使徒的勧告「Amoris Laetitia愛の喜び」で「家庭」を考え、実践するための勧告全訳(一部抄訳)と分かち合いのヒント(9月2日更新)

使徒的勧告「Amoris Laetitia愛の喜び」で「家庭」を考え、実践するための勧告全訳+分かち合いのヒント

                                   作成・翻訳:「カトリック・あい」南條俊二

 はじめに  

 カトリック教会刷新の先頭に立っておられる教皇フランシスコは「福音の喜び」に続く使徒的勧告として2016年4月、「愛の喜び」を発表されました。現代の教会のあるべき基本的スタンスを世界に示した「福音の喜び」を受けた「愛の喜び」は、教皇が最重要課題として考えておられる「家庭をめぐる諸問題と教会の対応」を取り上げたものです。

 「愛の喜び」を全世界の教会、信徒に勧告するのに先立って、教皇は2014年、2015年と二年連続の全世界司教会議(シノドス)を招集し、議論を深めました。その成果をもとに「愛の喜び」はまとめられ、これを受けて、世界各国の教会では信徒を巻き込んだ学び合いから実際の行動へ取り組みが始まっています。「愛の喜び」を踏まえ、さらなる教会の課題として、教皇は「若者の現実と召命」を取り上げ、今年中に世界の教会、信徒、若者たちの声を吸い上げたうえで2018年秋にシノドスを開いて、具体的な取り組みについて議論を深めようとしています。

  残念ながら、日本の教会では、この使徒的勧告が2016年4月に発表されたにもかかわらず、翻訳が大幅に遅れ、信徒の間にその内容はもちろん、勧告が出たことさえ十分に知られ無い状態が続いていました。日本の教会は、教皇が進める世界の教会の大きな流れから取り残されようとしています。「愛の喜び」には、日本の教会が真剣に取り組むべき、しかも現在はほとんど取り組まれていない具体的な課題が多く含まれています。このような日本の教会の状態の中で、「カトリック・あい」では2017年2月から、微力ながら、使徒的勧告の公式英語文からの私的翻訳に手を付けました。

  使徒的勧告を学び、実践の方策を模索していくのは、現在の日本、日本の教会が抱えている問題を前向き、具体的に解決していくためにも必要なことと考える、心ある教会関係者の声を受けて、「愛の喜び」の抄訳(日本の信徒にとって重要と判断する項は全訳しています)テキストを作成、ホームページ上で公開し、活用していただきたい、という心からの願いからでした。

  抄訳や「分かち合いのヒント」については、“The Joy of Love-Group Reading Guide, Bill Huebsch, Twenty-Third Publications 2016”を参考にさせていただきました。

  幸いと言うべきか、カトリック中央協議会から2017年8月30日付けで、使徒的勧告「愛のよろこび」(2000円+税)全訳がようやくにして発行されることになりました。先に申し上げた通り、「カトリック・あい」は日本語訳を2月から開始し完成した章から逐次掲載してきましたが、9月2日に勧告全文の翻訳(一部抄訳を含む)を完成、以下に掲載しました。

 日本語への翻訳は、とくに勧告で教皇が引用された文書類が難解なものが少なくなかったこともあり、決して容易ではなく、訳文には「カトリック・あい」版、中央協議会版それぞれに、一長一短があるようです。「カトリック・あい」では、勧告本文と共に、「学び合いの進め方の参考」、本文に「分かち合いのヒント」も挿入しました。学び合い、分かち合いに生かしていただければ幸いです。バチカンのホームページ(Holy See)で英独仏伊など主要言語の公式訳をご覧になれます。ご活用ください。

 

テキストの内容

使徒的勧告「愛の喜び」は序章と本文9つの章で構成されています。

 序章と第1章「み言葉の光に照らされて」

 第2章「現実と家庭の挑戦」(英語訳は「家庭の現実」)

 第3章「イエスに向かう眼差し-家庭の召命」

 第4章「結婚生活における愛」(英語訳は「結婚生活における愛を考える」)

 第5章「愛は豊かになる」(英語訳「愛は実り多い」の方が実体に近い)

 第6章「いくつかの司牧的展望」(英語訳は「結婚と離婚についての司牧的観点」)

 第7章「子供の教育の強化」(同じく「より良い子供の教育に向けて」)

 第8章「弱さを見守り、判断し、補う」(英語訳は「結婚生活の弱さに寄り添い、識別し、包み込む」

 第9章「夫婦と家族の霊性」(英語訳は「結婚生活の霊性」)

 

学び合いの進め方の参考

初めの祈りを全員で唱えます。

 「幸いである、主を畏れ、主の道を歩むものはみな。あなたは、自ら労苦して得たものを食べ、幸いと恵みを受ける。あなたの妻はぶどうの木のようだ、家の奥にいて、実を結ぶ。あなたの子らはオリーブの若木のようだ、彼らはにぎやかに食卓を囲む。主を畏れる者は このように祝福される」(詩編128章 家庭の幸福)

*参加者は、使徒的勧告「愛の喜び」を項目ごとに順番に声を出して読みます。

*それぞれ、自分が重要と感じた個所にしるしをしておきます。勧告の内容をさらに深く知る必要がある、と感じた場合は、原文と照合して読むようにします。

*読み終えたら、祈りのうちに黙想します。

*参加者は、順に、今日読んだ箇所で教皇が伝えようとされている大事なポイントを一か所か二か所を指摘し、簡潔に感想や意見を述べます。参加者の勧告の内容に受け止め方は当然、異なって構いません。「正しい」答えが存在するわけではないことに留意し、他の方の意見の中から学ぶことのできる内容をくみ取り、批判は慎みます。

*最後に、祈りと心のこもった挨拶で締めくくります。

 教皇フランシスコの使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」本文(抄訳を含む) 

 序章 

1.~7.抄訳

 (勧告の意義)

「家庭生活における『愛のよろこび』の体験は、教会の喜びでもあります。・・結婚の制度・慣習に多くの危機の兆候が出ているにもかかわらず、結婚して、家庭を持ちたい、という願望は、とくに若者たちの間でなお強く・・それに応えるものとして、キリスト教徒の家庭生活に関する意思表明は、実に“よき知らせ”なのです」

家庭をテーマとした二度のシノドスでの議論を通じて「家庭生活をめぐる問題の多様さ、複雑さが明らかになり、教義上、道義上、霊性上、司牧上の数々の課題について、幅広い議論を続ける必要があることが認識されました」

「『時は空間に勝る』(「福音の喜び」222項)のですから、教義上、道義上、あるいは司牧上の議論のすべてを、教導職(教皇と司教たち)が介入して解決する必要はない、ということを明確にしておきます。教会の教えと実行の一致は確かに必要ですが・・・それぞれの国、地域は、それぞれがもつ文化、伝統や求められるものの影響を受ける形で、解決策を立てることができるのです」

「この勧告は、2016年が『いつくしみの特別聖年』であることで、とくに時宜を得たものになりました」。それは「勧告が、キリスト教徒の家庭に対して、結婚と家庭生活という贈り物を大切にし、寛大さ、献身、貞節、忍耐の徳で強められる愛の中で、保ち続けるように勧めるもの」であり、「不完全で、平和とよろこびを欠いた家庭生活のどの場においても、いつくしみと親密さのしるしとなるよう、一人一人を励まそうとするもの」だからです。

 (勧告の流れ)

・・勧告では(第1章)で聖書に霊感を受けて最初の章を始め、適切な基調を定めます。

(第2章)で現実にしっかりと根を下ろした姿勢を維持するために、家庭の実際の状況について考察し

(第3章)で結婚と家庭に関する教会の教えの本質的な側面を思い起こし、愛に捧げられた二つの中心的な章(第4章、第5章)への地ならしをします

(第6章)で神の計画に合わせた健全で実り多い家庭の形成に私たちを導くことのできる司牧的取り組み方に焦点を当てます

(第7章)を子供たちの養育に充て、

(第8章)でいつくしみへの招きと主の私たちへの期待に及ばない状況について司牧上の識別を提示します。

(勧告の読み方の勧め)

・2年にわたるシノドスの過程の豊かな実りを受け、勧告は、多岐にわたる様々な問題を取り扱います。それゆえ、ある程度の長文となることが避けられず、私(教皇)は、勧告全文を速読することはお勧めしません。

・家庭をもつ方々自身、家庭生活に関わる使徒職に携わる方々にとって、各章を忍耐強く、注意深く読む、あるいは、それぞれの立場で特に必要と判断される内容を注意を払って読むのがいいでしょう。

・例えば、結婚したカップルは、第4章と第5章にもっと関心を持つでしょうし、司牧者の関心は第6章、そして誰もが第8章から課題を提示されているように感じるに違いありません。私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、家庭生活を愛し、育むように呼ばれていると感じること。なぜなら、「家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会」だからです。

第1章 み言葉の光の中で

8 聖書は家庭についての物語、出産と深い愛と難局を乗り越える物語で満ちています。創世記第一章のアダムとイブに始まって、ヨハネの黙示録21章の花嫁と子羊の婚宴で締めくくられる、その聖書の中で、神は、私たちに家族として語りかけています。そのような家庭に、今、入っていきましょう。そしてその意味について思い起こしながら、詩編の128章*に導いてもらいましょう。

*詩編128章 家庭の幸福

    幸いである、主を畏れ、主の道を歩むものはみな。

    あなたは、自ら労苦して得たものを食べ、幸いと恵みを受ける。

    あなたの妻はぶどうの木のようだ、家の奥にいて、実を結ぶ。

    あなたの子らはオリーブの若木のようだ、彼らはにぎやかに食卓を囲む。

    主を畏れる者は このように祝福される。 以下略 (「聖書」フランシスコ会聖書研究所訳より)

 

あなたとあなたの妻

9 穏やかな家の中に入りましょう。家族が楽しさにあふれて食卓を囲んでいます。中心には父親と母親、愛のある人生をおくってきた夫婦がいます。彼らは、キリストご自身が語られた神の計画を具体的に表現しています。キリストは「あなた方は読んだことがないのか。創造主は初めから、人間を男と女とに造ったことを」(マタイ福音書19章4節)と語られました。私たちは、創世記にある戒めのこだまを聞きます。「それ故、男は父母を離れて、妻に結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)

10 私たちは、創世記の初めの箇所で語られているように、愛のために、神の似姿、男と女として創られ、夫婦のもたらす多くの実りは神の御顔を映しています。

11 そのような実りの多い愛は、神ご自身の内面のいのちの象徴となります。いのちを生む夫婦の力は、魂の救いの歴史を進める生き方なのです。家族の共同体は三位一体、父と子と聖霊の共同体と似ています。聖パウロがキリストと教会の和合を夫婦になぞらえているのもそのためです。

12 イエスはマタイ福音書19章5節で、親密で厳粛なもの、率直な出会いとして結婚の絆を語った時、創世記の第二章を念頭に置いていました。「二人は一体となった」というように。ソロモンの雅歌では、次のように素晴らしい表現で語られています。「わたしのいとしい方はわたしのもの。わたしはあの方のもの・・わたしは、いとしい方のもの。わたしのいとしい方は、わたしのもの」(2章16節、6章3節)。

13 結婚の和合は、このように親密で、ぴったりと寄り合い、体と心の、一生続く結びつきです。夫婦の愛情は子供たちとつながり、家庭となるのです。

 

あなたの子供たちはオリーブの若木

14 詩編ではこのように表現されています。家の中では夫と妻がテーブルを囲み、子供たちがエネルギーと元気いっぱいに、「オリーブの若木のように」(128章3節)その傍らに座る。歴史を通して、子供たちの存在は、世代から世代へと続いていく家族のしるしです。

15 私たちの家が、神の絶えることのない現存と愛に満たされている時、家族は「家庭の教会」になります。そのようにして、神は私たちに恩寵をくださるのです。

16 家庭はまた、子供たちが信仰のうちに育つ所です。両親が子供たちの最初の教師となり、世代から世代へ、信仰は受け継がれていきます。

17 両親は、子供たちを教育するという重大な責任をもち、その一方で、子供たちは両親を尊敬し、従わねばなりません。

18 子供たちは主体性をもって生き、ある時点で、両親への尊敬を抱きつつ、彼らから離れなければなりません。

【分かち合いのヒント】

・家庭についての皆さんそれぞれの経験を分かち合いましょう。あなたの場合、「家庭の教会」作りはどのように行われましたか、それとも、どのような失敗がありましたか?

・教皇の以上のような理想的な家庭の説明を、あなたの経験から、その通りだ、と思いましたか?違うという印象を持ちましたか?あるいは・・?

 

苦難と流血の道

19 詩編の128章に描かれた理想的な姿は、聖書の中に現れる過酷な現実‐家庭と命と愛の交わりを破壊する苦痛と害悪、暴力‐と矛盾している訳ではありません。家庭は時として、ばらばら、散りじりになります。

20 それは、人類の初めのころからあったことです。カインは自分の兄弟を殺しました。歴史を通じて、家庭がもとになった争いは、いつも物語の構成要素となってきました。

21 イエスご自身は質素な家庭に生まれ、すぐに異国の地に逃れました。公生活に入ってからは、ペトロの家をほうもんした時、病んでいる彼の義理の母に会い、ヤイロとラザロの家では死の悲しみに同情するなど、病気の子供たち、死、離婚、悲痛、緊張、そして暴力についてさえも耳を傾けています。

22 このような全てから、神が抽象的な考えを私たちにお教えになるではなく、私たちの人生の旅路に寄り添って下さるのだ、ということを、知ります。私たちは神の愛に希望を置き、「神は人々の目から、涙をことごとくぬぐい去ってくださる」(ヨハネの黙示録21章4節)のです。

【分かち合いのヒント】

・あなたは、家庭が困難に出会ったり、家庭が崩壊するような経験をしましたか?それはどのようなものでしたか?知人の家庭ではどうでしょうか?

あなたの手の働き

23 詩編128章は、働くことが人生の不可欠な部分だということを私たちに思い起こさせます。私たち人間の尊厳は、私たちの手の働きに源を発しています。私たちは「耕し、守るように」(創世記2章15節)大地を託され、今もなお、私たちの仕事となっています。

24 そのような働きが、父親によるものであろうと母親によるものであろうと、家庭を支えます。

25 それゆえ、職を失うことは苦しみを引き起こし、家庭生活に深刻な損害をもたらすのです。

26 同じように、人々が自然を乱用し、大地を損ない、社会的な均衡を崩す時、悪が生まれます。

抱擁のやさしさ

27 イエスが私たちにお示しになった家庭生活の原則は、自らを他に与える愛です。「そのような愛は、いつくしみと赦しの中で実を結びます」。

28 結婚と家庭のキリスト教徒の経験の中心に置かれる「愛」の背景に、他の徳目が際立っています。それは、熱に浮かされた、表面的な私たちの人間関係においてしばしば見過ごされているもの、「やさしさ」です。詩編131章*の心動かされる言葉を思い起こしましょう。「乳離れした幼子が、母のふところに憩うように、私の魂は私のうちに憩うています」。聖書の言葉は、「やさしさ」のイメージを提供し、神が私たちを、これと同じ「やさしさ」で愛して下さっている、ということを思い起こさせるのです。

  *詩編131章 幼子のような信頼

    主よ、私の心は思い上がらず、私の目は驕り高ぶりません。

    私は大いなることも、身に過ぎた、奇(くす)しきことも追い求めません。

    むしろ、私は魂を鎮め、和らげました。

    乳離れした幼子が、母のふところに憩うように、私の魂は私のうちに憩うています。

    イスラエルよ、主を待ち望め、今からとこしえに。(同前)

29 子供を授かり、育てることは、父と子と聖霊の生き方を反映しています。神の創造的な働きは、家庭において成し遂げられます。それが、家庭が祈りと愛、教会における暮らしに呼ばれている理由なのです。

30 聖家族は私たちの模範です。聖家族の日々の暮らしには、重荷や悪夢も存在しました。今日、多くの難民の家族が暴力から逃れるように、聖家族はヘロデの信じられないような暴力から逃れました。マリアとヨゼフは勇気をもって立ち向かいました、そうした聖家族の中に、私たちも家庭生活の意味を見出すのです。

【分かち合いのヒント】

・家庭において重要な役割を果たす、自己を捧げる愛とやさしさについて、どのように考えますか?実際に家庭生活を続ける中で、どのような経験、反省がありますか?

  

 

第2章 家庭の経験と課題

31.家庭が幸せであることは、世界と教会の将来にとって極めて重要です。こうした見地から、司教の皆さんが会議で表明された家庭の現状についてのいくつかを取り上げ、私自身が気にかけていることを付け加えます。

家庭の現実

32 キリストの教えに忠実に、あらゆる複雑さの中に置かれた今日の家庭の現実に、私たちは目を向けます。光と影とともに・・。私たちの時代の人類学的、文化的変化は、生活のすべての面に影響を及ぼし、分析的で多様な取り組みを求めています。何十年か前に、スペインの司教たちは「家庭が義務と責任と仕事を公平に分配することで、自由度を増している」と指摘しました。実際、配偶者の間の意思疎通が、以前よりも重きを置かれるようになり、それが家庭生活が以前よりも人間的にされるのを助けるようになっています。

今日の家庭は、家事がこれまでよりも平等に分担され、これまでよりも大幅に自由になっています。家庭生活の古い形は、新しい形に変わっています。一方で、現代の社会も、これから向かおうとしている社会も、古い形や典型が無批判のまま存続するのを認めません。また、人類学的、文化的な変化の中にある重要な傾向が、個々人に「個人的生活と家庭生活の中で社会制度から受ける助けを年々減らしていくように導いている」のがはっきりしています。

33 その一方で、行き過ぎた個人主義に代表される危険が増していることにも、同じように配慮する必要があります。家族の絆を弱め、果ては家族一人ひとりをバラバラな単位とみなし、ある場合には、「個々人の人格は、それぞれの願望によって形成される、それが絶対なのだ」という考えをもたらすような危険です。物欲と快楽にとりつかれ、行き過ぎた個人主義尊重の文化が作り出す緊張が、家庭に、不寛容と敵意を引き起こします。

ここで、現在の動きの速い暮らし、ストレス、社会と労働の組織もこうした問題に含めようと思います。なぜなら、これらすべては永久不変の決断に不利な影響を与えるからです。私たちはまた、大きく広がった不確実性と多義性にも直面しています。例えば、私たちは、画一的な物を否定し本物を大事にする「個性主義personalism」に価値をおきます。この考え方は、自発性を伸ばし、才能の活用を可能にしますが、方向を間違うと、絶え間ない猜疑心、約束を守ることへの強迫観念、自己中心、傲慢などを助長してしまいます。

選択の自由は、人生の計画を立て、自分自身を最大限に生かすことを可能にしますが、崇高な目標や個人的な規律を欠くと、動きが取れなくなり、他者に自分を渡すようになってしまいます。実際のところ、結婚の件数が減っている国では、一人で暮らすか、一緒に住むことをせずにただ二人で時間を過ごすのを選ぶ人々がとても増えているのです。社会正義への賞賛に値するような配慮も、誤解されると、住民たちを、奉仕を受けることだけに関心のある〝お客″にしてしまいます。

34 このような要素が家庭についての理解に影響を与える時、家庭は、個人的な欲求と環境の変わっていく風の流れに人間関係をまかせる一方で、必要な時に助けてもらえる小さな駅、あるいは権利を主張できる舞台装置のように見なされるのです。大事なことですが、今日、本物の自由を、個々人が勝手気ままに振る舞うことができること、と間違いやすい。まるで、指針となるような真理、価値、道義が存在せず、何でもできる、許されるかのようです。

二人の間での揺るぎない約束で特徴づけられた結婚の理想の姿は、不快や倦怠が生じると、わきにどけられてしまいます。孤独になることの恐れ、安定と貞節への強い希望は、個人的な目標達成を邪魔するような関係の中で「罠にはまってしまうのではないか」という恐れの高まりと、隣り合わせです。

35 キリスト教徒として、私たちは、現代の感受性に抵抗するのを単に避けようとするために、あるいは流行に乗りたいという欲求から、あるいは、人間的、道徳的な過ちに直面しての無力感から、結婚を護るのを止めることがほとんどありません。私たちは、私たちが与えることができ、与えなければならない価値を、この世から奪おうとしています。

現在の害悪を、あたかも変えることができるかのように、単に批判するだけでは意味がない。権威によって規則を課そうとしても効果はない。私たちが必要としているのは、結婚と家庭を選ぶ理由と動機を与えることができるように、賢明で寛大な努力をすること、そして、そうした方向で、男性たち、女性たちを、神の恩寵によりよく応えることができるように助けることなのです。

36  私たちはまた、時々は自分のキリスト教の信仰を表に出したり、他の人たちを癒したりすることが、今起きている問題のある状況の改善に寄与する助けになる、ということを認識しながら、謙虚かつ現実主義である必要があります。また、時々は自分の信仰の表わし方によって、結婚に対する現代的な課題を設定するのを助けたことを知るために、「自己批判の健全な一服」も必要です。

特に、二人の互いの愛の価値を無視したことを公けにすることに、私たちはしばしば焦点を当てすぎてしまいます。また、家庭をもつタイミングについて若い人々が抱く現代的な関心を、無視しています。そして、また、日々の暮らしの中で起きている現実を無視して、あまりにも理想化した結婚について話してしまいます。

37  私たちは長い間、慈しみ(grace)を示すことなく、教理上、生命倫理上、倫理上の問題を単に強調することで、結婚の絆を強め、結婚生活を意味あるものとするなど、家庭に対して十分な支援をしている、と考えてきました。私たちは、生涯続く重荷としてよりも、人としての成熟への力にあふれた道として、結婚を語るのが難しいことを知っています。

信心深い人たち―制約を抱える中で精いっぱい福音に応えようとし、複雑な状況の中で識別を働かせることができる人たち―の良心に場所を空ける難しさも知っています。教会の中で、私たちは、良心を自分たちの規則で置き換えるのではなく、良心を育てるのを助けるように求められているのです。

38 多くの結婚で、愛が中心に置かれ、家庭生活が神聖なものとなっているのは喜ばしいことです。多くの家庭が信仰をもって暮らし、子供たちに伝えていっています。しかしながら、私たちは、真の幸せに至る別の道を示すことなく、現代社会の中での生活を単純に〝悪″と決めつけることで、司牧のエネルギーを無駄に使っています。多くの人は、教会が結婚と家庭について教えようとしていることが、「イエスの説教と行動を反映していない」と感じています。イエスは、サマリアの女性、あるいは姦淫で捕らえられた女性のように弱い人々に対して、いつも同情(compassion)や親近感(cleoseness)を示されたのです。

【分かち合いのヒント】

・あなたの家庭ができた時に、あるいは現在、教会は、どのように家庭の成熟のためのサポートをしてくれましたか。あるいは助けてくれていますか。それとも、障害になりましたか。どのような助け、助けの体制が求められていますか。

39 このことは、愛や思いやりを促すことに欠けた文化的衰退への警告を辞めることを意味しません。2014年、2015年の2回のシノドスに先立つ事前協議では、「culture of the ephemeral(つかの間の文化)」の様々な現象が指摘されました。現代社会の特徴である「速さ」について考えてみましょう。人々は、「こちらの感情的な関係から、あちらの関係へ」と目まぐるしく動きます。ソーシャル・ネットワークのラインを使って、愛情というものが「消費者の気まぐれさ」で繋がったり、切れたりし、その関係が瞬時に「閉じ」られるもの、と思い込んでいます。

   全てが使い捨て自由、誰もが使って捨てる、手に入れて壊す、最後の一滴まで搾り取る。それが終わると「さようなら」。自己愛によって、自分自身を失い、自分自身の願望と必要の先を見ることができないようになりますが、他者を利用する者は結局のところ、自分自身に使われ、操られ、同じ物の見方によって捨てられるのです。ある種の「独立」を求め、「ともに老い、互いの面倒を見、支え合う理想の姿」を拒む年配者の間にも、人間関係の崩壊がしばしば起きていることに、目を向ける必要があります。

40 私たちは、若者たちの未来への可能性を少なくすることで、家庭を作らないように彼らに圧力をかける文化の中に暮らしています。しかもその同じ文化が、彼らに家庭を作ることを思いとどまらせるような、沢山の選択肢を提供しているのです。いくつかの国では、多くの若者が、経済的なもろもろの理由、仕事、勉学のために結婚を先延ばししています。

   ほかにも、理由があります。結婚や家庭の価値を軽く見るようなイデオロギーの影響、他のカップルのような失敗を避けたいという願望、(結婚や家庭を)余りにも重大で聖なるものとすることからくる、ある種の恐れ、単に一緒に住むことで得られる社会的な機会と経済的な利益、自分たちの自由や自主性を失うことの恐れ、そして、制度的、官僚的と受け止めていることへの拒否感、などです。寛大さ、献身、愛、勇気を受け入れる彼らの力に訴え、情熱と勇気をもって結婚の課題に取り掛かるように勧めるのにふさわしい言葉、議論、そして若者の心に届く助けになるような方法を、私たちは見つける必要があります。

41 シノドスに参加した司教たちは「今日の世界の様々な文化的傾向が、人間的な感情に抑制が効かないようにしているように見える」と指摘しました。実際、「自己愛的な、不安定なあるいは変わりやすい感情が常に、人間としての成熟を妨げて」います。「インターネットの誤った利用によって加速されるポルノ画像の拡大と肉体の商品化、人々が売春を強いられるような批判すべき現状」にも懸念を表明しました。

   そうした現状の中で「夫婦は成長の道を見つける確信がなく、当惑し、もがいている。感情的な、性的な生活の初期段階にとどまる傾向がある。夫婦関係における危機は、家庭の安定を損ない、別居や離婚を通して、大人たちと子供たち、そして社会全体に、個人的、社会的な絆を弱める、深刻な結果」をもたらしかねません。夫婦間の問題は「『忍耐強く反省し、犠牲を払い、相手を許す勇気」を持たず、性急に対応しようとすることが多い。失敗は、新たな関係、新たなカップル、民法上の結びつき、新たな結婚が、キリスト教徒としての人生にとって、複雑で、問題の多い家庭の状況を生むもとになる」のです。

42 さらに「子供を持つことへの抵抗感、女性の性や生殖に関する健康についての世界的な政策がもたらす人口の減少は、世代間の関係がもはや確かなものでないという状況だけでなく、経済的な貧困と将来への希望の喪失をもたらす危険を作り出している。バイオ技術の発展も、出生率に大きな影響を与え」ています。加えて、「工業化、性革命、人口過剰への恐怖と経済的問題への恐怖などの要因もこれに加わる・・消費第一主義もまた、人々が子供を持つのを妨げ、ある種の自由とライフスタイルを維持できるように働いている」。

   生命の伝達に寛容だった夫婦の真っ直ぐな良心(upright conscience)が、十分に深刻な理由から、子供たちの数を制限することになるかも知れませんが、それでも、「良心を尊ぶがゆえに(for the sake of dignity of conscience)、教会は、受胎調節や不妊手術、あるいは堕胎を促進することに国家が介入することに強く反対」します。そのような政策は、出生率が高いところにおいても受け入れられません。また、心配なほど出生率が低くなっている国においても、政治家がそうした政策を奨励していることがあります。韓国の司教団が指摘したように、これは「自己矛盾で、自らの義務を怠る行為」なのです。

43 一部の共同体社会に見られる信仰心と宗教的儀式の衰退は、家庭に影響を与え、困難の中でさらに孤立を強めさせます。シノドスに参加した司教たちは、「現代文化の巨大な貧困がもたらしているもののひとつは、個人生活における神の不在と、人々との関係のもろさから来る孤独。また、しばしば家庭に破壊をもたらす社会・文化的な現実に直面しての無力感・・・。家族はしばしば、公共機関の関心や配慮の欠落ゆえに、見捨てられた、と感じます。

人口統計上の危機、育児の難しさ、新たな命を歓迎することへのためらい、高齢者を重荷と見る傾向、そして心の病いと暴力行為の増加に見られるように、社会制度の欠陥による影響は明白です。国家には、若い人々の将来を確かなものとし、家庭を作る計画を実現するのを助けるために、法律を整備し、雇用を創出する責任があります。

44 地域によっては、十分な住まいを確保できないことが、さらなる問題になっています。同じように、保健医療サービスの不足、教育を受ける機会の不足が、家族が抱える問題になっています。さらには、十分な働きの口を得るために家族が、親子が分かれなければならない時、親子がともに成長すべきなのに、それができなくなるのです。

