・[時代の証言者]冤罪のち次官 村木厚子①‐㉑(読売新聞)

<1>「塀の中」から見える社会

(2018年1月24日 読売新聞朝刊)

 厚生労働省のキャリア官僚から、一転、拘置所暮らしの被告人へ――。検事が証拠を改ざんしていたという衝撃的な冤罪事件に巻き込まれた村木厚子さん。厚労次官を退いた今は、塀の中にいたからこそ見えてきた現代社会の「ひずみ」の解消に全国を飛び回る。(編集委員 猪熊律子)

     ◇

 島根県にある刑務所を、昨年11月、視察で訪れました。地域交流が盛んと聞いたからです。介護を学んでいる受刑者が職業訓練で近くの老人ホームを訪れ、入居者に食事の介助をしている様子を見せてもらいました。

 受刑者が塀の外と交流するのって大事なんです。出所後の再出発をスムーズにするためにも、再犯を防ぐためにも。けれどなかなか難しい。警備の費用もあるし、事件や事故の心配もあるし。でも、出所してきた人を地域は一員として受け入れなきゃいけない。

 受刑者って怖い人、悪人のイメージがありますよね。私もそうでした。でもね、誰かにだまされたり、虐待の被害に遭ったりして、結果的に罪を犯してしまった人も少なくない。現実社会の中で「生きづらさ」を抱えた人たちが、自分の弱さもあって逃げ込んだ場所が刑務所ではないかと思うようになりました。

 そうした人たちは、社会が受け入れてくれなければまた過ちを犯す。「負の回転扉」と言うそうです。これをなくしたい。塀の中だけでなく、地域の中で更生する仕組みをもっと作りたい。

 厚生労働行政一筋できた私が刑務所の話をするのもおかしいんですが、あの事件以来、法務省と深いご縁ができまして。審議会や検討会の委員として、発言したり、視察したりする機会が増えました。

 《村木さんは2009年、虚偽有印公文書作成・同行使により、大阪地検特捜部に逮捕、起訴され、半年近く大阪拘置所に勾留された。偽の障害者団体が不正に利益を得ようと郵便割引制度を悪用した際、04年に発行された厚労省の障害者団体証明書が使われたことから、当時、担当課長だった村木さんが偽の証明書の作成を部下に指示したとされた。後に不当な捜査による冤罪とわかり、検察組織を揺るがす大事件となった》

 司法の世界とご縁ができて、自分がこれまでやってきた女性や障害者、生活困窮者の仕事と重なる部分が多いことに気づきました。行政の課題を横断的に考えられるようになったのはあの事件のお陰かな。でも二度と味わいたくない、そして誰にも二度と味わってほしくない体験です。

 (この連載は、月~木曜日と土曜日に掲載します)

 ◆むらき・あつこ 1955年、高知県生まれ。高知大卒。78年、労働省(現厚生労働省)入省。女性や障害者政策などを担当。2009年、郵便不正事件で逮捕。10年、無罪が確定し、復職。13年、厚労次官。15年、退官。困難を抱える若い女性を支える「若草プロジェクト」呼びかけ人。累犯障害者を支援する「共生社会を創る愛の基金」顧問。

<2>まさかの逮捕 夫にメール

(2018年1月25日 読売新聞朝刊)

 まさか、その日のうちに逮捕されるとは思っていませんでした。

 大阪地検特捜部に呼ばれたのは2009年6月14日。育児・介護休業法の改正案を通すため、厚生労働省の担当局長として仕事に忙殺されていた時でした。

 逮捕のきっかけとなる郵便法違反のことを知ったのは、その年の春頃です。偽の障害者団体が、郵便料金が格安になる障害者用の制度を悪用して関係者が逮捕された。その際、使われたのが04年に厚労省が発行した障害者団体証明書で、その発行権限を持っていたのが担当課長をしていた私でした。

 担当部署に確認すると、役所が発行すれば必ず残る決裁文書がないという。団体が偽造したと思いました。

 ところが5月に入り、当時の部下だった係長が逮捕され、元上司の部長も聴取を受けました。そんな中、とんでもない話がメディアを通して伝えられるようになりました。

 証明書の発行は国会議員から頼まれた「議員案件」で、部長の指示を受けた私が係長に偽の証明書を作らせ、私が団体に手渡したというのです。あり得ません。

 わけがわからないまま、報道だけが過熱して、執務室にいることができなくなりました。国会では、疑惑の局長の答弁は受けられないと言われ、大臣に随分ご迷惑をかけました。自宅も記者に取り囲まれ、ホテルに泊まったり、上の娘のアパートに泊まったり。立ち入り禁止の地下駐車場に記者が潜んでいた時は、息が止まるかと思いました。

 同僚が次々に呼ばれるのに私だけが呼ばれない。ようやく連絡が来た時は、「これで話を聞いてもらえる」とホッとしました。どうやら部下が正規の手続きを踏まずに証明書を発行したらしい。となるとこれは役所で起きた犯罪で、自分にも管理責任がある。取り調べに協力しようと、大阪へ向かいました。

 検事の執務室で取り調べが始まりました。団体関係者に会ったか、証明書の発行を指示したか、手渡したか……。役所には大勢、人が来ますから会ったかもしれません。とはいえ、国会議員の依頼でも、うさん臭い団体に証明書は出しません。文書は手渡しせず、郵送するのが普通です。

 そう答えたのに、調書には、団体関係者に会ったことはないとあります。正確でないと説明しても、検事は、調書とはそういうものだと言うだけ。検察としては、私がうそをついたと受け取れる調書を作らないと逮捕できなかったのでしょう。不安になりました。

 《その日の夕方、村木さんは虚偽有印公文書作成、同行使容疑で逮捕された》

 家族の連絡先を聞かれたので、電話番号を調べるふりをして、海外出張中の夫に携帯メールを送りました。娘たちが、母親の逮捕を報道で知ることだけは避けたかった。漢字に変換する余裕はありません。

 「たいほ」。ひらがな3文字だけのメールでした。

<3>結論ありきの取り調べ

(2018年1月27日 読売新聞朝刊)

 2009年6月14日夕方、大阪地検特捜部に逮捕され、大阪拘置所に移されました。偽の障害者団体証明書の発行を部下に指示した疑いです。服を全部脱いで身体検査され、トレーナー姿で写真を撮られました。

 翌日、勾留の手続きで裁判所に行く時、手錠をかけられ、腰縄をされました。ああ、自分は犯罪者にされたのだと思いました。

 拘置所内で取り調べが始まり、検事に言われました。

 「勾留期間は10日間。1回延長できるので計20日間。それで起訴するかどうかを決めるが、あなたは起訴されることになるでしょう」

 こうも言われました。

 「私の仕事はあなたの供述を変えさせることです」

 結論ありきなら、誰が真相を解明してくれるのでしょうか。

 取り調べはほかの人にも行われていて、「なぜあなただけ記憶がないのか」「長い裁判を考えたら認める気はないのか」と言われます。弁護人となり、接見に訪れた弘中惇一郎弁護士に相談すると、こう言われました。

 「残念だが、取り調べは検事の土俵。プロとアマチュアが同じリングに上がるようなもので、弁護士というセコンドもいなければ、裁判官というレフェリーもいない。勝つのは難しいが、負けないようにしよう」

