・使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)」英語・要約版・試訳完了!

(2019.4.8 カトリック・あい) 2日発表された教皇フランシスコの使徒的勧告「Christus visit(キリストは生きています!)」の英語・要約版(バチカン広報発表)の「カトリック・あい」による全訳は以下の通り。中見出しは「カトリック・あい」の判断でつけていきます。(「カトリック・あい」南條俊二)

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 使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)-若者たちとあらゆる神の民へ」(要約版)

*目次*

序文「キリストは生きています!」

第1章「聖書では、若者についてどのように言及されていますか」

第2章「イエス・キリストは常に若い」

第3章「あなたがたは、神の”今”です」

第4章「すべての若者への素晴らしいメッセージ」

第5章「青年期の道のり」

第6章「ルーツをもった若者」

第7章「若者の司牧」

第8章「召命」

第9章「識別」

*要約版本文*

序文 キリストは生きています!

 

 「キリストは生きています!彼は私たちの希望であり、この世界で最も美しい若さをもたらします。キリストが触れるとき、あらゆるものは若返り、新たにされ、いのちに満ちあふれます。それゆえ、あらゆる若いキリスト者ひとりひとりに、私は申し述べたいのです。この文書の冒頭に掲げた言葉を、もう一度。『キリストは生きています! そして、彼はあなたが生きることを望んでいるのです』と」

 「若者シノドス」を受けた使徒的勧告勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)はこのような冒頭の言葉で始まる。勧告は教皇フランシスコが3月25日に訪問先のロレトの聖なる家で署名され、若い人々と、「すべての神の民」に宛てて出されたもので、9章299節からなる。そして、昨年10月の「若者シノドス」で出された実り豊かな反応や討議に触発された、と説明されている。

第1章「聖書では、若者についてどのように言及されていますか」

 

*イエスは若者を軽視するのを好まれません

 教皇は旧約と新約聖書の記述を豊富に引用しつつ、神が若者をどのように見ておられるかを考察。イエスは大人が自分より若い人たちを軽視することを好まれず、「あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい」(参照:ルカ 22,26)と言ったことを思い起こす一方で、「若い人たち、長老に従いなさい」(1ペトロ5,5)と、聖書が年長者への尊重を説いていることも指摘されている。

 教皇フランシスコは、まず「若い人々が高く評価されない時代において、いくつかの文書は神が彼らを違った目で見ておられることを示している」(6項)を想起され、旧約聖書から若い人々の姿を簡明に紹介されている-ヨゼフ、ギデオン(7項)、サミュエル(8項)、ダビデ王「(9項)、ソロモンとエレミア(10項)、とても若いユダヤ人の召使いのナアマンと若者のロト(11項)。

*永遠に老いることのない心をイエスは望まれます

 そして、新約聖書に移り、「イエス、永遠に若者である方は、老いることのない心を、私たちにお与えになることを望んでおられます」(13項)と語られ、さらに「私たちも肝に銘じておきましょう-イエスは若者を見下したり、威張り散らしたりする大人たちをお嫌いになる、ということを。そして、イエスは『あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のように…なりなさい』(ルカ福音書 22章26節)と言われます。イエスにとって、歳を重ねることが特権を得たことにはならず、若いということが価値が低いとか、敬意を払われない、ということにはならないのです」とされ、このように強く言われる。「善良で、主に心を開く、異なった生き方に若さを費やすことを、決して後悔すべきではありません」(17項)

第2章「イエス・キリストは常に若い」

 

*イエスの生き方に倣う

 教皇は、イエスの少年時代に言及され、両親とエルサレムに行き、過ぎ越しの祭りの期間が終わった時に両親と離れ、神殿で見つけられて、ナザレに帰った、という聖書の箇所を取り上げられた(26項)。そして、教皇は、「イエスは引き籠りがちの若者、自己陶酔の若者だった、と考えるべきではありません。彼の対人関係は、ご自分の家族、人々との生活の中でともに過ごす、若者のそれだったのです」「誰も彼のことを、普通ではないとか、他人とは別扱いの存在とか、とは見なしてはいませんでした」(28項)と強調。さらにこう指摘されている-「両親の信頼のおかげ」で、少年イエスは「自由にふるまい、他の人たちと旅することを学ぶことができました」(29項)。

 イエスのこのような生き方は、若者を司牧するうえで無視すべきではなく、「若者たちを彼らの家族と共同体社会から隔離したり、汚染から守られた選ばれた小集団に入れたりする司牧計画をたてないように」と注意され、そのようなことよりも、「彼らを強くし、寄り添い、他の人々と出会うようにさせ、福音宣教の中で思いやりのある奉仕に関わるように計画を立てる」ことが必要(30項)と指摘された。

