・ハプニングも、でも姉妹たちに助けられ=Sr.岡のローマ・ポーランド出張記

  • 7月4日(水)長崎-東京

 長崎空港で飛行機を待っていたら、「シスター」と声をかけられる。振り向くと、髙見大司教さま。定例司教会議に出かけるそうで、いつものように軽装。神学校の話し、スルピス会のことなど立ち話。

  • 7月5日(木)東京-ローマ(ミュンヘン経由)

 羽田空港でチェックインの時、カウンターのお姉さんが、「カトリックですか?」と。「カトリックをご存知ですか?」と尋ねると、「聖公会の大学に行っていました。立教大学です」と。

 ミュンヘン到着後、ローマ行きの飛行機への乗り換え手続きは順調だった。過去に一度、ドイツのどこかの空港での乗り継ぎで、パスポート・コントロールの場所にたどり着く前に長蛇の列で、乗換便にぎりぎりセーフで間に合った、という経験があった。あれは、ミュンヘンではなかったのか、それとも、あの日がたまたま混んでいたのか、いまだに不明。

 ローマ行きの便が出発するゲートに行くまではスムーズだったが、出発が一時間半遅れると掲示される。その他の飛行機にも遅れが出ている。別に、天気が悪いわけでもないのに(???)。

 飛行機が遅れ、ローマのフミチノ空港で、預けた荷物が出て来るのに時間がかかり(いつものことだが…)、宿泊先のフランシスコ会の修道院に着いたのは、夜の11時近く(予定では、9時半ごろ着くはずだった)。ステファノ神父にメールで、今着いたと連絡をして、門を開けてもらう。

 ステファノ神父が、夕食を取っておいてくれた。夜遅かったが、お腹がすいていたので野菜とパスタを少しいただく。遅くなってごめんなさい、とわたしが言うと、ステファノ神父は、インターネットでわたしの便が遅れていることは把握していたし、いつも寝るのは夜中の1時過ぎだから問題ない、と。

 ステファノ神父によると、最近、ヨーロッパ圏内の飛行機の運航が乱れているそうだ。エア・フランスの経営が思わしくなく、突然欠航になることがあり、それに他の航空会社の便が影響することも、その要因の一つとか。

 ステファノ神父と最近の情報交換をしながら食事をして、部屋に入ったのは0時近く。とにかく暑い。安全のため窓は開けられないので、暑い空気を扇風機でとにかく動かす。時差ボケにプラスして、暑さのために、何度も目が覚める。

  • 7月6日(金)ローマ

 朝、アジアとオセアニアのマリアン・アカデミー[MAAO]責任者のデニス神父(インド)が、教皇庁立国際マリアン・アカデミー[PAMI]事務所に来ることになっているので、7時前に起きて、洗濯などをし、修道院の「朝食のための食堂」に行く。空気が乾燥しているので、部屋に干した洗濯物がすぐに乾くのでありがたい(海外出張の最大の関心事の一つは、洗濯物が乾くか乾かないか、ということだ)。

 デニス神父は8時半頃、PAMIに到着。PAMI長官のステファノ神父を交えて三人で、まず、濃いイタリアン・コーヒーを飲み、話し合い。マリア論・マリア的文化のみならず、カトリック教会の世界的現状から、アジアとオセアニアの現状まで、幅広い話が次々と。実際、国際的に、アカデミックな世界で活動をしている二人の話は興味深い。また、MAAOについて、各々異なる考え方を説明し、表現し、共有できることは、とてもありがたい。これから電車でフィレンツェでの会議に行くというデニス神父と、11時半に別れる。わたしはその後、エアコンが効いているPAMI事務所で仕事をさせてもらうが、ステファノ神父とマリア論に関して話をしているうちに、昼食の時間となる。

 12時半、修道院の大食堂で昼食。食事の時、ステファノ神父が、そこにいる兄弟たちの国籍を教えてくれる。「彼はメキシコ、その隣はブラジル、エジプト、次はベトナム、インドネシア、インド…」。まさに「国際神学校」である。

 また、今後のMAAOの活動の協力者として、韓国のルッチョ神父と、シンガポールの(???)神父(名前が難しい)を紹介してくれる。ルッチョ神父は、韓国人としては大柄で、現在、グレゴリオ大学で聖書学を勉強している。テクノロジーにも詳しく、「優秀で信頼できる兄弟だ」、とステファノ神父。

 14時過ぎに、日本で頼まれていた本のコピーのために、アントニアヌム大学の図書館へ。捜していた本は見つかったが、1915年以前の本はコピー機ではコピーできない、写真を撮るならよい、と言われ、携帯で写真を撮る。慣れていないので、光の加減や、ページを平らに開くなど、結構、難しいことが分かる。「暑くて有名な」アントニアヌム大学の図書館(エアコンがない)を、実体験する。汗びっしょりになり、部屋に帰って着替えてからPAMI事務所に。会議室を貸してもらって作業の続き。時差ボケもあって、頭がポワ~ンとしている。

 アントニアヌム大学の建物の一部にある、聖アントニオ聖堂の18時のミサに預かる。聖堂へは、修道院の中から、ザクリスチアを通って行くことが出来る。

 20時夕食なので、部屋に帰ると21時過ぎになる。とにかく眠いので、シャワーを浴びて早く休む。

  • 7月7日(土)ローマ

 昨日、早く寝たので、5時頃起きる。朝は涼しいので、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂まで散歩がてらに歩く。大聖堂はまだ閉まっている。ライフル銃

をもって警備をしている軍隊のお兄さんたちに、「まだ閉まっているのですか?」と聞くと、「シー(そうだ)」と。普通、ここで、「〇〇時に開きます」という会話になると(わ

たしは)思うのだが、そこで終わりなので、「何時に開くのですか?」

と聞く。「7時」という答え。別に、ぶっきらぼうなわけではない。これがイタリアだ。

 まだ6時頃だったので、聖アントニオ聖堂での7時のミサに預かることにして、またぶらぶらと歩いて帰る。帰る途中、観光客向けではなく、「庶民の」という感じの「バールBar」に寄って、カプチーノとコルネット(クロワッサン)で朝食をする。「ボンジョルノ、ソレッラ(シスター、おはよう)」と、店のお兄さん、お姉さんが気軽に声をかけてくる。近所の人々の朝のたまり場という感じで、親近感がわく。このように、ローマで、気取らない「普通の人々」の雰囲気の中にいることが、わたしは好きだ。