 そこで目標をぐっと下げ、うその自白調書だけは取られないようにしました。

 驚いたのは調書の作り方です。被疑者や参考人がしゃべったことを整理して文章にするものだと思っていました。ところが、検察は自分たちのストーリーにあてはまる話は一生懸命聞き出そうとするけれど、都合の悪い話は1文字も書かない。裏付けに使えるか、使えないかの1点のみで証拠が検討され、使えないものは無視されていく。正義の味方であるはずの検察がです。これにはびっくり。こんなものかと思いました。

 取り調べの最中、検事とのやり取りで、怒りの沸点が高い私が心底、怒って抗議したことがあります。

 「執行猶予がつけば大した罪ではない」。そう言われた時のことです。

 えーっ。それって有罪と認めるということですよね。今まで公務員として30年間築き上げてきた信頼はどうなるのか。こんな罪を認めるぐらいなら、恋に狂って男を刺した方がまだましです。あまりに世間の常識や物差しと違いすぎると、泣いて抗議しました。この言葉は、別の検事からも言われました。職業病です。

 《09年7月4日、大阪地検特捜部は、村木さんを虚偽有印公文書作成、同行使罪で起訴。同時に起訴された元部下の係長はすぐに保釈された》

 検事のストーリーを否認し続けると罪が重くなるかも、いつまでも出られないかもと不安になりました。でも、うそはつけません。

 取り調べ最終日。毎日つけていたノートにこう書きました。「20日間、結果はどうあれ、よくがんばった!! ほめてやろう」

<4>拘置所生活 私は「13番」

(2018年1月29日 読売新聞朝刊)

 有罪か無罪かが確定していない未決囚の立場でしたが、自由を奪われ、管理されるという生活を拘置所で初めて体験しました。

 起床は午前7時半。洗顔後、布団を畳み、部屋の片づけ。私には「13番」という番号が与えられ、点呼の時はそう名乗ります。

 食事は、麦飯中心の栄養バランスが取れたものが3食、用意されます。この麦飯が意外にいけた。不規則になりがちだった日頃の食生活より良かったのか、肌がきれいになりました。

 記録魔の私は、被疑者ノートや自分で買ったノートに、取り調べの様子や日々のことを細かく書いていました。

 《被疑者ノートは、取り調べ時の自白強要や利益誘導を防ぐため、弁護人が勾留中の容疑者に差し入れ、取調官の言動などを記録してもらうノート》

 食事のメニューもすべて書き留めてあります。日中は、自由時間の合間に体操や入浴の時間があります。就寝は午後9時です。規則正しく、静かな生活。ですが、未決段階なのになぜ、と疑問に思うこともたくさんありました。

 例えば、洗濯物を出せるのは1日3点まで。洗面所でちょこっと洗い物をしたくても、自分で洗うのは懲罰に値すると言われました。冷暖房がなく、真夏の暑さは耐え難いものがあります。でも、体をふくことも、決められた時以外はできません。日中、勝手に寝転ぶのもだめ。入浴も、着替えを含めて時間はきっちり15分以内。食事をしながら本を読むこともできません。

 裁判に向け、いろいろ調べたくても、パソコンもなければ付箋やマーカーもない。不便だし、裁判に不利だと思いました。

 では闘うか。これはおかしいと闘うことも考えましたが、職員を困らせるだけだと思い直しました。

 それに、世話をしてくれる職員はとっても大事な人。その人たちと仲良くやっていくことが、ここでの生活を平穏に送るための絶対条件です。それでなくてもショックやストレスで心が弱る中、気持ちだけは平穏でいたい。これは入所者共通の願いではないかと思いました。

 たとえ不合理だと思っても、諦めてルールに合わせてしまう。知らず知らず、職員の意向に合わせてしまう。自分でものを考えず、言われた通りに従っている方が落ち着いて暮らせるんです。

 これって施設で暮らす際の一番怖いところではないでしょうか。福祉施設や精神科の病院とも共通点があるように感じました。管理する人がいて、明らかな力関係があって。ただし、そうした施設で暮らした人が、突然、外に出たら困るよなとも思いました。

 特に刑務所では、刑期を終えた途端、塀の外に出され、基本的に自分で様々なことを判断しなければならなくなる。居場所がなく、支援もなければ途方に暮れてしまうでしょう。地域との連携が福祉施設や精神科病院の近年の課題です。刑務所も同じ課題を抱えていると感じました。

<5>家族思うと力が湧いた

(2018年1月30日 読売新聞朝刊)

 ほかの人が虚偽の供述に追い込まれる中、なぜ私が闘い抜けたのか、その強さはどこからくるのかと尋ねられることがよくあります。自分では強いとは思いませんが、頑張れたのには幾つか理由があると思っています。

 一つ目は、好奇心が強いこと。それが気持ちを紛らわせてくれた。大変なことが身に降りかかっているのに、拘置所ってどんな場所だろう、刑務官の仕事と家庭生活の両立はどうなっているのかしらと、観察している自分がいる。

 所内では、所持金を使って、自分で品物を注文して買うことができます。何が来るのかが知りたい。早速、チョコレートや下着、乳液などを注文。下着はユニクロの製品が来て、へえっと思いました。

 二つ目は、50歳を過ぎ、つらいことや想定外のことへの対処法を学んでいたこと。考えても仕方ないことは脇に置き、今できること、しなければならないことからする習慣を身につけていた。絶対に体調を崩さないようにし、裁判の準備に集中しようと考えました。

 三つ目は、気分転換が上手にできたこと。本好きの私にとっては、本の差し入れは救いでした。読書が精神安定剤になりました。

 四つ目は、食べて、寝ることができたこと。麦飯は体に合ったし、メディアが追いかけてこられない塀の中ではぐっすり寝られた。虚偽の証言をしなかったので悶々(もんもん)と悩む必要がなかったこともあります。

 もちろん、ジキルとハイドのように自分は二重人格で、悪いことをしている時の記憶は消えてしまっているのかも、などと思ったこともあります。でも、現実的ではないですよね。

 何よりも頑張れたのは、家族の存在が大きいといえます。下の娘は高校3年生で受験の真っ最中でしたが、大阪の予備校に通うことにし、接見禁止が解けてから毎日のように会いに来てくれた。上の娘と夫も、仕事の都合をつけて東京から駆けつけてくれました。

 娘たちが将来、病気や事故など思わぬ困難に見舞われた時、「あの時、お母さんも頑張ったから私も頑張れる」。そう思える母親になりたいと思った途端、力が湧いてきました。

 仕事でお付き合いのある方々の応援メッセージも、心にしみました。取り調べ期間中は弁護士にしか会えなかったので、メッセージが書かれた紙を面会室のアクリル板越しに、弁護士さんが見せてくれたのです。

 半年近い勾留期間中、約150冊の本を読みました。その中に、ベタすぎて苦手だった相田みつをの作品集「にんげんだもの 逢」がありました。

 弱きもの人間 欲ふかきものにんげん 偽り多きものにんげん そして人間のわたし

 実に多くのことを言い当てていると思いました。

<6>検察の主張覆す書類発見

(2018年1月31日 読売新聞朝刊)

 拘置所での生活が続く中、「公判前整理手続」が行われることになりました。

 《公判前整理手続は、刑事裁判を効率的に行うため、最初の公判期日の前に、裁判所、検察官、弁護人が争点を明確にし、証拠を厳選して、審理計画を立てる手続き》

 私のところにも、弁護側に開示された検察側の証拠のコピーが届きました。A4判で、積み上げると70~80センチの高さにもなります。

 ショックだったのは、かつての同僚が、私の関与を認める調書にサインしていたのを見た時です。偽の障害者団体の関係者に会ったとか、証明書の偽造を指示したとか。当初、検察は、役所が「議員案件」を受け入れたのは、障害者自立支援法案を通したかったからだとしていました。時期が全く違うのに、それを認めている人も何人もいる。何ともいえない気持ちになりました。