 また「イエスは、あなた方のその若さから遠ざかったり、それがないところから、あなた方、若者たちに教えることはしない。ご自身があなた方と共有する若さについて、お教えになるのです」と説明され、イエスの中に、若い心に典型的な多くの面を見ることができる(31項)とし、「私たちの側におられるイエスと共に、私たちは真の泉から飲むことができます-その泉は、私たちの夢、私たちの計画、私たちの大きな理想を生き続けさせ、人生を真に価値あるものにするものを明白にするように私たちを駆り立てますと」(33項)「他の若者たちの暗闇に星を輝かすように、と主は私たちに呼び掛けておられます」(33項)と教皇は語られる。

*教会の若さとは

 さらに、教皇は「教会の若さ」について話され、次のように書いておられる。「教会を老いさせたり、過去に閉じ込め足りない、後戻りさせたり、立ち止まったままにさせようとする人々の束縛から、教会を解放してくださるように、主に願いましょう。そして、『この世が与えるすべてを受け入れるから教会は若いのだ、自分の使命を脇に置き、他の皆がすることをするから、教会は新たにされるのだ』と考えようとする誘惑から、教会を解放してくださるように。そのような考えは誤っています!教会そのものである時、神の言葉、ご聖体、キリストの日々の現存、そして私たちの命の中にある聖霊の力から生まれる新たな力強さを受ける時に、教会は若くあるのです」(35項)。

 また、教会のメンバーとして、私たちは「他の人々から超然としている」べきではなく、また同時に、「私たちは、あえて異なる存在でなければなりません。この世のもの以外の理想ー寛大さ、奉仕、純潔、忍耐、赦し、個人的な召命に対する忠誠、祈り、正義と共通善の追求、貧しい人への愛、打ち解けた友情ーを掲げるように」(36項)。そして、教会はその情熱を失なわせ、「誤ち、世俗的な形の安全を求めることに逆戻りする誘惑にかられることがあります。若い人々は、そうした教会が若くあり続けるのを助けることができるのです」(37項)と強調している。

 続いて、教皇は、ご自身にとって最も親しみのある教えの一つに立ち戻り、このように説明された。「イエスの姿は『魅力的で効果的なやり方』で示されねばなりません」、つまり、「教会は自分自身に捕らわれすぎてはならず、何よりもまず、イエスを映すものであらねばなりません。それは、いくつかのことを具体的に変える必要がある、ということを謙虚に認識することを意味します」(39項)。

*若者が教会を煩わしいと感じる深刻な理由

 勧告は、教会の存在を「煩わしい、苛立ちを覚える」と感じる若い人々がいることを認識し、こうした受け止め方の根には次のような「深刻で理解できる理由」がある、としている。それは、性的、財政的な醜聞、若者の繊細さに効果的に対応するような準備ができていない聖職者… キリスト教共同体の中にある若者に割り当てられた消極的な役割、教会の教義と現代社会に対する倫理的な立場を説明することの教会にとっての難しさ」だ(40項)。

 そして、「もっと他人の話を聴き、この世を単純に非難する以上のことをする教会」を求め、「黙りこくり、話すことを怖がる教会や、二つや三つのことを巡っていつも、とりつかれたように戦っている教会」は見たくないと思っている若い人々がいる、と指摘し、「「若い人たちに信頼される教会であるために、『福音をよりよく理解するのを助ける光を提供するために何ができると言わねばならないか』を認識し、謙遜な心を取り戻し、ひたすら人の話を聴く時間が必要」(41項)と訴える。恐れを持ちすぎる教会の例として、「女性の権利を守ろうとする努力」にいつも批判的になり、「そのような要求がもつリスクと潜在的な誤り」をいつも指摘する、ことを挙げ、これに対して、「生きている教会」は、「女性の正当な主張に関心を向けることで対応する」ことができ、しかも「いつくかのフェミニスト・グループの提案にすべて同意することはしない」(42項)としている。

*「はい」というマリアの答えは

 以上のように述べたうえで、教皇は「マリア、ナザレ出身の若い女性」を取り上げられ、彼女の「はい」は「進んでリスクを取り、自分の持つすべてを賭ける用意がある、自身が約束の担い手だとを知っている確かさ以上の保障はない」ことの意思表示とし、こう問いかけられる-「あなた方一人一人にお聞きしますーあなたは自分を約束の担い手とみていますか?」(44項)と。マリアにとって、「与えられた課題に『いいえ』と答える理由はなく、自らを危うくすること、そして彼女は『神の影響を与える者』となった。

