・「若者シノドス」の最終文書・骨子と全文(翻訳済み3月21日現在、1項-68項、77項-106項、114項-145項、157-167項)

*「若者シノドス」最終文書骨子

 *「若者シノドス」最終文書は、約一か月にわたる協議をもとに、起草委員会が原案をまとめ、364か所の修正、追加を経て、全体会議に提出され、詳細に、建設的に検討されたうえ、採択に必要な出席司教たちの3分の2の支持を得て、正式文書となった。会議閉幕直後にシノドス事務局が発表した最終文書の骨子は以下の通り。(バチカン放送)

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

 最終文書の第1部では、若い人々の生活の具体的な諸側面を考察している。

 学校と小教区の重要性を強調し、多くの司祭と司教がオーバーワークとなっていることから、一般信徒が若者に寄り添う訓練を受ける必要があることを確認した。またカトリックの教育機関のかけがえのない役割にも言及。また、課題として、効果的でなく、生き生きとしていないことが多い召命への取り組み、とくに要理教育に関して、小教区の役割を再考する必要が指摘された。

 移民、性的虐待、”使い捨て文化”に関する若者の現実に関する記述も盛り込まれた。とくに、性的虐待に関しては次のように呼びかけた-「そうした虐待が繰り返されることのない、厳格な予防策の実施を固く約束する。まず、指導と教育の役割を担う人物の選定と編成から始める」。

 第1部では、このほか、芸術、音楽、スポーツについても、司牧の手段としての観点から言及されている。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

 第2部ではまず、若者たちを、主が自らを現わされる「聖書に基礎を置いた(神学的な)場」である、というシノドスの認識を示したうえ、若者たちのおかげで、教会は「鈍重さと対応の遅さ」を振り払い、自らを刷新することができる、としている。

 さらに、「(宣教の)使命」は、確実な、持続する幸せをもたらす賜物であるがゆえに、若者たちにとっての「確かな羅針盤」であること、「使命」の概念は「召命」と密接につながっており、洗礼による召命は聖性への呼びかけであること、を指摘している。

 また、別の二つの側面-「使命」の発展における助けと若者たちの召命は、寄り添いと識別の二つの側面をもっていることにも触れている。

第3部「”彼ら”は遅滞なく、発つ」

 シノドスの司教たちが示した人物は、復活したイエスに最初に出会ったマグダラのマリア。すべての若者たちは、様々に異なる人生の展望を持つ者も含めて、神の心の内にある、とした。

 「共に歩む」ことは、司教たちが第3部で強調した教会会議の推進力だ。司教たちは、世界各国・各地域の司教協議会に対して、具体的に司牧面での課題解決を進める目的を持って、識別の手順を踏み続けるように促した。 “Synodality”の定義として示されたのは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、そして私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように、私たちを強く促すことだ。

 会議で繰り返された要望として、司教区と小教区の指導者たちが若者たちと若者たちのためにする訓練と実行を適切なものとするのを助ける各国レベルの「召命の要点についての若者司牧の指針」の取りまとめ、があったことも示された。

 また、若者たちが性の賜物を見出すために、彼らと歩みをともにする、家庭とキリスト教共同体の重要性も指摘され、現在の文化的な状況の中で「性に関するキリスト教的洞察のすばらしさ」を彼らに伝えることの難しさも、同時に示された。そして、「新たな人格形成の道の開発に具体的につながるような適切な方法」を見出すことが緊急の課題だ、としている。

 最後に、最終文書は、このシノドスで出された様々な課題は召命の推進力、聖性への招きとなったとし、「召命の様々な相違は、聖性への唯一の、普遍的な招きに集合される」と述べた。迫害に遭っても、福音への信仰を守るために命を捨てることもいとわない若者たちの聖性を通して、教会はその霊的熱情と使徒的活力を新たにすることができる、と強調している。

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*「若者シノドス」最終文書全文 翻訳中

・・・3月21日現在、翻訳済みは167項中、1項-68項、77項-106項、114項―145項、157-167項・・・

final document of the synod of bishops

 「若者、信仰、そして召命の識別」に関するシノドス最終文書

*目次

・はじめに

・序文

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

  第1章 声を聴く教会

  第2章 三つの重要な要素

  第3章 アイデンティティーと諸関係

  第4章 今日、若者であること

・第2部「”彼ら”の目は開かれた」

  第1章 若さの賜物 

  第2章 召命の神秘

  第3章 寄り添う福音宣教

  第4章 識別の技法

・第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」

  第1章 教会の共に歩む宣教 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む 

  第3章 新たにされた宣教の活力 

  第4章 欠かせない人格形成

・おわりに

・・聖書の引用か所の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」(2018年12月刊行)を原則として使用します。

*本文

・はじめに

  私たちが今回のシノドスで経験したことは

1.「私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る(使徒言行録2章17節、ヨエル書3章1節)」。これは私たちが、今回のシノドスで経験したことです-共に歩き、聖霊の声に耳を傾けました。聖霊はその賜物の豊かさをもって、私たちを驚かせました。世界に希望をもたらすその勇気と力強さで、私たちを満たされました。

 私たちは聖ペトロの後継者と共に旅をし、彼は私たちを信仰において力づけ、福音宣教への新鮮な活力と熱意をくれました。私たちは、文化と教会用語で広く異なる背景をもって集まってきたにもかかわらず、自分たちを結び付けている霊的な絆を、対話と真の共感への熱意を、最初から知っていました。私たちは共に働き、自分たちの強い関心事項を分かち合い、懸念を伝え、負っている重荷を隠すことはしませんでした。協議の間にされた意見発表は私たちを深く感動させ、福音宣教の共感を目覚めさせましたーともに苦しみ、喜ぶ、一つの身体であることを感じました。私たちはどの人とも、自分が経験した恵みを分かち合いたい、福音の喜びを私たちの教会、そして全世界に、伝えたいと思います。

  若者たちの参加は新たな出発でした。彼らを通して、若者世代全体の声が、このシノドスで、大きく、はっきりと聞こえました。聖ペトロの墓への巡礼者として、彼らとともに歩み、このように共に歩むことが、どのようにして教会が対話の場となり、活力に満ちた友愛を証しするものとなる条件を育てるのかを、私たちは経験しました。この経験のもつ強さは、全ての疲れ、弱さを克服します。主は私たちに、何度も何度も言い続けられますー「恐れるな。私はあなたと共にいる」と。

  準備から始まった会議のプロセス

2.私たちは、司教たちの貢献から、小教区の司祭、修道者、一般信徒、専門家、教員その他多くの方々から、大きな恩恵をいただきました。会議の準備に、若者たちが初めから参加しました-オンラインでの質問、数多くの個人的な貢献、そして何よりも、シノドス準備会合は、そのことを雄弁に物語りました。若者たちの貢献は欠かすことができないもので、まさに、聖書にあるパンと魚の奇跡の話にあるものでした-イエスは、持っていたパンと魚を全部差し出した少年の価値のある振る舞いのおかげで、奇跡を行うことができたのです(ヨハネ福音書6章8‐11節)。

 すべてのこれらの貢献は、シノドス準備書面にまとめられています。同書面は、何週間もの会議を通しての議論にしっかりとした基盤を提供してくれました。今、最終文書は、準備を含めて会議が行った結果をまとめ、未来に向けて送り出します-シノドスに参加した司教たちが、神の言葉に照らして、認識し、解釈し、選択したものを示します。

  シノドスの最終文書は

3. 準備書面と最終文書の関係を明確にすることは重要です。前者は、2年にわたる聴き取りの作業で浮かび上がった包括的で統合的な、議論のための骨格であり、後者は、それを受けて開かれたシノドスの成果であり、シノドスに参加した司教たちが特別に力と熱意を込めて集中的に行った重要な論点をテーマ別にまとめたものです。 このようにして、これら二つの文書の 相違と相互補完性を知ることができます。

 最終文書は今回のシノドスの成果として、教皇に、そして全教会に提示されます(エピスコパリス・ コムニオ」=注:教皇フランシスコが昨年9月に発表したシノドスに関する使徒憲章=18項など参照)。今回のシノドスのプロセスはまだ終わっておらず、実施段階はこれから(同19‐21項参照)であり、最終文書は、教会に求められている次の段階の行程表となるものです。

*この最終文書で使用する「シノドス」は、シノドス全体のプロセスを指す、ないしは2018年10月3日から28日まで開かれた全体会議を指すこととします。

・序文

イエスはエマオに向かう弟子たちと旅をされた

4.   私たちは、若い世代に対する教会の福音宣教を理解するためにぴったりの聖書の箇所として、エマオへの旅を思い浮かべます(ルカ福音書24章13‐35節)。この箇所は、今回のシノドスで私たちが経験したこと、若者たちとの関係で経験することができるようにするために、私たちの教会がどうあるべきか、をよく示しています。

 イエスは、ご自身に起きた事の意味を理解できない2人の弟子、仲間の出来たちがいるエルサレムを離れた彼らと歩みを共にします。彼らの仲間のようにして、共に歩かれます。イエスは彼らに問いかけ、彼らなりの出来事の顛末を辛抱強くお聴きになり、彼らが経験していることをはっきりと分かるように、助けようとします。そして、彼らに、愛情と力を込めて御言葉を示し、聖書の光の下で、自分たちが経験した出来事を理解するように導きます。

 夕方になって、イエスは、一緒に宿に泊まるようにとの彼らの申し出を受けます-彼らの闇に入られます。イエスの話を聴く時、彼らの心は燃え、はっきりと理解しました-イエスがパンを割かれた時、彼らの目は開かれました。彼らは、すぐさま、これまでとは反対の方向に、旅を再開する選択をします。仲間の弟子たちのところに戻って、復活された主に出会った経験を分かち合います。

 準備書面に続く形で、この最終文書はこの福音書の箇所の諸段階に対応して3部構成になっています。第1部は”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」(ルカ福音書24章15節)で、若者たちが自分自身を見出すという文脈について、シノドスに参加した司教たちが何を認識したか、を明らかにし、その力強さと課題に光を当てます。第2部「”彼ら”の目は開かれた」(同24章31節)は説明的な部分で、今回のシノドスのテーマを理解する基本的な手段を提供します。そして、第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」(同24章31節)は、霊的、司牧と福音宣教の転換のための選択肢を提示します。

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

5.「この日、2人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」(ルカ福音書24章13‐15節)。

 この箇所で、ルカは、彼らが体験した出来事の意味を求める2人の旅人に必要なもの、を伝えています。特に、彼らの旅に加わられたイエスの振る舞いに焦点を当てています。復活された主はすべての若者たちと共に歩み、彼らが期待していることを、それがまだ実現していなくても、お聴きになり、彼らの望みを、それが採るに足らないものであっても、お聴きになります。イエスは歩き、聴き、分かち合われるのです。

 第1章 声を聴く教会

  共感をもって聴き、よく見る

   聴くことの価値

6.聴くことは、自由な出会いです。それには、謙遜、忍耐、理解するための用意、そして、新たなやり方で答えを考え出す決意が求められます。聴くことは、特に、それが内的な調和の性向と聖霊に対する従順さをもってなされた時に、聴く人の心を変えます。聴くことは、単に情報を集めることでも、目的を達成するための方策でもありません。神ご自身が民と関係を持つ仕方なのです。神は民の苦しみをつぶさにご覧になり、叫ぶ声を聴かれて、深く心を動かされ、彼らを救い出されます(出エジプト記3章7‐8節)。教会は、聴くことを通して、御子において一人ひとりの人間に近づかれる神のなさることに共鳴するのです。

(注:英語原文のlistenは「聞く」とも「聴く」とも訳せますが、日本語では、大辞林(小学館刊)にもあるように、「聞く」は「音や声を耳に受ける、感じ取る」場合、「聴く」は「注意して耳にとめる、耳を傾ける」場合に使います。この最終文書の場合は、後者の訳の方が適切と判断し、「聴く」で統一します。)

  若者たちは聞いてもらうことを希望している

7.若者たちは自分たちの人生に方向を与える選択を絶えず続けるように求められています-彼らは聞いてもらえ、認識してもらえ、行動を共にしてもらえるような強い希望を言葉で表現します。多くの人は、彼らの声が社会と教会の輪の中で興味を引いたり、有益だったりすると考えられない、と感じています。ある場面では、彼らの叫び、とくに貧しく、搾取された人の叫びは、少しの注意も払われませんーわずかな年配者だけが彼らの叫びを進んで聴くことができるのです。

  教会で聴くこと

8.カトリック教会には、受け入れ、聴き、聞いてもらえる経験を若者たちに与えることのできる、沢山のイニシアチブとしっかりとした経験があります。今シノドスは、教会共同体が、エマオで弟子たちの目を開かせる前、彼らと歩きながら「やり取りしているその話は何のことですか」(ルカによる福音書24章17節)と尋ねた時のイエスの振る舞いを伝えることに、必ずしもいつも成功するとは限らないことを知っています。時として、若者たちの質問で新鮮さが出てくるようにせず、彼らが示す課題と取り組むことをせずに、前もって作られた答え、出来合いの解決策を提供する傾向がある可能性がある。

 聴くことは、他者の気持ちを理解するという文脈において、贈り物の交換を可能にします。若者たちに共同体に貢献することを認め、新たな感受性を身に着け、新たな問いを考えるのを助けます。同時に、正確に、豊かに心に真に触れることのできる福音の宣言のための条件を整えます。

  司牧者と資格を持った信徒が実践する行為としての聴くこと

9.聴くことは司牧者、何よりも司教たちの職務の大事な要素です-司教たちは頻繁に多くの任務を負わされ、このような必要な奉仕に十分な時間をとろうと苦闘していますが。多くの人は、付き添うことに専念する資格を持った人の不足を指摘しています。聴くことが持つ神学的、司牧的な価値を信じることは、普通に行われている司牧のやり方を考え直し、刷新する必要があること、優先順位を再検討する必要があることを意味します。それ以上に、このシノドスは、若い者たちに付き添う資格を持った司祭職と一般の信徒、男性と女性を準備することの必要性を認識しています。共同体社会の中で聖霊が呼び起こす『神から与えられた聴くことの特別な能力』は、教会の奉仕の一つの形として認知されるでしょう。

  状況と文化の多様性

   複合的な世界

10. このシノドスの構成そのものが、世界の多くの異なる地域の存在と貢献をもたらし、普遍教会であることの素晴らしさを際立てました。地球の一体化が進んでいるにもかかわらず、シノドスに参加した司教たちは、一つの国の中にさえも地域によって状況や文化に多くの相違があることを認識する必要がある、としました。若者たちの世界は全く一様ではなく、国によっては、複合性の中で「若者」という言葉を使う傾向があります。それ以上に、シノドスが「若者」としている年齢層(16歳から29歳)の人々は、同質ではなく、それぞれの人生経験をもつ異なるグループで構成されているのです。

 このような相違の全ては若者たちの具体的な経験に強い影響を与えます-成長の異なった段階、宗教的体験の形、家族構成、そして信仰伝達のための重要性、世代間の関係-例えば、年配者の手本と彼らに対する敬意-社会生活への参加の仕方、将来に向けた姿勢、教会一致と宗教間の問いかけ。このシノドスは文化の多様性の持つ豊かさを認識し、受容し、聖霊の交わりの礼拝においてそれを加えます。

   進む変化

11.特に重要なものとして、国による人口動態の違いがあります。出産率が高く、若者たちが総人口に占めるウエートが大きく、しかも増加している国がある一方で、若者たちの影響力が減退している国が存在します。さらなる違いをもたらす要素は、歴史の結果です-伝統的なキリスト教の伝統のある国々と大陸があり、その文化は容易に見過ごすことのできない記憶によって影響を受けている一方で、他の宗教的な伝統の影響を受ける国々と大陸があり、そこではキリスト教は少数派で、しばしば新参者です。また、他の地域では、キリスト教の共同体と若者たちが迫害を受けています。

   排除と周辺化

12.さらに、国と国の間、として国の中での違いがあります-それは社会構造と経済的な力によって引き起こされ、グローバリゼーションによって増大する機会を利用できる者と、社会の周辺部や田舎に住む者、排除されたり、捨てられたと感じる者を、時として劇的な形で引き離しています。多くの事象が、教会が勇気を奮って後者の側に立ち、排除と周辺化を取り除き、受け入れ、寄り添い、一体化する体制を強化するような選択肢を作るのを助ける必要があることを示しています。このことは、多くのキリスト教徒にも影響を与えている無関心について知り、信仰の社会的な側面を深めることによって無関心を克服する必要性を際立たせます。

   男性と女性

13.男性と女性の違いも見過ごしてはなりません-それは、特徴のある賜物、感受性と人生の経験を伴います。この違いは、支配、排除、差別の元となり得ます-教会も含めてすべての社会は、それから解放される必要があります。

 聖書は、男女を、神の前で対等な者(創世記5章2節参照)しています-性別を基礎にした全ての支配、差別は、人間の尊厳を害するものです。聖書はまた、性による違いを人間の構成の神秘とし、陳腐な類型的なものに矮小化すべきではありません。男女の関係は、助け合い、対話をし、交わりと豊かさの中で共に生きる使命の見地から理解されます(創世記1章27⁻29節、2章21⁻25節参照)-夫婦としての人生、仕事、教育など、人間のあらゆる経験の領域で。神はこの地球を人間の契約に委ねたのです。

   文化的植民地化

14.非西欧の地域からシノドスに参加した司教たちの多くは、「自分たちの国では、グローバリゼーションは文化的植民地化を伴っている-若者たちを彼らの文化と宗教的な土壌から引き抜いている」と指摘しています。教会は、グローバリゼーションの進展の中で若者たちのアイデンティティーの最も価値のある特長を見失わないように、しっかりと彼らを導く必要があります。

 世俗化の進展について、対照的な解釈があります。ある人々がそれを「単なる慣習や民族的、国家的アイデンティティーに基礎を置く信心深さを浄化する、歓迎すべき機会」と見る一方で、「信仰を伝える障害」と見る人々もいます。世俗的な社会において、私たちはまた、神と聖性の再発見を目の当たりにします。教会にとって、このことは、信仰、告白、司牧的随伴の活力の重要さを再発見を刺激する役割を果たすに違いありません。

  今日の教会を概観する

   教会の教育との関わり

15.若者たちが教会を「キリスト教を信じないあるいは他の宗教に所属する同世代の人々にとっても、重要な意味を持つ、活発で関わる力」として見ている地域が多くあります。教会の教育機関は、彼らの信仰、文化的背景、個人・家庭・社会的な環境に関係なく、すべての若者を進んで受け入れる姿勢を希求しています。そうして、教会はこの世界の多くの異なった場所で若者に対する欠かすことのできない教育に貢献しているのです。

 このことは、すべての形、規模の学校-専門的な教育センター、単科大学、総合大学だけでなく、若者のセンター、祈祷会も-における教育を通して、なされています。このような貢献はまた、難民の人々の受け入れをはじめ極めて多様な形の社会活動を通してもなされています。これら全てにおいて、教会は福音の証しと言明を教育活動と人間性を高める活動に結び付けています。文化間、宗教間の対話によって刺激を受けて、教会の教育分野での活動は、人間性を高める真の形として、キリスト教徒以外の人々からも評価されるのです。

