・「カトリック教育に必要なのは地球市民を育てる『希望の教育』だ」-”若者”シノドスを前に(Civilita Cattolica)

(Civilita Cattolica 2018年7月号 José Mesa, SJ)

 [ 世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会が「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに10月に開かれるが、以下の記事で、総会に先立ってこのほど発表された準備文書について考察する。新しい世代が福音を体験することのできる場となるために、カトリック教育は刷新と革新という骨の折れる仕事をしている。カトリックの学校群は「時のしるし」を識別するよう求められている。準備文書は、デジタルの世界で作り上げられた「現代のアレオパゴス*」について言及し、現代世界のグローバリゼーションを注視し、若者たちが地球市民としての備えをし、地球全体と全人類の幸せのための責任を引き受けることができるように、求めている。=筆者は、イエズス会の初等、中等教育担当の国際事務局長]

 「カトリック・あい」注・アレオパゴス=アテネのアクロポリス西側のアレオパゴスの丘のこと。転じて古代ギリシャで、その場所で開かれていた元老院や最高裁判所の役割を果たしていた会議を指す。また聖パウロがアテネ市民に説教した場所ともされている。

*はじめに

 カトリック教会が今秋、全世界の司教たちが集まるシノドスを開く。目的は、「若者たちが、人生と愛…を満ち足りたものとするよう呼ばれていることを認識し、受け入れるように、導くにはどうしたらいいのか、現代にあって、福音を宣べ伝える最も効果的な方法は何か、を突き止める」ことにある。かつては年配の世代のものとされてきた多くの分野で若者たちが主導権を取るようになってきた今の世の中で、これは重要な作業だ。

 デジタル時代の今、何年か前には想像できなかった仕方で、社会に強い影響を与える若い世代が急激に台頭している。フェイスブック、そして他の多くのマスメディア、ソーシャルネットワークが、20代、30代の人々によって構築されている。彼らのような新しい起業家たちが、最近の歴史における最も重要な変化に確かに貢献している。若い学生たちが地球上の多くの分野で、新しいマルチメディア、ソーシャルネットワークを使って、社会的、文化的な革命を刺激し、維持しているのを、私たちは目の当たりにしている。

 これは、疑いもなく、教会の識別が求められる新たな社会現象だ。なぜなら、「若者に聞くことで、教会はふたたび現代の世界で私たちに話しかける神の声を聞くだろう」から。現実は、若者たちが、その創造性、社会活動、そして想像力を通して、世界を形作りつつある、のだ。このようなすべての中に主のメッセージを見出すことは、教会にとってよいことだ。

 秋のシノドスの準備文書は、若者たちを「16歳から29歳までの男女」と定義している。このカトリック教育についての論考も、この年齢区分をもとにしているが、多くの箇所で、それよりも低年齢に対象を広げている。

*カトリック教育:「来て、見なさい」

 カトリック教会は、過去何世紀にもわたって、その使命を果たすにあたって、市民生活に関与する方法として、学校群の幅広いネットワークを構築して‐「教育と学校、大学教育は常に、カトリック教会の市民社会に対する貢献の中心に置かれていた」。カトリック校は社会のすべてのレベルで奉仕してきたが、多くの場合、他の組織や機関が対象としない階層集団に教育を提供してきたー能力の優れた子供たち、ホームレスや恵まれない子供たち、少数民族などだ。

 他の多くのキリスト教会と宗教関係の組織も学校を経営しているが、学校数や国の数からみて、カトリック教会が最大かつ最も幅広い学校のネットワークを展開している、と言っていいだろう。そのうえ、カトリック教育は、多くの場合、最も質の高い教育を提供している、との評価を受けている。カトリック以外の宗教を背景に持つ親たち、あるいは宗教に関心をもたない親さえも、カトリックの学校を高い水準と際立った質の教育を提供する機関とみなしている。

 このような意味で、カトリック学校は、世界の若者たちの声を聴き、彼らを知り、ともに歩むことができるという点で、有利な立場にあるー若者文化についての彼らの経験と知識、熱望と挑戦は、若者についての教会の理解を富ませ、福音を新たな世代に伝える教会の努力の大切な要素となりうるものだ。

 カトリック教育は、何百万の若者たちが耳にする「来て、見よ」の唯一の招き、年上の世代にとっても招き、であるかもしれない。人々は、教会から離れ、あるいは教会に不満を抱いているとしても、自分の子供たちを育てる環境として、カトリック校を選ぶ傾向にある。

