to celebrate the Sacrifice of the Mass according to the editio typica of the Roman Missal promulgated by Blessed John XXIII in 1962 and never abrogated, as the extraordinary form of the Liturgy of the Church”. [8]It comforted Benedict XVI in his discernment that many desired “to find the form of the sacred Liturgy dear to them,” “clearly accepted the binding character of Vatican Council II and were faithful to the Pope and to the Bishops”. [9] What is more, he declared to be unfounded the fear of division in parish communities, because “the two forms of the use of the Roman Rite would enrich one another”. [10] Thus, he invited the Bishops to set aside their doubts and fears, and to welcome the norms, “attentive that everything would proceed in peace and serenity,” with the promise that “it would be possible to find resolutions” in the event that “serious difficulties came to light” in the implementation of the norms “once the Motu proprio came into effect”. [11]

With the passage of thirteen years, I instructed the Congregation for the Doctrine of the Faith to circulate a questionnaire to the Bishops regarding the implementation of the Motu proprio Summorum Pontificum. The responses reveal a situation that preoccupies and saddens me, and persuades me of the need to intervene. Regrettably, the pastoral objective of my Predecessors, who had intended “to do everything possible to ensure that all those who truly possessed the desire for unity would find it possible to remain in this unity or to rediscover it anew”, [12] has often been seriously disregarded. An opportunity offered by St. John Paul II and, with even greater magnanimity, by Benedict XVI, intended to recover the unity of an ecclesial body with diverse liturgical sensibilities, was exploited to widen the gaps, reinforce the divergences, and encourage disagreements that injure the Church, block her path, and expose her to the peril of division.

At the same time, I am saddened by abuses in the celebration of the liturgy on all sides. In common with Benedict XVI, I deplore the fact that “in many places the prescriptions of the new Missal are not observed in celebration, but indeed come to be interpreted as an authorization for or even a requirement of creativity, which leads to almost unbearable distortions”. [13] But I am nonetheless saddened that the instrumental use of Missale Romanum of 1962 is often characterized by a rejection not only of the liturgical reform, but of the Vatican Council II itself, claiming, with unfounded and unsustainable assertions, that it betrayed the Tradition and the “true Church”. The path of the Church must be seen within the dynamic of Tradition “which originates from the Apostles and progresses in the Church with the assistance of the Holy Spirit” ( DV 8). A recent stage of this dynamic was constituted by Vatican Council II where the Catholic episcopate came together to listen and to discern the path for the Church indicated by the Holy Spirit. To doubt the Council is to doubt the intentions of those very Fathers who exercised their collegial power in a solemn manner cum Petro et sub Petro in an ecumenical council, [14] and, in the final analysis, to doubt the Holy Spirit himself who guides the Church.

The objective of the modification of the permission granted by my Predecessors is highlighted by the Second Vatican Council itself. From the vota submitted by the Bishops there emerged a great insistence on the full, conscious and active participation of the whole People of God in the liturgy, [15] along lines already indicated by Pius XII in the encyclical Mediator Dei on the renewal of the liturgy. [16] The constitution Sacrosanctum Concilium confirmed this appeal, by seeking “the renewal and advancement of the liturgy”, [17] and by indicating the principles that should guide the reform. [18] In particular, it established that these principles concerned the Roman Rite, and other legitimate rites where applicable, and asked that “the rites be revised carefully in the light of sound tradition, and that they be given new vigor to meet present-day circumstances and needs”. [19] On the basis of these principles a reform of the liturgy was undertaken, with its highest expression in the Roman Missal, published in editio typica by St. Paul VI [20] and revised by St. John Paul II. [21] It must therefore be maintained that the Roman Rite, adapted many times over the course of the centuries according to the needs of the day, not only be preserved but renewed “in faithful observance of the Tradition”. [22] Whoever wishes to celebrate with devotion according to earlier forms of the liturgy can find in the reformed Roman Missal according to Vatican Council II all the elements of the Roman Rite, in particular the Roman Canon which constitutes one of its more distinctive elements.

A final reason for my decision is this: ever more plain in the words and attitudes of many is the close connection between the choice of celebrations according to the liturgical books prior to Vatican Council II and the rejection of the Church and her institutions in the name of what is called the “true Church.” One is dealing here with comportment that contradicts communion and nurtures the divisive tendency — “I belong to Paul; I belong instead to Apollo; I belong to Cephas; I belong to Christ” — against which the Apostle Paul so vigorously reacted. [23] In defense of the unity of the Body of Christ, I am constrained to revoke the faculty granted by my Predecessors. The distorted use that has been made of this faculty is contrary to the intentions that led to granting the freedom to celebrate the Mass with the Missale Romanum of 1962. Because “liturgical celebrations are not private actions, but celebrations of the Church, which is the sacrament of unity”, [24] they must be carried out in communion with the Church. Vatican Council II, while it reaffirmed the external bonds of incorporation in the Church — the profession of faith, the sacraments, of communion — affirmed with St. Augustine that to remain in the Church not only “with the body” but also “with the heart” is a condition for salvation. [25]

Dear brothers in the Episcopate, Sacrosanctum Concilium explained that the Church, the “sacrament of unity,” is such because it is “the holy People gathered and governed under the authority of the Bishops”. [26] Lumen gentium, while recalling that the Bishop of Rome is “the permanent and visible principle and foundation of the unity both of the bishops and of the multitude of the faithful,” states that you the Bishops are “the visible principle and foundation of the unity of your local Churches, in which and through which exists the one and only Catholic Church”. [27]

Responding to your requests, I take the firm decision to abrogate all the norms, instructions, permissions and customs that precede the present Motu proprio, and declare that the liturgical books promulgated by the saintly Pontiffs Paul VI and John Paul II, in conformity with the decrees of Vatican Council II, constitute the unique expression of the lex orandi of the Roman Rite. I take comfort in this decision from the fact that, after the Council of Trent, St. Pius V also abrogated all the rites that could not claim a proven antiquity, establishing for the whole Latin Church a single Missale Romanum. For four centuries this Missale Romanum, promulgated by St. Pius V was thus the principal expression of the lex orandi of the Roman Rite, and functioned to maintain the unity of the Church. Without denying the dignity and grandeur of this Rite, the Bishops gathered in ecumenical council asked that it be reformed; their intention was that “the faithful would not assist as strangers and silent spectators in the mystery of faith, but, with a full understanding of the rites and prayers, would participate in the sacred action consciously, piously, and actively”. [28] St. Paul VI, recalling that the work of adaptation of the Roman Missal had already been initiated by Pius XII, declared that the revision of the Roman Missal, carried out in the light of ancient liturgical sources, had the goal of permitting the Church to raise up, in the variety of languages, “a single and identical prayer,” that expressed her unity. [29]This unity I intend to re-establish throughout the Church of the Roman Rite.

Vatican Council II, when it described the catholicity of the People of God, recalled that “within the ecclesial communion” there exist the particular Churches which enjoy their proper traditions, without prejudice to the primacy of the Chair of Peter who presides over the universal communion of charity, guarantees the legitimate diversity and together ensures that the particular not only does not injure the universal but above all serves it”. [30]While, in the exercise of my ministry in service of unity, I take the decision to suspend the faculty granted by my Predecessors, I ask you to share with me this burden as a form of participation in the solicitude for the whole Church proper to the Bishops. In the Motu proprio I have desired to affirm that it is up to the Bishop, as moderator, promoter, and guardian of the liturgical life of the Church of which he is the principle of unity, to regulate the liturgical celebrations. It is up to you to authorize in your Churches, as local Ordinaries, the use of the Missale Romanum of 1962, applying the norms of the present Motu proprio. It is up to you to proceed in such a way as to return to a unitary form of celebration, and to determine case by case the reality of the groups which celebrate with this Missale Romanum.

Indications about how to proceed in your dioceses are chiefly dictated by two principles: on the one hand, to provide for the good of those who are rooted in the previous form of celebration and need to return in due time to the Roman Rite promulgated by Saints Paul VI and John Paul II, and, on the other hand, to discontinue the erection of new personal parishes tied more to the desire and wishes of individual priests than to the real need of the “holy People of God.” At the same time, I ask you to be vigilant in ensuring that every liturgy be celebrated with decorum and fidelity to the liturgical books promulgated after Vatican Council II, without the eccentricities that can easily degenerate into abuses. Seminarians and new priests should be formed in the faithful observance of the prescriptions of the Missal and liturgical books, in which is reflected the liturgical reform willed by Vatican Council II.

Upon you I invoke the Spirit of the risen Lord, that he may make you strong and firm in your service to the People of God entrusted to you by the Lord, so that your care and vigilance express communion even in the unity of one, single Rite, in which is preserved the great richness of the Roman liturgical tradition. I pray for you. You pray for me.

 

FRANCISCUS

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[1] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23 AAS 57 (1965) 27.

[2] Cfr. Congregation for Divine Worship, Letter to the Presidents of the Conferences of Bishops “Quattuor abhinc annos”, 3 october 1984: AAS 76 (1984) 1088-1089

[3] John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988: AAS 80 (1998) 1495-1498.

[4] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[5] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[6] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797.

[7] Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 779.

[8] Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 779.

[9] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[10] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797.

[11] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 798.

[12] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797-798.

[13] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[14] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23: AAS 57 (1965) 27.

[15] Cfr. Acta et Documenta Concilio Oecumenico Vaticano II apparando, Series I, Volumen II, 1960.

[16] Pius XII, Encyclical on the sacred liturgy “ Mediator Dei”, 20 november 1947: AAS 39 (1949) 521-595.

[17] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, nn. 1, 14: AAS 56 (1964) 97.104.

[18] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 3: AAS 56 (1964) 98.

[19] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 4: AAS 56 (1964) 98.

[20] Missale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum, editio typica, 1970.

[21] Missale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum Ioannis Pauli PP. II cura recognitum, editio typica altera, 1975; editio typica tertia, 2002; (reimpressio emendata 2008)

[22] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 3: AAS 56 (1964) 98.

[23] 1 Cor 1,12-13.

[24] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 26: AAS 56 (1964) 107.

[25] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 14: AAS 57 (1965) 19.

[26] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 6: AAS 56 (1964) 100.

[28] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23: AAS 57 (1965) 27.

[28] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 48: AAS 56 (1964) 113.

[29] Paul VI, Apostolic Constitution “Missale Romanum” on new Roman Missal, 3 april 1969, AAS 61 (1969) 222.

[30] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 13: AAS 57 (1965) 18.

 

2021年7月17日

・バチカンが2日から新回勅“Fratelli tutti(All Brothers)”のウエブサイト特設

The new website dedicated to the "Fratelli tutti" EncyclicalThe new website dedicated to the “Fratelli tutti” Encyclical 

(2020.12.1 Vatican News staff writer)

  バチカン人間開発省が2日から、教皇フランシスコの新回勅”Fratelli tutti”(All Brothers=兄弟の皆さん)”」を世界に普及するための方策の一環として、特別のウエブサイトを開設した。 このウェブサイトには、同省 のホームページwww.humandevelopment.va、あるいはwww.fratellitutti.vaから直接アクセスできる。

  バチカン広報省と共同で作成されたこのサイトは、「回勅のテーマである『兄弟愛と社会的友愛』のメッセージを世界の隅々まで広め、教皇が回勅に込められたさまざまな思いをよく理解してもらう」ことを目的としている、と人間開発省は1日の声明で説明している。

 ウエブサイトは、当面、英語、スペイン語、イタリア語の3か国語を基本としているが、フランス語、ポルトガル語、アラビア語、中国語など他の言語への転換も可能だ。 内容は継続的に更新されるが、利用可能な言語で回勅本文をダウンロードして使えるようになっているほか、バチカンや世界の教会の関係者や専門家などのコメント、分析、また関連の記事、インタビューも読んだり、動画で見ることも可能。

 また、回勅策定のために造られた資料なども公開。関心のあるセクションを直接共有するためのTwitterやSNSへのリンク、回勅に関する最新のバチカン放送の記事へ直接リンクする「ウィンドウ」も設けられている。

 このような内容を利用できる使用言語を広める作業も現在進められており、内容充実のための様々な企画も進行中。さらに、新回勅を巡る世界の教会や団体、ネットワークなどから寄せられる情報や資料を取り込むスペースも作られている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月2日

・改・兄弟愛と社会的友愛についての新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」日本語試訳の全文

教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」

  ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP

 (「カトリック・あい」試訳担当者=章ごとの担当順=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子)

 

1.「FRATELLI  TUTTI」(1)-この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。

聖フランシスコは、簡潔で直接的な仕方で、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられました-それは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。

 2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは自分自身を太陽、海、そして風の兄弟、と感じ、しかも、肉親よりも、もっと近いことを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。

 

境界を設けない WITHOUT BORDERS

 3.聖フランシスコの人生には、「境界を意識せず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した、開かれた心」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。

 フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。

4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。

 当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系間の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。

5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。

今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられました。アブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、義務、尊厳において平等に創造し、彼らに兄弟姉妹として一緒に暮らすよう求められた」(5)のです。これは単なる外交儀礼ではなく、対話と共通の約束から生まれた省察でした。この回勅で、私たちが署名した文書で提起さ​​れた、素晴らしいテーマのいくつかを取り上げ、発展させています。また、私自身の考えとともに、世界中の多くの個人やグループからいただいた多くの手紙、文書、意見を取り入れています。

  1. 前文に続くページが、兄弟愛についての完全な教えを提供する、とは断言しません。というよりも、その普遍的な視野、すべての男性と女性への開放性を考慮しています。私はこの社会的回勅を、継続的な反省へのささやかな貢献として提供します。他者を排除あるいは無視しようとする試みに直面している今日、言葉のレベルに留まらない兄弟愛と社会的友愛の新しい展望をもって対処することが可能だと証明できるように願っています。私を励まし、支えてくれるキリスト教徒の信念からこの回勅を書きましたが、この省察を、「善意のすべての人々の間の対話へ招き」となるよう努めました。

7. 私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました。この危機に対して、さまざまな国がさまざまな対応をしましたが、国同士が協力できないことは非常に明白になりました。私たちのすべてのハイパー・コネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)において、私たち全員に影響を与える問題を解決することをより困難にする“断片化”を目の当たりにしました。『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」。

 

  1. 私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです。すべての男性と女性の間の友愛。 「ここに、どのように夢を見、人生を素晴らしい冒険に変える方法を示す、素敵な秘密があります。誰も孤立した状態で人生に立ち向かうことはできません… 私たちは、自分を支え、助けてくれる共同体-前を見続けるために互いに助け合うことのできる共同体-を必要としています。共に夢を見ることが、どれほど重要か… 私たちには、蜃気楼-そこに実在しないものを見る危険があります。一方で、夢は共に構築されます」(6)。

 それでは、共に夢を見ましょう-ひとつの人間家族として、同じ肉体を共有する仲間の旅人として、共通の家である同じ地球の子供たちとして、一人ひとりが、彼または彼女それぞれの信念と確信の豊かさをもたらすことを夢見てみましょう-私たちそれぞれが、彼あるいは彼女自身の声、兄弟姉妹の皆と共に。

 

 

第1章 閉じられた世界を覆う暗雲 

CHAPTER ONE DARK CLOUDS OVER A CLOSED WORLD 

9. ここでは徹底的な分析を実行したり、私たちの現在の経験のあらゆる側面を研究したりすることはせず、単に普遍的な友愛の発展を妨げている私たちの世界の特定の傾向を考えて行くつもりです。

*打ち砕かれた夢 

 10.これまで何十年もの間、世界は多くの戦争や災害から教訓を学び、さまざまな形の統合に向かってゆっくりと動いていたように見えました。たとえば、欧州の共通のルーツを認め、その豊かな多様性を讃えることのできる、統一された欧州の夢がありました。私たちは「分かれているところを橋渡しし、欧州大陸のすべての人々の間の平和と交流を促す能力に基づいて未来を構想した欧州連合の創設者の確固たる信念」(7)を思い浮かべています。

 ラテンアメリカでの統合への欲求も高まり、この方向にいくつかの措置が講じられました。一部の国や地域では、和解の試みが実を結び、他の地域でも大きな期待が寄せられました。

11.しかし、私たち自身の日々をみると、特定の後退の兆候を示しているようです。長い間埋もれていたと考えられていた昔の紛争が新たに発生し、近視眼的で過激な、いきり立った攻撃的なナショナリズムがあちこちで台頭しています。一部の国では、さまざまなイデオロギーに影響されたポピュリズムと挙国一致の概念が、国益の保護を装って、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出しています。

 このことは、「それぞれの新しい世代は、過去の世代が行った闘争と成果を引き受け、その目標をさらに高く設定することが求められている」ことを、改めて思い出させてくれます。これが、私たちがとるべき道です。善は、愛、正義、連帯とともに、一回限りで、それで終わり、というものではなく、毎日、実現していかねばなりません。兄弟姉妹の多くが、依然として、私たちに『注意を向けてくれ』と叫ばねばならないような状況に耐えている、という現実を、なぜか無視できるかのようにして、過去に達成されたことをもって良し、とし、自己満足的に謳歌することはできないのです」(8)。

12. 「世界に門戸を開く」は、現在は、経済・金融セクターによって採用され、外国の利益に対して独占的に使われる、あるいは、すべての国において障害や複雑さを伴わずに投資するための経済力の自由に使われる表現です。地域紛争と公益の無視は、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって悪用されています。このような文化は世界を統合しますが、人々と国々を分けてしまいます。「社会は、グローバル化するにつれて、私たちを”隣人”にしますが、私たちを”兄弟”にはしない」からです(9)。

 個人の利益を伸長させ、生活の共同体的側面を弱める一段と大規模化する世界で、私たちは、従来以上に孤独です。確かに、個人が”単なる消費者”あるいは”傍観者”になる市場は存在します。一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることができる強い地域のアイデンティティを強化しますが、それより弱い地域、貧しい地域のアイデンティティを弱め、いっそう脆弱に、依存度を高める傾向があります。このようにして、政治活動は、「分割統治」の原則に基づいて運営され、国境を越える経済力を前にして、一層、脆弱になっています。

 

*歴史的思考の終焉 

 

13. その結果、歴史的思考がますます失われ、さらに分裂につながっていきます。「人間の自由がゼロからすべてを創造する」と主張する一種の「脱構築主義」が、今日の文化の中で進展しています。それが結果として残すものの一つが「際限ない消費と空虚な個人主義の表現」への衝動です。そうした懸念が、私に、若い人たちへのいくつかのアドバイスをさせました。

 「誰かが若い人々に、『自分たちの歴史を無視し、年長者の経験を拒絶し、過去を軽蔑し、そして自分自身が抱く未来を楽しみにするように』と言うなら、その方向に彼らを引き寄せ、その者の言うことだけをするようにするのが、容易になるのではないか?その者は、若者に浅薄で、根無しで、他に不信感を抱くことを求め、その者が約束することだけを信じ、その者の計画に従って行動するようにするのです。それが、さまざまなイデオロギーのなす業です。(注:人々の間に存在する)すべての違いを破壊(または脱構築)し、抵抗なく統治できるようにします。しかし、そうするためには、歴史を必要とせず、過去の世代から受け継いだ精神的、人間的な富を拒絶し、彼らの前に来るすべてのものに無知な若い人々、を必要とするのです」(10)。

14.こうしたことは、新しい形の「文化的な植民地化」です。 忘れないようにしましょう、それによって、自分たちの文化を捨て、そして、「伝統を放棄し、他人を模倣したり、暴力を助長したりすることから、あるいは、許されないような怠慢や無関心から、自分の魂を奪わせ、精神的なアイデンティティだけでなく、道徳的な一貫性、そして最終的には知的、経済的、政治的な独立性をも失う」ことを(11)。

 歴史的な意識、批判的思考、正義のための闘争、統合のプロセスを弱める効果的な方法の一つは、それらの意味の素晴らしい言葉を空にするか、それらを操作することです。 今日、民主主義、自由、正義、団結のような言葉は、本当は何を意味するのでしょうか? それらは、支配のための道具として、あらゆる行動を正当化するために使える無意味な奉仕をするための下げ札として機能するように、曲げられ、形を作られています。

*皆のための計画が欠けている 

 15. 人々を支配し、支配するために最もいい方法は、特定の価値観を擁護することを装ってでも、絶望と落胆を人々の間に広めることです。今日、多くの国で、誇張、過激主義、二極化が、政治的な道具になっています。「嘲笑と疑惑、執拗な批判の戦略」を採用し、さまざまな方法で、人々が存在したり意見を述べたりする権利を否定します。人々の真実と価値観の共有は拒絶され、結果として、人々の生活は貧しくなり、権力者の傲慢に翻弄されます。  

 政治的活動はもはや、「人々の生活を改善し、公益を促進するための長期計画に関する健全な議論」と関係しなくなり、他の人々の信用を傷つけることを目的とした巧妙な商いの手法とだけ関係を持ちます。そうした告訴と反訴の卑劣なやり取りの中で、議論は不一致と対立の永続的な状態へと退化していきます。

16. 勝つことの目的が敵を排除することにある”利益相反の争い”の中で、私たちは、どのようにしたら、視力を向上し、隣人を認識したり、途中で倒れた人々を助けたりできるのでしょうか? 今の世の中では、私たち人間家族全員の発展へ素晴らしい目標を設定する計画を立てる、というのは、狂気のように聞こえます。私たちの互いの距離はどんどん遠くなってきています。人々が強く結びついた公正な世界に向けたゆっくりとした、苦労に満ちた行進は、新しくて劇的な挫折を味わっています。

17. 私たちが住んでいるこの世界を大切にすることは、自分自身を世話することに通じます。しかも、自分たちを”共通の家”に住む一つ家族として考えることが一層、必要になって来ています。「大切にする」ことは、目先の利益を要求する経済的な力に関心をもちません。多くの場合、環境を守るために上げられた声は、特別な利益のための単なる隠れ蓑である一見、合理的な論法によって、黙らされ、笑いものにされます。しかし、私たちが作り上げた浅薄で近視眼的な文化は、共通のビジョンを失い、「いったん特定の資源が枯渇してしまえば、気高い主張を装ってはいるいるものの、新たな戦いための道具建てがなされる、ということが予見できる」(12)のです

*「使い捨て」の世界 

 18. 私たち人間家族の中には、苦労の無い生き方がふさわしいと考えられる人のために、たやすく犠牲にされるような人がいるようです。 結局のところ、「人は、特に、貧しく、身体が不自由だったり、胎児のように『まだ役に立たない』、あるいは高齢者のように『もう必要ない』とされたりする場合、もはや、世話をされ、敬意を払われる最も高い価値のあるもの、とは見なされません。 私たちは、この上なく嘆かわしい食べ物の無駄を始めとする、あらゆる種類の無駄に、いっそう無関心になってきています」(13)

 19. 出生率が低下しているー悲しみと孤独の存在への高齢者の格下げをともなう、人口の高齢化につながるーは、それが私たちに関する全てだ、私たちの個々の関心がただ一つの重要事だ、とする巧妙な言い方です。そのようにして、捨てられるのは「食べ物や必要不可欠な物だけでなく、しばしば、人間自身」(14)です。

 新型コロナウイルスの大感染の結果、世界の特定の場所で、高齢者たちに何が起こったのかを私たちは見てきました。彼らは死ぬ必要がなかったのです。同様のことは、熱波や他の災害によって、これまでも起きてきました。そして、高齢者たちは、自分が残酷に見捨てられていることに気づきました。でも私たちは気づいていませんー高齢者たちを隔離し、家族の親密さやいたわりもなく、他人の世話に任せることで、家族そのものをそこない、衰えさせることを。そして結局は、若い人たちから、自分のルーツとの欠かすことのできない繋がりと自分自身だけでは得られない知恵を、奪うことになるのです。

20.他の人を捨て去るこのやり方は、さまざまな形をとる可能性があります。例えば、失業を引き起こし貧困を拡大させるという深刻な結果をもたらすことを考えずに、労働コストを下げることに執着することです(15)。また、他の人を捨て去る気持ちは、人種差別など、ずっと昔からあり、影を潜めても繰り返し現れる、敵意に満ちた振る舞いに、滲み出ます。人種差別の数々の出来事は、私たちに恥ずかしい思いをさせ続けています。私たちが思っている社会の進歩が、自分で考えるほど本当でも、信頼できるものでもない、ということを、それが示しているからです。

21.いくつかの経済ルールは、成長に効力を発揮していますが、統合的な人間開発(integral human development=注:パウロ6世教皇が1967年に出された回勅『ポプロールム・プログレシオ ― 諸民族の進歩推進 について 』のキーワード、「発展」は経済的、および物質的成長に限定するものではなく、「すべての人の全体としての開発を促進すること」を意味する)には効力を発揮していません(16)。富は増加しましたが、不平等とともに、「新しい形態の貧困が出現する」結果になりました(17)。

 現代世界で貧困が減っている、という主張は、現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することでなされています。たとえば、電気の供給する体制が欠けていることが「貧困のしるし」とは見なされず、困窮の原因ともされなかった、というケースもあります。貧困は常に、時々の歴史的な期間において採用可能な実際の条件の文脈で理解され、測られねばなりません。

*万人に行き渡っていない「人権」

22.ひんぱんに明確になっているのは、実際問題として、人権がすべての人に平等ではない、ということです。人権の尊重は「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳に敬意が払われ、彼あるいは彼女の権利が認められ、保証されれば、創造性と相互依存関係が成長し、人間の個性の創造性は、共通善を促進する行動を通して発揮されます」(18)。

 しかし、「現代社会を注意深く観察することで、70年前に厳粛に宣言された『すべての人間の平等な尊厳」が、あらゆる状況で真に認識され、尊重され、保護され、促進されているのか、疑問を生じるような、数多くの矛盾があることが分かります。

 今日の世界では、還元主義的な人類学の考え方(注:上位階層において成立する基本法則や基本概念が「常に必ずそれより下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方-を指していると思われる)によって、また、人間を搾取し、捨て、さらには殺すことさえためらわない利益本位の経済モデルによって、様々な形の不平等が続いています。

 一部の人たちは豊かに暮らしていますが、他の人たちは、尊厳そのものが否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的権利が取り上げられ、あるいは侵害されています」(19)。このことは、生来の人間の尊厳に基づいた権利の平等について、私たちに何を語るのでしょうか?

23.  同じように、世界中の社会組織は、女性が男性と同じ尊厳、同一の権利を持っていることを明確に反映するには、まだほど遠い状態です。私たちは、言葉である事を話しますが、決定と現実は別の話です。確かに、「重ね重ね哀れなのは、のけ者にされ、虐待され、暴力を振るわれることに耐える女性たちだ。それは、彼女たちがしばしば自分の権利を守れないためである」(20)。

 

24. また、「国際社会は、あらゆる形態の奴隷制を終わらせることを目的とした数多くの協定を採択し、この事態と戦うためのさまざまな戦略に手を付けましたが、現在も、何百万の人々-子供、そしてあらゆる年齢の女性、男性-の自由が奪われ、奴隷のような境遇で生きることを強制されています… 奴隷制は今も、過去と同じように、彼または彼女を物として扱うのを認めるような、人間についての考え方に根ざしているのです… 強制され、だまされ、あるいは肉体的、精神的に強迫されることで、神の似姿として創られた人間が、自由を奪われ、売られ、他人の所有物になり、目的達成の手段として扱われます…

 犯罪組織のネットワークは、世界のさまざまな地域で、若い男性と女性を誘惑する方法として最新の通信手段を使うことに習熟しています」(21) 。女性を意のままに操り、妊娠中絶を強制する時、あらゆる規制をかいくぐる悪行。臓器売買のために人々を誘拐までする憎悪すべき行為。人身売買やその他の現代的な形で引き起こされている奴隷制は、人類全体が真剣に取り組む必要のある世界的な問題です。「犯罪組織が目標達成に世界的な犯罪網を使っている以上、こうした行為を消し去る取り組みも、共通の、社会のさまざまな部門における世界的な努力が必要です」(22)。

*争いと恐怖 

 25. 戦争、テロリストによる襲撃、人種的あるいは宗教的な迫害、その他の、人間の尊厳を踏みにじる数多くの行為は、特定の、主として経済的な利益にどれほど都合がいいかによって、異なった判断が下されています。権力を持つ者にとって都合がいい場合に真実である事が、都合が悪くなれば真実でなくなります。悲しいことに、これらの暴力行為は「ばらばらな状態で実際に起きている『第三次世界大戦』を構成するほど一般的になってきています」(23)。

26.  私たちを結びつける共通の領域が、もはや無いことに気付いたとしても、驚くべきことではありません。 確かに、どの戦争でも最初に犠牲となるのは「人間家族の友愛への、本来備わっている神から召された使命」です。 その結果、「あらゆる脅迫的な状況が不信感を生み、人々を自分の安全圏に引きこもらせる」(24)。 私たちの世界は奇妙な矛盾に陥っているーその世界で、私たちは、自分が「恐怖と不信の心性によって支えられた誤った安心感を通して、安定と平和を確保できるのだ」(25)と信じているのです。

 27. 逆説的ですが、私たちには、技術開発が排除することに成功していない、という先祖代々の恐れがあります。確かに、そうした恐れは、新技術の裏に隠れて広がることができました。今日でも、古代から続く町の壁の外には、計り知れない深み、未知の領域、荒れ野があります。そこから来るものは、何であろうと信頼できません。なぜなら、それは未知で、なじみがなく、村の一部ではないからです。それは「野蛮人」の領土であり、そこから私たちはどんな犠牲を払っても自分自身を守らなければなりません。

 その結果、自衛のために新しい壁が建てられ、外の世界は存在をやめ、「私」の世界だけが残り、他の人々は、もはや奪われることのない尊厳を持っている人間とは見なされず、ただの「彼ら」になります。

 もう一度、私たちは「他の文化や他の人々と出会うのを防ぐために『壁の文化』を構築し、壁-心の壁、土地の壁を立てたい、という誘惑に出会います。そして、壁を立てる人々は、自分が立てたまさにその壁の中で奴隷になってしまうでしょう。彼らは視野を失ったまま残されます。他の人々との交流を欠いているからです」(26)。

28. システムに見捨てられたと感じる人々が経験する孤独、恐れ、不安は、さまざまな「マフィアたち」のための肥沃な土地を作り出します。彼らは繁栄します。なぜなら、犯罪によって利益を追求している時でさえも、社会から忘れられた人々に、様々な形の援助をひんぱんに提供することで、擁護者である、と主張するからです。そして、偽りの共同体主義の神秘的雰囲気を振り撒くことで、抜け出すのがとても難しい「依存と忠誠の絆」作り出す、典型的な“mafioso(マフィアの一員)”の”教育学”も存在するのです。

*共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 

 29. アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師も同じお考えですが、私たちは、科学、技術、医学、産業、福祉の分野で、とりわけ先進国においてなされた疑いようのない進歩を無視することはしません。それにもかかわらず、それが「歴史的な進歩、偉大で価値あるものであると同時に、国際的な活動に影響を与える道徳的な劣化、そして、精神的価値と責任感の弱体化が起きていることも、強調しておきたいと思います。これは、欲求不満、孤立、絶望という一般的な感覚を生む一因となります」。

 私たちが目にするのは「不確実性、幻滅、未来への恐れに支配され、限られた経済的利益によって支配されている世界的な状況の中で、敵対関係の発生と武器と弾薬の蓄積」です。また、「重大な政治的危機、不正がはびこり、天然資源の公平な分配の欠如… 貧困と飢餓から衰弱した何百万人もの子供たちの死をもたらすような危機に直面しているにもかかわらず、容認することのできない国際的なレベルでの沈黙があります」(27)。このような世界は、その否定できない進歩にもかかわらず、より人間的な未来につながるようには見えません。

30. 今日の世界では、「ひとつの人間家族に属している」という感覚は薄れつつあり、「正義と平和のために力を合わせる」という夢は、時代遅れのユートピアのよう思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた「クールで、心地よく、グローバル化された無関心」です。

 私たちは、全員が同じ船に乗っていることに気づかず、「自分が全能だ」と考えます-このような幻想は、偉大な友愛の価値を意識せず、「一種の冷笑的な考え」につながります。 それは、私たちが幻滅と失望の道を進んだ場合に直面する誘惑です… 孤立し、自己の利益に逃げ込むことは、希望を取り戻し、再生をもたらす道ではありません。希望、再生に必要なのは、親密さです。 出会いの文化です。 孤立はノー、親密さはイエス。文化の衝突はノー、 出会いの文化はイエス、です」(28)。

