・[医療ルネサンス]いのちの値段 「適正」を探る<1>高額な抗がん剤と暮らす<2>高齢者のがん治療は多様<3>認知症配慮の治療体制を<4>他科の治療知らない医師<5>行き過ぎ手術? 痛み残る<6>「看取り」のはずが回復

<1>高額な抗がん剤と暮らす

(2018年2月13日 読売新聞朝刊)

 平根昌子さん(75)は、夫の厚さん(78)と歩く時間が好きだ。茨城県常陸太田市の丘陵地。自宅の庭で、コブシの白いつぼみが早春の風に揺れている。

 日立製作所を退職した厚さんと2人、この田園に移り住んだ。2013年、70歳で右肺に長径3・2センチの非小細胞がんが見つかった。以来、5年間、効果が切れるたびに別の抗がん剤に切りかえ、いのちをつないだ。厚さんの運転で毎月、国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)に通う。

 最初は、がん細胞を狙い撃つ分子標的薬「イレッサ」(02年発売)。現在の七つめが同種の新薬「タグリッソ」(16年発売)。イレッサの効果がなくなった患者の半数が対象になる。16年9月に服薬を始め、がんは1・8センチに縮小した。

 うれしかったのは、激しい副作用から解放されたことだ。「体の毒が抜けたみたい」。脳や腎臓、胸椎や大腿だいたい骨にもがんは転移したが、強い自覚症状はない。

 タグリッソの薬価は1か月あたり約70万円。高額なイレッサのさらに4倍弱だ。16年度、国内の抗がん剤売上額は9746億円。前年比14・5%増。この10年で1・7倍に増えた。高額薬の開発が続き、抗がん剤は12年、薬剤の最大市場となった。

 田舎の素朴な暮らしさえ最先端の抗がん剤と共にある――それが現代だ。

 70歳過ぎの自分にとって、「適正」な抗がん剤治療の基準とは何だろうと、昌子さんは考えてきた。

 副作用に追いつめられたことがある。下痢や39度8分の高熱に苦しみ、厚さんにおぶわれてトイレに行った。爪の周りが赤くはれあがって水にふれると激痛が走る。趣味の水泳もウォーキングもできない。畑の野菜にも気が向かない。

 少しのせきやむくみが気になり、平熱や元の体重を外れると不安になる。数値にとらわれ、豊かなはずの生活を見失ってしまう。

 それでも病気なりに、食事や買い物や入浴など最小限の身の回りのことができた。高齢者にとっては、治ることを目指すより、今の暮らしからマイナス要素を減らすことの方が重要なのだ。

 だから体力を失わないよう、今も毎日のストレッチや4キロのウォーキングを欠かさない。「電話で孫の声を聞いた」「信号で止まらず車が街に着いた」など、日常に小さな喜びを見いだし、気持ちでも負けない。

 先月、告知を受けた。肺のがんが再び直径2・5センチに広がった。現時点では、この先に使える薬がない。

 2日後。裏山に登り、太平洋の海を眺めた。陽光できらめき、水平線のかなたへ続く海。昌子さんは大自然のいのちの賛歌を感じていた。  (この項続く)

<2>高齢者のがん治療は多様

(2018年2月14日 読売新聞朝刊)

 テーブルがあるテラスに出て、夫の厚さん(78)とお茶を楽しむ。茨城県常陸太田市の自宅で、平根昌子さん(75)は、肺がん治療と学びの日々を思う。

 国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)の初診から4年後。昨年7月の誕生日に、やっと「高齢者」になった。肺がん治療では一般に、75歳以上を高齢者とみなすからだ。肝臓や腎臓が衰え、抗がん剤の副作用が強まる。糖尿病や血管障害など合併症が増え、治療のリスクも高くなる。

 「でも、個人差が大きいな」が、昌子さんの実感だ。2014年以降、抗がん剤の点滴治療で肺がん患者の病室に入院した時も、みんなの姿は多様だった。自分と同じ進行度が最も重いステージ4の80歳代でも、朝夕の食事や入浴以外は寝ている人がいれば、一緒に散歩をする人もいた。

 大半の抗がん剤の臨床試験は、70歳代前半までが対象だ。全国の現場では、家族や医師が「十分生きたから」と検査や治療を控えたり、現役世代と同じ治療を行ったりと、高齢者の治療はばらつきがあるという。