 聖アントニオ聖堂は、外の入り口が開くのは6時45分。まだ閉まっていたので、修道院に入って、ザクリスチアから聖堂へ。7時のミサは、フランシスコ会の数人の神父による共同司式。ミサの後、しばらく一人で祈ってから、部屋に帰り、昨日、PAMI事務所から借りた「創世記」に関する本を読む。

 9時頃、PAMI事務所に行くために下に降ると、ちょうどステファノ神父が廊下を歩いている。「コーヒー飲む?」と、修道院のカフェテリアで、コーヒーを入れてくれる。コーヒー・メーカーの機械があって、誰でも使ってよいのだけれど、わたしはいくら教えてもらっても、上手に出来ない(力が必要)。その後、PAMI事務所で、またひとしきりステファノ神父と「マリア論談議」をした後、仕事。少し出かけたステファノ神父が、外はとても暑い、と。やはり涼しいのは早朝だけのようだ。

 そのうち、ステファノ神父は、事務所の奥の「台所」(ステファノ神父が台所にした)で、何やら料理を始めている。小豆とニンニク、ズッキーニなどを使った、アジア系の「自然食品」。料理をするとリラックスするそうだ。二品作り、それをタッパーに入れて昼食に持っていく。

 昼食では、リッチョ神父も、タッパーに入れた韓国料理を持って来る。「これ、作りました。どうぞ、召し上がってください」と日本語で(彼は、言語に長けている。日本語は、別に勉強したわけではないそうだ)。野菜とコチュジャンを使ったもの。ステファノ神父の料理も、リッチョ神父の料理も、おいしかった。また、ブラジルの神父が作った料理も食卓に並んでいた。ここのフラテルたちは、料理が好きらしい。

 午後は15時くらいからPAMI事務所の会議室で、「教会の母」の典礼記念日についての、サルバトーレ神父の小論文を読む。寒くなってきたのでエアコン設定を見たら、18度。22度まで上げる。

 夕食は、ステファノ神父、メキシコのフラテル、リッチョ神父と一緒に、韓国料理の店に。大柄のリッチョ神父は、どんどん歩き、ついていくのに大変。結構歩く。リッチョ神父曰く、半地下のその店は、「神父割引」(一割)をしてくれるそうで、時々来るそうだ。もう一つの韓国料理店は、司教と一緒じゃないと割引してくれないんだよ、と。

 初めて韓国料理を食べたというメキシコのフラテルも、おいしかっ

た、と言っている。わたしには辛すぎる唐辛子を、おいしい、おいしい、と食べている。メキシコ料理も負けないくらい辛いからだろう。 

  • 7月8日(日)ローマ:『マリアヌム』神学院訪問

 聖母への感謝と執り成しを願いながら、朝は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のミサに。8時「開門」前、あちらこちらから、いろいろな修道服を着たシスターたちが集まってくる。軍のお兄さんたちの監視の中を通るが、この時間は警備はれほど厳しくなく、荷物チェックもせずに、「バイ、バイ(どんどん行って!)」と、いかにもイタリア風。

 8時のミサは、Salus populi romani(ローマ市民の救い[保護者の意味])のビザンチン・イコンがある小聖堂。ミサの後、出口では、軍のお兄さんたちが、警備そっちのけで、大声でサッカーのワールド・カップの話をしている。これもひじょうに「イタリア風」。

 修道院の中庭の花壇が、去年に比べて、とてもきれいになっている。土がならされ、ヒマワリやバラの花が咲き、オリーブの木も生き生きとしている。

 そういえば、昨日、韓国レストランらか帰る道で、メキシコのフラテルが話してくれた。今年、大学の哲学の教授で、植物にとても詳しいフラテルが異動してきて、彼が庭の世話をしているそうだ。毎日、午後になるとふらーっと降りて来て、急がず、静かに、淡々と、二時間くらい手入れをする。それを毎日続けているうちに、このようにきれいになった、と。ある日、メキシコのフラテルに、バラの花が咲き終わったら、二番目の花のところを剪定するんだ、そうすると、二、三日後にまた花が咲くよ、と言ったそうだ。フラテルが二日後に行ってみると、ほんとうにバラの花が咲いていた、驚いたよ、彼はすごい、一つ一つの植物のことをほんとうによく知っている、とフラテルは言っていた。

 PAMIの事務所で少し作業をしてから、サルバトーレ・ペレッラ神父に合うために、教皇庁立『マリアヌム』神学院へ。PAMIからマリアヌムまでは、トラム(路面電車)があるので便利だ。特に日曜日は、バスはあまり当てにならない(いつ来るか分からない)が、トラムは結構、来る。3番のトラムに乗り、文部省の建物の前で降りる。そこからマリアヌムまで、バスに乗って行くことも出来るが、日曜日だったし(たぶん、バスはあまり来ない)、昨日ほど暑くなかったので、歩くことにする。200段近くの階段を上り、坂を上り…、11時前にマリアヌムに着く。ちょっと息切れ。

 日曜日なので受付のお兄さんがいなかったが、若いフラテルがサルバトーレ神父を部屋に呼びに行ってくれる。

 サルバトーレ神父と再会。神父と会うのは、いつも、やっぱり、うれしい。彼はわたしにとって、恩師中の恩師だ。

 何か飲む?食べる?…と、いつものように気遣いもせっかち。水が欲しい、というと、冷蔵庫から冷たい水を出してきてくれる。食堂で水を飲みながら、日本でのマリア論への奉仕について報告や、相談をする。サルバトーレ神父は、マリア論の「辞書」のような存在なので、話は尽きない。

 それから、「おいで、おいで」と、サルバトーレ神父が学長だったときに落成した、新しい図書館に行く。

クーラーが効いていて、静かだ(わたしたちが学生時代の古い図書館は、夏は、暑さと蚊との戦いだった)。昔のように(?)、図書館の机の一角に「サルバトーレ神父のコーナー」があり、さまざまな本、資料…が拡げられていて、それに埋もれてパソコンが。これが、現在の彼の「作業場」である。

