・(解説)使徒的勧告「Gaudete et Exsultate」から学ぶ5つの要点(America-The Jesuit Review)

 では、なぜ私たちが「大いに喜び、喜ぶ」のか?それは、フランシスコが私たちに思い起こさせているように、神が、私たち全員に、聖人となるよう呼びかけているからだ。でも、どうやって私たちは、この呼びかけに答えることができるのだろうか?

 以下に、この教皇フランシスコの新たな、極めて実践的な勧めから、5つの要点を拾い出してみよう。

  (2018.4.9 America-The Jesuit Review‐James Martin, S.J.)

1.聖性はあなた自身であることを意味する  この勧告を通して、教皇フランシスコは私たちに、聖なる人生の実例を示している:幼きイエスの聖テレジア―小さな仕事の中に聖性を見つけたフランスのカルメル会修道女、聖イグナチオ・ロヨラ―すべてのものに神を見出そうと努めたイエズス会の創設者、聖フィリッポ・ネリ―イタリアのカトリック司祭でユーモアのセンスで知られたオラトリオ会の創設者。

 聖人たちは私たちのために祈り、いかに生きるかの見本を提供してくれるが、私たちには、彼らの抱いた理想の”クッキーの型抜き”のようになることは意図されていない。自分自身であることが意図され、一人ひとりの信仰者に、「自分自身の道を識別」し、「自分自身から最上のものを引き出す」ことが意図されているのだ。トーマス・マートンが「私にとって、聖なる者となることは、自分自身になることを意味する」と言っているように。

2. 日々の生活は聖性につながることができる あなたが聖なる者となるために、司教、司祭、あるいは修道会の会員になる必要はない。誰もが聖なる者となるように招かれている―第二バチカン公会議が私たちに気づかせたように、母親だろうと父親だろうと、学だろうと弁護士だろうと、先生だろうとビルの管理人だろうと、誰もが招かれているのだ。「隣の聖人たち」、フランシスコはそう呼んでいる。私たちがすべきとはこれに尽きる―「愛の中で自分の人生」を生き、自分がするすべてにおいて神の「証言者」となることなのだ。

 そのことはまた、大きな、劇的な振る舞いをすることを意味しない。フランシスコは日々の聖性の見本を示している―子供を育てる愛情のこもった親のような振る舞い、もちろん、「小さなしぐさ」、うわさ話をばらまくことはしないと決心するような、誰でもができる犠牲を払うことも。自分の人生を「使命」と見なせれば、聖性に向けて進むために愛をこめ、親切になることができると、すぐに理解するだろう。

 また、聖なる者となるために「神秘的な歓喜に恍惚」となる、あるいは、目を伏せて歩き回る必要はない。他の人々たちから身を引く必要もない。だが、一つの事から他の事へ走り回る”ネズミの競争”のとりこになりたくもない。動くこととじっくり考えることには、バランスが欠かせない。

3. 避けるべき二つの傾向―グノーシス主義とペラギウス主義 教皇フランシスは、霊的生活における二つの危険を避けるように私たちに求める時、辞書や神学の教科書に向かって人々をさせようとしているのかも知れない。

 危険の一つ目は、グノーシス主義だ。ギリシャ語の gnosis(知ること)からそう呼ばれている―一番大事なことは知っていること、とする古い異端の説だ。慈愛の心をもったり、善い業をする必要はない。必要なのは、正確な知的なアプローチだ―と。現代のグノーシス主義は、信仰は「完全に理解する」ことができる、と考えるように人々を誘い、他の人々にもそうした考え方をとるように強制したい、と思うように仕向ける。「誰ががどのような問いに対しても答えをもっている時」とフランシスコは語る。「それは、彼らが正しい道にいないしるしです」と。言い換えれば、”それのすべてを知る者”であることは、あなたを救うようにはならないのだ。

 二つ目は、ペラギウス主義である。この考え方とかかわりを持つ五世紀の神学者ペラギウスから、この名がついた―この考え方とかかわりを持つ五世紀の神学者ペラギウスからこの名がついた―自分自身の努力を通して、救いは手にすることができる。信奉者たちは、自己の力に信を置き、神の恩寵の必要を感じず、自分たちは確かな法則を知っているという理由で他の人々に優る行動をする。フランシスコは、現代のペラギウス主義者たちは、「律法に憑りつかれ、社会的、政治的な長所に気を取られ、教会の祈祷文、教理、威信をひたすら気にかけています」と語っている。私たちから謙遜さを奪い、他の人よりも優越した立場に置き、神の恩寵に少しの場も残すことがないー聖性にとって真に危険な考え方だ。

4.親切であることこの使徒的勧告には、教皇フランシスコのトレード・マークである「聖なる人生を生きるための実際的な助言」が、たくさん盛り込まれている。例えば、うわさ話をやめる、裁くのをやめる、そして最も大事なのは、冷酷であることをやめる、などだ。

 オンラインを使った動きにも言及されている。この問題についてのフランシスコのコメントは印象的だ―オンラインについて「中傷と悪口が当たり前のようになる可能性があります…公けの話し合いでは受け入れられないようなことが語られる可能性があり、人々は、他人に暴言を吐くことで不快感を与えたことを償うに気を付ける…他の戒めを大事にすると言明しながら、偽証したり、虚言をはいたり、冷酷に中傷することを禁じる第八戒を完全に無視しています」と語っている。 聖なる者であるためには、親切であることだ。

5. 山上の説教の八つの幸せは、聖性へのロードマップ この使徒的勧告の表題から明らかなように、イエスが山上の説教で語られた八つの幸せが、その中心をなしている。八つの幸せは、イエスが聖性を示すものだけでなく、私たちの主ご自身の生き生きした描写でもあるのだ。そして、私たちは、霊において貧しく、柔和で、平和のために働くように、義に飢え、渇くように…と、呼ばれている。 ここで、八つの幸せのうちの一つに注目したい。それは「憐れみ深い人は、幸いである」だ。教皇フランシスコは、憐み―教皇職の中心テーマのひとつ―には二つの側面―他の人々を助け、奉仕するとともに、赦し、理解すること―がある、と語っている。イエスは「復讐をたくらむ人は、幸いである!」とは言われなかったのだ。 では、教皇フランシスコの勧告を煎じ詰めると、聖性とは何なのだろうか?それは、山上の説教の八つの幸せを基礎に置いている―「憐みをもって理解し、行動する」である。(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2018年6月7日