 何でみんなうそをつくのかと問う私に、弘中惇一郎弁護士が言いました。「誰もうそなんかついていない。検事が勝手にストーリーを作って、そこからバーゲニング(交渉)が始まるんだ」。弱みを突かれた人は交渉に負けてサインしてしまうというのです。その時は納得できませんでした。

 「あれっ」。書類に目を通すうち、1通の捜査報告書が目に留まりました。証明書が作成された時のフロッピーディスク(FD)のプロパティー(文書の属性情報)が印刷された書類です。そこには、「作成日時 2004年6月1日1時14分32秒 更新日時 2004年6月1日1時20分06秒」とありました。

 検察の筋書きでは、証明書作成の指示は04年6月上旬にあったことになっています。1日未明時点で既に証明書が出来ていたならそれが崩れることになります。

 検察のストーリーはこうです。偽の障害者団体の関係者が郵便割引制度の手続きをする際、6月8日に郵便局から証明書が付いていないと言われ、慌てて私に連絡。しかも団体側の都合で日付を5月に遡ったものを作成するよう依頼。私が係長に作成を指示し、団体は10日に証明書を提出した――。この筋書き通りなら、証明書は6月8日から10日の間に作られたことになります。

 これは検察の主張を覆す決定的な証拠になるのではないかと、弁護士に連絡。この発見が無罪判決への大きな一歩となりました。実は、検察は取り調べの際、FDがあることを一切、教えてくれませんでした。隠していたはずのFDの情報が記された捜査報告書を目にすることができたのは、検察がうっかり開示してしまったからだと思います。

 ところで、私はなぜこの発見が出来たのか。人気漫画「名探偵コナン」が役に立ったと思ってるんです。推理好きの私は大のコナンファン。テレビアニメや映画もよく見ていました。そこで学んだ探偵の心得は、証拠は思い込みを排して新鮮な目で見ること、ヒントは身近なところにあること。日付のずれを発見したのは、新鮮な目でもう一度と、証拠書類を2度目に読んでいた時のことでした。

<7>でたらめ 裁判であらわに

(2018年2月1日 読売新聞朝刊)

 2009年11月に入り、気温が下がってくると、暖房のない拘置所で体調を崩さずにやっていけるか不安を感じました。

 幸い、24日に保釈が決定。それまでにいったん保釈が決まっても取り消されたことがあったので、最初は信じられない思いでした。検察の主張を否認していると、保釈がなかなか認められない状態を「人質司法」と呼ぶと聞きました。

 保釈金は1500万円。ほかに、弁護士費用や家族が面会に来る際の交通費などもかかります。ありがたかったのはカンパです。逮捕されると収入が絶たれます。信念を貫くには、経済力も大きな要素になると実感しました。

 自宅に戻ると、逮捕前より体重が6キロほど落ち、足が弱っているのがわかりました。人と会うのが怖くなり、買い物を家族に頼む状況がしばらく続きました。仕事に行かず、一日中、家にいるという初めての生活を送りながら、裁判に備えました。

 翌年1月27日から、大阪地方裁判所で裁判が始まりました。

 弁護側は冒頭陳述で、「検察官の主張は破綻している」と断じました。フロッピーディスクに記録されたプロパティー(文書の属性情報)によれば、元部下の係長が証明書を作成したのは04年6月1日未明以前なのは明らかなのに、検察は、私の指示をきっかけに係長が6月上旬頃になって証明書の作成に踏み切ったとしていたからです。

 その後の証人尋問で、国会議員から頼まれたという「議員案件」がまったくのでたらめだったことがわかりました。偽の障害者団体の関係者が証明書発行の口利きを依頼したとされた日、その議員はゴルフをしていて、完璧なアリバイがあったのです。議員の手帳をきちんと調べていれば、初めからわかったことです。

 検察が議員に事情聴取をしたのは私の起訴の後で、その時も手帳をしっかり調べていなかったこともわかりました。事件の発端と言っていた割にはあまりに雑な捜査で、驚きました。

 「議員案件」を私に伝えたとされた元上司の部長は、調書の内容を全面撤回しました。議員との電話の通信記録があると取り調べの検事に言われ、そうかと思って調書にサインした。でも、後で別の検事にその記録はないと言われたからだといいます。この事件自体が「壮大な虚構ではないか」と証言しました。

 裁判の過程で、取り調べを担当した検事が、取り調べメモを廃棄していたことも明らかになりました。

 《最高裁は07年、取り調べメモの証拠開示の是非が争われた裁判で、「取り調べの経過などを記録した文書は、個人的なメモの域を超えた公文書で開示対象となる」と判断している》

私が一番気にかけていたのは係長です。今度こそ負けないで、彼自身の今後の人生のためにも正直に話してほしい。見守る中、証人尋問が始まりました。

<8>「無罪」 心臓が大きく鼓動

(2018年2月3日 読売新聞朝刊)

 元部下だった係長の証人尋問が始まりました。彼は、とても緊張しているように見えました。

 係長の発言はこうです。2004年4月、係長として異動してきた際、予算の仕事で頭がいっぱいで、証明書の件は後回しにしていた。障害者団体から催促があり、手続き中であることを装う偽の稟議りんぎ書を作って団体に送った。やがて先送りが難しくなり、5月31日深夜から6月1日未明にかけて、一人で証明書を偽造。課長の公印を押し、団体関係者に手渡した――。

 正規の手続きを踏まなければいけないことはわかっていたが、障害者の役に立つことだから良いだろう、この団体が偽物で証明書を悪用しようとしていることなど夢にも思わなかったといいます。一人で2度も書類を偽造したことについては、「人に相談せず、何でも抱え込んでしまう自分の性格」を挙げました。

 証言では、ひどい取り調べの様子も明らかにされました。逮捕後、検事に「独断でやった」と何度も訴えたのに、無視され、ちっとも聞いてもらえない。反対に、記憶の曖昧さを突かれ、再逮捕や勾留延長をちらつかされる。

 法廷で示された彼の被疑者ノートには「もうあきらめた。何も言わない」「保釈という甘いえさの誘惑に負けてしまった」などとあり、同じように取り調べを受けた者として、彼がどれほど恐怖を感じ、絶望していたかがよくわかりました。

 調書は検事の作文で村木さんは関係ないと、時に泣きながら声を振り絞って証言する彼の姿を見て、ああ、真実を伝えようと必死で闘っているな、今度はちゃんと頑張っているなと思いました。傍聴していた娘が「ママ、私、もうあの人のこと怒ってないよ」と言いました。家族全員、同じ思いでした。

 係長にはその後、有罪判決が出ました。その約1年半後の13年夏、対談のため、会う機会がありました。私に直接謝りたいと思っていた、でも会うのが怖くて膝が震えたと話していました。土下座しようとするので押しとどめ、当時の取り調べの様子などを聞きました。

 その時、彼が勾留中につけていた雑記用ノートを見ました。1マスを1時間に見立てたマス目が作られてあり、それが全部、鉛筆で黒く塗りつぶされていました。時計のない拘置所の部屋で、食事の時間などがくるたび、マス目を一つずつ塗りつぶしていたと聞き、胸が締め付けられました。

