・連載中・解説「バチカンと中国の対話」①~⑧(Vatican News)(2018.7.17 現在)

はじめに

:教皇庁の公式ニュースサイトVaticanNewsが、5月から、「バチカンと中国の対話」というテーマで不定期連載を始めています。6月26日掲載分はバチカン放送日本語課が翻訳、掲載されていますが、7月13日まで7回の連載が続いており、隣国の私たちにも中国との関係を考える際に役に立つ内容が含まれています。「カトリック・あい」では、英語原文を翻訳し、バチカン放送日本語課翻訳分と合わせて転載させていただきます。

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⑧使徒的継承と司教たちの正統性 (2018.7.17)

  教皇による権限付与無しで叙階された中国の司教たちに正統性を与えることは、冷厳な官僚的行為ではなく、純粋かつ深遠な聖職の識別の行程だ。今回の記事は、司教についての教会法上の正当性と公民的な認証に関する問題について、取り上げたい。

(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

 カトリックは、平凡な地理的、あるいは制度的な感覚で理解されるべきではない。教義と信仰の清廉さの感覚、おなじ信仰と教義を分かち合う共同体の伝統への忠実さで、理解されるべきものだ。このような普遍性についての奥深い感覚は心と魂に触れる-カトリックは、実に、キリストにおいて多様性を調和する有機的な統合への道である。それゆえ、現地教会は、神の子全体によるミサ聖祭の挙行に向けて、司教の指導の下に、それを囲む司祭団と助祭たちによって、内面的に構成されるものなのだ。

 この意味において、カトリック教会は、全世界に広がる現地教会すべてを慈愛をもって統治するローマ司教(教皇)と信仰と教義を共有する司教のいる現地教会のある所なら、どこにでも存在する。仮に、その一方で、現地の司教が、ローマ司教と信仰と教義を”生まれつき”共有せず、日々の行為の中でそうした共有を表明しないなら、極めて深刻な問題を生じる。このため、教会法は、使徒的承認なしに司祭を叙階する司教と、叙階された者に対して、厳しい措置を定めており、そのような叙階は、信仰と教義の共有に対して手痛い傷をもたらし、教会法の定めに対する重大な違反となる。

  教皇の信認を得ずに叙階された中国の司教たちに正統性を与えることは、冷厳な官僚的行為ではなく、そして、ありえない-純粋かつ深遠な聖職の識別の行程をとらなくてはならない。それによって、特定のケースが、正統と認めるのに必要な条件を満たすかどうかを判断するために査定する―例えば、ある司教が、カトリックの信仰と教義を完全に共有することを改めて認められるか否か、というように。

 そのような行程は、関心を持った司教たちが、聖父に、明確かつ真摯に赦しを繰り返し願うことから始まる。

 その後に、次のような段階が続く-その願いに対する教皇による評価と赦し―教会法にもとづく措置と罰則、とくに破門宣告の、痛悔を前提とした免除-秘跡上の罪の赦し―当該司教の、信仰と教義の全面的な共有の再構築―そうした共有を、高位聖職者の立場から内面的振る舞いと外面的行為による恒常的な明示―教皇による司牧上の権限の授与。

 これらに加えて重要なのは、赦免され、正統と認められた司教が、司牧者として教会共同体に受け入れられることだ-それには、自分が司牧者として任じられた共同体を養い育てるために、祈り、警戒、従順、そして協力に貢献することが求められる。

 このような和解の行程は、正統性を欠いた司教たちのケースに対する特定の手順をもって、教会の一致が傷つけられる時いつでも、教会生活の正常なあり方に収まる。さらに、中国に関して言えば、司教たちに正統性を与えることは、新しいことではなく、全員によって受け入れられてはいないが、すでに、最近数十年にわたって行われてきた。しかし、司教たちに正統性を与える過程で、世俗的な意味合いも存在する-事実の特定の評価のおいて、核心的な重要性を持つと考えられる点が強調されることになった。

 正当性を与えることについての政治的解釈と、教会法的な懲罰の政治的意義についての誤解は、ともに、いくつかの場合に、関係者の中に、そして教会関係者の中にさえも、不快と当惑を引き起こした。司教たちに正統性を与えることは、聖ヨハネ・パウロ2世が明確に熱望したが、教会の”悪意を秘めた”人々に温かく受け止められることはなかった。彼らは、司教たちに正統性を与えることが、”当局”と政府の政策による是認と解釈される危険を見て取ったのだ。

