【2025年2月の巻頭言】
性的虐待者が所属した神言会に損害賠償を求める裁判一年、司教団トップの「祈りと償いの日」に向けた呼びかけとの落差は
神言会に損害賠償を求める東京地裁での裁判が始まって一年。1月29日の第7回公判には40人を超す傍聴者。公判後の説明会・支援者集会では、自身のつらい体験や励ましの言葉が全員から出された。
「カトリック・あい」の1月月間の閲覧状況を見ると、29日の公判を予告した「原告被害者の悲痛な訴え」が163件、公判の内容を報じた「加害者とされる人物の”匿名”申し立て却下」は掲載開始からわずか一日半で76件と、週間の個別記事別件数でこれまでトップを独走していた「聖年の全免償などを認める規範」を上回り、1位と2位を占めた。
また日本司教団の性虐待に関する監査報告についての論評も月間で個別閲覧件数4位の124件に上り、「カトリック・あい」の閲覧者である日本内外の方々から、聖職者の性的虐待問題に大きな関心がもたれていることを示している。
*聖職者による人の尊厳を踏みにじる行為が日本でもされていることを認め、被害者に謝罪したが…
間もなく”恒例”の日本のカトリック司教団が制定した「性被害者のための祈りと償いの日」を迎える。四旬節第2金曜日だから、今年は3月21日だ。司教団のトップである日本カトリック協議会会長の菊地東京大司教(枢機卿)が”恒例”の呼びかけを、昨年よりも半月早く、1月31日に発表した。その内容には、昨年の呼びかけに比べて、前進は見られる。
呼びかけの内容を昨年と比べると、「世界において、また日本にあっても、神からの賜物であるいのちに対する暴力を働き、なかでも性虐待という神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにする行為を、聖職者や共同体の指導者が働いたという事例が、近年相次いで報告されています」とし、初めて、日本でもそのようなことがあることを公式に認めたこと、昨年の呼びかけでは、誰に対して「謝罪」するのが明確でなかったのを、「被害を受けられた多くの方々に、心から謝罪します」と、相手を特定しての「謝罪」も評価できるだろう。
*具体的事例も、誰が相手なのかも、具体的な対応も説明がない
だが、どこで何が起きたのかなど、具体的事例も、「被害を受けられた方」がどのような苦しみを受けたのかもはっきりしない。謝罪の具体的な相手も見えない。しかも「謝罪」をするだけで、具体的に被害者に対してどのような「償い」をするのか、傷ついた心身のケア、教会に改めて温かく迎え入れる体制をどうするのか、など肝心なことが欠落している。
「被害者の人権」を守る必要があるのは当然だが、それを理由にすべて曖昧にするのでは、「加害者ファースト」とも受け取られ、大きな社会問題になっているフジテレビの対応と同じではないのか。
呼びかけでは、昨年10月に閉幕した2年にわたる世界代表司教会議(シノドス)通常総会の最終文書を引用する形で、「被害者は、最新のうちに歓迎され、支援されなければならない」としているが、日本の現状は、全くされていないに等しい。さらに、「最終文書では、透明性、説明責任、評価の重要性が説かれている」としている。
*「教会全体の声を聴き、対応のあり方や組織改編を検討」というが、これまで何をしてきたのか
そのうえで、現在、「司教協議会と男女の修道会協議会とで、既存の枠を越えた協働関係の枠組み構築を急いでいる」「被害を受けられた方々と歩みをともにするためには、教会内外のいわゆる外部専門家の協力と協働がなければ、ふさわしく対応することはできない… 教会全体の声に耳を傾け、よりふさわしく十分な対応のあり方やそのための組織の改編、さらには聖職者や共同体の指導者の啓発などを検討してまいります」というが、現状はどうか。
カトリック教会の聖職者による性的虐待は、米国で有力紙Boston Globeが2002年にその隠蔽を暴く報道をしたのをきっかけに、欧米を中心に世界の教会を揺るがす深刻な問題となった。2013年に教皇に就任されたフランシスコは、この問題に積極的に取り組まれ、2016年に全世界の教会に「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定め、日本の司教団も2017年から四旬節第二金曜日として、「祈りと償い」を始めた。だが、それから4年以上経過した今も、対応に実のある進展はない。
*2023年度監査報告は「性虐待の申し出は2教区、3件」というが、内容不明、どう対応したのかも不明
昨年12月27日に司教団が発表した「2023年度日本の教区における性虐待に関する監査報告」によれば、「2022年4月から2023年3月の間に性虐待の申し立てがあったのは2教区、3件」とわずかな”数字”を上げるのみで、どの教区で、どのような内容の申し立てがあり、具体的に教区としてどのように対応しているのかなど、全く明らかにされていない。日本の全16教区のうち、性虐待防止に関する行事・研修会を実施したのは、わずか6教区、司祭・修道者の研究を実施したのも7教区のみ。「性虐待の申し立てのあった教区には…(未成年者・弱者保護の)ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」とあいまいな表現で、他人事のような”対応”を述べただけで、教区の申し立ての内容がどのようなものなのか、その教区はどのような対応をし、しているのかなど、大事な点が判然としない。
*今年の「性虐待防止に関する研修会」申し出は、全16教区中、名古屋、京都の2教区のみ
この問題を扱うはずの司教協議会の「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の事務局会議について、協議会のホームページで明らかになっている最新のものは、昨年12月5日に開かれたものだが、それによれば、「研修会」の依頼は3月の名古屋教区司祭研修会、7月の京都教区司牧者研修会(オンライン)の二件のみ。あとは、2025年「祈りと償いの日」リーフレットの印刷、教区への納付、それに、「ガイドライン対応マニュアルの継続審議」となっている。