 サルバトーレ神父は、昨年よりずっと元気そうだ。今は学長職を退き、「マリア論だけに全力を注ぐ」と宣言。何について研究しているかを説明してくれる。また、イタリアのサン・パウロ社から、マリア論のマニュアルのようなものを連載で出版することを頼まれていて、それも準備しているそうだ。また、「この本、読んでないだろう。君のために準備しておいた。読みなさい」と、マリア論の本を三冊くださる。ステファノ神父やサルバトーレ神父に会うと、わたしはまだまだ、マリア論に対して熱意が足りない、と反省し、刺激される。

 サルバトーレ神父の著作は、どれも、文献、引用がひじょうに豊富で、それ一冊で、さまざまなテーマを深めるためにどの文献を参照したらよいのかが分かる。まさに「辞書」である。ナポリ人で、性格が激しく、口も悪いので(単刀直入過ぎる)、彼の献身的な奉仕が、ふさわしく理解されていないのは、残念だ。神父は、彼から恩恵を受けた、わたしや、先輩のステファノ神父にとっては、現代マリア論になくてはならない存在である。そのような人に出会えたことを、今でもわたしは、心から感謝している。

 昼食は、マリアヌムの教授たちの共同体の食堂で。セッラ神父、マッジャーニ神父、ペレット神父など、わたしの恩師たちと再会。感謝。マリア論の勉強を続けるための刺激と力をいただいて、サルバトーレ神父と別れる。

 修道院の部屋に帰って、明日、早朝出発のため、荷物を片付け、再びPAMIの事務所へ。福岡の神学生から聖母の出現についての質問メールが届いたので、それに関する短い資料をステファノ神父にもらって訳す。イタリア語・日本語の電子辞書の電池が切れ、もってきた替えの電池の一つが電池漏れで使用不可能。インターネットの辞書(イタリア語をイタリア語で説明している辞書)を使いながら訳す。結構、時間がかかる。

 ステファノ神父と名残惜しく、いろいろなことを話す。明日は早朝出発なので、夕食後、さよならを言う。

  • 7月9日(月)ローマ-ジェシェフ(ミュンヘン経由)、ストラホチナ修道院(ポーランド)

 5時半に修道院を出て、ローマ・フミチノ空港へ。車はほとんどなく、30分くらいで空港に着く。ミュンヘン行は第3ターミナル。チェックインもスムーズ。今回初めて、携帯コードでのチェックイン(というより、自分の修道院ではないので、コードをプリントすることが出来なかった)。機械が読み取らないので、係りのお兄さんに聞くと、明るさのモードを上げてください、と。一番明るいモードにすると、すぐに感知する。出発ゲートが、D5からD3に変わるが、すぐにルフトハンザから「ゲート変更」の知らせが英語で届く。すべてデジタル化の世の中!

 空港内のDuty Free Shop(免税店)を眺めていたら、レジのお兄さん、お姉さんたちは、大声でサッカーのワールド

・カップ談議、その「ついでに」仕事をしているという感じ。日本では信じられないけれど、良くも悪くも、実にイタリアらしい。

 わたしのイタリア人の友人のPaolaは、「わたしたち(イタリア人)は、とてもpersona amabile(愛すべき、人好きのする人たち)よ」と、自分で言っているが、一たび、誠実な友人であることが分かれば、利益なしで、何をおいても大切にしてくれる。

 12年以上前、わたしがローマで勉強していたころ、ローマ空港に早朝や、夜遅く出発、到着する便を使う時、タクシーが思うように見つからない、という問題があった。ラジオ・タクシーなので、早朝でも前日から予約することは出来ず、当日に電話しても出なかったり、車がないと言われたり(?)。そんな時、アメリカ人の友人が、アメリカ人のビジネスマンがローマに来る時に頼む、信頼できる運転手がいる、と言って、クラウディオを紹介してくれた。それからずっと、ローマ出張の際には、メールでクラウディオに、日付、便名、到着時刻…を連絡するようになった。飛行機がどんなに遅れても、インターネットで追跡できるので、ちゃんと待っていてくれる(当たり前といえばそうだけど)。

 クラウディオは数年前に引退、今は、甥のマルコと、奥さんのパウラが引き継いでいる。マルコとパウラは、わたしにとって友人とも言えるだろう。もちろん、サービスに対して料金は払う(割引してくれるが)。でも、それ以上の信頼関係を、わたしたちは長年かけて培ってきた、と言える。

 マルコも「ルカ・マリアは、僕たちにとって、最も古くて、大切な顧客だよ」と言い、「ルカ・マリアのサービスは、いつも最優先だよ。ローマに来たときは、僕たちがいる。心配しないで」と言ってくれる。一度、飛行機のトラブルでローマに宿泊しなければならないかもしれない、という状況になった時も(結局は、飛行機に乗れたが)、「安くて、一人でも安心して泊まれる、こぎれいなホテルがある、必要なら予約してあげよう。送迎は僕たちがするから」と言ってくれた。

 今回、5時半、修道院の門のところには、マルコとパウラが二人とも来てくれた。マルコは、昨夜(今朝!)午前3時まで仕事をしていて、「ルカ・マリアを空港に送り届けたら、休む」と言っている。二人とも、休みなく働いている。

 ローマからミュンヘン乗り換えでジェシェフへ。ミュンヘン空港での乗換時間は一時間弱で短いが、ヨーロッパ圏内なので同じ第二ターミナルで、ゲートも同じ(到着がG18、出発はG65)。ちょっと早めに歩き、G65ゲートに着くと、ジェシェフ行きはすでに搭乗を開始していた。

 今回、飛行機に関していろいろハプニングがあったが、今度は何もなかったな、と思っていたら、ミュンヘンで預けた荷物がジェシェフの空港に届いていない。しかも、わたしだけでなく、十人くらいの人々の荷物が。「失くしたもの」カウンターに列を作って並ぶ。最初に並んでいたポーランドの家族のお母さんが、何やら叫んで、嘆いている。どうすればいいのよ~という感じだ(言葉は分からないが)。幸い、空港に迎えに来てくれていたSr.ジュリアとのメールのやり取りで、(遅くなっている)事情を説明することが出来た。

 やっとわたしの番が来る。こういう状況には慣れて(?)いるのか、スタッフたちは実に事務的。日本だったら、申し訳ありません、とか、少なくとも、大変でしたね、くらいの前置きがあると思うけれど、いきなり、いろいろなスーツケースなどの写真が載っている表を見せられて、「どんな形?色は?材質は?」。「えっ?ああ、布ではない、グレーのスーツケースです」と言うと、「住所、電話、名前は?」と。並んでいる時に、住所などを聞かれていることが分かったので、メールでSr.Jに、ストラホチナの住所と電話番号を尋ねていたので、すぐ対応できる。

