・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)

(2018.4.11  Tablet  Laurence Freeman)

 聖性についての教皇フランシスコの考えは、大量消費至上の個人主義の手ぬるい凡庸さ、それと同時に、知的説明に走る宗教性に対する、預言的な怒りに根差している。

  新しい使徒的勧告の簡潔で、巧みに作られた5つの章で、教皇フランシスコは、カトリック教会の説教壇から語っているが、その聴き手は、現代の信仰の危機にある全ての人だ。

 彼は、空虚なライフスタイル、目に余る消費、そして貧しい底辺の暮らしをしている人々の中に神を見ようとしないことで生み出された人間の堕落を白日の下に晒している。フランシスコは具現化された霊性、教皇職のもつ決定的な主調―「現実は理想よりも偉大だ」という彼の言葉で表現される―によって、突き動かされているのだ。

 教皇に就任して以来、「福音の喜び」「(家庭における)愛の喜び」に次いで三つ目となる今回の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate (“Rejoice and Be Glad”) は、聖性に関する神学的な学術論文ではなく、聖性への願望を高めようとする信仰にあふれた口説き文句だ。

 こうした願望がなぜ、真の幸せをもたらすことになるのか。それを説明するために、フランシスコは、消費主義の隔絶した浅薄さと対比させて、聖性が個人の道徳的な完全さや他者の賛同に関するものではないことを、私たちに思い起こさせて、こう語る―「聖人の語ることすべてが、福音書に完全に忠実である、ということではありません」。聖人の人生全体を良く見つめる必要があるのだ。

 教皇が名指しするカトリック教会最初の聖人たちは女性たちだ。そして、聖性の「女性らしいスタイル」について述べ、具体的、経験的な聖性というテーマを女性の日常的な振る舞いを例に使って説明している―ある女性が買い物にでかけ、(主婦たちが好むうわさ話の輪に入るのを避け、くたびれて家に戻るが、助けを求める子供に気を配り、沈黙の祈りで一日を終える。聖性は、特種な人や世間から隔絶して暮らす人にあるのではない。私たちのそばに住む良き隣人とかかわること、私たちがすでにやっていることをもっと完全にする方法を見つけ、特別な方法で普通の事をすること、の中にある。聖性は、沈黙の、一人の、静寂の時を必要とするが、「他の人々との交流を避けて静寂を愛することは健全ではない」。

  聖性は、受肉の神秘に基礎を置いた、実際の一生の過程だ。共同体社会は、日々の一瞬一瞬を通して動いていく生き方の実習室であり模範。祈りは、日々の愛の約束と聖イグナチオが識別、心の知力と言明した深い祈りの特別な恩恵を育てるゆえに大切なものだ。これは、小さないくつものしぐさからなるが、明白な、キリストを中心に置いた神秘主義の聖性である。環境問題に関する回勅Laudato Si’で、フランシスコは創造の神秘主義と挑戦的な社会、経済的な論評を結びつけている。今回の使徒的勧告では、教皇はイエスのように、聖性の敵―明確な外部の敵ではなく、ずっと内部に近いもの―を激しくたたいている。

 (物質と霊の二元論をとる)「グノーシス主義」と(原罪を否定し人間 の自由意志と禁欲を強調する)「ペラギウス主義」がカトリック教会でいまだに人気のある異端の害毒だ、と指摘し、このうち「グノーシス主義」については、肉体から離れた絶対化された宗教的主知主義―教皇がしばしば批判する「聖職権主義」の特徴―であり、「ペラギウス主義」は恩寵の常に先取的な役割に対する自己満足的な盲目、との見方を取っている。教皇は直観的に調和よりも独創性を優先する―ということが、教皇の聖性についての理解に不可欠だ。

 これは、聖性の熱情的、預言者的な理解である。教皇は、預言者たちがしたように、いかさまの聖性に怒りを覚える―だが、すぐに、怒りから確信に移る。彼の聖性の手順は誰にでも適用される。ひとりよがりの選民意識と我々作る文化を見て彼を悲しませるような、退屈な凡庸さを、彼はともに避ける。人間が置かれた状態としての孤独は、消費者個人主義によってさらにひどくなる。(注・そうした現代社会において)聖性は「癒し」だ。

 聖書は彼を駆り立てる。フランシスコは、イエスの言葉に直接、立ち戻るように、私たちを強く促す。生き方を変えるよう求めることで私たちを動揺させる。八福(注・キリストが山上の垂訓で説いた八つの幸福の教え)についての評論で、教皇は「心において貧しい人は幸いである」というイエスの言葉を「私たちが真の安心を得る、まさにその場を見出すために自分自身を見つめるよう招くもの」として理解し、柔和さを「常に支配、管理しようとすることで疲弊することから救う既存の文化を否定する徳」と理解している―心に残る洞察において、教皇はこう言っている―「私たちの最も深い願望は、柔和さに満ちている」。

 フランシスコは新たな例をひいて元のテーマに戻る。彼は書いている―聖性は「神秘的な歓喜( 注・キリスト教終末論においてイエス・キリストの再臨の際に起きるとされる現象)に恍惚となる」ものではない。むしろ、寒い夜に家の外で寝ている人に出会った時の私たちの対応に例えられる―と。今の世界における聖性の実際的なプログラムの中で、難民危機は、生命倫理よりも優先すべき課題だが、教皇は、キリスト教が「光り輝く神秘をはぎ取ったNGOのようなもの」になる危険がある、と警告している。自分自身の中にキリストを見出すことは、一人ひとりの中にキリストを歓迎するのを認めることだ。ロシアの霊的古典「巡礼の道」の著者が行っていた絶えることのない心の祈りは、彼を彼の周りで起きていることから彼を引き離すのではない。「長い祈りの沈黙なしには、まず、私たちはできない」―とこのとても活動的な教皇は、私たちにこのように生き生きと思い起こさせる」。

 私たちはまた、この勧告の中にイエズス会士、フランシスコを見る―識別、日課となっている自己究明、瞑想―だ。教皇は、一人ひとりの聖人の人生の中にマルタとマリアの一致を見ている。教皇がいかにして規則正しく聖務日課と個人的な祈りをしているかに、数多く言及している。この疑いのなさは、教皇が日々の祈りの時に置いている大切さを説明する。この中に、私たちは、急進的な仕方―私たちの文化の疎外された世代のためのキリスト教徒の聖性の道を新たにするもの―の中に働く教皇の伝統への本能的な敬意を見るのだ。

 1943年に、シモーヌ・ベイユは「今の時が求める『新たな聖性』、新鮮な泉と創作力」を予見した。この使徒的勧告で、教皇フランシスコは、退屈な凡庸さと宗教的選民主義を拒否する、人の姿をした聖性のプログラムの中に「ささやかな日々の事柄」の包括的な神秘を見ることによって、この「新たな聖性」を雄弁に推奨している。教皇は、全ての人生の目標としての聖性への教会の呼びかけを新にしたのだ。

 「聖性を恐れないように」-フランシスコは強く勧めている。

(Laurence Freeman はベネディクト修道会所属の修道士。キリスト教徒の瞑想の世界協会(WCCM)事務局長

(翻訳・「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

2018年4月18日

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい、大いに喜びなさい)-現代世界における聖性への呼びかけ」(全5章中4章まで試訳終了)

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE-現代世界における聖性への呼びかけ」*(全文・「カトリック・あい」試訳中)

1.「喜びなさい、大いに喜びなさい」(マタイ福音書5章12節)。イエスはご自分のために迫害され、侮辱される人々に、このように言われました。主は、私たちのすべてを求められますが、その見返りに、真のいのち、私たちが創られた目的である幸せを、私たちにくださいます。主は私たちに聖なる者であることを望まれます。私たちが当たり障りのない、平凡な生き方に満足することを願っておられません。聖性への呼びかけは、聖書の最初のいくつかのページにあります。主のアブラハムに対する言葉で、こう表現されています-「あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)

2.これから申し上げることは、聖性に関する論文-この重要な課題の理解を助ける定義や区別、あるいは聖化のさまざまな方法についての議論-を意図していません。私の控えめな目的は、聖性への呼びかけを-現代に合った実際的な仕方で、危険、挑戦そして機会とともに-改めて行うことです。それは、主が私たち一人ひとりを、ご自分の前で「聖なる者、汚れのない者にしよう」(エフェソの信徒への手紙1章4節)と、お選びになったからです。

第一章 聖性への呼びかけ

 *私たちを励まし、同行してくださる聖人たち

3.「ヘブライ人への手紙」は、私たちを「自分に定められている競走を忍耐強くは知りぬく」(12章1節)よう励ます、たくさんの言明をしています。アブラハム、サラ、モーセ、ギデオン、その他の人々について語っています(11章1節-12章3節参照)。そして何よりも、「おびただしい証人の群れ」(12章1節)が、目標に向かって常に前進するよう私たちを駆り立てていることを認識しなさい、と私たちに呼びかけているのです。このような証人たちには、私たちの母、祖母、その他の愛する人たちも含まれるでしょう(テモテの手紙2・1章5節参照)。彼らの人生は常には完璧でなかったかも知れませんが、過ちと失敗の最中にあってさえも、前進し続け、主を喜ばせたのです。

4.聖人たちは今、神の前で、私たちとの愛と霊的交わりのきずなを保っています。「ヨハネの黙示録」は、殉教者たちのとりなしについて語る時に、そのことを証言しています-「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつ前裁きを行わないのですか?」(6章9-10節)。私たちはそれぞれ、このように言うことができます-「神の友たちに取りまかれ、先導され、案内されます・・。私は、実際、一人で運ぶことが絶対にできないものを一人で運ばなくてもいい。すべての神の聖人たちが、私を守り、支え、歩ませるためにおられるのです」¹

5.列福と列聖を行う過程で、英雄的な美徳のしるし、殉教による自己犠牲、そして他の人々のために人生を捧げ続け、死に至るまで捧げ続けるような事例が評価されます。このことは、キリストの模範に倣う行為であることを示しています²。例として、福者マリア・ガブリエラ・サゲッドゥ(1914-1939イタリア・サルディニア生まれ、1983年に列福)を挙げることができるでしょう。彼女はキリスト教徒たちの一致のために命を捧げました。

 *聖人たちは”隣り”に

6.しかし、私たちはすでに列福され、列聖された人々だけを考える必要はありません。聖霊は、神を心から信じ、忠実な人々の間に、聖性を豊かに注いでくださいます。なぜなら、「神は、人々を個別的に、全く相互のかかわりなしに聖化し、救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め、忠実に神に仕える一つの民として、確立することを望んだ」₃(第二バチカン公会議「教会憲章」9項)からです。救済の歴史で、主は一つの民を救われました。私たちは、一つの民に属していなければ完全に自分自身ではないのです。それが、誰も一人では、ばらばらの個人では救われないことの理由です。神は、私たちを放っておかれず、人間社会の複雑な対人関係のあやをご存知の上で、ご自分のところに引き寄せようとなさいます。神は一つの民の生涯と歴史に立ち入ることを望まれました。

7. 聖性が神の民の忍耐の中-大きな愛をもって子供たちを育てる両親、家族を支えるために懸命に働く男女、病んでいる人、微笑みを絶やさない高齢の聖職者の中-にあることを考えたいと思います。彼らの日々の忍耐の中に、私は、闘う教会の聖性を見ます。聖性は、私たちの隣りの人たち-私たちの中で暮らし、神の実存を映す人たち-の中に見つかることが、とてもよくあります。「聖性の中流階級」と呼べるかもしれません。⁴

8.聖性のしるしに心を弾ませましょう-そのしるしは、主が「信仰と愛の生活を通して、キリストについて生きた証を広め・・キリストが果たした預言職に参加」⁵(「教会憲章」12項)する者の中で最も謙虚な人々を通して、私たちにお見せになります。私たちは、十字架の聖テレサ・ベネディクタが語ったように、本当の歴史はとても多くの人々によって作られている、という事実を思う必要があります。彼女はこう書いています-「預言の力と神聖さで最も優れた人物たちは、真っ暗な闇夜から抜け出て、前に歩む。だが、大部分の人にとって、神秘的な命の形成の流れは見えないままだ。まことに、世界史の最も決定的な転換点は、歴史書に書かれていない人々によって実質的に確定される。そして、私たちは、隠されていたすべてが明らかにされる日に、自分たち個人の生涯の中で、その決定的な転換点を定めた人々について、初めて知ることになるだろう。⁶

9.聖性は教会の持つ最も魅力的な側面です。しかし、聖霊は、カトリック教会の外においてさえも、とても異なった文脈の中で「キリストの花々を助けるご自身の臨在のしるし」を高く上げます⁷。聖ヨハネ・パウロ二世は「自らの血を流してさえもキリストを証しする人は、カトリック教会、ギリシャ正教会、英国国教会そしてプロテスタント教会の共通の遺産」である、ということを私たちに思い起こさせてくれます⁸。2000年の大聖年の期間中に行われた信仰一致の記念行事で、彼は、殉教者たちは「分裂をもたらしたいかなる原因よりも雄弁に物語る遺産」であると語りました⁹。

*主は呼びかけておられる

10.これらすべてが重要です。それでもなお、この勧告で、私は、主が私たち一人ひとりに、そしてあなたに個人的になさる「聖性への呼びかけ」について特に強調したいと思います-「聖なる者となれ。私が聖なる者だからである」(旧約聖書・レビ記11章44節、新約聖書・ペトロの手紙11章16節)。第二バチカン公会議はこのことについて、はっきりと言明しました-「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自、自分の道において、父自身が完全に持っている聖性に達するよう、主から招かれている」¹⁰(教会憲章11項315)と

11.「各自、自分の道のおいて」と第二バチカン公会議は述べています。私たちは、達成不可能に見える聖性の模範の前にして、失望落胆してはなりません。助けられ、奮い立たされるような例証はいくつかあります。でもそれをまねることを意味しません。なぜなら、そうすることが、私たちのために主が考えておられる道から外れることさえあるかもしれないからです。大事なのは、信徒一人ひとりが自分自身の道を識別し、最善の道-神が自分たちの心に置かれた最も個人的な贈り物―をみつけること(コリントの信徒への手紙112章7節参照)。自分たちにとって意味のないことを真似ることに絶望的な努力をすることではありません。私たちはみな、証人になることを求められていますが、証人になるための実際の道はたくさんあります¹¹。実際に、偉大な神秘家である十字架の聖ヨハネは「Spiritual Canticle」を著わす際、難しくて固いルールを全面的に避けることを選びました。そして彼は、韻文を、誰もが「自分のやり方」で恩恵を受けることができるように組み立てた¹²、と説明しています。なぜなら、神の命は「ある人にはこのやり方、他の人には別のやり方」で、つながるからです¹³。

12. 様々な形の中で、私にはもう一つ、強調したいことがあります。それは、「女性の特質」を聖性の女性的な形の中に見ることができる、それは、この世界において神の聖性を映すために欠かすことのできない手立てだ、ということです。実際のところ、これまでの女性が一番無視され、見過ごされた時代にあって、聖霊は、教会において新しい霊的活力にあふれ、重要な改革を行う魅力ある聖人たちを、育て上げました。そうした聖人として、ビンゲンの聖ヒルデガルド、聖ブリジッド、シエナの聖カタリナ、アビラの聖テレジア、リジュ―の聖テレーズを挙げることができます。しかし、また私は、名を知られることのない、あるいは忘れられた女性たち全てのことも思い浮かべます-彼女たちは、それぞれのやり方で、証し人の力によって、家族と共同体社会を支え、改めたのです。

13. このことは、私たちのすべてを捧げ、神が永遠の昔から私たち一人ひとりのために作っておられた唯一の計画を自分のものとするように、刺激し、励まします-「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別した」(旧約聖書・エレミヤ書1章5節)と。

 *あなたのためにも

14. 聖となるために、司教、司祭、あるいは聖職者である必要はありません。私たちはしばしば「聖性は、日常の雑事から離れ、祈りにたくさんの時間をかけることのできる人にだけある」と考えがちです。そのようなことはありません。私たちはみな、どこにいようと、愛をもって生活を送り、自分が行う一つ一つの事を通して証しすることで聖となるように、呼ばれているのです。あなたは司教として生きるように呼ばれていますか?-与えられた責任を愛をもって果たすことで、聖となりなさい。あなたは結婚していますか?-あなたの夫、妻を愛し、大切にすることで、聖となりなさい。キリストが教会のためになさったように。あなたは生計を立てるために働いていますか?-あなたの兄弟姉妹に奉仕するために、誠実に腕を振るって働くことで聖となりなさい。あなたは親、それとも祖父、祖母ですか?-子供たち、孫たちに、イエスに倣うにはどうしたらいいかを、辛抱強く教えることで、聖となりなさい。あなたは権限を振るう立場にありますか?-社会の利益を図るために働き、自己の利益を捨てることで、聖となりなさい¹⁴。

15.あなたが受けた洗礼の恵みが、聖性の歩みの中で、実を結ぶようにしましょう。すべてを神に対して開きましょう-どのような状況にあっても、神に顔を向けましょう。聖霊の力が、そうするように助けてくれますから、迷うことがないように。聖性は、結局のところ、あなたの人生において結ぶ聖霊の実(ガラテヤの信徒の手紙5章22-23節参照)なのです。あなた自身の弱さに安住する誘惑にかられるとき、十字架につけられたキリストを見上げて、こう言いなさい―「主よ、私はおろかな罪びとですが、あなたは、私をほんの少しだけ良くする奇跡がおできになります」と。聖ではあるが罪びとたちの集まりである教会には、あなたが聖性に向けて成長するのに必要なのものがすべてあります。主は、聖典、秘跡、聖所、生きた共同体、聖人である証し人、そして神の愛から発する多岐にわたる美徳を教会にお授けになりました―「宝石で飾られた花嫁のように」(イザヤ書61章10節)

16. 主があなたに呼びかけておられる聖性は、いくつものささやかな行いを通して成長します。例を挙げましょう。ある女性が買い物に出かけ、隣の人に会い、話し始め、うわさ話が始まります。でも、彼女は心の中でこう言います。「だめ。だれの悪口も言わない」と―これが聖性に進む第一歩。家に戻った彼女に、子供たちの一人が自分の望みと夢を聴いて、とせがみます。そこで、疲れていても、腰かけて、我慢して、愛をもって彼の話を聞きます―これが、聖性に進むもう一つの犠牲。後で、彼女は、いくらかの後ろめたさを感じますが、聖母マリアの愛を思い出し、ロザリオを取り、心から祈ります―これが聖性へのもう一つの歩み。さらに、この後で、彼女は通りに出て、失望落胆している人に出会い、立ち止まって、やさしい言葉をかけます―さらなる一歩です。

17.時として、人生は大きな試練に出会います。試練を通して、主は、私たちの人生で主の恵みをさらに明らかにすることのできる回心へ、新規まき直しを図るよう呼びかけます―「ご自分の神聖にあずからせる目的」(ヘブライ人への手紙12章10節)で。また、時として、自分がすでにしていることをもっと完全にする方法を見つけることだけを必要とします―「暮らしの中で普通にしていることを、特別な方法で完全なものにするだけのための、霊感がある」¹⁵.ベトナムのグエン・バン・スアン枢機卿( 1928 –  2002)は 刑務所に入れられた時、釈放される日を待つことで時間を無駄に過ごすことを拒否しました。そうする代わりに、「この時を、愛でいっぱいにして生きる」ことを選びました。彼はこう決断しました―「日々あたえられる機会をしっかりと捕えよう。普通ではない仕方で、普通のふるまいをしていこう」¹⁶と。

18.このようにして、神の恵みに導かれ、私たちは、たくさんのささやかな振る舞いによって、神が望まれた聖性を形作ります―自分たちだけで十分な男、女としてではなく、「神のさまざまな恵みの管理者」(ペトロの手紙14章10節)として。ニュージーランドの司教団は、私たちが主の無条件の愛をもって愛することができる、と正しく教えています。なぜなら、復活された主は、その力強い命を、私たちのひ弱な命と共にされます―「主の愛は限りなく、一度与えられたら、決して取り去られることはない。無条件で、常に誠実です。主のように愛するのは容易ではありません。それは私たちが、しばしば弱いからです。しかし、キリストが私たちを愛されたように愛しようと、ひたすら努めることは、キリストがご自身の復活された命を私たちと共にしてくださる、ということを示します。このようにして、私たちの人生に―たとえ、人間的な弱さのただ中にあっても、主の力が働いていることが実証されるのです」¹⁷。

 *キリストにおけるあなたの使命

19.キリスト教徒は、地上での自分の使命を聖性への道をたどること見なさずに考えることはできません。なぜなら、「神の御心は、あなた方が聖なる者となること」(テサロニケの信徒への手紙14章3節)だからです。それぞれの聖人は、歴史の特定の時に、福音の特定の側面を反映し、具体化するために父が計画された使命を帯びています。

20.その使命はキリストにおいて完全な意味を持ち、キリストを通してのみ、理解することができます。その核心に、聖性は、キリストとの一致において、キリストの命の神秘を経験しています。聖性は、独特の、個人的なやり方―キリストと共に常に死に、新たに復活する、という仕方―で、主の死と復活に私たちを結びつける中に存在します。しかし、それはまた、私たち自身の人生で、イエスの地上での生活の様々な側面―彼の表に出さない暮らし、共同体社会での生活、底辺の人たちへの親密さ、自己犠牲の愛を示す中での貧しさなど―を再現することを必要とします。このような神秘を深く想うことで、ロヨラの聖イグナチオが指摘しているように、私たちの選択と態度に、その神秘が体現されるように導かれます。¹⁸ なぜなら「イエスの生涯のすべては、その神秘のしるし」¹⁹(カトリック教会のカテキズム515項)「キリストの全生涯は御父を啓示するもの」²⁰(同516項)「キリストの全生涯はあがないの神秘」²¹(同517項)「キリストの全生涯は統合の神秘」²²(同518項)であり、「キリストは、私たちがご自分とともにそれを生き、ご自分が私たちと共にそれを生きることができるようにされる」からです。

 21.御父の計画はキリストであり、キリストのおける私たち自身です。結局のところ、私たちの中で愛されるのはキリストです。それは「聖性は、十分に慈愛に満ちて生きる以外の何ものでもない」²⁴からです。結果として「私たちの聖性の大きさは、キリストとキリストの中にある私たち自身に端を発します。その限りにおいて、聖霊の力によって、私たちは全人生をキリストをひな型として作っていくのです」²⁵。聖人一人ひとりは、聖霊がイエス・キリストの豊かさから取り、の民に与えられるメッセージなのです。

22.聖人たちの一人を通して主が私たちに語ろうと望まれる言葉を知るために、細部に巻き込まれる必要はありません。それは、そうすることで間違ったり、失敗したりするかも知れないからです。聖人の語ることすべてが福音書に完全に忠実だとは限りません―彼や彼女のすることすべてが正当あるいは完全だとは限りません。私たちが熟慮する必要があるのは、聖人たちの生涯の全体、聖性における成長の旅全体、私たちが個人として彼らの全体として意味するところを理解した時に現れるイエス・キリストの似姿です。²⁶

23.これは、私たちすべてに対する強力な勧めです。あなたはまた、使命として自分の人生全体を見る必要があります。祈りの中で神の声を聴き、あなたに与えられるしるしを知ることで、そのようにしてみなさい。いつも聖霊に尋ねなさい―私が受けた使命を果たす場を識別するために、私の人生の瞬間、瞬間に、私がもとめられる判断の一つ一つに、イエスが何を期待しておられるのでしょうか―と。聖霊があなたの中に、現代世界でイエス・キリストを映すことのできる個人的な神秘を作ってくださるようにしなさい。

24.その言葉の内容、神があなたの人生によって世界に話しかけることを望まれた、というイエスのメッセージをはっきりと理解するようになるように。あなた自身を変容させましょう。あなた自身を聖霊によって新たにされるようにしましょう。そうすることで、あなたの尊い使命に失敗しないようにすることができるのです。あなたがその愛の道を放棄せず、浄化し啓蒙する主の超自然的な恵みにいつも心を開いている限り、主は、あなたが失敗し、道を外しても、使命を全うするようにしてくださいます。

 *聖化する行為

25.キリストは神の王国をもたらすためにおいでになりました。キリストを、その王国から離れて理解することができないように、あなたがたの一人ひとりの使命も、その王国の建設と分かちがたいものです―「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)。キリストとその意志と一体となることは、愛、正義、そして普遍的な平和の国をキリストとともに建設する責任を含みます。キリストご自身はあなたとともに―必然的に伴うすべての努力と犠牲において、そして、それがもたらすすべての喜び、豊かさにおいて―このことを経験したいと希望されています。あなた自身の体と魂でこの偉大な事業に最善を尽くすように努めなければ、聖性を成長させることはできません。

26.他の人々との交流を避けて沈黙を愛すること、行動を避けて平和と静寂を望むこと、奉仕を軽んじて祈りを求めることは、いずれも健全ではありません。この世界での私たちの人生で、すべてのものが受け入れられ、統合され、私たちの聖性への道の一部となり得ます。私たちは、行動の最中においてさえも、思慮深くあり、責任と寛大さをもって、ふさわしい使命を遂行することで、聖性において成長することが求められます。

27.聖霊が、使命を果たすことを私たちに強く促してから、使命を放棄するように、あるいは使命を一生懸命果たさないように求めることがありうるでしょうか? それでも、私たちには、司牧の約束や責任をこの世界で二の次にする誘惑にかられる時があります。聖性における成長と内的な平和の道に「心の乱れ」があったかのように、です。私たちには、「人生には使命はない、人生が使命なのだ」²⁷ということを忘れる可能性もあります。

28.申し上げる必要もありませんが、不安、誇り、あるいは他の人々に感銘を与える必要からなされるものは、どれも聖性に導くことがありません。そのようにして私たちが行うことが、どれも福音的な意味をもち、イエス・キリストと一層、一体化させる、という約束を証しするように、私たちは強く求められています。例えば、キリスト教の教理を教える人の霊性について、教区司祭の霊性について、務めの霊性について、私たちはよく話します。同じ理由から、私は使徒的勧告「福音の喜び」では福音宣教の使命の霊性を、回勅 「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」では環境に関する霊性を、「(家庭における)愛の喜び」では家庭生活の霊性を、締めくくりの言葉としました。

29.このことは、神の前で、静かにひとり、沈黙の時を過ごすことの必要性を無視することを意味しません。それとは全く反対です。絶えず新製品が出る小物、旅の興奮し、そして限りなく並ぶ日用品―は時として、神の声を聴く場をなくしてしまいます。私たちは、言葉、浅薄な娯楽、そして騒々しさを増す騒音に圧倒され、喜びではなく、人生に意味を失った人が抱く不満でいっぱいになります。私たちは、”rat race”(心身をすり減らす空しい行為)を止めねばならない、と気づくこと、神との心からの対話をするのに必要な個人的な空間を取り戻すことに、どうやって失敗するのでしょうか?そのような空間を見つけることに苦痛を感じるかもしれませんが、それはいつも良い結果を生みます。遅かれ早かれ、私たちは、自分の本当の姿に向き合い、主に入ってきていただかねばならなくなるのです。「底知れない恐ろしい誘惑をじっと見つめる自分を知る、絶望の淵に立ち目もくらむような気持になる、あるいは、自分が完全に孤独で見捨てられたことに気づく」²⁸というようなことがなければ、このようなことは起きないかもしれません。そのような状況の中に、私たちは、自分の任務に十分な献身をもって生きるという、最も強い動機を見出すのです。

 30.私たちの心を乱す様々な事象が世界中に広がり、私たちは、自由な時を絶対化するように導かれ、娯楽やつかの間の快楽を与える趣向に自分自身を委ねることになり得ます。²⁹ 結果として、私たちは自分の使命を不快に感じるようになり、約束はおろそかになり、惜しみない用意を怠らない奉仕の心が薄らいでいきます。そして、私たちの霊的な認識を変えてしまいます。福音を述べ伝えること、あるいは他の人々へ奉仕することに手を抜くようになる時、どのような霊的情熱が健全でいられるでしょうか?