 私も20日間の取り調べ期間中、穴があくほどカレンダーを見つめ、ああ、1日が終わったと思っていた。実際に罪を犯していた分、彼は本当に苦しかったのだと思います。

 《裁判所は、係長の被疑者ノートを証拠として採用。一方、供述調書は、取り調べに問題があったとして不採用とした》

 裁判を通じてメディアの論調が変化していくのを感じました。10年9月10日。私の「無罪」を告げる裁判長の声を聞いて、心臓が1回、大きく鼓動するのを感じました。

 

<9>検事が改ざん まさか

(2018年2月6日 読売新聞朝刊)

 2010年9月10日に無罪判決が出た時はうれしかった。判決で印象に残ったのは、客観証拠の大切さが述べられていたことです。

 どんなに供述が具体的で迫真性があっても、後から作り出すことができる。今回のように、約5年も前の出来事では、人間の記憶に誤りが入る可能性がある。だから、時の流れで変化しないとみられる客観的な証拠や、証拠上明らかに認められる事実に照らし合わせて供述の信用性を検討するのだと、判決文にはありました。供述調書頼みの捜査の危険性を指摘した、とても価値のある判決だと思いました。

 ほっとしたけれど、喜んではだめとも思っていました。検察は懲役1年6月を求刑していました。逮捕から1年以上、仕事からも社会からも切り離され、もうこれ以上、私の人生を奪ってほしくない。でも、検察は控訴してくるだろう。気持ちを奮い立たせました。

 しかし――。結末は予想外に早く訪れました。21日に検察が上訴権を放棄し、無罪が確定したのです。

 その日、新聞の朝刊1面にスクープ記事が載りました。捜査の主任検事が証拠を改ざんしていた疑いがあるというのです。証拠とは、例のフロッピーディスク(FD)のことです。

 拘置所にいた頃、私は、検察ストーリーを覆す重要証拠となる捜査報告書を見つけました。そこには、元部下の係長が証明書を作成した際に使ったFDのプロパティー(文書の属性情報)が印刷されていました。作成日時は「04年6月1日1時14分32秒」、更新日時は「04年6月1日1時20分06秒」。検察は、係長が証明書を作成したのは6月8日から10日の間としていたため、日付の矛盾が無罪判決をもたらす重要な客観証拠になりました。

 記事によると、このFDを解析したところ、更新日時が6月1日から「6月8日21時10分56秒」に書き換えられていた。検察の筋書きと合う日付です。書き換えは、私が起訴された後の09年7月13日に行われたともありました。

 《最高検察庁は報道のあった9月21日夜、主任検事を証拠隠滅容疑で逮捕。10月1日には、改ざんを知りながら隠蔽いんぺいしたとして、主任検事の上司だった元特捜部長と元副部長を犯人隠避容疑で逮捕した。

 翌年4月に出た主任検事の判決(懲役1年6月の実刑、確定)によると、主任検事は、検察の立証を阻む証拠としてFDが裁判に持ち出されると審理が紛糾することや、FDの存在を上司に報告していなかったため、上司から叱責しっせきされ、信頼を失うことを恐れて改ざんを実施。実施後すぐにFDを係長に返却していた》

 取り調べのずさんさやひどさに加え、まさか改ざんまでしていたなんて……。こんなことがまかり通るなら、何を信じていいのかわかりません。これは個人の問題ではない。組織の問題だと思いました。

<10>最高検の検証 がっかり

(2018年2月7日 読売新聞朝刊)

 「明日から来てください」。無罪確定の夜、厚生労働相から電話がありました。

2010年9月22日。約1年3か月ぶりに厚労省に出勤すると、同僚が拍手で迎えてくれました。職場復帰したんだ、また仕事ができると思うと、うれしさが込み上げてきました。

一方、郵便不正事件の方は、現職検事や元上司の逮捕という、検察史上、前代未聞の事態となりました。

《最高検察庁は、証拠隠滅容疑で逮捕した主任検事を10月11日に起訴。犯人隠避容疑で逮捕した元上司の元特捜部長と元副部長も21日に起訴した。政界汚職の摘発などで「検察の顔」といわれた特捜部の解体論まで出る中、検事総長が21日に異例の謝罪会見。12月27日には引責辞任した》

証拠のフロッピーディスク(FD)の改ざんは衝撃的でした。でも、私にとっては1人の検事の改ざんより、たくさんの検事が連携して、検察の筋書きに沿ってたくさんのおかしな調書を作ったことの方が恐怖でした。

そもそもこの事件は、証明書の悪用など思いもしなかった元部下の係長が、仕事を先送りするうち、証明書を偽造してしまったという事件です。もちろん許されないことで、私も監督責任を負いました。でも、それがなぜ政治家や役所が絡んだ大がかりな事件に仕立て上げられてしまったのか。

筋書きと異なる日付が記された捜査報告書の存在を知った時、証人が供述を翻した時、主任検事が改ざんを周囲に告白した時など、引き返せるチャンスが何度もあったのに、検察は最後まで自分たちのストーリーに固執して突き進んでいった。揚げ句に私に懲役1年6月の求刑までした。

なぜ大勢の検事が間違ったのか。なぜ私がターゲットにされ、筋書きが最後まで維持されたのか。

事件の検証を最高検がすると聞き、期待しました。

《最高検は12月24日、検証結果報告書を公表。供述を誘導する不適切な取り調べがあったことや、自分たちに不利な証拠を軽視していたことなどを認め、村木さんを起訴すべきではなかったなどとした。改ざんの動機の一端として、主任検事が上司から「最低限でも村木を挙げよ」と強いプレッシャーをかけられていたことなども明らかにした》

取り調べの実態を解明するには、取り調べられた側から事情を聞く必要があったはずです。私も協力を惜しまないつもりだったのに、要請は一度もなかった。報告書には再発防止策もありましたが、こんな偏った調査で本当に改革ができるのでしょうか。

成果偏重の幹部を育てた組織の風土の検証も不十分でした。これが、最高検が総力を挙げた結果なのかと正直がっかりしました。

きちんとした検証がなければ過ちはまた起きるだろう。検察組織がゆがんだままで困るのは国民です。検証結果を見て、私はある決断をしました。

<11>真相求め 国を訴え

(2018年2月8日 読売新聞朝刊)

  検察が自分たちで真相究明をできないなら、こちらでやるしかない。弁護団や周囲の人たちと相談して、国家賠償請求訴訟を起こす決断をしました。

 国に勤めている人間が、国を訴える。迷いが全くなかったわけではありません。でも、なぜこんな事件が起きてしまったのか、最高検察庁の検証結果でも明らかにならなかった。

 私が知りたかったのは「検察はなぜ間違えたのか」「なぜ私が逮捕されたのか」「検察はなぜ引き返せなかったのか」という点です。

 自分たちの筋書きに合うように供述を誘導し、証拠の改ざんや隠蔽いんぺいまで行った組織が、身内だけの調査でお茶を濁していれば同じ過ちが繰り返されるだろう。それは多くの人の時間や気力、労力、時に死刑という形で命さえ奪ってしまう危険性をはらんでいます。

 《2010年12月27日、村木さんは、不当な逮捕や起訴で精神的な苦痛を受けたなどとして、国側に計約4000万円の支払いを求める国家賠償請求訴訟を東京地裁に起こした》