 だが、”悪意を秘めた”人々の中にも、正統性を与えることを支持する声があった。例えば、その時代の”悪意を秘めた”ある司教は、バチカンと中国政府当局との交渉について情報を得ていて、聖ヨハネ・パウロ2世を高く評価する言明を公にしていた-「教皇は、”キリストの心”を開き、中国政府が認めた教会共同体に属する多くの司教たちを受けれた」と語り、中国における教会の一致と信仰、教義の共有を守るために働いた。

 現在も、中国における正当性の問題はわずかな司教たちについてしか関係しないように見えるにもかかわらず、異なった動機に触発された異議を唱える動きがある。それは考慮に入れねばならない。それでも、関係者の一人ひとりが持ち続けるべきは、中国での教区共同体の教会立て直しは、司教の正統性と認知によってのみ可能となる、という確信なのだ。

 

① 対話に「魔法の杖」はない (2018.5.2)

 最近のいくつかのしるしはバチカンの中国との対話に重要な進展があったことを示しているかもしれないが、両者の間で公式のいかなる合意も、近くなされるようには思われない。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

 聖座と中華人民共和国の代表者によ接触は、しばらく前から行われている。その目的は、中国における教会に関する問題を、建設的に、対立的なならずに解決しようとすることにある。問題のうち、最大なものは、司教任命という微妙なテーマだ。カトリック教会のこの問題への対応は、全ての関係者にとって好ましいものとなるような協力の形態を始める意図を持った司牧的対応である。魔法の杖ですべての問題を解決できるとは考えてもいない。そのようなものはないからだ。

 イタリアの新聞 “La Stampa”とのインタビューで、バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿はこう語った-「良く知られているように、”新中国”の出現とともに、この偉大な国において教会活動が深刻な明暗とひどい苦しみの時期を経験しています。しかし、1980年代に入って、聖座と中国の代表の接触が始まりました。それは山あり谷ありでしたが、聖座は常に、司牧的な姿勢を保持し、反対を乗り越え、当局との敬意を持った、建設的な対話の姿勢を保ちました。前教皇ベネディクト16世は2007年の『中国のカトリック教徒への手紙』で対話の精神を示し、『正当な文官代表との永続的な争いを通しては、現在の諸問題の解決はできません』と書いています。教皇フランシスコが聖座に就いて以来、対話への建設的な率直さと中国の真正な歴史への忠誠という線に沿って、交渉が続いています」。

 中国における新しい共産党政権の成立は、毛沢東革命の結果だった。毛沢東革命の目的は西欧支配、貧困、無知からの、旧支配階級の圧政からの民衆の解放だったが、神の概念と宗教からの解放でもあった。こうして、特別に困難な歴史的段階、多くのカトリック司祭と信徒にとって厳しい迫害の時が始まったのだった。そうして、1980年代に入り、中国に変化が始まったが、当然ながら、共産主義者のイデオロギーはなお強力で、最近では、治安と社会・文化的生活の文化で規制強化の傾向がでてきている。

 だが、恐らく、これは急激な経済成長を秩序だったものにしようとする試みでもある。経済の急激な発展は一方で、富裕層、新たな機会、独創性を生んだが、他方で、社会構造をかき乱した―汚職が増え、とくに若者たちの間で伝統的価値が失われた。そうした流れの中で、イデオロギー的な厳格さが大きな国内の変化に十分に対応できなくなっている。それは、必然的に、宗教の分野にも触れてくるのだ。

 聖座は、敬意ある対話の雰囲気の中で、教会と社会の善を促進することに貢献する努力に、いつも時間を空けている。世界のカトリック信徒たちは、このことが自分たちと密接に関係していることを、理解する必要がある。それは遠く離れた国で起きていることに関するものではなく、どこに住もうとも、私たちが属する教会の活動と使命に関わるものである、ということを。

②相互信頼に向けた小さな歩み (2018.5.7)

 なぜバチカンが中国当局との対話に熱心なのだろうか?中国では、宗教に敵意を持つ政権によって迫害を受けているにもかかわらず、カトリック信徒たちは信仰を持ち続けている。では、そのような対話が何をもたらせるのだろうか?(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

  対話は、教会の活動の基礎だ。その機構の中でも、外界との関係においても、教会の行動にとって不可欠な要素だ。対話をするということは、社会、諸宗教、諸文化と関係を持つことを意味する。第二バチカン公会議は、対話―教会関係者の間だけでなく、キリスト教徒でない人々、官民の機関に属する人々、そして善意のすべての人々との対話-を司牧活動の一形態とみなした。公会議が出した「現代世界憲章」はこう述べている-「信じる者も信じない者も皆、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために協力しなければならない…このことは、誠実、かつ見識ある対話無くしては、ありえない」(21項)。

