(2019.4.8 カトリック・あい) 2日発表された教皇フランシスコの使徒的勧告「Christus visit(キリストは生きておられる)」の英語・要約版(バチカン広報発表)の「カトリック・あい」による全訳は以下の通り。中見出しは「カトリック・あい」の判断でつけていきます。(「カトリック・あい」南條俊二)
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使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きておられる)-若者たちとあらゆる神の民へ」(要約版)
*目次*
序文「キリストは生きておられる」
第1章「聖書では、 若者についてどのように言及されているか」
第2章「イエス・キリストは常に若い」
第3章「あなたがたは、神の”今”です」
第4章「すべての若者への素晴らしいメッセージ」
第5章「青年期の道のり」
第6章「ルーツをもった若者」
第7章「若者の司牧」
第8章「召命」
第9章「識別」
*要約版本文*
序文 キリストは生きておられる
「キリストは生きておられます。彼は私たちの希望であり、この世界で最も美しい若さをもたらします。キリストが触れるとき、あらゆるものは若返り、新たにされ、いのちに満ちあふれます。それゆえ、あらゆる若いキリスト者ひとりひとりに、私は申し述べたいのです。この文書の冒頭に掲げた言葉を、もう一度。『キリストは生きておられます。そして、彼はあなたが生きることを望んでおられるのです』と」
「若者シノドス」を受けた使徒的勧告勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きておられる)」はこのような冒頭の言葉で始まる。勧告は教皇フランシスコが3月25日に訪問先のロレトの聖なる家で署名され、若い人々と、「すべての神の民」に宛てて出されたもので、9章299節からなる。そして、昨年10月の「若者シノドス」で出された実り豊かな反応や討議に触発された、と説明されている。
第1章「聖書では、 若者についてどのように言及されているか」
*イエスは若者を軽視するのを好まれない
教皇は旧約と新約聖書の記述を豊富に引用しつつ、神が若者をどのように見ておられるかを考察。イエスは大人が自分より若い人たちを軽視することを好まれず、「あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい」(参照:ルカ 22,26)と言ったことを思い起こす一方で、「若い人たち、長老に従いなさい」(1ペトロ5,5)と、聖書が年長者への尊重を説いていることも指摘されている。
教皇フランシスコは、まず「若い人々が高く評価されない時代において、いくつかの文書は神が彼らを違った目で見ておられることを示している」(6項)を想起され、旧約聖書から若い人々の姿を簡明に紹介されている-ヨゼフ、ギデオン(7項)、サミュエル(8項)、ダビデ王「(9項)、ソロモンとエレミア(10項)、とても若いユダヤ人の召使いのナアマンと若者のロト(11項)。
*永遠に老いることのない心をイエスは望まれます
そして、新約聖書に移り、「イエス、永遠に若者である方は、老いることのない心を、私たちにお与えになることを望んでおられます」(13項)と語られ、さらに「私たちも肝に銘じておきましょう-イエスは若者を見下したり、威張り散らしたりする大人たちをお嫌いになる、ということを。そして、イエスは『あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のように…なりなさい』(ルカ福音書 22章26節)と言われます。イエスにとって、歳を重ねることが特権を得たことにはならず、若いということが価値が低いとか、敬意を払われない、ということにはならないのです」とされ、このように強く言われる。「善良で、主に心を開く、異なった生き方に若さを費やすことを、決して後悔すべきではありません」(17項)
第2章「イエス・キリストは常に若い」
*イエスの生き方に倣う
教皇は、イエスの少年時代に言及され、両親とエルサレムに行き、過ぎ越しの祭りの期間が終わった時に両親と離れ、神殿で見つけられて、ナザレに帰った、という聖書の箇所を取り上げられた(26項)。そして、教皇は、「イエスは引き籠りがちの若者、自己陶酔の若者だった、と考えるべきではありません。彼の対人関係は、ご自分の家族、人々との生活の中でともに過ごす、若者のそれだったのです」「誰も彼のことを、普通ではないとか、他人とは別扱いの存在とか、とは見なしてはいませんでした」(28項)と強調。さらにこう指摘されている-「両親の信頼のおかげ」で、少年イエスは「自由にふるまい、他の人たちと旅することを学ぶことができました」(29項)。
イエスのこのような生き方は、若者を司牧するうえで無視すべきではなく、「若者たちを彼らの家族と共同体社会から隔離したり、汚染から守られた選ばれた小集団に入れたりする司牧計画をたてないように」と注意され、そのようなことよりも、「彼らを強くし、寄り添い、他の人々と出会うようにさせ、福音宣教の中で思いやりのある奉仕に関わるように計画を立てる」ことが必要(30項)と指摘された。
また「イエスは、あなた方のその若さから遠ざかったり、それがないところから、あなた方、若者たちに教えることはしない。ご自身があなた方と共有する若さについて、お教えになるのです」と説明され、イエスの中に、若い心に典型的な多くの面を見ることができる(31項)とし、「私たちの側におられるイエスと共に、私たちは真の泉から飲むことができます-その泉は、私たちの夢、私たちの計画、私たちの大きな理想を生き続けさせ、人生を真に価値あるものにするものを明白にするように私たちを駆り立てますと」(33項)「他の若者たちの暗闇に星を輝かすように、と主は私たちに呼び掛けておられます」(33項)と教皇は語られる。
*教会の若さとは
