・拉致、強姦、息子の殺害・・「それでも私は赦す。イエスがそうされたから」ボコハラムに拉致された女性が語る(Crux)

 (2018.2.26 Crux Editor John Allen and Claire Giangravé) ローマ発―ある意味で、レベッカ・ビトラスの身に起きた話で一番心を揺さぶられるのは、イスラム過激派「ボコハラム」に囚われていた二年間に彼女が被った想像を是する恐怖の体験―イスラム教への改宗を拒んだ理由で三歳の息子が目の前で殺され、ボコハラムの戦闘員に強姦されて妊娠し、出産するという悲惨な体験―ではない。

 悲しいことだが、そのような体験は、ナイジェリアでは珍しいことではない。この国では、ボコハラムが2002年にできて以来、何万もの人が殺され、260万人が故郷を追われた。その残虐行為の結果、380万人が栄養失調になり、何万の子供たちが餓死している。

 そうした中で、ビトラスが特別なのは、「強姦された結果生まれてきた子への嫌悪を乗り越え、洗礼を受けさせ、自分の息子として受け入れる」という、途方もない”赦し”の力を見せたことだ。

 「私は、イエスの赦しの教えを受け入れました」。ビトラスは23日のCruxのインタビューにこう語った。

 「聖書にこのように書かれています。イエスが十字架にかけられた時、二人の盗賊も一緒に十字架にかけられました。そのうちの一人がイエスに、あなたと一緒に天国に連れて行ってください、と願うと、イエスは『あなたは赦された。今日、私と一緒に楽園にいる』とお答えになりました」「私は、このイエスの言葉にならって、自分の心の中に、苦痛と拷問、犠牲をもたらした赦す場所を見つけることができたのです」。

 彼女は読み書きができないが、24日、バチカンに来て、教皇フランシスコに彼女の体験を語る機会を得た。パキスタンで2010年から続いているアラーの神を冒涜した罪で処刑されたアジア・ビビの夫と娘とともに、教皇に謁見することができたのだ。謁見は、迫害されているキリスト教徒を支援するための教皇基金Aid to the Church in Needが企画したもので、ローマ帝国時代に多くのキリスト教徒が迫害されたことを思い起こすために赤い照明で照らし出されたコロセウム(円形競技場)で24日夜行われた特別行事を記念して行われた。

  信教の自由を求める努力は抽象的なもののように思われがちだが、ビトラスは、統計や議論では知ることのできない実際に生きている、本当の、傷を負った人々の現実を思い起こさせてくれた。

 現地語の通訳を通して、彼女は語った。ボコハラムが彼女が夫と二人の子供たちが住む小さな町を襲ったのは2014年8月の夕方遅くだった。「夫は彼らがやってくる、と私に警告して、逃げ出しました」。あとで、夫が逃亡したのを知ったが、彼女と子供たちはボコハラムの戦闘員に捕まり、森にある収容所に連れていかれた。

 「彼らはこう言って、私をイスラム教に改宗させようとしました。『お前は、お前の異教徒の兄弟姉妹のところに戻らない。俺たちとここにいる。ここはお前にとって、いいところだ』と」。

 心の強いキリスト教徒として育てられた彼女は、改宗を拒否した。「すると、ボコハラムの一人が『お前は、イスラム教に改宗する用意ができていない。それなら、教えてやろう』と言いました」。そしてその男は、彼女の三歳の息子をそばの川に放り込んだ。彼女はその子が溺れ死ぬのを見させられた。年上の子が犠牲になるのは受け入れられない、と判断した彼女は、外見上はイスラム教への改宗を受け入れたが、心の中でキリスト教の信仰を捨てることはしなかった。

 「男たちは、私たちを銃で脅して、祈らせました。腰を折って祈る姿勢をとるたびに、心の中で、『めでたし、マリア』『私の父よ』と祈りました」。「そうすることで、私は救われたのです」。