 教皇パルロ6世は、同様の事を回勅“Ecclesiam Suam”で語っている―「教会は、自身が存在している世界と対話するようにせねばなりません。教会は語り、教会はメッセージとなるのです」(67項)。カトリック教会は「教会内外の、善意のすべての人との対話を支える用意がなければなりません」(97項)。

 人々、組織、そして共同体社会との対話は友情につながる理解を深める。すべてのケースにおいて、対話は信頼によって育まれる。相互信頼は、様々な機会に、しばしばひっそりと、つながりなくなされる、多くの小さな歩み、振る舞い、出会いの成果だ。教皇フランシスコは「閉じられていないいくつもの扉がいつも存在します」と2017年5月13日に語っている。

 聖座と中国の間の現在の対話の雰囲気は、最近の歴代教皇による小さな歩みによってもたらされている。それぞれが道を開き、新たなブロックを積み上げ、希望にあふれた思考と行動を奮い起こした-パウロ6世の慎重な外交からベネディクト16世と聖ヨハネ・パウロ2世の明確な意思表示に至るまで、中国当局との積極的な対話を促した。そして、ごく最近では、中国を含む、とても多くの人々、国々との対話を推し進める、教皇フランシスコの個性、教え、振る舞いがある。

 カトリック教会は、それ自身を目的とした対話を選ばない。それは、政治的な、あるいは外交的な得点を稼ぐために、重要な原則を売り渡してしまうような「すべての代価を払って妥協する」種類のものではないのだ。中国の場合でいえば、カトリック共同体が経験した迫害を忘れることを意味しない。教会にとって、対話は常に、真実と正義を求めることによって動かされ、基本的人権を尊重し、人間にとって必須の善を達成することを目的とするものだ。

 教会の使命は、たとえ中国においても、その国の構造や行政を変えたり、政治的な権力に挑戦することではない、ということを思い起こすことが重要である。教会が、その使命を純粋に政治的な分野に限るなら、教会の真の本質を裏切り、単なる政治的な多くの中の一つの主役となり、天から与えられた素晴らしい使命を捨て、自身の行動をつかの間の次元に矮小化してしまうことになるのだ。

 真摯で誠実な対話は、教会が 社会の中でカトリック信徒たちの正当な期待を守り、共通善を推進することを可能にする。この文脈で、教会が批判的な言明をする場合、その目的な論争を巻き起こしたり、決めつけをすることではなく、建設的な精神をもってより公正な社会を推進することでなければならない。批評は、司牧的な慈善の確固とした行為だ。なぜなら、それは、弱く、声を上げる力をもたない人々の苦しみの叫びの反映だからである。中国に関して言えば、聖座は誠実で敬意ある対話が、困難で危険を伴うものであっても、確信を持った意見交換の雰囲気を促し、相互理解を深め、ゆっくりと、遠い昔についての、そして最近についての誤解を解いていくことに成功することを、信じている。

 様々な合図は、聖座が国際的に実行している「ソフト・パワー」に、中国が関心を高めていることを示している。中国では、歴史は自然の経過をたどり続け、教会において特別な責任を持つ者は慎重に識別を行う必要がある。それが、聖座が中国当局と四半世紀以上も続けている対話が、時々のしるしを読み取り、歴史における神の実存を確認するために、まぎれもない司牧的な責務となっている理由なのだ。

 

③中国における教会の宣教の必要性 (2018/6/26)

 司祭、信徒、修道者、誰であっても、キリストの弟子たちは皆、どこでも、いつの時代にも、人々の間にあって、光・塩・パン種となる使命を持っている。それは彼らの善き業を見た人々が皆、天の御父に栄光を帰するためである。中国の教会において、それは異なると言えるのだろうか?実際、最近中国が、特に欧米社会との、冷静な比較を試みる代わりに、ある種の閉鎖的態度をとっていると指摘する人々がいる。一方で、教皇庁は、非難や、より率直な批判の態度をとるかわりに、どうして対話や協定を信頼し続けることができるのかと問う声もある。

 教皇庁が持つ、国際社会に対する、特に紛争や危機をめぐる多くの介入経験から推論できるように、対話を求めるのは、隔たりと無理解がより拡大することの危険を自覚しているからであり、そこで対話はチャンスとなるだけでなく、不可欠な選択となるからである。何よりも、教会は自らの信者たちに、とりわけ彼らが大きな苦しみに接している場合に、特別に寄り添う責任を負っていることを忘れてはならない。実際、他の機関にとっては、「同意」、あるいは「譲歩」のしるしとさえ受け取られかねないことが、教会にとっては、道徳的義務であり、福音の要求に応える、霊的な強さのしるしなのである。