   若者の召命教育における活動

16.シノドスの議論の中で明確になってきたのは、若者の召命教育には専門的な傾向が必要とされること、そして、専門的な司牧ケアが全ての若者たちに必要である、ということでした。そして、若者がキリスト教の共同体社会に自分の場を見つけるのを助け、幼少期から大人の生活までの全期間に対応する必要が、司牧のプログラムにあることが強調されました。また、極めて多くの小教区のグループ、活動、若者の集まりがすでに、若者の信仰生活の中で彼らに随伴し、育成する効果的な取り組みをしていることも、指摘されました。

 世界青年の日(WTD)ー三千年期において若者たちを評価の基準に置いた、聖ヨハネ・パウロ二世の預言的な洞察が生んだ行事-は、国レベル、教区レベルの行事と相まって、多くの若者の人生に重要な役割を演じることになりました-彼らが人生の大きな課題に取り組み、社会と教会の中で彼らの役割を責任をもって引き受けるのを助ける「信仰と交わりの生きた経験」を提供したからです。これらの集まりは、福音の受容を深め、人生の選択に生かされるべき個々の共同体社会の通常の司牧的な随伴に力を与えていきます。

   教会の管理運営の重荷

17. 多くの司教が指摘したのは、管理運営の任務の重荷が多くの司牧者のエネルギーをあまりにも殺ぎ落し、時として司牧の道を閉ざしかねなくなっている、ということでした-これは若者たちと出会い、随伴することが難しくなる原因の一つです。司牧的、霊的な任務を優先させるために、司教たちは、教会の管理運営の具体的なやり方を考え直す必要がある、と主張しています。

   小教区の現状

18.小教区は、現在も、個々の地域で、教会の第一の、重要なあり方であり続ける一方、いくつかの地域で小教区が若者たちと関わることに苦闘し、司牧の在り方を見直す必要が出てきたいます。小教区活動の都市部での低調さ、活力の不足は、時間的、空間的なライフスタイルの変化と相まって、刷新を強く求める声になっているのです。革新の様々な試みがされているとしても、若者の生活の川の流れはしばしば、(注:その試みとは)交わることなく、共同体社会の縁にそって流れます。

  キリスト教への入門

19.多くの参加者はキリスト教入門のプログラムは、子供たち、青年たち、そして若い大人たちに信仰の体験の素晴らしさをもたらすことに、いつも成功するとは限らない、と指摘しています。共同体社会が、交わりの場で神の子供たちの真の家庭である時、信仰を伝える創造的な力が発現します-しかし、代表の論理が幅を利かし、官僚的な組織が支配するところでは、キリスト教入門は堅信の秘跡で終わる宗教的な教習課程だと誤解されてしまいます。ですから、私たちが緊急に必要としているのは、教理講座の方法と家庭と共同体社会における信仰の伝達の繋がりを、深く考え直し、個人的な寄り添いの課程を作ることなのです。

  神学生と奉献者の育成

20.神学校と育成の家は、司祭職と奉献生活に呼ばれた若者たちが、自分たちの召命の選択を深め、使徒職を育てていくことを可能にする最も重要な場です。しかし、時として、その環境は、”候補生”たちのこれまでの経験を十分に考慮に入れず、その重要性を過小評価することがあります。そして、これは、その人の成長を妨げ、神の賜物と心の深い転向の成長よりも、形式的な態度を選ぶ元になります。

第2章 三つの重要な要素

 デジタル環境の新しさ

  浸透する現実

21.デジタル環境は現代世界を特徴づけています。人間の活動の広範な部分が、日常的に、連続的な形で、その環境の中に浸されています。それは、もはや、通信機器を単に「使う」ことではなく、「高度にデジタル化された文化の中で生活する」ことであり、それは、時間と空間に関する考え方、自己理解、他者と世界への理解、意思疎通を図り、学び、自分自身に活気を与え、他者との関係を結ぶ方法に、重大な影響を及ぼしています。 聴くこと、読むことよりもイメージを優先させる現実への近づき方が、人々の学習の仕方、物事を批判的に見る能力の成長に影響を与えています。次のことがすでにはっきりしていますー「デジタル環境は、類似的、あるいは純粋に仮想現実の世界ではなく、多くの人、特に若者たちの日常的な環境の一部をなしている」(ベネディクト16世「第47回世界ソーシャル・コミュニケーションの日へのメッセージ)のです。

  さまざまな機会を提供するネットワーク

22.インターネットとソーシャル・ネットワークは若者が多くの時間を費やし、容易に他の人と会う”広場”になっています-たとえ、すべての人が、特に世界のある地域で、同等にアクセスできないにしても。そして、情報や知識の入手とともに、人々の間の対話、出会い、交換に特別の機会を提供します。それ以上に、デジタルの世界は、社会・政治的な繋がりと能動的な市民の権利の一つであり、最も傷つきやすい人々のために、権利の侵犯を公けにするなど、効果のある権利保護するような自主的な情報の流通を促進することが可能です。多くの国で、インターネットとソーシャル・ネットワークはすでに、若者たちを巻き込んだ、しっかりと確立した対話の場に、とくに司牧的な運動と活動に参加しています。、

  インターネットの暗部

23.デジタル環境はまた、(注:アクセスするために特定のソフトウェア、設定、認証が必要な)”ダークウェブ(Dark web)”の極端なケースを含め、孤独、操作、搾取と暴力の一つにもなっています。デジタル・メディアは、人々を、自主性喪失、孤立、具体的な現実との結びつきを徐々に無くす危険にさらし、真の人間同士の関係の発展を阻害する可能性があります。暴力の新たな形は、”サイバーいじめ”で代表されるように、ソーシャル・メディアを通して広がっています-インターネットはまた、ポルノの氾濫、性的な目的あるいは賭博を通しての搾取のルートの一つでもあります。

24.最後に触れねばならないのは、デジタルの世界では巨大な経済的な打算が働いている、ということです。それは、徐々に浸透していく、見分けのつきにくい管理、良心と民主的な手続きを操作するメカニズム、を作り出すのを可能としています。多くのインターネット・プラットホームの機能は同じような考え方の人同士の出会いを優先し、議論をさせないようにします。このような閉鎖された回路は、偽ニュースと誤った情報の拡散を促進し、偏見と嫌悪を煽ります。偽ニュースによる汚染は、真実を求めようとする感覚を失わせ、特定の利益に合うように事実を捻じ曲げる”文化”です。オンラインでなされる短絡的な判定を通して、個人の評判は危険にさらされます。教会とその司牧者も、そうした現象から逃れることはありません。

 我々の時代の典型的問題としての移民

   多面的な現象

25.世界的に受け止められている移民は構造的な現象であり、一時的な緊急事態ではありません。移民は、一つの国の中、あるいは異なる国の間で起きるようです。教会の関心は、特に、戦争や暴力、あるいは宗教的迫害、気候変動が原因のものも含む自然災害、極度の貧困から逃れようとする人たち-その多くは若者たち-に焦点が絞られます。一般的に、彼らは自分たち自身と家族のための好い機会を求めています。より良い未来を切望し、それを手に入れる条件を作りたいと考えています。今回のシノドスに参加した多くの司教たちは、移民の人々は、私たちの時代に、特に若者たちの置かれている状況に光をあてることのできる”典型”の一つであり、私たちに信仰のもととなる条件、「よそ者であり、国を追われた者」(ヘブライ人への手紙11章13節)であることについて、思い起こさせてくれます。

   暴力と脆弱さ

26.また他の移民たちは、西欧文化に惹かれ、時には、大きな失望をもたらすような非現実的な期待を抱きます。悪質な人身売買業者-しばしば、麻薬カルテルや武器カルテルと結びついた者たち-移民たちの弱みにつけこんで利益を上げます。移民たちは,移動の過程でひんばんに暴力を振るわれ、売買され、心理的、物理的に虐待され、言葉にできないような苦しみを味わいます。私たちは特に、移民たちの脆弱さ-寄る辺のない小さな人たち、あるいは難民キャンプで何年も過ごすことを強いられ、途中の国で長期間囚われ続け、教育も受けられず、才能を発揮することのできないでいる人々を、見過ごしてはなりません。移民を受け入れている国では、移民が地元民から恐れや警戒心を抱かれ、扇動され、政治的目的で利用されていることもあり、人々が閉鎖的になり、外国人恐怖症に繋がる可能性もあります。こうした問題には、断固として対処する必要があります。

   別離と出会いの物語

27.若い移民者たちは生まれ故郷を離れ、しばしば文化的、宗教的なルーツを絶たれることを経験します。彼らが離れことで共同体社会は、一番壮健で、活力のある部分を失い、打ち壊されたように感じます-特に片親、両親が子供たちを置いて故郷を出てしまう時、残された家族も、そのように感じます。別れ別れになった家族の一員である若者の拠り所として、教会には重要な役割があります。

 ただ、移民の物語は人々と諸文化の出会いの物語でもあります-彼らは、移民先の共同体、社会にとって、全ての人の豊かさと、人間的な発展の機会をもたらします。教会が関わる彼らを歓迎する取り組みは、このような視点から重要な務めであり、移民を受け入れることのできる共同体社会に新たな命をもたらすことができるのです。

   教会の預言的な役割

28.このシノドスに参加した司教たちの多様な背景を考えると、移民という題目には、特に移民が出た国と着いた国の間で、沢山の異なる側面が合わさっていることが、分かります。そして、それ以上に、諸教会から警報が聞こえます-信徒たちは戦争と迫害から逃れることを強制され、そのように強制された移動を自分たちの生存を脅かすものと見なします。教会が徒ような見方を包含するという、まさにその事が、移民問題に向かい合う教会に預言的な役割を与えます。

  あらゆる形の虐待を認め、対応する

   真実を明確にし、赦しを願う

29. ある司教たち、司祭たち、修道者たち、そして一般信徒が犯した様々な形の虐待が犠牲者を生み、その多くが若者たちであり、生涯続きかねない、いかなる痛悔もいやすことのできない苦しみをもたらしています。このような現象は社会に広がり、教会にも影響を与え、教会の使命を果たすうえで大きな障害となっています。今回のシノドスは、いかなる虐待も起こさない厳格な措置をとることを、はっきりと確約します-責任ある取り組みと教育を任す人物の選定と編成から始めます。

   原点に立ち返る

30.虐待には様々な形-権力の乱用、良心をないがしろにする行為、性的な虐待、金銭的な脅しーがあります。当然ながら、これら全てを可能にする権力の行使は撲滅すべきであり、極めて多くのケースにおける責任感の欠如、透明性の欠落には異議を申し立てねばなりません。支配への欲求、対話と透明性の欠如、二重生活、霊的な空虚は、心理的な脆弱さとともに、腐敗を起こす元になります。

 聖職者主義は、特に、「召命についてのエリート主義者、排他主義者の見方-聖職者は自由で心の広い奉仕をするよりも、執行されるべき力を与えられている、と解釈する見方-から生まれます。この見方は、自分たちは全ての答えを持ち、何も聴いたり、学んだりする必要のない、ないしは、聞くふりをする集団に属しているのだ、と信じるように私たちを仕向けるのです」(2018年10月3日の第15回通常シノドス第一回全体会議での教皇フランシスコの挨拶)。

   感謝、そして激励

31.今回のシノドスは、自らが苦しめられた罪悪を勇気をもって糾弾した方々に感謝を表明します-この方々は、実際に起きたこと、決然と対応すべきことを教会が知るのを、助けてくれました。また、日々、若者たちのために誠実さと献身の心をもって自らを捧げた、数えきれないほどの男女の一般信徒、司祭、男女の聖職者、そして司教たちを讃え、激励します。彼らの仕事は、静かに成長する森のようです。今回のシノドスに参加した若者たちの多くもまた、彼らとともに居てくれた人々に感謝し、判断の様式の必要性を強調しました。

 主キリスト-ご自分の教会を決して捨てない方-は教会に、新たな道に踏み出す力と手段をくださいます。「時宜を得た行動と制裁の白線を確認することが強く求められ」(2018年8月20日の教皇フランシスコの「神の民への手紙」)ており、今回のシノドスは、慈しみが正義を求めていることを知り、虐待の問題にあらゆる面において、若者たちの価値ある助けを欠くことのなく対処することは、画期的な重要さをもつ改革のための機会になることができるのです。

 

 第3章 アイデンティティーと諸関係

  家庭と世代間の関係

   特別な判断基準としての家庭

32. 家庭は若い人々にとって重要な判断基準であり続けています。子供たちは、両親の愛と世話をありがたく思い、家族の結びつきを大切にし、自分たちも同じような家庭を作ることを希望します。そうした中で、別居、離婚、再婚、そして片親家庭の増加は、間違いなく、若い人々の間に大きな苦しみとアイデンティティーの危機を引き起こします。彼らは、時によって、年齢に不相応な責任を負わされ、通常よりも早く大人になることを強制されます。そうした彼らに、祖父母は世代間の関係の中で決定的なつながりを作る知恵をもって、愛情と宗教教育の面で決定的な貢献を果たすことが、しばしばあります。

   母性と父性の重要さ

33.母と父は、はっきりと異なる役割を持っていますが、子供たちを育て、信仰を伝えていくという点からみれば、共に等しく重要です。母親の存在は、若者たちが自分の成長のために不可欠と考える役割を持ち続けます-たとえそれが、文化的、政治的に十分に認められず、仕事だとされても、です。多くの父親は熱心に自らの役割を果たしますが、場合によって、父親が不在か、かすかな存在であったり、抑圧的、あるいは権威主義的な存在であったりする、という事実を隠せません。このような両義性はまた、霊的の父性の行使にも反映されます。

   世代間の関係

34. 今回のシノドスは、文化的な文脈の難しさにもかかわらず、価値を伝えることに深く関わる多くの両親と教師たちの献身的な活動を、認識します。年配者の役割と祖先の人々への崇敬が教育の重要な要素であり、個人的なアイデンティティの形成に大きく貢献している地域もあります。近親者を含む「拡大家族」-異なる文化を持つ地域では、それが実際の「家庭」を意味しますが-もまた、重要な役割を果たしています。

 しかしながら、若者の中には、家庭の伝統を抑圧的なものと感じ、身元保証を欠いたままグローバル化された文化の刺激を受けて家庭の伝統から離れる動きもあります。その一方で、世界の他の地域では、若者たちと年配者たちに世代間摩擦がない代わりに、互いに疎遠になっている例も見られます。時として、年配者は人生の基本的な価値を伝えようとしなかったり、伝えることに成功しなかったりし、その代わりに”若々しい”生活のスタイルを取り入れ、世代間の関係を逆にするケースもあります。

 こうして、若者たちと年配者たちの関係は、教育や文化の側面に触れることがないまま、情緒的なレベルにとどまるというリスクを冒しているのです。

   若者たちと文化的なルーツ

35.若者たちは未来に注意を集中し、実行力と活力をもって人生と向き合います。しかしまた、彼らは、現在を楽しむことに熱中する誘惑を受け、時として、自分がこれまで辿って来た過去の記憶、中でも、両親や祖父母から伝えられた沢山の資質、自分が暮らしてきた社会から受けた”文化的な荷物”に、少しの注意も払わない傾向があります。過去のもつ生き生きとした豊かさを見出し、過去の記憶を大切にし、自分自身の選択と機会に生かすように、若者たちを助けることは、成長と必要な選択のために彼らに向けられる、正真正銘の愛の行為なのです。

   仲間同士の友情と結びつき

36.世代間の結びつきとともに、同世代の人々の結びつきも看過できません。そうした結びつきは、交流と生まれた時からの家庭の場からの巣立ちの基礎的な体験を象徴するものです。友情と論争-多かれ少なかれ組織的な集団の中で起こるものですが-は、重視されも裁かれもしない環境の中で、他者と交わり、関係を持つ腕を磨く機会となります。集団の体験はまた、信仰を分かち合い、証しの中で互いに助け合うための、素晴らしい資源となります。若者たちは、他の仲間を導き、彼らの間で正真正銘の信徒使徒職を果たすことができるのです。

  身体と情動性

    変化が起きている

37.身体と性的関心は、若者たちの生活と独自性の成長のために、どれほど重要か。それを欠いては、友情と情動性のある人生を歩めないからです。現代社会で、彼らはそれでも、これらに関して、急速な変革の中で起こる現象に出会います。

 何よりも、科学とバイオテクノロジーの分野での進歩は、身体についての知覚に強力な影響を及ぼし、際限のない変容が可能だ、という考え方をもたらします。遺伝子操作の技術進歩、身体の器官に人工的な要素を挿入する(サイボーグ=身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させること)の可能性と、神経科学の進歩は、素晴らしい力を作り出しますが、それと同時に、人類学的、倫理的な問題を引き起こします。

 身体に対する専門技術的な取り組みを無批判に受け入れることは、賜物としての命についての認識と被造物としての限界についての感覚を弱くします-人は、経済的、政治的な力によって欺かれ、あるいは搾取される可能性があるのです(教皇フランシスコの回勅「ラウダ―ト・シ」106項参照)。

 さらに注意しなければならないのは、若者たちの集団の中に、自己探求の道具としてリスクのある行動をとることの、強い感情の高ぶりを求め、認知を得ることの、魅力に取りつかれる、という現象が見られることです。性的な早熟な振る舞い、乱交、買春ツアー、身体を誇張した崇拝など、従来からの現象が続いているのに加えて、今日では、デジタル・ポルノとオンラインを使って人の体を見せる、という行為の氾濫が起きています。若者世代に見せつけられているこのような現象は、曇りのない穏やかな発育にとっての障害となります。若者たちを、全く新しい、個人の選択と経験に影響を与える、イデオロギー的な植民地化に類するものにとっての「肥えた土地」にしてしまう、社会的な力に向かっているのです。

    教会の道徳的教えの受容

38.これは、キリスト教徒の家庭と教会共同体が、神の神秘によって内在した素晴らしい賜物としての性を若者たちが見つけるのを助けようとしている、そうすることで、福音の論理に従った関係をもって生きることを望んでいる、という前提を置いての話ですが、こうした熱望を、時折ではなく、愛情のこもった性教育に注ぐことに、常に成功するわけではありません。性教育が純粋に選択肢として採用されるところでは、若者たちが、イエスキリストへの信奉、情緒のある生き方、そして人格のつながりを持った関係のつながりを把握するのを助ける、という前向きの効果があります。このような結果は、この分野で教会の活力への大きな投資を引き込み、増進するのです。

    若者の問題

39.教会は、この分野で教えを作り、進めて来た、豊かな伝統をもっています。聖ヨハネ・パウロ二世が作られた組織による神学としての「カトリック教会のカテキズム」、ベネディクト16世による回勅「神は愛」、教皇フランシスコの使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」が、その実例です。しかし、若者たちは、こうした教えを知り、それをもとに生活している人々も含めて、教会から「はっきりとした、人間的で共感を呼ぶような言葉を聞きたい」と希望する声が上がっています。そうした声にもかかわらず、性道徳は、教会が裁きと断罪の場として受け止められる限り、無理解と距離を置く原因となっているのです。

 社会の変化と情緒のある新しい生き方、そして倫理的な見方の多様性に直面して、若者たちは真正と献身の価値に敏感になっていますが、進むべき道が分からなくなることがしばしばあります。彼らは、男らしさと女らしさの違い、男女の相互の関係、そして同性愛に関して議論することに、従来よりも、もっとはっきりと熱意を示しています。

   傷つきやすさの諸形態

    仕事の世界

40.仕事の世界は、若者たちが自分の創造性と革新を起こす能力を表現する場であり続けています。それと同時に、彼らはそこで排除と軽視を経験します。一番に、そして最も深刻なのは、失業です。世界の国の中には失業水準が異常に高くなっているところもあります。彼らを貧しくさせるのに加えて、働く場がないことは、夢と希望を抱く若い能力を損ない、社会の発展に貢献する可能性を奪います。

