・躍動する女性たち(1) 紛争続くタイ深南部に和平を(笹川平和財団)

*笹川平和財団の活動で以下のような興味深い報告が寄せられました。アジアの平和を考えるうえで大いに学ぶところがあると考え、転載させていただきます。(「カトリック・あい」)

(2018.8.3 笹川平和財団ニュース)【Faces of SPF】躍動する女性たち(1)紛争続くタイ深南部に和平を

 女性の社会進出と地位向上、エンパワーメントが叫ばれて久しい。笹川平和財団の職員は約110人。このうち女性が5割以上を占め、財団が展開するさまざまな事業などを牽引している。そこには苦労もあれば、喜びもある。躍動する女性たちにスポットを当て、事業とともにシリーズで紹介する。

 もう何度この地に足を踏み入れたことだろう―。2018年5月中旬、ひとりの日本人女性の姿が、マレーシアとの国境に近いタイの「深南部」と呼ばれる地域にあった。堀場明子。笹川平和財団の「アジアの平和と安定化事業グループ」に身を置き、主任研究員として奔走する平和構築の専門家である。
タイの首都バンコクから南へ1千キロ以上、マレー半島の中部に位置する深南部とは、ナラティワート、ヤラー、パッタニーの3県と、ソンクラー県のうちの4郡(テーパー、チャナ、サバーヨーイ、ナッタウィー)を指す。仏教徒が全人口(約6900万人)のおよそ95%を占め、イスラム教徒は4%ほどにすぎない仏教国のタイにあって、深南部では約200万人の住民の8割が、マレー系イスラム教徒である。
 彼らはこの地域を「パタニ」と呼ぶ。もともと深南部と、マレーシアのクランタン、トレンガヌ両州を含めた地域は、14世紀後半に成立した「パタニ王国」であった。自らを「パタニ・マレー」と自負し、「タイ人」というアイデンティティはもち合わせていない。言葉も、訛りのあるパタニ方言のマレー語を話す。文字は、マレー語をアラビア文字で表記する「ジャウィ」だ。タイにあって極めて異質な土地柄なのだ。
 この地では、「パタニ」の分離・独立を求めるマレー系武装組織と、タイ政府・軍との紛争が長年にわたり続いている。堀場がタイから日本へ帰国した直後の5月20日も、20カ所以上で、武装組織が仕掛けた爆弾が同時多発的に爆発し、タイ軍兵士の詰め所が銃撃された。こうした事件は、武力抗争が激化した2004年以降だけで、1万6千件を超え、7千人以上の死者を出している。深南部一帯には恒常的に戒厳令が敷かれ、軍兵士や民兵などが、1887カ所にものぼる検問所で、不審な車両や人物などに目を光らせている。
タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

 だが、紛争の内実は、より複雑怪奇である。数ある事件の中には、軍の「自作自演」のものもあるという。軍や警察に情報を漏らしたり、民兵として雇われたりしたパタニの若者らは、武装組織に「裏切り者」として殺害される。住民の間の傷は深い。
 タイ深南部は、政治的な解決がないまま泥沼に陥っているのである。
 そこになぜ、堀場が頻繁に足を運んでいるのか。笹川平和財団の事業として、タイ政府・軍と武装組織の双方に足場を置き、人的ネットワークを築きながら、両者の和平対話を仲裁、調停するという、決して一筋縄ではいかないミッションを自らに課しているのである。
 堀場はナラティワートとヤラーにある、とある2つの村をそれぞれ訪れた。武装組織のメンバーは村人に紛れている。勢い、軍は村に押し入り、とりわけ若い男たちを連行しては拘留する。村人が口を開いた。
 「この村では、すべての若い男たちが連れていかれたことがあります。1カ月前には100人ほどの兵士が来て、指紋や、DNAの試料を採取された」
 別の村の住民は「拷問を受け告白を強要されました。裸にされて水を浴びせられ、何度も殴られた」と打ち明ける。
 釈放される者もいれば、起訴される者もいる。連行や拘留を恐れ、隣のマレーシアへ逃げ込む者は後を絶たない。
イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

 治安維持と人権は、真正面から衝突するのが常である。だが、拷問のような人権侵害が許されていいはずはない。人権侵害から住民らを守り、起訴された彼らを法廷で弁護する法律家集団の非政府組織(NGO)に、「ムスリム弁護士センター」(MAC)がある。関係者は「裁判になっても、証拠がなく自分達が勝訴する場合が多い」と言う。