 賠償額は、働いていればもらえたはずの給料や弁護士費用、交通費などの実費を細かく計算し、それに慰謝料も加えました。裁判で何があったかを調べることで、捜査の実態を浮き彫りにできる。それにより、組織の立て直し策を考えることもできます。

 翌年10月、弁護士から電話がありました。暗い声でいきなり、「村木さん、国がニンダクするっていうんだ」と言います。

 「ニンダク?」。認諾、つまり、被告が原告の請求を認め、裁判を終わらせることです。検察がメディアに情報を漏らしていたという訴えを除き、国は、争うことなく、こちらの言い分をさっさと認めてしまったのです。

 あー、失敗した。こんなことなら1億円とか10億円とか、認諾できない額を請求しておけばよかった。反省したけれど、後の祭りです。さすがに国は闘うだろうと思っていたのに。取り調べや捜査の指揮にあたった当事者から、直接話を聞く機会が奪われてしまいました。

 国が支払った賠償金から弁護士費用などを除いた約3300万円が手元に残りました。これをどうするか。犯罪を繰り返す知的障害者への支援で実績のある長崎県雲仙市の社会福祉法人「南高愛隣会」に寄付することにし、この寄付金を原資に基金が作られることになりました。

 私も受刑者と接するまではよく知らなかったのですが、刑を受けている人の中には知的な障害があったり、コミュニケーション能力が不足したりしている人が少なからずいます。そうした人たちが取り調べの際、不利益を被らないようにしたい。社会復帰しやすくするとともに、そもそも刑務所に行かないで済むようにしたい。累犯障害者を支援するこの「共生社会を創る愛の基金」が、広く知られるといいなと思っています。

<12>取り調べ可視化 訴える

(2018年2月10日 読売新聞朝刊)

 国家賠償請求訴訟による真相究明はできませんでしたが、前代未聞の不祥事を受け、検察組織のあり方が大問題になりました。

 《法務省は有識者の委員14人による「検察の在り方検討会議」の初会合を2010年11月に開催。11年1月の第6回会合では村木さんからヒアリングをした》

 供述調書に頼る捜査や裁判は本当に怖い。なぜなら調書は検事の筋書き通りに作られてしまいかねないから。調書の正しさを担保するには、録音・録画などによる取り調べの可視化が必要だと訴えました。

 取り調べの期間中、プロである検事の土俵でアマチュアが闘うのは難しい。せめて調書にサインする時は、弁護士にそばにいてほしいとも言いました。証拠については、弁護側がすべて見られる仕組みがないと、客観証拠が葬り去られる恐れがある。事実、重要証拠だったフロッピーディスクがないかを何度も尋ねた私に、検事はないと言い続けました。

 有罪、無罪が決まる前から身柄が拘束され、否認をしていると、いつまでも保釈されないのも問題です。実は、職場復帰して2年近くたった頃、頭の中でガラスが割れた音が聞こえた。その後、喜怒哀楽の感情がやっと元の状態に戻ったように感じました。勾留期間中、感情を抑えすぎて、どうやらガラスの壁ができていたようです。

 今でも事件に関係するものを見たり話をしたりする際、一瞬不快感がこみ上げてきたり、あ、話すのは無理、と思ったりする時がある。こうした影響を、刑事司法に携わる人はよく考えてみてほしいと思います。

 何より痛感したのは、検察はなかなか軌道修正ができない組織だということ。裁判が始まると勝つことが至上命令となり、真相解明という本来の使命が置き去りにされているように感じる。使命を明確化し、共有した上で、間違った人が出てきた時は、それをチェックできる仕組みが必要だと申し上げました。

 《検討会議は11年3月、「特捜部は廃止はしないが、組織のあり方は検討すべき」「取り調べの可視化については別途、検討の場を設ける」などとする提言を公表。これを受け、法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の初会合が6月に開かれた》

 4月頃、法務大臣から会いたいと連絡があり、何事かと駆けつけると、委員就任を強く要請されました。刑事司法の素人だけに戸惑いましたが、夫から「君の役割だ」と励まされ、引き受けることにしました。

 審議では、可視化の対象事件や範囲を巡り、激しい意見の対立がありました。全事件、全過程の可視化が必要という私やほかの有識者委員に対し、捜査機関の委員は「供述を得にくくなる」「治安の維持を損なう」などと主張しました。

 14年9月、裁判員裁判対象事件と検察の独自捜査事件を対象に、取り調べの全過程で録音・録画を義務づける答申がされました。

 全事件、全過程の可視化の一歩として、まずは見守りたいと思います。

 

<13>「人生の役割」悟った言葉

(2018年2月12日 読売新聞朝刊)

 あの事件は、私の人生にとって何だったのか。ぜひ尋ねてみたい人がいました。天台宗大阿闍梨だいあじゃりの酒井雄哉ゆうさいさんです。

 《7年かけて地球1周にあたる約4万キロを歩き、うち9日間は不眠・断食で真言を唱える。比叡山延暦寺に伝わる荒行・千日回峰行せんにちかいほうぎょうを2度も成し遂げた酒井さんは生き仏といわれた》

 2013年に87歳で亡くなってしまわれましたが、幸い、その2年前にお目にかかることができました。

 拘置所にいた時、差し入れの本の中に酒井さんの「一日一生」がありました。「一日が一生、と思って生きる」「身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す」。それらを読んで、今日一日を頑張ればいいんだと思えるようになった。突然の逮捕で痛んだ私の心に染みいりました。

 「村木さんは、仏様に論文を書かされたんだよ」。お会いした時に言われた言葉がしっくり胸にきました。

 酒井さんによると、人はみな役目を与えられて生まれてくる。そして、それぞれの役目に応じて人生の論文を書かされる。私に与えられたお題はこれだったのか。私は私なりに一生懸命、答えを書いた。そう思ったら、何だか心が落ち着きました。

 生きていると、自分の意思では避けられない困難に遭うことがあります。でも、困難への対処の仕方は自分で選ぶことができます。あの事件は二度と味わいたくないけれど、反面、自分の世界を広げてくれた。実に不思議な体験でした。

 あのね、私、自分は黒子の公務員に向いていると思っているんです。もともと主役よりも脇役、裏方の方が好き。黒子といっても役所の女性の先輩方は、才能にあふれたスーパーな人たちばかり。それに引き換え、私は地味で平凡で、取り立てて能力があるわけじゃない。でも、そんな自分でも仕事と子育てを両立し、責任ある仕事を任されるようになった。

 50歳を過ぎて局長になった頃から、私でもやってこられたんだから大丈夫、心配しないでと後輩の女性たちに言いたいと思った。普通の女性でもキャリアを積めるというロールモデルを、後輩たちに見せられるのではと思いました。

 それだけに、逮捕で仕事が中断されたのはショックでした。モデルの完成まであと一歩だったのに! 悔しく思いました。

 でも、事件をきっかけに役所以外の人とのかかわりが増え、新たな役目が加わったのかもと思えるようになりました。事件を風化させずに伝えることや、塀の中で見た「生きづらさ」を抱える人たちへの支援をどうするかなどです。

 事件の話をしてほしいと、今も大学や団体から講義や講演の依頼があります。残念ながら誰でも被疑者、被告人、被害者になる恐れはある。そうなっても信頼できる仕組みを持つ社会でありたい。そのための「論文」をこれからも書き続けていきたいと思います。