31. 速いスピードで進むものの、共通の工程表がない現在の世界では、「『個人の幸福への関心』と、より大きな『人間家族の繁栄』の間のギャップが、個々人と人間的な共同体社会の間に完全な分裂をもたらすまで広がっているように思われます… 『共に暮らすことを余儀なくされている』と感じることと、強く求め育てる必要のある共同生活の種子の豊かさと素晴らしさに価値を置くことは、まったく別です」(29)。

 技術は絶えず進歩していますが、「科学技術革新の進展が、もっと平等で多様性を包み込む社会に繋がるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。私たちが遠くの惑星を発見するとともに、私たちの周りを回る兄弟姉妹が求めているものを再発見することは、どれほど素晴らしいことでしょう」(30)。

*歴史における新型コロナウイルス大感染と他の悲惨な出来事 PANDEMICS AND OTHER CALAMITIES IN HISTORY

32. 新型コロナウイルスの世界的大感染の悲劇は、私たちが皆、世界的な共同体の船に乗っているのだ、という感覚を、ほんの一瞬、復活させましたーそこでは、一人の問題が、全員の問題です。改めて、一人だけで救われる人はいない、ということに気づきました。私たちは一緒にしか救われません。先に私が申し上げたように、「(注:コロナ大感染の)嵐は私たちの弱さを露呈し、確かだと思っていたことー日々の日程、計画、習慣、優先すべきもの…などーが間違っていた、過信していたことを明らかにしました… この嵐の最中に、私たちが偽装した自分のエゴ、いつも外見を気にしていた「固定概念の建物の正面」が崩れ去り、『私たちが互いの一部であり、互いに兄弟姉妹だ』という避けがたく、神に祝福された認識が、改めて明るみに出されたのです」[31]。

33. 世界は、「技術進歩で『人的損失』の削減を目指す経済」に向かって執拗に進んできました。市場の自由はすべてを保証するに足るもの、と私たちを信じ込ませた人々がいました。しかし、現在の制御不能な新型コロナ感染の、残忍で予期しない打撃は、人間への配慮を、少数者の利益でなく、すべての人のために取り戻すように、私たちに強く教えました

 今、私たちは知ることができます。「私たちは素晴らしさと壮大さの夢の上に生き、結局は、娯楽、偏狭、孤独に時間を費やすことになった。ネットワーキングに夢中になり、友愛の味を忘れた。安直に手に入る安全な結果を探し求めたが、焦りと不安に圧倒された。仮想現実の囚人たち-私たちは本当の現実の味と香りを無くした」(32)。コロナ大感染によってもたらされた痛み、不確実さ、恐れ、そして自分自身の限界の認識は、これまでの生活様式、人間関係、社会の組織、そして何よりも、自分の存在の意味を考え直すことを、これまで以上に緊急の課題として、私たちに提示しているのです。

34.すべてが繋がっていますーこの地球規模の災害が、私たちが現実にアプローチする方法、自分自身の人生と存在するすべてのものの「至高の主人」である、という私たちの主張と無関係だというのは想像しがたいことです。私は神の報復について話したくありませんし、私たちの自然に与える害がそれ自体、私たちの罪に対する罰である、と言うだけでは不十分です。世界そのものが反逆の声を上げています。私たちは「tears of things」-人生と歴史の不幸を呼び起こす詩人ウェルギリウスの有名な詩を思い起こします(33)。

(「カトリック・あい」注:プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro=紀元前70年10月15日? – 紀元前19年9月21日)=共和政ローマ末の内乱の時代からオクタビアヌスの台頭に伴う帝政の確立期に生涯を過ごし、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ、欧州文学史上、ラテン文学において最も重視される人物)

35. しかし、私たちはあまりにも早く、歴史の教訓-「人生の教師」(34)を忘れてしまいます。現在のコロナ危機が過ぎ去った後の、私たちの最悪の対応は、熱狂的な消費主義と新しい形の身勝手な自己保存に、さらに深くのめりこんでしまうことです。

 神が希望されるのは、現在の危機がすべて終わった後、私たちがもはや「彼ら」と「それら」の観点から考えることをせず、「私たち」の観点から考えることです。そうすることで、「私たちが何ら教訓を学ばない歴史上の単なる悲劇」の一つではないことを証明できればいい。毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを肝に銘じることができればいい。この計り知れない悲しみが、無駄にならず、私たちが新しい人生の過ごし方に一歩踏み出させればいい。私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいい。

 36. 私たちが、「親密な関係を持つ共同体、自分たちの時間、エネルギー、資源の価値のある連帯」を作り上げる共通の情熱を取り戻さない限り、私たちを惑わした世界的な幻想は崩壊し、多くの人々が苦悩と空虚に支配されてしまうでしょう。また、「消費者主義の生活様式への執着は、特にそれを維持できる人がほとんどいない場合、暴力と相互破壊につながるだけだ」(35)という見方を、安易に拒むべきではありません。「すべての人は自分自身のために」という考えは、どのような感染症の大流行よりもひどい「気ままなやりたい放題」へと堕落していくでしょう。

*国境における人間の尊厳の欠如 

 37. 特定のポピュリスト的な政治体制や、特定のリベラルな経済的な取り組みを進める人々は、「移民の流入はどのようなコストを払っても防ぐ必要がある」と言い張っています。 貧しい国々への援助を抑えることの妥当性についても、そのような主張をします。その結果、そうした国々がどん底に落ち込み、縮政策を強いられることになるかも知れません。そのような観念的で,支持しがたい主張の裏で、多くの命が危機に瀕していることに気付かないのです。

 多くの移民たちは、戦争、迫害、自然災害から逃れてきました。 そうでない人たちは、当然のことながら、「自分自身と自分の家族のための良い機会を求めています。より良い未来を夢見ており、それを手に入れる条件を整えたいと思っています」(36)。

38. 悲しいことに、一部の人は「西洋文化に惹かれ、時には非現実的な期待を抱き、深刻な失望にさらされます。麻薬カルテルや武器カルテルに頻繁に関わる悪意をもった人身売買業者は、移民の弱点を悪用します。移民は、移動中に暴力、人身売買、精神的および肉体的虐待など、計り知れない苦しみを頻繁に味わいます」(37)。移住する人々は「故郷との関係を断たれ、しばしば文化的および宗教的の喪失を経験します。

 離散は、彼らが残した共同体社会にも感じられ、彼らは最も活発で進取の気風を失い、特に両親の一方または両方が、子供たちを生まれた国に残して、移住する時に、それを感じます」(38)。このような理由から、「移住しない、つまり故郷に留まる権利を、再確認する必要もあります」(39)。

39. それからまた、「一部の移民受入国では、移住は恐怖と警戒を引き起こし、しばしば政治目的のために煽り立てられ、利用されます。移民たちが自分自身の中に閉じこもることが、外国人恐怖症につながる恐れがあり、それに断固として対応する必要があります」(40) 。移民は、他の人のように「移住先の社会生活に参加する資格がある」とは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることが忘れられています。

 したがって、彼らは「自分自身の贖罪の代理人」であるべき(41)なのです。 彼らが人間であることを公然と否定する人は誰もいませんが、実際には、私たちの判断と彼らへの対応によって、彼らを価値が低く、重要性が低く、人間性が低い、と見なしていることを示すことになり得るのです。 キリスト教徒にとって、このような考え方と振る舞いは受け入れられません。それが、信仰ー出自、人種あるいは宗教にかかわらず、奪うことが許されない一人ひとりの尊厳、そして「友愛」という最高法規ーへの強い確信よりも、特定の政治的な選好を、上に置くからです。

40. 「移住は、これまで以上に、私たちの世界の将来に、極めて重要な役割を果たすでしょう」(42)。しかし現在、移住は「すべての市民社会の基盤となっている兄弟姉妹に対する責任感の喪失」の影響を受けています(43)。たとえば、欧州は、そうした道を歩むリスクを冒しています。にもかかわらず、「その偉大な文化的および宗教的遺産に助けられ、人間が中心であるという考えを守り、そして『市民の権利を守り、移民を助け、受け入れることを保証する、という二重の道徳的責任』の間に適切な均衡を見つける手段を持っています」(44)。

41. 私は、移民に戸惑い、恐れている人がいることを承知しています。これは、私たちの自然な自己防衛の本能の一部だと思います。しかしまた、一人の個人、一つの集団は、他の人々への創造的な開放性を育てる場合に限って、実り豊かで生産的になることも、事実です。

 私は皆さんに、こうした最初の反応を乗り越えて振る舞うようにお願いします。なぜなら、「(注:私たちの移民の人たちに対する)疑いや恐れが、私たちを不寛容で、閉鎖的で、そして恐らく自覚無しに、人種差別主義者にまでしてしまう、考えと振る舞いを条件づける、という問題があるからです。そのようにして、恐れが、『他の人と出会いたい』という強い希望と能力を、私たちから奪うのです」(45)。

*コミュニケーションの幻想 

 42. おかしなことに、他の人々に対する閉鎖的で不寛容な態度が高まる一方で、(注:人と人の間の)距離が縮み、あるいはプライバシーの権利がほとんど消えてしまうほどに薄らいでいます。すべてが調べられ、検閲される一種の惨状が起き、人々の生活は、常に監視されるようになっています。

 デジタル通信は、すべてを白日の下に晒そうとしています。人々の生活は、情報がバーコード化され、むき出しにされ、あちこちに言いふらされ、それがしばしば匿名でなされます。他の人への敬意が崩れ、たとえ他の人々をはねつけ、無視し、距離を置いても、彼らの生活の隅々を、臆面もなく、のぞき込むことができるのです。

 

43. 憎悪と破壊のデジタル促進運動は、それ自体、私たちが信じ込まされているような、相互支援の前向きなものではなく、認識された共通の敵に対して一つになった、単なる個人の集団の動きです。「デジタルメディアはまた、人々を、中毒になり、孤立し、現実との接触を徐々に失っていく危険にさらし、本当の人間関係が育つのを妨げる可能性がある」(46)。デジタルメディアは、私たちに話しかけ、人間的なコミュニケーションの一部であるものー身体的表現、顔の表情、沈黙の瞬間、身振りや手振り、そして匂い、手の震え、赤面と発汗さえもー欠いています。

 デジタルによる関係-友情が徐々に育っていくことや、安定した交流、あるいは時間とともに成熟する総意の構築を必要としない関係-は、社交的なように見えます。だが、実際には、共同体社会を構築せず、個人主義であることを隠して、広げていく傾向があり、それは、よそ者を嫌い、弱い者を軽蔑する中に、自然と現れます。デジタルによる接続は、”橋”を作るのに十分ではありません。人類を一つにすることはできないのです。

*臆面もない侵略 

 44. そうした人々は、個人個人で心地よい消費者主義者の孤独を保っている時でさえも、他の人を打ち壊すような、あからさまな敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、言葉の暴力をかきたてる、絶え間ない熱狂的な結びつきを、「物理的な接触では皆を引き裂かないために求められる、自制心」を欠いたまま、選択することが可能です。社会的な侵略は、コンピューターやモバイル・デバイスを介した拡大の未だかつてなかった場を見つけたのです。

 45. このことは、今や、諸々のイデオロギーに完全な行動の自由を与えました。数年前まで、皆の尊敬を失う危険を冒さずに口にできなかったことを、今では、責任を問われることなく、極めて粗雑な言葉で、一部の政治家さえも話すようになっています。そして、忘れてならないのは、次のようなことですー「デジタルの世界では巨大な経済的利益が働いており、その世界は、侵略的で、良心と民主主義的な手続きを操作するメカニズムを作るのと同じような、巧妙な管理形態を実行することができる。

 多くの(注:デジタル)プラットフォームの機能は、結局は、同じような考えを持つ人同士の出会いを促し、議論をさせないようにすることにつながる。こうした閉鎖された回路は、偽のニュースや虚偽の情報の拡散を促進し、偏見や憎悪を助長する」(47)。

46. 私たちが認識すべきことは、キリスト教徒を含む宗教を信じる人々の間で、破壊的な形の狂信的振る舞いが散見されることです-そうした人々もまた、「インターネットやデジタル通信によるさまざまな公開討論の場を通じて、言葉による暴力のネットワークに巻き込まれる可能性があります。

 カトリックのメディアさえも、限界を超え、名誉毀損や誹謗中傷が当たり前になり、あらゆる倫理基準と他の人の名誉の尊重を捨てる可能性があります」(48)。このことが、私たちの父が求める友愛に、どのように貢献できるのでしょうか。

 

*叡智を欠いた情報 

 47. 真の叡智は、現実との出会いを求めます。しかし今日では、すべてを作り上げ、偽装し、変えてしまうことが可能です。したがって、ほんの初歩的な現実をもっての直接の出会いさえも、耐え難いものになる可能性があります。そうすると、選択のメカニズムが働きます。これによって、好きなものと嫌いなもの、魅力的と思うものと、そうでないものを、一瞬のうちに区別することができます。

 同じ様に、私たちは自分たちの世界を共有したい人を選ぶことが可能です。今日の仮想現実のネットワークでは、不快な人、あるいは不快と思われる人や状況が削除され、仮想のサークルが作成され、自分が住んでいる現実の世界から切り離されてしまいます。

48.腰を下ろして人の話を聞く能力は、対人関係特有のもので、自己愛を超え、他の人を受け入れ、気遣い、自分の生活に喜んで迎える人々によって示される、歓迎の態度の典型です。 しかし、「今の世界は、全体的に”耳が遠い”世界になっています… 時には、現代世界の我を忘れたような動きが、他の人の話に注意深く耳を傾けるのを妨げます。相手の話の途中に割り込み、その人がまだ言い終えていない意見に反論しようとします。

 私たちは 聞く能力を失ってはなりません」。 聖フランシスコは「神の声を聞き、貧しい人々の声を聞き、弱い人々の声を聞き、自然の声を聞きました。 彼はそれを、生き方にしました。 私の強い願いは、聖フランシスコの植えた種が、多くの人の心の中で育つことです」(49)。

49. 静かに、注意して聴く習慣が、(注:SNSなどによる)メッセージ交換の狂乱に取って代わられることで、知者の人間的コミュニケーションの基本構造が危機に瀕しています。欲しいものだけを作り、コントロールできないものや、簡単に表面的に知ることができないものは、すべて排除する、という新しい生活様式が生まれ、その固有の論理によって、私たちを共有の知恵に導くような、静かに、深く考えることを、できなくしてしまいます。

50. 共に、私たちは対話、リラックスした会話、あるいは情熱的な討論で真実を探し求めることができます。そのためには忍耐力が必要です。沈黙と苦しみの瞬間を伴いますが、それでも個人と人々の広い経験を辛抱強く受け入れることができます。

 私たちの”指先での情報”の洪水は、大きな知恵にはなりません。知恵は、インターネットでの迅速な検索から生まれるものでも、未検証のデータの塊でもありません。そのようなやり方は、真実との出会いの中で成熟する方法ではありません。そのようなやり方の会話は、最新のデータだけを中心に展開され、単に水平的なものの積み重ねになります。

 注意を集中し続け、問題の核心に入り、生活に意味を与えるために何が欠かせないかを認識する、ということができません。そうして、自由は、自分があちこちに売られている、という幻想になり、インターネットをあやつる能力とたやすく混同されてしまいます。

 友愛を築く取り組みは、それが地域的であろうと普遍的であろうと、自由な、本物の出会いに開かれた精神によってのみ、始めることができるのです。

*服従と自己卑下の構造 

 51. 特定の経済的に繁栄している国は、発展途上国のための文化的なモデルとして提案される傾向があります。 それよりも、これらの国々が独自の方法で成長し、適切な文化の価値を尊重しながら変革能力を高めていくように支援する必要があります。 他人を模倣したい、という浅薄で情けない欲求は、創造ではなく、コピーと消費につながり、国民に低い自尊心を育ててしまいます。

 多くの貧しい国の富裕層や、最近貧困から抜け出した人々には、先住民の考え方や行動に抵抗があり、すべての病いの唯一の原因であるかのように、自分自身の文化的アイデンティティを軽蔑する傾向があります。

52. 自尊心を壊すことは、他の人を支配する容易な方法です。私たちの世界を平準化しがちなこうした時代的流れの背後には、メディアやネットワークを通じて上流階級に奉仕する新たな文化を創造する試みをする一方で、低い自尊心を利用する強い関心が蔓延しています。

 金融の投機家や乗っ取り屋のご都合主義の思うつぼにはまり、貧しい人々がいつも敗者になってしまいます。そして、人々の文化を無視することは、多くの政治指導者が、自由に受け入れられ、長期にわたって維持されるような効果的な開発計画を考案できないことに繋がっています。

53. 私たちはくよくよ悩みませんー「誰にも属さず、根こそぎにされた、と感じることほど悪い形の疎外感はない。土地が人々の帰属意識を育み、各世代の間と異なる共同体社会の間の統合の絆を生み出し、他の人に鈍感にさせ、疎外感を強めさせるすべてのことが避けられる限り、その土地は豊かになり、人々は実を結び、未来を生み出す」(50)ということを。

 

*希望 

 54. このような無視できないような黒雲にもかかわらず、私はこれからのページで、多くの新たな希望の道を取り上げ、議論したいと思います。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからです。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせました。

 私たちは気づき始めました-私たちの生活が、共有する歴史の決定的な出来事を果敢に形成する人々-医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士…と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解しました(51)。

55. 私はすべての人に、新たな希望を求めます-希望は「すべての人の心に深く根差す何かについて、それと別に、私たちの環境と歴史的な条件について、私たちに話しかける」からです。希望は、渇き、大望、充実した人生への憧れ、偉大なことを成し遂げたい強い希望、私たちの心を満たし、私たちの精神を真、善、美、正義と愛のような高遠な現実に引き上げることを、私たちに語ります…。

 希望は大胆です-それは私たちの視野を制限するような個人的な都合、ささやかな安心、報酬の先を見据え、人生をもっと素晴らしく、価値のあるものにする壮大な理想に私たちの心を広げます」(52)。それでは、希望の道に沿って前進を続けようではありませんか。

 

第2章 道端の異邦人  A STRANGER ON THE ROAD

 

56. 前章は、今日の問題の、冷淡で切り離されたような記述として読まれるべきではありません。なぜなら、「現代の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々の喜びや希望、悲しみや苦悩は、キリストに従う者の喜びや希望、悲しみや苦悩でもある。真に人間的なものは全て、彼らの心に響く」(53)からです。

 私たちが経験していることの中に一筋の光を探そうとする試みとして、また、いくつかの行動を提案する前に、私は今、2000年前にイエス・キリストによって語られたたとえ話に1章を割きたいと思います。本回勅は、宗教的信念に関係なく、善意のあるすべての人々に向けられていますが、次のたとえ話は、私たちの誰もが共感し、また困難であると感じることができます。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は答えた。『「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。

 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章25節~37節)。

 *背景 

57.このたとえ話は、古くからある問題に関係しています。聖書は、世界と人間の創造についての記述後、間もなく、人間関係の問題を取り上げています。カインは弟アベルを殺し、神が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」 (創世記4章9節)と問われるのが聞こえます。彼の答え「私は弟の番人でしょうか」(同書)とは、私たちがよく答えにするものです。神が問われるまさにそのご質問によって、私たちの無関心の正当化として、決定論や宿命論に訴える余地が与えられてはいません。代わりに、神は、私たちが対立を解決し、お互いを守りあう異なる文化の創出を勧めておられるのです。

58.「私を胎内に造った方は彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを母の胎に形づくられたのではないか」(ヨブ記 31章15節)。ヨブ記は、唯一の創造主における私たちの起源を、特定の共通の権利の基礎と見なします。何世紀も後に、聖エイレナイオスは旋律のイメージを使って同様に主張しています。「真理を求める者は、音符と音符の違いに集中して、それぞれが別々に、そして他から離れて作られたかのように考えるべきではない。代わりに、一人の同じ人物が全体の旋律を作曲したことに気づくべきだ」(54)。

 59.初期のユダヤの伝統では、他人を愛し、大切にする義務は、同じ国の人々の間の関係に限られていたようです。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)という古代の戒めは、通常、自分の同胞を指すものと理解されていましたが、その境界は次第に拡大されていき、とりわけ、イスラエルの地の外で発展したユダヤ教にてそうである。私たちは、自分が他人にしてほしくないことを他人にしてはならない」(トビト記4章15節参照)という戒めに出会います。

 紀元前1世紀に、ラビ・ヒルレル(紀元前一世紀の律法学者、ユダヤ教の著名な宗教指導者)がこのように語っています-「これがトーラー全体なのだ。それ以外はすべて解説だ」(55)。「人の憐れみは、その隣人に及ぶが、主の憐れみは、肉なる者すべてに及ぶ」(シラ書18章13節)というように、神ご自身の行動を模倣したい、という気持ちは、次第に、自分に最も近い人だけを考える傾向に取って代わっていきました。

 60.新約聖書では、ヒルレルの教えが前向きな言葉で表現されています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)。天の御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせて」(マタイによる福音書5章45節)くださるので、この掟は普遍的な範囲であり、私たちが共有している人間性に基づいてすべての人を包含しています。それゆえ、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)という呼びかけがなされているのです。

61.聖書の最も古い文書の中に、私たちの心が外国人を受け入れるように広げるべき理由が見つかります。それは,ユダヤ人自身がかつてエジプトで外国人として生活していたという,ユダヤ人の永続的な記憶に由来しています。

 「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)(注:[聖書の訳本によって節が違っている=英語訳・21節、日本語訳・20節)

 「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。

 「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった」(レビ記19章34節)。

 「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。

 兄弟愛への呼びかけは、新約聖書全体に響き渡っています。「なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)。「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいる」(ヨハネの手紙1・2章10節~11節)。「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています」(ヨハネの手紙1・3章14節)。「目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(ヨハネの手紙1・4章20節)。

62.しかし、この愛の呼びかけは誤解される可能性があります。キリスト者の初期の共同体が、閉鎖的で孤立した集団を形成する誘惑を認識している聖パウロは、弟子たちに「互いの愛とすべての人への愛」(テサロニケの信徒への手紙1・3章12節)に豊かに満ち溢れるように促しました。ヨハネ文書の共同体においては、たとえ「よそからきた人たち」(ヨハネの手紙3・5節)であっても、同胞のキリスト者が歓迎されることになっています。このような背景の中で、「善きサマリア人」のたとえ話の意義は、よりよく理解できるのです。

 すなわち、愛は、困っている兄弟姉妹がどこから来たかを気にしません。なぜなら、「愛は、私たちを孤立させ、分離させ続ける鎖を打ち砕き、 その代わりに橋を架けてくれます。 愛は、私たち全員がくつろぐことのできる一つの偉大な家族、を作ることを可能にしてくれます… 愛は慈悲と尊厳を醸し出す」(56)からです。

*道端に見捨てられた人 

 63.イエスは、強盗に襲われ、道端で負傷して横たわっている男の人の話をされています。何人かが彼のそばを通りましたが、足を止めませんでした。彼らは、重要な社会的地位にあるにもかかわらず、共通善に対する真の関心を欠いていたのです。けがをした男の人を介抱したり、助けを呼んだりするのに数分も費やそうとしません。

 そうした中で、ある一人の人が立ち止まり、男の人の所に行って、介抱し、必要なものを提供するために自分のお金まで使いました。皆が忙しく立ち回る世の中で、しっかりとつかまるものを与えました。自分の時間を与えました。男の人を助けた人には当然、その日の予定、必要としているもの、約束や強く希望するもの、がありました。

 それでも、助けが必要な人に出会った時、そうしたことを全部、脇に置きました。けがをしている人について何も知らないにもかかわらず、彼のことを自分の時間を費やし、世話をするに値する人だ、と見なしたのです。

64.あなたはこれらの人のうち, 誰を自分と同一視するでしょうか?これは唐突な質問ですが、率直で鋭い質問です。このたとえ話の登場人物の誰に似ているでしょうか?他の人、特に弱い人を無視しよう、という誘惑に常に駆られていることを認識する必要が、私たちにはあります。

 これまで成し遂げてきたあらゆる進歩にもかかわらず、この進んだ社会でいちばん弱く、壊れやすい人々に付き添い、思いやりをし、支援することについて、私たちはまだ 「無学」 であることを認めましょう。私たちは、自分が直接、影響を受けるまで、周りの状況を無視したり、通り過ぎたり、背を向けたりすることに慣れてしまっているのです。

65.私たちの街で、誰かが襲われ、多くの人は気づかなかったかのように急いで立ち去る… 自分の車で誰かをはねた人が、その場から逃げ出すーそうした人たちの動機は「問題を避ける」こと。自分がその場から逃げることによって、その人が死ぬかもしれない、というのは問題ではありません。

 こうしたことは、様々な形で、巧妙な仕方で、人々の間に広がっている”処世術”の兆候です。私たちは、自分自身の必要を満たすことに夢中になり、苦しんでいる人の姿が邪魔になる… それでいて、他人の問題に費やす時間がないことが、私たちを不安にさせるーこうしたことは、不健全な社会の症状です。繁栄を求め、苦しみに背を向ける社会です。

66.私たちがこのような深みに沈むことがないように!善きサマリア人のたとえ話を振り返りましょう。イエスのたとえ話は、私たちがそれぞれの国、そして全世界の市民として、新しい社会的な絆の構築者である召命を再発見するように招いているのです。この招きはいつも新しいものではすが、私たちの存在の基本的な法則に基づいています。

 私たちは、共通善の追求に社会を向かわせ、その目的を念頭に置いて、政治的、社会的秩序、関係性の基盤、人間の目標を強化することに全力を尽くすように求められています。善きサマリア人は、その振る舞いによって「一人一人の存在は、他の人の存在と深く結びついている。人生は、単に過ぎ去る時間ではなく、相互作用のための時間だ」ということを示しています(57)。

67.. このたとえ話は、私たちの傷ついた世界を立て直すために、私たちが下す必要のある基本的な決断を雄弁に表しています。このように多くの痛みと苦しみに直面している中、私たちの唯一の道は、善きサマリア人を見習うことです。それ以外のどんな決定では、私たちを強盗の一人か、道端の男の苦しみに思いやりを示さずに通りかかった一人にするでしょう。

 このたとえ話は、他の人の脆弱性に共感し、排除的な社会の創出を拒否し、代わりに隣人として行動し、倒れた者を持ち上げ、更生する男女によって、共通善のために、共同体がどのように再建できるかを示してくれます。それと同時に、自分のことしか考えず、人生の必然的な責任をありのままに背負うことを怠る人たちの態度についても警告してくれます。

 68.このたとえ話は明らかに、抽象的な道徳に耽っておらず、その伝えたいことは単に社会的かつ倫理的なものでもありません。私たちは愛の中でのみ見つけられる成就のために造られたのだ、という私たちの共通の人間性の本質的で、忘れられがちな側面を語ってくれているのです。

 私たちは苦しみに無関心でいられません。誰もが除け者として人生を送ることを許すことができません。代わりに、私たちは憤りを感じ、快適な孤立からの抜け出しに迫られ、人間の苦しみとの接触によって変えられるべきです。それが尊厳の意味です。

 *絶えず繰り返されている物語 

69.このたとえ話は明快で分かりやすいものですが、それはまた、私たちが兄弟姉妹との関係を通して徐々に自分自身を知るようになるにつれて、私たち一人一人が経験する内面的な葛藤をも呼び起こします。遅かれ早かれ、私たちは誰もが苦しんでいる人に出会うことになるでしょう。今日では、そのような人たちがますます増えています。道端に横たわる負傷者を含めるか、除外するかの決定は、あらゆる経済的、政治的、社会的、宗教的プロジェクトを判断する基準となり得ます。

  私たちは毎日、善きサマリア人になるか、無関心な傍観者になるか、を決めなければなりません。そして、自分の人生の歴史と全世界の歴史に目を向けてみると、私たちは皆、たとえ話の中の各登場人物のようであり、あるいはそうであったことがあるのです。私たちは皆、自分の中には、負傷した男の面、強盗の面、通行人の面、そして善きサマリア人の面があります。

70.道端での可哀想な男の痛ましい光景に一度直面すると、物語の様々な登場人物がどのように変わっていくか、はっきりします。ユダヤ人とサマリア人と、祭司と商人との区別は、取るに足らないことになっていきます。今では、「傷ついている人の世話をする人」と「通りすがりの人」、あるいは「身をかがめて助けようとする人」と「背を向けて急いで立ち去る人」の二種類しかいません。ここでは、私たちのあらゆる区別、レッテル、仮面がはがれていきます。それは真実の瞬間です。

 私たちは身をかがめて他人の傷に触れ、癒すのでしょうか。私たちは身をかがめて、立ち上がるために他人を助けるのでしょうか?これが今日の課題であり、私たちはそれに向き合うことを恐れるべきではなりません。危機の瞬間には、決断は急務となります。今ここで、強盗でも通行人でもない人は、自分自身が負傷しているか、負傷者を肩に担いでいるかのどちらかだと言えるでしょう。

71.善きサマリア人の物語は絶えず繰り返されています。国内的および国際的な紛争や機会の奪い合いが、多くの周縁化された人々を道端に置き去りにされている中で、社会的、政治的な惰性が世界の多くの地域を荒涼とした脇道に変えつつあることが、はっきり見えます。  

イエスはたとえ話の中で代替案を提示されなく、もし負傷した男や彼を助けた人が怒りや復讐への渇望に屈していたらどうなっていただろうかとは問いかけておられません。イエスは人間の精神の最善を信頼しておられます。

このたとえ話によって、イエスは、私たちが愛のうちにたゆまず努力し続け、苦しんでいる人たちへの尊厳を取り戻し、その名にふさわしい社会を築くことができるように励ましてくださいます。

 

*物語の登場人物

72.たとえ話は強盗から始まります。イエスは、私たちが犯罪そのものとそれを犯した泥棒のことにこだわらないように、強盗がすでに起こったときに始めることを選ばれました。けれども、私たちはそれらのことをよく知っています。私たちは、権力や利得、分裂といった些細な利益に奉仕する、怠慢と暴力の暗い影が、私たちの世界に降り立っているのを見てきました。

 本当の問いかけは、私たちが負傷した人を見捨てて、暴力を受けないように逃げるのか、それとも泥棒を追いかけるのか、ということです。負傷した人への対応は、私たちの和解のできない分裂、非情な無関心、内紛を正当化するものになってしまうのでしょうか?

