・2018年聖書週間(11月18日から25日まで)のテーマは「聖性への招き」

 今年の聖書週間は11月18日から25日まで。テーマは「聖性への招き」です。

 ⇒をクリックしていただくと、教皇フランシスコが今春発表された、すべての信徒への聖性の招きに関する以下の使徒的勧告全文などをお読みになれます。もちろん無料です。ご参考になさってください。(「カトリック・あい)

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」(喜びなさい、大いに喜びなさい)⇒発表

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」全文日本語試訳⇒全文

・(解説)使徒的勧告の5つの要点(America-The Jesuit Review)⇒特集・解説

・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)⇒特集

・(解説)「聖性は、過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中に」(La Civilita Cattolica)⇒特集

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◎カトリック中央協議会「聖書に親しむ」

*巻頭言「聖性への小さな一歩」(カトリック大阪大司教区補佐司教・パウロ酒井俊弘)

 あるときシスターに「プロ野球選手の名前を知っていますか?」と尋ねたら、「イチローと大谷選手ぐらいは知っています」という答えが返ってきました。ニュースに登場するほどの選手なら当然知っているわけです。

 大谷選手のすごさは、投手と野手の二刀流で、ベーブルースを超えようかという結果を残しているところにあり、特別な選手といえます。

 ところで、「聖性を目指す」という目標は、特別な人たちだけのためではありません。

 「『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』(マタイ 5・48)…信者は、おのおのがキリストから受けたたまものに応じてこの完徳を獲得するように努力し、キリストの足跡に従い、その姿に似たものとなり、万事において父のみ心を行いながら、神の栄光と隣人への奉仕に全精力を注がなければならない」(『教会憲章』40)。

 「完全」と聞くと「自分には無理…」と考えるのは当然ですが、請われているのは「努力し…全精力を注ぐ」ことです。高い目標を持つということは、「夢を持つ」ことです。大谷選手は、「投手と野手の両方をする」という夢を持って日々の努力を続けたからこそ、今のような選手になったのです。

 今年 4 月に教皇フランシスコが発表された現代における聖性をテーマにした使徒的勧告『喜びに喜べ-現代世界における聖性』には、私たちがどのように聖性への道を歩むべきかが、具体的に示されています。

 「主があなたを招かれているこの聖性は、小さな行動を通して成長します。たとえば ある女性が買い物中に近所の人と会い話出して、陰口になったとします。でもその人は心の中で言います。『いけない。人のことを悪くいわないようにしないと』。これが聖性の一歩です。今度は家で子どもが、空想の話を聞いてほしがると、とても疲れてはいたものの、傍らに座ってじっと優しく話を聞いてあげます。これもまた聖性をもたらすもう一つのものです。

 そして不安に押しつぶされそうなとき、おとめマリアの愛を思ってロザリオを手に取り、信頼を込めて祈ります。これもまた聖性のもう一つの道です。そして今度は通りに出て、貧しい人に気づくと、立ち止まって優しく話をする。これもまた別の一歩です」(同勧告 16)

 教皇フランシスコは、イエス様自身の模範も示してくださっています。「小さなことにも心を配るようにと、イエスが弟子たちにどれほど促したかを覚えておきましょう。…明け方、弟子を待ちながら炭火を起こし、その上に魚を載せておくという、些細なこと」(同 144)。

 これは、ヨハネ福音書に書かれている復活後のご出現の場面です。何度も読んだ箇所ですが、「そうか、あの炭火と焼いた魚はイエス様が手ずから弟子たちのために用意されたものなのだ」と初めて気づかされました。

 聖書の中のイエス様のようになることが私たちの夢です。その夢の実現のために、聖書を読み、何ができるのかを黙想し、示されたことを実行に移しましょう。それこそが聖性への一歩だと信じて。

*「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(マリア会司祭・青木勲)

 今年のテーマ「聖性への招き」に合わせて選ばれた聖書の箇所は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ 4・4)です。現代社会に励ましと預言者的回心を呼びかける素晴らしい言葉です。

 励ましという意味は、今日の世相には政治・経済・国際関係、ひいては自然環境に至るまで不平不満をもらしたくなるような要素が多いからです。他方、預言者的回心への呼びかけは「主において」という言葉が持つ特異性にあります。

 それは世がもたらす喜びや幸せに迎合せず、真実と正義に基づく預言者的挑戦と、そこから生じる霊的喜びに根ざしているからです。神の似姿として創られた人間に託された聖性への招きは、すべての値打ちをキリストのうちに復元する「主における喜び」のメッセージだといえるでしょう。

 獄中書簡と呼ばれるフィリピ書は「喜びの書簡」とも呼ばれます。晩年のパウロは、信仰の遍歴を経て到達した霊的喜びの体験をフィリピの共同体と信徒に伝達しようとしています。イエスが世の罪を贖う「救い主」であり、復活したイエスこそがすべての人の「キリスト・主」(2・11)であると明示します。

 キリストのへりくだりの賛歌(2・6 〜 9)と主を知る知識と、その価値の故に「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしている」(3・8)と言い、朽ちるものから朽ちないものへと昇華した喜びを聖霊の業として示しています。4 章では、差し迫るキリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びと希望のうちに、毎日を生き抜くことを諭しています。「主」が頭となる時、すべてが一新され、主における喜びが完成するからです。

 「主において喜びなさい」について、ローマ書からも預言者的な示唆を受けることができます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません・・・」(ローマ 12・2)と。経験から推察して、物を所有したり、勝負に勝ったり、立身出世することに幸せを感じます。しかし「〜を持つ」「〜に勝つ」「〜になる」喜びを過大評価すると、他人を「物」に還元し、犯罪行為または反社会的行為に向かわせることになります。

 残念なことに、大企業や有名大学までがその渦中にあります。この世の価値観を絶対視する誘惑の結果です。

 神のみ旨の実現を第一義とする預言者的生き方、つまり世にあって、世のものではない生き方は、特別な人だけの特典なのでしょうか。教皇フランシスコは、聖性に向かう霊的回心は、すべての人に例外なく与えられていると強調しています。その理由は、神の似姿として創造された人間には存在の最初の瞬間から、神の聖性と神の生命の充満による喜びを享受するよう方向付けられているからです。人祖が罪を犯した結果、識別する能力は弱められましたが、神はご自分の愛の証しとして、独り子イエスを世に派遣し、十字架の死と復活を通して決定的な救済策を与えてくださいました。

 パウロは復活したキリストと出会うことによって目が開かれ、自己中心的な生き方から、キリストために生命を捧げるまでの回心の恵みを受けました。「主キリス・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8・39)という信仰の喜びをパウロは披歴しています。これはパウロの慢心から出た言葉ではなく、すべて人を招くs信仰告白です。

 聖母マリアも神の前に小さな者であることを自覚しつつ、飢えている人、弱い人への優しさと気配りに徹しました。他方、傲りと権力志向者に向かっては、たくましい預言者の姿でマニフィカトの賛歌において警告しています。聖母マリアは正義と平和と喜びの国のために挺身する人々と共にいつもおられるのです。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

*みことばを深めるーみことばによって聖なる人に変えられる(大分教区司祭・ 山下敦)

 さまざまな場所で聖書について話す機会をいただきますが、聖書に初めて触れられた方々の感想をよく伺います。「聖書は難しい」という意見はいつもあるものの、「面白い」、「興味をひかれた」などの好印象を持たれる人の方が多いようです。

 聖書は、キリスト教の信仰を持たない人にも、実に多様な形、方法で強い影響を与えています。毎年、世界で一番売れている本は聖書です。まさに、聖書が神のみことばだということでしょう。

 どのように聖書を読めばいいのか、その学び方や研究方法は、聖書が旧約 46 書、新約 27 書を数える膨大なものであるがゆえ、さまざまです。聖書を読みたいと思ってはいても、それに困難さを感じている人や、アプローチの仕方で迷っている方々のために、以下を提案したいと思います。

 聖書全体の通読、つまり、旧約聖書の最初のページから読み進めていくことは、大きな意味があり、とてもよいことだと思いますが、難解な場所にくると続かなくなってしまうものです。事実、特に旧約には難しい部分があります。ですから、好きな場所から読み始めていくのは実践的方法の一つです。

 また、その重要性からいっても、福音書から読み始めるのが、聖書に少しでも触れようと思っている人がなさったらよいことだと思います。一般的に旧約よりもわかりやすい新約の通読を、一度だけではなく、最後までたどり着いたらまた最初からやり直し、数回繰り返せば、新約聖書の全体像がつかめてきます。好きな言葉や疑問点などが明確になってきたところで、聖書解釈には絶対的に必要な旧約の方に入っていくとか、または、講座や研究会などに出席することも、この頃には大きな可能性の一つになっているはずです。

 当たり前のことですが、とにかく読むということが大事です。聖書が本棚の飾り物になってしまわないように。

 教皇フランシスコは新しい使徒的勧告において、すべての人を聖性に招いておられます。「多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自自分の道において、父自身が完全にもっている聖性に達するよう主から招かれている」(『喜びに喜べー現代世界における聖性』10、第二バチカン公会議『教会憲章』11 引用)のです。

 すべての人に影響を与えることのできる聖書は、そのための絶対的手段の一つです。わたしたち人間にとって真の喜びは、お金や物、または夢や理想の実現によって得られるのではなく、神が望まれる聖なる人になることによって完成されていきます。わたしたちがみな、みことばによって神の聖なる人に変えられていきますように。

2018年11月11日

・大学紛争から半世紀-カトリックの精神が生きた!-上智大学に見る当時と教訓

 欧米、日本など先進国の大学が紛争の渦に巻き込まれたのは今から半世紀前だ。日本のカトリック大学を代表する上智大学も例外ではなかった。だが、他の多くの大学と決定的に異なっていたのは、外部の過激派勢力が紛争を事実上主導し、破壊的な動きに出たのに対して、大学そして学生の本来の使命を自覚する”良識派学生”たちとカトリック精神を体現する理事長、学長が力を合わせ、大学を荒廃から守ったことだった。

 世界中の政治、経済、社会、そして大学において、「人の劣化」が進む今、当時の大学紛争の高まりの中で大学と学生が「学内の公正な報道」を掲げて創刊した上智大学の大学新聞「上智新聞」創刊50年の2015年12月に発行された記念誌に記録された、半世紀前の上智大学紛争を巡る学生、大学当局の動きから、「あの時」を想起し、多くの方が、改めて教訓を引き出すことを期待したい。

(「カトリック・あい」高橋哲夫・南條俊二)

<半世紀前の大学紛争とは>

  1968年,フランスの学生による”5月革命”に代表される世界的な大学紛争の嵐は、日本にも及んだ。紛争の原因や様相は多様であり,学問,教育研究のあり方,大学の自治への問いかけから,社会体制の変革,国家権力の打倒を目指すなどさまざまだった。東京大学で始まった全共闘運動は1968年から燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、ピーク時には35都道府県176校に及んだ。

 しかし、過激派のセクト同士の暴力的な対立が激化、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延し、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍での12名のリンチ殺人事件などが発覚したことで、学生運動は急速にその支持を失っていく。さらに1972年の沖縄返還などにより日本人反米感情が薄れ、日本社会が豊かになるにつれ、学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていったが、多くの大学で学生たちと大学当局、教職員の信頼関係が失われ、優秀な教員が失望して大学を去るなど、荒廃は、校舎の破壊など物理的なものに留まらず、精神的な分野にも及び、後遺症が長く残った。

 そうした中で、物理的な傷を負いながらも、速やかな立ち直りを見せたのが、上智大学だった。

 以下に、上智新聞創刊50周年記念誌「ともに さらなる高みへ-大学紛争の中で生まれ上智発展を支えた半世紀の記録」から、上智大学紛争の発生からその後を、振り返ってみる。

 

<上智新聞に見る上智大学学園紛争の記録>

*1968年6月6日付け・初の号外(手書き)・・1968年11月の全共闘による校舎占拠につながった警察車構内立ち入り、学生負傷事件発生で、初の号外(手書き)を、事件発生の翌日に発行、学生、教職員に注意を促した。

*1968年6月13日付け・号外(手書き)第2号・・警察車立ち入り事件をきっかけに全共闘系学生が組織した「全学共闘会議」について学生会、体育会が認めず、学生内部で対立が明確となり、学内の情勢が緊迫化していることを伝えた。

*1968年11月9日付け・初のタブロイド版号外・・「全共闘1、2、4号館占拠」・・全共闘学生が学外の過激派学生集団と組んで進める大学紛争は、ついに圧倒的多数の上智の学生の反対の中で、”ゲバ棒”で、座り込み学生をけちらして3つの校舎を占拠、授業は不能に。「正当性のないバリケードを直ちに撤去」するよう呼びかけを行った。

*1968年11月14日付け・タブロイド版号外、学長辞任、学生会長選出を速報・・「大泉学長辞任、守屋新学長就任、学生会長選挙は和泉君が対立候補なし無投票で新会長に」全共闘の1、3、4号館封鎖という緊迫した中で、大泉孝学長が12日開かれた緊急理事で辞任、後任の学長として守屋美賀雄理工学部長が就任した・・守屋学長は、就任式で、学生、教職員2千名を前に「学生と教職員の相違を結集して、難局を切り抜けよう」と訴えたが、全共闘は、学長交代は問題解決にならない、と非難のデモを行った、などと伝えた。学内の緊迫した状況を速報で客観的に学生、教職員に伝え、正確な情報の共有に大きな役割を果たしている。

*1969年1月1日付け・全共闘の「少数の暴力」糾弾、バリケード排除を訴え・・1面トップが「代議員会 バリケード排除案、通過 学生会 14日の実力排除を訴え」1面準トップに「生活課健康管理室などを破壊 全共闘、深夜に暴れる」「全共闘 2号館にピケ、授業妨害」などを客観的にニュース報道する一方、

*1月1日付けでは、さらに1面に「論説」を掲載し、次のように上智大学の全学生、教職員に訴えた。

 「11月7日に共闘会議がバリケードを構築してから、すでに1か月以上、多くの学生の積極的な学園変革の努力、バリケード解除要求をよそに、彼らはかたくなに5項目要求大衆団交を主張し続けている。その姿は、彼らの誇りとする『大学の革命』ではもはやなく、少数の暴力をもってする『反革命』でしかない。我々は、共闘会議指導者諸君に、政治目標完遂のためにこの学園を利用し、我々に重大な犠牲を強要している事に強く抗議するとともに・・・彼らにとって真に革命的な運動を再構築していくよう訴える。

 ・・レーニンでさえも、『・・労働者の多数が、完全に革命の必要を知覚しており、そのためには生死を賭ける覚悟があること』を革命の条件として掲げている。現在の上智・・まず革命-暴力を使っての革命-の条件はないし、・・彼らが『誇り』とし、『道義性』『正当性』の唯一の拠り所たる『思想性』についても、実に見事な表現により、自らの手で否定し去っているのである。全共闘の一角をなす革マル系のパンフによれば『イデオロギー闘争の不在ともいえるこの(上智における)闘争内容の空洞化は・・思想的不毛性を端的に自己暴露したものといわねばならない』と述べているのだ。

 ・・このように、方法において、思想性において、全共闘のバリケード闘争は正当性を欠くわけだが、さらにそれを決定的にしているのは、学生要覧改正全学投票の3,366名、バリケード撤去の要求署名の2千有余名、数回にわたって行われた、撤去要求大デモンストレーションに参加した延べ6千名以上の学生の声(注:当時の上智大学の学生総数は7000人程度だった)であり、要覧改正の実現であり、和泉新学生会によって行われつつある・・具体的な着実な学園改革の運動である。

 ・・生活課、医務室、教授館玄関の暴力的破壊、11月7日の時点と全く変わる事のない硬直化したスローガンと『産学協調路線粉砕』の主張・・もはや学園変革運動など一かけらも残っていない・・学生、教職員個々の権利を侵す行為として存在しなくなったのである。バリケードを自らの手で解除し、自らの行為を全学に真摯に自己批判し、学園の民主的変革の運動に加わること、これが今、全共闘諸君に残された最良の道であろう。

 ・・バリケードが解除された時点で、事態をここまで悪化させたことに対し、全学生、教職員、大学当局の真摯な自己批判と、・・各人が学園変革の努力を着実に続けていくことを、はっきりと確認する必要がある、と訴えたい」(上智新聞・論説企画委員長 南條俊二)

<一般紙の報道から>

【上智大学で三校舎占拠】1968年11月8日付け 毎日新聞

 上智大学では7日夜から全学共闘会議の学生約150人が同大一号館、三号館、四号館の三校舎を占拠、バリケードを築いた。学生要覧(学則)にある政治活動禁止条項の撤廃を要求して7月におこなった闘争に対し、大学側が8月23日、学生13人を退・停学処分したことに抗議、大衆団交を要求していたが、7日午後、大学がこれを拒否したため学生側が封鎖に出た。学生会系の学生は8日午後、同大構内のメーンストリートでバリケード反対の集会を開いた。

【全学協議会つくる 学生参加の要求を承認】1968年11月22日付け 毎日新聞

 紛争の続く上智大学の守屋美賀雄学長、ビタワ理事長ほか各学部長は21日午後、約2千人の学生と全学集会を開き、学生側の作成した学生要覧(学則)の改正案を承認した。これにより大学側は全学協議機関の設立による学生の部分的運営参加、学生による課外活動の自主管理など解決の具体策を始めてはっきり打出し、紛争解決への意欲を見せた。

 この日、開会と同時に全学共闘会議の学生が「学生会不承認、ギマン的改正案反対」を叫んでつめかけ、反スト派の学生ともみあったため話合いは一時中断したが、守屋学長は再び演壇に登り「学生要覧は学生側の要求どおり改正を認める。全学協議機関の具体的内容は学生との話合いで決める。処分の白紙撤回はできないが、再調査のための機関をつくる」など大学側の立場を説明、全学共闘会議にも全学集会への参加を呼びかけた。

 しかし占拠を続ける全学共闘会議、この改正案を拒否、全学集会もボイコットしており、解決までにはまだ時間がかかりそうだ。学生会と大学当局との全学集会、そして大学側による学生会の学生要覧(学則)改正案の承認とバリケード解除に向けた動きが続くが、全共闘はバリケード封鎖を続ける。

【上智大 六百人衝突 バリケード排除めぐり】1968年12月14日付け 読売新聞

 上智大学で、14日正午すぎ、バリケードを実力で排除しようとする一般学生と全共闘の学生が構内広場で衝突、一般学生の一人が角材で頭を割られるなどケガ人数人が出た。この日、午前11時から同広場で一般学生約3千人が集会を開き、「正午までに封鎖を解除しなければ実力で排除する」と決議。

 全共闘へ通告したが応じなかったため、午後0時15分、ヘルメットを被った50人の学生を先頭に一般学生4,5百人が、角材で武装する全共闘約100人のピケへ突っ込み、こぜりあいを続けている。

【上智大 六か月の“閉鎖”発表 警官隊が出動 占拠排除 五十二人逮捕】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊一面トップ

 この朝、警官隊立ち入りに対し、占拠している反帝学評派を中心とする全学共闘会議派80人は、1号館から激しい投石を浴びせて抵抗、機動隊も催涙ガス弾百発を撃ち込むなど、約30分間にわたって〝攻防戦〟が続けられたが、結局、同7時20分、抵抗した52人全員が建造物侵入、公務執行妨害現行犯で逮捕された。このさい機動隊員3人と学生1人がケガをした。同大学では、事後対策として、当日は休講、あす22日から冬季休暇にはいるほか、向こう6か月間大学を閉鎖することを決めた。

 同大学が、大学閉鎖という思い切った措置をとったのは、警官隊を導入して紛争が解決した大学はこれまで、国際基督教大学と佐賀大学の2例しかなく、事後対策を誤れば、たとえ授業を再開しても、再びスト派によって校舎が占拠され、東大のような事態を招き、入試などに影響が出るものと判断したためとみられている。・・上智大学が全国でも例のない6か月間閉鎖という強硬策をきめたのは、校舎が封鎖され、ヘルメット姿の学生が白昼でも学内で角材を持ち歩くなどの異常事態が続いているのに、一般学生が不自然を感じなくなったのを恐れたため。

【突入の機動隊に〝声援〟 上智大 一般学生、寮の窓から】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊社会面トップ

 夜が白々と明けたばかりの午前6時半、守屋学長を先頭に教授陣がまず裏門から学内にはいり、『諸君、やむを得ず警官隊を導入します。直ちに退去してください』とメガホンで、校舎占拠中の学生に呼びかけた。ところが、校舎から飛び出してきた約20人の学生たちにたちまち取り囲まれ、有無をいう間もなく学外へ追いやられてしまった。学生たちはそのまま裏門にすわり込んでピケを張った。同学長は憤然としたおももちで、『そこをどきたまえ、退去したまえ』と声を張り上げる。『うるせー、引っこめ』という学生のば声。続いて機動隊がどっと学生を取り囲み、たちまち学外へ引きずり出した。

 裏門わきの学生寮は、眠りを破られた一般学生が、寮から顔を出し、成り行きを見守っていたが、機動隊が学内に突入するとどっと拍手が起きた。こんな現象はこれまでのあらゆる大学紛争ではみられない光景だった。『機動隊がんばれ』『スト派をやっちまえ』という一般学生〝声援〟を背に受けて、機動隊はスト派が占拠している1 3 4号館へ殺到。スト派学生は窓を破って投石の準備。たちまち石の雨。それに混じって硫酸らしい薬品のはいった茶色のビンも飛ぶ。表門からも機動隊と警備車が突入、校舎は包囲された。学生の投石が激しいため、午前7時半、各隊に催涙ガス弾発射が指令され、学生がたてこもる部屋はみる間に白煙に包まれて、投石も散発的になった。

 警官死亡事故にこりた警視庁の“宝刀”のガス攻めが、ここでも抜かれた。この間げきを縫って、機動隊が校舎に突入、学生を1号館の一室に追いつめ、つぎつぎ逮捕、約30分にわたる攻防戦が終わった。8時ごろになると、登校してきた学生が次第にふえはじめた。スト派シンパや民青系の学生約百人は「機動隊帰れ」のシュプレヒコールを繰り返したが、すぐ学外へ押し出された。大学当局が雇った作業員たちが、門を閉鎖したため、裏門付近はたちまち学生たちで埋まってしまった・・。

 機動隊の導入による占拠学生排除の報に、午前中からぞくぞくと学生が登校、グラウンドのあちらこちらで輪をつくった。機動隊導入反対のジグザグデモを続ける〝活動家〟たちを横目で見ながら、話題はどこも機動隊=閉鎖という解決方法の是非。「あらゆる手段をつくした上で、機動隊導入はやむを得ない」といい切る賛成論、「もう少しほかに手段はなかったか」と反対論。グラウンドの意見は二つにわかれて、真剣な討論が続いた…。

 

<当事者の証言>

[上智大学はカトリック精神の”上智方式”で紛争を乗り切った]紛争時の上智大学理事長・ヨゼフ・ピタウ大司教(故人)

 上智大学が、日本中、いや世界中で燃え始めた大学紛争に巻き込まれたのです。

 理事長に就任して間もない1968年初夏のことでした。学生の課外活動部室で盗難事件があり、構内に警察車が入って捜査したのに対して、多くの大学で反体制の闘争を繰り広げていた全学共闘会議(以下全共闘)系の学生が「官憲導入反対」を叫んで、構内でデモを繰り返し、講義棟を占拠し、上智でも大学紛争が始まったのです。彼らの掲げる標語は「日米安保粉砕」「ベトナム反戦」など、特定の政治団体の政策と連動するようになり、他大学の全共闘系学生も呼び込んで、政治化の様相を強めていきました。

*学長交代、全共闘系学生による講義棟占拠、そして機動隊の封鎖解除

 講義棟の占拠は秋学期に入っても続き、さらに大学の中心部にあたる建物へと占拠が拡大する中で、高齢で体調の優れない大泉孝・学長が辞表を出される事態になりました。突然のことで当惑しましたが、大学は危機的な状況にあり、ポストを空席にしておくわけにはいきません。理工学部長として大泉学長や学生部長に協力し、事態解決に努力を続けておられた守屋美賀雄先生に、学長就任をお願いし、奥さまともご相談の上、お受けいただきました。

 学長就任式は1968年11月13日、構内のメインストリートで、全共闘系の学生たちのデモと罵声が渦巻く異常な状況の中で行われましたが、守屋新学長は、多くの良識派学生たちに見守られながら、大学改革を学生、教職員とともに進めることで事態の根本的解決を図る決意を示されました。最後に「前進、前進」と力強く呼びかけられ、私たちに勇気と希望を与えてくださったのです。