 多くの国で、このような状況は、若者世代の中に-恐らく、教育、訓練制度の欠陥から-十分な専門技能を持たない人々がいることから起きています。若者たちを苦しめる雇用における問題は、労働を搾取する経済的利益と関係しています。

    暴力と迫害

41.多くの若者たちは紛争地域に住んでおり、数限りない異なる形の暴力-拉致、強奪、組織犯罪、人身売買、奴隷、そして性的搾取、戦時強姦、など-を経験しています。さもなければ、自身の信仰ゆえに、社会の中で自分の場を見つけるのに苦闘し、死に至ることもある様々な迫害に遭います。数多くの若者たちが、強制や選択肢の欠如を通して、犯罪と暴力行為-少年兵、武装強盗、犯罪集団、麻薬取引、テロなど-を働きます。このような暴力は多くの若者たちの人生を破壊します。虐待と依存は、暴力と異常な行為と同じように、少数民族と社会的集団で多い、若者たちを刑務所に入れる原因になっています。このような現状全てが教会に問題として示されています。

    軽視と社会的な不快感

42.世界でさらに頻繁に見られるのは、宗教的、民族的、経済的理由から軽視され、社会的に排除される形で苦しんでいる若者たちです。思い起こしましょう-青年期にある人々が置かれている困難な状況、妊娠と堕胎の苦しみ、HIVの広がり、薬物、博打、ポルノなど様々な厄害への依存、そして、家もなく、家族もなく、経済的な支援もないストリート・チルドレン-特に、若い受刑者たちに注意を払う必要があります。教会は、勇気をもって彼らの側に立ち、彼らに寄り添い、彼らが自身の尊厳と共通善を作る役割を取り戻せるようにすべきなのです。

    苦しみの経験

43.広く言われている決まり文句とは反対に、若者たちの世界は、傷つきやすさ、身体的障害、疾病、そして苦痛を味わった経験に深く汚されています。多くの国で、特に若者たちの間で深刻化しているのは、心理的苦痛、抑圧、精神的病い、そして摂食障害ですーそれは、ひどい不幸や社会の中に自信の場を見つけることができないことと関連しています-自殺という悲劇的な現象も忘れてはなりません。

 このような様々な試練を経験する若者たちは、彼らの家族と共に、キリスト教共同体の支援を頼りにしていますが、そうした共同体が常に彼らを歓迎する態勢が整っているとは限らないのです。

    傷つきやすさの原因

44.これらの状況の多くは”捨てる文化”によって、もたらされます-若者たちはその第一の犠牲者です。にもかかわらず、この”文化”はまた、若者たちを堕落させます。キリスト教共同体とその指導者たちは、私たちの世界を苦しめる人間的、社会的、環境的な退廃の一因になります。

 教会がとるべき対応は、困難な状況にあって自身の姿を示し、転向、連帯、そして刷新された教育的な活動を訴えることです。困難な状況の中で生きる若者たちは、教会共同体と共有する貴重な資源を持っており、私たちに、制約に対抗する自分自身を評価するように教え、人間性を育てるように助けてくれます。創造力に終わりはありませんー創造力をもって、福音の喜びによって動かされる共同体は、沈滞と困難な状況に対する選択肢を提示することができます。そうした方法で、「家を建てる者の捨てた石が、隅の石」(詩編118章22節、ルカ福音書20章17節、使徒言行録4章11節、ペトロの手紙1・2章4節参照)となることができるのです。

 

 第4章 今、若者であること

  現代の若者文化の諸側面

    独創性と特異性

45. 若者の世代の現実への接し方には、いくつかの特徴があります。若者たちは、自分たちの独自性が受け入れられ、尊重されることを求めます。若者文化の最もはっきりした特徴は、意思疎通の他の形に加えて、イメージを好み、現実との接し方で、感性と感情を重視し、論理的な分析よりも具体的で、実際になされていることを優先することです。仲間の集まりに属し、ソーシャルメディアで固まるように、友達関係を作ることがとても重要です。若者たちは一般的に自発的で、多様性に対して開放的で、それが彼らを、平和、包括、そして文化と宗教の対話に対して、注意深くさせています。若者たちが、平和的な共存の視点から、どのようにして文化間、宗教間の出会いと対話の開拓者となるかを知っている、ということを裏付ける事実は、世界の多くの地域で、数多く存在します。

    社会的な関わり

46.前の世代と形は違っても、社会的な関わりは、今日の若い人々のはっきりとした特徴です。何人かは異なりますが、多くの人は社会奉仕の活動、活動的な市民であること、社会連帯に率先して関わっており、また、自分たちの才能、技術、創造性を発揮し、責任を果たすための刺激を得るために、寄り添い、励まされることを必要としています。社会的な関わりと貧しい人々との直接のつながりは、信仰を見出し、強め、そして正面の識別をすための機会として基本的なものであることに、今も変わりはありません。

 環境回勅Laudato si’が強調しているように、現在では、環境問題と成長の持続可能性に、強く広範な関心がもたれています。回勅はまた、若者たちには政治的な分野に関わる用意がある、と指摘しています。それは、共通善と作ること-教会が、形成の機会と識別の場を提供することで対応することがいつもはできなかったこと-です。正義を行うことについて、若者たちは、決然とした、首尾一貫した関わりを示し、世俗的な心理に流されないよう、教会に求めています。

    芸術、音楽、そしてスポーツ

47.  今回のシノドスは、若者たちがあらゆる形の芸術的な表現をすることを知っており、高く評価しています。多くの若い人々がこの分野で神から与えられた才能を生かしています- 美しさ、真実、そして徳を増し、人間性と神との関係を成長させています。多くの若者にとって、芸術的な表現はまた、専門職への召命でもあります。私たちが忘れてならないのは、これまで何世紀にもわたって、”美の道”が信仰を表現し、福音を宣教する特別の道となってきた、ということです。

 音楽は特に重要です。文化と言語が感動と本性を引き出すように、若者が常に身を置く現実の環境を作り出します。音楽的な言語はまた、典礼とその刷新に特に関係をもって、司牧のための資質となります。商業利益とつながった嗜好の標準化は、時として、音楽と典礼の伝統的なつながりの輪を傷つける危険をもたらします。

 同じように重視すべきは、若い人々のスポーツ活動への関心の高さです。スポーツの教育と人間形成に持つ、しっかりとした潜在的な力を、教会は過小評価してはなりません。他方、スポーツの世界には、優勝者の偶像化、商業的利益への従属、どのような犠牲を払っても成功させるというイデオロギーなど問題があり、そうした誘惑に打ち勝つように助けられる必要があります。

   霊性と宗教性

     異なった宗教的環境

48. 若者の宗教的体験は、彼らが生きている社会的、文化的な環境から、強い影響をうけます。国によっては、キリスト教の信仰は、強く、生き生きとした共同体の体験であり、若者たちはその共同体に喜びをもって参加しています。

 古来のキリスト教の伝統をもつ、他の地域では、キリスト教徒の大多数は、教会に所属しているという、現実の感覚の体験がない-それでも、縮小的で息苦しいものの見方に対する反動として宗教的な関心の復活を目指し、少数ではあるが前向きに取り組んでいる人が足りないわけではありません。

 その他の地域では、カトリック信徒は、他のキリスト教諸派の信徒たちと少数派を形成しており、そこでは、時として差別や迫害を経験しています。そしてまた、新たな宗教的な派閥や形態が興っている地域もあります-それに共感する人々の間では、既成宗教のいかなる形にも幻滅し、嫌悪するようになっていることが多く見られます。もしも、ある地域で、若者たちが公の場で信仰を表面する機会を持たなり、あるいは宗教的自由がないと思った場合、他の地域で、政治的なものも含めて歴史的選択の重さを感じる場合、それは教会への信頼を傷つけます。このよううな違いの全てを考慮に入れずに、若者の宗教性について語ることはできません。

    宗教的探求

49. 一般的に、若者たちは、自分たちが人生の意味を捜していると言い、霊性に関心を示します。  しかし、このような関心は、時として、生きておられる神の神秘との出会いに心を開くことよりも、心理的に幸せな状態を求める形をとることがあります。特に、文化の中には、多くの人が宗教を個人的問題と見、様々な霊的伝統の中から、自分自身の確信を映していると思う要素を選んでいます。そして、”諸宗混淆”ともいえる現象が広がります-全ての宗教は同じだ、とする相対主義的な考えをもつようになるのです。

  信仰共同体への信奉は、人生の意味をつかむための特段の方法と、誰もが見る、ということはありません。そして、それはイデオロギー、あるいは、物質的な自己充足の見方をもった職業的、経済的な意味での成功崇拝を伴い、時として、それにすり替えられることがあります。にもかかわらず、今でも生きている伝統から受け継がれたある種の慣行-神殿への巡礼など-は時折、とても多くの若い人々を巻き込み、しばしば聖母マリアと諸聖人への奉献ともつながって、人々の宗教体験を保持する役割を果たしているのです。

     イエスとの出会い

50.  同様の多様性は若者とイエスの姿との関係においても見られます。多くの若者は、イエスを救い主で神の子だと認識し、しばしば聖母マリアを通して親近感を持ち、信仰の旅に自分たちを関わらせます。他の若者はイエスと個人的な関係を持たず、彼を良い人、倫理的な基準と考えます。また他の若者は、聖霊との強い体験を通してイエスと出会います。しかし、それ以外の若者たちに取って、イエスは人間的な体験から遠く離れ、自分たちの人生とは何の関係もない、過去の人物です。

 たとえ、多くの若者にとって宗教と教会は無意味なものであっても、魅力的で効果的な方法でイエスが提示された時には、その姿に敏感に反応します。多くの方法で、今の若い人々は私たちに、こう言います-「私たちは、イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ福音書12章21節)、こうして、全ての人の心を特徴づける健全な意味での焦燥感-「霊的な願望のもつ焦燥感、神との出会いを求める焦燥感、愛を求める焦燥感」(聖アウグスチヌス会の大練成会の開会ミサにおける教皇フランシスコの説教-2013年8月28日)-を告白するのです。

     典礼を生きることへの熱意

51.   多くの場面で、若いカトリック信徒たちは、祈りの機会と、新鮮で真正で喜びにあふれた典礼を通して日々の生活に刺激を与えるミサを希望しています。 世界の地域によっては、典礼への参加はキリスト教徒としてのアイデンティティーにとって重要な源であり、参加者も高い水準にあります。若者たちは典礼を、神について、教会共同体と宣教活動の出発点について体験する特別の時、と見ています。それにもかかわらず、至る所で秘跡、日曜のミサが放棄され、復活された主と共同体の喜びにあふれた出会いというよりも、道徳的な訓示を受ける場と受け止められている現実が、一方にあります。一般的に、秘跡についての教えが行われているところでも、祭儀を深く味わい、その象徴と式の神秘的な豊かさに浸るための教えの狙いが達成されていません。

  参加と積極的な活動

     若者たちは積極的な参加を希望している

52.  社会の矛盾に直面して、多くの若い人々が自分たちの才能、技術、創造的な能力の成果を提供したいと希望し、責任を負う用意をしています。彼らが最も好むテーマは、社会的、環境的な持続可能性、さまざまな差別、そして 人種差別です。若者たちのこのような問題への関与は、しばしば全く新しい道をとります。それには、移動と政治的な圧力の見地からデジタル・コミュニケーションの潜在力を利用することも含んでいます-ライフスタイルの拡散と、連帯し、環境への気配りのきいた形での、消費と投資の重要な意味を持つモデル、社会と政治における責任と参加の新しい形、最も弱い人々を助ける福祉の新しい形、などです。

    若者が教会と距離を置く様々な理由

53.   今回のシノドスは、かなりの人数の若者が教会に何も求めていない、ということを知っています。それは、彼らが、自分たちの人生にとって教会は重要でない、とみているからです。中には、一人にしておいてほしい、という者もいますが、それは、教会の存在が煩わしい、腹立たしくさえある、と感じているからです。こうした心情は、必ずしも、無批判や衝動的な侮蔑に起因しているとは限らず、深刻で傾聴すべき理由から生まれていることもあるように見受けられます。それは、(注:世界中の教会で起きている)性的、経済的なスキャンダル)、聖職者による若者の感受性に適切に対応する準備の欠落、説教の準備と神の言葉を説明する際の手抜き、キリスト教共同体で若者たちに与えられる受け身的な役割、教会の、現代社会に向けた教理的、倫理的な立場についての説明の難しさ、などの問題です。

    教会の若い人々

54. 若いカトリック信徒たちは単に、司牧活動の末端を引き受けているだけではありません。彼らは、教会組織の活動するメンバー、主の霊が生き、活動する受洗者たちです。彼らは、教会そのものを豊かにするのを助けています-教会がすることだけではありません。彼らは、教会の現在であり、教会の将来だけではありません。若者は多くの教会活動において主役であり、特に、カテキーシスや典礼奉仕、弱い人たちの世話、貧しい人たちとの奉仕活動などに、幅広く活躍しています。また、教会関係の活動団体、協会、修道会も、若い人々に約束と共同責任をとる機会を提供しています。時として、若者たちの活動可能性は、年配の人々や司牧者たちが抱くある種の権威主義と不信に出会うことがあります-そうした人々は、若者たちの創造的な能力を十分に理解せず、彼らと責任を分かち合うことに悪戦苦闘しているのです。

    教会における女性たち

55.  若者たちは、一般社会と教会において、女性への認識を高め、価値を高めることを強く求めています。多くの女性が教会共同体で欠かすことのできない役割を果たしていますが、政策決定に関与することは、具体的な管理責任を求められない場合でも、しばしば困難です。女性の声や見方が不在である場合、価値のある貢献について識別することができなくなり、議論と教会の運営を貧しいものにします。今回のシノドスは、特に男女の互恵についての人類学的、神学的な省察に基礎を置いて、一人一人が避けがたい変化の緊急性をもっと認識することを勧めます。

    若者の仲間たちに向けた宣教

56. 様々な環境の中で、教会活動と集まりの若者たちのグループがあります。彼らは、率直な生活の証し、わかりやすい言葉、そして友情の真の絆を作る力を通して、仲間たちに福音を伝えることに積極的に関与しています。このような信徒使徒職は、通常の若者司牧によっては伝えることにできない人々に、福音をもたらすのを可能にし、それにかかわる人の信仰を成熟させるのを助けます。

     真の友愛にあふれた教会共同体への熱望

57.  若者は、教会に、 真正で、手本となり、的確な、共同責任をもち、そして文化的にしっかりとした、すぐれた模範を示すように求めます。時として、このような要求は批判のように思われますが、友愛にあふれ、喜んで受け入れ、楽しい、献身的な共同体、預言的に戦う社会正義などに個人的にかかわりを持つ、前向きな形のものであることも、しばしばです。若者が期待するものの中で特に顕著なのは、教会が家父長的でなく、もっと率直な対話の姿勢をとることです。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

58.  「 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ福音書24章27-31節)。

 彼らの話を聴いた後で、主は二人に、鋭く、断固とした、権威のある、変革の言葉を投げかけます。そうして、主は穏やかに、しっかりと、彼らの家に入り、一緒にお泊りになり、命のパンをお分けになります-二人の弟子の目を開くようにする御聖体のサインです。

  新たな過ぎ越し-聖霊降臨

    聖霊の働き

59.   聖霊は、二人の旅人の心に火をつけ、目を開かせ、信仰を目覚めさせます。聖霊は、この世界の創造の初めから、キリストにおいてすべてのものを総括する父のご計画が達成されるように、働いています。いつも、どこにおいても、様々な環境と文化の中で働き、困難や苦痛の最中にあっても、正義の固守、真実の追求、希望を持つ勇気を生み出します。聖パウロは言います-「被造物全体が今に至るまで、共に呻いて」(ローマの信徒への手紙8章22節)いる、と。

 若い人々の心の奥底に見出される、愛に生きることへの熱望と健全な休むことのない動きは、すべての被造物の喜びへの大きな願望の一部をなします。聖霊は、キリストを知らない者も含めて、一人一人の中に、美、善、真理に導くように働かれます。

   聖霊は教会を活性化させる

60.   若者は人生の創意に富んだ、生き生きとした段階にあります。それはイエスご自身が体験され、犠牲としておささげになったものです。第二バチカン公会議の若者たちへのメッセージ(1965年12月7日発表)は、教会を、「始まりを喜び、無条件で自らを捧げ、刷新し、新たな征服へと旅立つ能力」を持つ「世界の真の若者」と規定しました。

 教会がこのような顔を見せることを、若い人々は新鮮さと信仰で助けます。その顔の中に、私たちは「偉大な生きておられる方、永遠に若いキリスト」を見るのです。それは若者のために新しい教会を創ることではありません。新しい聖霊降臨に私たちの心を開き、若者たちとともに、教会の若さを再発見することなのです。

     信者の心の内に働く聖霊

61.   キリスト教徒の召命はキリストに付き従うことー洗礼の水を通して、堅信の秘跡を受け、ミサを通してキリストの体の一部となることです。「聖霊が来られ、水、そして火で、あなたはキリストの体であるパンに焼き上げられるのです」(聖アウグスチヌスの説話227項)。キリスト教徒の入門の過程で、成長と使命のために聖霊を新たに注がれる「聖霊降臨」を信者たちに追体験させるのが、堅信の秘跡です。その秘跡の豊かさを再発見し、一人一人の受洗者の個別の召命とカリスマの神学をもってその輪をつかみ、司牧的見地から示された道を大事にすることが重要です。そうすることで、型通りで、重要性のない儀式ではなくなります。どの召命の過程も、聖霊が指導者として付きます。聖霊は、私たちがその過程をうまく進めるように導いてくれる「内なる教師」なのです。

    神についての真の体験

62.   聖霊における召命の識別の第一の条件は、亡くなり、復活されたキリストへの信仰の真の体験ですー信仰は「私たちの闇のすべてにまき散らされる光ではありません。夜道を案内し、旅の安全を確保するランプです」(教皇フランシスコLumen Fidei」57項)。キリスト教共同体の中で、私たちは、意図しなくても、倫理的、治癒的な”一神教”を推奨する危険を冒します。そのような”一神教”は、福音の光と聖霊の力を受けた神との生き生きした出会い、というよりも、安全と安楽のための人間的な要求に応じるものです。

 人生を通してのみ命が目覚めさせられる、というのが真実だとすれば、若い人々が、キリスト教共同体-聖霊との交わりの中で、私たちを父のところに導いてくださるキリストとの友情に真に根差した共同体-との出会いを必要としているのは明白です。

 

 第1章 若さの賜物

    若者たちの中の若者としてのイエス

      イエスという若者

63.  「若者たちのための若者-若者たちの模範となり、主のために彼らを聖なるものとする」(聖イレナエウス「Adversus Haereses異端駁論)」第2巻22章4節)。キリストは、若者として生きておられたという事実によって若者の時代を聖なるものとされました。聖書には、イエスの少年期についてのエピソードが一つだけ語られています(ルカ福音書2章41-52節)-大げさに騒ぎ立てることもなく、質素に、ナザレの労働環境の中で、「大工」(マルコ福音書6章3節)、「大工の息子」(マタイ福音書13章55節)として知られた存在として、過ごされた、と。