 教会の核心はまた、若い聖人たちに満たされることにある、とし、教皇は聖セバスチャン、アッシジの聖フランシスコ、聖ジャンヌダルク、福者の殉教者・フーイェンのアンドレ、聖カテリ・テカウィタ、聖ドミニコ・サビオ、幼きイエスの聖テレジア、福者チェフェリーノ・ナムンキューラ、福者イシドロ・バカニャ、福者ピエール・ジョルジオ・フラサーティ、福者マルセル・カロ、若い福者チアラ・バダノを思い起こされた。

第3章「あなたがたは、神の”今”です」

 

*若者は「世界の未来」だけでなく「現在」でもある

 私たちは「若い人たちは私たちの世界の未来だ」とだけ言うことはできない、と教皇は言われる。「彼らは世界の現在、今、でもある。世界を豊かにするために助けているのです」(64項)と。それゆえ、彼らの言うことを聴く必要がある-たとえ、「あらかじめ用意された答え、既製品のような解決策を、自分たちが抱える現実の問題を表に出そうとせず、彼らが受ける課題に向き合うことをせずに、提示する傾向がある」としても(65項)だ。

 「今日、私たち大人は、よく今の若い人たちの問題と失敗をあげつらいがちになります… ですが、そのような振る舞いの結果は何でしょうか?彼らとの乖離を広げ、親近感を弱め、助け合うことを減らしてしまいます」(66項)。父、司牧者、そして若者の案内者になるように求められている人は、誰もが「他の人々が壁を見るだけの所に通り道を識別し、他の人々が危険だけを見る所に可能性を認める能力」を持つ必要がある。

 それが「父なる神の物事の見方-神は、若者の心にまかれた善なる種を養い、育てるにはどうしたらいいかをご存知です。そうして、若者一人一人の心は「聖なる土地」と考えられるべきなのです」(67項)。教皇はまた、私たちに、物事を一般化しないように勧められる。それは「今日の”若者”のもろもろの世界は、とても数多い」(68項)からだ。

*若者が置かれている危機的な状況、悲劇

 若い人たちに起きていることについて、教皇は、戦乱の中で生きている若者たち、搾取されている若者たち、誘拐、組織犯罪、人身売買、奴隷、性的搾取、強姦の犠牲者たちを想起して語る。そしてまた、犯罪と暴力によって暮らしている若者たちのことも(72項)。「たくさんの若い人々は様々なイデオロギーに取り込まれ、他の人々を破壊し、恐怖にさらし、もてあそぶ兵士や攻撃隊として利用され、搾取されています。さらにひどいことは、彼らの多くが結局、一匹狼、他の人々に敵意と嫌悪を抱くものになってしまうこと、政治的な集団や経済的な権力者のどう猛では快適な戦略のための、たやすい標的となること、です」(73項)。

 さらに頻繁に見られるのは、宗教的、人種的、経済的な理由で、社会的に無視され、排除される苦しみに遭っている若者たちだ。教皇は、思春期の子供たちと若者たちが「妊娠し、堕胎に苦しみ、HIVの広がり、麻薬、博打、ポルノなど様々な形の中毒、そして住む家、家族、生活資金のないストリートチルドレンの窮状に置かれている」(74項)を指摘した。女性たちにとって、置かれた状況は二重に苦痛で困難だ。

 「教会として、私たちの若者のこのような悲劇を前にして、涙を流さずには、決していられないでしょう。慣れてしまうことは、決してないでしょう… 私たちがしてしまう可能性のある最悪なことは、別のメッセージで、別の気晴らしで、些細なことへの熱中で、若い人々を単純に麻痺させることで解決しようとする俗物精神を取り込むことです」(75項)と語る教皇は、若い人たちが、自分たちよりもさらに酷い状態にある仲間のために涙を流すことを努力して覚えるように勧めています(76項)。

 教皇は次のようなことが事実だ、と説明しますー「権力の座にある人々はいくらかの支援をしますが、それはしばしば高くつきます。多くの貧しい国では、いくつかの豊かな国か国際機関が経済援助をしますが、それは通常、性行為、結婚、生活、あるいは社会正義について西欧の見方を受け入れることと結びついています。このような『イデオロギー的植民地化』は、若者たちに特に有害です」(78項)。また教皇は、今日の文化-若々しい美しいモデルを提供し、若い肉体を広告に使うような風潮-に警告を発しますー「これは、若い人たちとほとんど関係がありません。大人たちが自分のために若さをかすめ取りたいだけです」(79項)。