 私と守屋学長の大学を守り、育てようとする努力、学生会長(他大学の自治会長に相当)や代議員会議長など学生の協力を得て、大学改革が進められ、大部分の学生が支持していない講義棟占拠を解くようにとの説得も学生会を中心に続けられました。

 しかし、いったんは自主解除の方向に傾いた占拠学生の内部で対立が深刻化し、さらに、学生会が全学生の8割を超える6千人以上の参加を得て実施した自主解除を求めるデモに、全共闘系学生が占拠中の建物の屋上から石やアンモニア水を投げつけ無防備の学生たちを傷つけるに至って自主解除を断念。12月21日、やむなく警視庁にお願いして、機動隊による封鎖解除に踏み切りました。

 機動隊の導入には、教員の中に難色を示す意見もありましたが、大学構内といえども暴力を放置することはできません。民主主義のルールによって警察に排除をお願いすることに何のためらいもありませんでした。このような判断に、ハーバード大学で政治学を学んだことも役に立ちました。

 ・・平和的な解決に努め、それが無理となった段階で、大学当局の要請で機動隊が出動し、学生も教職員も機動隊員も誰一人傷つくことなく、封鎖が解除され、大学に平和が戻った―。このような対応は、マスコミなどでも「上智方式」として好意的に受け止められ、その後の他大学の紛争への対応に少なからぬ影響を与えました。

*3か月半の閉鎖を経て講義再開

 封鎖が解除されてから3か月半の間、大学構内を全面閉鎖して臨時休業とし、破壊された講義棟などの修復、大学運営の立て直しの期間にしましたが、守屋学長は、休業中に多くの委員会を組織して改革案を検討し、学生の意見を入れることを確約しました。入学試験も卒業式も会場は通常どおりとはいきませんでしたが、無事行われ、閉鎖開始から108日たった1969年4月7日の入学式後、学生会の要請を受ける形で、閉鎖が解除されました。

 全共闘系学生による大学紛争は東京大学など都内の大学から、近畿圏はじめ全国に広がって行きましたが、上智大学での運動は徐々に消滅し、構内は平静さを取り戻していきました。全国規模に及んだ大学紛争で、多くの大学では、教員が学内の現状に失望して大学を去ったり、学生が中途退学したりするケースが続出しましたが、上智大学ではそのようなケースはほとんどなかった。

*荒廃避けられた裏に良識派学生の働き‥背景にカトリック精神が生きた

 上智大学が後に長く残るような打撃を受けず、速やかに立ち直り、順調な発展を続けることができたのは、「自分たちの愛する学問の府を特定の学生集団による破壊から守らねばならない」と決意し、大きな犠牲を払いながら活動を続けた、良識派の学生たちの存在があったからでした。

 彼らは、私や守屋学長がポストにつく以前から、学内に徐々に強まってきた反大学当局、反体制の政治的で破壊的な動きに危機感を持ち、全共闘系の学生の集団に対抗して、大学を学問の府として守り、育てることを目的としたグループを、私の教え子だった上智新聞編集長の南條君などが中心になって作っていったのです。

 そして、全学生の意思決定機関である代議員会に圧倒的多数を送り、さらに他大学では自治会と言われていた学生会の会長選挙で全学生のリーダーにふさわしい人物として、和泉法夫君(前ソフィア会会長)を候補に立てて戦い、勝利した。守屋学長や私たちと力を合わせ、紛争を乗り越え、新しい学問の府にふさわしい新生上智大学を実現していった。

 このような学生の主体的な動きは、ほかの大学にはほとんど見られない、日本全国で起きた大学紛争の中で特筆すべきものでした。そして、この動きの背景に、上智大学がカトリックの大学であり、イエズス会士で司祭である教員たちの多くが、日頃から学生たちに対して、ひとりの人間としての付き合いを心がけてきたこと、それによって教員と学生、学生同士の間で人間的な絆が育っていたことも、大きかったのではないでしょうか。

*「上智新聞」が果たした大学の歴史に残る役割

 もう一つ、他の大学との際立った違いは、大学新聞が、学生や教職員に適切な判断と対応を可能にするための公正な情報を提供し続けたことでした。私が上智大学に赴任した当時の学内新聞は「上智大学新聞」一紙でした。

 三菱商事の社長、会長を歴任し、同窓会であるソフィア会長を長くお勤めになった諸橋晋六さん(故人)たちが創刊し、当時20年以上の歴史をもつ学生新聞でしたが、全共闘系の学生たちの〝宣伝紙〟のようになっていて、反大学当局、反体制の動きをあおる一方的な記事ばかりが目立ちました。

 学内ではそれ以外に定期的に活字情報を提供する手段はなく、「このままでは学生や教職員が誤解と相互不信を掻き立てられ、バラバラになってしまう」。そのような懸念を抱いた元上智大学新聞編集長で当時上智大学職員だった赤羽孝久さんや先の南條君など有志学生、それに元理事長のクラウス・ルーメル教授が後ろ盾になって、1965年秋、学生、教職員など全上智人のための公正、客観を旨とする学内新聞「上智新聞」を創刊したのです。

 後で聞いた話では、創刊当初、全共闘系学生たちに新聞が奪われて燃やされたり、「大学当局の回し者」などと批判され、口には出せないような苦労を強いられたようです。そうした圧力に屈することなく、立派に公正な学内報道機関の役割を果たし続け、良識派学生や教職員を結集して紛争を乗り越え、大学を新たな発展につなげることに貢献してくれました。(2012年12月26日・上智大学出版発行「ヨゼフ・ピタウ自伝・イタリアの島から日本へ、そして世界へ」より引用)

[「上智方式」は大学当局と学生、教職員、上智新聞の努力の成果]大学紛争時の学生会会長・和泉法夫(元ソフィア会会長)

 上智大学紛争を知る教職員が他界していく中、当時学生会長として渦中にあった者として、紛争時の重要な出来事についてその背景を含めて、述べさせていただきます。

 それは、1968年12月上智大学紛争を終結させたピタウ理事長と守屋美賀雄学長(いずれも故人)による機動隊導入・ロックアウトの決断です。当時、警視庁警備部の警備第一課長だった佐々淳行氏は後に、「上智大学の機動隊導入の決断がその後の東大をはじめとした全国の大学の学園紛争を収束させた」と語り、このことから、「上智方式」が、弱腰だった全国の大学当局者の決断につながった、という見方になりました。

 しかし、実際には、機動隊導入決断に至る過程に、他大学とは「似て非なるもの」があったのです。それは、問題解決に最善を尽くそうとする学生、大学首脳、教員、職員の並々ならぬ努力でした。

 上智大学紛争は、当時の旧態依然とした大学の規則(学生要覧等)に対して学生の不満が蓄積し、全国の大学紛争の風潮と重なって、「全共闘」と称する一部過激派学生による校舎のバリケード封鎖につながっていきました。

 他大学と大きく違っていたのは、本学では一般学生(セクトや民青のような政治グループに属さない学生)の間に自治意識が高く、全学科の代議員で構成する代議員会が機能して活発な活動がされていたことです。全学生の直接投票による学生会長選挙が存在したことも一般学生の参画を促し、大学当局も学生会を学生の代表として認め、カリキュラム改革はじめ様々な改革を共同で進めることが可能となりました。

 大学の規則に対しては、学生が提起した学生要覧改正案を全学生投票の結果、圧倒的多数で可決し、大学当局がこれを受け入れるという成果もあげ、上智大学の学生と教職員の共同作業で大学改革は進んでいました。

 当時の上智新聞も、公正な報道で重要な役割を演じました。上智新聞が創刊される前には学生新聞として「上智大学新聞」が存在していましたが、セクトの広報紙に成り下がり、それが上智新聞創刊のきっかけになった。上智新聞は、一般学生にとって学内の動きや様々な主張を知ることができる唯一の公正なメディアとして学生の問題意識の醸成に大きく貢献したのです。

 代議員会では、非合法にバリケードを構築した全共闘に対して「バリケード封鎖は、大多数の学生の支持の無い、正当性を欠いたものであり、学生の活動に重大な損害を与えている」として、全共闘に対し、ただちに撤去を求める決議をし、さらに全共闘が決議を無視して占拠を続けたため、「学生の手によるバリケード排除」を決議して行動に移しました。

 しかし、撤去しようとした代議員や一般学生に対して、全共闘の学生たちが投石などで妨害して身の安全が確保できなくなり、代議員会で機動隊導入議案までも提起される事態に発展。全共闘と一般学生の間で一触即発の危機が深まる状況の下で、当時の守屋学長、ピタウ理事長が「学生同士の流血を避け、大学を本来の学問の府に戻す」ため、機動隊導入という苦渋の決断をされたのです。機動隊導入の朝、大学構内にあった学生寮の学生たちから機動隊員に大きな拍手が送られたのは、こうした経緯があったからでした。

 「似て非なるもの」と申し上げたのは、当時、私たちの大学では、他大学と違って、一般学生の大学自治への積極的参画とリーダーシップがあった。それが、ロックアウト解除、大学改革の推進、そして正常化に向かうことができた大きな要因だったのです。

 それは、上智大学が「キリスト教ヒューマニズムの精神に基づく教育」を建学の精神として掲げ、民主主義の大切さと「自ら学ぶ」という意識もった学生を育てようとする教職員の努力、学生会や代議員会、そして公正なメディアとしての上智新聞の、時としては身の危険も顧みない、誠実な対応の結果とも言えるでしょう。

以上

 

 

2018年11月5日

・「カトリック教育に必要なのは地球市民を育てる『希望の教育』だ」-”若者”シノドスを前に(Civilita Cattolica)

(Civilita Cattolica 2018年7月号 José Mesa, SJ)

 [ 世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会が「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに10月に開かれるが、以下の記事で、総会に先立ってこのほど発表された準備文書について考察する。新しい世代が福音を体験することのできる場となるために、カトリック教育は刷新と革新という骨の折れる仕事をしている。カトリックの学校群は「時のしるし」を識別するよう求められている。準備文書は、デジタルの世界で作り上げられた「現代のアレオパゴス*」について言及し、現代世界のグローバリゼーションを注視し、若者たちが地球市民としての備えをし、地球全体と全人類の幸せのための責任を引き受けることができるように、求めている。=筆者は、イエズス会の初等、中等教育担当の国際事務局長]

 「カトリック・あい」注・アレオパゴス=アテネのアクロポリス西側のアレオパゴスの丘のこと。転じて古代ギリシャで、その場所で開かれていた元老院や最高裁判所の役割を果たしていた会議を指す。また聖パウロがアテネ市民に説教した場所ともされている。

*はじめに

 カトリック教会が今秋、全世界の司教たちが集まるシノドスを開く。目的は、「若者たちが、人生と愛…を満ち足りたものとするよう呼ばれていることを認識し、受け入れるように、導くにはどうしたらいいのか、現代にあって、福音を宣べ伝える最も効果的な方法は何か、を突き止める」ことにある。かつては年配の世代のものとされてきた多くの分野で若者たちが主導権を取るようになってきた今の世の中で、これは重要な作業だ。

 デジタル時代の今、何年か前には想像できなかった仕方で、社会に強い影響を与える若い世代が急激に台頭している。フェイスブック、そして他の多くのマスメディア、ソーシャルネットワークが、20代、30代の人々によって構築されている。彼らのような新しい起業家たちが、最近の歴史における最も重要な変化に確かに貢献している。若い学生たちが地球上の多くの分野で、新しいマルチメディア、ソーシャルネットワークを使って、社会的、文化的な革命を刺激し、維持しているのを、私たちは目の当たりにしている。

 これは、疑いもなく、教会の識別が求められる新たな社会現象だ。なぜなら、「若者に聞くことで、教会はふたたび現代の世界で私たちに話しかける神の声を聞くだろう」から。現実は、若者たちが、その創造性、社会活動、そして想像力を通して、世界を形作りつつある、のだ。このようなすべての中に主のメッセージを見出すことは、教会にとってよいことだ。

 秋のシノドスの準備文書は、若者たちを「16歳から29歳までの男女」と定義している。このカトリック教育についての論考も、この年齢区分をもとにしているが、多くの箇所で、それよりも低年齢に対象を広げている。

*カトリック教育:「来て、見なさい」

 カトリック教会は、過去何世紀にもわたって、その使命を果たすにあたって、市民生活に関与する方法として、学校群の幅広いネットワークを構築して‐「教育と学校、大学教育は常に、カトリック教会の市民社会に対する貢献の中心に置かれていた」。カトリック校は社会のすべてのレベルで奉仕してきたが、多くの場合、他の組織や機関が対象としない階層集団に教育を提供してきたー能力の優れた子供たち、ホームレスや恵まれない子供たち、少数民族などだ。

 他の多くのキリスト教会と宗教関係の組織も学校を経営しているが、学校数や国の数からみて、カトリック教会が最大かつ最も幅広い学校のネットワークを展開している、と言っていいだろう。そのうえ、カトリック教育は、多くの場合、最も質の高い教育を提供している、との評価を受けている。カトリック以外の宗教を背景に持つ親たち、あるいは宗教に関心をもたない親さえも、カトリックの学校を高い水準と際立った質の教育を提供する機関とみなしている。

 このような意味で、カトリック学校は、世界の若者たちの声を聴き、彼らを知り、ともに歩むことができるという点で、有利な立場にあるー若者文化についての彼らの経験と知識、熱望と挑戦は、若者についての教会の理解を富ませ、福音を新たな世代に伝える教会の努力の大切な要素となりうるものだ。

 カトリック教育は、何百万の若者たちが耳にする「来て、見よ」の唯一の招き、年上の世代にとっても招き、であるかもしれない。人々は、教会から離れ、あるいは教会に不満を抱いているとしても、自分の子供たちを育てる環境として、カトリック校を選ぶ傾向にある。

*カトリック教育:刷新と革新への課題

 今回のシノドスはまた、カトリック教育の課題についての議論も想定しているー新しい世界が福音を経験できる場となるような刷新と革新という課題だ。カトリック教育は、これまで以上に、新世代と意思疎通を図ることを志向する価値観の具現化が求められている。教皇パウロ6世が言われたように若い人々は「教える人」よりも「証しする人」を求めているのだ。

 カトリック学校にとって、福音宣教の最良の方法は、奉仕、共生、尊敬、そして自律を「説教する」のではなく「実践する」ような学内環境を作ることだ。教師と学校は、シノドスの討議要綱にあるように、他者が見習うことのできる―「そばにいて、信頼でき、協調し、誠実… 共感し支援し、力づけ、限界を知りつつ助けることができるが、相手に負い目を感じさせない」ような人物、共同体でなければならない。

 実例によって教えることは、今、これまで以上に重要になっている。学生たちの共同体社会のモデルを作ることのできるカトリック学校は、人を変え、思いやりのある共同体社会を作ることに強い関心をもっていても、机上の講義に懐疑的になる冷笑的な環境ににさらされている世代の若者たちに、多大な貢献をするだろう。この意味で、カトリック教育は、新たなメッセージを聴いたり考えたりすることを難しくするプロパガンダに絶えずさらされている若者たちの耳に教会のメッセージが届くようにする「預言者の声」となることが可能だ。

 だがまた、自分が得た才能を発揮し、自分らしく生きることができる共同体社会の実現も、多くの人が求めるところだ。その意味で「カトリック教育は福音宣教の重要な部分を担っているう…文化、人間関係、価値、そして教育そのものを福音化することだ。そして、信仰の過程にある人が主を求めるのを助けることができる」のである。

 このような課題に創造的に対応するために、カトリック教育には、刷新と革新の道を、教育する学生たち、仕える教会と関係をもって歩むことが求められる。シノドスの準備文書を発表した際に、教皇フランシスコが若者たちに向けて語った言葉は、カトリック教育を考える際、傾聴に値する―「大胆な選択を提起される聖霊の声を聴くのを恐れてはなりません!」。カトリックの学校は若者たちが信仰を深め、召命の識別をすることのできる理想的な場なのだ。

 しかし、カトリック学校が本当にそうなるためには、たとえ過去に成功を収めたとしても、現在の地位に満足したり、これまでと同じことを繰り返してはならない。教皇フランシスコは、教育に関する国際会議の閉会式で次のように語っている―「皆さんが、若者を教育するという気高い仕事をなさっているのをうれしく思います。それと同時に、このように申し上げたい。『新しいことに取り組むのを恐れてはいけない。私たちの教育は、変化しつつある世代に対して行われるものです。ですから、教育に携わる方々、学校制度も変わるように求められているのです」と。

 学校は、若者たちにとって役に立つ存在だ―彼らの声を聴き、それをもとに提供するものを刷新する。学校ができるのは、識別について教えることだけだ―とくに、「歴史の中で、聖霊の臨在と行いを認識するように導く時のしるしを読む」という意味での識別である。

 そうした新たなしるしのいくつかは、シノドスの討議要綱のなかで解明されている―不確実性、流動性、脆弱性を高めながら急激に変化する世界が、さまざまなレベルで展開される―失業、搾取、難民と移民の増大―科学技術が中心だが、意味を失った世界―帰属を求める人々―深刻な環境の危機に見舞われている世界。教皇フランシスコは、回勅Laudato Si でこう語られているー「私たちが直面しているのは、環境とその他という二つの別々の危機ではありません。社会的、環境的なものが一緒になった、一つの複合的な危機なのです」。

 もう一つの重要な時のしるしは、次のようなものだー「今日の若者世代は、彼らの親や教師とは異なる世界に生きています…若者たちの願望、要求、感覚、他人との接し方も、同じように変化しています」。こうしたしるしのすべてが、カトリック教育が自らに真剣に問いかけること求めている―このような新たなしるしに、どのように応えることができるのか?こうした新たな展開に照らして、これまでのカトリック教育を特徴づけていた円熟した教育をどのようにして保持できるのか?こうしたすべてにわたって、聖霊は私たちをどのように導かれるのか?

 カトリックの教育者の中には、学校の独自性が弱められるのを心配して、そうした問いを発するのを恐れる人がいる。だが、実際はそれと正反対だ。カトリック学校が時のしるしを無視するなら、「聖霊に反して」進む危険を冒すことになる。

*学校におけるカトリックの独自性と使命

 カトリック学校の中に、新たな流れに適合するためにカトリックとしての独自性を弱めたり、放棄したりする学校があるのは事実だ。だが、適合と識別は違うものだ。教会は、真の識別―強力なカトリックの独自性と使命を中心に置いた学校を求める識別―を必要としている。

「私たちの使命は独自性を表現し、それが使命を保証するのです…カトリックの学校と大学が存在する理由は、変わっていません…というよりも、むしろ、私たちの使命を理解し、独自性と使命に向けた創造的な忠誠の姿勢をもってそれを遂行することの必要性に、変わりはありません。今日、教育が提起する数多くの課題に適切に対応しようとすることも必要」なのだ。

 カトリック学校において、新世代の若者たちに聴き、対応するために、カトリック学校の運営における複数の文化の間の諸現実をを認識する取り組みに関して、「独り言モデル」から「対話モデル」に移行することが必要となる。

 「独り言の学校」は「硬直的な真実を主張する『閉じられた筋書き』として解釈」されるカトリックの独自性を中心に置く―「他の宗教と人生の哲学への受容性」が少しもない「カトリックの強制収容所」の一種だ。 この種のモデルでは、識別を励まし、教える環境にするのは難しいだろう―すべてのことがすでに決まっている硬直的な脈絡で運営される傾向があるからだ。

 このモデルはまた、近代的社会への純粋に反動的な対応を補強することになる。第二バチカン公会議が「キリスト教的教育に関する宣言」で言明しているように、カトリックの教育は「教会と人間社会がともに利するような対話を進めるため」に重要である。この対話は、他の見方を間違ったもの、真実でないものとするような「独り言の学校」で育むのは難しい。

 このことについて、当時枢機卿だったホルヘ・マリオ・ベルゴリオ-現在の教皇フランシスコ―は2004年に教育関係の集まりに送ったメッセージで、次のように述べていた―「私たちの学校は、すべての答えを知っているキリスト教徒の覇権主義的な軍団を作ろうと熱心になるべきではありません。あらゆる提案を出し合う場になるべきです。そうした場で、福音の光の中で、個人的な探求が正当に励まされ、言葉の壁によって妨げられることはありません。そのような壁は実際にとても弱く、すぐに修復しようもなく壊れてしまいます。挑戦すべき課題はもっと大きい―深さを求め、人生に注意を払うように、偶像から自由になるように求めます」。

 その一方で、「対話の学校」は「最大限のキリスト教的独自性と最大限の連帯」を、他の諸々の視点をもって結びつける。「カトリックのメッセージで最優先される選択は、対話を促すことです。哲学的な様々なものの見方の間での対話は、カトリックのための優先される選択を反映している。多元性の中で、ある者はカトリック教徒であろうとし、またある者は多元性を生きる」。このようなカトリック学校のモデルは、多様性を尊重しつつ、共同体を欲する若い世代によりよく適合するものだ。「リスクを冒しなさい!リスクを冒しなさい!リスクを冒さない者は歩くことをしません」。

 カトリック教育は、学生たちを奮い立たせないなら、福音宣教の使命を果たすことができない。使命を果たすために、カトリック教育求められるのは、他の物の見方を尊重する環境、カトリック信徒の経験を聴き、体験できる環境を作ることだ。「対話の学校」は、次のような課題に対応することができる。その課題とは「イエスが示された模範に倣って、すべての人を受け入れる共同体を作ることだ。イエスは、ユダヤ人とサマリア人と、ギリシャ文化の異教徒とローマの支配者とも、彼ら一人一人の強い熱意に共感し、対話することができたのである」。

 この対話モデルは、学校が、福音宣教の潜在力を弱める他の二つのモデルを乗り越えることを可能にする。二つとは PollefeytとBouwensが「色彩に欠けるアプローチ」と「色彩豊かなアプローチ」と呼ぶものだ。前者では、宗教を「私的なこと」とみなし、学校は中立で、宗教について浅薄な倫理的、個人的な見方をとる。後者は、カトリックの独自性が薄まり、「他の色」になるほどに、宗教的な多様性を受け入れ、学校の持つカトリック的特徴はなおざりにされ、「福音を宣べ伝えたり、宣教教育をする余地は、ほとんど、ないしは全くない」。

*福音的情熱の刷新、教育者の養成

 2014年、バチカンの教育省は、第二バチカン公会議の「キリスト教的教育に関する宣言」の50周年と使徒憲章「カトリック大学について」の公布25周年を記念する会議のための準備文書をまとめた。タイトルは「今日と明日の教育―情熱を新たにする」だ。このようなタイトル、文書、そして教育省がこうした今日的課題について準備した会議は、今秋開く「若者シノドス」のために極めて適切なものだ。

 若者たちの声を聴き、彼らに福音の豊かさと教会の愛に満ちた対応を示すために、カトリック教育が教育へい情熱を取り戻し、その重要性を再確認し、新しい世代にイエス・キリストを告げ知らせ続けねばならない。それには、こうした教育を新しい世代にもたらすことのできる教育者を作る必要がある。

カトリック教育は、「資源を持っているから続いてきた」のではなく、主義主張、明確な計画、他者を取り込む能力をもつ教育者をそろえていたからであり、教会と社会に存在の場をもっていたからだ。話をすることができ、彼ら一人一人の強い熱意に入っていったのだ」。

 カトリック教育は「資源を持っているから続いてきた」のではなく、主義主張、明確な計画、他者を取り込む能力をもつ教育者をそろえていたからであり、教会と社会に存在の場をもっていたからだ。結局のところ、優れた発想の源として、高い資質、主義主張、そして使命を持っていたのだ。

 若者シノドスの準備書面はカトリックの教育者として具体的な姿を提示している―学生たちが成長し、能力を発揮し、することができ、挑戦を受けることができるような環境を作ることのできる教師、管理運営者;学生たちの声を聴き、教会が彼らのためにもっているメッセ―ジを具体化できる教育者;信仰、識別、召命模範となる教育者、だ。

 信仰は、準備書面が宣べているように、「イエスがなさること、として物事を見る」ことを意味する。あるいは、教皇フランシスコがチリ訪問の際、若者たちに語られたように、イエスとつながるパスワードを知っている人、となることだ―「キリストは私の所で何をなさるでしょうか?これはパスワード、私たちの心に充電し、私たちの信仰に点火し、私たちの眼に消え去ることのない火花を散らす電源です」。