 ステージ4の非小細胞肺がんで、積極的な治療を控えている割合は、75~84歳で30・2%、85歳以上で58・0%。昨年、国立がん研究センター(東京都)のそんな調査も発表された。

 「高齢者の延命が無意味なんてことはあり得ない。でも、QOL(生活の質)を損ねた延命には意味がない」と、信頼する呼吸器内科の主治医、仁保にほ誠治さん(49)は言う。高齢者と抗がん剤治療の「適正」探しはまだこれかららしい。

 千差万別の高齢者のなかで、自立し、最先端の病院で最善の治療を受けられる私は幸せだ。厚さんもその気持ちを共有している。

 今月7日、厚さんと同センター東病院のがん相談支援センターを訪ねた。元気なうちに、地元で緩和ケアを受ける準備を進めることになった。頼みの綱の分子標的薬「タグリッソ」の効果は薄れている。

 もう、じたばたしない。移ろう時を大切にしよう。夫を一人にはしたくない、早世した弟の生きられなかった生をもう少し生きたい、5人の孫の成長を見届けたい、とも思うけれど。

 昨年1年間、窓口で支払った医療費は約54万5000円。民間保険の補填ほてんもあり、自己負担は交通費を合わせて25万円弱だった。軽い負担で済んでいるのは税金が使われているからだ。そのことで孫の世代へ支援が圧迫されないか。申し訳ないと感じる。先進医療を受けられる特約付きの医療保険を孫にかけた。

 5月、平根夫妻は金婚式を迎える。

<3>認知症配慮の治療体制を

(2018年2月15日 読売新聞朝刊)

 東京都内の主婦(78)は2016年7月、杏林大学病院(東京都三鷹市)で虫垂がんの手術を受けた。すでに初期のアルツハイマー型認知症を患っていた。

 独り暮らし。観劇が好きで、海外旅行にも出かける行動派だ。ただ、食事したことを覚えていない。時計やはさみを何度も買う。

 抗がん剤治療をすれば、余命を1年から2年に延ばせるかもしれない。手術後、主婦は、抗がん剤治療を望んだ。次女(51)は、繰り返し確認した。意思を尊重したいが、それが本心か確証がない。家できちんと服薬できるかも心配だ。

 飲みやすい錠剤の抗がん剤が増えたとはいえ、高齢者が自宅で服薬するのは大変だ。飲み忘れだけではない。副作用の下痢で脱水症に陥るなど、簡単に日常生活が乱れかねない。まして、認知症――。

 腫瘍内科の主治医は、担当看護師、薬剤師、もの忘れセンターの医師、主婦を担当するケアマネジャーを集めた。ケアマネはがんにも認知症にも通じたベテランだ。専門性の高いメンバーたちが意見を持ち寄り、主婦にとって「適正」な支援方法は何かを探った。

 主婦は「意思決定能力がある」と判断された。「治療の目的は?」との質問に対し、「長生きできる」など的確に答えた結果を医学的に分析した。

 一人で服薬することは無理とされ、自宅と外来での点滴による抗がん剤投与を検討した。治療指針に基づくなら、胸の皮下に100円玉大の器具を埋め込み、この器具に外から針を刺して薬剤を注入する。

 だが、主婦の生活を見てきたケアマネは「治療中なのを忘れるかも。これ何?と針を抜く恐れがある」と切り出した。もの忘れセンターの医師も同意見だ。毎週通院し、主治医が点滴を担うことになった。

 16年11月から約半年間、計24回の通院時の送迎は、次女とヘルパーで支えた。大きな副作用はなく、治療は無事に終了した。

 器具の埋め込みを選べば、通院回数は半分になるが、医療費は初期の入院費、薬剤費で計約62万円。今回、主婦の治療にかかった薬剤費は約47万円(うち自己負担額は約5万円)。主婦の満足度も高かった。

 入院先の病院が診療報酬を得られるケースは、在宅医療を前提とした関係者の会合(2万4000円)や、介護サービスの開始前にケアマネが加わった会合(4000円)など。治療方針のために会議を開いても報酬はつかず、常設化は難しい。杏林大の長島文夫教授は「認知症を抱えるがん患者が増えている。支えるシステムの充実が必要だ」と話す。