*若者たちにとっての性的いとなみの重要性

 「欲望、痛み、あこがれ」に関連して、教皇は、性欲と、若い人たちの生活と「個性の中で成長する過程」にとって性的いとなみが「欠かせない重要性」を持っていることについて話す。教皇は書いているー「性行為を絶えず称揚し、身体と健全な関係を維持し、穏やかで情緒のある生活を送ることは、やさしいことではありません」。それゆえに、あるいはほかの理由のために、この問題について話し合いを希望する若い人々がいるという事実があるにもかかわらず、教会が裁きと非難の場とみなされることから、性道徳が「教会から理解されない、かけ離れたこと」とされる原因となる傾向がしばしばある(81項)。

 科学、生物医学的な技術、そして神経科学の発達を目の当たりにして、教皇は、これらがいかにして「生命が贈り物であること、私たちが生まれながらの限界をもった被造物であることを、私たちに忘れさせ、技術の力を振り回す人々によって搾取されるに任せる」か(82項)を思い起こされます。

*「デジタルの世界」のメリットと有害性を知るように

 そして、勧告は、「コミュニケーションの新たな方法」を作り出し「独自の情報の循環を促進」することができる「デジタルの世界」にテーマを変える。多くの国で、ウエブとソーシャル・ネットワークは「既に、若い人々に届き、関与させるしっかりと確立した場を提供しています」(87項)。

 だが、これらはまた、「孤独、巧みな操作、搾取、そして暴力、”闇サイト”の極端なケースにまで至る」場となり得る。「デジタル・メディアは、中毒にし、孤立させ、具体的な現実との触れ合いを徐々に喪失させていくリスクに、人々をさらします… 暴力の新たな形-たとえば”サイバー(ネット)いじめ”-がソーシャルメディアを通して拡散します。インターネットはまた、ポルノと性的目的のために人を搾取する行為を拡散する経路となり、ギャンブルにも直結するのです」(88項)。

 忘れてならないのは、デジタルの世界には「巨大な経済的利益が存在」し、そこでは「良心と民主的な道筋を操るメカニズム」を作り出すことが可能だ、ということだ。その世界には、閉鎖回路があり、「偽のニュースと誤った情報の拡散を促進し、偏見と嫌悪を助長する… 個人の評判は、オンラインで操作される”略式裁判”で危険にさらされます。教会と司牧者たちもこうした現象から逃れられません」(89項)。

  「若者シノドス」前に世界中から集まった300人の若者たちが準備した文書には次のように書かれているー「オンラインを通じた人間関係は非人間的なものになり得る」、そして、仮想現実の世界への没頭は「ある種の”デジタル移民”となることを好み、自分の家族と文化的、宗教的な価値から離脱し、孤立した世界に入ることにつながる」(90項)と。

*移民問題は我々の時代の縮図

 続いて教皇は「我々の時代の縮図としての移民問題」に移り、多くの若い人たちが移民問題に巻き込まれていることを思い起こされた。「教会の懸念は特に、戦乱、暴力、政治的あるいは宗教的な迫害から、気候変動によって引き起こされているものも含む自然災害から、そして極度の貧困から避難する人たちに絞られています」(91項)。

 彼らは機会、よりよい未来への夢を追っている。他の移民たちは「西欧の文化に魅かれ、時として深刻な失望を招くような、非現実的な期待を抱きます。恥知らずな人身売買業者-麻薬カルテルや武器カルテルとしばしばつながっているーが移民の弱さに付け込みます… 移民の中でも特に薄弱な、身寄りのない未成年の子供たちには、特に注意を払う必要があります… 受け入れ国の中には、移民が恐怖と警告の対象となり、しばしば、政治的な目標のために扇動されたり、搾取されたりしています。それが、外国人恐怖症につながり、人々を自分の殻の中に閉じ込めます。これには決意をもって対処する必要があります」(92項)。

 若い移民者たちはしばしば、文化的、宗教的な根を抜かれる経験をしている(93項)。教皇は若いたちにこのように求めているー「新たに国にやってきた若いたちに反感を持つようにさせ、彼らを脅威と思わせるような人々に付け込まれないようにしてください」(94項)。

*児童・幼児虐待には厳格な方策で臨む

 教皇はまた、児童・幼児虐待についても言及し、シノドスが虐待防止に厳格な方策とることを約束した、と述べ、「自らが受けた邪悪な経験を、勇気を奮って報告した人たち」(99項)に感謝を表明。また、こうしたおぞましい犯罪を冒した者たちが司祭の多数を占めていないこと、多くの司祭は忠誠と寛大さをもって自身の職務を遂行していることを「神に感謝」した。そして若い人々に、もしも、身を誤り、危険な状態にある司祭を見つけたら、彼に神と民への約束を思い出させる勇気を奮ってくれるように(100項)と懇願した。

