・2018年聖書週間(11月18日から25日まで)のテーマは「聖性への招き」

 今年の聖書週間は11月18日から25日まで。テーマは「聖性への招き」です。

 ⇒をクリックしていただくと、教皇フランシスコが今春発表された、すべての信徒への聖性の招きに関する以下の使徒的勧告全文などをお読みになれます。もちろん無料です。ご参考になさってください。(「カトリック・あい)

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」(喜びなさい、大いに喜びなさい)⇒発表

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」全文日本語試訳⇒全文

・(解説)使徒的勧告の5つの要点(America-The Jesuit Review)⇒特集・解説

・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)⇒特集

・(解説)「聖性は、過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中に」(La Civilita Cattolica)⇒特集

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◎カトリック中央協議会「聖書に親しむ」

*巻頭言「聖性への小さな一歩」(カトリック大阪大司教区補佐司教・パウロ酒井俊弘)

 あるときシスターに「プロ野球選手の名前を知っていますか?」と尋ねたら、「イチローと大谷選手ぐらいは知っています」という答えが返ってきました。ニュースに登場するほどの選手なら当然知っているわけです。

 大谷選手のすごさは、投手と野手の二刀流で、ベーブルースを超えようかという結果を残しているところにあり、特別な選手といえます。

 ところで、「聖性を目指す」という目標は、特別な人たちだけのためではありません。

 「『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』(マタイ 5・48)…信者は、おのおのがキリストから受けたたまものに応じてこの完徳を獲得するように努力し、キリストの足跡に従い、その姿に似たものとなり、万事において父のみ心を行いながら、神の栄光と隣人への奉仕に全精力を注がなければならない」(『教会憲章』40)。

 「完全」と聞くと「自分には無理…」と考えるのは当然ですが、請われているのは「努力し…全精力を注ぐ」ことです。高い目標を持つということは、「夢を持つ」ことです。大谷選手は、「投手と野手の両方をする」という夢を持って日々の努力を続けたからこそ、今のような選手になったのです。

 今年 4 月に教皇フランシスコが発表された現代における聖性をテーマにした使徒的勧告『喜びに喜べ-現代世界における聖性』には、私たちがどのように聖性への道を歩むべきかが、具体的に示されています。

 「主があなたを招かれているこの聖性は、小さな行動を通して成長します。たとえば ある女性が買い物中に近所の人と会い話出して、陰口になったとします。でもその人は心の中で言います。『いけない。人のことを悪くいわないようにしないと』。これが聖性の一歩です。今度は家で子どもが、空想の話を聞いてほしがると、とても疲れてはいたものの、傍らに座ってじっと優しく話を聞いてあげます。これもまた聖性をもたらすもう一つのものです。

 そして不安に押しつぶされそうなとき、おとめマリアの愛を思ってロザリオを手に取り、信頼を込めて祈ります。これもまた聖性のもう一つの道です。そして今度は通りに出て、貧しい人に気づくと、立ち止まって優しく話をする。これもまた別の一歩です」(同勧告 16)

 教皇フランシスコは、イエス様自身の模範も示してくださっています。「小さなことにも心を配るようにと、イエスが弟子たちにどれほど促したかを覚えておきましょう。…明け方、弟子を待ちながら炭火を起こし、その上に魚を載せておくという、些細なこと」(同 144)。

 これは、ヨハネ福音書に書かれている復活後のご出現の場面です。何度も読んだ箇所ですが、「そうか、あの炭火と焼いた魚はイエス様が手ずから弟子たちのために用意されたものなのだ」と初めて気づかされました。

 聖書の中のイエス様のようになることが私たちの夢です。その夢の実現のために、聖書を読み、何ができるのかを黙想し、示されたことを実行に移しましょう。それこそが聖性への一歩だと信じて。

*「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(マリア会司祭・青木勲)

 今年のテーマ「聖性への招き」に合わせて選ばれた聖書の箇所は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ 4・4)です。現代社会に励ましと預言者的回心を呼びかける素晴らしい言葉です。

 励ましという意味は、今日の世相には政治・経済・国際関係、ひいては自然環境に至るまで不平不満をもらしたくなるような要素が多いからです。他方、預言者的回心への呼びかけは「主において」という言葉が持つ特異性にあります。

 それは世がもたらす喜びや幸せに迎合せず、真実と正義に基づく預言者的挑戦と、そこから生じる霊的喜びに根ざしているからです。神の似姿として創られた人間に託された聖性への招きは、すべての値打ちをキリストのうちに復元する「主における喜び」のメッセージだといえるでしょう。

 獄中書簡と呼ばれるフィリピ書は「喜びの書簡」とも呼ばれます。晩年のパウロは、信仰の遍歴を経て到達した霊的喜びの体験をフィリピの共同体と信徒に伝達しようとしています。イエスが世の罪を贖う「救い主」であり、復活したイエスこそがすべての人の「キリスト・主」(2・11)であると明示します。