31.一人でいることと奉仕、個人生活と福音宣教の努力、をともに満たすことのできる聖性の精神が、私たちには必要です。それがあれば、どの瞬間にも神の目の中で自己犠牲の愛を表すことができるのです。

 *もっと生き生きと、もっと人間らしく

32.聖性を恐れないように。聖性があなたの気力、活力、喜びを奪うことはありません。それとは反対に、あなたは、天の父があなたをお創りになった時に考えておられたものとなり、自分自身そのものに誠実になるでしょう。神により頼むことは、私たちをあらゆる形の隷属から解放し、自身のもつ素晴らしい尊厳に気づかせてくれます。この好例を、聖ジョセフィン・バキタ(「カトリック・あい」注・1869 – 1947・スーダン生まれ、奴隷にさせられたのち、イタリアの女子修道会に入り活動)に見ることができます―「ジョセフィンは拉致され、わずか7歳で奴隷に売られ、残酷な主人たちのせいでひどい苦しみを味わった。だが、彼女は神―人ではなく―が一人ひとりの人間の、一人ひとりの人生の真の主人である、という深遠な真実を理解するようになった。この経験が、この『アフリカの謙虚な娘』にとっての、偉大な賢明さの源となった」³⁰。

33 .一人ひとりのキリスト教徒が聖性を育てれば育てるほど、私たちの世界のために、より大きな結果を生むことでしょう。西アフリカの司教たちはこのような意見を述べました―「新しい福音宣教の精神のもとで、福音化されるように、あなた方―洗礼を受けた者―すべての力を通して福音化するように、そして、あなた方がどこにあっても、地の塩、世の光としての役割を担うように、私たちは呼びかけられています」³¹

34.あなたの目を高く上げ、あなた自身を神によって愛され、自由にされるようにすることを、恐れないように。聖霊によって導かれることを、恐れないように。聖性があなたの人間らしさを弱めることはありません。なぜなら、それは「あなたの弱さと神の恩寵の力の出合い」だからです。レオン・ブロイ( 1846 – 1917、フランスの作家)の言葉にも、結局のところ「人生で唯一最大の悲劇は、聖人にならないことだ」³²とあります。

第二章 聖性の二つの狡猾な敵

35.ここで私は、私たちを惑わす可能性のある誤った二つの聖性の形―グノーシス主義とペラギウス主義―について述べたいと思います。この二つはキリスト教の歴史の初期からある異説ですが、私たちを悩まし続けています。今も、多くのキリスト教徒が、恐らくそうとは知らずに、この誤った考え―カトリックの真理の面をかぶった人間中心的な内在論を取る―に惑わされることがあります³³。注意したいのは、この二つの形が教義と規範の仮定的な確信が「自己陶酔的で権威的なエリート主義」を生じさせ、それによって、「福音を述べ伝える代わりに、他者を分析し、格付けし、そして恵みへ導くことにではなく、人を管理することに力を費やし」、どちらの場合も、「イエス・キリストに対しても、他者に対しても、真の関心を払っていない」(以上、使徒的勧告「福音の喜び」94項)ことです。

 *現代のグノーシス主義

 36.グノーシス主義は「特定の経験、あるいは一連の論証と少しばかりの情報だけに関心を持っています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は、自らの理性と感情の内在にとざされたまま」なのです³⁵(同94項)。

   神と体を欠いた知性

37.  ありがたいことに、カトリック教会の歴史を通じて、常に明白になってきたことがあります。それは、人の完成度は、情報と知識の量ではなく、慈愛の深さによって計られる、ということです。グノーシス主義者たちはこれを理解しません。なぜなら、特定の教義の複雑さを理解する能力をもとにして他者を判定するからです。彼らは、知性を体から離れたものとして考えるので、他者の中にキリストの傷つけられた体を感じることができず、抽象的な概念の百科事典の中に閉じ込められたようになっています。それで結局のところ、信仰の神秘を具現化しないことで「キリスト無き神、教会無きキリスト、民無き教会」を選ぶのです³⁶。

38.確かにこれは表面的で独断的な見方です―表面にはたくさんの動きがあるのに、内面の心は深く動かされず、影響されもしません。それでも、グノーシス主義は人によっては誤った魅力を感じさせます。なぜなら、グノーシス的なアプローチは、厳格で、人のよっては純粋のように見え、すべてを包含するある種の調和か秩序があるように見えるからです。

39.ここで注意してほしいのは、私が、キリスト教の信仰に対して理性主義が有害だ、と言っているのではない、ということです。理性主義は、教会で―教区の信徒の間でも、それを形成する中心をなす哲学と神学の教師の間でも―存在可能です。グノーシス主義者たちは、自分たちの説明でキリスト教の信仰と福音のすべてを完全に理解できると考えています。自説を絶対的なものと死、自分たちの考え方を他者に押し付けます。福音の教義的、道徳的教えについて熟考するために健全かつ謙虚に理論を使うことは、(注・グノーシス主義のように)イエスの教えをすべての支配を希求する冷酷で厳しい論理に貶めるのとは違います³⁷。

 神秘無き教義

40.グノーシス主義は、最も邪悪なイデオロギーの一つです。なぜなら、知識や表面的な経験を不当に称揚しながら、自分自身の現実についての見方を完全だと考えているからです。そのことに気が付くことすらなく、イデオロギーは独善的になり、近視眼的にさえなります。自己を具現化されない霊性の仮面をかぶる時、なお一層、非現実的になります。グノーシス主義は「本質的に、神秘―それが神と恩寵の神秘だろうと、他者の命の神秘だろうと―を支配することを希求する」³⁸からです。

41. ある人がどの質問に対しても答えをもっている時、それは、その人が正しい道を歩いていないしるしです。偽預言者―自分自身の心理的、あるいは知的理論を売り込むために、宗教を利用する人―になるかもしれません。神は私たちを限りなく超越しています-驚きに満ちています。私たちは神にいつ、どのようにして出会うか、を決める者ではありません-出会いの時と場所を決めることは、私たちに任されていないのです。すべてのことを明らかに、確かなものにしたい、と望む人は、神の超越を制御するという、おこがましいことをすることになります。

42. 私たちには、どこに神がおられないかを言う資格もありません-神はご自身でお選びになった仕方で、一人ひとりの人生に神秘的に存在されるからですし、私たちが確信をもってそれを排除することもできません。ある人の人生が完全に破綻したように見えときでも、悪い行いや常習で荒廃したように見える時でさえも、神はそこにおられるのです。私たちが自分自身を、偏見ではなく、聖霊の導きにゆだねるなら、どの人生にも神を見つけることができるし、見つけるに違いありません。これが、グノーシス的な考えが、それが制御できないために、つかむことのできない神秘の一部なのです。

 理解力の諸限界

43.主から受けている真理を把握することは容易でない。そして、それを表現するのはもっと難しいことです。ですから、真理を理解する方法で、他者の人生を厳しく監督する権威づけを、私たちに与えるように主張することはできません。ここで私は、教会において、教理の多くの側面とキリスト教徒の人生を解釈する異なった方法が正しく共存していることを指摘したいと思います―その多様性において(注・哲学や神学や司牧における見解の異なる方針は)「神のみ言葉の豊かな宝を明確にすために役立ち」³⁹(「福音の喜び」40項)ます。寸分の違いもなく皆が守る、教理の一枚岩を夢見る人にとっては「これは望ましくない、混乱を招くもののように思われるかもしれない」(同)のも事実です。実際、グノーシス主義のいくつかの系統は、福音の具象的な単純さを批判し、至高の統一体に、三位一体であり人となった神を取って代わらせようとしました。そうすれば、私たちの歴史の豊かな多様性が消えてしまいます。

44.実際に、教理―あるいは教理の理解と表現と言った方がいいかもしれませんが―は「質問、疑問、尋問・・を提起する精力的な能力を欠いた閉鎖されたシステムではない。人々の問い―苦難、葛藤、夢、試練、それと心配についての問い―にはすべて、解釈する価値がある。私たちが、人となられた神の真理を真剣にとらえようとするなら、その解釈の価値を無視することはできない。その不思議さは、私たちが知りたいと思うのを助長し、彼らの問いは私たちに問いかける」⁴⁰のです。

45.危険な混乱が起き得ます。私たちは「何かを知っているから、あるいは、特定の言葉でそれを説明できるから、自分はすでに聖人だ、完全だし、”無知な大衆”より優れている」と思うことがあります。聖ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会の教養の高い人たちが「自分は他の信徒たちよりも、ともかく優れている」と感じる誘惑に陥らないように警告しました⁴¹。実際のところ、自分が知っていると考える事柄は、神の愛によりよく応えるように、常に私たちを刺激すべきなのです。まさに「あなたは生きるために学ぶ:神学と聖性は分かちがたい」⁴²のです。

46.アッシジの聖フランシスコは、弟子たちの何人かが教えていることを知った時、グノーシス主義への誘惑に陥らせないようにしよう、と思いました。それで、パドヴァの聖アントニオに手紙を書きました―「あなたが兄弟たちに聖なる神学を教えるのを、うれしく思っています。ただし、この勉学の間、祈りと奉献の心を、あなたが消さない限り・・」⁴³と。キリスト教徒の経験を生き生きとした福音から遠ざけるような、一連の知的演習に変える誘惑を、フランシスコは認識していたのです。一方、聖ボナベンツラは、真のキリスト教徒の知恵が隣人に対する慈しみから引き離されることは絶対ない、と指摘しました-―「考えられる最も偉大な知恵は、私たちが与えねばならないものを豊かに分かち合うこと・・慈しみが知恵の友であるのに対して、貪欲は知恵の敵だ」⁴⁴.「黙想と結ばれた行動は、黙想を阻まず、かえってそれを促す。慈しみと献身の業として」⁴⁵。

 *現代のペラギウス主義

47. グノーシス主義は、今も見られるように、もう一つの異端に取って代わられました。時が経つにつれて、多くの人が認識するようになったのは、それが私たちをもっと良くする、ないしは聖なる者とする知識ではなく、私たちが送る生活のようなものだ、ということでした。しかし、これはグノーシス主義の古い過ちに巧みに回帰しただけでした。グノーシス主義を消し去るというよりも単に変容させただけだったのです。

48.グノーシス主義者が知性に帰したのと同じ力を、次に、もう一つの主義者が人の意志、個人の努力に、帰そうとしました。これは、ペラギウス主義者とセミ・ペラギウス主義者のことです。彼らの下で、神秘と恩寵の場に取って代わったのは、知性ではなく、人の意志でした。すべてのものは「人の意志や努力ではなく、神の哀れみ」(ローマの信徒への手紙9章16節)によっていること、「神がまず私たちを愛してくださった」(ヨハネの手紙1・4章19節)ことが忘れられたのです。

 謙虚さを欠いた意志

49.ペラギウス主義的あるいはセミ・ペラギウス主義的な思考に従う人は、神の恩寵について熱心に語っても、「自分の力だけに信を置き、定められた法規を順守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ、信を置いている」⁴⁶(使徒的勧告「福音の喜び」94項)のです。そのような人々の中には「すべてのことは、神の恩寵をもって成し遂げられ得るのだ」と語っても、心の中では「全てのことは人の意志によって可能となる」という考える傾向があります―まるで、それが純粋で、完璧で、全能であり、恩寵は付け足しであるかのように。彼らは「誰もがすべてすることはできない」⁴⁷ということを、人生において、「人間的な弱さは恩寵による以外に完全に癒されることはない」⁴⁸ということを、認識できません。どの場合にも、聖アウグスティヌスが教えたように、神はあなた方に、できることをするように、できないことは頼むように⁴⁹、そして何よりも、謙虚にご自分に祈るようにとお命じになります―「意のままになるものは与え、したいと思うものは自制しなさい」と⁵⁰。

50.結局のところ、自分の弱さを心から祈りをもって自覚できないことが、私たちの中で恩寵がより効果的に働くのを妨げています。なぜなら、誠実で偽りのない成長の旅を構成する潜在的な善をもたらすための場所が残されていないからです⁵¹。神の恵みは、まさに基礎を置くがゆえに、私たちを皆一緒にスーパーマンにすることはありません。そのような考え方は、自分自身の能力に過度の自信を示すことになります。自らの正当性のもとで、私たちの態度は、恩寵の必要性について語ることに対応するものにはなりません。そして特定の状況において、恩寵に信を置かないようになってしまうのです。もしも、私たちが自分のおかれた具体的で限られた状況にあることを認めることができなければ、主がいつも私たちにお求めになっている現実的で可能な歩みを、目にすることはできないでしょう―一度は主の贈り物に魅せられ、力づけられたとしても。神の恵みは歴史の中で働きます-通常は、私たちをとらえ、次第に変容させます⁵²この歴史的で進歩的な現実を、私たちが拒否すれば、恩寵を拒み、妨げることになります-言葉では恩寵を讃えていても。

51.神がアブラハムに語りかける時、こう言われます―「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(旧約聖書・創世記17章1節)。全き者となるため、神が示されたように、私たちは神の前で謙虚に、その栄光に包まれて生きる必要があります;私たちの人生の中に神の変わらぬ愛を認めつつ、神とともに歩む必要があります。私たちの善のためだけであり得る存在を前に恐れを無くす必要があります。神は、私たちに命を与えてくださった、大いなる愛をくださる父なのです。神を受け入れ、神なしの人生を生きようとするのを止める時、孤独の苦しみは消えます(旧約聖書・詩編139章23-24節参照)。

 このようにして、私たちは、主の喜ばしく、完全な御心を知り(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章1-2節参照)、そして私たちを陶器のように成形していただく(旧約聖書・イザヤ書29章16節参照)のです。私たちはよく、自分の中に神が住まわれる、と言いますが、神の中に私たちが住む、私たちが神の光と愛の中に住むことができるようにしてくださる、と言った方がいい。神は私たちの神殿;全生涯を通じて、主の家に住めるように、私たちは願います(詩編27章4節参照)。「あなたの庭で過ごす一日は、千日に勝る恵みです」(詩編84章11節)。主において私たちの聖性はあります。

 しばしば見過ごされた教会の教え

52.教会は「私たちが自分自身の働きや努力によってではなく、常に私たちを導かれる神の恩寵によって正しい者とされるのだ」と繰り返し教えてきました。教父たちは、聖アウグスティヌス以前の人々さえも、この基本的な信仰を明確に表明しました。聖ヨハネ・クリソストムは「神は私たちが戦い始める前でさえも、贈り物全ての源を私たちに注いでくださる」と言いました⁵³。聖バジルは、忠実な信者たちは神においてのみ輝く、なぜなら「彼らは、真の義を欠いていることを自覚し、キリストを信じることを通してのみ義なる者とされる」からだ⁵⁴、と語っています。

53. オランジュで開かれた二回目の教会会議(注・西暦529年に開催。「神の恵み」についてのいわゆる”ペラギウス論争”にいちおうの終止符を打った)は、神の恵みについて、人は何も要求できず、値せず、買うこともできないこと、そして、それとの協調全てが同じ恵みに先立つ贈り物だということを、確固たる権威をもって教えました―「清められたいという強い願望さえも、聖霊のあふれるような働きを通して、私たちにもたらされる」⁵⁵と。その後、トリエント公会議(注・1545 ― 1563年開催、プロテスタント対策としての教会改革を議論)は、霊的成長のための協調の重要性を強調しつつ、ドグマ的な教えを再確認しました―「我々は、償いなしで罪を赦される、と言われている。罪を赦されることに勝るものは何もない、信仰も行いも、赦しを受ける恩みに値するものは何もない。なぜなら、『もしそれが恵みによるものとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや、恵みではなくなる』(ローマの信徒への手紙10章6節)からである」⁵⁶。

54.「カトリック教会のカテキズム」はまた、私たちに、神の恵みの贈り物が「人間の知性や意志の力を超えている」⁵⁷(1998項)こと、そして「神の前では、人間には、しかるべき報い、というものはあり得ません。私たちは創造主である神から全てをいただいているので、神と私たちとは想像することさえできないほど、不平等」⁵⁸(2007項)であることへ改めて注意を向けさせます。神の友情は私たちを限りなく超越します-私たちはそれを行いによって買うことができない、神の愛にあふれた働きによって生まれ得る贈り物なのです。このことは私たちを、全く分不相応な贈り物への喜びあふれた感謝の中で生きるように勧めます。なぜなら、「恵みを受けたら、すでに手にしている恵みは価値あるものではあり続けられない」⁵⁹(聖トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ⁻Ⅱ.q.114,a.5)からです。聖人たちは自らの行いをあてにすることを避けました―「人生の黄昏に、私は、空の手であなたの前に立つでしょう。私の行いを数えてください、と主よ、あなたにお願いをいたしませんから」⁶⁰(幼きイエスの聖テレジア「Act of Offering to Merciful Love」Prayers,6)・・・・・・・・・・・・・・・・・

55.これは、カトリック教会がしっかりと持ち続けてきた素晴らしい信念のひとつです。神の言葉の中にとてもはっきりと言明されているので、疑問の余地はあり得ません。愛に関する最高の掟のように、その真実は私たちの生き方に影響を与えるに違いありません。なぜなら、それは福音の真髄から出ているものであり、私たちは、それを知性によって受け入れるだけでなく、人から人へと伝わる愛の源とするからです。しかし、もしも私たちの地上での命と生まれながらの才能が神の贈り物だと認めないなら、私たちは、主の友情の無償の贈り物を讃美することはできません。「私たちは、自分の命が本質的に贈り物だということを、喜びをもって受け入れる必要がある。それは、自分のために何か―自分自身の創造性と自由から生まれる果実―をと思うような今の世の中では、容易でない」⁶¹けれども。

56.自由に受け入れ、謙虚にいただいた神の贈り物の基礎の上においてのみ、私たちの累進的な変容の中での自分自身の努力によって強調することができます⁶²。私たちは第一に神のものでなければなりません―まずそこにおられる神に自分自身を差し出し、自分の能力、悪との闘い、そして創造性を神にゆだねる。そうすることで、神の無償の贈り物は私たちの中で成長し、発展していくでしょう―「兄弟たち、神の憐みによって、あなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマの信徒への手紙12章¹節)。それゆえに、教会は、慈しみだけが、恵みの人生で成長を可能とする、と常に教えています―「愛がなければ、無に等しい」(コリントの信徒への手紙1・13章2節)からです。

 新ペラギウス主義者

57.それでもなお、キリスト教徒の中には、他の道―自分自身の努力、人の意志への崇拝、そして自分自身の能力による正当化の道―を取ることを主張する人がいます。その結果は、自己中心とエリート主義で固まった独善、真の愛の喪失です。このことは、さまざまな面に、思慮と行動があからさまにつながらない形でにじみ出ます―法律への妄執、社会的、政治的利益への没頭、教会における典礼、教理、威信への堅苦しいほどの配慮、実際的なことを取り仕切る能力へのうぬぼれ、そして、自助努力と自己充足の段取りについての行き過ぎた関心など―です。キリスト教徒の中には、愛をもって聖霊に導かれようとするよりも、福音の美しさと喜びを伝えることに情熱を注ぐことよりも、そして巨大な群衆の中に、キリストを渇望する迷える人を捜し求めることよりも⁶³、そうしたことに時間とエネルギーを消耗させる人もいるのです。

58.しばしば、というわけではありませんが、聖霊が鼓舞していることとは反対に、教会の日常が、博物館に陳列するにふさわしい物か、選ばれた少数者の所有物になる可能性があります。こうしたことは、あるキリスト教徒の集団が、一定の規則、慣習、あるいは行動様式に過度に重きを置く時に、起こり得ます。そして福音は矮小化され、抑えつけられ、それが持つ単純明快さ、魅力、香りを奪われるようになります。これは恐らく、ペラギウス主義の巧妙な形態かもしれません。神の恵みの人生を、一定の人間の組織に従属させるように思われるからです。それは、集団、運動、共同体に影響を与える可能性があり、なぜ彼らがそれほど頻繁に聖霊において激しい人生を始め、結局は化石化する・・あるいは堕落してしまうのかの、説明になります。

59.私たちが「教会の規則と組織によって方向づけられたものとして、すべてのことは人間の努力に依拠する」と、いったん信じてしまうと、無意識のうちに福音を理解しにくくなり、神の恵みの業にわずかな余地しか残さない青写真のとりこになってしまいます。聖トマス・アクィナスは、教会によって福音に付け加えられた教えは「忠実な信徒たちの行いに負担をかけないように」、節制を強られる必要がある-としています。そうしなければ、私たちの宗教が強制労働のようになってしまいかねないからです⁶⁴。

 *律法の要約

 60.このようなことを避けるために、私たちは「非常に重要なことを追求するように命じる徳のある聖職階級制度がある」ということを心に込めておくとよい。首座大司教は、神を目的、動機とするtheological virtues三つの信・望)にふさわしい、ものです。その中心に愛があります。聖パウロは、真に重要なのは「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)だと言っています。私たちは、愛を堅持するためにあらゆる努力をするように求められています-「人を愛する者は、律法を全うしているのです‥愛は律法を全うするものです」(ローマの信徒への手紙13章8-10節)「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)と。

61.言い換えれば、勧告と規定の茂みの中で、イエスは、二つの顔-父なる神と私たちの兄弟の顔―に気づく道を開きます。もう二つの決まり文句、もうふたつの掟を私たちに示されません。二つの顔、いやただ一つの顔-他の多くの顔に映し出された神の顔-を示されます。私たちの兄弟姉妹の一人ひとり、特に最も小さな人々、最も傷つきやすい人々、自らを守る手立てのない人々、そして助けを求めている人々の中に、神のまさにその姿があります。実に、弱い人間の断片を使って主は究極の芸術作品をおつくりになるのです。なぜなら、「耐え忍ぶもの、人生で価値あるもの、豊かにするものは消えないでしょうか?この二つ-主と私たちの隣人-が持つ豊かさは消え去らない!」⁶⁵からです。

62.主が、新しい形のグノーシス主義とペラギウス主義-教会を圧迫し、聖性への道に沿って進むのを妨げる動き―から、教会を自由にしてくださいますように!このような道から外れた動きは、個々の人の気性と性格によって、様々な形をとります。ですから、私は皆さん全員に、彼らの人生にそのようなことが起きるのか、神の前でよく考え、識別するように強く促したいと思います。

(以上、第一章・第二章試訳終了「カトリック・あい」南條俊二)

(以下、第三章「カトリック・あい」岡山康子試訳)

第三章 主の光の中で

63.何が聖性かは、さまざまな説があり、それぞれに、様々な説明と相違があります。それをよく考えてみることは、よいことですが、イエスの言葉に頼り、イエスの真理の教え方を思い返すときほど、それが照らし出されることはありません。イエスは、山上の説教(マタイ福音書5章3節―12節、ルカ福音書6章20節―23節参照)を私たちに与えてくださったときに、聖なるとはどういうことか、とても平易に説明されました。山上の説教は、キリスト教徒の身分証明書のようなものです。ですから、もし誰かが、「よいキリスト教徒になるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたら、答えは明確です。私たちは、それぞれのやり方で、イエスが山上の説教で言われたことをしなくてはなりません⁶⁶。この山上の説教の中に、私たちは主の御姿を見るのです。そして、私たちは毎日の生活の中で、それを映し出すよう呼びかけられているのです。

64.このようにして、「幸せな」や「喜ばしい」と言う言葉は、「神聖な」と言う言葉と同義になります。それは、神と神の言葉に忠実な人々はその自己犠牲によって、真の幸福を得る、という事実を表わしているからです。

 *流れに逆らって

65.イエスの言葉は、詩のように美しく私たちの心に響きますが、それらは明らかに世間のやり方とは、逆方向です。イエスの言葉にどんなに惹きつけられても、世間はそういう生き方はさせてくれません。山上の説教は、決してありふれた、なまやさしいものではありません。全くその逆です。私たちは、聖霊が、その力をもって私たちを弱さや我儘や自己満足や自尊心から解き放った時にだけ、実行できるものなのです。

66.もう一度、主にふさわしい愛と尊敬をもって、イエスの言葉を聞きましょう。彼の言葉が私たちを落ち着かなくさせ、私たちを挑ませ、私たちの生き方に、本当の変化を求めるのを受け入れましょう。さもないと、聖性は空虚な言葉のままになってしまうでしょう。今こそ、マタイ福音書の、私たちの個人的な山上の説教の実践に取り掛かりましょう⁶⁷(マタイ福音書5章3節―12節参照)。

 *心の貧しい人々は 幸いである、天の国はその人たちのものである。

67.福音書は私たちの心の深みをのぞき込んで、私たちが、人生で、どこに安心を見出すか見るよう誘いかけてきます。普通、豊かな人々は彼らの富に安心し、もしその富が脅かされたら地上の生活のすべての意味が失われると考えます。イエスはこれを、私たちに「愚かな金持ち」のたとえをもって語られています: 彼は、富があるので安心しきっている愚かな男のことを語られました。なぜなら、まさにその夜、その男の命は取り上げられたからです(ルカ福音書12章16節―21節参照)。

68.富は何も保障してくれません。実に、私たちは、いったん自分たちが豊かだと思うと、それですっかり自己満足に浸り、神の言葉や、兄弟姉妹への愛や、人生で最も大切なことの喜びの場を手放します。そうして、私たちは全ての中で最も素晴らしい宝を得る機会を失ってしまいます。それが(注・山上の説教で)イエスが「心の貧しい人々、貧しい心を持った人々は幸いだ」と語られた理由です。そこに、主がとこしえの新しさをもってお入りになることができるからです。

69. ここに出てくる霊的な貧困は、ロヨラの聖イグナチオが「holy indifference(聖なる不偏心)」(注・貧困より富がいい、名誉のあるほうがいいとか、病気より健康の方がいいとか、普通の人間の常識ではそう判断するが、イグナチオの基本的心構えとして、そうした世の常識にとらわれず、心を不偏に保って神が自分に望まれる方を選び取る、という心のあり方を意味する。「神のより大いなる栄光」を積極的に生きるための「偏らない心」のこと)と呼んだものと密接に関係します―これは私たちに喜びに満ちた内面の自由をもたらします:「私たちは、すべての被造物に対する振る舞いに、無頓着であるように自分を鍛えねばなりません。そのすべにおいて、私たちの自由な意思が認められ、禁じられてはいない;それゆえ、私たちは、病弱よりも健康な体、貧困よりも富裕、不名誉よりも名誉、短命よりも長命、そしてその他同じようなことすべて―を熱望することはありません」⁶⁸。

70.ルカは「心の」貧しさではなく、単純に「貧しい」人々のことを言っています。(ルカ福音書6章20節参照)。このように、彼もまた、私たちに、簡素で質素な生活をするよう促しています。彼は、最も困窮した人々の生活を分かち合うよう私たちに呼びかけています。それは使徒たちの暮らしであり、つきつめれば、「豊かであるのに貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙二8章9節)、そのイエスの生活に身を置くよう呼び掛けているのです。心が貧しいこと:それが聖性なのです。

 *柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ

71.初めからすべての方面で紛争、論争、敵対があり、考え方、習慣、そして話し方や衣服に至るまでをを基準に常に私たちは他人を分類している世界にあって、これは強い言葉です。結局、自尊心と虚栄心が支配し、そこでは、人は他者を支配する権利があると考えるのです。それでも、イエスは出来ないと思えるような違うやり方を薦められます。それは、柔和な方法です。これは、イエスが弟子たちと共になさっている仕方です。エルサレムにイエスが入られた時の様子を思いめぐらせてみましょう:「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(マタイ福音書21章5節、旧約聖書ゼカリア書9章9節)。

72.キリストは言われます:「私は柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ福音書11章29)。もし私たちが常に他人に怒ったり、いらいらしたりしていると、しまいには消耗して疲れはててしまいます。でも、偉そうな態度を見せず、他人の欠点や限界を優しさと柔和さを持ってみるなら、私たちは実際に彼らを助けることができ、無駄な不平不満にエネルギーを消耗することを止められるのです。リジューの聖テレーズは「完全な寛容さは、他者の過ちを我慢し、その過ちに憤慨しないことです」⁶⁹と言っています。

73.パウロは柔和さを聖霊の実の一つだ、と言っています(ガラテヤの信徒への手紙5章23節)。彼は、もし私たちの兄弟姉妹の一人の悪い行いが、私たちを苦しめるなら、私たちは彼らを叱らなくてはなりませんが、私たちは「柔和な心で」しなくてはいけません。なぜなら「あなた自身も誘惑されないように」(ガラテヤの信徒への手紙6章1節)です。私たちが、私たちの信仰や信念を弁明するときでさえ、私たちは、「穏やかに」(ペトロの手紙一3章16節参照)やらねばなりません。私たちは、また敵対するものも「優しく」教え導かねばなりません(テモテへの手紙2章25節)。カトリック教会の中で、私たちはしばしば、この神の言葉が要求することに喜んで応じないという過ちを犯すのです。

74.柔和さは、また、神だけに信を置く人々の心の貧しさの別の表現でもあります。実際、聖書の中では同じ言葉ーanawim-は、通例、貧しい人々と、柔和な人々の両方を意味します。。「もし私がそんなに柔和だったら、人は私のことを愚か者か、馬鹿者か、弱虫だと思うでしょう」と反論するひとがいるかもしれません。時にはそう思われるかもしれません。でも、そう思わせておきなさい。いつもそのほうが良いのです。なぜなら、そうすれば私たちの最も深い望みがかなうからです。柔和な人々は「地を受け継ぐ」と言うのは、彼らは彼らの人生のうちに神の約束が成就されるのを見るからです。あらゆる状況で、柔和な人々は彼らの望みを主に置きます。そして主に望みを置く人は地を継ぎ…そして豊かな平和に自らをゆだねるであろう(旧約聖書詩編37章9節、11節参照)。主の側からすれば、主は彼らに信をおかれるのです:「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」(旧約聖書イザヤ書66章2節)。柔和さと謙遜を持って対応すること:それが聖性なのです。