さらに、教皇は「教会の若さ」について話され、次のように書いておられる。「教会を老いさせたり、過去に閉じ込め足りない、後戻りさせたり、立ち止まったままにさせようとする人々の束縛から、教会を解放してくださるように、主に願いましょう。そして、『この世が与えるすべてを受け入れるから教会は若いのだ、自分の使命を脇に置き、他の皆がすることをするから、教会は新たにされるのだ』と考えようとする誘惑から、教会を解放してくださるように。そのような考えは誤っています!教会そのものである時、神の言葉、ご聖体、キリストの日々の現存、そして私たちの命の中にある聖霊の力から生まれる新たな力強さを受ける時に、教会は若くあるのです」(35項)。
また、教会のメンバーとして、私たちは「他の人々から超然としている」べきではなく、また同時に、「私たちは、あえて異なる存在でなければなりません。この世のもの以外の理想ー寛大さ、奉仕、純潔、忍耐、赦し、個人的な召命に対する忠誠、祈り、正義と共通善の追求、貧しい人への愛、打ち解けた友情ーを掲げるように」(36項)。そして、教会はその情熱を失なわせ、「誤ち、世俗的な形の安全を求めることに逆戻りする誘惑にかられることがあります。若い人々は、そうした教会が若くあり続けるのを助けることができるのです」(37項)と強調している。
続いて、教皇は、ご自身にとって最も親しみのある教えの一つに立ち戻り、このように説明された。「イエスの姿は『魅力的で効果的なやり方』で示されねばなりません」、つまり、「教会は自分自身に捕らわれすぎてはならず、何よりもまず、イエスを映すものであらねばなりません。それは、いくつかのことを具体的に変える必要がある、ということを謙虚に認識することを意味します」(39項)。
*若者が教会を煩わしいと感じる深刻な理由
勧告は、教会の存在を「煩わしい、苛立ちを覚える」と感じる若い人々がいることを認識し、こうした受け止め方の根には次のような「深刻で理解できる理由」がある、としている。それは、性的、財政的な醜聞、若者の繊細さに効果的に対応するような準備ができていない聖職者… キリスト教共同体の中にある若者に割り当てられた消極的な役割、教会の教義と現代社会に対する倫理的な立場を説明することの教会にとっての難しさ」だ(40項)。
そして、「もっと他人の話を聴き、この世を単純に非難する以上のことをする教会」を求め、「黙りこくり、話すことを怖がる教会や、二つや三つのことを巡っていつも、とりつかれたように戦っている教会」は見たくないと思っている若い人々がいる、と指摘し、「「若い人たちに信頼される教会であるために、『福音をよりよく理解するのを助ける光を提供するために何ができると言わねばならないか』を認識し、謙遜な心を取り戻し、ひたすら人の話を聴く時間が必要」(41項)と訴える。恐れを持ちすぎる教会の例として、「女性の権利を守ろうとする努力」にいつも批判的になり、「そのような要求がもつリスクと潜在的な誤り」をいつも指摘する、ことを挙げ、これに対して、「生きている教会」は、「女性の正当な主張に関心を向けることで対応する」ことができ、しかも「いつくかのフェミニスト・グループの提案にすべて同意することはしない」(42項)としている。
*「はい」というマリアの答えは
以上のように述べたうえで、教皇は「マリア、ナザレ出身の若い女性」を取り上げられ、彼女の「はい」は「進んでリスクを取り、自分の持つすべてを賭ける用意がある、自身が約束の担い手だとを知っている確かさ以上の保障はない」ことの意思表示とし、こう問いかけられる-「あなた方一人一人にお聞きしますーあなたは自分を約束の担い手とみていますか?」(44項)と。マリアにとって、「与えられた課題に『いいえ』と答える理由はなく、自らを危うくすること、そして彼女は『神の影響を与える者』となった。
教会の核心はまた、若い聖人たちに満たされることにある、とし、教皇は聖セバスチャン、アッシジの聖フランシスコ、聖ジャンヌダルク、福者の殉教者・フーイェンのアンドレ、聖カテリ・テカウィタ、聖ドミニコ・サビオ、幼きイエスの聖テレジア、福者チェフェリーノ・ナムンキューラ、福者イシドロ・バカニャ、福者ピエール・ジョルジオ・フラサーティ、福者マルセル・カロ、若い福者チアラ・バダノを思い起こされた。
第3章「あなたがたは、神の”今”です」
*若者は「世界の未来」だけでなく「現在」でもある
私たちは「若い人たちは私たちの世界の未来だ」とだけ言うことはできない、と教皇は言われる。「彼らは世界の現在、今、でもある。世界を豊かにするために助けているのです」(64項)と。それゆえ、彼らの言うことを聴く必要がある-たとえ、「あらかじめ用意された答え、既製品のような解決策を、自分たちが抱える現実の問題を表に出そうとせず、彼らが受ける課題に向き合うことをせずに、提示する傾向がある」としても(65項)だ。
「今日、私たち大人は、よく今の若い人たちの問題と失敗をあげつらいがちになります… ですが、そのような振る舞いの結果は何でしょうか?彼らとの乖離を広げ、親近感を弱め、助け合うことを減らしてしまいます」(66項)。父、司牧者、そして若者の案内者になるように求められている人は、誰もが「他の人々が壁を見るだけの所に通り道を識別し、他の人々が危険だけを見る所に可能性を認める能力」を持つ必要がある。
それが「父なる神の物事の見方-神は、若者の心にまかれた善なる種を養い、育てるにはどうしたらいいかをご存知です。そうして、若者一人一人の心は「聖なる土地」と考えられるべきなのです」(67項)。教皇はまた、私たちに、物事を一般化しないように勧められる。それは「今日の”若者”のもろもろの世界は、とても数多い」(68項)からだ。
*若者が置かれている危機的な状況、悲劇
