・大学紛争から半世紀-カトリックの精神が生きた!-上智大学に見る当時と教訓

 欧米、日本など先進国の大学が紛争の渦に巻き込まれたのは今から半世紀前だ。日本のカトリック大学を代表する上智大学も例外ではなかった。だが、他の多くの大学と決定的に異なっていたのは、外部の過激派勢力が紛争を事実上主導し、破壊的な動きに出たのに対して、大学そして学生の本来の使命を自覚する”良識派学生”たちとカトリック精神を体現する理事長、学長が力を合わせ、大学を荒廃から守ったことだった。

 世界中の政治、経済、社会、そして大学において、「人の劣化」が進む今、当時の大学紛争の高まりの中で大学と学生が「学内の公正な報道」を掲げて創刊した上智大学の大学新聞「上智新聞」創刊50年の2015年12月に発行された記念誌に記録された、半世紀前の上智大学紛争を巡る学生、大学当局の動きから、「あの時」を想起し、多くの方が、改めて教訓を引き出すことを期待したい。

(「カトリック・あい」高橋哲夫・南條俊二)

<半世紀前の大学紛争とは>

  1968年,フランスの学生による”5月革命”に代表される世界的な大学紛争の嵐は、日本にも及んだ。紛争の原因や様相は多様であり,学問,教育研究のあり方,大学の自治への問いかけから,社会体制の変革,国家権力の打倒を目指すなどさまざまだった。東京大学で始まった全共闘運動は1968年から燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、ピーク時には35都道府県176校に及んだ。

 しかし、過激派のセクト同士の暴力的な対立が激化、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延し、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍での12名のリンチ殺人事件などが発覚したことで、学生運動は急速にその支持を失っていく。さらに1972年の沖縄返還などにより日本人反米感情が薄れ、日本社会が豊かになるにつれ、学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていったが、多くの大学で学生たちと大学当局、教職員の信頼関係が失われ、優秀な教員が失望して大学を去るなど、荒廃は、校舎の破壊など物理的なものに留まらず、精神的な分野にも及び、後遺症が長く残った。

 そうした中で、物理的な傷を負いながらも、速やかな立ち直りを見せたのが、上智大学だった。

 以下に、上智新聞創刊50周年記念誌「ともに さらなる高みへ-大学紛争の中で生まれ上智発展を支えた半世紀の記録」から、上智大学紛争の発生からその後を、振り返ってみる。

 

<上智新聞に見る上智大学学園紛争の記録>

*1968年6月6日付け・初の号外(手書き)・・1968年11月の全共闘による校舎占拠につながった警察車構内立ち入り、学生負傷事件発生で、初の号外(手書き)を、事件発生の翌日に発行、学生、教職員に注意を促した。

*1968年6月13日付け・号外(手書き)第2号・・警察車立ち入り事件をきっかけに全共闘系学生が組織した「全学共闘会議」について学生会、体育会が認めず、学生内部で対立が明確となり、学内の情勢が緊迫化していることを伝えた。

*1968年11月9日付け・初のタブロイド版号外・・「全共闘1、2、4号館占拠」・・全共闘学生が学外の過激派学生集団と組んで進める大学紛争は、ついに圧倒的多数の上智の学生の反対の中で、”ゲバ棒”で、座り込み学生をけちらして3つの校舎を占拠、授業は不能に。「正当性のないバリケードを直ちに撤去」するよう呼びかけを行った。

*1968年11月14日付け・タブロイド版号外、学長辞任、学生会長選出を速報・・「大泉学長辞任、守屋新学長就任、学生会長選挙は和泉君が対立候補なし無投票で新会長に」全共闘の1、3、4号館封鎖という緊迫した中で、大泉孝学長が12日開かれた緊急理事で辞任、後任の学長として守屋美賀雄理工学部長が就任した・・守屋学長は、就任式で、学生、教職員2千名を前に「学生と教職員の相違を結集して、難局を切り抜けよう」と訴えたが、全共闘は、学長交代は問題解決にならない、と非難のデモを行った、などと伝えた。学内の緊迫した状況を速報で客観的に学生、教職員に伝え、正確な情報の共有に大きな役割を果たしている。