45 多くの子供たちが、婚外子として生まれ、片親か、親が再婚した結果できた子供たちと暮らしています。子供たちが性的に搾取されていることも、現代社会の抱える恥ずべき現実です。さまざまな共同体社会で、戦争、テロ、組織犯罪による暴力にさらされ、家庭が崩壊し、大都市で、郊外で、ストリートチルドレンが増えています。子供たちに対する性的虐待は、もっとも恥ずべきこと、それが、安全であるはずの家庭、学校、地域社会、そして教会関係の場で行われているのです。

46 人の移動は、家庭生活に負の影響を与えるという見地から、直視し、理解すべき時のしるしです。先に開かれたシノドスは、さまざまな形の人の移動が、世界のさまざまな地域の人々全体に影響を与えていることを注視しました。教会はこの分野で大きな役割を果たしています。福音書(マタイ25章35節「あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し」)の現場証人を支持し、広げていくことが今日、これまで以上に、緊急に必要とされているのです。

人の移動は、昔から自然に行われてきたもので、移住する家族とそれを受け入れる国を豊かにしてきました。ですが、戦争、迫害、貧困そして不正から起きる、強制され、途中で危険を伴う人の移動は、しばしは命を危険にさらし、家族に心の傷を負わせ、安定を失わせます。移住者に寄り添う中で、教会は、移住する家族だけでなく、後に残された家族に対する、特別な司牧のプログラムを用意する必要があります。そして実際の司牧において、彼らの持つ文化的価値を尊重することが求められます。

人の移動は、とくに不法になされ、人身売買の国際的な犯罪網が介在する場合、家族と個人を破壊することになりかねません。同様な危険は、女性たちや家族と離れた子供たちが、一時的な収容施設や難民キャンプに長い間住み続けさせられて、定住の機会を与えられない場合にも起きます。極度の貧困やさまざまな面での家庭の困窮から、幼児売春や臓器売買の目的で子供たちを売り渡してしまうことさえあります。

キリスト教徒や少数民族、少数信徒への迫害は世界の至るところ、とくに中東でなされており、それは教会だけでなく、国際社会全体にとって取り組むべき大きな課題となっています。生まれ育った土地にとどまるように家庭とキリスト教共同体を助けるための、個々の具体的な努力を促進することが求められています。

47 (抄訳)体に障害を持った、あるいは特別の助けが必要な子供たちを育てる家庭は、困難な課題と向き合っており、その努力は神の偉大な愛を証しします。体に障害を持った人々は家族にとっての贈り物であり、愛と互いの助けと一致の中で成長していく機会となります。家族が信仰の光の中で、特別な助けを必要としている人々を受け入れるなら、一つ一つの人の命の価値を確かめることができるでしょう。

・・私は、移民たちと特別な助けを必要としている人々に対する献身と思いやりが、聖霊のしるしだということを強調したいと思います。他の人々を迎え入れることで慈しみを示し、傷つきやすい人々を私たちの共同体の完全な一員となるように助けることに深くかかわる、 私たちにとっての試練なのです。

48 高度に工業化された社会では、出生率が低下する一方で、高齢者人口が増えており、重荷とみなされる場合があります。彼らに必要な介護は、彼らが愛する者たちに、しばしばストレスをもたらします。人生の最終段階を迎えた人々の介護と配慮は、現代社会が死と死に至る痕跡を取り去ろうとしている今日、従来よりも一層必要になっています。傷つきやすく、人に頼らねばならない高齢者が、時として、単純に経済的利益のために不当に搾取されています。

多くの家庭は、個々人の充足感と主の復活の神秘に預かることで、人生の最終段階に達することが可能だということを示しています。数多くの高齢者が教会の様々な組織、団体で物質的、霊的な世話を受けています。そこでは、物的にも、霊的にも、安らかに、家庭的な雰囲気の中で暮らすことができるのです。

  安楽死や自殺補助は、世界中の家庭にとっての深刻な脅威になっています。多くの国で法律的に認められていますが、教会は、これに強く反対する一方、高齢者や虚弱な人たちを介護する家庭を支援する必要性を感じています。

49 また私は、貧困と大きな制約のもとで暮らしている家庭について述べたいと思います。貧困世帯が直面している問題は、いっそう辛いものです。例えば、シングルマザーが1人で子供を育てねばならず、家に一人で残して仕事に出かけねばならない場合、その子は、あらゆる種類の危険と成長にとっての障害にさらされながら育つ可能性がある。そのような助けを必要とする困難な状況において、教会は理解し、安らぎを与え、受け入れることにとくに注意を払わなければなりません。

規則を硬直的に押し付けるような対応は、神の慈しみを示すように求められる聖母マリアと同じ方に裁かれ、捨てられたように、彼らに感じさせるだけです。神の慈しみのもつ癒しの力、福音のメッセージのもつ光を与えるのではなく、メッセージを〝他の人に投げつける命のない石″にしてしまいます。

【分かち合いのヒント】

・以上の教皇の指摘の中で、あなたはどれを、あなたの家庭あるいは教会、社会の中で実感していますか。

いくつかの課題

50 二つのシノドスの事前協議では、極めて多様な状況と新しい課題が話されました。すでに言われている事に加えて、多くの方が指摘したのは、家庭が育児で直面している問題でした。両親が疲れきって帰宅し、話をする気力もなく、多くの家庭では一緒に食事をすることもない。一方で、テレビに熱中するなど娯楽は溢れている。このことは、両親にとって、子供たちに信仰を伝えるのを一段と難しくしています。

また他の方が指摘したのは、今を楽しむよりも将来の生活が保証されるように頑張っているように見える家庭に、強いストレスがかかっていることの影響です。これは、広範な文化的な問題です。安定した雇用や収入が保証されない不安、子供の将来に関する不安によって増幅されています。

51 麻薬の使用も、多くの家庭に損害をもたらし、破壊しさえもする、現代のいくつもの災難の一つだ、という指摘もありました。同じことはアルコール依存症、博打、その他の行為にも言えることです。家庭はそうした問題を避け、打ち勝つ場となり得ますが、家族を助ける力を失わせる危険な状況に、家庭が置かれていることを、社会と政治が見ないでいる・・。私たちは、家庭崩壊、排除される若者、放棄される高齢者、両親から見捨てられた子供たち、困惑し、助けを欠いた青年たちの深刻な影響を見ています。

メキシコの司教団が指摘するように、家庭内暴力が社会を襲う新たな形を生み出しています。それは人びとの暴力への傾きを家庭生活から説明できるからです。このことは、しばしば、意思疎通を欠いた、受け身的な態度、家族のメンバーが助け合わない、参加を促すような家庭の活動がない、夫婦関係がしばしば、対立的で暴力的、親子の関係が敵意に満ちているなどのケースに当てはめて考えることができます。家庭内暴力は最も基本的な人間関係において、憤りと憎悪を増殖する土壌なのです。

52 結婚を基礎にした社会単位である家庭の弱体化が、社会全体にとって有益だ、と考える人は誰もいません。それとは反対です。家庭の弱体化は、個々人の成熟、共同体の価値の涵養、都市と国家の道徳的な進歩にとって、脅威となるものです。誰もが入り込めない、分かちがたい男女の結びつきだけが、新たな人生における安定したつながりであり、社会で演ずべき絶対的な役割だ、という認識には誤りがあります。安定をもたらすことのできる様々な家庭の形がある、ということも知らねばなりません。

ただし、同棲の形での、あるいは同性による結びつきが結婚と単純に同一視されてはならない、ということも言わねばなりません。かりそめの、あるいは命を次の世代に伝えることのなり結びつきは、社会の未来を保証することができない。しかし、今日、結婚を強め、結婚した二人が障害を克服できるように助け、育児を支援し、そして広く、結婚の絆が強固なものになるように力づけるような努力を、誰がしているでしょうか?

53(抄訳)また、一夫多妻、政略結婚、婚前同棲などにどう対応するかという問題もあります。権威主義と暴力で特徴づけられる結婚の旧来の形を維持することは望みませんが、輪w他紙たちは、唯一の、分かたれることのない、生涯をともにする結婚を強く主張します。2015年の家庭についての会議後の報告で、司教たちが述べたように「家庭の強さは、愛し、愛し方を教える力にある。家庭が問題を抱えているにもかかわらず、愛とともに始め、常に成長することができる」のです。

54 私は強調したいと思います。それは、女性の権利の認識と社会参加の面で重要な進歩が見られているにもかかわらず、いくつかの国で、彼女たちの権利を高めるためにまだ多くなすべきことが残っている、という事実です。受け入れがたい慣習を取り去る必要があります。

私がとくに思いをいたしたいのは、女性たちがしばしば受けている恥ずべき扱い、家庭内暴力、様々な形での奴隷状態。これらは男性の力を見せつけるというよりも、臆病者の意気地のない行為なのです。結婚生活における、言葉による、あるいは物理的、性的な暴力は、夫婦の一致のまさに本質を、否定するものです。・・・権威のある仕事や政策決定の役割を男性と対等に果たせない場合もある。

歴史は、女性を劣ったものとする行き過ぎた家父長制の文化を背負ってきましたが、現代も、代理母と”現代のメディア文化のおける女性の身体の搾取と商品化”を見過ごすことができません。今日起きている問題の多くは女性の束縛からの解放によってもたらされている、と信じる人がいます。

しかし、そのような主張は正しくありません。‶誤りであり、真実ではなく、男性優越主義の表れ″なのです。男性と女性が対等の尊厳を手にすることで、旧来の形の差別が消え去り、家庭の中に互恵主義を育てます。ある形の男女同権主義が高まり、それを不十分と考えねばならないとすれば、そうした女性たちの運動の中に、女性の尊厳と権利を明確に認識するための聖霊の働きを見る必要があります。

55 男性は家庭生活において、等しく決定的な役割を果たします。とくに、自分の妻、子供たちを守り、支える立場から・・・・。多くの男性は家庭における自分たちの役割の重要性を意識し、男らしさを発揮しています。父親の不在は、家庭生活と子供の生育、社会参加に深刻な影響を与えます。不在の形には、物理的、心情的、心理的、精神的なものがありえますが、子供たちから、彼らにとってふさわしい父親像を奪い取ります。

56 また他の挑戦を受けている課題もあります。男性と女性が生来持っている相違や相互依存の関係を否定し、性差の無い社会を心に描き、そうすることで家庭の人類学的な基礎を取り去ってしまうような、さまざまな形のジェンダー(性差を完全になくそうとする)イデオロギーへの対応です。このイデオロギーは、個人の主体性と情緒的な親密さを男女の生物学的な相違から過激な形で引き離すような教育プログラムと立法行為につながります。・・「生物学的な性と、性の社会文化的役割は区別できるが、引き離すことはできない」のです。

一方で、人類の生殖の分野における技術革新が、生殖能力を操作する能力をもたらし、それを男女の性的関係と独立したものにしています。そのようにして、人間らしい生き方と親であることは、別々のものとされ、個人や二人の意思によって分離できるものとなります。人間的な弱さと命の複雑さを理解することと、現実の分離しがたい様々な特徴を分けてしまおうとするイデオロギーを受け入れることとは別問題なのです。

創造主に成り替わろうとする罪に落ち込まないようにしましょう。私たちは被造物であり、全能の存在ではないのです。創造は私たちの前にあり、賜物として受け取るべきものです。同時にまた、私たちは自分たちの人間性を守るように求められており、このことは、第一に、それを、創られたものとして受け入れ、敬意を払うことを意味するのです。

57 私は神に感謝します。多くの家庭が、自分たちを完全とみなす姿から程遠いながらも、愛の中で暮らし、義務を果たし、たびたび道をはずれながらも、前進を続けていることを。シノドスは熟慮の結果、理想的な家庭についての定型というものは存在せず、実際の家庭は、喜びと希望と問題を伴う、様々な現実から出来た努力しがいのあるモザイクだ、ということを明らかにしました。私たちが関わる状況は挑戦しがいのあるものです。エネルギーを、悲しみ、後悔することに費やす罠に落ちるのではなく、新たな宣教の創造するために使ってください。

一つ一つの状況において、〝教会は、真実と希望の言葉を語る必要を自覚しており・・結婚とキリスト教徒の家庭のもつ偉大な価値は、人間の存在の一部をなす切なる思いと調和する″のです。問題がいかに多かろうと、それらが、コロンビアの司教団が述べたように、〝希望を取り戻し、予言的な未来の源とし、変える力のある行動と創造的な慈しみの形成″への励まし、とすべきなのです。

【分かち合いのヒント】

・あなたの教会、地域社会、あるいは国、地域が抱えている結婚生活に関する最も大きな問題は何でしょうか。そうして問題について、あなた自身で実際に体験した、あるいは体験されていることは何でしょうか。あなたは、教会は、どのように対応していますか、それは十分と考えますか。どのようにすればいいとお考えですか。

 

第3章 イエスに向かう眼差し-家庭の召命

58 福音のメッセージは家庭の中で、家族の間で、いつも共鳴する必要があります。メッセージの中心部分、“kerygma”*は「最も美しく、最も素晴らしい、最も人の心を動かす、同時に最も必要なもの」です。このメッセージは「福音を伝える活動すべての中心に置かれるべき」です。それは、第一の、最も重要な宣言であり、「私たちが様々に異なった方法で繰り返し聴かねばならず、常にある形、あるいは別の形で告げ知らせねばなりません」。実に「これ以上に堅固で、奥深く、揺るぎのない、意義深く、思慮分別に富むメッセージは他にありません。実際のところ、「すべてのキリスト教徒の人格形成は、kerygmaにより深く浸透することで成り立っているのです。

   *ケリュグマ・・原始キリスト教会の宣教者(keryx)が宣教する福音の内容。宣教・説教の行為そのものをも意味する(岩波キリスト教辞典)。この場合、次のことを指していると思われる。「神は私たちを愛してくださる。イエスは私たちに、十字架上でご自分を捧げられた愛を与えてくださる。キリストは今、私たちの日々の性格の中で聖霊において私たちとともに歩んでくださる。そして、私たちは、ともに愛しつつ歩むように呼ばれている」

59 結婚と家庭生活について私たちが教えることは、この愛と優しさのメッセージによって励まされ、変えられるものであり損ねてはなりません。そのようなことになれば、無味乾燥な、生気のない教義の擁護以上のものではなくなります。キリスト教徒の家庭の神秘は、キリストにおいて明らかにされた御父の限りない愛の光の中でのみ、完全に理解できるのです。

 キリストは、ご自身を私たちのために捧げられ、私たちの中に住み続けられます。私は今、多くの愛の物語の中心におられる生けるキリストに視線を向け、世界のすべての家庭の上に、聖霊の火がともるように願いたいと思います。

60 この短い一章で、結婚と家庭についての教会の教えを短くまとめます。ここでまた、私は、シノドスに参加した司教たちが私たちの信仰によって与えられた光について語る必要のあったことについて触れようと思います。

 司教たちはイエスの眼差しをもって話し合いを始め、神の国の求めているものを明確にしたように、イエスがどのように、出会った女性たち、男性たちに愛と優しさをもって接し、誠実に、辛抱強く、慈しみをもって彼らとともに歩んだのか、について語りました。主はまた今日、家庭についての福音を実行し、伝えようと努める私たちとともに、おられるのです。

 イエスは神の計画を取り戻し、実現される

61 結婚を悪として否定する人々とは反対に、新約聖書は「神がお造りになったものはすべて善いもので、・・何一つ捨てるものはありません」(テモテへの第一の手紙4章4節)と教えています。結婚は主からの「賜物」です(コリントの人々への第一の手紙7章7節)。それと同時に、このような前向きの理解ゆえに、新約聖書は神の賜物を護る必要があることを強く力説しています。

 「婚姻は、すべての人に尊ばれるべきものであり、寝床は清く守られるべきものです」(ヘブライ人への手紙13章4節)。賜物には性も含まれます。「互いに相手を拒まないように」(コリントの人々への第一の手紙7章5節)。

62 シノドスに参加した司教たちは、イエスは「男性と女性のための神の最初の計画について語る中で、二人の分かちがたい結びつきを改めて強調し、「あなた方の心が頑なだから、モーセは妻を離縁することを許したのである。しかし、初めからそうではなかった」(マタイ福音書19章8節)とさえ言明されています。結婚の不解消性―「神が合わせたものを、人間が離してはならない」(同19章6節)―は人が負わされた“軛(くびき)”ではなく、結婚した人々に与えられた「賜物」とみなすべきです。

 神の寛大な愛は、私たちの人生の旅にいつも共にいてくださいます。恩寵を通して、頑なな心を癒し、変え、十字架の道を通して、始めのところに戻るように導いてくださいます。福音書はイエスの見本をはっきりと示します。彼は結婚の意味を、神の始めの計画を回復する啓示を実現するものとして宣言したのです。

63 結婚と家庭はキリストによって救われ、聖なる三位一体の姿において回復され、その神秘からすべての真の愛が流れ出るのです。結婚の契約は、創造に端を発し、救いの歴史の中で明らかにされ、キリストとその教会において、約束が持つすべての意味を受けるのです。ご自分の教会を通して、キリストは、結婚と家庭に、神の愛の証人となり、ともに人生を送るために必要な恩寵をお授けになります。

 家庭についての福音は、神の似姿としての男女の創造から、終わりの時にキリストにおいて結婚の神秘が子羊の結婚とともに完成するまで、この世の歴史全般にわたっているのです。

64 キリストはラザロとその家族である姉妹と、そしてペトロの家族と日々、友情を分かち合いました。嘆き悲しむ両親に同情して、子供たちの命を取り戻しました。このようにして、キリストはmercy慈しみのもつ本当の意味-結婚の契約の回復も含まれますーを明らかにしたのです。このことは、サマリア人の女性、姦淫の罪を犯した女性とキリストが交わした会話から明らかです。彼女たちは、イエスの対価を求めない愛との出会いによって、罪の意識に目覚めました。

65 ナザレで、人間の家庭で、み言葉が人となられたことが、世界の歴史を変えました。私たちはイエスの誕生の神秘-天使のお告げにマリアが「はい」と応え、み言葉をマリアが身ごもり、その子をイエスと名付け、彼女の世話をしたヨゼフが「はい」と応えたことを、考察する必要があります。飼い葉桶を前にした羊飼いの喜び、占星術師の賛美、エジプトへの逃避行―それによってイエスは亡命、迫害、屈辱で苦しむ人々の経験を共有するのですーについて深く考察する必要があります。ゼカリアの深い信仰心からくる期待と洗者ヨハネの誕生への喜び、神殿でシメオンとアンナに知らされた約束の成就、少年キリストの知恵に聞き入った律法学者たちの驚き、についても深い考察が必要です。

 それから、イエスが手仕事で生活費を稼いだ30年-伝統的な祈りと周りの人たちの信仰表明を暗唱し、神の王国について神が啓示された真理において実を結ぶに至るまで、先祖代々の信仰を知るようになるーに目を凝らす必要があります。

 これが、クリスマスについて神が啓示された真理、ナザレの神秘であり、家庭生活の素晴らしさの発露です。それは、アシジのフランシスコ、幼きイエスのテレジア、そしてシャルル・ド・フーコーを強く惹きつけ、キリスト教徒の家庭を希望と喜びで満たし続けるのです。

66「ナザレの聖家族が暮らしの中で実行された愛と忠実の約束は、どの家庭にも当てはまるものであり、人生と家庭の営みの浮き沈みによりよく立ち向かうことができるようにする行動基準を明らかにしてくれます。これを基礎にして、どの家庭も、それがもつ弱さにもかかわらず、この世の闇の中の光となることができるのです。「ナザレは、私たちに家庭生活の意味―愛に満ちた交わり、気さくで飾り気のない美しさ、神聖で汚されることのない気質-を教えてくれます。それが、そうした教育がいかに素晴らしく、かけがえのないものであるか、いかにその社会秩序における役割が重要で、比類のないものであるかを、教えてくださいますように」(教皇パウロ六世、1964年1月5日、ナザレでの説教で)。

教会の諸文書に登場する「家庭」

67 第二バチカン公会議は「現代世界における教会に関する司牧憲章(通称・現代世界憲章)」で、「結婚と家庭の尊厳の推進」(47項‐52項)を扱っています。48項で、結婚を「いのちと愛の共同体」と定義し、家庭の中心に「愛」を置きました。「夫婦間の真の愛」(49項)は、神の計画に従って、互いに自分を与え、受ける、親密に互いを一致させる行為も含まれます(48項-49項)。憲章はまた、夫婦の基礎をキリストに置くことを強調し、主なるキリストは「結婚の秘跡を通じてキリスト信者の夫婦を迎え入れ」(48項)、彼らのもとにとどまる、としています。

 Incarnation(受肉=神の独り子が人間となって地上に現れること)において、主は人間的な愛を身につけ、清め、成就させました。聖霊によって、主は夫婦に、愛を生きる能力を与え、信仰、希望、慈愛を抱いた二人の人生の隅々に行きわたらせます。このようにして、夫婦は聖別され、特別な慈愛によってキリストの身体を高め(build up the Body of Christ), 家庭教会(domestic church)を形作る(教会憲章11項)のです。そのため、教会は、その(her)神秘を十分に理解するために、現実の暮らしの中で教会を証しするキリスト教徒の家庭に目を向けます。

68 第二バチカン公会議を受けて、教皇パウロ六世は、結婚と家庭についての教会の教えをさらに進展させました。特に回勅「フマーネ・ヴィテ(人間の生命)-適正な産児調整についてー」で、夫婦愛と生殖の固有の結びつきを明らかにしました。「夫婦の愛は、夫と妻に責任ある親であることの義務を完全に自覚することを要求します。そうした義務の自覚は今日、当然のこととして強く主張されていますが、同時に正しく理解すべきことなのです・・・。責任ある親としての行為には、夫と妻が適切な優先順位を守り、神、自分たち自身、自分の家庭、そして人間社会に対する責務を認識する必要があります。使徒的勧告「Evangelii Nuntiandi(福音宣教)」でパウロ六世は家庭と教会の関係を強調しています。

69「聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、「家庭への手紙Gratissimam Sane」、そして特に使徒的勧告「Familiaris Consortio(現代世界におけるキリスト教家族の役割)」で、家庭について特別の思いを捧げました。これらの文書で教皇は、家庭を「教会の道」と定義し、愛に対する男女の役割について総体的なあり方を示し、家庭の司牧と社会における家庭の役割について、基本的な指針を出されました。とくに、夫婦愛について、夫婦が互いに愛し合う中で、どのようにしてキリストの霊の賜物を受け、聖別された命を生きるか、について述べています」。

70「教皇ベネディクト16世は、回勅「Deus Caritas Est(神は愛)」で、男女の愛の真実というテーマを取り上げ、それは十字架につけられたキリストの愛の中においてのみ、完全に明らかにされる、としています(No2参照)。彼は次のように強調しています。「exclusive and definitive(独占的で決定的な?)愛に基礎を置いた結婚は神とその民との関係のicon(似姿)となり、またその逆も同様です。神の愛し方は、人間の愛の尺度となる」と。さらに、回勅「真理に根ざした愛」で、彼は、共通善を学ぶ場、すなわち社会における生き方の原則としての愛の重要性を、強調しています」。

【分かち合いのヒント】

  イエスが私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げられ、そして今、私たちと日々歩んでおられる-という「良き知らせ」を、私たちは、結婚生活にどのように反映させている、と言えるでしょうか。

結婚の秘跡

71 「聖書と伝承は私たちに三位一体について知る手がかりを提供してくれます。三位一体は家庭の姿に通じるものです。家庭は、父と子と聖霊からなる神の似姿なのです。キリストがヨハネから洗礼を受けられた時、イエスを「私の愛する子」とする父の声が聞こえましたが、この愛の中に、私たちは聖霊を認識します(マルコ福音書1章10節-11節参照)イエスは、ご自身においてすべてのものを一致させ、私たちを罪から救ってくださいます。結婚と家庭を元の姿に立ち戻させるだけでなく、結婚を教会にとっての神の愛の秘跡に高めるのです(マタイ福音書19章1節‐12節、マルコ福音書10章1節‐12節、エフェソの人々への手紙5章21節‐32節参照)。

 キリストによってまとめられた人間の家族において、至聖なる三位一体なる神を「かたどり、似せた人」(創世記1章26節参照)が元に戻され、その神秘からすべての真の愛が流れ出します。教会を通して、結婚と家庭は、神の愛の福音を証しするために、キリストから聖霊の恩寵を授かるのです。

72 結婚の秘跡は社会的な慣習や空虚な儀式、見せかけの約束のしるしではありません。この秘跡は夫婦の聖別と救済のために与えられる賜物です。なぜなら、「夫婦の互いの絆は、秘跡のしるしを通して、キリストと教会との同様の関係の正真正銘の表現となる。結婚した二人は、十字架上でなされたことを、教会のために、絶えることなく想起させる存在であり、秘跡を通して共有する、互いと子供たちにとっての、救済の証人である」からです。

 結婚は(召命=神から与えられた使命)です。キリストと教会の間の愛の不完全なしるしとして夫婦の愛を経験するようにとの具体的な呼びかけへの応えだからです。ですから、結婚し、家庭を持つ決断は、召命の識別の実りであるはずです。

73「結婚の秘跡における互いの献身は、教会においてキリストと一人一人の根本的な契約を確定する、洗礼の恩寵に基礎を置いています。互いを受け入れる中で、キリストの恩寵をもって、婚約した二人は、互いに完全な献身、忠実、新しい人生への展望を約束します。二人は神の名において、そして教会の影響下で、これらのことを結婚の構成要素、神によって与えられた賜物として認識し、そして自分たちの互いの約束を真剣に受け止めます。

 信仰は、秘跡の恩寵の助けを通して、より良く保つことのできる約束として結婚という財産を、二人が引き受けることを可能にします。そうして、教会は、結婚した二人を家庭全体の核心として見つめ、結果としてイエスを見つめるのです。秘跡は”thing物事“とか”power力“ではありません。なぜなら、秘跡の中に、キリストご自身が”キリスト教徒の夫婦に出会っておられる“のですから。

 キリストは彼らと共に住み、彼らに十字架を背負ってキリストに従い、倒れて立ち上がり、互いの重荷を負う力をお与えになります。キリスト教徒の結婚は、十字架の上に打ち立てられた誓約においてキリストがどれほどご自分の教会を愛しておられたかを示すしるしであり、また、2人の約束の中にその愛を存在させるのです。一つの肉体となることによって、2人は神の御子によって私たちの人間性をもった結婚を具現化します。それが、2人の愛の喜びの中で、御子がこの地上において、子羊の婚姻の宴の予兆を与える理由なのです。人間の夫婦の結び合わせは、キリストと教会の結び合わせとは似て非なるものだとしても、主がどの結婚した2人のうえにも神の愛を注いでくださるようにお願いするように、私たちを奮い立たせるのです。

74 性的な一致-秘跡による愛にあふれた体験と犠牲をともなったもの-は二人にとって、恩寵をいただいた人生の中で育っていくものです。それは“nuptial mistery 結婚の神秘”です。身体的な和合のもつ意味と価値は、同意の言葉で表明され、その言葉の中で二人は、自分たちの人生を完全に分かち合うために、互いを受け入れ、自身を相手に差し出すのです。これらの言葉は、性的な関係に意味を与え、曖昧さから解放します。さらに一般的には、夫婦が共有する人生、子供たちと周りの世界と作る人間関係のネットワークは秘跡の恩寵によって満たされ、強められるのです。

 結婚の秘跡はthe incarnation神のキリストにおける顕現とthe paschal mystery過ぎ越しの神秘に源を発しています。それによって、神は、私たちと一つになることで、人間に対するご自身の愛の実現を示されるのです。夫婦のどちらも自分たちの歩む道で出会ういかなる困難に際しても単独で立ち向かくことはありません。二人はともに、約束を果たし、創意をこらし、忍耐し、そして日々、努力することで、神の賜物に応えるよう招かれているのです。二人は常に、彼らの一致を聖なるものとした聖霊の助けを願うことができ、それによって、聖霊の恩寵は二人が出会うどの新たな状況においても、感じられることでしょう。

75 教会のラテンの伝統では、結婚の秘跡のminister(権威を持って行う者、奉仕者=主宰者?)は、結婚する男女です。結婚の約束に同意することを宣言し、動作で表すことで、素晴らしい賜物を受け取ります。同意と身体的な一致は“一つの身体”となるための神が定められた手段です。Baptismal consecration(洗礼による聖別)によって、二人は主のministerとして結婚に与り、神の呼びかけに応えることができます。

