・「日々の祈りや典礼にふさわしい美しい日本語に」-日本聖書協会が新しい共同訳聖書を発刊!

(2018.12.20 カトリック・あい)

 日本聖書協会は今月、カトリック、プロテスタントの高位聖職者、聖書学者、一般信徒の言語学者や詩人などの協力で、31年ぶりの新しい共同訳聖書となる「聖書 聖書協会共同訳」を発刊した。(詳細は日本聖書協会ホームページにhttps://www.bible.or.jp/online/sio43first.html)

  今回の共同訳は、「変わらない言葉を変わりゆく世界に‐31年ぶり、原文からの翻訳」と銘打ち、「口語訳や新共同訳など、これまでの過去の翻訳聖書の歴史と業績」も踏まえて、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳」を心掛けた、としており、最新の聖書学の成果とともに、実際の翻訳内容に、そうした理念、意図が相当程度反映されているようだ。

 教皇フランシスコは昨年9月に「典礼書の翻訳に関する権限のバチカンから現地の司教協議会への重要な移行」を明確に意味する自発教令を出し、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をされた。

 今回の共同訳は、そうした教皇の「現地化」の意図を受けた形となっており、日本の司教団のリーダー格数人も作業に関わっている。はっきり言って日本語としても不完全で、一部に正確さにも欠ける現行の典礼文、聖書朗読文を、この共同訳を反映した「美しく、現代口語に合った典礼文」「ミサにおける聖書朗読文」に改める作業を司教団として、急ぐ必要があろう。

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 日本聖書協会が事前に発行した小冊子によると、今回の共同訳作成については、カトリック教会を含む18の諸教派、団体の代表で構成する共同訳推進計画諮問会議が2009年10月に「翻訳方針前文」を採択。「過去の聖書翻訳の歴史には、意訳か、直訳が、という対立があったが、今回の翻訳では、読者対象と目的(礼拝で朗読される聖書)に合わせて翻訳する」との基本方針をもとに、2010年から、カトリック、プロテスタントの違いを超えた初の共通の聖書となった「聖書 新共同訳」(1987年刊行)の次世代版として、カトリック、プロテスタントが力を合わせて、翻訳に着手していた。

 翻訳に当たっては、底本として旧約はBHS¹、新約がネストレ・アーラント²最新の28版に基づくBS第5版、続編がゲッティンゲン版七十人訳聖書を使用している。

¹ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア=Biblia Hebraica Stuttgartensia=の略称。レニングラード写本に保存されたヘブライ語聖書マソラ写本の版であり、ヘブライ語聖書の正確な版として、キリスト教徒やユダヤ人から広く受け入れられ、聖書学者間で最も広く使われている。

²現代の聖書学の最高水準を示すギリシア語新約聖書テキスト。ドイツの聖書学者エベルハルト・ネストレが校訂し、クルト・アーラントが再校訂したため、一般的に「ネストレ・アーラント」と呼ばれる。1913年に初版が発行されて以来、ギリシア語テキストの研究の進展にあわせて改訂が繰り返されており、現代日本語訳のほとんどの翻訳元となっている。

 また、この小冊子は「聖書協会共同訳の言語担当の翻訳者や編集委員は日本の聖書学を担っている方々」であり、最新の聖書学の成果が随所に表されている、としている。

 以上のような基本理念と特長が反映された翻訳の内容の一部を例示し、これまで新共同訳などの表現を改めた理由を説明しているが、その中でも重要と思われるものを、日本聖書協会発行の「礼拝にふさわしい聖書を-『聖書 聖書協会共同訳』特徴と実例」から、抜粋して紹介する。(「カトリック・あい」南條俊二)

 

◎新しい聖書学の成果を生かした

 *旧約聖書

 ・【私はいる】(出エジプト記3章14節)  :この箇所の「わたしはある」という神の名は「神が永遠の存在であることを示すもの」として大切にされてきた。この訳は使徒たちや初代教会が親しんできた七十人訳ギリシャ語旧約聖書の「エゴ―・エイミ」という言葉に基づく。今回の訳では、ヘブライ語の「エヘイェ」と、その前後関係に注目し、「私はいる」とした。ヘブライ語聖書ですぐ前の文脈を見ると、「エヘイェ・インマク」(私はいる・あなたと共に)(3章12節)と言う神の言葉がある。モーセに現れた神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れて契約を結んだ神であり、その契約に従ってイスラエル人と共にいて、エジプトから導き出す神。そのような文脈とヘブライ語の「エヘイェ」に注目し、従来の翻訳とは異なる「私はいる」とした。