*1969年1月1日付け・全共闘の「少数の暴力」糾弾、バリケード排除を訴え・・1面トップが「代議員会 バリケード排除案、通過 学生会 14日の実力排除を訴え」1面準トップに「生活課健康管理室などを破壊 全共闘、深夜に暴れる」「全共闘 2号館にピケ、授業妨害」などを客観的にニュース報道する一方、

*1月1日付けでは、さらに1面に「論説」を掲載し、次のように上智大学の全学生、教職員に訴えた。

 「11月7日に共闘会議がバリケードを構築してから、すでに1か月以上、多くの学生の積極的な学園変革の努力、バリケード解除要求をよそに、彼らはかたくなに5項目要求大衆団交を主張し続けている。その姿は、彼らの誇りとする『大学の革命』ではもはやなく、少数の暴力をもってする『反革命』でしかない。我々は、共闘会議指導者諸君に、政治目標完遂のためにこの学園を利用し、我々に重大な犠牲を強要している事に強く抗議するとともに・・・彼らにとって真に革命的な運動を再構築していくよう訴える。

 ・・レーニンでさえも、『・・労働者の多数が、完全に革命の必要を知覚しており、そのためには生死を賭ける覚悟があること』を革命の条件として掲げている。現在の上智・・まず革命-暴力を使っての革命-の条件はないし、・・彼らが『誇り』とし、『道義性』『正当性』の唯一の拠り所たる『思想性』についても、実に見事な表現により、自らの手で否定し去っているのである。全共闘の一角をなす革マル系のパンフによれば『イデオロギー闘争の不在ともいえるこの(上智における)闘争内容の空洞化は・・思想的不毛性を端的に自己暴露したものといわねばならない』と述べているのだ。

 ・・このように、方法において、思想性において、全共闘のバリケード闘争は正当性を欠くわけだが、さらにそれを決定的にしているのは、学生要覧改正全学投票の3,366名、バリケード撤去の要求署名の2千有余名、数回にわたって行われた、撤去要求大デモンストレーションに参加した延べ6千名以上の学生の声(注:当時の上智大学の学生総数は7000人程度だった)であり、要覧改正の実現であり、和泉新学生会によって行われつつある・・具体的な着実な学園改革の運動である。

 ・・生活課、医務室、教授館玄関の暴力的破壊、11月7日の時点と全く変わる事のない硬直化したスローガンと『産学協調路線粉砕』の主張・・もはや学園変革運動など一かけらも残っていない・・学生、教職員個々の権利を侵す行為として存在しなくなったのである。バリケードを自らの手で解除し、自らの行為を全学に真摯に自己批判し、学園の民主的変革の運動に加わること、これが今、全共闘諸君に残された最良の道であろう。

 ・・バリケードが解除された時点で、事態をここまで悪化させたことに対し、全学生、教職員、大学当局の真摯な自己批判と、・・各人が学園変革の努力を着実に続けていくことを、はっきりと確認する必要がある、と訴えたい」(上智新聞・論説企画委員長 南條俊二)

<一般紙の報道から>

【上智大学で三校舎占拠】1968年11月8日付け 毎日新聞

 上智大学では7日夜から全学共闘会議の学生約150人が同大一号館、三号館、四号館の三校舎を占拠、バリケードを築いた。学生要覧(学則)にある政治活動禁止条項の撤廃を要求して7月におこなった闘争に対し、大学側が8月23日、学生13人を退・停学処分したことに抗議、大衆団交を要求していたが、7日午後、大学がこれを拒否したため学生側が封鎖に出た。学生会系の学生は8日午後、同大構内のメーンストリートでバリケード反対の集会を開いた。

【全学協議会つくる 学生参加の要求を承認】1968年11月22日付け 毎日新聞

 紛争の続く上智大学の守屋美賀雄学長、ビタワ理事長ほか各学部長は21日午後、約2千人の学生と全学集会を開き、学生側の作成した学生要覧(学則)の改正案を承認した。これにより大学側は全学協議機関の設立による学生の部分的運営参加、学生による課外活動の自主管理など解決の具体策を始めてはっきり打出し、紛争解決への意欲を見せた。

