「神の恩寵は”観念”ではない」「Amoris laetitiaへの批判は間違い」教皇、イエズス会士との会合で語る(La Civilta Cattolica)

 教皇フランシスコが2017年9月6日から11日にかけて、二十回目の司牧訪問となるコロンビア訪問をされた。訪問中に彼は カリブ海に面した北部の都市カルタヘナ・デ・インディアスを訪れ、まず、アッシジの聖フランシスコ広場へ行き、街の人々とあいさつを交わし、正午の祈りの後、スペイン人イエズス会士で現地の奴隷たちの世話をして1654年に亡くなった聖人を記念する聖ペドロ・クラベル教会で300人のアフリカ系の人々とともに祈りを捧げ、聖堂の主任司祭に記念品を贈った。

 その後のイエズス会士たちとの非公式の会合で、歌と歓声で歓迎を受けた教皇は、座って感謝の言葉を述べ、冗談交じりにイエズス会について触れ、「私は‶派閥〟と会うのが好きです」と笑いを誘う前置きをし、「皆さんがコロンビアでなさっていることに感謝します」としたうえで、こう話された。「昨日、(教皇がイエズス会士として所属していた)アルゼンチン管区のレストレポ管区長と会えてとてもうれしかった。彼はアルゼンチンから、こちらの大司教に会うために来ていて・・とても素晴らしい人です。・・さて、(この会合の進め方は)皆さんにお任せします。講話はしたくない。質問やお知りになりたいことがあれば、お話しください。私をからかい、刺激してください」。すぐに、会場から、祝福を求める声が上がったが、「この会合の終わりに最後の祝福をします。皆さん全員に祝福をしましょう」と応えた。

 教皇の話を受けて、イエズス会コロンビア管区のカルロス・エドゥアルド・コレラ管区長があいさつし、「親愛なる教皇フランシスコ、コロンビアにおける私たちの日ごとのメッセージが和解と平和の裡に私たちを励ましてくれることを、とても幸せに感じています。あなたに申し上げたいのは、私たちが自分の働きすべてにおいて、福音の友愛をもってこの国で生きることのできる道を進もうとしていること、そして、それが私たちへの励ましにあなたに感謝したい理由だということです。ありがとうございます。そして、神がご自分の聖職者たちを祝福し続けてくださいますように」と感謝を述べた。続いて、1623年創立の教皇庁立ハベリアナ大学のホルヘ・ウンベルト・ペレス学長から「教皇陛下、絶望の中に沈もうとしているコロンビアにとって、あなたの訪問は素晴らしい贈り物です。今回の訪問によって、私たち―とても多くの人々、ハベリアナ大学と全てのイエズス会の教育活動、教区司牧に携わる人々―は前に一歩進むでしょう。私たちに希望を与えてくださったことを感謝します」とあいさつがあった。

アントニオ・スパダロS.J.(イエズス会士・La Civilta Cattolica編集長)

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 この会合では、まず、ホルヘ・イワン・モレノ師が質問に立ち、「親愛なるフランシスコ、私は東部のサンタ・リタ教区で教区司祭をしています。人々は教区の名までになっている聖人のリタを讃え、とても愛しています。私が知りたいのは、彼女がいつ、サンフランシスコにいたのか、いつカルタヘナのピエ・デ・ラ・ポパ地区にいたのか、何が彼女の心を打ったのか、です。私がカタルヘナに来て最初にもった疑問です。そして私がもう一つ知りたいのは、教皇として、彼女は‶他〟のカタルヘナからの通りがかりに何を見た、と思われるか、ということです」。

教皇フランシスコ:「神の民を抜きにして福音を語らないで」

 この質問について論じましょう。それは、私が多くの興味を感じたことを話す機会を得たと思うからです。私が感じ。私の心に一番触れたいのは自然なことです。神の民は神の温かい心の表明に限界を持たずに接します。もし、あなたが解釈学の研究をしようとすれば、その事実を千通りも解釈するでしょう。しかし、神の民はただ、歓迎するのです。私にとって、既存のスローガンで準備されたものではない、はっきりとしたサインが存在します。神の民の異なった部分の、私が訪れた世界中の地域の文化が、全く自由に神を讃えた、という事実です。

 奇妙なことですが、残念ながら、私たちは時として「神の民」を抜きにして、人々のために、人々に向かって福音を説こうとする誘惑にかられます。すべては人々のため、しかし人々とともにではありません。このような姿勢は究極的には、福音宣教の開かれた啓発的な理解に立ち返ります。そして、確かに、このような理解に対する最初の対応は、その人に第二バチカン公会議で決めた教会憲章を与えること―教会は神の聖なる民―なのです。