*カトリック教育:刷新と革新への課題

 今回のシノドスはまた、カトリック教育の課題についての議論も想定しているー新しい世界が福音を経験できる場となるような刷新と革新という課題だ。カトリック教育は、これまで以上に、新世代と意思疎通を図ることを志向する価値観の具現化が求められている。教皇パウロ6世が言われたように若い人々は「教える人」よりも「証しする人」を求めているのだ。

 カトリック学校にとって、福音宣教の最良の方法は、奉仕、共生、尊敬、そして自律を「説教する」のではなく「実践する」ような学内環境を作ることだ。教師と学校は、シノドスの討議要綱にあるように、他者が見習うことのできる―「そばにいて、信頼でき、協調し、誠実… 共感し支援し、力づけ、限界を知りつつ助けることができるが、相手に負い目を感じさせない」ような人物、共同体でなければならない。

 実例によって教えることは、今、これまで以上に重要になっている。学生たちの共同体社会のモデルを作ることのできるカトリック学校は、人を変え、思いやりのある共同体社会を作ることに強い関心をもっていても、机上の講義に懐疑的になる冷笑的な環境ににさらされている世代の若者たちに、多大な貢献をするだろう。この意味で、カトリック教育は、新たなメッセージを聴いたり考えたりすることを難しくするプロパガンダに絶えずさらされている若者たちの耳に教会のメッセージが届くようにする「預言者の声」となることが可能だ。

 だがまた、自分が得た才能を発揮し、自分らしく生きることができる共同体社会の実現も、多くの人が求めるところだ。その意味で「カトリック教育は福音宣教の重要な部分を担っているう…文化、人間関係、価値、そして教育そのものを福音化することだ。そして、信仰の過程にある人が主を求めるのを助けることができる」のである。

 このような課題に創造的に対応するために、カトリック教育には、刷新と革新の道を、教育する学生たち、仕える教会と関係をもって歩むことが求められる。シノドスの準備文書を発表した際に、教皇フランシスコが若者たちに向けて語った言葉は、カトリック教育を考える際、傾聴に値する―「大胆な選択を提起される聖霊の声を聴くのを恐れてはなりません!」。カトリックの学校は若者たちが信仰を深め、召命の識別をすることのできる理想的な場なのだ。

 しかし、カトリック学校が本当にそうなるためには、たとえ過去に成功を収めたとしても、現在の地位に満足したり、これまでと同じことを繰り返してはならない。教皇フランシスコは、教育に関する国際会議の閉会式で次のように語っている―「皆さんが、若者を教育するという気高い仕事をなさっているのをうれしく思います。それと同時に、このように申し上げたい。『新しいことに取り組むのを恐れてはいけない。私たちの教育は、変化しつつある世代に対して行われるものです。ですから、教育に携わる方々、学校制度も変わるように求められているのです」と。

 学校は、若者たちにとって役に立つ存在だ―彼らの声を聴き、それをもとに提供するものを刷新する。学校ができるのは、識別について教えることだけだ―とくに、「歴史の中で、聖霊の臨在と行いを認識するように導く時のしるしを読む」という意味での識別である。

 そうした新たなしるしのいくつかは、シノドスの討議要綱のなかで解明されている―不確実性、流動性、脆弱性を高めながら急激に変化する世界が、さまざまなレベルで展開される―失業、搾取、難民と移民の増大―科学技術が中心だが、意味を失った世界―帰属を求める人々―深刻な環境の危機に見舞われている世界。教皇フランシスコは、回勅Laudato Si でこう語られているー「私たちが直面しているのは、環境とその他という二つの別々の危機ではありません。社会的、環境的なものが一緒になった、一つの複合的な危機なのです」。

 もう一つの重要な時のしるしは、次のようなものだー「今日の若者世代は、彼らの親や教師とは異なる世界に生きています…若者たちの願望、要求、感覚、他人との接し方も、同じように変化しています」。こうしたしるしのすべてが、カトリック教育が自らに真剣に問いかけること求めている―このような新たなしるしに、どのように応えることができるのか?こうした新たな展開に照らして、これまでのカトリック教育を特徴づけていた円熟した教育をどのようにして保持できるのか?こうしたすべてにわたって、聖霊は私たちをどのように導かれるのか?