<14>不屈の精神 父が原点

(2018年2月13日 読売新聞朝刊)

 郵便不正事件で取り調べに屈しなかったため、私のことをとても強い人間だと思ってくださる方もいるようです。

 そんなことはありません。そもそも、私はとても泣き虫。人見知りも激しくて、幼稚園受験の際は、親と離れるのが嫌で大泣きし、見事落第しました。小学生になってからも、一人で本を読んでいるような子どもでした。

 《村木さんは1955年、高知市生まれ。地元の国立大学を卒業するまで、高知市内で過ごした》

 文武両道の自由な校風に憧れて、中高一貫の私立校に行きたいと、小学5年生の時から塾に通い始めました。合格してやれやれと思っていたら、父親が「成績が落ちたら公立に転校しようね」と言う。やめさせられてはたまらないと、また必死で勉強しました。人生で、あの時が一番まじめに勉強したかもしれません。

 父親は私や妹のことを実によく見ていて、子どもをやる気にさせたり、頑張らせたりするのが上手な人でした。体を壊して市役所をやめ、その後、会社員に。でも、私が中学2年生の時、突然、失業してしまったのです。社長と意見が衝突したようでした。

 さあ大変。高い学費の私立を続けるわけにはいかないと、工業高等専門学校に行かせてほしいと頼むと、せっかく入学したんだ、何としても行かせてやるから頑張れと言われました。父はその後、社会保険労務士の資格を取り、開業しました。私が高校3年生の時には、地元の大学なら経済的に可能だから行かせてあげると言ってくれました。

 大人になった後、無理して教育を受けさせてくれてありがとうと伝えると、父は「自分も父親にチャンスをもらった。親戚中の反対を押し切って進学させてくれた」と言っていました。

 「教育は大事」「勉強は大事」と言う父。でも、勉強一辺倒ではなく、「家のお手伝い、お母さんのお手伝いはもっと大事」と言う父。私の考え方や行動に、父親が大きく影響しているのは間違いありません。

 家計がそんなふうでしたから、学生時代は様々なアルバイトをしました。郵便局で年賀状の仕分けをした時は、本職の人が忍者の手裏剣のように速く、的確に仕分けるのを見て、うわっ、すごい、プロの技だなと。私も手裏剣がやりたくて、運動神経と記憶力をフル回転しました。

 地元の新聞社では、論説委員室でお茶くみをしました。デパートの食堂でウェートレスをした時は、いかに一度に大量のお皿を運べるかに力を注ぎました。

 たとえ単純作業でも、工夫次第で上達するのはうれしいもの。どんな仕事にも面白さは隠れていることを発見しました。

 早く働いて自立して、自分で食べていけるようになりたい――。いつしか、そう思うようになりました。「どんなことがあっても仕事を続ける」という私の原点は、中学、高校時代にあるのかもしれません。

<15>新人時代 無念のお茶くみ

(2018年2月14日 読売新聞朝刊)

 大学は、地元の高知大学に進みました。経済学科で同級生約80人中、女性は5人。仲が良く、喫茶店でもよく会っていました。

 学費は、親のお金と奨学金と家庭教師などのアルバイトで賄いました。卒業したら働いて自立したい。でも、県内企業で4年制大卒女子を募集しているところはありません。採用枠があり、長く働けそうな公務員になろうと決めました。

 《村木さんが就職活動をした1977年は、男女雇用機会均等法が施行される10年近く前。女性は男性の補助的な仕事をするのが一般的だった》

 国家公務員試験は受かると思っていなかったので合格通知がきた時は驚きました。一方、本命の県庁の方は筆記が通り、面接に行くと「女性の仕事は庶務」と言われました。一生、庶務は嫌だな、それなら国家公務員になろうと思いました。

 しかし、合格通知が来る前に官庁訪問をするものだということは全く知りませんでした。周りに上級職試験を受けた人はいなかったし、もともとのんきな性格でしたし。人事院に電話をするとあきれられ、慌てて上京しました。

 ぎりぎりで面接を受け入れてくれたのが当時の労働省でした。女性は採用しないというオーラを出す役所が多い中、女性や地方出身者にも温かい目を注いでいたように感じます。

 意欲と体力だけは自信がある私を、労働省は受け入れてくれました。後で聞いた話では、お酒は飲めるかと聞かれた時の私の「はい!」という返事がとても良かったとのこと。それで採用を決めたと言われました。

 《「底なし」で知られる村木さん。しかし、親しい友人によると、郵便不正事件で勾留された後は、お酒が随分弱くなったという》

 父が社会保険労務士で労働行政を身近に感じていたし、マクロの視点で政策を論じる役所より、ミクロの視点から社会や生活を考えられそうで、期待に胸を膨らませて勤め始めました。

 最初の配属は職業安定局。失業者の就職などを扱う部署です。初めて出勤した日に「お茶くみ事件」は起こりました。上司から、「申し訳ないが、お茶くみをしてもらうことになった」と言われたのです。

 キャリア採用の私にお茶くみをさせるかどうかで大激論があったと聞きました。通常の仕事をこなしながら約30人分のお茶を用意し、朝と午後3時に全員に配るのはなかなか大変です。

 男性と同じ条件で同じ仕事を割り当てられているのに、女性というだけでお茶くみをするのは正しいこととは思えなかった。でも、当時の私にはほかにこれができますと言えるものがまだなかったし、断れば年配の女性が1人でやらなければいけない事情もあった。

 新人の立場ではああするしかなかったと思う反面、後で後輩のことを考えると忸怩じくじたる思いが残った。こうしたことは今後できるだけすまい、と思いました。

<16>入省5年目「親友」と結婚

(2018年2月15日 読売新聞朝刊)

 1978年に労働省に入ってからは、毎日、深夜まで仕事をしました。人見知りの性格は相変わらずでしたが、仕事のお陰で人と普通に話ができるようになりました。

 2年目には、兵庫労働基準局に異動しました。面白かったのは建設現場に出向いた際、ヘルメットをかぶった私をまるで幽霊にでも出くわしたかのようなギョッとした目で、現場で働く人たちが見ていたことです。女性が建設現場に監督に来るなんて、想像もしていなかったからでしょう。

 3年目には、労働時間短縮の仕事をしました。時短は労働経済政策だけでなく、貿易摩擦などの国際問題にも関係する重要な政策と知りました。

 《79年「労働経済の分析」(労働白書)によると、日本の製造業労働者の年間実労働時間は2146時間で、米、英、仏に比べ、189~347時間も長い。完全週休2日制の適用労働者の割合は、日本は全産業で24%、製造業では37%で、米、英の85%程度と比べ、大きな差が見られた》

 4年目に外務省へ。この時ばかりは慣れない仕事で、「やばいな」「このままではうつになるかも」と本気で心配しました。でも、ニューヨークの国連総会への出張を命じられ、そこで女性の先輩方や様々な人と一緒に仕事をしたことで乗り切ることができました。

 そして5年目。予想外に早く、26歳で結婚することになりました。相手は労働省の同期です。同期28人は仲が良く、勉強会や飲み会をよく行っていました。そのうちの1人で、相談しやすく、信用できる。一番の親友という感じでした。

 年を取っても、この人が茶飲み友達だったらいいな。でも、お互い結婚をしたら難しくなるかもしれない。茶飲み友達としてキープし続けるには、結婚するしかしょうがないか。それで結婚しました。