 *悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

75.世間はまさに反対のことを言います:娯楽、喜び、気晴らしや逃避が良い人生の役に立つと言います。世俗的な人は、家族や周りの人の病気や悲しみの問題を見ないふりをします。視線をそらすのです。世間は悲しみを望んでいない:苦しい状況はむしろ無視して、隠してしまったほうが良いと思います。現実は隠せるのだと信じて、不幸な状況から逃れるためにたくさんのエネルギーを使い果たします。でも、十字架は決して無くならないのです。

76.物事を本当にあるがままに見て、苦しみや悲しみに同情する人は人生の深さに触れ、本物の幸福を見つけることができます⁷⁰。その人は、慰められるのです。世間にではなく、イエスによって。そのような人々は、他の人々の苦しみを共にすることを恐れません:彼らは苦しい状況から逃げないのです。彼らは、苦しむ人々を助けに来たり、彼らの苦痛を理解したり、慰めをもたらしたりすることによって、人生の意味を発見します。彼らは、他の人の身は自分たちの身であり近づくことも、彼らの傷に触れることすら恐れません。彼らはすべての距離が消えてしまったかのように、他者への同情を感じます。このように、彼らは聖パウロの説教に喜んで応ずるのです:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。他者と共に悲しむことを知ること:それが聖性なのです。

 *義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる

77.飢えと渇きは基本的欲求と我々の生存本能にかかわるので強烈な経験です。同じ強烈さで正義を望み、高潔さにあこがれる人々がいます。イエスは、彼らは満たされる、とおっしゃいます。というのは、遅かれ早かれ、正義が来るからです。私たちは、たとえいつもその努力の結果を見るとは限りませんが、その実現のために協力することは出来ます。

78.イエスは、あまりにしばしば、些細な利益のために台無しにされたり、あの手この手でごまかされたりする世間の正義とは別の正義をお薦めになります。見返りを求める政治の駆け引きで汚職の泥沼にはまるのは、なんとたやすいことか、いつものことで分かっていますし、そこでは何もかもが取り引きなのです。なんと多くの人が、不正で苦しみ、力なく立ち尽くすことか、その一方で、この世のおいしい分け前をとる人々がいるのです。本当の正義のために戦うのをあきらめてしまい、勝者の列に加わることを選ぶ者もいます。これは、イエスがお称えになる、義を飢え渇き求めることとは、全く違います

79.真の正義は、人々が自分でまさに決心するとき、彼らの人生にやってきます:それは、貧しい人々、弱い人々のための正義を追い求めるときに現われます。「義」と言う言葉は、人生のあらゆる面で、神の意思に忠実であることの同義語であり得ますが、その言葉の意味をあまりに一般的に考えると、私たちはそれが特に、最も弱い人々に対する義に示されることを忘れてしまいます:「善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(旧約聖書イザヤ書1章17節)。義のために飢え渇くこと:それが聖性です。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」

80.憐れみには二つの面があります。「与えること-他者を助け、他者に奉仕すること」、もう一つは「赦すことと、理解すること」です。マタイはそれを一つの黄金律で表しました-「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)。カテキズムを読むと、この黄金律が「あらゆる場合」⁷¹(「カトリック教会のカテキズム」1789項、参照1970項)に適合することに気づかせてくれます。特に私たちが「倫理的判断が不確かなものとなり、決定を下すのが困難な状況に立たされる」⁷²(同1787項)時です。

81.与えることと赦すことは、有り余るほど与え、有り余るほど赦してくださる神の完全性、その秤を小さくして私たちの人生の中に再現すること、を意味します。ですから、ルカの福音の中には「完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)という言葉はなく、むしろ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない;赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そすれば、あなたがたも与えられる」(ルカ福音書6章36-38節)とあります。それからルカは、大事な言葉を付け加えています。「あなた方は、自分の量る秤で量り返されるからである」(同6章38節)。他の人々を理解し、赦すために用いる物差しが、私たちが受ける赦しを測ることになります。私たちが与えるために用いる物差しが、私たちが受け取るものを測ることになります。私たちは決してこれを忘れてはなりません。

 82.イエスは、「復讐しようとする人々は幸いである」とは言われません。イエスは人を赦す人々は「幸いである」と言われ、「七の七十倍までも」(マタイ福音書18章22節)赦す人々についても、そう言われます。私たちは自分たちを赦された者の大きな群、と考える必要があります。私たちは神の憐れみを持って見られているのです。私たちが誠実に主に近づき、主の言葉を注意深く耳を傾けると、時には主の叱責の言葉を聞くこともあるかもしれません-「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ福音書18章33節)。憐れみをもって見つめ、行うこと-それが聖性なのです。

 「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

83. 山上の説教でイエスが語られたこの言葉は、心が素朴で、純粋で、無垢な心を持つ人について語っています。愛することのできる心は、愛を傷つけ、弱め、危険にさらすことをみとめません。聖書は私たちの本当の思い、私たちが真に求め、強く望むもの-外見ではなく―を述べるために、この心を使います。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(旧約聖書・サムエル記上16章7節)。神は私たちの心に語りかけることを望まれます(同・ホセア記2章16節)-そこで、律法を書くことを熱望されます(同・エレミヤ書31章33節参照)。ひと言で言えば、神は私たちに新しい心を与えてくださったのです(同・エゼキエル書36章26節)。

84. 「何を守るよりも、自分の心を守れ」(旧約聖書・箴言4章23節)。偽りに穢れたものは、主の目に真の価値は何もない。主は「偽りを避け、愚かな考えからは遠ざかる」(同・知恵の書1章5節)。父なる神は「隠れたところから・・見て」(マタイ福音書6章6節)おられ、不純で不誠実なもの、ただの見せびらかしや見かけを、お分かりになります。そして御子も同じように「何が人間の心の中にあるか」(ヨハネ福音書2章25節参照)知っておられます。

 85.確かに、愛の働きのない愛はあり得ませんが、この山上の説教は、主が兄弟姉妹に心からの献身を期待しておられることを、私たちに気づかせます。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私には何の益もない(コリントの信徒への手紙一13章3節)。マタイ福音書の中にも、心から出てくるものが、人を汚す(15章18節参照)とあります。殺人、窃盗、偽証、その他の悪い行いも、心から出てくるからです(同19節参照)。心の意図するものから、私たちの行動を決める望みや、最も深い決意が出てくるのです。

86.神と隣人を愛する心(マタイ福音書22章36-40節参照)-誠実に、単に言葉だけでなく愛する心-が純粋な心なのです。その心は神を見ることができます。聖パウロは隣人愛の賛歌の中で「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている(コリントの信徒への手紙一13章12節)」が、真実と愛が打ち勝つ時、私たちは「顔と顔を合わせて」見ることができるのです。イエスは、心が純粋な人々は「神を見る」と約束されます。愛を曇らせるすべてのものを、心から取り去ること-それが聖性なのです。

 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは、神の子と呼ばれる」

87.この山上の説教の言葉は、私たちに、この世界で数多く、果てしなく続く戦争の状況について考えさせます。しかし、私たち自身が、争いの原因になるか、少なくとも、誤解を招く原因になっていることが、よくあります。たとえば、誰かについて何か聞いて、それを何回も言いふらすかもしれません。二度目には、それに尾ひれを付けて、言いふらし続けるかもしれません。そして、人を傷つければ傷つけるほど、満足するように思えます。後ろ向きで、破壊主義的な人々の住むゴシップの世界は、平和をもたらしません。そういう人々は、真に平和の敵です-決して「幸いな人」ではありません⁷⁷。

88.Peacemaker仲裁者は、実際に平和を「作り」ます-社会に平和と友情と打ち立てます。平和の種をまく人々に、イエスはこの素晴らしい約束をなさいました-「その人たちは、神の子と呼ばれる(マタイ福音書5章9節)」のです。イエスは弟子たちに、どこへ行っても「この家に平和があるように!」と祈るように言われました。神の言葉は、すべての信徒に平和のために働くように促します。「清い心で主を呼び求める人々」(テモテへの手紙二2章2節参照)とともに、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」(ヤコブの手紙3章18節)」。そして、私たちの共同体の中で、どうしたらいいか議論する時があったら「平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう(ローマの信徒への手紙14章19節)」、それは、争いよりも一致が望ましいから。⁷⁴

89.福音的平和を「作る」こと-誰も排除せず、ちょっと変わった人や、面倒な難しい人、要求の多い人、人と違う人、人生に打ちのめされた人や、単に無関心な人さえも、抱き締めること-は易しくありません。それは、困難な仕事です-頭と心を大きく開くことがもとめられます。それは、「机上の合意や、少数の幸福な者のための、はかない平和」⁷⁵(「福音の喜び」218項)、あるいは「少数の人による少数の人のため」⁷⁶(同239項)の計画を作ることについて、ではありません。争いを無視したり、軽視したりしようとすること、でもありません。そうではなく、「対立に面と向かい、解決し、新しい過程の連鎖につなげ」⁷⁷(同227項)なければなりません。私たちは平和の熟練工になる必要があります。平和の建設は沈着、創造力、完成、そして技能が求められる作業なのです。私たちの周り全てに平和の種を蒔くこと-それが聖性です。

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

90.イエスご自身が、私たちにこう警告されています-自分の提唱する道は、流れに逆らい、あなた方に、その生き方によって社会に挑戦させ、結果、あなた方は社会の厄介者にさえなる-と。イエスは、どれほど多くの人がかつて、そして今も、正義のために必死に努力しているという理由だけで、神と他者のために誠実に献身ているという理由で、迫害されているかに、注意を向けます。もし私たちが、あいまいな凡庸の中に沈みたくなかったら、安易な人生を求めるのはやめましょう。それは「自分の命を救いたいと思うものは、それを失う(マタイ福音書16章25節)」からです。

91.福音を生きるとき、私たちは、すべてが容易に運ぶ、と期待してはいけません。なぜなら、権力や世俗的利益への渇望が、私たちが進もうとする道にしばしば立ちふさがるからです。聖ヨハネ・パウロ二世は「社会的な組織や生産と消費の形態が、自己を贈り物として差し出し、人々の連帯を確立することを、一段と難しくさせるならば、社会は不和になってしまいます」⁷⁸と語られました。そのような社会では、政治もマスコミも経済も、宗教でさえも、もつれ合い、真の人間的な社会的発展の妨げとなり、結果として、山上の説教で示された「幸い」を全うするのが容易でなくなるのです-そうしようとする試みは、悪いほうにとられ、疑いの目で見られ、嘲笑されるのです。

92.愛の掟を生き、正義の道をたどる時、どれほど疲れと苦しみを経験しようと、十字架が私たちの成長と聖化の源であり続けます。決して忘れてはなりません。新約聖書が、私たちに「福音のために私たちは苦しみに耐えねばならないでしょう」と告げるとき、それは「まさしく迫害のことを指している」(使徒言行録5章41節、ピリピの信徒への手紙1章29節、コロサイの信徒への手紙1章24節、テモテへの手紙二Ⅰ章12節、ペトロの手紙一2章20節・4章14-16節、ヨハネの黙示録2章10節)」と言うことを。

93.ここでは、どうしても避けられない迫害のことを話しています。他者をひどく扱ったことで引き起こされる種類の迫害ではありません。聖人たちは、虚栄心や消極的な言動、辛辣さで他の人を耐え難くさせる変わった、超俗的な人ではありません。キリストの弟子たちは、そのような人たちではありませんでした。使徒言行録は繰り返し述べています-弟子たちは「民衆全体から」好意を寄せられていた(使徒言行録2章47節、4章21節・33節、5章13節参照)、彼らを困らせたり迫害したりする権力者たち」(使徒言行録4章1-3節、5章17-18節参照)はいたが、と。

94.迫害は、過去の現実ではありません。と言うのは、今日、私たちもまた、迫害-現代の極めて多くの殉教者のように、流血による、あるいはもっと巧妙なやり方による、虚偽と中傷による迫害-を経験しているからです。イエスは、私たちを幸いである、と言われます-「私のために身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(マタイ福音書5章11節)時に。またある時には、迫害が、私たちの信仰を戯画化し、私たちが馬鹿げているように見せようとする、あざけりの形をとることもあります。

 またある時は、迫害は、私たちの信仰を風刺し、私たちを滑稽に見せようとする嘲笑のかたちをとることもあるのです。福音の道を日々受け入れる-たとえそれが私たちに問題を引き起こそうとも-それが聖性なのです

*偉大なる基準

95.マタイによる福音書の25章では(マタイ25章31節ー46節)、イエスは山上の説教の「憐れみ深い人々は幸い」を、さらに発展させています。もし私たちが、神の目にかなうような聖性を求めるなら、この福音には、私たちを裁く一つのはっきりした基準が述べられています。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたとき飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときの着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 主に忠実に倣って

96.聖性とは、神秘的に恍惚となり無我夢中になることではありません。聖パウロは、「もし私たちが、本当に、新たにキリストについて深く考え始めるのなら、私たちは、特にキリスト自身が、ご自分と一体となりたいと願われた人々の顔を見ることを学ばねばなりません」⁷⁸。 マタイによる福音書25章35節ー36節は「ただの慈善への呼びかけではありません:それは、キリストの神秘へと光を流すキリスト論の記述」⁸⁰なのです。貧しい人々、苦しむ人々の中におられるキリストを認めようというこの呼びかけの中に、私たちは、キリストの心そのものが表われ、キリストの最も深い感情と選択が表われているのを見るのです。そして、それに倣おうとあらゆる聖人が努力しているのです。

97.イエスのこれらの妥協を許さぬ要求がある以上、キリスト教徒たちに、真に開いた心sine glossaでそれを認め、受け入れてくれるよう求めるのは私の義務です。すなわち、その勢いをそぐような、どんな「言い訳」もなしに、ということです。私たちの主は、聖性とはこれらの要求から離れては、理解も実行もされない、ということを、とてもはっきりさせておいでです。なぜなら、憐れみ深さとは「福音の鼓動する心臓」⁸¹のです。

98.もし、寒い夜に外で寝ている人に出会ったら、その人を厄介者、怠け者、邪魔者、面倒なものを見てしまった、政治家が解決する問題、あるいは公共の場所に散らかったゴミくずとさえみなすこともあり得ます。または、信仰と慈悲の心で、この人の中に自分と同じ尊厳を持った人間、天の父に無限に愛される存在、神の似姿、イエスキリストに贖われた兄弟姉妹、を見ることもできます。それでこそキリスト教徒です。聖性とは、この各々の人間の尊厳をはっきり認めることを離れて理解できるものでしょうか⁸²。 キリスト教徒にとって、これは、常に健全な不安を伴います。一人の人間を助けることだけで、私たちの努力のすべてを正当化できたとしても、それで十分とは言えないでしょう。例えば、カナダの司教たちは、聖年の聖書的理解は、単に良いことを実行することだけではない、と言っています。それはまた、社会的変革を求めることを意味しているのだと言っています。「後々の世代もまた罪を免除されるためには、明らかに、目標はまさに社会及び経済システムの回復でなければならなりません。も二度と、排斥など起こりえないように」。

99.キリスト教徒にとって、これは、常に健全な不安を伴います。一人の人間を助けることだけで、私たちの努力のすべてを正当化できたとしても、それで十分とは言えないでしょう。例えば、カナダの司教たちは、聖年の聖書的理解は、単に良いことを実行することだけではない、と言っています。それはまた、社会的変革を求めることを意味しているのだと言っています。「後々の世代もまた罪を免除されるためには、明らかに、目標はまさに社会及び経済システムの回復でなければならなりません。もう二度と、排斥など起こり得ないように」⁸³。

(以下「カトリック・あい」Sr.岡立子、南條俊二試訳)

 福音の心に打撃となるイデオロギー

100.残念なことに、時として、さまざまなイデオロギーが、私たちを二つの有害な誤ちへと導きます。一つは、福音のこれらの要請を、主との個人的な関係から、主との内的一致から、恵みから、切り離すことです。キリスト教はこうして、アシジの聖フランシスコ、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、カルカッタの聖テレサ、そして多くの人々の人生で明らかにされた輝く神秘を剥ぎ取られた一種のNGOとなります。これらの偉大な聖人たちにとって、黙とう、神の愛、そして福音の朗読は、彼らの隣人への献身の熱意や効果を損なうものでは決してありません。全く逆です。

101.もう一つの有害なイデオロギーの過ちは、他の人々の社会的なつながりを、表面的で、世俗的で、非宗教的で、物質主義的、共産主義的、大衆主義的とみて、疑う人の中に見られます。あるいは、まるで、他にもっと重要なことがあるかのように、あるいは、大事なただ一つのことは特定の倫理的問題や、彼らが守っている道理であるかのように、相対化してまうのです。例えば、まだ誕生していない無垢な命を守ることは、明確で、断固として、熱心でなければなりません。なぜなら、危機に瀕しているのは、人の命の尊厳だからです。人の命は常に神聖であり、あらゆる人への愛-その成長段階を越えて-を求めます。しかし、同じように、既に誕生している哀れな人々-貧しく、見捨てられ、恵まれず、虚弱で年老いて隠れた安楽死にさらされ、人身売買の犠牲となり、新しい形の奴隷制度やあらゆる形の排除の犠牲となっている人々-の命もまた、同様に神聖なのです。私たちは、この世の不正に目をつぶるような”聖性の理想”を目的とするわけにはいきません。そこには、お祭り騒ぎをし、勝手気ままに振る舞い、最新の消耗品のためだけに暮らす人々がいる一方で、それを遠くから眺め、みじめな貧しさのなかで全生涯を送る人々がいるのです。

102.相対主義へと現代世界の欠陥について、例えば、移民の置かれた状況は大したことのない問題だ、と言うことを、私たちはよく耳にします。カトリック信徒の中には、”重大な”生命倫理の問題に比べて、それは二次的な問題だと考える人もいます。支持票を気にする政治家がそのようなことを言うのは理解できますが、キリスト教徒はそうであってはなりません。キリスト教徒に取って、唯一のふさわしい態度とは、自分の子供たちに未来を与えるために命を危険にさらす私たちの兄弟姉妹の立場に立つことです。イエスが「あなた方は、見知らぬ人を受け入れる時、私を受け入れるのだ」(マタイ福音書25章35節参照)と私たちに言われるとき、これが、まさにイエスが私たちに何をお求めになっていることだ、と私たちは悟ることができなのでしょうか?聖ベネディクトはためらうことなく、そうしました。そして、それが自分の修道士たちの生活を「ややこしくする」かもしれなかったにもかかわらず、修道院の扉をたたいたすべての来訪者を「キリストのように」⁸⁵敬意を込めて⁸⁶歓迎するように命じました-貧しい人々と巡礼者たちは「最大の心遣いと配慮」⁸⁷をもって待遇されねばならない―と。

103.似たようなことが、旧約聖書に見られます―「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。「寄留者があなたの土地に共にすんでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国において寄留者であったからである」(同レビ記19章 33 ‐34節)。これは、教皇の創作でも、気まぐれな熱狂でもありません。今の世界においてもまた、私たちは、預言者イザヤが「何が神に喜ばれるのか」と尋ねられた時に示した「霊的な知恵の道」を生きるように招かれています。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出でる」(同イザヤ書55章 7‐ 8節)のです。

 神にとって一番喜ばしい礼拝

104 私たちは、ただ礼拝と祈りによって、あるいは、単に、いくつかの倫理的な掟に従うことによって、神に栄光を与えている、と思うかもしれません。第一の掟が私たちの神との関係にあるのはその通りですが、私たちの生活を計る究極の基準が「自分が他の人々に何をしたか」にあることを忘れることはできません。祈りは最も大切なものです。愛への日々の関わりを育てるからです。私たちの礼拝は、寛容さをもって生きることに自らを捧げる時、そして、祈りの中で受けた神の賜物を兄弟姉妹への思いやりに示されるようにする時、神に喜ばれるものとなります。

105.同じように、私たちの祈りが本物であるかどうかを識別する最善の方法は、自分の生活が、どの適度、慈しみの光で変容させられているか、吟味することでしょう。なぜなら、「慈しみは御父の業であるだけでなく、御父のまことの子らを見分けるための基準にもなる」⁸⁸からです。慈しみは「教会の活力のまさに基礎となるもの」⁸⁹です。この点について、私は、改めて強調したいと思います―慈しみは正義と真理を排除しない―それどころか「慈しみは正義が満たされた状態であり、神の真理の最も輝かしい形の表明である、と言わねばならない」⁹⁰と。慈しみは「天国への鍵」⁹¹なのです。

106.私は、聖トマス・アクイナスを思い起こします。彼は「自分たちの業のうちで最も尊いのはどれか、自分たちの外見的な業のうちで神への愛を最も良く表すのはどれか」と自らに問いかけました。そして、ためらうことなく答えます。「それは、隣人に対する慈しみの業だ⁹²、礼拝さえも凌ぐ」と―「私たちは外見的な犠牲と捧げものによって神を礼拝する。それは、神ご自身の恩恵のためではなく、私たちと私たちの隣人の恩恵のためだ。なぜなら、神は私たちの犠牲を必要としないが、私たちが献身的な愛を奮い起こし、隣人に益をもたらすように、犠牲を捧げることを、私たちにお望みになるからだ。ゆえに、他の人々の欠けた部分を補うような慈しみの業は、隣人の幸せに、もっと直接的に働きかけるものであり、神により受け入れていただける犠牲なのだ」⁹³と。

107.自分の生活をもって神に栄光を捧げることを本当に望む人、自分の存在が「聖なる方」を称えることを本当に熱望する人は、慈しみの業を行うことにおいて、ひたむきで、粘り強くあるように招かれています。カルカッタの聖テレサはこのことをはっきりと認識していました―「そうです。私には人間的な欠点と過ちがたくさんあります…でも、神は身をかがめ、私たちを、あなたを、私を、この世界でご自分の愛と憐みをお示しになるために、お使いになります。私たちの罪、もめ事、過ちをお耐えになります。この世界を愛し、どれほど愛しておられるかをお示しになるために、私たちを頼みとされているのです。私たちが自分たちにかまけすぎれば、他の人々に残される時間はなくなるでしょう」⁹⁴。

108.快楽主義と消費主義は、私たちの破綻を証明することになる可能性があります。なぜなら、自分の楽しみに取りつかれると、最後には、自分自身と自分の権利に気を取られすぎ、楽しみのための自由な時間を是が非でも求めるようになるからです。私たちが、消費社会の熱にかられた欲求―欠乏感、不満感を抱き、すべてを今持ちたいと熱望する状態―に抗し、簡素な暮らしを求めることができないなら、助けを求める人々に対して、現実的な配慮を示すのは、難しくなるでしょう。同じように、皮相的な情報、即席の意志疎通、仮想現実に囚われる時、私たちは自分の貴重な時間を無駄遣いし、兄弟姉妹が身体的な苦しみに遭っていることを何とも思わなくなるでしょう。それでも、このような目まぐるしい活動の最中にも、福音は、今とは違った生活―もっと健やかで、幸せな生活―を与える約束を、告げ知らせ続けるのです。

109.聖人たちの力にあふれた証しは、彼らの生涯―イエスが山上の説教で示された八つの幸福と最後の審判の基準を具体化した生涯―の中で明らかにされています。イエスの言葉は短く、直接的ですが、―キリスト教は何よりも実践を重視するので―誰にとっても実践的で有効な言葉です。これはまた、学びと考察の対象となりえますが、私たちの日々の生活で福音をよりよく生かす助けとなるために他なりません。私は、これらの聖書の素晴らしい箇所を、頻繁に読み返し、これらの箇所に立ち返り、祈り、具体化しようと努めることをお勧めします。そうすることは私たちの為になり、本当の幸せをもたらしてくれるでしょう。

 

(以下、第四章「カトリック・あい」田中典子試訳中)

第四章 現代世界における聖性のいくつかの特徴

110.イエスが山上の説教で示された八つの幸せとマタイ福音書25章31-46節が示す聖性の枠組みの中で、主が呼びかけておられる命の道を理解するのに必要な、いくつかの特徴や霊的な姿勢について、私の考えを述べてみたいと思います。聖別の方法はすでに知られているので、説明するまでもないと思いますが、さまざまな祈り方、聖体拝領と赦しの重要な秘蹟、個人的な犠牲の奉献、異なる形の献身、霊的な指導などその他にも沢山の方法があります。ここでは、特に重要な聖性への呼びかけについて、確かな観点からだけ、お話したいと思います。

111. 私が強調したいしるしは、一つの聖性の模範全体ではなく、神と隣人に対する5つの素晴らしい愛の表現-今日の文化に存在するある種の危険と制約からみて特に重要と考えるもの―です。今日の文化には、悩ませたり衰弱させたりするような不安観、時には暴力が見られます;無気力と陰鬱;消費至上主義で培われた自己満足;そしてあらゆる形の霊性の代用品―神とはかかわりのない―それが現在の“宗教市場”を支配しているのです。

*忍耐力、辛抱強さ、そして柔和さ

112.強調したいしるしの第一は、私たちを愛し、支えてくださる神の内に堅固な基礎を置くこと。この内的な強さの源は、私たちが人生の浮き沈みに屈せずやり通すだけでなく、他者の敵意、裏切り、そして失敗に耐えるのを可能にします。

「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」(ローマの信徒への手紙8章31節)-聖人に見られる平安は、ここから来ています。このような内的な力によって、私たちは、テンポが速く、騒がしく、攻撃的な世界で、愛から生まれる誠実さを示すことができるーなぜなら、神にpistis(信頼)を置く人々は、 他者に対してもpistos(誠実である)からです。彼らは、苦難にある人々を見捨てることなく、不安と失望の中にいる人々に寄り添います。そうすることが彼らにすぐさま満足をもたらさないかも知れない、としてもです。13. 聖パウロは、ローマの信徒たちに「悪に悪を返さず」(ローマの信徒への手紙12章17節参照)、「復讐せず」(同19節)、「悪に負ける」ことなく、「善をもって悪に勝ちなさい」(同21節)と述べています。この態度は、「弱さ」ではなく、「真の強さ」のしるしです。なぜなら神ご自身が「忍耐強く、その力は大きい」(旧約聖書ナホム書1章3節)からです。神の言葉は私たちに「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てる」(エフェソの信徒への手紙4章31節)ように強く勧めています。

114.私たちは攻撃的で自己中心的な傾向を認識して闘い、根を張らないようにする必要があります。「怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません」(エフェソの信徒への手紙4章26節)。そうした傾向に圧倒されると感じる時、私たちは「祈りの錨」にいつでもしっかりと、すがりつく ことができます。そうすることで、神の手の中―安らぎの源―に帰ることができます。「どんな ことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求 めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あ なたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への 手紙4章6節-7節)。

115.  キリスト教徒もまた、インターネットや様々なデジタル通信を通じて、言葉の暴力を もつネットワークのとばっちりを受けるときがあります。カトリック系メディアにおいてさえ、許容範囲 の限界が無視され、中傷と名誉棄損が当たり前のようになり、あらゆる倫理的な基準や他者への 名誉に対する敬意が放棄される時があります。その結果、「(注・話す人の顔がみえる)公の議論の場」では受け入れられないような話を「(顔の見えない)ネットワーク」で語り、他人に暴言を吐くことで自分の不満を解消しようとする―という危険な二極分化が起きるのです。

 ひどいことに、そうした人々は折に触れて、他の戒律を支持すると言いながら、偽証 や嘘を禁じるカトリック教会の「第八のおきて」(注・「カトリック教会のカテキズム2464項以降参照)を完全に無視し、冷酷に他者を中傷します。このようなことの中に、どのようにして軽率な舌が地獄によって火を付けられ、 すべてのものを燃やしてしまう(ヤコブの手紙3章6節参照)かを、私たちは知るのです。

116. 神の恵みの業としての内なる力は、今日の暮らしに蔓延する暴力に心騒がせることのないようにしてくれます。神の恵みは、私たちから虚栄心を取り除き、柔和な心を持てるようにしてくれるからです。聖人たちは、他者の失敗に文句をつけるような無駄なエ ネルギーは使いません。兄弟姉妹の落ち度に口をつぐみ、他者を貶めたり、不当に扱うような言葉の暴力を避けます。他者を厳しく扱うことを躊躇し― 自分よりも優れた者と考えます(フィリピへの信徒への手紙2章3節参照)。