 中国においてこのミッションを遂行するには、教会は政界に対し特権を願う必要はない。教会はただ、正当な方法で、ありのままの自分でいなければならない。実際、必要な自由さえ欠如したような、特殊で究極の状態においても、教会はその福音宣教を前進させる方法を追求することができる。さらに、いかなる時代、世界のいかなる場所においても、教会にとって困難と十字架を伴わなかったことはない。むしろ、気づくべきことは、たとえ今日でも、宣教に理想的な条件は、民主主義的により発展した国々においてさえも存在しないように見えるということである。

 一方で、教会は、信仰や、愛、内部の一致なしではやっていけない。そのために教会の中には、信仰と愛における一致を育む非常に特別な仕事がある。それが教皇の任務といわれるものであり、それをつかさどるのはローマ司教、すなわち教皇である。中国における教会のミッションは、その何億という人々を前に、何よりも一致した、信頼性のある教会として存在することにある。そして、中国国民の生活があるところにはできる限り、どこにでも存在することである。どのような機会、状況、環境、あらゆる社会の出来事において、謙遜と、またキリスト教的希望に基づく先見性をもって、彼らと運命を共にし、神が自らお与えになる未来から人類が切り離されないように、良い未来を拓くことである。

 今日、グローバル化や豊かさの普及、生活や環境クオリティ、平和や人権など、また環境や人間関係の消費主義と切り離せない世俗化、他者と対抗しながらも自分たちの利害を追求する国々、宗教的無関心、弱者や社会からはみ出した人々の締め出し、これら現代の大きな挑戦を前に、教会はまさにそこに存在し、世の命のために死に復活したキリストを告げ知らせる必要がある。

 こうしたことは、言葉の上では、もっともらしく簡単に見える。キリスト教徒が良い心がけにあふれているならば、なぜ政府当局はキリスト教徒を恐れたり、彼らの前に多くの障害を置く必要があるのだろうか。実際には、その教会が置かれた具体的な環境を知ることが必要である。ある種の環境では、キリスト教徒の過ちや罪が非難されるだけでなく、彼らの良い行いまでもが、特に最初の頃は、歓迎されないことがある。

 中国の政治当局もまた、かなり前から、宗教は経済の発展と社会正義の発展と共に消え去る表層的な現象ではなく、人間の構成的要素であることに、気付き始めている。純粋な宗教体験は、人々と社会の調和ある発展のために欠かせない要素である。現代の発展し複雑化した社会においても、宗教の存在は大きな活力と刷新力を示している。

 中国において、儒教哲学の伝統的な見方によれば、親切や、友情、教育、権威に対する従順などの道徳の教えと共に、国家はあらゆる形の宗教を、法律をも利用しながら、厳しく管理する権利を持つという考えがある。一方で、19、20世紀の中国の歴史は、文化的・宗教的な要因がからまった、当時の政府に対する、いくつかの反乱や、社会的・政治的な様々な動きを記録している。これらの歴史的出来事をめぐる政治的見解は別とし、ここから宗教一般に対する考えに混乱や偏見が生じたことも念頭に置かねばならない。こうしたことが宗教的分派主義や、宗教感情の政治利用とは全く関係のない、偉大な宗教的伝統に損害を与えることになったといえよう。

 原理主義的で理性を持たないアプローチとカトリック信仰が、全く相容れないものであることを、中国文化と中国社会はより一層、理解するよう求められている。

(翻訳・バチカン放送日本語課・「カトリック・あい」が編集)

 

④対話の主役たち-中国当局とバチカン (2018・6・30)

 カトリック教会、とくに歴代の教皇は、受け入れがたい理論的立場への批判とそうでないものを常に区別することができ、その一方で、実務的な課題を基礎にした対話を求めることができた。

(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 だが、中国当局との制度的な接触が確立したのはごく最近、聖ヨハネ・パウロ2世の治世においてだ。非公表の話し合いは当初は、意味のある結果を生むことなく始まった。だが、聖座は対話を続けることを決断し、中国政府に対して敬意を示し、過去と現在の誤解を乗り越えて、カトリック教会の宗教的な本質と国際的なレベルでの聖座の活動の目的を明確にしようとした。

 理論的な立場と対話の要請の区別に対するいくつかの類似は、カトリック教会に関して、中国の共産党の思考の中に起きているように思われる-社会における宗教の意味と働きについて哲学的な偏見を保ちながらも、そして、中国全土で変化が起きたのではないにしても、信徒への重大な迫害行為を正当化する姿勢から、信徒の個人的な確信に対して一定の理解を示すように少しづつ変わってきている。