 こうして、私たちは、カトリックの教育者は証人となる必要がある、という考えに戻ってくる―言葉だけでなく、生きざまをもって、問いかけることが必要とされているのだ。

 カトリックの学校は成功し、共同体の感覚を作り上げる学校として認識されてきた。この重要な側面は、従来よりもずっと強調される必要がある。「教育に携わる共同体として、(カトリックの学校は)人間関係を育成することに力を注いできた。教員、父兄、そして運営管理者を共通の価値観と共通の教育事業で一致させてきた。

 自分がその一員で、敬意を払われ、「世話をしてもらい、歓迎されていると学生たちが感じるような共同体を作ることは、他の何よりもよく、実際に次のようなメッセージを伝えることができる。

 「若者たちに寄り添うためには、これまで持っていた枠組みを超え、彼らのいる場所で会い、彼らの生活の時間とペースに合わせ、真剣に対応する必要があります。また、若者たちが自分たちが生きている現実の中で理解したい、個人的な歴史を作る日々の試みの中で、自分たちの人生の意味を意識的に探究する中で、言葉や行為の形で受け取ったメッセージを活用したい、と希望するようにされる必要があります」。

 学校を外からくる人たちを歓迎し、安心できる共同体とすることは、教会が若者たちと真に歩み、シノドスの準備書面が示す司牧のスタイル―「外に出て」「見て」「呼び掛ける」という―を採ることを可能にする。

 「外に出る学校」となることで、学生たちが「人々が束縛されていると感じる枠組みを捨てて」参加し、自分たちの学校を積極的に形作ることができるようになる。

 「見る学校」は学生たちに教えるものを持っているいるだけでなく、必要とされていることを聴き、彼らに、そして彼らの「喜び、希望、悲しみ、不安」に応える時間をとり、配慮する、「羊のにおいをかぎ分ける」学校だ。

 「呼び掛ける学校」は「外に出て、見る」の論理に倣う。学生たちを人生の持つ大きな意味、、大義への献身、「使い捨ての文化」ー現代社会の消費者主義、破壊的な競争至上ーを超えた満たされた人生に目覚めさせるからだ。

 このような共同体の環境の中で、若い世代に「来て、見なさい」というイエスの招待状を渡すのは、教会にとって、たやすいことになるだろう。そうして、若者たちは、「神が彼らの心に置かれた夢―自由の夢、喜びの夢、より良い未来の夢ー変革の主役となる熱い希望」を見ることができるだろう。そうしてカトリックの学校は、学生たちと教育者たちが教会と彼らの信仰を深める経験のできる、福音化した共同体となるのだ。

 たしかに、カトリックの学校は、まさに「学校」でなければならない。すなわち、高度な学術的な質をもって、しかっかりとした教育を提供する、学生たちが責任能力を備えた大人となり、自分たちの生き方をつかむことが出来るような学校であることが必要だ。 これは、これまで述べてきたことと矛盾しない。がトリックの学校にとって必要なのは、しっかりと作られ、社会に受け入れられるような基準に沿って、質の高い教育を提供することだ。

  全人教育は、こうした基準以上のものを達成せねばならない。それが、親たちが子供をカトリックの学校に入れる理由-学校が提供する高い基準と質の教育のためだ。そのことが「問題」だろうか?むしろ「機会」である。親たち、子供たちが、これまで述べてきたような学校を見つけ、福音に心と命を開かせる招きの声を聴くなら、学術的な優秀さを越えて、彼らの生活と彼らが住む社会を変えるのに欠かすことのできない教育を、本当に受けることが出来るだろう。おそらく、これが、このような機会がなければ、教会や福音について聞くことがなかっただろう多くの家族に、教会が接することのできる道なのだ。

*”現代のアレオパゴス”、世界的な文脈、世界的な機会、世界的なネットワーク

 若者シノドスの準備文書は、デジタル社会が次世代に向けた”現代のアレオパゴス”を作り、それがもたらす新しい機会と危険に対応するよう、教会に迫っている、とし、「現代人は、世界のある場所で起きたことが(遠く離れた)他の場所に影響を与え、苦しみと悲惨にあふれたこの世に全面的な安心を誰も感じない、という経験を繰り返ししている」と指摘している。

 この文書はまた、若者たちが教会にこうした新しい世界をどの様に進んでいくかを、教えることすらしていると強調している。教育者が考えるべき重要な点だ。多くの教育関係者が論じているように、今日の教育者たちと学校は、逆説的な、新たな挑戦を受けている。彼らの教育の対象となる世代は、彼らに先んじてデジタル社会に浸かり、その大部分が新社会で容易に意思疎通し、行き来する”デジタル・マニア”となっているからだ。

 数年前、インドの貧しい地方を旅したことがある。出かける前に、厳しく、長い旅となるのを覚悟するように言われ、実際そうだったのだが、現地に着いて、初めに目にしたのは、スマホをいじっている子供たちの姿だった。世界の中でも貧しい部類に入る地域に住んでいるのとは関係なく、デジタルの世界への手立てを持ち、繋がっていたのだ。同じ旅の途中で立ち寄った学校では、女学生から、皆がもっといいデジタル教育を受けたいと言っています、と告げられた。「デジタルが新しい世界。私たちはその世界の一員となりたいのです」。

 同じことを、アフリカ、中南米、アジア太平洋地域でも体験した。若い世代は、真っ盛りの新しいデジタルの世界に属したがっている。まさに、これは現代世界の新たなアレオパゴスだ。そして、この新しい現実が、これまで、学生たちを無知から抜け出させるという想定をもって、ただ「教える」ことに安住してきた学校にとって、大きな挑戦になっているのだ。

 実際、準備文書が指摘するように、「若い人々は、自分たちを”不利な立場の階層””保護を受ける社会集団”あるいは”教会の司牧や公的政策の受動的な受益者”とは見ていない」。「教会自身が、若い人々から学ぶように求められている」からこそ、「外に出る学校」が必要とされている。

 準備文書はまた、グローバリゼーションによって、若い人々が、自分たちの地域に根を張りながら、世界的に同質化する傾向が進んでいる、としている。カトリック教育は、こうした新たな傾向に対応し、若い世代が地域レベルでも、地球的なレベルでも活動的な市民になるように準備させることが必要であり、カトリックの学校はすでに、学生たちの市民としての権利と義務を果たすための、社会に責任をもって関与するための準備を、彼らにさせている。

 だが、この新しいデジタルの世界、地球的な世界が求めているのは、地球全体と人類の幸せのために責任を果たす「地球市民」となるように、若い世代を準備させることだ。教皇フランシスコは、環境回勅Laudato Siで次のように述べておられる―「人類、生命、社会、そして私たちと自然との関わり合いについて新たな考え方を進める努力をしないと、私たちの教育に関する努力は不十分で、効果の薄いものになります」と。

 地球環境の危機は、我々が直面している地球的な諸課題の見本展示と言える―その課題は、地球的な関与と対応を必要としていうる。カトリックの教育は、この分野で、真にカトリック的、普遍的、地球的な独特の可能性をもっている。この世界には、地球的で新世代に影響を与える社会組織がいくつもあるが、カトリックに優る可能性を持つ社会組織を見つけるのは難しいだろう。

 カトリック教会とカトリック教育は、多様性への対応と本物の共同体を作ることについて豊富な経験を持っている。それゆえ、かけがえのない地球環境を守るために、教皇フランシスコが求められている枠組みの中で、地球市民の権利と義務を巡る協議に重要な貢献をすることが可能だ-「私たちは、次の世代の人々、今育ちつつある子供たちに、何を残したいと思いますか?この世界で、人生の目的は何ですか?私たちの仕事、努力の目標は何ですか?」。

 かけがえのない地球環境の枠組みの中に、社会正義、環境、連帯、そして貧しい人々のために優先すべき選択に関する問いは、十分に認識されている。回勅Laudato Siはすでに、世俗社会で多くの関心を持たれており、現在の深刻な環境問題、倫理的、社会的危機の解決策を求める親たち、若者たちを惹きつける地球市民の権利・義務のプログラムを作成する共通の地盤になる可能性がある。そしてカトリックの教育には、この分野で違いがある―福音のメッセージを教会外も含む多くの人々にもたらすユニークな立場にある-「『関係』のグローバリゼーションは、『連帯』のグローバリゼーションでもあるのです」。

 もし、カトリックの教育が世界的な流れと真剣に向き合うなら、ネットワークを組んで共に活動することを学ぶように諸学校に求めるだろう。多くのがトリック校は現在、孤立し、あるいは国際的、福音的な潜在力が限定された”小さなかけら”の状態で活動している。教会共同体が運営するカトリック校は普通、ネットワークの外にあるカトリック校とは共に活動していない。同じことが、教区外にある別の教区の学校についても言える。このようなばらばらな体制の中で、福音的潜在力がたくさん失われている。

 確かに、例外もあり、カトリック校の中には強力な全国的ネットワークや連盟に加わっているところもある。だが、大半は、本来の潜在力を十分に発揮しているとも、国際的、地球的対応が必要な数多くの課題に応えているとも、言い難い状態にある。世代、社会のグローバル化が進む中で、我々は今だに、地域レベルで活動し、思考しているのだ。

 バチカンの教育省が提唱する兄弟愛に満ちた人間主義は、地球市民の権利・義務についてのカトリック教育の考え方の全体的な枠組みを作るのに役立つ。人間主義について、シノドスの準備文書の中で、教育省は「教育の中心に『人』を置く、生きた共同体を補完する、共通の定めに互いに依存し、結びつけられた親密な関係の枠組み、と定義している。これが、兄弟愛に満ちた人間主義なのだ。

 地球市民の権利・義務を果たすために、このような観点から、我々の地球的、普遍的な結びつき、そして全人類への共通の責任を認識するように、学生たちとその家族を促す教育者が求められる。狂信、民族至上主義、絶望と暴力に憑りつかれた世界の中で、地球市民の権利・義務の教育は、連帯を基礎に置き、「共通善が個別の善と実質的につながり、人としての、そして自分たちが人間であることについての完全な自覚とともに知識の中身を変えていく」ような希望の教育となるのだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(La Civilita Cattolica はイエズス会が発行する1850年創刊の世界最古とされる権威のあるカトリック宗教・文化専門誌です。バチカン国務省が直接に校閲し、出版・公表前に承諾を受ける唯一の雑誌です(Wikipediaによる)。「カトリック・あい」は同誌の責任者の承認を得て、記事の翻訳・転載をしています=La Civilita Cattolica is published by Sosiety of Jesus, founded in 1850年, oldest pediodical publisshing magazine in the world. It is the only one to be directly revised by the Secretariat of State of the Holy See and to receive its approval before being published.(from Wikipidia). [カトリック・あいCatholic-i ,under permission of its publisher , translate and publish its articles)

2018年8月29日

・言論NPO・10月の「平和宣言」に向け日中安全保障対話(言論NPO)

「第3回日中安全保障対話」報告

 会議の冒頭、工藤は「日中平和友好条約40周年の節目を迎える今年、改めて条約の今日的意義をどのように考えればいいのか」と問題提起。さらに、「日中平和友好条約で『日中は発展と平和に厳粛な責任をもつ』とされているが、両国はその責任を果たしてこなかった」と指摘しました。そして、日中それぞれが考える平和秩序とは何か、非公開の対話の場で、忌憚のない意見交換を行うと同時に、「第14回 東京-北京フォーラム」(10月13日~15日・於:東京)で提案予定の「平和宣言」に向けて、具体的で本音の議論を呼びかけました。

今回の対話は、全て非公開で実施されたため、詳細な議論については触れませんが、「東アジアの平和秩序とその実現に向けた日中の責任」と「北朝鮮の完全な非核化の実現と朝鮮半島の平和プロセス」をテーマに、2日間にわたり建設的な議論が行われました。

「日中安全保障対話」を振り返って~

参加者:高原明生(東京大学大学院法学政治学研究科教授) 西正典(元防衛事務次官) 宮本雄二(宮本アジア研究所 代表、元駐中国大使)司会者:工藤泰志(言論NPO代表)

工藤:今年は日中平和友好条約の40周年という節目の年になりますが、10月に東京で「第14回 東京-北京フォーラム」を開催します。このフォーラムの中で、私たちは、5年前の「不戦の誓い」に続く、「平和宣言」を合意することを考えています。

そのフォーラムの開催を前に、今日、北京で日中両国の安全保障の専門家が集まり、「日中安全保障対話」を行いました。議論自体は非公開ですが、かなり本気の意見交換ができたのではないかと思います。皆さんは対話に参加してみて手応えはどうでしたか。

10月の「平和宣言」に向けて、建設的な議論ができた中国との対話

高原:今、政府間では日中友好のムードを出していますが、今回の対話も総じて中国側も積極的で建設的な議論をしようというムードであって、その意味で大変よい議論ができたと思います。印象に残ったのは、彼らは今年、いわゆる第五の政治文書を出すことを意識していたことです。それを念頭に、私たちが進める平和宣言に向け、多くのヒントも得られました。

宮本:私が一番強い印象を受けたのは、平和は何があっても守らないといけない、ということが参加全員から伝わってきたことです。これは日中両国間の基礎であり、ここで何か歪むようだと日中関係が危ないと思いましたが、特に安全保障に直接携わる方々も含めてそれを感じられ、力強いバックアップとなりました。やはり今年が日中平和友好条約40周年と記念すべき年だ、ということを認識していますね。平和は大事だという基礎の下で、次の段階へ日中が進んでいけるという強い意志を感じました。

西:お二方がおっしゃった通りですが、さらに加えると、やはり台湾問題などをはじめ微妙な問題についての反応が今までより厳しい。つまり私の個人的な感覚では、中国が内外共に追い詰められていることを、参加者が何かしら感じているのではないかと感じました。その結果、何かデリケートな話題に触れられると、そこに向かって総力的に反論されるのです。明日の議論でも、もう一度傷口に塩を塗るようなことをして、何を気にしているかを見えればという感想です。

工藤:今回の会議には、中国から人民解放軍の主要幹部の経験者、それから海洋の安全保障の関係者が参加し、日本側も日本の安全保障を代表する専門家が集まりました。私もみなさんの意見と同じ感じを持ったと同時に、そろそろ日中両国は東アジアに平和をつくるための基礎となる土台を、皆で考えようという日本の提案に対して、中国側も乗ってきたという印象を受けました。

一方で、西さんがおっしゃった通り、対話の圧倒的な不足からか、お互いが議論しなければならないことでの認識ギャップも大きいなと感じました。非公式の会議のために本音で議論し合ったことで、本音の意識の違いも明らかになったとも言えます。私たちはこの機会に、新しい平和構築に向けて動きを始めたいのですが、まだまだコミュニケーションギャップが存在し、お互いの信頼醸成の難しさが出ています。それを乗り越えるためにも、こうした本音レベルの継続的な対話は今後も必要だと思います。

相互理解の壁は大きいが、だからこそ壁をぶち破るプロセスを速めることが重要

高原:今までに積み重なってきた誤解の数々はものすごく高い山になって重みがあって、それを打ち払いたいが、なかなか一朝一夕にはそれができない。だから岩山に穴を打ち抜くように、少しずつやっていくしかない感覚を新たに感じました。

工藤:やはりコミュニケーションチャネルをもっと制度化してもよいのですが、問題点を整理しながらかなり頻繁にやらないと、と思っています。ただ、実際の安全保障関係者間に平和を作りたい、という目的が共有されている意味は、大きいものだと思います。

宮本:やはり大きなコンセプトなど、そうしたそもそものところの認識が違っている可能性が高いです。ですから、安全ならば安全の中身はどうなのか、それについてさらに検討しなければお互い理解できません。特に、覇権など様々な定義についても同じです。そうした本当にプロセスを議論していく上でも、相互理解の壁は非常に大きいです。

しかし大きいからこそ、本気で取り組まないとならない。大きいまま放っておくと、本当に壁にぶつかってしまいます。今の米中関係の対立、あるいは日米同盟関係があって中国が存在しているという構図の中ではなおさらです。そういう障害があるからこそ、努力を倍加することでプロセスを早めることが必要だと思いました。

工藤:北東アジアには平和メカニズムがない中で、日米と中国が競い合う構図です。そういうものを踏まえながら、将来的には平和という秩序をつくろうという私たちの提案に関して、中国の反応は極めて積極的でした。

日本は米中両国の間に立って、全く違うロジックのギャップを埋める役割を果たせる

西:それについては非常に簡単なことなのですが、中国自身が追い詰められているという構図がある。作家の高橋和巳が若かりし頃に、アメリカと中国という全く違うロジックの間に立つ日本は、米中のギャップを埋めるような役割、つまり通訳となることが必要だと言って亡くなりました。安全保障や軍事のロジックが全く違う2カ国の間を埋めようと思うと、日本にはできることがたくさんある。それを日本がやらなければ、北東アジアの平和のシステム化ということはできないのではないかと思います。

今回の議論でも、台湾問題などに敏感に反応するところを見ると自分たちがつらいのだろうと。そして最後の夕食のときに議論していて、アメリカとの関係がかなり切迫し出していることを感じました。問題はトランプ政権下のアメリカの行動にありますが、同時に中国も積み上げてしまった自己本位の行動が、どれだけ問題になっているか、ということがあります。どうやったらその溝を埋めることができるか、日本の仕事はそこにあるのだと思います。

工藤:今年は日中平和友好条約40周年です。その条約の今日的意義はどのようにお考えですか、。

 

40周年という節目の年は、先人の知恵を見直し、変化する情勢に併せて文言を洗いなおしてみる良い機会

高原:さっき話題に出た「覇権」の意味とも絡みますが、「覇」を永遠に唱えないということで合意しているということが眼目かと思います。中国語の辞書によると、「覇権」とは実力を基礎として相手に自分の意志を押し付けたり、相手をコントロールすることです。これ永遠に唱えないということが、日中関係の一番の基礎であり出発点だということのその意義は今日でも大きい。それを今、改めて確認する必要があります。

今日の議論の感じですと、普通の中国のエリートたちはその点について異議はないと考えています。言っていることとやっていることが違う、という意見は色々あるかと思いますが、少なくともそういう観念上理念上は異議がないと考えている。あとはどう、それを実行していくか。これまで40年間、それを約束してきたわけですから、それにもとるような行為が見られるのであれば、その原因はどこにあるのか、どうすればそれを防げるのか、といったことを考える40周年というのはいい機会だと思います。

工藤:中国はそういうことを考えることになると思いますか。

高原:さっき西さんも言われていますが、今、中国はアメリカにゴリゴリやられています。自分がやられたくないことを、他の国にするな、ということです。

宮本:福田康夫元総理が読売新聞のインタビューで答えた通り、福田赳夫元総理の考え方というのは、日中共同声明でできた日中関係は木の橋であるということでした。それを日中条約という形で鉄の橋にし、日中関係の基礎を固めたという認識でした。その中に控えているのが平和でありそして協力関係であり、そういうものを経て、最後に友好的な関係を作ろうというのが条約の中に入っているわけです。我々はそういう風に先輩に作ってもらったのに、私自身も外務省で仕事してきて、日中条約の一文一文を見て仕事したか、という反省があります。先人がお造りになったものを十分に踏まえてこなかったという意識がありますから、40周年にやっと体現することが、条約での両国の義務なのだと思い直すよい機会だと思います。

工藤:今回中国と合意した世論調査の中に、日中条約の条文を入れて、今日的に日中の関係で重要だと思うことは何か、を日中国民に選んでもらおうと思っています。そしてこの条約は本当に守られているのか、の検証も必要です。そうした作業を行うのが、今日の課題だと思います。
西さんどうでしょうか。

西:お二方が本当に正鵠を得たことをおっしゃっていたので補足します。
条約締結当時、反覇権のことを議論したときには、明らかに対象はソ連でした。今日東アジアで反覇権の議論をしたときは、怨敵に上がってくるのはまさに中国になってしまう。今までは色々な事情で中国になびいていた国が、それこそ皆、中国に向かって反対の狼煙をあげる風になってきています。多分、中国は、自身がそういうターゲットになっていることをわかっていないし、わかる人は多分ゼロだと思います。そうした時、我々はアジアの国で中国と対抗できるほとんど唯一の立場から何を言おうか、そしてアメリカに対しても物を言える政権として何を言うべきか。究極は米中の激突を避けなければならない。そうするとその間に立って働くのは日本の立場だし、現時点に置き換えて平和条約の文言は意味が変質している、もしくは変質するリスクがあることをうまく言えるかどうか。正直自信はないが、試してみる価値はあるかもしれません。

宮本:今、西さんが言われた問題提起について、やはりルールに基づくグローバルガバナンスは、いかに状況が変わろうと、全ての国にとって一番よい結果をもたらすということを中国に学んでもらう良い機会だと思います。だからルールに基づくガバナンスがあれば、アメリカとの関係はもっと軽くなる。アメリカも未来永劫、今のような力関係を続けられません。相対的に間違いなくアメリカの力は落ちているわけですから、ルールに基づいたガバナンスというのはアメリカにとってもいいことなのです。ですから、そこを日本は声を大にして主張していくべきだと思います。本当は今からやろうではないか、と米中両国に説得すべきです。ヨーロッパは我々をサポートしてくれるだろうと思いますから、そういう形で動いていく状況になったのではないかという気がします。

工藤:日中条約35周年のときは尖閣問題で、まさに日本と中国の外交は対決というムードで、日中外交はほとんど機能していませんでした。そのとき私たちの「東京-北京フォーラム」では「不戦の誓い」を合意しました。その5年後の今年、私たちは「平和宣言」をしたいと考えています。日中平和友好条約の今日的意味を踏まえながら、私もその文章をつくるために必死に考えているところですが、皆さんは今回、「平和宣言」を出すとしたらどういうことを盛り込むべきでしょうか。

10月の「東京-北京フォーラム」で提案する「平和宣言」に何を盛り込むべきか

高原:やはり問題は常に何かしらあるわけですから、問題に直面した際に、決して手を出さないという自制が大事だと思います。それを実現するために何が必要か、ということについてはまた考えなければならないのですが、やはり自制、手を出さないということが重要です。

工藤:それは、紛争はどんな紛争でも平和的解決をするという文脈と同じですか。それを改めて確認するべきということですか。

高原:そうです。もう少し具体的に平和的な手段で解決するとはどういうことなのか。とにかくまずは自制です。それからルール、法も大事にしなければならないということになります。そしてルールを守るためには何が必要かと話は続いていきます。

宮本:若干偏った意見だと思われるかもしれませんが、ちょっと東洋的な面を出したいですね。私自身、中国をやっているからだと言われそうですが、実は色々な国際的なルールと本質的に同じことを我々の言葉はもっているのです。それから国際的なルールにないことでも、我々は言葉としてもっているということを出していきたい。もちろん国連憲章にも寛容という言葉が入っていますが、しかし寛容をもっと真剣に価値観として積極的にやってきたのは東洋という感じもしますよね。だからそういうものが新しい平和宣言の中に入っていれば、日中関係で深みが出て来るかなと思います。

例えば、習近平さんが「親誠恵擁(しんせいけいよう)」という言葉を述べました。こういう態度で周辺国との関係をつくらなければいけない、と彼は言うわけです。しかし、これだけではわからないのです。漢字一字ずつを取って組み合わせた言葉ですから、おそらく英語訳、フランス語訳は苦労するだろうと思います。そこをもう少し国際的に通用する解釈を伴って、その言葉を使う必要があるということです。

工藤:日本語だったらどう言いますか。

宮本:もう一文字ずつ加えないと意味が伝わらないと思います。「和親、誠実、互恵、抱擁」などです。そうすれば日本人にも通じると思います。

工藤:高原さん、今の話に別の形で提案はないでしょうか。

高原:昔、小泉内閣の時に文化外交に関する懇談会というのがあって、そこでの一つのアジェンダは、当時、東アジア共同体ということが構想されていた頃で、それを支える規範は何か、理念は何かということが一つの課題でした。チーム皆で考えて、最後の結論は「和」と「共生」という言葉でした。ただ気をつけなければならないのは、「和」という言葉は日本語にも中国語にもありますが、意味は違います。儒教の「和」はヒエラルキカルな秩序も含むもの。

西:服従に近いですね。

高原:日本の「和」はそうではなくて、対等な関係を前提とした「和」ですから、そういう意味を込めて、人権と本当は言いたいのですが、確かに宮本大使がおっしゃったようにちょっとな、と思う人もいるのです。そういう気持ちも込めて…何か今ピンとくる言葉については、今はいいのが浮かびません。