117. 無慈悲な裁判官のように他者を見下し、威張りちらし、常に他者に教 えようとするのは、良いことではありません。それ自体が巧妙な形の暴力なので す⁹⁵。十字架の聖ヨハネは別の道を示しました。「常に、あらゆる人から教えを受けることを求めなさい。最も小さい人にさえ教ようと熱心になるよりは」⁹⁶。そして、どうやったら 悪魔を追い払えるか、こう助言しています―「他者の良いことを、自分自身の良い ことのように喜びなさい。そして、あらゆる点で、相手が自分よりも優位になるよ うに願いなさい。心の底からそうしなさい。そうすることで善をもって悪に打 ち勝ち、悪を追い払い、心の平安を得ます。あなたが最も苦手とする人々に 対して一層、そのようにしなさい。そのような方法で自分自身を鍛えないなら、真の慈しみは得られず、慈しみの心を持って前に進むこともできない、と自覚しなさい」⁹⁷。

118 謙遜は辱められることによってのみ心に根付かせることができます。辱められることなしに、謙遜も聖性もありません。もし、あなたがいくつかの辱めを受けることができず、神に捧げることができないなら、謙虚にはなれないし、聖性への道を歩むこともありません。神が教会に授ける聖性は、子であるイエスの辱めをくぐります。

 イエスは聖性への道です。辱めは、あなたをイエスの似姿にします。辱めは、キリス トに倣うために避けられません。なぜなら、「キリストもあなたがた のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(ペトロの 手紙一2章21節)からです。次に、イエスは父である神の謙遜を示します。神は、民の不信仰 と不満に耐えながら、謙虚に旅をともにしてくださいます(旧約聖書・出エジプト記34章 6-9節、知恵の書11章23節-12章2節、新約聖書・ルカ6章36節参照)。それゆえ、辱めを受けた弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたこと 」(使徒言行録5章41節)を喜んだのです。

119. ここで私は殉教の過酷な境遇に置かれた人だけではなく、様々な人々―家族を危険から守るために黙り続ける人々、自分自身を誇るよりも他者を讃えることを望む人々、あるいは、歓迎しない仕事 を選び、時には神に捧げるために不当な処置を耐える選択した人々―が受けるの日々の辱めについても、お話したいと思います。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(ペトロの手紙一2章20節)―こ れは、下を向いて歩き回るとか、ひと言も話さないとか、他者とともにいることから逃げ ることを意味しません。時には、自分本位から解放されるために、あえて穏やかに反対意見を述べ、正義を求め、あるいは、権力者の前で弱者を守ろうとします。それが、自分の名声が傷つけられるかも知れない、としても。

120. 私はそのような辱めが「心地よい」と言っているのではありません。それではマゾヒズム(自己虐待)になってしまいます。そうではなく、辱めは「キリストに倣い、キリストに一致して成長する道」なのです。これは純粋に自然的なレベルでは理解しがたく、世間はそのような考えを冷笑します。そうではなく、辱めは「祈りの中」で求めるべき恵みなのです。「主よ、辱めにあう時、私があなたの足跡に従っているのだということをわからせてください」。

121. このような行動は、キリストのもたらす心の平安を前提にしています。傲慢な自己中心主義から来る攻撃性から解放された平安です。同じ平安、恵みの実りは、私たちの内に信頼を保たせ、耐えず善であるように励まします-詩編に「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない」(23章4節)、あるいは「彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない」27章3節)とあるように。

 私たちは岩である主のうちにしっかりと立って、歌うことができますー「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」(詩編4章8節)。キリストはひと言で言えば、「私たちの平和」(エフェソの信徒への手紙2章14節)です-「我らの歩みを平和の道に導くため」(ルカ福音書1章79節)に来られるのです。キリストが、聖ファウスティナ・コヴァルスカ(1905-1938、ポーランドの修道女)に「人類は、私の愛に信頼して顔を向けるまで、平和を手にすることはできないでしょう」⁹⁸と言われたように。

 ですから、成功、空しい楽しみ、財産、他者に対する権力、あるいは社会的地位を求める誘惑に陥らないようにしましょう。イエスは言われます-「私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)と。

  喜びとユーモアのセンス

122. 臆病で、気難しく、辛辣か憂鬱、あるいは侘しい顔つきをするのとは程遠く、聖人たちは、喜びと上手なユーモアにあふれています。全くの現実主義ですが、前向きで希望に満ちた生気を発散します。キリスト教徒の生活は「聖霊によって与えられる喜び」(ローマの信徒への手紙14章17節)です。なぜなら、「いつくしみの愛の必然的な結果は喜びだからです-愛する人は誰でも愛されている人々と一体となることを喜びます…いつくしみがもたらすのは愛です」⁹⁹(トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ-Ⅱ、q.70、a.3.) 。私たちは、神のみ言葉という素晴らしい贈り物を受け、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって」(テサロニケの信徒への手紙1・1章6節)それを信奉します。神が、私たちを殻から引き出し、生活を変えようとされるのを受け入れるなら、聖パウロが「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4節)と言っているように、喜べるようになります。

123. 預言者たちは、喜びの啓示として、私たちがいま生きている「イエスの時代」を宣言しました。「叫び声をあげ、喜び歌え」(イザヤ書12章6節)。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ」(イザヤ書40章9節)。「山々よ、歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ書49節13章)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る:彼は神に従い、勝利を与えられた者」(ゼカリア書9章9節)。私たちはネヘミアの励ましも忘れるべきではありません。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である!」(ネヘミヤ書8章10節)。

124. マリアは、イエスのもたらした新しさを理解して歌います-「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ福音書1章47節)。そして、イエスご自身も「聖霊によって喜びにあふれ」(ルカ福音書10章21節)ました。彼が自分たちの前を通り過ぎる時、「群衆はこぞって喜んだ」(ルカ福音書13章17節)。イエスが復活した後、弟子たちが行くところは、どこでも「(町の人々は)大変喜んだ」(使徒言行録8章8節)。イエスは私たちに断言します-「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。‥‥私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」(ヨハネ福音書16章20節、22節)。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」(ヨハネ福音書15章11節)。

125. 厳しい時がやって来るかもしれません。その時には十字架が陰を投げかけますが、何ものも超自然的な喜びを壊すことはできません。その喜びは「状況に応じて変化しつつも、消え失せることはありません。それが、自分が無限に愛されている、という個人としての確信から生じるかすかな光であるとしても」¹⁰⁰(使徒的勧告「福音の喜び」6項)。超自然的な喜びを、何ものも壊すことはできません。深い安心感、穏やかな希望、そして世間が理解し、真価を認めることのできない、精神的な充足感をもたらします。

126. キリスト者の喜びには通常、ユーモアのセンスがあります。このことは、例えば、聖トーマス・モア、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、聖フィリップ・ネリに、はっきりと見てとれます。不機嫌には聖性のしるしは見られません。「心から悩みを取り去れ」(旧約聖書・コヘレトの言葉11章10節)。私たちは、主から「楽しませてくださる」(テモテへの手紙1・6章17節)ものを豊かに与えていただいているので、悲しみは忘恩のしるしとなり得ます。私たちが自分自身にとらわれ過ぎれば、神からの贈り物を識別できません¹⁰¹。

 127. 父の愛をもって、神は私たちにお告げになります-「子よ、分に応じて、財産を自分のために使え…一日だけの幸せでもそれを逃すな」(旧約聖書・シラ書[集会の書]14章11節、14節)。主は私たちが前向きで、感謝をし、率直であることを望まれます-「順境には楽しめ…神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(同・コヘレトの言葉7章14節、29節)。どのような状況にあっても、私たちはいつも素早く立ち直れるままでいるべきであり、聖パウロに倣うべきです-「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(新約聖書・フィリピの信徒への手紙4章11節)。アッシジの聖フランシスコはこれに従って生きました。彼は一切れの固いパンを前にして感謝に満たされ、顔をなでるそよ風だけのために、神を喜んで賛美することができたのです。

128. これは、現代の個人主義的な消費者主義者の文化が提供する喜び、ではありません。消費者主義は心を膨張させるだけです。つかの間の快楽を提供しても、喜びを与えることはありません。ここで私は、分かち合い、分かち合われる聖体拝領に生きている喜びについてお話します-なぜなら「受けるより与える方が幸い」(新約聖書・使徒言行録20章35節)、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(同・コリントへの信徒の手紙Ⅰ・9章7節)とあるからです。兄弟愛は喜びの許容範囲を広げます-なぜなら、それが他者の善をともに喜ぶことを可能にするからです-「喜ぶ人とともに喜びなさい」(同・ローマの信徒への手紙12章15節)「私は自分が弱くても、あなたが強ければ喜びます」(コリントへの信徒の手紙Ⅱ・13章9節)。その一方で、私たちが「自分の必要だけに注力」するなら、「わずかな喜びしか持たずに生きることになります」¹⁰²(使徒的勧告「(家庭における)福音の喜び」110項)。

 大胆さと情熱

129. 聖性は parrhesía(パレーシア=信仰者としての能力を勇気を持って話すこと)でもあります―大胆さ、この世において、福音を伝え、足跡を残そうとする衝動です。こうすることを私たちに認めるために、イエスご自身が来られ、穏やかだがしっかりと、もう一度、言われます―「恐れることはない」(マルコ福音書6章50節)。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ福音書28章20節)。これらの言葉は、私たちが前に進み、聖霊が弟子たちを強く奮い立たせたのと同じ勇気をもってイエス・キリストを大胆に宣言することを可能にします。大胆さ、情熱、正々堂々と意見を述べる自由、弟子のような熱心さ―これらすべてがparrhesíaと言う言葉に含まれています。聖書も、神と他の人に開かれた生活の自由を表現するために、この言葉を使っています(使徒言行録4章29節、9章28節、28章31節、コリントの信徒への手紙2・3章12節、エフェソの信徒への手紙3章12節、ヘブライ人への手紙3章6節、10章19節参照)。

130. 福者パウロ6世は、福音宣教における障害として、「内から来るためになお一層深刻」な「parrhesíaの欠如」について語られました¹⁰³。私たちはそれほどしばしは、岸辺近くに居続けようとする誘惑にかられることでしょう!それでも、主は私たちに、湖の沖に出て、網を下ろすように招かれます(ルカ福音書5章4節参照)。主は私たちに、主に奉仕して生きることをお命じになります。主にしっかりと繋り、神から与えられた特別な能力すべてを他者への奉仕に使うように、励まされます。私たちが神の愛によって駆り立てられていることをいつも感じることができますように(コリントの信徒への手紙2・5章14節)、そして、聖パウロと一緒に「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(コリントの信徒への手紙1・9章16節)と言えますように。

131. イエスをご覧なさい。彼の深い憐みが、人々に触れました。憐みは彼を、私たちによくあるように、ためらわせたり、臆病にしたり、人前を気にしたりさせませんでした。私たちとは全く正反対です。イエスの憐みは、教えを伝えるためにご自分を積極的に出かけさせ、癒しと解放の教えを伝える使命を果たすために他の人々を送りました。自分の弱さを自覚しましょう。イエスが、私たちの弱さをつかみ、私たちも教えを伝える使命に送り出してくださるようにしましょう。私たちは弱い。けれども、私たちは宝―自分を大きくし、受け取った人をもっと元気に幸せにする宝―を持っています。大胆さと使徒的勇気は、教えを伝える使命の大切は要素なのです。

132. Parrhesía  は聖霊の刻印です― それは、私たちの伝える教えが真正であることを証明します。それは、私たちが宣言する福音の栄光へ導く喜ばしい確信です。それは、誠実な証人(注・キリストのこと=ヨハネの黙示録1章5節参照)―何ものも「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ローマの信徒への手紙8章39節)という確信を私たちに与える証人―に対する揺るぎない信頼です。

133. 私たちは聖霊の助けを必要としています。恐れや行き過ぎた慎重さによって無力にならないように、安全な境界の内側にいることに慣れてしまわないように。閉ざされた場所はかび臭く健康に良くないことを思い起こしましょう。イエスの弟子たちは、危険や脅威によって動けなくなる誘惑にかられた時、 parrhesíaを嘆願する祈りを共にしました―「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(使徒言行録4章29節)と。そして、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(使徒言行録4章31節)のでした。

134. 預言者ヨナのように、私たちは絶えず安全な避難所に逃げたい誘惑にかられます。「避難所」には、個人主義、唯心論、狭い世界での生活、依存症、非妥協的な態度、新しい考えと取り組み方の拒否、教条主義、郷愁、悲観主義、規則や規制を盾にすること―というように、多くの名前があるようです。慣れ親しんだ、安易なやり方のままにしておくのに逆らうことが、私たちはできます。でも、その場合に私たちが受ける挑戦が、嵐、鯨、ウリ科の植物を干上がらせる害虫、あるいはヨナの頭を焦がした風や太陽のようなもののこともあるでしょう。私たちにとって、ヨナがそうだったように、挑戦は、私たちを神―いつも新たな旅に出るように招いておられる神―の優しさに引き戻す役目を果たします。

135. 神は永遠に新しい存在です。神は、私たちを絶えず駆り立てます―社会の周辺部とその先に向けて、新たな歩みを始め、慣れ親しんだものを越えて進むように。神は、私たちを連れていかれます―人間性が最も傷つけられているところに、浅薄な体裁に従おうとする外見の裏で、男女が人生の意味についての疑問への答えを求め続けるところに。神は恐れません!恐れを知らないのです!神はいつも私たちの案と実施計画を超えています。神は社会の周辺部を恐れず、ご自身がしもべの身分となられました(フィリピの信徒への手紙2章6‐8節、ヨハネ福音書1章14節参照)。もしも、私たちが思い切って周辺部に行けば、そこで神を見つけるでしょう―実に、神はそこに、すでにおられます。イエスは、そこにすでにおられます―兄弟姉妹の心の中に、彼らの傷ついた体の中に、彼らの悩みと深い悲しみの中に。そこに、すでにおられるのです。

 

136. 確かに、私たちはイエスに、心の扉を開く必要があります―イエスは扉の前に立ち、たたいておられます(ヨハネの黙示録3章20節)。それにもかかわらず、私は、おそらくイエスがすでに私たちの内におられ、その腐りかけた自分本位から逃れさせてほしいとを扉を(内側から)たたいておられるではないか、と思うことがあります。福音書に、イエスがどのようにして「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(ルカ福音書8章1節)かが、書かれています。イエスが復活された後、弟子たちがあらゆるところに出かけた時、主は彼らとともにおられました(マルコ6章20節参照)。これは、真の出会いの結果として起こることなのです。

137. 現状に満足しきるのは魅力的です―現状への満足は、ものごとを変えようとすることに意味はない、自分たちにできることは何もない、と告げます。なぜならこれは、物事がこれまで通り、そのまま生き延びようとするやり方だからです。習慣の力によって、私たちはもはや、悪に立ち向かえなくなります。私たちは「成り行きに任せる」か、さもなければ、他人がそうすべきだと決めたようにするようになる。それでも、私たちを無気力から奮い起こし、惰性から解放してくださるように、神にお任せしましょう。いつものやり方を考え直しましょう―目と耳を開き、何よりも心を開いて、現状に満足しきらないように、かといって、復活された主の生き生きとして力のある言葉に不安を感じないようにしましょう。

138. 私たちは、宣教に身を捧げ、卓越した忠誠で他者に仕え、しばしば命の危険を冒し、間違いなく自分の安楽な生活を犠牲にする、すべての司祭、聖職者、一般信徒の模範によって、行動を鼓舞されます。彼らの証言は、「官僚」「職員」よりも、真の命を分かち合うことに熱心な、情熱のある宣教者を、教会が必要としていることを、私たちに気づかせます。聖人たちは、私たちを驚かせ、当惑させます。彼らの人生によって、私たちに、無気力で退屈な平凡な生き方を捨てるように強く促すからです。

139. 主に恵みを願いましょう―私たちが、聖霊から一歩踏み出すように呼びかける時、ためらうことのないように。使徒的な勇気を願いましょう―私たちが、他の人々と福音を分かち合い、キリスト者としての生活を「思い出の博物館」にしようとするのを止めるように。どのような状況においても、聖霊が、復活されたイエスの光の中で過去を熟慮させてくださいますように。このようにして、教会は、立ち止まらず、主の驚くべき贈り物を喜びをもって受け入れるでしょう。

* 共同体の中で

140. 私たちが他者と離れて生きる時、強欲、悪魔のわなや誘惑、そしてこの世の身勝手さと戦うことはとても困難です。あまりにも多くの魅力に攻められ、孤立無援となり、現実の感覚と内的な輝きを失い、それに容易に屈してしまいます。

141. 聖性の成長は、共同体での他者と並んでの旅です。このことはいくつかの深い信仰をもった共同体に見ることができます。時折、カトリック教会は、福音を雄々しく生き、あるいは神に構成員全員の命を捧げた共同体の人々を列聖してきました。例として、the Order of the Servants of Mary (聖母のしもべの会)の創立者である聖なる7人、the first monastery of the Visitation in Madridの福者7人、日本の聖パウロ三木と同志の殉教者たち、韓国の聖アンドレ・デゴンと同志の殉教者たち、あるいは南米の聖ロケ・ゴンザレス、聖アロンソ・ロドリゲスと同志の殉教者たちを思い浮かべることができます。また、アルジェリアのティビリヌのトラピスト会修道士たちによってごく最近なされた証しも思いをはせるべきでしょう―彼らは共同体として殉教に備えました。多くの神聖な結婚においても、二人の男女は他者を聖化するためにキリストがお使いになる手段となるのです。他者とともに暮らし、働くことは、間違いなく霊的な成長への道となります。十字架の聖ヨハネは、彼の信奉者の一人に言いました―「あなたは変えられ、試練を受けるために他者とともに生きているのです」¹⁰⁴と。

142. 各々の共同体は「神が教えられた『復活された主の隠された現存を体験』する場」を創るように求められています¹⁰⁵。み言葉を分かち合い、ともに聖餐を捧げることは、友愛を育み、私たちを、神聖な宣教する共同体にします。そしてまた、真正な、互いに分かち合う神秘的な体験のもととなります。聖ベネディクトと聖スコラスティカがその実例です。聖アウグスティヌスが母の聖モニカとともに味わった崇高な霊的体験も思い浮かべることができます―「母がこの世を去ろうとする日―あなたはご存じだが、私たちには知らされていない日―が今、迫って来た時、あなたの秘密の手はずによってだと私が信じているように―母と私は庭に面した窓に身を寄せて立っていた・・私たちは、あなたの泉―あなたの中にある命の源―から流れ出る水を飲もうと心を開け広げ‥‥そして、その知恵について語り合い、それを求めようと懸命に努力し、心のはずみで、それにいくらか触れた‥‥永遠の命は、私たちが今、思い焦がれた認識の瞬間のようなものかもしれない」¹⁰⁶。

143. しかしながら、そのような経験は、とてもよくあることでも、最も重要なことでもありません。共同生活―家庭、小教区、修道会、あるいはその他どの共同体においても―は、日々のこまごまとしたことから成り立っています。これはイエス、マリア、ヨセフの聖家族に当てはまりました―三位一体の交わりの美しさが模範的な形で反映されていたのです。イエスが弟子たちや一般の人々と分かち合った生活についても言うことができました。

144. イエスが弟子たちに、些細なことにも気をつけるように求めたことを、忘れないようにしましょう。

 婚宴でワインが足りなくなってきた―という、ごく些細なこと。

 1匹の羊がいなくなった―という、ごく些細なこと。

 少額の硬貨二枚を献金したやもめに注意を向ける―という、ごく些細なこと。

 花婿が遅れるかもしれないと、ランプに予備の油を用意する―という、ごく些細なこと。

 何個のパンを持っているか弟子たちに尋ねる―という、ごく些細なこと。

 夜明けに弟子たちを待ちながら、火を起こし、魚を料理する―という、ごく些細なこと。

145. 愛を込めた些細な振る舞いを大事にする共同体¹⁰⁷の人々は、互いにいたわり合い、開放的な、宣教をする環境を作ります。そうした共同体には、復活された主がおられ、御父の計画に従って共同体を聖別してくださいます。ごく些細なことの中に、主の愛の賜物が与えられ、神の慰めを体験する時が、何度もあります。

「冬のある晩、私はいつものように、なすべき小さなことをしていました。…すると、突然遠くに楽器の調和のとれた音色が聞こえました。それから、明るい客間が目に浮かび、そこは、きらきらと光り輝いていて、あらゆる誉め言葉と洗練された会話を交わす、優雅に着飾った若い淑女たちで、一杯になっていました。続いて、私の視線は、自分が助けている貧しく、病弱な人に向きました。美しい旋律の代わりに、彼女が時折漏らす不満だけが聞こえました。…私の心の中に起きたことを、言葉では表現できません―私が確信しているのは、主が真実の光で照らしてくださった、それが、この世の闇の中の祝宴よりも、あまりにも素晴らしい輝きだったので、自分の幸せを信じることができなかった、ということです」¹⁰⁸。

146. 他人はさておいて健康で幸福な生活を目指す私たちを孤立させがちな、増大する消費者中心の個人主義とは反対に、私たちの聖性への道は、イエスの次の祈りに、私たちを、なおいっそう一致させることを、ただ可能にするのです。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)

 不断の祈りの中で

147. 最後に、明白なように思われるかもしれませんが、私たちが心に止めておく必要があるのは、聖性は、超絶的な存在に対していつも心を開いているところにある、それは祈りと賛美で表現される、ということです。聖人たちは、祈りの心と神との霊的交わりを求めることで際立っています。彼らは、この世に心を奪われることが、狭くて、息苦しいことであるだと知っており、自分自身の関心と責任のまっただ中で、神を強く求め、祈りと主の黙想に、心身を打ち込むのです。たとえ、祈りが長くなくても、強い感情を込めたものでなくでも、祈りのない聖性を、私は信じません。

148. 十字架の聖ヨハネは私たちに告げます―「神の現存のなかに、いつも留まろうと努めなさい。現実、想像、あるいはその両方で、あなたのなすべき務めが許す限り」¹⁰⁹と。結局のところ、神への熱望は、私たちの日々の生活に滲み出るのです―「祈り続けるように務めなさい。そして、運動をしている最中でも、祈りを止めないように。食べ、飲み、他の人々と話をする、あるいは何をしていても、いつも神に頼り、神にしっかりと心を寄せなさい」¹¹⁰

149. しかし、日々の暮らしに神への熱望が滲み出るためには、神とだけ過ごす時間も必要です。アビラの聖テレジアにとって、祈りは「私たちを愛してくださっている神との打ち解けた交わり、頻繁な対話です」¹¹¹。私が強調したいのは、このことは、特権を与えられた数少ない人たちだけではなく、私たち全員にとっても、当てはまる、ということです。なぜなら、「私たちはみな、敬慕する方の存在に満たされた、沈黙の時を必要としている」¹¹²からです。神への信頼に満ちた祈りは、神と顔を合わせる出会いのために開かれた心の反響、そこではすべてが平和で、沈黙の中に静かな主の声を聴くことができるのです。

 150.沈黙において、聖霊の光の中で、私たちは主が求められている聖性の道を識別することができます。そうでなければ、どのような決断も、福音を暮らしの中で賛美するのでなく、覆い隠したり、沈めたりするような、まやかしに過ぎなくなるでしょう。弟子たち一人ひとりにとって、師イエスと共に過ごし、言葉を聴き、彼からいつも学ぶことが必須です。もしも私たちがイエスの言葉を聴かないなら、私たちの言葉のすべてが無駄なおしゃべり以外の何ものでもなくなります。

 151.私たちは次の言葉を思い起こす必要があります-「亡くなられ、復活されたイエスの御顔を黙想することは、私たちの人間性を回復させる。たとえ、人間性が人生の苦しみで壊され、罪で傷つけられても。キリストの御顔の力をあたりまえのように思ってはならない」¹¹³。では、質問をします。「あなたにはありますか―主の現存に静かに身をゆだねる時が、主と静かに時を過ごす時が、主のまなざしに浸る時が?主の炎が心の中に燃えるようにしていますか?主の愛とやさしさでもっと、もっと温めてくださるようにしていないなら、あなたはその炎をとらえることはないでしょう。そうだとしたら、あなたはどのようにして、自分の言葉を証しによって他の人々の心に火をつけることができるでしょうか?キリストの御顔をじっと見つめても、自分が癒されず、変えられないと感じたら、主の心の中、傷の中に入りなさい。そこに神の慈しみが宿っているからです¹¹⁴。

152.お願いしたいのは、祈りに満ちた沈黙を、周りの世界から逃れ、否定するものだと絶対に考えない、ということです。祈りを欠かしたことのないロシア人の巡礼者は、祈りが自分を周りで起きていることから切り離すことはない、として、こう語っています-「皆が私に親切にしてくれました。誰もが私を愛してくれているかのように…。心の中に(幸せと慰めを)感じただけでなく、外の世界全体が私にとって魅力と喜び一杯に思われました」¹¹⁵.

153.歴史が消えることもありません。祈りは、神の賜物によって養われ、存在し、私たちの暮らしの中で働いているので、いつも記憶によって印が付けられねばなりません。神の業の記憶は、神と民の契約の経験の中心に位置します。神は、歴史に介入することを望まれ、私たちの祈りは記憶に織り込まれています。私たちは、神の御言葉だけでなく、自分自身の人生、他の人々の人生、そして主がご自身の教会になさったすべてを回顧します。これは、聖イグナチオ・ロヨラが「Contemplation for Attaining Love」¹¹⁶で書いているように、喜ばしい記憶です。彼は、主からいただいた全ての恩恵を心にとめるように、私たちに求めています。祈る時、自分の歴史について考えなさい。そうすれば、たくさんの慈悲をいただていることに気づくでしょう。そして、主がいつもあなたのことを考えてくださっている、ということを、もっとよく知ることができるでしょう-主は決して、あなたを忘れません。ですから、主に、自分の人生のもっとも小さな細部に光を当ててくださるようにお願いするのは意味があります-主がすべてを見ておられるからです。

154. 嘆願の祈りは、神を信頼し、それ自身では何もできないことを理解する心の表現です。神に忠実な人々の人生は、信仰に満ちた愛と大きな信頼から生れる変わることのない嘆願によって特徴づけられます。祈願の祈り-たびたび私たちの心を鎮め、希望をもって絶えるのを助ける祈り―を軽んじないようにしましょう。とりなしの祈りは、神に信頼を置く行為であり、隣人への愛の表現でもあるので、特に価値があります。片寄った霊性をもとに、こう考える人たちがいます-祈りは、神についてひたすら想うこと、心を乱す全てから解放されるべきで、他の人々の名前も顔も介入させてはならない、と。しかし、現実には、とりなしを通して、イエスが私たちに残された二つの掟を実践しようとするなら、私たちの祈りは、神をなお一層喜ばせ、自分の聖性の成長をもっと効果的にするでしょう。とりなしの祈りは、私たちの他の人々に対する兄弟的な思いやりの表現です。なぜなら、それによって、私たちは彼らの人生、深刻な悩み、そして高遠な夢を、包み込むことができるからです。とりなしの祈りに進んで身を委ねる人々について、聖書の次の言葉を当てることができます-「この人こそ、深く同胞を思い、民のために不断に祈っている」(旧約聖書マカバイ記2・15章14節)。

155. もし私たちが、神が存在されていると悟るなら、時として静かな驚きをもって神を崇敬し、そして祝祭の歌で神を賛美せざるをえません。そうして、福者シャルル・ド・フーコーの体験に与ります。彼はこう言いました-「神がおられることを信じると、たちまち、神のために生きること以外に何もできないことが分かった」¹¹⁷。神の巡礼者たちの生活の中には、純粋な崇敬の素朴なしぐさが、たくさんあり得ます-たとえば、「神の愛と親密さを象徴する聖像にじっとひとみを凝らす」時のように。「神への愛は、一時立ち止まり、神秘を深く想い、それを沈黙のうちに楽しむ」¹¹⁸のです。

156. 神の御言葉-「蜜よりも甘い」(詩編119章103節)が「両刃の剣」(ヘブライ人への手紙4章12節)よりも鋭い-を祈りを込めて読むことは、私たちに、一時立ち止まり、主の声を聴くことを可能にします。それは私たちの歩みを照らす松明、私たちの進む道の光となります(詩編119章103節参照)。インドの司教たちが思い出させてくださったように「神の御言葉への信心は、美しいが選択可能な数多くの信心の、単なる一つ、ではない。キリスト者の人生における、まさに核心であり、存在の証しなのだ。御言葉には人々の人生を変える力がある」¹¹⁹のです。

157. 聖書の中でのイエスとの出会いは、私たちを聖餐に導き、文字となった御言葉がそこで、最も大きな力を発揮します。なぜなら、生きた御言葉が、実際にそこにおられるからです。聖餐において、唯一の真の神は、この世ができる最大の崇敬をお受けになります。生贄として捧げられるのが、キリストご自身だからです。聖体拝領でキリストの体を受ける時、私たちはキリストとの契約を新たにし、私たちの人生を変容させる御業をさらに周到に行っていただくことを受け入れます。

 

(以下、「カトリック・あい」Sr.岡立子・南條俊二試訳中)

第5章、闘い、用心、識別

158.キリスト教的生活は、絶え間ない闘いです。悪魔の誘惑に抵抗し、福音を告げるために、私たちは力と勇気を必要とします。この闘いは素晴らしい。なぜなら、主が私たちの生活で勝利を収めるたびに、私たちが祝うのを可能にするから、です。

*闘いと用心

159.ここで扱っている「闘い」は、この世と、世俗的なメンタリティー-自分自身をだまし、熱意と喜びに乏しい、鈍感で平凡なままにするような-に対する闘いだけではありません。この戦いは、私たち人間の弱さと性癖(怠惰、欲情、怨嗟、嫉妬あるいはそれと似たようなもの)との葛藤に矮小化できるものでもありません。それはまた、悪魔-悪の筆頭-との絶えざる苦闘でもあります。イエスご自身が私たちの勝利を祝福してくださいます。ご自分の弟子たちが福音の説教で進歩を見せ、悪なるものの抵抗に打ち勝った時、イエスは大変喜ばれました-「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(ルカ福音書10章18節)と。

 More than a myth

160. We will not admit the existence of the devil if we insist on regarding life by empirical standards alone, without a supernatural understanding. It is precisely the conviction that this malign power is present in our midst that enables us to understand how evil can at times have so much destructive force. True enough, the biblical authors had limited conceptual resources for expressing certain realities, and in Jesus’ time epilepsy, for example, could easily be confused with demonic possession. Yet this should not lead us to an oversimplification that would conclude that all the cases related in the Gospel had to do with psychological disorders and hence that the devil does not exist or is not at work. He is present in the very first pages of the Scriptures, which end with God’s victory over the devil.[120] Indeed, in leaving us the Our Father, Jesus wanted us to conclude by asking the Father to “deliver us from evil”. That final word does not refer to evil in the abstract; a more exact translation would be “the evil one”. It indicates a personal being who assails us. Jesus taught us to ask daily for deliverance from him, lest his power prevail over us.