 この日、開会と同時に全学共闘会議の学生が「学生会不承認、ギマン的改正案反対」を叫んでつめかけ、反スト派の学生ともみあったため話合いは一時中断したが、守屋学長は再び演壇に登り「学生要覧は学生側の要求どおり改正を認める。全学協議機関の具体的内容は学生との話合いで決める。処分の白紙撤回はできないが、再調査のための機関をつくる」など大学側の立場を説明、全学共闘会議にも全学集会への参加を呼びかけた。

 しかし占拠を続ける全学共闘会議、この改正案を拒否、全学集会もボイコットしており、解決までにはまだ時間がかかりそうだ。学生会と大学当局との全学集会、そして大学側による学生会の学生要覧(学則)改正案の承認とバリケード解除に向けた動きが続くが、全共闘はバリケード封鎖を続ける。

【上智大 六百人衝突 バリケード排除めぐり】1968年12月14日付け 読売新聞

 上智大学で、14日正午すぎ、バリケードを実力で排除しようとする一般学生と全共闘の学生が構内広場で衝突、一般学生の一人が角材で頭を割られるなどケガ人数人が出た。この日、午前11時から同広場で一般学生約3千人が集会を開き、「正午までに封鎖を解除しなければ実力で排除する」と決議。

 全共闘へ通告したが応じなかったため、午後0時15分、ヘルメットを被った50人の学生を先頭に一般学生4,5百人が、角材で武装する全共闘約100人のピケへ突っ込み、こぜりあいを続けている。

【上智大 六か月の“閉鎖”発表 警官隊が出動 占拠排除 五十二人逮捕】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊一面トップ

 この朝、警官隊立ち入りに対し、占拠している反帝学評派を中心とする全学共闘会議派80人は、1号館から激しい投石を浴びせて抵抗、機動隊も催涙ガス弾百発を撃ち込むなど、約30分間にわたって〝攻防戦〟が続けられたが、結局、同7時20分、抵抗した52人全員が建造物侵入、公務執行妨害現行犯で逮捕された。このさい機動隊員3人と学生1人がケガをした。同大学では、事後対策として、当日は休講、あす22日から冬季休暇にはいるほか、向こう6か月間大学を閉鎖することを決めた。

 同大学が、大学閉鎖という思い切った措置をとったのは、警官隊を導入して紛争が解決した大学はこれまで、国際基督教大学と佐賀大学の2例しかなく、事後対策を誤れば、たとえ授業を再開しても、再びスト派によって校舎が占拠され、東大のような事態を招き、入試などに影響が出るものと判断したためとみられている。・・上智大学が全国でも例のない6か月間閉鎖という強硬策をきめたのは、校舎が封鎖され、ヘルメット姿の学生が白昼でも学内で角材を持ち歩くなどの異常事態が続いているのに、一般学生が不自然を感じなくなったのを恐れたため。

【突入の機動隊に〝声援〟 上智大 一般学生、寮の窓から】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊社会面トップ

 夜が白々と明けたばかりの午前6時半、守屋学長を先頭に教授陣がまず裏門から学内にはいり、『諸君、やむを得ず警官隊を導入します。直ちに退去してください』とメガホンで、校舎占拠中の学生に呼びかけた。ところが、校舎から飛び出してきた約20人の学生たちにたちまち取り囲まれ、有無をいう間もなく学外へ追いやられてしまった。学生たちはそのまま裏門にすわり込んでピケを張った。同学長は憤然としたおももちで、『そこをどきたまえ、退去したまえ』と声を張り上げる。『うるせー、引っこめ』という学生のば声。続いて機動隊がどっと学生を取り囲み、たちまち学外へ引きずり出した。

 裏門わきの学生寮は、眠りを破られた一般学生が、寮から顔を出し、成り行きを見守っていたが、機動隊が学内に突入するとどっと拍手が起きた。こんな現象はこれまでのあらゆる大学紛争ではみられない光景だった。『機動隊がんばれ』『スト派をやっちまえ』という一般学生〝声援〟を背に受けて、機動隊はスト派が占拠している1 3 4号館へ殺到。スト派学生は窓を破って投石の準備。たちまち石の雨。それに混じって硫酸らしい薬品のはいった茶色のビンも飛ぶ。表門からも機動隊と警備車が突入、校舎は包囲された。学生の投石が激しいため、午前7時半、各隊に催涙ガス弾発射が指令され、学生がたてこもる部屋はみる間に白煙に包まれて、投石も散発的になった。