 ですから、キリスト教徒でない二人が洗礼を受けた時、彼らは結婚の約束を新たにする必要はなく、教会法はまた、正規に叙階された聖職者なしにcertain unions(なされた結婚も、ある場合に)は、結婚の約束が有効である、としています。自然の規律が、イエスの救いの恩寵をもって深くしみわたっているので、「神聖な結婚の約束は、洗礼を受けた二人の間に秘跡の介在なしに存在することがない」のです。

 教会は、結婚が証人の出席やその他の条件を満たす形で公けにとりおこなわれることを求めることができますが、結婚する2人が秘跡のminister主宰者である、という事実から外れることはありません。また、これが秘跡によるつながりを確認する男女二人の約束が(結婚の秘跡の)中心であることに影響を与えることもないのです。

 このようなことが言われています。結婚の儀式において、神の働きをさらに表すために必要なことがある、と。それは、東方教会で、聖霊の賜物のしるしとして、二人が受ける祝福を重視することによって、はっきりと示されています。

み言葉の種と不完全な状況

76 「家庭の福音は、育つのを待っている種を肥やし、弱り、放っておいてはならない苗木の手入れをする基礎として役立ちます」。このようにして、秘跡においてキリストの賜物の上にもたらされる結婚した二人は、「自分たちの人生のおける神秘をもっと深くつかみ、もっと十分に統合するために、さらに忍耐強く導かれるでしょう」。

77 「すべてのものは、御子を通して、御子に向けて作られている」(コロサイの人々への手紙一章19節)という聖書の教えに訴える形で、シノドスに参加した司教たちは、 その創造の業が、the order of redemption罪の贖いの儀式によって明らかにされ、実現される、ということに注目しました。それゆえ、自然な結婚は、婚姻の秘跡において、その実現を考えることで、完全に理解されます。キリストを熟考する中においてのみ、人は、人間的関係に関する最も奥深い真理を知るようになります。

 「人間の神秘が真に解明されるのは、肉となったみことばの神秘においてのみである。・・・最後のアダムであるキリストは、父とその愛の神秘の啓示そのものをもって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(Gaudium et Spes=現代世界憲章22項=カトリック中央協議会改訂公式訳)のです。それは、キリストを中心に置いた手がかり・・の中で夫婦の善なるものー人生に対する開かれた心、貞節、分かちがたい、そしてキリスト教徒の結婚の中で、主とともに、完全な友情への道で互いを支え合うことーを理解する助けになります。

 「他の様々な文化の中に“みことばの種”を識別する(Ade Gentes 教会の宣教活動に関する教令11項)仕方はまた、結婚と家庭の現実に当てはめることができます。真の自然な結婚に加えて、肯定的な要素が、他の宗教的な伝統の中に見られる結婚の形にも存在します」。たとえ、時としてそれが不明確なものであっても。私たちはこのように言うことができます。「悪に打ち勝とうとする一つ一つの仕草によって子供たちを奮い立たせるように教える家庭を、聖霊が生きておられ、働いておられることを明らかにする家庭を、この世にもたらしたい・・。そのように願う人誰もが、感謝され、評価されるでしょう。その人が、どのような集団、宗教、地域社会に属していようとも!」。

78「キリストの光はすべての人を照らします(ヨハネ福音書1章9節、Gandium et Spes 現代世界憲章22項参照)。キリストの目で物事を見ることは、ともに暮らしている、民法上のみの結婚をしている、あるいは離婚して再婚している信徒のための教会による司牧を励まします。そのような神学的な教育にしたがって、教会は愛を持って、不完全なやり方で教会活動の加わる人に相対しますー彼らのために回心の恵みが得られるように努め、善をなすように、互いに愛を持って接するように、自分たちが暮らし、働いている共同体社会の役に立つように、励まします。

 (A couple in irregular union)教会が定めた仕方での結婚をしていない二人の関係が公的な結びつきを通して、しっかり安定し、深い愛と子供たちに対する責任、試練に打ち勝つ能力が顕著である場合、(this can be seen as an opportunity、where possible, to celebrate the sacrament of Matorimony)それは、彼らが結婚生活の秘跡を受けるようになる機会とみることができます。

79「困難な状況、傷ついた家庭に直面した時、次のような一般原則に立ち返る必要が常にあります。まず、司牧者は、彼らの置かれた状況を注意深く識別する責任があることを認識せねばなりません。その責任の程度は、すべてのケースで同じではなく、決定を下す能力を制限する要素も存在するでしょう。ですから、教会の教えをはっきりと示すと同時に、司牧者は、さまざまな状況のもつ複雑さを考慮に入れずに判断することを避け、人々が条件ゆえにどのように苦悩を経験し、耐えるかに心を配る必要があります」

分かち合いのヒント

司牧者や司牧の指導者は、日々の暮らしを通して人生を送る夫婦に、どのように寄り添うことができるでしょうか。教会は、彼らにどのような司牧ケアをすべきでしょうか。

命の伝達と子供のrearing養育

80 結婚は第一に、“命と愛の親密な共同関係”であり、夫婦にとって価値あるものであり、性的特質は男女の夫婦愛によって律せられるものです。必然的に「神が子供たちをお授けにならない夫婦も、夫婦生活を人間的にもキリスト教徒的にも送ることができる」のです。

  にもかかわらず、夫婦の結びつきは、”まさにその本質的な性質から”子供を作ることを使命とされています。生まれる子供は”夫婦の互いの愛に付随するものとして外からやってくるのではなく、互いの献身のまさに核心から、その果実、実現したものとして生まれ出てくるのです。男の子あるいは女の子は、そうした過程の終わりに登場するのではなく、欠かすことのできない特質として愛の始まりから存在するのです。そうした愛そのものを損なうことなしに否定することはできません。始まりから、愛は、それに近づこうとするいかなる衝動も拒絶します。愛はそれ自身を超えて豊かな実りを引き寄せることを可能にします。それゆえ、夫と妻のいかなる生殖行為も、様々な理由のために、必ずしも新たな命を生むことにならないかも知れない場合でも、その真意を拒むことができないのです。

81 子供は夫婦の愛によって生まれる権利がある、そして、他のいかなるものでもない、なぜなら、彼あるいは彼女は誰かのおかげによるものではなく、”両親の夫婦愛の具体的な行為の実り”である賜物だから。これが真相です。”創造の順序に従って、男女の夫婦愛、そして生命の世代から世代への伝達は互いに対して命じられている(創世記1章27-28節)からです。このようにして、創造主はその創造の業において男と女に分けて創られ、そして同時に、彼らを主の愛の道具とされ、人の命の伝達を通して、人類の未来へ責任を委ねられました。

82(家庭をテーマにした2014年、2015年の二度の)シノドスに参加した司教たちは、このように言明しました。「人の命を生み出すことを個人あるいは夫婦の計画のone variable一つの変数に矮小化するような知性の成長はとても明白である」。

  教会はこうも教えています。「完全で、調和がとれ、意識的なやり方で、命を生み出すことへの責任を伴う形で、夫と妻としての意思疎通を図るように、夫婦を助けると定めている。私たちは、教皇パウロ6世の回勅『マネ・ヴィテ(適正な産児調節について)』のメッセージに戻る必要がある。パウロ6世はここで産児調節の方法について道徳的側面から評価を加え、人間の尊厳を重んじることの必要性を強調している・・。養子縁組や里親制度の選択もまた、結婚生活の特性である豊かな実りを表すことができる」。

  特別の感謝の気持ちで、教会は「さまざまな障害を抱えながら、子供たちを大切にし、育て、愛で囲む家庭を支える」のです。

83 ここで、私は強く主張せねばなりません。それは、家庭が命の聖域、命を抱き育む場所であるとすれば、命が否定され壊される場所となるなら、それはとてつもない矛盾だ、ということです。人の命はとても大きな価値を持ち、母の胎内で育つ罪のない子供の命に対する権利は絶対に奪うことができないのですから、自分自身の身体に対する権利のいかなる主張も、命を絶つ判断を正当化することはできません。それはそれ自体が目的であり、他の人間が“所有物”とみなされることが絶対にあってはなりません。

  家庭は、最後の時も含めて、すべての場面で人間の命を守ります。したがって、“保健医療施設で働いている人たちは、良心的拒否の道徳的義務について注意を受けます。同様に、延命治療あるいは安楽死の措置をしない「自然死」に対する権利を確認することが急がれている、と教会は感じている”だけでなく、また、「死刑を断固として否定」します。

84 シノドスに参加した司教たちはまた、「家庭が今日、直面している問題のひとつは疑いもなく、子供のraising養育に関するものであり、それは、今日の文化的な現実とメディアの強い影響力によって、一段と困難で複雑なものになっている」ことを強く指摘しました。さらに「教会は家庭を助ける価値のある役割を担っている。それは教会への参加を持って始まり、共同体を迎え入れることを通じて行われる」としています。

 同時に私は、子供たちの(education)教育全体が「最も重要な義務」であり、同時に「両親の基本的な権利」である、と念を押す必要を感じています。これは、仕事あるいは重荷であるだけでなく、両親が守るように求められ、誰も彼らから奪うことのできない、欠くことのできない、奪うことのできない権利なのです。

 国家は財政的な補助をもって教育課程を提供し、変わらぬ役割を果たす両親を助けます。両親自身は、利用可能な、質の高い教育をいくつもの種類の中から選ぶ権利を持ち、自分たちの信念に従って、子供たちにそれを与えることを望みます。

 学校は両親に取って代わることはせず、補完するのです。これが基本原則ですー「教育の過程における他のすべての参加者は、両親の名において、その同意と権威のもとに、一定の責任を果たすことができるだけ」なのです。なおかつ、「家庭と社会、家庭と学校の間に亀裂が生じているー(educational pact)教育についての約束ごとは今日、壊れており、社会と家庭の教育分野での協力は危機に瀕しているー”のです。

85 教会は、現実に合った司牧活動を通じて、両親たちと協力するように呼ばれています。彼らの子供たちを教育する使命を十分に果たすのを助けるためにです。教会は両親を、彼らにふさわしい役割が正しく評価されるように、結婚の秘跡を受けることで子供たちの教育の全権をもつように、助けることで、常に協力せねばなりません。両親は、子供たちを教育する中で、教会を強くし、神から与えられた使命を受け入れるのです。

家庭と教会

86「内なる喜びと深い安らぎをもって、教会は、福音の教えに忠実であろうとする家庭に目を向け、励まし、彼らが守ろうとする神の戒めゆえに彼らに感謝します。彼らは、信頼できる仕方で、分かちがたく、変わることのない貞節を示すことで、結婚の素晴らしさを証しするからです。家庭-それは(domestic church)家庭の教会と呼ぶことができるものですーの中で、それぞれの人が(ecclesial experience of communion)教会的な交わりの体験を始めます。それは、恩寵を通じて、聖なる三位一体の神秘を反映します。『家庭において、人は、忍耐、働くことの喜び、兄弟愛、寛大さ、赦すこと、そして何よりも、祈りの中で神を賛美すること、そして、自分の命を捧げること』を学ぶのです。

87 教会は、(a family of families)諸家庭で構成され、そのすべての家庭教会の生き生きとした営みによって、日々、ゆたかにされた家庭です。「結婚の秘跡の美徳において、いずれの家庭も、実際に、教会にとって良きものとなります。こうした観点から、家庭と教会の相互作用を熟考することは、私たちの時代において教会にとっての貴重な賜物を立証することになるのです。教会は家庭にとって良きものであり、家庭は教会にとって良きものです。結婚の秘跡における主の賜物を護る手立ては、個々の家庭についてだけでなく、教会共同体すべてについての関心です」。

88 家庭の中での愛の体験は、教会の営みの強さの絶えることのない源です。「結婚の一貫した目標は、愛を育て、深めることへの絶えることのない招きにあります。愛における一致を通して、夫婦は父親であることと母親であることの素晴らしさ体験し、計画、苦難、期待、関心を分かち合いますー相手を気遣い、赦し合うことを学びます。そうした愛の中で、幸せな時を称え、共に歩む人生の難しい時期に互いを支えます。互いに、無償で与えあう贈り物、命の誕生の喜び、そして、赤ちゃんからお年寄りまで家族を構成する全員への愛のこもった気遣いの素晴らしさは、家庭の使命への対応を類ない、かけがえのないものにする豊かな実りの、ほんの一例です。

分かち合いのヒント

 あなたは、結婚の目的をどのように表現しますか?

 子供たちをどのように受け入れたらいいかを、他の人にどうやって教えることができるでしょうか?あなたの小教区では、家庭の暮らしを支えるために、何をしていますか?

 第4章 結婚における愛

89 これまで話されたことは、結婚と家庭についての福音を述べるために十分ではないようです。愛についてもそうでした。成長を力づけ、夫婦と家庭の愛を強め、深めることをせずに、私たちが、貞節と献身の歩みを奨励することはできないからです。まさに、結婚の秘跡の恩寵は、二人の愛を完全にするための他のすべての前に、意図されたのです。「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、私は何者でもない。たとえ全財産を貧しい人に分け与え、自分の身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益にもならない」(コリントの人々への第一の手紙13章2節-3節)。「愛」という言葉は、しかし、一般的に使われ、しばしば誤って使われます。

私たちの日常的な愛

90 聖パウロの叙情詩風の一節に、真の愛についての特徴が出ています。「愛は寛容なもの慈悲深いものは愛。愛は妬(ねた)まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」(コリントの人々への第一の手紙13章4節-7節)。

       ギリシャ語原典に忠実な翻訳は→愛はmakrothymei辛抱強く、愛はchresteuetai親切です.それはねたみません。愛は誇ることがなく、思い上がることもありません.それは無作法をしません.また自分の利益を求めません.それは苛立ちません.また人の悪を数えたてません.それは不義のものを喜ばないで、真理と共に喜びます.それはすべてを覆い、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍びます

  愛は、夫婦と子供たちの日々の暮らしの中で体験され、育まれます。このパウロの手紙の一節とそれぞれの家庭の具体的な状況との関連性についてより深く考えることは役に立ちます。

愛は辛抱強い

91 この一節の始めに使われているmakrothymeiは、単に「すべてに耐える」ことを意味しません。それは第七節の終わりの表現で分かります。この言葉の意味は、旧約聖書のギリシャ語訳「主は怒るに遅い」(出エジプト記34章6節、民数記14章18節)で明らかです。それは、一時の感情で動かず、腹を立てない人の特質にあてはまります。この特質は、家庭生活の中で自らに倣うように求められる「契約の神」に見ることができます。makrothymeiを使う聖パウロの諸文書は、知恵の書(11章23節、12章2節、15節‐18節を参照)の光の中で読まれる必要があります。知恵の書は、慈しみの行為に表された、悔い改めの機会を残しつつ、自らの力を示す「神の抑制のきいた態度」を讃えています。罪びとに対する慈しみで示された神の「patience(忍耐)]」は、その真の力のしるしなのです。

 92(抄訳)Being patient(辛抱強い)は、ひどい扱いをされるに絶えず身をまかす、ということを意味しません。もし、私たちが社会と全ての人々が完璧でなければならないと考え、あるいは自分たちがいつも主人公であろうとすると、そうならない時には、激しく反応します。怒ります。そうして家庭は戦場になるでしょう。しかし、恨みや非難、怒りを脇に置くようにすれば、忍耐強くなります。そうして、他の人たちが彼らなりにふるまう権利があることが分かります。たとえ少しばかり、むっとすることがあっても、愛が私たちを耐えさせるのです。

分かち合いのヒント

以上のような説明に関係するような経験をされたことがありますか。いつ、どなたとの間でそのような経験をされましたか?

 

愛は他の人々に親切

93 パウロが使うその次の言葉、chresteuetai(親切)は、聖書の中でここでしか使われていません。chrestosー行いで親切さを示す人―がもとになっています。(略)パウロはPatienceが完全に受け身の態度ではなく、行動を伴い、積極的で、建設的な人とのふれあいを伴うことを、はっきりさせたかったのです。この言葉は、愛が人々に益をもたらし、助けとなることを示しており、そのために「親切」と訳され、愛は常に助けとなることを進んでするのです。

94(抄訳)愛は感情以上のもの。他の人を優先しようとする一連の決意です。それは、見返りを求めず、他の人のために私たち自身を使うことの幸せへ、私たちを導きます。

愛はねたまない 

95(抄訳)愛は他の人々の幸運を喜ぶように私たちを導きます。不快に感じることはありません。他の人々の成功を悲しむとしたら、それは、私たちが他人よりも自分自身を大切にしているからです。愛は私たちを自分自身の世界を超えて、他の人々が成し遂げたことを讃えます。妬みの気持ちから解放します。それぞれの人が異なった賜物を受け、独自の生き方をしていることを受け入れます。そうして、他の人々がそれぞれの幸せへの道と歩むのと認めつつ、自分自身の道を見つけようと努めるのです。

96(抄訳)このようにして、愛は、他人のものを手に入れようと熱望することのないように、との神の戒めを進んで守るように、私たちを導きます。さらに、他の人々を真剣に深く尊敬することを求めます。あなたは、この人を愛する、と自分自身に言い、その人を、限りなく寛容な神の目をもって見るのです。同じように、私たちは不正、とくに誰かが、他の人が不足して困っている時に、必要以上にたくさんのものを手に入れるようなことを拒絶します。

分かち合いのヒント

以上お読みになって、あなた自身の経験を語っていただけますか。いつ、どなたとの間で、そのような

経験をされましたか。あるいは、経験し損ねたでしょうか。

 

愛は高ぶらない

97(抄訳)愛は私たちを、自分自身よりも他の人々に注意を払うように導き、私たちは傲慢な態度や押しつけがましい行動を避けさせます。常に自分自身のことを話そうとするのを控え、他の人々に注意を払います。これはまさに、愛が私たちを、自分自身の成功を吹聴しすぎるのを避けるようにすることを意味するのです。なぜなら、私たちの得たものすべてが、賜物だからです。私たちを本当に重要な存在にするのは、思いやりを持って愛すること、そして弱い人々を包み込むこと、なのです。

 98(抄訳)成熟しているとされている信徒が、他の誰よりもよく知っていると考え始めた時、それを誇るような態度が出ます。愛は謙虚さによって特徴づけられます。他者を愛することは、理解、赦し、奉仕を意味します。聖ペトロの戒めの言葉は家庭に対してもあてはまります。「みな互いに謙遜の徳を身につけなさい。『神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる』からです」(ペトロの第一の手紙5章5節)。

愛は無作法な行為をしない

99(抄訳)愛は、辛辣ではなく、寛大で、他の人々とその気持ちに配慮します。愛があなたを不愉快にさせることはありません。愛は、他者を苦しませるようなことを避けさせます。そうして、私たちは、気配り、優しさ、共感をもって、互いに心楽しく生きていきます。

 100(抄訳)他の人たちの欠点をあげつらうよりも、愛は、長所に注目し、互いをやさしく見つめます。これまで私たちが愛について述べてきたことはどれもが、次のようなことをもたらしますー忍耐強く、他者の成功を喜び、愛する人たちの長所に常に注目する。私たちは、安らぎ、慰め、励ましの言葉を話します。イエスは人々に、そのように話されました。私たちは、互いにイエスご自身の優しさに倣うことを学ばねばなりません。

分かち合いのヒント

これまでのところで、あなたの経験からどのようなことが言えますか。いつ、どなたとの間で、そのような経験をされましたか。

愛は心広い 

101 私たちは、他者を愛するためにはまず、自分自身を愛さねばならない、と繰り返し申し上げてきました。しかし、パウロは愛を賛美する言葉の中で、「愛は、自分の利益も、自分が持つものも求めない」と述べています。同じ考えは、他の文書でも示されています。「各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい」(フィリピの人々への手紙2章4節)。聖書は、他者に奉仕することは自分自身を愛するよりもはるかに素晴らしいことだということを、明確にします。自分自身を愛することは、他者を愛することができるための精神的な前提条件としてのみ、重要なのです。「自分に対して厳しすぎる者が、どうして他人に対して親切にできようか・・自分自身を恨む者ほど悪い者はいない」(シラ書14章5節‐6節)。

102 聖トマス・アクィナスは「愛されたいと望むよりも愛したいと望むことが、人の愛にふさわしい」と語りました。(中略)愛は、正義が求めることを超越し、しのぐことができー「あなた方の敵を愛しなさい・・何もあてにしないで貸しなさい」(ルカ福音書6章35節)-愛のもっとも偉大なものは、他者のために命を捨てる(ヨハネ福音書15章13節参照)ことを可能にすることです。自分自身を自由に、完全に捧げることができるような心の広さは、本当に実現可能でしょうか?可能です。聖書は求めます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)。

愛は苛立たず、怒らない

103(抄訳)怒りは私たちの精神を侵し、他者のことで不満にさせ、苛立たせます。他者に向かって腹を立てれば、自分自身を傷つけるだけです。

 104 聖書は私たちに、「まず自分の目から丸太を取り除きなさい」(マタイ福音書7章5節)と言います。キリスト教徒は怒りを育てないように、という神の粘り強い説得の言葉を無視することはできません。

(中略)私が申し上げたいのは、家庭の中に平和を作らずに一日を終えることは絶対にしてはならない、ということです。では、どうやって平和を作ればいいのでしょうか?ひざまずいて嘆願する?そうではありません!小さな仕草、何か少しのこと、でいいのです。そうすれば、家族の間に平和が取り戻されるでしょう。ちょっとだけ、優しくなでてあげれば、言葉は必要ありません。家庭の中に平和がないまま一日を終わらせないように。

 私たちが誰かに苛立った時、最初にとるべき行動は、祝福-神に、その人に恵みを与え、悩みを取り去り、癒しを与えてくださるように祈ること-です。「悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはなりません。かえって、祝福をもって報いなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのです」(ペトロの第一の手紙3章9節)。もし私たちが悪と戦わなければならないなら、そうしなさい。でも、家の中で暴力をふるうことに対しては、いつも「NO」と言わねばなりません。

愛は赦す

105(前略)「怒り」の反対は「赦し」です。それは、他の人々の弱さを理解し、容赦しようとする前向きな態度が基になっています。イエスが言われたように、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか分からないのです」(ルカ福音書23章34節)。

 しかし、私たちはさらに多くの過ちを求め続け、もっとひどい悪を思い浮かべ、あらゆる類の悪意を考え、怒りを増し、深めてしまう。そうして、夫婦の一方の過ちと逸脱のひとつひとつが愛の絆と家庭の心の安定を損なうことになります。どの問題も同じように深刻に見る時、誤りが起きます。私たちは他者の失敗を必要以上に厳しい目で見る危険を冒します。自分の権利を尊重してもらいたいという強い願望は、自分自身の尊厳を筋の通ったかたちで守ることよりも、復讐を渇望することに変わってしまいます。

 106 気分を害されたり、失望させられたりした時、赦すことは可能ですし、望ましい。でも、そうすることが易しいとは、誰も言えません。真実はこのように言えるでしょう。「家庭の一致は犠牲の精神を通して維持され、満足のいくものになる。そのために、皆が互いに理解し、自制し、赦し、和解するために、喜んで心を開くことが求められる。身勝手、不和、緊張、争いがどのように暴力的な行為となり、時として家庭の一致に致命的な傷を負わしてしまうのかを知らない家庭はない。それは、家庭生活に多くの、さまざまな形の分裂を生む」。

 107 他者を赦すことは、また、自分自身を赦すことを意味します。他者から批判されると、私たちは受け入れがたいと感じます。しかしもし、自分かこれまでしてきたことで神に赦しを願い、自分の至らなさを思い、自分の欠点を笑い飛ばし、容赦するなら、他者にも同じ態度で接することになるでしょう。

 108 私たちがそれをできるのは、神が最初に私たちを赦してくださっている、ということを経験しているからです。神の私たちへの愛は、私たちがすることすべてを超越します。人を傷つけ、罪を犯し続けている私たちを神が愛して下さる。私たち自身が互いに無条件に愛し、赦し合うことで神に倣わないならば、家庭生活は緊張と相互批判に満ちたものになってしまうでしょう。

 分かち合いのヒント

 これまでの言葉から、あなた自身の経験をお話になれますか。いつ、どなたとの間で、そのような経験をされましたか。

愛は他者とともに喜ぶ

109(抄訳) 他の人々が苦しんだり、不当な扱いを受けた時に喜ぶなら、私たちは愛をすることから、程遠い所にいます。愛は私たちを、好ましいこと、そのことだけに喜ぶように招きます。私たちは、他者と自分を比べたり、競ったりすることをせず、彼らの尊厳と才能を重んじます。他者の失敗を、陰で喜ぶようなことは決してしません。

 110(抄訳) 私たちは、他者に善をなそう、他者の幸せが一番大事と考えようと努めます。愛は私たちを、他者の幸せを幸せと思い、家族の中で素晴らしいことを讃えるように招きます。

愛はすべてをこらえる bear all things

111 パウロの話は、「all thingsすべて」という言葉を含む4語で締めくくられます。愛はすべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ・・・。どのような脅威にも臆せず立ち向かう、流れに逆らう愛の力が、はっきりと示されています。

 112 第一に、パウロは愛は「すべてをこらえるpanta stegei」と言います。この言葉は、悪を単に我慢する以上のことを言っています。これは言葉づかいと関係します。この動詞は、他の人に好ましくないようなことについて「言いたいことがあっても黙っている」ことを意味することがあります。他者を裁くことを制限し、他者を容赦なく責めるような衝動を抑えることを意味します。「裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない」(ルカ福音書6章37節)のです。(略)神の言葉は、私たちにこう話されます。「兄弟たちよ、互いに悪口を言い合ってはなりません」(ヤコブの手紙4章11節)。他者の悪口をすすんで言うのは、相手を傷つけることを考えずに、出しゃばったり、腹を立てたり、妬んだりする仕方の一つです。

 私たちは、他者を中傷することがとても罪深いということを、よく忘れます。それが他者の名誉をひどく傷つけ、修復困難な損害を与える時、神に対する重大な侮辱になります。それゆえ、神の言葉は率直にこのように語ります。「不義の世界である舌」は「全身を汚す」(ヤコブ3章6節)、それは「疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(同3章8節)。舌は「神をかたどって造られた人々を呪う」(同3章9節)のに使うことができますが、愛は他者の名誉、敵の名誉さえも大事にします。神の法を守ることに努める中で、私たちは、このような愛の具体的な要件を満たすことを忘れてはなりません。

113 夫婦は互いのことをよく言います。互いの欠点ではなく、良い面を見せようとします。相手のことを悪く言いたい場合も、黙っている方を選びます。そしてそれは、単に人前でそのように振る舞うだけではありません。内面から湧き出るのです。

(中略)私たちはすべて、光と影が複雑に混合した存在だ、ということを認めるべきです。相手は私を悩ます小さな事柄の集積以上の存在です。愛は、私たちが大切にすることが完全でなければならない、という訳ではありません。相手は私を、限界を抱えながら、できる限り愛しますが、愛が不完全なものであることは、真実ではない、現実ではない、ということを意味しません。限界があり、世俗的でもありますが、それが現実です。相手にあまり多くを期待すると、相手は私に、神のようにすることも、私の求めすべてに応じることはできない、ということを知らせることになるでしょう。愛は、不完全さと共存します。「すべてをこらえ」、愛する人の限界の前に言いたいことがあっても黙っていられるのです。

分かち合いのヒント

 以上のことに関連した経験をお話ししてください。いつ、どなたとの間でそのような経験をされましたか?