 73.  たとえ話は私たちに、通りすがりの人にしっかりと目を向けるよう求めています。悪気があろうとなかろうと、軽蔑あるいは注意散漫によるものであろうと、自分たちを道の反対側に通らせてしまう、びくびくとした無関心は、あの祭司とレビ人のことを、私たち自身と周囲の世界との間に拡大しつつある大きな隔たりを示す悲しむべき姿にして見せます。  

 安全な距離をおいて通り過ぎるためには、その人を避けるように歩いたり、無視したり、苦しみに無関心でいたりするなど、様々なやり方があります。

 あるいは、ただ単に見て見ぬふりをすることもあるでしょう。一部の国やその国の特定の分野で見られるように、です。そこでは、貧しい人たちや彼らの文化が軽蔑されているにもかかわらず、あたかも、外から持ち込まれた開発計画が、彼らを徐々に排除することができるかのように、見て見ぬふりがされます。

これが、自分たちの無関心を正当化するやり方です。貧しい人々は-その必死に助けを求める声は心に触れるかも知れないが-単に、存在しないのだ、と。貧しい人たちは、彼らの関心の視界の外にあるのです。

 74.通り過ぎて行った人たちについての詳しい言及にも、注意を向けましょう。彼らは信心深く、神の崇拝に献身する祭司とレビ人でした。この点を見落としてはなりません。彼らの振る舞いは「神への信仰と崇拝だけでは、神に喜ばれるような生き方を私たちが実際にしている、と保証するには不十分だ」ということを示しています。

自身の信仰に求められていること全てに忠実でないにもかかわらず、「自分は神の近くにおり、他の人よりも優れている」と考える信徒がいます。だが、私たちの兄弟姉妹に心を開く信仰の実践こそ、神に対して真の素直な心を開く保証になるのです。

 聖ヨハネ・クリゾストモは、当時のキリスト教徒の聴衆に挑戦的な姿勢を取った際、このように辛らつな言葉を投げかけました。「救い主の御体を敬いたいですか?御体が裸になった時、軽蔑してはいけません。御体が、戸外で裸で寒さに震えているのに、教会の中で絹の祭服を着て敬ってはなりません」(58)と。逆説的ですが、「自分はキリスト教徒でない」と言う人の方が、キリスト教徒よりも神の御旨をよく実行できることがあります。

 *(「カトリック・あい」注:  聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(347年ごろ-407年)は、シリアのアンティオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、神学やギリシャ哲学も修めた。年少時から修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となり、すばらしい説教で人々を感動させたことから、後世になって「クリゾストモ」(黄金の口)と讃えられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放され、その地で多くの手紙・著作を書いた。)

75.「強盗たち」は通常、「通り過ぎる、または目をそらす」者たちの中に、”秘密の味方”が見つけます。社会を操り欺く人々と、「(自分は)自立した公正な批評家だ」と言いながら、その社会の構造と利益で暮らしを立てている人々の間には、一定の相互作用があります。犯罪の責任を免れ、個人や企業の利益のための制度を悪用し、そして撲滅することが不可能に見える他の悪事が、あらゆるものに対する容赦のない批判、不信と混乱をもたらす絶え間ない”疑惑の種まき”を伴っているところに、「嘆かわしい偽善」が存在します。

  「すべてが壊されている」との不満には、「修理できない」あるいは「私に何ができるというのか」という言葉で答えられています。それは、幻滅と絶望につながり、結束と寛大さの精神を促すことはありません。人々を絶望に陥らせることは、完全に捻じ曲げられた循環を閉ざします。これが、人的物的な資源と思考や意見表明の可能性を共に支配する隠れた利権の”目に見えない独裁権力”の計略なのです。

76.最後に、襲われてけがをした男の人に目を向けましょう。私たちも、彼のように、ひどいけがをし、道端に置き去りにされていることを感じる時があります。また、私たちの組織が、軽視されて必要なものが足りないことで、あるいは単に内外の少数者の利益に奉仕していることで、無力感を覚えることもあります。

 確かに「グローバル化された社会は、しばしば視線を逸らす優雅な方法をとる。政治的な正しさやイデオロギー的な流行を装って、苦しんでいる人々を、触れずに、眺める。彼らのライブ映像をテレビで放映し、婉曲的な言葉を使い、見かけだけの寛大さで、彼らについて語ることさえある」(59)のです。

*新たな出発

 77.私たちには日々、新たな機会、新たな可能性が与えられています。全てのことを、私たちを治める者に期待すべきではありません。子供じみているからです。私たちには、物事の新しい進め方や変化を創造し、実行に移すための共同責任に必要な余地があります。問題を抱えた社会の再生と支援に積極的に参加していきましょう。今日、私たちは、生来の友愛の感覚を表現し、さらなる憎しみや恨みを煽るのではなく、他人の苦難の痛みを担う「善きサマリア人」になる絶好の機会に恵まれています。

   たとえ話の中の、たまたまその場に居合わせた旅人のように、私たちに必要なのは、「倒れた者を助け上げ、歩みを共にし、包み込むために絶え間なく努力する人や共同体になろう」という純粋で、素朴な願望を持つことだけです。私たちはしばしば、暴力的な人、盲目的な野心家、不信と嘘を広める人の心的傾向に屈してしまうかもしれません。政治や経済を自分たちの権力闘争の場と見なし続ける人もいるかもしれません。私たちは、善なるものを育み、奉仕に身を置きましょう。

 78.私たちは底辺から始め、一件づつ、最も具体的かつ地域レベルで行動することができ、その後、あのサマリア人が負傷した男のそれぞれの傷に示したのと同じような世話と関心を持って、私たちの国と世界の最も遠くまで展開することができます。痛みや能力不足を恐れずに、他者を探し出し、ありのままの世界を受け入れましょう。そこに神が人間の心に植え付けられた全ての善が見いだされるからです。圧倒されそうな困難は、成長の機会であって、ただ黙認につながる陰気な諦めの言い訳にはなりません。とは言え、一人の個人としてこのようなことをしないようにしましょう。

   マタイ福音書に登場するサマリア人には、自分の世話をしてくれる宿屋の主人がいました。私たちもまた、「小さな個人の集合体」よりも「強い家族」として団結するように求められています。それは「全体は部分よりも大きいが、また、部分の総和よりも大きい」(60) からです。無用な争いと絶え間ない対立をもたらしている心の狭さと憤りを捨てましょう。自分自身に同情するのをやめ、自分の罪、無関心、嘘を認めましょう。償いと和解が、私たちに新しい命を与え、私たち皆を恐怖から解放してくれるでしょう。

 79.途中で立ち止まったサマリア人は、何のお礼も感謝も期待することなく、その場を離れて行きました。人を助けようとする努力は、彼の人生に、そして神の前で大きな満足感を与え、そうして、義務となりました。自分の民族、そして地球上の全ての民族の傷を負った人々に対する責任が、私たち全員にあります。「善きサマリア人」が見せたのと同じ友愛の精神による気配りと親密さをもって,すべての老若男女が必要としていることに、気を配りましょう。

*境界をもたない隣人 

 80. イエスは、「私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、善きサマリア人のたとえ話をされました。イエスの時代の社会では、「隣人」という言葉は通常、「自分たちに最も近い人たち」を意味していました。助けは、主に「自分の集団や種族に与えられるべきものだ」と考えられていました。

 当時のユダヤ人の一部にとっては、サマリア人が見下され、不潔な者と見なされ、助けられるべき存在ではありませんでした。自らもユダヤ人であるイエスは、そのような認識を完全に改められます。イエスは私たちに、「誰が、私たちの隣人になれるほど親しいか」決めるのではなく、私たち自身がすべての人の隣人になるようにと、求めておられます。

 

81. イエスは、私たちに、「助けを必要としている人たちが、私たちの社会的な集団に属しているかどうか、にかかわらず、その人たちに寄り添うように」と求めておられます。たとえ話のサマリア人は、けがをしたユダ人の隣人となりました。彼は身をもって、けがをした人に近づき、寄り添うことで、すべての文化的、歴史的な境界を渡りました。

イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)という言葉で、たとえ話を締めくくられます。言い換えれば、イエスは私たちに、すべての違いを脇に置いて、苦しみを前にする時には、”問答無用”で他者に寄り添うように、促しておられるのです。私たちはもはや、「私には助けてくれる隣人がいる」と言うべきではなく、「私自身が他人の隣人にならねばならない」と言うべきです。

 

82.  しかし、このたとえ話には悩ましい側面があります。と言うのは、けがをした人はユダ人であり、立ち止まって彼を助けた人はサマリア人だったと、イエスが言われるからです。この点は、すべての人を包み込む愛について私たちが深く思いめぐらすために、とても重要です。サマリア人は異教の儀式が行われていた地域に住んでいました。それが、ユダヤ人にとって、彼らを不潔で、忌まわしく危険な存在にしたのです。実際、あるユダヤの古文書では、ひどく嫌われた国々に言及した箇所で、サマリア人のことを「民ではない者たち」(シラ書50章25節)と語っています。「シェケムに住む愚かな者ども」(50章26節)としてもいます。

83. このことは、あのサマリア人の女性がイエスに「水を飲ませてください」と言われた時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしい、と頼むのですか」(ヨハネ福音書4章9節)と、そっけなく答えた理由、を説明しています。

イエスの信用を落としたい者たちがもたらそうとした最も侮辱的な容疑は、イエスが「悪霊に取りつかれている」と「サマリア人だ」(ヨハネ福音書8章 48節)ということでした。 

それで、この(注:けがをした)サマリア人と(彼に寄り添った)ユダヤ人の間の”慈しみの出会い”は、非常に挑戦的であり、イデオロギー的に操作の余地がなく、未開拓の分野を広げるようにと、私たちに迫ります。それは、すべての偏見、すべての歴史的および文化的な壁、すべてのささいな利益を超越する、普遍的な広がりを、私たちの愛への呼びかけに与えてくれるのです。

 

*助けを求めるよそ者の声 

 84. 最後に、福音書の別の一節で、イエスは、「(あなたがたは、私が)よそ者であったときに、宿を貸し(てくれた)」(マタイ福音書25章35節)と言われていることに注目したいと思います。イエスは、他人の困難に敏感であり、寛大な御心を持っておられるため、その御言葉を話されることができました。

 聖パウロは私たちに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)と促しています。私たちが心を込めてそのように行うと、相手がどこで生まれたのか、どこから来たのかを気にすることなく、彼らに共感することができるのです。その過程で、私たちは、他者のことを「自分の肉親」(イザヤ書58章7節)として体験するようになります。

85. キリスト信者にとって、イエスの御言葉はさらに深い意味を持っています。それは、私たちの見捨てられた、あるいは除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25章40節、45節を参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するように、導いてくれます。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力があります。信者たちは、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るようになるからです(61)。

 同じように、私たちは、キリストが私たち一人ひとりのために御血を流してくださったこと、そして、キリストの普遍的な愛の及ばない者はいないことを信じています。私たちは、三位一体の神の存在そのものである、愛の究極の源に向かうならば、聖三位のペルソナの交わりの中で、社会におけるすべての命の原点と完全な模範に出会うことになります。神学は、この偉大な真理を思いめぐらすことによって、豊かさを増し続けています。

 86.  このことを考えると、「なぜ教会が奴隷制や様々な形の暴力をはっきりと非難するのに、こんなにも長い時間がかかったのだろう」と不思議に思うことが、私にはあります。私たちの霊性と神学が発達した今日では、私たちには言い訳がありません。それでも、様々な偏狭で暴力的な民族主義、外国人嫌悪や軽蔑、さらには自分たちと異なる人たちを虐待するのを支援するように、信仰によって励まされている、あるいは、少なくとも許されている、と感じている人たちがいるようです。

 信仰と、それに鼓舞される人道主義は、これらの傾向に直面しても批判的な感覚を保ち、それらが頭をもたげるたびに、すぐに対応を促さなければなりません。このため、教理教育(カテキ-シス)と説教は、存在の社会的な意味、霊性の友愛的な側面、各人の不可侵の尊厳に対する私たちの信念、そしてすべての兄弟姉妹を愛し、受け入れる我々の理由について、より直接的かつ明確に話すことが重要です。

 

 

 

第3章 開かれた世界を考え生み出す ENVISAGING AND ENGENDERING AN OPEN WORLD

 

87.人間は「心から自分を他者に与えることに於いて」(62)しか生き、発展し、満足することはできないように造られています。また、他者との出会いなしに、自分を十分に知ることもできません。「私は、他者と理解し合うことによってのみ自分自身をきちんと理解することができるのです」(63)。誰も、他者とかかわりを持つことなく、真に愛することなく、人生の本当の美しさを経験することはできません。

これは、真正な人間存在の神秘です。「心の絆、親交、兄弟愛のある所に人生があるのです。そして、それが真の結びつきと忠誠心の絆の上に建てられているとき、生きることは死よりも強いのです。その反対に、自己満足を求め、孤独に生活するなら、生きているとは言えません。こういう態度で生きるなら、死の方が勝ります」(64)。

 

*自分自身から抜け出す 

 88.すべての人の心の底深くに、愛は絆を作り、存在を広げます。愛は人に、自分自身から抜け出させ、他者へと向かわせるからです(65)。私たちは愛のために造られているので、私たち各々の中で、「ekstasisの法則」が働くようです-「愛するものは他者の中でもっと充実した存在になることを求めて自己の“外に出てゆく”のです(66)。そのために「人はいつも自分自身から抜け出すという覚悟を持たねばならないのです」(67)。

89.また、私の人生を小さなグループ、たとえ自分の家族でも、との関係だけに縮小することもできません;私より先に生まれ、私の全人生を形作ってくれた人々を含め、もっと広い人間関係のネットワークから離れて自分自身を知ることは出来ません。私が大切に思う人々との関係では、彼らが私のためだけに生きているのでもなければ、私が彼らのためだけに生きているのでもないという事実に気付かねばなりません。

 私たちの関係は、もし健全で確実なものなら、私たちを広げ、私たちを豊かにしてくれる他者へ向けて開いてくれます。昨今は、あたかも深い関係であるかのような印象を与える自己中心的なチャットによって、私たちの最も気高い社会的本能が簡単にくじかれます。

反対に、本物の、成熟した愛と、真の友情は、他者との関係を通じて成長するよう開かれた心に深く根をおろすのみです。夫婦や友人として、私たちが自分たちの外に足を踏み出し、他者を抱擁するとき、私たちの心は広がるのです。他者を自分たちと区別する閉じたグループや夫婦は、自分本位や単なる自己保存に傾きがちです。

 90.意義深いことに、人里離れた地域に住む多くの小さな共同体は、「人を親切にもてなす」という神聖な義務を果たすために、巡礼者たちを歓迎する、という素晴らしい慣習を作り上げました。聖ベネディクトの宗規にもみられるように、中世の修道院も、同様でした。それは修道院の規律や静寂には邪魔になったはずですが、それにもかかわらず、ベネディクトは「貧しい人たちや巡礼者たちを最大の心遣いで世話するべきだ」(66)と主張しました。

 親切にもてなすことは、自分たちの仲間の外の人々との出会いで、外に心を開こうと行動する挑戦であり、贈り物です。修道士たちは、外に喜んで目を向け、他者に心を開いていくことが必要だ、とはっきり理解していました。

 

*ユニークな愛の価値 

 91.人々は、不屈の精神やまじめさ、勤勉、などのような道徳的に価値があるように思える習慣を身に着けていくことができます。しかし、様々な道徳的価値のある行為を目指すなら、他者に向けどれだけ心を開き一致していけるかも考える必要があります。それは、神が注がれる慈愛によって可能になるのです。

 慈愛なくしては、おそらく美徳に見得るものをもっているだけで、それでは人生全般を支えることはできません。それ故、聖トマス・アクイナス(注:1225年頃 – 1274年3月=中世ヨーロッパイタリア神学者哲学者ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者)は、その言葉を引用するなら、「欲深い人の節制は決して有徳ではない」(69)と言い得たのです。一方、聖ボナヴェントゥラ(注:1221頃-1274=トマス・アクィナスと並び称されるフランシスコ会学派の二大神学者の一人)は、慈愛がないなら、ほかのどんな徳も、厳密に言って、「神が彼らに望むように」(70)という掟を満たしていない、と言っています。

 92.人の一生の霊的価値は、愛によって測られます。愛が、最終的に「その人生に価値があったか、欠けていたか、の決定的基準」(71)となるのです。しかし、それは自分たちのイデオロギーをほかの人たちに押し付けることにあるとか、激しく真実を防御することにあるとか、印象的に力を証明することにあると考える信者たちもいます。信者として、私たちすべてが、まず愛が一番大切であることを認識する必要があるのです。決して愛が危険にさらされてはならず、最大の危険は、愛がないことにあるのです。(コリントの信徒への手紙1・13章1~13節参照)

93.トマス・アクイナスは、おそらく神の恩恵によってつくられた他者のために外へ向かう愛を述べようとしました。その愛によって私たちは「何かで私たち自身と結ばれた愛しい人たち」(72)のことを考えます。私たちは他者への愛情から、自然に彼らに良かれと求めます。

 これはすべて、他者への好意や、彼らの価値を認識することから発しています。これは突き詰めれば「慈愛」という言葉の裏にある考え方です。すなわち、愛される人々は私にとって「いとしい人」、または「大きな価値のあると思われる人々」(73)なのです。そして、「幸せにしてもらえる愛があるために、無償で何かを与える」(74)のです。

94.それなら、愛とはただの一連の慈悲深い行為以上のものになります。これらの好意は他者を身体的、または道徳的外観とは別に、価値あるもの、魅力的で美しいものと考えてますます他者へと向かう結びつきから出たものです。他者への愛は、それがだれであれ、私たちに彼らの最良の人生を求めさせます。お互いに関係を持つこのやり方を育てることによってのみ、誰をも排除しない社会的友情、すべての人に開かれた友愛を可能にすることができるのです。

 

*ますます開かれた愛 

 95.愛は私たちを、普遍的な交わりへと向かわせます。誰も他者から離れて成熟し、達成感を得ることは出来ません。愛はもともと、より大きく開かれた心と、周囲すべてをより大きな意味で共通の財産と思わせる予期せぬ経験の連続として他者をうけいれる能力を求めるのです。イエスが言っています-「あなたたちはみな兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)と。

96.このためには、異なる地域や国に対して私たち自身が持っている境界を超えることが必要です。実に、今日の世界の、ますます広がる交流や情報伝達は、私たちに国家間の共通の結束と共通の運命を強く意識させます。歴史の流れや民族のグループ,社会や文化の中に、私たちはお互いに受け入れ、気遣う兄弟姉妹からなる共同体をつくるという召命の種を見るのです。

 

*すべての人を融和させる開かれた社会

 97.町の中心部であれ、家族間であれ、私たちに閉ざされた周辺があります。それゆえ、普遍的に開かれた愛には地理的よりむしろ存在にかかわる側面があるのです。私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。私が住んでいる社会に見捨てられたり、無視されたりしている兄弟姉妹は、同じ国に生まれているにもかかわらず、実際にはそこに存在する外国人(よそ者)なのです。彼らは立派に権利を持つ市民でありながら、自分の国で外国人のように扱われているのです。人種差別は素早く突然変異するウイルスです。消えるのではなく、隠れ、潜伏するのです。

98.私は社会の中でやはり異質のものとして扱われている「精神的追放」をされている人々のことを述べたいと思います(76)。障害のある多くの人たちが、「社会の一員として、社会に参加することなく存在していると感じています」。そればかりか、完全な自由権を妨げられています。

私たちは、彼らを、世話することだけでなく、民間または教会の共同体に活動的に参加できるようにすることに関心を持つべきです。それは、時間のかかる、骨の折れる作業ですが、一人一人の人間を類のないかけがえのないもの、と認めることのできる心を育てることにだんだんと貢献していきます。

 私は、また「障害があるゆえに、時に重荷と考えられている高齢者」のことも考えます。しかし、高齢者はそれぞれ、「彼らの素晴らしい人生の経験を通して皆のために独特の貢献」ができるのです。もう一度繰り返します。私たちは、「悲しいことに、いくつかの国では、今日でさえ、障害のある人たちを『同じ尊厳を持つ人々だ』と認めることがなかなかできないでいる。だからこそ、障害の故に差別されている人々に発言できる機会を与える勇気」(77)を持つことが必要です。

*普遍的愛の不十分な理解 

 99.教会を超えることのできる愛は、あらゆる都市や国で「社会的友情」と呼ぶことのできるものの基礎となります。社会の中での本物の社会的友情は、真の普遍的な心の広さを可能にします。これは、「自分自身の国の人々を我慢できないとか、愛せないために、絶えず海外に出掛ける人々」の誤った普遍主義とは、まったく違うものです。

 自分自身の国民を見下す人々は、社会の中に、「ファーストクラス」と「セカンドクラス」、あるいは「重要な人」と「劣る人」、「大きな権利をもつ人」と「そうでない人」とという区別を作りがちです。こんな風に、彼らはすべての人のために場所があることを否定するのです。

100.私は決して、少数のグループによって立案または計画され、人を平準化したり支配したりするための理想として提示された権威主義的、あるいは抽象的な普遍主義を提案しているのではありません。

 実際に、ある”グローバル化”のモデルでは、「意識的に皮相的な均一性を目指し、表面的な画一性を求めるあまり、すべての違いや伝統を無くそうとします。もし、ある種の”グローバル化”が、すべての人を同じにし、すべての人を均一化しようと求めるなら、そのグローバル化は、各人、各国民の豊かな才能とユニークさを破壊することになります」(78)。

 このような誤った普遍性は、世の中から様々な色合い、その美しさ、最後にはその人間性まで奪ってしまうことになりかねません。しかし、未来は“モノクローム”ではありません。もし私たちに勇気があるなら、各個人が提供するはずのあらゆる多様性や相違点を考えに入れて、未来を描くことができるのです。私たちのすべてが同じでなくても、調和して平和に共に生きるために、私たち人類家族は多くを学ばねばならないでしょう。

*「仲間」の世界を超えて

 101.善きサマリア人のたとえ話に戻りましょう。それは、今でも私たちに言えることがたくさんあるからです。道端に怪我をした人が倒れています。通りかかる人たちは、隣人として行動せよ、という心の内なる命令に注意を払いませんでした。社会の中で、自分たちの仕事、社会的地位や職業的立場が大事だったのです。当時の社会で、自分たちを重要だと思っていて、自分たちに相応の役割を果たしたい、と切に思っていました。

 道端に怪我をして見捨てられた人は、そのすべてを邪魔する迷惑な存在でしかありませんでした。いずれにしても、大切な存在ではありませんでした。平凡な、取るに足らない人で、自分たちの将来に、無関係の人でした。

よきサマリア人は、このような狭量な人々を超えていました。彼らのどの範疇にも当てはまりませんでした。社会では居場所のない異国人にすぎません。名も地位もなく、旅を中断しても特に支障はなく、予定を変更して、助けを求めている傷ついた人を、前もっての用意もなく助けたのです。

102.他の人から自分たちを引き離すアイデンティティにしがみつく社会集団が絶え間なく現れ、成長する今日の世界では、この同じ物語が起きたら、そうした人々はどのように反応するでしょうか。彼らのアイデンティティや、閉ざされた自分だけに関係した組織を脅かされない異質の人たちを防ごう、と団結する人々の行動に、どう影響するでしょうか。

 隣人として行動する、という可能性は除外したとしても、彼らの目的にかなった人たちにだけ、隣人なのです。そこでは「隣人」という言葉がすべての意味を失います。ある利益を遂行するパートナーである「仲間」という言葉でしかなくなります。

*自由、平等、友愛 

 103.「友愛」という言葉は、個人の自由を尊重する社会的風土だけでなく、行政的にも保障された平等の風土の中で生まれます。友愛は、必然的に、何かもっと偉大なもの、自由と平等を高めるようなものを求めます。友愛が意識的に育成されなかったら、教育を通じて、対話を通じ、また相互作用や互いに豊かにし合うことの価値を認識することを通じて、友愛を奨励しよう、とする政治的意思が欠けていたら、一体何が起こるでしょう。

 「自由」とは、私たちが誰と何に属するかを、全く自由に選べ、また単に全く自由に所有したり、利用したりして生活する状況、というだけのことになってしまいます。このような浅い理解は、とりわけ愛へと導く自由の豊かさとは無縁のものです。

 

* 愛はいつも開かれている   

 104.また平等は、「男も女も含めすべての人間は平等である」というような、観念的な宣言によって達成されるものでもありません。それは、友愛を意識的に、注意深く育んだ結果なのです。「仲間」だけしかつくれない人々は閉ざされた世界を作ります。そのような枠組みの中で、仲間のグループには入れないが、それでも自分自身や家族のためにより良い生活を求める人々に居場所はあるのでしょうか。

105. 個人主義は、私たちをもっと自由に、もっと平等に、もっと友愛に満ちたものにしてはくれません。個人的な利益を集めただけでは、人類という家族全体のためにより良い世界を生み出すことはできません。また、今ますますグローバル化している多くの病気から私たちを救うこともできません。

 過激な個人主義は、取り除くのが非常に難しいウイルスです。それは賢いからです。それは、私たちに、あたかもますます膨らむ野望を追いかけ、何とか共有の利益に役立つ安全網を作り上げることによって、すべて自分自身の野望のまま、やりたいようにできることにある、と信じ込ませるからです。

 

*人を高める普遍の愛 

 106.いつでも、どこでも、社会的な友情と普遍的な友愛は、必ず一人一人の人間の価値を認めることを求めます。各個人が皆、大きな価値があるのですから「資源に乏しく、発展していない場所に生まれたという事実だけで、その人たちが、尊厳を欠いた生活をしている、という現実を正当化することにはならない」(81)ことは、明確に、断固として述べられねばなりません。これは、彼らの世界観に合わないとか、彼らの目的に貢献しない、と感じる人々によって、色々なやり方で無視されがちな社会生活の基本的な原則なのです。

 107.すべての人間は、尊厳をもって、完全に発展する権利を持っています。いかなる国も、この基本的な権利を否定することはできません。たとえ非生産的に生まれても、欠陥を持って生まれても、人にはこの権利があります。これは、彼らの人間としての偉大な尊厳を減ずることにはなりません。それは、境遇を基にした尊厳ではなく、彼らの存在に本来、備わっている尊厳です。もしこの基本的な原則が擁護されないなら、友愛にも人間性の存続にも、未来はないでしょう。

 108.この原則をある程度受け入れている社会もあります。機会はすべての人に与えられるべきだ、ということに同意しています。そして、すべては個人次第だ、というのです。このゆがんだ大局観からは、「遅い人々、弱い人々、才能に恵まれない人々が、人生の機会を見つけるのを助ける努力に投資するのを支持するのは、無意味に思えることでしょう」(82)。弱者を援助することに投資しても利益がないだろうとか、物事の能率を悪くするだろう,と思うのです。

 実際、私たちに必要なのは、現存し、活動的な国家や民間組織で、ある種の経済的、政治的イデオロギー的組織の自由で効率的な働きを超えたその先を見て、まず第一に、個人と共通善に関心をもつ国家や民間組織なのです。

109.経済的に安定した家庭に生まれ、立派な教育を受け、よく成長し、また、天性の素晴らしい才能を持っている人々もいます。彼らには確かに積極的な取り組みをする国家は必要ないでしょう。彼らは自由を求めるだけで事足ります。

 しかし、障害のある人や、悲惨な貧困の中に生まれた人や、良い教育を受けられず、十分な健康管理を受ける手段を持たない人に、同じルールは明らかに当てはまりません。もし社会が主として市場の自由と効率の良さの基準で統治されているなら、そのような人々の居場所はなく、友愛はただのうつろな理想のままになるでしょう。

 110 実際、「現実の状況のせいで、多くの人の手に届かず、雇用の可能性も減少している状況で経済的自由を要求することは意味がありません」(83)。自由や民主主義や友愛などという言葉は、意味のないものとなる。それは、「私たちの経済的社会的システムが、もはや一人の犠牲者も生み出さず、一人も置き去りにしない時に初めて、私たちは普遍的友愛の宴を祝うことができるようになるからなのです」(84)。

  本当に人間的で友愛に満ちた社会では、その構成員の誰もが、人生のあらゆる段階で、効率的かつ安定した方法で寄り添い助けてもらえるのです。必要最低限のものを与えるだけでなく、うまくできなくとも、ペースが遅くとも、効率よくできなくても、彼らが最大の力を発揮できるように助けるのです。

 111.人には、奪うことのできない権利があり、生まれつき関係を持つように開かれているのです。私たちのうちに深く植え付けられているは、他者との出会いを通して自分自身を超えよ、という呼びかけです。その理由で、「人権という概念と、その誤った使い方に注意しなければなりません。今日、もっと広い意味での個人的-私は個人主義的と言いたくなりますが-な権利を要求する傾向があります。その根本には、一段と他者と関わりを持たない個体であるかのような『すべての社会的、人類学的文脈人から切り離された人間関係』という概念が潜んでいます。…もし、各個人の権利がより大きな善のために調和するよう命じられないなら、これらの権利は最終的には際限がなくなり、絶えず闘争や暴力の源となるでしょう」(85)。

*道徳的善を促進する

 112. 他者の利益と人類家族全体の利益を求め追及することは、総合的な人間の発展を助長する道徳的な価値を個人や社会が成熟させるのを助けることを意味する、ということも述べたいと思います。新約聖書は、霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)のことをギリシャ語でagathosyneと表現しています。それは「善を愛し,善を追い求める」ことを意味します。更に、それは、他者の美点と他者のため最上のものを目指して努力することを示唆しています。

  彼らの成熟度や健康が増すこと、彼らの価値を高めることで、単に物質的な幸福だけではありません。同様の表現がラテン語にもあります。Venevolentiaです。これは、他者の「幸福を願う」態度のことです。これは、善へのあこがれと、素晴らしく、卓越したものへの傾倒、他者の人生を美しく、崇高で、啓発的なもので満たしたい、という願望を示します。

 113.しかし、残念なことに、ここで、私は「私たちが十分に不道徳で、倫理、善、信仰、正直さを軽視してきたことも、繰り返し言わねばならない、と感じます。軽率な気持ち、皮相的なものは私たちのためになっていない、ということを認める時です。一度、社会生活の基礎がむしばまれたら、起こることは利害の対立をめぐっての闘いです」(86)。

 私たち自身と、全人類家族のために善の促進に立ち返りましょう。そして、このようにして本物の総合的な成長に向かって進みましょう。すべての社会は、確実に価値観が伝えられることを必要としています。さもないと、子供たちに伝わるものは、利己主義と、暴力と、いろいろな形の堕落、無関心、そして、最後には閉ざされた、超越のない生活、個人の利益に凝り固まった生活だけです。

*連帯の価値 

 114.私は、特に「連帯」について述べたいと思います。それはこのようなことです。

 「個人的回心から生まれた倫理的美徳と社会的態度として、教育や育成に責任のある人々に、献身的に関わることを求める。私はまず、家庭を考えるー家庭は、教育について最も重要な任務を負っている。家庭は、愛や兄弟姉妹の愛、連帯感と分かち合い、他者を思いやり、気遣うことの価値観を持って生涯を生き抜き、次の世代に伝えられる最初の場所である。家庭は、また、母親が子供たちに教える最初の簡単な信仰を表す身振りから始まり、信仰を伝える最高の場所だ。

 そして教師たち-子供たちや若者たちを学校やその他の場所で教えるという、やりがいのある仕事を持つ人たち-は、自分たちの彼らへの責任が人生の道徳的、精神的、社会的な側面にまで及ぶ、と意識する必要がある。自由や互いに敬意を払うことや、連帯の価値は、幼い頃から伝えることができる…。情報伝達に携わる人たちにも教育と人間形成に責任がある。特に、情報と伝達の手段がこれほど幅広く普及した今日においては」(87)。

115.すべてが、ばらばらで、一貫性を無くしているように見える時には、「連帯」(88)に訴えることが有効です。それは、私たちが共通の未来を作り上げて行く努力の中で、他の人々の弱さに責任がある、という意識から生まれたもの。連帯には、奉仕するための具体的な表現方法があり、他の人々を大切にしようと努める中で、あらゆる形をとることが可能です。

 そして、奉仕は主として「弱さへのいたわり、私たちの家庭、社会、そして国民の中の弱い仲間を守る」ことを意味します。そのような奉仕を提供することで、人は学ぶのです。「最も弱い人々が実際に見つめる瞳の前では、自分の願いや願望、自分の権力の追及などをわきに置くことを。…奉仕するときはいつも彼らの顔を見て、彼らの体に触れ、彼らとの近さを感じ、時にはその近さに『苦しみ』さえして、彼らを助けようとするのです。奉仕は決して観念的なものではない。なぜなら、私たちは”観念”に奉仕するのではなく、”人々”に奉仕するから」(89)です。

 116.貧しい人々は、一般的に貧困者同士の間で、特別に連帯しています。そして、私たちの文明は、それを忘れているように見え、実際、忘れていたいのです。

 「連帯」は「いつも良く思われるとは限らない言葉だ。ある状況では、それは禁句で、あえて言わない言葉となっている。『連帯』とは、散発的に寛大な行為に従事する以上のことを意味します。それは、地域共同体の点から考え、行動することを意味する。それは、すべての人の生活が、少数の人々が富を占有することよりも大切だ、ということを意味する」「それはまた、貧困、不平等、仕事や土地や住まいの不足、社会的な労働の権利の否定などの原因となる構造、と闘うことを意味する。それは、お金の帝国の破壊的な影響と対決すること意味する…  連帯とは、その最も深い意味で理解するなら、歴史を作る方法で、これが、今の人々のしている運動の在り方」(90)なのです。

117.私たちの共通の家である地球を守る必要について話すとき、私たちは、まだ人々の心の中にあるかもしれない普遍的な意識と、相互の関心のひらめきに訴えます。豊富な水を謳歌し、より大きな人類家族のために大切に使うことを選ぶ人たちは、自分たちや自分たちの属する集団を超越してものを見ることのできる、道徳的な高さに達しています。

 人間は何と素晴らしいのでしょう!私たちがすべての人たちの権利、自分自身の境界を超えて生まれた人々の権利を認めることができるかどうか、同じ態度が求められているのです。