主婦は今、東京五輪・パラリンピックを観戦することを楽しみにしている。

<4>他科の治療知らない医師

(2018年2月16日 読売新聞朝刊)

 前立腺がんを治療中の東京都の男性(62)は、主治医を務めた2人の泌尿器科医への不信感が消えない。

 1人目には、手術に誘導されたように感じる。2011年、前立腺がんを患い、手術実績がある病院を探した。確かに手術の説明は詳しかった。悪性度が高く、再発率は15%。後遺症は、排尿障害の確率が15%。会社勤めだから、尿もれだけは避けたい。

 がんの専門病院で放射線科医の意見も聞きたかった。タレントの間寛平さんが放射線で前立腺がんを治療し、マラソンを完走した記事を目にしたからだ。

 だが、泌尿器科医は「専門病院でも手術をして放り出されるだけ」「放射線を最初に選ぶと、再発時に受けられない」と一蹴いっしゅうした。

 3割負担の約30万円で受けた手術後は、尿吸収パッドが手放せなくなった。宴会の席などで酒を飲み、大量に尿が漏れて座布団を汚したこともある。

 放射線治療では膀胱ぼうこうや腸が傷つき出血する人もいるが、排尿障害のリスクは低い。治療成績は手術とほぼ変わらない。一般の放射線治療なら、2か月程度の通院で約30万円。自分は対象外かもしれないが、放射線を放出するカプセルを前立腺に入れる小線源療法は4日で約40万円――。そうした情報を何も知らずに、手術を受けたことが悔しい。

 16年、前立腺がんが再発した。別の病院に通い、2人目の泌尿器科医からホルモン療法を提案された。がんの増殖に関わる男性ホルモンの働きを薬剤で抑える。ほてりなどの副作用に加え、数年後に効かなくなる可能性がある。月の医療費の負担は1万~2万円程度という。

 念のために放射線科医の紹介を頼むと、泌尿器科医はやはりムッとした。

 患者会などから情報を集め、結局、計30回の放射線治療を受けた。出勤前、午前8時半からの1時間を使った。がんを示す血液検査の値は正常値に下がった。

 結果を知った泌尿器科医が、驚いた顔で言った。「えっ、こんなに効果があるのか!」。驚くのはこっちだ。放射線治療が万能ではないだろうが、他科の状況を知らず、患者の「適正」な治療が行えるものか。

 前立腺がん治療を巡る技術の進歩は目覚ましい。現場に詳しい医師は、「最新状況を全て把握するのは困難」と打ち明ける。12年に保険適用された手術支援ロボット(1台約3億円)については、「若手医師を確保するために導入する病院もある。投資額を回収しようと、過度に手術を促すこともある」と語る。

 男性は、つぶやかずにはいられない。悔いのない判断をしたいだけなのに、なぜこうも苦労する。主治医を全面的に信頼できない患者ほどつらいものはない。

<5>行き過ぎ手術? 痛み残る

(2018年2月19日 読売新聞朝刊)

 腕のよい整形外科医が院長になったらしい。女性(78)は地元の葛西中央病院(東京都江戸川区)を訪ねた。腰が激しく痛み、座り込んでしまう。2014年11月のことだ。

 撮影したレントゲン写真を見て、院長の土谷明男さん(44)が、驚いた顔をしたような気がした。

 その4年前、別の病院の脳外科で腰部脊柱管狭窄きょうさく症の手術を受けた。職場のコールセンターで同僚が「いい先生がいるみたい」と薦めてくれた。焦っていた。煩わしい腰痛を完璧に治し、まだ一線で働きたい。

 だが、半年後、消えていた痛みがぶり返した。しばらくすると、病院は巨額の赤字を抱えて破綻。執刀医と連絡は取っていない。

 背骨の腰部分(腰椎)は、5個の骨が縦につながっている。腰椎の中央にはトンネル状の神経の通り道「脊柱管」がある。加齢により腰椎や軟骨、靱帯じんたいなどが変形すると、脊柱管を狭め、なかの神経を圧迫する。