 イエスの人生を沈思することは、若さの賜物を理解するために最適な方法ですーイエスは父を無条件で信頼し、弟子たちとの友情を持ち続け、危機においてさえも彼らに対して誠実であり続けました。最も弱い人々、特に貧しい人、病気の人、罪人、そして社会から疎んじられた人に、深い共感を示されました。当時の宗教指導者や政治権力者たちに立ち向かう勇気をもち、誤解され、否定されることを感じる経験があり、迫害の恐怖を経験され、十字架上の死に至るご自身の脆弱さをご存知でした。未来に瞳を注がれ、聖霊の力の中で、御父の御手にご自身を委ねられました。

 イエスにおいて、全ての若者は、恐れと希望をもって、将来への心もとなさと夢をもって、自分自身を見ることができ、イエスに信頼して、自分たちを委ねることができます。彼らにとって、それは、若者とイエスの出会いを沈思するインスピレーションの源となるでしょう。

      主の凝視をもって

64.   キリストの言葉を聴き、交わることは、人生のこの段階について賢明な理解を育てるために、司牧者と育成者の助けとなります。 今回のシノドスは、若者の生活の中に聖霊の働きのしるしを識別するために、イエスの姿勢をもって彼らを見つめようとしました。私たちは信じています-今日においてさえも、神は、若者たちの苦しみと助けを求める願いとともに、若者を、彼らの創造性と献身を通して、教会に、世界に話しかけます。彼らとともに、私たちは自分の時代をもっと預言的に読み取り、時のしるしを認識します。それゆえ、若者たちは、主が明日を創る期待と課題を語る「神学的な活動の場」の一つなのです。

      若さの特質

65. 若さは、個人の人格の成長の一段階として、次のようなことによって特徴づけられます。それは、推進力を一つに集める夢、一貫性とバランスを増長させる人との関係、試行と実験、そして人生の計画を徐々に作り上げる選択、です。

 この段階で、若者たちは、自分のルーツから自身を切り離さずに、ただ一人ではない形で、自立するために、前進することを求められています。社会的、経済的、文化的な環境は、いつも好ましい条件をもたらすとは限りません。多くの若い聖人たちは、若さの特徴が、彼らの素晴らしさの中で、自分たちが変革の真の預言者である日に、光を放つようにするのです。彼らの模範は、若者たちがキリストとの出会いに身をゆだねる時、若者たちができることを知らせます。

 病によって特徴づけられるハンディを持った若い人々も、価値のある貢献をすることができます。今回のシノドスは、彼らが主役となることを理解し、認める活動の場を作るように促します。たとえば、耳の不自由な人のための手話を使って、彼らに合うように工夫された要理講座のプログラム、社会経験と勤労経験を語るような場、です。

      若者たちの”健全な落ち着きのなさ”

66.   若者たちは、落ち着きのなさを経験しています。それは何よりも、彼らの自由と責任への全幅の信頼をもって、受け入れ、敬意を払い、寄り添うべきものです。教会は経験から、彼らの貢献が刷新のために欠かせないことを知っています。若い人々は、いくつかの点で、彼らの司牧者の先を行く可能性があります。

 イエスが復活された朝、彼の愛する若い弟子は、ぺトロより先に墓につきましたーペトロは年を取っており、イエスを裏切ったことで意思消沈していたのです(ヨハネ福音書20章1-10節参照)。同じように、キリスト教共同体で、若々しい躍動は教会にとっての刷新のエネルギーです。

 なぜなら、それが、教会を萎えさせているいかなるものの振り払い、立ち直り、復活された主に心を開くように、助けるからです。同時に、イエスに愛された弟子の振る舞いは、年長者の経験に通じていること、司牧者の役割を認識し、一人で前に進もうとしないこと、の重要性を示しています。ですから、歌声のシンフォニーは、聖霊の果実なのです。

     傷を負った若い人々

67.   若者たちは、ほかの人々と同じように、傷を負っています。それは、自分が被った敗北の傷、差別と不正な扱いを受けた傷、愛されている、認められていると感じない傷、です。身体的な傷と精神的な傷があります。キリストは、受難と死という苦しみに耐える運命を受け入れられ、その十字架を通して、苦しんでいるすべての若い人々のそばに来られます。

 道義的な傷もありますー過ちの重圧、間違ったことをしたことへの罪の意識です。今日では、傷と折り合いをつけることが、よい人生のための必要条件に、従来以上になっています。教会は、試練に遭っている若者たちすべてを、支援するように、そして必要とされるいかなる司牧的な活動を進めるように求められています。

   大人になること

     選択の年齢

68.   若さは、やがて終わりを迎え、大人の人生に道を開ける人生の一つの時間です。大人の人生への移行は自動的になされるのではなく、成熟の旅を意味し、若い人々が過ごす環境に、いつも助けられるとは限りません。青年期の定まりのない延長と決断の延期を好む”暫定の文化”が、世界の多くの地域に広がっています。決断することの恐れは、政策決定をある種の麻痺を引き起こします。

 しかし、若さは、じっとしていることができません。それは、選択の年齢であり、魅惑にあふれるとともに、大きな責任を伴う時期でもあります。若い人々は、職業的、社会的、そして政治的な分野などで、急進的なやり方で、自分の人生を方向付ける決断をします。そのため、これをより正確には「人生の選択」と言うことができます。若い人の繰り返すことのできない唯一つの人生が、最終的に方向付けられるのです。

(ここまで南條俊二訳)

(以下、翻訳中)

        Life under the sign of mission

69.   Pope Francis invites young people to view their lives within the horizon of mission: “So often in life, we waste time asking ourselves: ‘Who am I?’  You can keep asking, ‘Who am I?’ for the rest of your lives.  But the real question is: ‘For whom am I?’” (Address during the Prayer Vigil in preparation for World Youth Day, Basilica of Santa Maria Maggiore, 8 April 2017).  This statement sheds a profound light on life choices, because it invites us to make them within the liberating horizon of self-giving.  This is the only way to arrive at an authentic and lasting happiness!  Effectively “My mission of being in the heart of the people is not just a part of my life or a badge I can take off; it is not an ‘extra’ or just another moment in life. Instead, it is something I cannot uproot from my being without destroying my very self. I am a mission on this earth; that is the reason why I am here in this world” (Francis, Evangelii Gaudium, 273).

  A pedagogy capable of dialogue

70.   Mission is a sure target for life’s journey, but not a “satellite navigation system” which lays out the whole route in advance.  Freedom always entails a dimension of risk which needs to be evaluated with courage and accompanied wisely, according to the “law of graduality”.  Many pages in the Gospel portray Jesus inviting us to be daring, to put out into the deep, to pass from the logic of following commandments to that of generous and unconditional gift, without concealing the requirement to take up one’s cross (cf. Mt 16:24).  He is radical: “He gives all and he asks all: he gives a love that is total and asks for an undivided heart” (Francis, Homily, 14 October 2018).  Without misleading the young through minimalist proposals or overwhelming them with a corpus of rules that give Christianity a reductive and moralistic image, we are called to invest in their fearlessness and to educate them to take on responsibilities, in the sure knowledge that error, failure and crisis are experiences that can strengthen their humanity.

The true sense of authority

71.   In order to undertake a true journey of maturation, the young need authoritative adults.  In its etymological meaning, auctoritas indicates the capacity to cause to grow;  it does not express the idea of a directive power, but of a real generative force.  When Jesus encountered the young, in whatever state and condition they might find themselves, even if they were dead, in one way or another he said to them: “Arise!  Grow!”  And his word brought about what he was saying (cf. Mk 5:41;  Lk 7:14).  In the episode of the healing of the possessed epileptic (cf. Mk 9:14-29), which evokes so many of the forms of alienation experienced by young people today, it seems clear that Jesus stretches out his hand not to take away freedom but to activate it, to liberate it.  Jesus fully exercises his authority: he wants nothing other than the growth of the young person, without a trace of possessiveness, manipulation or seduction.

Family bonds

72.   The family is the first faith community where, for all its limitations and incompleteness, the young person experiences God’s love and begins to discern a vocation.  The last two Synods and the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia which came out of them, repeatedly emphasized that the task of the family, as a domestic Church, is to live the joy of the Gospel in daily life and to bring all its members to do so, according to their circumstances, remaining open to the dimension of vocation and mission.

Yet families do not always teach their children to consider the future through the lens of vocation.  Sometimes the desire for social prestige and personal success, the ambition of parents or a tendency to determine the choices of their children leave little room for discernment and condition the decisions that are made.  The Synod recognizes the need to help families arrive at a clearer understanding of life as a vocation.  The Gospel account of the adolescent Jesus (cf. Lk 2:41-52), subject to his parents but able to detach himself from them so as to concern himself with his Father’s affairs, can shed valuable light on how to interpret family relationships from a Gospel perspective.

Called to Freedom

The Gospel of freedom

73.   Freedom is the essential condition for every authentic life choice.  Yet there is a risk of it being misunderstood, not least because it is often inadequately presented.  The Church herself comes across to many young people as an institution that imposes rules, prohibitions and obligations.  Yet Christ “has set us free for freedom” (Gal 5:1), leading us from the regime of the Law to that of the Spirit.  In the light of the Gospel, it is helpful today to acknowledge more clearly that freedom is essentially relational and to show that passions and emotions matter in so far as they guide us towards authentic encounter with others.  This perspective clearly shows that true freedom is intelligible and possible only in relation to truth (cf. Jn 8:31-32) and above all to charity (cf. 1 Cor 13:1-13; Gal 5:13): freedom is being oneself in the heart of another.

A responsorial freedom

74.   Through lived experience of fraternity and solidarity, especially with the lowliest, young people learn that authentic freedom comes from feeling accepted, and the more we make space for others, the more it grows.  They have a similar experience when they make a commitment to simplicity of life or respect for the environment.  When they experience mutual recognition and shared commitment, they discover within their hearts a silent appeal to love that comes from God.  This makes it easier to recognize the transcendent dimension that lies at the heart of freedom and that comes alive through contact with the most intense life experiences – birth and death, friendship and love, guilt and forgiveness.  These are the experiences that help us to see that the nature of freedom is radically responsorial.

Freedom and faith

75.   More than 50 years ago, Saint Paul VI introduced the expression “dialogue of salvation” and he interpreted the mission of the Son in the world as an expression of an “appeal of love”.  He added, though, that we are “free to respond to it or to reject it” (cf. Ecclesiam Suam, 75).   From this perspective, the act of personal faith appears both free and liberating:  it will be the point of departure for a gradual appropriation of the contents of the faith.  So faith is not an element added to freedom as if from outside, but it fulfils the desire of conscience for truth, goodness and beauty, rediscovering them fully in Jesus.  The witness of so many young martyrs past and present, echoed powerfully at the Synod, is the most convincing proof that faith makes us free in the face of the powers of this world, in the face of its injustices and even in the face of death.

Freedom that is wounded and redeemed

76.   Human freedom is scarred by wounds from personal sin and from concupiscence.  But when, by experiencing forgiveness and mercy, people become aware of the obstacles that imprison them, they grow in maturity and can commit themselves with greater transparency in definitive life choices.  From an educative perspective, it is important to help young people not to feel discouraged in the face of errors and failures, even humiliating ones, because these form an integral part of the journey towards a more mature freedom, aware of its greatness and its weakness.

But evil does not have the last word : “For God so loved the world that he gave his only Son” (Jn 3:16).  He loved us to the end and thus he ransomed our freedom.  Dying for us on the cross, he poured out the Spirit, and “where the Spirit of the Lord is, there is freedom” (2 Cor 3:17 : a new freedom, a paschal freedom, which is fulfilled in the daily gift of self.

(以下、翻訳・岡山康子)

第2章 召命の神秘

  召命の探求

   召命、旅、そして発見

77.サムエル記(同3章1-21節参照)を読むと、識別するための基本的な要素が何であるかがわかります。神が導かれることをよく聞き、認識する、個人的な経験、理解を徐々に深め忍耐強く、丁寧に、神秘を伴って、共同体への使命、であることがはっきりしてくるのです。サムエルは召命を引き受けねばならない運命を決して負わされたのではなく、日々の相互信頼の中での愛の提案、宣教への派遣です。

 若いサムエル同様、男女問わずすべての人間にとって、召命には、特に選別された、という瞬間がある一方、長い旅路が求められます。主の言葉は理解し、解釈するのに時間がかかります。託された使命は、徐々に明らかになるのです。若者は次第に自己を発見していく冒険に魅了され、様々な活動や、出会いや、人との関係から意欲的に学び、日々の生活の中で自分を試していくのです。

 ですが、いろいろな体験をつなぎ合わせ、軌道からそれる危険を克服し、神が示されるサインを認識しながら、信仰の観点から読み取るためには、助けが必要です。召命は、一度には明確になりません。それは、「信仰は旅する範囲でしか、神の言葉によって開かれた地平の向こうに行くことを選んだ範囲でしか、見えない」(教皇フランシスコ回勅「 Lumen Fidei(信仰の光)」9項)からです。

  召命、恵みと自由

78.何世紀もの間、召命の神秘の神学的理解の力点は、そのテーマが作り出された時点の社会、宣教の文脈によって、異なってきました。どの様な場合にも、「召命」という言葉の類似的な性格は、その時々の現実の様々な局面と同様に、認める必要があります。

 これは、時として、全体像の持つ複雑さに常に適切に対応するとは限らないやり方で、個人的な側面を強調してきました。ですから、究極の源が神にある「召命の神秘」を深く取り込むためには、想像力と宗教的言語を純化し、聖書の物語の豊かさと調和を再発見せねばなりません。

 特に、神の選択と人間の自由の相互作用について、あらゆる決定論、あらゆる外在論と切り離して、よく考えることが必要です。召命は、人間がただ復唱するだけの、前もって書かれた台本でもなければ、台本なしのアドリブでもありません。神は私たちを「友」と呼ばれ、「僕」ではない(ヨハネ福音書15章13節参照)のですから、私たちの選択は、神の愛の計画の歴史的な展開に真に貢献するのです。

 一方、救済は、私たちを無限に超えた神秘-ですから、主のなさることに耳を傾けることによってのみ、救済において私たちが果たすように呼ばれている役割を知るのです。この見地から分かることは、召命は真の恩寵の賜物であり、契約の賜物―「私たちの自由」という、最も美しく最も貴重な秘密の宝-なのです。

  創造と召命

79.聖書は「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロサイの信徒への手紙1章16節)と言明し、「召命の神秘」を神の創造そのものに満ちた現実として読み取るよう、私たちに指示しています。

 神は言葉によって創造されたー言葉は存在を呼び寄せ、命を呼び寄せ-そして、闇と混沌の中から、様々な特徴づけを行い、秩序の美と多様性の中の調和を宇宙に刻み込まれました。

 聖パウロ6世教皇は「すべての命は召命である」(回勅「Populorum Progressio(人類の進歩)15項)と言われ、ベネディクト16世教皇は「人間は対話する存在として創造された」と付け加えられました-創造の御言葉は、私たち一人ひとりを個人的に呼ばれ、生命そのものが神からの召命だ、ということ示された」(使徒的勧告「Verbum Domini(主のことば)」77項)と。

  召命としての文化に向かって

80.召命という言葉で人生について語ることは、私たちに、若者の成長にとって大変重要な要素に光を当てることを可能にします-それは、「召命は、運命で決められたり、偶然の産物だったりするものだ」という見方を排除し、そうではなく、自らの意思で苦労して求めるべき「私的財」だ、ということを意味します。

 第一のケースで、存在することの価値のある目的が分からないために、召命がないなら、第二のケースで「根無し」と考えられる人間は、「召命を持たない」ということになります。これが、信徒たちの洗礼の自覚を基礎に作られた全てのカトリック共同体社会が「真の召命の文化と召命のために常に祈る責任を育てることができるようにする環境」を作り上げることが重要だ、という理由です。

 イエスに従う召命

  イエスの魅力

81.多くの若者たちは、イエスの姿に惹きつけられます。若者たちにとって、イエスの生き方は善良で美しく思えます。なぜなら貧しく簡素、誠実で深い友情の上に成り立ち、信仰仲間に寛容で誰にも閉ざさず、常に誰に対しても賜物を与えてくださるからです。今日でも、イエスの生活は魅力的であり、感動的で、すべての若者を駆り立てる挑戦なのです。「新しいアダムであるキリストは、父なる神とその愛の神秘の啓示によって、完全に人間となり、その究極の召命をはっきりと示されたのです」(現代世界憲章22)。

  信仰、召命、と弟子たち

82. 実際、イエスは、彼の生き方をもって人々を惹きつけただけでなく、はっきりと信仰への呼びかけをされました。イエスの言葉と行動の中に、神のことを正しく話し、神との関係を正しく述べている。と認めた男女と出会い、彼らを救済へ導く信仰へと向かわせました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」(ルカ福音書8章48節)。

 また彼に出会ったある者たちは、彼の弟子となり証人となるよう、呼びかけられました。イエスに従う人々の中には、常にいろいろな種類の弟子がいました。弟子のほとんどは、日々の生活を共にする中で信仰生活を送りました。また、婦人たちを含め、イエスと共に旅をしながら福音を伝える人々もいました。(ルカ福音書8章1~3節) 当初から、弟子たちは、その集団の中で、それぞれの役割を果たし、イエスの導きと説教の奉仕にかかわりました。

  聖母マリア

83. 召命の神秘を描く聖書に出てくる人物の中で、特に聖母マリアについて思いを巡らすべきでしょう。この乙女の「はい」という受け入れによって、受肉が可能となり、それによって、ほかのすべての教会の使命、聖職が生まれたのです。ですから、聖母はイエスの最初の弟子であり、すべての弟子のモデルなのです。

 信仰を共にして旅しながら、聖母マリアは十字架の足元にまで御子に従い、キリストの復活の後は、初期教会の聖霊降臨に加わりました。母として、そして慈悲深い教師として、教会に寄り添い、あらゆる召命に命を与える聖霊に懇願し、祈り続けました。

 ですから、明らかに「Marian principle」は、抜きんでた役割を持ち、そのあらゆる明示の中で(いろいろなご出現で)教会の全生命を照らしています。聖母と並んで、その配偶者ヨゼフの姿は、召命に対する答えのもう一つのモデルとなっています。

  召命、さまざまな職業

   召命と教会の使命

84. 私たちは、洗礼とは誰にとっても例外なく神聖への招きであることを思い出さないなら、洗礼による召命の重要性を完全に理解することはできません。この呼びかけは必ず教会の使命を分かち合うことに招かれている、という意味です。

 教会の使命の基本的な目的とは神との親交、そして全ての人々の間の親交です。教会の使命は多様で、それぞれが繋がっており、それを通して、教会は、その使命が、「兄弟としての共同体の中で受け取った福音の本当の現れ」であることを理解するのです。キリストに従うそれぞれの異なるやり方は、各自が自分のやり方でイエスの出来事を証明する使命があることを表しており、その中で全ての人が救済をみつけるのです。

   さまざまなカリスマ

85.聖パウロはその手紙の中で、何度もこの度テーマについて書いています。教会のイメージを体にたとえ、体はさまざまな部分で成り立っていて、どの部分もそれぞれ必要で、同時に体全体の一部であるので、全体が一つになってはじめて、体が生きて調和がとれると強調しています。聖パウロはこの(注:キリストにおける)交わりの源は、至上の三位一体の神秘であるとしています。「賜物には様々なものがありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めはさまざまありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きはさまざまありますが、「すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリントの信徒への手紙12章4~6節参照)。