愛はすべてを信じる

114 Ponta pisteuei。愛はすべてを信じます。ここで使われている”belief“は厳密な神学的な意味(訳注・「信仰する」あるいは「存在を信じる」を指すと思われる)でとらえるべきではなく、私たちが”trust(信頼する)“として理解するのに近いでしょう。単に、他の人が嘘をついていない、あるいは騙していないと思う以上のニュアンスがあります。そのような根本的なtrust(信頼)が、闇を超えて輝く神の光輝きを認識するのです。灰の下で真っ赤に輝く燃えさしのように。

 115(抄訳)そのようなtrust(信頼)が私たちを自由にします。私たちが互いに管理し合い、所有し合い、あるいは支配し合う必要はありません。私たちは配偶者として相手と互いに分かち合い、同時に、互いに率直であることに自由なのです。そうすることで、相手に対する疑惑、秘密、過ちを隠す必要がなくなります。

愛はすべてを望む

116 Panta elpizei.愛は未来に対して失望しません。これまで語られたことに続いて、この言葉は、予想しなかった素晴らしさ、語られなかった可能性を、他の人が手を付け、育て、輝かせることができる、と知る人が持つ希望について語っています。このことは、人生においてすべてが変わることを意味しません。それは、いつも望み通りにいくとは限らないが、神が曲がった線をまっすぐにし、私たちがこの世で耐えている害悪から良いものを引き出して下さるのを、はっきり理解することを含みます。

 117(抄訳)死後も、そのようなことが続くと望むゆえに、私たちは永遠に共にいることになるでしょう。それで、どのような涙も拭われ、どのような過ち、失敗も赦され、私たちの真の人格が輝き出るのです。

愛はすべてに耐える

118 Panta hypomenei。これは、愛はどのような試練にも前向きな態度で耐えることを意味します。敵対的な環境の中にあって、しっかりと持ちこたえるのです。

(以下抄訳)愛は結婚生活に忍耐を与えます。ある種の苛立ちをもって耐えるけれども、それを乗り越えて先を見ることを可能にします。これが、どのようなことがあっても、決してあきらめることをしない愛、なのです。マーチン・ルーサー・キングは、このことを私たちが理解するのを助けてくれます。彼は、自分を嫌悪する人々も良いものを持っている、と信じていました。ひとりひとりの中に神の姿を見、彼らはどのように敵を愛すべきかを彼に教えました。「あなたの敵を打ち負かす機会が与えられた時、それが、そうしてはならない時なのです」と語っています。

 119 家庭生活で、害悪に抗するよう助けることのできる愛の力を養う必要があります。愛は、他者を憤り、嘲り、あるいは傷つけ、優越することに身を任すことをしません。キリスト教徒の理想は、とくに家庭において、決して諦めることにない愛、です。私はしばしば、次のような男女を知って驚かされます。彼らは、自分たち自身を守るために配偶者と別れねばならなかったけれども、消えることのない夫婦の愛ゆえに、病に侵されたり、苦難や試練に合う時、他の人々に助けを求めることさえして、相手を支えようとします。ここにも、私たちは決して諦めることのない愛を目の当たりにするのです。

分かち合いのヒント

 このような教えに関してあなた自身の経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をしましたか、あるいは、経験できなかったでしょうか。

夫婦の愛の成長

120 聖パウロの愛の賛歌を味わうことは夫婦愛について話し合う準備となります。これは夫と妻の間の愛、結婚の秘跡の恩寵によって聖とされ、豊かにされ、輝かされる愛、です。それは“affective union(情緒的な結合)”、霊的、犠牲的で、友情の温かさと性的な情熱、そして感情と情熱がおさまった後も、長く続くもの。教皇ピオ11世は、このような愛は結婚の本分に染み渡り、至上のものとなる、と教えました。聖霊によって活力を与えられた、この力強い愛は、十字架上での自己犠牲で示されたキリストと人類の破られることのない契約の表れです。「主の注がれる聖霊は新たな心を与え、キリストが私たちを愛されたように人を愛することのできる力を与えて下さる。夫婦の愛は、interiorly ordained内に定められた高み-conjugal charity夫婦の慈愛‐に達するのです」。

 121(抄訳)このような愛は、結婚の中で二人を深淵な絆へと導きます。それは神が私たちを愛するなさり方を映しています。それは神の姿のうちにある愛です。

122(抄訳)このことは結婚で相手が完全である、あるいは完全でなければならない、ということを意味しません。着実に互いの愛を深めていくこと、それだけが重要なのです。

生涯を通じて分かち合う

123(抄訳)性的な愛は、友人関係の素晴らしい形、最も素晴らしい形です。他者の良きことに対する関心、親密さ、温かさ、安らぎ、安定、そして分かち合う人生の表現です。夫婦は全生命を分かち合います。「愛する者たちは、その関係を一時的なものとは見なさない」のです。これらのすべては、人間であることの意味するものに根差していますー生来のものなのです。(以下全訳)信じる者にとって、それはまた、忠誠を求める神の前での契約です・・「主がお前とお前の若い時の妻との間の証人であり、お前が妻を裏切ったからだ。彼女は、お前の伴侶、お前と契約で結ばれた妻であるのに・・・お前は若い時の妻を裏切ってはならない。『わたしは離婚を忌み嫌う』と・・主は仰せになる」(旧約聖書マラキ書2章14節‐16節)

 124(抄訳)弱くて結婚することのできない愛は、そのように素晴らしい、一生のつながりを維持することはできません。はかなく、時の試練に耐えません。恩寵によってのみ、長続きのする愛は可能となるのです。私たちの信仰が教えてくれるように、どのようにしてそのような愛が可能となるのか。それは大きな神秘です。

 125 同じように、結婚は強い愛情で特徴づけられる友人関係ですが、強い愛情はいつも、分別のある真剣な結びつきに向けられています。これは、「結婚は子供たちを作ることだけに定められたもの」ではなく、互いの愛を「適切に表し、育て、円熟させていくべきもの」だからです。男女の間の独特の友人関係は、夫婦の一致の中でのみ、すべてを包む性格をもつようになります。まさに、すべてを包むものとして、この一致はまた、他の者を入れず、忠実で、新たな生活に開かれています。互いに対する変わらぬ敬意をもって、すべてを分かち合います。第二バチカン公会議は「そのような愛、人と神を和解させ、夫婦を自由で互いの自己献身に導く愛は、優しさと行動の中で経験され、彼らの命全体に沁みとおります。

 分かち合いのヒント

 以上の教えに関係するあなたの経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をされましたか。それとも経験をしそこないましたか。

喜びと美しさ

126(抄訳)結婚において喜びを育むために、私たちは、大きな悲しみの最中でも、そのような喜びは存在することができる、ということを理解すべきです。結婚は苦労、緊張、苦痛、満足、喜び、いらだち、願望が入り混じったものだということを、私たちは受け入れます。喜びは、このように結婚が私たちにもたらす全ての中に入ってきます。

 127(抄訳)結婚で、夫婦は互いへの愛と思いやりから生まれる崇高な敬意で、抱き合います。私たちは相手の神聖さ、美しさを知ります。世間が美しいと思うような仕方ではなく、恋人が愛する人を見つめる仕方で。私たちは、やさしさ、自由、そして大きな尊敬を互いに与え合います。私たちは、彼らの善良さに心を動かされます。

 128(抄訳)私たちが老い、体が弱っても、私たちの伴侶は、私たちを美しいと思い続けます。私たちは、互いに高い評価を与えて見つめます。そうしないなら、どれほど悲しいことでしょうか。愛は、私たちの目を開かせます。素晴らしい価値をもつ人間として愛する人を見るように。

 129(抄訳)私たちは、そのように確約する能力を養いたい。なぜなら、そうすることの中に、大きな喜びもあるからです。私たちは夫婦に大きな喜びをもたらしたい。それは虚栄心の強い人、自己中心的な人の業ではなく、愛する人にとってよいことだけを求める恋人の業なのです。たとえ、人生に苦痛と悲しみがあっても、そのような喜びは可能です。夫婦はともに苦闘し、苦しむことの価値を知っています。2人で成長していくのです。愛する人と大事なことを成し遂げること以上に大きな喜びはありません。

分かち合いのヒント

 以上の話から、あなた自身の経験をお話しください。いつ、誰との間でそのような経験をしましたか。あるいは経験し損ねましたか。

愛のために結婚する

131(抄訳)若い人たちに言わせてください。あなた方が結婚するとき、失われる愛はない、と。あなた方の約束を公けにするものとして、結婚を選ぶことは、その愛を高めることになるのです。互いが満ち足りるための束の間の取り決めよりも、はるかに強固なものーそれは目的を持った愛、継続する愛、一生続く、強い愛です。

 132(抄訳)結婚を選ぶことは、人生における生き方につながり、どんなことがあろうとも、共に歩むことです。気楽な道に入っていくようなものではありません。なぜなら、結婚は常に何かの危険をはらんでいるからです。それでも、本当に愛しているのなら、結婚は互いに対して、この世に対して、堂々と示す道なのです。結婚の時にあなた方が約束する「はい」は、一生を通じて繰り返されていくのです。

本性を明らかにし、増していく愛

133(抄訳)愛は現実になるために、脇に置いておくものではなく、日々の生活に生かされねばなりません。家庭では、私が前に申し上げたように、三つの言葉が必要とされます。それは「どうぞ、お願いします」「ありがとう」「ごめんなさい」です。これらの言葉を互いに交わすのを惜しまないように。それがあなた方の愛を守るからです。

 134(抄訳)結婚した日の愛は十分ではない。愛は結婚生活を通して育てていく、着実に大きさを増し、心の広さを増していくものでなければなりません。結婚はあなた方に、一緒にいる“義務”ではなく、愛の中で成長する恩寵を贈ります。やさしさのこもった振る舞い、愛と相手を受け入れる心をもった振る舞い、贈り物、思いやりのある言葉―これらが、愛を育てます。

135(抄訳)簡単に言えば、私たちは、結婚と愛の中で「最良のものがこれから来る」ということを、いつも思い起こすべきなのです。家庭生活は現実ですーそこで人は病気になり、年老い、忘れっぽくなり、結婚した時のようには美しくなくなりますーでも、そうして円熟していくのです。

分かち合いのヒント

 以上の話から、あなたの経験をお話しください。いつ、どなたとそのような経験をしましたか、それとも経験できませんでしたか。

対話

136 対話は、結婚と家庭の生活で愛を経験し、表現し、育てるために欠かすことができません。しかし、(訳者注・対話が対話として成り立つためには)長く、骨の折れる下積みの努力を重ねることが求められます。男性と女性、若者と大人の意思疎通の仕方は異なります。異なった言葉を話し、異なった振る舞い方をします。私たちの質問と答えの仕方、言葉の調子、話のタイミング、その他の要素が、意思疎通の出来具合を規定するのです。私たちは愛を表現し、真の対話が促進されるような適切な対応を工夫する必要があります。

 137 時間をかけて、たっぷりと時間をかけて・・。このことは、相手の言いたいことすべてを辛抱強く、注意深く聴く用意をすることを意味します。それは、適当な時が来るまで話さないようにするという自制も求められます。意見や助言を述べる代わりに、他の人が言わねばならないことをすべて聞いたことを確認する必要があります。このことは、理性的なあるいは感情的な動揺をすることなしに他の人の話を聴くことを可能にする内面の静けさを作り出します。あわててはなりません。あなた自身の求めているもの、心配しているものをすべて横に置いて、余裕を作りましょう。

 あなたの連れ合いが自分の問題に対する解決策を必要としないけれども、ただ聞いてくれたり、自分の痛みや失望、怖れ、怒り、希望、そして夢を分かってくれている、と感じたりするだけでいい、ということも、よくあるのです。このような不満の声を、どれほど多く耳にすることでしょう・・「彼は私の話を聴いてくれない」「聴いてくれているように見えても、実際は、他のことをしている」「彼女に話をしている時、話し終わるのを彼女が待っていられないように感じる」「彼女と話している時、彼女は話題を変えようしたり、話をやめさせるような、そっけない返事をする」。

 138(抄訳)あなたの連れ合いが話すことをいい加減に扱わないように。大切に受け止めましょう。人生の思いと経験を重視しましょう。相手の身になって、互いの誠意を認め合いましょう。

 139(抄訳)そのような愛を育てるために、いつも心を開き、自分の意見と考えを行き詰らせないように注意しましょう。あなた方の考えを一つにまとめる時、2人が持っていた考えよりもすぐれた考えが出てくるのです。相手の感情を害することを恐れずに話せるようにする必要があり、それには、相手を気遣い、気配りのある、心のこもった言葉を使うことが求められます。怒りや相手を傷つけるような会話に支配されないように。

140 相手への愛といたわりを示しなさい。愛は最悪の障害さえも乗り越えます。私たちがある人を愛する時、あるいは人から愛されていると感じた時、彼らが意思疎通を図ろうとしている中身を、もっとよく理解できます。ある種の“ライバル”として、相手を恐れることは、弱さと打ち勝つべき必要があることのサインです。しっかりした選択、信仰あるいは価値を基礎に置くことがとても重要です。争いに勝つ、あるいは正しいと証明する必要にかられてはなりません。

 141 最後に、価値のある対話をするためには、話すべきものを持っていなければならない、ということを確認しましょう。話すべきことは、書物を読み、深く考え、祈り、周囲の世界に開かれた心を持つことで養われる、内面の豊かさでのみ得られるものです。さもなければ、対話はあきあきするような、つまらないものになってしまいます。夫婦のいずれもがそのように努めず、他の人たちと誠実な交わりをしない時、家庭生活は息苦しいものとなり、対話は非常に貧しいものになります。

 分かち合いのヒント

  以上の話に関連した経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をなさいましたか。あるいは経験することができませんでしたか。

情熱的な愛

142 第二バチカン公会議はこのように教えています。夫婦愛は「1人の人格全体の善を包含している。したがって、この愛は、心とからだの表現に特別な品位を付与し、それらの表現を夫婦間の友愛の要素、または特別なしるしとして、高貴なものにすることができる」(現代世界憲章49項)。

このような理由から、喜び、あるいは情熱を欠いた愛は、人の心の神との一致を象徴するのに不十分なのです。「超自然的な愛と天の愛が、友情や子の愛情、大義への忠誠よりも、夫婦愛の中に象徴を見出す、ということを、すべての神秘が確かなものにしています。そして、その理由はまさにその全体の中に見出すべきものなのです。それでは、私たちは、結婚に関して感情と性欲について話すのを、なぜ、ためらうべきではないのでしょうか。

愛の変化

143 desires願望、feelings感情、emotions感動―古代の人が“the passion(感情、情熱、激情などを意味する)”という言葉で表現していたものーすべてが結婚性格で重要な役割を果たします。“他の人”が居るようになり、ある人の生活の一部になる時には、いつも起きるのです。他のものと心を通わせるために、生きとし生けるものすべてが持つ特性であり、これには、いつも基本的な情緒的合図-楽しみあるいは痛み、喜びあるは悲しみ、優しさあるいは恐れーがあります。これらは、最も初歩の心理的活動を基礎にしています。人類はこの地球で生活し、すること、求めることのすべてはpassionをはらんでいます。

144 間違いなく人として、イエスは感情を表に出しました。彼は、エルサレムに拒まれて傷つき、(マタイ福音書23章27節参照)その都をご覧になって、お泣きになりました(ルカ福音書19章41節参照)。また、人々が苦しんでいるありさまを見て、強く心を動かされました(マルコ福音書6章34節参照)。人々の嘆きを見て、心に憤りを覚え(ヨハネ福音書11章33節参照)、友の死に涙を流されました(同11章35節)。彼の感受性の強さを示すこれらの出来事は、彼の人間としての心が、いかに他の人々に対して開かれていたかを示しているのです。

145(抄訳)感情を抱くことは、それ自体、道徳的にみて、善でも、悪でもありません。感情は、誰もが持っています。問題は、感情によって、自分自身がどのように振る舞うようになるか。それは、私たち自身の判断に任されています。また、愛したいという願望がそのまま愛になるわけでもありません。利己的な願望にとらわれれば、真に相手を思いやる愛を与えられなくなるでしょう。

146(抄訳)家庭を構成する夫婦、子供たちの感情が健全で、家庭に捧げられたものである時、家庭生活は豊かになります。

神はご自分の子供たちの喜びを愛される

147 このことは、自制を含めた教育課程を必要とします。こうした教会の立場からの信念は、人間的な幸せに反するものとして、しばしば否定されてきました。ベネディクト16世は、このような否定の動きに対して、次のように、はっきりと語ります。「教会は、そのすべての掟と禁令をもって、人生で最も価値あるものを苦しいものにしないのですか?創造主の贈り物である喜びが、私たちに、神の国の確かな予兆である幸せを与えてくれる時に、警鐘を鳴らさないのですか?」と問いかけ、こう答えます・・キリスト教には誇張と禁欲主義の行き過ぎがありました。しかし、教会の公式の教えは、聖書の教えに忠実に従い、「eros性愛を否定せず、むしろ、それを歪めたり、壊したりする動きに対して宣戦を布告していました。それが、Erosについての偽りの神学・・神の尊厳をerosから取り去り、非人間化するからです」。

148 感情とinstinct衝動(あるいは本能)の面での訓練が必要です。時として、それに限度を設けることが求められます。行き過ぎ、抑制の欠如、あるいは喜びの一つの形を伴った妄執は、そのような喜びを弱め、傷つけ、家庭を損なう結果を招きます。人には、自分の情熱を、美しく、健全な形で確かに伝え、家庭の愛情の中で人間同士の関係を豊かにできる「他を思う心と自己実現」に向けていくことが可能です。このことは、熱烈な喜びを絶つことではなく、熱情を、寛大な献身、辛抱強く抱き続ける期待、避けがたい倦怠、そして理想を達成するための苦労と結びつけることを意味します。家庭生活はこれらすべてであり、存分に過ごす価値のあるものなのです。

149(抄訳)神は、私たちが自分の世界を楽しむのをお喜びになりますー身体、魂、心、そしてすべてを。夫婦が歳を重ね、成熟するように、彼らの楽しみもまた、成熟していくのです。

愛の官能的な側面

150 これまで述べてきたすべてが、私たちを結婚の性的な側面に至らせます。神ご自身が性的な特質をお造りになりました。それは被造物に対する素晴らしい贈り物です。もし、この贈り物が育てられ、管理される必要があるなら、“真正な価値の劣化”を避けねばなりません。

 聖ヨハネ・パウロ二世は、教会の教えが「人の性的特質の価値を否定している」とする、あるいは、教会は性的な特質を”子供を作るのに必要“だから我慢する、と主張するのを拒まれました。性的な欲求は、見下すべきものではなく、”その必要性について疑問を差しはさむいかなることも試みられてはならない“のです。

151(抄訳)このことは、性的な愛に自発性がありえない、ということを意味しません。それとは反対に、愛が成熟するにしたがって、素晴らしさ、驚きの自覚が育っていきます。性的交わりを通して、夫婦は現実の、真の自己を体験する-これが神からの素晴らしい贈り物なのです。

152 ですから、愛の性的側面を単純に、家庭の善のために許容される悪、あるいは耐えねばならない重荷と考えることは、まったくできません。むしろ、夫婦の絆を豊かにする神からの贈り物と見られるべきです。他者の尊厳に敬意を払う愛によって昇華された熱情として、それは人の心が可能にする驚異を示す“純粋で、混じりけのない肯定”となるのです。そうすることで、私たちは絶え間なく、“人生は良い、幸せなものだということが分かった”と感じることができるのです。

分かち合いのヒント

  以上の話に関連した経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をなさいましたか。あるいは経験することができませんでしたか。

暴力とごまか

153(抄訳)しかしながら、私たちは、現代文化の中で、性的交わりが個性を失い、不健康になり得ることを知っています。そうしたことから性的交わりを守らねばなりません。私たちは自分の結婚相手を、若くて、しっかりしている間だけ、良いもの、と見なすべきではない。すすんで、ともに年を取るべきです。

154(抄訳)結婚生活を送るなかで、性的交わりはごまかし、強制的、あるいは暴力的なものになり得ます。相手が受け入れる意思がないまま、無理強いすべきではありません。

155(抄訳)同様に、私たちは、性的交わりを、満足が得られない習慣、にしてしまうのを避けねばなりません。夫婦の間には、感情的、物理的な空間が必要です。それぞれが、自身の尊厳を、性的な愛に持ち込むのです。支配のあるところでは、尊厳が失われてしまいます。

156(抄訳)性的交わりに伴いがちな服従を、私たちは拒否します。新約聖書のエフェソの人々への手紙で、パウロが妻たちに「夫に従いなさい」と勧めているのは確かですが、この箇所は、現在では存在しない紀元後一世紀における文化的な現実のもとで語られたものです。結婚生活で、夫婦のいずれも、相手の奴隷とはなれません。この箇所はよく誤って読まれます。この箇所と言葉の真の意味は、互いに仕えるように、互いを十分に配慮するように、という、夫婦それぞれへの呼びかけです。

157(抄訳)しかし、性的交わりがゆがめられることを拒む一方で、私たちは性的交わりそのものを拒否しません。結婚生活で、いつも自分自身を相手に与えるだけでは十分ではない。教皇ベネディクト十六世が言われたように、愛を受け入れることもまた、必要です。私たちは脆い存在です。私たちの性的な生活を愛と忠誠へ導くように、十分な注意を払わねばなりません。

分かち合いのヒント

  以上の話に関連した経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をなさいましたか。あるいは経験することができませんでしたか。

結婚と純潔

158「結婚していない人の多くは自分の家庭に対して献身するだけでなく、しばしば、友人たちの集団で、教会共同体で、仕事場で、立派に奉仕をします。彼らの存在と貢献は時々、見過ごされ、彼らに疎外感を起こさせます。多くの人は慈善活動やボランティア活動を通して、教会共同体の奉仕に才能を発揮します。他の人たちはキリストと隣人への愛に人生を捧げ、未婚のままでいます。彼らの献身は家庭、教会、そして社会を大いに豊かにするのです」。

159(抄訳)純潔は愛のひとつの形です。それは人が神に関することに心を集中させるのを可能にします。聖パウロはこのことを確信し、自身の生き方として純潔を選びました。結婚は純潔に劣るものではなく、独身は結婚に勝るものでもありません。結婚も独身も、生きている教会にとって対等の価値があるのです。

160(抄訳)霊的な人生の成熟は、どちらの立場にある人たちでも可能です。

161(抄訳)純潔と夫婦愛は、異なる方法ではありますが、共に神の王国を反映しています。前者は王国の自由の印であり、後者は三位一体の愛の反映です。

162(抄訳)独身主義は、一人でいる自由をもたらす居心地の良い独身生活以上のものではなくなる、というリスクを冒す可能性があります。夫婦の愛は自己中心と寛大さを証明するものになる可能性があります。両親は子供たちの世話をします。夫婦は年を取ったり、日々の生活に不自由したりするようになって、互いの世話をします。

分かち合いのヒント

  以上の話に関連した経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をなさいましたか。あるいは経験することができませんでしたか。

愛の変質

163 以前よりも長くなった寿命は、密接で二人だけの関係が40年、50年、60年と続かざるを得ないことを意味します。その結果、当初の判断を頻繁に更新しなければならなくなります。夫婦のいずれかが、相手に対する性的な熱情を持てなくなる一方で、相手はなお親密な関係に喜びと、どちらも一人ではなく、人生におけるすべてを共有する‶パートナー“だという認識を持ち続けているかも知れません。

  彼あるいは彼女は、人生の旅の道連れ。ともに人生の難局に立ち向かい、喜びをともにします。満ち足りた気持ちは、夫婦愛にふさわしい穏やかで持続的な心の動きです。生涯を通して同じことを感じ続けられる保証はありません。しかし、もし2人が、人生の計画を共有し、続けることができれば、死が二人を分かつまで、関係を深めながら、互いを愛し、一つになって生きることが可能になります。二人が誓った愛はどのような感情、心情、あるいは精神の状態よりもーそれらすべてを含んでいるかも知れませんがー偉大です。もっと深い愛、一生にわたる決心です。決着を見ない争い、我を見失うような感情の動きの中にあってさえも、互いを愛し、一体感を持ち、人生をともにし、愛し、赦し続けようとする決心を日々、確認するのです。各々が、個人的な成長と発展の道に沿って前進するのです。この旅路においては、愛はどの一歩、どの新たな段階でも、喜びを感じるのです。

164 どの結婚生活でも、続けていく間に(二人の)肉体的な外見は変わりますが、そのことは、愛と魅力の必要性が消えていくことを意味しない。私たちは相手を、その人ゆえに愛するので、その人の肉体だけを愛するのではありません。肉体的に老いても、最初に心をつかんだその人の個性は続いています。たとえ、その人の美しさを目にすることができなくでも、夫婦は愛の目で見つめ続け、相手に対する愛の気持ちは消えません。二人は、相手とともにあることを確認し、誠実さと愛にあふれた親密さでその選択を表現するのです。この決意の気高さは、その強さと深さによって、夫婦の使命を果たすものとして、新しい感動へと高められるのです。

 「他の人間によって個人としてもたらされた感情は・・それ自体は、結婚の行為に至るものでない」。他の分別のある表現を見出します。実際のところ、愛は「一つの実体だが、いくつもの異なった要素を持っているー異なった時に、一つの、あるいは他の要素がより明確に現れる」ものです。結婚の絆は、表現の新たな形を見出し、力強く成長する新たな道を常に求めています。これらのことは、ともにその絆を保ち、強めます。日々の努力を求めます。しかし、恩寵、超自然的な強さ、霊的な火を求める聖霊への祈りなしに、新しい状況の下で私たちの愛を確認し、動かし、変質させることはできません。

分かち合いのヒント

  以上の話に関連した経験をお話しください。いつ、どなたとの間でそのような経験をなさいましたか。あるいは経験することができませんでしたか。

  童貞、処女を守ることは、愛に対してどのように貢献するのでしょうか。

第5章「愛は実り多い」

165 愛は常に命を生み出します。夫婦愛は「二人で終らず・・相手に自らを与える中で、自分たちだけでなく、子供たちの実在-二人の愛の生きた映し、夫婦の一致の永遠のしるし、父と母の生きた、分かつことのできない存在-を生み出す」のです。

166(抄訳)家庭において、新しい命は賜物として歓迎されます。神の愛のシンボルー赤ちゃんたちは生まれる前でさえも愛されるのです!それでも、沢山の子供たちが望まれて生まれず、打ち捨てられ、子供として扱われていません。私たちは、このような現状を変えるために、できることをすべてしなければなりません。両親としてまずすべきことは、誕生した子供を自分たちに委ねられた賜物として受け入れること、そして、人間として立派に育つように導くこと、です。

167 大家族は教会にとって喜びです。それは愛の実りの表れです。同時に、聖ヨハネ・パウロ二世はこのような公正な説明をしています。責任ある親であることは、「際限ない出産や子供たちの養育に何が必要かという認識を欠くこと、ではなく、自分たちの置かれた状況と正当な欲望とともに社会的、人口統計的な現実を考慮に入れ、侵されることのない自由を賢く、責任を持って使う能力を高めること」なのです。

愛と妊娠

168(抄訳)妊娠は困難だが、素晴らしい時です。母親は、新たな命の奇跡をもたらすために、神と力を合わせます。母であることは「女性の身体が持つ特に創造的な素質です。それは新しい人間の受胎と誕生をもたらします」。女性一人一人が創造の神秘に与り、神の計画の一部となります。子供一人一人が受胎の瞬間からずっと、神の心の中に場を持ちます。

169(抄訳)どの母親、父親も子供について夢を見、そうした夢が彼らに家庭生活の準備をさせます。

170 科学の進歩によって、子供が生まれる前に、髪は何色か、どのような疾病にかかる可能性があるか、を私たちは知ることができます。胎児の段階で、どのような遺伝子コードが書き込まれているのかが解析できるようになったからです。それでも、創造主、父だけが、その子のことをすべて知っておられることに変わりはありません。父だけが、彼あるいは彼女が持つ深い個性と価値を知っておられるのです。妊婦は、子供たちを知り、そのままを受け入れる知恵を十分に下さるように、神にお願いする必要があります。最上の時期に子供が生まれない、と感じる親もいます。彼らは、生まれてくる子供を心から受け入れるように癒し、力づけてくれるように、主に祈らねばなりません。子供にとって、自分が望まれて生まれてきたと感じることが重要なのです。

彼、彼女は、個人的な要求を満たすアクセサリーや回答ではありません。子供は、偉大な価値を持った人間であり、決して、個人的な利益のために使われてはなりません。ですから、新たな命があなたにとって都合がいいかどうか、あなたを喜ばせるような外見を持っているかどうか、あなたの計画と野心にかなっているかどうか―は、問題にならないのです。なぜなら、「子供たちは贈り物。一人一人が独特で、替えがたい・・・私たちは自分の子供たちを、子供たちだから、愛します。かわいいからではなく、自分がするのと同じように見たり、考えたりするからでもなく、自分の夢を体現しているからでもない。私たちは彼らを、子供たちだから、愛するのです。子供は子供です」。

両親の愛は、父なる神がご自身の愛を見せて下さった方法でなされます。神は、一人一人の子供の誕生を待っておられ、無条件でその子を受け入れ、大いに歓迎されるのです。

171 大きな愛情を込めて、私は、すべての未来の母親たちに強く願います-幸せを保ち、母であることの内面的な喜びを奪われないように。あなたの子供は、あなたを幸せにする価値があります。新たな命をこの世にもたらす神の道具となるあなたの喜びを、怖れや心配、他人の言うことや問題で減らしてはなりません。あなたの子供の誕生に備え、心を悩ますことなく、マリアの喜びの歌に加わりなさいー「私の魂は主を崇め、私の霊は、救い主である神に、喜び踊ります。主が、身分の低いはしために、目を留めて下さったからです」(ルカ福音書1章46節‐48節)。心配事を沢山抱える中にあっても、マリアのこの祈りのような、澄んだ、湧きたつ心を持つように努め、あなたの喜びを保ち、それを子供に伝えることができるように、主に願いなさい。

