・「支援なければ餓死」イエメン、苦闘する人々(WFP日本レポート)

 5人の子の母親、アフラ・アル・シャホリは食糧支援によって、最低限ながらも食べられるようになった、ただそれだけのことで嬉しさのあまり涙を流しました。「(支援を受けられるようになって)生き返ったような気持ちです」。声を震わせ、やっとのことで言葉を絞り出しました。

アフラと夫、子どもたちはサナア郊外の粗末な家で暮らしています。イエメンでは内戦によって建設業が成り立たなくなり、建設作業員だったアフラの夫は失職。一家は内戦が長期化、激化するにつれ、飢餓のどん底に叩き落されていきました。

 しかし1年半ほど前から、毎月、国連WFPの食糧配給を受けられるようになりました。配給は必要とする最低限の食材に限られますが、一家の生活には計り知れないほどの助けになっているといいます。

アフラは「支援がなければ、子どもたちと私は餓死していたでしょう」と話します。

隣人にも恵まれました。一家は家賃を滞納していますが、大家さんは20年来の住人である一家の苦境に同情し、当面は見逃してくれています。おかげで一家はやっとのことで、野宿を免れることができました。

 近所の人たち

も、食べ物の余りがあれば、差し入れてくれるといいます。アフラは食べ物などを受け取る見返りに、彼らの家で掃除や洗濯などの家事を手伝っています。

 また苦しい生活の中でも、子どもたちに学校だけは続けさせようとしています。「配給食糧があるおかげで、子どもたちに勉強を続けさせることができます。彼らがより良い将来を築く可能性を、奪わずに済みます」とアフラは言います。

生きるための最小限のものを手にし、餓死せずに生き抜きたい、子どもの未来を犠牲にせず、教育を続けたい-。そんな当たり前のことを夢見て生きるはめになるなど、アフラや夫は思ってもみませんでした。内戦が生活のすべてを破壊したのです。

 「とにかく、食べ物が欲しい。貧しい私たちは、それ以外は何も望みません」涙を抑え、アフラは諦めたように笑いました。

持病抱える母、「治療より食事」

 サナアに住む別の母親、エマンは「グルコース6リン酸脱水素酵素欠損症」という持病を抱え、貧血のため毎月の輸血を必要としています。しかし「家族が飢え、食べ物が一口も見つからない時に、治療など構ってはいられません」。

 エマンは夫が病死した後、子ども3人を連れて実家に戻りました。しかし父親も死去。老いた母親と自分の兄弟、その子どもたちが残されました。

兄弟たちは路上で靴修理をしていますが、収入は大家族を賄うには到底足りません。このため、兄弟のひとりは精神的に不安定になってしまい、エマンは自分だけでなく、彼の世話まで背負うことになりました。エマンの子どもたちも、放課後は路上に出ておじたちを手伝っています。

 

内戦は、ただでさえ貧しかった一家をさらに苦しめます。「収入はわずかなのに物価は高騰し、ほとんど絶望しかかっていました」と、エマンは


イエメンでは内戦前の15年3月から18年4月の間に、小麦は1・6倍に、野菜は1・4倍に、豆に至っては2倍にと、値段が跳ね上がりました。値上がりによって、食料はますます貧しい人々の口に入りづらくなり、エマン一家は、国連WFPの食糧配給でようやく命をつないでいます。
言います。

「支援がなければ、この国の多くの人は生きのびるため路上で物乞いをするか、ゴミ箱の残飯をあさることになったでしょう」

一方、「お金があるときは治療を受けられますが、ないときは神のご加護を祈るのみです」と話すエマン。「人生は短い。死は時に、安らぎをもたらすのかもしれません」と、疲れ切った表情を見せました。

飢餓に苦しむイエメンの人々に、皆様のご支援をお願い致します。寄付はこちら

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2018年7月19日