 キリストのへりくだりの賛歌(2・6 〜 9)と主を知る知識と、その価値の故に「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしている」(3・8)と言い、朽ちるものから朽ちないものへと昇華した喜びを聖霊の業として示しています。4 章では、差し迫るキリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びと希望のうちに、毎日を生き抜くことを諭しています。「主」が頭となる時、すべてが一新され、主における喜びが完成するからです。

 「主において喜びなさい」について、ローマ書からも預言者的な示唆を受けることができます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません・・・」(ローマ 12・2)と。経験から推察して、物を所有したり、勝負に勝ったり、立身出世することに幸せを感じます。しかし「〜を持つ」「〜に勝つ」「〜になる」喜びを過大評価すると、他人を「物」に還元し、犯罪行為または反社会的行為に向かわせることになります。

 残念なことに、大企業や有名大学までがその渦中にあります。この世の価値観を絶対視する誘惑の結果です。

 神のみ旨の実現を第一義とする預言者的生き方、つまり世にあって、世のものではない生き方は、特別な人だけの特典なのでしょうか。教皇フランシスコは、聖性に向かう霊的回心は、すべての人に例外なく与えられていると強調しています。その理由は、神の似姿として創造された人間には存在の最初の瞬間から、神の聖性と神の生命の充満による喜びを享受するよう方向付けられているからです。人祖が罪を犯した結果、識別する能力は弱められましたが、神はご自分の愛の証しとして、独り子イエスを世に派遣し、十字架の死と復活を通して決定的な救済策を与えてくださいました。

 パウロは復活したキリストと出会うことによって目が開かれ、自己中心的な生き方から、キリストために生命を捧げるまでの回心の恵みを受けました。「主キリス・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8・39)という信仰の喜びをパウロは披歴しています。これはパウロの慢心から出た言葉ではなく、すべて人を招くs信仰告白です。

 聖母マリアも神の前に小さな者であることを自覚しつつ、飢えている人、弱い人への優しさと気配りに徹しました。他方、傲りと権力志向者に向かっては、たくましい預言者の姿でマニフィカトの賛歌において警告しています。聖母マリアは正義と平和と喜びの国のために挺身する人々と共にいつもおられるのです。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

*みことばを深めるーみことばによって聖なる人に変えられる(大分教区司祭・ 山下敦)

 さまざまな場所で聖書について話す機会をいただきますが、聖書に初めて触れられた方々の感想をよく伺います。「聖書は難しい」という意見はいつもあるものの、「面白い」、「興味をひかれた」などの好印象を持たれる人の方が多いようです。

 聖書は、キリスト教の信仰を持たない人にも、実に多様な形、方法で強い影響を与えています。毎年、世界で一番売れている本は聖書です。まさに、聖書が神のみことばだということでしょう。

 どのように聖書を読めばいいのか、その学び方や研究方法は、聖書が旧約 46 書、新約 27 書を数える膨大なものであるがゆえ、さまざまです。聖書を読みたいと思ってはいても、それに困難さを感じている人や、アプローチの仕方で迷っている方々のために、以下を提案したいと思います。

 聖書全体の通読、つまり、旧約聖書の最初のページから読み進めていくことは、大きな意味があり、とてもよいことだと思いますが、難解な場所にくると続かなくなってしまうものです。事実、特に旧約には難しい部分があります。ですから、好きな場所から読み始めていくのは実践的方法の一つです。

 また、その重要性からいっても、福音書から読み始めるのが、聖書に少しでも触れようと思っている人がなさったらよいことだと思います。一般的に旧約よりもわかりやすい新約の通読を、一度だけではなく、最後までたどり着いたらまた最初からやり直し、数回繰り返せば、新約聖書の全体像がつかめてきます。好きな言葉や疑問点などが明確になってきたところで、聖書解釈には絶対的に必要な旧約の方に入っていくとか、または、講座や研究会などに出席することも、この頃には大きな可能性の一つになっているはずです。

 当たり前のことですが、とにかく読むということが大事です。聖書が本棚の飾り物になってしまわないように。

 教皇フランシスコは新しい使徒的勧告において、すべての人を聖性に招いておられます。「多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自自分の道において、父自身が完全にもっている聖性に達するよう主から招かれている」(『喜びに喜べー現代世界における聖性』10、第二バチカン公会議『教会憲章』11 引用)のです。

 すべての人に影響を与えることのできる聖書は、そのための絶対的手段の一つです。わたしたち人間にとって真の喜びは、お金や物、または夢や理想の実現によって得られるのではなく、神が望まれる聖なる人になることによって完成されていきます。わたしたちがみな、みことばによって神の聖なる人に変えられていきますように。

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2018年11月11日