 カトリックの教育者の中には、学校の独自性が弱められるのを心配して、そうした問いを発するのを恐れる人がいる。だが、実際はそれと正反対だ。カトリック学校が時のしるしを無視するなら、「聖霊に反して」進む危険を冒すことになる。

*学校におけるカトリックの独自性と使命

 カトリック学校の中に、新たな流れに適合するためにカトリックとしての独自性を弱めたり、放棄したりする学校があるのは事実だ。だが、適合と識別は違うものだ。教会は、真の識別―強力なカトリックの独自性と使命を中心に置いた学校を求める識別―を必要としている。

「私たちの使命は独自性を表現し、それが使命を保証するのです…カトリックの学校と大学が存在する理由は、変わっていません…というよりも、むしろ、私たちの使命を理解し、独自性と使命に向けた創造的な忠誠の姿勢をもってそれを遂行することの必要性に、変わりはありません。今日、教育が提起する数多くの課題に適切に対応しようとすることも必要」なのだ。

 カトリック学校において、新世代の若者たちに聴き、対応するために、カトリック学校の運営における複数の文化の間の諸現実をを認識する取り組みに関して、「独り言モデル」から「対話モデル」に移行することが必要となる。

 「独り言の学校」は「硬直的な真実を主張する『閉じられた筋書き』として解釈」されるカトリックの独自性を中心に置く―「他の宗教と人生の哲学への受容性」が少しもない「カトリックの強制収容所」の一種だ。 この種のモデルでは、識別を励まし、教える環境にするのは難しいだろう―すべてのことがすでに決まっている硬直的な脈絡で運営される傾向があるからだ。

 このモデルはまた、近代的社会への純粋に反動的な対応を補強することになる。第二バチカン公会議が「キリスト教的教育に関する宣言」で言明しているように、カトリックの教育は「教会と人間社会がともに利するような対話を進めるため」に重要である。この対話は、他の見方を間違ったもの、真実でないものとするような「独り言の学校」で育むのは難しい。

 このことについて、当時枢機卿だったホルヘ・マリオ・ベルゴリオ-現在の教皇フランシスコ―は2004年に教育関係の集まりに送ったメッセージで、次のように述べていた―「私たちの学校は、すべての答えを知っているキリスト教徒の覇権主義的な軍団を作ろうと熱心になるべきではありません。あらゆる提案を出し合う場になるべきです。そうした場で、福音の光の中で、個人的な探求が正当に励まされ、言葉の壁によって妨げられることはありません。そのような壁は実際にとても弱く、すぐに修復しようもなく壊れてしまいます。挑戦すべき課題はもっと大きい―深さを求め、人生に注意を払うように、偶像から自由になるように求めます」。

 その一方で、「対話の学校」は「最大限のキリスト教的独自性と最大限の連帯」を、他の諸々の視点をもって結びつける。「カトリックのメッセージで最優先される選択は、対話を促すことです。哲学的な様々なものの見方の間での対話は、カトリックのための優先される選択を反映している。多元性の中で、ある者はカトリック教徒であろうとし、またある者は多元性を生きる」。このようなカトリック学校のモデルは、多様性を尊重しつつ、共同体を欲する若い世代によりよく適合するものだ。「リスクを冒しなさい!リスクを冒しなさい!リスクを冒さない者は歩くことをしません」。

 カトリック教育は、学生たちを奮い立たせないなら、福音宣教の使命を果たすことができない。使命を果たすために、カトリック教育求められるのは、他の物の見方を尊重する環境、カトリック信徒の経験を聴き、体験できる環境を作ることだ。「対話の学校」は、次のような課題に対応することができる。その課題とは「イエスが示された模範に倣って、すべての人を受け入れる共同体を作ることだ。イエスは、ユダヤ人とサマリア人と、ギリシャ文化の異教徒とローマの支配者とも、彼ら一人一人の強い熱意に共感し、対話することができたのである」。

 この対話モデルは、学校が、福音宣教の潜在力を弱める他の二つのモデルを乗り越えることを可能にする。二つとは PollefeytとBouwensが「色彩に欠けるアプローチ」と「色彩豊かなアプローチ」と呼ぶものだ。前者では、宗教を「私的なこと」とみなし、学校は中立で、宗教について浅薄な倫理的、個人的な見方をとる。後者は、カトリックの独自性が薄まり、「他の色」になるほどに、宗教的な多様性を受け入れ、学校の持つカトリック的特徴はなおざりにされ、「福音を宣べ伝えたり、宣教教育をする余地は、ほとんど、ないしは全くない」。