 警官死亡事故にこりた警視庁の“宝刀”のガス攻めが、ここでも抜かれた。この間げきを縫って、機動隊が校舎に突入、学生を1号館の一室に追いつめ、つぎつぎ逮捕、約30分にわたる攻防戦が終わった。8時ごろになると、登校してきた学生が次第にふえはじめた。スト派シンパや民青系の学生約百人は「機動隊帰れ」のシュプレヒコールを繰り返したが、すぐ学外へ押し出された。大学当局が雇った作業員たちが、門を閉鎖したため、裏門付近はたちまち学生たちで埋まってしまった・・。

 機動隊の導入による占拠学生排除の報に、午前中からぞくぞくと学生が登校、グラウンドのあちらこちらで輪をつくった。機動隊導入反対のジグザグデモを続ける〝活動家〟たちを横目で見ながら、話題はどこも機動隊=閉鎖という解決方法の是非。「あらゆる手段をつくした上で、機動隊導入はやむを得ない」といい切る賛成論、「もう少しほかに手段はなかったか」と反対論。グラウンドの意見は二つにわかれて、真剣な討論が続いた…。

 

<当事者の証言>

[上智大学はカトリック精神の”上智方式”で紛争を乗り切った]紛争時の上智大学理事長・ヨゼフ・ピタウ大司教(故人)

 上智大学が、日本中、いや世界中で燃え始めた大学紛争に巻き込まれたのです。

 理事長に就任して間もない1968年初夏のことでした。学生の課外活動部室で盗難事件があり、構内に警察車が入って捜査したのに対して、多くの大学で反体制の闘争を繰り広げていた全学共闘会議(以下全共闘)系の学生が「官憲導入反対」を叫んで、構内でデモを繰り返し、講義棟を占拠し、上智でも大学紛争が始まったのです。彼らの掲げる標語は「日米安保粉砕」「ベトナム反戦」など、特定の政治団体の政策と連動するようになり、他大学の全共闘系学生も呼び込んで、政治化の様相を強めていきました。

*学長交代、全共闘系学生による講義棟占拠、そして機動隊の封鎖解除

 講義棟の占拠は秋学期に入っても続き、さらに大学の中心部にあたる建物へと占拠が拡大する中で、高齢で体調の優れない大泉孝・学長が辞表を出される事態になりました。突然のことで当惑しましたが、大学は危機的な状況にあり、ポストを空席にしておくわけにはいきません。理工学部長として大泉学長や学生部長に協力し、事態解決に努力を続けておられた守屋美賀雄先生に、学長就任をお願いし、奥さまともご相談の上、お受けいただきました。

 学長就任式は1968年11月13日、構内のメインストリートで、全共闘系の学生たちのデモと罵声が渦巻く異常な状況の中で行われましたが、守屋新学長は、多くの良識派学生たちに見守られながら、大学改革を学生、教職員とともに進めることで事態の根本的解決を図る決意を示されました。最後に「前進、前進」と力強く呼びかけられ、私たちに勇気と希望を与えてくださったのです。

 私と守屋学長の大学を守り、育てようとする努力、学生会長(他大学の自治会長に相当)や代議員会議長など学生の協力を得て、大学改革が進められ、大部分の学生が支持していない講義棟占拠を解くようにとの説得も学生会を中心に続けられました。

 しかし、いったんは自主解除の方向に傾いた占拠学生の内部で対立が深刻化し、さらに、学生会が全学生の8割を超える6千人以上の参加を得て実施した自主解除を求めるデモに、全共闘系学生が占拠中の建物の屋上から石やアンモニア水を投げつけ無防備の学生たちを傷つけるに至って自主解除を断念。12月21日、やむなく警視庁にお願いして、機動隊による封鎖解除に踏み切りました。

 機動隊の導入には、教員の中に難色を示す意見もありましたが、大学構内といえども暴力を放置することはできません。民主主義のルールによって警察に排除をお願いすることに何のためらいもありませんでした。このような判断に、ハーバード大学で政治学を学んだことも役に立ちました。