 第2バチカン公会議と、それを受けた教導職(注:教皇)は、聖霊が、常に教会の中で働いて、教会を元気に若返えらせるよう、恩寵の賜物を認めて、受け入れ、知識をもって、その重要性を評価するように、教会のカリスマと聖職者たちの正しい神学を詳しく述べるために役立つ指摘をしています。

   職業と召命

86. 多くの若者が、召命という視野をもって、職業に従事しています。しばしば、魅力的ではあっても、キリスト教的価値観と合わないオファーを拒絶し、神の王国への奉仕に実を結ぶよう、彼らの個人的才能をどう使うのが一番良いか問いかけながら、職業を選択します。仕事は、多くの人にとって、自分たちがいただいた賜物を認めて大切にする機会であると考えられています。このようにして、人々は男女とも、創造、贖い,聖別の三位一体の神秘に積極的に参加するのです。

   家庭

87. 最近の家庭に関する2度にわたるシノドスの後に出された使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」は、「教会の中で、家庭の召命は、豊かな貢献です」と述べ、家族が、お互いの愛と、子供たちを産み、教育することを通じて、福音の信仰の証しとなるよう招かれている、という極めて重要な貢献だ、としています。この使徒的勧告に書かれた「豊かさ」について話すことで、今日の若者たちが、結婚の使命の美しさを再発見し、理解するのを助けるために、再びそのメッセージを取り上げることが、いかに重要かを思い起こさせてくれます。

  聖職者としての生活

88. 聖職者となる賜物は、修道士にせよ、司祭にせよ、教会の中の聖霊の働きによるもので、特別な使徒的価値を持ち、無償の愛の喜びに満ちた信仰の証しとなります。信仰共同体や、新しく創設された団体で、(キリストの)同胞としての生活を忠実に正しく生きるなら、それはキリストの信仰の仲間としての一派となり、祈りと黙想のセンターとなり、世代や文化を超えた対話の証しの場となり、福音伝道と慈善のための舞台となるのです。

 世界の周辺地域の、最も貧しい人々の世話をし、助けている多くの聖職者の男女の布教活動は、「外に向いた教会の献身的な姿」を具体的な形で証しています。いくつかの地域で、人数の減少や、高齢化による疲れを経験しても、とくに、その精神と、いろいろなカリスマのミッションを多くの信徒たちと分かち合い、協力して責任を果たすことによって、聖職者としての生活を実り豊かに創造的に続けることができます。教会と世界は、この召命の賜物なしにはあり得ず、それが私たちの人生の(時代の)大きな資産なのです。

   叙任された聖職者の職務

 司祭叙階は、教会である証しの構成要素であり、キリスト教徒の人生に必要、という認識のもとに、教会には常に聖職者への特別の召命があります。それ故、教会は常に司祭志願者の育成と随伴に特別に力を入れてきました。

 しかし、多くの教会で志願者の数が減っていることから、司祭の召命、人々の牧者となるようにというイエスの呼びかけに応える司牧者の召命について、新たな考察が必要になっています。同様に、終身助祭への召命が大きな注目を集めています。なぜなら、その豊かな可能性についてはまだ手が付けられていないからです。

  「独身」という状況

90. 今回のシノドスでは、「独身者」として生きる人々の状況についても考察しましたが、この言葉が実に多様な状況を指し示すことを認めています。結婚しない状況にはあらゆる原因があり、進んで独身の道を選ぶ人もいれば、不本意ながらの人もおり、文化的、宗教的、社会的要因によることも、あり得えます。ですから、非常に幅広い人生の選択肢があることが指摘できます。教会は、このような状況にあっても信仰と賜物のうちに生きるなら、洗礼の恩寵を受け、招かれている神聖さへ向かって進む、多くの道のうちの一つになり得ることを認識しています。

 第3章 寄り添う福音宣教

   寄り添う教会

    選択に直面して

91. 現代社会は、明らかに今まで以上に多元的で選択の可能性が広く、特にますます直線的には行かなくなり、非常に不安的な人生の旅路に直面した時には、選択のテーマにはいろいろなレベルで独自の力が加わってきます。若者は、しばしば規制のない激しい競争の体制の中で、自分を「あらかじめ定められ、変えることのできない冷酷な運命の奴隷」と考えたり、「優秀」という抽象的な理想に苦しめられたり、無邪気な分だけ、アプローチの仕方が揺れ動きます。

 それ故、妥当で、安定した、基礎のしっかりした選択をするために、彼らに寄り添うことが、広く必要とされるのです。正しい選択に向かっての旅路で、彼らの側にいて、支え、寄り添うことは、教会が母としての機能を果たす一つの道であり、それが神の子供たちに自由をもたらします。この種の仕事は、イエス・キリストの神が人々に対してなさったやり方の続きです。常に心から深く、側にいて、ひたむきで愛情に満ちた親密さで、限りないやさしさをもって寄り添うのです。

     共にパンを裂く

92. エマオに向かう弟子たちのエピソードが示すように、寄り添うためには、大切な関係を結びながら、共に道を歩む必要があります。「accompany(寄り添う)」という言葉の語源は、「裂いて分けられたパン(cum pane)」で、このエピソードが象徴する「人間と聖体の恵みの豊かさ」を表しています。

 ですから、「寄り添う」というテーマは、(信仰の)共同体全体に及ぶものなのです。そのテーマのもとに、旅路にある人に「何を参考にしたらいいか」を教え、進路指導をして支えることができる-そのような関係性のドラマを(信仰の)共同体が展開するからです。大人の生活に向かって、人間としてキリスト教徒としても成長するよう寄り添うことは、その共同体が復活し、世の中を新しくできることを示す方法の一つなのです。

 聖体拝領は、キリストの死と復活の出来事の生きた記念であり、与えられた使命を果たすための福音宣教と信仰伝達の特別な空間です。聖体祭儀の集まりでは、イエスに個人的に触れられ、教えを受け、癒されるという経験が、それぞれの人の個人の成長への旅路に寄り添うのです。

     いろいろな環境での役割

93. 寄り添う役割を求められているのは、家族だけでなく、若者たちの生活のさまざまな場面で重要な役割を果たす人々ー教育担当、指導担当、訓練担当、そのほか専門家も含めた関係者ーです。司祭や男女の修道者たちが、それを独占してはいませんが、彼らの召命からくる、あるいは、今回の会議に参加した若者たちが多くの若者たちを代弁する形で再認識をもとめる特定の役割があります。いくつかの教会の体験では、カテキスタの役割を高めて、キリスト教共同体とそのメンバーのために寄り添う役割を与えているところもあります。

     社会人になる過程での寄り添い

94. 寄り添いは、霊的成長やキリスト教徒としての生活の実践に限りません。社会の中で徐々に責任を引き受ける過程、たとえば専門的な分野や社会政治への関わりにおいても、寄り添いは有益です。この意味で、今回のシノドスは「教会による社会教育の重要さ」を指摘しています。今までにないほど文化間、宗教間の関わりのある社会と信仰共同体の中で、自分の殻と相対主義に引き籠る二重の誘惑に負けないためにも、「お互いを豊かにし、友愛の交わりへの可能性を確かめる、多様性をもつ関係に特別に重視」した寄り添いが、必要とされているのです。

    グループと個人についての信仰共同体の寄り添い

      実りある緊張

95. 個人的な寄り添いと信仰の共同体の寄り添いの間には、固有の補完性があります。あらゆる霊性と教会の感性は、それぞれの方法で繋がって補いあうことが求められています。特に、基本的な人生の選択についての識別、あるいはきわどい時期の折衝のような、特に微妙な時には、直接、個人的に寄り添うことが特に役に立ちます。それだけでなく、日々の生活で神との関係を深める方法としても重要です。神学校の生徒や、若い司祭、育成中の修道士や修道女に個人的に寄り添うことの重要性は強調せねばなりません。結婚準備中の男女や、秘跡を受けて間がない人、求道者から霊感を引き出す時も同様です。

      信仰の共同体の寄り添いと、グループでの寄り添い

96. イエスは、弟子たちの集団と生活を共にし、寄り添われました。共同体の経験は、各個人の長所と限界に光を当て、私たちが「共通のものとして受け取った賜物を分かち合わなければ、主に従うことはできない」と謙虚に認めるのを助けてくれます。

 こうした慣行は、今日の教会でも続いています。若者たちは、さまざまなグループ、活動や団体に参加し、そこで、温かく迎えられ、彼らの望む強い人間関係を経験します。このような組織への参加は、キリスト教徒としての入門の旅が終わった段階で特に重要です。なぜなら、若者たちに、キリスト教徒としての召命を成熟させる機会を与えるからです。こうした環境の中で、適切な寄り添いを保証するために、司牧者は存在感を示さねばなりません。これらのグループで、教育担当者、指導担当者は、寄り添いの観点から拠りどころとなり、彼らの間で育まれるむ友情は、仲間同士の寄り添いの基礎となります。

      個人的な霊的寄り添い

97. 霊的な寄り添いは、主なるキリストに従うために、人々が彼らの生活のあらゆる側面を一歩一歩統合してゆくのを助けるためのものです。この過程には三つの要素があります。生活について、イエスとの出会い、そして、神の自由と個人の自由で交わされる神秘的な対話を聴くことです。寄り添う人々は、適切に質問し、若者の答えの中に聖霊の働きがあることが認められるように、喜んで忍耐強く寄り添わねばなりません。

 個人的な霊的寄り添いの中で、人は毎日の生活の中で聖霊の促しを聴いて、信仰の全体像の中から識別し、解釈し、選択することを学びます(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」169-173項参照)。霊的寄り添いのカリスマは、今も昔も、必ずしも叙階司祭でなければならないということはありません。今日ほど、知的な準備よりも、深い経験と人間性を備えた父親や母親、霊的指導者が必要とされている時はありません。この分野で、シノドスは、特に女性や、よく訓練された老若男女の一般信徒たちの中からこの役割を担う大きな人的資源を再発見したいと切に望んでいるのです。

      寄り添いと赦しの秘跡

98. 赦しの秘跡は、信仰生活の中で、限界や弱さだけでなく、罪によって怯む時、私たちを助けて前に進ませるために重要な役割をします。贖罪司祭と霊的寄り添いは、はっきりと区別されねばなりません。なぜなら、形も目的も異なるからです。健全で賢明な段階的な悔い改めの道が司牧的に求められます。そこには、若者たちが道徳的生活を読み取ることを助け、罪に対する正しい判断力を身につけさせ、とりわけ、自らを喜んで赦しの慈悲に委ねることができるように、助けることのできる育てる人々が必要です。

      統合的な寄り添い

99. 今回のシノドスは、霊的側面が、人間的、社会的側面とうまく統合されるような統合的寄り添いを促進する必要を認識しています。教皇フランシスコは「霊的識別は、人間科学から引き出された存在的、心理学的、社会学的、道徳的見識を考慮に入れないものではありません。それは、それらを考慮に入れると同時に、それらを超越するものなのです」(使徒的勧告「喜びなさい、大いに喜びなさい」170項)と説明されています。それは、異なる霊性や文化を尊重しつつ、排除することも混乱することもなく、これらの要素をダイナミックに取り入れることなのです。

 心理学的、あるいは心理療法的寄り添いは、超越的なものに開かれている限り、人格的な統合の旅にとって、基本的なこととなり得ます。そして、(聖職者としての)職業上の成長の可能性に、閉じられていたり、ブロックされていた人格的側面を再び開くことを可能にします。

 若者たちは、何の隠し立てもない、豊かさと壊れやすさをもって生きています。心理学的な助けがあれば、彼らが個人的な歴史を辛抱強く追体験するのを助けるだけでなく、もっと感情的に安定した心の平静に達するのを助ることができるのです。

      叙階司祭の育成と神に捧げる生活の期間の寄り添い

100. 若者たちが司祭育成の家や神学校に入った時、彼らが共同体に深く根を降ろしていけるか、同僚との友情関係が安定しているか、勉強や仕事に取り組んでいけるか、貧しさや苦難と向き合っていけか、確かめることが大切です。

 霊的寄り添いは祈りと内面を見つめることから始めることが不可欠で、特に、自制心や禁欲という面で自分自身の生活を識別することを学びます。「天の国のために結婚しないこと(マタイ福音書19章12節)は、自由、喜び、無償の奉仕、謙遜の証であり、正しいと証明される賜物として、志願あるいは最初の宣誓をして受け入れられる前に理解されねばなりません。心理学は、情緒的成長と人格の統合を助けるためのものと理解されるべきで、職業的倫理に従って、育成中の者たちの実際的自由を尊重して使われるべきものです。

 神学校長や司祭育成の責任を負うものは誰も、「育成の旅を統合し、現実の識別に到達し、育成にかかわるすべての人々と相談し、育成の過程を中止して別の召命の道へ進ませるよう導くべきか決定する」という大変重要な役割をもちます。一旦最初の育成段階が終わると、次の育成段階へと、特に若い司祭と聖職にある男女の寄り添いの必要があります。

 彼らはしばしば、難問と、あまりにも大きすぎるほどの責任に直面しなければなりません。彼らに寄り添う仕事は、しかるべく委託された人たちの肩にかかってくるだけでなく、個人的に司教や上長たちによって行われなければなりません。

    良い寄り添い役

     寄り添うための召命

101. 若者たちに、よく、寄り添う役目の人に必要な資質を説明してくれるよう求められます。寄り添いの仕事は、真の福音宣教であり、寄り添う側に使徒のような、また使徒の教えを伝えられる資質が、要求されます。

 助祭フィリポのように、寄り添い役は、聖霊の呼びかけに従い、キリスト教共同体の象徴であるエルサレムの壁に閉ざされた安全な場所から外に出て、おそらく危険な、人気のない、さみしい場所に向けて出発し、そこで馬車を追うのです。

 馬車に追いつき、異邦人の旅人に出会い、彼は、おそらくは自発的に、予想もしなかった質問を引き出すために、異邦人の旅人との人間的関係を築く方法を見つけねばならないのです(使徒言行録8章26-40節)。要するに、寄り添うためには、「主の聖霊の意のままに、寄り添われる人のために使われるように、我が身を差し出し、謙遜のうちに道を譲る勇気」を持たねばならないのです。

     寄り添い役の人物像

102. 良い寄り添い役とは、バランスがとれ、よく傾聴し、信仰深い祈りの人で、自分の弱さも短所も分かっている人です。それ故、教訓的になったり、甘やかしたりせずに、寄り添う相手の若者の受け入れ方を知っています。必要な時には、兄弟のような叱り方も知っています。

 「寄り添いとは、深い霊的な根付きを必要とする使命だ」という意識があれば、寄り添う若者との関係で、彼らにとって束縛されない助けとなります。すなわち、寄り添う側の意思や選択を押し付けることなく、祈りで支え、自分に心を開いてくれた若者たちの中に、聖霊が与える実りに満足感を得ながら、彼らの旅の結果に敬意を払います。

 さらに、自分が中心的役割を演じたり、相手の中に自主性よりも依存心を生み出してしまう、支配的で操作的な態度をとったりせず、彼らのために奉仕する立場に自分を置きます。この相手への深い敬意は、支配的になったり、虐待やその他あらゆる危険に陥らないための、最大の保証となるのです。

     育成の重要性

103. 寄り添い役はこの役割を果たすために、自分自身の霊的生活を涵養し、この使命をお与えになった神と自分をつなぐ絆を育てる必要があるでしょう。同時に、自分の属する教会共同体の支えも、感じる必要があります。この特別な奉仕のための効果的な養成を受け、自分も、この寄り添って見守る仕事から恩恵を受けられることが重要です。

 注目すべき点は、私たちの「教会である」ことの様々な特質の中で、若者たちが特にその価値を認めるのは、力を合わせて働く用意と能力があることです。このようにして、若者の育成は、もっと重要で、効果的で、機敏なものとなります。力を合わせて働くのに求められる技量には、具体的な関係における徳を養うことが含まれます。それは、相手の話を聴く訓練、相手が自由にできる余地を残す包容力、相手を赦す用意、共同体の真の霊性に従って率直に話をする前向きの姿勢、です。

 第4章 識別のわざ

    識別の場としての教会

     様々な霊的伝統がもつ意味のきらびやかな集まり

104. 召命としての寄り添いは、選択することをを求められた人の側の識別の過程の重要な局面です。「識別」という言葉は、互いに関連はあるものの、いろいろな意味でつかわれます。最も一般的な意味では、識別とは、重要な決定をする過程を意味します。

 二番目ですが、更に重要な意味は、典型的なキリスト教の伝統と我々の目的に関連して、特定の状況で、人や、グループや信仰集団が神の意志を認識し、それに従おうとするための霊的原動力のことを意味します。「すべてを吟味して、よいものを大事にしなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一5章21節)聖霊の声を認識し、聖霊の求めを受け入れようとすることに関する限り、識別とは、イエスの生活態度の極めて重要な特徴であり、特別な行為というよりむしろ基本的な態度のことです。

 教会の歴史を通して、いろいろな聖職者が、異なる歴史的時代背景や異なるカリスマ的感受性に関係して「識別」について異なる強調の仕方で扱ってきました。このシノドスの間に、私たちはその中の言語の違いで変わることのない、共通するいくつかの要素を認識しました。すべての人の生活と歴史の中の神の存在、神の業を認識する可能性,祈りと秘跡に預かる生活と禁欲の役割、聖書の求めに常に関与すること、獲得した確実性について束縛されないこと、日々の生活という観点で常に評価すること、そして、十分な寄り添いの重要性、です。

      聖書と教会の「心」に

105. それが「信仰に根差した内面的態度」(第15回シノドス通常総会の第一回全体会議における教皇フランシスコの挨拶=2018年10月3日)である限り、識別は教会の「心」にあり、その使命は、すべての人に、すでに彼らの人生と彼らの心の中で働いておられる「神との出会い」をもたらすことです。

  それ故、教会は、それぞれの人が瞑想と祈りの環境の中で、彼らの召命を探し求められるよう、信頼と自由の風潮を好むのです。教会は各人の歴史を読み返し、それを聖書に照らし合わせて、脆弱性を発見する実際的な機会を提供します。教会はいろいろな人生の選択を成し遂げる証人との契約を可能にします。そして、貧しい人々との出会いは、人生に何が必須であるかの理解を迅速に深めさせ、一方、秘跡、とくに聖体と赦しの秘跡は、神の意志を発見する道に旅立つ人々を養い、支えます。

  教会共同体の範囲はあらゆる識別に及ぶもので、それは決して、単に個人的範囲に留まるものではありません。同時に、あらゆる個人的識別は、その信徒たちの霊的経験を通して、聖霊が言っていることを聴くよう促すことによって教会共同体に問題を投げかけます。すべての信徒同様、教会そのものもまた常に識別が必要なのです。

識別における良心

     神は「心」に話しかける

106. 識別は、実際にすべての人の心の中に起きている事柄に注意を向けます。聖書の中で「心」という言葉は、その人の内面の中心の場所を指しています。そこで、神がいつも私たちに話しかけておられる御言葉を聴くことは、私たちの生活と私たちの選択を評価する基準となるのです(詩編139章参照)。

 聖書は個人的観点で述べていますが、同時に、共同体の観点で強調してもいます。その上、預言者によって約束された「新しい心」とは、個人的な賜物ではなく、イスラエル全体にかかわるものです。その伝統と救済の歴史の中に、信者はその存在を認められるのです(エゼキエル書36章26-27節参照)。福音書も同じことを言っています。イエスは、内面の重要性を強調し、道徳的な生活の中心は、「心」であると言っています(マタイ福音書15章18-20節参照)。

  (以下翻訳中)

(以下翻訳中)

   

   The Christian idea of conscience

107.        Saint Paul amplifies what the biblical tradition had to say about the heart, placing it in relation to the term “conscience”, which he takes from the culture of his time.  In the conscience we gather the fruit of encounter and communion with Christ: a salvific transformation and acceptance of a new freedom.  The Christian tradition insists on the conscience as the privileged place for special intimacy with God and encounter with Him, where his voice is heard:  “Conscience is the most secret core and sanctuary of a man. There he is alone with God, Whose voice echoes in his depths” (Gaudium et Spes, 16).  This conscience is not about immediate and superficial sentiment, nor about “self-consciousness”:  it testifies to a transcendent presence, which each person discovers in his own interiority, but which he does not control.