 その後、彼女は男たちに、戦闘員の一人と”結婚”させる、と言われ、妻としてふるまうことを強制された。何か月も強姦され、妊娠し、男の子を産んだ。二年後、ナイジェリア正規軍がボコハラムの占領地に攻撃を始め、彼女は長男、そして6か月になった赤ん坊を抱えてボコハラムの収容所から逃れることができた。無事、脱出することができた時、彼女は、強姦されたつらい体験を忘れるため、赤ん坊を森の中に置いて行こうとした。だが、長男の言葉が、彼女を思いとどまらせた。「長男はこう言ったのです。『僕の弟はもういない。僕には弟がいないんだ。どうして、この赤ちゃん(クリストファーと名付けていた)を連れて行かないの?』」。

 ボコハラムから逃れるのに成功はしたものの、苦難の道は続く。森の中を28日間もさまよい、食料も水もなく、蚊に悩まされ、湿疹ができ、病魔に襲われた。その時にできた湿疹の痕が足や体に残っている。「でも、私は決して、あきらめませんでした」「収容所から逃れて間もなく、神が私を守ってくださろうとしているのが分かりました」「私は神を信じているのです」。

 苦難の末に、集落に出会い、ナイジェリア軍の駐屯地を教えてもらって、出向いたのだが、「まず、疑いの目で見られました。『お前はボコハラムに違いない』と言われたので、「そうじゃありません。私は彼らに拉致された女たちの一人で、逃げ出してきたのです」と必死に訴えた。そして、自分の名前が「レベッカ」だ、と訴えた。ボコハラムは彼女に「ミリアム」という名前を強要していたのだ。

 「ナイジェリア軍の兵隊の一人がイスラム教徒で、私に言いました。『お前がカトリックなら、それを証明しろ』。それで、私は『めでたし、マリア・・」と十回唱え、『栄光あれ』と言って十字を切りました」。彼は納得し、近くの病院で手当てを受けた後、ナイジェリア北部の彼女の故郷、マイドゥグリに移送された。教会に行き、夫と再会した。

 そして、自宅に落ち着いたものの、収容所から連れてきた赤ん坊をどうするか、まだ迷っていた。「誰か、彼の面倒を見てくれる人に渡したかった」「でも、私たちの教区の司教さまが、彼を受け入れるように助けてくださったのです。司教さまは言われました。『この子がどうなるか、誰もわからない。でも、将来、あなたにとって特別の存在になるでしょう』と。その言葉が、これまでの体験を前向きに受け止めるのを助けてくれました」。現地の教会の司祭が、赤ん坊のクリストファーに洗礼を授け、彼女たちをローマまで引率し、イタリア語の通訳も引き受けた。

 ビトラスは語った。このような体験全てを通して、いつも持ち続けたのは、堅固な、ひるむことのないカトリックの信仰だ、と。「家族と一緒に家に帰った後で、ある人たちが私たちに、イスラム教徒でいるように、と言ったことがあります。『あの森の中で、イスラム教徒として暮らしていたんだろう。マイドゥグリではキリスト教徒が殺されていた。それなのに、どうしてお前たちはキリスト教徒なんだ?殺されたいのか?』と言うのです」。

 そこで、彼女は、(キリスト教の信仰の)ほかに選ぶ道はなかった、と答えた。「どのようなことが起ころうと、私は絶対に信仰を捨てなかった」と彼女は言う。「私は信仰を持ちづ付けます。たとえそれが命を終わらせることになっても」。

 今世紀に入ってからのキリスト教徒への迫害の実情を見ると、推定で2億人が虐待、拉致、拷問、殺害の危機にさらされている。レベッカ・ビトラスが体験したことは大海の一滴でしかないのだ。

 だが、教皇フランシスコは彼らとの謁見の後で、迫害の海についての心の変化が、その一滴一滴を知るようになることで始まることを、しっかりと受け止めたように思われた。教皇は「レベッカとアジア・ビビは、今、一段と高まっている迫害の恐怖の社会の証人です」と語り、この二人のキリスト教徒の女性たちは殉教者です、と称えた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

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2018年2月26日