161. Hence, we should not think of the devil as a myth, a representation, a symbol, a figure of speech or an idea.[121] This mistake would lead us to let down our guard, to grow careless and end up more vulnerable. The devil does not need to possess us. He poisons us with the venom of hatred, desolation, envy and vice. When we let down our guard, he takes advantage of it to destroy our lives, our families and our communities. “Like a roaring lion, he prowls around, looking for someone to devour” (1 Pet 5:8).

 Alert and trustful

162. God’s word invites us clearly to “stand against the wiles of the devil” (Eph 6:11) and to “quench all the flaming darts of the evil one” (Eph 6:16). These expressions are not melodramatic, precisely because our path towards holiness is a constant battle. Those who do not realize this will be prey to failure or mediocrity. For this spiritual combat, we can count on the powerful weapons that the Lord has given us: faith-filled prayer, meditation on the word of God, the celebration of Mass, Eucharistic adoration, sacramental Reconciliation, works of charity, community life, missionary outreach. If we become careless, the false promises of evil will easily seduce us. As the sainted Cura Brochero observed: “What good is it when Lucifer promises you freedom and showers you with all his benefits, if those benefits are false, deceptive and poisonous?”[122]

163. Along this journey, the cultivation of all that is good, progress in the spiritual life and growth in love are the best counterbalance to evil. Those who choose to remain neutral, who are satisfied with little, who renounce the ideal of giving themselves generously to the Lord, will never hold out. Even less if they fall into defeatism, for “if we start without confidence, we have already lost half the battle and we bury our talents… Christian triumph is always a cross, yet a cross which is at the same time a victorious banner, borne with aggressive tenderness against the assaults of evil”.[123]

Spiritual corruption

164. The path of holiness is a source of peace and joy, given to us by the Spirit. At the same time, it demands that we keep “our lamps lit” (Lk 12:35) and be attentive. “Abstain from every form of evil” (1 Thess 5:22). “Keep awake” (Mt 24:42; Mk 13:35). “Let us not fall asleep” (1 Thess 5:6). Those who think they commit no grievous sins against God’s law can fall into a state of dull lethargy. Since they see nothing serious to reproach themselves with, they fail to realize that their spiritual life has gradually turned lukewarm. They end up weakened and corrupted.

165. Spiritual corruption is worse than the fall of a sinner, for it is a comfortable and self-satisfied form of blindness. Everything then appears acceptable: deception, slander, egotism and other subtle forms of self-centredness, for “even Satan disguises himself as an angel of light” (2 Cor 11:14). So Solomon ended his days, whereas David, who sinned greatly, was able to make up for disgrace. Jesus warned us against this self-deception that easily leads to corruption. He spoke of a person freed from the devil who, convinced that his life was now in order, ended up being possessed by seven other evil spirits (cf. Lk 11:24-26). Another biblical text puts it bluntly: “The dog turns back to his own vomit” (2 Pet 2:22; cf. Pr 26:11).

 DISCERNMENT

166. How can we know if something comes from the Holy Spirit or if it stems from the spirit of the world or the spirit of the devil? The only way is through discernment, which calls for something more than intelligence or common sense. It is a gift which we must implore. If we ask with confidence that the Holy Spirit grant us this gift, and then seek to develop it through prayer, reflection, reading and good counsel, then surely we will grow in this spiritual endowment.

 An urgent need

167. The gift of discernment has become all the more necessary today, since contemporary life offers immense possibilities for action and distraction, and the world presents all of them as valid and good. All of us, but especially the young, are immersed in a culture of zapping. We can navigate simultaneously on two or more screens and interact at the same time with two or three virtual scenarios. Without the wisdom of discernment, we can easily become prey to every passing trend.

168. This is all the more important when some novelty presents itself in our lives. Then we have to decide whether it is new wine brought by God or an illusion created by the spirit of this world or the spirit of the devil. At other times, the opposite can happen, when the forces of evil induce us not to change, to leave things as they are, to opt for a rigid resistance to change. Yet that would be to block the working of the Spirit. We are free, with the freedom of Christ. Still, he asks us to examine what is within us – our desires, anxieties, fears and questions – and what takes place all around us – “the signs of the times” – and thus to recognize the paths that lead to complete freedom. “Test everything; hold fast to what is good” (1 Thess 5:21).

Always in the light of the Lord

169. Discernment is necessary not only at extraordinary times, when we need to resolve grave problems and make crucial decisions. It is a means of spiritual combat for helping us to follow the Lord more faithfully. We need it at all times, to help us recognize God’s timetable, lest we fail to heed the promptings of his grace and disregard his invitation to grow. Often discernment is exercised in small and apparently irrelevant things, since greatness of spirit is manifested in simple everyday realities.[124] It involves striving untrammelled for all that is great, better and more beautiful, while at the same time being concerned for the little things, for each day’s responsibilities and commitments. For this reason, I ask all Christians not to omit, in dialogue with the Lord, a sincere daily “examination of conscience”. Discernment also enables us to recognize the concrete means that the Lord provides in his mysterious and loving plan, to make us move beyond mere good intentions.

 A supernatural gift

170. Certainly, spiritual discernment does not exclude existential, psychological, sociological or moral insights drawn from the human sciences. At the same time, it transcends them. Nor are the Church’s sound norms sufficient. We should always remember that discernment is a grace. Even though it includes reason and prudence, it goes beyond them, for it seeks a glimpse of that unique and mysterious plan that God has for each of us, which takes shape amid so many varied situations and limitations. It involves more than my temporal well-being, my satisfaction at having accomplished something useful, or even my desire for peace of mind. It has to do with the meaning of my life before the Father who knows and loves me, with the real purpose of my life, which nobody knows better than he. Ultimately, discernment leads to the wellspring of undying life: to know the Father, the only true God, and the one whom he has sent, Jesus Christ (cf. Jn 17:3). It requires no special abilities, nor is it only for the more intelligent or better educated. The Father readily reveals himself to the lowly (cf. Mt 11:25).

171. The Lord speaks to us in a variety of ways, at work, through others and at every moment. Yet we simply cannot do without the silence of prolonged prayer, which enables us better to perceive God’s language, to interpret the real meaning of the inspirations we believe we have received, to calm our anxieties and to see the whole of our existence afresh in his own light. In this way, we allow the birth of a new synthesis that springs from a life inspired by the Spirit.

 Speak, Lord

172. Nonetheless, it is possible that, even in prayer itself, we could refuse to let ourselves be confronted by the freedom of the Spirit, who acts as he wills. We must remember that prayerful discernment must be born of a readiness to listen: to the Lord and to others, and to reality itself, which always challenges us in new ways. Only if we are prepared to listen, do we have the freedom to set aside our own partial or insufficient ideas, our usual habits and ways of seeing things. In this way, we become truly open to accepting a call that can shatter our security, but lead us to a better life. It is not enough that everything be calm and peaceful. God may be offering us something more, but in our comfortable inadvertence, we do not recognize it.

173. Naturally, this attitude of listening entails obedience to the Gospel as the ultimate standard, but also to the Magisterium that guards it, as we seek to find in the treasury of the Church whatever is most fruitful for the “today” of salvation. It is not a matter of applying rules or repeating what was done in the past, since the same solutions are not valid in all circumstances and what was useful in one context may not prove so in another. The discernment of spirits liberates us from rigidity, which has no place before the perennial “today” of the risen Lord. The Spirit alone can penetrate what is obscure and hidden in every situation, and grasp its every nuance, so that the newness of the Gospel can emerge in another light.

 The logic of gift and of the cross

174. An essential condition for progress in discernment is a growing understanding of God’s patience and his timetable, which are never our own. God does not pour down fire upon those who are unfaithful (cf. Lk 9:54), or allow the zealous to uproot the tares growing among the wheat (cf. Mt 13:29). Generosity too is demanded, for “it is more blessed to give than to receive” (Acts 20:35). Discernment is not about discovering what more we can get out of this life, but about recognizing how we can better accomplish the mission entrusted to us at our baptism. This entails a readiness to make sacrifices, even to sacrificing everything. For happiness is a paradox. We experience it most when we accept the mysterious logic that is not of this world: “This is our logic”, says Saint Bonaventure,[125] pointing to the cross. Once we enter into this dynamic, we will not let our consciences be numbed and we will open ourselves generously to discernment.

175. When, in God’s presence, we examine our life’s journey, no areas can be off limits. In all aspects of life we can continue to grow and offer something greater to God, even in those areas we find most difficult. We need, though, to ask the Holy Spirit to liberate us and to expel the fear that makes us ban him from certain parts of our lives. God asks everything of us, yet he also gives everything to us. He does not want to enter our lives to cripple or diminish them, but to bring them to fulfilment. Discernment, then, is not a solipsistic self-analysis or a form of egotistical introspection, but an authentic process of leaving ourselves behind in order to approach the mystery of God, who helps us to carry out the mission to which he has called us, for the good of our brothers and sisters.

* * *

176. I would like these reflections to be crowned by Mary, because she lived the Beatitudes of Jesus as none other. She is that woman who rejoiced in the presence of God, who treasured everything in her heart, and who let herself be pierced by the sword. Mary is the saint among the saints, blessed above all others. She teaches us the way of holiness and she walks ever at our side. She does not let us remain fallen and at times she takes us into her arms without judging us. Our converse with her consoles, frees and sanctifies us. Mary our Mother does not need a flood of words. She does not need us to tell her what is happening in our lives. All we need do is whisper, time and time again: “Hail Mary…”

177. It is my hope that these pages will prove helpful by enabling the whole Church to devote herself anew to promoting the desire for holiness. Let us ask the Holy Spirit to pour out upon us a fervent longing to be saints for God’s greater glory, and let us encourage one another in this effort. In this way, we will share a happiness that the world will not be able to take from us.

Given in Rome, at Saint Peter’s, on 19 March, the Solemnity of Saint Joseph, in the year 2018, the sixth of my Pontificate. Francis


[1] BENEDICT XVI, Homily for the Solemn Inauguration of the Petrine Ministry (24 April 2005): AAS 97 (2005), 708.

[2] This always presumes a reputation of holiness and the exercise, at least to an ordinary degree, of the Christian virtues: cf. Motu Proprio Maiorem Hac Dilectionem (11 July 2017), Art. 2c: L’Osservatore Romano, 12 July 2017, p. 8.

[3] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 9.

[4] Cf. JOSEPH MALEGUE, Pierres noiresLes classes moyennes du Salut, Paris, 1958.

[5] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 12.

[6] Verborgenes Leben und Epiphanie: GW XI, 145.

[7] JOHN PAUL II, Encyclical Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 56: AAS 93 (2001), 307.

[8] Encyclical Letter Tertio Millennio Adveniente (10 November 1994), 37: AAS 87 (1995), 29.

[9] Homily for the Ecumenical Commemoration of Witnesses to the Faith in the Twentieth Century (7 May 2000), 5: AAS 92 (2000), 680-681.

[10] Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 11.

[11] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 345.

[12] Spiritual Canticle, Red. B, Prologue, 2.

[13] Cf. ibid., 14-15, 2.

[14] Cf. Catechesis, General Audience of 19 November 2014Insegnamenti II/2 (2014), 555.

[15] FRANCIS DE SALES, Treatise on the Love of God, VIII, 11.

[16] Five Loaves and Two Fish, Pauline Books and Media, 2003, pp. 9, 13.

[17] NEW ZEALAND CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE, Healing Love, 1 January 1988.

[18] Spiritual Exercises, 102-312.

[19] Catechism of the Catholic Church, 515.

[20] Ibid., 516.

[21] Ibid., 517.

[22] Ibid., 518.

[23] Ibid., 521.

[24] BENEDICT XVI, Catechesis, General Audience of 13 April 2011Insegnamenti VII (2011), 451.

[25] Ibid., 450.

[26] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 341-350.

[27] XAVIER ZUBIRI, Naturaleza, historia, Dios, Madrid, 19933, 427.

[28] CARLO M. MARTINI, Le confessioni di Pietro, Cinisello Balsamo, 2017, 69.

[29] We need to distinguish between this kind of superficial entertainment and a healthy culture of leisure, which opens us to others and to reality itself in a spirit of openness and contemplation.

[30] JOHN PAUL II, Homily at the Mass of Canonization (1 October 2000), 5: AAS 92 (2000), 852.

[31] REGIONAL EPISCOPAL CONFERENCE OF WEST AFRICA, Pastoral Message at the End of the Second Plenary Assembly, 29 February 2016, 2.

[32] La femme pauvre, Paris, II, 27.

[33] Cf. CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH, Letter Placuit Deo on Certain Aspects of Christian Salvation (22 February 2018), 4, in L’Osservatore Romano, 2 March 2018, pp. 4-5: “Both neo-Pelagian individualism and the neo-Gnostic disregard of the body deface the confession of faith in Christ, the one, universal Saviour”. This document provides the doctrinal bases for understanding Christian salvation in reference to contemporary neo-gnostic and neo-pelagian tendencies.

[34] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1060.

[35] Ibid.: AAS 105 (2013), 1059.

[36] Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 November 2016: L’Osservatore Romano, 12 November 2016, p. 8.

[37] As Saint Bonaventure teaches, “we must suspend all the operations of the mind and we must transform the peak of our affections, directing them to God alone… Since nature can achieve nothing and personal effort very little, it is necessary to give little importance to investigation and much to unction, little to speech and much to interior joy, little to words or writing but all to the gift of God, namely the Holy Spirit, little or no importance should be given to the creature, but all to the Creator, the Father and the Son and the Holy Spirit”: BONAVENTURE, Itinerarium Mentis in Deum, VII, 4-5.

[38] Cf. Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[39] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 40: AAS 105 (2013), 1037.

[40] Video Message to Participants in an International Theological Congress held at the Pontifical Catholic University of Argentina (1-3 September 2015): AAS 107 (2015), 980.

[41] Post-Synodal Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 38: AAS 88 (1996), 412.

[42] Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[43] Letter to Brother Anthony, 2: FF 251.

[44] De septem donis, 9, 15.

[45] In IV Sent. 37, 1, 3, ad 6.

[46] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1059.

[47] Cf. Bonaventure, De sex alis Seraphim, 3, 8: “Non omnes omnia possunt”. The phrase is to be understood along the lines of the Catechism of the Catholic Church, 1735.

[48] Cf. THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae II-II, q. 109, a. 9, ad 1: “But here grace is to some extent imperfect, inasmuch as it does not completely heal man, as we have said”.

[49] Cf. De natura et gratia, 43, 50: PL 44, 271.

[50] Confessiones, X, 29, 40: PL 32, 796.

[51] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 44: AAS 105 (2013), 1038.

[52] In the understanding of Christian faith, grace precedes, accompanies and follows all our actions (cf. ECUMENICAL COUNCIL OF TRENT, Session VI, Decree on Justification, ch. 5: DH 1525).

[53] Cf. In Ep. ad Romanos, 9, 11: PG 60, 470.

[54] Homilia de Humilitate: PG 31, 530.

[55] Canon 4: DH 374.

[56] Session VI, Decree on Justification, ch. 8: DH 1532.

[57] No. 1998.

[58] Ibid., 2007.

[59] Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I-II, q. 114, a. 5.

[60] ThÉrÈse of the Child Jesus, “Act of Offering to Merciful Love” (Prayers, 6).

[61] Lucio Gera, Sobre el misterio del pobre, in P. GRELOT-L. GERA-A. DUMAS, El Pobre, Buenos Aires, 1962, 103.

[62] This is, in a word, the Catholic doctrine on “merit” subsequent to justification: it has to do with the cooperation of the justified for growth in the life of grace (cf. Catechism of the Catholic Church, 2010). Yet this cooperation in no way makes justification itself or friendship with God the object of human merit.

[63] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 95: AAS 105 (2013), 1060.[64] Summa Theologiae I-II, q. 107, art. 4.

[65] FRANCIS, Homily at Mass for the Jubilee of Socially Excluded People (13 November 2016): L’Osservatore Romano, 14-15 November 2016, p. 8.

[66] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 9 June 2014: L’Osservatore Romano, 10 June 2014, p. 8.

[67] The order of the second and third Beatitudes varies in accordance with the different textual traditions.

[68] Spiritual Exercises, 23d.

[69] Manuscript C, 12r.

[70] From the patristic era, the Church has valued the gift of tears, as seen in the fine prayer “Ad petendam compunctionem cordis”. It reads: “Almighty and most merciful God, who brought forth from the rock a spring of living water for your thirsting people: bring forth tears of compunction from our hardness of heart, that we may grieve for our sins, and, by your mercy, obtain their forgiveness” (cf. Missale Romanum, ed. typ. 1962, p. [110]).

[71] Catechism of the Catholic Church, 1789; cf. 1970.

[72] Ibid., 1787.

[73] Detraction and calumny are acts of terrorism: a bomb is thrown, it explodes and the attacker walks away calm and contented. This is completely different from the nobility of those who speak to others face to face, serenely and frankly, out of genuine concern for their good.

[74] At times, it may be necessary to speak of the difficulties of a particular brother or sister. In such cases, it can happen that an interpretation is passed on in place of an objective fact. Emotions can misconstrue and alter the facts of a matter, and end up passing them on laced with subjective elements. In this way, neither the facts themselves nor the truth of the other person are respected.

[75] Apostolic Exhortation, Evangelii Gaudium (24 November 2013), 218: AAS 105 (2013), 1110.

[76] Ibid., 239: 1116.

[77] Ibid., 227: 1112.

[78] Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 41c: AAS 81 (1993), 844-845.

[79] Apostolic Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 49: AAS 93 (2001), 302.

[80] Ibid.

[81] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 12: AAS 107 (2015), 407.

[82] We can recall the Good Samaritan’s reaction upon meeting the man attacked by robbers and left for dead (cf. Lk 10:30-37).

[83] SOCIAL AFFAIRS COMMISSION OF THE CANADIAN CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS, Open Letter to the Members of Parliament, The Common Good or Exclusion: A Choice for Canadians (1 February 2001), 9.

[84] The Fifth General Conference of the Latin American and Caribbean Bishops, echoing the Church’s constant teaching, stated that human beings “are always sacred, from their conception, at all stages of existence, until their natural death, and after death”, and that life must be safeguarded “starting at conception, in all its stages, until natural death” (Aparecida Document, 29 June 2007, 388; 464).

[85] Rule, 53, 1: PL 66, 749.

[86] Cf. ibid., 53, 7: PL 66, 750.

[87] Ibid., 53, 15: PL 66, 751.

[88] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 9: AAS 107 (2015), 405.

[89] Ibid., 10, 406.

[90] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 311: AAS 108 (2016), 439.

[91] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 197: AAS 105 (2013), 1103.

[92] Cf. Summa Theologiae, II-II, q. 30, a. 4.

[93] Ibid., ad 1.

[94] Cited (in Spanish translation) in: Cristo en los Pobres, Madrid, 1981, 37-38.

[95] There are some forms of bullying that, while seeming delicate or respectful and even quite spiritual, cause great damage to others’ self-esteem.

[96] Precautions, 13.

[97] Ibid., 13.

[98] Cf. Diary. Divine Mercy in My Soul, Stockbridge, 2000, p. 139 (300).

[99] THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae, I-II, q. 70, a. 3.

[100] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 6: AAS 105 (2013), 1221.

[101] I recommend praying the prayer attributed to Saint Thomas More: “Grant me, O Lord, good digestion, and also something to digest. Grant me a healthy body, and the necessary good humour to maintain it. Grant me a simple soul that knows to treasure all that is good and that doesn’t frighten easily at the sight of evil, but rather finds the means to put things back in their place. Give me a soul that knows not boredom, grumbling, sighs and laments, nor excess of stress, because of that obstructing thing called ‘I’. Grant me, O Lord, a sense of good humour. Allow me the grace to be able to take a joke and to discover in life a bit of joy, and to be able to share it with others”.

[102] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 110: AAS 108 (2016), 354.

[103] Apostolic Exhortation Evangelii Nuntiandi (8 December 1975), 80: AAS 68 (1976), 73. It is worth noting that in this text Blessed Paul VI closely links joy and parrhesía. While lamenting a “lack of joy and hope” as an obstacle to evangelization, he extols the “delightful and comforting joy of evangelizing”, linked to “an interior enthusiasm that nobody and nothing can quench”. This ensures that the world does not receive the Gospel “from evangelizers who are dejected [and] discouraged”. During the 1975 Holy Year, Pope Paul devoted to joy his Apostolic Exhortation Gaudete in Domino (9 May 1975): AAS 67 (1975), 289-322.

[104] Precautions, 15.

[105] JOHN PAUL II, Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 42: AAS 88 (1996), 416.

[106] Confessiones, IX, 10, 23-25: PL 32, 773-775.

[107] I think especially of the three key words “please”, “thank you” and “sorry”. “The right words, spoken at the right time, daily protect and nurture love”: Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 133: AAS 108 (2016), 363.

[108] THÉRÈSE OF THE CHILD JESUS, Manuscript C, 29 v-30r.

[109] Degrees of Perfection, 2.

[110] ID., Counsels to a Religious on How to Attain Perfection, 9.

[111] Autobiography, 8, 5.

[112] JOHN PAUL II, Apostolic Letter Orientale Lumen (2 May 1995), 16: AAS 87 (1995), 762.

[113] Meeting with the Participants in the Fifth Convention of the Italian ChurchFlorence, (10 November 2015): AAS 107 (2015), 1284.

[114] Cf. BERNARD OF CLAIRVAUX, Sermones in Canticum Canticorum, 61, 3-5: PL 183:1071-1073.

[115] The Way of a Pilgrim, New York, 1965, pp. 17, 105-106.

[116] Cf. Spiritual Exercises, 230-237.

[117] Letter to Henry de Castries, 14 August 1901.

[118] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 259.

[119] CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS OF INDIA, Final Declaration of the Twenty-First Plenary Assembly, 18 February 2009, 3.2.

[120] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 October 2013: L’Osservatore Romano, 12 October 2013, p. 2.

[121] Cf. PAUL VI, Catechesis, General Audience of 15 November 1972: Insegnamenti X (1972), pp. 1168-1170: “One of our greatest needs is defence against that evil which we call the devil… Evil is not simply a deficiency, it is an efficiency, a living spiritual being, perverted and perverting. A terrible reality, mysterious and frightful. They no longer remain within the framework of biblical and ecclesiastical teaching who refuse to recognize its existence, or who make of it an independent principle that does not have, like every creature, its origin in God, or explain it as a pseudo-reality, a conceptual and imaginative personification of the hidden causes of our misfortunes”.

[122] JOSÉ GABRIEL DEL ROSARIO BROCHERO, “Plática de las banderas”, in CONFERENCIA EPISCOPAL ARGENTINA, El Cura Brochero. Cartas y sermones, Buenos Aires, 1999, 71.

[123] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 85: AAS 105 (2013), 1056.

[124] The tomb of Saint Ignatius of Loyola bears this thought-provoking inscription: Non coerceri a maximo, conteneri tamen a minimo divinum est (“Not to be confined by the greatest, yet to be contained within the smallest, is truly divine”).

[125] Collationes in Hexaemeron, 1, 30.

2018年4月14日

・(解説)新使徒的勧告‘Gaudete et Exsultate’-「聖性は過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中にある」(La Civilita Cattolica)

Antonio Spadaro, SJ)

‘Gaudete et Exsultate’, Pope Francis calls on us to ‘Rejoice and be Glad’

教皇フランシスコの新使徒的勧告の引用資料、組み立て、そしてその意味は

 教皇に選出されて5年、教皇フランシスコは三つ目の使徒的勧告「Gaudete et Exsultate(現代世界における聖性への招き)」(GE)を発出された。サブタイトルにあるように、勧告の主題は「今日の世界における聖性への招き」だ。教皇はこの勧告で、明瞭な、きわめて重要なメッセ―ジ―肝心なこと、キリスト教徒の人生の真髄は-ロヨラの聖イグナチオ(イエズス会の創始者)がイエズス会士たちに示した言葉を使えば-「すべての事象の中に神を求め、見出す」ことだ。これが、個人、教会いずれの改革においても核心-中心に神を置くこと―である。

 教皇になられるとき、ベルゴリオ枢機卿は、まさにこの理由で「フランシスコ」という名を選ばれた。教皇は、アッシジのフランシスコが担った使命-神を教会の中心に置いた精神的な改革の意味で、教会を”再建”すること-に喜びをもって倣おうとされた。教皇はこの使徒的勧告で述べている-「主は、真の生命を私たちに下さった見返りに、私たち一人ひとりにお創りになった理由である幸せをお望みです(GE1項)。

 この権威のある文書は、「聖性に関する論文-この重要な課題を理解する助けとなるような定義と特質、あるいは聖別のさまざまな方向についての検討などを扱うような論文」を意図していない。教皇の”控えめな目標”は、「私たち自身の時代ために実践的な方法で聖性への呼びかけを、リスクと課題と機会とともに、再利用すること」(GE2項)だ。そしてこの意味で、教皇は「この文書が、聖性への強い希望を作り出すために教会全体を捧げることを可能にすることで助けとなる」(GE 177項)ことを期待している。後で分かるように、このような教皇の強い思いは、心を打つような洞察に裏付けられている。

 この使徒的勧告は、5つの章から成っている。出発点は、全ての人に対する「聖性への招き」だ。ここから、私たちは、聖性を選良主義、知的あるいは篤志の形に変える「二つの狡猾な敵」の明確な身元証明へと進む。それから、福音書のイエスの山上の説教で示された八つの幸福の教えを聖性の肯定的なモデルとして提示する-それは「主の光に照らし出された」もので、あいまいな宗教的イデオロギーではない。つぎに、勧告は、現代世界における聖性のいくつかの特徴-忍耐、柔和、ユーモア、勇気、熱情、共同体生活、そして絶えざる祈り―に言及する。そして、勧告は、霊的生活における「闘い、警戒、そして識別」への言及で締めくくられている。

 勧告は、読みやすく、込み入った説明を必要としない。だが、この短い解説で、文書の提示と同じように、私は何よりも、イエズス会士、司教、そしてついに教皇となったベルゴリオの司牧的省察の中にあるルーツを示したい。そして、そうすることで、勧告の中心テーマと、現代の教会に教皇が発出を希望する明確なメッセージを確認したいと思う。教皇フランシスコにとって何が聖性なのか?どこにそれが生きていると見ているのか?どのような形、どのような前後関係で?どうやって、それは定義されるのか?