母と父の愛

172(抄訳)子供たちが生まれ、愛が続きます。子供に名がつけられ、言葉が与えられ、愛をもった眼差しが注がれ、夢のような素晴らしさが続きます。夫婦それぞれが子供の成育に貢献します。二人の互いの愛が子供に伝えられます。

173 多くの子供たちや若者たちに広がる「親のない子のような気持ち」は、私たちが考えているよりも、ずっと深刻です。現代社会で、女性たちが学び、働き、個人的な目標を追求することを望むのは、正当であり、望ましいことですが、それと同時に、子供たちが母親の存在を、特に生まれて間もない期間、必要としていることを、私たちは無視できません。実に「女性は、母―胎児を身ごもり、成長させる新たな人の命の被験者―そしてこの世に生まれさせる役割を負う者―として男性よりも前に立っている」のです。

  女性の特質をもった母親の存在が弱まることは、私たちの世界に重大な危機を引き起こします。私は男女同権主義を尊重しますが、それは画一化したり母性を否定したりしないという条件付きです。なぜなら、女性の偉大さは、奪われることのない人間の尊厳から、しかしまた、女性の特質-社会にとって欠かすことのできない-からくる、すべての権利を含むからです。女性に特別な能力-特に母性-はまた、義務を伴います。それは、母性がこの世で特別な使命-社会が守り、永久に保つ必要とする使命-を帯びているからです。

  確かに、「母親のいない社会は人間性を失わせる。なぜなら、母親たちは常に、最悪の時期においても、優しさ、献身、道徳的な強さの証人だからです。母親たちは、子供たちが学ぶ初めての祈りと献身の行為に、宗教的な慣行の最も深い意味を、しばしば伝えます・・・。母親を欠いては、新たな忠実な信者たちが生まれないだけでなく、信仰そのものがその素朴で深い温かさの大部分を失うでしょう・・・。親愛なる母親の皆さん、ありがとう!あなたが家族の中にいることに、教会と世界に与えてくれることに感謝します」。

174(抄訳)母の愛は、わがままと個人主義の最も強力な解毒剤です。それは、愛することによって愛を教えるからです。子供に対する優しい確信は、欠かすことができません。「親愛なる母親の皆さん、ありがとう!あなたが家族の中にいることに、教会と世界に与えてくれることに感謝します」。

175(抄訳)母親は、子供にやさしさと思いやりを与え、自分自身に敬意を払う中で喜びを感じ、育っていくのを助けます。父親は、子供の人生で予想される挑戦に応えるのを助け、困難な仕事への準備を助けます。両親の役割は、いずれも欠かすことができません。

176(抄訳)世界の文化風俗の中には、父親たちが家庭の営みの中で不在となりがちなケースもみられ、これが、暮らしの均衡を崩すこともあります。権威主義への回帰は求められていませんが、家庭には、子供たちのために良い秩序が強く求められています。

177(抄訳)父親は家庭の中に、支配権をふるうことなく、いつも存在していなければなりません。子供たちは、必要な時に向き合うことのできる、父親の落ち着いた存在を必要としています。

分かち合いのヒント

ここでの教皇の教えの中で、あなたの心に直接、最も共鳴したのはどの部分ですか。

あなたにとっての課題と感じたのはどこでしょうか。何が、あなたの人生における決断と歩みを確かにしましたか。

豊かさを増す実り

178 夫婦の中には、子供を持つことができない方もいます。私たちは、このことが彼らにとって、現実の苦しみの原因になり得ることを知っています。同時に、私たちは知っています。「結婚は子供を産むだけのためのものではない・・・夫婦が強く望んでいるにもかかわらず子供がいない場合でも、結婚は人生における振る舞いと交わりのすべての特質を保っており、その価値と不解消性を失うことがない」ということを。そしてまた、「母親であることは単に生物学的な現実であるだけでなく、多様なやり方で表現される」のです。

179 養子縁組をすることは、親になるためのとても寛大な方法です。私は、子供を産むことのできない方々に、望ましい家庭的な状況に恵まれない子供を包み込むことへ夫婦愛を広げるように、励まします。彼らは、寛大な心を示したことを決して後悔しないでしょう。養子にとることは、愛の行いであり、家庭を持たない子供に家庭という贈り物をすることになります。何よりも、堕胎や育児放棄を防ぐために、養子縁組の手続きを容易にするような法整備を、求めることが重要です。代償なしの喜びを持って、養子を受け入れる方々は、神の愛の導き手となるのです。なぜなら神はこのように言われるからです。「たとえこの女たちが忘れても、この私はお前を忘れない」(イザヤ書49章15節)と。

180  「養子縁組を選び、育ての親となることは、結婚の体験の中で特別に実り多いことであり、それは不妊である場合に限りません。どのような負担をしても子供が欲しいと強く願う場合を考えると、自己実現の権利として、正しい認識のもとに、養子をとり、親として世話をすることは、子供たちの親となり、育てあげるという重要な側面を証明します。

彼らは人々に知らせます-子供たちが、通常の形であろうと、養子であろうと、里子であろうと、受け入れられ、愛され、育まれることを必要とする、その権利をもつ存在であり、単にこの世にもたらされただけではないーということを。養子をとり、親として世話をすることのいかなる判断においても、その子にとって最良のものとなることが強調されるべきです」。その一方で、「国々と諸大陸の間で子供たちを違法に売買することは、適切な法的な措置と国家による規制によって阻止する必要」があります。

181(抄訳)子供たちを持つことは、家庭が実り多いものとなる唯一の道ではありません。家族は(訳者注・子供がいても、いなくても)、人々を社会に結びつける拠点になり得ます。

182(抄訳)家族は自分たち自身を他の人々とあまりに異なり、離れたものと見るべきではありません。平均的な家庭であること―子供を育て、隣人たちのために世話をすることーで、十分なのです。

183 (抄訳)家庭は、のけ者にされた人たちを歓迎する場であり、公正を求める戦いを演じ、他の人々と人生を分かち合います。そのような家族は、貧しい人々のための場を見出し、不運な人々と友情を築き、どのような人も“もう一人のキリスト”と見なします。

   彼らは福音に従って生きることに努める中で、イエスの言葉を心に留めます。「これら私の兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、私にしたのである」(マタイ福音書25章40節)。

  とても現実的なやり方で、彼らの生きざまが、私たち全員に求められていることを表現します。「昼食や夕食の会を催す時には、友人、兄弟、親せき、近所の金持ちたちを呼んではならない。その人たちもあなたを招いて、お返しをするかもしれない。宴会を催す時には、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちを招きなさい。そうすれば幸いである」(ルカ福音書14章12節‐14節)。

  あなた方は祝福されるでしょう。ここに、幸せな家庭となる秘密があるのです。

184 彼らの言葉と同じように彼らの振る舞いを見た人を通して、家族はイエスの他の人たちに話しかけます。信仰を伝え、神への強い望みを引き起こし、福音の素晴らしさとそれが示す生き方を映します。このようにしてキリスト教徒の結婚は、彼らの兄弟愛を見た人の証言、社会的な配慮、恵まれない人たちのための積極的な発言、輝く信仰、将来への生き生きした希望によって、社会を活気づけます。彼らの実りの豊かさは広がり、数限りないやり方で、社会に神の愛をもたらします。

 

集まりを識別(洞察)する Dsicerning the body

185  同じ線に沿って、私たちは、文脈を越えて、あるいは一般的な感覚で解釈された聖書の言葉を、際立って社会的な、切迫し、直截的な意味を見過ごすリスクを冒して、真剣に受け取ることが賢明です。

私は、コリントの人々への第一の手紙11章17節から34節について話しているのです。この箇所で、聖パウロは、キリスト者の集会で恥ずべき状況に直面します。富んだ者たちが貧しい者たちを差別する傾向にあり、それが主の晩餐の儀式に伴う神の愛の食事に持ち込まれていたのです。金持ちたちが食事を堪能する一方で、貧しい人たちはそれを見つめ、お腹をすかしている。「空腹の者もいれば、酔っている者もいる・・・あなた方には、食べたり飲んだりするための家がない、とでもいうのでしょうか。それとも、神の教会を軽んじたり、何も持たない人々に恥ずかしい思いをさせようとするのですか」(同11章21節‐22節)。

186(抄訳)主の晩餐の儀式-ミサーを捧げるために集まった時、私たちの間に分け隔てや差別があってはなりません。ミサは私たちを家族として、特別待遇なしに、喜びを広く分かち合うために扉を開くように、求めます。聖体を拝領することは、同時に、貧しい人たち、苦しみ人たちを私たちの心の中に、家の中に受け入れることなのです。

分かち合いのヒント

 教皇の以上の教えのどの点があなたの心を一番強く打ったでしょうか。あなたにとって、どれが課題だと感じましたか。何が、貴方の人生の決断と生き方をしっかりとしたものにしましたか。

家族の広がりの中で生きる Life in the wider family

187 核家族は幅広い家族-両親、叔父、叔母、いとこ、そして近隣の人たち-との交流が必要です。このような大家族には助けを、それほどでなくても、仲間付き合いと愛情、辛い時の慰めを必要とする人たちがいるでしょう。現在社会で広がっている個人主義は安心を得るために小さな巣を作ることにつながる可能性があり、そこでは、よそ者は厄介な、あるいは危険な者と見なされてしまいます。そのような人間疎外は、大きな平和、幸福をもたらすことができません。むしろ、家庭の心を窮乏させ、暮らしをずっと狭苦しいものにしてしまうのです。

息子、娘であること

188 まず、私たちの両親について考えましょう。イエスはファリサイ派の人々に、両親を見捨てることは神の掟に反する、と言いました(マルコ福音書7章8節‐13節参照)。私たちはそれぞれが息子、あるいは娘だということを思い起こすといいでしょう。「たとえ大人に、あるいは年配になっても、たとえ親になっても、責任のある立場にあっても、そうした外見の裏になお子供の本質をもっている。私たちはすべて、息子であり、娘なのだ。そして、このことは、常に私たちを『私たちは自分自身で命を与えたのではなく、命を授かった』という事実に連れ戻します。命という素晴らしい贈り物は私たちが授かった最初の贈り物なのです。

189 ですから、「第四の掟は子供たちにこのように命じる・・・『お前の父と母を敬え』(出エジプト記20章12節参照)。この掟は、神自身に関して命じられたすぐ後に語られている。それは聖なるもの、神聖なもの、他のあらゆる種類の人間的な敬意の基礎にあるの、と関係があるのだ。第四の掟についての聖書の記述は、このように続く。『主がお前に与える土地で、長く生きるためである』(同)。世代間の高潔な絆は未来を保証するものであり、真に人間的な社会の保証である。親を敬わない子供たちのいる社会は、敬意を持たない社会・・・それは、不愛想で、欲の深い若者たちで一杯になることが運命づけられた社会だ」。

190 しかし、コインには別の面があります。神の言葉が語るように、「男は父母から離れて(妻に結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)とあります。常にそうなるわけではないし、必要な犠牲や譲歩を払うのに失敗して結婚が邪魔されることもあります。親たちは、捨てられたり、無視されたりしてはなりませんが、結婚そのものは、彼らが「離れる」ことを求めます。そうすることで、新たな家庭は、本当の炉辺(hearth/訳注「団らん・愛の象徴」を意味する表現)、安全な場所、希望と将来の計画を立てる場となり、二人は本当に「一体」となる(同)のです。

夫婦の中には、相手に秘密を持ち続け、自分の親にはそれを打ち明けることで、結果として、彼らの両親の意見が、夫婦の感情や意見よりも重要になってしまうケースもあります。このような状態は長く続けられないし、時間がかかっても、二人で信頼を高め、意思疎通を図る努力をする必要があります。結婚は、夫たちと妻たちに、息子たち、娘たちであることの新たな道を見つけるように促すのです。

年配者に対して

191 「年老いた私を見放さないでください。力衰えた私を見捨てないでください」(詩編71章9節)。これは、忘れ去られ、冷たくされることを恐れる、年配の人たちの嘆願です。神は私たちに、貧しい人たちの叫びを聴く道具となることをお求めになりますが、同様に、年配の人たちの叫びを聴くように希望されているのです。これは家庭と地域社会にとって取り組むべき課題です。

なぜなら、「教会は、お年寄りの世代に対して、居てもたっても居られない心理状態のままいることはできず、そうしたいと思わないし、まして、無関心だったり、冷淡でいることはできない。私たちの周りにいるお年寄りは、男性たちと女性たち、父親たちと母親たちー私たち自身の歩む道、私たち自身の家、価値ある人生のための日々の戦いの先輩―なのです」。実に、「若者たちと年配者たちの新たな抱擁の満ち溢れる喜びによって、『捨てる文化』に立ち向かう教会を、私は強く望んでいる」のです。

192 聖ヨハネ・パウロ二世は私たちに、家庭における年配者の役割に注意を払うよう求められました。それは、「特に無秩序な工業化や都市化が進んだ結果、昔も今も、年配者たちが受け入れがたいやり方で、脇に追いやられる」という文化があるからです。

年配者は、「世代間の溝を埋める特別な力」によって、「世代の継続性」を、私たちが正しく理解するのを助けてくれます。一番重要な価値のあるものが孫たちに伝えられるのを確実にするのが、祖父たちであることは、とてもよくあることですし、「キリスト教徒としての人生に入れたのは、祖父母たちのお陰だ、と多くの人が証言している」のです。彼らの言葉、愛情、あるいは単にその存在が、子供たちが、歴史は彼らから始まってはおらず、自分たちは昔から続いている旅の一部を担う存在であり、自分たちの人生の先輩に敬意を払う必要がある、ということを認識するのを助けてくれます。

過去とのすべての結びつきを壊そうとする人は、安定的な関係を作り上げ、現実が自分たちが考えたよりも大きいことを認識するのが難しい、ということが分かるでしょう。「年配者に注意を払うことは、社会に違いを生みます。社会は年配者を気にかけていますか?社会は年配者に場を作っていますか?年配者の知恵に敬意を払うならば、そのような社会は前進するでしょう。

193 過去の記憶の欠落は、私たちの社会が抱える深刻な問題です。「昔は昔、今は今」としか言えないようなメンタリティはまったく未熟です。過去の出来事を知り、判断することは、意味のある未来を創る唯一の手段です。記憶は成長に必要です。「「あの初めのころのことを思い起こしなさい」(ヘブライ人への手紙10章32節)。年配者の話を聴くことは、子供たちや若者たちにとって良いことですー自分たちが家族、隣人、そして国民の生きた歴史との結びついていることを感じるようにさせます。

過去の記憶を持つ家庭に未来があるのに対して、生きた記憶である祖父母に敬意を払わず、心を込めて世話をしない家庭は、もうすでに衰退しています。「年配者の場を持たず、問題を起こすという理由で年配者を捨てる社会は、致命的な害毒」です。「根から裂かれています」。文化的な断絶、根絶、そして私たちの人生を形成している確かさの喪失の結果として、身寄りのない孤児になっている、という現代の経験は、私たちの家庭を、豊かな土壌に子供たちが根を下ろせる場所にする責務を、私たちに突き付けているのです。

兄弟、姉妹であること

194 兄弟、姉妹たちの関係は時の経過とともに深められ、「家庭において、子供たちの間で形成される兄弟、姉妹の愛の絆は、他の人々に開かれた教育的な雰囲気によって強められると、自由と平和の素晴らしい訓練の場になります。家庭において、私たちは一人間としてどのように生きるかを学びます。

私たちはたぶん、このことをいつも考えはしませんが、家庭それ自体が兄弟、姉妹の愛をこの世に示していくのです。兄弟、姉妹の愛のこのような最初の経験から、自宅での慈しみと教育によって育まれた兄弟、姉妹愛の形は社会全体に、約束のように放射されるのです。

195 兄弟、姉妹たちと成長することは、他の人々の世話をし、助ける素晴らしい経験をするのに役立ちます。家庭における兄弟、姉妹愛は、私たちが脆弱な、病気の、あるいは障害のある兄弟、姉妹を包む介護、忍耐、愛情に出会う時、特別に光り輝きます。「あなたを愛してくれる兄弟か姉妹がいることは、深く、かけがえのない、素晴らしい体験」だということを知らねばなりません。

子供たちは他の人々を兄弟、姉妹として扱うことを、根気よく教わる必要があります。時として必須となるこのような訓練の場である家庭は、社会性を身につけるための真の学校です。一人っ子が普通になっている国では、兄弟、姉妹の経験が一般的でなくなっています。一人っ子の場合には、自分が1人だけで、一人ぼっちで大きくなるのではない、ということを確信させる方法を見つけねばなりません。

 

広義の家族

196 夫婦と子供たちの小さな集団に加えて、見落とすことのできない、広い意味での家族があります。「夫と妻の間の愛、そしてそこから派生した幅広い形の、同じ家庭のメンバーたちの間の愛‐両親と子供、兄弟と姉妹、そして家族の間の愛‐は、より深く、強い交わりへと家族を導く、絶え間なく続く内的な躍動する力によって、命と栄養が与えられます。そうした交わりは、結婚と家庭の共同体の基礎であり真髄」なのです。友人たちと他の家族は大きな家庭の一員です。困難の中で、社会的責任と信仰をもって互いを支える家族で構成される共同体も、同じです。

197 このような広義の家族は愛と助けを提供する必要があります‐十代の母親たち、両親のいない子供たち、子供を育てるシングルマザーたち、特別に愛情を注ぐ必要なある体の不自由な人たち、麻薬中毒で苦しむ若者たち、未婚、別居、あるいは相手を亡くして一人ぼっちの人たち、子供たちの助けを得られない年配で虚弱な人たちに。「人生に破たんした人たち」さえも、包み込むべきです。また、親たちの欠点を補い、子供たちが乱暴され、虐待されているのを突き止め、通報し、親たちでは無理な場合に健全な愛情を注ぎ、家族が落ち着きを取り戻すように助けることも可能です。

198 最後に、このような広義の家族が義理の父親たち、義理の母親たち、そして夫婦の親族すべてを含んでいることを忘れてはなりません。愛の特に注意を払うべき側面は、このような人たちを競争相手、自分を脅かす者、侵入者のように見なしてはならないことを学ぶことです。夫婦の暮らしには次のようなことが求められます‐伝統と習慣、言葉を理解し、批判するのを避ける努力、二人の妥当なプライバシーと独立を保ちつつ、愛情を込めて世話をすること。そうしたことを喜びを持って行うことは、結婚相手に対する惜しみない愛の、この上なく素晴らしい表現でもあるのです。

分かち合いのヒント

 以上のような教皇の教えのどの部分が最も印象に残ったでしょうか。あなたにとっての課題と感じたのはどこでしょうか。どの部分が、あなたの人生の上での判断と生き方を肯定していますか。

 

第6章「いくつかの司牧的展望」

199 シノドスで行われた対話では、新たな司牧の方法の必要性が提起されました。私は、とても一般的なやり方で、それについていくつか意見を申し上げようと思います。それぞれに異なった教会共同体で、教会の教えとその地域での問題と必要性を尊重する形で、より実際的で効果のある試みを工夫すべきでしょう。家庭のための司牧の計画を提示することをせず、私はここでいくつかのより重要な司牧上の課題について考えてみたいと思います。

今日の家庭の福音を宣言する

200(抄訳)人々が家庭についての福音を、彼らの人生における真の喜びとして経験することが重要です。私たちは謙遜と慈しみを持って家庭に助けの手を差し伸べたいと思います。“家庭の思い”への人間的温かみの無い、一般化された関心を示すのではなく、家庭が置かれた生の状況に実際に触れるのです。

201(抄訳)家庭への司牧的なケアは心の一番深い願望、一体感と共同体、充実への熱望にまで届かねばなりません。こうした活動においては、ルールを示すだけでは不十分です。家庭がうまくいくために必要とされる価値観持つように促す必要があります。

202(抄訳)小教区はそのような司牧を行う主な場所です。小教区は多くの家庭を構成する一つ一つの家庭なのです。司祭や他の聖職者の連携は、家庭が現代生活の複雑さに対応できる助けとなるような現実的なものでなければなりません。

203(抄訳)神学生は、教義以上に家庭生活を理解し、その価値を認めるように育成される必要があります。家庭、一般信徒たち、そしてとくに女性たちは、神学生の鍛錬の一部をなすべきものです。司祭となった彼らが職務を果たす分野に家庭生活がなるからです。

204(抄訳)家庭の司牧をするにあたって、私たちはまた、ソーシャル・ワーカー、医療関係者、心理カウンセラーなどを含めて、家庭に関する一般信徒の専門家たちの助けを必要とします。

分かち合いのヒント

今日、私たちがさまざまな家庭に、最もよく、慈しみを持って接するには、どのようにしたらいいでしょうか。

婚約したカップルの結婚への準備

205(抄訳)私たちは、若い人々が結婚に素晴らしさと厳粛さを見出すのを助けたい、と思います。

206(抄訳)私たちは、婚約したカップルが結婚生活の基礎を教区に置き、キリスト教徒の共同体の価値を学ぶことから恵みを受けることを助けたい、と思います。

207(抄訳)キリスト教徒の共同体はそれ自身が、婚約したカップルの道行きから恩恵を受けますが、彼らの結婚の準備を共同体の脇や外ではなく、真ん中に置かねばなりません。各地のそれぞれの教会は、婚約者たちが結婚に向けてどのようにしたらもっともよい準備ができるか、決める必要があります。結婚の準備の期間は、キリスト教の教義全体を教える時ではありません。二人が信仰をもって生涯を送れるよう力づけ、準備させましょう。

208(抄訳)結婚の準備で目指すべきは、これからの人生を過ごそうとする、まさにその相手を、どのように愛するかを二人が学ぶのを助けることです。一般的な学習と話は有益ですが、個別の話し合いをもつことも必要です。最良の教師は、彼ら自身のキリスト教徒としての人生の証人となる、自分たちの両親です。

209(抄訳)私たちは皆、結婚がまた課題やリスクを抱えていること、準備の過程でこのことを考えに入れておくべきだということを、知っています。仮に二人がうまく合わないなら、今がそのことを悟る時です。もし、二人が同意できないことについて話し合ったことがないなら、特にそうです。そのようなわけで、それぞれの二人の準備が重要なのです。

210(抄訳)結婚の前に二人の間に危険な兆候あることを知るのに、二人は助けを必要とします。私たちは、二人が心底で互いを知らずに結婚してほしくありません。

211」(抄訳)結婚は、結婚を創り出しません!二人の結婚は、二人が愛と信仰、そして互いを理解することで成長するとともに、ゆっくりと現れてくるものです。結婚は、すでに存在する現実-二人の心が二つになっていることーを讃えます。私たちは、二人の感情と求めに合わせた「愛の教授法」を、このために必要としています。二人は自分たちの罪と過ちを癒し、解くために和解の秘跡を十分に生かさねばなりません。

祝福の準備

212(抄訳)「結婚式」の準備は、「結婚」の準備とは違います。招待状、食事のメニュー、式服といった祝宴の具体的内容に注意を払うのは大事なことですが、そのほかのことを、おろそかにすべきではありません。中には、婚礼にかけるお金がない、という結婚を先延ばしするカップルもいますが、私はこう言いたい―勇気を持ちなさい、他の人たちと違ったことをしなさい。「結婚式」は簡素にして、「結婚」を優先させなさい。

213 結婚の準備で、二人にとって祝いの典礼が奥深い個人的な体験をなるように、その徴一つ一つの意味を正しく評価するように、彼らを励ます必要があります。二人ともカトリックの洗礼を受けている場合には、結婚承諾の言葉によって表明された約束と結婚を完全なものにする肉体的な一致は、人間の姿となった神の子とその教会の愛と一致の徴として見ることがかのうです。洗礼を受けて、言葉と徴は、信仰の雄弁な言葉となります。神が与えられた意味を持って作られた肉体は、「秘跡を司る聖職者の言葉、夫婦の約束の中で、神ご自身に源を持つ神秘が表明され現実となることを気づく言葉になるのです」。

214 たまに、カップルが結婚の承諾の言葉-それに続くすべての徴の意味をあきらかにする言葉―の神学的、霊的な意味をしっかりと理解しないことがあります。この言葉は現実の出来事に矮小化されないことを強調する必要がありますーこの言葉は、「死が二人を分かつまで」、二人の未来も含む全体を包含するのです。承諾の言葉の内容は、次のことを明確にします。「自由と忠実は互いに対立せず、ともに個人の間と社会的な関係において、互いに助け合う。実際、私たちの地球的なコミュニケーションの文化の中で、守られない約束の増大が引き起こす精神的なダメージを考えてみましょう。ある人の言葉を守り、ある人の約束に忠実であることーそれは売り買いすることのできないものです。力で無理強いしたり、犠牲を払うことなしに維持したりすることはできません。

215 ケニアの司教たちが「多くの若者たちは結婚の日に関心を集中させ、二人がこれから始めようとする生涯の契りを忘れてしまう」と語りました。結婚の秘跡を、やがて過去と記憶の一部となる一時のものではない、結婚生活全体にずっと影響を与え続ける現実的なものだ、と理解するように、若者たちを励ます必要があります。性のもつ子孫を残す意味、肉体の持つ言葉、そして結婚生活を通して示される愛の徴、それら全てが、「礼拝の言葉の、妨げられることのない連続性」となり、「夫婦生活がある意味での礼拝的なものになる」のです。

216(抄訳)結婚の準備はまた、それを祝うために選ばれた聖書の朗読箇所の意味だけでなく、結婚が意味するもののために、二人がともに祈るように促すものでなくてはなりません。式の主宰者は、多くの結婚式で、その教会にあまり来たことのない人たちに対して話をするのだ、ということを認識する必要があります。このような場合、私たちがこのような人たちを歓迎し、親しみを持って接する機会となります。

分かち合いのヒント

 ・小教区の信徒のすべての家庭にとって、日々の生活を新たらしくする機会にするために、結婚の準備はどのようにすればいいと思いますか?

 ・若いカップルに結婚の準備をさせるために、私たちにはどのような能力が求められるでしょうか?

 ・「結婚式」と「結婚」の違いは何でしょうか?