 堀場はMACをはじめ26のNGOを支援し、密接に連携している。個別に活動していた異なるNGOを束ね、ひとつのネットワークとして機能させもした。

 「一緒に活動した方がいいと考え、皆に呼びかけてまとめた」と、堀場は話す。

 堀場はヤラーでイスラム教のイマーム(指導者)と会い、ナラティワートでは仏教寺院に高僧を訪ねた。イマームも高僧も「この紛争は宗教紛争ではない。和平対話を進め平和的に解決することが重要だ」と、口をそろえた。「今度、イスラム教徒の人たちと、この仏教徒コミュニティーを訪れたい」。堀場は高僧に申し出た。

 パッタニーのホテルでは、仏教徒の集会が開かれていた。堀場を通じ笹川平和財団が支援するNGOが主催したものだ。45人が集まり、いくつかのグループに分かれて和平の在り方などについて議論している。「暴力では問題は解決しない」「対話はテーブルの上にあるだけで、生活は何も変わらない」。和平を希求するが、果たして実現するのだろうか…。参加者のそんな思いがうかがわれた。

「小さき民」の抵抗運動

 紛争の根源と本質を理解するために、歴史を駆け足で紐解かねばなるまい。

 「パタニ王国」はかつて、海洋交易の要衝として栄え、東南アジアにおけるイスラム教育の要所でもあった。パタニから日本の長崎に入港した貿易船の記録も残っているという。この王国を交易拠点とするアユタヤ朝(シャム=タイ)はやがて、朝貢国としてパタニを支配し、何度も反乱を抑え込んだ。

 堀場の共著「中東・イスラーム世界の歴史・宗教・政治」(明石書店)などによると、19世紀に入りパタニは、シャムの中央政府の直轄統治下に置かれる。1902年にはスルタン制も廃止された。そして1909年、マレー半島を植民地として支配していた英国と、タイとの間で、現在のタイとマレーシアの国境が画定される。この国境により、旧パタニ王国の地域は割譲され、末裔たちはタイの深南部と、マレーシアのクランタン州などに分かれて生きることになった。

 深南部ではタイ政府による統合・同化政策が進められ、パタニの人々の反発を引き起こしていく。例えば、マレー語やアラビア語の名前を名乗ることは禁じられ、教育や行政機関での公用語には、タイ語の使用が義務付けられた。
1947年には、カリスマ的なウラマー(イスラム教の指導者)であったハジ・スロンが、タイ政府に対し、公用語としてタイ語とマレー語を併用することなど、7項目の要求を突きつける。彼をタイ当局が投獄したことから、ナラティワートでは暴動が起こった。ハジ・スロンは7年後に釈放されたものの、行方不明となった。

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

 この事件の後、政府は統合・同化政策をいっそう強化していく。これに反発を強めるマレー系イスラム教徒は、1960年代から70年代にかけて、パタニ解放戦線(BRN)など多くの武装組織を結成し、武力闘争化していった。
 とりわけタクシン政権下の2004年1月には、ナラティワートにある軍施設への攻撃へと発展し、100人を超える武装集団によって大量の武器が略奪され、4人の兵士が殺害された。この年の4月には、武装集団が「クルセ・モスク」に立てこもり、軍兵士はモスクを襲撃し31人全員を射殺した。さらに、10月には国境の町タクバイで、デモに参加したイスラム教徒がタイ軍兵士に逮捕され、軍施設へ移送される途中に78人が窒息死する事件も起こった。この2つの事件にイスラム教徒は激怒し、反政府攻撃が急増する。
武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

 堀場は指摘する。「深南部紛争の要因は、政府の同化政策による『パタニ・マレー』というアイデンティティの喪失に対する懸念であり、政府の対応は不正義だという不信感だ」

 タイのある歴史家は「パタニの紛争は、小さき民の抵抗だ」と書いた。武装組織は犯行声明を出すでもない。ゲリラ戦による抵抗運動だという見方もされている。

コミュニティメディアで情報発信

 笹川平和財団の活動の軌跡を概観するとき、息の長い地道な取り組みの連続であることが分かる。
話は8年前の2010年に遡る。笹川平和財団はこの年、深南部での事業を初めてスタートさせた。事業を立ち上げたのは、「アジアの平和と安定化事業グループ」の現グループ長、中山万帆である。この事業の「開拓者」とでもいうべき存在だ。