*福音的情熱の刷新、教育者の養成

 2014年、バチカンの教育省は、第二バチカン公会議の「キリスト教的教育に関する宣言」の50周年と使徒憲章「カトリック大学について」の公布25周年を記念する会議のための準備文書をまとめた。タイトルは「今日と明日の教育―情熱を新たにする」だ。このようなタイトル、文書、そして教育省がこうした今日的課題について準備した会議は、今秋開く「若者シノドス」のために極めて適切なものだ。

 若者たちの声を聴き、彼らに福音の豊かさと教会の愛に満ちた対応を示すために、カトリック教育が教育へい情熱を取り戻し、その重要性を再確認し、新しい世代にイエス・キリストを告げ知らせ続けねばならない。それには、こうした教育を新しい世代にもたらすことのできる教育者を作る必要がある。

カトリック教育は、「資源を持っているから続いてきた」のではなく、主義主張、明確な計画、他者を取り込む能力をもつ教育者をそろえていたからであり、教会と社会に存在の場をもっていたからだ。話をすることができ、彼ら一人一人の強い熱意に入っていったのだ」。

 カトリック教育は「資源を持っているから続いてきた」のではなく、主義主張、明確な計画、他者を取り込む能力をもつ教育者をそろえていたからであり、教会と社会に存在の場をもっていたからだ。結局のところ、優れた発想の源として、高い資質、主義主張、そして使命を持っていたのだ。

 若者シノドスの準備書面はカトリックの教育者として具体的な姿を提示している―学生たちが成長し、能力を発揮し、することができ、挑戦を受けることができるような環境を作ることのできる教師、管理運営者;学生たちの声を聴き、教会が彼らのためにもっているメッセ―ジを具体化できる教育者;信仰、識別、召命模範となる教育者、だ。

 信仰は、準備書面が宣べているように、「イエスがなさること、として物事を見る」ことを意味する。あるいは、教皇フランシスコがチリ訪問の際、若者たちに語られたように、イエスとつながるパスワードを知っている人、となることだ―「キリストは私の所で何をなさるでしょうか?これはパスワード、私たちの心に充電し、私たちの信仰に点火し、私たちの眼に消え去ることのない火花を散らす電源です」。

 こうして、私たちは、カトリックの教育者は証人となる必要がある、という考えに戻ってくる―言葉だけでなく、生きざまをもって、問いかけることが必要とされているのだ。

 カトリックの学校は成功し、共同体の感覚を作り上げる学校として認識されてきた。この重要な側面は、従来よりもずっと強調される必要がある。「教育に携わる共同体として、(カトリックの学校は)人間関係を育成することに力を注いできた。教員、父兄、そして運営管理者を共通の価値観と共通の教育事業で一致させてきた。

 自分がその一員で、敬意を払われ、「世話をしてもらい、歓迎されていると学生たちが感じるような共同体を作ることは、他の何よりもよく、実際に次のようなメッセージを伝えることができる。

 「若者たちに寄り添うためには、これまで持っていた枠組みを超え、彼らのいる場所で会い、彼らの生活の時間とペースに合わせ、真剣に対応する必要があります。また、若者たちが自分たちが生きている現実の中で理解したい、個人的な歴史を作る日々の試みの中で、自分たちの人生の意味を意識的に探究する中で、言葉や行為の形で受け取ったメッセージを活用したい、と希望するようにされる必要があります」。

 学校を外からくる人たちを歓迎し、安心できる共同体とすることは、教会が若者たちと真に歩み、シノドスの準備書面が示す司牧のスタイル―「外に出て」「見て」「呼び掛ける」という―を採ることを可能にする。

 「外に出る学校」となることで、学生たちが「人々が束縛されていると感じる枠組みを捨てて」参加し、自分たちの学校を積極的に形作ることができるようになる。

 「見る学校」は学生たちに教えるものを持っているいるだけでなく、必要とされていることを聴き、彼らに、そして彼らの「喜び、希望、悲しみ、不安」に応える時間をとり、配慮する、「羊のにおいをかぎ分ける」学校だ。

 「呼び掛ける学校」は「外に出て、見る」の論理に倣う。学生たちを人生の持つ大きな意味、、大義への献身、「使い捨ての文化」ー現代社会の消費者主義、破壊的な競争至上ーを超えた満たされた人生に目覚めさせるからだ。