若い人たちに起きていることについて、教皇は、戦乱の中で生きている若者たち、搾取されている若者たち、誘拐、組織犯罪、人身売買、奴隷、性的搾取、強姦の犠牲者たちを想起して語る。そしてまた、犯罪と暴力によって暮らしている若者たちのことも(72項)。「たくさんの若い人々は様々なイデオロギーに取り込まれ、他の人々を破壊し、恐怖にさらし、もてあそぶ兵士や攻撃隊として利用され、搾取されています。さらにひどいことは、彼らの多くが結局、一匹狼、他の人々に敵意と嫌悪を抱くものになってしまうこと、政治的な集団や経済的な権力者のどう猛では快適な戦略のための、たやすい標的となること、です」(73項)。
さらに頻繁に見られるのは、宗教的、人種的、経済的な理由で、社会的に無視され、排除される苦しみに遭っている若者たちだ。教皇は、思春期の子供たちと若者たちが「妊娠し、堕胎に苦しみ、HIVの広がり、麻薬、博打、ポルノなど様々な形の中毒、そして住む家、家族、生活資金のないストリートチルドレンの窮状に置かれている」(74項)を指摘した。女性たちにとって、置かれた状況は二重に苦痛で困難だ。
「教会として、私たちの若者のこのような悲劇を前にして、涙を流さずには、決していられないでしょう。慣れてしまうことは、決してないでしょう… 私たちがしてしまう可能性のある最悪なことは、別のメッセージで、別の気晴らしで、些細なことへの熱中で、若い人々を単純に麻痺させることで解決しようとする俗物精神を取り込むことです」(75項)と語る教皇は、若い人たちが、自分たちよりもさらに酷い状態にある仲間のために涙を流すことを努力して覚えるように勧めています(76項)。
教皇は次のようなことが事実だ、と説明しますー「権力の座にある人々はいくらかの支援をしますが、それはしばしば高くつきます。多くの貧しい国では、いくつかの豊かな国か国際機関が経済援助をしますが、それは通常、性行為、結婚、生活、あるいは社会正義について西欧の見方を受け入れることと結びついています。このような『イデオロギー的植民地化』は、若者たちに特に有害です」(78項)。また教皇は、今日の文化-若々しい美しいモデルを提供し、若い肉体を広告に使うような風潮-に警告を発しますー「これは、若い人たちとほとんど関係がありません。大人たちが自分のために若さをかすめ取りたいだけです」(79項)。
*若者たちにとっての性的いとなみの重要性
「欲望、痛み、あこがれ」に関連して、教皇は、性欲と、若い人たちの生活と「個性の中で成長する過程」にとって性的いとなみが「欠かせない重要性」を持っていることについて話す。教皇は書いているー「性行為を絶えず称揚し、身体と健全な関係を維持し、穏やかで情緒のある生活を送ることは、やさしいことではありません」。それゆえに、あるいはほかの理由のために、この問題について話し合いを希望する若い人々がいるという事実があるにもかかわらず、教会が裁きと非難の場とみなされることから、性道徳が「教会から理解されない、かけ離れたこと」とされる原因となる傾向がしばしばある(81項)。
科学、生物医学的な技術、そして神経科学の発達を目の当たりにして、教皇は、これらがいかにして「生命が贈り物であること、私たちが生まれながらの限界をもった被造物であることを、私たちに忘れさせ、技術の力を振り回す人々によって搾取されるに任せる」か(82項)を思い起こされます。
*「デジタルの世界」のメリットと有害性を知るように
そして、勧告は、「コミュニケーションの新たな方法」を作り出し「独自の情報の循環を促進」することができる「デジタルの世界」にテーマを変える。多くの国で、ウエブとソーシャル・ネットワークは「既に、若い人々に届き、関与させるしっかりと確立した場を提供しています」(87項)。
だが、これらはまた、「孤独、巧みな操作、搾取、そして暴力、”闇サイト”の極端なケースにまで至る」場となり得る。「デジタル・メディアは、中毒にし、孤立させ、具体的な現実との触れ合いを徐々に喪失させていくリスクに、人々をさらします… 暴力の新たな形-たとえば”サイバー(ネット)いじめ”-がソーシャルメディアを通して拡散します。インターネットはまた、ポルノと性的目的のために人を搾取する行為を拡散する経路となり、ギャンブルにも直結するのです」(88項)。
忘れてならないのは、デジタルの世界には「巨大な経済的利益が存在」し、そこでは「良心と民主的な道筋を操るメカニズム」を作り出すことが可能だ、ということだ。その世界には、閉鎖回路があり、「偽のニュースと誤った情報の拡散を促進し、偏見と嫌悪を助長する… 個人の評判は、オンラインで操作される”略式裁判”で危険にさらされます。教会と司牧者たちもこうした現象から逃れられません」(89項)。
「若者シノドス」前に世界中から集まった300人の若者たちが準備した文書には次のように書かれているー「オンラインを通じた人間関係は非人間的なものになり得る」、そして、仮想現実の世界への没頭は「ある種の”デジタル移民”となることを好み、自分の家族と文化的、宗教的な価値から離脱し、孤立した世界に入ることにつながる」(90項)と。
*移民問題は我々の時代の縮図
続いて教皇は「我々の時代の縮図としての移民問題」に移り、多くの若い人たちが移民問題に巻き込まれていることを思い起こされた。「教会の懸念は特に、戦乱、暴力、政治的あるいは宗教的な迫害から、気候変動によって引き起こされているものも含む自然災害から、そして極度の貧困から避難する人たちに絞られています」(91項)。
彼らは機会、よりよい未来への夢を追っている。他の移民たちは「西欧の文化に魅かれ、時として深刻な失望を招くような、非現実的な期待を抱きます。恥知らずな人身売買業者-麻薬カルテルや武器カルテルとしばしばつながっているーが移民の弱さに付け込みます… 移民の中でも特に薄弱な、身寄りのない未成年の子供たちには、特に注意を払う必要があります… 受け入れ国の中には、移民が恐怖と警告の対象となり、しばしば、政治的な目標のために扇動されたり、搾取されたりしています。それが、外国人恐怖症につながり、人々を自分の殻の中に閉じ込めます。これには決意をもって対処する必要があります」(92項)。