 虐待は、しかし、教会の唯一つの罪ではない。「私たちの罪は、一人一人の目の前にあります。教会ー私たちの母、そして教師-の年老いた顔のしわにすべて、あまりにもはっきりと刻まれています」。しかし、教会は美容整形の助けを求めない-「教会は自分の会員の罪を明らかにするのを恐れません」。「母が傷ついたとき彼女を見捨ててはならない、ということを絶対に忘れないようにしましょう」(101項)。求められるのは、彼女の脇に立って、彼女がすべての力と能力を振り絞って、新規まき直しができるようにすることだ。

 この暗黒の時は、若い人々の助けをもって、新たな聖霊降臨に私たちを開き、「新時代を画するような重要性をもった改革のための機会に、本当にすることができます」(102項)。

*「出口」はある、イエスに自己刷新を願って

 教皇はまた、若い人たちに、すべての暗く、苦痛な状況にも「出口がある」ことを、思い起こさせる。主の復活の朝に示された良き知らせを想起し、「デジタルの世界」が私たちを多くの危険にさらす可能性があるとしても、この分野でどのようにすれば創造的で輝かしい成果を上げることができるかを知っている若い人々がいる、と確信を述べた。「尊者カルロ・アクティス-福音を伝えるためにこの新しいコミュニケーションの手段をどう使ったらいいかを知って(105項)おり、罠にはまることなく、このように言ったー「誰もが、元の姿で生まれますが、多くの人が結局は、コピーで命を終えます」と。

 「あなたがそうならないように」(106項)と教皇は警告し、「希望と喜びを奪われないように。さもないと、あなたは、彼らの利益のための奴隷」(107項)にされてしまう、聖性の偉大な目標を目指すように、と呼び掛けている。さらに「若いということは、つかの間の楽しみと表面的な業績を追い求めることに関してだけではありません。もし、あなたの若い年月を、彼らの人生における目的への奉仕に使うなら、彼らは、惜しみない傾倒と心からの献身に適した『時』となるに違いありません」(108項)と励ましている。

 教皇はさらに「もしあなたが長く若いが、弱く、疲れて、気落ちしていると感じたら、自分を新たにしてくださるように、イエスにお願いしなさい」(109項)。そして、いつも思い出す必要がある-「あまりにも孤立してしまうと、悪魔の罠と誘惑、この世の利己的な振る舞いと戦うのはとても難しい」(110項)ことを。共同体の生活を必要とするのは、そういう時なのだ。

第4章「すべての若者への素晴らしいメッセージ」

*三つの真理

 「愛である神」

  すべての若いたちに対して、教皇は三つの素晴らしい真理を示している。まず「愛である神」。「神はあなたを愛しておられます、決して疑ってはなりません」(112項)。あなたは「あなたの天の父に抱かれて安心」(113項)することができる。

 そして教皇は、父の記憶装置は「私たち全員のデータを”取り込み””保管”する”ハードディスク”ではありません。彼の記憶装置は、やさしい、おもいやりがいっぱい詰まった心、私たちから邪悪な痕跡を”消し去る”ことを喜びとされる心なのです。なぜなら、彼はあなたを愛しておられるから。しばらくじっとして、彼の愛を感じるに任せなさい」(115項)。彼の愛は「打ち倒すよりも、立ち上がらせることで、威嚇よりも和解をもって、非難するよりも新たな変更を提案することで、過去よりも未来をもって、もっと多くのことをしようとする」(116項)ものなのだ。

 「キリストは助けてくださる」

 二つ目の真理は、「キリストは助けてくださる」。決して忘れてならないのは「彼が私たちを7の70倍、赦してくださる、ということ。何度も何度も、彼は私たちを背負ってくださいます」(119項)。イエスは私たちを愛し、救ってくださる。なぜなら「愛されるものだけが、救われるから。腕に抱かれたものだけが、変容される。主の愛は私たちの抱える問題、弱さ、そして欠陥よりも大きいのです」(120項)。そして「彼の赦しと救いは私たちが買えるようなものでも、私たちの働きや努力で得なければならないものでもない。彼は、私たちの負担なしで、私たちを赦し、解放してくださるのです」(121項)。

