・[地球を読む]人生100年時代 問われる現代文明の意味…猪木武徳 大阪大学名誉教授(読売新聞)

 

(2018年1月29日 読売新聞朝刊)

 

 ・猪木武徳氏 1945年生まれ。大阪大学経済学部長、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授などを歴任。著書に「経済学に何ができるか」など

 世界有数の長寿国日本では今や、「人生100年」を標準ケースとして生涯計画を立てなければならなくなった。

 小児医療の発達は乳児死亡率を大幅に低下させ、生活習慣病の治療法は長足の進歩を遂げた。国民皆保険制度により低コストで良質の治療機会が提供されるようになり、食をはじめとする「生活の質」改善も目覚ましいものがある。

 日本で重化学工業化が進んだ1920年代前半の平均寿命は男性42・06歳、女性43・20歳。現在の約半分という短さであった。第1次大戦末期から推定30万人の死者を出したスペイン風邪と、約10万の人命を奪った関東大震災(1923年)の影響を割り引いても、この時期は文字通り「人生50年」の時代であったということになる。

 寿命の話になると、多くの人は「長寿ばかりがめでたいわけではない。いかに健康な状態で長生きできるかが問題だ」と反応する。いわゆる「健康寿命」が重要と言うのだ。

 物事への関心や欲望を失ったまま生きながらえるつらさは想像するに余りあるが、我々は死ぬタイミングを自分で選ぶことはできない。この厳粛な事実に向き合うと、100年ほどの間に平均寿命を倍に延ばした科学と技術を核とする現代文明の意味を、改めて問わざるを得ない。

 最近の科学ニュースによると、新しい「遺伝子編集」の技術は人間の生から「偶然」の要素を取り除き、生命をデザインして寿命を大きく引き延ばすことができるようになるという。素人の想像を超えるこうした変化に、果たして我々は精神的・倫理的に適切に対応していくことができるのであろうか。

 科学と技術が生み出す知的環境の変化に人間が適応していくことの最大の困難は、「文明」の恩恵を享受する人間が理性だけでなく、原始的な心情(本能)を併せ持っているところにある。この二面性はとかく忘れられがちだ。

 人は概して、理性を信仰し、「自分たちは昔の人間より知的に優れている」と考える傾向がある。そればかりか、人間が誇りとする理性が、生物学的実体(脳)の持つ凶暴さに支配されやすいことを認めようとしない。だが現実には、我々の考えや行動は、実に不確かで不安定な構造の中から生まれ出ているのだ。

 例えば、地下鉄の車中でゲームに没頭している人には、もはや「他者」は意識の内から消え去っているようだ。ゲーム依存症の子供も大人も、他者の心や立場を想像する心を持てなくなり、機械技術という無機的世界に独り没入してしまうのだと専門家は言う。

孤立の「野蛮」防ぐ理念を

 技術が人間の孤立化を促している例は、ゲームやインターネットにとどまらない。かつては教会や劇場で思いを共にする人たちと一緒に聴き入った音楽の世界でも、自室の高性能のオーディオ装置で独りで楽しむことが常態化してきた。人間の行為の多くが、「宴会型」から「独酌型」へと移ってきたと指摘する文明批評家もいる。

 こうした、個人の生に起こっている個人化、紐帯ちゅうたいの消失、あるいは分離現象は、広く社会や国家、さらには国際関係においても進行している。

 欧州連合(EU)のような国家統合を目指す連合体にも、共存の意思を捨て去ろうとする分離の動きが強まっている。米国の環太平洋経済連携協定(TPP)離脱に見られるように、自由で多角的な国際貿易の枠組みが2国間の個別交渉へと逆行して、分離の傾向を強めつつある。

 このような分離や個別化現象は、「人生100年」の時代にいかなる難題を我々に突き付けているのだろうか。一つは、高度の技術と、それを利用する側の精神のバランスをいかに保つかという問題だ。

 人類は技術の進歩から計り知れない恩恵を受けてきたが、科学技術の基底に横たわる合理的なもの、無機的なものによって我々の精神が解体されることに不安を覚えていることは否定できない。人間には感覚による経験を超えた「善きもの」への欲求があり、我々はすべてが物質に還元されて肉体とともに滅びる、という物質主義だけでは満足できないからだ。

 ジョナサン・スウィフトは『ガリバー旅行記』で、「不死人間」を超高齢者の極限形と考え、ラグナグ王国に一部生息する不死人間「ストラルドブラグ」についての興味深い観察を示している。主人公ガリバーは最初ストラルドブラグを絶賛し、自分が不死人間であればまずあらゆる手段を尽くして金もうけをし、様々な学術的成果を上げて国中で第一の学者になることを夢想する。自由な心を得て、死の不安から来る憂鬱ゆううつとも無縁になると考え、不死と現世の幸福をうらやましげに想像もした。

 しかしラグナグ人は、ガリバーの不死人間への羨望をわらう。実際のストラルドブラグは、老人一般が持つ弱点だけでなく、「不死」であることによる多くの欠点を併せ持っているというのだ。

 不死人間は頑固で貪欲なだけでなく、友人と親しむこともできなければ自然の愛情というようなものにも不感症となっている。そして青年たちの放埒ほうらつさを羨み、死という「憩いの港」に向かう普通の老人への嫉妬に燃える「野蛮」状態に陥る。命が延びるなら、同時に相応の魂の慰めが不可欠だということだ。

 「野蛮」の状態から脱し、「文明」を持続するためには、どうすれば他者と共存していけるのかという想像力が必要となる。反対派の存在を認めつつ共存することこそが、「文明」の本質なのだ。「野蛮」は、人が共存の意思を持たず、ただバラバラになって嫉妬と戦闘に明け暮れる状態を指している。

 実はデモクラシーにも、「野蛮」を生み出す危険性が潜んでいる。平等化は人々をバラバラにして私的世界に閉じ込め、共同の利益への関心を衰弱させる。こうした個人化の傾向は、科学と技術の力でさらに強まる。必ずしも折り合いの良くない「自由」と「平等」という二つの理念を、より高次のレベルで和解させない限り、デモクラシーと科学・技術は「野蛮」を生み出しかねないのだ。

 こうした視点から近年の政治を振り返ると、文明から野蛮の時代へと振り子が戻ったのではないかという不安に駆られる。それは夏目漱石が「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする」(『草枕』)と述べた懸念とも重なる。

 この漱石の予想を回避するためにも、科学と技術がもたらす文明の恩恵が「野蛮」を生み出さないようなバランスの取れた高い理念を、我々は新たに掘り起こさねばならない。そうした努力があってこそ、「人生100年」は長生きに値する豊かな時間を与えてくれるのではないだろうか。

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2018年1月29日