深南部事業について語る中山万帆

 東京大学教養学部で比較文化を学んだ後、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院で社会人類学を専攻した。その後、国際交流基金に入り、2001年から2005年まではインドネシアの首都ジャカルタに駐在した。「地元のラジオでJpopを流したり、日本映画をテレビで放映したり、芥川賞作家を呼んでのトークイベント開催や、人身売買調査…。いろいろな国際交流プロジェクトを担当させてもらいました」
 この時期、バリ島での爆弾テロ事件(2002年)があり、中部スラウェシ州ポソでは、イスラム教徒とキリスト教徒との抗争が激化していた。スマトラ島北部アチェ州では、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と、インドネシア軍との戦闘が続いていた。この紛争を終焉へと導いたものは、皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらしたスマトラ沖地震と津波(2004年12月)であった。
 中山は2005年8月に和平協定が結ばれたことを契機に、「アチェの紛争地の和解」をテーマに事業を企画する。「紛争の中でもアチェが相当深刻で、アチェから逃げてきた友人の活動家もおり、ひどい状況だと聞いていた。何かやりたいと思った」
 そこで「アチェの中でもGAMの勢力下にあった地域と、インドネシア軍に協力していた地域があり、両方の地域の村から10人ずつ子供を連れてきて、演劇ワークショップを企画した。自分自身が企画したのは1回目のみだ。同僚が取り組みを継続してくれた。3回目のワークショップで参加者に、自分達がどんなに大変だったか、体験を地図にして描いてもらった。ここの林で銃撃戦があったとか、あそこでおじさんが亡くなったとか。書いているうちに、ひとりの男の子が泣き始め、それを見て、紛争下で敵対していた村から来た子供たちが『お前のところも大変だったんだな』と。成長した子供たちとは、今もフェイスブックなどでつながっています」
 中山が笹川平和財団へ主任研究員(当時)として移ったのは、2008年9月のことだ。
 タイの深南部では、クルセ・モスクとタクバイでの事件から4年ほどが経過していた。中山は財団の新たな事業を選定するにあたり、タイ深南部やアチェ、東ティモール、フィリピン南部ミンダナオ島、スリランカの紛争地に赴き調査した。地元の住民、有識者、研究者、ジャーナリストをはじめ、インタビューした相手は160人にのぼる。その結果、新事業はタイ深南部と決まった。
 「聞き取り調査をした時点では、深南部には国際支援がほとんど入っていなかった。宗教紛争ではなく民族紛争という歴史的経緯もあり、バンコクの団体が『パタニ』ヘ入って行っても、地元の人々の信頼を勝ち得ることは難しい状況だった。情報が少なく、わからないことも多い。何かできるのではないか、事業の可能性があると思った」
 ただ、中山は「最初は和平を成立させようと思って始めたわけではなかった。日本の財団による国際的な支援が入ることで、この紛争をもっと国際社会に知らしめたり、現地の人々のエンパワーメントにつながったりすることができないか、と考えた」と振り返る。
 そこで目を付けたのが、「ディープ・サウス・ウォッチ」というNGOと、これが運営するウエブメディアだった。当時はまだ、ディープ・サウス・ウォッチ以外にNGOらしいNGOはなかった。オフィスはプリンス・オブ・ソンクラー大学パタニ

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

校の構内にあり、トップの所長は仏教徒、編集長はイスラム教徒。このNGOと組み、現地の情報を発信するとともに、コミュニティメディアを支援していく。
 「タイ語やジャウィ語、それにマレー語の新聞もなかった。ただ、コミュニティーラジオは発達していた。マレー語やタイ語でラジオ放送をしているところはたくさんあったので、コミュニティメディアを入り口にできないかと思い、ディープ・サウス・ウォッチをパートナーに支援を始めた」
 コミュニティメディアの約30団体を集め、「ピース・メディア・ネットワーク」を形成し、紛争解決に向けた戦略づくりなども後押しした。