 ヨハネ・パウロ2世は2001年に、中国当局との対話の必要性についてこう語った-「聖座が、全カトリック教会の名において、そして、私はそう信じているのですが、全人類家族の利益のために、中華人民共和国の権威者たちとの対話を始めることを望むのは、秘密ではありません。過去の誤解が解けた以上、そのような対話は、中国の人々のため、そして世界の平和のためにともに働くことを、私たちに可能にします」(2001年10月24日のマテオ・リッチ=中国で初めてカトリックを布教したイエズス会士=に関する会議へのメッセージ)。

 そして、ベネディクト16世は2007年に、中国との対話について、「中国のカトリック教会はこの国の機構や行政を変えることを使命としていません。男性たち、女性たちにキリストを宣べ伝えるのが使命なのです」(中国の教会への書簡)と述べている。

 カトリック教会は、福音を宣言する権利と自由を言明している-厳密に政治的な問題は教会に課せられた使命の対象ではない。公正な社会的、公的秩序の構築は第一の、最も重要な政治の責務だ-だが、当時に、最優先すべき人間的、道徳的な責務であり、教会は、明確な論証、倫理構成、そして預言的な声を通して具体的に寄与し、必要な場合には建設的な批判を行う義務を負っている。

 前任者がしたように、ベネディクト16世は、中国の教会に対する書簡のいくつかの箇所で、聖座が中華人民共和国の権威者たちとの対話に前向きであることを強調した。そして、こう期待を述べている-「聖座と中華人民共和国の意思疎通と協力の確固とした形態は-様々な結びつきによって、さまざまな場面での喜びと悲しみを分かち合うことによって、連帯と相互の助けによって、友情は育てられ-ほどなく確立されるでしょう」と。信仰と司牧的な叡智のコンパスを常に忘れず、その一方で、議論される課題の複雑さについて謙虚さをもって認識し、また一方で、正当と認められた非宗教的権威者との常にある闘いを乗り越え、今ある問題への解決策を見つける努力をしなければならない。

 このような聖座の一貫した取り組みと教皇の権威に沿って、教皇フランシスコは、対話への関与を継続することを望んでおられる。そして、忍耐と識別をもって、神への信頼からくる洞察力と倦むことのない不屈の精神をもって、中国政府との公式な交渉を続けようとしておられる。このことは、教皇がなぜ、様々な機会に、偉大な中国を訪問し、そのトップと会見することに強い希望を示されるか、の説明だ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

⑤「対話」と「交渉」 (2018.7.3)

 中国のカトリック教会共同体は、その司教たちとともに –政府から認めらている教会も、認められていない教会も-政府・共産党当局との対話に好意的だ。だが、共通善を作り上げるための真の交渉のリスクを受け入れないなら、教皇フランシスコが強調しているように、 その対話は、純粋に理論的なものにとどまるだろう。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 率直で、敬意のこもった対話は、相手の立場と役目を認識し、多様性のなかで相手を受け入れる態度-共に歩み、豊かにされ、1人1人が他者と相関する。真の対話のために求められるのは、一人ひとりが自分自身の立場に安心感を持ち、相手の主体性を認めることだ。真の対話は、神のキリストにおける顕現の働きの中で行われる。それによって、神は人間と対話し、救いの関係を打ち立てることを望まれる。

 一方で、交渉は-教皇フランシスコによれば-互いに相手から何かを引き出そうとする実務的な手法だ-交渉は常に、「もっと大きなパイの一切れ」を得ることについてのものだ。だが、それは、誰もが「勝者」になるようなやり方でなされる必要がある。だから、どの交渉も、それに続く合意も、常に不完全で、仮のものだ-長い時を経て作り上げられるらせん状の長い道のりのように。

 率直で敬意のこもった、意思疎通、多様性における他者の受容、一人ひとりの立場と役目の認識の独特のスタイルと整合性を持った形で、教皇フランシスコは中国政府との公式の対話を維持、推進する姿勢を取り続けてきた。その中で、真の交渉が再開した-実際のところ、決して容易なものではなかったし、突然、中断されることも時々あった。実際、対話を進め、合意に達する意思が、双方から繰り返し強調されながら、合意に達しようとする段階になって、障害が起き、撤回されることがあった。

 この点で、指摘する価値があるのは、中国の教会-政府公認の教会も非公認の教会も-の関係者の大部分が、これまで進められた対話に好意的だ、ということだ。好意的な関係者の割合がどれほどか、というのは難しいが、中国の司教たちは、政府公認教会、非公認教会と関係なく、対話の再開と合意への進展を支持している。

 政府公認のある司教は、中国政府とバチカンの対話再開のニュースを極めて前向きに歓迎し、「カトリック信者の多数が、教皇を支持し、両者の対話を支持しており、合意に達するよう一所懸命に祈っている」と強調している。

