・2月の「児童性的虐待サミット」への現実的な期待(Crux解説)

(2018.12.9 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 ローマ発-その時点で世界で何が起ころうとも、聖職者の性的虐待問題についての全世界の司教協議会会長による来年2月のサミットは、大きなニュースとなるだろう。

 性的虐待について説明責任に関する新たな規則の導入を決めようとした米国司教団に対して、バチカンが、決定を2月のサミット以降まで待つように求めて後、米国の評論家たちが2月のサミットを「ルーズベルト米大統領とスターリン・ソ連首相のヤルタ会談」、つまり、いちかばちかの、歴史的な会合になる、と見なすことが運命づけられた。

サミットへの期待が様々に乱れ飛ぶ前に、このように声を大きくして言うことが重要だ-あらゆる種類の理由ゆえに、サミットは性的虐待問題に関する”ヤルタ会談”にはなりそうもなく、そのような期待をするのは愚の骨頂だ、と。

 では、そのように言う理由、そして、何をもって成功と言えるのか、を説明しよう。

 まず、ヤルタ会談は1945年の2月4日から11日まで1週間かけて行われたが、今回の会議は2月の21日から24日まで実質たった3日しかなく、しかも多くの時間が、巨人たちが腰かけて議論を戦わせるよりも、専門家たちの発表を聴くことに費やされる。ハイレベルの交渉というよりも、”週末出勤”に近い。

 第二に、そしておそらく理由の説明としてもっと適切なのは、この会議が、虐待のもたらす危機に関する同じページ上にある-共通のアプローチの委細を決める必要に迫られているー”均質”な司教たちによる集まりではない、ということだ。

 メディアの批判、法廷訴訟、法外な金銭的解決、刑事訴追、支援・弁護団の批判などの”危機”に遭っている司教たち、反虐待の戦いで最も良い結果をもたらすとされるものを採用するために教会にとって必要なことを直観的に感じ取っている司教たちは、世界中の司教たちの、およそ3分の1なのである。

 世界の司教たちの3分の2は、多くが南半球の途上国におり、これまでに述べたような意味での”危機”に遭っていない。自分たちの文化は、危機に遭っている国々のような程度にまで問題が起きることはない、と確信し、虐待スキャンダルについての西側の司教たちの議論が自分たちの関心や優先事項に影響を与えていることを、不快に感じている。そして、地政学的に、文化的に限定された現象として考えられるものを、自分たちの国も優先することに、疑問を抱いている。

 さらに、そうした司教たちの中には、虐待スキャンダルに対して世界共通の対応を求めようという動き-他の文化的な文脈に当てはめた場合にも意味があるのか、ということを考えずに、欧米のやり方を一律に当てはめようとする動き-は即、西欧植民地主義の新たな一章ではないか、といぶかる声もある。

 そのような動きとされる例として、虐待による危機が始まって以来、カトリック教会の中の改革派と虐待被害者を支援する団体の間にでている、世界の教会に”強制的申告者”政策-司教たちが受けた児童性的虐待の訴えをすべて警察と当局に報告することを義務化する政策-を実施するよう、教皇に求める声がある。

 それは、警察の誠実さに信用が置かれている欧米の人々にとっては、当たり前のことのように思われるが、警察権力が反教会的な姿勢を示す中国やインド、中東諸国のような地域の聖職者たちにとっては、そのようなことをすれば、教会活動を破壊する新たな手段を敵に与えるようなもの、罪のない聖職者たちを狼の餌食にするのに結び付くようなことは、言わないでくれ、ということになるのだ。

 このような亀裂は、10月の「若者シノドス(全世界代表司教会議)」で起きた。世界中から参加した約260人の司教たちが、性的虐待について一切の妥協を許さない”zero tolerance”政策で合意の瀬戸際まで行きながら、最後の最後に、途上国、とくにアフリカとアジアの司教たちの反対が主な原因となって見送りとなったのだ。

 このようなことを考えれば、2月のサミットに世界共通の大胆な指針の決定を期待するのは、おそらく現実的ではないだろう。会議の参加者と主催者が「この会議は始まりに過ぎない」と言うなら、それは誇張ではない。

 そうだとすれば、予想される結果はどのようなものか?まず言えることは、この会議が、聖職者による性的虐待は世界共通の問題であり、問題解決には教会のあらゆるレベルの人々の参加は必要だ、という明確なメッセージを示す機会を、教皇フランシスコに提供する、ということだ。

 教皇フランシスコはまた、性的虐待の犯罪だけでなく、その隠蔽についての説明責任を果たす強力な制度構築の具体的な方法を告げることで、実例を示すことになるだろう。自分たちの仕事を失う可能性のある新たなやり方では、どこでも、司教たちの注意をひくことはない。

 最後に言えることは、教皇フランシスコはまた、世界の司教協議会会長全員に、帰国後、虐待の被害者たちと必ず会うことを求めるだろう。性的虐待問題に何年も関わって来た人々が皆、言うように、子供の時に聖職者に虐待された恐怖について語ることで被害者たちと時を過ごすことに代わる対応はないのだ。ローマで、会議に参加する司教たちは被害者たちから話を聴くだろうが、そうした行為は、自分自身の場所で被害者たちを会うことには及ばない。

 要すれば、当然、米国の人々は2月の会議の不十分な結果と思われるものに不満を抱く可能性が強い。事の成否は、この会議後に、米国の司教たちが会議が示す方向に沿って、いかに速やかに具体的な行動計画を立てるかにかかることになる。

 カトリック教会が全地球的なものであるとすれば、1人が現実的に期待するものが、全てについてであり、残念なことは、ただ1人が本当の前進を体現するであろう、ということだ。

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2018年12月10日