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

 また、ジャーナリスト育成の目的で講座を開講した。「週1回、10人ほどの若者が参加して記事を実際に書く。プロのジャーナリストにトレーニングをしてもらった」
 ディープ・サウス・ウォッチを通じ、タイ語と英語で、紛争と人権侵害の状況などに関する情報を発信した。「シナラン」(光)というジャウィ語の新聞も発行した。ディープ・サウス・ウォッチとの6年間にわたる取り組みにより、将来目指すべき統治のあり方などをめぐり、地元の有識者やコミュニティメディアの関係者が対話を行う場がパタニに形成され、NGO活動も活性化していった。

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

 もうひとつの主要な事業は、パタニの若者を、紛争地であるフィリピンのミンダナオ島に派遣し、平和構築やNGOの活動などについて学ぶ「インターンシップ・プログラム」である。

  「ミンダナオのNGOと協力し、若者たちに約3カ月間、平和構築の実践例を、実際に見てもらった。ミンダナオにはたくさんのNGOがあり、セーフティゾーン(安全地帯)の画定と監視を含むさまざまな平和構築の取り組みを行っている。それでミンダナオを選んだ」

 中山はしかし、時がたつにつれて、こうした活動の限界を感じ始める。「紛争の当事者に近い人たち、爆弾を置いている人たちを対象に訴求しないと、意味がないのではないか」と。

二人三脚の始まり

 その頃、堀場はまだ笹川平和財団の職員ではなく、インドネシアの紛争地での調査を終え、日本に帰国したところであった。その後、民主党衆議院議員の政策担当秘書となり、その傍ら、笹川平和財団から業務委託を受け、タイ深南部の事業に関わり始めていた。
 堀場は北海道札幌市に生まれ、京都で育つ。子供のころは「メチャメチャ活発な子」だった。小学校から高校までミッションスクールに通った。「学校では紛争のビデオを見たり、貧しい人たちの支援をしたりしていた」という。高校生のとき、ユーゴスラビア紛争があった。この紛争こそが、思春期の堀場に「仲裁」という意識を芽生えさせる。
 「日本人は中立的なので、仲介に向いていると思い、どうすればそういう仕事ができるのかと考えた。最初は、国連かなと思っていた」
多民族国家である旧ユーゴスラビアにおける紛争の本質は、「民族浄化」という言葉に象徴されるように、民族紛争であった。一方で、国際社会には宗教対立を火種とする紛争も多い。
  堀場は「宗教を知らなければいけない」と思い、上智大学神学部へ進学する。キリスト教を学んだ。3年生のとき、名門のバチカン市国教皇庁立グレゴリアン大学に2年間、留学した。キリスト論や聖書学、旧約・新約聖書などの授業を受けた。ただ、堀場が特定の宗教を信仰しているわけではない。
 上智大学を卒業後、今度は米国の現ボストンカレッジで、実践神学の修士号を取る。
 「実践神学というのは、単に頭の中で考えるだけではなく、神学的な思考や教えを実践し生かすというものです。私は和平を仲介したいと思っていたので、宗教と社会正義、和平がどうかかわっているのか、勉強しました」。そこで確信したこ

マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた

とは「政治が宗教を利用し、紛争を生んでいる。宗教が紛争の原因ではない」ということだった。
 日本に帰国後、母校である上智大学の大学院で地域研究を専攻し、平和構築の造詣を深める。この頃、インドネシア東部マルク州アンボン島では、キリスト教徒とイスラム教徒の住民が対立する宗教紛争が冷めやらず、散発的に爆弾の炸裂音がとどろいていた。堀場は博士号の取得へ向け、調査研究のために2005年から、アンボンに住み始める。
 「イスラム教徒とキリスト教徒の両方の地区でホームステイしました。インフラがズタズタで、電気も水もこない。教会とモスクは焼かれていた」。マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた
 マラリアにも2回、感染した。インドネシア中部スラウェシ州ポソなども調査した。そして、東南アジアのマレー系の連帯意識について調べるために訪れたのが、タイ深南部である。インドネシアで活動していたスイスのNGOの現地調査員としても働き、堀場のインドネシアでの生活は5年におよぶ。
帰国した堀場に、ある日、声がかかる。 「ちょっとだけ手伝ってくれませんか」
タイ深南部事業を立ち上げたばかりの中山であった。堀場が深南部を訪れたことがあり、関心をもっていると、人づてに聞いていたのだった。中山と堀場との出会いである。
 「衆議院議員はだいたい金曜日から地元へ帰っていないので、金曜日から月曜日までタイへ行き、火曜日に永田町に戻り、そのまま政策秘書の仕事をする。それを数カ月に一度繰り返していた」