結婚当初の家庭に寄り添う

217(抄訳)結婚では、肉体的な魅力よりも、愛が重要です。肉体的な魅力は時が経つとともに衰えていきますが、愛は決して絶えることがありません。そのために、結婚する前に、十分な長さの婚約期間―二人が愛の中でともに成長していく期間―が必要です。結婚の準備が十分でない場合は、新郎新婦となった後に、婚約期間にすべきだったそうしたことをする必要があります。

218(抄訳)結婚は一生続くものです;結婚式はやって来て、すぐに去ります。カップルは、自分たちが人生を通して繰り返し、繰り返し、互いに結ばれるのだ、ということを認識する必要があります。夫婦のどちらも相手が完璧であることを期待することはできません;結婚式の後で、夫婦は相手を他の誰かに変えることを期待すべきではありません。そのような期待は、結婚生活を批判、失望、悲しみで一杯にしてしまうからです。もし、二人がそのような現実を進んで受け入れるなら、その人生の旅に与えられる恩寵が、互いに広い心を持ち、忍耐強く、相手を許し、二人を愛で満たすことになります。

219 昔のことわざを思い起こします。「動きのない水は悪数を放ち、役に立たない」」。結婚して最初の年に、二人の愛の体験が衰え始めるなら、推進力となる刺激を失わせます。若い愛は、大きな希望をもって未来に向けて躍動し続ける必要があります。希望は、婚約とそれに続く結婚の初めの時期に、口論、争いと問題を乗り越え、広い視野で物事を見ることができるパン種の役割をします。私たちの自信の無さと心配を抑え,成長を可能にします。私たちのすべてを家庭生活に捧げ、賜物の中で満足のいく暮らしをもたらします。

220(抄訳)カップルが、忍耐と忠誠の心で互いに命を捧げることを全力で実現すると、互いに切っても切れない関係にある喜びが始まります。勝者も敗者もなく、互いの違いを乗り越えることを学びます。二人はともに勝者。愛がそれを推し進める力になるからです。

221 結婚が壊れるいくつかの原因の中に、夫婦生活に関する度を越した高い期待があります。現実は期待していたより限られており、創造したよりも問題のあるものだ、ということがはっきりした場合、解決策は、拙速かつ無責任に離婚を考えることではなく、結婚生活は成長していく過程であるということを、ありのままに認識するようにすることです。そうする中で、それぞれの夫婦は、成熟するために他の人を助ける神の手段なのです。変化、改善、良い素質の開花は、それぞれの人に存在しますーこれら全ては可能なのです。

   一つ一つの結婚は、「救済の歴史」のようなものー頼りなげな始まりからー神の賜物と私たちの創造的で好意的な反応のお陰でー貴重で長続きするものに成長していくのです。愛における二人の最大の使命は、互いがもっと男性らしく、もっと女性らしくなるように助けることと言っていいのでしょうか?成長を促すことは、彼、彼女の個性を形成するのを助けることです。愛は名工の作品のようなものです。

    男女の創造について聖書を読むと、神は始めにアダムを創った(創世記2章7節参照)とあります;神はどうしても必要なものが欠けていることに気づき、エバを創り、男が驚きの声をあげました。「この者は私にぴったりだ!」と。男女が初めに出会ったときになされるに違いない感嘆の対話を、ここに聞くことができるでしょう。結婚した二人の人生で、困難な時でさえも、初めて会った時のように、人はいつも相手に驚くことができ、新しい扉を二人の関係に開くことができるのです。どの新たな段階でも、二人は互いに「形作り」続けることが可能です。愛は、名工の根気、神からもたらされた忍耐力をもって、互いが相手を待つようにさせるのです。

222(抄訳)カップルが子供たちと言う贈り物をすすんで受け取るように励ましたいと思います。これに関して、「家族計画は、夫婦の間の合意の上での対話、時への敬意と、相手に対する尊厳をもった配慮の結果として適切になされる」のです。カップルは、神とともにいる場で、善悪の判断力を形成していかねばなりません。神の声は二人の心の奥底に響きます。司牧の指導者は、この旅でカップルに付き添い、自分たち自身の判断力を持って決断するのを助けます。「両親は彼ら自身が、他の誰でもなく、神が見えるところで、最終的な判断をくださねばなりません」。

いくつかの資質

223(抄訳)司牧上のカップルへの寄り添いは結婚式の後も続けられる必要があります。経験を積んだ既婚のカップルは、その際に頼もしい役割を果たします。結婚したばかりの人たちは、キリスト教的な生活、祈り、共同体に馴染むように教えを受ける必要があります。

224(抄訳)愛が成長するために時間と空間を必要とします。時間は-物事についてよく語り、自分自身を絶つことの意味に照らしてよく考え、互いの目を見つめ、時間をかけて互いを受け入れ、互いの友情を確かめ合う―ために必要です。司牧は、これらに取って代わるべきではありませんが、二人の生活をーいかに変化の速い現代生活にあってもー支え、高める道と見つけることが求められます。

225(抄訳)カップルは共に時を過ごすことを身につけねばなりません。とくに結婚生活に目新しさが薄れた後には。

226 若い結婚したカップルは、毎日の習慣を通して親密さと落ち着きをもった健全な感覚を持たす日々の決まりごとを作っていくように励まされる必要があります。それには、朝の接吻、夕の祈り、互いの帰宅を玄関の扉の所で迎える、二人で旅をし、家事を分担することが含まれます。また、パーティを開いて日々の決まりごとを破ったり、記念日や特別の日に家庭でのお祝いを楽しんだりすることも、役に立ちます。神の贈り物を大切にし、生きる意欲を新たにする時間も必要です。祝うことができさえすれば、私たちは愛に再び火をともし、単調な日々から自分を解き放ち、希望を持って日々の暮らしに彩を添えることができるのです。

227(抄訳)司牧はまた、彼らが若いカップルとして信仰のうちに育つのを助けることができます。友だちと同じように神と語るように、困難を分かち合い、愛のうちに神の喜びを体験するように、教えるのです。

228(抄訳)相手がキリスト教徒でない場合でも、共通の価値観を見つけ、育て、讃えることはできます。すべての人間は、「神に近づきたい」という生来の強い望みを持っているのです。

229(抄訳)教区の指導者たちと事務局は、求められた時に助ける用意をしておくべきです。さまざまな運動、グループ、聖職者たちには、そうする準備が必要です。

230(抄訳)カップルが教区のミサや行事に積極的に参加していないなら、彼らが戻ってきた時に喜んで迎え入れる用意をしておきましょう。洗礼、初聖体、葬儀、そして結婚式は、私たちがどれほど彼らを愛しているのかを示すチャンスです。私たちのカップルに対する司牧は、彼らが罪の意識や恥ずかしさを強く感じないように、手を差し伸べることでなければなりません。

分かち合いのヒント

  あなた自身の言葉で、結婚して最初の年月のような時期に、誰かとともに歩む“accompany”とうのは何を意味するか、お話しになれますか?

  あなたの教区で、それが実際に、どのようにされているか。どのようにお考えですか?

  誰がそれをするでしょうか。どのように、いつ、誰の権限で? そうすることで、何が最も難しいですか?

危機、心配、困難に光を投げかける

231 上質のワインのような愛を自分たちの者とする人たちについても、ひと言、述べるべきでしょう。良い葡萄酒が時と共に呼吸をするように、夫婦の貞節の日々の体験が結婚生活に豊かさと“本体”をもたらします。貞節は忍耐と期待をもってなされるべきです。その喜びと犠牲は年を経て実を結び、二人は子供たちのそのまた子供たちを目にして、うれしさで一杯になります。初めから存在する愛は、二人が年々歳々、互いに新たな発見をするとともに、さらに強く意識され、落ち着き、成熟していきます。

十字架の聖ヨハネ(訳者注・16世紀スペインのカトリック司祭、神秘思想家。アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。カトリック教会聖公会聖人であり、教会博士の一人)は私たちに「年老いた恋人達は試練の時を経て、真の姿になった」と語ります。彼らは「もはや外見上は激しい感情や衝動に燃えることはないが、十分に年を重ねて、二人の心の奥深くに蓄えられた愛の葡萄酒の香しさを味わう」のです。そのようなカップルが、挑戦から逃げることも、問題に蓋をすることもせず、危機や困難に打ち勝つのです。

危機に立ち向かう

232(抄訳)家庭生活はいつも様々な危機を抱えています。そうした危機に向き合い、打ち勝っていくことで、以前よりも強い愛が作られます。危機のひとつひとつが、私たちに重要なことを教え、家族の関係という葡萄酒を年を重ね、良いものにしていくのです。

233(抄訳)危機にまともに向き合わない時、家族の関係は損なわれる可能性があります。そのような時にこそ、意思の疎通を欠かすことができません。

234(抄訳)カップルは、歩む道で出会ういかなる障害にも立ち向かうために、密接に働く必要があります。心と心を通わせ、心の奥に秘めた思いをともにすることを学ばねばなりません。注意を払いたいのは、私たちがシノドス準備のために行った調査によると、障害に出会ったカップルのほとんどが、助けを得ることができないので、教会には行かない、ということです。このことは、教会としてもっと働くことがある!ということを私たちに教えているのです。

235 いくつかの危機は、ほとんどどの結婚生活にも起こる、典型的なものです。新婚のカップルは、二人の違いをどうやって受け入れ、二人のそれぞれの両親からどうやって自立するかを学ぶ必要があります。子供が生まれると、新たな感情的な課題ができます。幼い子供を育てるのに、生活のスタイルを変える必要が出てきます。子供が思春期を迎えると緊張、欲求不満、そして両親の間に不安が生じます。

(訳者注・子供たちが成長し、家から出て)「空の巣」になった時、夫婦は、自分たちの関係を見直さねばならなくなります。その一方で、年老いた自分たちの両親の世話をする必要が、敬意を払う中での難しい判断の対象に加わります。これらすべてによって、不安、罪の意識、意気消沈、疲労を引き起こすような状況に、(これまで順調だった)結婚の深刻な反動も伴って、引き込まれようとします。

236 そうして、二人の生活に影響を与える個人的な危機-しばしば、家計、仕事場での問題を含み、情緒的な、社会的な、精神的な困難―があります。予想外の状況が彼らの上に起き、家庭生活を混乱させ、赦しと和解の順序を踏むことが要求されます。相手を赦すことを心から決断しようとすれば、相手を過ちに導く条件を作ることがなかったのか、お互いに冷静に、謙虚に問わねばなりません。

夫婦が非難の応酬に引き込まれた時、崩壊する家庭も出てきます。しかし、「適切な助けと神の愛を通した、和解の行為があれば、大部分のケースで、満足のいく形で問題解決が図られる、ということを、過去の経験が示しています。どのように赦すか、どのように赦されたと感じるかを知ることは、家庭生活における基本的な経験です」。「和解という努力を要する業―神の愛の助けが必要ですがーは、親族と友人たちの寛大な協力を必要とします。そして時には、外部の助け、専門家の援助も必要になります」。

237 夫婦の一方、あるいは両方がもはや充足を感じなくなったり、物事が自分たちが望む方向に進まなくなったりする時、結婚を終わらせるに十分な理由がある、と考えることが、だんだん普通のことになってきています。

このような場合、結婚は続かない。すべてが終わった、という結論への逃避は、気持ちが満たされていない一番必要とする時に相手がいない、誇りが傷けられた、あるいは漠然とした怖れを感じるーことから起こります。必然的に、そのような状態は、人間的な弱さを伴い、感情的に抗しがたいことが分かります。夫婦のどちらかが、正当に評価されていると感じていないのかも知れないし、他の人に惹かれているのかも知れない。嫉妬と緊張、あるいは他の人の時間と注意を惹くような新たな興味かも知れません。

肉体的な変化は自然に、誰にでも起こります。そのことや、他の多くのことは、二人の愛を脅かすよりも、愛を取り戻し、新たにする機会になるのです。

238 そのような状況で、関係には限りがあるけれども、人生の旅路の道連れとして相手を選んだことを確認するのに、成熟が必要な場合があります。ともに育んで夢を相手がすべて満たすことはできないということを、二人が現実として受け入れるのです。

このような人々は、自分たちを犠牲者と考えること避けます-家庭生活がもたらす可能性を最大限に活かし、結婚の絆を強めるために根気よく努力します。その結果、どの危機も、新たな”yes“にし、愛を新しくし、深め、内面的に強くすることができるのです。危機がやってきた時、危機の根本原因を突き詰め、新たな均衡を達成してともに先に進むために、取り決めをし直すことを恐れません。このような広い心をいつも持つことで、いくつ困難があろうとも立ち向かうことができるのです。どのような事が起ころうとも、和解が可能だということを実感し、同時に私たちは、「今日強く求められているのは、夫婦関係に支障を生じている人たちに対する司牧」だということを知るのです。

古い傷

239 もっともなことですが、家族の一人が、以前体験した心の傷が癒えず、情緒的に未成熟な場合に、家庭にはしばしば問題が起こります。不幸な幼年期や思春期を送った場合、結婚生活に影響するような個人的な苦痛が育つ可能性があります。誰もが成熟し、正常であれば、危機はめったに起きないか、起きても、さほど辛くはないでしょう。

しかし、実際は、思春期の終わりに迎えるはずの情緒的な成熟が40代になって実現する人もいるのです。そうなる前のある人の抱く愛は、子供のような利己的で、衝動的な愛、自己中心的な愛‐欲しいものが手に入らないと泣いたり、叫んだりする貪欲な愛-です。またある人が抱く愛は、敵意、辛辣な批判、他の人を咎めたいと思う心理で特徴づけられる思春期の愛ですー自分自身の感情と幻想に囚われ、二人の心に空いた穴を埋め、それぞれの欲望を満たしてくれることを相手に期待するのです。

240多くの人は、無条件の愛を感じることなく幼少期を終えます。このことは、他人を信じ、心を開く能力に影響を与えます。両親と兄弟、姉妹との関係が乏しく、それが修正されることが無いままになった場合、結婚した後にその影響が出て、結婚生活を傷つける可能性があります。解決されていない問題を扱う必要があり、そこから解放せねばなりません。

結婚生活で問題が起きた時、重大な決断をする前に、夫婦が互いに相手のこれまでの人生についてよく理解することが重要です。これには、癒しの必要性を理解し、互いが赦し、赦されるように神の助けをひたすら祈り、助けを喜んで受け入れ、あきらめずに努力を続けることが含まれます。心からの自己究明は、自分の欠点と未成熟さが二人の関係に影響を与えることを知るのを可能にします。相手がとがめられるべきだ、ということがはっきりしているように思われる場合でも、相手が変わることを期待するだけで危機は絶対に乗り越えられません。私たちはまた、自分の人生で、争いを解決すべき時、二人が成長し傷を癒すために何をすべきか、を問う必要があります。

結婚が壊れ、離婚した後で、どう寄り添うか

241 いくつかのケースでは、自分自身の尊厳と子供たちの善を守るために、行き過ぎた要求に屈しないこと、あるいは重大な不正、暴力、慢性的な虐待を避けることが必要となります。そのようなケースでは、「別居が避けられなくなる」。「時として、それは道義的に必要でさえある。それは、傷つきやすい夫婦や小さい子供たちを、虐待や暴力でひどい怪我から、屈辱と搾取から、そして無視と無関心から守る必要がある場合だ」。だが、そうした場合でも、「別居は、和解に向けたあらゆる試みが失敗した時の、最後の手段と考えねばならない」のです。

242 シノドスの出席者はこう記しています。「別居、離婚あるいは見捨てられた人々に司牧的配慮をする場合、特別なdiscernment識別を欠かすことができない。別居、離婚、放棄の状態を不正に耐えさせられたり、夫あるいは妻からひどい扱いを受けて共同生活ができなくなったりして、苦しんでいる人々には特に、敬意を持って接する必要がある。そのような不正を赦すのは容易なことではないが、神の助けが結婚瀬克の旅を可能にしてくれる。司牧的配慮には、各教区における専門的なカウンセリング・センターの開設を通して、和解と熟慮を進める努力も、必然的に含まれねばならない」。同時に「再婚していない離婚した人々、そしてしばしば結婚の貞節の誓いの証人は、現在の生活の状態を維持するために必要な糧をミサの中で見出すように勧められねばならない。地域社会と司牧者は、こうした人々に、とくに、子供たちを抱えている場合、あるいは深刻な経済的な困窮にある場合に、気遣いをもって寄り添う必要がある」。

  家庭の崩壊は、貧しい人々の場合、通常よりも、もっと心に深い傷を、痛みを負うことになります。新たな生活を始めるための元手が、とてもわずかしかないからです。貧しい人、安全な家庭環境から引き離された人は、見捨てられたこと、受けるであろう被害に対して、さらに脆弱なのです。

243 新たな結びつきをした離婚者が教会の一員だと感じるようにすべきだ、ということは重要です。「彼らは関係を絶たれていない」し、そのように扱われるべきではありません彼らは教会共同体の一員に留まっているからです。彼らが置かれている状況に対して「慎重な識別と敬意をもった寄り添いが求められます。彼らに「差別されている」と感じさせる言葉や振る舞いは、避ける必要があり、共同体生活に加わるように励ます必要があります。そうした人々をキリスト教共同体がケアすることを、結婚の不解消性への信仰と神の掟の衰退と考えるのではなく、慈しみの表現と考えるべきです。262

244 シノドス参加者の多くはまた、「結婚の無効を認める手続きを従来よりも容易に、短時間にし、できれば無料にする必要がある、と強調」しました。手続きの遅さは、関係者に心痛と緊張をもたらします。私は最近、この問題を扱った二つの文書を出し、結婚の無効を宣言するための手続きを簡素化しました。

これらの文書で私は、「教会の羊飼い、頭として任命された司教自身が、まさにその事実によって、司牧を託された信徒たちの裁判官であること、を明確に」したいと思いました。

「これらの文書の実行は、各教区の聖職者にとって大きな責任になります。聖職者たちは、いくつかの案件について自分自身で判定するように、そして、どの案件についても、信徒たちが判定を受けやすくするように求められています。これには、聖職者と教会奉仕を主に任されている一般信徒で構成される十分な要員を用意することも含みます。家庭の使徒職に関係する知識、相談、黙想のサービスは、危機にある別居中を含むカップル一人一人が受けられるべきです。これらのサービスには、夫婦関係の顛末についての初歩的な質問をするための個別の面接も含むこともできるでしょう。

245 シノドス参加者たちはまた、次のことを指摘しました。「夫婦の別居や離婚で影響を受ける子供たちは、どのケースでも、そうしたことの罪のない犠牲者である」と。他の配慮と別にして、子供たちの利益への配慮を最優先すべきであり、どのような隠れた関心や目的によっても、それが減殺されてはなりません。

私は別居している親たちに強く訴えます。「絶対に、常に、あなた方の子供たちを人質に取ってはなりません!あなた方は沢山の問題と理由で別れました。人生があなたに試練を与えたのです。しかし、あなたの子供たちが、別居の重荷を負わされることも、夫あるいは妻に対する人質に取られることも、あってはなりません。子供たちは、母が、たとえ別々に暮らしていても父が素敵だと話し、父が母のことを素敵だと話すのを聞いて、育つのです」。

子供たちの愛を得るために、仕返しのために、あるいは自分を正当化するために、相手を悪く言うのは無責任です。そのようなことをすれば、子供たちの心の平静をかき乱し、癒しがたい傷を負わせることになるでしょう。

246 教会は、結婚生活に争いもあることを認める一方で、もっとも傷つきやすい者たち-しばしば黙って苦しんでいる子供たちーのために、はっきりと言います。

今日、「うわべは磨かれて見える感受性とあらゆる洗練された心理分析にも関わらす、私は自らに問いかけます。もしも私たちが、子供たちの心の傷に無感覚になっていたなら・・家庭内で夫婦の間の貞節の絆を壊すところまで互いを虐待し、傷つけることで、子供たちが負わされた大きな心理的な重荷を、私たちは感じ取るでしょうか?」269

そのような辛い体験は、信頼できる繋がりを作るのに必要な成熟期において、子供たちが育つ助けになりません。こうした理由ゆえに、キリスト教共同体は、再婚した両親を見捨ててはなりません。彼らを受け入れ、子供たちを育てるような努力を支える必要があります。「彼らの子とも立をキリスト教徒としての暮らしの中で育て、信仰を日々の暮らし実践する手本を示すために、親たちができることをすべてするように励ますにはどうしたらいいか。もしも、彼らとの関係を絶ったかのように、私たちが彼らと共同体活動で距離をおくならどうなのか。辛い状況にある子供たちに、さらに重荷を負わすようなことをしてはなりません!」270 親たちが心の傷を癒すのを助け、彼らを精神的に支えることは、子供たちにとっても役に立ちます。子供たちは心に傷をつける体験を通して、自分たちを見つめる教会の親しげな表情を求めているのです。

離婚は罪悪であり、その件数が増えているのは、とても悩ましいことです。ですから、家庭に関する私たちの最も重要な司牧の仕事は、彼らの愛を強め、心の傷を癒すのを助け、現代のこのような悲劇が広がらないように努めることなのです。

 分かち合いのヒント

 ・あなたの小教区、司牧の指導者たちが、結婚の崩壊、離婚の状態にある人々を、どのように助けるのが、最もいいと考えますか?

 ・うまくいくために、どのような態度をとるべきでしょうか?。

 ・あなたの小教区でそのような状況に置かれた人々に何が起きましたか?彼らに愛と慈しみをどのように示しましたか?

幾つかの込み入った事情

247(抄訳)カトリック教徒と他のキリスト教宗派の信徒の結婚は、私たちが熱望する宗教間対話に貢献することができます。私たちは、そうした方々の結婚式に、カトリック以外の聖職者の参加を求め、カトリック信徒でない夫婦を小教区の活動に参加するように招くことが必要です。

248(抄訳)同じように、カトリック教徒と非カトリック教徒の結婚は、日々の暮らしの中で宗教間対話になります。私たちはそのようなカップルを支え、小教区の活動に全面的に参加できるように助けたいと思います。

249 「カトリック教徒と結婚する相手が洗礼を受けるのを希望する場合に、問題が起こります。少なくともいずれか一方がキリスト教の信仰を知らなかったが、二人はしっかりとした結婚の約束をした、とします。そのような場合は、司教たちが霊的善にふさわしい司牧的な識別を働かせることが求められます」。

250教会は、例外なく一人一人に限りない愛を注がれる主イエスの振る舞いを自分自身のものとします。今回のシノドスで、私たちは、同性愛の体験している家族のいる家庭の状況―両親や子供たちにとって容易ではない状況―について話し合いました。私たちは他のすべてのことの前にこのことを強調したいと思います。

  それは、性的な志向がどうであろうとも、誰もが人間としての尊厳を重んじられ、配慮をもって扱われるべきであり、「どのような不公平な差別の徴」も慎重に避けるべきであり、特に、いかなる形でも脅したり、暴力をふるってはならない、ということです。そのような家庭には敬意のこもった司牧的指導をし、同性愛者であることを告白した人たちが自分たちの人生で神の意志を理解し、実践することができるような助けを受けられるようにする必要があります。

251(抄訳)しかしながら、シノドスの参加者たちは、同性愛者同士の一致を結婚と同じレベルと見なすことはできな

 い。結婚と家庭の神の計画とはかけ離れたもの、と判断しています

分かち合いのヒント

 ・通常でない人生にあるカップルを、私たちはどのようにして支えるべきでしょうか?

 ・どのような立場で、あるいは何をもって、そうすることができるでしょうか?

 ・この問題について、自分の経験はありますか?

死が私たちの心を刺し貫くように感じさせる時

253 時として家庭生活は、愛する人の死によって試練を受けます。そして、この試練をくぐり抜ける支えとして信仰

 の光を差し出し損ねることはできません。悲しんでいる家族に背を向けることは、慈しみの欠如であり、司牧

 的な機会を失することを意味し、福音宣教の他の努力への扉を閉ざすことになります。

254 私には、とても愛していた人-人生を分かち合ってきた夫あるいは妻-を失うことの悲痛さが分かりますーイエスご自身も友の死に直面して深く動揺され、涙を流しされました(ヨハネ福音書11章33節、35節)-。そして、子供を亡くした両親の悲しみを、どのように理解し始めることができるでしょうか。

「それは、時が止まったようだ。過去と未来を飲み込む裂け目が開く」、そして「時として、神を咎めるところまで行ってしまう。何と多くの人がー私は彼らを理解できるがー神に腹を立てるだろう」。「夫や妻を失うことは特別に困難なことだ・・・中には、永続する喪失の瞬間から、子供と孫たちにこれまでよりも大きな愛を注ぐことに精力を傾ける能力を発揮し、愛した経験の中で、子育ての使命についての感覚を刷新する人もいる・・・。ともに時を過ごしたり、愛を受けたりするような近親者がいない人たちはキリスト教共同体の助けを受ける必要がある。とくに貧しい人の場合は、特別の配慮と用意がいる」のです。

255(抄訳) 通常の場合、悲しみが消えるのに、かなりの時間がかかります。司牧者がそのようなケースに対処する場合、それぞれの段階にあるひとそれぞれの求めに合わせるようにせねばなりません。死との出会いの時は、人生の意味、神の目的、あるいは信仰そのものを問い返す時でもあります。愛する人の死においては、悲しみの時期を終えた後で、私たちは愛する人のそばから離れて、動き出さねばなりません。しかし、愛する人たちは、私たちといつも共にいるのです。・・・復活されたイエスは、友であるマグダラのマリアが彼にすがりつこうとした時、そうしてはならない、と彼女に言いました(ヨハネ福音書20章17節)。それは、彼女をこれまでとは別の類の出会いに導くためだったのです。

256 亡くなった人が完全にいなくなったのではない、と知ることは、私たちの慰めになります。そして、信仰は蘇られた主が決して私たちをお見捨てにならないことを確信させてくれます。そうして、私たちを「死が人生に毒を盛らないように、私たちの愛を無駄にしないように、漆黒の亀裂に落ち込ませないようにしてくれます」。聖書は私たちに、神は愛から私たちをお創りになり、私たちの命が死によって滅びないことの無いようにしてくださった(知恵の書3章2節-3節参照)と教えてくれます。

  聖パウロは「この世を去ってすぐにキリストと出会う」ことについて、私たちに語っています(フィリピの人々への手紙1章23節)。キリストとともに、死後、私たちを待ってくれているのは「神がご自身を愛する者たちのために、用意してくださったもの」(コリントの人々への第一の手紙2章9節)です。The Liturgy of the Dead((死者の祈祷書・Joseph Dowdall)の前文には素晴らしい表現があります。「死が確実に来ることは私たちを悲しませるが、未来の永遠の命を受ける、という約束で慰められる。主であるあなたを信じる者たちにとって、命は終わらせられるのではなく、変えられるのだから」。まさに、「私たちの愛する者たちは、虚無の陰に消えるのではない。希望が、彼らは神の力強い手の中に受け入れられる、と私たちを確信させる」のです。

257 私たちが愛する者たちとの親交を保つ一つの方法は、彼らのために祈ることです。聖書は私たちに、「死者のために祈ること」は、「清く、敬虔なこと」(マカバイ記二12章44節‐45節)と語ります。「私たちの彼らのための祈りは、彼らを助けるだけでなく、私たちのための彼らのとりなしを効き目のあるものできるのだ」。ヨハネの黙示録は、この世とその歴史とのつながりの中で、地上で不正に苦しむ人たちのために神にとりなしをする殉教者たちを描いています(ヨハネの黙示録6章9節‐11節参照)。

  聖人の中には、亡くなる前に、「あなた方を助けるために、そばにいる」と約束することで、愛する人びとを慰めました。聖ドミニクは「死後にもっと助けになる・・・もっと神の恵みを受ける力が強くなる」と語っています。これこそ、まさに「愛の絆」です。なぜなら、「旅する人たちの、主のもとで眠る仲間との一致は、決して邪魔されない・・・。(しかし)霊的な品々の交換によって、強められる」のです。

258 私たちが死を受け入れると、そのための準備を自分自身でできるようになります。その方法は、私たちのそばを歩む人たちのために、「もはや死もなく、もはや悲しみも、嘆きも、苦しみも」(ヨハネの黙示録21章4節)なくなる日まで、愛の中で成長することです。このようにして、愛する故人と再会するための準備を、私たちは自分自身でするのです。遠い過去に住んでエネルギーを無駄使いしないようにしましょう。この地上において、私たちがよりよい生き方をすれば、天において愛する人たちと分かち合う幸せが、もっと大きくなるでしょう。この世で私たちがもっと成熟し、成長すれば、天の祝宴にもっとたくさんの贈り物を持って行くことができるでしょう。

第7章 子供たちのよりよい教育に向けて

 259 親たちは自分の子供たちの道徳的な成長に、良い方向であれ悪い方向であれ、常に影響を与えます。それは、親たちがこの欠かすことのできない役割を担い、意識して、熱心に、賢明に、適切に行わねばならない、ということにつながります。家庭の教育的役割はとても重要で、時を追うにしたがって複雑になることから、私はここで詳しく論じたいと思います。

私たちの子供たちはどこにいますか?