 ですから、もし私たちが教会に触れたいと思うなら、「神の民」に触れなければなりません。今日、「人々」について話す時には、気をつけねばならない!なぜなら、「あなたはポピュリストになってしまう」と他の人から言われ、人にこびへつらい始めることになるからです。そうではない、「人々」は論理的な類型ではない、ということを理解すべきです。論理的な枠組みを使った「人々」について話そうとすれば、リベラリスト、リベラル気質、あるいはポピュリストのイデオロギーに落ち込んでしまいます。つまり、あなたは人々をイデオロギーの枠に閉じ込めてしまうことになるのです。その一方で、「人々」は神秘的な範疇に入ります。そして「人々」を理解するために、水の中に沈められねばなりません-彼に全面的に寄り添う必要があるのです。

 教会、神の聖なる、誠実な民であり続けるのに、観念的でない人々の現実から自らを育てる羊飼いが求めれらます。活力のある、生き生きした羊飼いです。人々の暮らしの中で明らかにされる神の恩寵は、(not an ideology )観念的なものではありません。確かに、この課題について知るために沢山の重要な事柄を説明できる神学者は多い。だが、私は言いたいのです―恩寵は全然、観念的なものではない、私たちを抱くもの、もっと大きいものです。

 カタルヘナの人々が自由に自己表現するこのような場所から出た時、私は彼らが「神の民」として自己表現していることが分かりました。もちろん、彼らが迷信に囚われている、と言う人はいます。それで、私は、あなた方に、教皇パウロ六世が使徒的勧告『福音宣教』(Evangelii nuntiandi)48項で言っておられる内容を読むようにお勧めします―その危険性ともに、人々のもつ沢山の徳を指摘しています。彼は、大衆の宗教には迷信が忍び込む余地がある、としていますが、人がうまく導かれるなら、豊かにされ、純朴で貧しい人だけが知ることのできる神への渇きを明らかにすることになる、とも言っています。神の民は匂いを嗅ぎ分けました。時として、彼は自分自身をうまく表現することができないし、誤ることがある・・でも、私たちのうちの誰が「主よ、感謝します。なぜ私は一度も誤ったことが無いのでしょうか?」と言えるでしょうか。神の民は匂いを嗅ぎ分けました。そして、時として私たちの聖職者としての仕事は、自分を人々の後ろに置くことです。

 聖職者は三つの態度をとらねばなりません。まず、道にしるしをつける、次に、道を知る、そして、最後に残る―なぜならだれも後に残されず、群れに道を探させる・・そして羊は良い羊飼いを嗅ぎ分けます。聖職者は、三つの態度をもって、いつも動いていなければならない。それが、この問いに私が答えようとしていることです。

 

「親愛なる教皇聖下、ロドルフォ・アベヨです。この地方で子供たちの司牧をしています。関係する教義についてお聞きします。聖イグナチオ・ロヨラの霊性について、若者たちにどのように関心を持たせようとすればいいのでしょうか?」

 教皇フランシスコ:「司祭は若者たちに寄り添い、話させなさい」

 お答えしましょう。少しばかり知的に言いますと―彼らに霊性を訓練させるのです。つまり、行動させることです。今や、若者たちの司牧と瞑想はもはや機能しません。おとなしい若者の司牧は根づかない。若者を動かさねばなりません。訓練をしていない者は動かされる必要があります。

 その若者が信者なら、指導するのは信者でない場合よりもやさしいでしょう。信者でない場合は、彼のやり方にまかせるが、寄り添うことを続けなさい。何も聞かずに、年上の者としてボランティア活動や仕事、若者ができるあらゆるやり方で、寄り添いなさい。若者を動かす時は、主が彼に語り始め、彼の心を震わせ始めるような躍動の中に置くようにします。私たちが論争することで心を動かすことはない。私たちができるのは、相手の心が動く時に、相手の気持ちを使って助けることでしょう。

 昨日、メデリンで、私にとってとても意味のあるエピソードを披露しました。それは私の心からのものでした。ポーランドのクラクフでのことです。世界のいろいろな地域からやってきた若者たち15人と、大司教と一緒に昼食―ワールド・ユースデイでは毎日、そのような昼食があります―をとっている間に、彼らが質問を始めました。話し合いはオープンなものでした。ある大学生が私に「私の友人の中に無神論者がいます。彼らを説得するために何を言うことができるでしょうか」と聞きました。それを聞いて私は彼の持つ教会の闘争性(「カトリック・あい」注・「独善的な押し付け」を意味していると思われる)を感じました。私は、はっきり答えました。「あなたが一番やってはならないのは、何か語りかけることです。本当に好ましくありません。彼が動き始めたら、それに寄り添うようにしなさい。彼はあなたがやること、やり方を見て、あなたに問いかけるでしょう。その時に、あなたは何かを語り始めればいいのです」。