工藤:高原さんの言われた人権というのは何ですか。

高原:結局天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、というものですね。

工藤:平等ではだめなのですか。

高原:「平等」でもいいのですが、平等も言葉の定義をはっきりさせないと、中国人の理解する「平等」と日本人が理解する「平等」では意味が違うかもしれない。平和共存五原則の中に、「互恵平等」というのはあるわけですが、今、中国が作ろうとしている、どうも一部の中国人が考えているあるべき東アジアの国際関係は、必ずしも対等な関係をベースにしていなく、ヒエラルキカルな秩序が構想されている感じがします。

日中両国が思い描く言葉の定義のギャップを埋めることはできるのか

宮本:中国人のロジックからすると「覇権」というのは反対するものとなります。この「覇権」が何かということについて、日中で中身を固めることによって、中国が思っているものとは違う覇権を我々が持ってくることによって、結局中国が、それをできないようにしてしまう。ですから中国の言葉を使いつつ、しかし中身についてはアジアの他の国々も踏まえながら定義していく。結果的に中国を縛ることになる。「覇権」に反対してもらわないと困りますが、ヒエラルキーで上から下というのも困ります。しかし他方、西洋的なものを正面からもっていっても彼らは受け入れないということもあるので、そこの真ん中のものとして、彼らの言葉を用いつつ意味は国際的なものに変えていくというものが一つの手ではないでしょうか。

工藤:運命共同体という言葉には対等という考えはなく、上から目線なのですか。

西:対等という考えはありません。ランキングがいくつもあり、それを潰したようなイメージのものが運命共同体。そうではなく、「和」というときには、「和む=平等である」というニュアンスが出てくるので全然違うと思います。

高原:今の話には全く賛成なのですが、問題は「覇道」でなければ「王道」ならば良いのかというもう一つの問題があります。中国はおそらく今の意識では、覇道はだめだが王道ならばよいという意見をもっています。なぜならば、我々は大きいから王道でよいのではという意見があります。しかしやはり、東アジアの多くの民族が望む21世紀の東アジアの秩序はそういうことではなく、小さくても大きくても皆が納得のできる、発言権が同等にある、あらゆる問題について発言力があるということではなくとも、しかしお互いが人権をもって、小さいからといって見下ろされて、まったく発言権までない世界は誰も望んでいないということが、今の中国にわかっているかということが懸念です。

宮本:王道については、孟子が言っているように「徳」を持って人を従わせる、「徳」を持ってやらなければならないということです。「徳」なしに色々やって強くなる中国を相手にさせられるよりは、上から目線かもしれないが、しかし徳をもってやらないといけないと思っている中国の方がいいのではないか、と思っているので、できるだけ中国に寄せていくということはできます。中国は上下関係というか、常にできるだけ中国中心の秩序で考えていますから。日本はある程度大きいから飲み込まれないということで余裕をもって見られますが、他の東南アジアの国々からすると困ることもあるということです。

工藤:中国の間でそこまで本質的な議論が出来ればよいのですが、無理だとしても、この地域に平和を作るためにどのような規範が必要なのか、それを踏まえて両国の人たちが納得できるものを見つけていくプロセスが始まればよいな、と思います。そのとても重要な舞台が、10月13日から15日に東京で行われる「第14回 東京-北京フォーラム」だと思います。

今日の日中安全保障対話は明日もまだ続きます。皆さんには引き続き、ご参加いただくことになっています。そして、なんとかいい合意をして、本番の「東京-北京フォーラム」を迎えたいと思います。今日は皆さんありがとうございました。

日中識者対談・なぜ今、日中間で「平和宣言」が必要なのか

(言論NPO)(2018.8.27 言論NPOニュース)

 言論NPOは10月に開催する「第14回 東京-北京フォーラム」で、「平和宣言」を打ち出すことを日中両国の主催者間で合意しています。では、こうした「平和宣言」がなぜ今の日中間で必要なのか。代表の工藤泰志と、北京大学国際関係学院院長の賈慶国氏が対談を行いました。

対談では、「日中平和友好条約の締結は有益だったが、この地域の平和と発展に対して、日中両国は責任を果たすには至っていない」との厳しい指摘がなされる一方、「世界やアジアの地域の平和と発展により貢献するためには、日中は本当の意味で信頼関係を構築する必要がある」などの意見が出されました。

 そして、賈慶国氏は、地域の平和をつくるための基礎固めをする必要性を指摘し、中国と日本が地域へのより大きな貢献をしていくためにも、10月に提案される予定の「平和宣言」への期待を表明しました。

【対談】工藤泰志(言論NPO代表)×賈慶国(北京大学国際関係学院院長)

工藤:賈慶国さん、今年は日中平和友好条約40周年の節目の年です。その今日的意味をどのように考えていますか。

日中平和友好条約の締結は極めて有益だったが、この地域の平和と発展に対して、日中両国は責任を果たすには至っていない

賈慶国:平和友好条約の締結は、中日両国関係の発展にとって極めて有益だったと思います。これまでの40年間、中国と日本は平和的に付き合い、密接な関係を築いてきました。これはひとえに平和友好条約のおかげだと思います。

工藤:ただ、ずっと気になっていたことですが、その条文や、その後の4つの政治文書を見ると、日中両国はこの地域の平和や発展に厳粛な責任を負っている、という言葉が何回も出てきます。しかし、日中両国はこの地域の平和と発展に責任を果たす関係になっていない。

賈慶国:確かに非常に残念に思います。中日両国はこの地域で最も大きな存在であり、大国です。両国としては、この地域の安全保障、経済を含む様々な分野において秩序の構築に積極的な役割を果たすべきですが、そこまでは至っていません。

個人的には、歴史的な問題、領土の問題について、完全に解決できていないところに理由があると思います。この歴史問題、領土問題の処理について両国は慎重かつ、実務的な対策を取るべきだと思います。

世界やアジアの地域の平和と発展により貢献するためには、日中は本当の意味で信頼関係を構築する必要がある

工藤:今の世界の経済は、ルールに基づいた公正で開放的な体制が非常に不安定化している。そして、北東アジアでも北朝鮮問題も含めて、平和に向けての新しいチャレンジが始まっている。これは、歴史的な局面だと私は思っています。日中両国がこれまでの協力関係を、さらに一段と発展させるべき局面だと考えています。

賈慶国:確かに国際秩序は今大きく変わろうとしていて、既存の秩序が非常に大きな挑戦にさらされています。世界のガバナンスそのものが大きな困難に直面していると思います。そうした背景の中で、中日両国が既存の国際秩序の利益の受益者、つまりステークホルダーとしてより大きな役割を果たしていかなければなりません。

まずは、既存の国秩序をきちんと擁護すること、そしてこの秩序を改善していくことが求められます。中日両国が手を携えて世界の安定、平和や発展に貢献することが求められていると思います。

次の「東京-北京フォーラム」は、中日平和友好条約40周年という非常に重要なタイミングで開催されるフォーラムです。その中で、個人的には2つのことをやらなければいけないと思います。

1つは、これまでの日中関係は山あり谷あり、浮き沈みのある関係が続いてきました。この間、一体何が起きたのか、そしてなぜこのようなことが起こったのか、それを究明して、経験と教訓を総括しなければなりません。

そして2つめとして、このような総括を踏まえた上で、将来に対して自分なりの提案をしていくべきだと思います。やはり中日両国は交流を強化し、協力を深め、誤解をなくして本当の意味での信頼関係を構築しなければなりません。また、このような信頼関係は、協力を深めることによって実現されるものだと認識しています。それをもって、世界や地域の平和発展にもっと貢献すべきだと思います。

「平和宣言」に期待するのは、この地域の平和をつくるための基礎固め

工藤:そうした中で私は、今年10月に開催する「第14回 東京-北京フォーラム」で「平和宣言」を実現することを考えています。5年前に領土を巡る対立で緊張が高まった時に私たちは「不戦の誓い」を合意しましたが、それに続く歴史的なチャレンジになります。

賈慶国:「東京-北京フォーラム」で工藤さんが提案している「平和宣言」は非常に重要だと思います。中日両国はこれまで以上に平和を必要としています。我々がこの平和をより確実なものにするために、基礎を固めていかなければなりません。

中国と日本は平和的に発展して初めて、地域の安全保障や協力に貢献することができます。ですから、「東京-北京フォーラム」で出されるであろう「平和宣言」に期待すると共に、中国と日本の地域へのより大きな貢献を期待したいと思います。

2018年8月29日

・「ソダノ枢機卿」に見る性的虐待スキャンダルとバチカンの「説明責任」の深層(CRUX)

解説(2018.8.12 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 ローマ発 – カトリック教会の性的虐待スキャンダルが終息せず、説明責任に対する議論が高まりを見せる中で、払うべき関心が払われないことの多い一つの疑問は、性的虐待スキャンダルについてどのような対応が制裁に値するか、について人々に対する説明責任が果たされるべきか、措置が取られる前に、どのような説明が権威者に求められるか、である。

 これについて検証を始めるにあたって、「zero tolerance(どのような 違反も一切許容されないルール)」が明確に意味するのは、性的虐待に関する直接的な権限委任には迅速で厳格な規律が必要だ、ということであり、我々が知っているのは、このルールが、前枢機卿のセオドール・マカリックの例でみるように最高位の聖職者-枢機卿-をも拘束する、ということだ。

 我々はまた、少なくとも理論上は、他者が性的虐待を隠ぺいすることもzero toleranceを侵害し、たとえ、隠ぺいの立証がしばしば、極めて困難だとしても、制裁措置を招くと考えられる、ということも知っている。

 厳格さが増しているところでは、告発が犯罪、ないしは隠ぺいに対してなされない場合、少なくとも直接的にではなく、単に過去の経緯の誤った側にいたという-そのような貧弱な判断、失音楽症、無神経さを見せ、性的虐待が引き起こしている危機の甚大さ、深刻さを無視するような振る舞いによって、教会の対応をさらに弱く、説得力をさらに欠くことになる。

 仮に、カトリック教会にそのような過失に対する説明責任が存在するなら、枢機卿団の現在の長による裁判にそれを告げることはしないだろう。

 アイルランドの日刊紙 Irish Timesが今週、報じたところによると、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の下で国務長官を務めたイタリア人のアンジェロ・ソダノ枢機卿が、次のような取り決めについて話し合う、という考えを示した-それは、2003年11月に行われた当時のアイルランド大統領、マリー・マカレーズ氏の政府公聴会の議事録を教会の資料保管庫で補完しない、というものだった。ソダノ枢機卿はその二年後に、当時の同国のダ-モット・アハーン外相に、性的虐待に関するアイルランドでの裁判の結果、バチカンが被るいかなる損失も、同国政府として補償するよう求めた。

 バチカンは、この報道について論評を加えることはせず、ソダノ枢機卿の対処法について我々が知っていることについて首尾一貫した姿勢をとった。

 枢機卿はまた2005年2月、当時の米国務長官、コンドリーザ・ライス氏に、ケンタッキー州ルイスビルの地方裁判所で起こされようとしていた集団訴訟を差し止める方向で介入するよう求めた。訴訟の内容は、幼児性的虐待に対するバチカンの財政面での責任を問うものだったが、ライス氏は「米国の法制度では、行政府にはそのようなことをする権限は認められず、(集団訴訟に不服であれば)外国政府は米国の裁判所で自身の責任免除を申し立てねばならない」と、わざわざ説明せねばならなかった。(結果的に、バチカンは、彼女の言に従って申し立てを行い、訴訟は裁判所の判断で退けられたが・・)

 注意したいのは、アイルランドと米国に対する枢機卿の要求はともに、2002年から2003年にかけて米国で性的虐待スキャンダルが大問題になった後だ。したがって、性的虐待がもたらす危機がどれほど深刻か、性的虐待の被害者が「バチカンで最大の権限を振るう人物の最大の関心事が、教会の資産を守ることなのだ」と知ることが彼らの心をどれほど傷つけるか-について「枢機卿が理解していなかった」とは言うことはできない。

 zero toleranceの意味について枢機卿の見方に関するこれまでの本人の言動に対する疑問符は、これだけではない。ウイーン大司教のクリストフ・シェーンボルン枢機卿は、ハンス・ヘルマン・グローエル枢機卿に対するバチカンの捜査を差し止めた、として、ソダノ枢機卿を糾弾した。グローエル枢機卿は様々な形の性的虐待と誤った行為について訴えを受けており、1998年に枢機卿として職務と権限をはく奪されている。シェーンボルン枢機卿によれば、後に教皇ベネディクト16世となる当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿はグローエル枢機卿を教会法に基づいて裁判にかけることを希望したが、ソダノ枢機卿がこれを潰した。

 シェーンボルン枢機卿は後に、ソダノ枢機卿とベネディクト教皇との関係修復のためにバチカン訪問を強要されたが、糾弾の実質的な内容を引っ込めることはしなかった。

 そして、ソダノ枢機卿がある年の復活祭ミサの説教で、聖職者による性的虐待の被害者のついてのマスコミ報道に関して「くだらないゴシップ」という言葉を使って、多くの被害者に彼の無神経さを痛感させた、とシェーンボルン枢機卿は語っている。

さらに、ソダノ枢機卿のマルシャル・マルシエル・デゴラド神父に対する長期にわたる強力な支援の問題がある。神父は Legion of Christの創設者だが、2006年に。当時のラッツィンガー教理省長官と同省の聖職者性的虐待問題を担当するチームに有罪と判断され、終生を祈りと償いに捧げることを義務付ける判決が下されていた。ソダノ枢機卿は最後の最後まで神父を支援し、ラッツィンガー長官のチームが神父の捜査をしているにもかかわらず、神父に対する「教会法上の手続き」は存在しない、とする声明をバチカンのためにお膳立てした-その主張は、法的には正しかった。なぜなら、この案件の扱いは非公式に神父の年齢と健康状態を勘案してなされたからだったが、この声明は、バチカンがソダノ枢機卿の路線に乗っている、というより大きな真実を覆い隠すものだった。

 ソダノ枢機卿は、2006年の判決についての生命の発表にさえ、声明がすでに神父本人によって受理され、バチカン内部で出回った後だったにもかかわらず、「神父を動揺から救う」という理由で、強く反対した。

 それでは、我々はどう考えればいいのだろうか?

 確かに、ソダノ枢機卿自身が誰かに性的虐待をしたことを示すものは全くないし、神父の事件を「隠ぺい」したとして糾弾されることさえも、”拡大解釈”だろう-ソダノ枢機卿が神父の犯罪について直接の情報を持っていた、というよりも、あり得る筋書きは、ソダノ枢機卿はただ、知りたくなかっただけ、というものだ。彼は神父のもつ正統的な信仰、若者たちの教育への熱意と成功を高く評価し-その募金集めの能力には触れず-1997年以来出回っていた神父に対する訴えを、妬みや政治的な反発を受けたことによるものとしたい、いう気持ちがあった。

 その一方で、ソダノ枢機卿の経歴のもつ累積的な重さが、聖職者による性的虐待の危機の本質を俎上に載せることを、バチカン官僚たちにためらわせる、あるいはできなくするように影響を与えたことは、そして、教会改革に大胆な関与という点で、彼が確信を奮い立たせたことがないということは、ほとんど疑問の余地がない。

 ソダノ枢機卿は今、90歳だが、それでもまだ、枢機卿団の長にとどまっている。そして、仮に、教皇フランシスコが明日、亡くなることがあれば、彼が、後継教皇が選出されるまで、枢機卿による日々の会議を主宰することになる。さらに、彼はその年齢にもかかわらず活動的で、ローマでは、とくに古巣のバチカン国務省に、友人と後輩たちの幅広い人脈を通して、裏で大きな影響力を行使し続けている、とローマの関係者の間で見られている。

 教皇フランシスコが性的虐待スキャンダルについての“accountability( 説明責任)”について考えを深めるにしたがって、早晩、ソダノ枢機卿のような人物を「罪を犯した、あるいは隠ぺいしたが有罪とされないバチカン官僚」とみなさざるを得なくなろう。だが、ソダノ枢機卿が行った判断と声明は、多くの外部の関係者、とくに性的虐待を受けた生存者に、このバチカンの制度が本当にzero toleranceについてどれだけ真剣に取り組んでいるのか、疑問を抱かせたままにするだろう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

2018年8月13日

・ハプニングも、でも姉妹たちに助けられ=Sr.岡のローマ・ポーランド出張記

  • 7月4日(水)長崎-東京

 長崎空港で飛行機を待っていたら、「シスター」と声をかけられる。振り向くと、髙見大司教さま。定例司教会議に出かけるそうで、いつものように軽装。神学校の話し、スルピス会のことなど立ち話。

  • 7月5日(木)東京-ローマ(ミュンヘン経由)

 羽田空港でチェックインの時、カウンターのお姉さんが、「カトリックですか?」と。「カトリックをご存知ですか?」と尋ねると、「聖公会の大学に行っていました。立教大学です」と。

 ミュンヘン到着後、ローマ行きの飛行機への乗り換え手続きは順調だった。過去に一度、ドイツのどこかの空港での乗り継ぎで、パスポート・コントロールの場所にたどり着く前に長蛇の列で、乗換便にぎりぎりセーフで間に合った、という経験があった。あれは、ミュンヘンではなかったのか、それとも、あの日がたまたま混んでいたのか、いまだに不明。

 ローマ行きの便が出発するゲートに行くまではスムーズだったが、出発が一時間半遅れると掲示される。その他の飛行機にも遅れが出ている。別に、天気が悪いわけでもないのに(???)。

 飛行機が遅れ、ローマのフミチノ空港で、預けた荷物が出て来るのに時間がかかり(いつものことだが…)、宿泊先のフランシスコ会の修道院に着いたのは、夜の11時近く(予定では、9時半ごろ着くはずだった)。ステファノ神父にメールで、今着いたと連絡をして、門を開けてもらう。

 ステファノ神父が、夕食を取っておいてくれた。夜遅かったが、お腹がすいていたので野菜とパスタを少しいただく。遅くなってごめんなさい、とわたしが言うと、ステファノ神父は、インターネットでわたしの便が遅れていることは把握していたし、いつも寝るのは夜中の1時過ぎだから問題ない、と。

 ステファノ神父によると、最近、ヨーロッパ圏内の飛行機の運航が乱れているそうだ。エア・フランスの経営が思わしくなく、突然欠航になることがあり、それに他の航空会社の便が影響することも、その要因の一つとか。

 ステファノ神父と最近の情報交換をしながら食事をして、部屋に入ったのは0時近く。とにかく暑い。安全のため窓は開けられないので、暑い空気を扇風機でとにかく動かす。時差ボケにプラスして、暑さのために、何度も目が覚める。

  • 7月6日(金)ローマ

 朝、アジアとオセアニアのマリアン・アカデミー[MAAO]責任者のデニス神父(インド)が、教皇庁立国際マリアン・アカデミー[PAMI]事務所に来ることになっているので、7時前に起きて、洗濯などをし、修道院の「朝食のための食堂」に行く。空気が乾燥しているので、部屋に干した洗濯物がすぐに乾くのでありがたい(海外出張の最大の関心事の一つは、洗濯物が乾くか乾かないか、ということだ)。

 デニス神父は8時半頃、PAMIに到着。PAMI長官のステファノ神父を交えて三人で、まず、濃いイタリアン・コーヒーを飲み、話し合い。マリア論・マリア的文化のみならず、カトリック教会の世界的現状から、アジアとオセアニアの現状まで、幅広い話が次々と。実際、国際的に、アカデミックな世界で活動をしている二人の話は興味深い。また、MAAOについて、各々異なる考え方を説明し、表現し、共有できることは、とてもありがたい。これから電車でフィレンツェでの会議に行くというデニス神父と、11時半に別れる。わたしはその後、エアコンが効いているPAMI事務所で仕事をさせてもらうが、ステファノ神父とマリア論に関して話をしているうちに、昼食の時間となる。

 12時半、修道院の大食堂で昼食。食事の時、ステファノ神父が、そこにいる兄弟たちの国籍を教えてくれる。「彼はメキシコ、その隣はブラジル、エジプト、次はベトナム、インドネシア、インド…」。まさに「国際神学校」である。

 また、今後のMAAOの活動の協力者として、韓国のルッチョ神父と、シンガポールの(???)神父(名前が難しい)を紹介してくれる。ルッチョ神父は、韓国人としては大柄で、現在、グレゴリオ大学で聖書学を勉強している。テクノロジーにも詳しく、「優秀で信頼できる兄弟だ」、とステファノ神父。

 14時過ぎに、日本で頼まれていた本のコピーのために、アントニアヌム大学の図書館へ。捜していた本は見つかったが、1915年以前の本はコピー機ではコピーできない、写真を撮るならよい、と言われ、携帯で写真を撮る。慣れていないので、光の加減や、ページを平らに開くなど、結構、難しいことが分かる。「暑くて有名な」アントニアヌム大学の図書館(エアコンがない)を、実体験する。汗びっしょりになり、部屋に帰って着替えてからPAMI事務所に。会議室を貸してもらって作業の続き。時差ボケもあって、頭がポワ~ンとしている。

 アントニアヌム大学の建物の一部にある、聖アントニオ聖堂の18時のミサに預かる。聖堂へは、修道院の中から、ザクリスチアを通って行くことが出来る。

 20時夕食なので、部屋に帰ると21時過ぎになる。とにかく眠いので、シャワーを浴びて早く休む。

  • 7月7日(土)ローマ

 昨日、早く寝たので、5時頃起きる。朝は涼しいので、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂まで散歩がてらに歩く。大聖堂はまだ閉まっている。ライフル銃

をもって警備をしている軍隊のお兄さんたちに、「まだ閉まっているのですか?」と聞くと、「シー(そうだ)」と。普通、ここで、「〇〇時に開きます」という会話になると(わ

たしは)思うのだが、そこで終わりなので、「何時に開くのですか?」

と聞く。「7時」という答え。別に、ぶっきらぼうなわけではない。これがイタリアだ。

 まだ6時頃だったので、聖アントニオ聖堂での7時のミサに預かることにして、またぶらぶらと歩いて帰る。帰る途中、観光客向けではなく、「庶民の」という感じの「バールBar」に寄って、カプチーノとコルネット(クロワッサン)で朝食をする。「ボンジョルノ、ソレッラ(シスター、おはよう)」と、店のお兄さん、お姉さんが気軽に声をかけてくる。近所の人々の朝のたまり場という感じで、親近感がわく。このように、ローマで、気取らない「普通の人々」の雰囲気の中にいることが、わたしは好きだ。

 聖アントニオ聖堂は、外の入り口が開くのは6時45分。まだ閉まっていたので、修道院に入って、ザクリスチアから聖堂へ。7時のミサは、フランシスコ会の数人の神父による共同司式。ミサの後、しばらく一人で祈ってから、部屋に帰り、昨日、PAMI事務所から借りた「創世記」に関する本を読む。

 9時頃、PAMI事務所に行くために下に降ると、ちょうどステファノ神父が廊下を歩いている。「コーヒー飲む?」と、修道院のカフェテリアで、コーヒーを入れてくれる。コーヒー・メーカーの機械があって、誰でも使ってよいのだけれど、わたしはいくら教えてもらっても、上手に出来ない(力が必要)。その後、PAMI事務所で、またひとしきりステファノ神父と「マリア論談議」をした後、仕事。少し出かけたステファノ神父が、外はとても暑い、と。やはり涼しいのは早朝だけのようだ。

 そのうち、ステファノ神父は、事務所の奥の「台所」(ステファノ神父が台所にした)で、何やら料理を始めている。小豆とニンニク、ズッキーニなどを使った、アジア系の「自然食品」。料理をするとリラックスするそうだ。二品作り、それをタッパーに入れて昼食に持っていく。

 昼食では、リッチョ神父も、タッパーに入れた韓国料理を持って来る。「これ、作りました。どうぞ、召し上がってください」と日本語で(彼は、言語に長けている。日本語は、別に勉強したわけではないそうだ)。野菜とコチュジャンを使ったもの。ステファノ神父の料理も、リッチョ神父の料理も、おいしかった。また、ブラジルの神父が作った料理も食卓に並んでいた。ここのフラテルたちは、料理が好きらしい。

 午後は15時くらいからPAMI事務所の会議室で、「教会の母」の典礼記念日についての、サルバトーレ神父の小論文を読む。寒くなってきたのでエアコン設定を見たら、18度。22度まで上げる。