若い移民者たちはしばしば、文化的、宗教的な根を抜かれる経験をしている(93項)。教皇は若いたちにこのように求めているー「新たに国にやってきた若いたちに反感を持つようにさせ、彼らを脅威と思わせるような人々に付け込まれないようにしてください」(94項)。
*児童・幼児虐待には厳格な方策で臨む
教皇はまた、児童・幼児虐待についても言及し、シノドスが虐待防止に厳格な方策とることを約束した、と述べ、「自らが受けた邪悪な経験を、勇気を奮って報告した人たち」(99項)に感謝を表明。また、こうしたおぞましい犯罪を冒した者たちが司祭の多数を占めていないこと、多くの司祭は忠誠と寛大さをもって自身の職務を遂行していることを「神に感謝」した。そして若い人々に、もしも、身を誤り、危険な状態にある司祭を見つけたら、彼に神と民への約束を思い出させる勇気を奮ってくれるように(100項)と懇願した。
虐待は、しかし、教会の唯一つの罪ではない。「私たちの罪は、一人一人の目の前にあります。教会ー私たちの母、そして教師-の年老いた顔のしわにすべて、あまりにもはっきりと刻まれています」。しかし、教会は美容整形の助けを求めない-「教会は自分の会員の罪を明らかにするのを恐れません」。「母が傷ついたとき彼女を見捨ててはならない、ということを絶対に忘れないようにしましょう」(101項)。求められるのは、彼女の脇に立って、彼女がすべての力と能力を振り絞って、新規まき直しができるようにすることだ。
この暗黒の時は、若い人々の助けをもって、新たな聖霊降臨に私たちを開き、「新時代を画するような重要性をもった改革のための機会に、本当にすることができます」(102項)。
*「出口」はある、イエスに自己刷新を願って
教皇はまた、若い人たちに、すべての暗く、苦痛な状況にも「出口がある」ことを、思い起こさせる。主の復活の朝に示された良き知らせを想起し、「デジタルの世界」が私たちを多くの危険にさらす可能性があるとしても、この分野でどのようにすれば創造的で輝かしい成果を上げることができるかを知っている若い人々がいる、と確信を述べた。「尊者カルロ・アクティス-福音を伝えるためにこの新しいコミュニケーションの手段をどう使ったらいいかを知って(105項)おり、罠にはまることなく、このように言ったー「誰もが、元の姿で生まれますが、多くの人が結局は、コピーで命を終えます」と。
「あなたがそうならないように」(106項)と教皇は警告し、「希望と喜びを奪われないように。さもないと、あなたは、彼らの利益のための奴隷」(107項)にされてしまう、聖性の偉大な目標を目指すように、と呼び掛けている。さらに「若いということは、つかの間の楽しみと表面的な業績を追い求めることに関してだけではありません。もし、あなたの若い年月を、彼らの人生における目的への奉仕に使うなら、彼らは、惜しみない傾倒と心からの献身に適した『時』となるに違いありません」(108項)と励ましている。
教皇はさらに「もしあなたが長く若いが、弱く、疲れて、気落ちしていると感じたら、自分を新たにしてくださるように、イエスにお願いしなさい」(109項)。そして、いつも思い出す必要がある-「あまりにも孤立してしまうと、悪魔の罠と誘惑、この世の利己的な振る舞いと戦うのはとても難しい」(110項)ことを。共同体の生活を必要とするのは、そういう時なのだ。
第4章「すべての若者への素晴らしいメッセージ」
*三つの真理
「愛である神」
すべての若いたちに対して、教皇は三つの素晴らしい真理を示している。まず「愛である神」。「神はあなたを愛しておられます、決して疑ってはなりません」(112項)。あなたは「あなたの天の父に抱かれて安心」(113項)することができる。
そして教皇は、父の記憶装置は「私たち全員のデータを”取り込み””保管”する”ハードディスク”ではありません。彼の記憶装置は、やさしい、おもいやりがいっぱい詰まった心、私たちから邪悪な痕跡を”消し去る”ことを喜びとされる心なのです。なぜなら、彼はあなたを愛しておられるから。しばらくじっとして、彼の愛を感じるに任せなさい」(115項)。彼の愛は「打ち倒すよりも、立ち上がらせることで、威嚇よりも和解をもって、非難するよりも新たな変更を提案することで、過去よりも未来をもって、もっと多くのことをしようとする」(116項)ものなのだ。
「キリストは助けてくださる」
二つ目の真理は、「キリストは助けてくださる」。決して忘れてならないのは「彼が私たちを7の70倍、赦してくださる、ということ。何度も何度も、彼は私たちを背負ってくださいます」(119項)。イエスは私たちを愛し、救ってくださる。なぜなら「愛されるものだけが、救われるから。腕に抱かれたものだけが、変容される。主の愛は私たちの抱える問題、弱さ、そして欠陥よりも大きいのです」(120項)。そして「彼の赦しと救いは私たちが買えるようなものでも、私たちの働きや努力で得なければならないものでもない。彼は、私たちの負担なしで、私たちを赦し、解放してくださるのです」(121項)。
「キリストは生きておられる!」
そして三つ目の真理は、「キリストは生きておられる!」だ。「私たちは、このことを思い起こし続ける必要があります… なぜなら、私たちには、イエス・キリストを単純に、遠い過去からの立派な模範として、一つの記憶として、2000年前に私たちを救われた方、と見る危険を冒す可能性があるからです。そうした見方は私たちにとって何の役にも立たたず、私たちを変わらないままにし、私たちを解放しません」(124項)。彼が生きておられるなら、「神があなたの人生を制することになるでしょう… それで、私たちは不服を言うのをやめ、未来に目を向けることができます。神と共にいることで、このことはいつも可能なのです」(127項)。
これらの真理の中に、父が出現され、イエスが出現される。そして、そこに、聖霊もおられる。「毎日、聖霊を呼び求めなさい… あなたが失うものは何もなく、あなたの人生を変え、光で満たし、よりよい道に沿って導いてくださいます。あなたから何も取り去らず、代わりに、あなたが必要とするものすべてを見つけるのを、最良のやり方で、助けてくださいます」(131項)。