 えっ、上から目線で、そんな言い方をしてよいのかって? いいんです。向こうはもっとひどいことを言ってるんだから。

 《夫の太郎さんによると、同期のうち、女性は4人。「田舎出のイモ姉ちゃんだけど、誰かが責任を取って救済しなければならないから結婚した」という》

 何を相談してもすぐに理解して、冷静に判断してくれる。それに加えて「いいな」と思ったのは、食事と歩く時のテンポで私が困らなかったこと。人見知りの私は誰かと食事をすると緊張し、特に男性との食事ではそのスピードについていけないことがよくあった。また、男性と歩いていると、小走りにならざるを得ないこともよくあった。彼とはそういうことがない。一緒に暮らしていく上で、大切なことだと思いました。

 結婚から約35年たちますが、今も親友。例の事件があってからは、さらに絆が深まりました。ねえねえ聞いて。一番に話したくなる相手が夫というのは、ちょっと恥ずかしいけど、幸せなことだと思っています。

<17>子連れ赴任 善意に囲まれ

(2018年2月17日 読売新聞朝刊)

 1985年、29歳の時に長女を出産しました。育児休業制度などまだなかった時代。産休が明けて仕事に戻る時、子育て経験のある主婦などが日中、自宅で子どもを預かってくれる保育ママのお世話になることにしました。保育ママのことは先輩から教えてもらいました。

 《1歳未満の子どもを養育する労働者に休業を認める育児休業制度に関する法律は、91年に成立。92年から施行された》

 夫は北海道、私は高知の出身で、子育てを親に頼るという選択肢はありませんでした。0歳児を預かってくれる保育所も周囲にはありません。

 そんな中、乳飲み子の預け先を探すのは本当に大変でした。幸い、良い人が見つかり、お迎えが深夜になっても娘をお風呂に入れて待っていてくれたり、新米ママの私に母親の心構えを教えてくれたり。とても助かりました。

 長女が2歳の時、2度目の地方赴任が巡ってきました。長女を連れて転勤することにしました。

 赴任先は島根県にある労働基準局で、役職は監督課長です。実は島根に行く前、別の県に行く話が潰れたと聞きました。県庁では男性でも40歳近くにならないと課長になれないのに、30歳過ぎの女の私に来られては「秩序が保てない」と言われたそうです。

 そういう時代でしたから、管理職として受け入れてもらえるか、内心不安でした。しかも島根での仕事は、時短について企業の理解を求めるという、監督や取り締まりとは全く違う内容です。残業が美徳と思われている時代に時短をどう広めるか。年上の男性の部下や同僚と仕事を進めるにあたり、「自然体で身構えない」「仕事で多少は役に立ちそうだと思ってもらえる」ことを心がけました。

 赴任前、調査部門にいた経験から、県下の高校生や大学生に働き方の意識調査をすることを提案しました。質問は、「週休2日ではないが給料が高い会社」と「週休2日だが給料が安い会社」のどちらがいいか、「週休2日の場合、いくらまでなら週休1日と比べ給料が下がってもいいか」など。休みが多い方が学生にとっては魅力的な会社であることがわかり、啓発活動に弾みがつきました。

 職場や地元で「仲間」として受け入れてもらえたのには、娘の存在も大きかったと思います。「母娘の子連れ赴任は空前絶後です」と驚かれましたが、職員の方たちは保育所探しを手伝ってくれるなど、非常に協力的でした。飲み会や野球大会にも「連れておいでよ」と誘ってくれ、娘はビアガーデンが「ママの会社」だと思っていたほど。

 飲み会の翌朝、目覚めたらスーツ姿のまま畳の上にいた私。えっ、娘は? とても焦りましたが、娘はパジャマ姿で、布団の中できちんと寝ているのを見て、ああ、ちゃんと母親もやってるじゃない私、と大いに安心したのでありました。

<18>セクハラ 行政の問題に

(2018年2月19日 読売新聞朝刊)

 島根から1988年に東京に戻り、婦人局婦人政策課の課長補佐になりました。86年に施行された男女雇用機会均等法をいかに根付かせるかなど、女性政策に取り組みました。夫は長野に赴任していたので、保育ママの助けを借りながら、仕事と育児に奮闘する日々。夫不在の時に1か月のスイス出張が入り、4歳になった娘には「今日から合宿だ!」と言って、保育ママに預かってもらいました。今から思うと、相当、しんどい時期でした。

 課長補佐時代の仕事で思い出深いのは、セクシュアル・ハラスメントの研究会を作ったことです。

 性的嫌がらせ、いわゆるセクハラは海外では性差別、人権侵害と位置づけられ、訴訟リスクのある企業にとっては無視できない重要課題として認識されていました。一方、日本では問題視する声はありましたが、概念は確立しておらず、興味本位に取り上げるメディアも。「職場の潤滑油だ」「お堅いことを言うな」という雰囲気がまだまだ強かったように思います。

 《1990年6月25日の読売新聞には次のような記事がある。「職場でセクシュアル・ハラスメントを受け、誰にも相談できず悩む女性が多いことが、東京都労働経済局の平成元年度の労働相談結果で明らかになった。相談総数は373件。直接的な性的関係の強要が324件。職場でひわいな冗談を言われたり、ヌードのポスターを張られるなど、職場環境の相談は28件。相談者は、被害者である女性が9割を超えた」》

 セクハラは日本でも大きな問題になるだろう。深刻な被害が出る前に対策を講じておきたい。

 でも、研究会をすんなり作れたわけではありません。週刊誌が面白おかしく書くネタを行政が取り上げるべきではないというのが周囲の反応でした。企画書を男性上司に持参した際には、「女性上司が男性の部下にするのもセクハラと言うなら考えるよ」と冗談交じりに言われ、「もちろんです」と言って説得しました。

 次なるハードルは当時の大蔵省でした。研究費として約500万円を予算要求したところ、「必要性はわかった。でもセクハラという言葉はダメ」というのです。この言葉を一切使わずに企画書を今晩中に書き直してきたら予算をつけてくれるというので、みんなで必死に考えました。セクハラ研究会から「非伝統的分野への女子労働者の進出に伴うコミュニケーションギャップに関する研究会」に名称を変え、無事予算をもらうことができました。

 《99年施行の改正男女雇用機会均等法でセクハラ防止への配慮が企業に求められた。2007年施行の改正法では男性へのセクハラも禁止対象に加えられた》

 「マタハラ(マタニティー・ハラスメント)」「子どもの貧困」など、名前を与えることで課題の存在が明確になり、解決に役立つことがよくあります。言葉の力は大きいなと実感しています。

<19>障害者分野 豊かな世界

(2018年2月20日 読売新聞朝刊)

 婦人政策課にいた35歳の時、次女が生まれました。「子どもが生まれて良くなった」と先輩に言われ、思い当たる節がありました。部下に優しくなったのです。

 めったに怒らない私ですが、30代半ばまでは結構、後輩を叱っていた。でもね、娘たちを見て思ったんです。住んでいた公務員宿舎の庭で育てた花を見て、長女は花の色をまず言い、次女は花の数のことを言った。同じ環境で育った娘たちでも違うのだから、人によって感じ方や行動が違うのは当たり前。思い通りに部下が動いてくれないとストレスをためるより、個性を受け入れ、生かした方がいいなと。包容力がついたのかもしれません。