 それから、わたしのスーツケースに関する情報が書かれているA4の紙(印刷が薄く、今にも消えそう、大丈夫かな~という感じ)を渡されて、「あなたの荷物は、あなたの滞在場所に着く予定、何かあったらこの電話番号に連絡してください」。それで、「さよなら」。わたしがさらに、「だいたい、いつごろ着くのですか?」と尋ねると、「調べますから、待ってください。…今日か明日ですね」と。

 やっと外に出ると、Sr.ユスチナとSr.Jが待っていてくれる。わたしの前に出てきたおじさんが、「シスターはまだ並んでいたよ」と教えてくれた、とSr.Jが言っていた。Sr.ユスチナが、荷物が届かなかったことを、わたし以上に心配してくれる。大丈夫、何とかなる、と言いながら車に乗る。

 わたしが、電子辞書のための替えの電池を買いたい、と言うと、Sr.ユスチナが、ジェシェフの方が大きな町だから、ここで探しましょう、と、スーパーに寄ってくれる。四つ入りの単四の電池がある。Sr.ユスチナはわたしに「いくつ要りますか?」と聞く。わたしが「二つ」と言うと、半分に破って、二本だけ買ってくれる(そういうこと、出来るのか??)。

 ジェシャフ・ミュンヘン間の飛行機は、小さな飛行機だ。前回の経験で、殆ど荷物を持ち込めないことを知っていたので、今回は、文字通り、全部、預ける荷物に入れていた。持ち込みの小さな荷物に入れていたのは、パソコンと充電のコードくらい。だから、着替えも歯ブラシもない。修道院に着くと、院長のSr.ベルナデッタが、下着からパジャマまで、すべて揃えてくださる。また、ポーランドは紺のハビト(修道服)なので、Sr.Jが、自分のもう一つのハビトを貸してくれる。ひじょうに長く、裾が床につく。ポーランド滞在中、ハビトの裾が長いことをたびたび忘れ、裾を踏んで転びそうになった。

 ストラホチナの修道院に着くと、Sr.ユスチナが昼食を温めてくださる。

 夕方5時、院長のSr.B、Sr.Jと一緒に、ニジニック神父に挨拶に。司祭館でお茶をいただく。叙任神父が休暇中なので、N神父が一人でミサを捧げている。

 この日は、ストラホチナの教会でアドラチオ(聖体顕示)がある。5時55分からロザリオ、ミサ。

 夕食時に、シスターたちみなと再会。昨年も来ているので、より親しく感じる。夕食の片づけ。8時半に寝る前の祈り。一日に感謝。

  • 7月10日(火)ストラホチナ

 6時起床、祈り。日中は暑いが、朝晩は涼しい。特に夜は、暑くて眠れないほどだったローマに比べて、ずっと涼しく、感謝。荷物はまだ着かない。本当に今日着くかどうか、当てにならないので、朝から洗濯をする。地下の洗濯場で洗濯をし、脱水をかけ、より乾燥している屋根裏部屋に干す。

 Sr.Bが、日本の写真が見たい(レクレーションの時間に)と言うので、朝食後、PCの中の写真の整理をする。

 10時頃、食堂でコンポート(果物を煮たもの)を飲んで外に出る。Sr.カミラが、近所の女の子たちとバレーボールをしている。Sr.ユスチナと志願者たちは、畑で豆を収穫中。その後、Sr.Jと、アンドレア・ボボラの巡礼地と墓地へ。

 Sr.Jが、わたしの荷物が午後2時頃届くと連絡があった、と伝えてくれる。考えてみれば、出発前に、わたし自身、フランシスコ会なのだから、あれこれ持たずに、最小限で旅するべきなのに、いつも荷物が多くなるね…と言っていたのを思い出した。今回の「紛失」は、摂理的な出来事のように感じた。必要なものはそんなに多くないよ、と言われたような。荷物は本当に、2時に着く。よかった。

 今回、ポーランドに派遣されて約一年のSr.Jと、一緒に散歩したり、食事をしたり、車に乗ったりしたときに、いろいろ話が出来たことに感謝する。若い感性で感じた、ポーランドの文化のこと、教会のこと、姉妹たちとの共同生活のことを、率直に話してくれて、学ぶことが多かった。Sr.Jは、もともと深く考えることが出来る能力をいただいているので、上滑りのことではなく、より深いところにあることに触れているのだろう。時に、苦しむこともあるだろうけれど(それはどこにいても同じだし)、ポーランドの人たち、とくに姉妹たちの信仰を学びながら、謙虚に奉仕していくだろう。がんばれ!

 修練院横のリンゴの木を見ていたら、Sr.カミラが、「これは、落ちたばかりだからきれい、美味しいですよ」と、わたしたちに一つずつ、リンゴを拾ってくれる。ちょっと酸っぱくて、「リンゴらしい」味。おいしい。

 11時55分から教会の祈り、ロザリオ。その後、昼食。

 午後3時、修道院の聖堂で、「コロンカ(いつくしみのコンタツ)」から始まり、一時間の祈り。その後の、おやつの時、一時間くらい、日本の姉妹たちの写真を中心にして、プロジェクターを使って見せる。シスターたちはとても素直に喜んでいる。

 昨日のように、教会で5時55分からロザリオ、ミサ。

 今日は、ミサの最中、ひじょうに眠くなる。時差ボケの眠さは、まさに抵抗できない深みに引きずられるような「暗黒」という感じ。主がアダムやアブラハムに陥らせた眠りや、ゲッセマニの園で三人の弟子たちを襲った眠りなどを、ボ~っとする頭の中で考える。本当に、「何も考えられない」空白の時間。神さまの御手の中に、頭を空にしてすべてを託す、ってこういうことかな、などと、この「空白」の中で考えている。ミサの後、「具合が悪い?」と心配される。「いや…ただ眠くて…」と答える。

 しかしその後、夕食を食べたら目がぱっちりと覚める。そんなものか…。夕食後、食器洗い。8時半から寝る前の祈り。とにかく、祈りの時間が多いので、その間を縫って、忘れないうちに「独り言」を書いている。