 「キリストは生きておられる!」

 そして三つ目の真理は、「キリストは生きておられる!」だ。「私たちは、このことを思い起こし続ける必要があります… なぜなら、私たちには、イエス・キリストを単純に、遠い過去からの立派な模範として、一つの記憶として、2000年前に私たちを救われた方、と見る危険を冒す可能性があるからです。そうした見方は私たちにとって何の役にも立たたず、私たちを変わらないままにし、私たちを解放しません」(124項)。彼が生きておられるなら、「神があなたの人生を制することになるでしょう… それで、私たちは不服を言うのをやめ、未来に目を向けることができます。神と共にいることで、このことはいつも可能なのです」(127項)。

 これらの真理の中に、父が出現され、イエスが出現される。そして、そこに、聖霊もおられる。「毎日、聖霊を呼び求めなさい… あなたが失うものは何もなく、あなたの人生を変え、光で満たし、よりよい道に沿って導いてくださいます。あなたから何も取り去らず、代わりに、あなたが必要とするものすべてを見つけるのを、最良のやり方で、助けてくださいます」(131項)。

 

第5章「青年期の道のり」

*若者の特徴、そして若者への勧め

 「神の愛と私たちの生きておられるキリストの関係は、私たちが夢をみるのを妨げません-私たちの視野を狭めるように求めません。それとは逆に、その愛が私たちを高め、励まし、より良い、もっと素晴らしい人生へと奮い立たせます。若い人々の心の中にある沢山の願望は『restlessness(常に動いてきて、落ち着きがない)という言葉に要約することができます」(138項)。

 若い人-男でも女でも-は、と教皇は言われる。「自分の二本の足で飛びたがっており、いつも一方の足を前に出し、飛んで前に進もうとしています。いつも先を見て競争しています」(139項)。若者は「保留」のままでいることができない。それは、職業的、社会的、政治的な分野での「選択をする年齢」、結婚相手の選択、あるいは最初の子を持つ年齢を迎えているからだ。すぐに結果がでない時にいつも、私たちがあきらめさせられることで、不安にさせます。私たちの最良の夢は、希望、忍耐、献身、そして急がないことでのみ、実現されるのです。同時に、私たちは気おくれしたり、チャンスをつかむのに間違いを恐れてはなりません」(142項)。

 教皇は、若い人たちに勧めているーバルコニーの上から人生を観察しないように、映画のスクリーンの前で人生を送らないように、捨てられた乗り物になってしまわないように、旅行者として世界を見ないように-「騒ぎを起こしなさい!あなたを麻痺させている恐怖を投げ捨てなさい… 生き生きしなさい!」(143項)。また彼らに、「強欲」なったり、「新たな楽しみ」をひたすら求めることをせず、人生の小さな賜物一つ一つを、感謝をもって楽しむことで「現在を生きる」ように勧めている(146項)。この場合、「現在を生きる」ことは、「私たちに、空虚で、果てしない不満を残すだけの、遊興生活を無責任に始めることとは、違う」(147項)のだ。

*最高の友イエスと、日々、話をしよう

 「若い時に、どれほど多くの経験をしても、最高の友達に日々、合うことがなければ、その最も深い、完全な意味を知ることは絶対にないでしょう-その友達とは、イエスです」(150項)。イエスとの友情関係は壊すことのできないもの、それは彼が私たちを見捨てないからだ(154項)。「友と共に、私たちは自分の最も奥深い秘密を話し、共有することができます。そしてまた、イエスと共に、私たちはいつも言葉を交わすことができます」。

 私たちが祈る時、イエスに対して「私たちのすることすべてを打ち明け」、場所を提供し「彼が動き、入ってきて、勝利を収めることができるようにします」(155項)。「この友情を、青春期にあるあなたから取り上げてはなりません。あなたの側にイエスがおられるのを感じることができるように」。それが、エマオで弟子たちが体験したことだ(156項)。聖オスカル・ロメロは言っているー「キリスト教は信じるべき真理、従うべき規則、あるいは禁止事項の収蔵品ではありません。そのように見れば、意欲がそがれます。キリスト教はものすごく私を愛してくれた人、私の愛を求め願う人。キリスト教はキリスト、なのです」。

*「成長と成熟」について

  教皇はまた、「成長と成熟」について語られる-「霊的な発達」、「主の探求とその言葉の保持」、そして、イエスとの”つながり”の維持、の重要性を示される。「なぜなら、自分自身の努力と知能だけでは、幸福と聖性を成長させられないからです」(158項)。