 

*財産の社会的役割を改めて考える 

 118.世界は、すべての人のために存在します。それは、私たちすべてが、同じ尊厳をもって生まれたからです。肌の色、宗教、才能、生まれた場所、住んでいる場所、その他、色々な違いを、ある者たちだけが特権を持つことを正当化するために、使うことはできません。共同体として、私たちには、すべての人が尊厳をもって、完全に発展するための十分な機会を持つことを、保証する義務があるのです。

 119.キリスト教の初期の時代に、多くの思想家たちが、創造物の共通の目的についての考察で、普遍的な見方を発展させました(91)。尊厳をもって生きるのに必要なもの欠く人が一人でもいたら、それは、他の人がそれを奪っているからだ、と悟らせました。

 聖ヨハネス・クリュソストモス(注:347年に シリアのアンティオキア生まれた。カトリック教会の他、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されている)は、それを、このように要約しています-「私たちの富を貧しい人々に分け与えないことは、彼らから強奪し、彼らの生計を奪うことです。私たちが所有する富は、私たち自身のものではなく、彼らのものでもあるのです(92)。また、大聖グレゴリウス(注: 540?生まれの教皇グレゴリウス1世のこと。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人)は、こう言っています-「貧しい人々に最低必要限のものを与える時、私たちは、私たちのものでなく、もともと彼らのものを与えているのだ」(93)と。

120.もう一度、聖ヨハネ・パウロ2世が語られたことを繰り返したいと思います-彼の力強さは、おそらく十分に認識されていません-「神は、地球に、全人類のため、生きるために必要なものを与えられた。誰一人除外することなく、誰一人特別扱いすることなく」(94)。

 私としては、こう言いたいと思います。「キリスト教の伝統は、財産を絶対的で、不可侵のものとして所有することを、決して認めていません。そして、あらゆる形の私的財産の社会的目的を強調している」(95)と。創造物を共有して使う原則は「すべての倫理的、社会的順序の中で、一番の原則です」(96)。それは、他の何より優先される生来の本来備わった権利なのです(97)。

 人が目的を完全に満たすために必要な、すべての他の権利は、私的財産や他の種類の財産を含め、聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「決してこの権利を妨げてはならず、その実行を積極的に促進するものでなければならない」(98)のです。私的財産の権利は、創造物の普遍的な目的の原則からすると、二次的な生来の権利でしかありません。これは、社会の働きの中でよく考えられねばならない明確な重要性をもつものです。それでも、二次的な権利が第一の、最優先の権利にとって代わり、まったく見当違いのことが行われることがよくあります。

*境界を持たない権利 

 121.ですから、出生地ゆえに、まして、より大きな機会に恵まれた土地に生まれた人たちが享受する特権ゆえに、誰もが排除されたままでいることはできません。個々の国の制限や境界が、妨げてはなりません。女性だという理由で、権利が(注:男性より)少ないことを容認できないように、単に出生地や居住地のせいで、発展した堂々たる人生の機会が減ってしまうことも、受け入れがたいことです。

122.発展は、少数の人が富を蓄積するように意図されてはなりません。「人権-個人的そして社会的に、経済的そして政治的に、国家や人々の権利を含めた人権」(99)を保障するものでなくてはなりません。自由企業や市場の自由への誰かの権利は、人々の権利、貧しい人々の尊厳に取って代わることはできない、さらに言えば、自然環境への敬意に取って代わることはできません。「もし私たちが何かを自分のものとするなら、すべての人の利益のためにそれを管理するためだけ、なのです」(100)。

 123.経済活動は、本質的に「富を生み、私たちの世界をより良くするための、気高い使命」(101)です。神は、私たちに与えられた才能を伸ばすように仕向けられ、私たちの世界を、計り知れないほど可能性のあるもの、とされました。神の計画では、それぞれの人に自己開発を促進することを求め(102)、これには、商品を何倍にもし、富を増やす最良の経済的、技術的な手段を見つけることも含まれています。

 神から与えられた経済活動の能力は、いつでも、明確に他の人々の発展に向けられ、特に、さまざまな就業の機会を産み出すことを通して、貧困を無くすことに向けられるべきです。私的財産の権利には、「すべての私的財産は地球の財の世界的な最終目的に従う」という第一の優先原則が、常に伴うのです。そして、このようにして、すべて人の権利は、その使用に帰するのです(103)。

 

*諸国民の権利 

 124.今日では、地球の財の共通の目的への確固たる信念は、この原則が国家、領土、資源にも適用されることを求めています。私的財産や市民権の正当性だけでなく、「財の共通の目的」という第一の原則に立てば、それぞれの国も、自国の領土の財を「他から来た貧しい人々に使わせない」と言ってはならない、といえます。

 米国の司教たちが教えているように「神によって造られたそれぞれの人に認められた尊厳から流れ出てくるがゆえに、どのような社会にも優先する基本的な権利」(104)があるのです。

125.これは、国家間の関係や交流を違った方法で理解することを前提としています。仮に、すべての人間が奪うことのできない尊厳を持っているなら、仮に、すべての人々が私の兄弟姉妹であるなら、そして、仮に、世界が本当にすべての人のものであるなら、私の隣人が私の国で生まれていようが、他の地で生まれていようが、どうでもよいことです。私自身の国が、その人の発展の責任を負っているのです。

 どのように責任を果たせるか、色々方法がありますが、緊急に助けを求めている人々を寛大に受け入れることもできるし、国民の尊厳ある発展を妨げている腐敗した組織を助けることや搾取するのを拒絶したり、天然資源が奪われることを拒絶したりすることで、自分が生まれた国の生活環境改善のために働くこともできます。

 国に当てはまることは、国内の地域にも当てはまります。そこに、とても大きな不平等がしばしば存在しているからです。人間の対等な尊厳を認めることができないと、国内の発展した地域は、貧しい地域という「重荷」を捨てて、自分たちの消費水準を高めようと考える時もあります。

126.私たちは、国際関係の新しいネットワークについて、実際に話しているのです。仮に、私たちが、個人間や小さなクループ間での相互援助の観点からしか考え続けられないなら、世界の重大な問題を解決することは、決してできないからです。また、私たちは「不公平が、個人だけでなく国家全体に影響することを忘れるべきではない。それは、私たちに国際関係の倫理について考えさる」(105)。実際のところ、正義は、個人の権利だけでなく、社会的権利や国民の権利も認め、尊重することを求めます(106)。

 これは、「国民の生存と進歩、という基本的権利」(107)-対外債務で生み出される圧力によって、時として厳しく制限されることのある権利です。多くの場合、債務返済の負担は、経済的発展の促進を不可能にするだけでなく、重大な制限や条件付けをします。

 「すべての合法的な公的な借金は、返還されなければならない」という原則を尊重することは必要ですが、多くの貧しい国々が、返済義務を果たすために、生存や成長を危うくすることになってはなりません。

 127.確かに、このことすべてのためには、別の考え方をすることが必要です。その努力なしにはー私の言うことは、はなはだしく非現実的に思われるでしょうが。一方で、私たちには、奪うことのできない人間の尊厳から生まれた権利がある-という大原則を受け入れるなら、新しい人間性を求める挑戦に立ち上がることができるのです。

 私たちは、すべての人に土地と住居と仕事を与えることを、世界に求めることができます。これは、外部の脅威に直面しての『恐怖と不信の種をまく、無分別で近視眼的な戦略』ではなく、真の平和への道です。真に永続的な平和は「人類家族全体の独立と、責任の分担で実現する、『未来に貢献する連帯と協力のグローバルな倫理』を基礎として初めて可能」(108)なのです。

 

第4章  世界に開かれた心  A HEART OPEN TO THE WORLD

 128. もしすべての人々が兄弟姉妹であるという確信が、抽象的な考えに留まるのではなく、具体的なものとして見いだせるならば、多くの関連する諸問題が明らかになり、私たちは新しい光で、新たな対応を展開できるようになるでしょう。

 

*国境とその限界 

 129. たまたま隣人が移民であると、複雑な問題が発生します(109)。理想としては不必要な移住は避けるべきです。そのためには、母国での尊厳のある生活と総合的な発展を必要とする環境の創出が必然的に求められます。しかし、この目的の達成という実体的な発展を遂げるまで、移民やその家族が基本的なニーズにかなう場所を見つけ、すべての個人が充足感を得られるように、すべての個人の権利を尊重する義務が私たちにあります。

 移民が到着した時の私たちの反応は、歓迎、保護、支援、統合の四つの言葉に要約することができます。なぜならば、「これはトップダウン形式の福祉プログラムを実施するケースではなく、むしろこれらの四つの行動を通して都市や国を構築するための旅を一緒に始めるというケースだからです。旅の目的は、相互の文化と宗教上のアイデンティティを維持しつつ、相違に心を開き、人間の兄弟愛という精神から、いかにして移住者を支援するかを知っている都市や国を構築することです」(110)。

130. このために幾つかの必要不可欠なステップを踏む必要があります。特に深刻な人道的危機に瀕している人々への対応です。

 次のような例を挙げることができます。ビザ申請の簡素化と許可数の増加、個人あるいはコミュニティ支援プログラムの採用、最も弱い立場にある難民に対する人道回廊を開くこと、適切で尊厳の維持できる住居の提供、個人の身の安全の保障と基本的なサービスを受けられること、十分な領事館の支援と個人の身分証明の書類を保有できる権利の保障、公正な司法制度へのアクセス、銀行口座の開設と最低限の生活保障、移動の自由と就業、未成年者の保護と通常の教育が受けられること、一時的な身元引受人(後見人)やシェルタープログラムの提供、宗教の自由の保障、社会への適合の促進、家族再会の支援、統合プロセスに役立つ地域コミュニティの準備です(111)。

131. 最近移住したのではなく、すでにすでに社会に組み込まれている移民にとって、「市民権」という概念の適用は重要です。なぜなら市民権は「すべての人々が公平を享受する元となっている、権利と義務の同等性に基づいているからです。故に、私たちの社会で『完全な市民権』の概念を明確にして、孤立感と劣等感を生む『マイノリティ』という差別用語の使用を拒否することが重要になります。差別用語の使用は敵意と不和への道となるからです。それはいかなる成功をも台無しにし、差別待遇をされている市民の宗教の権利と市民権を奪い取るものです」(112)。

132. たとえ人々がこのような重要なステップを踏んだときでさえ、国家は十分な解決策を彼らだけで実行することはできません。「なぜなら、それぞれの国家が決めた結論は、すべての国際的なコミュニティに影響を及ぼすことが不可避だからです」。結果として、「私たちの対応は」移民の移住に関してグローバルなガバナンスという形態を発展させるための「共同の努力の結実でしかないのです」(113)。このように「緊急的対応に限定されない、中期と長期にわたる計画が必要」です。

 このような計画は、受け入れ国で移民が社会に適合するために有効な支援を含まなければなりません。しかし、同様に両国の連帯によって生まれた政策を用いて彼らの祖国の発展を促進させる有効な支援も含まれるべきです。しかし、そのとき、支援される人々(移民)の文化とかけ離れた、あるいは反対のイデオロギー的な政策や慣習に支援を関連づけるべきではありません」(114)。

 

*互いに与え合う贈り物

 133. 生活様式や文化の異なる所から来た移民の到来は贈り物になり得ます。なぜなら「移住者のストーリーは常に個人間、文化間の出会いのストーリーでもあるからです。移住先のコミュニティや社会にとって、移住者はあらゆるものの豊かさと総合的な人間成長のチャンスをもたらします」(115)。

 このために、私は特に若者に、強く促したいと思います。「自分たちの国に新しくやってきた若者に反対するよう煽るだけでなく、彼らを脅威と見なし『我々と同じ尊厳を持っていない』と見なすように誘う人たちの、術中に陥らないように」(116)と。

134. 実際に、私たちが自分とは異なる人々に心を開くと、彼らは自分自身を保ちつつも新しい方法で成長することができます。何世紀にも渡って繁栄してきた異文化は, 私たちの世界が貧弱にならないように保存されるべきです。同時に、それらの異文化が他者の持つ現実と出会い、新しい体験に触れることも勧められるべきです。なぜなら、文化面での硬化症に陥るリスクが常に存在するのです。

 そのリスクに陥らないために、「私たちは互いに連絡をとり、一人ひとりが持つ贈り物を発見し、私たちを結びつけているものを強め、尊敬し合いながら成長するチャンスとして、私たちの相違を見なす必要があります。対話では忍耐と信頼が求められます。忍耐と信頼は、彼ら自身の文化の価値を伝えつつ、他からの与えられる良い体験を喜んで受け入れるために、個人、家族、コミュニティを容認することを可能にします」(117)。

135. 私がこれまでに取り上げた幾つかの例について述べたいと思います。ラテンアメリカ人の文化は「アメリカを非常に豊にすることのできる価値と可能性を発酵させる種」です。なぜなら、「奮闘する移民は移住先の文化に影響を与え、変革させるからです。アルゼンチンでは奮闘するイタリアからの移民が社会の文化に痕跡を残し、およそ20万人のユダヤ人の存在はブエノスアイレスの文化の『形』に大きな影響を与えました。移民は社会に統合するように支援されるなら、神からの恵みとなり、社会を成長に導く豊かさの源であり、新しい贈り物となるのです」(118)。

 136. さらにもっと広範囲に及ぶスケールで、グランドイマームのアハメド・エルタエブ師と私は次のように確認しました。

 「東西間の良い関係は議論の余地もなく双方に必要であり、互いに無視してはいけません。実りをもたらすやりとりと対話を通して東西が互いに豊かになるからです。西側の人々は、蔓延る物質主義が原因となっている精神的および宗教的な病弊に対する治療法を東側の人々のなかに見いだすことができます。また、東側の人々は、弱さ、分断、争い、そして科学的、技術的、文化的な衰退から抜け出る助けとなる様々な要素を西側に見いだすことができます」。

 「東側の人々の特徴、文化、文明を形成する重要な構成要素である、宗教的、文化的、歴史的な相違点に注目することは重要です。同様に東西のすべての男女に対して尊厳ある生活を保障する手助けとなる基本的人権の保障を強固にすることも大切です。そのとき、ダブルスタンダードによる政治判断は避けなければなりません」(119)。

*実り多い交流 

 137. 国家間の相互支援が、双方に豊かさをもたらすことが証明されています。自分たちに固有の文化的土台にしっかりと根ざして前進する国は、全人類にとっての宝です。今日、私たち皆が助かるか、あるいは誰も助からないか、のどちらかである、という自覚を高める必要があります。

 地球の一部に存在する貧困、衰退、苦しみは、やがて全世界に悪影響を及ぼすことになる諸問題に対して、無言の血を流す根拠となっています。たとえ私たちがある特定の種類のものが消滅し、そのことで悩むにしても、貧しさや構造的な限界によって個人や人々の持つ可能性や美しさの発展が奪われる地域が世界に幾つかあるということで、もっと悩むでしょう。最終的に、そのようにして私たち皆が貧しくなってしまうのです。

138. このことはこれまでも常に事実でしたが、世界がグローバル化されて相互に関わり合っている今日ほど明白になったことは決してありませんでした。私たちは「連帯しつつすべての人々が発展するように国際的な協力を強め、目指すことのできる」グローバルな司法的、政治的、経済的な秩序を達成する必要があります」(120)。最終的に相互支援(国際協力)は、全世界の利益になるでしょう。なぜなら「貧しい国への発展支援」は「すべての人々に豊かさをもたらすこと」を意味するからです(121)。

 総合的発展という見地から、相互支援は、「より貧しい国民に、双方の意思決定に基づいた有効な声を届け」(122)、「貧困と開発途上という苦しみを抱える国々に、国際的なマーケットへのアクセスを容易にする」資格(地位)を「与えることが前提となります」(123)。

*無償で他者に開放する 

 139. たとえそうであっても、私はこのような提示を功利的なアプローチに限定したくはありません。すなわち、常に「無償」の要素があります。個人的な利得や報酬を気にせずに、それ自体が良いという理由だけで、何かを実行できることです。たとえ即座に目に見える利点がもたらされなくても、無償の行為は見知らぬ人を歓迎できるように導きます。科学者や投資家のみであれば、受け入れたい、と思っている国々もありますが。

140. 兄弟的な無償の行為がない生活は、猛烈なビジネスの形をとり、絶えず、何を与えて、何を貰うかを計算します。一方、神は不忠実な人々さえ無償で助けるほどです。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせます」(マタイ福音書5章45節)。イエスが私たちに語られたことに理由があります。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(同6章3-4節)。私たちは無償で命を受け取りました。そのために1円たりとも払っていません。従って、私たちは誰でも何も返礼を期待せずに、良く待遇してくれることを要求せずに、他者に親切にすることができるのです。イエスが弟子に告げられたように、です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(同10章8節)。

141. 世界の国々がそれぞれ異なることの真の価値は、ただ単に一つの国としてだけではなく、より大きな人間家族の一部として考える、という能力によって計ることができます。特に危機にあるときはこのことがよく分かります。ナショナリズム(国家主義・民族主義)という狭義の形は、この無償の意味を把握できていない極端な表われです。ナショナリズムは、他者の破滅を無視して自分たちだけで発展できる、また、他者にドアを閉めることで、自分たちがより安全である、と考える過ちを犯します。

 移民たちは何も与えるものを持たない強奪者とみなされます。この考えは、貧しい人々は危険で役に立たない、一方、権力のある人々は寛大な恩恵を施す人々、という最も単純な信念に導きます。「無償で」他者を快く歓迎する、という社会的、政治的な文化のみが、未来を手に入れることができるでしょう。

*地域と普遍 

142. 私たちが頭に入れておくべきことは、次のことですー「『グローバル化』と『ローカル(地域)化』の間には、本質的な緊張が存在する。狭量で陳腐な考えを避けるために『グローバル』に注意を払う必要があるが、『ローカル』にも目を向ける必要があるーそうすることが、私たちの足を地に着いたものにするからだ。この二つが、人々は抽象的な概念、『グローバル化された世界』に巻き込まれる、あるいは、世界と離れ、目新しいものに挑まれることも、神が境界に置かれた素晴らしいものを正当に評価することもできず、同じことの繰り返しを運命づけられた”地域の民族伝承館”に入り込む、という、グローバル、ローカルの両極端に落ち込むのを防いでくれる」(124)。

 狭量な地域愛から私たちを救い出す「グローバルな視野」を持つ必要があります。私たちの家が、家庭であることをやめ、壁で囲まれた場所、”刑務所の監房”になろうとする時、「グローバル」が、私たちを救けに来ますー私たちを実践にひきつける”final cause(目的因)”+のように。しかし同時に、「ローカル」も喜んで受け入れねばなりません。「グローバル」が持っていないもの持っているからです。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができます。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たします。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことでしょう。

アリストテレスの説く、事物が生成するための四原因のひとつ。例えば、家に対しては、家としての役割・働きがこれにあたる=三省堂刊「大辞林」

 

*郷土の香り 

 143. その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではありません。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ません。堅固な基盤の上に立っていなければ、私は他の人々と真の出会いをすることができないーなぜなら、私が贈り物を受け取とった相手に、自分自身の本物の贈り物を返すことができるのは、そうした基盤の上に立っているからです。異なる人々を喜んで受け入れ、彼らがするに違いない素晴らしい貢献の価値を認めることができるのは、私が自分自身の仲間と文化にしっかりと根を下ろしている場合に限られます。

 誰もが、彼の、あるいは彼女の郷土と村を愛し、大切にすることは、ちょうど、彼らが家庭を愛し、大切にし、個人的に家庭を維持する責任をもつこと同じです。それと同じように、共通善は、私たちが郷土を守り、愛することを求めています。そうしなければ、ある国の災害が、最終的にこの地球全体に悪影響を及ぼすことになってしまいます。これらすべてのことは、所有物に対する権利について肯定的な意味をもたらしますーすべての善に貢献できるようなやり方で、私は自分の持っているものを大切にし、育てるのです。

 144. それはまた、健康的で豊か交流を生みます。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれます。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しません。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからです。

それが、昔からあるバベルの塔の物語で言及されている誘惑です。天まで届く塔を建てる試みは、さまざまな土地から来た多様な人々の団結の表明ではありませんでした。そうではなく、諸民族のために作られた、神の意図された計画とは別の単一なものを作り上げようとする、高慢と野心から生まれた誤った試みだったのです(創世記11章1~9節参照)。

145. 偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性があります-それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因します。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばなりません。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、です。

私たちは、神からの贈り物である自分の故郷の肥沃な土地と歴史に、もっと深く根を張る必要があります。私たちは、近隣で、小規模であっても、大きな視野をもって働けます… 全世界が息苦しい思いをする必要はないし、特定の地域が不毛だと証明することもありません」(125)。私たちの手本は、多面体のようなものであるべきですー個人それぞれの価値がたいせつにされ、そこでは「全体は部分よりも大きいが、それは各部分の総体よりもさらに大きい」(126)からです。

*普遍的な視野 

 146. 自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルなナルシズム(自己陶酔)」があります。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれます。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全な「ローカル」であることは不可能です。 

 一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心します。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになります。このようにローカルなレベルの生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなります。このようにして地域発展の可能性は狭められ、地域は退屈し、脆弱になります。

 一方、健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的です。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えません」(127)。

147. 私たちの精神と心が狭くなっている時、周りの世界を理解することがより難しくなっている、ということを理解しましよう。互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身とその郷土をも明確に、且つ完全に理解することが困難になります。他の文化は、私たちが自身を守るための「敵」ではなく、人間の生活が持つ尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのです。私たちがもう一人の自分、つまり他者の観点で自分自身を見ると、私たちと私たちの文化がそれぞれ持つ、ユニークな特徴、つまり、豊かさ、可能性、限界がよりよく理解できます。私たちのローカルな体験は、様々な文化的環境の中で生きている人々の体験と「対照的」に、かつ「調和」して発展させる必要があります(128)。

148. 実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりしません。他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合します。輸入された要素自身が豊になり、最終的にすべての人々にとって益となる新しい統合体となります。これが、私たちが地元の人々に自身のルーツと先祖の文化を大切に育てるように、強く勧める理由です。

  同時に、「いかなる類いの混血の人々(メスティーソ)をも拒否するような、壁に囲まれた完全な閉鎖、変わらずに続いてきた歴史的な静止状態の『原住民主義』」を提案するつもりはない,と強調したいと思います。なぜなら、「私たちの文化的な独自性は、それと異なる独自性をもつ他の文化との対話によって強められ豊かになるからです。さらに、私たちの真の独自性は、不毛な孤立によって維持されることはありません」(129)。いかなる文化的な押しつけもない、開かれた文化間に生まれた統合を維持することで、世界は成長し、新しい美しさで満たされるのです。

149. 郷土への愛と、もっと大きな人類家族に属しているという、しっかりした感覚の間にある健全な関係のために、「グローバルな社会とは、異なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体だ」ということを念頭に置くことが役に立ちます。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのです。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの美を発見するのです。出自が何であれ、個々人すべてが、より大きな人間家族の構成員であることを知るのです。それなしには、自分自身を十分に理解することはできないでしょう。

 150. このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という喜ばしい認識をもたらします。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのです。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵、となるのです。なぜなら「人間は無限でありながら限界のある存在」だからです(130)。

*自分の地域から始める

 151. 地域的な交流によって、より貧しい国々が、より広い世界に対して開放的になりますが、普遍性が彼らの独自な特徴を弱めることには、必ずしもなりません。世界に向けた適切かつ信頼できる開放性は、(地域の)国々の集団の中で隣人に開放的であることを前提とします。ですから、隣国の人々との文化的、経済的、政治的な統合は、隣人愛の価値を奨励する教育を伴う必要がありますーそれが、健全な普遍的統合を成し遂げるため、最初に、絶対必要なステップなのです。

152. 私たちの都市のいくつかの地域で、生き生きとした隣人関係が続いています。一人ひとりが、彼、あるいは彼女の隣人に寄り添い、助ける必要のあることを極めて自然に理解しています。このような共同体の価値観が保持されている所で、感謝、連帯、互恵が特徴的に見られる親密さを、人々は体験しています。隣人関係は、”shared identity(自他同一性)”の感覚を人々にもたらします(131)。同じように近隣諸国が”隣人の精神”を人々の間に奨励できるとよいのですが!

 一方で、個人主義の精神も、諸国間の関係に影響を与えます。互いに相手から自分を守るべきだ、と考えることの危険性、あるいは他者を競争相手、危険な敵と見なすことの危険性は、同じ地域の人々との関係にも、影響を与えます。おそらく私たちは、この類いの恐怖と不信の中で教育されてきたのです。

 153. このような孤立から利益を得、それぞれの国と別々に交渉することを好む、強国や大企業があります。その一方で、小さな、あるいは貧しい国々は、地域の一員として交渉することを認める隣国と協定を結ぶことで、分断され、孤立し、大国に依存せねばならなくなる事態を避けることが可能です。今日、孤立したままでは、どの国も人々の共通善を確保することはできません。

 

第5章 より良い政治 A BETTER KIND OF POLITICS

 

154. 諸国民と諸国家による社会的友愛の実践を基礎に置いた兄弟愛の世界的な共同体社会の発展には、より良い政治、真に共通善に奉仕する政治が必要とされます。残念なことに、今日の政治はしばしば、今とは違う世界に向けた進歩を妨げる形をとっています。

*「ポピュリズム」と「リベラリズム」

 155. 弱者への思いやりの欠如は、それ自体の目的のために彼らを煽り立て、搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に役立つ「リベラリズム」の背後に隠れることがあります。どちらの場合も、最も弱い人々を含む、すべての人のための場を作り、異なる文化を尊重する開かれた世界を心に描くことを難しくします。

*「ポピュラー」と「ポピュリスト」

 156. 近年、「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉が、メディアや日常会話によく使われるようになっています。その結果、そうした言葉が持っていたかもしれない価値を失い、すでに分裂した社会で二極化のもう一つの原因になっています。国民、集団、社会、政府の全体を「ポピュリスト」かそうでないか、に分類する努力がされています。今日では、どちらかに分類されずに、いかなる課題についても見解-それが、不当に評判を落とすか、絶賛されるか、いずれかにしても-を述べることができなくなっています。

157. ”ポピュリズム”を社会的現実の解釈の鍵、と見なそうとする試みは、別の方法で問題があります。「人々」という言葉の正当な意味を無視するからです。この意味を一般的な用語から取り除く努力は、「人民による政治」という民主主義の概念そのものの排除につながる可能性があります。社会が「単なる個人の集合体ではない」ことを堅持したいなら、「人々」という言葉が必要です。多数派を生み出す社会的な現象だけでなく、時代の大きな流れや共同体主義への強い願望もあります。

 男性と女性は、違いを超越する共通の目標を考え出すことができ、共に努力することができます。だが、それが「共有された願望」にならないなら、長期的な計画を実行するのは、とても難しい。こうした要因のすべては、「人々」と「人気」という言葉の使われ方の背後にあります。それらが考慮されない限り、”煽動”への健全な批判とともに、社会的現実の基本的な側面が見過ごされることになるでしょう。

158. ここで、誤解が生じる可能性があります。

 「『人々』は論理的な分類ではなく、神秘的な分類でもないー仮に、このことで、人々が行うすべてのことが善であり、あるいは人々が『天使のような』実在だ、ということを意味するなら、である。それよりも、神話に分類されるべきだろう… 『人々』が何を意味するか説明せねばならない時、あなたは説明のために論理的な分類を使います。必然的にそうなる。だが、そのようなやり方で、『人々』に属することの意味を説明することはできない。『人々』は、純粋に論理的な言葉で説明できない、もっと深い意味を持っている。『 人々』の一員になることは、社会的、文化的絆から生まれる共有のアイデンティティーの一部となることだ。 それは自動的に得られるものではなく、かなりゆっくりと、困難な経路をたどり… 共通の計画に向けて進むもの」(132)だからです。

 159. ”人気”のあるリーダーたち、人々の感情や文化的な活動、そして社会の重要な流れを読み取ることのできるリーダーたちは、確かに存在します。彼らが一致して主導する努力によって提供するサービスは、変革と成長の永続的なビジョンの基礎となりますーそれは、共通善を追求する中で、他の人々のための場を作ることも含むでしょう。

 しかし、どのようなお題目を立てようと、個々人が、個人的な利益を得る、あるいは権力支配を続けるために、人々の文化を政治的に不当に利用できるようになれば、不健全な”ポピュリズム”に堕落することが、在り得ます。あるいは、他の場合、人々のうち特定の分野の人が持つ最も卑しく、最も利己的な性向に訴えることで人気を得ようとする場合も、そうです。このことは、粗雑なやり方だろうと、もっと狡猾なやり方だろうと、制度と法の乱用に繋がる場合、一段と深刻なものになります。

 160.  閉鎖的なポピュリストの集団は、「人々」という言葉を歪めています。彼らが「本当の人々」について話していないからです。 「人々」の概念には、実際に制限がありません。 生き生きと活動的な人々、未来のある人々は、違いを歓迎する能力を通じて、常に新しい統合を受け入れます。 人々は、適切な独自性を否定しませんが、他者に動かされ、挑戦され、拡大され、そして豊かにされ、そうしてさらに成長し、発展いくことに開かれています。

161.”人気”のあるリーダーシップの衰退のもう一つの兆候は、目先の利益への気遣いです。選挙での票や支持を得るために、多くの人の要求に応えますが、人々が開発を必要とする資源を生み出し、自分自身の努力と創造性によって生計を立てる根気のいる不断の努力がなされません。

この点で、私は「無責任なポピュリズムを提案するつもりがない」ことを明確にしています(133)。不平等をなくすには、それぞれの地域の潜在性を引き出し、持続可能な平等を保証するのを助けることのできる経済成長が必要です(134)。同時に、「福祉事業-特定の緊急の要請に応えるもの-は、単に一時的な対応と見なされるべきだ」ということになります(135)。

 162. 最大の問題は雇用です。真に”人気”があるのは、人々の善を促進するために神が私たち一人一人に植えられた種、つまり私たちの才能、進取の精神、そして私たちの生来の才覚を育てる機会を、すべての人に提供することです。これは私たちが貧しい人々にできる最高の助けであり、尊厳ある人生への最良の道です。ですから、私が主張しているのは、「差し迫った必要がある場合に貧しい人々を経済的に助けることは、常に暫定的な対応策でなければならない。より幅広く目指すべきは、常に人々が仕事を通して、尊厳のある生き方ができるようにする」(136)ことです。

 生産システムは変わり得るので、政治システムが、彼、彼女が自分の才能と努力を生かせる機会を手にするような社会を構築するために、働き続けねばなりません。 「仕事と仕事の尊厳を奪うことよりも悪い貧困はない」(137)からです。真に発展した社会では、仕事は社会生活の不可欠な要素です。それは、仕事は毎日のパンを稼ぐ手段であるだけでなく、個人の成長、健全な関係の構築、自己表現、贈り物を交換する手段でもあるからです。仕事は、私たちに世界の発展、そして最終的には人としての私たちの人生に対する共通の責任感を与えてくれます。

*既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 

 163. コミュニティと文化的絆の前向きな見方を必然的に伴う「人々」の概念は、通常、社会を単に「共存する利益の総和」と見なす個人主義的な既存の概念にとらわれないアプローチによって拒否されます。 ある人は自由の尊重について話しますが、共有された物語に根を持ちません。 特定の状況では、社会の最も脆弱な構成員の権利を擁護する人々は、「ポピュリスト」として批判される傾向があります。「 人々」という概念は、抽象的な複合概念、実際には存在しないもの、と考えられています。 しかし、これは不必要な二項対立を作ります。 「人々」の概念も「隣人」の概念も、社会組織、科学や市民の機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような仕方で、純粋に抽象的な、あるいはロマンチックなもの、と見なすことはできません(138)。

164. 一方、慈善活動は、抽象的側面と制度的側面の両方を持っていますー制度、法律、技術、経験、専門知識、科学的分析、行政手続きなど、すべてを包含する歴史的変遷の効果的なプロセスを必要とするからです。 さらに言えば、「私的生活は、公的な秩序によって守られない限り存在できない。 家の炉端は、法律によって、法律に基づく安全な状態によって、守られない限り、本当の暖さがない。守られることで、分業、商取引、社会正義、および政治的市民権によって保証される最小限の幸福を享受する」(139)ことができるのです。