  • 7月11日(水)ニジニック神父と出かける

 昨日の夕食のとき、Sr.Bが、「明日は、Sr.ルカとSr.Jは、ニジニック神父と出かけます」と発表。ああ、そうなんだ、と(毎日、次の日、どういう予定になるか分からない)。

 6時起床、祈り、朝食。聖堂は涼しく、厚めのカーディガンを着ている姉妹もいる。昨日は、朝8時半出発と言っていたけれど、8時15分に変更(こちらの「突然の変更」には慣れるしかない!)。

 途中、N神父のお父さまのお墓詣りのために、花とろうそくを買う。

 お墓詣り[写真]の後、N神父の「友だちの神父」がいる、ひじょうに古いバシリカ(聖堂)訪問。その名も、「聖墳墓」聖堂Bazylika Przeworsk(エルサレムの聖墳墓教会を真似ている)。1393年に建てられたものらしい。普段は閉まっているようだが、N神父の友だちの神父が鍵を開けて、中を案内してくださる。「扉が開いていたから」と、ポーランド人の巡礼グループも加わる。

 その後、N神父の家に、お母さまを訪問。近くに住んでいる弟さんも来ている。お茶をいただく。N神父とお母さまは、顔だちがよく似ている。二人とも、楽しそうに話している。昼食のために、コシナの修道院に行く予定だったため、「もう行ってしまうの?」と言うお母さまに挨拶して、出発。コシナ修道院には12時半頃着く。院長のSr.マキシミリアナが迎えに出て来てくれる。今日から、コシナの修道院の手伝いのために、一か月間、ストラホチナから派遣された、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマも加えて、皆で昼食。

 N神父は、午後、黙想の家にいる若者たちへの講話があるため、車を飛ばして(だいぶ慣れたけれど)帰る。午後は、いつものように、3時から始まって祈りが続く。

  • 7月12日(木)Sandomierz(サンドミエシュ)バス旅行

お墓詣り。修練院聖堂で祈り。。  

 ストラホチナの「黙想の家」で、一週間ほどサマーキャンプのようなことをしている若者たちのバス旅行(古都サンドミエシュへ)に参加。

 ストラホチナ修道院では(もしかしたらポーランド一般?)、いつもそうだが、明日、何があるか分からない。

 前日の夕方、明日は、Sr.ガブリエラ、Sr.ジュリア、Sr.ルカは、バス旅行に行きます。7時出発です。起床は6時。朝、カナプキ(サンドイッチ)の材料を用意するので、好きなものを作ってください、と「発表」がある。Sr.Gが、青作業着で行っていいですか?と聞く。Sr.Bは、「町に行くので、紺のハビトを着てください」と。「暑い」一日になりそうだ。その後、カナプキは、若者たちの分も全部準備するので、個人では用意しなくてよい、と言われる。

 当日は、「やっぱり5時半起床にしよう」ということになったそうで、鐘が5時半に鳴る。朝食を食べて行くことにした、ということで、食堂に行く。半分曇り、少し雨の中、7時ごろ出発。カナプキ二個と、甘いパンを一個、チョコバーのようなものを四個、「何とかベリー」(ベリー類が多くて、名前が覚えきれない!)のジュースと水をいただき、出発。カナプキなどは、「適当な時に」それぞれ自由に食べるそうだ(ポーランドでは、「第二の朝食」とか、三時のおやつとか、けっこう「きちんと」食べる)。

 途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩。トイレは二つあるが、一つは故障中。こういうことは、よくあるそうだ。

 サンドミエシュには11時前に着く。土地のガイドのお姉さんが案内をしてくれるが、とにかくよくしゃべる。息継ぎの間もなく、ず~っと話している。若者たちの引率の一人に、英語の先生がいて、話の内容を要約してくださる。歴史の話から、自然の話まで、かなり幅広い説明をしているようだ。それでも若者たちは騒がずに聞いている。カテドラルは工事中で、内陣は遠くからしか見えなかった。

 ガイドさんの案内が終わったのが2時半ころ。それまで、何も食べていない(イタリア人だったら、昼食はいつ~?と騒ぐだろうけれど)。ポーランドの人たちは、ここぞというときに底力があるとか(食べなくても、頑張れる)。それから4時まで自由時間。皆、散らばって昼食へ。SR.Gに、何が食べたいですかと聞かれ、スープ(ズッパ)がいい、と答える。温かいトマトスープ(中にパスタが入っている)をいただいた。おいしかった。

 その後、アイスクリームを食べよう!と、イタリア式アイスクリーム屋へ。わたしはシャーベット系が好きなので、レモンと何かの果物を注文する。広場の日陰に座って食べる。

 3時になり、「コロンカ(あわれみのコンタツ)」の祈りのため、教会へ。聖体顕示もしている。一時間くらい祈る。寝ていたわけではない(と思う)が、何となくボ~っとしているうちに時間が発つ。歩いて、集合場所の中央広場へ。若者たちのグループは、ほとんど集まっている。駐車場まで歩いてバスにのり、出発。

 途中で、引率のおばさんが、運転手さんに、ストラホチナまであと一時間で着くか?と質問している。ミサの時間を心配しているらしい。ストラホチナのミサに間に合わないことが分かったので、5時半過ぎに通った、途中の教会に入る。新しい教会。内陣には大きな聖母子像。聖体顕示が行われている[次頁写真]。6時少し前に、ご聖体の祝福があり、その後、再びバスへ。若者たちは、だんだん元気になり、歌を歌い始める。ポーランドの伝統的な歌らしい。Sr.Jも口ずさんでいる。ポーランドの人たちは、とにかく歌うことが好きだ。Sr.Jによると、大学で、建国記念日のイベントに参加したら、約三時間、ただただ歌い続け、びっくりした、と。

 ストラホチナに着いたのは、夜8時半頃。それでもまだ薄明るい(冬は、3時頃にはもう暗くなるそうだ)。食堂でスープをいただく。Sr.ビクトリアが休暇から帰ってきて、お母さんが作ったパンをたくさんもってくる。リンゴをシナモンで煮たものが中に入っているパン。おいしい。Sr.Gは、食事の後、犬にご飯をあげにいく、と。Sr.テレサたちは、遅く帰ってきた若者たちのための夕食作り。ストラホチナのシスターたちは、とにかく、よく働く。