 41歳の時、課長になりました。まず思ったのは、家を買わなきゃということ。省庁の課長はそれなりに責任が重いポストだし、組織の意向と意見が対立した時、辞めたいと思うかもしれない。その時、宿舎を出るのに時間がかかるのはいかにもまずい。家を探し、数年後に引っ越しました。

 課長としての最初の職場は障害者雇用対策課。正直、戸惑いました。すぐ「差別的」と言われるのではないか、障害者団体とどう付き合えばよいのか。手足が縮むような感じでした。

 障害者を雇用している会社の社長に会うと、「障害のあるなしは関係ない。従業員の良いところを見つけ、いかにそれを生かして貢献してもらえるかを考えている」と言われました。障害者ではなく労働者として能力開発を考えているのです。それなら今までやってきた労働政策と同じです。怖さの呪縛が解けました。

 現場に行くと「常識」が覆されることもたびたびでした。知的障害の人たちが難しい漢字の打ち込み作業をしているのを見た時は目が点に。漢字を図形として認識しているのだと教わりました。こだわりの強い自閉症の方が、非常に精度の高い顕微鏡作りに携わっているのも見ました。

 障害者の雇用は女性の雇用問題と似ているとも思いました。誤解や偏見により、両者とも雇用市場で能力が十分生かされていない。「女には無理」の女の部分に「障害者」の文字がすっぽり入る。ただし、遅れている分野だけに、政策がはまると驚くほど成果が出るという経験もしました。

 《金融危機を受けた雇用対策の一環として、労働省は1999年、障害者のトライアル雇用を開始。1か月の実習と3か月の仮雇用後、企業と障害者双方が望めば本採用になった》

 3か月でクビを切る制度を作るとは何事かというお叱りもありましたが、「3か月間、企業で働いた実績は障害者の勲章になる。彼らの働きぶりを見れば雇い続ける企業は多いはず」という現場の声に後押しされました。実際、大半が継続雇用となりました。

 障害のある人はもちろん、支援している人もみな個性的で、熱くて、面白い。障害者の分野は驚くほど豊かな世界と知りました。

<20>支援費議論 眠れぬ日々

(2018年2月21日 読売新聞朝刊)

 2003年夏、47歳の時、障害者福祉の仕事を担当することになりました。公務員人生で一番きつい仕事だったかもしれません。

 この年の1月、厚生労働省には障害のある人たちが大勢詰めかけ、建物が取り囲まれる事態が起きました。寒空の下、厚手のコートを着た重度の車いすの人も何人もいました。

 4月から「支援費制度」という新しい障害者福祉の制度が始まるにあたり、利用者が急増して財源が足りなくなる恐れがあるため、厚労省は市町村への補助金に「上限」を設けて自治体や利用者間の公平を図ろうとしていました。それに反対した障害者や支援者の人たちが抗議に訪れていたのです。

 《支援費制度は、これまで行政が決めていた福祉サービスを、利用者が自ら選び、契約することで、地域で自立した生活を送れる仕組みを目指した。しかし、制度を利用しやすくしたのに、保険料を創設した介護保険制度のような財源確保策がなかったため、制度導入初年度から財源不足が露呈した》

 1月の頃は担当ではなかったけれど、なぜ取り囲まれたのかと思うじゃないですか。省内の勉強会に顔を出していたら、あいつは毎回勉強会に来ている、調整の仕事は向いていそうだから担当させてみよう、となったようです。

 理念は良くてもお金の手当てがないため、補助金を使い切ったら市町村が自分で持ち出すか、福祉サービスが削られるかしかない。それは避けたい。省内を回って予算を付けてくれるよう頭を下げ、必死にお金を集めました。でもこのやり方は限界があります。

 関係者が集まった検討会に私も関わることになり、二つのことを心に決めました。当時、障害者団体と厚労省の関係は険悪でした。まず、障害者の人たちの話を徹底的に聞くこと。次に、客観的なデータをそろえ、データに基づいた議論をすることです。

 障害者福祉を良くしたいというゴールは一緒ですから、途中で意見は割れても建設的な議論ができればと思っていました。でも、いざ会議が始まると空気がものすごくビリビリして。胸のあたりがヒリヒリして、泣きそうと思いながら仕事をしました。

 議論の中で、介護保険制度と統合するという話もありました。

 《「介護の社会化」を合言葉に2000年に始まった介護保険制度は、40歳以上の国民が保険料を負担し、原則65歳以上の高齢者がサービスを利用する。負担年齢を40歳から引き下げて、若い障害者も介護保険サービスを使えるようにする案が検討された》

 この案は実現しませんでした。サービスの内容や自己負担などへの不安から、障害者側から懸念の声が上がったこと、介護保険側も障害者まで対象とすることに躊躇ちゅうちょを感じていたからです。ではどうするか。眠ろうとしても眠れない日が続きました。

<21>障害者負担 批判あったが

(2018年2月22日 読売新聞朝刊)

 障害者団体との勉強会を重ねながら、今後どうすべきかを考え続けました。支援費制度では立ち行かないのは明らかなので、財政基盤のしっかりした新しい仕組みを作るしかない。そこで生まれたのが、2006年にスタートした「障害者自立支援法」です。

 《自立支援法は05年7月に衆議院を通ったが、郵政解散で廃案に。国会に再提出され、10月に成立した》

 この基本設計が省内で描かれたのは04年8月、改革案ができたのは10月です。

 09年に私が郵便不正事件で逮捕された時、大阪地検特捜部は、厚生労働省が政治家経由の無理な案件を引き受けたのは、障害者自立支援法案を通したかったからだとの筋書きを描いていました。でも、私が事業者から無理な頼みを受けたとされた04年2月は無論、証明書が作成された6月時点でも、法案はまだ影も形もなかったのです。

 新しい制度を作るにあたり、絶対に欠かせないのが安定財源の確保でした。支援費の時と異なり、かかった費用の半分は必ず国が負担する仕組みにしました。当時は、予算を聖域なく見直すと言われた時期。水が低い所から高い所へ流れるような、そんなことを財務省が認めるはずがないと省内でも言われました。

 なぜ国の負担を義務化できたのか。必要度に応じたサービス利用の基準を設け、利用者に原則1割の自己負担を求めたからでした。もちろん、低所得者への配慮はしました。しかし、後に違憲訴訟が起きたほど、1割負担導入への反発はすさまじかった。

 「息をするにも、排泄はいせつをするにも金がかかるのか」と言われました。「村木やめろ」。ビラがまかれ、国会では議員の先生方からも批判されました。「一生お金を払い続けるのか。生きていることに対するペナルティー(処罰)ではないか」。その言葉を否定できない気持ちもありました。

 とはいえ、サービスを行うには誰かが負担する必要があります。それに、財政規律を保つためには、一定の自己負担を設けるという考え方も合理的です。

 負担とは何か。公助や共助とは何か。障害を持ちながら生きるとはどういうことか。自立とは何か。

 みんなが満足する答えのない、難しい問題です。悩みましたが、迷いはありませんでした。既に壊れている制度を立て直すにはほかに道がなかった。予算の範囲内で限られた人しか利用できない制度より、一定の負担が生じても多くの人が確実にサービスを使える方がよいと思った。

 《自立支援法は、支援費制度が対象にしていなかった精神障害者も含めた。就労支援の強化も打ち出した。市町村にサービス提供の責任も負わせた》

 仕事には理屈じゃないところがたくさんある。相手からの信頼感や納得感が、決断の重要な決め手になる時がある。実にいろいろなことを考えさせられた経験でした。

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2018年1月31日