  The formation of conscience

108.        Forming our conscience is the work of a lifetime, in which we learn to cultivate the very sentiments of Jesus Christ, adopting the criteria behind his choices and the intentions behind his actions (cf. Phil 2:5).  To reach the deepest dimension of conscience, according to the Christian vision, it is important to cultivate the interiority that thrives on periods of silence, on prayerful, listening contemplation of the Word, on the sustenance gained from the sacraments and from Church teaching.  Moreover we need to develop the habit of doing good, which we review in our examination of conscience: an exercise which is not just about identifying sins, but includes recognizing God’s work in our daily lives, in the events of our history and our cultures, in the witness of so many other men and women who went before us or who accompany us with their wisdom.  All this helps us to grow in the virtue of prudence, giving an overall direction to our life through concrete choices, in the serene awareness of our gifts and limitations.  The young Solomon asked for this gift more than any other (cf. 1 Kings 3:9).

Ecclesial conscience

109.        At the most personal level, the conscience of every believer is always related to the ecclesial conscience.  It is only through the mediation of the Church and its tradition of faith that we can access the real face of God revealed in Jesus Christ.  Spiritual discernment is therefore seen as a sincere work of conscience, in our duty to know the good that is possible, on the basis of which to make responsible decisions as to the right exercise of practical reason, within and in the light of our personal relationship with the Lord Jesus.

The practice of discernment

Familiarity with the Lord

110.        As an encounter with the Lord that takes place deep within the heart, discernment can be understood as an authentic form of prayer.  Hence it requires sufficient periods of recollection, both in the context of daily life and at privileged moments, like retreats, courses of spiritual exercises, pilgrimages, etc.  Serious discernment is helped by all those occasions when we encounter the Lord and deepen our familiarity with Him, in the various forms in which he makes himself present:  the Sacraments, and especially the Eucharist and Reconciliation;  listening and meditating on the Word of God, Lectio Divina in the community, the fraternal experience of common life, and encounter with the poor – with whom the Lord Jesus identifies.

The attitudes of the heart

111.        Opening ourselves to listen to the Spirit’s voice requires particular interior dispositions: the first is the attention of the heart, favoured by silence and by a self-emptying that demands asceticism.  Equally fundamental are self-awareness, self-acceptance and repentance, combined with a willingness to put one’s life in order, abandoning whatever might emerge as an obstacle and regaining the interior freedom necessary to make choices that are guided only by the Holy Spirit.  Good discernment also requires attention to the movements of the heart, as we grow in the capacity to recognize and name them.  Finally, discernment requires the courage to engage in spiritual combat, as there will be no shortage of temptations and obstacles that the Evil One places in our path.

The dialogue of accompaniment

112.        The various spiritual traditions all agree that good discernment requires regular interaction with a spiritual guide.  Putting our lived experience into words authentically and personally helps us to see it more clearly.  At the same time, the accompanier provides us with an essential element of accountability, becoming a mediator of the maternal presence of the Church.  This delicate function was considered in the previous chapter.

Decision and confirmation

113.        Discernment as a dimension of the manner of life of Jesus and his disciples makes possible the concrete processes that carry us beyond uncertainty, to the point where we can assume responsibility for decisions.  Hence processes of discernment cannot last indefinitely, either in our personal lives, or in the lives of communities and institutions.  Decision-making is followed by an equally fundamental phase of implementation and verification in daily life.  It is therefore essential to proceed via attentive listening to interior promptings so as to hear the voice of the Spirit.  Engagement with daily reality takes on special importance in this phase.  Various spiritual traditions point out the value of fraternal life and service to the poor as a test for decisions that have been taken and as a setting in which the person fully reveals himself.

(ここから田中典子訳)

第3部 「”彼ら”はすぐさま、発つ」

 

114.「二人は互いに言った。『道々、聖書を説き明かしながら、お話くださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』。すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ福音書24章32-35節)。  私たちは、このみ言葉を聞いて、出会いの喜びを感じます-出会いの喜びは、心を満たし、人生に意味を与え、新たな活力を注ぎ込みます。顔は輝き、人生の旅は新たな活力を得ます。召命の反応の光と力は、共同体社会と全世界に対する宣教となります。遅滞なく、恐れもなく、二人の弟子はエルサレムに戻り、仲間に会って、復活されたイエスとの出会いを知らせようとします。  若い教会    復活の象徴

115.  エマオでの弟子たちの(注:イエスの十字架上の死と復活の)過越しの霊感とつながる形で、マグダラのマリアの身に起きた出来事(ヨハネ福音書20章1⁻18節)は、このシノドスの成果として、カトリック教会が若者たちとともに、若者たちのために希求する道-信仰の宣言と宣教につながる復活の道-に光を当てます。主への深い熱望を抱き、夜の闇も恐れず、マグダラのマリアはペトロと他の弟子たちのところに走って行きます-彼女の振る舞いは弟子たちを動かし、その女性らしい献身的な態度は弟子たちの進路を先取りし、彼らのために道を開きます。

 週の初めの日の夜明けに、彼女は驚きの出会いを体験します-イエスを愛していたので、イエスを墓に捜しに行き、愛されていたので、イエスを見つけます。復活されたイエスは、彼女の名を呼ぶことで、彼女にご自身であることを知らせます。そして、ご自分の身体に触れないように、と言います。それは、復活した体は地上にとどめておくべき宝ではなく、分かち合うべき神秘だからです。このようにして、彼女は最初の宣教する弟子、使徒の中の使徒となるのです。自身の傷を癒され(ルカ福音書8章2節)、主の復活の証人となった彼女は、私たちが理想とする若い教会の姿なのです。

   若者たちと歩む

116. 真理を求める情熱、主の素晴らしさへの驚き、分かち合う能力、信仰を宣言する喜びは、教会の活動的な一員となっている多くの若者たちに、今も生きています。これは、単に「若者ために」何かをすることについてだけではなく、「若者との」交わりの中で生き、福音を理解し福音を生き、その証人となる確実な道を探求する中で、共に成長することに関してです。

 教会生活において若者たちの責任ある参加は、選ぶものではなく、洗礼を受けた人生が求められるもの、全ての共同体社会の不可欠な要素なのです。若者たちが受ける試練と彼らの弱さは、私たちの向上を助けてくれます。彼らの問いかけは私たちの意欲をかきたて、彼らの疑いは、私たちが自分の信仰の質を省みるきっかけとなります。彼らの批判もまた、私たちに取って必要です。それは、批判を通して、回心と組織の刷新とお求めになる主の声を、私たちが聴くからです。

  すべての若者に近づこうとする熱望

117. シノドスで、私たちは常に、若者たちー教会に所属し、積極的に活動する若者だけではなく、他の人生観をもち、他の宗教に所属し、あるいは宗教から距離を置く、全ての若者たち-について、自分自身に問いかけてきました。全ての若者は、例外なく、神の心の中に存在するだけでなく、教会の心の中にも存在します。

 しかし、「口で言っていることが、必ずしも、司牧活動の中に実際に表されているとは限らない」ということを、私たちは率直に認めます-しばしば、私たちは、若者の声が届かなかい、自分たちの殻に閉じこもったり、あまりきつくない、楽な活動に多くの時間を費やしたりし、安全と思われる所から抜け出すように強く求める「健全な司牧上の焦燥感を」抑え込みます。しかし、福音は、私たちに大胆であることを求めており、私たちは、仮定や変節をすることなく、大胆に、主の愛を証しし、自分の手を世界の全ての若者に差し伸べたいと思っています。

  霊的、司牧的な、そして宣教の転換

118. 教皇フランシスコが私たちにしばしば思い起こさせるのは、真剣な転換の歩みなしには、このことが不可能だ、ということです。私たちは知っています-これが、単なる新しい活動を始めることに関する問いかけでも、「敗軍の将がするように、注意深く立案された拡張主義的な使徒職計画」(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」96項)を私たちが書きたいのでもないことを。私たちは、信頼できる者となるために教会の改革を実践せねばならない、ということを知っています-それは心を浄化し、生き方を変えることを意味します。

 教会は真にEucharist(聖体)の形を帯びるものでなければならず、聖体を教会活動の源であり頂点にあるものとして祝いますー多くの穀物から作られ、また世界の人々の命のために割かれるパンの形をとっています。このシノドスの成果-聴くことと識別することを通して、聖霊が私たちに奮い起こさせた選択-は、若者とともに歩み、誰のところにも出かけ、神の愛を証しする、ということです。

 宣教のためのsynodality(シノドス様式)あるいは宣教のsynodality(シノドス様式)について語ることで、以上のようなプロセスを説明することもできるでしょうー「シノドス的な教会を現実のものとすることは、神の民すべてを含む新しい宣教のエネルギーのための不可欠な前提条件です」(2018年3月の国際神学委員会文書「教会の活動と宣教におけるsynodality」9章)。

 ここで第二バチカン公会議の預言について言及したいと思います。私たちは今なおこの公会議のあらゆる奥深さ取り入れ、日常的な意味合いの中で発展させる必要がありますー教皇フランシスコが「三千年期の教会に神が期待されるのは、まさにこのシノドス的な道なのです」(シノドス創立50周年記念講演2015年10月7日)と語られる時、私たちにそれを思い起こさせるように。

 シノドスの祈りと討議の成果であるこうした選択が、神の恵みによって、教会が「youth of the world(世界の青年)」となり、さらにそれが明確になるのを可能にすると、私たちは確信しています。

(「カトリック・あい」参考:「書面の文書を作成することを第一の目的としないのが『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」=教皇フランシスコのシノドス閉幕に当たっての言葉=)

 

 第1章 教会の共に歩む宣教

  構造的なダイナミズム

   若者たちは、私たちが共に歩むよう求めている

119.  教会は全体として、今回のシノドスを通して若者に関わるという、極めて明白な選択をしました-教会はこの任務を、新時代を画するような重要性をもつ司牧の優先事項、時間、エネルギー、資源を投資すべきもの、と考えています。若者たちは、シノドスの準備を始める段階から、シノドスに関わること、正当に評価されること、教会の活動の使命について自分たちも共同の主役であると感じること-に強い希望を表明してきました。

 このシノドスで、私たちは、若いキリスト教徒たちと共同責任を担うことが、司教たちにとって、どれほど深い喜びの元となるのか-を体験しました。この体験の中で、聖霊の働きをはっきりと知りますー聖霊は絶えず教会を新しくし、synodalityの実践-年齢、生活の状況、召命によって、存在し、行動し、全ての受洗者と善意の人々の参加を促すこと-を呼びかけます。

  (注:ここで言うsynodalityとは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように強く促すこと-を意味している=「カトリック・あい」)

 また、このシノドスにおいて、私たちは、神の民への思いにおいて司教たちをcum Petro et sub Petro(ペトロと共に、ペトロの下に)結びつけるcollegiality(協働性)が、あらゆるレベルの synodalityの実践を通して、それ自身を表明し、それ自身と豊かにすることが、いかに求められているのかを体験しました。

       シノドスの取り組みは続く

120. 今回のシノドスの会議終了とその成果をまとめた最終文書は、シノドスによる取り組みを閉じるものではなく、一つの段階を構成するものです。若者たちの置かれた具体的な状況、実際に可能なこと、緊急に求められることは、それぞれの国、大陸によって、そして一つの信仰で共通している場合でさえも、大きく異なりますーそれゆえ、私たちは、司教協議会と特定の教会に対して、このシノドスで始まった取り組み継続し、共同の識別の手続きを踏み、このシノドスがしたように、司教でない人たちも議論に参加させるように、お勧めします。

 このような教会における手順を踏む場合、特に、存在が軽視された若者たち、教会共同体との結びつきが希薄な若者たちに配慮した司牧計画を立てることを視野に入れ、兄弟姉妹に対するように聴き、世代間の対話をする必要があります。家族、宗教施設、協会、運動体、そして若者たち自身が、これらの取り組みに参加することを願いましょう。そうすることで、このシノドスの日々に体験した「炎」が広がるように。

      教会のSynodal form(シノドス的な形)

121. シノドスの参加者たちは、共有した体験によって、信仰を宣べ、伝えるために教会がsynodal form(シノドス的な形)を取ることの重要性に気づきました。若者たちの参加は、synodalityに再度、目覚めさせるように促しました-synodalityは「教会の構成要素であり..聖ヨアンネス・クリュソストモス(「カトリック・あい」注:4世紀のギリシャの神学者、コンスタンチノープル主教)が言われたように『教会とシノドスは同義語』なのです-それは、教会というものが、主キリストとの出会いを目指す遍歴の道をたどる神の羊の群れの『共にする旅』に他ならないからです」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)

 Synodalityは教会の活動と使命の両方を特長づけています-教会は、「それぞれの文化と視野を持つ若者と高齢者、男性と女性によって構成された神の民」、そして「片隅に追いやられ、踏みつけにされた人々をはじめとする私たちが互いに構成メンバーであるキリストの体」なのです。意見の交換や信仰を証しする過程で、このシノドスはsynodal styleの確かな基本的特性を蘇らせました-これが私たちに求められている転換の目標なのです。

122.信仰を順に伝えていくことは、関係-共同体社会でのキリスト、他の人々との関係-においてです。宣教の使命を果たすためにも、教会は人との関わりを重視する顔を持つように求められています-参加する人たちの生活を変える過程で、聴くこと、歓迎すること、対話すること、そして共に識別すること-に重きを置く顔です。

  「synodal(シノドス的な)教会とは、聴き、『単に聞きながす以上』によく聴くことをはっきりと理解する-教会です。学ぶべきものを持っている人たちが耳を傾け合う教会です。信仰のある人たち、司教団、ローマ司教(注:教皇)ー聖霊が「諸教会に告げる」(ヨハネの黙示録2章7節)ことを知るために、皆が互いに耳を傾け合い、皆が聖霊-『真理の霊』(ヨハネ福音書14章17節)に耳をすまします」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)。

 このようにして教会は「契約の箱が置かれた『出会いの幕屋』(出エジプト記25章参照)」として姿を現します-活動を続ける躍動する教会、多くの賜物と聖職者たちによって強められた、旅する、寄り添う教会です。このようにして神はこの世にご自分の姿を示されるのです。

  参加し、共同で責任をもつ教会

123. 参加型の共同責任をもつ教会特有の特徴は、共同責任を原動力に、教会員のそれぞれの召命や役割に従って、聖霊がくださる賜物を高く評価することです。この賜物を十分に活かすために、心の転換が、互いに耳を傾け合う用意とともに必要です。それが効力のある共通の意識を作ります。

 このような心的態度に活気づけられて、私たちは「参加し、共同で責任をもつ教会」に向かって進むことができます。教会のもつ多様な豊かさを大切にし、若者を含む一般信徒、男女の修道者、そして集団、協会、活動体の貢献を、進んで受け入れることができます。誰も隅に追いやられたり、自分自身を隅に追いやったりすべきではありません。 これが、多くの教会員を教会活動の決定過程から排除する「聖職権主義」と、この世の宣教に献身させる代わりに檻に閉じ込める「clericalization of the laity(一般信徒の聖職権主義化)」を回避する道です。

 今回のシノドスは、特定の教会と、司教協議会と普遍教会の組織における共同責任の場において、若者たちの積極的な参加が、効果的で、通常なものとなるように、要請します。また、教皇庁の「信徒・家庭・いのちの部署」の若者を担当する局の活動が強化されるように、特に国際的なレベルで若者の声を代表する組織を通してなされるように、要請します。

  識別の共同のプロセス

124.神の民として「共に歩く」という体験は、私たちが、奉仕としての権限の認識をより深めるのを助けます。社会の片隅に住む人々を始めとして共同体の全員とともに、証しと宣教の協働を増進し、それによって信仰の光と聖霊の導きのもとに「時のしるし」を解釈する能力が、司祭たちに求められます。これらの能力とともに、教会指導者は、synodalityへ特別な取り組みが必要となります。この点で、若い一般信徒、若い修道者と神学生のために、共同での取り組みの教育課程を工夫することが、特に権限や共同司牧の遂行のような分野で、極めて望ましいように思われます。

  宣教の形

   宣教の交わり

125. 教会のシノドス的な活動は、本質的に宣教を目指していますー神が「すべてにおいてすべてとなられる」(コリントの信徒への手紙➀15章28節)日まで、教会は「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし、道具」(第二バチカン公会議・ 教会憲章1項)です。聖霊に心を開く若者は、教会が「『私』が理解するという自己中心の道から、『私たち』という教会的な道へと司牧的な移行を可能にするために役に立ちます。そこでは、キリストを着た(ガラテヤの信徒への手紙3章27節参照)『私』の一人ひとりが「責任のある、神の民全体の宣教の代理人として、責任にもって行動し、兄弟姉妹とともに暮らしと旅を続けます」(国際神学委員会2018年3月2日発表の「教会の活動と宣教におけるSynodality」107項)。聖霊の励ましと司教たちの導きのもとに、同様の変化がキリスト者の共同体にも起こらなければならず、「私」自身、あるいは「私」の属するものに向かう性向から、全ての人間家族、全ての被造物を含む「私たち」の構築に尽くす方向に進むことが求められています。

   対話による宣教 dynamic

126. その生き生きした動きは、若者とともに行う宣教の方法に的確な結果をもたらします。それは、率直に、妥協することなく、善意の人々すべてと対話することを、私たちに求めます。聖パウロ6世が表明されていますー「教会には…言うべき事、伝えるべきメッセージ、なすべき伝達、があります」(教皇パウロ6世回勅Ecclesiam Suam(自分の教会)65項)と。

 人々と文化の多様性で特徴づけられた世界で、正義に関する連帯、統合、促進という取り組みが、信頼でき、効果的で、「出会いと無償の文化」の意味を示すものであるなら、「共に歩む」ことが欠かせません。キリスト教の他の宗派や様々な宗教の信仰、信念、文化をもつ仲間と日々連絡をとりつつ生活しているのは若者であり、教会一致運動と宗教間対話を実施するように全てのキリスト教共同体を刺激するのも、若者です。このことは、包み隠さず話す勇気、謙虚に耳を傾ける勇気、時には殉教に至ることもある禁欲に努める勇気を、必要とします。

   社会の外周部に向かって

127. 民主主義的なシステムが、参加者の不足と、広範な支持のない小さな利益集団の分不相応な影響力によって、還元主義的、技術主義的、権威主義的な結果がもたらす危険にさらされる場合、対話の実践と共同の解決策の探求が明確な優先事項になります。

 福音への忠実さが、対話を「貧しい人々と大地の二重の叫びへの対応の探求」へと導き(教皇フランシスコ 回勅「ラウダート・シ」49項参照)、若者たちが特に感受性を示す、社会教説の原則-人間の尊厳、財の普遍的な宛先、貧しい人々に望ましい選択、連帯の優位性、下位にある者への配慮、私たちの”共通の家”(注:地球)へのいたわりーによって、社会的なプロセスの促進を確かなものにする方向へと導きます。

