・13日で教皇就任から7年-タグレ枢機卿がフランシスコを語る

Tagle Luis AntonioCardinal Luis Antonio Tagle, Prefect of the Congregation for the Evangelization of Peoples, with Pope Francis 

(2020.3.12 VaticanNews Alessandro Gisotti)

  フランシスコが教皇に選出されて13日で7年が経った。 教皇と親交があり、今月、バチカンの福音宣教省長官に就任したルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(前マニラ大司教)がインタビューに応じ、教皇フランシスコがこれまで7年を”包みを解かれた”神からの贈り物、と評価して次のように語った。 インタビューの一問一答は次の通り。

*教皇に選ばれた時、歓声の中で静かに頭を下げられた

アレッサンドロ・ジソッティ(VN):フランシスコが教皇に選出されてから7年が経ちました。あなたの教皇に関して個人的に心に残ることは何でしょう。

タグレ枢機卿:私は2012年11月24日に前教皇のベネディクト16世に最期に枢機卿にしていただいた6人の1人。3か月後に、前教皇が退任され、教皇選挙に参加することになりました。フランシスコを選出した2013年3月13日には多くの思い出がありますが、ここでは、そのうち2つを共有したいと思います。

 一つは、教皇に選ばれた時の、ベルゴリオ枢機卿の振る舞いです。教皇選出に必要な投票数を得た時、枢機卿たちは一斉に歓声を上げ、拍手しましたが、ご本人は、ただ、頭を下げて座っておられたのです。その姿を見て、それまで熱狂していた私の心は静まりました。静かに頭を下げている新教皇の姿に、神の神秘的なご意思に従う、あるいは膝をかがめることの重さを感じたのでした。また、腰をかがめて祈る-教会の真の羊飼いである神への信頼の姿勢を感じました。

 もう一つは、聖ペトロ広場に集まった群衆に挨拶される教皇フランシスコとご一緒した際、新しく教皇に選ばれたどの方も、教皇職を務める年月をとおして神が”ゆっくりと包みを解いていく贈り物”、あるいは民の前に神が果たされる約束だということに、気づいたことです。 2013年3月13日に教皇フランシスコという”贈り物”をいただいたことを神に感謝した時、これからの年月に教会と世界とともに分かち合う”贈り物”と約束を知って、心高ぶりました。

*教皇から自己の限界と協力者の必要を知ることを学んだ

VN:教皇フランシスコは、個人的に、そしてマニラという大きな司教区の司牧者としてのあなたに、何をもたらしましたか?

枢機卿:過去7年間、教皇フランシスコから受けた教えと振る舞いの豊かさのほかに、彼の模範が、とくにマニラ教区の司牧者としての私に、彼が模範を示すことで与えてくれた数々の教訓に、深い喜びを感じています。その教訓とは、大勢の中で、個々の人々に注意を払うこと、大きな教会の組織あるいは”官僚組織”の中にあっても個人的なつながりを持ち続けること、”超人”的な期待を持たれる中で自己の限界と協力者の必要を知ること、そして、自分が救世主ではなく、奉仕者だということを知ることーです。

 

*言葉の中に「神の親しさと思いやり」が見える

VN: あなたは教皇フランシスコと数多くお会いになっています。教皇の人柄、証しの言動で、最も感動したのは?

枢機卿:教皇になられる前のベルゴリオ枢機卿とは、2005年から2008年までシノドス(世界代表司教会議)事務局の常任委員会でご一緒しました。彼が教皇職に、私が知っている「質素で、ユーモアにあふれた、優れた観察力のある性格」をそのまま持ち込まれたことに、感動しています。教皇フランシスコとなられた彼と会うたびに、最初に私になさる質問は、その日の仕事のことではなく、「ご両親は元気ですか?」です。

 彼のことを、多くの人は「現代の歴史と人類を動かし、その進路を作る人物の中で、最も影響力のある1人」と考えていますが、私には、彼の中に、そして彼との会話の中に、神の親しさと思いやりの”実例”が見えます。そして、そのような”実例”を示すことで、教皇は歴史を動かし、作ることができるのです。

 

*「見捨てられた人」に持つべき特別の愛は、教皇の”発明”ではない

VN:教皇は、社会から見捨てられた人を第一になさいます-病気の人、貧しい人、移住する人です。今問題になっている新型コロナウイスに感染した人たちもそうです。それでも、このように”最も小さい人々”を最優先するやり方に難しさを感じる人もいます。あなたはどう考えますか?

枢機卿:私は誰も、特にあなたが言われた「見捨てられた人を最優先するやり方に、難しさを感じる人」を裁こうとは思いません。ただ、自分自身も含めて、どの人にも気付いてほしいのは「社会から見捨てられた人々に、キリスト教徒が持たねばならない特別の愛は、教皇フランシスコの”発明”ではない」ということです。

 聖書、初期教会からの慣行、教会の社会教説、殉教者と聖人たちの証し、そして何世紀にもわたって続けられてきた貧しい人、社会から疎んじられた人に対する教会の働きが、コーラスとシンフォニーを作り出します。それを聴き、自分の声と自分が持っている”楽器”-人格、時、才能、宝物-を使って、それに加わるように、私たちは招かれています。

 助けを必要とする人、貧しい人と、もっと個人的に接し、出会うことを、私は提案します。そして、私たちは、そのような出会いが自分の心を乱し、貧しい人々の中でイエスが自分に語りかけるのを聴けるように祈ることを覚悟せねばなりません。

 

*教皇の宣教の基本、「外に出て行く教会」は教会の存在理由そのもの

VN:教皇にとって、宣教の告知は基本的なものです。「外に出ていく教会」を具体的にどう考えますか?また、福音宣教省の長官としてのあなたの新たな役割の中で、どのような励ましを受けていますか?

枢機卿:「外に出て行く教会」とは、教皇フランシスコによれば、「言葉と行いで福音をもたらすために、男の人、女の人のところに、この世界で実際に起きていることの中に出て行く教会」です。宣教、あるいは福音化は、教会の存在理由なのです。

 しかし、忘れてならないのは、教皇フランシスコが、欠かすことの出来ないものとして次のように強調されていることです-宣教は、「イエスとの深い出会い」「イエスが私たちを愛し救ってくださるという信仰体験と確信」「福音だけがもたらすことのできる喜びに満たされた心」「人々と分かち合うために聖霊によって動かされた心」をもとにしたものでなければならない、「私たちの喜びが満ち溢れるようになるため」(ヨハネの手紙1・1章4節)に。

 イエスと聖霊の助けなしには、宣教は前に進みません。人間的なプロジェクト、社会的あるいは市民的なプログラムとなり、それ自体は良いものかも知れませんが、「宣教」という言葉の真の意味において、キリスト教徒あるいは教会の宣教にはならないでしょう。真のキリスト教宣教には真の証人が必要です。私たちは、単なる仕事人ではなく、本物の宣教師を必要としています。福音宣教省で、このような方向を推し進めていくことを願っています。

VN:最後の質問です。この記念の日に、あなたは教皇に何を望まれますか?

枢機卿:7年前にペトロの座に呼ばれた時の神の賜物と約束をいつも悟り、教会と人類に明示し続けるように、望みます。多くの人々の祈りと愛に元気づけられますように。そして、私は言いたいと思います。「教皇さま、いつまでも元気で、喜びにあふれていたください!」と。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2020年3月13日