 夕食は、ステファノ神父、メキシコのフラテル、リッチョ神父と一緒に、韓国料理の店に。大柄のリッチョ神父は、どんどん歩き、ついていくのに大変。結構歩く。リッチョ神父曰く、半地下のその店は、「神父割引」(一割)をしてくれるそうで、時々来るそうだ。もう一つの韓国料理店は、司教と一緒じゃないと割引してくれないんだよ、と。

 初めて韓国料理を食べたというメキシコのフラテルも、おいしかっ

た、と言っている。わたしには辛すぎる唐辛子を、おいしい、おいしい、と食べている。メキシコ料理も負けないくらい辛いからだろう。 

  • 7月8日(日)ローマ:『マリアヌム』神学院訪問

 聖母への感謝と執り成しを願いながら、朝は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のミサに。8時「開門」前、あちらこちらから、いろいろな修道服を着たシスターたちが集まってくる。軍のお兄さんたちの監視の中を通るが、この時間は警備はれほど厳しくなく、荷物チェックもせずに、「バイ、バイ(どんどん行って!)」と、いかにもイタリア風。

 8時のミサは、Salus populi romani(ローマ市民の救い[保護者の意味])のビザンチン・イコンがある小聖堂。ミサの後、出口では、軍のお兄さんたちが、警備そっちのけで、大声でサッカーのワールド・カップの話をしている。これもひじょうに「イタリア風」。

 修道院の中庭の花壇が、去年に比べて、とてもきれいになっている。土がならされ、ヒマワリやバラの花が咲き、オリーブの木も生き生きとしている。

 そういえば、昨日、韓国レストランらか帰る道で、メキシコのフラテルが話してくれた。今年、大学の哲学の教授で、植物にとても詳しいフラテルが異動してきて、彼が庭の世話をしているそうだ。毎日、午後になるとふらーっと降りて来て、急がず、静かに、淡々と、二時間くらい手入れをする。それを毎日続けているうちに、このようにきれいになった、と。ある日、メキシコのフラテルに、バラの花が咲き終わったら、二番目の花のところを剪定するんだ、そうすると、二、三日後にまた花が咲くよ、と言ったそうだ。フラテルが二日後に行ってみると、ほんとうにバラの花が咲いていた、驚いたよ、彼はすごい、一つ一つの植物のことをほんとうによく知っている、とフラテルは言っていた。

 PAMIの事務所で少し作業をしてから、サルバトーレ・ペレッラ神父に合うために、教皇庁立『マリアヌム』神学院へ。PAMIからマリアヌムまでは、トラム(路面電車)があるので便利だ。特に日曜日は、バスはあまり当てにならない(いつ来るか分からない)が、トラムは結構、来る。3番のトラムに乗り、文部省の建物の前で降りる。そこからマリアヌムまで、バスに乗って行くことも出来るが、日曜日だったし(たぶん、バスはあまり来ない)、昨日ほど暑くなかったので、歩くことにする。200段近くの階段を上り、坂を上り…、11時前にマリアヌムに着く。ちょっと息切れ。

 日曜日なので受付のお兄さんがいなかったが、若いフラテルがサルバトーレ神父を部屋に呼びに行ってくれる。

 サルバトーレ神父と再会。神父と会うのは、いつも、やっぱり、うれしい。彼はわたしにとって、恩師中の恩師だ。

 何か飲む?食べる?…と、いつものように気遣いもせっかち。水が欲しい、というと、冷蔵庫から冷たい水を出してきてくれる。食堂で水を飲みながら、日本でのマリア論への奉仕について報告や、相談をする。サルバトーレ神父は、マリア論の「辞書」のような存在なので、話は尽きない。

 それから、「おいで、おいで」と、サルバトーレ神父が学長だったときに落成した、新しい図書館に行く。

クーラーが効いていて、静かだ(わたしたちが学生時代の古い図書館は、夏は、暑さと蚊との戦いだった)。昔のように(?)、図書館の机の一角に「サルバトーレ神父のコーナー」があり、さまざまな本、資料…が拡げられていて、それに埋もれてパソコンが。これが、現在の彼の「作業場」である。

 サルバトーレ神父は、昨年よりずっと元気そうだ。今は学長職を退き、「マリア論だけに全力を注ぐ」と宣言。何について研究しているかを説明してくれる。また、イタリアのサン・パウロ社から、マリア論のマニュアルのようなものを連載で出版することを頼まれていて、それも準備しているそうだ。また、「この本、読んでないだろう。君のために準備しておいた。読みなさい」と、マリア論の本を三冊くださる。ステファノ神父やサルバトーレ神父に会うと、わたしはまだまだ、マリア論に対して熱意が足りない、と反省し、刺激される。

 サルバトーレ神父の著作は、どれも、文献、引用がひじょうに豊富で、それ一冊で、さまざまなテーマを深めるためにどの文献を参照したらよいのかが分かる。まさに「辞書」である。ナポリ人で、性格が激しく、口も悪いので(単刀直入過ぎる)、彼の献身的な奉仕が、ふさわしく理解されていないのは、残念だ。神父は、彼から恩恵を受けた、わたしや、先輩のステファノ神父にとっては、現代マリア論になくてはならない存在である。そのような人に出会えたことを、今でもわたしは、心から感謝している。

 昼食は、マリアヌムの教授たちの共同体の食堂で。セッラ神父、マッジャーニ神父、ペレット神父など、わたしの恩師たちと再会。感謝。マリア論の勉強を続けるための刺激と力をいただいて、サルバトーレ神父と別れる。

 修道院の部屋に帰って、明日、早朝出発のため、荷物を片付け、再びPAMIの事務所へ。福岡の神学生から聖母の出現についての質問メールが届いたので、それに関する短い資料をステファノ神父にもらって訳す。イタリア語・日本語の電子辞書の電池が切れ、もってきた替えの電池の一つが電池漏れで使用不可能。インターネットの辞書(イタリア語をイタリア語で説明している辞書)を使いながら訳す。結構、時間がかかる。

 ステファノ神父と名残惜しく、いろいろなことを話す。明日は早朝出発なので、夕食後、さよならを言う。

  • 7月9日(月)ローマ-ジェシェフ(ミュンヘン経由)、ストラホチナ修道院(ポーランド)

 5時半に修道院を出て、ローマ・フミチノ空港へ。車はほとんどなく、30分くらいで空港に着く。ミュンヘン行は第3ターミナル。チェックインもスムーズ。今回初めて、携帯コードでのチェックイン(というより、自分の修道院ではないので、コードをプリントすることが出来なかった)。機械が読み取らないので、係りのお兄さんに聞くと、明るさのモードを上げてください、と。一番明るいモードにすると、すぐに感知する。出発ゲートが、D5からD3に変わるが、すぐにルフトハンザから「ゲート変更」の知らせが英語で届く。すべてデジタル化の世の中!

 空港内のDuty Free Shop(免税店)を眺めていたら、レジのお兄さん、お姉さんたちは、大声でサッカーのワールド

・カップ談議、その「ついでに」仕事をしているという感じ。日本では信じられないけれど、良くも悪くも、実にイタリアらしい。

 わたしのイタリア人の友人のPaolaは、「わたしたち(イタリア人)は、とてもpersona amabile(愛すべき、人好きのする人たち)よ」と、自分で言っているが、一たび、誠実な友人であることが分かれば、利益なしで、何をおいても大切にしてくれる。

 12年以上前、わたしがローマで勉強していたころ、ローマ空港に早朝や、夜遅く出発、到着する便を使う時、タクシーが思うように見つからない、という問題があった。ラジオ・タクシーなので、早朝でも前日から予約することは出来ず、当日に電話しても出なかったり、車がないと言われたり(?)。そんな時、アメリカ人の友人が、アメリカ人のビジネスマンがローマに来る時に頼む、信頼できる運転手がいる、と言って、クラウディオを紹介してくれた。それからずっと、ローマ出張の際には、メールでクラウディオに、日付、便名、到着時刻…を連絡するようになった。飛行機がどんなに遅れても、インターネットで追跡できるので、ちゃんと待っていてくれる(当たり前といえばそうだけど)。

 クラウディオは数年前に引退、今は、甥のマルコと、奥さんのパウラが引き継いでいる。マルコとパウラは、わたしにとって友人とも言えるだろう。もちろん、サービスに対して料金は払う(割引してくれるが)。でも、それ以上の信頼関係を、わたしたちは長年かけて培ってきた、と言える。

 マルコも「ルカ・マリアは、僕たちにとって、最も古くて、大切な顧客だよ」と言い、「ルカ・マリアのサービスは、いつも最優先だよ。ローマに来たときは、僕たちがいる。心配しないで」と言ってくれる。一度、飛行機のトラブルでローマに宿泊しなければならないかもしれない、という状況になった時も(結局は、飛行機に乗れたが)、「安くて、一人でも安心して泊まれる、こぎれいなホテルがある、必要なら予約してあげよう。送迎は僕たちがするから」と言ってくれた。

 今回、5時半、修道院の門のところには、マルコとパウラが二人とも来てくれた。マルコは、昨夜(今朝!)午前3時まで仕事をしていて、「ルカ・マリアを空港に送り届けたら、休む」と言っている。二人とも、休みなく働いている。

 ローマからミュンヘン乗り換えでジェシェフへ。ミュンヘン空港での乗換時間は一時間弱で短いが、ヨーロッパ圏内なので同じ第二ターミナルで、ゲートも同じ(到着がG18、出発はG65)。ちょっと早めに歩き、G65ゲートに着くと、ジェシェフ行きはすでに搭乗を開始していた。

 今回、飛行機に関していろいろハプニングがあったが、今度は何もなかったな、と思っていたら、ミュンヘンで預けた荷物がジェシェフの空港に届いていない。しかも、わたしだけでなく、十人くらいの人々の荷物が。「失くしたもの」カウンターに列を作って並ぶ。最初に並んでいたポーランドの家族のお母さんが、何やら叫んで、嘆いている。どうすればいいのよ~という感じだ(言葉は分からないが)。幸い、空港に迎えに来てくれていたSr.ジュリアとのメールのやり取りで、(遅くなっている)事情を説明することが出来た。

 やっとわたしの番が来る。こういう状況には慣れて(?)いるのか、スタッフたちは実に事務的。日本だったら、申し訳ありません、とか、少なくとも、大変でしたね、くらいの前置きがあると思うけれど、いきなり、いろいろなスーツケースなどの写真が載っている表を見せられて、「どんな形?色は?材質は?」。「えっ?ああ、布ではない、グレーのスーツケースです」と言うと、「住所、電話、名前は?」と。並んでいる時に、住所などを聞かれていることが分かったので、メールでSr.Jに、ストラホチナの住所と電話番号を尋ねていたので、すぐ対応できる。

 それから、わたしのスーツケースに関する情報が書かれているA4の紙(印刷が薄く、今にも消えそう、大丈夫かな~という感じ)を渡されて、「あなたの荷物は、あなたの滞在場所に着く予定、何かあったらこの電話番号に連絡してください」。それで、「さよなら」。わたしがさらに、「だいたい、いつごろ着くのですか?」と尋ねると、「調べますから、待ってください。…今日か明日ですね」と。

 やっと外に出ると、Sr.ユスチナとSr.Jが待っていてくれる。わたしの前に出てきたおじさんが、「シスターはまだ並んでいたよ」と教えてくれた、とSr.Jが言っていた。Sr.ユスチナが、荷物が届かなかったことを、わたし以上に心配してくれる。大丈夫、何とかなる、と言いながら車に乗る。

 わたしが、電子辞書のための替えの電池を買いたい、と言うと、Sr.ユスチナが、ジェシェフの方が大きな町だから、ここで探しましょう、と、スーパーに寄ってくれる。四つ入りの単四の電池がある。Sr.ユスチナはわたしに「いくつ要りますか?」と聞く。わたしが「二つ」と言うと、半分に破って、二本だけ買ってくれる(そういうこと、出来るのか??)。

 ジェシャフ・ミュンヘン間の飛行機は、小さな飛行機だ。前回の経験で、殆ど荷物を持ち込めないことを知っていたので、今回は、文字通り、全部、預ける荷物に入れていた。持ち込みの小さな荷物に入れていたのは、パソコンと充電のコードくらい。だから、着替えも歯ブラシもない。修道院に着くと、院長のSr.ベルナデッタが、下着からパジャマまで、すべて揃えてくださる。また、ポーランドは紺のハビト(修道服)なので、Sr.Jが、自分のもう一つのハビトを貸してくれる。ひじょうに長く、裾が床につく。ポーランド滞在中、ハビトの裾が長いことをたびたび忘れ、裾を踏んで転びそうになった。

 ストラホチナの修道院に着くと、Sr.ユスチナが昼食を温めてくださる。

 夕方5時、院長のSr.B、Sr.Jと一緒に、ニジニック神父に挨拶に。司祭館でお茶をいただく。叙任神父が休暇中なので、N神父が一人でミサを捧げている。

 この日は、ストラホチナの教会でアドラチオ(聖体顕示)がある。5時55分からロザリオ、ミサ。

 夕食時に、シスターたちみなと再会。昨年も来ているので、より親しく感じる。夕食の片づけ。8時半に寝る前の祈り。一日に感謝。

  • 7月10日(火)ストラホチナ

 6時起床、祈り。日中は暑いが、朝晩は涼しい。特に夜は、暑くて眠れないほどだったローマに比べて、ずっと涼しく、感謝。荷物はまだ着かない。本当に今日着くかどうか、当てにならないので、朝から洗濯をする。地下の洗濯場で洗濯をし、脱水をかけ、より乾燥している屋根裏部屋に干す。

 Sr.Bが、日本の写真が見たい(レクレーションの時間に)と言うので、朝食後、PCの中の写真の整理をする。

 10時頃、食堂でコンポート(果物を煮たもの)を飲んで外に出る。Sr.カミラが、近所の女の子たちとバレーボールをしている。Sr.ユスチナと志願者たちは、畑で豆を収穫中。その後、Sr.Jと、アンドレア・ボボラの巡礼地と墓地へ。

 Sr.Jが、わたしの荷物が午後2時頃届くと連絡があった、と伝えてくれる。考えてみれば、出発前に、わたし自身、フランシスコ会なのだから、あれこれ持たずに、最小限で旅するべきなのに、いつも荷物が多くなるね…と言っていたのを思い出した。今回の「紛失」は、摂理的な出来事のように感じた。必要なものはそんなに多くないよ、と言われたような。荷物は本当に、2時に着く。よかった。

 今回、ポーランドに派遣されて約一年のSr.Jと、一緒に散歩したり、食事をしたり、車に乗ったりしたときに、いろいろ話が出来たことに感謝する。若い感性で感じた、ポーランドの文化のこと、教会のこと、姉妹たちとの共同生活のことを、率直に話してくれて、学ぶことが多かった。Sr.Jは、もともと深く考えることが出来る能力をいただいているので、上滑りのことではなく、より深いところにあることに触れているのだろう。時に、苦しむこともあるだろうけれど(それはどこにいても同じだし)、ポーランドの人たち、とくに姉妹たちの信仰を学びながら、謙虚に奉仕していくだろう。がんばれ!

 修練院横のリンゴの木を見ていたら、Sr.カミラが、「これは、落ちたばかりだからきれい、美味しいですよ」と、わたしたちに一つずつ、リンゴを拾ってくれる。ちょっと酸っぱくて、「リンゴらしい」味。おいしい。

 11時55分から教会の祈り、ロザリオ。その後、昼食。

 午後3時、修道院の聖堂で、「コロンカ(いつくしみのコンタツ)」から始まり、一時間の祈り。その後の、おやつの時、一時間くらい、日本の姉妹たちの写真を中心にして、プロジェクターを使って見せる。シスターたちはとても素直に喜んでいる。

 昨日のように、教会で5時55分からロザリオ、ミサ。

 今日は、ミサの最中、ひじょうに眠くなる。時差ボケの眠さは、まさに抵抗できない深みに引きずられるような「暗黒」という感じ。主がアダムやアブラハムに陥らせた眠りや、ゲッセマニの園で三人の弟子たちを襲った眠りなどを、ボ~っとする頭の中で考える。本当に、「何も考えられない」空白の時間。神さまの御手の中に、頭を空にしてすべてを託す、ってこういうことかな、などと、この「空白」の中で考えている。ミサの後、「具合が悪い?」と心配される。「いや…ただ眠くて…」と答える。

 しかしその後、夕食を食べたら目がぱっちりと覚める。そんなものか…。夕食後、食器洗い。8時半から寝る前の祈り。とにかく、祈りの時間が多いので、その間を縫って、忘れないうちに「独り言」を書いている。

  • 7月11日(水)ニジニック神父と出かける

 昨日の夕食のとき、Sr.Bが、「明日は、Sr.ルカとSr.Jは、ニジニック神父と出かけます」と発表。ああ、そうなんだ、と(毎日、次の日、どういう予定になるか分からない)。

 6時起床、祈り、朝食。聖堂は涼しく、厚めのカーディガンを着ている姉妹もいる。昨日は、朝8時半出発と言っていたけれど、8時15分に変更(こちらの「突然の変更」には慣れるしかない!)。

 途中、N神父のお父さまのお墓詣りのために、花とろうそくを買う。

 お墓詣り[写真]の後、N神父の「友だちの神父」がいる、ひじょうに古いバシリカ(聖堂)訪問。その名も、「聖墳墓」聖堂Bazylika Przeworsk(エルサレムの聖墳墓教会を真似ている)。1393年に建てられたものらしい。普段は閉まっているようだが、N神父の友だちの神父が鍵を開けて、中を案内してくださる。「扉が開いていたから」と、ポーランド人の巡礼グループも加わる。

 その後、N神父の家に、お母さまを訪問。近くに住んでいる弟さんも来ている。お茶をいただく。N神父とお母さまは、顔だちがよく似ている。二人とも、楽しそうに話している。昼食のために、コシナの修道院に行く予定だったため、「もう行ってしまうの?」と言うお母さまに挨拶して、出発。コシナ修道院には12時半頃着く。院長のSr.マキシミリアナが迎えに出て来てくれる。今日から、コシナの修道院の手伝いのために、一か月間、ストラホチナから派遣された、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマも加えて、皆で昼食。

 N神父は、午後、黙想の家にいる若者たちへの講話があるため、車を飛ばして(だいぶ慣れたけれど)帰る。午後は、いつものように、3時から始まって祈りが続く。

  • 7月12日(木)Sandomierz(サンドミエシュ)バス旅行

お墓詣り。修練院聖堂で祈り。。  

 ストラホチナの「黙想の家」で、一週間ほどサマーキャンプのようなことをしている若者たちのバス旅行(古都サンドミエシュへ)に参加。

 ストラホチナ修道院では(もしかしたらポーランド一般?)、いつもそうだが、明日、何があるか分からない。

 前日の夕方、明日は、Sr.ガブリエラ、Sr.ジュリア、Sr.ルカは、バス旅行に行きます。7時出発です。起床は6時。朝、カナプキ(サンドイッチ)の材料を用意するので、好きなものを作ってください、と「発表」がある。Sr.Gが、青作業着で行っていいですか?と聞く。Sr.Bは、「町に行くので、紺のハビトを着てください」と。「暑い」一日になりそうだ。その後、カナプキは、若者たちの分も全部準備するので、個人では用意しなくてよい、と言われる。

 当日は、「やっぱり5時半起床にしよう」ということになったそうで、鐘が5時半に鳴る。朝食を食べて行くことにした、ということで、食堂に行く。半分曇り、少し雨の中、7時ごろ出発。カナプキ二個と、甘いパンを一個、チョコバーのようなものを四個、「何とかベリー」(ベリー類が多くて、名前が覚えきれない!)のジュースと水をいただき、出発。カナプキなどは、「適当な時に」それぞれ自由に食べるそうだ(ポーランドでは、「第二の朝食」とか、三時のおやつとか、けっこう「きちんと」食べる)。

 途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩。トイレは二つあるが、一つは故障中。こういうことは、よくあるそうだ。

 サンドミエシュには11時前に着く。土地のガイドのお姉さんが案内をしてくれるが、とにかくよくしゃべる。息継ぎの間もなく、ず~っと話している。若者たちの引率の一人に、英語の先生がいて、話の内容を要約してくださる。歴史の話から、自然の話まで、かなり幅広い説明をしているようだ。それでも若者たちは騒がずに聞いている。カテドラルは工事中で、内陣は遠くからしか見えなかった。

 ガイドさんの案内が終わったのが2時半ころ。それまで、何も食べていない(イタリア人だったら、昼食はいつ~?と騒ぐだろうけれど)。ポーランドの人たちは、ここぞというときに底力があるとか(食べなくても、頑張れる)。それから4時まで自由時間。皆、散らばって昼食へ。SR.Gに、何が食べたいですかと聞かれ、スープ(ズッパ)がいい、と答える。温かいトマトスープ(中にパスタが入っている)をいただいた。おいしかった。

 その後、アイスクリームを食べよう!と、イタリア式アイスクリーム屋へ。わたしはシャーベット系が好きなので、レモンと何かの果物を注文する。広場の日陰に座って食べる。

 3時になり、「コロンカ(あわれみのコンタツ)」の祈りのため、教会へ。聖体顕示もしている。一時間くらい祈る。寝ていたわけではない(と思う)が、何となくボ~っとしているうちに時間が発つ。歩いて、集合場所の中央広場へ。若者たちのグループは、ほとんど集まっている。駐車場まで歩いてバスにのり、出発。

 途中で、引率のおばさんが、運転手さんに、ストラホチナまであと一時間で着くか?と質問している。ミサの時間を心配しているらしい。ストラホチナのミサに間に合わないことが分かったので、5時半過ぎに通った、途中の教会に入る。新しい教会。内陣には大きな聖母子像。聖体顕示が行われている[次頁写真]。6時少し前に、ご聖体の祝福があり、その後、再びバスへ。若者たちは、だんだん元気になり、歌を歌い始める。ポーランドの伝統的な歌らしい。Sr.Jも口ずさんでいる。ポーランドの人たちは、とにかく歌うことが好きだ。Sr.Jによると、大学で、建国記念日のイベントに参加したら、約三時間、ただただ歌い続け、びっくりした、と。

 ストラホチナに着いたのは、夜8時半頃。それでもまだ薄明るい(冬は、3時頃にはもう暗くなるそうだ)。食堂でスープをいただく。Sr.ビクトリアが休暇から帰ってきて、お母さんが作ったパンをたくさんもってくる。リンゴをシナモンで煮たものが中に入っているパン。おいしい。Sr.Gは、食事の後、犬にご飯をあげにいく、と。Sr.テレサたちは、遅く帰ってきた若者たちのための夕食作り。ストラホチナのシスターたちは、とにかく、よく働く。

 院長のSr.Bが、わたしの咳を心配して(ずいぶん良くなったと自分では思っているのだが)、咳止めシロップと、ドロップをくださる。また、明日は、N神父が、司祭館でアイスクリームを食べましょう、と言っている、と(いつものことだが、時間は未定)。ポーランドの人は、冬でもアイスクリームを食べる。 

  • 7月13日(金)

  朝はいつもの通り。午前中は、洗濯をした後、部屋でPCでの仕事。Sr.Jは、明日がSr.カミラの霊名日なので、ケーキ作りを手伝ったそうだ。ケーキは三つ、作るとか。

  11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。今日は金曜日なので、スープのみ。昼食後、アン

ドレア・ボボラの丘とお墓に散歩。午後3時、コロンカ、教会の祈り。金曜日なので「十字架の道行」の祈り(毎週金曜日にするそうだ)。その後は、いつもの通り、教会で、5時55分からロザリオ、ミサ。

  今日あたりから、急に、頭の中の「霧」が晴れてきた感じ-スイッチが入った、と言ったらいいのか、「考える」ことが出来るようになる-。

 明日のSr.カミラの霊名日のため、夕食の後、シスターたちは一斉にケーキ作りを始める(Sr.カミラ自身も)。作っているのは、N神父が唯一食べられるケーキだそうだ。Sr.Bは鍋でチョコレートなどを温めながらミキサーで混ぜ、Sr.カミラは、それを入れる型にウエハースのようなものを切って敷いている。ポーランドの姉妹たちは、とにかくお菓子作りが好きだ。それぞれ、あちらこちらでケーキを作り、持ち寄ると、かなりの量になるとか。濃厚なケーキが多いので、Sr.Jによると、降誕祭や復活祭の後はダイエットが必要だ、と。

  • 7月14日(土)

 雨が降ったりやんだり。涼しい。

 6時起床、祈り。Sr.カミラの霊名日。朝食の時、歌を歌いながら、一人ひとり、Sr.カミラにメッセージを伝える。わたしは英語で、「喜びと優しさをありがとう」と伝えた。