第5章「青年期の道のり」
*若者の特徴、そして若者への勧め
「神の愛と私たちの生きておられるキリストの関係は、私たちが夢をみるのを妨げません-私たちの視野を狭めるように求めません。それとは逆に、その愛が私たちを高め、励まし、より良い、もっと素晴らしい人生へと奮い立たせます。若い人々の心の中にある沢山の願望は『restlessness(常に動いてきて、落ち着きがない)』という言葉に要約することができます」(138項)。
若い人-男でも女でも-は、と教皇は言われる。「自分の二本の足で飛びたがっており、いつも一方の足を前に出し、飛んで前に進もうとしています。いつも先を見て競争しています」(139項)。若者は「保留」のままでいることができない。それは、職業的、社会的、政治的な分野での「選択をする年齢」、結婚相手の選択、あるいは最初の子を持つ年齢を迎えているからだ。すぐに結果がでない時にいつも、私たちがあきらめさせられることで、不安にさせます。私たちの最良の夢は、希望、忍耐、献身、そして急がないことでのみ、実現されるのです。同時に、私たちは気おくれしたり、チャンスをつかむのに間違いを恐れてはなりません」(142項)。
教皇は、若い人たちに勧めているーバルコニーの上から人生を観察しないように、映画のスクリーンの前で人生を送らないように、捨てられた乗り物になってしまわないように、旅行者として世界を見ないように-「騒ぎを起こしなさい!あなたを麻痺させている恐怖を投げ捨てなさい… 生き生きしなさい!」(143項)。また彼らに、「強欲」なったり、「新たな楽しみ」をひたすら求めることをせず、人生の小さな賜物一つ一つを、感謝をもって楽しむことで「現在を生きる」ように勧めている(146項)。この場合、「現在を生きる」ことは、「私たちに、空虚で、果てしない不満を残すだけの、遊興生活を無責任に始めることとは、違う」(147項)のだ。
*最高の友イエスと、日々、話をしよう
「若い時に、どれほど多くの経験をしても、最高の友達に日々、合うことがなければ、その最も深い、完全な意味を知ることは絶対にないでしょう-その友達とは、イエスです」(150項)。イエスとの友情関係は壊すことのできないもの、それは彼が私たちを見捨てないからだ(154項)。「友と共に、私たちは自分の最も奥深い秘密を話し、共有することができます。そしてまた、イエスと共に、私たちはいつも言葉を交わすことができます」。
私たちが祈る時、イエスに対して「私たちのすることすべてを打ち明け」、場所を提供し「彼が動き、入ってきて、勝利を収めることができるようにします」(155項)。「この友情を、青春期にあるあなたから取り上げてはなりません。あなたの側にイエスがおられるのを感じることができるように」。それが、エマオで弟子たちが体験したことだ(156項)。聖オスカル・ロメロは言っているー「キリスト教は信じるべき真理、従うべき規則、あるいは禁止事項の収蔵品ではありません。そのように見れば、意欲がそがれます。キリスト教はものすごく私を愛してくれた人、私の愛を求め願う人。キリスト教はキリスト、なのです」。
*「成長と成熟」について
教皇はまた、「成長と成熟」について語られる-「霊的な発達」、「主の探求とその言葉の保持」、そして、イエスとの”つながり”の維持、の重要性を示される。「なぜなら、自分自身の努力と知能だけでは、幸福と聖性を成長させられないからです」(158項)。
大人たちもまた、若さの価値を失わずに成熟しなければならないー「私たちは、人生のどの瞬間においても、自分の若さを新しくし、育てることができます。私が教皇としての職責を果たし始めた時、主は私の視野を広げ、新たな若さをくださいました。同じことは、長く結婚生活を続けている夫婦にも、修道院にいる修道士にも、起こり得ます」(160項)。歳を取るということは「自分の若さについて最も重要なものを保ち、大切にすることを意味しますが、それには良くないものを浄化せねばならない、ということも含みます」(161項)。「しかし、もうひとつ、頭に入れてもらいたいのは、他の人のまねをすることでは、聖なる者とはなれず、充実感を得ることもない、ということです… あなたは自分が誰なのかを知り、聖なる者の自分自身の道を拓いていかなければなりません」(162項)。
*兄弟愛の道
教皇は、次のように思い起こしながら、信仰を生きるために「兄弟愛の道」を提起される-「聖霊は、私たちを、自分自身から出て、他の人々を受け入れるようにしたい、と望まれます。それが、信仰を共に生きるために、共同体の中で生活することで自分の愛を示すために、常により効果的だから」(164項)、「自分自身と自分の抱える問題、傷ついた感情、悲しみにいつまでもこだわろうとする誘惑」に打ち勝つためにも(166項)。「神は若い人々の喜びを愛されます。兄弟愛的な交わりの喜びを共にすることを、特に望まれます」(167項)。
*若く、献身的であること
続いて、教皇は「若く、献身的であること」について話されるー若い人々は時として「小さな集団に引き込まれる誘惑を受けます… 兄弟のつながりと愛を経験しているように感じるかもしれませんが、千沙な集団は実際には、自分たちのエゴの延長でしかないかもしれない。仮に、彼らが、一般信徒の召命として、それが単なる教会の内部の奉仕の一つの形だと考えた場合には、もっと深刻な問題となります… 一般信徒の召命が、何よりも家庭の中の慈愛に、社会的、政治的な慈善に向けられている、ということを、彼らは忘れています」(168項)。
教皇は若い人たちに、このように提案するー「小さな集団を越えて、社会的な友好関係を作り、そこで共通全のために一人一人が働くようにしましょう」と。「社会的な憎悪の関係は破壊をもたらします。家庭は憎悪によって壊されます。国々は憎悪によって破壊されます。世界は憎悪によって破壊されます。そしてすべてのうち最も大きい憎悪の関係は、戦争です。今日、私たちは、世界が戦争によって自らを破壊しているのを、目の当たりにしています… それは、私たちが腰を下ろして、話すことができないからです」(169項)。