 私があなた方にしてほしいのは、若者たちを動かすこと、彼らに自分が主役だと感じさせるアイデアを出すこと、それから彼らが問いかけるようにすることです。「何が起きているのですか、何が私の心を変えたのですか、なぜ私は幸せだったのでしょうか?」と。

 訓練をしているとしましょう。あなたは内輪での運動について質問をする。その時、子供たちにどんな運動をしているのか聞いてはなりません。なぜなら、彼らは、あなたの言葉の意味が何も分からないからです。その代わりに、彼らに自分たちが聞いたことを話させなさい。そこから段々と分かるようになるのです。ただし、うまくやるためには―愛するファーロン神父が、私が管区長に選ばれた時に言ったことですが―あなたが質問するときに、忍耐をもって相手が来るのを待ち、まず相手の話を聴かねばなりません。そして、最後に話し合いにもっていこうとする場合は常に上手なやり方を知っておく必要があります。若者たちは疲れ、若者たちは議論をする。それで、あなたは、いつも、どのような場合にも、それを聞き続ける苦行をせねばならないのです。

 

  女学生のジェファーソン・チャベラ は教皇に次のような質問をした。「教皇さま。まず、私たちのところにおいでくださったこと、そしてコロンビアにおいでになった理由について感謝します。それから、私がしたいのは質問でなくて、すべてのアフリカ系コロンビア人、コロンビアのすべての黒人のためのお願いです。私は、とても多くの司祭、司教さまたちが私たちの苦闘に関わってくださっていることに感謝するとともに、教会全部にコロンビアの私たち黒人が教会がもっと寄り添い、つながりを持って欲しい、と望んでいることを申し上げたいのです。黒人として味わう痛みと苦しみは、私たちに重くのしかかり続け、就業者はいまだにわずかです。豊作でも、働くことのできる人はわずかなのです。お聞きくださって、とてもありがとうございました」

教皇フランシスコ:「若者たちは、年配者と話をして」

 あなたの言われたことは本当です。コロンビアの司教の皆さんに対する話の中で、あなたが触れられたこの国の現実について語りました。コロンビアのイエズス会には神から与えられたカリスマの土台があります。それは聖ペドロ・クラベルというイエズス会士の聖人です。私は、神がこの方を通して私たちに語りかけておられる、と信じています。私は次のような彼についての逸話に感動させられます。彼はイエズス会に入ったばかりの時、ほっそりした小柄な少年でしたが、門番の老人とよく話をしました。そしてその老人は彼の願いをかきたてました。イエズス会の年配の人々にとって、前を進み、若者たちはその後ろにつく、というのは、何と素晴らしいことでしょう。こうしてヨエルの言葉は成就するのです。「年老いた者たちは夢を見、若者たちは預言するであろう」と。それで、私たちは預言をせねばなりませんが、年配者たちと話をする必要もあります。

 聖ペドロ・クラベル教会の教区司祭、ホルヘ・アルベルト・カマホ神父は教皇にこう語った。「教皇聖下、ここに私たちと共にいて下さることを感謝します。あなたはこの聖堂に贈り物をくださいました。教会からも、小さな贈り物をしたいと思います。それは、聖ペドロ・クラベルの列聖の手順について本です。カタルへナの私たちの教会共同体の最年長、96歳で、聖ペドロ・クラベルの研究者、P.トゥーリオ・アリスティザバルが、あなたにその著作をお渡しします」。そして、アリスティザバルがこれを受けて、「上司の司祭が私に、著作をお渡しするようにと申しました。この本にはとても興味深い箇所があります。30人を超える奴隷たちの、ペドロ・クラベルの人物についての宣誓書に関する箇所です。私の考えでは、この本は聖人についての最も優れた伝記です。教皇の手に委ねます」と説明をし、著作をお渡しした。教皇はお礼の言葉をかけ、カマホ神父が続けて語った。「教皇聖下、もうひとつ準備した贈り物は三か月にわたって推進しているプログラムです。私たちはそれを、教皇フランシスコによる‶緑の道〟と呼び、教皇が出された環境教書”Laudato si”を人口の多いこの地域に適用しようとするものです。この旅のしるしとして、私たちは近隣の少年たちと一緒に使っているブックレットと‶緑の道〟Tシャツを、あなたに差し上げたいと思います。教皇聖下に‶緑の道〟の木々―この町で種から育てた果樹―を祝福してください」。

 続いて、ビンセント・ドゥラン・カサスが立ち、こう質問した。「教皇さま、ご訪問を改めて感謝します。私は哲学を教えていますが、仲間の神学者に代わって私が知りたいのは、私たちのような国と一般的な教会で哲学的、神学的内省から何を期待するのか、ということです」。