 教会の内にある召命は、表に出て対話する共同体の力強い動きの圏外に留まれません。それゆえ、最も貧しく最も弱い人々に優先して注意を向け、その視野の優劣をチェックするために、共に歩む一つ一つの努力が求められているのです。

 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む

    組織から関係へ

     代表派遣から関与へ

128. シノドス的な宣教(ともに歩くこと)は、例外なく教会に適用されるだけではありません。共に旅をすること-刷新され、透明性を高めた共同体で実際に兄弟愛を証しすることーが、個々の共同体に何よりも求められます。社会的背景が日常生活が違っていても、それぞれの地域で、「私たちは神の民であり、福音を具体的に生きる責任がある」ことを認識し、自覚する必要があります。これは「代表派遣」という論理から踏み出すことを含み、司牧的活動を大きく条件付けます。

 秘蹟の準備のためにカテキスタのコースを例にとると、多くの家庭がそれを全面的に小教区に委ねます。そうした考え方は、子供たちが、信仰を「日常生活を照らす現実」としてではなく、「自分たちが存在する別の分野の考えや規則の収集物」と見なす危険を冒す結果を招きます。そのようにならないために、「二人(注:小教区と家庭)は一緒に旅に出る」ことが必要です。小教区は、家庭が「信仰という日常の現実を若者たちが体験」するの助けることを必要とし、家庭は、小教区に「カテキスタなどを通して、子供たちにキリスト教のより本質的なビジョンを示す」ことを求めています。若者や子供たちを共同体に招き入れ、彼らにより広い視野を開きたいからです。本物の関係が彼らの中で発展しないなら、そのような組織は十分ではありません。福音化は、実はこれらの関係のもつ質の高さなのです。

   小教区の刷新

129.  小教区は、より生産的な共同体になろうとしており、その過程で最も弱い人々に対する宣教の陣頭指揮をとらなければなりません。小教区が、必ずしも人々の霊的な要望に応えることに成功しているとは限らない、というしるしが見られます。それは主として、人々のライフスタイルが大きく変えられた、いくつかの要素のためです。私たちは、新しい時間と空間の関係―部分的にはデジタルコミュにケーションがもたらすーと、絶えざる移動を特徴とする「国境のない」文化の中で生きています。

 このような文脈の中で、「小教区は、地理的な境界線で決められ、多岐にわたる対応で信徒、特に若者と関わることはできない」という考えを持つことは、「受け入れがたい停滞、不安がつきまとう司牧サイクル」の中に、小教区を閉じ込めることになります。「教会の共同責任と宣教の意欲」という観点から小教区を考え直すべきです。この観点に基づいて、新しい相乗効果を開拓することです。そのようにして初めて、小教区は、若者の人生に関わることのできる重要な場になるでしょう。

   開かれた、判読可能な組織

130 .さらに、明確な透明性と共有性という同じ線上で、個々の共同体は「若者が彼らのライフスタイルと組織の中に福音の証しを認識できるかどうか」を自問することが重要です。多くの司祭、修道女、宗教者、司教の個人的生活が人々に対する簡潔さと献身によって特徴づけられているのは、疑いのないところですが、大部分の人たち、特に若者にとって、それはほとんど目に見えません。多くの人々から、私たちの教会の世界は理解しにくい、と見られています-私たちの果たしている役割と、それに対する既成概念が、彼らが距離を置く原因になってのです。

 あらゆる形で、日々の生活を人々にもっと近づきやすいようにしましょう。親しみを込めて振る舞い、共に過ごし、活動することが、偏見から解放し、本物のコミュニケーションに必要な状況を作り出でせるのです。イエスは神の国を宣言されました。イエスと同じ道を歩むよう、聖霊は私たちに今日も勧めています。

   教会共同体の生活

    様々な顔からなるモザイク

131.シノドス様式(ともに歩む)に従った宣教する教会の姿は、様々な顔を持つ各地の共同体の中に示されます。教会は決して硬直したモノクロ(単色)としてではなく、様々な、感性、出自、文化をもつ人々の多面体として発展してきました。このようにして教会は人間という脆弱な土器の中に比類ない宝である三位一体の命を伝えてきたのです。聖霊が導く調和は、違いを根絶するのではなく、ともに共鳴させて、交響楽のように調和のある豊かさをもたらします。

 同じ信仰をもつ異なる人々との出会いは、共同体の司牧的刷新を図るための基本条件となります。そのような出会いは、信仰宣言、ミサ、すなわち、正常な司牧活動の基本的領域に関係します。誰もがよく知る知恵は「子供を育てるのは村全体の役割」と言っていますーこの教えは、今日の司牧活動のあらゆる領域に当てはまります。

   地域社会の中の教会共同体

132. 様々な顔をもつ教会共同体を効果的に実現するには、地域と関係を持ち、自らを社会に開放し、そして、市民の様々な機関と関係を持つ姿勢が必要です。外の社会と手をつなぎ、多様性を持つ教会のみが、開かれた方法でその存在をアピールし、現代の課題となっている様々な社会問題ー生態系の危機、雇用問題、家族への支援、社会の片隅に追いやられる人の問題、政治改革、文化と宗教の多元的な共存、正義と平和の追求、デジタル環境問題などーに福音の光をあてることができます。

 このことはすでに教会の集会や活動で実行されています。私たち司教が、これらの挑戦すべき関心事のみに正面から向かうのではなく、権限の一部を縮小しないですむように、すべての人々との対話し、共通善に貢献すること、を若者は要請しています。

   ケリュグマ(最初の福音の告知)とカテケージス(信仰教育)

133.  死から蘇り、御父を明らかにし、聖霊を伝えるイエス・キリストの告知は、キリスト者の共同体にとって本質的な召命です。この告知の一部は、若者に、彼らの命の中に神の愛があることを認識するように、また、共同体をキリストに出会う場として発見するようにと招いています。どんなときでも常に新しい、最も重要なこの告知は、若者に対するカテケージスのまさに基本であり、カテケージスにケリュグマの特質を付与するのです(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」164項参照)。

 私たちは、統合可能なあらゆる手段を提供し、活発に関わり続けねばなりませんーイエス・キリストと福音についての生きた知識、信仰の光に照らされた個人的な体験や歴史的な出来事を読み解く力、祈りとミサに寄り添うこと、レクティオディビナの導入、慈善行為による証しや正義を前進させるための支援と言った手段です。

 カテケージスのコースは、信仰が、日常生活の具体的な体験、感情と愛情といった感情の世界、勉学や仕事で出会う喜びと失望、に密接につながっていることを例証する必要がありますーコースには、教会の社会的な教えも入れるべきです。美、音楽、その他の異なる芸術的な表現に関する言葉やデジタルコミュニケーションの手段にも開かれるべきです。肉体、情動性、性的関心の重要性について十分に考慮されるべきです。なぜなら信仰教育と愛の教育には深いつながりがあるからです。結局、信仰は実践すべきもの、あるいは現実社会の生きる手段として理解されるべきです。

 若者のカテケージスにおいて、本質、即ち、カテケージスの核心であるキリストとの出会いを見失うことがないように、適切な言語と手段を探し続けることが急務です。YouCat(注:カトリック教会の若者向けカテキズム)、DoCat(注:カトリック教会の社会教説の若者向け版)といったような材料がお勧めですが、だからといって、様々な司教協議会の作ったカテケージスを過小評価するわけではありません。同様に、しばしば若者もいますが、実質的に若者の世代である人たちに奉仕するカテキスタとの関わりも刷新する必要があります。カテキスタの構成に十分に配慮すること、また、カテキスタの司牧が共同体によってさらに広く認識されることが重要です。

   典礼の中心

134. ミサは、共同体の生活と教会のsynodalityをもたらします。ミサは信仰を伝え、宣教する場であり、そこで共同体が私たちの働きではなく、神の恵みによって生かされていること が明らかになります。東方教会の伝統的な言葉を借りれば「典礼は神の僕であるキリストとの出会い」であり、キリストは私たちの傷と結ばれて、私たちのために過越の宴を準備し、兄弟姉妹のためにも同じことをするように派遣します。一般信徒の様々な祭壇奉仕も含めて、崇高な簡素さをもって典礼に関わることは、宣教のための回心に重要な要素であることを、何度も繰り返し言いましょう。

 若者は、ミサに感謝し、深く関わりたいと言ってきましたーミサでは説教や共同体も含めて所作の美しさや配慮が、まさに神について語っています。それ故に、彼らに積極的にミサに参加するように勧めること、彼らがミサという神秘の前で畏敬の念をもって生き生きとしていることが必要ですー若者の音楽と芸術的な感受性を認めることが必要ですが、典礼が純粋に自己表現ではなく、キリストと教会の行動であることを理解できるように彼らを手助けすることも必要です。ミサが長時間にわたる場合、聖体を賛美する価値を見出すことができるよう、若者を助けることも、同じように重要なことです。聖体賛美では黙想と沈黙の祈りを十分に味わうことができます。

135. 信仰の旅で極めて重要なのは、和解の秘跡に実際に与ることです。若者は「愛されたい、赦されたい、和解して欲しい」と願い、慈しみに満ちた御父に抱きしめられることを切望しています。若者がミサに参加し、司祭に近づきやすいようにするために、寛大な心で彼らを受け入れることが必要です。共同体による赦しの秘跡は、若者を告解に近づけ、秘跡の持つ側面をさらに分かりやすいものにします。

136. さまざまな文脈において、民衆信心は、実際に役に立ち、感覚に訴え、素早い仕方で、若者を信仰生活に呼び寄せるのに、重要な役割を果たします。ボディランゲージや情緒的な関わりを大切にし、それをもって、しばしば聖母マリアや諸聖人の瞑想を通して、救いの神に触れようとする熱意をもたらします。

 巡礼は、若者にとって、人生と教会を象徴する旅の体験ですー森羅万象と人の作った物の美を熟視し、兄弟姉妹のように生き、祈りをもって主と繋がることが、識別の最善の条件として改めて示されるのです。

  diakonia(奉仕、援助)の寛大さ

137 若者は、小教区共同体のあり方を刷新し、貧しい人々に身近な、兄弟姉妹的な共同体を作るのを助けることができます。貧しい人々、脇に追いやられている若者たち、一番辛い目に遭っている者たちが、共同体の刷新の主役になれます。彼らは『福音宣教の(注:神の)臣民』と見なされるべきであり、私たちの俗念からの解放を助けてくれます。若者はしばしばdiakonia(奉仕、援助)の重要性に敏感です。

 多くの人々が、積極的にボランティア活動に関わり、奉仕の中に主に出会う道を見つけます。最底辺の人々への奉仕は信仰の実践となります。そこで福音の核心、全てのキリスト教徒の生活の基礎にある(失われている)愛を発見します。貧しい人々、身分の低い人々、病気の人々、高齢者は、苦しむキリストの体ですーですから、彼らへの奉仕は、主と出会う道であり、自身の召命の識別に特別に与えられた場なのです。

 異なった文脈から、移民、難民の人々に対して、特に寛容さが求められます。受容、保護、奨励、共生のために、彼らとともに働く必要があります。貧しい人々を社会的に受け入れることは、教会を慈しみの家にします。

  召命の観点から見た若者に対する司牧の職務

   教会、若者にとっての家

138 キリスト者共同体の関係と質への配慮を基本に、刷新することのできる司牧的アプローチによってこそ、教会は若者たちにとって意味のある、魅力的なものとなるでしょう。そうすることで、教会は「歓迎する家」-信頼と自信の上に建つ家族的な雰囲気で特徴づけられた家-として、彼らに顔を向けることができます。

 このシノドスで若者たちの話を聴いた際に、何度も何度も明らかにされたのは「兄弟姉妹愛への切望」-教会が「多くの人々にとっての家となり、すべての人々にとっての母」(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」 288項)となることを求める声-でした。司牧の職務とは、「教会が若者たちにとっての家となるような、笑顔でいつも歓迎する、具体的で、預言者のような振る舞いを通して、歴史の中で、教会の普遍的な母性を実現する」という仕事なのです。

   司牧的職務における召命の活性化

139. 召命はその人のあらゆる側面をつなぐ蝶番のようなものです。この原理は、個々の信徒だけではなく、司牧的な職務全体にも関係します。それで、すべての司牧的職務が、召命という面だけに、統一された原理を経験する、ということを明確にするのが重要です。

 なぜなら、すべての司牧的職務が、召命の由来とその実現を経験するからです。進行中の司牧的な転向の旅について、分離、独立した分野として司牧的職務を強化することは、誰も求めていません。教会の全ての司牧的アプローチの活性化を求めているのです。そうすることで、召命のすばらしい多様性を効果的に示すことができるからです。司牧的職務の目標は、識別の旅を通して、誰もが「キリストの満ち溢れる成熟した年齢」に達する(エフェソへの信徒の手紙4章13節)ことができるように助けることです。

    若者に対する司牧的な召命に関する職務

140 今回のシノドスの準備段階から、「若者に対する司牧的職務について召命からの観点が必要だ」ということが、非常に明確になりました。そうして、若い世代に対する司牧的アプローチの二つの重要な特徴が明らかになっています。一つは「若者のため」-若い時、という貴重で、繰り返すことのできない時期にある人々を対象とするから。もう一つは「召命」ー若い時は、人生の選択のため、神の呼びかけに応えるための特に恵まれた時期だからです。

 若者司牧の「召命感」は、排他的な感覚ではなく、集約的な感覚で理解される必要があります。神は人生のどの時点の人-母の胎内にある人から年老いた人-にも、呼びかけておられますが、若い時は「神の意思に耳を傾け、有意義に用い、受け入れる、特別な恵みの時」です。

 今回のシノドスは、各国の司教協議会が、召命の観点から「Directory of Youth Ministry若者のための司牧的職務要覧」を準備することを提案しました。教区の指導者や地元の協力者が、若者とともに、若者のために、十分な態勢と行動を提供できるようにするためです。

    ばらばらの状態から統合へ

141. 今回のシノドスに出席した司教たちは、付け焼き刃にならにように、司牧的活動についての計画の必要性を認識する一方で、数回にわたり教会の司牧的な取り組みがが統一性を欠いていることに懸念を表明しました。特に話し合われたのは、若者たちへの司牧的な取り組みの多様性-若者への宗教教育、家族教育や召命教育、学校や大学での宗教教育、社会的、文化的、慈善的な余暇活動など-でした。高度に専門化された部署が沢山出来ても、それがばらばらに動けば、キリストのメッセージが伝わりません。

 ばらばらになっている世界で、若者たちは、生き方を一つにまとめ、日々の経験を解釈し、深く識別するように助けを受ける必要があります。それが最優先事項だ多とすれば、「部署」のための仕事から「プロジェクト」への仕事に移るようにして、異なった領域の協調と統合を進める必要があります。

   行事と日常生活の実りある関係

142. 今回のシノドスでは、「世界青年の日」大会と、関連して大陸、国、教区レベルで行われる多くの行事について、また、協会、運動体、宗教団体、その他の教会の事業体の活動についても、たびたび言及されました。これらの出会いと分かち合いは広範に高く評価されています。なぜなら、あたかも巡礼におけるような、共に旅する機会ー全ての人と兄弟愛を経験し、喜びをもって信仰を分かち合い、教会に近づく機会-を提供するからです。

 多くの若者にとって、出会いと分かち合いは、「変容」の体験となりましたー主のみ顔の素晴らしさを体験し、大切な人生を選んだのです。これらの経験から得た最上の成果は、日々の生活の中に集積されます。それゆえに、さらに徳の高い取り組みの重要な段階として、これらの集積を計画し、経験することが、重要になるのです。

   若者の集会所

143 キリスト教共同体によって若者に捧げられた特定の場所、小礼拝堂、若者のための集会所などは、教会の教育に対す熱意を示すものです。様々な形がありますが、どれも、教会が思春期の、成人の若者を歓迎する家となる特別な場所です。彼らは自分の才能を見出し、奉仕に役立て、その非常に豊かな教育的な財産を、大きな規模で分かち合われるように、家族や社会を支援できるように伝達します。

 「外に目を向ける」という教会の文脈の中で、これらを創造的に柔軟に刷新するー若者が足を運べるように、静的な場の発想を捨て、若者とともに、若者に向かって動く司牧的課題を持った発想に転換するー必要もあります。それが、彼らのふだん生活している所-学校、デジタル的環境、実存的な周辺、田園、仕事、音楽、芸術的表現の社会などーで彼らと出会い、ダイナミックで活動的な新しい形の使徒を生み出すことを可能にするのです。

 第3章 新たにされた宣教の活力

   いくつかの緊急の課題

144. Synodality(キリストの下に多様性をもって共に働くこと=「カトリック・あい」試訳)は、教会が古くからの課題と新しい課題に取り組むことのできる手法ですー教会のすべてのメンバーのもつ才能を集めて、対話をもたらし、若者と共に始めるのです。シノドスの作業の上に建てられる、この最終文書の最初の部分で、キリストが教会に託した使命を実現するために教会の活力を発揮する、ないしは刷新することが急務な分野、私たちがさらに具体的なやり方で対処しようと努める分野など、いくつかの分野を概括しています。

   デジタル環境での宣教

145. デジタル環境は様々なレベルで、教会に課題を提示しています。それ故、デジタル環境で今起きている活発な動きと可能性についての知識を、人類学的、倫理的な観点から深めることが重要です。デジタル環境に入り、キリスト教の宣教を目的とした(デジタルの)コミュニケーションの手段としての潜在的な力を発揮させるだけでなく、(デジタルの)文化と活発な動きに”福音の香り”をつけることになるからです。そのような発想のもとに、既に、いくつかの実施計画が進んでおり、支援され、深められ、分かち合われる必要があります。

 (デジタルの)コミュニケーション手段としてのイメージに多くの人々が優先順位を与えることは、「神のみ言葉を聞き、聖書を読むことをもとにした信仰伝達」のやり方についての疑問を必然的に引き起こします。若いキリスト教徒たち―同年代の人たちのようにデジタルに慣れ親しんでいる人々ーは、そこに信ずべき使命を見出します。中には既にそれに携わっている人もいます。そのうえ、彼らは、現在の高度にデジタル化された環境の中で「成熟した生活パターンを見分けるために、そばにいて欲しい、リスクを避け、チャンスをつかむのを助けて欲しい」と求める人々と同じ若者たちなのです。

 

146.        The Synod would like to see dedicated Offices for digital culture and evangelization set up in the Church at appropriate levels, so as to promote ecclesial action and reflection in this environment, making good use of the essential contribution of the young.  Among their functions, besides favouring the exchange and dissemination of good practice at individual and community level, and developing appropriate instruments of digital formation and evangelization, they could also manage systems of certification for Catholic sites, to combat the spread of “fake news” about the Church, and they could seek ways of persuading public authorities to promote ever more stringent policies and instruments for the protection of minors on the web.