*社会参加が信仰を深め、召命の識別につながる
「社会参加と貧しい人たちとの直接の触れ合いは、信仰を理解し、あるいは深め、そして、召命を識別する基本的な方法です」(170項)。教皇は、小教区、学校、そして各種の運動から、前向きに活動する若い人たちの例を示されるー「彼らはお年寄りと虚弱な人と時を過ごすために、あるいは、貧しいお隣の方々を訪問するために、頻繁に表に出ていきます」(171項)。
「他の若い人たちはホームレスの人ための住まいを建てる、あるいは、汚染された地域を元の状態に戻す、貧しい人に対してさまざまな支援をする、などの社会福祉プログラムに参加しています。共有されたエネルギーが、より安定した方法で導かれ、組織化されるなら、有益なものになるでしょう」。大学の学生たちは「他の教会や宗教に属する若い人々と一緒になって、学問分野の垣根を超えたやり方に知識を生かすことができます」(172項)。
教皇は、若いたちがこのようなことに真剣に取り組むのを勧めておられるー「私は、世界中の多くの若い人たちのニュースを、関心をもって読んでいます。例えば、街頭に出て、もっと正義と兄弟愛に満ちた社会になってもらいたいと訴える若者… 若者たちは変化の主役になりたいのです。どうか、変化の主役を若者以外の人に任せないでください!」(174項)。
*どこでも福音を証しする「勇敢な宣教師」となれ
若い人々は、彼ら自身の生きざまをもって、どこにおいても福音を証しする「勇敢な宣教師」になることを求められている。それは「真理について”話す”のではなく、真理を”生きる”こと」(175項)を意味している。しかし、言葉は沈黙してはならないー「流れに逆らう泳ぎ方を身に付けなさい、イエスとイエスがあなたに下さった信仰の分かち合い方に精通しなさい」(176項)。イエスは、私たちをどこに派遣するのだろう?「そこには境界線がない、制限もない-イエスは私たちをどこにでも派遣されます。福音は、全ての人のためのもの、何人かのためだけのものではない。私たちにとって身近に思われる人たちのためだけでなく、もっと多くの人を受け入れ、歓迎するためのものです」(177項)。そして、「その使命が楽で、容易なものだ」と期待することはできない。(178項)。
(以上 南條俊二訳)
第6章 ルーツを持った若者
*人を操るのに長けた者に注意せよ
教皇フランシスコは「あたかも世界がたった今始まったかのように、ルーツなしで未来を作るよう、けしかけられている若い人々」を目にして心が痛む、と言っておられる(179項)。
「もし誰かが、若い人々に『お前たちの歴史を無視するように、年長者の体験を受け入れないように、過去を見下し、私が約束する未来に期待するように』と言うなら、その男が若い人々を引き込み、自分の言いなりにするのが、たやすくなるでしょうか?その男は、若者たちが浅薄で、根を抜かれ、疑い深くなり、その男の約束だけを信じ、その計画に従って行動するようになることを、必要としているのです。これが、様々なイデオロギーの作用の仕方です-すべての異なるものを破壊(あるいは解体)し、”無競争の支配”を可能にするのです」(181項)。
人を操ることに長けた者たちは、”若さ崇拝”も利用する。「若々しい肉体が、新たな崇拝のシンボルになります-そうした肉体と関連するすべてのものが偶像化され、劣情を刺激し、若くないものは何でも軽蔑されます。しかし、このような”若さ崇拝”は、最終的には若者たちの自尊心を傷つけることを証明する、単なる(人を操ろうとする者たちにとっての)一時しのぎの便法なのです」(182項)。
*浅薄な人生を煽り立てる大人に若さを搾り取られるな
「愛する若い友人たち、外見と美しさを混同させる浅薄な人生を煽り立てる者たちに、あなた方の若さを搾り取らせないようにしてください」(183項)。美しさというものは、薄汚れ、しわくちゃになって帰宅する労働者の中に、病気の夫の世話をする年老いた妻の中に、人生の秋に互いに愛し合う夫婦の忠誠の中にあるからだ。 今日、そうしたことの代わりに、私たちが推し進めているのは、「神のない霊性、共有するものや苦しむ人への気遣いのない情動性、危険と見なされている貧しい人々の恐れ、そして、ますます遠くなるように見える未来のパラダイスの提供への様々な苦情」だ(184項)。
教皇は、若者が自分自身を「文化的な植民地化」(185項)に導く、このようなイデオロギーに支配させないように勧めている。「文化的な植民地化」は、若者を文化的、宗教的な帰属から根こそぎ引き抜き、「柔軟性のある商品の陳列」(186項)に変容させることで、均質化しようとするのだ。
*基本は年長者との親しい関係
基本は「年長者とあなたの関係」だ、と教皇は言っておられる。その関係は、若者が過去の生きている豊かさを発見するのに役立つ。「聖書は、年長者と親しい関係を続けることを奨励しています。彼らの経験から学ぶことができるからです」(188項)。「これは大人の言うことのすべて、あるいは彼らの行動のすべてを認め、同意しなければならない、という意味ではありません」「ある世代から次世代へと受け継がれる知恵に対して心を開く、ということです」(190項)。「世代間の断絶から、世界は何も得ることはなく、これからもないでしょう… 新しいものだけが良くて美しい、とあなたに信じさせるのは間違いです」(191項)。
「夢とビジョン」について教皇は述べておられるー「若者と年長者が同様に聖霊に心を開いたとき、両者は素晴らしい組み合わせとなります。年長者は夢を抱き、若者はビジョンを見ます」(192項)。「もし、若者が年長者の夢に根を下ろすなら、彼らは未来をのぞくことができるのです」(193項)。だから、若者と年長者が共に歩み、「共にリスクを負う」必要がある。「ルーツは私たちを鎖でつなぐ錨ではなく、私たちが成長し、新しい課題に出会うことのできる定点なのです」(200項)。