 ・【相続】(申命記15章4節)  :新共同訳の旧約聖書では、「嗣業(ナハラ)」と訳されていた。新約ではナハラにあたるのが「クレーロノミア」で、訳語として「相続」「受け継ぐ」が使われている。今回の訳では、「嗣業」ではなく、新約で使われている訳語を使い、「あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福される」とした。旧約では、イスラエルの民が約束の地を相続したが、それはイエスを信じる新しい神の民が正解を相続することを指し示していた(「世界の相続人になるという約束が、アブラハムやその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのです」=ローマの信徒への手紙4章13節)。旧、新約の訳語を統一したことで、旧、新約を貫く救いの計画がより明らかした。

 ・【空】(コヘレトの言葉11章1-10節)  :1970年代までは、著者コヘレトは「世をはかなむ厭世主義者で、懐疑主義者」と見なされていた。そのため、この箇所でも、7節の明るい表現が懐疑的な文脈に埋没し、「分かったものではない」(2節)、「蒔けない」「できない」(4節)、「分からない」「分かるわけはない」(5節)「分からないのだから」(6節)という懐疑的表現で訳されてきた。新共同訳は、8節までと10節も区切りと見る。それはいずれの段落も「空しい」で終わるためだ。また、「コヘレトの言葉」全体が格言の羅列でしかない、という考えがあったために、小見出しも付けられない、と判断されたと思われる。

 だが、現在では、「コヘレトの言葉」は一貫した思想的論調の書として解釈されるようになっていることから、今回の訳では、文節を1-6節、7-8節、9-10節と分け、7節の「光」「太陽」は12章2節と対応して囲い込み(インクルージオ)を形成しているため、11章7節から12章2節までを一つの段落と見なすこととした。11章7節から段落が変わるため、「作り主を心に刻め」と小見出しを付けた。

 以上の理由から、今回の訳では、1-6節の否定的表現について、ヘブライ語の接続詞キーに着目し、「からである」とした。また「知らない」(2節、6節)はコヘレトの否定的な結論ではなく、むしろ理由や根拠を示している、と判断した。コヘレトの結論は「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ」(2節)、「朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな」(6節)という命令である。「地に災いが起きるかもしれないからこそ、受ける分(神から与えられているもの)を皆で分け合いなさい」「どの種が実を結ぶか分からないこそ、朝から晩まで手を抜かずに種を蒔きなさい」という意味になる。

 そしてコヘレトは「すべてが空しい」と考える厭世主義者ではないので、ヘブライ語の「ㇸベル」は新共同訳のように「空しい」と訳されるよりも、口語訳のように「空」と訳される方が適切と考えた。これまでの翻訳聖書よりも、原点に即して、「コヘレトの言葉」の重要なニュアンスを生かし、そこから意味を汲み取ることができるような翻訳となった。

 ・【人生を見つめよ】(コヘレトの言葉9章9節)  :新共同訳の「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」という箇所は、コヘレトが厭世主義者でないことを示し、他の邦訳も基本的に「楽しむがよい」(新改訳2017)「共に楽しく暮らすがよい」(口語訳)と同様な訳となっている。だが、「楽しむ」「楽しく」と訳された「ラア」は「見る」という言葉で、「楽しむ」という意味はない。「楽しむ」というのは、「コヘレトの言葉」全体から、また直接の文脈から意味を取って訳したためだが、今回の訳では、言語の意味をそのまま生かし、「…愛する妻と共に人生を見つめよ…」とした。従来の常識にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、今までと異なり、味わいのある訳になった。

 ・【誇る】(箴言31章30節)  :伝統的に、主を畏れる女性が「たたえられる」と訳されてきた。「主を畏れる女こそ、たたえられる」(新共同訳)など。だが、ヘブライ語の「ハラル」のヒトパエル(注:再帰動詞?)形は「誇る」という意味で、他の箇所ではそのように訳されており、「たたえられる」と訳されているのはこの箇所だけだ。おそらく、主を畏れる女性が誇るのはふさわしくない、と考え、訳を工夫したと思われる。