165. 真の慈善活動は、これらすべての要素を他者への関心に組み込むことができます。遠く離れた、あるいは忘れ去られた兄弟姉妹を含めた、個人的な出会いにおいて、そうしたことは、可能ですー「組織化され、自由で創造的な社会の諸団体が生み出すことのできる資源」をすべてを利用することで。たとえば、善きサマリア人でさえ、(注:自分が助けた人に)彼個人ではできないような助けができる近くの宿が必要でした。隣人への愛は具体的であり、「貧しい人々や不利な立場にある人々に利益をもたらす可能性のある歴史的な変化」に必要な資源を、無駄使いすることはありません。

 時には、個人主義的な行動様式や効果のない手順に結び付いた左翼主義者のイデオロギーや社会原理が、ほんの少しだけ、人々に影響を与えます。大部分の人は、他の人の善意に依存し続けます。このことは、より大きな友愛精神の必要だけでなく、貧しい国で苦しみ、死に瀕している”捨てられた人々”を悩ませている問題の解決を助ける、より効率的な世界的な組織の必要性を明確に示しています。また、すべてに無差別に適用できるような、一つの解決策、単一の受け入れ可能な方法論、経済的な対策が無い、ということも示しています。最も綿密な科学研究でさえ、さまざまな行動方針を提案しないとも限らないのです。

 

166. したがって、すべては、心、態度、生活様式の変化の必要性を理解する、私たちの能力に依存しています。そうでなければ、政治宣伝、メディア、世論形成者は、個人主義的で批判精神に乏しい文化ーすでに過剰な権力を享受している人々に奉仕する無秩序な経済的利益や社会制度に利するような文化ーを促進し続けることになるでしょう。

 私の専門技術者的なものの見方に対する批判は、「行き過ぎをうまくコントロールできるだろう」と単純に考える以上のものを含みます。より大きなリスクは、特定の対象、物質的な現実あるいは制度そのものからではなく、それらの使われ方から生じます。それは人間の弱さーキリスト教の伝統が「concupiscence(貪欲)」と呼ぶものの一部である利己主義の性癖、自分自身、自分の集団、自分自身のささいな興味だけに関心を持つ人間の性癖と関係があります。

 貪欲は、私たちが生きている今に限られた欠陥ではなく、人類の初めから存在し、歴史のそれぞれの時に、使える手段なら何でも使って、これまでずっと様々な形に変化し、続いてきました。しかし、貪欲は、神の助けを借りて克服することができるのです。

 167. 教育としつけ、他者への配慮、人生と精神的成長の十分に一体化したものの見方。これらはすべて、質の高い人間関係のために、経済、技術、政治、メディアの不正、常軌を逸した対応、権力の乱用に、社会そのものが対応できるようにするために、欠かせません。いくつかの自由主義的な対応は、人間の弱さのそうした要素を無視し、決まった秩序に従って、それ自体で明るい未来を保証でき、あらゆる問題の解決策を提供することができる、という世界を心に描きます。

168. 市場は、それ自身ですべての問題を解決することはできませんが、それでも、私たちは、この”ネオ・リベラリズム(注:個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきとする考え方)信仰”の教義を信じるように求められています。課題が何であれ、この不毛で繰り返しなされる”流派”は、常に同じ”調理法”を提示します。”ネオ・リベラリズム”は、社会問題の唯一の解決策として、名前を使わずに、「溢出」あるいは「漏出」の魔法の理論に頼ることで、それ自体を単純に再現します。主張されている「溢出」が、社会構造を脅かす新たな形の暴力を引き起こす不平等を解決しない、という事実への正当な評価が少しもありません。

 強く求められているのは、「生産的な多様性とビジネスの創造性を優先する経済の促進」(140)に向けた積極的な経済政策を持つこと、雇用を作り出し、減らさないことを可能にすること、です。手早く利益を上げることを目的とした金融投機が、大きな混乱を引き起こし続けています。実際、「連帯と相互信頼が市場関係者の間になければ、市場は適切な経済的機能を完全に果たすことはできない。そして今日、この信頼は存在しなくなっている」(141)のです。

 物語は、それが意図された方法を終えておらず、「主流となっている経済理論の独断的な公式は完全無欠ではない」ことが証明されました。新型コロナウイルスの大感染に直面した世界システムの脆弱性は、「市場の自由によってすべてが解決できるわけではない」ことを実証しています。また、金融の指示に従わない健全な政治生活を取り戻すことに加えて、「私たちは人間の尊厳を再び中心に置き、その柱の上に、私たちが必要とする社会構造を構築しなければならない」ことも明らかにしています(142)。

169.たとえば、一部の閉鎖的で単色の経済的な対応では、大衆運動-失業者、臨時・非公式雇用の労働者、そして既存の構造で働く場所を簡単に見つけることができない他の多くの労働者を団結させる運動-の場が不在のように思われますが、このような運動は、さまざまな形態の大衆経済と共同体生産を巧みに扱います。必要なのは、社会的、政治的、経済的な参加のモデル-大衆運動を含めることができ、共通の運命の構築において排除されたものを包含することから生じる、道徳的なエネルギーの本流をもって、地方、国内、および国際的な統治構造を活気づけることができるモデル-です。そして「この惑星の下層土から成長する連帯の経験は、一緒になり、調整され、互いに出会い、続けられる」ことを保証します(143)。

 しかし、これは、「変化の種を蒔く人、何百万もの行動を伴うプロセスの促進者、大きい者、小さい者、詩の言葉のように創造的に編み合わされた者」として行動する、彼らの独特のやり方を裏切らない方法でされる必要があります。その意味で、このような運動は、独自の方法で活動し、提案し、促進し、発散する、”社会詩人”です。「社会政策は”貧しい人々のため”の政策だが、””貧しい人々共に”や”貧しい人々の”では決してなく、人々を再結集させるプロジェクトの一部でもないという考え」(145)を超えた、欠ける所のない人間開発を可能にするのに役立ちます。それは煩わしいことかもしれませんし、特定の”理論家たち”は、分類するのが難しいと感じるかもしれませんが、それでも私たちは、知る勇気を持たねばなりませんーそれなしには、「民主主義は単なる言葉、形式になってしまう。代表的な性格を失い、実体を無くしてしまう。なぜなら、未来を作る中で、尊厳を求める日々の戦いの中に人々を置き去りにしてしまうから」(146)です。

 

*国際的な力

 170. 「2007年から2008年にかけての国際金融危機は、新しい経済-倫理的原則にもっと注意を払う経済-と、投機的な金融慣行と仮想的な財力に対する新たな規制の方法を開発する機会を提供した。だが、この危機への対応には、世界を支配し続けている時代遅れの基準を見直することは含まれていなかった」(147)。たしかに、この危機をきっかけに世界中で実際に開発された戦略は、いつも危機を無傷で逃れる方法を見つける真に力のある人々のために、以前よりもっと強烈な個人主義、もっと少ない協調、そしてもっと大きな自由を、助長したように思われます。

171. 私はまた、このように主張したいと思います-「『各人に各人のものを』という古典的な『正義』の定義は、いかなる個人あるいは集団も、自分を、他の個人や社会的集団の尊厳と権利を凌駕する資格を与えられている『絶対的な存在』と見なすことができない、ということを意味する。複数の主体間での力(特に政治的、経済的、防衛関連、そして技術的な力)の効果的な分配、そして、主張と利益の調整のための司法制度の創設は、力を制限するひとつの具体的な方法だ。だが、それでもなお、今日の世界は、多くの誤った権利を、同時に、脆弱な幅広い領域、酷く使われた力による犠牲者たちを、私たちに見せている」(148)ということを。

172. 21世紀は、「国民国家の弱体化を目の当たりにしています。なぜなら、国境を超えた経済、金融の活動分野が、政治よりも優先する傾向になっているからです。このような状況を考えれば、各国政府間の合意で公正に任命され、制裁を課す権限を与えられた責任者を置く、強力で効率的に組織された国際機関を立案することが、どうしても必要です。

法律によって規制された何らかの形の世界的権威を持つ機関の可能性(150)について話す場合、必ずしも個人的な権威について考える必要はありません。それでも、そうした権威は、少なくとも、世界的な共通善を提供する力、飢餓と貧困をなくし、基本的人権をしっかりと守る力を備えた、効果的な世界的組織を推進すべきです。

173. この点で、私はまた、国連、そして経済関係機関と国際金融制度の改革の必要性を指摘したいと思います。これらの改革によって、「国家の家族についての概念は、本当の効力を持つ」(151)のです。言うまでもなく、これには、少数の国だけが権力を握るのを避け、イデオロギーの違いによる文化的押し付けや弱い国の基本的自由の制限を防ぐために、明確な法規制が求められます。それは、「この国際共同体は、加盟各国の主権に基づいた法的な共同体であり、その独立を否定または制限するような拘束を受けない」(152)からです。

 同時に「国連の基本綱領の序文と最初の条項に定められた原則よれば、国連の活動は、法の支配の発展と促進として見ることができる。それは、正義が、普遍的な友愛の理想を実現するための不可欠な条件だということだ… 基本的な法規範を真に構成する国連憲章が提起しているように、議論の余地のない法の支配と、交渉、調停、仲裁をひたすら頼みとする体制を確かなものとする必要」(153)があります。そして、国連が非合法化されないようにせねばなりません。その問題と欠点は、共同で対応し、解決できるからです。

174.共通の目標を進んで確立し、特定の重要な規範を世界全体で遵守するためには、勇気と寛容さが必要です。これが本当に役立つためには、「pacta sunt servanda(注:「合意は拘束する」「合意は守られなければならない」などと日本語訳されるラテン語起源の成句。主に国際法および契約法で用いられる)」(154)を堅持し、「『法の力』ではなく『力の法則』に訴えようとする誘惑」を避けることが不可欠」(155)です。これは、「紛争の平和的解決のための規範的手段… その範囲と拘束力の強化」(156)を強固にすることを意味します。これらの規範的手段の中で、国家間の多国間協定を優先する必要があります。なぜなら、二国間協定よりも、真に普遍的な共通善の促進と、弱い国の保護を保証するからです。

175 時宜を得た形で、市民社会の多くの集団や組織は、国際社会の欠点、複雑な状況での調整の欠如、基本的人権への注意の欠如、そして特定の集団の重要な必要性を補うのに役立ちます。国の活動を統合、補完する手段として、下位レベルの共同体社会や組織の参加と活動を正当化する、補完性原理の具体的な適用を見ることができます。これらの集団や組織は、公益のために称賛に値する努力をすることが多く、その構成員たちは時には真の英雄となり、人類がまだ実現可能な多少の素晴らしい事柄を展望しています。

*社会的および政治的慈善

 176. 今日、多くの人々にとって「政治」は不快な言葉であり、多くの場合、一部の政治家の過ち、汚職、非効率性が原因です。政治の信用を傷つけたり、経済に置き換えたり、一つのイデオロギーあるいは他のイデオロギーに捻じ曲げたりする試みもあります。でも、私たちの世界は政治なしで機能することができるでしょうか?健全な政治活動抜きに、普遍的な友愛と社会的平和に向けた効果的な成長のプロセスが存在するでしょうか?(157)

*必要とされる政治 

 177. 私がここでもう一度、注視したいのは、「政治は経済の影響を受けてはならず、経済はテクノクラートの効率主導の規範の命ずるところを受けてはならない」(158)ということです。権力の乱用、汚職、法の無視、非効率性は、はっきりと拒絶せねばなりませんが、「政治のない経済は正当化できない。現在の危機のさまざまな側面に対処する他の方法を支持することを不可能にするから」です。必要なのは、「先見の明があり、危機のさまざまな側面に対処するための、新しい、統合された学際的なアプローチが可能な政治」(160)をすること。言い換えれば、「健全な政治… 制度を改革し、調整し、最善の措置を進め、過度の圧力と官僚的な慣性を克服することができる政治」(161)です。こうしたことを行うように経済に期待することも、国の真の力を引き継ぐのを経済に認めることも、私たちは当然のことと考えることはできません。

178. 目先の利益に焦点を当てた多くのささいな政治の形を前にして、私は繰り返しますー「困難な時期に、私たちが大義名分を掲げて、長期的な共通善を考えるとき、真の政治手腕ははっきりしている。政治権力は、国家建設の事業においてこの義務を担うのは容易ではない」(162)、現在そして将来、人類家族のための共通の事業計画を構築する可能性はずっと少ない。私たちの後に来る人々のことを考えることは、選挙の目的としては役立ちませんが、それでも、それは真の正義が求めるものです。ポルトガルの司教団が教えているように、地球は「各世代に貸し出され、次の世代に引き継がれる](163)のです。

179.グローバル社会は、断片的な解決策や手早い修正では解決できない重大な構造的欠陥に苦しんでいます。抜本的な改革と大幅な刷新による多くの変化が必要です。この過程を監督できるのは、最も多様な分野と技術を巻き込んだ健全な政治だけです。「公共の利益に向けられた政治的、社会的、文化的、そして大衆的なプログラムの不可欠な部分」である経済は、「人間の創造性とその進歩の理想を抑圧することを伴わない、さまざまな可能性への道を開くことができるが、それよりもむしろ、新たな流れに沿ったエネルギーを指向」(164)します。

*政治的な愛 

 180. 「すべての人が私たちの兄弟姉妹であること」を認識し、「すべての人を包含する社会的友愛の形」を求めることは、単なるユートピアではありません。この理想実現のために効果的な手段を考える、という決定的な関与が求められます。そうした線に沿ったあらゆる努力をすることは、慈善の高潔な動きとなります。個人が困っている人を助けられるのに対し、人々が一緒になって、すべての人のために友愛と正義の社会的取り組みを始めるとき、「最も幅広い慈善、すなわち政治的な慈善の現場」に入っていきます。これは、核心が社会的慈善である社会的、政治的な秩序のために働くことを伴います(166)。再度、訴えます。「共通善を追求する限り、高遠な召命であり、慈善の最高の形の1つ」(167)である、と。

181. 教会の社会教説に触発されたすべての誓約は「慈愛から生まれたものであり、イエスの教えによれば、それは律法全体を合わせたもの(マタイ福音書22章36-40節参照)」(168) です。それは、次のことを認めることを意味します-「愛、互いのいたわりの小さな振る舞いであふれる愛はまた、市民的かつ政治的でもあり、それ自体を、より良い世界を作ろうとするすべての行動に自体を感じさせる」(169)。 ですから、慈愛は、親密で懇意な関係に、だけでなく、「マクロ的な関係、つまり社会的、経済的、政治的な関係」(170)にも表れるのです。

182. この政治的な慈愛は、すべての個人主義的な考え方を超越する社会的認識をもとに生まれます。「『社会的な慈愛は、私たちに共通善を愛するようにさせる』、それは私たちに、すべての人の善-個々、あるいは私人としてだけでなく、それらを結びつける社会的側面として考えられる(171)-を効果的に求めるようにさせる。私たちが人々の一部であるとき、私たち一人一人は完全に人です。同時に、一人ひとりの個性を尊重しない人はいない。『人々』と『人』は相関関係にある言葉だが、にもかかわらず、今日では、見せかけの利益を追求する権力によって、人々を、容易に操作される孤立した個人に矮小化する試みがされているのです。優れた政治は、グローバリゼーションを再調整、方向転換させ、それによってグローバリゼーションの破壊的な影響を回避するために、社会生活のあらゆるレベルで、共同体を構築する方法を追求します。

*効果的な愛 

 183. 「社会的愛」(172)は、私たち全員が呼ばれていると感じることのできる”愛の文明”に向かって進むことを可能にします。慈愛は、全体に広めたいという衝動をもって、新しい世界を構築すること可能です(173)。単なる感情ではなく、すべての人にとって効果的な発展の道を見つけるための最良の手段です。「社会的な愛」とは、「今日の世界の問題に取り組む、新しい方法の策定を刺激し、社会の仕組み、組織、法制度を内側から大幅に刷新できる力」(174)です。

184. 慈愛は、すべての健康で開かれた社会の核心ですが、今日では「道徳的責任を解釈し、指示を与えることとは無関係だ、として簡単に却下されてしまいます」(175)。慈愛は、真実への責任を伴う場合、個人的な感情以上のものであり、「偶発的かつ主観的な感情や意見の餌食になる」(176)必要はありません。確かに、真実との密接な関係は、その普遍性を促進し、「関係のない狭い分野に限定される」ことから守ります(177)。そうでなければ、「知識と実践の間の対話で、普遍的な人間開発を促進する計画と過程から除外さてしまう」(178)でしょう。真実がなければ、感情は相関的、社会的な内容を欠いてしまいます。そして、真実に開かれた慈愛は、「人間的で普遍的な幅の広さを奪う信仰主義(宗教上の真理は、理性によってではなく, 信仰によるとする主義)から守ります(179)。

185.慈愛は、私たちが常に求めている真理の光を必要とします。「その光は、理性の光であり、信仰の光」(180)でもあり、そして、いかなる形の相対主義も認めません。 ただし、科学の発展と、望ましい結果をもたらすのに最も確実で最も実用的な手段を見つけるための科学の不可欠な貢献を、尊重します。 他の人々の福利が危機に瀕しているとき、善意だけでは十分ではありません。 彼らと彼らの国が発展するのに必要なものら何でも提供するために、具体的な努力がされねばなりません。

*政治的な愛の行使

 186. 「導き出される」という愛の形がありますーその行為は慈愛の美徳から直接始まり、個々人と人々に向けられます。より健全な制度、より公正な規制、より支援的な構造を作るように人々を励ます慈愛の活動で表される「統率された」愛もあります(181)。それは当然、「隣人が貧困に陥らないように社会を組織し構築しようと努力することも、同様にかけがえのない愛の行為」(182)ということになります。

 苦しむ人を助けるのは慈愛の行為ですが、相手を知らないとしても、彼あるいは彼女の苦しみを引き起こしている社会的な状況を変えるために働くことも、慈愛の行為です。高齢者が川を渡るのを手伝うなら、それは素晴らしい慈愛の行為です。

   政治家は橋を架けますが、それも慈愛の行為です。ある人が食べ物を提供することで他の人を助ける一方で、政治家はその人のために働き口を作り、彼または彼女の政治的な活動を気高くする慈愛の高潔な形を実践します。

*愛から生まれた犠牲 

 187. 政治の精神的な核心であるこの慈愛は、常に最も必要としている人々に示される選択的な愛ですーそれは、私たちが彼らに代わって行うすべてのことを補強します(183)。慈愛によって変えられた眼差しだけが、他の人々の尊厳が認められることを可能にし、その結果として、貧しい人々が認識され、尊厳が重んじられ、彼らの独自性と文化に敬意が払われ、そうして、真に社会に受け入れられるのです。

 その眼差しは、本物の政治精神の核心であり、魂のない実利主義の道とは異なる道が開かれるのを確かめます。 それは、私たちにはっきりと理解させますー「貧困の恥ずべきことに、貧しい人々を落ち着かせ、従順にし、無害にするだけの”封じ込め戦略”を進めることでは対処できない。利他的といわれる仕事の裏で、受け身的になっているのを知るのは何と悲しいことだろうか」(184)。必要なのは、自己表現と社会への参加の新たな小道です。教育は、一人ひとりの人間が自分の将来を形成できるようにすることで、そのことに役立ちます。ここでも、「連帯の原則」と切り離すことにできない「補完性の原則」の重要性が分かります。

188. これらの考察は、基本的人権を脅かす、あるいは侵害するすべてのものと戦う、差し迫った必要性を認識するのに役立ちます。政治家は「個々人や人々のニーズに応えるよう求められている。機能的で私営化された思考、無情にも”使い捨て文化”につながる思考が幅を利かす中で、困窮している人々を世話するためには、力と優しさ、努力と寛容さがひつようであり…それは、社会からの完全な疎外と苦悩の状況とともに、今現在に責任を取ること、それに尊厳を与えることができることも含む」(185)のです。

 同様に、それは「人間の社会的な身分と尊厳を守るためにすべてが行われる」(186)のを確実にする激しい努力を奮い立たせるでしょう。政治家は、野心的な目標を持った実行者であり、建設者であり、自身の境界を越えてものを見る、広く現実的で実利的な眼差しを持っています。

 彼らの最大の関心事は、世論調査で支持率が落ちることではなく、諸問題の効果的な解決方法を見つけることにあります-「”社会的および経済的な排除”の現象、その有害な結果”としての、人身売買、人間の臓器や生体組織の売買、少年少女の性的搾取、少女、売春を含む奴隷労働、麻薬と武器の取引、テロリズム、国際組織犯罪。これらの状況の悲惨さ、そして無実の命の犠牲は、ありにも大きく、私たちの良心を癒やすような”declarationist nominalism(宣言主義者の唯名論)”に陥らせるあらゆる誘惑を避けねばなりません。私たちの機関・組織がこれら全ての悲惨な事態との闘いにおいて、本当に効果的に働くことを、私たちは確実にする必要」(187)があります。これには、技術開発によってもたらされる膨大な資源を、知性をもって活用することが含まれます。

189. 私たちは、最も基本的な人権の”グローバル化”にはまだほど遠い状態にあります。だからこそ、世界の政治は、飢餓を効果的に無くすことを最重要かつ不可欠な目標の一つにする必要があります。確かに現在の世界では「投機資金が食糧価格を操作し、食糧を単なる商品一つとして扱い、それによって何百万もの人々が飢餓に苦しみ、亡くなっています。その一方で、たくさんの食べ物が捨てられています」。これは「正真正銘の不祥事です。飢餓は犯罪です。食物は不可侵の権利なのです」(188)。

 多くの場合、私たちが意味論的、あるいはイデオロギー的な論争を続けるとき、兄弟姉妹が避難所や医療の提供を受けられず、飢えと渇きで亡くなっていきます。こうして基本的な援助を満足にできないことに加えて、人身売買は、人類にとってもう一つの恥の源です。国際社会で政治分野の責任者たちは、”素晴らしいスピーチ”と”善意”に留まってはならない、こうした事態を許してはなりません。これはぜひとも必要なことです。先延ばしはできないのです。

 

*集合し、結束させる愛  

 190. 政治的慈愛はまた、「すべての人に開かれた精神」で表現されます。 政府指導者は、出会いを育てるように犠牲を払い、少なくともいくつかの問題について意見の一致を求める第一人者となるべきです。 他の人々の視点に耳を傾け、すべての人のために道をあける用意をする必要があります。 犠牲と忍耐を通して、誰もが場を持つ素晴らしい多面体の現実を作り上げるのを助けることが可能です。 ここでは、経済的なやり方は機能しません。 他のやり方ー共通善の贈り物の交換ーが必要です。これはあまりにも純真で、夢想的に見えるかも知れませんが、このような高遠な目的を捨てることはできないのです。

191. さまざまな形の原理主義的不寛容が、個人、集団、そして人々の間の関係を傷つけている時、私たちは努めましょうー彼あるいは彼女の考え、意見、習慣、さらには罪を超えて、他人に敬意を払うことの大切さ、違いを進んで受け入れる愛、そしてすべての人間の尊厳を最優先することを実践し、教えるように。現代社会で、狂信、偏見、そして社会的、文化的な断片化が蔓延しているとしても、優れた政治家は、最初の一歩を踏み出し、異なる声が聞こえると主張します。意見の不一致は紛争を引き起こす可能性がありますが、均一であることは息苦しく、文化の衰退につながります。私たちは、現実の一つの断片に取り囲まれて満足していいのでしょうか。

192. この点で、グランドイマーム・ アーマド・タイーブ(Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb)と私は、国際政治と世界経済のリーダーたちに対して「寛容の文化を広め、平和的に共存するために精力的に取り組むこと、罪のない血の流出を止めるために最も早い機会に介入すること」(189)を求めました。特定の政策が、自国の繁栄の名の下に、他国に対する憎悪と恐怖をまき散らすとき、進路を修正することを気にかけ、遅滞なく、速やかに対応するようにする必要があります。

 

*結果を超える実りの豊かさ

 193. たゆまぬ活動を続ける政治家は(注:私たちと同じ)男性、女性でもあります。日常の対人関係で愛を実践するように求められています。 人として、彼らは次のことを考慮する必要があります。

 「技術進歩により、現代の世界は、人間の欲求の満たすよう機能する傾向を一段と強め、さまざまなサービスに分類され、細分化されています。 人々が名前で呼ばれることは、ますます少なくなり、このようなユニークな存在が、彼または彼女自身の感情、苦しみ、問題、喜びおよび家族を持つ人として扱われることは、ますます少なくなるでしょう。彼らの病いは癒すためにだけに知られ、金融は彼らの為に提供されるだけに必要とされ、彼らに宿舎を与えるだけに住まいが不足し、彼らを満足させるためだけの保養と娯楽への彼らの欲求です」。

  だが忘れてならないのは、「兄弟として最も取るに足らない人間を愛することは、まるでこの世界に、彼のほかは誰もいないかのように、時間の無駄とは見なされない」(190)ということなのです。

194. 政治もまた、他人の優しい愛に道を開けねばなりません。 「優しさとは何でしょうか?近くに行き、現実になるのが愛です。私たちの心から始まり、目、耳、手に届く動き… 優しさは、最も強く、最も勇敢な男性と女性が選択する道」(191)です。

政治生活の日々の関心事の中で「最も小さく、最も弱く、最も貧しい人々が、私たちの心に触れるようにすべきです。彼らは、私たちの心と魂に訴える「権利」を持っています。彼らは、私たちの兄弟姉妹であり、そのために私たちは彼らを愛し、世話をしなければなりません」(192)。

195.これらすべてが、「重要なのは、常に素晴らしい結果をもたらさない」ということを理解するのに役立ちます。結果達成が常に可能であるとは限らないからです。政治活動で、覚えておく必要があるのは次のことです-「外見にもかかわらず、すべての人は非常に神聖であり、愛するに値する。だから、少なくとも一人の人がより良い生活を送るのを助けることができれば、それはすでに私の人生の捧げ物を正当化します。神の忠実な民であることは素晴らしいことです。壁を壊し、心がさまざまな顔と名前で満たされるとき、私たちは充実感を得るのです!」(193)。

 私たちの夢と計画の大きな目標は、部分的にしか達成できない可能性があります。それでも、こうした問題を乗り越え、愛し、政治を単に権力の追求と見なさなくなった人々は、「自分たちの愛の行為は失われず、他の人々に対する誠実な配慮の行為も失われないことを確信するかもしれません。神への愛の単一の行為が失われることはなく、寛大な努力で無意味なものはなく、痛みを伴う忍耐が無駄になることもありません。これらすべてが、生命力のように私たちの世界を取り巻いています」(194)。

196. このような理由から、私たちが蒔く善の種の隠された力に、希望を置き、それによって他の人が実を結ぶプロセスを開始することは、本当に気高いことです。良い政治は、愛と希望、そして人間の心に存在する善の蓄えへの自信を兼ね備えています。確かに「法の尊重と個人間の率直な対話に基づいて構築された本物の政治活動は、すべての女性と男性、そしてすべての新しい世代が『新しい相関的、知的、文化的、精神的なエネルギーの展望をもたらす』という認識がされるたびに、常に新しくされる」(195)のです。

 197. こうして見てくると、政治は、思わせぶりな言動、物の取引に関係する活動、目まぐるしいメディアの動きよりも、気高いものであるはずです。分裂や争い、共通の目標を追求するように人々を動かすこともできない陰鬱な冷笑的な考えの種を蒔く以外の何ものでもありません。将来について考えるとき、時として、私たちはこのように自問します。「なぜ、私は、これをしているのか?」「私の本当の目標は何だろうか?」。

 時が経ち、過去を振り返ったとき、私たちが自己に問うのは「何人が、私を支持したのか?」「何人が、私に投票したのか?」「何人が、私に前向きなイメージを持っていたのか?」ではなく、現実的で、そして潜在的に痛みを伴う次のような問いになるでしょう。

「自分の仕事に、私はどれだけ愛を注いだのか?」「人々の進歩のために、私は何をしたのか?」 「どのような痕跡を、私は社会の営みに残したのか?」 「どのような本当の絆を、私は築いたのか?」 「どのような前向きな力を、私は発揮したのか?」 「どれほど多くの社会的平和の種を、私は蒔いたのか?」 「自分に任された立場で、私はどのように役立てたのか?」。

第6章 社会における対話と友情 DIALOGUE AND FRIENDSHIP IN SOCIETY

198. 近づくこと、話すこと、聴くこと、目を向けること、互いに知り合い理解し、共有できる場を見つけようとすることーこれらのことは「対話」という一語に尽きます。互いに出会い、助けたいと思うのであれば、対話が必要です。私が対話の利点を強調する必要性はありません。私が考えなければならないのは唯一つ、家庭と共同体を維持している、多くの寛容な人々の忍耐強い対話がなかったら、この世界はどうなるか、ということです。不一致や戦いと違って、不断の勇気ある対話は、ニュースの主見出しにはなりませんが、私たちが考える以上に、世界中の人々がずっとよく生きる助けとなるのです。

*新しい文化に向かう社会的な対話 

 199. 自分の小さく安全な世界に避難し、現実から逃れようとする人々もいれば、現実に対して破壊的な暴力で対応しようとする人々もいます。しかし、「『自己中心的な無関心』と『暴力的な抗議』の間に、常にもう一つの可能な選択があります。それは「対話」です。世代間の対話、私たち国民の対話、真実に心を開き、受け取ろう、与えようとする意欲です。沢山の豊かな文化-大衆文化、大学文化、若者文化、芸術的文化、技術的文化、経済的文化、家庭文化、そしてメディアの文化-の間で建設的な対話がなされるとき、国は繁栄する」(196)のです。

 200. 対話は、かなり違ったものと、よく混同されます。いつも信頼できるとは限らないメディアの情報にしばしば基づいた「ソーシャルネットワーク上の熱に浮かされたような意見のやり取り」と混同されるのです。こうしたやり取りは、どこまで行っても交わることのない独り言に過ぎません。そのような独り言は、鋭く攻撃的な口調のために、ある程度の注目を浴びるかもしれませんが、誰とも交わることはなく、内容はしばしば利己的で、矛盾しています。

 201. 実際のところ、メディアによる事実と意見の耳障りな寄せ集めは、しばしば対話の邪魔になります。なぜなら、そうしたメディア情報は、「他の人は間違っている」を口実にして、彼、あるいは彼女の考え、関心事、選択に頑固に固執させるようにするからです。そして、それは、より深いレベルでの合意を目指す、相手に敬意を払う対話に心を開くことなく、最初から相手の信用を傷つけ、侮辱するのを容易にします。さらに悪いことには、政治の動きをカバーするメディアから通常引き出されるこの種の言葉は、日常会話の一部になるほど広く行き渡ってしまいます。

 議論は、力のある特定の利害関係者によって、しばしば操作されますー世論を、自分たちに都合のいいように捻じ曲げようとします。この種の操作は、政府によって行われるだけでなく、経済、政治、情報、宗教、およびその他の分野でもなされます。自分たちの経済的、あるいはイデオロギー的な利益に導こうとするときに、そうした操作を正当化しようとしたり、弁明しようとしたりする可能性があります。しかし、早かれ遅かれ、まさにそうした利益とは反対の結果を招くことになります。

 202. 対話の不足は、これらの個々の分野で、人々が共通善について関心を持つのではなく、有利な権力の立場、あるいは、よくても彼ら自身の考えを強いる手段に関心があることを意味します。このようにして、”円卓会議”は、単なる交渉の会合となり、参加者それぞれが、共通善を協力して追求しようとするよりも、得られそうな利益なら何でも手に入れようと試みます。将来、英雄となる人たちは、不健全な考え方を捨て、個人的な利益を脇に置いて、誠実さを推し進めることを、敬意をもって決意できる人たちです。幸いにも、そのような英雄たちは、現在でも、私たちの社会の中に、目立たない形で現れ出ています。

*共に作り上げる 

 203. 真の社会的対話には、相手の観点に敬意を払い、「その観点には、正当な信念や関心事が含まれることもある」ということを受け入れる能力も必要です。他の人々は、それぞれの独創性と経験に基づいた貢献ができ、さらに実りのある、開かれた議論のために彼らの立場を明確に示すことが望まれます。個人や集団が首尾一貫した考えを持ち、価値と信念を守り、議論を発展させる時、確実に社会に恩恵をもたらします。