第7章 若者の司牧
教皇は、若者の司牧は社会的、文化的な変化に影響を受けてきた、とし、「若い人たちは、自分たちの関心、必要性、問題や課題への対応の仕方を、通常のプログラムの中に見つけられないことがよくあります」(202項)と説明された。若者自身が「若者の司牧の仲介者です。確かに若者は、助け、導かれる必要がありますが、同時に、創造性とある種の大胆さをもった新しいアプローチの開発を任されることも必要です」。私たちは、若い人々が「自分自身の言葉で、他の若い人々の課題と関心に語りかけるために、洞察、工夫、知識を使う」(203項)ように助ける必要がある。
*若者司牧は柔軟で、”シノドス的”である必要
若者の司牧には柔軟性が求められ、若い人々に「学ぶだけでなく、言葉を交わし、祝い、歌い、実際にあった話に耳を傾け、生きた神との共有された出会いを経験するための機会を提供する、催しや行事」への参加を勧めることが必要だ。(204項)。
若者の司牧は、シノドス的(注:キリストの下で多様性の中でともに力を合わせて働く、という意味)でなくてはならない-それは「ともにする旅」を形成できることであり、二つの幅の広い行動を含むー第一は「手を差し伸べる」こと、第二は「成長すること」だ。第一に関して、教皇は若い人々自身の能力を信頼している-その能力とは「団結を訴える方法を見つける」こと。「若者は励まされ、感激される自由を与えられることが必要なのです」。
*最も重要なのは、若者一人一人の”勇気”だ
だが最も重要なのは「若者一人一人が、他の若者の心という”肥沃な土地”に、(注:福音の)メッセージの種を撒くことのできる十分な勇気をもつことです」(210項)。優先すべきは「親しみのある言葉、思いやりのある言葉、相手の心に響く、親しい間柄の、実存的な愛」。若い人々は「説教されるのではなく、”愛の手引き”によって」、彼らに近づいていくことを必要としている。(211項)
(以上、田中典子訳)
*教義や倫理問題ばかり扱わず、“ケリグマ”を中心に
育成に関して、教皇フランシスコは「教義や倫理問題ばかり扱う‘育成’の集まり… それがもたらす結果は、若者たちは退屈し、キリストと出会い彼に従う喜びの火を失ってしまうこと」(212項)とし、強い神体験に心を動かされることを若い人たちを勧めないように、警告している。
若い人たちのための教育プロジェクトや育成の課程には、どれも「確かに、キリスト教の教義と倫理の形成が含まれなければならない」が、その中心には、ケリグマー「イエスの死と復活を通しての神との出会いの基礎を成す経験」と「兄弟愛、信仰集団での生活と奉仕の伸長」(213項)が、置かれる必要がある。
それゆえ、「若者司牧には、いつも、神と、生きているキリストの愛の個人的経験を新たにし、深めるような機会がなければなりません」(214項)。そのことは、若い人たち者たちが「兄弟姉妹のように生活し、お互いを助け、共同体を作り、他者に奉仕し、貧しい人々に近づく」のを助けるはずだ。
教会は、「ふさわしい環境」、すなわち「若い人たちが、自分たちのものにできる場所、困った時や挫折した時も、うれしい時やお祝いの時も、自由に出入りして温かく迎えられ、いつでもほかの若い人たちに会える場所」(218項)を提供すべきなのだ。
*カトリック学校は「自己批判」が急務
こうしたことから、教皇は「教育機関における若者司牧」を課題に取り上げ、学校は「自己批判が急務」と断言されている-「いくつかのカトリック学校は自己保身のためだけ建てられているように見えます… ”外から”の誤りから学生たちを守る”掩蔽壕’”になっている学校は、そうした傾向を揶揄した風刺画です」。若者たちは学校を離れた時、「そこで教えられたことと、彼らの生きる世界との間に、乗り越えることのできない断絶があるのを感じます」。その一方で、「どの教育者にとっても一番の喜びとできるのは、学生がしっかりとした、円満な人物になっていくことです」(221)。
私たちは、文化的な人間形成から精神的な人間形成を切り離すことはできない-「それゆえ、ここに大きな課題があるのです-文化的な消費至上主義の壊滅的な繰り返しに対応すること-思慮深く、断固たる決心をもって、探求、知識、共有をもって」(223項)。「司牧を発展させていく」分野として、教皇は「芸術の重要性」(226)「スポーツの潜在力」(227)「自然保護」(228)などを挙げておられる。
(以上、岡山康子訳)
*人気のある若者司牧が必要だ
「人気のある若者の司牧ーもっと幅広く、もっと柔軟で、若い人々が具体的に移動する違う場所で、自然な導きと聖霊が既に若い人々の間に撒かれているカリスマを刺激する」ような司牧-が必要だ。そのような司牧は、近隣とその他の場で自然なリーダーとなっている若い信徒たちに、障害、規則、管理、義務的な仕組みを押し付けるのを避けるようにする。私たちに必要なのは、彼らに寄り添い、励ますことだけなのだ(230項)。
「純粋で完璧な若者司牧-深遠な着想に特徴づけられ、世間から守られ、欠陥のない司牧-に主眼を置くことで、私たちは福音を切れ味の悪い、無意味な、魅力のない主張に変えてしまう可能性があります。そのような若者司牧は、結局は、若い人たちの世界から完全に排除され、自分たちを別の存在とみなす”エリート”の若いキリスト教徒-空虚で非生産的な孤独の中で生きている人たちーだけを満足させることになります」(232項)。
*求められるのは「扉が開かれている教会」
教皇は、私たちにお勧めになる-「扉が開かれている教会でありなさい。『若い人たちのためのいくつかの活動のどれかに参加するように』との教会の教えすべてを、すっかり受け入れねばならない、ことはありません」(234項)。また(注:若い人たちの教会での)場は、「他の人生のビジョンを持つ人たち、他の宗教に属する人たち、あるいはどの宗教とも距離を置いている人たち、の全て」のために設けられる必要がある(235項)。