 また政府非公認のある司教は、対話の再開は良いことだ、とし、「今、我々は、言葉だけでなく、事実を見る必要があるが、相手を見、話すことは、見るだけよりもいい、見て、話すことでしか、問題に取り組むことはできないから」と述べた。

 そして、まさにこれが、対話の動態的で困難な術だ-対話は、互いを近づけ、互いの立場を知り、自分の立場を相手に知らせる働きをする、そして、対話の中で、建前を越えて、互いの真意が明らかにされる。対話を進める中で、時として、相手に譲歩し過ぎた、あるいは、自分の正当な要求が否定された、と感じ、自分たちの期待するものを守る、あるいは期待以上のものを提示することで、双方の間に隔たりが生じるのは当然だ。

 しかし、双方が受け入れ可能な合意に達するために、自分自身の期待するものに行き過ぎがあれば、進んで修正することが必要だ。カトリック教会に求められるのは、キリスト教の信仰にとって不可欠なものと、そうでないものを区別することだ。双方が互いに相手を受け入れ、議論と異なる意見を尊重し、問題解決のための異なる提案の基礎となるもっともな理由を理解しようとすることで、真剣な、正しい対話が可能となる。

 こうしたことは、とても疲労困憊するものだ。相互信頼と寛大の精神を持ってのみ、交渉を作り上げる数多くの、しばしば疲れ果てるような道のりの中で、対話のリズムは維持できる。双方は、このような責任ある行動を保ち、合意が遠のいたように、あるいは何も得られないように思われる時も冷静さを保ち、相手の誠実さに信頼する心を育てるような、前向きな姿勢を常に保持しながら、互いを近づける小さな歩みを重ねていかねばならない。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

⑥中国と司教たち:なぜこの問題がそれほど重要なのか?(2018.7.7)

 完全なミサ聖祭に向けた道を歩み続け、中国の信徒たちの生活に信頼を与えるために、現在の二つに分かれた教会共同体を一致させる手立てを考える必要がある。そこから、分断を乗り越える力が見つかる。いくつかの分野でまだ弱々しいものを力づけるために協力するように、全ての関係者を招いている。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 中国における教会活動には、多くの解かねばならない多くの問題がある。聖座と中国当局との交渉で、特に際立っているのが、司教の任命問題、具体的に言えば、司教候補の選定手続きと教皇が任命に果たす役割についてだ。

 他の多くの問題も、この問題と明らかに関連している-その中には、いわゆる”秘密の”(教皇が任命した”地下教会”の)司教たちの中国政府による認証の是非、教皇の任命を受けず、(中国政府公認の愛国教会が認めた)司教たちの教会法上の正当性の有無、中国の司教協議会の構成、教区の範囲の見直し、などがある。これらの問題は、将来の検討と対話の課題とすべきだ。

 教皇ベネディクト16世は2007年の中国の教会に宛てた書簡で、なぜ、司教座の問題がそれほど重要なのか、を次のように説明している。

 「皆さんご存知のように、中国に見られる特定の教会を結びつけ、それと同様に、世界を通じてすべての他の特定の教会との親しいつながりの根拠となっている深い一致は、その基礎を、同じ信仰だけでなく、共通の洗礼、それ以上に、ミサ聖祭と司教座においています。同様に、司教の一致、聖ペトロの後継者である『ローマ教皇との一致は、永続する、目に見える源であり基礎』であり、使徒的継承によって何世紀も続いている、キリストによって聖ペトロと他の使徒たちの上に建てられた教会とそれぞれの時代の教会の、一致の基礎なのです」

 今日、中国におけるカトリック信徒たちが同じ信仰、同じ洗礼、真正のミサ聖祭、そして使徒的継承を維持する司教座を有していることを、誰も疑わない。にも拘わらず、中国のカトリック教会は様々な困難、試練、懸念を経て来ている-亀裂を生じ、痛手を被り、分裂してきた。これは秘跡のレベルで起きてきたわけではなく、秘跡は常に、その基礎において正当なものだった。

 だが、実際的なレベル、兄弟的な関係と経路の共通性のレベルで、そうした亀裂が生じた。これらのレベルは、信仰と慈善の生きた体験にとって、世界における共通の使命と証しの効果と同様に、極めて重要なのだ。誰もが知っているとおり、中国で、一つのカトリック教会という核心において、これが危機の引き金をひき、数多くの教区で二つの教会共同体が作られた-ひとつは”秘密の”あるいは”地下の”教会共同体、もう一つは、いわゆる”官製の”あるいは”愛国の”教会共同体-それぞれが自分の司教たち、司祭たちをもった。