*聖性が働く通常の場とは

 聖性は、教皇フランシスコの就任当時から、教皇職の核心になっている。教皇就任から5か月経った2013年8月の本誌 La Civiltà Cattolica とのインタビューで、教皇は、聖性について詳細に語っている。その中心部分の次のようなくだりを再読するのは、勧告の理解に役に立つ。

 「私は、神の民の中に聖性を見ます」。そして、さらに踏み込んでこう語られた-「私は、神の民-子供たちを育てる女性、日々の糧を家に持ち帰るために働く男性、病気の人、たくさんの傷を負いながら種に奉仕することで笑みを浮かべる高齢の司祭たち、懸命に働き隠れた聖性を生きるシスターたち-の忍耐の中に聖性を見ます。

 私にとって、これは通常の聖性です。私はしばしば、忍耐を聖性と結びつけます-それは、人生の様々な出来事や置かれた環境の重荷をhypomoné(我慢)する忍耐だけではなく、日々、前に進み続ける確固とした忍耐でもあります。これは聖イグナチオが語っている「教会の闘士」の聖性です。これは私の両親たちの聖性でした-私の父、私の母、私にとても良くしてくれた祖母ロサの聖性です。私の聖務日課書には、ロサおばあさんの遺言が書かれており、それをよく読み返します。私にとって、祈りのようなものです。彼女は多くの苦難に、道徳的にも、耐えた、慈愛に満ちた人で、いつも勇気をもって前に進みました」。

 このような言葉の中に、勧告 Gaudete et Exsultateの基調と意味、霊的な雰囲気、実際的な応用を知ることができる。教皇はインタビューで、それを鮮明にしている-「”聖なる中流階級”が存在します。私たちはみな、マレグが書いているように、それに属し得ます」。教皇はご自分が大切にしておられる20世紀フランスのカトリック作家、ジョセフ・マレグ氏の著作を引用している。同氏は1876年に生まれ、1940年に亡くなっているが、Gaudete et Exsultateでも、その著作が引用され、「私たちの隣に住む人たち、私たちの真ん中で暮らしている人たちに見つかる聖性は神の臨在を映します」(GE7項)と表現されている。

 メレグは著書「Agostino Meridier」でこう書いている。「聖人たちの魂のみが、宗教的現象を的確に探究するための適切な場となる、という古い考えは、彼にとって不十分と思われる。最も謙虚な魂でさえ、何らかの価値を持っている。聖性の通常の世界でさえも」と。

 だから、聖性は、理想的、抽象的あるいは超人的な模範的人物ではなく、日常の生活の中で、私たちのそばにいる人たちの中に探し求める必要があるのだ。教皇は2016年5月24日のご自分の宿舎、サンタマルタの家での説教でこう話された。「聖性の道は単純明快です。後戻りするな、いつも前に進め。そして力強く」と。これより前、2013年10月14日の説教では「ドライ・クリーニングされた、清潔で、きれいな聖性」に矮小化されるべきではない、とされ、2015年3月5日には「偽りの聖性」と批判されている。私たちは誤りのない完璧な人生(GE22項参照)にではなく、「常には完璧でない生き方をし、過ちと失敗の最中にあっても、前に進み続け、主に対して喜びを証しする人たち」(GE3項)に注意を向ける必要があるのだ。

 先の私たちのインタビューで、教皇は、前任者の教皇職の自己犠牲で示した聖性についてこう語った-「教皇ベネディクトは聖性、偉大さ、謙遜の業をなさいました」。聖性は、謙遜と偉大さを共にもたらし、一般の労働者、祖母、あるいは教皇に、当てはめることができる。それは、同じ聖性だ。おそらく、ベルゴリオもまた、このことをマレグの著書から学んだのだろう。マレグはこのように書いている-「告白することで罪を赦したのがイエスであったから、聖性に関する限り、アルスの主任司祭(Curé dArs)(聖ヴィアンネのこと)の魂と私の魂は、無限なる創造主から等距離にある」。普通の人の魂と祭壇に立つ名誉を受けた人の魂の間にも、非対称や天国への距離の差は存在しないのだ。

*”民”の聖性

 教皇フランシスコは私たちに、聖性がいかに孤独の産物へないかを理解させてくれる-聖性は、神の民の生きた体に住むのだ。1982年に出版した文書の中で、ベルゴリオ神父は「私たちは聖なる体において、聖性を目的に創造されました-その体とは、私たちの聖なる母、教会です」と語り、聖性とは「その人の体への神の訪れのこと」と端的に説明している。今回のこの勧告で、教皇はこのように書いている-「だれも、孤立した個人として、一人で救われることはありません。そうではなく、人間社会に存在する個人同士の関係の複雑な構造をお考えになりながら、神は、私たちをご自身に引き寄せられます。神は、民の人生と歴史に入っていくことをお望みになるのです」(GE6項)。

 それで、私たちは「証しする人々の偉大な群れ」に取り巻かれ、彼らは私たちを「目的地に向かって絶えず前進させる」(GE3項)のだ。2013年に出された使徒的勧告『Evangelii Gaudium (福音の喜び)』(EG)での教皇のことばが、ここに反映されている-教皇はEGで、「ともに生きることの神秘」「混ざりあい、出会う神秘」「腕に抱き、支えあう神秘」「混沌とした潮流に踏み込む神秘」について書き、混沌の中で、それらが、兄弟愛の真の体験、連帯の一団、聖なる巡礼になりうる」(EG87項)と述べている。

 人々のこのような経験は、私たちの次に来る人々とかかわるだけでなく、私たちの先に歩んだ人々を含めた生きた伝統を土台にしている。

 ここで、教皇は、ご自身の二冊目の著書、1987年に書かれた『 Reflexiones sobre la Vida Apostolica』の序文で示された直観を展開していた。その中で、私たちの先人について、このように書いた。

 「男性たち、女性たちの世代から世代へ、私たちのような罪びとたち」は、「日々の生活で多くの試練を生き、闘い、希望の光をどのようにして次の人に渡していくかを知りました。そしてその光が、私たちのところに来ました。それを次の人に実り多く伝えていくのが、私たちの番なのです。ほとんどの男性たち、女性たちは歴史を記しませんでした。一生を通してただ働き-自分たちが罪びとだということを知っていたので―希望の中で救いを歓迎しました」。

 そして、人々は、教理だけでなく、何よりも大事なのは、「日々の事柄に対処した愚直さ」をもって証言を伝えた、と述べていた。

 彼が愛好するフランスの作家の著書を再度引用して、ベルゴリオ神父はこのように書いている。「私たちは、彼らの名前を知りません。彼らは信じる者の民、日々の聖性を代表しています-マレグが好んで使った『聖性の通常の仕方』で。私たちは、彼らが過ごした日々、年月のささやかな物語を何も知りませんが、彼らの命は私たちの中で花を咲かせています。彼らの聖性のかぐわしい香りが私たちのところに届いています」。

 この著書が書かれた30年経った今、この使徒的勧告 Gaudete et Exsultateに同じ表現がされている。そして、それは、ベルゴリオの中にある聖性についての洞察が深い根源をもっていることの証しだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年4月11日

・カトリック教会で女性の役割に変化の動きー女性たちが声を上げ始めた(CRUX)

 Signs suggest a turning point on the role of women in the Church
(2018.3.8 CRUX CONTRIBUTING EDITOR  Claire Giangravè)

ローマ発―カトリック教会内部での女性をめぐる緊張は信徒の生活の中で長い間存在してきたが、バチカン内外の会議や集会、そしてかずかずの不正を暴くメディアの発信などの活発な動きは、この問題が大きな転換期を迎えていることを示している。

 このほどローマで行われたVoices of Faithの会議に出席した女性たちは 「カトリック教会は大変重要な岐路にさしかかっている」と言い、また女性に焦点を当てているバチカン誌の編集者は「教会内文化革命」が起きようとしている、と語っている。時を同じくして、バチカン内で開かれていたラテンアメリカ司教会議には、女性の役割についての討議のために40人の女性が招かた。

 これら女性の役割の展望はそのトーンや集中度の違いこそあれ、一つの共通した脈路は見えてきた「変わる時代が来た」と言うことだ。カトリック教会は「#MeToo」のような世界中で声の上がった熱いフェミニスト運動だけでなく、内部からの重大な変化にも直面しているのだ。

(注・#MeToo=ハッシュタグミートゥー=は、「私(me)も(too)」を意味する英語にハッシュタグ( #)を付けた言い回し。 セクハラなど性的虐待の 被害体験を告白・共有する際にソーシャル・ネットワーキング・サービスで使われる。 2017年10月、ハーヴェイ・ワインスタイン( ハリウッドの映画プロデューサー)によるセクハラ疑惑が報じられたことを受け、女優の アリッサ・ミラノが同様の被害を受けたことのある女性たちに向けて’me too‘と声を上げるよう呼びかけたのが、きっかけで、世界的な動きになった)

Voices of faith会議
過去4年間、カトリック教会内の 重要で、女性に関する最も進歩的な地位の多くを代表する女性たちが参加するVoices of Faithの年次会議がバチカン内で開催されていた。ところが、バチカンの信徒評議会と家庭評議会が統合されてできた「信徒・家庭・いのちの部署」の長官であるケビン・ファレル枢機卿が、会議が指名した11人の講演者のうち3名を承認せず、会場をバチカンの外、テーベレ川を越えたイエズス会本部に移さざるを得なくなった。

 アイルランドのメアリー・マカリース元大統領は、多くの問題の中でも、とりわけゲイの権利を擁護しているために「好ましからざる人物」とされていたが、水曜日の記者会見で、女性が”be there when the sausage is made”(聖変化に立ちあう)司祭職のような、より重要な役割を担えるよう、カトリック教会に要求した。「我々、話を聞いてもらえない者たちは、発言のルートを与えられないシステムの中で発言しようとしているのです」と述べ、第二バチカン公会議、世界人権宣言、そして教皇たちの”恩着せがましい約束”の後も、何年にもわたって、意見を聞いてもらうための場所を与えられていない、と訴えた。

 Voices of Faithのシャンタル・ゴッツ事務局長は、女性たちが性的虐待、ハラスメントや不平等に対し、ますます抗議の声を上げるようになっている今、女性団体は「変革の必要が差し迫っている、とはっきり言っており、危機的局面に達している」と言明。危機は、女性の召命が減少し続けていることにも表れているが、「これは教会が女性に適切な役割を与えることができないことの結果です」と付け加えた。

修道女たちの反乱
『Ten Things Pope Francis Proposes to Women(教皇フランシスコが女性たちに示す10の提案)』というスペインで出された本の序文で、教皇は「社会の中にしつこく残る男性優位主義的な精神性 が、カトリック教会の中にも広く存在し、 女性に求められる奉仕が、時に奴隷的な仕事に変質している」と警告した。

 バチカンの半公式新聞『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』が発行している月刊誌『Woman Church World』3月号では、この教皇の見解をさらに詳しく解説し、世界中で「時に年金や正当な給与も与えられないまま、男性の聖職者に隷属し、”家内労働”で終わってしまう修道女たち」の冷遇、軽視された実情を記事にしている。例えば、シスター・マリーという名の修道女は「聖職者のためにどれほど尽くしても、その食卓に呼ばれることはほとんどありません」と訴えた。

 Woman Church World編集者のルセッタ・スカラフィア女史は、Cruxのインタビューに「カトリック教会内の女性の問題は昔からありましたが、今、それがますます大きく明らかになってきています。修道女たちが昔のように言いなりでなく、今起きていることに関心をもっているからです。そして、変革を要求しています」と語った。中高年の世代とは異なる教育と人生の経験をした若い女性たちだけでなく、年上のシスターたちも女性問題に関心をもつようになっており、「彼女たちが置かれている立場に怒りを覚えている80歳から90歳のシスターたちに会いました。今まさに、シスターたちが、本当の女性の権利を求めているのです」と語る。

 「さらに、こういう話をいつも聞きます。男性聖職者に従事するする仕事から離れていく修道女たちの動きを『自発的追放』だというのです。これを、外の世界に影響された『修道女たちの反乱』とするのは間違いです。#metoo運動に影響されるほとんどの女性信徒と違って、修道女たちは 女性の学者たちの聖書の解釈学的、神学的な著作をもとにした、彼女たち自身の革命を作り出しているのです」。さらにこう指摘する。「福音書を、あるがままに読むことで、彼女たちはどんなに不正な待遇を受けていたかを感じるのです」。女史によれば、要点は「内面的な文化革命」ということなのだ。

バチカンの女性たち
Voices of Faith会議でカトリックのフェミニストたちがバチカンの「閉鎖された盾」を打ち砕く約束をし、ニューヨークタイムズはシスターたちの公民権剝奪状態を特集した一方、バチカンそのものは粛々と教皇フランシスコの対話路線に沿って進んでいる。

 例えば、ラテンアメリカ司教会議 (CAL) では、「ラテンアメリカの女性たち、カトリック教会の仕事のコラム」と題し3月6~9日にかけ総会が開かれ、社会における主要な女性の問題について40名の女性を含めて話し合われた。教皇フランシスコが、コロンビアのボゴタで60名のラテンアメリカの司教たちへの演説の中で、女性に対し男性優位的態度を意味する「machismo」を非難したことで議題に取り上げられたのだ。
異なる宗教や、カトリック信徒の40名の女性たちが議論に参加し、3月9日には教皇謁見する。世界女性の日に当たる今日は、会議の参加者たちが、バチカンで勤務する多くの女性たちと夕食を共にすることになっている。CALでは、より多くの女性を起用するために、教皇がこのほど示した案件をもとにして、議論を進める。

 教皇フランシスコは昨年、女性助祭の実現可能性を検討するための男女からなる委員会を発足させる一方、「信徒・家庭・いのちの部署」の次官に二人の女性信徒を起用した。だが、スカラフィア女史によると、教皇の助言機関である枢機卿顧問会議(C9)に対する女性の発言を認めることや、司教の任命の検討に修道女や女性宣教者を参加させることなど、まだ解決されていない課題が残されている。「このような問題への取り組みが行われなければ、カトリック教会は早晩、重大な結果を招くことを覚悟しなければならないでしょう」とし、「沈黙での自己満足は、もう終わろうとしているのに、司祭たちはそれに気づいてさえいません」「すべてが自分たちの手の中で破裂しようとしていることに、分かっていないのです」と訴えた。

教皇フランシスコと女性たち
カトリック教会での女性の参加を増やそうとする教皇フランシスコの役割については、希望から失望まで意見は様々だ。

 ゴッツ事務局長は教皇の積極的に対話に臨む姿勢を評価し、教皇フランシスコの女性参加への関心に対して楽観的な意見だ。「私は教皇が女性たちに耳を傾け、カトリック教会の時代遅れの女性恐怖を克服するためのリーダーシップを取ってほしい、と願い続けます」と言う。

 一方で、マカリース元大統領は「教皇フランシスコは、『だんだん消えて、ついには失望に終わる』という道程をたどっています」とし、「教皇が進める聖職者による性的虐待への取り組み、 家庭に関する使徒的勧告『Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び』の発出でも、何も事態は変わっていない」と悲観的な見方をとっている。

 だがまた、スカラフィア女史は、教皇フランシスコによる二つの重要な動きが「カトリック教会の女性たちの役割に深いインパクトを与えました」と語る。一つは、司教あるいは司教によって特別に指名された司祭だけでなく、すべての司祭に、堕胎の罪の赦しすることが認められたこと。もう一つは聖マリア・マグダレナの記念日を、男性の使徒たちの祝日と同じレベルの祝日に格上げしたことだ。そして、こう付け加えた。「まだ教皇ができずにいることがあります。それは女性たちが言わねばならない言葉を聞くこと」だと。

(翻訳・岡山康子)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

2018年3月17日

・言論NPO東京会議のG7首脳会議に向けたメッセージ

(2018 / 03 / 11 言論NPO)「東京会議2018」公開フォーラムの最後に、「北朝鮮の核保有を容認するいかなる声にも賛同しない」など5項目からなる「カナダでのG7首脳会議に向けた緊急メッセージ」が言論NPO代表の工藤泰志より発表され、今年のG7首脳会議議長国であるカナダのナディア・ブルジェー・在日カナダ大使館首席公使に手交されました。

カナダでのG7首脳会議に向けたメッセージ

 世界を代表する10のシンクタンクが、東京に再び集まったのは、自由や民主主義、法の支配、人権の尊重という、戦後世界を支えた共有された価値、規範が動揺し、リベラルな世界秩序が不安定化し、それがどこに向かうのか、未だに見えない状況が続いているからである。そうした局面だからこそ、自由と民主主義、そして多国間主義の価値に基づく世界を目指して、10カ国のシンクタンクが力を合わせなくてはならないと考えた。
米国の現政権は依然、アメリカ第一主義であり、多国間主義に伴う国際協力や自由貿易の前途に不安を与えている。権威主義的な傾向を強める国も存在する。国際社会は、難民、地球環境、感染症、大量破壊兵器の拡散など国際協力無くして解決できない喫緊の課題にも対応しなければならない。
この二日間、私たちは議論し、多くの点で共通の理解を得た。

 一つは、自由と民主主義が持つ今日的な重要性である。
個人の自由や権利を守りながら、世界の利益を各国内のより多くの人に包摂的につなげることは、人類の使命であり、人類の財産となる。グローバリゼーションと技術の急速な進歩は、世界の共通利益でありながら、雇用の不安や格差の拡大という課題を生み出している。そうした時だからこそ、個人の自由と平等、多様性を尊重する民主主義の今日的な意義を問い直し、その促進に努めるべきである。
もう一つは、世界はもはや自国第一主義や、ゼロサムでお互いに悪影響のある重商主義的な勢力拡大の過去に戻ることは許されないということである。
世界の相互発展のためには多国間主義に基づく国際協力、自由でルールに基づく開放された経済こそが必要であり、その中でグローバリゼーションと国内の利益を調和させる努力が今、各国政府に求められている。

    私たちが今年6月にカナダで行われるG7首脳会談に向け、議長がメッセージを出すことにしたのは、G7こそがこの自由と多国間主義、そして民主主義という規範を尊重し守るための実効性のある強いメッセージを世界に発信し、その実現のけん引役になるべきと考えるからである。
もちろん、これらの規範を支えることを、政府に期待するだけでは不十分である。知識層やジャーナリズム、そして市民と力を合わせて、今直面する自由と民主主義の試練に真剣に立ち向かい、行動すべきである。
この「東京会議」に集まった10カ国のシンクタンクは各組織の規定の範囲内で議論に参加することで合意している。
この立ち位置から私たちは、以下の5点に焦点を当てた。

 第一に、G7各国は、自由と民主主義、法の支配および人権の尊重という共通価値の重要性を再認識し、その下での結束をさらに強化すべきである。
さらにG7は、多国間主義に基づく国際協力の枠組みを守り、国連や様々な国際組織がこれまで築き上げてきた国際秩序を維持する根源的な役割を積極的に支えながら、同時に規範に基づく国際秩序を追求すべきである。

 第二に、G7各国は、保護主義的な行動が報復的な行動を招くなど、世界経済、国際秩序に取り返しのつかない影響をもたらしかねないことを重視し、公平な競争条件や質の高いルールに基づく自由貿易をさらに発展させる努力を行うとともに、あらゆる形態の保護主義には対抗する姿勢を示すべきである。

 第三に、G7各国は、グローバリゼーションが、世界全体の包摂的な成長や持続可能な成長につなげるために、当面の主要国の金融政策の動向などにも注意しながら、成長の促進と分配の両面で足並みを揃える必要がある。我々は新たな大きな変革を伴う技術革新が、できる限り健全な社会に貢献できるよう、努力しなければならない。

 第四に、北朝鮮の核開発は世界の平和やNPT体制への決定的な脅威であるとの認識の下に、北朝鮮の非核化と平和的解決に向け、G7は結束して取り組む必要がある。米朝首脳会談の動きを歓迎するのはその目的のためであり、北朝鮮の核保有を容認するいかなる声にも賛同はしない。

 第五に、G7各国は、ルールに基づいた世界のリベラル秩序を維持し、持続的で包摂的な世界の発展を作り出すためにも、世界の利益と国内利益を、バランスを持って考えられる強靭な民主主義を作り上げることが重要である。規範を守り、課題に真摯に立ち向かう政府の不断の取り組みは、市民社会との対話を通してより多くの人の支持に支えられるべきものである。

カナダ政府が設定する5つのテーマ

 「緊急メッセージ」を受け取ったナディア・ブルジェー・在日カナダ大使館首席公使は、同国のジャスティン・トルドー首相が今年のG7サミットにおいて設定しようとしている5つのテーマについて説明。

 まずその一番目として、「すべての人々にとっての成長に資する投資」を挙げ、「長期的な視点から『包摂的成長』を実現するためにはどうすべきかを考えなければならない」と語り、『これはG7にとっての義務である』とその重要性を強調しました。

 二番目として、「将来の雇用に備える」ことを挙げ、グローバリゼーションに伴う雇用構造の変化や、人工知能(AI)に代表される革新的技術が台頭する中で雇用をどう守るのか。とりわけ、教育や職業訓練などを通じた対応整備の必要性を指摘しました。

 三番目としては「女性の社会進出」を挙げ、これは一番目の包摂的成長にも関わる重要テーマであるし、実際にカナダ自身も非常に力を入れている課題であると説明しました。

 四番目には、「海洋環境」を挙げました。人類が共に繁栄していく上では、共通の資産である海洋の保全が不可欠であり、新たな環境管理手法を考える必要があると述べました。

 そして最後の五番目として、「より平和で安全な世界の実現」を提示。「平和と安全」はすべての人々にとって恩恵をもたらすものである以上、国際紛争がます
ます複雑化する今日の状況においては、「G7こそが意思を統一してコミットしていかなければならない」と強調。そしてその際には、民主主義や基本的人権の尊重、ルールベースの世界秩序の維持といった既存の価値や規範を強く意識しながらのコミットメントにならなければならないと指摘しました。

 ブルジェー氏は最後に、そうしたカナダ政府の方針とも合致する今回の「緊急メッセージ」に対して感謝の意を示すと同時に、「本国に持ち帰って必ず活用する」と確約しました。

 シンクタンクの英知を結集すれば、どんな困難な課題解決も可能

 その後、閉会挨拶に登壇した言論NPO理事の近藤誠一氏(近藤外交・文化研究所、元文化庁長官)は、「人類は現在、かつてないほどの大きなチャレンジを受けており、多くの人々が不安にさらされている」と切り出した上で、そうした状況の中では依然としてG7には世界秩序の維持のために強いコミットメントが求められると語りました。

 しかし同時に、「もはや国家だけではすべて解決できる時代ではない」とし、非政府の役割の重要性を強調。そして、「今日の議論を聞いて、シンクタンクの英知を結集していけば、いかなる課題に対しても答えを導き出せると確信した」とこの「東京会議2018」の成功を力強く宣言し、4時間半にわたって繰り広げられた白熱した議論を締めくくりました。

2018年3月13日

・北朝鮮の核開発の放棄と戦争回避のシナリオをどう描くか /「東京会議2018」第2セッション報告

(2018 / 03 / 11 言論NPO)

 公開会議の第二セッションは、藤崎一郎氏(日米協会会長、元駐米大使)による司会進行の下、「北朝鮮の核開発は世界の脅威なのか―核開発の排除と戦争回避のシナリオは描けるのか」をテーマとして議論が行われました。

 議論に先立ち、小野寺五典・防衛大臣による問題提起が行われました。

米朝首脳会談実現でも楽観はできない

 小野寺大臣はまず、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長による米朝首脳会談実現の見通しが立ったことに対して、非核化進展に向けた期待を寄せつつ、「これまでの北朝鮮を見れば決して楽観はできない」と切り出しました。

 その背景として、これまでの北朝鮮による核・ミサイル開発の動きについて概観。1993年のNPT脱退とノドンミサイルの発射実験以降、国際社会との交渉に応じる素振りを見せつつも、それを裏切り続けながら時間を稼ぎ、着実に開発を進展させてきたと振り返りました。

 とりわけ、この2年間の核・ミサイル能力の向上は著しく、ICBMに関しては米欧も射程に収めるなど、北朝鮮は「日本のみならず、国際社会全体にとっての平和と安全を損なう大きなリスク」となったと位置付けました。

 しかし、近年の国際社会の一致した制裁と圧力強化、そして、日本自身もいわゆる「瀬取り」という公海上での船から船への物資・エネルギーの受け取り行為を海上自衛隊が監視し、発見次第国連安保理に対して通報するなど、着実に対応してきたことが、今年に入ってからの一連の北朝鮮の融和的態度を引き出したと評価しました。

もっとも、1994年の枠組み合意、2005年の六者会合共同声明も核・ミサイル開発のための時間稼ぎに使われてきたという苦い反省に言及し、「今回の対話も対話のための対話、時間稼ぎのための対話では意味がない。本当に非核化を前提とした対話を真剣に行おうとしているのか、見極めなければならない」と注意を促しました。

25年前の反省と教訓に基づく日本政府の取り組み

3.jpg そして、日本政府の対応としては、北朝鮮が、「完全で、検証可能かつ不可逆的な方法」で、核・ミサイル計画の放棄にコミットし、非核化に向けた具体的な行動を示すまで圧力を継続していくという、従来から示してきた立場に変わりはないことを強調。さらに、こうした基本的な方針は日米韓で共有されているため、引き続き他の関係各国とも連携しながら、圧力を最大限まで高めていく方針を示しました。

 また、個別の安全保障政策については、その前提として25年前の反省点として、危機に際して、二度の政権交代があるなど、政治的な混乱があったことと、法制度面でも危機に対する備えができていなかったことを挙げました。そしてその結果、1994年の枠組み合意の下では、日本は主体的なプレーヤーとなることなく、「多額の費用負担を担う役割にとどまった」と振り返りました。

 その上で小野寺大臣は、そうした反省と教訓に基づいたこれまでの日本政府の取り組みを紹介。周辺事態法の制定から始まり、武力攻撃事態法、さらには三年前の平和安全法制を始めとした様々な法整備、二度にわたる日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定を始めとする日米同盟体制の強化、BMDシステムや、イージス艦とPAC―3、イージス・アショアの導入促進などからなる防衛体制構築などをその例として挙げました。

 そして、アメリカのマティス国防長官の「防衛力の強化は、外交の後ろ盾となって国際問題の外交的解決に資するためにある」という考え方に賛同を示しつつ、「今後も我が国の防衛に万全を期す」、「融和ムードに気を許すことなく、真に核放棄するまで北朝鮮に圧力を加え続け、世界の成長センターであるこの東アジアに平和を実現する」などと宣言しました。

 小野寺大臣は最後に、居並ぶ世界のパネリスト達に対し、米朝首脳会談実現の見通しが立った直後のまさにこのタイミングで行われるこの「東京会議」は世界中の注目を集めることになるとした上で、「是非、問題解決に向けた処方箋を示してほしい」と大きな期待を寄せ、問題提起を締めくくりました。

 続いて、北朝鮮問題における重要なプレーヤーになるであろう日本、中国、韓国、アメリカから6名のパネリストによる冒頭発言が行われました。

まず、認識を共有すべき

 まず、日本から宮本雄二氏(宮本アジア研究所代表・元駐中国大使)が登壇。宮本氏は北朝鮮が対話路線に転じたことは、国際社会の一致した圧力の成果であるため、今後も一致した対応が重要になるとした上で、「そもそもなぜ北朝鮮に核放棄をさせなければならないのか。対応を一致させるためにはまず認識を一致させる必要がある」と語りました。

 宮本氏は核放棄させなければならない理由としてまず、核を持つことによって最小核抑止力を得て、核を保有する超大国に対しても「行動の自由」を得てしまうことを挙げました。

そしてその次には、核の世界的な拡大という危機を指摘。自国第一主義を掲げるトランプ政権下のアメリカに対し、「有事の際、本当に同盟国を守ってくれるのか」という疑念が高まる中、仮に「もはやアメリカは頼りにならない」と感じさせる事態が起きた場合、日韓も核武装する可能性が浮上すると指摘。そうした状況になると台湾も追随する可能性もあるため、「東アジアの戦略環境は激変する」と懸念を示しました。

しかも、核保有願望がある国は、中東や南米、アフリカまで世界中にあるため、それらの国々も続き、そこからテロ集団に核兵器が渡ってしまうというリスクもあると指摘。だからこそ、核拡散の引き金となり得る北朝鮮の核保有は「何が何でもここで止めなければならない、という共通認識を持つ必要がある」と強く訴えました。

20年の時間を得てしまった北朝鮮

 西正典氏(元防衛事務次官)は、北朝鮮が対話路線に転じた背景には、「もうすでに必要な核・ミサイル技術は獲得したという自信があるのではないか」と分析。その上で、今後の対話の難しさを指摘しました。