 ・・平和的な解決に努め、それが無理となった段階で、大学当局の要請で機動隊が出動し、学生も教職員も機動隊員も誰一人傷つくことなく、封鎖が解除され、大学に平和が戻った―。このような対応は、マスコミなどでも「上智方式」として好意的に受け止められ、その後の他大学の紛争への対応に少なからぬ影響を与えました。

*3か月半の閉鎖を経て講義再開

 封鎖が解除されてから3か月半の間、大学構内を全面閉鎖して臨時休業とし、破壊された講義棟などの修復、大学運営の立て直しの期間にしましたが、守屋学長は、休業中に多くの委員会を組織して改革案を検討し、学生の意見を入れることを確約しました。入学試験も卒業式も会場は通常どおりとはいきませんでしたが、無事行われ、閉鎖開始から108日たった1969年4月7日の入学式後、学生会の要請を受ける形で、閉鎖が解除されました。

 全共闘系学生による大学紛争は東京大学など都内の大学から、近畿圏はじめ全国に広がって行きましたが、上智大学での運動は徐々に消滅し、構内は平静さを取り戻していきました。全国規模に及んだ大学紛争で、多くの大学では、教員が学内の現状に失望して大学を去ったり、学生が中途退学したりするケースが続出しましたが、上智大学ではそのようなケースはほとんどなかった。

*荒廃避けられた裏に良識派学生の働き‥背景にカトリック精神が生きた

 上智大学が後に長く残るような打撃を受けず、速やかに立ち直り、順調な発展を続けることができたのは、「自分たちの愛する学問の府を特定の学生集団による破壊から守らねばならない」と決意し、大きな犠牲を払いながら活動を続けた、良識派の学生たちの存在があったからでした。

 彼らは、私や守屋学長がポストにつく以前から、学内に徐々に強まってきた反大学当局、反体制の政治的で破壊的な動きに危機感を持ち、全共闘系の学生の集団に対抗して、大学を学問の府として守り、育てることを目的としたグループを、私の教え子だった上智新聞編集長の南條君などが中心になって作っていったのです。

 そして、全学生の意思決定機関である代議員会に圧倒的多数を送り、さらに他大学では自治会と言われていた学生会の会長選挙で全学生のリーダーにふさわしい人物として、和泉法夫君(前ソフィア会会長)を候補に立てて戦い、勝利した。守屋学長や私たちと力を合わせ、紛争を乗り越え、新しい学問の府にふさわしい新生上智大学を実現していった。

 このような学生の主体的な動きは、ほかの大学にはほとんど見られない、日本全国で起きた大学紛争の中で特筆すべきものでした。そして、この動きの背景に、上智大学がカトリックの大学であり、イエズス会士で司祭である教員たちの多くが、日頃から学生たちに対して、ひとりの人間としての付き合いを心がけてきたこと、それによって教員と学生、学生同士の間で人間的な絆が育っていたことも、大きかったのではないでしょうか。

*「上智新聞」が果たした大学の歴史に残る役割

 もう一つ、他の大学との際立った違いは、大学新聞が、学生や教職員に適切な判断と対応を可能にするための公正な情報を提供し続けたことでした。私が上智大学に赴任した当時の学内新聞は「上智大学新聞」一紙でした。

 三菱商事の社長、会長を歴任し、同窓会であるソフィア会長を長くお勤めになった諸橋晋六さん(故人)たちが創刊し、当時20年以上の歴史をもつ学生新聞でしたが、全共闘系の学生たちの〝宣伝紙〟のようになっていて、反大学当局、反体制の動きをあおる一方的な記事ばかりが目立ちました。

 学内ではそれ以外に定期的に活字情報を提供する手段はなく、「このままでは学生や教職員が誤解と相互不信を掻き立てられ、バラバラになってしまう」。そのような懸念を抱いた元上智大学新聞編集長で当時上智大学職員だった赤羽孝久さんや先の南條君など有志学生、それに元理事長のクラウス・ルーメル教授が後ろ盾になって、1965年秋、学生、教職員など全上智人のための公正、客観を旨とする学内新聞「上智新聞」を創刊したのです。

 後で聞いた話では、創刊当初、全共闘系学生たちに新聞が奪われて燃やされたり、「大学当局の回し者」などと批判され、口には出せないような苦労を強いられたようです。そうした圧力に屈することなく、立派に公正な学内報道機関の役割を果たし続け、良識派学生や教職員を結集して紛争を乗り越え、大学を新たな発展につなげることに貢献してくれました。(2012年12月26日・上智大学出版発行「ヨゼフ・ピタウ自伝・イタリアの島から日本へ、そして世界へ」より引用)