 大人たちもまた、若さの価値を失わずに成熟しなければならないー「私たちは、人生のどの瞬間においても、自分の若さを新しくし、育てることができます。私が教皇としての職責を果たし始めた時、主は私の視野を広げ、新たな若さをくださいました。同じことは、長く結婚生活を続けている夫婦にも、修道院にいる修道士にも、起こり得ます」(160項)。歳を取るということは「自分の若さについて最も重要なものを保ち、大切にすることを意味しますが、それには良くないものを浄化せねばならない、ということも含みます」(161項)。「しかし、もうひとつ、頭に入れてもらいたいのは、他の人のまねをすることでは、聖なる者とはなれず、充実感を得ることもない、ということです… あなたは自分が誰なのかを知り、聖なる者の自分自身の道を拓いていかなければなりません」(162項)。

*兄弟愛の道

 教皇は、次のように思い起こしながら、信仰を生きるために「兄弟愛の道」を提起される-「聖霊は、私たちを、自分自身から出て、他の人々を受け入れるようにしたい、と望まれます。それが、信仰を共に生きるために、共同体の中で生活することで自分の愛を示すために、常により効果的だから」(164項)、「自分自身と自分の抱える問題、傷ついた感情、悲しみにいつまでもこだわろうとする誘惑」に打ち勝つためにも(166項)。「神は若い人々の喜びを愛されます。兄弟愛的な交わりの喜びを共にすることを、特に望まれます」(167項)。

*若く、献身的であること

 続いて、教皇は「若く、献身的であること」について話されるー若い人々は時として「小さな集団に引き込まれる誘惑を受けます… 兄弟のつながりと愛を経験しているように感じるかもしれませんが、千沙な集団は実際には、自分たちのエゴの延長でしかないかもしれない。仮に、彼らが、一般信徒の召命として、それが単なる教会の内部の奉仕の一つの形だと考えた場合には、もっと深刻な問題となります… 一般信徒の召命が、何よりも家庭の中の慈愛に、社会的、政治的な慈善に向けられている、ということを、彼らは忘れています」(168項)。

 教皇は若い人たちに、このように提案するー「小さな集団を越えて、社会的な友好関係を作り、そこで共通全のために一人一人が働くようにしましょう」と。「社会的な憎悪の関係は破壊をもたらします。家庭は憎悪によって壊されます。国々は憎悪によって破壊されます。世界は憎悪によって破壊されます。そしてすべてのうち最も大きい憎悪の関係は、戦争です。今日、私たちは、世界が戦争によって自らを破壊しているのを、目の当たりにしています… それは、私たちが腰を下ろして、話すことができないからです」(169項)。

*社会参加が信仰を深め、召命の識別につながる

 「社会参加と貧しい人たちとの直接の触れ合いは、信仰を理解し、あるいは深め、そして、召命を識別する基本的な方法です」(170項)。教皇は、小教区、学校、そして各種の運動から、前向きに活動する若い人たちの例を示されるー「彼らはお年寄りと虚弱な人と時を過ごすために、あるいは、貧しいお隣の方々を訪問するために、頻繁に表に出ていきます」(171項)。

 「他の若い人たちはホームレスの人ための住まいを建てる、あるいは、汚染された地域を元の状態に戻す、貧しい人に対してさまざまな支援をする、などの社会福祉プログラムに参加しています。共有されたエネルギーが、より安定した方法で導かれ、組織化されるなら、有益なものになるでしょう」。大学の学生たちは「他の教会や宗教に属する若い人々と一緒になって、学問分野の垣根を超えたやり方に知識を生かすことができます」(172項)。

 教皇は、若いたちがこのようなことに真剣に取り組むのを勧めておられるー「私は、世界中の多くの若い人たちのニュースを、関心をもって読んでいます。例えば、街頭に出て、もっと正義と兄弟愛に満ちた社会になってもらいたいと訴える若者… 若者たちは変化の主役になりたいのです。どうか、変化の主役を若者以外の人に任せないでください!」(174項)。

*どこでも福音を証しする「勇敢な宣教師」となれ

 若い人々は、彼ら自身の生きざまをもって、どこにおいても福音を証しする「勇敢な宣教師」になることを求められている。それは「真理について”話す”のではなく、真理を”生きる”こと」(175項)を意味している。しかし、言葉は沈黙してはならないー「流れに逆らう泳ぎ方を身に付けなさい、イエスとイエスがあなたに下さった信仰の分かち合い方に精通しなさい」(176項)。イエスは、私たちをどこに派遣するのだろう?「そこには境界線がない、制限もない-イエスは私たちをどこにでも派遣されます。福音は、全ての人のためのもの、何人かのためだけのものではない。私たちにとって身近に思われる人たちのためだけでなく、もっと多くの人を受け入れ、歓迎するためのものです」(177項)。そして、「その使命が楽で、容易なものだ」と期待することはできない。(178項)。

(以上 南條俊二訳)