 院長のSr.Bが、わたしの咳を心配して(ずいぶん良くなったと自分では思っているのだが)、咳止めシロップと、ドロップをくださる。また、明日は、N神父が、司祭館でアイスクリームを食べましょう、と言っている、と(いつものことだが、時間は未定)。ポーランドの人は、冬でもアイスクリームを食べる。 

  • 7月13日(金)

  朝はいつもの通り。午前中は、洗濯をした後、部屋でPCでの仕事。Sr.Jは、明日がSr.カミラの霊名日なので、ケーキ作りを手伝ったそうだ。ケーキは三つ、作るとか。

  11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。今日は金曜日なので、スープのみ。昼食後、アン

ドレア・ボボラの丘とお墓に散歩。午後3時、コロンカ、教会の祈り。金曜日なので「十字架の道行」の祈り(毎週金曜日にするそうだ)。その後は、いつもの通り、教会で、5時55分からロザリオ、ミサ。

  今日あたりから、急に、頭の中の「霧」が晴れてきた感じ-スイッチが入った、と言ったらいいのか、「考える」ことが出来るようになる-。

 明日のSr.カミラの霊名日のため、夕食の後、シスターたちは一斉にケーキ作りを始める(Sr.カミラ自身も)。作っているのは、N神父が唯一食べられるケーキだそうだ。Sr.Bは鍋でチョコレートなどを温めながらミキサーで混ぜ、Sr.カミラは、それを入れる型にウエハースのようなものを切って敷いている。ポーランドの姉妹たちは、とにかくお菓子作りが好きだ。それぞれ、あちらこちらでケーキを作り、持ち寄ると、かなりの量になるとか。濃厚なケーキが多いので、Sr.Jによると、降誕祭や復活祭の後はダイエットが必要だ、と。

  • 7月14日(土)

 雨が降ったりやんだり。涼しい。

 6時起床、祈り。Sr.カミラの霊名日。朝食の時、歌を歌いながら、一人ひとり、Sr.カミラにメッセージを伝える。わたしは英語で、「喜びと優しさをありがとう」と伝えた。

 7時半頃から、教会でゴジンキGodzinki(聖母への賛美。土曜日だから)。8時ミサ。ミサの後、ずっと黙想の家でキャンプ(?)をしていた若者たちのM.I.(聖母の騎士会)入会式がある。N神父が、突然、「ショーストロ・ルキ(シスタールカ)」とわたしの名前を呼ぶ。祭壇上に来なさい、と。中世の騎士のように、一人ひとりの左肩に剣(もちろん本物ではない)を載せて行く役目をしなさい、と。

 N神父が、まず、何かを言いながら、端っこの若者の方の上に、荘厳に剣を置く。それから剣を渡されたわたしは、とっさに出た日本語、「神さまの祝福がありますように」を繰り返しながら、ずらっと並んだ若者たちに、この儀式を行う。入会式が終わった後、N神父は若者たちに、「日本人のシスターに儀式をしてもらったことを覚えていてください」と言ったそうだ。全部終わったのは9時20分

 シスターの霊名日には、N神父が修道院で一緒に食事をするそうだが、今日は、Sr.テレサ、志願者の二人が、昼頃、チェンストホワにバスで行くことになっているので(つまり、昼食には全員そろわないので)、急きょ、ミサの後、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲むことに。シスターたちを全員呼び、手作りケーキと、コーヒーや紅茶を飲みながら談笑。お茶を終えて食器を洗っていると、Sr.Bが、洗濯物があったら、一緒に洗濯機で洗いましょう、と言ってくださる。明日は日曜日で洗濯が出来ないので(労働禁止!)、助かる。

 その後、部屋に帰って、PCで、12月のMAAOミーティングについての文書を作る。今回、わたしにいただいた部屋は、パソコン室に近く、部屋でもWiFiが入るので便利。

 いつものように、11時55分から教会の祈り、ロザリオ、昼食。

 土曜日なので、午後3時のコロンカの後、聖堂で「マリアの時間」。マリアに関する本を読んだり、歌を歌ったり。

 若者たちのグループが昼食後に帰り、シスターたちがホッとしていたら、昼食後に、「巡礼に来たい」と電話があった、とSr.Jが教えてくれた。(いつものように?)何人来るのか、食事は要るのか、泊まりたいのか分からない、と。ポーランドには、職員がいる大きな巡礼宿があって、そこに来る感覚で、突然、ふらっと来る巡礼者たちがいるらしい。プラス、今、「ボボルスカ(聖アンドレア・ボボラの巡礼地)」について、N神父が、熱心に、テレビやカトリックの雑誌を通して知らせていることで、この地が有名になってきたそうだ。

 Sr.Jによると、ある時は、週末、教会の前に予告なしに大型バスが二台止まり、巡礼宿に泊まりたい、巡礼地を案内してほしい、ということもあったそうだ。巡礼者の多い6月から8月にかけて、シスターたちは食事作り、食器洗い、巡礼者たちへの話し…で大忙し(すべて無償。巡礼宿は寄付で成り立っている)。こういう感覚は、とにかく巡礼が好きなポーランドならではなのかも。

 ちなみに、現在、地区長のSr.アガタと、Sr.イザベラは、チェンストホワの聖母巡礼地への11日間の巡礼(歩いて)に参加している。日曜日の夜、帰ってくる予定。

 15時から、聖堂でコロンカ、教会の祈り。

 シスターたちが忙しそうにしているので、「何か手伝うことはありますか?」と、Sr.Jを通して聞いてもらう。Sr.Bは、「大丈夫ですよ、どうぞ、荷造りでも、散歩でもしていてください」、と。日本のシスターたちのことを思いながら、ボボルスカとお墓への散歩に出かける。夕方、5時55分から、教会でゴジンキ、ミサ。夕食、寝る前の祈り。

 シスターたちが参加している、チェンストホワの聖母巡礼地での夜9時からの祈りを、司祭館のテレビで見る。たくさんの人々。

  • 7月15日(日)

 今日も涼しい。6時半から聖堂で祈り。その後、教会でゴジンキ、ミサ。[写真:ストラホチナの教会]

 朝食後、Sr.Jと一緒に、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんに会う。9月に日本に来る、と嬉しそう。それから荷造り。

 11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。わたしがズッパ(スープ)が好きなので、ショーストロ(シスター)、スープがあるよ、とSr.ガブリエラ。ポーランド料理の定番、ビートのスープ。おいしい。