260 家庭は支援、指導、方向付けの場とならずにはいられません。しかし、その方法を考え直し、新たな教材となるものを見つけるためにたくさんのことをせねばならないでしょう。親たちは子供たちに何を体験させるべきかを考える必要があり、このことは必然的に彼らに楽しみを与える人たちについて配慮することを意味します。その人たちはテレビや電子機器を通して彼らの部屋に入り、自由な時を一緒に過ごします。私たちが時間を子供たちに振り向け、分かりやすく、配慮をもって重要なことについて語り、時間を使うための健全な方法を見つける場合にのみ、彼らを危害から守れるのです。用心することは常に必要であり、怠りは決してプラスになりません。幼少期、思春期の子供たちが暴力、虐待、あるいは薬物中毒の犠牲になる危険に立ち向かうのを、両親は助けねばなりません。

261(抄訳)これは、親たちが子供たち一人ひとりの行動ひとつひとつを管理しなければならない、ということを意味しません。子供たちがどこで何をしているのか、親たちが絶えず気にしたら、子供たちが両親と素直に話をしなくなるでしょう。必要なのは両親と子供たちが「信念、目標、願望、そして夢」について、ともに語ることなのです。

262(抄訳)忍耐、良い判断、親切、そして優しさは生まれつき備わっているものではありません。私たちはそれらを育み、人として成長せねばなりません。子供たちが自分たちの人生を理解して、のびのびと大人に育っていくのを、親たちが助けるのです。

子供たちの道徳面での人格形成

263 親たちは子供たちの基礎教育を確実にすることを、学校に頼りますが、子供たちの他者に対する道徳面の人格形成を、学校に全面的に委ねることはできません。人の情緒面、道徳面での成長は、結局のところ、自分の親が信用できる、という体験を基礎に置くのです。このことは、親たちには、教育者として、自身の愛情と模範によって、子供たちに、信頼と愛を込めた敬意を根づかせる責任がある、ということを意味します。親にとって自分たちが大事な存在だ、あるいは親が心から自分を気にかけてくれている、と子供たちが感じなくなった時、それが誤解だとしても、彼らの成長に、深い傷と多くの困難をもたらす原因となります。このような身体的あるいは情緒的な欠落は、悪いことをした時に怒られるよりももっと大きな傷を作ってしまいます。

264(抄訳両親は子供たちに終日、お説教をすることができますが、結局は、(どのようなお説教よりも)対話と模範が最も優れた先生なのです。子供たちは、キリスト教徒が生きていく上での価値観、原則、規範を「自分自身のために学ぶ」ように、助けを受ける必要があります。

265(抄訳)すぐれた道徳教育は、正しいことをするのが彼自身のためなのだ、ということを相手に示すことを含みます。何かを要求することは、美徳の道を進むことが人生にとって有益だと教えることよりも、効果が薄いのです。

266(抄訳)親は子供たちに「お願いします」、「ありがとう」、そして「ごめんなさい」と言うように教える必要があります。具体的な振る舞いを繰り返すことで、道徳的な人格形成の積み木を生み出していくのです。

267(抄訳)模範、経験、激励、そして愛情を通して子供たちの人格を作っていくなら、私たちは、彼らを自由にします。子供は、私たちの振る舞いによって、愛することに自由になります。

励ましとしてのしつけの重要性

268 間違った行いが悪い結果をもたらすことを認識するように、幼年期、そして思春期の子供たちを助けることも欠かすことができません。他の人の身になって考え、自分が人を傷つけることがあることを知るように促すことも必要です。攻撃的で反社会的な振る舞いに対しては、ある程度の罰も、そうした目的のために幾分かは役に立つことがあります。間違ったことをしたら、相手に赦しを乞い、与えた傷を治すように、子供たちをしっかりと教育することが重要です。子供たちへの教育が、彼らの個人的な自由の成長に成果を上げるにつれて、子供たちは、家庭の中で育っていくことの素晴らしさが分かり、教育のひとつひとつがもつ求めを受け入れるようになります。

269(抄訳)愛を持って間違いを正すことは、子供が自分を大切にしてくれていると感じるのを助けます。その場合、親たちは完璧に振る舞ってはなりません。子供たちはどのようにして怒りに対処するのか、どのように間違いと正しさを判断するのか、そして、どのような時に間違いが、制限を受けたことによるものなかか、あるいはやむを得ない事情によるものなのか、を親の自然な振る舞いから学ぶのです。

270(抄訳)しつけが、子供たちのやる気を失わせてはなりません・・親たちはバランスの取れたしつけをし、子供たちが家庭の中に自分たちの場があると認識するのを助けることで、確信をもたせなければならないのです。

忍耐のあるリアリズム

271 家庭における道徳教育には、子供や青年に対して、過剰な犠牲を求めず、恨みや威圧されていると感じさせない程度の努力を求めることが肝要です。通常、それは、彼らが理解し、受け入れ、納得できるようなステップを少しずつ踏むことでなされます。そうせずに、あまりに多くを求めれば、何も得られません。子供がいったん、私たちの権威から解放されてしまえば、良いことをするのを止めてしまうかもしれません。

272(抄訳)子供たちが成長するに従って、不完全さ―誰もが持ち合わせている―がどのようにして人生の一部となるのかを知るようになります。このことは、彼ら自身と他の人たちの中にある欠陥を大目に見る助けになります。

273 価値観を教える場合、私たちは、子供の年齢や能力を考えに入れ、硬直的で柔軟でない方法をとろうと思わずに、ゆっくりと時間をかけてせねばなりません。心理学と教育学の優れた研究成果によれば、子供たちの行動を変えるには漸進的なプロセスを踏む必要があるが、自由な判断を刺激することも求められます。なぜなら、価値観を教えること自体は、子供の人間としての成熟を確かなものとしないからです。

お仕着せで、真正の自由は、制限を受け、調整された自由です。自由とは、単に、完全に自発的に良いものを選ぶ能力だけではありません。「自発的」な行為と「自由」な行為の違いは常に十分明確ではない。人ははっきりと進んで邪悪なものを求めるかもしれませんが、抑えられないような熱情か粗末なしつけの結果として、そうなるのです。そのような場合、強く望む傾向に逆らわない限り、決断は自発的ではありますが、自由なものではありません。なぜなら、邪悪なものを選ばないことは実質的に不可能だからです。

薬物常習者に、これがあてはまります。彼らが薬物を欲しがる場合、それは徹底しており、完全に習慣になってしまっているので、他の判断はできません。彼らの判断は自発的になされますが、自由に、ではありません。ですから、「自由に選ばせなさい」ということは意味をなしません。実際のところ、彼らは選ぶことができないし、彼らを薬物にさらすことは、中毒をひどくさせるだけなのです。彼らには他の人の助けと更生プログラムを受けさせる必要があります。

教育の場としての家庭生活

274 家庭は人間的価値を教える最初の学校です。そこで私たちは自由の賢い使い方を学びます。子供時代に一定の傾向が作られ、深く根を下ろすようになり、それが、特定の価値あるものに対する魅力、あるいは特定の行動様式に対する自然な嫌悪として、一生保たれます。多くの人は一定のやり方で考え、行動します。それは、小さい時から、知らず知らずのうちに学んだことを基に、そのやり方が正しいものだと考えるからです。「それが、どうやって私が教わったかだ」「それが、何をするか私が学んだことだ」という風に。

家庭で、私たちはまた、さまざまなメディアが伝えるメッセージについて批判的になることを学びます。悲しいことに、いくつかのテレビ番組や広告として放映されるものは、家庭生活でつちかわれた価値観に否定的な影響を与え、むしばんでいます。

275 今日、ストレスと急速な技術進歩に支配される中で、家庭の最も重要な役目の一つは、希望の中で子供たちを教育することです。子供たちに電子機器を使わせないようにするのではなく、批判力を持つように助け、デジタル化された機器のスピードが生活のすべてに及ばないような方法を見つける必要があります。

彼らの強い希望を満たすのを後回しにさせるのは、希望することを否定するではなく、満たすのを遅らせるだけです。年少期あるいは思春期の子供たちが、待たされたことを実現できるようにしてもらえない場合、強い欲求を満たすことで頭がいっぱいになり、「今、全部したい」という好ましくない性向を増長させる可能性があります。これは、自由を高めるのではなく、弱めてしまう、大きな思い違いです。私たち自身、適当な時期まで何かするのを延ばすように言われた場合、自己抑制を働かせ、衝動から距離を置いて待つようにするでしょう。

子供たちが自分自身に責任をもたねばならないことを認識した時、自尊心が高められます。そして、他の人々の自由を尊重することを教わります。当然ながら、これは、子供たちに大人のように振る舞うことを期待することを意味せず、責任ある自由を育てる能力を過小評価することも意味しません。健全な家庭においては、このような学習プロセスは、共にする生活によって生まれる要求を通して、通常は進められます。

276(抄訳)子供たちはまた、この世界と社会も私たちの家であることを学ばねばなりません。私たちは他の人々とともに暮らしており、社会生活にうまく適応することを学ぶのは重要です。それには忍耐し、人の話を聴き、ともに分かち合い、他者に敬意を持つことが求められます。私たちはこうしたすべてを家庭の環境の中で学びます。

277(抄訳)家庭はまた、子供たちが妥当な量を消費することを学び、捨てるものをできるだけ少なくし、まわりの環境に気を使い、私たちの共通の家としての地球に住んでいることを教わる学校です。同様に、家庭は、子供たちが、病気や損失、自然災害などの困難に立ち向かうことを教わるところでもあります。

278 親たちと子供たちの間でなされる教育のプロセスは、通信手段と娯楽媒体の急激な高度化によって助けられもし、障害にもなり得ます。うまく使えば、様々なメディアは別々のところに住んでいる家族をつなぐ助けになります。頻繁に連絡をとることは、困難を乗り切るのを助けます。それでも、明らかなのは、そうしたメディアが、もっと私的で、直接の対話―物理的に互いにそばにいるとか、生の声を聞くというような―が必要な場合に、それに取って代われない、ということです。

私たちは時として、家族が一緒にいるよりもバラバラでいることを可能にすることを知っています。夕食のテーブルを囲んでいるのに誰もが携帯電話で夢中になったり、夫婦のうちの一方がコンピュータ・ゲームに何時間も熱中し、もう一方はそれに付き合えずに寝入ってしまったり、という状態です。こうした問題に、非現実的な禁止令を課すことをせず、家族互いのふれあいの機会を増やすようなやりかたで、対処することもできるでしょう。

  どのような出来事があろうと、こうした新しい通信手段が幼少期や思春期の子供たちに与えるリスクを、私たちは無視できませんー彼らは時として、無気力・無感動を助長させ、現実の人間社会から遊離してしまいます。このような「科学技術の進歩による人間関係の切断」は、利己的な関心をもって子供たちの私的空間に侵入しようとする人々によって、彼らを、これまでよりもたやすく、巧みに操作されるようにしてしまいます。

279(抄訳)親たちは子供たちを過度に管理しないように注意する必要があります。子供たちは人々の共同体によって育てられますーそれぞれの共同体が異なった次元で貢献し、すべては、両親の目配りの下でなされます。そうした共同体は、学校、小教区、家族の友人たちなどを含みます。

分かち合いのヒント

 子供たちを教育するうえで、あなたはどのような課題をかかえていますか?

 あなたの小教区では、若い親たちに、彼らの子供たちの最初の教育者となるためにどのような工夫をしているでしょうか?

性教育の必要性

280 第二バチカン公会議は、「積極的かつ慎重な性教育」を幼少期と思春期の子供たちに対して、「その成長に従って」「心理学、教育学、教訓教授法など自然科学の進歩を生かす形」で行う必要性について語りました。教育機関がこの課題に取り組もうとしているか、自分自身に問いかけてもいいでしょう。性的な関心がつまらない、貧しいものとされている時期に、性教育の問題を扱うのはやさしいことではありません。それは、愛と相互献身のための教育の幅広い枠組みの中でのみ、理解することができるのです。そのようなやり方で、性的関心をもつ言葉はつまらないものではなく、明るく、豊かなものとなります。喜びと愛の出会いのための有用な能力を育てる自覚と自制力の成長を通して、性的衝動は管理可能となります。

281(抄訳)子供たちに提供する性に関する情報は、何が正しく、何が間違っているのか判断する力をつける助けとなるように、年相応なものにすべきです。ポルノや宣伝広告、その他の性的な刺激を与える媒体が氾濫する現在、道徳的価値をもって見分けることは、これまでよりも、もっと重要になってきています。

282(抄訳)節度をわきまえる健全な感覚-プライバシーを考慮に入れた―も必要です。

283(抄訳)現在の性教育では、「安全な性行為」の実践による「避妊」がまず第一に扱われています。子供たちに対する性教育で、様々な側面を持つ生殖器の役割を矮小化してしまうかのように「避妊」についてだけ教えるのは十分ではありません。もっとたくさんのことを教える必要があります。私たちは、自分の身体にせよ、他の人の身体にせよ、消費される単なるモノではありません。大事なのは、私たちは愛を表現するさまざまな方法に対する慎重さを教え、生涯のきづなのしるしとしての結婚における性的結合を、子供たちが理解するように助けることです。

284 若者たちがだまされ、二つの喜びの実体験を混同するようにさせられてはなりませんー「性的な娯楽は一時、結びつきの幻想―愛のないーを創り出し、このような『結びつき』は見知らぬ人を、それ以前の二人のかけ離れた関係においてきぼりにします。表情や振る舞いを通して、身体が強く求めます―真の自己献身の見地から、熱望を理解し、傾けることを学ぶ中で、忍耐のいる見習い期間を作る必要があるーと。私たちが一度に何もかも子供たちに与えようとすれば、何も与えないのと同じになってしまうでしょう。

まだひ弱で戸惑っている若者たちがどのようにできるかを知ることが必要ですが、同時に、彼らが愛を示す形で、未成熟な状態をしばらく続けるように促すことも必要です。しかし、このようなことを今日、誰が話すのでしょうか?誰が若者たちのことを真剣に扱うことができるのでしょうか?彼らが素晴らしい、寛大な愛のために真剣に準備するのを、誰が助けるのでしょうか?性教育に関して、多くが危険にさらされています。

285(抄訳)性教育は、若者たちが男女の違いを理解し、どのようにして神が性の贈り物を伴う形で私たちを創られたのか理解するのを助ける必要があります。

286(抄訳)男女の性差は多くの要因の結果ですが、男らしさと女らしさには厳密な区分がありません。夫が家事、あるいは子育てを引き受けても、そうでない場合よりも男らしくなくなるわけではないし、妻が主導権を持ち、主たる働き手となっても、そうでない場合よりも女らしくなくなるわけではありません。子供たちは、結婚生活の健全な一面として、そのような男女の役割分担の交換もあることを正しく理解するように、教えられる必要があります。

分かち合いのヒント

 自分の子供に性とその役割、人生の中での位置づけを説明するとしたら、あなたは、どのように教えますか?

信仰を伝える

287 子供たちを育てるには、信仰について秩序正しい手順をとることが求められます。これは、現在の生活様式、仕事の時間、そして世の中の複雑さによって、難しくなっています。人々は、生きることだけのために、そうした状況に懸命に付いていこうとします。そのような環境の下でも、家庭は、信仰の意味と素晴らしさを認め、祈り、隣人に役立つことを学ぶ場であり続けねばなりません。これは、洗礼とともに―聖アウグスチヌスが言っているように、子供たちを「出産において協力」に巻き込む母親たちのように―始まり、そうして新たな人生の中で成長の旅が開始されるのです。

  信仰は神の贈り物、洗礼において授かるものであり、私自身の業によるものではありませんが、両親は神が成長、発展のためにお使いになる道具なのです。ですから、「母親たちが幼い子供たちにイエスへ、マリア様へ接吻を吹きかけるように教えるのは、素晴らしいことです。どれほどたくさんの愛がそこにあるでしょう!その瞬間に、子供の心は祈りの場となります」。信仰を子供に受け継がせることは、親たち自身が神を心から信頼し、追い求め、必要としていることを感じている、と見なされます。このようにしてだけ、「世代から世代へと、あなたの業を誉めたて、あなたの力ある働きを告げ知らせ」(詩編144章4節)、そして「父は子にあなたの誠実を」(イザヤ書38章19節)語るのです。このことは、神に、彼らの心の中―私たち自身では到達できないところーで働いてくださるようにお願いする必要が、私たちにあることを意味します。

 芥子種はどんな種よりも小さいけれども・・・大きな木になる(マタイ福音書13章31-32節)-このたとえは、自分の行いとその結果は釣り合いのとれないものだ、ということを、私たちに教えています。私たちは贈り物を所有できないけれども、その世話を任されています。私たちの創造性に富んだ献身そのものが、神の計画に私たちが協力するのを可能にする贈り物なのです。こうした理由から、「夫婦と両親は、カトリック要理の意欲的な代理人として適切に評価されるべきであり・・・家庭のための教理は、自分たちの家庭の宣教者としての使命を若い親たちが認識するように訓練する、効果的な手法として重要な助けになります」。

 288(抄訳)子供たちは、信仰についての物語、信仰を示す振る舞い、そして私たちが信じていることについての説明を必要とします。もしも子供たちが両親が祈っているのを見るなら、彼らも祈りの人になるでしょう。

 289(抄訳)家族全員に信仰を伝えていく任務があります。温かく親しみのある対話が信仰心のある振る舞いにつながるような家庭で育つ時、子供たちは、世の中の欠陥にうまく対応し、すべての人に慈しみを示し、罪人たちと食事をした時にイエスがなさったようにすることを、学びます。

 290「家庭はこのように、福音と証人たちのさまざまな形の伝承の公けの宣言を通して、司牧活動の仲介者となります。すなわち、貧しい人たちとの連帯、人々のもつ多様性への開かれた心、創造物の保護、他の家庭との道徳的、物質的な連帯、最も必要とされているものを包含し、共通善の促進と不正な社会構造の転換への献身、慈しみの肉体的、精神的な業を通して、家族が暮らしている地域で始めること」です。

  これらすべてが、私たちの深いキリスト教の信仰―私たちを支え、導いてくださる父なる神、そしてイエス・キリストー今も私たちの心の中で生きておられ、いつも人生の嵐に立ち向かえるようにしてくださる方―が自己献身のすべてで示された愛、を心から信じることーを表現しています。

  すべての家庭で、良い時も、悪い時も、進む道を照らす光の源として、「よき知らせ」を響き渡らせる必要があります。私たち全員が、家庭における私たちの人生経験のお陰で、こう言うことができるに違いありません―「私たちは、私たちに対する神の愛を知っており、また、信じているのです」(ヨハネの第一の手紙4章16節)と。

  このような経験を基礎に置いてのみ、家庭に対する教会の司牧は、家庭が「家庭の教会」、そしてこの世における福音宣教のパン種となるのを可能にするのです。

分かち合いのヒント

 あなたの教会では、子供たちの信仰形成について、親たちをどのように助けていますか。

 カトリック信徒でない親たちを、あなたの教会ではどのように受け入れる体制をとっていますか。

  第8章 弱い立場の人に寄り添い、見分け、受け入れる

 (この章は、ホアン・マシア神父(イエズス会、上智大学元神学部教授)の翻訳をご本人の了解を得て参考にさせていただき、バチカンの公式英語訳から訳し直したものです)

291 (訳注・家庭をテーマに2014、2015両年に開催され、この使徒的勧告のもととなった)シノドスに参加した司教たちは、結婚の絆のいかなる破たんも「神の意志に反するもの」であることをrealize理解しているが、同時に「教会の子供たちの多くがもつ脆さ」にもconscious気づいているーと言明しました。

  イエス・キリストのまなざしに照らされて、「教会は、善を行い、愛を持って他の人の世話をし、自分たちが暮らし、働いている地域社会の役に立とうとする勇気が、不完全な形で教会の活動に関わっている人々に与えられることによって、神の恵みが、彼らの人生にも働いていることを認め、そうした人々に愛を持って向き合います」。

  このような対応はまた、慈しみの特別聖年を私たちが祝うことで強められます。教会は絶えず完璧を追求し、より満たされた答えを神に出すように求めますが、「教会の子供たちの中で、愛が損なわれ、苦しんでいる、最も弱い者たちに、思いやりと関心を持って寄り添わねばなりませんー彼らが希望と自信を取り戻し、港の灯台の誘導灯、あるいは道に迷ったり嵐に巻き込まれたりした人を照らすために人々の中に持ち歩かれる松明のように」(Relatio synodi 2014, n. 28)。教会の任務は、しばしば野戦病院のようであることを、忘れないようにしましょう。

292 キリスト教徒の結婚は、キリストと教会との一致を反映するものとして、男女の一致において実現します。二人は自由、貞節、自分たちだけの愛をもって互いを与え合い、死に至るまで互いのものとなり、命を伝えることに開かれ、秘跡によって聖別されます。そして、“家庭教会”となり、この世にとっての新たな命のパン種となるのです。

  一致の形の中には、このような理想とは全く相容れないものや、理想を部分的に似たような形で実現するものもあります。教会は、結婚についての教えと一致しない、あるいはまだ一致していない状態の中にある、前向きの要素を無視することはない、とシノドスの司教たちは言明しています。(Cf. Relatio synodi 2014, n.41, 43 Relatio synodi 2015, n.70)

司牧における漸進的な取り組み

293 シノドスの司教たちはまた、民法のみに基づく結婚、あるいは事実婚、あるいは単なる同棲、という具体的なケースについても熟慮し、「このような二人の結ばれ方が、特別に特に安定しており、法的に認められ、深い愛情と自分たちの子供に対する責任で特徴づけられ、様々な試練に打ち勝つ能力があることを証明する場合に、司教たちは、二人に結婚の秘跡を授ける展望を持って、司牧の機会を提供することができる」と指摘しています。

  その一方で、今日、多くの若者たちが結婚して一緒に暮らすことに不信感を抱き、結婚の約束を漠然と先に延ばし、あるいは結婚の約束を破ってすぐに新たな関係をもとうとすることが、心配の種になっています。「教会のメンバーとして、若者たちも、慈しみと助けを受ける司牧上のケアを必要としています」(注316: Ibid.26)。

  教会の司祭たちには、キリスト教徒としての結婚を促すだけではなく、「no longer live this realityもはや(訳注・そのような結婚を可能にする)現実を生きていない、とてもたくさんの人々の状況を司牧上の識別をすることについても、責任があるからです。このような人々と司牧上の対話を始めることが、結婚の福音への道を完全な形で大きく開く方向に導くことを可能にするような要素を、彼らの人生の中にはっきりと見分けるために必要です」(注317 Ibid. 41 )。このような司牧上の識別をするにあたって、福音宣教と人間的、霊的な成長を促進できる要素を特定する必要があります」(注318 Ibid. )。

294 「民法上の結婚、あるいは多くの場合、単なる同棲の選択は、しばしば秘跡による一致への偏見や反抗ではなく、文化的な、あるいは先の見えない状況が動機となっています」(注319 Final Report 2015, 71 )。そのような場合、神ご自身の愛を何らかの方法で反映する愛の徴に、敬意を払うことができます(注320 Ibid.)。

  「長い間一緒に生活した後で、教会の結婚の祝福を受けることを希望する方々が増え続けている」ことを私たちは知っています。「二人が単に一緒に住むのを選ぶのは、制度や権威を嫌う世間一般の風潮がもとになっていることが、よくあります;(安定した仕事、安定した収入など)生活がもっと安定するまで、そうすることもあり得ます。

  国によっては事実婚がとても多くなっていますが、それは家庭や結婚に関する価値を否定することだけが理由なのではなく、その国の社会状況から結婚を祝うのにあまりにもお金がかかり過ぎる、ということが大きな理由になっています。その結果として、物質的な貧しさが人々を事実婚に追いやっているのです」(注321 Relatio Synodi 2014, 42)。

  どのようなケースであろうと、「これらの状況全てを、福音との結びつきの下で満ち足りた結婚と家庭の実現を可能にする機会、に変えていく建設的な対応が必要です。このような二人は、歓迎され、忍耐強く、思慮深く、導かれる必要があります」(注322 Ibid.43)。これが、イエスがサマリア人の女性にとった態度(ヨハネ福音書4章1節‐26節)です:イエスは彼女の真の愛への熱望に応え、彼女を人生の闇から解放し、福音の喜びに満たされるようにされました。

295 このような方向に沿って、聖ヨハネ・パウロ二世は、人間が「成長の異なる時期に従って、道徳的な善を知り、愛し、達成する」―という認識に、いわゆる「law of gradualness(「カトリック・あい」訳注=漸進性・・ゆるやかに歩ませる・・の法則)」を提唱されました(注 323 Familiaris consortio 34)。これは「gradualness of law (同・法則についての漸進性)」の提唱ではなく、原則が客観的に求めていることを理解しない、正しく評価しない、あるいは十分に実行しない相手に対して、自由な振る舞いを忍耐強く鍛えていく、という意味での漸進性、の提唱です。なぜなら、原則そのものは、道を示す神の賜物であり、どの人にも例外なく与えられる賜物です;それには慈悲の助けが伴うことがあります。たとえ、一人一人の人間が「神の賜物、神の権威ある要請、そして、彼あるいは彼女の完全に個人的で社会的な生活の中での絶対的な愛-を漸進的に合わせることで徐々に前に進む」(注 324 Ibid. 9)としても、です。

”irregular変則的な“状況についての識別(注325 Cf Cathechesis2015.6.24:L’Osserbatore Romano )

296 今回のシノドスは弱さや不完全さについての様々な状況についても扱いました。ここで私は、誤った道をとることのないように、全教会に対してはっきりしておきたいいくつかのことを繰り返したいと思います.

 「教会の歴史を通して繰り返される二通りの考えーcasting off and reinstating関係を絶つ、関係を復活させる―があります。教会の道は、エルサレム公会議の時代から、常に、イエスの道、慈しみと関係復活・・でした。教会の道は、誰もずっと断罪し続けることをしない;誠実な心を持って、求めるすべての人に神の慈しみの香油を注ぎます‥。 なぜなら、真の慈愛は常に称賛を求めず、無条件、そして無償」(注326Homily at Mass celebrated with the New Cardinals/2015.2.15)だからです。ですから、「様々な状況の複雑さを考慮に入れないような判断を避ける」、そして「必要に応じて、人々が置かれた状況のためにどのように苦悩しているかについて、注意を払う」(注327・Relatio Finalis2015,51)必要があります。

297 それは、誰にでも手を差し伸べ、教会共同体に参加し、「称賛を求めず、無条件で無償」の慈しみによって心を動かされる経験をする適切な方法を見つけるように助ける必要がある、ということです。だれも、いつまでも断罪され続けるはずがありません。なぜなら、そのようなことは福音の論理に合わないからです!

  ここで私は、離婚して再婚した方々についてだけ話しているのではありません。いかなる状況に置かれていようとそれに気づいている皆さん全員について話しているのです。

  当然ですが、客観的に見て罪であることをあたかもキリスト教徒の理想の一つであるかのように見せびらかす、あるいは、教会の教えとは別のことを押し付けようとする人がいたら、そのような彼あるいは彼女は、他の人々に;これは教えたり、福音を説くような厚かましいことしていいはずがありません;これは教会共同体から離れることの一例です(マタイ福音書18章17節参照)。そのような人は、福音のメッセージと回心への呼びかけに、改めて耳を傾ける必要があります。しかし、そのような人にとっても、教会共同体の活動-社会奉仕、祈りの集まり、あるいは教区司祭の識別を受けて、自分で主体的に提案できる活動―に参加する方法があり得ます。

 「変則的」な状況への対応に関して、シノドスに参加した司教たちは、全体としての合意に達しました。それを私は支持しています。その内容は「民法上の結婚の約束をした人々、離婚して再婚し、あるいは単に同棲している人々に対する司牧的な対応を考える場合、彼らの暮らしの中に神の恩寵が宿っていることを理解するように、彼らのための神の計画を全うすることができるように、彼らを助ける責任が、教会にある」(注328・Relatio Synodi 2014,25)というものです。聖霊の力によって常に可能なことなのです。

298 例えば、新しい結びつきを始めた離婚者は、様々に異なる状況に置かれていることに気づくことがあります。それは特定の決めつけや、適切な個人的、司牧的な識別の余地も残さないあまりにも硬直的な仕分けをされるべきものではありません。一つの形は新たな子供たちに恵まれ、互いの忠誠が証しされ、惜しむことのない自己献身-それはキリスト教徒の結婚の約束ですが―で、時の経過とともに、確固としたものになるような二度目の結びつきです。彼らは、変則的であること、新たな罪に落ち込むのに良心の呵責を感じずに後戻りすることがとても難しいこと、に気付いています。

  教会は、「男性側か、女性側が、子供たちを養育する義務を果たせない、というような、深刻な別居の理由があることを認識しています」(注329 ヨハネパウロ二世Apostolic Exhoration Familias Consorsio84/1981.11.22)。また、最初の結婚を守ろうとあらゆる努力をしたにもかかわらず、不正に打ち捨てられたケースや、「子供たちの養育のために二度目の結びつきを選び、前の修復不能な破たんした結婚は全く有効なものではなかったと良心にかけて確信している」(注330Inbid.)ケースもあります。

  異なるケースもあります。離婚したばかりで、新たな結びつきをし、子供たちと家族全員に苦しみと混乱をもたらしたり、家族に対する彼の義務をいつも果たさなかったりする人のケースです。

  これが、福音書が提示している結婚と家庭の理想の姿ではないことを、はっきりしておかなくではなりません。シノドスに参加した司教たちは、司牧者たちの識別は、常に「十分にはっきりと見分けることによって」(注331)、「慎重に状況を見分ける」(注332)ようなやり方で、行われねばなりません。私たちは、「容易な調理法」が存在しないことを知っています(333)。

299 私がシノドスに参加した多くの司教たちと次の見解で意見をともにしています。

  「離婚して民法上の再婚をした洗礼を受けている人は、いかなる恥ずべき機会も避けつつ、様々な可能な方法でキリスト教共同体に、より完全に迎え入れられるintegrated必要があります。

  迎え入れの論法logic of integrationは、彼らへの司牧ケアのカギー彼らが、キリストの身体としての教会に所属していることをはっきりと理解するだけではなく、教会の中で楽しく、充実した経験ができることを知るようにするーです。彼は洗礼を受けています;兄弟姉妹です;聖霊は彼らの心に、すべての善き賜物と才能を注ぎ込みます。彼らの参加は、異なった教会の礼拝で表現されることが可能ですが、そのためには、典礼、司牧、教育、そして制度的な枠組みの中で現在行われている、様々な形の除外のどれが克服可能か、を見分けることが、必ず求められます。

  そうした人々は、自分たちが破門された教会のメンバーではなく、教会の中で生き、成長することができる生きたメンバーだと感じ、いつも自分たちを歓迎し、愛情をもって世話をし、人生の道と福音に沿って歩むように励ましてくださる母として、教会を体験する必要があります。迎え入れることintegrationは、また、最重要視すべき子供たちの世話とキリスト教徒としての教育においても必要とされます」(注334 Relatio Finalis 2015,84)。

分かち合いのヒント

・ここでの教皇の教えの中であなたの心の琴線に最も強く振れたのはどの箇所でしょうか?