しかし、これは真の対話と他者に心を開く場合にのみ、起こり得ます。まさに、「対話という真の精神において、たとえ他者の言動を私たちの信念として受け入れることができなくても、私たちは彼らの言動の意味を理解する能力を大きく成長させることができる。このようにして議論しながら、私たちの信念について率直であり、開放的であり、接点を求め、そして何よりも共に働き、懸命に努力できるようになる」(197)のです。

 もし、誰にでも場所を空け、情報を操作したり、隠ぺいしたりしないなら、開かれた議論は、絶えず刺激され、真理のよりよい把握に導き、あるいは、少なくとも、そのような議論のより効果的な表われとなります。それは、それぞれの領域の人々が、彼らの見解と範囲内の関心事に満足し、自己中心的になるのを防ぎます。「違いは『創造的』であること、違いは『緊張』をもたらし、緊張の解決の中に『人類の進歩』がある」ということを忘れないようにしましょう(198)。

 204. 専門的な科学の進歩とともに、より広い学際的なコミュニケーションを必要としている、との確信が大きくなりつつあります。現実は一つであっても、異なる方法で、様々な角度から近づくことができるからです。ただ、科学の進歩だけでは、生活、社会、世界の特定の一面だけを見る唯一のレンズになってしまう恐れがあります。自分が担当する分野の専門家でありながら、他の科学や専門分野にも精通している研究者なら、研究対象の他の側面も認識できる立場にあり、結果として、現実に関する包括的、統合的な知識に開放的になるはずです。

205. 今日のグローバルな社会は、このように言うこともできるでしょう。「私たちはメディアを通して互いにより近いと感じ、人間家族としての一体感が生まれる。その一体感は、すべての人々に、さらに尊厳のある生活を保障するための連帯と、真摯な努力を奨励する…。ヒューマン・コミュニケーションのネットワークは、これまでにないほど発展してきたが、メディアは、特に今日、私たちを大いに助けることができる。特にインターネットは、出会いと連帯のための計り知れない可能性を提供している。これは実に素晴らしいことで、神からの贈り物である」(199)。

 私たちが常に確実にする必要があるのは、「現代のコミュニケーションのさまざまな形が、実際に、他の人々との豊かな出会い、すべての真理に対する誠実な追求、奉仕、恵まれていない人々への寄り添い、共通善の増進へと私たちを絶えず導く」ことです。オーストラリアのある司教さまが指摘されたように、「私たちの弱さに付け込み、人々の中にある最悪なものを引き出そうとする、デジタルの世界」(200)を受け入れることはできません。

*合意の根幹 

 206. この問題の答えは相対主義(注:哲学用語。人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、 真理の絶対的な妥当性を認めない立場)ではありません。相対主義は、寛大さを装って、最終的に倫理的価値の解釈を力のある者たちに委ね、彼らは自分に都合がいいように定義します。「私たち自身の欲求と目先の必要を満たすことだけで、客観的事実、あるいは健全な原則を欠く場合は… 政治的努力あるいは法律の力は十分だろう、と考えてはなりません… 文化そのものが堕落して、客観的な真実と普遍妥当(注:どんなものにも、どんなときにも適切に当てはまること)の原則がもはや是認されないとき、法律は、一方的な強制、あるいは避けるべき障害と見なされるだけです」(201)。

207. 真実を気遣い、命の最も深い意味に応える真実を得ようと努力することが、できるでしょうか。長年に渡って培われた熟考と非常にすばらしい知恵から生まれた確信、つまり、一人ひとりが神聖で、犯すべからざる存在である、という確信がなければ、法律とは何でしょうか。もし、社会に未来があるのであれば、社会は、人間の持つ尊厳という真理に敬意を払い、従わなければなりません。

 殺人が間違っているのは、それが社会的に容認できず、法律によって罰を受ける、という理由だけではなく、それよりも、もっと深い確信のためです。その確信は、理性によって得られ、良心に受け入れられた、交渉の余地のない真理なのです。真実の追究を応援し、真理の最も基本的なことを厳守するために、社会は高潔で良識的であらねばなりません。

208. 公的、あるいは、私的な会話の中で、真実を操作し、歪め、隠蔽するというさまざまな手法を用いる時につける仮面をいかにして剥がすかについて、私たちは学ぶ必要があります。いわゆる「真実」は、私たちが新聞で読む事実や出来事の単なる報告ではなく、私たちの決断や法律を維持している確固とした根拠を、まず、追求することなのです。そうするには、当面の心配事を超えて、過去のみならず現在も変わることのない、特定の真実を把握することのできる心を人間は持っている、という認識が必要です。真実が人間の本性に目を凝らす時、理性は、そこに普遍的な価値を見いだすのです。

209. さもなければ、私たちが「疑う余地もない」と考えている基本的人権が、権力を持つ者たちが「無関心な、あるいは、怖気づいた人々」からいったん「合意」を得てしまうと、彼らによって否定されてしまう、ということは考えられないでしょうか?同様に、異なる国々の間にある単なる合意は、操作されやすく、国々を守るのに十分ではないのではありませんか。

 私たちは、素晴らしいことができる、という十分な裏付けを持っていますが、私たちの中にある破壊的な性向も認めなければなりません。私たちの陥っている無関心と薄情な個人主義も、目先の必要を超えた価値、より大切な価値を、追求することを怠った結果でないでしょうか。

 相対主義は常に危険をもたらします。何らかの主張された事実が、権力をもつ者や如才ない人々によって押しつけられる、という危険です。しかし、「内在する悪を禁じる道徳規範ということになると、誰にも特別扱いや例外はありません。この地球上で、世界の征服者か、「貧しい人々の中で最も貧しい人」かも、関係ありません。道徳律を求められる前に、私たちはみな完全に平等なのです」(202)。

210. 現在起きている”歪んだ不毛の思考法”に私たちを引き寄せるのは、倫理学と政治学が、物理学のレベルになったからです。善悪は、倫理学にも、政治学にも、もはや存在していません。”利益と負担の微積分学”があるだけです。道徳理論が置き換えられた結果、法律は、もはや正義についての基本的な観念を反映するものとしてではなく、現在流行している観念を鏡に映すものとして見られます。その結果、崩壊が起き、浅薄な交換による合意で、すべてが”水準を落とし、最終的に、最も力のある人々の法律が支配してしまうのです。

*合意と真理

 211. 多元的な社会では、一時的な合意は別として、対話は、何が常に肯定され、尊重されるべきかを理解するための、最良の方法です。そのような対話は、明確な思考、合理的な議論、多種多様な視点、様々な分野の知識と観点によって豊かにされ、啓発される必要があります。そして、それは、常に支持され、特定の基本的な真理に到達できるか、という確信を排除してはなりません。
特定の永続する価値を認めることは、その価値を識別することがどれほど必要とされるにしても、健全で堅固な社会倫理に役立ちます。これらの基本的な価値が、ひとたび対話と合意によって認められ、採り入れられると、それらの価値が合意を超えることが分かりますー私たちの具体的な状況を超越し、妥協はなくなります。価値の意味と領域についての理解が増すことができ、この点で、合意は動的な現実になりますが、それ自身の中で、その本来の意味のおかげで永続すると思われます。

212. もし、何かが社会がうまく働くのに常に役立つとすれば、その先に、識者たちに理解しやすい永続的な真理があるから、ではないのでしょうか。人間とその社会に本質的に備わっている、私たちの進歩と生存を支えるための特定の基本的構造が、存在するのです。このように特定の必要な事項が後に続き、そして、それらは対話を通して見つけられるにもかかわらず、厳密に言えば、合意によっては作り出されません。特定のルールが社会にまさに活気を与えるのに不可欠だ、という事実は、それ自体として「善である」ということの表われ、なのです。ですから、社会の利益、合意、客観的真理という現実に反対する必要はありません。対話を通して、物事の核心に達するのを恐れないとき、いつもこれらの三つの現実が調和できるのです

213.  他者の尊厳は、いかなる状況においても、大切にされねばなりません。なぜなら、尊厳は、私たちが創り出したり、想像したりするものではなく、人間が固有の価値-有形物や不確定な状況の価値に勝るもの-を持っているからです。このことは、人々がそれぞれ異なる仕方で扱われることを求めます。一人ひとりが奪われることのない尊厳を持っているということは、あらゆる文化的変容の影響を受けない人間性に一致する真理です。

 こうした理由から、人間はいつの時代も、同じ不可侵の尊厳を持っており、この信念を否定したり、背いたりするように特別な立場によって権威づけられている、と考えることは、誰にもできません。識者たちは、熟考、経験、対話を通して、物事の現実を詳しく調べることができ、その現実の中に、普遍的な倫理上の要求の根幹を認識するようになるのです。

 214.不可知論者(注:人間は神の存在を証明することも反証することもできないと主張する者)に対して、このような認識の基盤は、基本的で譲歩の余地がない倫理的な原則-さらなる破滅的状況を回避するのに役立ちうる原則-について、堅固で安定した普遍的な正当性を与えることを、十分に証明できるでしょう。

 信仰者として、私たちは、人間の本性は、倫理的な原則の源として、神によって創造され、最終的にこれらの原則に確固とした基盤を与えたのも神だ、と確信しています(203)。このことは、倫理的な頑固さをもたらすことでも、道徳律のうちのどれか一つを押しつけようとすることでもありません。なぜなら、基本的で普遍的に正当な根拠のある倫理的な原則は、異なった実用的なルールに具現化できるからです。このように、対話のための機会は常に存在するでしょう。

 

*新しい文化 

 215. 「人生は、多くの対立があるにもかかわらず、”出会いの芸術”です」(204)。私は、何度も違いや境界を越えた、文化の出会いとその成長を呼びかけてきました。これは、多くの側面からなる一つの多面体を創出するために働くことを意味し、それらの異なる側面が、多様性を持つ統一をもたらし、そこでは「それぞれの側面より全体が重要」(205)になります。

 多面体のイメージは、「違いが共存する社会」、「対立や疑念の渦中にあっても、互いを補い合い、豊かにし、啓発し合う社会」として示すことができます。私たちは誰でも他の人から何かを学ぶことができ、誰一人として、役に立たない人も、使い捨てにされてよい人も、いません。これは同じように、社会の周縁部にいる人たちをも包含する道を見つけることを意味します。それは、周辺部にいる人たちは、物事を別の角度から見ており、自己に有利な決定をする権力の中心にいる人たちには見えない、現実の様々な側面を見ているからです。

*文化となる出会い 

 216. 「文化」という言葉は、民族の中で最も大切に培われてきた信念と生活様式が深く埋め込まれたものを指します。民族の文化は、抽象的な概念ではなく、彼らの欲求、関心、究極的には人生の生き方と関連があります。「出会いの文化」について語ることは、私たちが民族として、他者と会うことに情熱を燃やすこと-接点を探し求め、橋を架け、すべの人を含む計画を立てること-を意味します。それが、強い願望と生活様式になるのです。このような文化の主体はその民族。専門家やメディアの力を借りて他の人々を鎮めるような社会の単なる一部ではありません。

 217. 社会的平和は、大変な努力、熟練を必要とします。器用さと少ない資源で自由と相違を維持するのはそれよりも易しいかもしれません。しかし、そのようにして得られた平和は、浅薄で脆弱で、永続する安定をもたらす”出会いの文化”の成果を生まないでしょう。違いをまとめることは、はるかに難しく、時間のかかるプロセスとなりますが、本物の永続する平和を保証します。そのような平和は、純粋で無傷の人々だけに頼ることでは獲得できません。なぜなら、「過失のために疑問をもたれる人々でさえ、見過ごすことのできないものを持っている」(206)からです。

  社会的な要求を無視したり、騒ぎを鎮めたりしても、平和は訪れません。平和は「書類上の合意や満足した少数者のための、つかの間の平和」(207)ではないからです。重要なことは、出会いのプロセス、違いを受け入れることのできる人々を作りあげるプロセスを作り上げることです。私たちの子どもたちに、「対話」という武器で持たせましょう!”出会いの文化”を善戦するよう教えましょう!

*他者を認めることの喜び 

218. これらのことすべては、他の人々にも、自分自身らしくする権利、違いをもつ権利があることを認識する能力を要求します。そのような認識が文化となり、社会契約の創出を可能とします。社会契約がなければ、他の人々を、社会にとって取るに足りない、無関係の、価値のないものとみなす、悪賢い方法を見つけてしまう可能性があります。目に見えるような形の暴力を退けても、もっと狡猾な類いの暴力が根を下ろす可能性があります。それは、自分とは違う人々、特に彼らの要求が自分の利益を損なわせるような人々、を嫌悪する者たちの暴力です。

 219. 社会の一部が、世界の人々が提供せねばならないものすべてを不当に利用し、あたかも貧しい人々は存在しないかのように振る舞うなら、結局は重大な結果を持たることになるでしょう。他の人々の存在と権利を無視することは、早晩、何らかの暴力の形をとって、噴き出してくるでしょう。自由、平等、友愛が一人ひとりに適用されないかぎり、高遠な理想のままであり続けてしまいます。

 出会いは、経済的、政治的、学術的な力をもつ者の間だけのものであるはずがありません。本物の社会的な出会いは、大多数の人々によって共有される文化に関わる対話が必要です。よくあるのは、良い考えが社会の貧しい人々に受け入れられないことですが、それは、そうした考えが、彼ら自身のものではなく共感できない文化的な体裁で提示されるからです。現実的で包括的な社会契約もまた、「文化契約」、異なる世界観、文化、生活様式の共存を尊重し、認める契約でなければなりません。

220.たとえば、先住民の人々は進歩に反対ではありませんが、進歩の概念が違っていて、先進国の現代的な進歩よりも人間的なことがよくあります。彼らの考える進歩は、自分たちだけで「ある種の世俗的な楽園」を作ろうとする力を持つ者たちを利するような文化ではありません。固有の大衆文化に対する不寛容と敬意の欠如は、冷たく批判的な彼らに対する見方に根差した暴力の一形態です。

 本物の、深みと持続力のある変化は、異なる文化、特に貧しい人々の文化から始まるのでなければ、可能ではありません。文化契約は、特定の場所のもつ独自性を一枚岩的に理解することを控えます。すべての人に前進と社会的な融合の機会を提供することによって、多様性への敬意を必ず引き起こします。

221. そのような契約はまた、共通善のためにいくつかのことを捨てねばならない場合もある、ということを認めるよう求めます。誰にも、すべての真実を所有することも、彼、あるいは彼女の欲求をすべて満たすこともできません。なぜなら、そのようなことができると主張することは、相手の権利を否定し、力をそぐことに繋がるからです。

寛容についての誤った考えは、人々に同じことをする権利があることを認める一方で、自分自身の信条に忠実であり続ける人々、男女の側の、対話の現実主義に道を譲らねばなりません。これが他の人々についての本当の認識、愛だけで可能になるものなのです。もしも、他の人々の動機と関心の中に、本物、あるいは少なくとも理解できるものを見出さねばならない、とすれば、私たちは他の人々の立場に立たねばなりません。

*思いやりを取り戻す

 222. 大量消費・個人主義は、ひどい不正につながっています。私たちは、他の人々を、自分の平穏な生活の単なる”障害物”と見なすようになり、さらには”頭痛の種”として扱い、次第にけんか腰になっていきます。恐慌、大災害、困窮の時には、こうした傾向がさらに強まり、古い諺にあるように「自分の身は自分で守れ」と思いたくなります。でも、そのような時でさえ、私たちは思いやりを養うことを選ぶことができるのです。そうする人は、闇のただ中で「輝く星」になります。

 223. 聖パウロは、思いやり(kindness)を「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と記述しています。彼はギリシャ語の chrestotesでこの意味を表現していますが、ギリシャ語のこの言葉は「優しい」「温かい」「同情」という人の態度を表わし、「無礼「粗野」ではありません。このような資質の人たちは、他の人々の生活の重荷-特に彼らが抱える問題、困窮、恐怖といった重荷-を分かち合うことで、彼らが耐え易くなるように手助けをします。他にも様々な形の対応-親切な行為、言葉や行為で相手を不快にさせない配慮、喜んで彼らの重荷を軽減する-があります。それには「慰め、力、安らぎ、勇気という言葉を話すこと」が含まれますが、「貶める、悲しませる、怒る、侮蔑を示す」(208)ような言葉はありません。

 224. 思いやりは、時として人間関係を汚染する残酷さから、他の人々について考えないようにする不安な気持ちから、他の人々も自分と同じように幸せになる権利があることを忘れる激しく動揺した振る舞いから、私たちを解放します。最近、私たちには、足を止めて他人に思いやりを示す、あるいは「すみません」「ごめんなさい」「ありがとう」と言う時間もエネルギーもないことが、よくあります。

 それでも時折、奇跡的にも、思いやりのある人が現われ、皆が無関心の中で、他の人のことに関心を示し、自分がしていた事をすべて脇に置いて、ほほえみをプレゼントし、励ましの言葉をかけ、耳を傾けます。もし私たちが、この人と同じ努力を日々するなら、健全な社会環境を作ることができ、誤解は克服され、争いの芽は摘まれることになるでしょう。思いやりは養われるべきものです。浅薄なブルジョアの美徳ではありません。思いやりは他の人々への尊重と尊敬を伴うものであるからこそ、ひとたび思いやりが社会の中で文化になると、それは生活様式、交流関係、意見を交わし、比べるやり方一変させるのです。思いやりは合意を求めやすくし、敵意と衝突が全ての関係を断とうとするところに、新たな道を開くのです。

 

 

第7章 新しい出会いの道のり PATHS OF RENEWED ENCOUNTER

 

225. 世界の多くの地域では、深い傷を癒すための、平和の道が必要とされています。また、癒しと新たな出会いの取り組みを始めるために、大胆かつ創造的に活動し、平和をもたらす男女が必要です。

*真実から新たに始める 

 226. 新たな出会いとは、紛争以前に戻ることではありません。私たちは皆、時とともに変わっていきます。痛みと争いが私たちを変えます。現実を覆い隠すような空虚な外交、偽り、”二枚舌”、隠された思惑、現実を隠す巧みな振る舞いは、もはや通用しません。凶暴な敵同士であった者たちは、苛酷で明白な真実から話さねばなりませんー自分たちの後悔や問題や計画で未来を曇らせないために、過去を受け入れることのできる、悔悟の記憶を思い起こす力の養い方を学ばねばなりません。  出来事の歴史的真実に基づくことによってのみ、彼らはお互いを理解し、万人の利益のために、新たな統合を目指し、広く、粘り強い努力をすることができるのです。

 すべての「和平交渉には、永続的な取り組みが必要です。それは、真実と正義を求め、犠牲者を偲び、復讐の念よりも強い共通の希望への道を、一歩一歩、切り開くための忍耐強い努力です」(209)。コンゴの司教団が、繰り返し起きる紛争に関して言っているように、「紙の上の和平合意は十分ではありません。私たちは、繰り返される危機の本当の原因を明らかにすることを求める声に十分配慮することで、さらに進まねばなりません。人々は、何が起こったかを知る権利がある」(210)のです。

227. 「実際、真実とは、正義と憐れみの不可分の仲間です。平和を築くためには、この3つを欠かすことができず、さらに、互いに他方が変えられることを防ぎます…。真実は復讐につながるのではなく、むしろ和解と赦しにつながるべきです。真実とは、痛みで引き裂かれた家族に、行方不明になった親族に、何が起こったのかを伝えることです。真実とは、残酷で凶暴な者たちに徴用された未成年者の身に何が起こったのかを、告白することです。真実とは、暴力や虐待の被害者である女性の痛みを認識することです…。人間に対して行われるすべての暴力行為は、人類の体の傷であり、すべての暴力による死は、人間としての私たちの尊厳を損ないます…。暴力は、もっと多くの暴力を生み、憎しみは、もっと多くの憎しみを、死は、もっと多くの死をもたらします。私たちは、この避けられないように見える循環を断ち切らねばなりません」(211)。

*平和の巧みなわざと構造 

 228.平和への道は、社会を当たり障りのない、画一的なものにすることではなく、すべての人を益する目標を追求するために、人々が力を合わせ、協力し合うことです。様々な実践的な提案と多様な経験は、共通の目標を達成し、共通善に役立てることができます。社会が経験している問題は明確に識別される必要があります。そうした問題を認識し、解決する異なった方法があることが十分に理解されるように。

   社会的な一致への道は常に、他人が、少なくとも部分的でも、正当な観点や貢献できる価値のあるものを持っている可能性を認めることを、必然的に伴います。たとえ彼らが間違っていたとしても、あるいは不適切な行動をとっていたとしても、です。私たちは、「他の人たちが言ったことや行ったことで、その人たちを制約してはならず、むしろ彼らが体現している約束を大切にすべき」(212)です。それは、常に新しい希望の火花をもたらす約束なのです。

 229.南アフリカの司教団は、真の和解が積極的に達成されるために必要なことについて、次のように言明しています。「新しい社会-他の人々を支配するよりも、奉仕することを基礎に置いた社会、可能な限り多くの富を得ようと奪い合うよりも、持っているものを他の人々と分かち合うことを基礎に置いた社会、人間として共に生きる価値が、家族、国家、民族、あるいは文化などよりも、極めて重要である社会-を形成することだ」(213)。

 韓国の司教団が指摘しているように、真の平和は「対話を通じて、和解と相互の発展の追求を通し、正義のために努力することによってのみ、達成される」(214)のです。

 230. 一人ひとりとしての独自性を失わずに、私たちの分裂を克服しようとするためには、すべての人に基本的な帰属意識があることが前提となります。確かに、「各人や社会集団が本当に居心地よく感じるときに、社会はその恩恵を受けます。家族の中では、親、祖父母、子供は皆、居心地よくいられるのです。誰も除外されません。誰かが問題を抱えている場合、たとえ深刻な問題であっても、たとえ本人が自ら招いたことであっても、他の家族の者が彼を助け、彼を支えます。彼の問題は家族の問題なのです 。

  家族の中では、全員が共通の目標に貢献し、全員が共通の益のために働き、各々の個性を否定せずに、励ましたり、支えたりします。喧嘩はするかもしれませんが、変わらないものがあります。それは家族の絆です。家族の論争は必ずその後に解決されます。家族の一人ひとりの喜びや悲しみを全員が感じ取ります。これこそ、家族であることの意味なのです。

 私たちが、政治の分野での競争相手や隣人のことを、自分の子供たちや配偶者、母親、父親のことと同じように見なすことができれば、なんと良いことでしょう。私たちは自分たちの社会を愛しているのでしょうか。それとも、それは何かまだ遠く離れた存在で、私たちの関与しない何か匿名のもので、私たちがそのために尽力することのないもの、なのでしょうか」(215)。

 231.平和への具体的な道筋をつけるためには、しばしば交渉が必要となります。けれども、永続的な平和につながる変化の取り組みは、何よりも人々によって作られています。一人ひとりが、各自の日々の生活の仕方によって効果的なパン種として機能できます。素晴らしい変化は、机に向かっていたり、オフィスにいたりしては、生み出されません。これは、「一つの偉大な創造的な事業の中で果たすべき基本的な役割―希望と平和と和解に満ちた歴史の新しいページを書く役割-が誰にもあること」(216)を意味します。それぞれの専門分野に応じて、異なる社会制度が貢献する平和の「構造」がありますが、私たち全員が関わる平和の「巧みなわざ」もあります。

 世界各地で行われてきた様々な和平交渉から、「私たちは、このような平和のもたらし方、復讐よりも理性を優先させる方法、政治と法律の微妙な調和は、一般の人々の関与を無視できないことを学んできました。平和は、善意の政治的、または経済的集団間の規範的な枠組みや制度的な取り決めによって、達成されることではありません…。 様々な共同体自身が集合記憶(注:集団や社会全体に共有されている記憶のこと)の進歩に影響を与えることができるように、しばしば見過ごされてきた分野の経験を私たちの和平プロセスに取り入れることは、常に有益なことです」(217)。

 232. 一国の社会的平和の構築に終わりはありません。むしろ、それは終わりのない努力であり、すべての人の献身を要求し、国民の団結を構築するために、たゆまぬ努力をするように、私たちに迫ります。 平和共存の達成に向ける途中にある障害、相違、様々な視点にもかかわらず、この取り組みは、『出会いの文化』 を促進するための闘いを粘り強く続けることを、私たちに呼び掛けます。そのためには、私たちは最高の尊厳を享受する人間、および共通善の尊重を、すべての政治的、社会的、経済的活動の中心に置く必要があります。 この決意が、復讐の誘惑と短期的な党派的利害の満足から、私たちを逃す助けとなることを願いましょう。」(218)。

   暴力的な大衆的政治行動は、どちらの側にとっても、解決策を見つける助けにはなりません。その主な理由は、コロンビアの司教団が正しく指摘しているように、「市民のデモの原因と目的は必ずしも明確ではない。特定の政治的な操作が存在し、場合によっては党派的利害のために利用されてきた」(219)からです。

*最も小さな者から始める 

 233.社会的な友好関係の構築とは、歴史上の問題を抱えていた時期に、異なる立場にあった集団間の和解が求められるだけでなく、社会の最も貧しく脆弱な部門との新たな出会いを求めることでもあります。なぜなら、平和とは、「単に戦争がない、ということではなく、見過ごされたり、無視されたりすることが多い、私たちの兄弟姉妹の尊厳を認識し、守り、そして具体的に回復させるための、たゆまぬ努力することであり、とりわけ、大きな責任を負っている者たちにとって、それによって、自分自身を自分たちの国の運命の主な主役と見なすことができる」(220)からです。

234.多くの場合、社会のより脆弱な人たちが、”不公正な一般化”の犠牲者です。貧しい人々や疎外された人々が、反社会的に見える態度で反応することがあったら、そうした反応は多くの場合、軽蔑や社会的排除の歴史から生まれたものであることを認識すべきです。中南米の司教団は、「今日の貧しい人々の価値観、正当な望み、そして彼ら自身の信仰の生き方を、深く理解できるのは、私たちを友人にしてくれる親密さだけだ。貧しい人たちのための選択肢は、私たちを貧しい人たちとの友情に導くはず」(221)ということに気付いています。

235.平穏な社会的共存のために活動している人たちは、不平等と、統合的な人間開発の欠如が平和を不可能にしていることを、決して忘れてはなりません。確かに、「均等な機会がなければ、異なる形態の攻撃と紛争が増殖する肥沃な地勢を見つけ、いつか爆発してしまうでしょう。地域であれ、国家であれ、世界であれ、社会が自らの一部を周縁部に残すことを厭わないとき、法の執行や監視システムに費やされる、いかなる政治的な取り組みや人的物的資源も、いつまでも平穏を保障することはできません」(222)。私たちが新たに始めなければならないとしたら、それは常に私たちの兄弟姉妹の中で「最も小さな者」からでなければなりません。

*赦しの価値と意味 

 236.和解について語らない方がいい、と考えている人たちがいます。なぜなら、彼らは紛争、暴力、崩壊は「社会の正常な機能の一部」と考えているからです。どのような人間の集団においても、常に様々な当事者の間では、多かれ少なかれ、微妙な権力闘争が存在するのです。他の人たちは、赦しを促進するのは、自分の立場と影響力を他人に譲歩することを意味すると考えています。そのため、彼らは異なる集団間の勢力の均衡を保ちつつ、現状を維持した方が良い、と考えています。さらに、和解とは、弱さの表れだ、と考える人もいます。その人たちは本当の意味での真剣な対話ができず、不正なことを無視することによって、問題を回避することを選択します。彼らは問題に対処することができず、見かけ上の”平和”を選んでしまいます。

 

*避けられない対立 

 237. 赦しと和解は、キリスト教の中心的なテーマであり、そして様々な形で、他の宗教の中心的なテーマでもあります。しかし、これらの深い信念の理解と提示が不十分だと、運命論や無関心、不正、さらには不寛容や暴力につながる危険性があります。

 238.イエスは決して暴力や不寛容を促されませんでした。イエスは、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ福音書20章25節~26節)と、他人に対する権力を得るための武力行使を公然と非難しました。

 代わりに、福音書は「七の七十倍」(マタイ福音書18章22節)赦すように、私たちに教えており、また、自分自身は赦されているのに他人を赦すことができなかった、無慈悲な召使いの例を示してくれています(マタイ福音書18章23節~35節参照)。

239.新約聖書の他の箇所を読むと、腐敗と逸脱が蔓延した異教の世界に住む初期のキリスト教共同体が、いかに揺るぎない忍耐、寛容、理解を示そうとしたか、が分かります。いくつかの箇所には、この点について非常に明確なものがあります。

 私たちは、反対する者を「柔和な心で」教え導くように教えられており(使徒パウロのテモテへの手紙2・2章25節)、「誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。私たち自身もかつては無分別」(使徒パウロのテトスへの手紙3章2節~3節)だったからだ、と促されています。使徒言行録には、一部の権威によって迫害されていたにもかかわらず、弟子たちは「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章47節、4章21節、33節、5章13節参照)と記されています。

 240. しかし、赦しと平和と社会的調和について深く考えるとき、私たちはまた、キリストの耳障りな御言葉にも出会います―「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。/人をその父に/娘を母に/嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる」(マタイ福音書10章34節~36節)。

 これらの御言葉は、それが出てきた章の文脈の中で理解される必要があります。そこで、イエスがご自分に従う私たちの決断への忠実さ、を語っておられるのは明らかです。たとえその決断が様々な苦難を伴うものであっても、そして私たちの愛する人でさえ、それを受け入れるのを拒否しても、私たちはその決断を恥じるべきではありません。

   キリストの御言葉は、私たちに争いを求めるように勧めるのではなく、家族や社会の想定された平和のための他人への恭順が私たち自身の忠実さを損なうことのないように、避けられないときには耐え忍ぶことを促しているのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、教会は「あらゆる可能性のある社会的紛争を非難するつもりはありません。教会は、歴史の経過の中で、異なる社会集団間の利害の衝突が必然的に生じることを十分に認識しており、そのような紛争に直面する、キリスト者はしばしば、正直に、そして断固として、立場を取らなければならない」(223)と述べています。

 

*正当な対立と赦し 

 241.また、これは、私たち自身の権利を放棄したり、腐敗した役人や犯罪者、あるいは私たちの尊厳を傷つけたりするような人たちに立ち向かうことになっても、赦しを呼びかける、という意味でもありません。私たちは例外なく、すべての人を愛するように召されています。同時に、抑圧者を愛することは、その人が私たちを抑圧し続けることを許したり、彼がすることが許容されると思わせたりすることを、意味しません。そうではなく、抑圧者に対する真の愛とは、「抑圧をやめさせる方法を模索すること」であり、「彼が行使の仕方の分からない、自分と他人の人間性を損なう権力を剥ぎ取ること」を意味します。

    赦しとは、抑圧者が自分の尊厳と他人の尊厳を踏みにじり続けることを許したり、犯罪者が悪行を続けることを許したりすることではありません。不正に苦しむ人々は、神様からの愛情深い賜物として授かった尊厳を守らなければならないからこそ、自分と家族の権利を積極的に守らなければなりません。犯罪者が私や愛する人に危害を加えた場合、私が正義を求め、この人あるいは他の誰かが、再び私や他の人に危害を加えないように保障することを誰も禁じることはできません。これは完全に公正なことです。赦しはそれを禁じるのではなく、実際にはそれを要求します。

242. 大切なのは、私たち自身の魂や民族の魂にとって不健康な怒りを煽ったり、復讐や相手を滅ぼすようなことに執着したりしないことです。そのようなやり方では、誰も内なる平安を達成したり、普通の生活に戻ったりすることはできません。真実は、「人々を団結させ、一緒にし、違いを解決する力が、復讐と憎しみから生まれるものであるなら、いかなる家族にも、隣人の集団にも、いかなる民族にも、ましてや国にも、未来はない」ということです。 「私たちは、復讐のために和解し、団結することはできません。他人が私たちに遭わせたのと同じ暴力で、他人に遭わせたり、一見合法的な庇護の下で、報復の機会を計画したりすることもできません」(224)。そのようにして得られるものは何もなく、結局、すべてが失われてしまうのです。

243.確かに「紛争が残した不正、敵意、不信という苦い後遺症を克服するのは簡単なことではありません。それは、善をもって悪を克服し(使徒パウロのローマの信徒への手紙12章21節)、和解、団結、平和を育む美徳を培うことによってのみ可能」(225)なのです。そのようにして「善良な心を養う人は、困難や誤解の中にあっても、善良さが平和な良心と深い喜びに繋がることに気付くのです。たとえ怒っていても、善は決して弱くはなく、むしろ復讐を拒むことで強さを示します」(226)。