 この危機は、教会内の判断が原因ではなく、構造的な政治的性質を持った環境に条件づけられたものだった。カトリック教会は、2000年を超える歴史の中で、しばしば自己分裂の誘惑に陥って来た。分裂の原因は、さまざまだった。中国で二つの教会共同体を作るに至らしめた明確な原因は、初代教会で、後にも16世紀のヨーロッパの教会で見られたような、厳格な教理的、道徳的なものではない。第一千年紀と第二千年紀の間に起きた、教義的、教会法的なものでさえない。

 中国において教会共同体の分裂を起こした明確な原因は、政治的な種類の、外見的なものだった。過去の責任について安易な修正主義に陥らずに、このように問えるかもしれない-もしも、中国の教会が今日、新しいやり方で世界における固有の存在と役割を考えるように求められたなら、と。これはまた、それぞれの時と場所にある教会に存在する異なった感覚を一つにまとめようとすることで、起きるだろう-世俗的な傾向を強めるほど、精神主義的な傾向を強めるほど、そうなるだろう。こうした二つの傾向は、相手との接触-語り合い、理解し、教会と宣教のために共に歩む-においても続くに違いない。

 だが、霊的な感覚の違いを超えて、具体的な選択も存在し、教皇、宣教の証人への忠誠、利害を持たない教会と霊の追求といった重要な価値を生きる実際的な方法を基礎にして作られる。そして、。適当な手段で異なった立場を乗り越え、より大きな教会の常態を経験するようになるために追求されねばならないことは、恐らく、多様な面で存在する。確かなのは、中国の教会の不一致の状況の中で、誰もが苦しんでいる、あるいは少なくとも不快な気持ちでいる-教会の責任者たち、信徒たちの共同体、おそらく中国政府自身でさえもそうなっていることだ。無理解と誤解が続いていることは誰にとっても好ましいことではない。主が、自分たちのただ中におられるという相手の理解は、教会共同体の愛からもたらされる。

 そしてこのような文脈の中で、司教の任命と特にその情緒的で有効な一致が極めて重要な課題である。なぜなら、それが中国における教会活動の核心にあるからだ。一致に達するために、数多くの障碍を乗り越えねばならない-その第一の障碍は、政治権力が、司教たちの生活と司牧的な役割を多くの方法で規制しているという「中国独特の状況」-一方に、政府の支持を受けてはいるが教皇の認証を得ていない司教たちがおり、他方に、教皇から任命されながら、国家が認めていない司教たちが存在している-である。

 だから、これらの点において教会と政府の責任者の間の合意を追求することは、合意がたとえ不完全であっても、何を置いても必要であり、一層の対立による危害を避けるために緊急な課題なのだ。こうした理由から、現在まで三代の教皇は、カトリックの教会共同体全体の一致を育て、”非合法な”司教たちが完全な霊的交わりに戻り、”政府公認”か”教皇公認”かに関係なく、すでに霊的交わりにある司教たちの忠誠を支持する、という同じ線に沿って対応している。つまるところ、教皇たちは、霊的交わりに満たされて生きる教会の実在への旅を追求してきたのだ。

 中国における教会の状況についての問いに対して、ベネディクト16世は次のように答えている。

 「要素の多様さは、中国におけるカトリック教会の前向きな発展に好ましいものでした…。教皇と一致したい、という強い願いは、正当性を欠いたまま叙階された(”愛国協会”の)司教たちの間でも決してなくなることはなかった。このことは、霊的な道に全ての司教たちが実際に乗り出すことを可能にた-その間に、私たちは忍耐強く歩みを共にし、ともに一つ一つの作業をしました。彼らの間には、霊的交わりの中にのみ、真の司教がいる、という基本的なカトリック的感性がありました。他方で、ひそかに聖別された(”地下教会”の)司教たちは、国家からは承認されていませんでしたが、ローマに忠誠を誓っていることを理由にして、カトリックの司教たちを投獄し、自由を奪うことは、それが純粋に政治的な理由によるもであるにせよ、中国政府にはできなくなっている、という事実から利を得ています。これは、二つのカトリック教会共同体の間に完全な一致を再確立するための、交渉の余地のない前提条件であり、決定的な助けとなるものです。(「この世の光-教皇、教会、そして時のしるし」=2010年、42ページ=より)

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

⑦より完全にカトリック的に、より確実に中国的に(2018.7.13)

 中国には、教会法上、違法な司教たちがおり、その一方で、中国政府から公認されていない司教たちがいる。これは、この国で、二つのカトリック教会共同体が共存していることを示すものだ。こうした具体的な問題の解決を目指すために、こうした状況を乗り越えて前向きな刷新を始めるために、対話の精神で交渉が始まる時、取り組まねばならない課題だ。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