和平対話の仲裁へ

 中山が内心感じていた事業への限界感と、堀場との出会い―。それが相まって、タイ深南部事業を和平対話の仲裁、平和構築の方向へと大きく舵を切らせることになる。
2011年7月、中山と堀場は京都の吉田山荘に、タイとパタニ双方の有識者らを招く。東伏見宮家の別邸として1932年に建てられ戦後、料理旅館となった吉田山荘での3泊4日の会議では、和平について話し合われた。笹川平和財団が初めて間に入り、仲裁を強く意識したこの「京都リトリート」には、タイ議会のシンクタンク、タイ深南部に広く影響力を有する政治家グループ「ワタ派」、ディープ・サウス・ウォッチ、バンコクの公共放送の関係者がそれぞれ顔をそろえた。歴史家と仏教研究者も加わった。いずれも和平に関心をもつ面々である。
2011年7月に開かれた京都リトリート会議

2011年7月に開かれた京都リトリート会議

 中山は振り返る。
「堀場さんと一緒に、『何ができるか』と考えたときに、紛争の政治的な解決を視野に入れ、和平につながる人脈も広げようということになった。専門が仲裁や和平構築の堀場さんに会うまでは、和平まで目指そうとは思っていなかった」

京都リトリート会議の舞台となった吉田山荘

 その後の中山と堀場にとり、タイ側のキーマンとなっていくのが、京都リトリートに出席したシンクタンクの関係者である。この人物との協力関係を深め、それを足場に、国家安全保障会議(NSC)や法務省を含む政府・軍との信頼関係を築いていく。

 この関係者は、武装組織側と水面下で接触していた。そしてある日、堀場と中山に唐突にこう切り出す。
「ある武装組織の幹部と会ってみないか」
武装組織との話し合いに、行き詰まりを感じていたようだ。根底には、双方の根深い不信感がある。

 2012年秋、中山と堀場は会いに行く。2人はインドネシア語に堪能だ。インドネシア語とマレー語は、起源を同じくするいわば「兄弟言語」であり、極めて似通っている。最初、タイ語で話しかけても、幹部からは何の反応もない。それが、マレー語で喋ると、堰を切ったようにパタニの苦境を語り始めた。

 この面会を端緒に、堀場は地道に、そして着実に、数ある武装組織とのパイプを築き、奥深く食い込んでいく。そして、政府・軍と武装組織との非公式な会合を取りもった。深南部の問題には唯一、マレーシアが介在しているが、タイ政府側にも武装組織側にも、日本の民間である笹川平和財団という、利害関係をまったくもたない完全な第三者の存在は、渡りに船だったといえよう。

「おじいちゃん」と「アキコ」

 堀場と中山の熱意と努力は、2013年に入り新たな展開を迎える。2月、インラック首相(当時)が公式対話を開始することを発表したのだ。これを受け、マレーシアの首都クアラルンプールで3月以降、計3回にわたり、政府と、武装組織のひとつであるBRNが交渉のテーブルに着いた。歴史的な出来事だといっていい。
 協議されたのは、①BRNは分離・独立ではなく、パタニ民族の解放を目指す組織であると認める②マレーシアを調停者とする③タイ治安部隊を撤退させ、パタニのマレー系住民の統治権を認める④和平対話を東南アジア諸国連合(ASEAN)、イスラム協力機構(OIC)、NGOなどの立会いの下で行う⑤治安事件で拘留されているすべての容疑者を釈放する―ことである。だが、交渉は進展せず、具体的な成果は得られなかった。
武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