 7時半頃から、教会でゴジンキGodzinki(聖母への賛美。土曜日だから)。8時ミサ。ミサの後、ずっと黙想の家でキャンプ(?)をしていた若者たちのM.I.(聖母の騎士会)入会式がある。N神父が、突然、「ショーストロ・ルキ(シスタールカ)」とわたしの名前を呼ぶ。祭壇上に来なさい、と。中世の騎士のように、一人ひとりの左肩に剣(もちろん本物ではない)を載せて行く役目をしなさい、と。

 N神父が、まず、何かを言いながら、端っこの若者の方の上に、荘厳に剣を置く。それから剣を渡されたわたしは、とっさに出た日本語、「神さまの祝福がありますように」を繰り返しながら、ずらっと並んだ若者たちに、この儀式を行う。入会式が終わった後、N神父は若者たちに、「日本人のシスターに儀式をしてもらったことを覚えていてください」と言ったそうだ。全部終わったのは9時20分

 シスターの霊名日には、N神父が修道院で一緒に食事をするそうだが、今日は、Sr.テレサ、志願者の二人が、昼頃、チェンストホワにバスで行くことになっているので(つまり、昼食には全員そろわないので)、急きょ、ミサの後、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲むことに。シスターたちを全員呼び、手作りケーキと、コーヒーや紅茶を飲みながら談笑。お茶を終えて食器を洗っていると、Sr.Bが、洗濯物があったら、一緒に洗濯機で洗いましょう、と言ってくださる。明日は日曜日で洗濯が出来ないので(労働禁止!)、助かる。

 その後、部屋に帰って、PCで、12月のMAAOミーティングについての文書を作る。今回、わたしにいただいた部屋は、パソコン室に近く、部屋でもWiFiが入るので便利。

 いつものように、11時55分から教会の祈り、ロザリオ、昼食。

 土曜日なので、午後3時のコロンカの後、聖堂で「マリアの時間」。マリアに関する本を読んだり、歌を歌ったり。

 若者たちのグループが昼食後に帰り、シスターたちがホッとしていたら、昼食後に、「巡礼に来たい」と電話があった、とSr.Jが教えてくれた。(いつものように?)何人来るのか、食事は要るのか、泊まりたいのか分からない、と。ポーランドには、職員がいる大きな巡礼宿があって、そこに来る感覚で、突然、ふらっと来る巡礼者たちがいるらしい。プラス、今、「ボボルスカ(聖アンドレア・ボボラの巡礼地)」について、N神父が、熱心に、テレビやカトリックの雑誌を通して知らせていることで、この地が有名になってきたそうだ。

 Sr.Jによると、ある時は、週末、教会の前に予告なしに大型バスが二台止まり、巡礼宿に泊まりたい、巡礼地を案内してほしい、ということもあったそうだ。巡礼者の多い6月から8月にかけて、シスターたちは食事作り、食器洗い、巡礼者たちへの話し…で大忙し(すべて無償。巡礼宿は寄付で成り立っている)。こういう感覚は、とにかく巡礼が好きなポーランドならではなのかも。

 ちなみに、現在、地区長のSr.アガタと、Sr.イザベラは、チェンストホワの聖母巡礼地への11日間の巡礼(歩いて)に参加している。日曜日の夜、帰ってくる予定。

 15時から、聖堂でコロンカ、教会の祈り。

 シスターたちが忙しそうにしているので、「何か手伝うことはありますか?」と、Sr.Jを通して聞いてもらう。Sr.Bは、「大丈夫ですよ、どうぞ、荷造りでも、散歩でもしていてください」、と。日本のシスターたちのことを思いながら、ボボルスカとお墓への散歩に出かける。夕方、5時55分から、教会でゴジンキ、ミサ。夕食、寝る前の祈り。

 シスターたちが参加している、チェンストホワの聖母巡礼地での夜9時からの祈りを、司祭館のテレビで見る。たくさんの人々。

  • 7月15日(日)

 今日も涼しい。6時半から聖堂で祈り。その後、教会でゴジンキ、ミサ。[写真:ストラホチナの教会]

 朝食後、Sr.Jと一緒に、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんに会う。9月に日本に来る、と嬉しそう。それから荷造り。

 11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。わたしがズッパ(スープ)が好きなので、ショーストロ(シスター)、スープがあるよ、とSr.ガブリエラ。ポーランド料理の定番、ビートのスープ。おいしい。

 昼食を食べ過ぎて(じゃがいもか?)、お腹ばかりか、「体」が重たい、という感じ。荷造りのために体重計に乗ったら、一週間で一キロ太った。Sr.Jは、それくらいならいいよ、と言う。彼女によると、ポーランド料理は「太る材料」を多く使うし、しかも甘いものを良く食べる。ポテトチップも塩味が少ない、せんべいなどの塩味が欲しくなる、と。わたしは、「第二の朝食」の時も、「おやつ」の時も、甘いものはほとんど食べていないけれど…。それでも、庭で出来た小さなリンゴ(甘酸っぱく、リンゴらしい味)がおいしく、けっこう食べたっけ。

 午後は荷造り。前回、ジェシェフ空港発の小さな飛行機の荷物制限が厳しく、重量オーバー分を出して、ストラホチナに持って帰ってもらったり、たいへんだったので、今回は重さを測りながら準備。ちなみに、預ける荷物は1個で23キロまで。持ち込みの荷物は1個で8キロまで。昨年は、修道院の体重計で23キロの荷物を準備したが、空港では24キロ。一キロオーバーで荷物を広げて調整。持ち込む荷物も重さも計ります、と言われ、これまたちょっとオーバー。でも、そちらは、面倒くさかったのか、まあ、いいでしょう、ということになったと思う。

 今回も、「日本のシスターたちのために」と、大量のチョコバーなどを買ってくださっていたが、殆ど入らない。N神父のお土産や、ローマで教授からもらった本もあったし。荷物に入らなかった分は、また郵送していただくことに。

 荷物を造っている間、Sr.Jと話す。

 今回、日本人としてポーランドに派遣されたSr.Jの感覚を通して、ポーランドの姉妹たちのこと、人々のこと、自然、食べ物…を少し深く知ることが出来て、感謝している。異なる文化に触れながら、Sr.Jも学び、またSr.Jの存在を通して、ポーランドの姉妹たち、人々も学んでいくのだろう。Sr.Jの謙虚さと素直さに感謝。ポーランドの聖母に守られながら、いろいろと闘いながら、主に従う道も深まっていくのだろう。

 毎月15日は「創立者の日」。今日は、夕方5時半から、ノビシア(修練院)の聖堂に集まり、創立者神父の言葉を聞いたり、歌を歌ったりする[写真]。

 ポーランドの姉妹たちの共同の祈りに、歌は欠かせない。とにかくよく歌う。

 また、祈りも、おやつも、リラックスタイムも、「共同」ですることが多い。全般的に、話し好き。姉妹たちが集まると、感心するほど、話題に尽きない。Sr.Jが訳してくれることを聞いている限り、話がどんどん飛んで、話題がくるくる変わる。昨日、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲んだ時、Sr.Bの服に大きな虫がいた、と言うと、それに反応して、姉妹たちみんなが大笑い。二人の天使の絵をみて、これって、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマ(終生誓願前の第三修練期の姉妹)に似てるよね~と誰かが言い、その絵を見て、また皆が大笑い。

 Sr.J曰く、「笑いの沸点」の感覚が違うんだよね、彼女たちは、本当に純粋だと思う、と。

 また、姉妹たちは、どんなに疲れていても、「今日は何をしたの?あれはどうだった?」と話しかけ、関心をもって聞いてくれる。Sr.Jが、まだちょっとたどたどしいポーランド語で話すのを、「うん、うん、それから?」という感じで、目をキラキラさせて聞いている。お母さんのような、何というか、心が温かいのだな~と感じる。次に何が起こるのか分からない、予定していたことも土壇場で変わる、でも、彼女たちが一番大事にしているのは、人との触れ合い。多少、時間が遅れても、立ち止まって人の話を聞く。そちらの方が大切、という感覚かな?

 今日は、夕食の後「フリー」。こんなことは珍しい、とSr.J。だいたい、フリーと言っても、一緒にレクレーションをしましょう、ということが多いらしい。今日は、夏休み中で助任神父不在のこともあり、いつもは四回くらいある主日のミサが、三回で、夕方のミサがなかったので夕食が早く終わる。ストラホチナに来て初めて、こんなに長い「フリータイム」に、ちょっと戸惑う(!)。

 夜8時過ぎ、「ショーストロ・ルーコ!(ルカ)」と、誰かが部屋をノック。出てみると、チェンストホワへの巡礼から帰ってきた、地区長のSr.アガタ[写真]。抱き合って再会を喜ぶ。「お茶を飲みましょう」と、食堂へ。シスターたちも集まってくる。11日間、350km歩いたそうで、顔も腕も、日焼けしている。さっそく分かち合い。インターネットで「ラジオ・ファラ」(シスターたちが手伝っているカトリック放送)の巡礼関係のユーチューブも見る。

 チェンストホワの聖母巡礼は、さまざまなグループで、一年に何回か行われているらしく、今回は、十のグループが参加し、Sr.アガタとSr.イザベラが参加したのは「アンドレア・ボボラ」のグループ。10人の司祭、他の修道会のシスターを加えて3人のシスターを含め、全部で163人のグループだったそうだ。祈り、コンフェレンツァ(講話)、ミサがあり、祈り、歌いながら歩いた、と。一番の高齢者は85歳だったとか(!)。Sr.Jも、一日、一区間、参加したそうだ。信徒の家に泊まり、ある時は、二階を「修道院」のように、シスターたちだけのために用意してくれたとか。少しして、休暇を取っていたSr.ヨゼファも帰ってくる。

  • 7月16日(月)ストラホチナ出発

 出発の日。5時半起床。カルメル山の聖母の祝日なので、教会でゴジンキ、ミサ。昨日、やはり巡礼から帰ってきた助任神父が司式。

 朝食時に、N神父が食堂に来る[写真下]。巡礼から帰ってきたSr.アガタ、Sr.イザベラのため、そして、今日、日本に帰るわたしのため。感謝。

 Sr.Jに聞くと、昨日の夜、10時頃、巡礼者が一人来て(昨日の夕食後に電話があったらしい)、Sr.ガブリエラGが夕食を作って出したとか。今日は、午後から、ウクライナの大司教(ポーランド人)がボボルスカに巡礼に来るそうで、姉妹たちはその準備で大忙し。

 わたしは、10時、Sr.イザベラの運転で、Sr.アガタとSr.Jと一緒にジェシェフ空港へ。

 ジェシェフ空港には1時間半くらいで着く。夏休みということもあって、空港は混んでいる。前回は冬で、ガラガラだったが。人が多かったこともあり、持ち込む荷物の重さをはかることもなく、荷物に関しては問題なし。ただ、ミュンヘンでの、東京への乗り換えの切符の手続きが出来ない、ミュンヘンで時間があるから、一旦出て、荷物を受け取って、再度チェックインをしてください、と言われる。いや、もう、インターネットでチェックインはしてある、これがそうだ(と、アイフォンの搭乗コードを見せる)、と言うと、再度、なにやら調べてくれて、最終的に、無事、発券。荷物は東京まで行くんですね、本当に、と、ちょっとしつこく聞いて(ジェシェフに荷物が届かなかった経験から)確認する。

 二階のカフェテリアのようなところで、Sr.アガタが、わたしのためにヘルバータ(お茶)を注文してくれる。しかし、昼食時。大勢のお客さんに、スタッフは、若い女の子が一人。なかなかわたしたちの順番が来ないので、別のカフェテリアへ。たまたま空いたテーブルに四人で座り、何か注文したのは(ヘルバータ)わたしだけで、後は、修道院で準備してくれたカナプキ(サンドイッチ)、トマト、果物…を食べる(つまり、持ち込み)。いいのかな~と思いながら。しかしこれが、ポーランド流なのだろう。

 わたしが乗るミュンヘン行の便は、30分遅れ、とルフトハンザ社からメールが来る。ニューヨーク行きの便は2時間遅れらしい。搭乗口のところで、声をかけられ、振り向くと、愛野教会の、ポーランド人のタデオ神父!シスターたちもびっくり。休暇で帰っているらしい。シスターたちと名残を惜しんで、搭乗口に入る。

 13時10分発のところが、飛行機に乗り始めたのが14時。ミュンヘンには、最終的には二時間くらい遅れて、16時40分着。ルフトハンザのカウンターに長蛇の列が出来ている。全体的に飛行機が遅れているので、乗継が間に合わなかった人たちが、別の便に変えるためだ。ローマでステファノ神父が言っていたように、現在、いつも以上に飛行機の遅延が多いようだ。乗換には十分時間を取ったほうがよさそうだ。わたしの場合、ミュンヘンでは、かなり時間があったので、二時間遅れても十分大丈夫だった。東京行の便は、定刻に出発する。

  • 後日…

 今回の旅の「ハプニング」。(1)ローマ着の飛行機が遅れて、宿泊先の修道院に着いのが夜中近くになった。(2)ポーランドのジェシェフ空港に、預けた荷物が着かず-翌日の午後に届く-。(3)あと1回くらい、何かハプニングがあるかな〜と思っていた。無事に-定刻前に-日本に着いてホッとしていたら、羽田空港で長崎行きの便にチェックインするところで、3番目のハプニング。手荷物預かりのカウンターで、わたしの航空券のバーコードを認識しない。

 カウンターのお兄さんが航空券を良く見てくれたら、わたしが、予約を一カ月間違えていたことが判明!7月18日なのに、8月18日になっていた(これは、まったく、わたしの間違え)。お兄さんが、航空券購入のカウンターにまで連れて行ってくれて、ここで航空券変更の手続きをしてください、と。特割航空券を買っていたので、通常の航空券への変更で、差額が出たり…で、手続きには結構時間がかかる。ようやく新しい航空券を手にして、再び手荷物を預けるための行列に並ぶ。わたしの番が来てカウンターに行くと、さっきの同じお兄さん!先ほどはお世話になりました、などと言いながら、今度はスムーズに手続きが済む。

 ***[帰国後に書いたメール]

 Sr.Jさま、メッセージありがとう。ポーランドの姉妹たちの、み摂理の中での単純、素直、かつ強い生き方に、多くを学びました。SrJの目を通して見るポーランドも、新鮮でした。お互い、託された使命を、淡々と、信頼して、日々果たしていきましょうね。感謝と共に祈りつつ。

​ ***

 Sr.M・Tさま、メール、ありがとうございます。昨日、無事に東京に着きました。インターネットのニュースでは見ていたけれど、実際に日本に着いたら、ほんとうに暑いですね!

 ポーランドでは、時に薄いジャンバーを着るほど、涼しい日々が続いていたので、体全体が、感覚的にびっくりしているような感じです。

 ストラホチナの共同体は、巡礼者の受け入れと、「絶え間ない」(という感じの)共同の祈り、ミサ…で、ほとんど個人の時間がない、という感じでしたが、院長のSr.Bの心遣いで、Sr.Jとゆっくり話をしたり、散歩をしたりする時間があり、感謝しています。

 また、Sr.Jの感性を通して、ポーランドのこと、姉妹たちのことを、より豊かに学ぶことができました。

 ポーランドの姉妹たちは、とても日本のことを知りたがり、Sr.Bは、忙しい中で、日本の姉妹たちの写真を見る時間を取ってくださいました。姉妹たちは、とても喜んでいました。日本の姉妹たち一人ひとりに、よろしく!と。

 また、昨年のように、今回も、「日本のシスターたちに」と、お土産をいっぱいいただき、荷物に入りきれず(重量がオーバーして)、後で郵送することになりました。

 帰る前日には、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんがストラホチナを訪れ(お土産をいっぱいいただき!…これも、後から郵送です)、Sr.Jの通訳でいろいろと話をすることが出来ました。喜びいっぱいのお母さんでした。

 姉妹たちに会えるのを楽しみにしています。お祈りで支えてくださって、心から感謝しています。祈りつつ

 ***

 今回の出張、不思議と、ずっと太陽が付き添ってくれた。雨が降ることがあっても、それは、わたしが家の中に入った後だったり、外へ出る前だったり…。わたしが外にいる間は、いつも太陽がいっしょだった。

 出張前、いろいろ、むずかしい問題があった。「ここであきらめてはだめだ、前に進もう」。と自分に言い聞かせて出かけた。「♪~わたしの望みではなく、あなたの望みどおりに、あなたの願いどおりに、この身になるように~♪」と、たびたび自然に口ずさんでいた。

 太陽の「寄り添い」、わたしには、「真の太陽」であるイエスさまが、「大丈夫、わたしはあなたと共にいる、安心して、信頼して、歩き続けなさい」、と、言っているように思えた。

 出会った人々、友人、兄弟姉妹たちすべてに感謝。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年8月11日

・平和旬間15日まで-排除、無関心が支配する世界に真の平和はあり得ない(菊地大司教)

平和を実現する人は幸い@東京教区

8月6日から15日までのカトリック平和旬間の間、各地の教区で様々な行事が行われます。東京教区では、教区の平和旬間委員会の企画と、宣教協力体ごとの企画や小教区の独自企画などが行われています。

Heiwa1802 教区の行事は8月11日土曜日。午後2時からイグナチオ教会のヨセフホールを会場に、講演会が行われました。今年のテーマは「難民と共に生きる、日本社会の未来」と題して、弁護士で白百合女子大学の非常勤講師も務める駒井知会さんにお話をお願いしました。駒井弁護士は、難民認定を求める方々の法的支援に積極的に関わっておられる方で、法律家としての立場から、日本にやってきた難民申請者が、多くの場合、どう見ても人道的とはいえない扱いを受けている現実に対して、その救済のために取り組んでいる体験を、熱く熱く、分かち合ってくださいました。

Heiwa1805 今回このお話をお願いしたのは、まずもってカリタスジャパンと難民移住移動者委員会が、国際カリタスの呼びかける国際的キャンペーン「Share the Journey」に「排除ゼロキャンペーン」と題して取り組んでいることから、これを今年のテーマとしようと提案させていただいたからです。

 確かに偽装難民と思われる例もあることはあるが、しかし全体としては、たまたま最初に取得できたのが日本の観光ビザであり、その意味で必死に助けを求めてやってきた大多数の人たちを、杓子定規の規則で取り扱うことには問題があるとの指摘は、もう何年にもわたって変わりなく、その通りです。

 かつては日本の入管難民法に60日ルールがあり、入国してから60日以内に申請をしなければ申請自体ができなくなったものですが、今はさすがにそこは改正されたものの、難民認定のハードルが非常に高いことは、よく知られているところです。加えて、そういった申請者を、あたかも犯罪者のように施設に収容することは、用語としては優しく響くものの、実態は刑務所のような場所に閉じ込めてしまうのですから、その状況に遭遇する人たちの驚きと恐怖と失望はいかばかりかと思います。

Heiwa1806 人間はそう簡単に母国を捨てて旅には出ません.それは自分自身の立場から想像すれば、少しはわかることかと思います。母国を出て未知の国へ先のわからない旅に出ることには、それなりの大きな決断が伴うことだと思います。その旅路が、どれほど不安に満ちた心細いものであることか。

 それが、到着をした全く言葉のわからない国で、わからない言葉でまくし立てられて、支援者に会うことも適わず閉鎖施設に入れられることは、自分の身で想像すれば、かなり恐ろしいことではないでしょうか。多少なりとも想像力を働かせて、自分の身にそういうことが仮に起こったとして、と考えれば、どうでしょう。

 以下は、拙著「カリタスジャパンと世界」から、難民の定義の項です。

「現在、国際社会において『難民』を定義しているのは、1951年に採択された『難民の地位に関する条約(難民条約)』と、これに付随する1996年の議定書です。この条約では、次のような人たちが『難民』と呼ばれています。

『人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいるものであって、その国籍国の保護を受けることが出来ないものまたはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないものおよび常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有している国に帰ることが出来ないものまたはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの(難民条約第一条A2項)』。

すなわち『難民』となるためには、次の条件を総て同時に満たしていなければなりません。まず第一に、国籍国または常居所の外にいること、つまり国境を越えている必要があります。そして第二に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖があり、第三にその迫害が特定の理由によるものであり、さらに第四として、国籍国等の保護が受けられないか受けることを望まず、帰還することも希望していないということです。

客観的に見れば、この定義はかなり曖昧だと言わざるを得ません。そもそも『恐怖』というのは多分に主観的概念であって、人によって同じ状況に直面してもそれを恐怖と感じるかどうかは一様ではありません。しかし基本的人権の保護という立場に立つならば、この曖昧さこそが、迫害を受けている多くの人の命を救う鍵とも言えるのです」

 残念ながら現在の日本の入管行政は、この幅の広い難民の定義を、限りなく狭く厳密に解釈されているように思えます。

 この日は、今年の高温の天候を考慮して、距離の長い、麹町から関口までの巡礼ウォークは中止としました。目白駅や豊島教会、本郷教会からは多くの方が歩かれました。

Heiwa1808 夕方6時からカテドラルで、平和を願うミサを捧げました。聖堂一杯の多くの方が参加して祈りをともにしました。以下、ミサの説教の原稿です。

 福音の光に照らされながら平和を語り求める教会は、教皇フランシスコの言葉に励まされながら、この世界に忘れられて構わない人はだれ一人いない、排除されて良い人は誰ひとりいないと、あらためて強調します。それは私たちが、すべての人の命は例外なく、神の似姿として創造された尊厳ある存在であると、信仰のうちに信じているからに他なりません。

 私たちが希求する平和の根本には、人の命はその始めから終わりまで、尊厳を保ちながら守られなければならないという、ヨハネパウロ二世の言われる「命の文化」が横たわっています。

 世界各地で議論を巻き起こしている話題ではありますが、教皇フランシスコの裁可を持って教理省は先日、カテキズムの項目の改訂を通じて、国家の刑罰としての死刑を認めない姿勢を明確にされました。犯罪を罰しないという意味ではなく、人間のいのちの尊厳は、たとえ刑罰であっても奪うことが許されないと強調することで、教会はあらためて人間のいのちの尊厳こそが、すべての根本にあるのだと主張しています。

 教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮も、命の尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在します。教皇フランシスコは、危機に直面する命の現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間のいのちをいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。

 教皇就任直後に、教皇はイタリアのランペドゥーザ島を司牧訪問されました。
この島は、イタリアと言っても限りなくアフリカ大陸に近い島です。2000年頃から、アフリカからの移民船が漂着するようになり、亡くなる人も多く出て、社会問題化していました。

 難破した船のさまざまな部品を組み立てたような祭壇や朗読台。この象徴的な朗読台の前に立ち、教皇はこの日の説教で、その後何度も繰り返すことになる「無関心のグローバル化」という事実を指摘しました。その説教の一部です。

 「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

 母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない様々な事情と決断があったことでしょう。それがいかなる理由であったにしろ、危機に直面する命にいったい誰が手を差し伸べたのか。その境遇に、その死に、誰が涙を流したのか。誰が一緒になって彼らと苦しんだのか。教皇は力強くそう問いかけました。

 無関心のグローバル化を打ち破るためには、互いをよく知ろうと努力することが不可欠です。私たちは、未知の存在と対峙するとき、どうしても警戒感を持ってしまうからです。対話がない限り互いの理解はなく、理解のないところに支えあいはあり得ません。

 教会は、移住者の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を優先しなければならないと、長年にわたり主張してきました。一九九六年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネパウロ二世もこう指摘しています。

 「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです。・・・特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません」

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

 先ほど朗読されたマタイ福音書には、そのように記されていました。
そもそも私たちのキリスト者が語る『平和』とは、どういう状況を指しているのでしょうか。

 しばしば繰り返し強調されてきたことですが、教会が語っている『平和』というのは、単に戦争がないことや、または『抑止力』と呼ばれる戦う能力の均衡によってもたらされる緊張感の内にあるバランス状態のことではありません。さらには、世界の人がとりあえず仲良く生きているというような状態でもありません。

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を持ち出すまでもなく、教会が語っている『平和』とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の完全な状態が達成されている世界を意味しています。