 

Migrants: knocking down walls and building bridges

147.        Many migrants are young.  The universality of the Church offers them an excellent opportunity to foster dialogue between their communities of origin and those to which they migrate, helping to overcome fears and hesitations and strengthening the bonds that migrations risk breaking.  “Welcome, protect, promote and integrate”, the four verbs with which Pope Francis synthesizes the action needed to support migrants, are synodal verbs.  Implementing them requires the Church’s action at all levels and it involves all the members of Christian communities.  For their part, migrants, appropriately accompanied, can offer spiritual, pastoral and missionary resources to the host communities.  Of particular importance is cultural and political engagement, involving appropriate structures, to fight against the spread of xenophobia, racism and rejection of migrants.  The resources of the Catholic Church are a vital element in the fight against human trafficking, as is clearly seen in the work of many religious sisters.  The role of the Santa Marta group, which brings together religious leaders and those responsible for law and order, is crucial and represents a good practice from which to draw inspiration.  Nor must we overlook the commitment to guarantee the effective right to remain in the country of origin for those who do not wish to migrate but are forced to do so, and to provide support for Christian communities that are at risk of depopulation through migration.

 

Women in a synodal Church

148.        A Church that seeks to live a synodal style cannot fail to reflect on the condition and role of women within it, and consequently in society more generally.  Young men and women ask this question forcefully.  The fruits of such reflection need to be implemented through a courageous change of culture and through change in daily pastoral practice.  A sphere of particular importance in this regard is the female presence in ecclesial bodies at all levels, including positions of responsibility, as well as female participation in ecclesial decision-making processes, respecting the role of the ordained minister.  This is a duty of justice, which draws inspiration both from the way Jesus related to men and women of his day, and from the importance of the role of certain female figures in the Bible, in the history of salvation and in the life of the Church.

 

Sexuality: a clear, free, authentic word

149.        In the current cultural context, the Church struggles to communicate the beauty of the Christian vision of bodiliness and sexuality, as it emerges from Sacred Scripture, from Tradition and from the Magisterium of recent Popes.  It therefore seems urgent to search for better ways, that can be translated concretely into new formation pathways.  We must propose to the young an anthropology of affectivity and sexuality that is also able to give the right value to chastity, showing with pedagogical wisdom its most authentic meaning for the growth of the person, in all states of life.  It is about emphasizing empathetic listening, accompaniment and discernment, along the lines indicated by the recent Magisterium.  For this is it necessary to devote care to the formation of pastoral workers who have credibility, beginning with the maturing of their own affective and sexual dimensions.

150.        There are questions about the body, affectivity and sexuality that require deeper anthropological, theological and pastoral study, in whatever forms and at whatever level seems most appropriate, from local to universal.  Among the questions that emerge are those regarding the difference and harmony between male and female identity and sexual inclinations.  In this regard, the Synod stresses that God loves every person and the Church does the same, renewing her commitment against all discrimination and violence on sexual grounds.  Equally, she reiterates the key anthropological relevance of the difference and reciprocity between men and women and believes it to be reductionist to define personal identity on the sole basis of the person’s “sexual orientation” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Letter to the Bishops of the Catholic Church on the pastoral care of homosexual persons, 1 October 1986, 16).

Many Christian communities already offer journeys of accompaniment in faith for homosexual persons:  the Synod recommends that such initiatives be supported.  In these journeys, people are helped to read their own history; to adhere with freedom and responsibility to their baptismal calling; to recognize the desire to belong and contribute to the life of the community; to discern the best ways of realizing this.  Thus, all young people, without exception, are helped to integrate the sexual dimension of their personality more and more fully, as they grow in the quality of their relationships and move towards the gift of self.

 

Ecomonics, politics, work, common home

151.        The Church is committed to the promotion of social, economic and political life marked by justice, solidarity and peace, which is something the young ask for insistently.  This requires the courage to be a voice for the voiceless in addressing world leaders, by denouncing corruption, wars, the arms trade, drug trafficking and exploitation of natural resources, and by calling those responsible for it to conversion.  As part of the larger picture, this cannot be separated from the commitment to include those who are weakest, building pathways that allow them not only to find an answer to their own needs, but also to make their contribution to bulding up society.

152.        Aware that “work is a fundamental dimension of man’s existence on earth” (St John Paul II, Laborem Exercens, 4) and that the lack of work is humiliating for many young people, the Synod recommends that local Churches help and accompany young people as they take their place in this world, perhaps through the support of young business initiatives.  Experiences of this kind are found in many local Churches and should be supported and strengthened.

 

153.        The promotion of justice also affects the management of the Church’s goods.  The young feel at home in a Church where economics and finance are lived transparently and consistently.  Courageous choices are needed in the area of sustainability, as indicated by the encyclical Laudato si’, inasmuch as a lack of respect for the environment generates new forms of poverty, of which the young are the first victims.  Systems are changing, and this shows us that a different way of living the economic and financial dimension is possible.  The young urge the Church to be prophetic in this field, through her words but above all through choices which show that financial management can be both person-friendly and environmentally friendly.  Together with them we can do it.

154.        As far as ecological matters are concerned, it is important to offer guidelines for concrete implementation of Laudato si’ in church praxis.  Several interventions underlined the importance of offering young people formation in socio-political engagement and the resource that the Church’s social teaching represents in this regard.  Young people who take part in politics should be supported and encouraged to work for a real change of unjust social structures.

 

In intercultural and interreligious contexts

155.        Cultural and religious pluralism is a growing reality in the social life of the young.  Young Christians offer a beautiful witness of the Gospel when their faith has a transforming effect on their lives and their daily actions.  They are called to open themselves to the young of other religious and spiritual traditions, and to maintain with them authentic relationships that favour mutual knowledge and bring healing from prejudices and stereotypes.  They are thus pioneers of a new form of interreligious and intercultural dialogue, which helps to liberate our societies from exclusion, extremism, fundamentalism and also from the manipulation of religion for sectarian or populist ends.  Witnesses of the Gospel, these young people, along with their peers, become promoters of a citizenship that includes diversity and socially responsible religious commitment for building up social bonding and peace.

 

Recently, at the suggestion of the young, initiatives have been launched which bring people of different religions and cultures to experience living alongside one another, so that in a climate of conviviality and respect for each other’s religions, all may actively promote a common shared commitment in society.

 

The young for ecumenical dialogue

156.        As for the journey of reconciliation among all Christians, the Synod is grateful for the desire of many young people to foster unity among the separated Christian communities.  Committing themselves to this line, very often the young deepen the roots of their own faith and experience a real opening towards what others can give.  They know intuitively that Christ already unites us, even if certain differences remain.  As Pope Francis stated on the occasion of the visit to Patriarch Bartholomew in 2014, it is the young “who urge us today to take steps forward towards full communion.  And this is not because they do not know the significance of the differences that still keep us apart, but because they are able to see beyond, they are capable of grasping the essentials that unite us already” (Francis, Address at the Divine Liturgy, Patriarchal Church of Saint George, Istanbul, 30 November 2014).

 

(以下翻訳・Sr.岡立子)

  第4章:欠かすことのできない人格形成

    具体性、総合性(多角性)、統合性(一体性)

157. 現在の状況は、社会現象と、個々人の経験の複雑さによって特徴づけられています。具体的な生活において、進行中のさまざまな変化は、相互に影響し合い、選択的な視点をもって対応することはできません。現実の中で、家庭生活と 専門的な任務(仕事)、テクノロジーの使用と共同体を経験する方法、胎児の保護と、移住者の保護など、全ては結びついています。 具体性は私たちに語っています。総合としての、人間 の人類学的ビジョンと、一つの知る方法について語っています。それは 結びつきを決して分離せずに捉え、経験をみことばの光の中で再読しながら学び、抽象的なモデルよりも模範的な証しによって霊感を与えられるに任せます。

それは、視点の統合に向けられた、養成の新しいアプローチーさまざまな問題の絡み合いをとらえることができ、人格のさまざまな側面を統合することを知っている―を要求します。このアプローチは、御子の受肉の中に、神と人間、地と天の、切り離すことのできない出会いを観想する、キリスト教的ビジョンとの、深い調和の中にあります。

教育、学校、大学

158.今回のシノドスでは、学校と大学の、専門的養成の、決定的で、かけがえのない務めが、特別に強調されました。なぜなら、それは、大部分の若者たちが、彼らの時間の多くを過ごす場所でもあるからです。

世界のいくつかの地域では、基礎教育は、若者たちが教会に示す第一の、最も重要な課題です。ですから、優れた教師、活気のある専属司祭、真剣な修養の取り組みによって、この分野で大いに意味のある存在を示すことは、キリスト教共同体にとって重要です。

カトリックの教育機関は、特別な考察の対象となる必要があります。若者に欠かすことにできない人格形成のための教会の配慮を示すものです。福音と一つの民の文化との出会いのための、そして研究の進歩のための貴重な場であり、信仰と現代世界の諸課題との、異なった人類学的な観点との、科学と技術の挑戦との、社会的慣行の変化との、そして正義への傾倒との、対話を可能にする人格形成のモデルを提示するように求められています。

そのような環境のもとで、科学、芸術、詩、文学、音楽、スポーツ、メディアなどの分野における若者の創造性の促進に、特別な注意を払うことが必要です。そうすることで、若者は自分の才能を見出し、全ての人々の善のために社会に貢献することが可能になります。

新しい養成者たちを準備する

159.教会に関する学部と大学に関する、最近の使徒憲章Veritatis gaudiumは、現代の課題に答えることのできる養成プロジェクトのための、いくつかの基本的基準を示しました。「kerygma(キリストの福音)の霊的、知的、実存的考察、すべての分野での対話、賢明さと創造性をもって実践される分野を超えた「ネットワーク」をもつ対話なとについてです。そうした基準は、全ての教育、養成分野に刺激を与えることが出来ます。何よりも先ず、賢明で、経験と真理を合わすことのできるビジョンをもつように助け、新たな教育者を養成するのに役立つでしょう。

世界的なレベルで教皇庁立の諸大学は重要な役割を演じます。世界の地域、国のレベルで、カトリック大学や研究センターも同様です。
基本的な任務(役割)を果たしています。最高の水準と変わることのない機関の刷新を目指し、定期的な見直しをすることは、若者たちと教会全提出のための素晴らしい戦略的な投資です。

宣教師の養成

160. シノドスの議論では、若者が中心となる場を与えることへの要請が増大していることが強く指摘されました。若者たちの他の若者たちに対して果たすべき信徒使徒職が即製できないのは明白です。それは、真剣で適切な養成の歩みの成果として生まれてくるべきものです。では、そのような成果を生む養成に、どのように寄り添うべきでしょうか?彼らが福音の真の証人となるために、どのように最良の道具を差し出すことができるでしょうか?

 このような問いかけは、また、たくさんの若者たちの「自分自身の信仰を、もっと良く知りたい」という希望との合致します。聖書の根源、キリスト教の教理の歴史的発展、教義の意味、典礼の豊かさを発見すること。それは、若者たちに、現代の問いかけーその中で、信仰は試練に置かれていますーについて考えることを可能にします。彼らが抱いている希望について、いつでも答えられるように。(ペトロの手紙1・3章15節参照)。 このために、シノドスは、若者のための宣教の経験が、若者たちや若い夫婦たちに対する福音宣教の養成センターの設置によって、福音宣教への派遣で完結する必須の経験によって、強められるよう、提案します。すでにこの種の試みはさまざまな分野でなされていますが、世界の全ての司教協議会が、自分たちの置かれた環境の中で実現を検討することが求められます。

     識別に寄り添う

161. シノドスの会議場には、若者たちのための教育への情熱、長時間にわたる持続、そして経済的な資源に多くの投資をするように、との心からの願いが響きました。討議で浮かび上がった様々な貢献や要望を集めながら、すでに進行中の熟練した経験に耳を傾けることも合わせて、シノドスは、確信をもって全ての教会、修道会、運動、団体、教会関係のその他の活動体に、若者たちに対して識別を考慮した寄り添いの経験を提供するよう提案します。

 こうした経験―それが継続する期間は、文脈と機会によって規定されるべきものですが―は、成人のキリスト者の生活の成熟へ進む時とみなすことができます。 そのような経験は、長期にわたる通常の環境、関係からの超越が含まれるべきであり、少なくとも三つの絶対に欠かすことのできない要素の周りに形成される必要があります。その三つの要素とは、年長の教育者と分かち合う共通の家の必須、純朴、敬意のこもった兄弟的生活の体験、共に生きるための力強く意義深い使徒的な提案、祈りと典礼の生活に基礎を置いた霊性の提示、です。この中に、召命の識別の深い体験を希望する若者たちに、教会が提供できる全ての要素があります。

     結婚への寄り添い

162 結婚への準備の歩みにおいて、その過程を整える様々な正しい方法があることを考慮しながら、二人に寄り添うことが重要せあることを再認識すべきです。教皇フランシスコが使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」で言われるように「それは要理をすべて教えることではなく、主張しすぎて彼らをうんざりさせることであってもなりません。… それは、結婚の秘跡に向けての『手ほどき』のようなもので、彼らが申し分のない心構えをもってそれを受け、家庭生活をしっかりとした覚悟をもって始めるのに必要なものを彼らに示す」(207項)のです。特に結婚生活の最初の数年間、若い家族への寄り添いを続けることは、彼らがキリスト教共同体に積極的に関わることができるように、助けるためにも重要です。

     神学生と男女の奉献生活者の養成

163 司祭職や、男女の奉献生活への志願者たちの統合的な養成の特有な任務は、教会にとって重要な課題であり続けます。それはまた、男女の奉献生活者たちのための文化的、神学的、堅固な養成の重要性をも求めます。神学校に関しては、第一の仕事は「RATIO FUNDAMENTALIS INSTITUTIONIS SACERDOTALIS(神学校における霊的人間形成)」の新指針を理解し、実行することです。

 今回のシノドスでは、言及する価値のあるいくつかの重要な指摘がありました。第一に、養成担当者の選抜です。優れた資格があるだけでは十分ではありません。共感と深い内的な自由をもって相手の話を聴き、兄弟愛的な関係をつくる能力が求められます。

 第二に、新学生たちに十分に寄り添う中で必要なのは、女性も含めた区別された教育のチームでの真剣で的確な仕事です。異なる召命が影響しあう養成チームの構成は小さいがsynodality(共働性)の価値のある形であり、初期の養成において若者たちの心理に影響を与えます。

 第三に、将来の司牧者や奉献生活者の養成は、共同体のために自らを捧げるよう教えつつ、権限をもつが権威的ではない方法の導き手としての役割を果たす能力を育てることに注力せねばなりません。聖職者至上主義への傾向に打ち勝つこと、チームにおける作業の能力、貧しい人々に対する感受性、ライフスタイルの透明性、他の人々の寄り添いへの積極性など、いくつかの養成の基準に対して、特別な注意を払う必要があります。

 第四に、真剣な初期の識別は極めて重要です。それは、若者たちが、自らの過去について十分に知らず、深く学びもせずに、神学校に、養成の家に入ることを認められるケースが頻繁にあるためです。この問題は「彷徨う神学生」の場合、特にデリケートになります。関係と感情の不安定、教会のルーツの欠如は危険信号です。このような問題で教会の規定を無視するのは、無責任な態度です。キリスト教共同体にとって、とても深刻な結果を招く可能性があります。

 第五に、養成の共同体の規模に関してです。大きすぎるものは、非人格化がおき、歩みの中にいる若者たちに関する知識が不十分になるという危険を犯します。小さすぎる共同体は息が詰まり、依存の論理に悩まされます。これらのケースで、よりよい解決法は、明確な養成プログラムとはっきりと定義された責任のもとに、諸教区による神学校、あるいは諸管区が共有する養成の家にすることです。

    刷新を励ます三つの提案

164. 第一の提案は、信徒、奉献生活者、司祭たちのjoint formation(合同養成)に関してです。養成中の男女の若者たちが家庭と共同体の日々の生活と接触をー女性たちとキリスト者のカップルの存在に特別の注意を払いながらー保つことは重要です。このようにして、養成は、生活の現実に根差し、社会的、文化的文脈に組み込まれるような関係で特徴づけられるものとなります。

 第二の提案は、司祭職あるいは奉献生活への準備のプログラムに、よく計画されたプログラム、それに司牧と福音宣教の経験を通して、若者たちの 司牧に関する特別な準備を含めることです。

第三の提案は、「RATIO FUNDAMENTALIS INSTITUTIONIS SACERDOTALIS(神学校における霊的人間形成)」の新指針の視点と精神による、人々と状況の確かな識別の中に、経験の視点と共同体の文脈で、養成の行程を援護する可能性について検討を求めることです。このことは、司牧的責任に段階的に組み込まれるのを準備する行程の最終段階で極めて重要です。その説明や実施の方法は、それぞれの国の司教協議会によって、新指針の地域版に従って提示することができます。

結論

     聖なる者となるように呼ばれて

165. 異なった召命の全ては、聖性への、唯一、普遍的な召し出しのもとに集められます。それは、一人一人の若者の心に響く、喜びと愛への呼びかけの成就に他なりません。聖性への唯一の招きに基づいてのみ、異なる人生のさまざまな形が一つにまとまることができるのですー 神が「私たちに望んでおられるのは、聖なる者となることであり、味気なく、平凡な存在に甘んじることではない」(教皇フランシスコの使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい、大いに喜びなさい)-現代世界 における聖性への呼びかけ」1項)と知りながら。

 聖性は、その尽きることのない源を、御父の中に見出します。御父は、ご自分の霊を通して、私たちにイエス、「神の聖者」(マタイ福音書1章 24節)をお遣わしになります。イエスは、私たちのただ中に来ました。私たちの生活の中に、喜びと希望を運ぶイエスとの友情を通して、私たちを聖なる者とするために。教会の通常の司牧全体の中で、イエスの幸いな現存との、生き生きとした触れ合いを回復することは、あらゆる刷新にとっての基本的条件です。

聖性をもって、世界を目覚めさせる

166. 私たちは、若者たちが聖なる者となるように、聖なる者とならねばなりません。若者たちは、本物で、輝き、透明で、喜びに満ちた教会を叫び求めます。聖なる者たちの教会だけが、そのような求めに応じることができます。若者たちの多くは教会を離れました。それは、教会の中に聖性はなく、凡慮、思い上がり、分裂、堕落しか見つけられなかったからです。

 残念なことに、この世は、教会の人々の聖性によって活力を得るよりも、その中の何人かによる性的虐待に怒りを覚えています。教会は全体として、断固とした、速やかで、根本的な変革を成し遂げねなりません。若者たちは、聖なる者たちを必要としています。聖なる者たちは、「教会の最高に美しい顔は、聖性である」(使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」9項)ことを示しつつ、他の聖なる者たちを形作ります。あらゆる時代、場所、文化の男女が皆、理解できる言葉があります。直接的で輝いているから。それは、聖性の言葉です。

    若者たちの聖性に引きずられて

167. 今回のシノドスの行程の最初からはっきりしていたのは、若者たちが、教会の欠かすことのできない部分を構成している、ということでした。それゆえ、彼らの聖性も教会に欠かすことができません。若者たちの聖性は、最近の数十年間、世界のあらゆる場所で、さまざまな形で花開いています。福音に忠実であろうとして命を犠牲にした多くの若者たちの勇気に、このシノドス会期中、深く思いめぐらすことは、感慨深いものでありました。 シノドスに出席した若者たち-迫害のただ中で、主イエスの受難を共有することを選んだ者たち-の証言に耳を傾け、生きる力を感じました。

 若者たちの聖性を通して、教会は、その霊的な熱情と使徒的な活力を刷新することができます。多くの若者たちの良き生活によって生み出された 聖性の香り高い油は、いつも招かれている満ち溢れる愛へ私たちを連れ戻し、教会と世界の傷を癒すことができます。聖なる若者たちは、私たちを、初めの愛(ヨハネの黙示録2章 4節)に戻るように、突き動かすのです。

(監修「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

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2019年3月6日