 このような共同体の環境の中で、若い世代に「来て、見なさい」というイエスの招待状を渡すのは、教会にとって、たやすいことになるだろう。そうして、若者たちは、「神が彼らの心に置かれた夢―自由の夢、喜びの夢、より良い未来の夢ー変革の主役となる熱い希望」を見ることができるだろう。そうしてカトリックの学校は、学生たちと教育者たちが教会と彼らの信仰を深める経験のできる、福音化した共同体となるのだ。

 たしかに、カトリックの学校は、まさに「学校」でなければならない。すなわち、高度な学術的な質をもって、しかっかりとした教育を提供する、学生たちが責任能力を備えた大人となり、自分たちの生き方をつかむことが出来るような学校であることが必要だ。 これは、これまで述べてきたことと矛盾しない。がトリックの学校にとって必要なのは、しっかりと作られ、社会に受け入れられるような基準に沿って、質の高い教育を提供することだ。

  全人教育は、こうした基準以上のものを達成せねばならない。それが、親たちが子供をカトリックの学校に入れる理由-学校が提供する高い基準と質の教育のためだ。そのことが「問題」だろうか?むしろ「機会」である。親たち、子供たちが、これまで述べてきたような学校を見つけ、福音に心と命を開かせる招きの声を聴くなら、学術的な優秀さを越えて、彼らの生活と彼らが住む社会を変えるのに欠かすことのできない教育を、本当に受けることが出来るだろう。おそらく、これが、このような機会がなければ、教会や福音について聞くことがなかっただろう多くの家族に、教会が接することのできる道なのだ。

*”現代のアレオパゴス”、世界的な文脈、世界的な機会、世界的なネットワーク

 若者シノドスの準備文書は、デジタル社会が次世代に向けた”現代のアレオパゴス”を作り、それがもたらす新しい機会と危険に対応するよう、教会に迫っている、とし、「現代人は、世界のある場所で起きたことが(遠く離れた)他の場所に影響を与え、苦しみと悲惨にあふれたこの世に全面的な安心を誰も感じない、という経験を繰り返ししている」と指摘している。

 この文書はまた、若者たちが教会にこうした新しい世界をどの様に進んでいくかを、教えることすらしていると強調している。教育者が考えるべき重要な点だ。多くの教育関係者が論じているように、今日の教育者たちと学校は、逆説的な、新たな挑戦を受けている。彼らの教育の対象となる世代は、彼らに先んじてデジタル社会に浸かり、その大部分が新社会で容易に意思疎通し、行き来する”デジタル・マニア”となっているからだ。

 数年前、インドの貧しい地方を旅したことがある。出かける前に、厳しく、長い旅となるのを覚悟するように言われ、実際そうだったのだが、現地に着いて、初めに目にしたのは、スマホをいじっている子供たちの姿だった。世界の中でも貧しい部類に入る地域に住んでいるのとは関係なく、デジタルの世界への手立てを持ち、繋がっていたのだ。同じ旅の途中で立ち寄った学校では、女学生から、皆がもっといいデジタル教育を受けたいと言っています、と告げられた。「デジタルが新しい世界。私たちはその世界の一員となりたいのです」。

 同じことを、アフリカ、中南米、アジア太平洋地域でも体験した。若い世代は、真っ盛りの新しいデジタルの世界に属したがっている。まさに、これは現代世界の新たなアレオパゴスだ。そして、この新しい現実が、これまで、学生たちを無知から抜け出させるという想定をもって、ただ「教える」ことに安住してきた学校にとって、大きな挑戦になっているのだ。

 実際、準備文書が指摘するように、「若い人々は、自分たちを”不利な立場の階層””保護を受ける社会集団”あるいは”教会の司牧や公的政策の受動的な受益者”とは見ていない」。「教会自身が、若い人々から学ぶように求められている」からこそ、「外に出る学校」が必要とされている。

 準備文書はまた、グローバリゼーションによって、若い人々が、自分たちの地域に根を張りながら、世界的に同質化する傾向が進んでいる、としている。カトリック教育は、こうした新たな傾向に対応し、若い世代が地域レベルでも、地球的なレベルでも活動的な市民になるように準備させることが必要であり、カトリックの学校はすでに、学生たちの市民としての権利と義務を果たすための、社会に責任をもって関与するための準備を、彼らにさせている。