 それ以上に、タイは、インラック氏の兄で、汚職防止法違反の罪に問われ亡命中のタクシン元首相を支持する勢力と、反タクシン派による激しい政争の渦に飲み込まれた。深南部をめぐる和平対話どころではなくなったのである。タクシン氏の帰国に道を開く恩赦法案を議会に提出した、インラック政権に対する「打倒」の叫び声は2014年5月、タイの「お家芸」ともいえるクーデターによってかき消される。
 実は、この間も堀場は、笹川平和財団による活動と支援をあきらめることなく、仲裁の労を取り続けた。
「和平対話は宙ぶらりんになり、頓挫したと誰もが思っていた。でも和平対話のタイ側の中核メンバーらとBRNの人たちに、複数の第三国で会ってもらっていた。ですから水面下で交渉は続いていたのです」
 陸軍司令官として、クーデターによりインラック政権を崩壊させたプラユット首相は、全権掌握から約7カ月後の12月、マレーシアのナジブ首相(当時)との会談で、和平対話を行う用意があると表明する。そして、アクサラー・グートポン将軍をトップとする新たな和平対話チームが発足した。一方、それまではBRNだけが交渉に臨んでいた武装組織側にも、大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 主な武装組織にはBRNのほか、「パタニ統一解放機構」(PULO)、「パタニイスラム解放戦線」(BIPP)、「パタニ・イスラム・ムジャヒディン運動」(GMIP)がある。PULOが内部対立から3グループに分裂しているなど、武装組織は一枚岩ではない。政府との対話と交渉が、もっぱらBRNとの間だけで行われていることに、他の組織は極めて批判的な視線を注いでいた。
 こうした状況を憂慮し、MARA Pataniの結成に奔走したのが、ほかならぬ堀場であった。
2014年9月、堀場はスウェーデンとドイツへ飛ぶ。亡命しているPLOやBRNなどの元指導者らに会うためである。堀場が彼らを「おじいちゃん」と呼べば、元指導者たちは彼女を「アキコ」と呼ぶ。
 「みんな孫がいたりして、おじいちゃんですよ。おじいちゃんと思っていますから。おじいちゃんと話している感じで喋り、思ったことをそのまま口に出す。『爆弾を置くことは国際社会から見ても良くない。そう思いませんか』といった具合です」
 堀場は快活で気さくだ。相手の目を見ながらモノを言い、話を聞き、自然体で接する。物おじすることもない。武装組織と政府の強者たちを相手に信頼関係を築き、「仲裁者

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

」として受け入れられているのは、彼女のキャラクターに負うところもあろう。
 堀場は「おじいちゃん」たちを説得した。「声をひとつにしないと、バラバラでは交渉できないですよ」
 武装組織側をまとめないと交渉は進まない—。そうした強い思いが、堀場を動かした。

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

 堀場は「好きじゃないとできない。あちらこちら飛び回って話をし、そうしたことが形になったとき喜びを感じる」と、顔をほころばせる。

 プラユット政権下では今日に至るまで、和平対話は継続されている。傍らには堀場が寄り添い、中山と二人三脚で並走し続けている。

民間だからできることがある

 タイ深南部の紛争は、国際社会からは「取り残された紛争」と揶揄されることさえある。国際社会と海外メディアの関心も極めて低い。その要因はさまざまだが、タイ政府が内政問題だとして、「内政干渉」を盾に関与を頑なに拒絶していることが大きい。また、紛争はタイ全土に広がるでもなく深南部に限定されており、東南アジア地域や国際社会への影響は乏しい。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)などの国際テロ組織が、流入している形跡も見当たらない。
 堀場は、日本政府が将来的に深南部問題にかかわることへの期待を込めつつ、民間の役割をこう強調する。
 「和平対話を促進する活動に、日本政府が最終的に入るべきだと思っている。その前に民間ができることがもっとあり、先に笹川平和財団という民間が下地を作り、ある程度できた段階で日本政府に入ってもらえばいい。政府はもっと民間と組まなければならない。まず民間がやり、政府が入ってくるというモデルを、深南部事業によってつくりたいと思っています」
 笹川平和財団が深南部事業を始めてから、2020年で10年となる。
 「とりあえずあと2年で、限定的な停戦などを成功させることが、目下の目標です。和平対話にはさまざまな段階があり、完全な自治というものを付与しない限り和平はあり得ませんが、とりあえず武器を置き、パタニの人々も自治について勉強する必要がある。その方向へシフトさせていこうというのが、私の今後の戦略です」
 フィリピンのミンダナオ島での紛争は、終結するまでに40年以上、コロンビア内戦は50年以上を要した。「地道にやるしかない」。堀場の自らに言い聞かせるような言葉からは、強い意志と決意がうかがわれる。
 中山は今後の課題について、次のように語る。
 「タイ側の政治家や上層階級にどれだけ譲歩してもらえるか、そのためのロビー活動が次のフェーズです。また、パタニの人々も暴力ではなく、政治的な要求によって問題を解決していく運動へと洗練されていかなければならない。そこも課題です」
=敬称略(特任調査役 青木伸行)

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2018年8月4日