 私たち一人一人が気付くべきです。「私たちが自分の兄弟や姉妹に対して抱く手厳しい見方、癒されなかった傷、決して許されなかった罪、自分を傷つけるだけの憎しみさえも、全ては自分の心の中に抱える苦悶、大きく激しい炎になる前に消される必要のある”心の奥深くに燃える小さな炎””だ」(227)ということを。

*先に進むための最良の方法 

244. 対立が解消されず、隠されたり、過去に終わったこととされたりする場合、黙っていることは、重大な犯罪の共犯者になってしまう可能性があります。 本物の和解は、対立から逃げず、対話と、率直、誠実で忍耐強い交渉をすることで、達成されます。 異なる集団の間の対立は「憎しみや互いの嫌悪を自制すれば、正義への欲求に基づく、互いの相違についての率直な議論に徐々に変化」(228)します。

245. 私は何度もこのように話してきました。「社会における友情の構築に不可欠な原則、すなわち、一致は、対立よりも優れている… それは、一種の混合主義(syncretism=異なる信仰や一見相矛盾する信仰を、結合・混合すること、さまざまな学派・流派の実践・慣習を混合すること)や、一方の他方への吸収を選ぶのではなく、もうひとつ高いレベルで、双方が妥当で有益なものを保てるような解決を選ぶことだ」(229)と。

 私たち皆が知っているのは、「私たちが、個人や共同体として、自分や特定の利益よりも先を見ることを学ぶとき、対立、緊張、そして集団でさえ反目していると考えられていたものが、新しい命のもととなる多面的な一致を成し遂げることが可能な状況の中で、理解と相互の関わり合いが実を結ぶ…」(230)ということです。

*記憶について

 246. 多くの不当で残酷な苦しみに耐えてきた人々について、一種の「社会的な赦し」が求められてはなりません。 和解は個人的な行為であり、誰もそれを社会全体に押し付けることはできません。ただ、それを促進する必要性は非常に大きい。 それが社会とその司法制度によって全く合法的にそうすることが求められたとしても、厳密に個人的なやり方で、自由で寛大な判断によって、誰かが罰することを求めることを選ばない(マタイ福音書5章44-46節)ことはできます。

しかし、命令によって傷口を縛ったり、“忘却のマント”で不正行為を覆い隠したりすることで”包括的な和解”を宣言することはできません。誰が他の人の名において、赦す権利を主張できますか?受けた危害を忘れておくことのできる人によって示される赦しは感動的ですが、それはまた、赦すことのできない人にとっては人間的に理解しがたいことです。どのような場合にも、忘れることは決して、答えになりません。

247. 「ショア」(注:フランスのクロード・ランズマン監督が1985年に完成した長編映画。ユダヤ人絶滅政策ーホロコーストーに関わった人々へのインタビュー集だが、演出もところどころにされており、全くのドキュメンタリーではない)を忘れてはなりません。 それは、「誤ったイデオロギーに駆り立てられ、民族の起源や宗教的な信念に関係なく無条件に尊敬に値する一人ひとりの基本的な尊厳が見えなくなった時に、人の悪が沈む深さの永続的なシンボル」(231)です。

このことについて考える時、私はこのような祈りを繰り返さずにはいられません。「主よ、あなたの憐れみの中で私たちを思い起こしてください。 私たちに、自分たち人間がしたことを恥じ、この巨大な偶像崇拝を、あなたが土から創られ、その息で命を与えられた私たち自身の肉を軽んじ、打ち砕いたことを恥じる恵みを、お与えください。 そのようなことは二度と、主よ、二度といたしません!」(232)。

248. 広島と長崎に投下された原子爆弾も、忘れてはなりません。 もう一度、言います。「私はすべての犠牲者の方々に敬意を表します。そして、最初の瞬間を生き延び、その後何年もの間、肉体的な酷い苦しみと、活力を枯渇させた死の精神的な源に耐えた人々の力強さと尊厳に頭を下げます。 現在そして将来の世代が、過去に起きたこのようなことの記憶を失うことは、許されません。

それは、より公正で友愛に満ちた未来の構築を確実にし、奨励する記憶なのです」(233)。 また、さまざまな国で続いている迫害、奴隷取引、民族の抹殺、そして私たち人類を恥じさせる他の多くの歴史的出来事を、忘れてはなりません。 それらは常に、そして新たに記憶する必要があります。 私たちは決して、そうしたことに習慣化したり、慣れたりしてはなりません。

249.今では、ページをめくり、「これらすべてのことは、ずっと昔に起きたことだ。未来に目を向けるべきだ」と考えたくなるのは簡単です。でも、どうか、そのように考えないように!過去を振り返らずに、前に進むことはできません。正直で曇りのない記憶を欠いては、進歩しません。私たちは「集合意識(注:社会の成員に共通している信念や感情の総体)の炎を燃やし続け、起こったことの恐怖を次の世代に証言していく必要があります。なぜなら、証言は、「犠牲となった人々の記憶を蘇らせ、保存し、それによって、支配と破壊のあらゆる欲求に対して、人間の良心が立ち上がるようにする」(234)からです。

 犠牲者自身、個人、社会集団または国家が、そうする必要があります。大きな罪悪への忍耐という理由を付けて、報復とあらゆる種類の暴力を正当化する思考に負けないように。そのために、私が考えるのは、残虐行為だけでなく、そのように大きな非人道性と腐敗の中で尊厳を保ち、連帯、赦し、そして友愛を選んだすべての人々を、記憶することの必要性です。善いことを記憶することも、健全なことです。

*赦すことは「忘れること」ではない 

 250. 赦すことは「忘れること」を意味しませんー否定したり、相対化したり、隠蔽したりを決してできない現実に直面するとき、赦しがなお可能になるということです。決して容認できない、正当化できない、あるいは言い訳のできない行為に直面した時、私たちはそれでも赦すことができるのです。何らかの理由で忘れることのできないものに直面したとき、私たちはそれでも赦すことができるのです。強制されたのではない、心からの赦しは、気高く、赦すという神の無限の力の反映なのです。もし赦しが無償であれば、悔い改めに抵抗のある、赦しを乞えない人にさえ、示すことができるのです。

251. 本当に赦す人は、「忘れた」のではありません。忘れる代わりに、自分をひどく苦しめた破壊的な力と同じ力に従わない道を選んだのです。本当に赦す人は悪循環を断ち切り、破壊力が進むのを止めます。大打撃をもたらすような復讐心を、社会に広めない道を選びます。復讐が犠牲になった人を満足させることは、決してありません。犯罪があまりにもおぞましく、残酷であるため、犯人を罰しても受けた損害を償うのに十分ではないからです。犯人を殺したとしても、十分ではないし、どのように拷問をしても、犠牲になった人に与えられた苦痛に見合わないことは明らかです。復讐は何も解決しません。

 252. これは、処罰を免れることを意味しません。正義は、個人的な怒りのはけ口としてではなく、新たな罪を防ぎ、共通善を守る手段として、愛の正義と犠牲者への敬意から、適切な形で追求されるべきです。赦しはまさに、復讐の悪循環や忘却という不正に陥ることなく、正義を追求することを可能にするのです。

 253. 不正行為が双方に起きたとき、それが同程度に重大なのか、それとも何らかの方法で比べられるのかを、明確に考慮に入れることが重要です。国家が、組織や権力を使って犯した暴力は、特定の集団による暴力と同じ程度ではありません。いかなる出来事においても、一方の不当な被害だけを悼むべきだと主張することはできません。クロアチアの司教団は言明しています。「私たちは罪のない犠牲者一人ひとりに対して同等の敬意を払わなくてはならない。人種、国家、信仰、あるいは党派による差異は存在しえない」(235)と。

 254. 私は神に祈ります。「兄弟姉妹との出会いのために、私たちの心の準備をさせてくださいますように。そうすれば、私たちは政治的な考えや、言葉、文化、宗教から来る違いを克服できるやようになります。神の慈しみの香油で私たちの全身を聖別し、過ち、誤解、不和から生じた傷を癒やしてくださいますように。そして平和を求める厳しくも豊かな道へ、謙遜と優しさをもって、私たちを派遣してくださる恵みを、神にお願いしましょう」(236)。

*戦争と死刑 

 255.  特に劇的な環境での”解決策”として目にするかも知れない二つの極端な選択肢があります。そのような選択肢は、問題の解決にはならない誤った回答、そして国と国際社会の構造を破壊するような新たな要素をもたらす以外の何ものでもないものだ、という自覚を欠いたもの。つまり、それは「戦争」と「死刑」です。

 

*戦争の不正 

 256. 「悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜び」(箴言12章20節)があります。それでも、「戦争」に解決策を見出そうとする人々がいます。戦争は、さまざまな関係の崩壊、覇権主義的な野心、権力の乱用、他者への恐怖、多様性を障害物と見なす傾向、によって煽られることがよくあります(237)。戦争は過去からやってくる亡霊ではなく、常に存在する脅威なのです。私たちの世界は、「すでに活動を始め、良い実をつけ始めた平和への遅々とした歩み」の途上において、増大するさまざまな困難に遭遇しています。

257. 戦争の勃発を支持する状況が再び拡大していることから、私は何度も繰り返してこう言います。「戦争は、あらゆる権利の否定であり、環境への酷い攻撃です。もし私たちが真の人類の発展を望むなら、国家や人々の間の争いを避けるように、根気強く働かねばなりません。そのために、争う余地のない法の支配と、交渉、仲裁、調停に軸を置く姿勢を確実にする必要がありますー基本的な法的規範を定めた国連憲章が提示(238)しているように」。

 国連創設から75年と二千年期の最初の20年の経験は、国際的な規範の完全な適用がまさに有効であること、そしてその規範の適用に失敗することが害をもたらすことを教えました。
国連憲章は、透明性と誠実さをもって注意深く対象を観察し、適用されれば、守るべき正義の基準、平和への道筋になります。そこには、不当な意図を偽装したり、国や集団の党派的な利益を全地球的な共通善に優越させる余地はありません。諸規律が、都合の良い時に使われ、そうでなければ無視される、単なる手段として考えられるなら、制御できない力が解き放たれ、様々な社会、貧しく、傷つきやすい人々、友愛的な関係、環境、文化財に深刻な損害を与え、地球社会のとって取り返しのつかない損失をもたらします。

 258.戦争は、容易に選択されますーあらゆる種類のいわゆる人道主義的、防御的、あるいは予防的な言い訳に訴えることで、そして情報を操作することで、です。この数十年間、どの戦争も、表面的には「正当化」されてきました。「カトリック教会のカテキズム」は、軍事力を手段とした合法的な防御の可能性について語っています。そこには、特定の「倫理的正当性の厳格な条件」(239)がそろっていることを示すことも含まれています。 

 ただ、防御の権利を使うことについて、行き過ぎた拡大解釈に陥るのは容易です。そのようにして、ある人々は、”予防的”な攻撃や戦争行為-「取り除こうとする害よりも、もっと深刻な害や混乱」(240)を伴うのがほとんど避けられない行為-さえも、不当に正当化します。

 核兵器、生物化学兵器の開発や、新たな技術によって、もたらされる巨大で増大する(注:兵器としての)可能性が、戦争に、とても多くの罪のない一般人に対する制御不能の破壊力をもたらしているかどうかについて、議論が続いています。真理は「人類が自らに対してそのような力を持ったことは一度もなく、 しかも、そのような力が賢明に使われる保証は何もない」(241)ことにあります。

 私たちはもはや、戦争を解決策として考えることはできません。戦争がもたらす危険の可能性が、想定される利益よりも、恐らく、常にはるかに大きいからです。このような観点から、「正義の戦い」の可能性について語るために、これまで何世紀にもわたって入念に作られた合理的な基準を引き合いに出すことは、今日では極めて難しい。戦争は二度とあってはならない(242)のです!

 259. グローバル化の進展とともに、世界のある一つの地域の即時的、実際的な解決策と思われるものが、暴力の連鎖の始まり、結果として、地球全体に危害を与え、将来の新たな、もっとひどい戦争への道を開く潜在的な作用の始まりに、しばしばなるのだ、ということを、付け加える必要があります。

 今日の世界では、ある国と他の国で別々に戦争が起きることは、もはやありえません。私たちが体験しているのは「(注:一つのものが)断片的になされる世界大戦」です。国々の運命はグローバルな舞台で互いに極めて密接に関係づけられているからです。

 260. 聖ヨハネ23世教皇の「戦争は侵害された正義の修復に適切な道具である、と断言することは、もはや道理にかなっていない」(243)という言葉があります。彼は、大きな国際的緊張の最中に、この言葉によって、冷戦時代に高まった平和への強い願いを表わしたのです。平和を訴えることは、いかなる特定の利益のたくらみや武器使用への信頼よりも有効である、という確信を、彼は支持しました。

 しかし、冷戦終結によってもたらされた機会は、将来に対する洞察と、運命共同体という自覚の共有が足りなかったために、十分に活かされませんでした。その代わりに、普遍的な共通善を掲げずに、党派的な利益を追求する方が容易だ、ということになってしまった。こうして、戦争という恐ろしい怪物が、新たな地歩を固め始めたのです。

261. いかなる戦争も、私たちの世界を戦争前よりも悪化させています。戦争は、政治と人間性の敗北、恥ずべき解決の断念、悪の力の前での手痛い敗北です。”理論的議論”という泥沼にはまり続けるのではなく、傷ついた犠牲者の身体に触れましょう。「巻き添え」にされたすべての一般市民の死を、もう一度見ましょう。犠牲者自身に尋ねましょう。避難民や強制退去させられた人々、放射能や化学兵器の被害を受けた人々、子供を失った母親たち、身体的に不具になったり、”子供として過ごす時”を奪われた少年、少女のことを考えましょう。

 暴力の犠牲者たちの実際の話を聞き、彼らの目を通して現実を見つめ、心を開いて彼らの語る話に耳を傾けましょう。そうすることで、戦争の核心である”悪の地獄”を実感することができるのです。「平和を選ぶ軟弱な連中」とみなされても、私たちが悩むことはないでしょう。

262. もし私たちが、今起きている問題の解決として、核兵器、化学兵器、生物兵器の恐怖、あるいは脅威が「抑止力」になる、と考え続けるなら、ルールだけでは十分でありません。実際、平和と安全に対する最も重大な脅威―21世紀の多極な世界で多くの特性を持つ、たとえば、テロ、不均衡な戦い、ネットワーク上の安全保障(サイバーセキュリティ)、環境問題、貧困― を考えた場合、そのような課題への効果的な対応策としてきた”中途半端な核の抑止力”にかなり多くの疑問が生じます。

 どのような形であっても、核兵器の使用がもたらす、致命的な、人道上の、そして環境上の結果を考慮するとき、これらの懸念は、一層大きくなります。核兵器は、時間と場所を越えて、破壊的、無差別的、抑制不可能な影響を与えるからです。恐怖からくる安定が、実は恐怖を増大させ、人々の信頼関係を徐々に失わせるとき、どのようにして、この安定を持続できるか、私たち自身に問いかける必要があります。国際的な平和と安定は、安全に対する誤った意識、相互破壊や全滅の恐怖、単なる力のバランスの維持に基づくものであってはなりません。

 こうした文脈から、核兵器全廃という最終目的は、課題であり、倫理的、人道的責務となります。相互依存の増大とグローバル化は、「核兵器の脅威に対する対応は、すべて相互信頼に基づき、共同的、協調的であるべきだ」ということを意味します。このような相互信頼は、共通善に誠実に導かれる対話によってのみ、実現できます。ベールに覆われた、あるいは特定の利益を目指すような対話によって、ではありません」(244)。武器やその他の軍事費に使われるお金で、最終的に飢餓を終わらせ、最貧国の発展を奨励するグローバル基金(245)を創設しましょう。そうすれば、それらの国々の人々が、暴力や錯覚した解決策に訴えたり、より尊厳のある人生を求めて祖国を去る必要はなくなるでしょう。

 

*死刑について 

 263. もう一つ、他の人々を排除するやり方があります。それは、国ではなく個人に向けられたものー死刑です。聖ヨハネ・パウロ2世は、死刑は、倫理的観点から不適切であり、罰を科す正義という観点からももはや必要ではない、と明確かつ毅然として主張されています(246)。この立場から後退することはできません。今日、私たちは、はっきりと言います。「死刑は容認できない(247)し、カトリック教会は毅然として死刑廃止を世界中に求め、熱心に取り組む」(248)と。

 264. 新約聖書には、正義の名をもって自分の手で制裁してはならない(ローマの信徒への手紙12章17-19節参照)とする一方で、悪を行う者に権力が罰を科すことは必要(同13章4節、ペトロの手紙1・2章14節参照)との認識も示されています。実に、組織化された共同体を中心に組み立てられた市民生活は、共生のルール-故意の侵害に対して適切な償いを求めること-を必要とします」(249)。それは、合法的な公的権威は「犯罪の重大さに応じた罰を与える」(250)ことができ、そうせねばならないこと、そして司法権は「法律の領域で必要な独立性」(251)が保証されること、を意味します。

 265. 教会の最も初期の時代から、死刑に明確に反対していた人々がいました。例えばラクタンティウス(注:ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス(240頃 – 320頃)=キリスト教初期の神学者。最初のキリスト教徒ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1の助言者となり、その宗教政策が発展するように導いた)は、「一つでも例外があってはならない。一人の人を死刑にするのは常に違法である」(252)と断言しました。教皇ニコラウス1世(820頃? – 867。第105代ローマ教皇で在位は8584 – 867年11月)は、「無罪の人々だけでなく、いかなる有罪の人々も死刑から自由にする」(253)努力がなされるべきである、と強く主張しました。

    二人の司祭を殺害した犯人たちの裁判で、聖アウグスチヌスは、次のような理由を挙げて、彼らの命を奪わないように裁判官に求めました。「私たちは、あなたが、このような邪悪な者たちから、さらに罪を重ねる自由を奪うことに、反対しません。私たちの願いは、彼らの命を奪ったり、肉体の一部を損傷したりせずに、正義が全うされること、そしてまた、法による強制的な手段を用いて、彼らの理不尽な怒りを、健全な精神をもつ人の落ち着きに改め、悪事から何か役立つ職に就くようすること、なのです。有罪判決も考えられますが、そうせずに、野蛮な暴力が抑えられ、悔い改めさせるような矯正措置がとられる場合には、単なる制裁措置よりも有益だ、と考えられるべきです。彼らの罪である残虐な行為が、被害者の復讐心を煽ることなく、そうした行為が彼らの心に与えた傷を癒すことを切望させるように」(254)。.

266. 恐怖と憤りは、罰を、癒しや社会復帰へのプロセスの一環としてよりも、むしろ容易に、執念深く、残虐な手段として見るようになります。今日、いくつかの党派と特定のメディアは、犯罪に責任のある人々に対してだけでなく、立証されているかいないかにかかわらず、法律違反の疑いのある人々に対しての、公的、私的な暴力と報復を煽りたてています。時として意図的に、(注:特定の人や集団を)敵―社会にとっての脅威と感知され、解釈されるような特徴を示す人物―に仕立て上げる傾向もみられます。これらのイメージを形成するメカニズムは、人種差別主義者の考えを拡散させることを許したことと同じです(255)。このことは、世界のいくつかの国で、予防拘禁、裁判なしの投獄、そして死刑を慣行が強まることで、ますます危険性を増しています。

267. ここで私は強調したいと思いますー「今日、国家は、危害を与える者から人々の命を守るために死刑以外の手段をもたない、と考えることはできない」と。これに関して特に重大なのは、いわゆる”裁判外”あるいは超法規的な死刑の執行です。これは、「国家とその代理人に委任された故意になされる殺人行為。だが、『犯罪者とのぶつかり合いの結果だ』として見過ごされたり、『法律に則った理にかなった必要で適正な力の行使による意図しない結果だ』とされたりすることが、しばしばある」(256)のです。

 268. 「死刑に反対する議論は、数多く、よく知られています。カトリック教会は、これらの議論の幾つか-例えば、裁判官が判断を誤る可能性、あるいは、全体主義や独裁主義体制が、政治的な立場の違う人々を抑圧し、宗教的、文化的な少数派を迫害するための手段としての処罰-について注意を喚起してきました。迫害の犠牲者たちすべてが、そうした体制の国では法律で”犯罪者”と見なされるのです。今日、すべてのキリスト教徒と善意の人々は、合法、非合法を問わず、あらゆる形の死刑の廃止だけでなく、自由を奪われた人々の人間的尊厳の重んじることから、刑務所の環境改善へ、働きかけをするように求められています。私は死刑を終身刑と関連ずけたいと思います… 終身刑は、隠された形の死刑です」(257)。

 269. 覚えておきましょう。「殺人者であっても個人の尊厳は存在する。神ご自身がこれを保証すると約束されている」(258)ことを。死刑を断固として拒否することは、奪うことのできない一人ひとりの尊厳をどこまでも認めること、この世界で彼あるいは彼女の居場所がどこまでも存在すること、を受け入れることを示します。もし犯罪者の中で最も極悪な者の尊厳を否定しないなら、私は誰の尊厳も否定しないでしょう。互いの違いにもかかわらず、私は、この地球を分かち合う可能性を全ての人に与えたい。

270. この点について判断をためらい続けているキリスト教徒に、どんな形であれ暴力に屈する誘惑に駆られている人々に、イザヤ書の言葉を心に留めていただきたいと思います。「彼らはその剣を鋤きに打ち直す」(イザヤ書2章4節)。私たちにとって、この預言は、キリスト・イエスにおいて新たにされます。彼は、暴力を振るいそうになった弟子たちを目にして、きっぱりと言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる」(マタイ26章52節)と。これらの言葉は古くからの警告を繰り返しています。「私は人に、命の償いを求める。人の血を流す者は、人によってその血を流される」(創世記9章5-6節)。イエスの御心から湧き出た言葉は、何世紀にも及ぶ間隙を埋め、永続的な訴えとして現在まで届いているのです。

第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教

CHAPTER EIGHT RELIGIONS AT THE SERVICE OF FRATERNITY IN OUR WORLD

271. さまざまに異なった宗教は、神の子と呼ばれる被造物としての1人ひとりの人間への敬意を基礎に置き、社会における友愛を作り上げ、正義を守ることに、重要な貢献をしています。 異なった宗教を信仰する人々の間の対話は、単に外交関係のため、思いやりあるいは寛容さを示すために行われるのではありません。 インドの司教団の言葉を借りれば、「対話が目指すものは、友情、平和、調和を確立し、真理と愛の精神において、霊的、道徳的な価値と経験を共有すること」(259)なのです。

*究極の基礎

 272. 信者として、父に対しすべてにわたって心を開いていなければ、友愛を呼びかける揺るぎない、しっかりとした理由はない、と私たちは確信しています。 「私たちは孤児ではなく、子供なのだ、ということに気付くことだけで、互いに心穏やかに暮らせる」(260)と確信しています。それは、「理性それ自体は、人の間の平等をしっかりと理解し、彼ら市民の共存を安定させられるが、友愛を確立することはできない」(261)からです。

 273. この点に関して、私は記憶に残る次の言葉を引用したいと思います。「もしも、超越的な真理-それに従って人が、自己の完全な主体性を達成する真理-が無いのなら、人々の間の公正な関係を保証する確かな原則もない。階級、集団、国家としての利己心は、必然的に、彼らを対立させるだろう。人が超越的な真理を認めなければ、権力は引き継がれ、他の人々の権利などおかまいなく、自分の利益や自分の意見を押し通すために、それぞれが持てる手段を意のままに最大限に使う傾向に陥る …。現代の全体主義の根源は、「目に見えない神の目に見える姿として、まさにその本質から、何ものも、いかなる個人も、集団も、階級も、国民も、国家も侵害してはならない権利の対象」である人間の超越的な尊厳の否定に見つけることができる。社会的集団の大多数でさえも、少数派に反対することで、これらの権利を侵害することはできないだろう」(262=2011年. ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題 ― 教会と社会の百年を ふりかえって ― 』)

274. 私たちの信仰の経験と何世紀にもわたって蓄積された知恵からだけでなく、多くの弱点と失敗から学んだ教訓から、さまざまな宗教の信者である私たちは、神の証人が私たちの社会のためになることを知っています。誠実な心で神を求める努力は、それがイデオロギー的または自己奉仕的な目的によって決して汚されないなら、私たちが旅の仲間、真の兄弟姉妹としてお互いを認識するのに役立ちます。

 私たちは次のことを確信しています。「イデオロギーの名の下に社会から神を追い出す試みがなされ、偶像を崇拝するようになり、瞬く間に男女が道に迷うとき、彼らの尊厳は踏みにじられ、彼らの権利は侵される。あなた方は、良心の自由と宗教の自由の否定によって、どれほどの苦しみが引き起こされるか、そしてどのようにして、その心の傷が、貧しくされた人を置き去りにするのかを、よく知っている。なぜなら、それを導く希望や理想を欠くからだ」(263)ということを。

 275. 「現代世界の危機の最も重要な原因の中には、鈍感にされた人間の良心、宗教的価値観からの隔たり、そして『人間を神格化し、最高の超越的な規範の代わりに世俗的で物質的な価値観を引き入れる唯物論的な哲学』を伴う個人主義の蔓延がある 」(264)。 公開討論で聞かれる唯一の声が強力で「専門家」の声である場合、それは間違っています。

 何世紀にもわたる経験と知恵の宝庫である宗教的伝統から生まれた反省のための場所を作る必要があります。なぜなら、 「宗教的な古典は、あらゆる時代に、意味があることを証明できる(新たな領域を開き、思考を刺激し、心を広くする)永続的な力がある」からです。 しかし、宗教的古典はしばしば、「近視眼的な合理主義」(265)の結果として、軽蔑の目で見られがちです。

276. このような理由から、教会は、政治生活の自主性を尊重し、その使命を私的な領域に限ることをしません。むしろ、政治生活は、より良い世界を作るにあたっての「わき役に留まることはできないし、そうしてはならない」、あるいは、社会の向上に貢献できるような「精神的な活力を蘇らせる」(266)ことに失敗してはならないのです。

 確かなことは、聖職者たちは、一般信徒の領域である政党政治に関わってはならないが、共通善への絶え間ない関心と欠かすことのできない人作りを含む、生活の政治的な側面を放棄することもできない(267)ということです。

 教会は、「慈善的、教育的な活動に加えて、公的な役割を担っています」。「人類の進歩と普遍的な友愛の発展」(268)のために働いています。世俗的な力と競争することを要求せず、「今日の世界で証人となることを受け入れ、主と主が恵みとしての慈しみをもって愛される人々への信仰の希望と愛を受け入れる、家族の中の家族」(269)として献身します。そして、マリア、イエスの御母に倣って、「人生を共にし、希望を持ち続け、一致のしるしとなるために… 橋を架け、壁を壊し、和解の種を蒔くために、私たちは、奉仕する教会、家から離れ、祈りの場から出て、聖具室から出ていく」(270)のです。

*キリスト教徒の自己認識 

 277. 教会は、他の宗教において神が働かれる仕方に敬意を払います。そして、「こうした宗教における真実で聖なるいかなるものも、拒みません。その生き方と振る舞い、戒めと教義を高く評価し、それはしばしば、すべての男性と女性を教え導く真理の一筋の光を映しています」(271)。

 それでも、私たちキリスト教徒はとてもよく知っています。「福音の調べが私たちの存在の中で共鳴しなくなると、思いやりから生まれる喜び、信頼から生まれる優しい愛、私たちが許され、送り出されるという認識に源を発する和解の能力を失うことになる。私たちの家庭、私たちの公共の空間、私たちの職場、私たちの政治的、経済的生活で、福音の調べが響くのを止めれば、私たちはもう、すべての男女の尊厳を守るように私たちを鼓舞する旋律を聞くことはない」(272)ということを。

 他の人は他の水源から飲みます。私たちにとって、人間の尊厳と友愛の源泉はイエス・キリストの福音にあります。その源泉から「キリスト教徒の思考と教会の行動に、関係、他の神聖な神秘との出会い、すべての召命としての人間家族全体との普遍的な交わりに対して与えられた優先順位」(273)が生まれます。

278. あらゆる場所に根付くように呼ばれている教会は、世界中で何世紀にもわたって存在してきました。それが「カトリック」であることの意味です。このように、教会は自分自身の恵みと罪の経験から、普遍的な愛への招きの素晴らしさを理解できます。確かに、「人間のすべてのものが私たちの関心事です… 諸国の協議機関が集まって人間の権利と義務を確立するどこにおいても、私たちが仲間入りを許されるのを光栄に思います」(274)。 

 多くのキリスト教徒にとって、この友愛の旅には、マリアという名の母も共にいます。十字架の下ですべての人の母親の役割を受け入れ(ヨハネ福音書19章26節)、イエスだけでなく「他の子供たち」も気にかけています(黙示録12章17節参照)。復活された主の力によって、マリアは新たな世界を生み出すことを望みます。そこでは、私たち皆が兄弟姉妹であり、私たちの社会が放棄する人々すべてのための場があり、正義と平和が輝きます。

279. 私たちキリスト教徒は、キリスト教徒でない人々が少数派である所で自由を増進するとともに、私たち自身が少数派である国において自由が保障されるように求めます。友愛と平和を目指す旅で、一つの基本的な人権を忘れてはなりません。それはあらゆる宗教を信じる人々の信教の自由です。

 信教の自由は次のことを明言します。「私たちは異なる文化や宗教の間に、調和と理解を築くことができる。また、私たちが非常に多くの重要なものを共有していることから、穏やかで秩序のある平和的共存の方法を見つけることが可能であり、互いの違いを受け入れ、唯一の神の子供たちとして、私たち皆が兄弟姉妹であることを心から喜ぶ」(275)ことを。

280. 同時に、私たちは、神に対して、教会の中の一致を強めてくださるように願います。それは、聖霊の働きで和解した相違によって豊かにされる一致です。「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けた」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ので、それぞれの人がそれぞれ特色のある貢献をします。聖アウグスティヌスが語っているように「耳は目を通して見、目は耳を通して聞く」(276)のです。

 キリスト教諸宗派との間で、出会いの旅の証しを続けることも喫緊の課題です。「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節参照)というキリストの願いを忘れることはできません。キリストのこの呼びかけを聴く時、私たちは、グローバリゼーションが進む中で、キリスト教諸宗派の一致への預言的、霊的貢献が、なおも欠けていることを、悲しみをもって認めます。そのような現実にもかかわらず、「私たちには、完全な交わりに向けて旅をするとともに、人類への奉仕に共に働くことによってすべての人への神を愛について、共通の証しをする務めがある」(277)のです。

*宗教と暴力 

 281. 平和の旅は諸宗教間で可能です。 その出発点は、ものを見る神のなさり方でなければなりません。 「神はご自分の目でご覧になりません。ご自分の心でご覧になるのです。 そして、神の愛は、宗教に関係なく、すべての人にとって同じです。人が無神論者であっても、神の愛は同じです。 最後の日を迎え、まだ物事の本当の姿を見る十分な光があるとき、私たちは自分自身に非常に驚くことになるでしょう」(278)。

 282. したがって、「私たち信仰を持つ者は、互いに話し合い、共通善と貧しい人々の出世のために、共に働く機会を見つける必要がある。このことは、自分とは異なる考え方をしている人と出会ったとき、自分の最も深い信念を弱めたり隠したりすることとは何の関係もない… 私たちは、信徒としての主体性が深く、強く、豊かになればなるほど、自分自身の適切な貢献で他の人を豊かにすることができる」(279)のです。

  私たち信仰を持つ者は、自分自身の根源に回帰するように強く求められています。それは、欠かすことのできないこと。すなわち、神の崇敬と隣人への愛、私たちの教えのいくつかが文脈を離れ、他の人に対する軽蔑、嫌悪、恐怖症、否定の姿勢を養ってしまうことにならないようにするもの、です。真理は「暴力は、私たちの基本的な宗教的信念ではなく、その歪曲にのみ根拠がある」ということにあります。

283. 神への誠実で謙虚な崇拝は「差別、憎しみ、暴力ではなく、生命の神聖さ、他の人の尊厳と自由の尊重、そしてすべての人の幸せへの愛のこもった献身によって」(280)、実を結びます。それは「愛さない者は神を知りません。神は愛」(ヨハネの手紙1・4章8節)だからです。