 だが、この新しいデジタルの世界、地球的な世界が求めているのは、地球全体と人類の幸せのために責任を果たす「地球市民」となるように、若い世代を準備させることだ。教皇フランシスコは、環境回勅Laudato Siで次のように述べておられる―「人類、生命、社会、そして私たちと自然との関わり合いについて新たな考え方を進める努力をしないと、私たちの教育に関する努力は不十分で、効果の薄いものになります」と。

 地球環境の危機は、我々が直面している地球的な諸課題の見本展示と言える―その課題は、地球的な関与と対応を必要としていうる。カトリックの教育は、この分野で、真にカトリック的、普遍的、地球的な独特の可能性をもっている。この世界には、地球的で新世代に影響を与える社会組織がいくつもあるが、カトリックに優る可能性を持つ社会組織を見つけるのは難しいだろう。

 カトリック教会とカトリック教育は、多様性への対応と本物の共同体を作ることについて豊富な経験を持っている。それゆえ、かけがえのない地球環境を守るために、教皇フランシスコが求められている枠組みの中で、地球市民の権利と義務を巡る協議に重要な貢献をすることが可能だ-「私たちは、次の世代の人々、今育ちつつある子供たちに、何を残したいと思いますか?この世界で、人生の目的は何ですか?私たちの仕事、努力の目標は何ですか?」。

 かけがえのない地球環境の枠組みの中に、社会正義、環境、連帯、そして貧しい人々のために優先すべき選択に関する問いは、十分に認識されている。回勅Laudato Siはすでに、世俗社会で多くの関心を持たれており、現在の深刻な環境問題、倫理的、社会的危機の解決策を求める親たち、若者たちを惹きつける地球市民の権利・義務のプログラムを作成する共通の地盤になる可能性がある。そしてカトリックの教育には、この分野で違いがある―福音のメッセージを教会外も含む多くの人々にもたらすユニークな立場にある-「『関係』のグローバリゼーションは、『連帯』のグローバリゼーションでもあるのです」。

 もし、カトリックの教育が世界的な流れと真剣に向き合うなら、ネットワークを組んで共に活動することを学ぶように諸学校に求めるだろう。多くのがトリック校は現在、孤立し、あるいは国際的、福音的な潜在力が限定された”小さなかけら”の状態で活動している。教会共同体が運営するカトリック校は普通、ネットワークの外にあるカトリック校とは共に活動していない。同じことが、教区外にある別の教区の学校についても言える。このようなばらばらな体制の中で、福音的潜在力がたくさん失われている。

 確かに、例外もあり、カトリック校の中には強力な全国的ネットワークや連盟に加わっているところもある。だが、大半は、本来の潜在力を十分に発揮しているとも、国際的、地球的対応が必要な数多くの課題に応えているとも、言い難い状態にある。世代、社会のグローバル化が進む中で、我々は今だに、地域レベルで活動し、思考しているのだ。

 バチカンの教育省が提唱する兄弟愛に満ちた人間主義は、地球市民の権利・義務についてのカトリック教育の考え方の全体的な枠組みを作るのに役立つ。人間主義について、シノドスの準備文書の中で、教育省は「教育の中心に『人』を置く、生きた共同体を補完する、共通の定めに互いに依存し、結びつけられた親密な関係の枠組み、と定義している。これが、兄弟愛に満ちた人間主義なのだ。

 地球市民の権利・義務を果たすために、このような観点から、我々の地球的、普遍的な結びつき、そして全人類への共通の責任を認識するように、学生たちとその家族を促す教育者が求められる。狂信、民族至上主義、絶望と暴力に憑りつかれた世界の中で、地球市民の権利・義務の教育は、連帯を基礎に置き、「共通善が個別の善と実質的につながり、人としての、そして自分たちが人間であることについての完全な自覚とともに知識の中身を変えていく」ような希望の教育となるのだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(La Civilita Cattolica はイエズス会が発行する1850年創刊の世界最古とされる権威のあるカトリック宗教・文化専門誌です。バチカン国務省が直接に校閲し、出版・公表前に承諾を受ける唯一の雑誌です(Wikipediaによる)。「カトリック・あい」は同誌の責任者の承認を得て、記事の翻訳・転載をしています=La Civilita Cattolica is published by Sosiety of Jesus, founded in 1850年, oldest pediodical publisshing magazine in the world. It is the only one to be directly revised by the Secretariat of State of the Holy See and to receive its approval before being published.(from Wikipidia). [カトリック・あいCatholic-i ,under permission of its publisher , translate and publish its articles)

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2018年8月29日