 具体的にはまず、北朝鮮が求めていると見られる「体制保証」について、「それはすなわち、朝鮮半島が分断された状態を所与のものとして受け入れるということを意味するが、それでいいのか」と問題提起。

さらに、これまではアメリカの「核の傘」による拡大抑止が機能してきたが、「一方、北朝鮮は自分で『傘』を差している状態になったが、この北朝鮮に対しては誰が傘を被せるのか。わけのわからないロジックになってくる」と指摘しました。

その上で、今後の米朝首脳会談はそうした「トラップの多い状況」で開催されることになると警鐘を鳴らすと同時に、会談実現によって北朝鮮は「さらに20年の時間を得てしまった」ために、今後に対しては「悲観的にならざるを得ない」と率直に吐露しました。

米中首脳会談でアメリカは何を要求するのか

 続いて、中国からは劉鳴氏(上海社会科学院国際関係研究所所長)が発言。劉氏はまず、米朝首脳会談の実現を「衝撃」とその驚きを表現しましたが、日本側の見方とは異なり、制裁や圧力の成果として北朝鮮が対話路線に転じたのではなく、「昨年からすでにそうした対話の意思は示していた」と指摘。ただ、このタイミングとなったのは西氏と同様にICBMプログラムが完成に至ったからであるとの見方を示しました。

 そして、北朝鮮が何を要求するのかはもう分かっているため、米朝首脳会談の焦点は、「アメリカが何を要求するのか」になると分析。その上で、アメリカの意図は「非核化には時間がかかるため、今回の会談でとりあえず当面の状況をコントロールし、それから徐々に非核化に取り組むのではないか」と語り、プロセスを遅らせることが主目的となると予測しました。ただ同時に、トランプ氏、金正恩氏ともに「予測不能」であるため、「二人の動きを注視する必要がある」と付け加えました。

制裁のスクラムを今度こそ崩さないことが大事

 韓国の尹德敏氏(韓国外国語大学校首席教授)は、25年前、国際社会が圧力をかけた結果、当時の金日成主席とカーター元米大統領が会談し、さらに南北首脳会談も行われたことを振り返り、「現在と同じ流れだ」と切り出しました。しかし、当時と今で決定的に異なることとして、「北朝鮮はすでに核、さらには日韓を射程に収めるミサイルを1000発以上保有している」ことを指摘しました。

 こうした状況の中、なすべきこととしては国際社会の連携した制裁継続を挙げましたが、同時に「これまでも制裁すると言ったにもかかわらず、日中韓米いずれも人道支援の名の下に北朝鮮を支援したことがあった」と振り返り、「同じ轍を踏まないように、今度こそ制裁をしっかりと維持する必要がある」と強く訴えました。

言葉だけではなく、行動で示すまで制裁を続けるべき

 同じく韓国の文聖默氏(国家戦略研究統一戦略センター長)は、北朝鮮の最大の目的は、「北主導の朝鮮半島統一と、それに対する最大の障害である米韓同盟の破壊」との見方を示した上で、その鍵を握るものが核保有である以上、「本当に核放棄の意思があるのだろうか」と疑念を示しました。したがって、米朝首脳会談では「アメリカ本土に届くような核ミサイルは放棄するから、日韓に届く程度の核ミサイルは保有させてくれ」というような交渉をしてくる可能性があると予測しました。

 その上で、これに対する対応としては尹氏と同様に、「一貫した制裁と圧力」が肝要であるとし、同時に、IAEAの査察をこれまでとは違う実効的なものとした上で、一つひとつ着実に核廃棄プログラムを実行しない限り、「決して制裁を解除してはならない。言葉だけではなく、行動で示すまで制裁を続けるべきだ」と主張。さらに、米韓同盟の破壊を狙っているのであれば、破壊されないようにより米韓同盟を強固なものとしていくことの必要性も説きました。

不透明な米朝首脳会談の行方

 最後にアメリカからは、ジェームス・ゴーリアー氏(外交問題評議会(CFR)上級客員研究員)が発言。ゴーリアー氏はまず、トランプ大統領の行動特性について解説。まず、自分のアピールを最優先としていること。米朝首脳会談をティラーソン国務長官ですら知らなかったように、独断で物事を決定し、国内的な意思統一を図るという意識が乏しいこと。オバマ前大統領がやらなかったことをやりたがる傾向にあること。政権内にエキスパートを揃えようとしないし、そもそもエキスパートの話など聞こうとしないことなどを挙げました。

 一方金正恩委員長から見れば、会談実現はこれによってアメリカとスタートラインが対等になるとともに、核・ミサイル能力が全世界に知れ渡ることとなったため、「既に勝利したも同然」であると指摘。こうした状況の中での会談の行方は少なくともアメリカにとっては不透明であると語りました。

 その中で国際社会がなすべきこととしては、「どうも発想が『対話は戦争か』の二択になっているのではないか」とした上で、「他にもやることはあるはずだ。各国が抑止力、防衛力も高めることが大事だし、連携して圧力をかけ続けることも大事だ」と促しました。

小野寺大臣の問題提起と6名の冒頭発言を受けて、司会の藤崎氏は「北朝鮮はこれまで裏切りの連続だったが、どうすれば裏切らないようになるのか。非核化をどう担保するのか。圧力の協調をどう続けるか。こうした様々な課題が山積みであるが、未来志向的なアイディアを出してほしい」とパネリスト達に呼びかけ、ディスカッションが始まりました。

米朝首脳会談は成果を挙げられるのか

 イタリアのエットーレ・グレコ氏(国際問題研究所(IAI)副理事長)は、成長センターである東アジアの平和は世界にとっての利益であること、NPT体制の堅持はEUの戦略上重要であることから、北朝鮮のリスクは欧州にとっても大きな課題であると語った上で、米朝首脳会談で求められるのは「非核化に向けた完全な合意」と「国際的な枠組みの構築」、「IAEAによる実効的な検証の確約」であると指摘。

 しかし、ゴーリアー氏が指摘したようなアメリカ国内の意思統一の欠如から「5月の会談までにしっかりとした準備ができるのか」と懸念を示しました。

 インドのサンジョイ・ジョッシ氏(オブザーバー研究財団(ORF)理事長)も、トランプ政権の交渉力を懸念する同時に、金正恩委員長を「思っていたよりもはるかに狡猾であり、交渉では脅威となる相手だ」と警戒しました。

 劉鳴氏は、金正恩委員長よりもむしろトランプ大統領の方が不確実な要素が大きいため、「トランプ大統領にもプレッシャーをかける必要がある」と指摘しました。

 ゴーリアー氏は、通常の外交プロセスであれば、交渉は下(事務方)から固めていき、徐々に上に行って最後にトップ(首脳)が会談するという流れになるとした上で、「しかし、今のアメリカは全く逆だ」と嘆きました。さらに、トランプ大統領が会談について、negotiationではなく、talkと表現していることに着目し、「5月の会談だけで解決の方向が見えるということはないだろう」との見方を示しました。

 ブラジルのカルロス・イヴァン・シモンセン・レアル氏(ジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV)総裁)も、北朝鮮よりもむしろアメリカの狙いが不透明であるとし、国際社会は今回の会談に一喜一憂することなく、「第2、第3の動きを見据えるべきだ」と語りました。

 イギリスのジョン・ニルソン―ライト氏(チャタムハウスシニアリサーチフェロー)も、この首脳会談で終わりなのではなく、今後も引き続き会談があると予測した上で、「そこには日本の安倍首相も入って行くべきだ」と提言しました。

 また、朝鮮戦争は休戦状態とはいえ続いていることに変わりはなく、そして国連軍が関係している以上、「ワシントンD.C.と平壌だけで交渉すべきではない。国連も役割を果たすべきだ」と主張しました。

今後、非核化に向けて国際社会は何をすべきか

 フランスのトマ・ゴマール氏(フランス国際関係研究所(IFRI)所長)は、北朝鮮の非核化の実現可能性について、イランとの核合意が困難な局面を迎えていることに言及しつつ、「同じやり方では北朝鮮との間でも成功しないだろう」とし、これまでとは異なる発想のやり方が求められると述べました。

 カナダのロヒントン・メドーラ氏(国際ガバナンス・イノベーション(CIGI)総裁)も、ゴマール氏と同様の見方を示しつつ、この北朝鮮への対応が「ならず者国家」対応の新たなリーディングケースとなるため、世界の未来のためにも失敗が許されない重要なミッションになるとの認識を示しました。

 シンガポールのオン・ケンヨン氏(S.ラジャトナム国際研究院(RSIS)副理事長)は、中国が制裁に本腰を入れたことが北朝鮮の方向転換につながったことから、今後の戦略についても同様に中国の役割が重要になると主張しました。

 これに対し、劉鳴氏は「中国もできる限りのことはするが、もうすでに力を尽くしている」とやや消極的な姿勢を見せました。また、軍事行動には大きなリスクがあり、制裁もすでに最大限実施しているために、残された交渉カードは少ないとの見方も示した上で、「あとは金正恩委員長にどれだけ誠意があるか」と語り、今後の動向は北朝鮮次第としました。

 そうした不確実性についてはグレコ氏も言及。金正恩委員長が核保有によって自らの体制と生存を確保できると本気で考えているとしたら「非核化の成果は望めない」としました。もっとも、「それでも何らかのアレンジメントはできるかもしれない」とも語りました。

 シモンセン・レアル氏は、不確実性への対処方法としては、北朝鮮を引き込んだ「ゲームを設定すること」を挙げました。シモンセン・レアル氏は、かつての米ソ関係が対立しながらも安定していたのは、お互いが同じゲームの中にいたために相手の行動に予測可能性があったからであるとし、こうした経験が北朝鮮問題でも大きなヒントになると指摘しました。そして、北朝鮮をゲームに引き込むためには、「インセンティブを与えること」が必要であると語りました。

 文聖默氏は、金正恩委員長は核保有こそが自らの体制を保証すると信じていたが、実際には核開発に資源を集中した結果、多くの国民が苦しみ、国内が動揺している実情を紹介。したがって、シモンセン・レアル氏が言うところのインセンティブに関して、「核がなくても体制は維持できる」と思わせることだと語りました。

 もっとも、文聖默氏はその一方で、体制保証をするということはすなわち北朝鮮国内の深刻な人権問題を放置するということを意味するため、「人権問題について圧力をかけていくことは忘れてはならない」と強調しました。

 ニルソン―ライト氏は、仮に体制保証がなされたとしたら、次に金正恩委員長が目を向けるのは国内経済の安定化になるはずだとした上で、制裁を引き続き行いつつ、経済支援のプランを示すことがインセンティブとして有効になると語りました。

 非核化プロセスの実効性確保についても意見が相次ぎました。特に核査察については、宮本氏は過去の経験から見ても、仮に核放棄を確約させることに成功したとしても、その検証は非常に困難であることを指摘。いかにして新しい実効的なチェック体制を構築するか、という点で知恵を絞らなければならないと語りました。

 ニルソン―ライト氏も同様に、これまでとは異なる意識が必要であるとし、「信頼した上での検証」ではなく、「常に不信感を持ちながら検証」することが大事だと説きました。

課題は他にも

 議論では、その他にも様々な課題が提示されました。北朝鮮の安全保障に関する脅威は他にもあるとの意見も寄せられ、メドーラ氏は、北朝鮮がサイバー攻撃を活発化していることに言及。「北朝鮮が有する危険なテクノロジーは核・ミサイルだけではない」と注意を促しました。

 宮本氏は、政策と世論の間で生じ得る齟齬について警鐘を鳴らしました。そこでは、北朝鮮問題のように複雑化した問題をめぐっては、「政府が考える安全保障戦略の正解と、国民が求める結論の間に齟齬が出るかもしれない。そこをどう埋めるか」と問題提起しました。

 議論を受けて最後に藤崎氏は、「緊急有識者アンケート」を実施。13人のパネリストに対し、北朝鮮問題解決の行末について、「①これからも悲観的」、「②もしかしたらうまく行くかもしれない」、「③わからない」の三択を提示。結果は①4票、②4票、③5票と見方が分かれ、これを受けた藤崎氏は、この問題の難しさを示していると語りつつ、だからこそ今後も継続して議論を続けていかなければならないとし、第二セッションを締めくくりました。

2018年3月13日

・自由で開放的な経済やリベラル秩序の評価とG7の役割 /「東京会議2018」公開第1セッション報告

(2018 / 03 / 11 言論NPO)

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 言論NPOは3月10日、世界10か国の主要シンクタンクの代表らを東京・青山の国連大学ウ・タント国際会議場に招き「東京会議2018」の公開セッションを開催しました。

 今年の議論は「世界の自由と民主主義」「北朝鮮の核問題」の2つのテーマで行われました。自由や民主主義、人権、多国間協力といった規範のもとで発展を遂げた日本を舞台に、問題意識を共有する世界の言論人が連携してその価値を訴え、世論の流れを変える。言論NPOの呼びかけに賛同した10か国のシンクタンクに加え、中国や韓国からもオブザーバー参加者を招き、日本政府と、G7議長国のカナダ政府に成果を提案することを目指した議論がスタートしました。

リベラルな国際秩序と民主主義の先行きに不安が強まっている

 冒頭、開会挨拶に立った言論NPO代表の工藤泰志は、会議に先立って日本の有識者290氏を対象に行ったアンケートの結果を紹介。以下4つの特徴を示し、リベラルな国際秩序と民主主義の未来に、多くの有識者が不安を持っている実態を明らかにしました。

1.世界秩序に今起こっている変化は一時的な調整でなく構造的なものだ、という認識が強まり、かなりの有識者の不安につながっている。「トランプ政権もいずれ軌道修正し、多国間主義に基づく秩序が維持される」との見方がこの1年で大幅に減少し、「世界的な秩序の牽引国がなく、不安定化が深まる」という意見が増加したことが、それを示している。

2.特に、民主主義の先行きに対する不安が強い。世界秩序の懸念材料として「ポピュリズムや権威主義の台頭」を挙げた人が約50%で最も多く、国際社会で優先的に守るべき価値を、51.0%が「基本的人権」、次いで44.3%が「民主主義」だと答えている。

3.グローバリゼーションの今後について、65.2%もの有識者が「自由で開放的な経済は今後も続くが、誰が新しいルールを主導するのかわからない」と感じている。

4.民主主義の危機を乗り越えるために、「政治やメディアに対する有権者や市民の眼力を上げていくこと」が大切だと答えた人が61.4%に上った。「自由と民主主義の規範を共有する多くの人が世界的に連帯すること」も約50%と多い。

 そして工藤は、「東京会議が目指すのもまさに『世界的な連帯』だ。自由と民主主義の危機という、世界で最も問われている課題に日本が強い役割を果たすべきだ」と、2年目を迎えた東京会議の意義を説明。「世界の今後、民主主義の今後を一緒に考えていこう」と、会場に集まった約300名の市民に呼びかけました。

エレファントカーブから見える問題の本質とは

 第1セッションは「世界秩序の不安定化とリベラルな秩序の未来とG7の役割」をテーマに行われました。工藤はまず、次のような三つの問題意識を提示しました。

・トランプ政権発足から1年、多国間主義やリベラル秩序の不安定さは変わっていない。米国が国際秩序を守る意欲を後退させ、一方で中国が世界の課題への発言を強める中で、世界秩序がどんな展開を見せるのか。
・G7、G20で問われているのは、多くの人をグローバリゼーションの利益に包摂するサイクルを持続的に発展することだ。TPP11に代表される巨大FTA(自由貿易協定)への挑戦や技術革新といった最近の動きは、それにどう貢献できるか。
・しかし、こうした秩序や国際協調を支える民主主義に対し、懐疑心が強まっている。これをどう払拭し、リベラル秩序を守り発展させるのか。その上でG7や知識層はどんな役割を果たすべきか。

 続いて、言論NPOアドバイザリーボード・メンバーで元外務大臣の川口順子氏が基調報告に立ちました。川口氏は、工藤の問題提起には「世界秩序の不安定化」「リベラル秩序の未来」「G7の役割」という三つの部分がある、と分析。

初めに「世界秩序」について、「何が本当の問題なのか」と根本的な疑問を提示した川口氏。英国のシンクタンクが作成した「エレファントカーブ」という曲線のグラフを会場に映写し、以下のように主張を展開しました。

 「リベラルな国際秩序が安定していた1988年から2008年にかけて、一人当たりの所得の伸びを縦軸、所得の分布を横軸に取ると、所得の伸び率が低い(=象の鼻の付け根)のは先進国の中産階級、伸び率が高い(=象の背中)のは新興国の人たちだ。こうしたデータを踏まえ、グローバル化が所得の不均衡をもたらしたという議論があり、トランプ氏の支持者もその影響を受けている。しかし、影の部分を問題だと考えるのか、光の部分を評価するのか、という点は議論が必要だ。また、自由貿易自体が問題なのではなくて、それを守っていく姿勢の緩みが問題の原因ではないかという議論もある。このように、問題の本質は何かを考えることが必要だ」。

 次にリベラル秩序を巡り、川口氏は「民主主義、法の統治、自由という考え方のベースが、1941年にチャーチル英首相とルーズベルト米大統領が作り上げた大西洋憲章だとすれば、これらの規範は70年以上長持ちしてきたことになる」と主張。そうであれば、これから求められる制度も、長い期間世界を律することができるよう、ほころびを出さないものであるべきだ、と語りました。そして、川口氏は今起こっている変化として、国の数の増加や発展段階の多様化、AI(人工知能)などの技術進歩、NGOや地方政府など非国家主体の力の強まりを挙げ、「既存の制度の修正によってこうした対応できるのか、あるいはそれが不可能なので全く新しい制度に変えるべきなのか」がポイントになると述べました。

 最後に、G7の役割について川口氏は、工藤が挙げた三つ目の問題意識にも関連し「それぞれの国内で民主主義を機能させ、民主主義のすばらしさを世界に見せていくこと」そして「既存制度の修正にせよ全く新しい制度の構築にせよ、今の変化に対応した制度を作っていくこと」だと発言。TPP11や日EUEPAといった質の高い自由貿易制度の構築を日本が主導したことに触れ、「自由や民主主義を護るために日本が強い役割を果たすべき」という工藤の主張を繰り返しました。また、G7が担うもう一つの役割として「新興国の人材育成」を提案。2050年には世界のGDPの半分以上を新興国が占める、という予測を紹介し、「大国が世界を律するという発想からは離れなければいけないが、新興国が成長した将来においても誰かが秩序を担わないといけない。そう考えると、新興国への貢献は先進国のためにもなる」と語り、報告を締めくくりました。

トランプ大統領は国際秩序をどこまで傷つけるのか

 二人の問題提起を受け、世界から集まったパネリストらが次々と発言しました。

 米国のジェームズ・ゴーリアー氏(外交問題評議会(CFR)上級客員研究員)は、自国のトランプ政権が自由と民主主義に基づく秩序に与える影響について、楽観的な見通しを示しました。

 「第二次大戦と大恐慌の反省から築かれた戦後の国際秩序が、ナショナリズム、保護主義という二つの挑戦に直面している。トランプ氏は破壊を求め、予測不可能であることを好んでいる。米国が維持してきた秩序や安全保障に同盟国が『ただ乗り』してきたと考え、同盟国との協力には消極的だ。また、習近平主席やプーチン大統領といった権威主義的なリーダーには対抗的な姿勢を示している」。ゴーリアー氏はトランプ政権の性質を列挙します。「トランプ氏は何を目指しているのか」という工藤の問いには、「テレビ番組と同じで、次のアクションをより面白くし世間の注目を集めることだ」と答えました。

 しかし、「これを忘れてはいけない」とゴーリアー氏は続けます。「米民主党の絶対得票数は、大半の選挙で多数となっている。先の大統領選でクリントン氏に投票した人々はグローバル化で様々な利益を得た。2020年の次期大統領選でトランプ氏の対立候補は今の国際秩序を支持し、米国民もそれを支持するだろう」と語りました。

 一方、大西洋憲章のもう一方の当事国であった英国のジョン・ニルソン・ライト氏(王立国際問題研究所(チャタムハウス)シニア・リサーチ・フェロー)は、悲観的な視点を提示しました。

 ライト氏は、戦後の国際秩序に生じている三つの変化により、市民の間に感情的な不安が強まっていると指摘。第一に、米国が安全保障を提供することで地域が安定していた構造が、トランプ大統領の登場で揺らいでいるという点。第二に、核抑止は従来、構造的な平和が実現する要因と言われていましたが、北朝鮮は近隣国への脅威を与えるだけでなく米国の同盟システムにもチャレンジしています。ライト氏は、それにより、米国の拡大抑止をどこまで信頼できるのかという懸念が同盟国で広まっていると指摘。第三に、川口氏も触れた中産階級の没落により、多くの人に一体感をもたらしていたコミュニティの脆弱化が進んでいることを挙げました。

 このように、市民がポピュリズムに傾くことへの誘因が強まる中、何が必要か。ライト氏が第一に挙げたのはリーダーの役割です。自由、民主主義の規範を共有する指導層が、多国間協力から後退する米国に物を言っていくべきだ、とライト氏は主張しました。

G7結束の意義は多国間主義を護ること

 フランスのトマ・ゴマール氏(フランス国際関係研究所(IFRI) ディレクター)は、川口氏が問うたG7の結束の意義を「多国間主義を擁護すること」と位置付けます。中国、ロシアの大国的な行動や米国の一国主義的な動きによって多国間主義が弱体化している、とゴマール氏は懸念し、中でも最大の問題は、地域の主導権を巡り大国の代理戦争が展開されている中東情勢をはじめとした「地政学的な不安定化」にあると語りました。

ドイツでは、昨年の総選挙でポピュリズム政党が躍進。ギッタ・ロースター氏(ドイツ国際政治安全保障研究所(SWP)会長特別補佐)は、その要因を「ソーシャルメディアが自由や民主主義の価値を攻撃している」ことに求めました。ロースター氏は、ソーシャルメディアを使って過激な主張が増幅されており、これを利用したキャンペーンの手法は米大統領選や英国EU離脱の投票結果にも影響した、と指摘。

 「その拡散力に対抗し、テクノロジーが秩序に与える影響をコントロールするコミュニケーション手段を政治家が見出さなくてはいけない。しかし、答えはまだ出ていない」と語るロースター氏。具体的には、都市と農村のような異なる教育的背景を持つ人々を結びつける仕組みが必要だ、と提案しました。

ブラジルのカルロス・イヴァン・シモンセン・レアル氏(ゲテューリオ・バーガス財団(FGV)は、川口氏が提示したエレファントカーブの現象を新興国の視点から解釈しています。

「先進国中間層の所得の停滞は、問題の結果であり原因ではない。原因は自由貿易ではなく、金融にある。金融の安定性なくして、予見可能性も安定した未来も民主主義もない」。

 その上でレアル氏は、「川口氏が挙げたデータは、先進国において金融危機が国家の信用危機に発展した2000年代後半以降の状況を示している」と指摘。一方、新興国ではそれより早い90年代に金融危機を経験したが、現在はその影響から脱却している。この時間差が、先進国と新興国との所得上昇率の差につながっているのではないか、と語りました。

中国は国際的なガバナンスにどう関与していくのか

 民主主義国で起こる変化を巡って様々な論点が提起されたところで、オブザーバーとして参加した中国の陳小洪氏(元国務院発展研究センター企業所所長)に工藤が問います。

 「中国は自由と開放経済から利益を得た一方、権威主義的な傾向を強めている。中国は一体、何を目指しているのか」。

 陳氏はまず、昨年秋の共産党大会で示された中国の国家目標を説明。当面の政府の任務は「2020年までに全面的な小康社会、つまり国民がまずまずの生活を送れる社会へと発展することだ」と述べ、その達成のために、金融のシステムリスクへの対応や貧困対策、大気汚染などの環境対策が課題になっていると語りました。また、党大会で2035年までの完成を目指すとした「社会主義の現代化」に向け、経済や国防などとともに「環境」が重要任務に盛り込まれたことはこれまでにない変化だ、とも述べました。

 一方、国際社会との関係については、習近平主席が演説で語った「人類運命共同体」の意味を「各国が同じ目標を持ち、安定的に発展し、平和を実現する」ことだと説明。改革開放以降の40年における中国の経済成長と世界経済への貢献に強い自信を見せる陳氏は、さらにこう語りました。「世界では相互依存が高まっている。中国は平和や経済に貢献するとともに、国際的なガバナンスにも関与していかなければいけない。中国には巨大な市場があり、一帯一路によってそのアクセスは広がっている。中国は積極的なルールを守ろうとしているが、改善はあるにしても、共に議論し合意形成すべきだ。中国は多国間主義、多国間貿易を支持している」。

技術進歩が民主主義に与える影響をどう考えるか

 次に工藤は「多くの有識者が必要性を指摘したグローバリゼーションの自己改革をどう進めていくか。また、それを誰が担うのか」という問いを提示。AIなどの科学技術や、WTOの紛争調停ルールやTPP11といった自由貿易の枠組みをリベラル秩序の改善にどう取り入れていくべきか、パネリストらに意見を求めました。

 フランスのゴマール氏は、AIの普及による雇用喪失が民主主義に与える影響について、「労働者がいなくなったら税収、すなわち社会保障の財源が減ってしまう。こうした中で社会福祉をどう構築するかは非常にチャレンジングな問題だが、今のところ政治は対処できていない」と懸念を示しました。

 一方、今年のG7議長国であるカナダのロヒントン・メドーラ氏(センター・フォー・インターナショナル・ガバナンス・イノベーション(CIGI) 総裁)は、自国でのG7やアルゼンチンでのG20のテーマに「労働の未来」が選ばれていると紹介し、その理由を「全世界の幸福につながるテーマだからだ」と語ります。「テクノロジーは予想もしない勝ち組を生み出す。実際に産業革命以来、技術革新は世界に富をもたらしてきている。例えば内燃機関が登場したときには、航空産業の発展を予測できなかった」と前向きな見通しを示すメドーラ氏。しかし「そのためには努力の必要がある」と続けます。自身の具体的な取り組みとして、G7のシェルパ(各国首脳の案内役となる外交官)に向け、技術の変化に市民が能動的に対応できるようにすることを目的とした、職業訓練やセーフティネットなどの7つの枠組みを提案する予定であることを説明しました。

 シンガポールのオン・ケンヨン氏(S.ラジャトナム国際研究大学(RSIS)副理事長)は、市民が新技術やデジタル化に対応するため、各国での教育改革が重要だと発言しました。一方、オン氏は先進国で多国間主義への不満を生み出している移民への対応策についても言及。「今は、貧しい国から豊かな国に人が集まる構造がある。私たちの開発・投資を、まだ発展していない国に向けることで、人の移動の流れを変えられる」と提案しました。

民主主義が成果を出すため、メディアやシンクタンクに問われるものは何か

 英国のライト氏は、民主主義の中で、有権者やメディアが政治への適切な監視の役割を果たさなくなっている、と主張。英国ではEU離脱を決めた国民投票の後、欧州単一市場へのアクセスを維持する「ソフトブレグジット」を支持する政治家を攻撃するメディアの論調が出ている、と紹介しました。

 工藤は、こうした懸念は日本でも共通している、と指摘。「民主主義はプロセスが大事だという政治家がいる一方、民主主義が課題解決において成果を出せなければ民主主義の仕組み自体への懐疑論が出始める。課題解決のサイクルとして、民主主義をさらに守り発展させるために何が必要なのか」と問いかけました。

これに関し、イタリアのエトレ・グレコ氏(国際問題研究所(IAI)副総裁)は、「今直面しているのは政党制の危機だ」と訴えます。イタリアでは民主主義のインプット、つまり国民の政治参加は伝統的に機能している一方、問題はアウトプット、すなわち政府が市民の不安に応えるかたちで課題解決の成果を出していないことである、と紹介しました。グレコ氏は、グローバリゼーションによる不均衡の蓄積に市民が不満を募らせており、その責任の一端は政党政治にある、と指摘。その解決策は、生産性の向上にとどまらず、グローバリゼーションに取り残された人々をも包摂するためのより幅広いアジェンダを設定することだ、とし、その中には教育システム改革やテクノロジーへの対応も含まれるべきだ、と訴えました。

 インドのサンジョイ・ジョッシ氏(オブザーバー研究財団(ORF) 理事長)は、「世界で民主主義国は増えているが、その多くはポピュリズムだ。指導者は将来のビジョンを示すのではなく、人々の恐怖感につけ込んで地位を得ている」と断言。この流れを止めるために、シンクタンクなどの組織が答えを出すべきだと語るジョッシ氏は、「異質な要素で構成されている社会において、全員の利益が守られる民主主義をいかに見出すか」という課題を口にしました。