 国際的な慣行によれば、国家間の交渉は非公表の形で行われ、最終的な結果だけが公表されるのが普通だ。この理由から、聖座と中国当局のやり取りの詳細はつまびらかでない。にもかかわらず、了解事項にしようとしていることがあるとすれば、それは、教会に二つの事をともに認めるということだろうと想像することができる。その二つとは、二つの教会共同体が併存する教区の司牧責任を一つにすること、司教不在の数多くの教区のための責任も負うようにし、それぞれの教区が、教会と国家の双方から承認され、認知された司牧者を持つことができるようにすること、だ。

 このようなことが、痛みを伴わずにできる、とは思えない。不快、苦痛、犠牲、憤りは避けがたく、新たな緊張を引き起こす可能性さえある。しかし、こうした「針の孔に糸を通す」ようなことであっても、よきことの洗い清めと先駆けになることを、私たち全員が願っている-そこには勝者も敗者もないが、双方の寄与は価値あるものとなるだろう。バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿が語っている-「大事なのは、石板を拭いてきれいにするとか、知らないふりをするとか、たくさんの信徒や司祭の苦痛に満ちた道を魔法で消し去る、というようなことではありません。神の助けのもとに、今よりも穏やかで、兄弟愛に満ちた未来を創るための、たくさんの試練の人間的な、精神的な投資をすることなのです」。

 仮に、異なる感覚を尊重しつつ、中国におけるカトリック教会にとって、より兄弟愛的で一致を進める新たな始まりがあるとすれば、それはまず、より完全にカトリック的に、より確実に中国的になろうと働いている信徒たちの、秘跡と霊的生活に、プラスの効果をもたらすことになるだろう。

 さらに、それは、教会の活動と中国社会とのより大きな調和のための、新たな活力を解放すること、を可能にする。そして、その成否は、関係する一人ひとりの献身と善意にかかっている。中国におけるカトリックは、総人口の一部として純粋に数字でみれば貧弱に見えるが、常に活動的である。社会不安を育てる”外部の力”によって宗教が利用されることを恐れる当局の極めて多くの制限と規制の下でも、福音宣教の刷新された働きは、多くの実を結ぶことが可能だ。

 政府が司教を認知するのが、法律と手続きをもつ国家に関係する問題だとすれば、司教に教会法上の正当性を与えるのは教会に関係する問題、ということになる。このことを理解するために、教会とは何か、を確認する必要がある。紀元後二世紀に、聖イレネオは、教会を「霊的な交わり」-キリストの使徒たちから、司教たちの途切れることのない継承を通して続いてきた教会の伝統を宣言し、伝えるもの-と定義している。教会の伝統の保証としての司教たちの使徒的継承は、教会それ自身を構成するものだ。同時にそれは、教皇が司教を自己の判断で任命しようと、合法的な選任を確認する形をとろうと、使徒的継承と司教職の真正を保証するのが、教会なのである。

 たとえ、法的に適った形で叙階されても、聖ペトロの後継者(教皇)と全世界で活動している他の司教たちと霊的交わりをもたなければ、聖職者としての職務を正当性をもって実行することはできない。その価値があると判断する者に正当性を与え、完全なカトリック的交わりに加わることを改めて認め、司牧の責任をゆだねる権限は、ローマ司教、地上におけるキリストの代理者、カトリック教会全体の霊的指導者(である教皇)に委ねられている。

 中国について言えば、この確信をもって始まる―中国で行われてきた教皇の信認を欠いた新司教の叙階は、不正ではあるが、合法(極めて特別なケースをのぞいて)だった。このような憂うべき変則的な状況にもかかわらず、中国におけるカトリック教会は常に”一つ”を維持してきた。なぜなら、ローマから”離れた”存在として正式に自己を確立することは一度もなく、さらに言えば、(ローマ-教皇-の権限の優越性を否認する教義上の立場を念入りに作り上げることが一度もなかったからだ。

 しかし、考慮すべきもう一つの側面がある。それは、教皇と一致したいという強い熱望が常に、正当性を欠いた形で叙階された中国の司教たちの間に存在してきた、ということだ。こうした司教たちの変則的な状況にもかかわわず、教皇と一致したいという彼らの熱意の認識は、ここ数年の間に生まれてきた二つの対立する意見とは関係がない-正当性を欠いた司教たちが誠実であることを信じる者は、彼らの悔い改めを受け入れる(彼らのうち何人かの不適当な行為を、大目に見ることはないが)-その一方で、彼らの誠実性を信じない者は、頻繁に彼らを非難している。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

 

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2018年7月5日