このような若い人たちに対する接し方の象徴的な形は、福音書に出てくるエマオでの弟子たちを巡る挿話に示されている-イエスは彼らに質問し、辛抱強く話を聴き、自分たちが何をしているのか分かるように、聖書に照らして何をしたかを理解するように、彼らを助け、「一緒にお泊りください」との願いを聞き入れ、夜を迎える。そして、すぐに、これまで来たのとは逆の方向に歩き始めたのは、弟子たち自身だった(237項)。
*いつも宣教師であるように
「いつも宣教者であるように」。宣教者になろうとする若者にとって、「長い旅」をすることは必要ない。「聖母マリアに助けを求める巡礼をし、ひとつのしぐさで、友や仲間を一緒に歩くように勧める若者は、良い宣教者なのです」(239項)。「若者司牧は常に宣教です」(240項)。
若い人たちは自分の自由が尊重されることを必要とする。「それだけでなく、寄り添ってもらうことも必要としています」。寄り添いの場には、まず家庭がなり(242項)、次に共同体がなるべきです。「すべての人が、理解、評価、そして愛情を持って、若い人たちを見守ることが必要です。絶えず批判したり、彼らの歳以上の完璧さを求めたりすることを、避けなければなりません」(243項)。
*相談相手に必要な資質は
寄り添いに献身する経験豊富な人が不足(244項)しており、「若い女性の中には、教会に模範となる指導的な女性が足りない、と感じている人もいます」(245項)。そうした若い人たちは「私たちにこのように話します」ー相談相手となる人に希望する資質は「教会と世の中にしっかりと関わりをもつ誠実なキリスト教徒、聖性を絶えず求めている人、人を裁かない、心を許せる人、であること。また、若い人たちが必要としていることに積極的に耳を傾け、同じやり方で応えてくれる人、深い愛情を持ち自己を認識している人、相手の限界を認め、霊的な旅の喜びと悲しみを知っている人であることも、条件だ。相談相手として特に重要な資質は、彼ら自身の人間性ー間違いを起こす人間、完璧な人ではなく、赦された罪人である事実-を認識していることです」(246項)。若い人たちの自由を尊重しつつ、どのようにして「一緒に歩くか」を、知っていることも重要だ。
(以上、田中典子訳)
第8章「召命」
「本質的なことは、イエスが一人一人の若者に望んでいることが、何よりも先ず、友情だということを識別し、見出すことです」(250項)。召命は、他の人々に向かう宣教的奉仕への呼びかけです。「なぜなら、私たちの地上での命(生活)は、それが捧げものに変えられた時、完成に達するからです」(254項)。
「自分の召命を実現するためには、私たちがそうであるところのものすべてを成長させ、芽を出させ、培う必要があります。それは、でっちあげることでも、無から自分自身を造り出すことでもありません。それは、自分自身を神の光に照らして見出し、自分の存在を開花させることです」(257項)。 また、「この、一人一人の若者の命(生活)における『他の人々のための存在』は、通常、二つの基本的課題に結びついています:新しい家族を形作ることと、仕事です」(258項)。
「愛と家庭(家族)」に関して、教皇は書いていますー「若者たちは、愛への呼びかけを強く感じ、共に一つの家庭を形作るのにふさわしい人と出会うことを夢見ています」(259項)。また、結婚の秘跡は「この愛を、神の恵みで包み、それを、神ご自身の中に根付かせます」(260項)。
神は私たちを、性をもつ者として造りました。神ご自身が性を造りました。性は神の賜物であって、ですから「タブーではありません」。それは、主が私たちに与える賜物であり、「二つの目的を持っています:互いに愛し合うこと、命を生み出すこと。それは、情熱です…真の愛は情熱的です」(261項)。
教皇フランシスコは考察しています、「分裂、離婚の増加…は、若者たちの中に、大きな苦しみと、アイデンティティーの危機をもたらすことがあります。時折、彼らは、彼らの年齢には相応しない責任を引き受けなければなりません」。
あらゆる困難にもかかわらず、「私はあなた方に言いたいのです…家庭に賭けるのは価値があり、家庭の中であなた方は、成熟するための最上の刺激、分かち合うべき、最も美しい喜びを見出すでしょう。真剣に愛する可能性を奪われないようにしてください」(263項)。「何も決定的なものはないと信じることは、ごまかしであり、偽りです…私はあなた方にお願いします。革命的であってください。流れに逆らってください」(264項)。
仕事に関して、教皇は書いています-「私は若者たちに勧めます。他の人々の助けに依存しながら、仕事をせずに生きることを期待しないように。それはいけません。なぜなら、仕事は必要なものだからです。仕事は、この地上での命(生活)の意味の一部であり、成熟、人間的成長、人格的実現の道です。この意味で、貧しい人々をお金で助けることは、いつも、緊急時に対抗するための一時的な対策でなければなりません」(269項)。
そして、仕事の世界において、どのように若者たちが、排斥(拒否)と疎外の形態を経験しているか、を記した(270項)後で、若者たちの失業に関して明言されている-「それは、政治が、優先課題として考えなければならない…問題です。特に、テクノロジーの発展の急速さが、人件費の削減のこだわりと共に、おびただしい仕事のポストを、機械と取り替ええることが、迅速に起こり得る今日において」(271項)。
さらに若者たちに言っています-「あなたが、仕事なしでは生きられないこと、時に、見つかった仕事を受け入れなければならないことは、本当です。でも、決してあなたの夢を放棄しないでください。決して、召命を、決定的に地に埋めないでください。決してあきらめないでください」(272項)。
教皇フランシスコは、この章を「特別な聖別(奉献)への召命」について語りながら、次のように結んでいる。「召命の識別において、神に自身を聖別(奉献)する可能性を除外してはなりません…なぜ、それを除外するのですか?もしあなたが、神の呼びかけに気づき、それに従うなら、それは、あなたの人生を満たすものとなるという確信をもってください」(276項)。