 だが、「心のまっすぐな人は皆、誇ることができます」(詩編64章11節)とあるように、主を畏れる人は、主にあって誇ることができる。このような理由から、今回の訳では、「…主を畏れる彼女こそ、誇ることができる」とした。伝統にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、これまでと違ったメッセージが伝わるようになった。

 *新約聖書

  ・【キリストの真実】(ローマの信徒への手紙3章22節)  :この節はこれまで、「…イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(新共同訳)と「信じる」と訳されてきた。だが、「ピスティス・クリストゥ」は両義的で、「キリストへの信仰」あるいは「キリストの真実」という二通りの意味があり、文脈によって訳し分ける必要があることが明らかになってきた。

 ローマの信徒への手紙3章21⁻26節は「神の義」がテーマとなっているので、後者を採り、「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現わされたのです」とした。これにより、救いが神の業であり、神がアブラハムへの約束を守る正しい方であることが、浮き彫りになる。

 3章27節以降は、信仰義認が主題となるので「信仰」と訳す。またギリシャ語ではこれまで22節で「与えられる」と訳された箇所には動詞が無い。動詞を補って訳出する場合は、21節の「現わされる」を補うべきなので、そのように改訂した。

 ・【恥を受けることがない】(ローマの信徒への手紙10章11節)  :これまで「主を信じる者は、だれも失望することがない」(新共同訳)のように訳されてきた。この節は、旧約聖書イザヤ書28章16節からの引用で、「失望する」と訳された「カタイスキュノー」の第一の意味は「恥を受ける」だ。「主に信頼する者は、恥を受けることがない」は、詩編119章116節など、旧約聖書にたびたび語られている。

 今回は、ギリシャ語本来の意味と、旧約からの引用という性質を考え、「主を信じる者は、恥を受けることがない」とした。

 ・【霊が妬みに燃える】ヤコブの手紙4章5‐6節)   :この箇所は、解釈の難しさで有名。5節の「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ』」という部分が1‐4節の文脈と合わず、理解が難しい。しかも5‐6節が引用している聖書の箇所は他のどこにも見当たらない。

 そこで、今回の訳では、その箇所に関わる別の写本を採用し、次のように理解しやすくした。「それともあなたがたは、聖書が空しい言葉を語っていると思うのですか。私たちの内に宿った霊が、妬みに燃えるのです。しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖霊はこう語るのです。『神は高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる』。

 つまり、次のような意味になるーあなたがたの間で争いがあるのは、心の中に争う欲望があり、自分の霊が妬みに燃えているからだ。だが、聖書にあるように「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる」のだ。こうして、これまで難解だった箇所が理解できるようになった。

 

◎簡潔で引き締まった日本語に努めた

 今回の訳では、歌人、詩人、文学者、日本語学者などの日本語担当者が、最初から翻訳担当者とペアを組んで、自然で簡潔な日本語になるよう努力している。簡潔さという点では、単語レベルでは次のような変化がある。

 ・詩編7章10節  :口語訳は「どうか悪しきもの(ラシャ)の悪を断ち、正しき者(ツァディク)を堅く立たせてください」、新共同訳は、意味をより分かりやすくするように「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし あなたに従う者を固く立たせてください」としていた。

 今回は、簡潔で締まった訳文を目指し、多くの論議の末、口語訳の訳語を復活させることとし、「悪しき者の悪を絶ち、正しき者を堅く立たせてください」とした。

 同じ理由から、「恵みの御業」(ツェデカ)は「義」あるいは「正義」とし、「主の慈しみに生きる者」(ハスィド)は「主に忠実な者」とした。その他、文章全体も、自然さ、簡潔さを目指した。

 

◎日本語の変化に対応した

 以前は一般的でなかった言葉を、新共同訳発刊から30年経ち、多くの人が使うようになっている。そうした日本語の変化に対応した。

 ・【薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)】(マタイ福音書23章23節)   :これまでは、「薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが…」(新共同訳)などとされてきたが、いのんど、茴香(ういきょう)を理解する人は今では少ない。そこで「あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが…」と、広く知られ、料理に使われている呼び名にした。