菊地会長の1月31日の呼びかけでは、おそらくこのような状態も念頭に、「現状の教会の組織形態や日本の法律上の組織形態では、それぞれの司教区や修道会は独立しており、一致協力して透明性、説明責任、評価に取り組むことができておらず、この点は多くの被害者の方々、支援者の方々から厳しく指摘されています」と”率直”に述べているのは良しとしても、「祈りと償いの日」制定からみても、すでに8年が経過している。司教団は一体何をやってきたのか。「研修会」の低調な依頼状況を見ても、会長の「呼びかけ」とは、あまりにも乖離している、と言わざるを得ない。
*司教団の緊張感のなさはどこから来るのか…
この司教団の緊張感の無さはどこに起因しているのか。「黙っていればすぐ終わる、忘れてしまう」と思っているのだろうか。「裁判に訴えても、性的虐待という事案の性質上、第三者の目撃証言が得られることはまずないし、”証拠物件”も時間の経過もあり残っていない、自身で裁判費用を負担するには重すぎで、訴訟を長引かせることもない」と見ているのだろうか。
何千件、何万件と被害訴えが噴出している欧米や、南米の現状に比べれば、「2件や3件は大したことはない」ということなのだろうか。実際はそうではない、いまだに”神父様”を崇め奉る風土が残る日本では、酷いことをされた、と言う思いを持ち続けながら、多額の裁判費用を払って、教会や修道会を相手にする勇気を持てない被害者が少なくないのだ。「カトリック・あい」にもそのような情報がいくつも寄せられている。
*被害者が、莫大な物心両面の犠牲を払って裁判をしても、長崎、仙台教区は”和解金”を払うだけで、まともな謝罪もケアもなし
そうした中で勇気を奮って教区に訴えても、取り上げてもらえず、やむなく莫大な物心の犠牲を払って裁判に持ち込んでも、長崎教区や仙台教区のように、弁護士を教区側が雇って、否定にかかり、”二次被害”を原告・被害者に与えるケースも見られる。
そうした犠牲に耐えられず、裁判所から和解の働きかけを受け、応じたものの、教区側は”和解金”(損害賠償金ではない)を支払っただけで、被害者が何よりも求めていた、性的虐待の事実の認定、謝罪、そして心身のケア、教会への迎え入れの環境造りなどは皆無。さらに、仙台教区の場合は、心無い信徒から「あの人はお金のために裁判をした」などという噂をたてられるという”三次被害”に遭い、いまだに、怖くて、聖堂の中に入れないでいる。
*東京地裁での神言会に対する損害補償請求裁判、被告側は3人も弁護士を雇い、すでに1年、原告支援者たちから批判の声
1月29日の東京地裁での神言会損害賠償裁判第7回公判の後開かれた、原告と代理人弁護士による説明会・支援集会では、参加した30人を超える信徒や聖職者から、訴状で「告解で聴いたことを利用して被害者をマインド・コントロール下に置き、4年にわたって繰り返し性的暴行を繰り返した」とされている神言会のバルガス神父(当時)について、「人間の尊厳を踏みにじる行為、しかもそれを司祭がするというのは赦されることではない」「加害者とされる司祭(当時)には良心があるのか。彼のとった行動が理解できない」と批判の声が次々と出され、自らも若い時に、他の司祭から性的被害に遭ったことを打ち明けた方が2人いた。
また、神言会に対しても「神言会は、なぜこのような元司祭を切り捨てずに守ろうとするのか、バルガス以外にも同様な行為をしている会員がいるのではないか、と疑いたくなる」「原告の弁護士は1人なのに、高い弁護費用を払って3人も弁護士を雇い、原告被害者と裁判で戦うよりも、加害者とされる元司祭に回心を促す必要があるのではないか」など、その対応に疑問が呈された。
原告・被害者の田中時枝さんは、「あの時のことが繰り返し思い出され、一人でいると生きた心地がしなかった。夜も寝られない日があった。体をもぎ取られそうな気持。だが、皆さんに励まされ、このような思いを口に出してもいいんだと思えるようになった。この一年間、苦しい裁判の私を支えてくれた神に、皆さんに感謝。これが信仰を持つことだ、と教えられた」と感謝の言葉を忘れなかったが、彼女を救う道は、神言会と加害者が訴えの内容を認め、謝罪し、心身のケアに努めることを約束することではないか。
*「心から謝罪」するなら、原告の苦しみを受け止め、具体的な行動で率先垂範する必要が
「呼びかけ」をしている司教協議会の菊地会長(東京大司教・枢機卿)は、まさにその神言会の会員であり、日本管区長も経験されている。神言会のホームページによれば、現在の日本管区長は、菊地大司教の秘書役を数年前に勤めていたディンド師だ。
菊地会長は「呼びかけ」で、「信頼していた聖職者から暴力を受け、心に深く消えることのない傷を負われた方々に対して、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で加害者を擁護するなど、二次加害によってさらに被害を受けられた方々を傷つけた事例も、教会内にあります。これらの言動が、人間の尊厳をさらに深く傷つけています。責任は優位な立場を利用した加害者にあるのは当然です」としている。
本当に「心から謝罪」するのであれば、この目前にある東京地裁での裁判をこれ以上長引かせ、反対弁論で原告・被害者の「尊厳」をさらに傷付け、苦痛を与え続けることがないように、自らが関わりのある修道会と”行為”をした当時の会員、加害者の責任を認め、謝罪させ、被害者を責任を持って心身のケアをするように、率先垂範して指導する必要があるのではなかろうか。それがないままで、せっかくの”心からの呼びかけ”が、説得力を持つだろうか。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)