 昼食を食べ過ぎて(じゃがいもか?)、お腹ばかりか、「体」が重たい、という感じ。荷造りのために体重計に乗ったら、一週間で一キロ太った。Sr.Jは、それくらいならいいよ、と言う。彼女によると、ポーランド料理は「太る材料」を多く使うし、しかも甘いものを良く食べる。ポテトチップも塩味が少ない、せんべいなどの塩味が欲しくなる、と。わたしは、「第二の朝食」の時も、「おやつ」の時も、甘いものはほとんど食べていないけれど…。それでも、庭で出来た小さなリンゴ(甘酸っぱく、リンゴらしい味)がおいしく、けっこう食べたっけ。

 午後は荷造り。前回、ジェシェフ空港発の小さな飛行機の荷物制限が厳しく、重量オーバー分を出して、ストラホチナに持って帰ってもらったり、たいへんだったので、今回は重さを測りながら準備。ちなみに、預ける荷物は1個で23キロまで。持ち込みの荷物は1個で8キロまで。昨年は、修道院の体重計で23キロの荷物を準備したが、空港では24キロ。一キロオーバーで荷物を広げて調整。持ち込む荷物も重さも計ります、と言われ、これまたちょっとオーバー。でも、そちらは、面倒くさかったのか、まあ、いいでしょう、ということになったと思う。

 今回も、「日本のシスターたちのために」と、大量のチョコバーなどを買ってくださっていたが、殆ど入らない。N神父のお土産や、ローマで教授からもらった本もあったし。荷物に入らなかった分は、また郵送していただくことに。

 荷物を造っている間、Sr.Jと話す。

 今回、日本人としてポーランドに派遣されたSr.Jの感覚を通して、ポーランドの姉妹たちのこと、人々のこと、自然、食べ物…を少し深く知ることが出来て、感謝している。異なる文化に触れながら、Sr.Jも学び、またSr.Jの存在を通して、ポーランドの姉妹たち、人々も学んでいくのだろう。Sr.Jの謙虚さと素直さに感謝。ポーランドの聖母に守られながら、いろいろと闘いながら、主に従う道も深まっていくのだろう。

 毎月15日は「創立者の日」。今日は、夕方5時半から、ノビシア(修練院)の聖堂に集まり、創立者神父の言葉を聞いたり、歌を歌ったりする[写真]。

 ポーランドの姉妹たちの共同の祈りに、歌は欠かせない。とにかくよく歌う。

 また、祈りも、おやつも、リラックスタイムも、「共同」ですることが多い。全般的に、話し好き。姉妹たちが集まると、感心するほど、話題に尽きない。Sr.Jが訳してくれることを聞いている限り、話がどんどん飛んで、話題がくるくる変わる。昨日、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲んだ時、Sr.Bの服に大きな虫がいた、と言うと、それに反応して、姉妹たちみんなが大笑い。二人の天使の絵をみて、これって、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマ(終生誓願前の第三修練期の姉妹)に似てるよね~と誰かが言い、その絵を見て、また皆が大笑い。

 Sr.J曰く、「笑いの沸点」の感覚が違うんだよね、彼女たちは、本当に純粋だと思う、と。

 また、姉妹たちは、どんなに疲れていても、「今日は何をしたの?あれはどうだった?」と話しかけ、関心をもって聞いてくれる。Sr.Jが、まだちょっとたどたどしいポーランド語で話すのを、「うん、うん、それから?」という感じで、目をキラキラさせて聞いている。お母さんのような、何というか、心が温かいのだな~と感じる。次に何が起こるのか分からない、予定していたことも土壇場で変わる、でも、彼女たちが一番大事にしているのは、人との触れ合い。多少、時間が遅れても、立ち止まって人の話を聞く。そちらの方が大切、という感覚かな?

 今日は、夕食の後「フリー」。こんなことは珍しい、とSr.J。だいたい、フリーと言っても、一緒にレクレーションをしましょう、ということが多いらしい。今日は、夏休み中で助任神父不在のこともあり、いつもは四回くらいある主日のミサが、三回で、夕方のミサがなかったので夕食が早く終わる。ストラホチナに来て初めて、こんなに長い「フリータイム」に、ちょっと戸惑う(!)。

 夜8時過ぎ、「ショーストロ・ルーコ!(ルカ)」と、誰かが部屋をノック。出てみると、チェンストホワへの巡礼から帰ってきた、地区長のSr.アガタ[写真]。抱き合って再会を喜ぶ。「お茶を飲みましょう」と、食堂へ。シスターたちも集まってくる。11日間、350km歩いたそうで、顔も腕も、日焼けしている。さっそく分かち合い。インターネットで「ラジオ・ファラ」(シスターたちが手伝っているカトリック放送)の巡礼関係のユーチューブも見る。

 チェンストホワの聖母巡礼は、さまざまなグループで、一年に何回か行われているらしく、今回は、十のグループが参加し、Sr.アガタとSr.イザベラが参加したのは「アンドレア・ボボラ」のグループ。10人の司祭、他の修道会のシスターを加えて3人のシスターを含め、全部で163人のグループだったそうだ。祈り、コンフェレンツァ(講話)、ミサがあり、祈り、歌いながら歩いた、と。一番の高齢者は85歳だったとか(!)。Sr.Jも、一日、一区間、参加したそうだ。信徒の家に泊まり、ある時は、二階を「修道院」のように、シスターたちだけのために用意してくれたとか。少しして、休暇を取っていたSr.ヨゼファも帰ってくる。

  • 7月16日(月)ストラホチナ出発

 出発の日。5時半起床。カルメル山の聖母の祝日なので、教会でゴジンキ、ミサ。昨日、やはり巡礼から帰ってきた助任神父が司式。

 朝食時に、N神父が食堂に来る[写真下]。巡礼から帰ってきたSr.アガタ、Sr.イザベラのため、そして、今日、日本に帰るわたしのため。感謝。

 Sr.Jに聞くと、昨日の夜、10時頃、巡礼者が一人来て(昨日の夕食後に電話があったらしい)、Sr.ガブリエラGが夕食を作って出したとか。今日は、午後から、ウクライナの大司教(ポーランド人)がボボルスカに巡礼に来るそうで、姉妹たちはその準備で大忙し。