教皇フランシスコ:「良い神学者は、現実と向き合い、祈る人」

  内省とは研究室で行うものではない、とまず、申し上げましょう。実際、私たちは、損傷がトマス・アクィナスの偉大で輝かしい教えで終る、ということを見てきています。崩壊、腐敗が教本、生気の無い、単なるアイデアとなり、うわべだけの司牧計画にされているのを。少なくとも私たちの時代には、このような流れの中で訓練を受けてきました。形而上学的な連続性を説明するために、哲学者のLosada教授がinflated punctuation(誇張された句読法)を引き合いに出したということは馬鹿げています。彼は当時の偉大な哲学者でしたが、退廃的で、苦しそうに飛ぶような人だった・・

 要するに、哲学は研究室にあるのではなく、人生、現実との対話の中にあるのです。現実との対話の中で、哲学者として一致を成し遂げた三人の卓越した人物を具体的な名前で知ることになります。私たちは偉大な作家、ドストエフスキーの言葉を思い起こします。彼のように、どのように素晴らしいものが私たちを救うのかについて、善について、真理について、深く考えるに違いありません。

 前教皇のベネディクト16世は真理を出会い、類別、いや、道として話されました。現実との対話の中に、いつも真理はある。それは、私たちは対数表を使って哲学をすることはできないからです。同じことが神学についてもいえますが、それは神学を”盗む”ことを意味しない。逆です。イエスの神学はすべての中で最も現実的なものでした。彼は現実から始めて、父のもとに昇りました。種をまくことから、たとえ話から、事実から始めて、それらを説明しました。イエスは奥深い神学を形成することを希望された。そしてそのもととなる偉大な現実は、主なのです。

  私は繰り返し言いたいと思います。良い神学者であるためには、勉学は別として、献身の心を持ち、目覚めて、現実をしっかりとつかまねばなりません。ひざまずいて深く考えねばなりません。祈らない男性、祈らない女性は神学者にはなれません。Denzinger(19世紀のドイツの神学者)の著作で、現存するあるいは将来可能性のあるあらゆる教義を知っても、神学をすることにはならないでしょう。それは、何でもそこにある概要、教本とはなるでしょう。

 しかし、今、問われているのは、どのように神を表現するのか、どのように神は誰なのかを表現するのか、どのように聖霊は存在を証明するのか、キリストの悲しみ、キリストの神秘、パウロのフィリピの人々への手紙2章7節から続いて述べられていること・・このような神秘について、あなたはどのように説明し、説明しているでしょうか。その出会いが主の恩寵であることを、どのように教えているでしょうか。あなたが、パウロのローマの人々への手紙を読んだ時のように、主の恩寵の全ての神秘がそこにあり、あなたはそのことを説明したくなるのです。

 「批判者にも、使徒的勧告the Amoris laetitia(家庭における愛の喜び)の全文を深く味わってほしい」

 この問いに関して、正義と博愛について言われたことで信じていることを少し話しましょう。先の二度にわたる全世界司教会議(シノドス)を受けて私が出した使徒的勧告について、たくさんの批評を耳にします。それは敬意を表すべきものです。神の子供たちによって呼ばれているからです。しかし、間違っています。使徒的勧告the Amoris laetitia(家庭における愛の喜び)を理解していただくためには、初めから終わりまで読んでいただかなくてはなりません。第一章から始めて、第二章・・と続け、深く味わってください。そして、シノドスで何が語られたかを読んでください。

 それから、この使徒的勧告にはカトリック教会の倫理というものがない、あるいは少なくとも、確かな倫理がない、と批判する人がいます。この批判について、私ははっきりと申し上げねばなりません。Amoris laetitiaの倫理は偉人、聖トマス・アクィナスによる倫理である、と。あなた方は、現在の最もすぐれた、最も円熟した中でも偉大な神学者、ショーンボルン枢機卿とこの使徒的勧告について話すことができます。これが、「倫理は純粋な決疑論(宗教上・倫理上の一般原則に従った義務行為の間に衝突が起こるとき,律法てらして善悪判定ようとする考え方)だ」と信じ込んでいる人々を(その過ちから)救うために、私が意図していることなのです。偉大なトマス・アクイナスが素晴らしい恵みをもち、今もなお、私たちを奮い立たせることができるのだ、ということを、彼らが理解するようにお助けください、ひざまずいて祈って、いつもひざまずいて祈って・・

  会場からお出になる前に、教皇は参加したイエズス会士たちを祝福し、「私のために祈るのを忘れないように」と求められた。そして、写真撮影と挨拶を交わした後、サントドミンゴ修道院に向かい、祈りと食事をなさった。

(翻訳・「カトリック・あい」南條俊二)

([La Civilta Cattolica- カトリック文明‐」は1850年創刊のイタリアで最も伝統と権威のあるカトリック定期刊行誌です。「カトリック・あい」はこの記事の翻訳、掲載について同誌編集長の許可を得ています。)

 

 

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2017年10月4日