 手術では、腰椎5個のうち4個の背中側を縦に切ってごっそりと取り、空いた空間にセラミック製の人工骨を四つ、かませた。土谷さんにはこの手術が「やり過ぎ」と映った。

 症状を引き起こす神経の圧迫部分だけを取り除く手術法がある。それなら、腰椎を4個も手術する必要はなく、人工骨もいらない。下肢のしびれなど危険な症状がないのに、手術をする発想も疑問だ。

 大きな手術を受けたことで、体の支え方のバランスが崩れた。負担が増した筋肉の痛みが腰痛の原因ではと、土谷さんは考えた。

 女性の手術で病院が得る金額は約60万円(現在の診療報酬で算定)。腰椎を4個手術した場合の手技料は、1個の場合の2・5倍。人工骨の仕入れ額と売却額の差額も病院の利益になる。圧迫部分だけの手術なら13万円程度という。

 最も適正な治療といえる手術(手術適応)を巡り、どの選択が正解だったのか、今となっては分からない。画像と症状が必ずしも一致せず、痛みの正確な原因も特定できない。残された痛みだけが、依然、女性を苦しめる。「もう痛いのは嫌だ」と、女性は言う。

 背骨の治療は、よい手術をしたとしても痛みやしびれが完全になくならないことがある。そのあいまいさのなかで、患者のQOL(生活の質)を考えなければならない。手術の満足度の決め手が、執刀医との信頼関係によることも多い。

 「痛みは取れないかもしれない。でも、私は、一生おつきあいします」。診察室で、土谷さんは女性に語りかけた。人間的なコミュニケーションなしに痛みの治療はありえない、と感じている。

<6>「看取り」のはずが回復

(2018年2月20日 読売新聞朝刊)

 脳梗塞こうそくを患い、救急病院にいた渡辺てる子さん(96)は、「瀬戸みどりのまち病院」(愛知県瀬戸市)に転院した。昨年7月、娘の森本臣世たみよさん(70)と信夫さん(71)夫妻の決断だった。

 この病院には、長期入院の高齢患者が入る「療養病床」(146床)がある。

 救急病院で、夫妻は看取みとる覚悟をした。体が弱ってから、てる子さんは「もう十分生きた」が口癖だった。不自然な延命治療はさせたくない。水分と最低限の栄養を入れた点滴以外の治療はせず、「もってあと1か月」と言われていた。

 夫妻の心が乱れたのは、てる子さんが小さなゼリーを口にふくんだ時、喉仏がかすかに動いたからだ。十分な栄養ではないが、口から食べられるうちは食べてほしい。親のいのち、簡単には諦められない。

 転院時の書類の引き継ぎ事項には、「お看取りで」と書かれていた。

 ところが、信じられないことが起きた。転院後、高カロリーの輸液を一時的に入れて体力をつけ、ベッド上に座る練習や、とろみをつけたお茶をのみ込む訓練を続けると、てる子さんがみるみる回復したのだ。ペースト状の煮物や焼き魚も食べるようになった。ひ孫には、「よう来たな」と笑顔まで見せる。諦めなくてよかったと夫妻は思った。

 みどりのまち病院では、転院してくる高齢患者に変化が起きていた。かつては体に管を埋め込んで人工的な栄養で命をつなぐ患者ばかりだったが、過度な延命治療の反省からか、この1、2年、「お看取り入院」の患者が増えた。治療は点滴だけで、ほとんどは1か月ほどで亡くなっていく。

 院長の浅井健次さん(45)は、そのなかに回復の見込みがある人がいることに気づいた。食べられる人、話せる人は家族と相談して、てる子さんのような治療を試みた。昨年1年間で、がん以外の「お看取り入院」は37人。このうち、てる子さんら3人が元気になった。

 療養病床では、人工呼吸器の装着など濃厚な治療を受けるほど入院基本料は高い。最高額は1割負担で1日1810円。濃厚な治療を続けるほど、社会が負担する医療費も増えていく。

 高齢者の「適正」な入院治療とは何だろう。親のいのちに、どこで線を引くのだろう。夫妻は手探りで考えるしかなかった。過剰な延命治療も、回復する余地があるのに看取りに向かう過少な医療も、いずれも正解とは思えない。

 昨年11月、てる子さんは退院した。「ここまで来たら、100歳まで生きて」と、臣世さんが笑った。(鈴木敦秋、米山粛彦、館林牧子)

(このシリーズは全6回)

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2018年2月13日