[「上智方式」は大学当局と学生、教職員、上智新聞の努力の成果]大学紛争時の学生会会長・和泉法夫(元ソフィア会会長)

 上智大学紛争を知る教職員が他界していく中、当時学生会長として渦中にあった者として、紛争時の重要な出来事についてその背景を含めて、述べさせていただきます。

 それは、1968年12月上智大学紛争を終結させたピタウ理事長と守屋美賀雄学長(いずれも故人)による機動隊導入・ロックアウトの決断です。当時、警視庁警備部の警備第一課長だった佐々淳行氏は後に、「上智大学の機動隊導入の決断がその後の東大をはじめとした全国の大学の学園紛争を収束させた」と語り、このことから、「上智方式」が、弱腰だった全国の大学当局者の決断につながった、という見方になりました。

 しかし、実際には、機動隊導入決断に至る過程に、他大学とは「似て非なるもの」があったのです。それは、問題解決に最善を尽くそうとする学生、大学首脳、教員、職員の並々ならぬ努力でした。

 上智大学紛争は、当時の旧態依然とした大学の規則(学生要覧等)に対して学生の不満が蓄積し、全国の大学紛争の風潮と重なって、「全共闘」と称する一部過激派学生による校舎のバリケード封鎖につながっていきました。

 他大学と大きく違っていたのは、本学では一般学生(セクトや民青のような政治グループに属さない学生)の間に自治意識が高く、全学科の代議員で構成する代議員会が機能して活発な活動がされていたことです。全学生の直接投票による学生会長選挙が存在したことも一般学生の参画を促し、大学当局も学生会を学生の代表として認め、カリキュラム改革はじめ様々な改革を共同で進めることが可能となりました。

 大学の規則に対しては、学生が提起した学生要覧改正案を全学生投票の結果、圧倒的多数で可決し、大学当局がこれを受け入れるという成果もあげ、上智大学の学生と教職員の共同作業で大学改革は進んでいました。

 当時の上智新聞も、公正な報道で重要な役割を演じました。上智新聞が創刊される前には学生新聞として「上智大学新聞」が存在していましたが、セクトの広報紙に成り下がり、それが上智新聞創刊のきっかけになった。上智新聞は、一般学生にとって学内の動きや様々な主張を知ることができる唯一の公正なメディアとして学生の問題意識の醸成に大きく貢献したのです。

 代議員会では、非合法にバリケードを構築した全共闘に対して「バリケード封鎖は、大多数の学生の支持の無い、正当性を欠いたものであり、学生の活動に重大な損害を与えている」として、全共闘に対し、ただちに撤去を求める決議をし、さらに全共闘が決議を無視して占拠を続けたため、「学生の手によるバリケード排除」を決議して行動に移しました。

 しかし、撤去しようとした代議員や一般学生に対して、全共闘の学生たちが投石などで妨害して身の安全が確保できなくなり、代議員会で機動隊導入議案までも提起される事態に発展。全共闘と一般学生の間で一触即発の危機が深まる状況の下で、当時の守屋学長、ピタウ理事長が「学生同士の流血を避け、大学を本来の学問の府に戻す」ため、機動隊導入という苦渋の決断をされたのです。機動隊導入の朝、大学構内にあった学生寮の学生たちから機動隊員に大きな拍手が送られたのは、こうした経緯があったからでした。

 「似て非なるもの」と申し上げたのは、当時、私たちの大学では、他大学と違って、一般学生の大学自治への積極的参画とリーダーシップがあった。それが、ロックアウト解除、大学改革の推進、そして正常化に向かうことができた大きな要因だったのです。

 それは、上智大学が「キリスト教ヒューマニズムの精神に基づく教育」を建学の精神として掲げ、民主主義の大切さと「自ら学ぶ」という意識もった学生を育てようとする教職員の努力、学生会や代議員会、そして公正なメディアとしての上智新聞の、時としては身の危険も顧みない、誠実な対応の結果とも言えるでしょう。

以上

 

 

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2018年11月5日