・この教えの中で、あなたにとっての課題と思われるのはどこでしょう?

・あなたの教会では、愛を失い、約束したことが変わって、離婚するという不幸に見舞われた人たちに、どのように慈しみを示しますか?

300 私が述べてきたような極めて多様な具体的状況を考えれば、家庭をテーマにしたシノドスも、この使徒的勧告も、あらゆるケースに本質的に適用できるような一連の包括的な新ルールを提供できないということが、分かります。

  できることは、個々の具体的なケースに応じて責任ある個人的、司牧的な識別discernmentを行うように、単に、改めて励ますこと、「責任の程度はあらゆるケースで同じではない」(注335Ibid,51)のだから、ルールの結果あるいは効果が、必然的にいつも同じである必要はない(注336 Evangelii Gaudium 2013,11,24 44,47参照)、と認識することです。司祭たちには、「(離婚して再婚した人々に)寄り添い、教会の教えと司教の指針に従って彼らが置かれている状況について理解するように、助ける任務があります。この過程で有益なのは、沈思、痛悔の時をもち、自らの良心を吟味することです。離婚して再婚した人々は、自分自身に問う必要があります-夫婦の絆が危機に瀕した時、自分たちは子供たちに対してどのように振る舞ったのか、和解しようと試みたか、捨てられた相手はどうなるのか、新たな関係は家族と信徒の共同体にどのような影響を与えるのか、そして、どのような実例を結婚準備中の若者たちに示すのか。真摯な反省は、だれも拒むことのない神の慈しみへの信頼を強めることができます」(注337 Relatio Finalis 2015,85)。

  私たちが話しているのは、寄り添い、識別する手順、それは「信徒が神の前に置かれていることを自覚するように導くことです。内輪の意見交換の場での司祭たちとの対話は、教会生活への参加を深める可能性を妨げているのは何か、参加を促進し、育てることのできる方策は何か、について正しい判断を作るのに役立ちます。

  ゆっくりと進めることgradualnessが法則(Familiaris Consortio,34参照)そのものでない、と仮定すると、識別は、教会によって提起された真実と慈善という福音の求めから切り離して考えることが絶対にできません。なぜなら、必要とされる識別は、次のような条件ー神の意志の真摯な探求とそれにより完全に答えようとする熱望における謙遜、選択の自由、そして教会とその教えへの愛-が必然的に示されねばならないからです(注338Ibid,86)。

  このような姿勢は、どの司祭も即座に「例外」を授けることができる、あるいは幾人かの人は良いことをしたのと交換に秘跡の恵みを受けることができる、と考えるような、誤解による重大な危険を避けるために欠かすことができません。責任感のある、機転の利く人で、教会の共通善よりも自分の希望を優先させることのない人は、目前の事柄の深刻さを認識する司牧上の能力に合います-具体的な案件についての識別が、「教会は二重の基準を持っている」と人々に考えさせるような恐れはありえません。

分かち合いのヒント

・できれば、教皇フランシスコの、この使徒的勧告に先立つ勧告「福音の喜び」の44項、47項を読み上げることをお勧めします。

・以上の箇所の、教皇の私たちへの教えで、あなたは何を聞き、知りましたか?

司牧上の識別における酌量の諸要因

301 ある”変則的“な状況において特別な識別をする可能性と必要性についての十分な理解のために、常に考慮に入れねばならないことの一つは、福音書の要求はいずれにせよ、妥協されるものだと、誰もが考えないようにすることです。教会は、要員と状況を緩和することについて十分に検討する、信頼のおける部署をもっており、”変則的“な状況にある人はすべて致命的な罪の状態にあり、聖別された恩寵を受けることができない、と単純に言われることは、もはやあり得ません。

  ルールを無視する以上のことがここに、関わってきています。対象となる人々は、ルールを十分に良く知っているかもしれませんが、「その本来備わっている価値」(注339ヨハネ・パウロ二世のFamiliarisConsortio198111.22 ,33)を理解すること、あるいは異なった行動をしたり、罪に深入りせずに別のやり方を決めることが許されない具体的な状況に置かれていること、に大きな困難を感じています。シノドスに参加した司教たちが指摘しているように、「判断を下す能力を制限するいくつもの要因が存在するように思われ」ます(注340 RelatioFinalis 2015,51)。

 「恩寵と慈愛を備えた人はいるだろうが、徳のある者を鍛える人は誰もいない」(注341 UmmaTheologiae参照)と聖トマス・アクィナス自身が認めています。言い換えれば、外から吹き込まれた道徳的な徳を備えた人はいるだろうが、彼は数々の徳の一つの存在もはっきりと証明しない。その徳を外に向かって実行することが難しいからだ。「ある聖人たちが、ある徳を持たないように言われた。彼らがそうした徳を実行することの難しさを経験する限り、たとえ、もろもろの徳すべてを習慣としていても」(注342Ibid,ad3)。

302 カトリック教会のカテキズムは、以上の要因について次のように述べています。「行為に対する罪と責任の度合いは、無知、不注意、強制、恐怖、習慣、過度の忠誠、その他の心理的ないし社会的な要因によって、減殺され、あるいは無いものとされ得る」(注343 No1735)。別の箇所で、カテキズムは、道徳的責任を軽減する状況について再度言及し、「道徳的な罪を減殺、無いものとする判断させるような、情緒的な未成熟、身についた習慣の影響力、不安な精神状態、その他の心理的ないし社会的要因」について、長文にわたって説明しています(注344Ibid.,2352  Declaration on Euthanasia)。以上のような理由から、客観的状況についての否定的な判断は、その人の罪と責任についての判断が関係していることを意味しません(注345 Declaration Concerning the Admission to Holy Communion of Faithful who are Divorced and Remarried (2000.6.24)2)。

  これらの判断を基に、私は、シノドスに参加した多くの司教が断言することを希望した以下の内容は、とても適切であるとみなします。

 「ある環境の下で、人は、他の行動を選ぶのがとても難しい場合があります。それゆえ、一般的な原則を堅持しつつ、その人の行動ないしは決断に関する責任は、いつも同じではない、ということを確認しておく必要がある。司牧上の識別は、その人の適切に形成された善悪の判断力conscienceを考慮に入れつつ、そのような状況に対して責任を取らねばなりません。行動がとられた結果は、すべてのケースで必然的に同じ、ということはないのです」(注346RelatioFinalis2015,85)。

303 このような具体的な要因の影響を認識して、私たちは、次のように付け加えることができます。

  個々人の善悪の判断力は、一定の状況の下で教会の実践によりよく組み入れられる必要があります。ただし、そのことは結婚についての私たちの理解を客観的に具現化するのではありません。当然ながら、その人を担当する司牧者が責任感のある真摯な識別によって形作り、導くことで、見識をもった善悪の判断力が育つように力づけ、神の恩寵への信頼が常に増していくように力づける、一つ一つの努力が必要です。

  そのうえ、善悪の判断力は、自分に与えられた状況が福音書の全体としての求めに客観的に合っていないと認識する以上のこと、今、神に対して最も物惜しみすることのない対応として自分は何ができるかを、真摯に正直に認識することができ、そして、まだ十分に客観的に理想的とは言えないものの、その人の限界がさまざまに絡み合った中で神が自分に何を求めておられるのかを、道徳的な安心感をもって知るようになります。

  どのような事態を迎えても、識別が躍動的だとういことを思い起こしましょう―識別は、成長の新たな場面に、理想をより完全に実現できる新たな決断に常に開かれなければならない、のです。

分かち合いのヒント

・あなたのこれまでの人生で、あなたの良心―善悪の判断力ーは、どのように働きましたか?

・教皇フランシスコが303項で教えられた内容のうち、あなた自身あるいは親しい人の経験につながるものがあれば、それは、いつ、どのようなものだったでしょうか?

ルールと識別

304 個人の行動が一般的な法やルールに対応したものかどうかだけを考えると、reductive難しい問題を基本的な要素で解釈することになってしまいます。なぜなら、人間の実際の生活の中で神に対する最大の忠誠を見分け、確かなものとするために、それではnot enough不十分だからです。

  私が心からお願いしたいのは、私たちがいつも聖トマス・アクィナスの教えを思い起こし、司牧上の識別にそれを組み入れるとこと学ぶことですー「一般原則を適用する必要性があるにもかかわらず、細部に降りて行けば行くほど、多くの欠点に出会う…行動に関しては、真実ないし実際的な実直さは、細部では、どれも同じではなく、一般的な原則でのみ同じだーそして細部において同じ実直さのあるところでは、皆に同じように自覚されない・・細部に降りて行くに従って、原則は役に立たないということが分かる」(州347Summa Theologiae,1-2,q94,art.4)。

 一般的なルールが、無視したり怠ったり絶対できない善を説明するのは事実ですが、体系化することであらゆる状況にまんべんなく適用することはできません。同時に、まさにその理由で、特定の状況で実際の役に立つ識別を構成するものはルールの水準に達することはできない、と言われねばなりません。それは、行き過ぎた詭弁につながるだけでなく、特別な注意を払って守らねばならない、本当の価値観を危険にさらすことになります.

(注348 「ルールについての一般知識」と「実際に役立つ識別についての特定の知識」について言及した別のテキストで、聖トマスは「二つのうち一つたけが存在する場合、それは、後者であることが望ましい。それが行動により近いからだ」としている:Sententia libri Ethicorum 6,6(ed.Leonina,t,XLVII,354))

305 このような理由から、司牧者は、“変則的”な状況で暮らしている人々に対して、投げつられる石のように、単に倫理上の規範を当てはめることで十分だ、と感じではなりません。このことは教会の教えの裏に隠れることに慣れている人の閉じられた心を物語りますー「モーゼの椅子に座り、時たま、傲慢さと浅薄さをもって困難な案件と傷ついた家族たちを裁く」(注349 Address for the Conclusion fo the Fourteenth Ordinari General Assenbly of the Syonod of B  2015.10.24):L’Osservatore Romano, 2015,10.26-27、p13)と。

  これらと同じ線に沿って、(教皇庁教理省の)国際神学委員会は次のように指摘しました。「自然法は、倫理的課題に先験的に課するような確立された一連のルールとして提示されることはできない。むしろ、それは、極めて個人的な決断に至る過程に客観的なひらめきを与える源である」(注350 International Theological Commission ,In Search of Universal Ethic:A New New Look at Natural Law(2009),59)。

 要因を条件付け、緩和する形をとることで、客観的に罪の状態―だが、罪の自覚がない、あるいは完全に罪とは言えないかもしれない状態―において、個人は、教会の助けを得つつ、神の愛の中に生き、愛し、神の愛と慈しみを受けた生活の中で成長できることが可能です。

 (注351 特定のケースで、このことは秘跡の助けを含むことができます。ですから、「私は司祭の皆さんに『告解は、拷問部屋ではなく、神の慈しみと出会う場でなければならない』ということを忘れないように希望します」(使徒的勧告Evangelii Gaudium・2013・11・24)44:AAS105(2013),1038).私はまた、聖体拝領は「完璧な人に対する褒賞ではなく、弱い人のための強力な薬、滋養のある食べ物」だ、ということを指摘したいと思います。(ibic,47: 1039)

  識別は、神に応え、様々な制約の中で成長することを可能にする道を見つけるのを助けにならねばなりません。どのようなことも黒と白だと考えることで、私たちはしばしば、神の愛と成長の道を閉ざし、神に栄光を帰する清めの進路を妨げてしまいます。思い起こしましょう。「外見上は秩序正しい生き方をし、大きな困難に立ち向かうことなく日々を過ごすよりも、人間的な大きな制約を受けながら小さな一歩を踏み出すことが、神の喜びとなり得る」(注352使徒的勧告Evangelii Gaudium・ 44:AAs105(2013)、1038-1039)ということを。聖職者と共同体による実際に役立つ司牧ケアで、このような現実の受け入れを怠ってはなりません。

306 どのような状況でも、神の掟を十分に生きることが難しい人々に対する時には、via caritatis (愛の道)を追い求めるようにとの招きの声がはっきりと聞こえる必要があります。友愛的な慈しみは、キリスト教徒の第一の掟です(ヨハネ福音書15章12節、ガラテアの人々への手紙5章14節)。

  次のような私たちを元気づける聖書の言葉を、忘れないようにしましょう。「何よりもまず、互いに心を尽くして愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(ペトロの第一の手紙4章8節)、「善い行いによって罪を償い、虐げられている人々を助けることによって悪を償ってください。そうすればあなたの繁栄は続くでしょう」(ダニエル記4章24節〔27〕)、「水が燃え盛る火を消すように、施しは罪を償う」(シラ書3章30節)。

  これはなた、聖アウグスチヌスが教えていることでもあります。「それはまさに、火の脅威に直面して、消化のために水を求めて走るようなものだ・・・同じように、罪の炎が、私たちのもみ殻のような些細なことから燃え上がって、苦んだら、慈しみの業を行う機会が私たちに与えられたら、大いに喜ぼう。あたかも、炎を消すために私たちに与えられた泉のようなものだから。

司牧上の慈しみの論理

307 誤解を避けるために、私はこのことを指摘しておきたいと思います。教会は、結婚の完全な理想、その偉大さにおける神の計画を提示することを、決して思いとどまってはなりません。「洗礼を受けた若者たちは、結婚の秘跡が愛のある未来を豊かなものにできること、そして秘跡におけるキリストの恩寵によって、教会活動に十分に参加することを可能にするによって、自分たちが支えられることを、理解するように励まされる必要があります」(注354 Relatio Synodi2014,26)。

  熱意に欠けた態度、あらゆる形の相対主義、あるいはそのような理想を提示することへの過度の遠慮は、福音に対する忠誠の欠如、さらには教会の若者たちに対する愛の欠如となるかもしれません。例外的な状況に直面して理解を示すことは、より十分な理想の光を曇らすことも、イエスが人間にお与えになるものを少なく提示することも、まったく意味しません。今日、失敗した人たちへの司牧ケアよりももっと重要なのは、結婚を確かなものにし、そうすることで破たんを防ぐ、司牧上の努力です。

308 これと同時に、酌量すべき事情-心理的環境、個々人のこれまでの生涯、そして生物学的環境―の重さへの配慮から、必然的に「福音の理想を損なうことなく、少しづつ見えてくる個々人の成長の段階に、慈しみと忍耐を持って寄り添う必要」があることになります。それは「最善を尽くすように私たちを励まされる、主の慈しみ」(注355 使徒的勧告Evangelii Gaudium(2013.11.24)1038)の場を作ります。

  私は、混乱の余地が無いような厳格な司牧を好む人たちを理解していますが、私自身は心から信じていますーイエスは、人間の弱さのただ中に聖霊が蒔く善に気を配る教会を、公平な教えをはっきりと示しつつ、「たとえ、道の途中で靴が泥に汚れても、自分ができる善をいつも行う母を、望んでおられる」(注356 Ibic,45)と心から信じています。

  教会の司牧者はまた、福音と教会の教えの理想を信徒に提示する際、弱い人々に対して、苛立ちを避け、あるいは過度に厳しく、拙速な判断を避けながら、思いやりを持って接するよう助けねばなりません。福音書そのものが、裁いたり、有罪と判断しなように、私たちに語っています(マタイ福音書7章1節、ルカ福音書6章37節参照)。イエスは「人間的な大きな不運に見舞われることから私たちを守る個人や共同体の最適な場を求めるのを止め、かわりに、他の人々の生きざまに溶け込み、優しさの力を知ることを、私たちに期待されています。私たちがそうする時いつも、私たちの人生はwoderfully complicated素晴らしく多彩なものになります」(注357 Ibid,270).

 309 慈しみに捧げられた特別聖年に、このようにreflechition熟慮することは、神の摂理です。なぜなら、さまざまな家庭に影響を与える多様な状況の中で、「教会は、1人1人の知性と心に、それぞれの仕方で確実に染みわたる神の慈しみ、福音の脈打つ心を告げ知らせる使命を与えられています。キリストの花嫁は、例外なくあらゆる人のところに出かけていく神の子に倣わねばならない」からです。(注358 Bull Misericoridiae Vultus(2015.4.11),12:AAS107(2015):407)。

  イエスご自身が99頭ではなく100頭の羊飼いであることを、教会は知っています。すべての羊を愛してloves them allおられるのです。このような認識に立てば、「慈しみのかぐわしい香りが、神の国が私たちのただ中に現存されている、しるしとして、信仰を持つ人にも、遠く離れている人にも、すべての人に届く」(注359 Ibiid.,5:402)ことが可能になるでしょう。

 310 私たちは忘れることができません。「慈しみは父の業であるだけでなく、父の本当の子供たちが誰なのかを知る尺度にもなる。一言でいえば、私たちが最初に慈しみを示されたから、慈しみを示すように呼ばれている」(注360Ibid.,9:405)ということを。

  これは、まったくの絵空事でも、常に私たちにとって最善のものを望まれる神の愛に対する熱意に欠けた対応でもありません。なぜなら、「慈しみは、教会の日々の活動の最も基本となるものだから。教会の司牧活動のすべては信徒に示す優しさをもってなされる必要があるー教会が世に向かって説き、証しする時、慈しみを欠くことはできない」(注361Ibid.,10:406)からです。

  時として「私たちは、恩寵を促進する者facilitatorであるよりも、決定する者arbiterとして振る舞う」のは事実です。しかし、教会は「通行料金の徴収所toll houseではない-あらゆる問題を抱えた一人一人のための居場所のある、父の家」(注362使徒的勧告Evangelii Gaudium ,47:AAS105(2013)、1040)なのです。

 311 倫理神学の教えは、このような考察を具体化するincorporateことを怠ってはなりません。なぜなら、教会の倫理面での教えの一体性integrityに関心を示さねばならないことは事実であるにもかかわらず、福音の最も高い、最も中心に置かれる価値(注363 ibid.,36-37:AAS105(2013),1035参照)、何よりも、完全に無償の神の愛に応えるものとして最上位にある慈愛の行いを強め、促進することに、特別の配慮を示すべきなのです。時として、私たちの司牧活動で、神の無条件の愛に居場所を作るのが難しいと感じることがあります。(注

364 司祭たちの中には、おそらく「真実に忠実でありたい」という強い思いの裏にある潔癖さのために、告解する人に対して一点のしみもない償いの決意を求める者もいる。純粋な正義とされることを追求することで、慈しみが失われるのは、そのためです。こうした理由から、聖ヨハネ・パウロ二世の教えを思い起こすことは助けとなる。彼はこのように言われた‐新たなつまづきの可能性が「決意が本物であることthe authenticity of the resolutionに疑いをもたせるprejudiceことはない」(教皇庁内赦院主催の口座の際のウイリアム・バウム枢機卿あて書簡(1996.3.22)5:Insgnamenti XlX/1(1996),589)

  私たちは、慈しみを示すのに条件を多くつけすぎ、その具体的な意味や実際の重要性をおろそかにしています。これは福音を弱める最悪の仕方です。例えば、慈しみが正義と真実を排除しないのは間違いありませんが、私たちが何よりもまずfirst and foremost言わねばならないのは、慈しみが正義に満ちたものであり、神の真理の最も輝かしい現れ、ということです。このような理由から、私たちは「神の全能と、特に、神の慈しみに疑いを抱くようないかなる神学的な考えも適切ではない」と常に考えます(注365国際神学委員会「洗礼を受けずに亡くなった幼児の救いの希望」(2007.4.19),2)。

312 このことは、もっと微妙な問題を扱う際に、冷たい官僚的な倫理を避けるように助けてくれる枠組みと環境を、私たちに提供してくれます。冷たい官僚的な倫理cold bureaucratic moralityの代わりに、私たちを慈しみ深い愛にあふれた司牧上の識別の文脈に置き、そうした愛は、喜んで理解し、赦し、寄り添い、希望を持ち、そして何よりも融和integrateさせます。

  それが、教会で広く行われ、「社会の最も外側の“辺境”で暮らす人々に心を開く」(注366慈しみの特別聖年の教皇フランシスコ大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみの御顔」(2015.4.11)15:AAS107(2015),409)ように、私たちを導くべき、考え方mindsetなのです。

  自分が困難な境遇にあると思っておられるfind信徒の皆さんに、私はお勧めします―自分たちの司牧者や、主に人生を捧げている一般信徒たちと、自信を持って語るようにconfidently speak with。 彼らから、自分自身の考えや強い願いの裏付けを、いつも得られるとは限らないかもしれませんが、自分たちの境遇をよりよく理解し、個人としての成長の道筋を見つける助けとなる光を、必ずもらえるでしょう。

  私はまた、教会の司牧者の皆さんに、そうした信徒たちの声に、豊かな感受性と落ち着きをもって耳を傾けるようお勧めします。彼らがよりよい人生を生きるのを助け、教会に彼らにふさわしい場を見つけるために、彼らの辛い状況plightと考え方を理解しようという心からの願いをもって、対応してください。

分かち合いのヒント

・以上の箇所で、教皇の教えの何が、あなたの心にいちばん響きましたか?

・異議を感じたのはどこですか?

・何が、あなたの人生についての決断と道筋を確固としたものにしたでしょうか?

 

第9章 結婚と家庭の霊性

313(抄訳)結婚と家庭生活から生まれる特別の聖霊があります。そして私はここで、このことについて考える時を取りたいと思います。

超自然的な交わりの霊性

314(抄訳)神は、恩寵のうちに生きる人の心の中にお住まいになります。そして、三位一体(父と子と聖霊)は結婚と家庭の交わりの中におられます。

315(抄訳)主は家庭ー悩み、苦しみと喜び、希望に満ちた日々の生活=の中におられます。

316(抄訳)家庭生活を経験することは、神聖への道です。そのような生活は、私たちが神に向かって成長するのを助けてくれます。家庭生活のただ中にある人たちは、家庭が自分たちの霊性を損なっていると感じるべきではありません。

復活の光の中で祈りに結ばれる

317(抄訳)家庭がキリストを中心に置く時、キリストの恩寵が、家族の生活を通して彼らを導きます。痛みがあなたを十字架につける時も、喜びに満ちた幸せの時が復活に導く時も。

318(抄訳)家庭でいくらかの日々の祈りに時を過ごすことは、家族が自分たちの暮らしについて思いめぐらすことを可能にします。食前の祈り、朝と夕の祈りーすべてが霊性を深めるのに役立ちます。しかし、そうであっても、家族の人生の旅を新たにし、強める、何よりも重要なのは、キリストの最後の晩餐を記念する感謝の祭儀です。神と人との過ぎ越しの契約を祭儀の都度、確認し、聖体拝領によって、結婚生活と聖体の間の深いつながりが示させ、「家庭の教会」として、その契約を日々生きる力と励ましが与えられるのです。

誰も立ち入ることのできない、自由な愛の霊性

319(抄訳)結婚はまた、他の人に属することを経験することでもあります。夫婦は互いに愛し合い、ともに年老い、そうする中で、神の御顔を映します。毎朝、私たちは神の前で、愛する決意を再確認し、毎夕、神の導く手に信頼を置くのです。

320(抄訳)それぞれの夫婦の霊的な歩みは、共になされ、そして別々になされるものでもあります。神だけが、一人一人の心の奥底を見ておられます。そのことに信頼を置くことで、夫婦は、互いに対して非現実的な期待をせず、神が日々、私たちと共に歩んでくださるように、二人で並んで歩くのです。私たちは、神に対するほどは互いを委ね合うことがない、と学びます。そこから素晴らしい自由が生まれます。

世話をし、慰め、励ます霊性

321(抄訳)互いを夫婦として、優しさと慈しみをもって世話をしましょう。神の業において分かち合い、神がどれほど私たちを愛してくださっているかを、自分たち自身の愛の行為によって示しましょう。

322(抄訳)私たちは慈しみを持って、人生を通して、ともに寄り添います。互いに、愛のはっきりと分かるしるしを付け、神の心に互いを惹きつけます。

323(抄訳)神の目をもって私たちの夫婦と家庭を見ることは、なんと深淵な体験でしょう。私たちは誰一人見過ごすことはありません-全員を抱きしめ、互いが必要としていることに注意を払います。これは、なんと愛のこもった神の体験でしょう!

324(抄訳)家庭生活を構成する一部である命への開かれた心は、親切なもてなしで表わされますー隣人たち、友だち、そして見知らぬ人も、歓迎し、手を差し伸べます。そうすることで、家庭は「家庭の教会」であり、この世を良い方向に  変える道となるのです。

325 結婚についての、師イエスの教え(マタイ福音書22章30節参照)と聖パウロの教え(コリントの人々への第一の手紙7章29-31節参照)は、偶然ではなく、私たち人間の存在の究極的、決定的な次元の文脈の中に置かれています。この教えの豊かさを再発見することが、私たちに強く求められています。この教えを心に留めることによって、夫婦は自分たちの一生の旅のより深い意味を知るようになるでしょう。

  この勧告でしばしば言及したように、いかなる家庭も完璧に型どおりに創り上げられることはありません。家庭は愛する能力の中で、着実に育ち、成熟していく必要があります。これは、三位一体の神との完全な交わりーキリストとご自身の教会との奥深い一致、ナザレの聖家族の愛情に満ちた連帯、そして天の聖人たちの間にある真の兄弟愛-の結果として生まれた、決して終わることのない天職なのです。

  私たちがこれから成し遂げようとすることに思いを巡らすことは、適切な大局観を持って、家族として辿る歴史的な旅を見つめ、人と人との関係に来るべき神の国だけで出会うであろう完璧さ、意図の純粋さ、そして一貫性を求めるのを止めることを可能にします。それはまた、いまにも崩れそうな状態で生きている人に対して、私たちが厳しい判断をしないようにします。

  私たち自身と私たちの家庭よりも偉大なものに向けて懸命に努力を続けるように、私たちは呼ばれており、どの家庭もその絶え間ない衝動を感じなければなりません。家庭としてこの旅をしましょう。ともに歩み続けましょう。私たちが約束されたものは、私たちが想像するよりも偉大です。自分に限界を感じて気を落とすことが、絶対にないように。神が私たちの前に差し出してくださるいっぱいの愛と交わりを得ようとするのをやめないように。

分かち合いのヒント

・結婚の霊性とは何でしょうか。あなた自身の言葉で表現してみてください。

・どのようにして、家庭生活が神の御顔を映す、あるいは映し損ねるのでしょうか。あなたの体験は?

聖家族への祈り

イエス、マリア、そしてヨセフ

あなた方のうちに 私たちはじっと見つめます

まことの愛の壮麗さを

あなた方に 信頼を持って顔を向けます

ナザレの聖なる家族、

認めてください 私たちの家族も 交わりと祈りの場、 福音の忠実な学校、そして小さな家庭の教会となりますように

ナザレの聖なる家族、

家族が二度と経験しませんように 暴力、排除、そして分裂を

傷ついたり、悪いうわさを立てられたりしたすべての人々が いつも慰められ 癒されますように。

ナザレの聖なる家族、

私たちをもう一度、心に留めて忘れないようにしてください 家庭が神聖で 侵しがたいことを

そして神の計画におけるその素晴らしさを。

イエス、マリア、そしてヨセフ、

私たちの願いを寛大な心を持ってお聞き入れください。

アーメン。

慈しみの特別聖年、3月19日、聖ヨセフの祭日、私の教皇としての在位四年目に ローマ、聖ペトロのかたわらにて作成

            フランシスコ(署名)

 

 

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2017年9月1日