 

◎差別的表現、包括言語なども改める努力

 深いと思われる言葉遣いを減らすように努めた。

 ・【お前】(エレミヤ書3章12節)  :新共同訳は「お前」という言葉を、自然な日本語を目指したことから、多用した。「主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない」と。だが、今回は、神やイエスが語られる言葉には「お前」を使わないことにした。「主の仰せ。私は怒りの顔をあなたがたに向けない」と。ただし、対象が人でない場合は、物や町などは、例外とした。

 ・【はしため】   :これまでの邦訳聖書では「はしため」が使われてきた-「ハンナは『はしためが御好意を得ますように』と言ってそこを離れた」(サムエル記上1章18節・新共同訳)「そこで、マリアは言った。『…身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(ルカ福音書1章46⁻48節・同)。

 今回の訳では、「はしため」は差別的だとして、「仕え女(め)」とした。

 「ハンナは言った。『あなたの仕え女が恵にあずかれますように』」「そこで、マリアは言った。『…この卑しい仕え女に 目を留めてくださったからです』」。

 ・【もてなす】(マタイ福音書8章15節)  :「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」(新共同訳)となっていた。

 だが、「もてなした」と訳されていた「ディアコネオー」は、「仕える」、食事の文脈では「給仕する」と訳される言葉だ。癒されたしゅうとめがイエスにしたことは、給仕だけとは限らないことから、今回の訳では「仕えた」とした。

 「イエスが手に触れられると、熱は引き、姑は起き上がってイエスに仕えた」。

 

◎最新の聖書考古学、植物学、動物学の成果を生かした

 これまで不明だった聖書の地の動植物や宝石、人が作った物などが明確になってきたことから、より正確な訳語を目指した。

 ・【ラピスラズリ】(出エジプト記28章18節)  :これまでの訳では「第二列 ざくろ石、サファイア、ジャスパー」(新共同訳)などとなっていた。だが、これまで「サファイア」とされていた「サピール」は、最新の研究では「ラピスラズリ」だとされたため、以下のように改めた。

 「第二列はクジャク石、ラピスラズリ、縞めのう…」。その他の宝石にも多くが改められている。

 ・【麦の酒】(レビ記10章9節)  :「シェカル」「スィケラ」は、これまで「強い酒」と訳されてきた(「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな」(新共同訳)。

 だが、「シェカル」「スィケラ」は、古代エジプトやメソポタミアなどの穀倉地帯で作られていた「ビール」を指すことが分かってきている。当時は、アルコール度の高い蒸留酒はなかった。

 これを踏まえて、より正確な表現を使い「会見の幕屋に入る時には、あなたもあなたの子らも、ぶどう酒や麦の酒を飲んではならない」とした。

 ・【箕(農業用フォーク)】(マタイ福音書3章12節)   :「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにした」(新共同訳)としていたが、古代の中近東では、竹で編んだ箕を、麦をふるうためには使っていなかった。当時使用していた「ミズレ」「プトゥオン」は現在の農業用フォークに相当する。

 このため、「その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め(脚注に「農業用フォーク」)」と改めた。

 ・【ばった】(出エジプト記10章4節)(マタイ福音書3章4節)  :「いなご」は旧約聖書で、エジプト全土の作物を食べつくした昆虫、新約聖書では、洗礼者ヨハネの食べ物として出てくる。

 だが、昔は「いなご」に「ばった」を含む広い意味があったが、最近は厳密な使われ方をしている。「『いなご』は日本特有の種を指すので、誤訳になる」との指摘があり、言語の「アルベ」は、「いなご」の倍近い大きさの「サバクトビバッタ」を指すことが分かってきたことから、「ばった」に改めた。

 ・【コブラ】【毒蛇】(マタイ福音書3章7節)  :「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(新共同訳)という有名な箇所があるが、「マムシ(蝮)」は日本特有の種で、中近東には生息していない。新約聖書の「エドキナ」は「毒蛇」とし、「クサリヘビ」と注を付けた。その他にも動植物の名称でいくつかの改訂を行った。

 以上

 

 

 

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2018年12月21日