 一方、カナダのメドーラ氏は「情報が今どのように作り出されているか、私たちは学ぶべきだ」と発言。データの収集数と情報の充実度は必ずしも比例しない、と語るメドーラ氏は、「米国のインターネット企業は多数の心理学者を雇い、細分化されたデータに基づいて人々の望む情報を作り出している」と紹介しました。そして、同様の手法を用いてキャンペーンを展開し、米大統領選に影響を与えていたロシア疑惑の実態が、市民からのプレッシャーにっよって明らかにされている、と述べ、「誰がデータを取引し、誰が集約し、誰の便益のために使うのか。利益を目的とする企業だけがデータを扱うのではなく、データが公共領域においても英知となるよう探るべきだ」と訴えました。

チェックアンドバランスが民主主義の肝

 続いて、「英国では、専門家の言うことが信頼できるのか、疑問が出ている」というライト氏の発言を受け、工藤も、言論NPOの世論調査では日本でも同様の傾向が出ている、と紹介。政党や国会など選挙で選ばれた仕組みへの信頼度が20%前後にとどまり、メディアや知識層が信頼されていない。これは民主主義の危機だと思う」と警鐘を鳴らし、「民主主義の未来をどう見ればいいのか」と改めて問いかけました。

 これに対し川口氏は「民主主義という言葉は人によって意味するところが違う。ドイツ民主主義共和国(東ドイツ)はその名称と異なり、歴史上最も民主的でない国の一つだった」と指摘。自身が考える民主主義の特徴として、発言の自由、行動の自由、所有権などを挙げました。

 ブラジルのレアル氏は「自由や民主主義にとって、議会と行政府のバランスが取れていることが必須だ」と言葉をつなぎます。レアル氏は、このバランスが各国で揺らぎ、「行政府の権力強化と、立法府の衰退」という現象が生まれていると指摘。「政府が『いち早く重要な問題に対処しなくてはいけない』という言い訳をし、先進国における財政拡張のような無責任な行動に走っている。短期の利害と長期の課題解決を天秤にかけたとき、誰も後者を選びたがらない。イノベーションは課題解決の魔法の杖である、という人が多いが、それは答えの一部であって全てではない」と、レアル氏は厳しい口調で語りました。

米国が築いた秩序の維持を望んでいるのか、米中両国の論者に聞く

 第1セッションも終盤にさしかかり、工藤は次のように、中国と米国のパネリストに改めて問いました。

 「中国は先進国に様々な面でキャッチアップしていくとのことだが、中国が今の成長ペースを続けるといずれ米国と経済規模で並ぶ。そのとき、中国はグローバルガバナンスでどのような位置を占めようとするのか。例えばIMFや世銀などをベースにした既存の仕組みの中で発言力を増すのか、それとも別の仕組みを作るのか」

 「トランプ大統領は多国間主義を軽視しているが、米国は将来、国際秩序における役割を放棄することになるのか。それとも、リーダーシップを発揮しようとし続けるのか」

 中国の陳氏は、「己所不欲,勿施于人」(自分がやりたくないことを人に強制するな)という孔子の言葉を引用。「国際的にも国内においても、ルールをともに議論し合意形成すべきだ。これは自国の発展段階にかかわらず重要だ」と答えます。

 米国のゴーリアー氏も、米国が主導してきた既存の国際秩序自体は何らかの形が維持されるとの見解を提示。「オバマ前大統領は、米国の支配力がかつてほどではないという認識のもと、リベラル秩序を深化させ他国を取り込むことを重視していた。米国の国益にとってもこれが最も合理的であり、秩序を放棄することはない。中国主導の秩序に多くの国は賛成しないだろうし、中国自身のビジョンもそれを謳っていない。米国の国民もエリートも、従来の秩序を支持していると思う」。ゴーリアー氏はこのように、重ねて前向きな見解を語りました。

市民が課題を考える強靭な社会を作るため、知識層が先頭に立つ

 2時間にわたる議論の最後に工藤が再びマイクを握り、「皆さん、どう感じましたか」と聴衆に問いました。「世界のシンクタンクは、世界や自国の民主主義が直面する課題に向かい合っている、と感じたのではないか」と工藤は語り、「今の課題に取り組む動きをどうしても作りたいし、何よりも東京でこうした議論が行われることが重要だ」と、改めて東京会議の意義を訴えました。

 そして、川口氏から出された「国際社会が結束して制裁を行い、北朝鮮を対話の場に引き出したように、多くの国に共通の利益を作って広めていくことで『一つの国際社会』という意識を作ることができる」という意見に関連し、「実際の世論を見ると、北朝鮮のような脅威に対し、メディア報道によって市民が不安だけを募らせている。市民は本当にこうした課題を考えられるのか」と自問します。その答えとして工藤は、「自由や民主主義、平和に対する課題を多くの人が考えられるような強靭な社会を築かないといけない。そのために、知識層や言論人が先頭に立つべきだ」と強い決意を語り、第1セッションを締めくくりました。

2018年3月13日

・「民主主義に今何が問われているのか」 /「東京会議2018」非公開会議(10日)報告

(2018 / 03 / 11 言論NPO)

 言論NPO東京会議の「自由で開放的な経済やリベラル秩序の評価とG7の役割」をテーマとする非公開会議が10日午前、東京・青山の国連大学で開かれました。

トランプ大統領の一挙手一投足に注目が集まる

 前日の非公開会議同様、この日のテーマにもトランプ大統領の影が差します。トランプ氏は、「本物の戦争ではない、貿易戦争はいいものだ」と発言しているものの、パネリストの一人は「現在は多くの国でナショナリズムがある。それがぶつかった貿易戦争が、世界で見られる。一方で、本物の戦争は、銃口が外に向いているが、報復に出ると、貿易戦争の銃口は内にも向いて、自滅することもある」と警告します。

 「トランプ政権の直接の影響はまだない」という東南アジアからのパネリストは、周囲からの脅威に対抗するために途上国同士の経済統合を強固なものにしてきたが、「ASEANがより自由貿易、市場開放に関与するようになるには、トランプ大統領のTPPからの脱退は、他国との貿易の上で大きなマイナスと考えられている。トランプ自身はTPPにある程度オープンであり続け、戻ることもありうる、と言っているようだが、それが何を意味しているのかはまだ分からない」と疑心暗鬼に包まれている状況を語りました。

 地域の経済統合が勢いを増し、世界の他の国々にも好影響を与えてほしい、というパネリストは、「トランプ大統領が示している、開放貿易、市場開放とは逆のマイナスのイメージが、貿易投資など、これからの交渉を困難にするのではないか」と述べ、これまでにはなかった新しい状況がトランプ大統領によってもたらされる点を危惧していました。

 さらに、「トランプが選挙に勝ったことで、誰よりも賢い、という考えにつながり、自分で何でもやる、政策決定をアドバイザーに何ら相談していない状況が生み出された。例えば、ティラーソン国務長官は、トランプ大統領が金正恩と会うことを、何も聞かされていなかった。これは驚くべきことだ」と述べ、トランプ大統領の親しい人ばかりで側近を固め、専門家のアドバイスを求めない態度が一番、問題だと語りました。

 「貿易政策に関してトランプは措置を講じているが、成果を出せるのか、確信がない」と述べ、そもそもアメリカの貿易赤字の要因は、マクロ的な要素、特に貯蓄率が低いという要因、為替の課題、また公的な赤字が非常に大きいというもっと根本的な問題が存在していると本質的な疑問を述べるパネリストもいました。

台頭する中国とどのように向かい合えばいいのか

 次に注目を集めたのは中国です。中国の成長は、世界にどんな影響を与えるのでしょうか。「中国とは、地域として一定の均衡を保ちたい。ASEANには、欧米との長いつながりがあり、米政権にはしっかりとした予見可能なリーダーシップをとってもらいたいが、過去1年間はそうではなかった。私たちは、貿易投資などで中国との関係を見直さざるを得ない」と、その大きな影響力を話しました。また、「大国とは、互恵的な関係を築く必要がある。1960~70年代のような過去に経験したことを繰り返さず、対立や抗議を避ける形でやっていこうということが必要で、対中関係により力を注ぐようになっている。ASEANとしての対中国、対アメリカのアプローチは今後1年間の動きで変わっていく可能性がある」と指摘する声も上がりました。その上で、①将来のルールはどうなるのか、②ASEANとしてより包摂に根差した発展、開発が重要であり、個々の国が、今まで20年間地域で享受してきた成長を、持続可能なものにしていけるかが鍵、③ASEANとしては、ルールを制定し、包摂的に取り組んで、地域全体のレベルでICT(情報通信技術)を世界の他地域並みに進展させたいとして、東南アジアは三つのことを中心に動いていくと予測しました。

 中国で企業研究しているパネリストが語ります。「中国は、経済大国だが、まだ途上国でもあり、一人当たりのGDPは低く、農村も多く存在している。中国の近年の発展は、グローバル化と関連が深いが、発展は不安定だ。まず、中国自らがしっかりと発展し、そして世界の経済の発展にも貢献すべきだ」との見解を示しました。そして主な目標として、習近平・国家主席を中心として、胡錦涛時代からの目標である脱貧困を数年以内に達成することを挙げ、同時に、2020年までに小康社会を構築するための3つの課題として、まずは系統的に不動産バブル、金融システムのリスクの解決、貧困支援、大気汚染などの環境問題を挙げました。

 一帯一路イニシアチブは、「発展途上国の要請を受けて、30年前からインフラ整備をしてきており、道路、通信を繋げ、それに伴って経済の有効需要を増やすことも大事で、工業などの発展のチャンスで、中国は他国と共にマルチな貿易のシステムを作っていきたい」と熱く語るのでした。

中国が進める一帯一路へ

 一帯一路の構想については、他のパネリストから質問が続きました。「この話は途上国から出たと言ったが、この資金はどこから出るのか。地図上で線を引くのは簡単だが、実際に線引きするのは難しい」と、スリランカでの中国の事例も挙げながら問題点が指摘されました。また、一帯一路を巡っては、非常に大きな成長の機会があると見られ、我が国も何とか一帯一路に協力しようという声がある一方で、そこには中国の地政学的な意図も存在するため、他国が主要資産のコントロールを失うのではないか」という声もあります。さらに、「ある程度の紛争調停メカニズムも必要になり、これは中国が現在のグローバルルールや調停制度に挑戦するのではないか、という不安の声や、中国がこの分野における主要ポジションを取りに行くのでは」との警戒する声もあり、さまざまな意見が出されました。

 こうした疑問に中国側は、中国の基本的な考えは、皆の認める国際ガバナンス、ルールには従い、問題があれば議論していく、ということだと説明。投資については、スリランカなど債務消化能力があるかどうか。一帯一路は意義があるかどうかだけでなく、それをサポートしようとする企業、国の能力も考慮しなければいけない。それによって意義が損なわれることはない」と語るものの、中国は発展途上の大国で、経験値が浅く、実践を積んでいく必要性を強調しました。

 こうした中国側の”弁明”を聞いて、次のような意見もありました。「自分たちは第三世界というかもしれないが、大国、世界的に力を持つ国が”まだ途上国だ”という時に、どのような強国の役割、責任を期待すべきなのか。そのような国は、一人当たりGDPが低いが、途上国の定義自体も再検討が必要だ」、「国と国、という議論ではなく、NPOやNGOの役割に、より焦点を当てて話さなければいけない。G7の枠組みの中でも非政府の役割について議論すべきだ」、「中国は実際に、自由貿易にコミットしていると言い、WTOのルールに従っている。ただ、ルールに徹することは不十分ではないか。なぜなら、中国は国際組織から巨大な黒字をあげている。もし中国が本当にコミットメントするなら、WTOでしっかり対応して、ペナルティを米に求めるべきだ」と語るなど、2日目の非公開会議はアメリカと中国の話題に話が及びました。

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2018年3月13日

・言論フォーラム「北朝鮮問題と日米の世論-国民の声で戦争を食い止めることができるか」報告

(2018 / 02 / 27 言論NPO) 26日、言論NPOは、都内の事務所1階会議室にて、ブルース・ストークス氏(ピューリサーチセンター・ディレクター)、近藤誠一氏(近藤文化・外交研究所代表、元文化庁長官)をゲストにお招きし、言論フォーラム「北朝鮮問題と日米の世論-国民の声で戦争を食い止めることができるか」を開催しました。

 言論NPOは昨年末の12月28日、米・メリーランド大学と共同で行った北朝鮮問題に関する日米共同世論調査結果を公表しましたが、そこでは日米の国民間に大きな認識ギャップがあることが明らかになりました。こうした状況の中、北朝鮮の核脅威に対する国民の不安が外交プロセスにまで影響してしまう危険性も存在しています。

 そこで今回のフォーラムでは、こうした世論の問題や調査で浮かび上がった日米両国民の意識の違いなどについて議論が交わされました。

IMG_3370.jpg フォーラムではまず、ストークス氏が、ピューリサーチセンターが実施した調査を中心に、アメリカ国内における北朝鮮問題に関連する様々な世論調査結果を紹介。そこでは、特に北朝鮮についての知識を持たない平均的なアメリカ国民も米朝間で戦争が始まることに対して強い懸念を抱くようになってきている、という現状が明らかにされました。そうした戦争を懸念する声は3年前から大幅に増加し、さらに共和、民主両党の支持者間の差も縮まっているとストークス氏は解説しました。
もっともストークス氏は、こうした調査では「多くの日米韓の人々が死ぬような事態になったとしても戦争をすべきか」などのように、戦争にどの程度「コスト」をかけるか、ということまでは掘り下げて尋ねていないため、「その本気度は分からない、バーチャルな世論だ」と留保を付けました。

*重要な問題について、世論の姿を浮き彫りにすることこそ調査機関に課せられた責務

IMG_3365.jpg これを受けて司会を務めた言論NPO代表の工藤泰志も、改めて年末に発表した日米共同世論調査結果を振り返りました。その中で日本人が自国日本の核武装に「賛成」する声がこの1年間で2倍に増加したという結果に対して、韓国メディアが強く反応したことを紹介し、世論調査が及ぼすインパクトをどう考えるか、調査結果の公表には慎重であるべきか、などと問いかけました。

IMG_3392.jpg 近藤氏も、世論調査は核武装の是非を問うような設問では、調査結果を時の政権に都合よく利用される危険性もあると指摘。数字という形でわかりやすく国民意識が表れてしまうためにその設計は慎重に行わなければならないとしつつ、その一方で表面的な結果しか出ないようだと調査の意味がないため、うまくバランスを取ることが課題になると語りました。

 ストークス氏も、調査結果がどのように受け取られるかまで念頭に置きながら、設問の設計は慎重に行うべきと発言。しかし同時に、「調査によって敏感な問題を掘り起こしてならないのかというとそうではない」、「例えば、北朝鮮との戦争によって在韓米人にどの程度被害が及ぶのか多くのアメリカ人は知らない。それを知らしめるためには設問に入れてもいい」、「本当に重要な問題については、厳しい設問も厭わずに世論の姿を浮き彫りにしていかなければならない」などと調査機関に課せられた厳しい責務について語りました。

*アメリカ人の日本に対する認識はそれほど高くないのが現実

 続いて議論は、アメリカ人の対日観に移りました。

 ストークス氏は、平均的なアメリカ人は世界地理に対して知識も関心もないのが現状であるが、日本もその例外ではないことを説明。「日本が北朝鮮や中国から攻撃されたらアメリカは日本を守るべきかと聞かれたら、大多数の人は『Yes』と回答するだろう。しかし、日本に関して知っていることを質問しても、最初に来るのは『寿司』であり、安倍首相さえも知られていない。知っている出来事も第2次大戦と福島の原発事故だけで、その間約70年間のことはほとんど知られていない。あれほど激しかった貿易摩擦でさえも忘れている」と語りました。

 次に、工藤はアメリカ世論の中に日本の核武装に対して「賛成」する声が3割見られる背景を尋ねました。

 ストークス氏はまず、ピューリサーチが以前の調査で「日本はもっと地域の防衛のために貢献すべきか」と質問した際、多くの人が「Yes」と回答したことを振り返り、その背景には「自国の防衛には自国で責任を持て。アメリカはこれまで十分に守ってあげてきた」という意識があり、今回の調査でもそうした意識が出たと解説。

 それに加えて歴史認識もこの結果の要因として挙げました。そこでは、「中国や韓国とは異なり、アメリカは日本との過去の戦争を思い起こす機会が乏しく、多くの人にとって第2次世界大戦は過去のものとなっている。そもそも歴史観というものがなく、未来しか見ていないために、日本が軍備を増強したり、核武装をしたりしてもかつての軍国主義が復活するなどとは思っていないのだろう」と分析しました。

 これを受けて近藤氏は、日本人とアメリカ人の武力行使に対する認識の相違を指摘。日本人は徹底した平和主義志向で、極力軍事は避けようとするのに対し、アメリカ人は国際社会はアナーキーな構造であると認識しているため、問題解決のためには武力行使も辞さない意識が強く、特に、核武装に対する意識では、そうした意識差が顕著に表れるとしました。

IMG_3360.jpg

*なぜアメリカ人の4割は「北朝鮮の核保有を認めてもかまわない」と思っているのか

 続いて工藤は、訪米時の対話では「安全保障の専門家も、北朝鮮は事実としてすでに核保有しているのだから、その現実は認めた上で、どう放棄させるかを考えるべきという発想から『なぜ核保有を認めないのか』と言っていた」と振り返りつつ、アメリカ世論の中で北朝鮮の核保有を認めるという声が37.6%見られることについての背景をストークスに問いました。

 ストークス氏は、「平均的な一般人は質問されても、真剣に検討した上で回答などしないものだ」と世論調査の性質に触れつつ、この37.6%の人々も「それほど深く考えないで、聞かれたからそう回答しただけではないか」との見方を示しました。

 ただし、「感情的、直感的」には、北朝鮮が核を持っても構わないと思っているということには注意が必要であるとし、その背景にはアメリカ人のプラグマティックな物事の考え方があり、したがって「放棄させるべきだが、すでに核保有している以上、その現状は事実として認めるべきだ」という思考につながっていると解説しました。

 近藤氏はまず、アメリカ人は過去の経験から「いったん核保有を認めた上で、米ソのような核管理体制を敷いた方がよい」と考えているのかもしれないと推測。

 しかし同時に、「単に知識が浅い状態で答えてしまったのかもしれない」とし、「フォーカスグループで議論したら、核兵器不拡散条約(NPT)を勝手に脱退したような国の核保有を認めてよいはずがないということは容易に分かるはず」と語り、そうした予備知識抜きで行う世論調査の限界も指摘しました。

*北朝鮮問題について、トランプ大統領にかける一縷の望み

 北朝鮮情勢の今後の展開について話題が及ぶと、ストークス氏は今後実施されるかもしれない対話次第との見方を示しました。ストークス氏はトランプ大統領の危機に対する対応能力について多くのアメリカ国民が心許ないと思っているとする一方で、「ビジネスにおけるタフな交渉経験が活かされるかもしれない」と一縷の望みを託しました。

*世界各地で失墜するアメリカに対する信頼

 「世界の平和と安全に脅威をもたらす首脳」に関する設問において、日本世論では金正恩朝鮮労働党委員長(44.1%)よりもトランプ大統領(49.6%)を選択した回答が多かったことに関して、ストークス氏は「欧州の方がもっと酷い調査結果が出ている。大統領個人に対する信頼度とアメリカという国に対する信頼度はリンクしているが、独仏などではアメリカに対する信頼度が7割から8割落ちている。ジョージ・ブッシュ元大統領が8年かけて失った信頼をトランプ大統領は2カ月で失った」と語ると、会場からは思わず失笑が漏れました。

 近藤氏は、これまでアメリカは日本にとって唯一頼ることができる「ビッグブラザー」だったが、そのアメリカが「アメリカ・ファースト」を掲げ、突然頼れるかどうかわからない存在になってしまったことのショックがこの結果に反映されているとの見方を示しました。

 議論を受けて最後に工藤は、ウッドロー・ウィルソン大統領がパリ講和会議の時に、オープンディプロマシー、すなわち開かれた外交を提唱したが、それが実現できなかったことの背景として「結局世論というものを信じていないからだ」と指摘。その上で、「しかし、それでは駄目だ。世論が政治や外交に関心を持ち、参加していくという流れが外交を強くしていく。それが言論NPOの原点であり、この間、目指してきたことだ」と語り、今後もそのような世論に関する調査や議論を継続的に実施していくことの意欲を示し、1時間半に及ぶ議論を締めくくりました。

 言論NPOは北東アジアの平和構築に向けて、今後も様々な活動を行っていきます。

2018年2月28日

・教皇フランシスコの5年を振り返るシンポジウム‐弱者対応で評価、性的虐待対処に批判(CRUX)

( 2018.2.14 Crux 

 ワシントン発―教皇フランシスコの就任から5年間を振り返るカトリックの専門家のシンポジウムが13日から米ジョージタウン大学で始まり、弱者など大衆への司牧と現代世界における教会についての彼自身の姿勢について、教皇は高い評価を受けた。その一方で、教会内部での性的虐待問題による5年間の回顧についての基調講演で始まり、続いて、 the Initiative事務局長のジョン・カー氏の司会で、Catholic News Service編集長のグレグ・エランドソン氏、Catholic Charities of the Rio Grande Valley事務局長のシスター・ノーマ・ピメンテル、CNNの政治問題コメンテーターでUSATodayのコラムニスト、カーステン・パワーズ氏が意見を交換した。

 *中国政府に司教任命の権限は渡せない・・バチカン外交で

 スパダロ師は、フランシスコの世界各地への司牧訪問は教皇としての優先事項となり、特に注目されるのは「開いた傷口」で特徴づけられる地域を訪れたことだとし、フランシスコが「文明の衝突」の枠にはめることを拒否していることを強調したうえで、彼が言う「野戦病院外交」-慈しみの言葉で鼓舞される国家間の連帯の世界展望を基礎に置いている―を概観してみせた。

 「司牧訪問で教皇はご自分の手で開いた傷口に触れ、癒しの行為をされました」とし、具体例として、カイロ、ベツレヘム、韓国、ミャンマー、バングラデシュ、そして米国・メキシコ国境地域への訪問をあげた。

 現在バチカン外交で最も議論を呼んでいる問題として、中国との関係正常化を取り上げた。中国は、1948年に共産党政権が成立して以来、カトリック教会が教皇に忠誠を誓う「地下教会」と政府管理の「愛国天主協会」に分けられている。バチカンと中国の外交関係は1951年以降失われたが、中国国内の司教任命について両者の合意が間近に迫っている、とのうわさが広がっている。

 「批判的な人々は『バチカンが中国政府に叩頭(卑屈に追従)している』と言っているが、一方で、「宣教にとって歴史的な機会であり、より多くの中国人カトリック信徒が信仰の自由を高めるチャンス」と評価する人々もいる」「フランシスコは、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世と同じ道を歩んでいます。中国当局との対話を効果的に進める方途を見つけようとしているのです」と教皇の思いを説明した。

 さらに「中には、中国政府に司教任命の権限を与えることができないか、と問う人もいるが、それは完全な誤りです。バチカンが目指している合意には、そのような内容は含まれていない。誤った印象を与えます」と踏み込み、「カトリック教会の歴史は、司教任命について政治的な権力者との合意を見出す歴史でした」「いつくつかの西欧諸国との合意には今でも、司教任命についてその国の政府が拒否権をもつ例も存在する。世界の中でおよそ12の国が、政府が司教任命に同意あるいは推薦の条件を付けています」「ですから、大事なのは、原則や構造の面から果てしない論争を続けることではない。現実的な司牧的な打開策を見つけること、中国の実際の状況の中でカトリック信徒たちが信仰を生き、宣教活動を続けることができるようにすることです」とバチカンの対中国外交の狙いを説明した。

 そして、教皇フランシスコの下で、バチカンは「教皇が世界の声、求めていることを耳に入れることができるために、人々、国々とつなぐ”アンテナ”」の機能を果たしている、と語った。

*”周辺地域”への司牧

 教皇フランシスコの治世下で主要課題の一つは宣教の周辺地域への司牧活動だが、エランドソン氏は「教皇は、2013年に枢機卿たちから、教会の周りの世界とのかかわりを見直すように求められたのではないか、と思う」とし、教皇選出権を持つ枢機卿たちは、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世と”くびき”をともにした教皇二人のあとで「教会内部の問題にとらわれない、教会を世界の中に入っていくようにする、これまでとは異なったタイプの指導者を求めている。そして、フランシスコは「従来の在俗の人々にとっておそらくそうではなかったやり方で、カトリック教会を理にかなったもの」にした、と指摘。フランシスコが教皇になられた時の第一印象は、世界がホルヘ・マリオ・ベルグリオが何者か知ろうとしている中で、「イエスをじっと見ておられる人のようだ」というものだった、とも語った。

 司会のカー氏から「教皇のお気に入りの修道女」と持ち上げられたシスター・ピメンテルは、教皇が出合いに重きを置かれていることは、カトリック教会が「私たちは一つの家族」であることを思い起こさせる、と述べた。2015年の衛星通信による”バーチャル謁見”で教皇は彼女に語り掛け、米国・メキシコ国境で移民を受け入れている彼女の活動をたたえ、「あなたに感謝します。そして、あなたを通して、米国のそうした活動をされているすべての修道会のシスターの皆さんに感謝します。あなた方をとても愛しています」と呼び掛けていた。

 自分の活動に関して、シスターは「移民の方々との強い関係を作ることは、国境警備や役所の方々と同様に、とても重要です」「教皇が言われました。いくつもの橋を架けるように、『私たちは正しいことをしている』と」「私たちを支え、勇気づけ、話しかけてくださる教皇を通して、中南米の教会共同体の中で人々は教会の一部になっていることに喜びを感じています」と付け加えた。

* 聖職者による性的虐待、教会改革、そして抵抗の動き

 教皇は前向きな司牧の姿勢で高い評価を受ける一方で、聖職者による性的虐待問題は「いまだに続いており、完全に拭い去れない恐れがある」とパワーズ氏は指摘した。 先月のチリ訪問のあと、同国オソルノ教区のホアン・バロス司教の問題の対応を誤ったとする批判に、教皇は悩まされることになった。バロスは、性的虐待で有罪になったフェルナンド・カラディマ神父の”保護者”だった。神父の被害者たちはバロスが性的虐待を知っていて隠蔽したと訴え、これを受けて、バチカンは、性的虐待捜査の責任者であるマルタのチャールズ・シクルナ大司教をチリに派遣し、この問題の調査に当たらせている。

 パワーズ氏は「被害者の声を聴き、真剣に扱わねばなりません。何か選択肢があれば、その違いは被害者にゆだねるべきです」と述べた。エランドソン氏は「チリの問題は、いまだに性的虐待の危機に悩まされている多くの米国人カトリック教徒にとっての“PTSD(心的外傷後ストレス障害)”と同じだ」と指摘。「シクルナについて言えば、彼は捜査の実績を持っている。好ましい動きだが、十分ではない」「振舞の達人、慈しみと赦しの達人である教皇が個人的にこの問題に対応する方法を見つけるべきだと思う」と強調した。

 これとは別の問題として、エランドソン氏は、教皇フランシスコに対する抵抗が「家庭に関する使徒的勧告 Amoris Laetitia」、とくに離婚して再婚した人々に聖体拝領を慎重に、条件付きで認めるという方向を打ち出したことをめぐって起きていることを取り上げ、「この方向に懸念を持つ人々の中には、教皇を直接の対象とするのでなく、『本人が必ずしも意図していない所に行こうとするかも知れない教皇と連携しようとする人々』を対象に批判している人もいる」と指摘。カトリック教徒たちが「とても恐れるに違いない」というような「恐れを抱かせるような言葉」で、分裂を起こさせる恐れがある、と警告した。

 パワーズ氏は「教皇フランシスコを批判する人たちの多くは、自分たちの政治と神学を混同した保守的なカトリック教徒だ」と断言。「フランシスコは、米国の人々のすべての政治的な説得に挑戦すべき」であるとして、2015年に教皇が米議会下院で演説したことを例に挙げ、「もし本当のカトリック教徒なら、イデオロギーの信奉者にはならない。そしてカトリック教会はどちらの政党とも連携しない。そのようなことはあり得ない」と述べた。

 性的虐待をめぐる議論―教義上の問題や対応がどうなるか不確実さ―にもかかわらず、この日の午後の意見交換は、教皇フランシスコの「慈しみ」をもって終了した。エランドソン氏は「教皇フランシスコの治世の今後がどのようなものになろうとも、彼の『慈しみ』のメッセージがカトリック教会から失われることはない、と期待したい」とし、「教皇フランシスコについて私が一番好ましいと思っていることは、慈しみの特別聖年で具体的に表現された」「唯一の不満は、特別聖年が二年だったらよかったのに、ということだ」と締めくくった。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

 

2018年2月17日