・「具体的措置はさらに続く」-バチカンの「未成年者保護」の権威が”サミット”後を語る

【2020.2.20 VaticanNews )

 「未成年者の保護に関する全世界司教協議会会長会議(サミット)」が、教皇フランシスコの招集で開かれて1年。バチカンの「未成年者保護のための委員会」のメンバーで、教皇庁立グレゴリアン大学の児童保護センター長のハンス・ゾルナー師が20日、VaticanNews のインタビューに応じ、過去一年間に未成年虐待防止に関して取られた措置などについて次のように語った。

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問:1年前、未成年者の保護に関するサミットがバチカンで開かれました。会議の前後に、どのような具体的な決定、行動がされ、カトリック教会のこの問題への対応は変わったのか。

ゾルナー:まず第一に、教会の法令に多くの変更がありました。そのほとんどは、「You are the Light of the World(あなた方は世界の光)」というタイトルがついて新しい法規によるものです。昨年6月から、世界のすべての教区は、虐待を報告し、介入と予防を行うための事務局を設けることが義務付けられました。すべての司祭、修道者は、教会当局に虐待の事例を報告する義務があり、聖職者による未成年性的虐待を司教あるいは修道会や他の教会組織の指導者が報告を怠ったり、隠ぺいした場合に説明責任を果たすようにするシステムも、初めて出来ました。

 続いて、昨年に12月に教皇が決められた3つの措置です。それは、①未成年性的虐待の対象年齢の14歳から18歳への引き上げ②未成年性的虐待に関する「教皇機密」の撤廃③司教、修道会管区長による政治的理由による対応回避の禁止ー検察当局との協力を回避するために取られていた関係文書の機密扱いは取り払われました。

 そして三つ目。一般信徒の教会法専門家が教会法的な手続きに、少なくとも一定程度、関係している範囲で変更が加えられました。

 また、この問題への取り組み姿勢に変化が起きています。昨年2月のサミットで、司教や他の教会指導者が子どもの保護について話し、聖職者による性的虐待の被害者も出席して、彼らの身に起きたことを証言してくれました。会議の参加者はその勇気に深い感銘を受け、被害者と顔を合わせて涙を流しました。

 世界中の司教協議会関係者と話しをした私の経験から、会長たちが自分の国の司教協議会に戻って、サミットでのそうした経験を共有してくれているのを知っています。サミットの結果、世界中の沢山の地域で、この問題への取り組み、若者たちや成人の弱者たちが教会でもっと安全でいられるようにするための課題について、従来よりも深く認識し、前向きに取り組もうとする意欲が生まれています。

問:カトリック教会は、このサミットの最中とサミット後に示された参加者たちの勇気と会議の透明性に対して多くの賞賛を受けているが、一方で、「勇気と透明性がもっと必要だった」と批判する声もある。こうした批判にどう応えますか。

ゾルナー:教皇のこの問題に対処しようとされる強い意志を受けて、サミットが昨年2月24日に閉幕した後、6月1日に包括的な法規を施行しました。このような具体的な取り組みの速さは、従来のバチカンの意思決定と実行のテンポに比べると、異例です。教皇ご自身も努力を続けられています。彼が止まることはありません。

 サミットが閉幕した翌月の3月に、まず、バチカン市国に新しい法律が出来、6月に世界の全教会に適用する法規が作られました。そして12月に、先に申し上げた3つの措置が取られました。教皇が絶えず、前に進まれているのを、私は目の当たりにしており、これは止めることのできない取り組みだと思います。さらに、もっと多くの措置をとることになるでしょう。

 でも、それはすべて同時に起こるわけではありません。同時に、教皇と彼の周りの多くの人々、そして世界の各現場レベルで責任を負う教会の多くの人々理解が深まっていることを感じています。これは過ぎ去ってしまうものではなく、メディアによる一つの攻撃対象に過ぎないものではない、ということです。しかし、取り組みを続けること、子供たちと脆弱な人々の安全を確保しなければならないーという私たちの言葉の一貫性を高めていくことが、本当に必要です。

 同時に、新しい法規を実施し、より安全な社会全体に貢献していくためには、よりよい理解が求められます。

問:現在、修道女に対する性的虐待の問題も起きています。この問題については?まず、すべきことは何でしょうか。

ゾルナー:私たちが学ぶ必要がある最も重要なことは-多くの人が学んだことだと思いますが-被害に遭われた方の声に耳を傾けることです。「聴く」ということは、一緒に座って、その人が訴えようとしていることをあらゆる方法で、すべての怒り、苦味、怒り、そして悲しみを共有すること、を意味します。これは、被害者が、自分たちが語っている相手-教会の責任ある立場にある人々、司教、修道会の管区長、そして、話を聴き、共感してもらいたいと彼女たちが思う全ての人-が本当に聴いてくれている、と実感するために重要なことです。

 二つ目に、そのような経験から、私たちが学ぶことです-特定の教区あるいは管区で責任を持つ者は誰であろうと、出来ることを行い、そうして全体の構造、組織的な側面、システムの側面が、人々が安全だと感じるだけでなく、十分に安全が保障され、私たちが人間関係の動きを本当に理解するのを助けることを、です。

 ただし、この場合、修道女と司教、修道会管区長、あるいは司祭-修道会司祭あるいは教区司祭-の間に、依存の関係があり、維持する必要のある境界線があります。認識する必要があるのは、この種の安全性と専門的な基準は-英語圏で呼ばれているように-よりよく教えられ、理解されるだけでなく、確実に実行されねばならない、ということです。また、違反した場合には、他の違反と同様に罰せられることになります。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2020年2月24日