 それゆえ、「テロ行為は嘆かわしいものであり、東西南北いずれの人々の安全を脅かし、パニック、恐怖、悲観主義を広める。しかし、テロリストが宗教を手段に利用したとしても、これは宗教によるものではない。それよりも、宗教的な文書の誤った解釈の蓄積と、飢餓、貧困、不正、抑圧、誇りに関連する政策によるものだ。だからこそ、資金供給、武器や戦略の提供によって、メディアされも使って活動を正当化する試みによって、テロリストたちの活動を支援するのを、やめる必要がある。これらはすべて、世界の安全と平和を脅かす国際的犯罪と見なされねばならない。このようなテロ行為は、そのすべての形態と表現において非難されなければならない」(281)のです。

   人の命のもつ神聖な意味についての宗教的信念は、私たちに次のようなことをさせます。「私たちに共通する人間性の基本的な価値、その価値の名において、私たちは協力、建設、そして対話、赦し、成長ができるし、必ずする。それは、異なる様々な声を、憎しみの半狂乱の叫びではなく、崇高な気品と美しさを作り上げることで一つにする」(282)

284 時折、原理主義者の暴力は、首謀者の思慮の無さから、どのような宗教であれ、いつくかの集団で、引き起こされます。 しかし、「平和の戒めは、私たちが代表する宗教的伝統の奥深くに刻まれている… 宗教指導者として、私たちは、真の『対話の人々』であり、『仲介業者』ではなく『正当な調停者』として、平和構築に協力するよう求められている。 仲介業者は、自分たちの得になるものを得るために、すべての人に”値引き”をさせようとするが、調停者は、自分のために何も持たず、平和を得られることだけを願って、力が尽きるまで惜しみなく身を捧げる。私たち一人一人が、分けるのではなく、一致させることで、憎しみにしがみつくのでなく、憎しみを消すことで、壁を作るのではなく、対話の道を開くことで、『平和の職人』となるように求められている」(283)のです。

*一つのアピール 

 285. グランド・イマーム、アフメト・アル・タイエブ師との、今も喜びをもって思い出す、友愛に溢れた会談で、私たちは断固として宣言しました。

 「宗教は、戦争、憎しみにあふれた振る舞い、敵意、過激な考えを、決して煽ってはならず、暴力や流血に駆り立ててはならない。そのような悲劇的な諸現実は、宗教的な教えから逸脱した結果であり、宗教を政治的に操作することから、歴史の過程で男女の心にある宗教的感情の力を利用してきた宗教的集団によって作られた解釈から、生じるものだ… 全能の神は、誰によっても守られる必要はなく、人々を恐怖に陥れるために御名が使われることを望まない」(284=「世界平和と共存のための人類友愛に関する文書」)。

そのような訳で、私は、私たちが共に作成した平和、正義、友愛のアピールを、ここで繰り返させていただきたいと思います。

 「すべての人間を権利、義務、尊厳において平等に創造され、兄弟姉妹として共に生き、地球を満たし、善、愛、平和の価値を知らしめるよう求められた神の名において、

 「神が人を殺す者は誰でも人類全体を殺す者のようであり、人を救う者は人類全体を救う者のようであると断言し、殺すことを禁じられた罪のない人間の命の名において、

 「神がすべての人々、特に富んだ人々や資力のある人々に求められる義務として助けるように、私たちに命じられた、貧しい人々、困窮した人々、疎外された人々、そして助けを必要としている人々の名において、

 「孤児、未亡人、難民、そして自分の住まいや国から追放された人々の名において、戦争、迫害、不正のすべての犠牲者の名において、弱者、恐怖の中で生きる人々、戦争捕虜、そして世界のどこであろうと拷問された人々の名において、

 「安全、平和、そして共に住む可能性を失い、破壊、災害、戦争の犠牲者となった人々の名において、

 「すべての人を包含し、結びつけ、平等にする人類友愛の名において、

    「過激主義と分裂の政策によって、無軌道な利益本位の仕組みによって、あるいは男女の行動と未来を操作する憎悪のイデオロギー的傾向によって引き裂かれた友愛の名の下において、

 「神がすべての人間に、制約の無い、その贈り物で区別した、自由の名において、

 「繁栄の基盤と信仰の礎石である、正義と慈悲の名において、

 「世界のあらゆる場所にいる善意のすべての人の名において、

 「神とこれまでに述べたすべての名において、(私たちは)対話の文化を道を採り、行動規範としての相互協力と方法と基準としての相互理解を進めることを宣言する」(285)。

 

286. 普遍的な友愛についての、以上のような考察を進める中で、私は、特にアッシジの聖フランシスコから霊感を得たと感じましたが、カトリック教徒ではない兄弟姉妹たちーマーティン・ルーサー・キング、デズモンド・ツツ、マハトマ・ガンディーなどからも霊感を得たと感じました。 それでもなお、私は、深い信仰を持ったもう一人の人物-神についての強烈な経験をもとにして、すべての人を兄弟と感じる変容の旅をした方-に言及して締めくくりたいと思います。私は、福者、シャルル・ド・フーコー( 18589月15 – 191612月1日=フランスカトリック教会神父で、探検家地理学者)のことを申し上げているのです。

287. 福者シャルルは、神に完全に身を任せる究極の目標を、アフリカの砂漠の真ん中に打ち捨てられた貧しい人々との一体感に向けました。そのような場で、自分自身がすべての人間の兄弟だと感じたい、という強い願望(286)を表わし、友人に「私が本当にすべての人の兄弟であることを神に祈ってくれる」(287)ように頼みました。結局は、「万人の兄弟」(288)になりたかったのです。けれども、実際には、最も乏しい人々と深く結びつくことによってだけ、すべての人の兄弟になることができたのです。神が私たち一人一人に、そのような夢を呼び起こしてくださいますように。 アーメン。

*(「カトリック・あい」注:福者、シャルル・ド・フーコーは、1858年9月15日 に生まれ 1916年12月1日に亡くなったフランスカトリック教会神父で、探検家地理学者。モロッコを探検して19世紀末の地理学に新時代を開いたが、 現世的名声を捨てて回心し、新しい修道会の創設を模索。 隠修士としてアフリカ・サハラ砂漠の遊牧民と生活していたが、 第一次大戦中に隣人に裏切られ、盗賊団に殺害され、殉教した。2005 年に列福。参考図書=「シャルル・ド・フ-コ-」(ジャン・フランソワ・シックス著、倉田清訳 聖母の騎士社刊)

【創造主への祈り A Prayer to the Creator】

 

主、私たち人類の父よ

  あなたはすべての人間を 尊厳のうちに 等しく創造されました

 私たちの心に友愛の精神を注がれ

  新たにされた出会い、対話、正義と平和の夢を 私たちに吹き込まれました

 私たちを、もっと健全な社会、もっと気高い世界 

  飢餓、貧困、暴力そして戦争の無い世界を作るために 働かせてください

  私たちの心を 地球のすべての人々と国に 開くことができますように

 あなたが 私たちすべてに蒔かれた 善と美を見分け

  一致の絆を 共通の計画を 共有の夢を 築くことができますように

  アーメン。

 

【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り An Ecumenical Christian Prayer】

 

ああ神よ、愛の三位一体

  あなたの神聖な命との深い交わりから 兄弟愛の滝のような流れを 私たちの上に注いでください

 ナザレのイエスの家庭で そして初めのキリスト教共同体で イエスの振る舞いに映された愛を 

私たちにお与えてください

   願いをかなえてください 私たちキリスト教徒が 福音を生きることができますように

  1人ひとりの人の中に キリストを見出し 

この世の 打ち捨てられ そして忘れられた人たちの苦しみの中に

 十字架につけられたキリストがおられるのを

  そして 新たに歩み始める兄弟、姉妹それぞれの中に

 復活されるキリストがおられるのを 知ることができますように

   聖霊来てください

  地球上のすべての人たちの中に映された あなたの素晴らしさを見せてください

  そうして すべてのものが重要で すべてのものが必要であることを

  神がこれほどまでに愛しておられる人類の 様々に異なった顔を 改めて発見できますように  

                                   アーメン

私の教皇職の8年目、2020年10月3日の聖人の祝日の前日に、アッシジの聖フランシスコの墓前で

 

    フランシスコ

2020年11月24日

・世界カトリック女性連合の新回勅を学ぶオンライン会議ー「新回勅は普遍的愛へ私たちを鼓舞している」とタグレ枢機卿

Some of the participants at the World Union of Catholic Women’s Organisations (WUCWO) formation workshop on Fratelli tuttiSome of the participants at the World Union of Catholic Women’s Organisations (WUCWO) formation workshop on Fratelli tutti 

(2020.11.17 Vatican News   Fr. Benedict Mayaki, SJ)

  世界カトリック女性組織連合(WUCWO)主催の教皇フランシスコの新回勅「 Fratelli tutti 」を学ぶオンライン会議が17日開かれ、バチカン福音宣教省長官のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿は新回勅が社会的友情、普遍的な愛と友愛によるより良い世界を構築する道を歩むよう、私たちを鼓舞している、と強調した。

*フランシスコの三つの回勅に共通するもの

 会合はWUCWOの各国代表を中心に55名が参加。基調講演で、タグレ枢機卿は、新回勅の特筆すべき点について、教皇フランシスコこれまでに出された2つの回勅とセットになっていること、新回勅を含めた3つすべてがアッシジの聖フランシスコの記憶によって統一されていること、と指摘。

 最初の回勅『 Evangelii Gaudium(信仰の光)』は「聖フランシスコが教会を再建するために神から受け取った求めに触発されています。教皇フランシスコは、21世紀の教会が”福音の喜び”によって”再建”されるというビジョンを提起しました」。2つ目の回勅『Laudatosí(ラウダート・シ)』では「”共通の家”ー地球に対する私たちの共同の責任」について概説し、今回の新回勅『Fratellitutti』は「私たちを社会的な友情、互いに兄弟姉妹になるよう促しています」と述べた。

*新回勅で教皇が採用した方法論

 さらに枢機卿は、教皇が新回勅で次のような方法論を採用していることを指摘した。

 まず、現在の世界の状況、兆候、傾向を示し、分析する。次に、識別力と判断力を使い、信仰に照らした現代の解釈。そして、以上を受けた対応策ー現状を知り、分析したうえで、より良い住みかとなる世界の構築ーについて述べている。最後に、教会論につながるー私たち兄弟姉妹に奉仕する教会のビジョンを示している。「これは単なる”方法”ではなく、霊的ビジョンであると言う人もいます」と枢機卿は付け加えた。

*現在の世界の状況を直視する

 また枢機卿は、新回勅が「今日の世界の状況、兄弟愛と姉妹愛の欠如に注意を払う」ように私たちに呼びかけていることを強調。それはまた、これらの状況が「人類家族で起きている破壊を隠すために、外見を美しく着飾っている」ということを率直に認めるよう求めてもいる、とし、「私たちは、貧しい人々、忘れられた人々、無視された人々が、現在の”使い捨て文化の中で、一段と苦しみを味わっていることに注意を払う必要があります。これは、他者に『閉じられている』という思いと文脈の中で起こる。とりわけ移民、女性、少女、人身売買の犠牲者を含む”貧しい人々の視点”から見ることができます」と指摘した。

*開かれた世界のビジョンの基本は「普遍的な愛」

 そのうえで、枢機卿は、「『兄弟愛と姉妹愛に開かれた世界』という教皇のビジョンの基本は『普遍的な愛』にあります。それを通してのみ社会的友情を可能にすることができる」とし、「普遍的な愛は、自分を内に閉じこめるのではなく、他者-自分の集団、家族、コミュニティの文化…ーに対して開くこと。愛は他者との結合を求める形です。愛は他人の価値を見ます。愛は他人の価値を讃える… 愛は他の人にとって何が最も良いかを考えるのです」と述べた。

 そして、「これは単なるロマンチシズムや理想主義ではない。神がご自身を現された方法。イエスが愛し、すべての人のために死んだ方法。聖霊が息を吹きかける方法です。愛である神は、全面的、完全に開かれているのです」と強調。これは、教皇が新回勅で言及している「善きサマリア人のたとえ話」にも示されている、とし、「このサマリア人は、開かれた心をもって、道端に置き去りにされた見知らぬ人に歩み寄り、兄弟のように扱いました。別の人、つまり宿屋の主人に、けがを負った人の世話を頼むことで、普遍的な愛の道具になるように誘いました」と説明した。

*真心で対応することの重要性

 また枢機卿は「真心からの対応を欠いた”普遍的な愛”は、単なる概念またはスローガンにとどまる危険がある。真心を欠いた対応は、特定の具体的な人とすべての人間の共通の尊厳との間に緊張をもたらします。具体的な人に共鳴しなければ、すべての人間の尊厳に共鳴することができないからです」と注意した。

 新回勅のテーマとなっている「社会的友情」に関連して、「それを育てるためには、すべての文化の独自性を排除しない”普遍的な連帯”に心を開く必要があります」と述べ、「例えば私有財産を扱う際に、社会的友情を具体化することができます。財産が公益を犠牲にして絶対化されるべきではありません」とし、「社会的友情は、国際関係における国の政治と政治的慈善を刺激し、大衆迎合主義の罠と人々の分裂を生み出す偏狭なイデオロギーに引き込まれないように、国を導くことを可能にします」と述べた。

 さらに、「教皇は新回勅で、『間違いをした子供たちをいつも赦す母親』をたとえに引いて、赦しについて語っています。赦しは、恵みではありますが、それは、正義を否定したり、他人に与えられた恐怖を忘れたりすることではなく、最悪の犯罪者に対してさえも、憎しみで心を閉じたままでいるのを拒むこと、とされています」と指摘。

 続いて、「すべての人への呼びかけは、他​​の宗教や他の信仰をもつ人たちとの友好的な関係を通して、友愛と兄弟愛の中でキリスト教徒としての私たちの場所を見つけることです。これは、開かれた愛情のある対話と『出会いの文化』を通じてなされます」と説いた。

 

*枢機卿の三つの提案

 講演の最後に枢機卿は、新回勅のアピールに対する具体的な対応を促すためのいくつかの提案をした。

 まず、個人のレベルと集団のレベルの両方で、人間の心、キリスト教徒の精神面での人格形成の重要性を強調。「回勅は、私たちが心を開くのを妨げる『偏見』に立ち向かうよう、私たちを鼓舞します」と指摘した。

 二つ目は、諸文化は人によって活発にされることから、私たちは人間として、これまで当然のこととして受け入れられてきた政治・社会・経済政策、制度、文化を変革するために力を注ぐ必要がある。

 三つ目に、 WUCWOに対して、女性たちー苦痛を受けているが、心の扉を閉めることを拒否する女性たちーの話を集めることを、提案した。

 そして、締めくくりに、枢機卿は、イエスとその福音宣教、地上での生活に目を向けるように勧め、イエスが兄弟姉妹のように扱った、社会や集団からのけ者にされた人々ーザアカイ、マタイ、シリア・フェニキア生まれの女性(マルコ福音書7章24~30節)、井戸の側にいたサマリア人の女性ーとの関係の持ち方、そして、イエスと並んで十字架にかけられた盗賊への天国の約束から、刺激を受けるように促した。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年11月18日

・教皇が「兄弟愛と社会的友愛」を主題にした回勅「Fratelli tutti(All Brothers)」発表・概略

(2020.10.4 バチカン放送)

  教皇フランシスコが4日、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした、2013年の教皇就任以来3番目の回勅「Fratelli tutti(All Brothers=兄弟である皆さん)」を発表した。

 回勅は8章287項からなり、教皇はこの社会的回勅の中で、人々と公共制度の皆が参与する一層の正義と平和に満ちた、より良い世界構築の道として「兄弟愛と社会的友愛」を示した。そして、戦争と”無関心のグローバル化”に対し、強い反対を唱えている。

 個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か?「Fratelli tutti(フラテッリ・トゥッティ)」は主にこうした問いに答えようとするものである。教皇はこの文書を「社会的回勅」(6) と定義し、そのタイトルを、アッシジの聖フランシスコの「Ammonizioni(アンモニツィオーニ)」から採っている。

 聖フランシスコは、「Fratelli tutti」(兄弟である皆さん、の意)というこの言葉を、「すべての兄弟姉妹に向け、福音の味のする生活の形を彼らに提案するために」(1) 用いていた。

 回勅は、世界の兄弟愛と社会的友愛の希求を促すことを目指している。その背景には、新型コロナウイルスの世界的大感染がある。教皇は、この大感染は「私がこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記している。しかしながら、この感染症による世界的な危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして「私たち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見るべき時」がついにやって来たことを示した、と述べている (7-8)。

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【第1章 閉じられた世界の闇】(9~55項)・・世界的問題、世界的行動

 全8章の本文のうち、第1章は「閉じられた世界の闇」と題されている。文書は、現代の多くの歪みとして、民主主義・自由・正義の概念の変質し歪められた解釈、利己主義と共通善への無関心、利益追求と「切り捨ての文化」に基づく市場論理の支配、失業、人種差別、貧困、権利の不平等、そして、奴隷化・人身取引・女性への抑圧・強制堕胎、臓器売買など人権からの逸脱を挙げる。グローバルな行動を要する世界的問題として、教皇は、組織犯罪をはびこらせ、怖れと孤独を生む「壁の文化」にも批判の目を向けている(27-28)。

【第2章 道端の異邦人】(56~86項)・・あいは橋を架ける‐善きサマリア人

 これらの多くの闇に対し、回勅は、「善きサマリア人」の光輝く模範をもって応える。「道端の異邦人」と題された第2章で、教皇は、人の苦しみに背を向け、弱い立場の人々に思いやりを持てない病んだ社会において (64-65)、先入観や個人的な利害を乗り越え、私たち皆が他者に寄り添うように呼ばれている(81)と強調する。実際、すべての人が受容的かつ統合的な、人の苦しみを和らげることのできる社会の構築に共同の責任を負っている(77)。愛とは橋を架けるものであり、私たちは「愛するために創られている」(88)。教皇は特にキリスト者に対し、あらゆる疎外された人の中にキリストの御顔を見つめるようにと招いている(85)。

【第3章 開かれた世界を考え、生み出す】(87~127項)・・生きる権利に国境はない

 この「普遍的な視点」をもって愛する力について、教皇は、第3章「開かれた世界を考え、生み出す」の中で、再び取り上げている。ここで教皇は、他者を通して自分の「人生の成長」を見出すために、「自分自身から抜け出し」(88)、私たちを「普遍的な交わり」へと向かわせる慈愛に促され、自分を他者に開くように励ましている (95)。つまるところ、人間の霊的な徳の高さは、他者のより良い人生を望む愛によって量られる(92-93)。連帯や兄弟愛の意識は、家庭の中で生まれる。家庭はその「基本的かつ不可欠な教育の使命」において、保護され、尊重されなければならない (114)。

 尊厳をもって生きる権利は、誰にも拒ばれることがあってはならない、と教皇は強調する。権利とは、その人がどこに生まれたかは関係なく、誰一人そこから除外されてはならない(121)。この観点から、教皇は「国際関係の倫理」についても考えるように招く(126)。なぜなら、すべての国は、そこにいる外国人のものでもあり、その領土の財産は、他所から来た、それを必要とする人々に拒むことはできないものだからである。従って、個人財産に対する自然権は、生み出された財の普遍的用途の原則に対して、二次的なものとなるであろう(120)。同回勅は、国外の負債問題についても考える。負債の返済の原則を確認しながらも、その負債が最も貧しい国々の発展と国民の生活を損なわないようにと願っている(126)。

【第4章 全世界に開かれた心】(128~155項)・・移民、難民問題に世界的取り組みを

 移民問題をめぐっては、第2章の一部と、第4章「全世界に開かれた心」にスペースが割かれている。そこで、教皇は、戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの「引き裂かれた生活」(37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を説いている。移民の向かう国においては、市民の権利と、移民の受け入れと支援の保証との間の、正しいバランスが重要となる(38-40)。

 教皇は、特に「重大な人道危機」から逃れる人々への不可欠な対応として、査証発行の増加と手続きの簡易化、人道回廊の設置、宿泊所の保証、安全と基本サービスの確保、就労と育成の機会の提供、家族の呼び寄せ条件の緩和、未成年者の保護、宗教の自由の保証などを示している。中でも必要とされるのは、個々の危機への対応はもとより、全人民への連帯的発展の名のもとに、移民のための長期的計画を実施する、グローバルな管理である(129-132)。

【第5章 より良い政治】(154~197項)・・”ポピュリズム”ではなく、”ポポラリズム”の提唱

  第5章のテーマは、「より良い政治」である。それは、共通善に奉仕し(180)、市民の重要さを認識し、対話に臨むことで(160)、愛(カリタス)をより貴重な形で表すことにある。これは、教皇フランシスコが示す「ポポララリズム」であり、それは「ポポロ(人民)」の概念を無視し、自らのために人民を惹きつけて利用する「ポピュリズム」とは意味を異にするものである(159)。

 最良の政治とは、「社会生活に欠かすことのできない側面」である労働を保護し、すべての人がそれぞれの能力を発揮できる世界を追求するものでもある(162)。貧困に対する真の戦略とは、単に困窮者を抑制するのではなく、連帯と「補完性の原則」(サブシディアリティ)の視点において、これらの人々を支援することである(187)。さらに、政治の課題は、社会的疎外、臓器・武器・麻薬等の取引、性的搾取、奴隷労働、テロリズム、組織犯罪など、基本的人権を攻撃するあらゆる事柄に対し、解決を見つけることである。教皇は、「人類の恥」であるこれらの取引、また、食料という譲ることのできない権利を侵害するがゆえに「犯罪」である飢餓を、完全に無くさねばならない、と述べている(188-189)。

 教皇は、「必要とされるのは、人間の尊厳を中心に据え、金融に支配されない政治」と強調し、それは、投機によって引き起こされた悲劇が示すように「市場だけではすべてを解決できない」からである、と述べている(168)。こうした中で、市民の運動は、真の「倫理的エネルギーの潮流」として、特別な重要性を帯びる。市民運動は社会の中に秩序をもって位置付けられなければならない。教皇は、こうすることで、貧しい人々に対する政治から、貧しい人々と共にある、貧しい人々の政治となる、と説いている(169)。

 同回勅が示すもう一つの希望は、国連の改革をめぐるものである。経済的側面の優位性を前にして、国連の課題は、共通善、貧困撲滅、人権保護のために働きながら、「国々の家族」としての概念を具体化することにある。同回勅は、国連は精力的に「交渉、仲介、調停」を用いながら、力の権利に対し、権利の力を推進しなければならない、と述べている(173-175)。

【第6章 対話と社会的友愛】(198~224項)・・すべての人々との”出会いの技術”

 第6章「対話と社会的友愛」では、世界の辺境の人々や先住民族の人々を含む、すべての人々との「出会いの芸術」としての生活の概念が浮かび上がる。すべての人から何かを学ぶことができ、誰一人無用な人はいない(215)。教皇は、特に取り戻すべき態度として「親切さの奇跡」を挙げ、それは現代に広がる「残酷さや、不安、気の散った慌ただしさ」における「闇の中の星」であると記している(222-224)。

【第7章 新しい出会いの道のり】(225~270項)・・平和は先を見越し、作り出すもの・軍事費を飢餓撲滅へまわす・死刑はなくすべき

 第7章「新しい出会いの道のり」は、平和の価値と推進について考える。ここで教皇は、平和とは「先を見越すもの」であり、他者への奉仕、和解の追求、相互の発展に基づく社会の形成を目指すものである。平和とは「作り出すもの」であり、誰もがそれに参与し、その役目は終わることがない(227-232)。平和に結びつくものとして、赦しがある。例外なくすべての人を愛さなければならない、と回勅は説く。しかしながら、抑圧者を愛することは、その人が変わることを助け、他者をそれ以上抑圧し続けないよう止めることである(241-242)。

 赦しとは、罰の免除というより、正義であり、記憶である。なぜなら、赦すとは忘れることを意味しないが、悪と復讐の破壊的な力を放棄することだからである。しかし、ホロコーストや、広島と長崎への原爆投下、民族迫害や虐殺は、私たちが無感覚になることなく、集団的な良心の火を生き生きと保つために、常に、新たに、記憶されるべきであり、善を記憶することも同様に大切である(246-252)。

 第7章の一部では、戦争について触れている。戦争は「絶え間ない脅威」であり、「すべての権利の否定」、「政治と人類の挫折」、「悪の力に対する恥ずべき降参」である。さらに、多くの無実の市民を襲う、核兵器、化学兵器、生物兵器のために、今日、もう過去のように「正義の戦争」の可能性を考えることはできず、力を込めて「二度と戦争は起こさない!」と強く主張しなければならない。核兵器廃絶は「倫理的、人道的必須」である。

 教皇は、軍拡費用で、飢餓を撲滅するための国際基金を設立することを提案している(255-262)。同様に、教皇フランシスコは、死刑制度に対しても、死刑は認容できないことであり、全世界で廃止されるべきであるという、確固たる立場を示す。「殺人犯は個人の尊厳を失うことはない。神がその保証人である」と記している(263-269)。同時に、生まれてくる前の子どもたちや、障害者、高齢者など、「人類の一部を犠牲にすることが可能であるかのような」今日において(18)、「命が聖なるものであること」を尊重する必要を強調している(283)。

【第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教】(271~287項)・・基本的人権である信教の自由の保証

 最終章、第8章で、教皇は「世界の兄弟愛に奉仕する宗教」について述べている。そして、テロリズムは宗教そのものが原因ではなく、宗教の経典の誤った解釈や、飢餓、貧困、不正義、抑圧などを生む政治によるものである、と強調する(282-283)。諸宗教間の平和の歩みは可能である。そのためには、信仰を持つすべての人のために、基本的人権である信教の自由を保証する必要がある(279)。回勅は、特に教会の役割について考察する。教会は個人におけるそのミッションを退けず、政治を行なわないながらも、福音の原則に沿って、生活の政治的側面、共通善への関心、人間の統合的発展への配慮を置き去りにすることはない(276-278)。

 最後に教皇は、2019年2月4日、アブダビで、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と共に署名した共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に言及。諸宗教対話の大きな節目となったこの共同文書から、教皇は、「人類の兄弟愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶ」よう、アピールを新たにしている(285)。

(編集「カトリック・あい」・各章の副見出しは、「カトリック・あい」でつけています)

 

2020年10月18日

・教皇の新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」全8章日本語試訳+公式英語版

 教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」

  ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP

 

 *全8章日本語試訳+公式英語版 総合編集・「カトリック・あい」南條俊二 

                 試訳担当=章ごとの担当=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

 

はじめに             p. 4

  *境界を設けない

 

第一章 閉じられた世界を覆う暗雲 (9~55項) p.8

  *打ち砕かれた夢 *歴史的思考の終焉 *皆のための計画が欠けている *「使い捨て」の世界    *万人に行き渡っていない「人権」 *争いと恐怖 *共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 *歴史における新型コロナ大感染と他の悲惨な出来事 *国境における人間の尊厳の欠如   *コミュニケーションの幻想 *臆面もない侵略 *叡智を欠いた情報 *服従と自己卑下の構造

  *希望

 

 第二章 道端の異邦人(56~86項) p.30

  *背景 *道端に捨てられた人 *絶えず繰り返されている物語 *物語の登場人物 *新たな出発 *境界を持たない隣人 *助けを求める者の声

 

第三章 開かれた世界を考え、生み出す(87~127項) p.46

   *自分自身から抜け出す *ユニークな愛の価値 *ますます開かれた愛 *すべての人を融和させる開かれた社会 *普遍的愛の不十分な理解 *自由・平等・愛 *愛はいつも開かれている *人を高める普遍の愛 *道徳的善を促進する *連帯の価値 *財産の社会的役割を改めて考える *境界を持たない権利 *諸国民の権利

 

第四章 全世界に開かれた心(128~155項) p.65

   *国境とその限界 *互いに与え合う贈物 *実り多い交流 *無償で他者に開放する *地域と普遍 *郷土の香り *普遍的な視野  *自分の地域から始める

 

第五章 より良い政治(154~197項) p.78

   *”ポピュリズム“と”リベラリズム“ *”ポピュラー“と”ポピュリスト“ *既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 *国際的な力 *社会的および政治的慈善 *必要とされる政治 *政治的な愛 *効果的な愛 *”政治的な愛“の行使 *愛から生まれた犠牲 *集合し、結束させる力

 

第六章 対話と社会的友愛(198~224項) p.100

   *新しい文化に向かう社会的な対話 *共に作り上げる *合意の根幹 *合意と真理 *新しい文化 *文化となる出会い *他者を認めることの喜び *思いやりを取り戻す

 

第七章 新しい出会いの道のり(225~270項) p.113

   *真実から新たに始める *平和の巧みなわざと構造 *最も小さな者から始める *赦しの意味と価値 *避けられない対立 *正当な対立と赦し *先に進めるための最良の方法 *記憶について *赦すことは忘れることではない *戦争と死刑 *戦争の不正 *死刑について

 

第八章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教(271~287項) p136

 *究極の基礎 *キリスト教徒の自己認識 *宗教と暴力 *一つのアピール 

 

 【創造主への祈り】 【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

1.「FRATELLI  TUTTI」(1)―この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。簡潔で直接的な仕方で、聖フランシスコは、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられましたーそれは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。

 

“FRATELLI TUTTI”.[1] With these words, Saint Francis of Assisi addressed his brothers and sisters and proposed to them a way of life marked by the flavour of the Gospel. Of the counsels Francis offered, I would like to select the one in which he calls for a love that transcends the barriers of geography and distance, and declares blessed all those who love their brother “as much when he is far away from him as when he is with him”.[2] In his simple and direct way, Saint Francis expressed the essence of a fraternal openness that allows us to acknowledge, appreciate and love each person, regardless of physical proximity, regardless of where he or she was born or lives.

 

2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは、自分自身を太陽、海、そして風の兄弟と感じ、肉親よりもっと身近であることを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。

 

This saint of fraternal love, simplicity and joy, who inspired me to write the Encyclical Laudato Si’, prompts me once more to devote this new Encyclical to fraternity and social friendship. Francis felt himself a brother to the sun, the sea and the wind, yet he knew that he was even closer to those of his own flesh. Wherever he went, he sowed seeds of peace and walked alongside the poor, the abandoned, the infirm and the outcast, the least of his brothers and sisters.

 

*境界を設けない WITHOUT BORDERS

 

3.聖フランシスコの人生には、「窮まるところを知らず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した彼の心の広さ」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。

 フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。

 

There is an episode in the life of Saint Francis that shows his openness of heart, which knew no bounds and transcended differences of origin, nationality, colour or religion. It was his visit to Sultan Malik-el-Kamil, in Egypt, which entailed considerable hardship, given Francis’ poverty, his scarce resources, the great distances to be traveled and their differences of language, culture and religion.That journey, undertaken at the time of the Crusades, further demonstrated the breadth and grandeur of his love, which sought to embrace everyone.

Francis’ fidelity to his Lord was commensurate with his love for his brothers and sisters. Unconcerned for the hardships and dangers involved, Francis went to meet the Sultan with the same attitude that he instilled in his disciples: if they found themselves “among the Saracens and other nonbelievers”, without renouncing their own identity they were not to “engage in arguments or disputes, but to be subject to every human creature for God’s sake”.[3] In the context of the times, this was an extraordinary recommendation. We are impressed that some eight hundred years ago Saint Francis urged that all forms of hostility or conflict be avoided and that a humble and fraternal “subjection” be shown to those who did not share his faith.

 

4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。

 当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系同士の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。

 

Francis did not wage a war of words aimed at imposing doctrines; he simply spread the love of God. He understood that “God is love and those who abide in love abide in God” (1 Jn 4:16). In this way, he became a father to all and inspired the vision of a fraternal society. Indeed, “only the man who approaches others, not to draw them into his own life, but to help them become ever more fully themselves, can truly be called a father”.[4]

 In the world of that time, bristling with watchtowers and defensive walls, cities were a theatre of brutal wars between powerful families, even as poverty was spreading through the countryside. Yet there Francis was able to welcome true peace into his heart and free himself of the desire to wield power over others. He became one of the poor and sought to live in harmony with all. Francis has inspired these pages.

5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。

今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられましたーアブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、