 そのためには、神ご自身が賜物として与えてくださった命が、例外なく尊重され護られることではないでしょうか。賜物である命がないところに、世界はあり得ないからです。

 残念なことに、この数年の間、私たちの周囲では、役に立たない命は存在する価値がないなどと言う主張が聞かれたり、犯罪行為に走る人まで現れています。しかもそういった考えは、いまや一部の人の特別な考えかたではなく、少しずつ多くの人の心に入り込みつつある価値観であるようにも感じます。命の尊厳を人間が左右できると考えるところに、神の秩序の実現はあり得ず、従って平和が達成されることもありません。私たちはそういった命の尊厳を脅かす価値観を受け入れることはできません。

 この価値観の行き着く先は、利己的な目的のために他者を犠牲にしても構わないという生き方に他なりません。命の尊厳を軽視するところに、真の平和はあり得ません。排除のあるところに、真の平和はあり得ません。無関心が支配する世界に、真の平和はあり得ません。

 互いに尊重し、助け合い、それぞれの命が例外なく大切にされる社会を目指してまいりましょう。

 (菊地功・東京大司教 2018.8.13記)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

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 平和旬間を始めるに当たり、広島の祈りの日の前日5日に、広島教区の平和行事が行われましたので、広島まで出かけてきました。午後には幟町教会を中心に講演会や分科会が行われ、夕方5時から平和公園の原爆供養塔前で聖公会と共催の祈りの集い。全国各地から、主に青年を中心に参加者があり、東京教区からも数名が参加。広島教区と姉妹関係にある釜山教区からも青年たちがおそろいのTシャツで参加。

祈りと、聖公会主教、前田枢機卿、白浜司教による献水に続いて、カテドラルまでの平和行進となりました。今年は、基本的には歌を歌うなどせず、祈りのうちに静かに歩みを進める祈りの行進が企画されました。もっとも黙って商店街のアーケードを歩み続けるのも困難で、途中からは聖歌も聴かれました。でも、祈りのうちに歩み続ける行進にも、意味があると感じます。沈黙の祈りと、聖歌が組み合わさるような企画になればと思いました。

 幟町の世界平和記念聖堂は改修工事中のため、今年の平和祈願ミサは、お隣のエリザベト音楽大学のホールで。司式と説教は岡田大司教。教皇大使や前田枢機卿はじめ、全国の多くの司教司祭が共同司式でした。

 核兵器廃絶は、教皇ヨハネ23世の「地上の平和」から始まって今に至るまで、歴代教皇が強調する優先課題の一つであり、国連などの外交の場でも、繰り返し聖座が主張してきたことです。例えば、2017年の5月2日から、ウィーンで開催された「2020年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第1回準備委員会」では、参加した聖座代表は次のように述べて、聖座(バチカン)の立場を明らかにしています。

 「この準備委員会への聖座の参加は『核兵器から解放された世界をめざし、核不拡散条約の文字通りでその精神をくみ取った完全な履行によって、これらの兵器の完全な禁止という目標に向かって働く』その努力に、倫理的権威から協力しようとするものです」(私訳)

 その上で、核抑止力についてこう述べています。

 「核兵器は、間違った安全保障の感覚をもたらします。また、力のバランスによって、後ろ向きな平和(a negative peace)をもたらそうとします。国家は、自らの安全保障を保持する権利と義務がありますが、それは集団安全保障や、共通善や、平和と強く関係しています。この観点から、平和の前向きな理念が必要です。平和は、正義と、総合的人間開発と、基本的人権の尊重と、被造物の保護と、公共へのすべての人の参加と、人々の間の信頼と、平和構築に献身する諸機関の支援と、対話と連帯に基づいて構築されなければなりません」(私訳)

 また2017年9月20日には、聖座は核兵器禁止条約に署名批准し、その際に総会において、バチカン国務省のギャラガー大司教は演説でこう述べています。

 「皆が兵器拡散の重大な影響を非難する一方で、実際の世界では大きな変化は見られません。なぜならば、教皇フランシスコが指摘するように「私たちは『戦争反対』と声を上げるものの、同時に兵器を生産し、紛争当事者に売りつけているからです」

 「二年前の今日、教皇フランシスコは国連総会で演説し『核拡散防止条約(NPT))の文字通りの適用を通じて、核兵器の完全な禁止を目指しながら、核兵器のない世界の実現のために働く緊急の必要性』を強調されました」

 「聖座は、核兵器禁止条約に署名しすでに批准もいたしました。なぜならば、核兵器の完全な拡散防止と軍縮のために、核拡散防止条約の署名国にとって、早い時期に核軍拡競争をやめるため、また核軍縮のための交渉に誠実

09E36255-F46A-4A52-977E-F09C1D6ACE9Dにあたるための取り組みを実現させる大きな前進であり、厳密で効果的な国際的監視下での完全な軍縮交渉に向けての一歩として、全体としては大きな貢献であると信じるからです」(私訳)

 教皇様ご自身は、その後、「戦争がもたらすもの」という言葉を入れた、いわゆる「焼き場に立つ少年」の写真を広く配布したりしたことで、核兵器の廃絶を強く求める立場を明確にしています。

 もちろん、多くの人が、「核兵器のない世界」の方が、「核兵器におびえる世界」よりも望ましいと言うこと自体には賛成していることでしょう。同時に、国際政治の力関係や実際の軍事バランスを考えて、同じ目的地であっても、採用する道筋は異なることも確かです。加えて残念なことに、核兵器を保有している国同士の相互不信は根本で払拭されそうもありません。

 当然、核兵器の廃絶が一朝一夕で達成されるなどと、夢のようなことを考えているわけではありません。しかし同時に、現実は、立場の異なる当事者が、それぞれの採用した道筋こそが正統であり、正しいのだ、と主張するばかりで、目的地の山頂はガスの中に隠れてしまっているような状態です。

 だからこそ、教皇様のあの写真なのです。書類の上の文字ではなく、外交交渉の言葉ではなく、ののしり合いではなく、実際に肌と心で感じる悲しみ、苦しみ、喪失感、嘆き。その具体的な感覚を、具体的な心の叫びを忘れてしまっては、頂上が見えなくなるのです。

具体的な心の叫びをあらためて主張し、見失われそうになった頂上を、あえて見せつけ思いを呼び覚まそうとすることは、祈りとともに、理想を掲げ続ける宗教者の務めの一つであろうと思います。

戦争は想像の産物ではなく、「人間のしわざ」だからです。

(2018.8.11記)(菊地功・東京大司教)(「司教の日記」より転載)

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2018年8月11日

・連載・回勅「フマネ・ビテ」50周年③拒絶するアングロ・サクソン系米国人とイタリア人の違い(Crux)

 (2018.7.31 Crux Editor John L. Allen Jr.

 思ったほどのファンファーレは鳴らなかったが、これまでの回勅で一番論争の嵐を巻き起こし、議論され、悪く言われ、最も熱心な支持者からは、今までに出された教皇回勅の中で「最も誤解され、正しく評価されていない」と言われる、福者教皇パウロ6世の回勅-「受胎調節に関して」と副題をつけられた「フマネ・ ビテ」-が、50周年記念日を迎えた。

 経口避妊薬に「ノー」と言うことで、教皇パウロ6世は、自らの諮問委員会の大多数の期待を拒んだだけでなく、西欧諸国の台頭しつつあった世俗的な、自由志向の文化に背を向けたように見えた。この教皇の決定はカトリックの内部に、現実に決して終わることのない騒動を巻き起こした。

 ある意味で、「フマネ・ビテ前」の時代と「フマネ・ビテ後」の時代が明確になった。私たちが生きている「フマネ・ビテ」後の時代は、より騒がしく、めちゃくちゃで、混乱している。この時代は何事も当然のことと思われることがなく、教皇が「跳びなさい」と言われても、世界中のカトリック信徒が「どこまで高く飛べばいいでしょうか?」と口をそろえて問うことなど、あり得ない。

 今日、「フマネ・ビテ」を「まったくの死文だ」と言うカトリック信者がいる一方で、その意味のより広い先見性と人間の性行動の目的を回復させ、実践しようと決意した力強い少数派もいる。

 これらの異なった反応は、主に異なる見解や意見によるものだが、この回勅についてかなり客観的に言える点は、「明確にカトリックとしての法の理解を十分にさせるやり方だった」、あるいは「少なくとも理解させねばならなかった」にもかかわらず、そうならなかった、ということだ。

 それは、米国を含めたアングロサクソン文化の中でしばしば誤解される点だ。米国のメインストリートとローマの間には、よく知られた精神の「文化的相違」が、様々にある。

 最近の世論調査によると、西欧のカトリック信者の大多数が「フマネ・ビテ」の教えを拒絶している。たとえば、Pew Research Forumによる2016年の調査によると、毎週ミサに行く米国のカトリック信者で「避妊は道徳的に悪いことだ」と思っているのは、13パーセントにすぎない。司牧レベルでも、ほとんどの司祭たちが「一般のカトリック信者たちは、とうの昔に避妊とは折り合いをつけており、わざわざそのことで告解したりしない」と言うだろう。

 多くのアングロサクソン系米国人にとって、それは、ただの行動と法の間の耐えがたい分断にすぎない。なぜなら、我々は法とは「世俗社会の最少共通項」と考える習慣があるからだ。つまり、法は守られなければならないが、守られないときは二つの可能性しかない。厳重に取り締まるか、法が変えるかだ。

 法が法律書に記載されているにもかかわらず、実際には守られておらず、大々的に無視されているなら、米国の文化は我々に「それは組織全体の信用性を弱める」と考えるよう教える。しかし、カトリック信仰のるつぼである地中海文化圏、とりわけイタリアでは、単純に「法がどう理解されているか」ではないのだ。

 イタリアのユーモア作家のベッペ・セベルニーニ氏は彼の著作「La BellaFigura:A Field Guide to the Italian Mind(イタリア人の物の考え方の案内書)」の中で、イタリア人の考え方を完璧に捉えている。

 あの赤信号が見えますか?世界中のどこにでもある赤信号と同じものに見えますが、実はイタリアの発明なんです。あなたが単純に思うような、命令ではないのです。見た目で思わせるような警告でもない。実際よく考えてみるのに、よい機会だろう。それを考えてみることは、馬鹿げたことではない。無意味かもしれない。たぶん。 でも馬鹿げたことではない。

 多くのイタリア人は、赤信号を見ると、彼らの頭脳は禁止された(赤だ!止まれ!通り過ぎるな!)とは知覚しません。代わりに、刺激を感じます。それじゃあ、オーケーだ。何の赤だ?歩行者信号の赤?朝の7時だ。こんなに早い時間に歩行者はいない。つまり、通行可能な赤だ。「完全な赤」と言うわけじゃない。だから、行ってもいい。交差点の赤?どんな交差点だ?見通しのいいところで、道路にはなにもない。だから、赤ではない。「ほとんど赤」か「どちらかといって赤」だ。どうしようか?ちょっと考えて、それから行こう。

 そして、もしすごいスピードで車が行き来する交通の多い危険な交差点の赤だったら?-何の疑問の余地もない。私たちはもちろん止まって、青信号を待つ。フィレンツェにはこういう表現がある。「完全な赤」-「赤」は「官僚的に決まった言葉」、そして「完全な」は「個人的コメント」だ。

 こういう決め方が軽々しくされているのではないことに、注目してもらいたい。それらはほとんどいつも、後で正しかったと分かる、筋道の通ったプロセスを経た結果なのだ。筋道の立て方に失敗したら、そのときは救急車を呼ぶことになる。これが、交通規則であれ、法律であれ、税金であれ、個人的な行動であれ、どんな種類のものであれ、イタリア的な規則の捉え方なのだ。

 もしこれを「ご都合主義」というなら、自尊心から生まれたご都合主義であって、利己主義からではない。彫刻家のベンベヌート・チェリーニは、「自分は芸術家だから、規則を超越している」と思っていた。ほとんどのイタリア人はそこまでは思わないが、「自分たちで規則を解釈する権利はある」と思っている。
私たちは、「禁止は禁止」「赤信号は赤信号」という考えは受け入れない。私たちのやり方は、「それについて話し合いましょう」というものだ。つまり、法というと、「それについて話し合いましょう」と言うのが、いつも、カトリック的本能だったのだ。バチカンは永遠に無差別的で厳格で融通の利かないように思える教令を出す。

 しかし、それは「空間」(地球の隅々まで広く異なる文化圏に広がる1憶3千万の人間のいる教会)と「時間」(2千年を超えて続く伝統)を超越する法律を公布しようとするからなのだ。

 具体的状況にその法をどう適用するかについては、いつも「司祭が穏当な判断をするだろう」という常識的理解が法令には暗号化されている。それは、「不服従」ではなく、むしろ「良い司牧的やり方」とみなされる。

 ある意味で、それが教皇フランシスコの回勅「愛の喜び」が米国のカトリック信者たちの大部分に理解されなくしていた理由のひとつだった。同時に、特定の状況に応じて異なる適用の仕方をするよう用心深く扉を開きながらも、教皇が「法は変えていない」と主張したとき、米国人は矛盾を感じたのだ。

 その一方で、イタリア人は、いつものように「それが仕事」と思った。もちろん、これは、イタリア人の物の考え方を説明しただけで、それを必ずしも擁護しているわけではない。アングロサクソン人の典型が厳正さに向かうのに対し、イタリア人の物の見方に生来組み込まれた悪徳は、無統制だ。それは、内側が腐っていようと、外見をきれいに維持して満足している「bella figura(好印象の) 宗教」についても言えることだ。

 たとえば、ほかの車が2列にも3列にも止まっているローマの通りで車を駐車しようとしたことのある人なら誰でも、きっと、「もう少し交通規則にゆとりがあったって、この国が損するわけではなりだろうに」と言うだろう。

 結論がどうあれ、大事なことは、「カトリックを理解するためには、違いがあることを知っていなければならない」ということだ。おそらく、我々は「フマネ・ビテ」が発布された50年前に、その教訓を学んでいなければならなかったのだ、だが今日、この回勅は、どこから見ても、全く妥当性を失ってはいない」。

(翻訳「カトリック・あい」岡山康子)

・躍動する女性たち(1) 紛争続くタイ深南部に和平を(笹川平和財団)

*笹川平和財団の活動で以下のような興味深い報告が寄せられました。アジアの平和を考えるうえで大いに学ぶところがあると考え、転載させていただきます。(「カトリック・あい」)

(2018.8.3 笹川平和財団ニュース)【Faces of SPF】躍動する女性たち(1)紛争続くタイ深南部に和平を

 女性の社会進出と地位向上、エンパワーメントが叫ばれて久しい。笹川平和財団の職員は約110人。このうち女性が5割以上を占め、財団が展開するさまざまな事業などを牽引している。そこには苦労もあれば、喜びもある。躍動する女性たちにスポットを当て、事業とともにシリーズで紹介する。

 もう何度この地に足を踏み入れたことだろう―。2018年5月中旬、ひとりの日本人女性の姿が、マレーシアとの国境に近いタイの「深南部」と呼ばれる地域にあった。堀場明子。笹川平和財団の「アジアの平和と安定化事業グループ」に身を置き、主任研究員として奔走する平和構築の専門家である。
タイの首都バンコクから南へ1千キロ以上、マレー半島の中部に位置する深南部とは、ナラティワート、ヤラー、パッタニーの3県と、ソンクラー県のうちの4郡(テーパー、チャナ、サバーヨーイ、ナッタウィー)を指す。仏教徒が全人口(約6900万人)のおよそ95%を占め、イスラム教徒は4%ほどにすぎない仏教国のタイにあって、深南部では約200万人の住民の8割が、マレー系イスラム教徒である。
 彼らはこの地域を「パタニ」と呼ぶ。もともと深南部と、マレーシアのクランタン、トレンガヌ両州を含めた地域は、14世紀後半に成立した「パタニ王国」であった。自らを「パタニ・マレー」と自負し、「タイ人」というアイデンティティはもち合わせていない。言葉も、訛りのあるパタニ方言のマレー語を話す。文字は、マレー語をアラビア文字で表記する「ジャウィ」だ。タイにあって極めて異質な土地柄なのだ。
 この地では、「パタニ」の分離・独立を求めるマレー系武装組織と、タイ政府・軍との紛争が長年にわたり続いている。堀場がタイから日本へ帰国した直後の5月20日も、20カ所以上で、武装組織が仕掛けた爆弾が同時多発的に爆発し、タイ軍兵士の詰め所が銃撃された。こうした事件は、武力抗争が激化した2004年以降だけで、1万6千件を超え、7千人以上の死者を出している。深南部一帯には恒常的に戒厳令が敷かれ、軍兵士や民兵などが、1887カ所にものぼる検問所で、不審な車両や人物などに目を光らせている。
タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

 だが、紛争の内実は、より複雑怪奇である。数ある事件の中には、軍の「自作自演」のものもあるという。軍や警察に情報を漏らしたり、民兵として雇われたりしたパタニの若者らは、武装組織に「裏切り者」として殺害される。住民の間の傷は深い。
 タイ深南部は、政治的な解決がないまま泥沼に陥っているのである。
 そこになぜ、堀場が頻繁に足を運んでいるのか。笹川平和財団の事業として、タイ政府・軍と武装組織の双方に足場を置き、人的ネットワークを築きながら、両者の和平対話を仲裁、調停するという、決して一筋縄ではいかないミッションを自らに課しているのである。
 堀場はナラティワートとヤラーにある、とある2つの村をそれぞれ訪れた。武装組織のメンバーは村人に紛れている。勢い、軍は村に押し入り、とりわけ若い男たちを連行しては拘留する。村人が口を開いた。
 「この村では、すべての若い男たちが連れていかれたことがあります。1カ月前には100人ほどの兵士が来て、指紋や、DNAの試料を採取された」
 別の村の住民は「拷問を受け告白を強要されました。裸にされて水を浴びせられ、何度も殴られた」と打ち明ける。
 釈放される者もいれば、起訴される者もいる。連行や拘留を恐れ、隣のマレーシアへ逃げ込む者は後を絶たない。
イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

 治安維持と人権は、真正面から衝突するのが常である。だが、拷問のような人権侵害が許されていいはずはない。人権侵害から住民らを守り、起訴された彼らを法廷で弁護する法律家集団の非政府組織(NGO)に、「ムスリム弁護士センター」(MAC)がある。関係者は「裁判になっても、証拠がなく自分達が勝訴する場合が多い」と言う。

 堀場はMACをはじめ26のNGOを支援し、密接に連携している。個別に活動していた異なるNGOを束ね、ひとつのネットワークとして機能させもした。

 「一緒に活動した方がいいと考え、皆に呼びかけてまとめた」と、堀場は話す。

 堀場はヤラーでイスラム教のイマーム(指導者)と会い、ナラティワートでは仏教寺院に高僧を訪ねた。イマームも高僧も「この紛争は宗教紛争ではない。和平対話を進め平和的に解決することが重要だ」と、口をそろえた。「今度、イスラム教徒の人たちと、この仏教徒コミュニティーを訪れたい」。堀場は高僧に申し出た。

 パッタニーのホテルでは、仏教徒の集会が開かれていた。堀場を通じ笹川平和財団が支援するNGOが主催したものだ。45人が集まり、いくつかのグループに分かれて和平の在り方などについて議論している。「暴力では問題は解決しない」「対話はテーブルの上にあるだけで、生活は何も変わらない」。和平を希求するが、果たして実現するのだろうか…。参加者のそんな思いがうかがわれた。

「小さき民」の抵抗運動

 紛争の根源と本質を理解するために、歴史を駆け足で紐解かねばなるまい。

 「パタニ王国」はかつて、海洋交易の要衝として栄え、東南アジアにおけるイスラム教育の要所でもあった。パタニから日本の長崎に入港した貿易船の記録も残っているという。この王国を交易拠点とするアユタヤ朝(シャム=タイ)はやがて、朝貢国としてパタニを支配し、何度も反乱を抑え込んだ。

 堀場の共著「中東・イスラーム世界の歴史・宗教・政治」(明石書店)などによると、19世紀に入りパタニは、シャムの中央政府の直轄統治下に置かれる。1902年にはスルタン制も廃止された。そして1909年、マレー半島を植民地として支配していた英国と、タイとの間で、現在のタイとマレーシアの国境が画定される。この国境により、旧パタニ王国の地域は割譲され、末裔たちはタイの深南部と、マレーシアのクランタン州などに分かれて生きることになった。

 深南部ではタイ政府による統合・同化政策が進められ、パタニの人々の反発を引き起こしていく。例えば、マレー語やアラビア語の名前を名乗ることは禁じられ、教育や行政機関での公用語には、タイ語の使用が義務付けられた。
1947年には、カリスマ的なウラマー(イスラム教の指導者)であったハジ・スロンが、タイ政府に対し、公用語としてタイ語とマレー語を併用することなど、7項目の要求を突きつける。彼をタイ当局が投獄したことから、ナラティワートでは暴動が起こった。ハジ・スロンは7年後に釈放されたものの、行方不明となった。

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

 この事件の後、政府は統合・同化政策をいっそう強化していく。これに反発を強めるマレー系イスラム教徒は、1960年代から70年代にかけて、パタニ解放戦線(BRN)など多くの武装組織を結成し、武力闘争化していった。
 とりわけタクシン政権下の2004年1月には、ナラティワートにある軍施設への攻撃へと発展し、100人を超える武装集団によって大量の武器が略奪され、4人の兵士が殺害された。この年の4月には、武装集団が「クルセ・モスク」に立てこもり、軍兵士はモスクを襲撃し31人全員を射殺した。さらに、10月には国境の町タクバイで、デモに参加したイスラム教徒がタイ軍兵士に逮捕され、軍施設へ移送される途中に78人が窒息死する事件も起こった。この2つの事件にイスラム教徒は激怒し、反政府攻撃が急増する。
武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

 堀場は指摘する。「深南部紛争の要因は、政府の同化政策による『パタニ・マレー』というアイデンティティの喪失に対する懸念であり、政府の対応は不正義だという不信感だ」

 タイのある歴史家は「パタニの紛争は、小さき民の抵抗だ」と書いた。武装組織は犯行声明を出すでもない。ゲリラ戦による抵抗運動だという見方もされている。

コミュニティメディアで情報発信

 笹川平和財団の活動の軌跡を概観するとき、息の長い地道な取り組みの連続であることが分かる。
話は8年前の2010年に遡る。笹川平和財団はこの年、深南部での事業を初めてスタートさせた。事業を立ち上げたのは、「アジアの平和と安定化事業グループ」の現グループ長、中山万帆である。この事業の「開拓者」とでもいうべき存在だ。

深南部事業について語る中山万帆

 東京大学教養学部で比較文化を学んだ後、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院で社会人類学を専攻した。その後、国際交流基金に入り、2001年から2005年まではインドネシアの首都ジャカルタに駐在した。「地元のラジオでJpopを流したり、日本映画をテレビで放映したり、芥川賞作家を呼んでのトークイベント開催や、人身売買調査…。いろいろな国際交流プロジェクトを担当させてもらいました」
 この時期、バリ島での爆弾テロ事件(2002年)があり、中部スラウェシ州ポソでは、イスラム教徒とキリスト教徒との抗争が激化していた。スマトラ島北部アチェ州では、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と、インドネシア軍との戦闘が続いていた。この紛争を終焉へと導いたものは、皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらしたスマトラ沖地震と津波(2004年12月)であった。
 中山は2005年8月に和平協定が結ばれたことを契機に、「アチェの紛争地の和解」をテーマに事業を企画する。「紛争の中でもアチェが相当深刻で、アチェから逃げてきた友人の活動家もおり、ひどい状況だと聞いていた。何かやりたいと思った」
 そこで「アチェの中でもGAMの勢力下にあった地域と、インドネシア軍に協力していた地域があり、両方の地域の村から10人ずつ子供を連れてきて、演劇ワークショップを企画した。自分自身が企画したのは1回目のみだ。同僚が取り組みを継続してくれた。3回目のワークショップで参加者に、自分達がどんなに大変だったか、体験を地図にして描いてもらった。ここの林で銃撃戦があったとか、あそこでおじさんが亡くなったとか。書いているうちに、ひとりの男の子が泣き始め、それを見て、紛争下で敵対していた村から来た子供たちが『お前のところも大変だったんだな』と。成長した子供たちとは、今もフェイスブックなどでつながっています」
 中山が笹川平和財団へ主任研究員(当時)として移ったのは、2008年9月のことだ。
 タイの深南部では、クルセ・モスクとタクバイでの事件から4年ほどが経過していた。中山は財団の新たな事業を選定するにあたり、タイ深南部やアチェ、東ティモール、フィリピン南部ミンダナオ島、スリランカの紛争地に赴き調査した。地元の住民、有識者、研究者、ジャーナリストをはじめ、インタビューした相手は160人にのぼる。その結果、新事業はタイ深南部と決まった。
 「聞き取り調査をした時点では、深南部には国際支援がほとんど入っていなかった。宗教紛争ではなく民族紛争という歴史的経緯もあり、バンコクの団体が『パタニ』ヘ入って行っても、地元の人々の信頼を勝ち得ることは難しい状況だった。情報が少なく、わからないことも多い。何かできるのではないか、事業の可能性があると思った」
 ただ、中山は「最初は和平を成立させようと思って始めたわけではなかった。日本の財団による国際的な支援が入ることで、この紛争をもっと国際社会に知らしめたり、現地の人々のエンパワーメントにつながったりすることができないか、と考えた」と振り返る。
 そこで目を付けたのが、「ディープ・サウス・ウォッチ」というNGOと、これが運営するウエブメディアだった。当時はまだ、ディープ・サウス・ウォッチ以外にNGOらしいNGOはなかった。オフィスはプリンス・オブ・ソンクラー大学パタニ