 わたしは、10時、Sr.イザベラの運転で、Sr.アガタとSr.Jと一緒にジェシェフ空港へ。

 ジェシェフ空港には1時間半くらいで着く。夏休みということもあって、空港は混んでいる。前回は冬で、ガラガラだったが。人が多かったこともあり、持ち込む荷物の重さをはかることもなく、荷物に関しては問題なし。ただ、ミュンヘンでの、東京への乗り換えの切符の手続きが出来ない、ミュンヘンで時間があるから、一旦出て、荷物を受け取って、再度チェックインをしてください、と言われる。いや、もう、インターネットでチェックインはしてある、これがそうだ(と、アイフォンの搭乗コードを見せる)、と言うと、再度、なにやら調べてくれて、最終的に、無事、発券。荷物は東京まで行くんですね、本当に、と、ちょっとしつこく聞いて(ジェシェフに荷物が届かなかった経験から)確認する。

 二階のカフェテリアのようなところで、Sr.アガタが、わたしのためにヘルバータ(お茶)を注文してくれる。しかし、昼食時。大勢のお客さんに、スタッフは、若い女の子が一人。なかなかわたしたちの順番が来ないので、別のカフェテリアへ。たまたま空いたテーブルに四人で座り、何か注文したのは(ヘルバータ)わたしだけで、後は、修道院で準備してくれたカナプキ(サンドイッチ)、トマト、果物…を食べる(つまり、持ち込み)。いいのかな~と思いながら。しかしこれが、ポーランド流なのだろう。

 わたしが乗るミュンヘン行の便は、30分遅れ、とルフトハンザ社からメールが来る。ニューヨーク行きの便は2時間遅れらしい。搭乗口のところで、声をかけられ、振り向くと、愛野教会の、ポーランド人のタデオ神父!シスターたちもびっくり。休暇で帰っているらしい。シスターたちと名残を惜しんで、搭乗口に入る。

 13時10分発のところが、飛行機に乗り始めたのが14時。ミュンヘンには、最終的には二時間くらい遅れて、16時40分着。ルフトハンザのカウンターに長蛇の列が出来ている。全体的に飛行機が遅れているので、乗継が間に合わなかった人たちが、別の便に変えるためだ。ローマでステファノ神父が言っていたように、現在、いつも以上に飛行機の遅延が多いようだ。乗換には十分時間を取ったほうがよさそうだ。わたしの場合、ミュンヘンでは、かなり時間があったので、二時間遅れても十分大丈夫だった。東京行の便は、定刻に出発する。

  • 後日…

 今回の旅の「ハプニング」。(1)ローマ着の飛行機が遅れて、宿泊先の修道院に着いのが夜中近くになった。(2)ポーランドのジェシェフ空港に、預けた荷物が着かず-翌日の午後に届く-。(3)あと1回くらい、何かハプニングがあるかな〜と思っていた。無事に-定刻前に-日本に着いてホッとしていたら、羽田空港で長崎行きの便にチェックインするところで、3番目のハプニング。手荷物預かりのカウンターで、わたしの航空券のバーコードを認識しない。

 カウンターのお兄さんが航空券を良く見てくれたら、わたしが、予約を一カ月間違えていたことが判明!7月18日なのに、8月18日になっていた(これは、まったく、わたしの間違え)。お兄さんが、航空券購入のカウンターにまで連れて行ってくれて、ここで航空券変更の手続きをしてください、と。特割航空券を買っていたので、通常の航空券への変更で、差額が出たり…で、手続きには結構時間がかかる。ようやく新しい航空券を手にして、再び手荷物を預けるための行列に並ぶ。わたしの番が来てカウンターに行くと、さっきの同じお兄さん!先ほどはお世話になりました、などと言いながら、今度はスムーズに手続きが済む。

 ***[帰国後に書いたメール]

 Sr.Jさま、メッセージありがとう。ポーランドの姉妹たちの、み摂理の中での単純、素直、かつ強い生き方に、多くを学びました。SrJの目を通して見るポーランドも、新鮮でした。お互い、託された使命を、淡々と、信頼して、日々果たしていきましょうね。感謝と共に祈りつつ。

​ ***

 Sr.M・Tさま、メール、ありがとうございます。昨日、無事に東京に着きました。インターネットのニュースでは見ていたけれど、実際に日本に着いたら、ほんとうに暑いですね!

 ポーランドでは、時に薄いジャンバーを着るほど、涼しい日々が続いていたので、体全体が、感覚的にびっくりしているような感じです。

 ストラホチナの共同体は、巡礼者の受け入れと、「絶え間ない」(という感じの)共同の祈り、ミサ…で、ほとんど個人の時間がない、という感じでしたが、院長のSr.Bの心遣いで、Sr.Jとゆっくり話をしたり、散歩をしたりする時間があり、感謝しています。

 また、Sr.Jの感性を通して、ポーランドのこと、姉妹たちのことを、より豊かに学ぶことができました。

 ポーランドの姉妹たちは、とても日本のことを知りたがり、Sr.Bは、忙しい中で、日本の姉妹たちの写真を見る時間を取ってくださいました。姉妹たちは、とても喜んでいました。日本の姉妹たち一人ひとりに、よろしく!と。

 また、昨年のように、今回も、「日本のシスターたちに」と、お土産をいっぱいいただき、荷物に入りきれず(重量がオーバーして)、後で郵送することになりました。

 帰る前日には、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんがストラホチナを訪れ(お土産をいっぱいいただき!…これも、後から郵送です)、Sr.Jの通訳でいろいろと話をすることが出来ました。喜びいっぱいのお母さんでした。

 姉妹たちに会えるのを楽しみにしています。お祈りで支えてくださって、心から感謝しています。祈りつつ

 ***

 今回の出張、不思議と、ずっと太陽が付き添ってくれた。雨が降ることがあっても、それは、わたしが家の中に入った後だったり、外へ出る前だったり…。わたしが外にいる間は、いつも太陽がいっしょだった。

 出張前、いろいろ、むずかしい問題があった。「ここであきらめてはだめだ、前に進もう」。と自分に言い聞かせて出かけた。「♪~わたしの望みではなく、あなたの望みどおりに、あなたの願いどおりに、この身になるように~♪」と、たびたび自然に口ずさんでいた。

 太陽の「寄り添い」、わたしには、「真の太陽」であるイエスさまが、「大丈夫、わたしはあなたと共にいる、安心して、信頼して、歩き続けなさい」、と、言っているように思えた。

 出会った人々、友人、兄弟姉妹たちすべてに感謝。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年8月11日