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

校の構内にあり、トップの所長は仏教徒、編集長はイスラム教徒。このNGOと組み、現地の情報を発信するとともに、コミュニティメディアを支援していく。
 「タイ語やジャウィ語、それにマレー語の新聞もなかった。ただ、コミュニティーラジオは発達していた。マレー語やタイ語でラジオ放送をしているところはたくさんあったので、コミュニティメディアを入り口にできないかと思い、ディープ・サウス・ウォッチをパートナーに支援を始めた」
 コミュニティメディアの約30団体を集め、「ピース・メディア・ネットワーク」を形成し、紛争解決に向けた戦略づくりなども後押しした。

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

 また、ジャーナリスト育成の目的で講座を開講した。「週1回、10人ほどの若者が参加して記事を実際に書く。プロのジャーナリストにトレーニングをしてもらった」
 ディープ・サウス・ウォッチを通じ、タイ語と英語で、紛争と人権侵害の状況などに関する情報を発信した。「シナラン」(光)というジャウィ語の新聞も発行した。ディープ・サウス・ウォッチとの6年間にわたる取り組みにより、将来目指すべき統治のあり方などをめぐり、地元の有識者やコミュニティメディアの関係者が対話を行う場がパタニに形成され、NGO活動も活性化していった。

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

 もうひとつの主要な事業は、パタニの若者を、紛争地であるフィリピンのミンダナオ島に派遣し、平和構築やNGOの活動などについて学ぶ「インターンシップ・プログラム」である。

  「ミンダナオのNGOと協力し、若者たちに約3カ月間、平和構築の実践例を、実際に見てもらった。ミンダナオにはたくさんのNGOがあり、セーフティゾーン(安全地帯)の画定と監視を含むさまざまな平和構築の取り組みを行っている。それでミンダナオを選んだ」

 中山はしかし、時がたつにつれて、こうした活動の限界を感じ始める。「紛争の当事者に近い人たち、爆弾を置いている人たちを対象に訴求しないと、意味がないのではないか」と。

二人三脚の始まり

 その頃、堀場はまだ笹川平和財団の職員ではなく、インドネシアの紛争地での調査を終え、日本に帰国したところであった。その後、民主党衆議院議員の政策担当秘書となり、その傍ら、笹川平和財団から業務委託を受け、タイ深南部の事業に関わり始めていた。
 堀場は北海道札幌市に生まれ、京都で育つ。子供のころは「メチャメチャ活発な子」だった。小学校から高校までミッションスクールに通った。「学校では紛争のビデオを見たり、貧しい人たちの支援をしたりしていた」という。高校生のとき、ユーゴスラビア紛争があった。この紛争こそが、思春期の堀場に「仲裁」という意識を芽生えさせる。
 「日本人は中立的なので、仲介に向いていると思い、どうすればそういう仕事ができるのかと考えた。最初は、国連かなと思っていた」
多民族国家である旧ユーゴスラビアにおける紛争の本質は、「民族浄化」という言葉に象徴されるように、民族紛争であった。一方で、国際社会には宗教対立を火種とする紛争も多い。
  堀場は「宗教を知らなければいけない」と思い、上智大学神学部へ進学する。キリスト教を学んだ。3年生のとき、名門のバチカン市国教皇庁立グレゴリアン大学に2年間、留学した。キリスト論や聖書学、旧約・新約聖書などの授業を受けた。ただ、堀場が特定の宗教を信仰しているわけではない。
 上智大学を卒業後、今度は米国の現ボストンカレッジで、実践神学の修士号を取る。
 「実践神学というのは、単に頭の中で考えるだけではなく、神学的な思考や教えを実践し生かすというものです。私は和平を仲介したいと思っていたので、宗教と社会正義、和平がどうかかわっているのか、勉強しました」。そこで確信したこ

マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた

とは「政治が宗教を利用し、紛争を生んでいる。宗教が紛争の原因ではない」ということだった。
 日本に帰国後、母校である上智大学の大学院で地域研究を専攻し、平和構築の造詣を深める。この頃、インドネシア東部マルク州アンボン島では、キリスト教徒とイスラム教徒の住民が対立する宗教紛争が冷めやらず、散発的に爆弾の炸裂音がとどろいていた。堀場は博士号の取得へ向け、調査研究のために2005年から、アンボンに住み始める。
 「イスラム教徒とキリスト教徒の両方の地区でホームステイしました。インフラがズタズタで、電気も水もこない。教会とモスクは焼かれていた」。マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた
 マラリアにも2回、感染した。インドネシア中部スラウェシ州ポソなども調査した。そして、東南アジアのマレー系の連帯意識について調べるために訪れたのが、タイ深南部である。インドネシアで活動していたスイスのNGOの現地調査員としても働き、堀場のインドネシアでの生活は5年におよぶ。
帰国した堀場に、ある日、声がかかる。 「ちょっとだけ手伝ってくれませんか」
タイ深南部事業を立ち上げたばかりの中山であった。堀場が深南部を訪れたことがあり、関心をもっていると、人づてに聞いていたのだった。中山と堀場との出会いである。
 「衆議院議員はだいたい金曜日から地元へ帰っていないので、金曜日から月曜日までタイへ行き、火曜日に永田町に戻り、そのまま政策秘書の仕事をする。それを数カ月に一度繰り返していた」

和平対話の仲裁へ

 中山が内心感じていた事業への限界感と、堀場との出会い―。それが相まって、タイ深南部事業を和平対話の仲裁、平和構築の方向へと大きく舵を切らせることになる。
2011年7月、中山と堀場は京都の吉田山荘に、タイとパタニ双方の有識者らを招く。東伏見宮家の別邸として1932年に建てられ戦後、料理旅館となった吉田山荘での3泊4日の会議では、和平について話し合われた。笹川平和財団が初めて間に入り、仲裁を強く意識したこの「京都リトリート」には、タイ議会のシンクタンク、タイ深南部に広く影響力を有する政治家グループ「ワタ派」、ディープ・サウス・ウォッチ、バンコクの公共放送の関係者がそれぞれ顔をそろえた。歴史家と仏教研究者も加わった。いずれも和平に関心をもつ面々である。
2011年7月に開かれた京都リトリート会議

2011年7月に開かれた京都リトリート会議

 中山は振り返る。
「堀場さんと一緒に、『何ができるか』と考えたときに、紛争の政治的な解決を視野に入れ、和平につながる人脈も広げようということになった。専門が仲裁や和平構築の堀場さんに会うまでは、和平まで目指そうとは思っていなかった」

京都リトリート会議の舞台となった吉田山荘

 その後の中山と堀場にとり、タイ側のキーマンとなっていくのが、京都リトリートに出席したシンクタンクの関係者である。この人物との協力関係を深め、それを足場に、国家安全保障会議(NSC)や法務省を含む政府・軍との信頼関係を築いていく。

 この関係者は、武装組織側と水面下で接触していた。そしてある日、堀場と中山に唐突にこう切り出す。
「ある武装組織の幹部と会ってみないか」
武装組織との話し合いに、行き詰まりを感じていたようだ。根底には、双方の根深い不信感がある。

 2012年秋、中山と堀場は会いに行く。2人はインドネシア語に堪能だ。インドネシア語とマレー語は、起源を同じくするいわば「兄弟言語」であり、極めて似通っている。最初、タイ語で話しかけても、幹部からは何の反応もない。それが、マレー語で喋ると、堰を切ったようにパタニの苦境を語り始めた。

 この面会を端緒に、堀場は地道に、そして着実に、数ある武装組織とのパイプを築き、奥深く食い込んでいく。そして、政府・軍と武装組織との非公式な会合を取りもった。深南部の問題には唯一、マレーシアが介在しているが、タイ政府側にも武装組織側にも、日本の民間である笹川平和財団という、利害関係をまったくもたない完全な第三者の存在は、渡りに船だったといえよう。

「おじいちゃん」と「アキコ」

 堀場と中山の熱意と努力は、2013年に入り新たな展開を迎える。2月、インラック首相(当時)が公式対話を開始することを発表したのだ。これを受け、マレーシアの首都クアラルンプールで3月以降、計3回にわたり、政府と、武装組織のひとつであるBRNが交渉のテーブルに着いた。歴史的な出来事だといっていい。
 協議されたのは、①BRNは分離・独立ではなく、パタニ民族の解放を目指す組織であると認める②マレーシアを調停者とする③タイ治安部隊を撤退させ、パタニのマレー系住民の統治権を認める④和平対話を東南アジア諸国連合(ASEAN)、イスラム協力機構(OIC)、NGOなどの立会いの下で行う⑤治安事件で拘留されているすべての容疑者を釈放する―ことである。だが、交渉は進展せず、具体的な成果は得られなかった。
武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

 それ以上に、タイは、インラック氏の兄で、汚職防止法違反の罪に問われ亡命中のタクシン元首相を支持する勢力と、反タクシン派による激しい政争の渦に飲み込まれた。深南部をめぐる和平対話どころではなくなったのである。タクシン氏の帰国に道を開く恩赦法案を議会に提出した、インラック政権に対する「打倒」の叫び声は2014年5月、タイの「お家芸」ともいえるクーデターによってかき消される。
 実は、この間も堀場は、笹川平和財団による活動と支援をあきらめることなく、仲裁の労を取り続けた。
「和平対話は宙ぶらりんになり、頓挫したと誰もが思っていた。でも和平対話のタイ側の中核メンバーらとBRNの人たちに、複数の第三国で会ってもらっていた。ですから水面下で交渉は続いていたのです」
 陸軍司令官として、クーデターによりインラック政権を崩壊させたプラユット首相は、全権掌握から約7カ月後の12月、マレーシアのナジブ首相(当時)との会談で、和平対話を行う用意があると表明する。そして、アクサラー・グートポン将軍をトップとする新たな和平対話チームが発足した。一方、それまではBRNだけが交渉に臨んでいた武装組織側にも、大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 主な武装組織にはBRNのほか、「パタニ統一解放機構」(PULO)、「パタニイスラム解放戦線」(BIPP)、「パタニ・イスラム・ムジャヒディン運動」(GMIP)がある。PULOが内部対立から3グループに分裂しているなど、武装組織は一枚岩ではない。政府との対話と交渉が、もっぱらBRNとの間だけで行われていることに、他の組織は極めて批判的な視線を注いでいた。
 こうした状況を憂慮し、MARA Pataniの結成に奔走したのが、ほかならぬ堀場であった。
2014年9月、堀場はスウェーデンとドイツへ飛ぶ。亡命しているPLOやBRNなどの元指導者らに会うためである。堀場が彼らを「おじいちゃん」と呼べば、元指導者たちは彼女を「アキコ」と呼ぶ。
 「みんな孫がいたりして、おじいちゃんですよ。おじいちゃんと思っていますから。おじいちゃんと話している感じで喋り、思ったことをそのまま口に出す。『爆弾を置くことは国際社会から見ても良くない。そう思いませんか』といった具合です」
 堀場は快活で気さくだ。相手の目を見ながらモノを言い、話を聞き、自然体で接する。物おじすることもない。武装組織と政府の強者たちを相手に信頼関係を築き、「仲裁者

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

」として受け入れられているのは、彼女のキャラクターに負うところもあろう。
 堀場は「おじいちゃん」たちを説得した。「声をひとつにしないと、バラバラでは交渉できないですよ」
 武装組織側をまとめないと交渉は進まない—。そうした強い思いが、堀場を動かした。

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

 堀場は「好きじゃないとできない。あちらこちら飛び回って話をし、そうしたことが形になったとき喜びを感じる」と、顔をほころばせる。

 プラユット政権下では今日に至るまで、和平対話は継続されている。傍らには堀場が寄り添い、中山と二人三脚で並走し続けている。

民間だからできることがある

 タイ深南部の紛争は、国際社会からは「取り残された紛争」と揶揄されることさえある。国際社会と海外メディアの関心も極めて低い。その要因はさまざまだが、タイ政府が内政問題だとして、「内政干渉」を盾に関与を頑なに拒絶していることが大きい。また、紛争はタイ全土に広がるでもなく深南部に限定されており、東南アジア地域や国際社会への影響は乏しい。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)などの国際テロ組織が、流入している形跡も見当たらない。
 堀場は、日本政府が将来的に深南部問題にかかわることへの期待を込めつつ、民間の役割をこう強調する。
 「和平対話を促進する活動に、日本政府が最終的に入るべきだと思っている。その前に民間ができることがもっとあり、先に笹川平和財団という民間が下地を作り、ある程度できた段階で日本政府に入ってもらえばいい。政府はもっと民間と組まなければならない。まず民間がやり、政府が入ってくるというモデルを、深南部事業によってつくりたいと思っています」
 笹川平和財団が深南部事業を始めてから、2020年で10年となる。
 「とりあえずあと2年で、限定的な停戦などを成功させることが、目下の目標です。和平対話にはさまざまな段階があり、完全な自治というものを付与しない限り和平はあり得ませんが、とりあえず武器を置き、パタニの人々も自治について勉強する必要がある。その方向へシフトさせていこうというのが、私の今後の戦略です」
 フィリピンのミンダナオ島での紛争は、終結するまでに40年以上、コロンビア内戦は50年以上を要した。「地道にやるしかない」。堀場の自らに言い聞かせるような言葉からは、強い意志と決意がうかがわれる。
 中山は今後の課題について、次のように語る。
 「タイ側の政治家や上層階級にどれだけ譲歩してもらえるか、そのためのロビー活動が次のフェーズです。また、パタニの人々も暴力ではなく、政治的な要求によって問題を解決していく運動へと洗練されていかなければならない。そこも課題です」
=敬称略(特任調査役 青木伸行)

2018年8月4日

・連載・回勅「フマネ・ビテ」50周年②「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、「妥当性の是非を論じる」のは駄目

 回勅公布50周年に当たって、回勅の支持者たちは、「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、妥当性の是非を論じるのは認められない、と言う。50年前に、「フマネ・ビテ」が発表された時、経口避妊薬を「ノー」とするパウロ6世の衝撃的なこの回勅を、批判者たちは「的外れで世間の常識とかけ離れたもの」として排除した。当時のお調子者たちは、回勅を嘲笑し、ビートルズが前年に発表した「Fool on the Hill丘の上の愚か者」の曲、とくに「雲の中にある彼の頭…誰も彼のことを聞きたくない」と反復する箇所を歌ったものだった。

 それから半世紀、回勅の支持者たちは、この回勅が何であろうとも「的外れ」ではない、と言う。例えば、イタリアのギルフレド・マレンゴ師は「フマネ・ビテ」発表当時、「この回勅は、時のしるしをよく読んでいる」と語っていた。

 彼は「『フマネ・ビテ」が公表された時、世界の多くの地域で非植民地化が終わろうとしていた」とし、「多くの国際機関に指示された受胎調節の政策-コンドームの配布と堕胎の合法化のような政策は、多くの国々、とくに発展途上の国々の政策に影響を与えることを、多くの人々が支持するしるしとして懸念されました」。そして、「これらの政策はイデオロギーの植民地化と理解することが出来ます」と。(このような言い方は、教皇フランシスコの言い方に倣ったものだ。教皇は、多くの機会に、「西欧の国々とNGOが貧しい国や地域に対して人道援助の代わりに進歩的な性道徳を押し付けている」ことを「イデオロギーの植民地化」として批判してきた)

 昨年、教皇フランシスコは、この回勅がどのようになって来たかを調べる委員会を設けた。ローマの聖ヨハネ・パウロ2世研究所で神学的人類学を教えているマレンゴ師は、委員会のリーダーで、最近、「 The Birth of an Encyclical: Humanae Vitae in the Light of the Vatican Archives」を出版したが、現在のところ、同書はイタリア語版のみだ。1960年代末には「豊かな西側諸国に広がっていた『反出生』の考え方を、まだ貧しかった新興国に植え付けようとする意志が存在しました」と、彼はemailを通してCruxに語っている。

 バチカンの生命アカデミーの委員を長く務めているインド人医師、パスコール・カバロは、Cruxに対して、「カトリック教会が受胎調節を絶対に支持しないとする一方で、人々はしばしば教皇パウロ6世の「責任ある親の務め」に対する開かれた姿勢を見過ごしてきました」と指摘した。

 教皇フランシスコは2015年の飛行中の機内での会見で、前任の教皇に倣って、一人ひとりが司祭とともに「『責任ある親の務め』をどの様に果たしていくべきか」を追求していく必要性を説き、「ウサギを育てるようにして、良いカトリック信者とするために、という言い訳として、そのように考える人がいますが、そうではありません」と語っている。

 カバロによれば、いくつかの国際機関を駆り立てている課題は、何十年も前と同じように、今日も強力だ。「途上国に対する援助の中には、女性の性と妊娠に関するプログラムに避妊と堕胎の促進とつながるもの」があり、「フマネ・ビテ」のおかげで、そうした問題があり、他に多くの選択肢があることが広く知られるようになっている、と指摘する。

 そして、今、回勅の幅広いビジョンを実現するために、教会はあらゆる場面で積極的にならねばならない、と考えている-妊娠したが出産が難しい状況にある人を助け、養育に困難を感じている家庭を幅広い支援で支え、健康に育ち、社会に貢献する市民となるための教育とその他の手段を提供する、などでだ。

 一方で、マレンゴ師は、家庭生活の中で「教会の内外で、『フマネ・ビテ』の主張と指針が遠い存在とみられたり、まったく知られなくなったりしている」ことも認めている。原因は、回勅が出された当時の議論がもっぱら避妊薬の是非をめぐる意見対立に終始し、その結果、人間的な愛と「責任ある親の務め」となる意義について「フマネ・ビテ」が示した積極的で先見性のある側面を受け入れるようにする方策をイメージするのが、もっと難しくなったためだ、と見ている。

 米国の神学者でカリフォルニアのオレンジ教区の事務局長とケビン・バン司教の神学顧問を兼ねるピア・デ・ソレンニ女史は、「フマネ・ビテ」が今も極めて適切な文書であり続けているとみる1人だ。

 彼女はCruxに対して、「回勅は真の愛についての文書です」としたうえで、現在起きているマカリック枢機卿や他の教会指導者たちが関係する性的虐待について数多くの訴えが出ていることは「暮らしの中で貞節を守っていない時に何が起きるかを、はっきりと示しています」「そして、回勅の教えが無視されると何が起きるかを、とても良く示しているのです」と強調。

 さらに、教皇フランシスコが繰り返し指摘する「使い捨て文化」の考え方に同調する形で、「私たちは愛を軽視し、人々を利用しているのです」と述べ、「避妊しなければ、堕胎の必要もない。私たちが、まだ生まれていない人の命を、重荷であり存在すべきでないもの、とみる避妊の心理に取り込まれることで、堕胎は存在するのです」と断言した。

 アメリカ・カトリック大学の学生で神学と哲学を専攻するジャンヌ・マリー・ハサウエイも、教皇の回勅で書かれた女権拡張運動への訓戒は、その当時、「女性の権利の否定を意味するもの」と広く受け止められていた、と見ている。「結局のところ、避妊と堕胎は、社会が、女性の扱いで重大な改善をしないようにする”バンド・エイド”です」「教会は、人間の尊厳のレンズを通してすべての問題を見るようにする文化への移行を提唱し、避妊と堕胎を否定したのです」。生殖能力啓発(Fertility Awareness)を基礎にした家族計画の手法は、女性に彼らの体の中に異なる道を提示している-それは、男性に、命の複雑さを認識し、敬意を払うように求めるものだ、という。

 「堕胎や避妊(あるいは両方)は、人類の繁栄-もっと言えば、女性の繁栄-のために必要、とする考え方は、人生は、私たちが望むことと実際に起きることの間の均衡をとる行為、とする壊れた世界観からくるもの」「性は『私たちが望むもの』で、生まれてくる子供たちは『私たちに起きること』という考え方です」。これに対して教会は「より深い現実への強力な声です-人生はそれほどきちんと整ったものではない」、そして「これは特に性の領域で真実です。そこでは、二つの命が三つと一つになるように、共に力を合わせるのです」としている。

 生物倫理を教える倫理神学者のスペイン人司祭、ホセ・ラミロ・ガルシア師は、「フマネ・ビテ」が、すべてのキリスト教の教会の基本的に共通の教えとして使われることで教会一致の運動にも意味をもつ、と主張する。それは常にはっきりとは見えないが、当時の教会内部の反応によって影響されている、と言う。

 さらに、「当時、司教たちの中に、回勅に反対する人がいたことは、回勅の実施に、とても否定的な影響を与えました」とし、具体的に、全世界で、四つの司教会議が、回勅公布後に司牧書簡を出し、バチカンの指針に拘束されない旨を表明した事を挙げた。その一つがカナダの司教協議会で、司教団として、「ウイニペグ声明」として知られることになった、回勅に反対する立場を示す書簡を出した。

 ただし、カナダ司教協議会は今年になって、その改訂版として「結婚の愛の喜び」と題する声明を出し、前の生命よりも回勅に前向きな姿勢を明らかにしている。「多くの人が、回勅を、避妊を否定するメッセージに矮小化し、誤解していましたが、回勅の本当のメッセージが、イエス・キリストが私たちに約束された命の豊かさへの力強い”イエス”だということを、今、再確認しているのです」とガルシア師は語った。

 そのカナダのクリスチャン・レピーネ、モントリオール大司教は、カナダ司教団の態度の変化は時の流れるに一因がある、と見ている。「回勅が公布された時、もっぱらの関心は避妊にありました」とCruxの電話インタビューに語った。「しかし、時とともに、避妊が人々の生活にいきわたると同じように、視野が広がり、回勅が示す他の側面すべてとその基礎を知るようになったのです」と。

 さらに、「回勅が出た1968年は今とは違っていた」とし、この回勅とその教えを前向きに捉えなおすために、なお多くのことをする必要があるが、「その基礎」は、回勅を補強するヨハネ・パウロ2世の神学とともにある、と説明。「このtheology of the body(身体の神学)の中に、愛することの使命、他に対する使命、互いが互いのためにあるという賜物、を見る人が時を追って増えています。夫婦の霊的交わりと愛の豊さとともに、です」と語っている。

 (「theology of the body」はヨハネ・パウロ2世が教皇となって初めの何年かに、129回行ったサンピエトロ広場での毎週水曜の一般謁見のテーマだった)

 Pew Research Center(ワシントンに本部を置く独立系の社会研究所)が2016年に行った世論調査によると、毎週教会のミサに出ている米国のカトリック信者の中で「避妊が道徳的に誤った行為である」と考えている人は、わずかに13パーセントだった。

 学生のハサウエイにとって問題なのは、一般の信徒が教会の教えを拒んでいることではなく、そもそも、教えを理解していないことだ。「私たちは教会の教えを一行か二行にしてしまっています-『避妊は悪いことだ、だからできない』と言うようなものです」。そして、こう言う。「私たちの社会は、こう言います-避妊は人間の命において大きな部分をつなぐ欠かすことのできない小さな部分だ、生粋の、恋愛に適した関係、自由と冒険、充足と安定だ、と」。

 だが、彼女にとって、そうした見方は「疲労困憊で嫌気のさる生き方」につながる。ばらばらになった部品は全体で一つになる、という現実を見損なっている。回勅は、全体についての『青写真』-「人類は神と関係を持つために創造され、家庭は関係を学ぶ学校、家庭の基礎は男性と女性の友情にあることを、基本に置いているのです」。そして彼女は言う。「パウロ6世は、避妊をばらばらになった部分としてとらえていました。それは人間生活の接着剤ではない、と」。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)