第6章 ルーツを持った若者

*人を操るのに長けた者に注意せよ

 教皇フランシスコは「あたかも世界がたった今始まったかのように、ルーツなしで未来を作るよう、けしかけられている若い人々」を目にして心が痛む、と言っておられる(179項)。

 「もし誰かが、若い人々に『お前たちの歴史を無視するように、年長者の体験を受け入れないように、過去を見下し、私が約束する未来に期待するように』と言うなら、その男が若い人々を引き込み、自分の言いなりにするのが、たやすくなるでしょうか?その男は、若者たちが浅薄で、根を抜かれ、疑い深くなり、その男の約束だけを信じ、その計画に従って行動するようになることを、必要としているのです。これが、様々なイデオロギーの作用の仕方です-すべての異なるものを破壊(あるいは解体)し、”無競争の支配”を可能にするのです」(181項)。

 人を操ることに長けた者たちは、”若さ崇拝”も利用する。「若々しい肉体が、新たな崇拝のシンボルになります-そうした肉体と関連するすべてのものが偶像化され、劣情を刺激し、若くないものは何でも軽蔑されます。しかし、このような”若さ崇拝”は、最終的には若者たちの自尊心を傷つけることを証明する、単なる(人を操ろうとする者たちにとっての)一時しのぎの便法なのです」(182項)。

*浅薄な人生を煽り立てる大人に若さを搾り取られるな

 「愛する若い友人たち、外見と美しさを混同させる浅薄な人生を煽り立てる者たちに、あなた方の若さを搾り取らせないようにしてください」(183項)。美しさというものは、薄汚れ、しわくちゃになって帰宅する労働者の中に、病気の夫の世話をする年老いた妻の中に、人生の秋に互いに愛し合う夫婦の忠誠の中にあるからだ。 今日、そうしたことの代わりに、私たちが推し進めているのは、「神のない霊性、共有するものや苦しむ人への気遣いのない情動性、危険と見なされている貧しい人々の恐れ、そして、ますます遠くなるように見える未来のパラダイスの提供への様々な苦情」だ(184項)。

 教皇は、若者が自分自身を「文化的な植民地化」(185項)に導く、このようなイデオロギーに支配させないように勧めている。「文化的な植民地化」は、若者を文化的、宗教的な帰属から根こそぎ引き抜き、「柔軟性のある商品の陳列」(186項)に変容させることで、均質化しようとするのだ。

*基本は年長者との親しい関係

 基本は「年長者とあなたの関係」だ、と教皇は言っておられる。その関係は、若者が過去の生きている豊かさを発見するのに役立つ。「聖書は、年長者と親しい関係を続けることを奨励しています。彼らの経験から学ぶことができるからです」(188項)。「これは大人の言うことのすべて、あるいは彼らの行動のすべてを認め、同意しなければならない、という意味ではありません」「ある世代から次世代へと受け継がれる知恵に対して心を開く、ということです」(190項)。「世代間の断絶から、世界は何も得ることはなく、これからもないでしょう… 新しいものだけが良くて美しい、とあなたに信じさせるのは間違いです」(191項)。

 「夢とビジョン」について教皇は述べておられるー「若者と年長者が同様に聖霊に心を開いたとき、両者は素晴らしい組み合わせとなります。年長者は夢を抱き、若者はビジョンを見ます」(192項)。「もし、若者が年長者の夢に根を下ろすなら、彼らは未来をのぞくことができるのです」(193項)。だから、若者と年長者が共に歩み、「共にリスクを負う」必要がある。「ルーツは私たちを鎖でつなぐ錨ではなく、私たちが成長し、新しい課題に出会うことのできる定点なのです」(200項)。

 

第7章 若者の司牧

 教皇は、若者の司牧は社会的、文化的な変化に影響を受けてきた、とし、「若い人たちは、自分たちの関心、必要性、問題や課題への対応の仕方を、通常のプログラムの中に見つけられないことがよくあります」(202項)と説明された。若者自身が「若者の司牧の仲介者です。確かに若者は、助け、導かれる必要がありますが、同時に、創造性とある種の大胆さをもった新しいアプローチの開発を任されることも必要です」。私たちは、若い人々が「自分自身の言葉で、他の若い人々の課題と関心に語りかけるために、洞察、工夫、知識を使う」(203項)ように助ける必要がある。

*若者司牧は柔軟で、”シノドス的”である必要

 若者の司牧には柔軟性が求められ、若い人々に「学ぶだけでなく、言葉を交わし、祝い、歌い、実際にあった話に耳を傾け、生きた神との共有された出会いを経験するための機会を提供する、催しや行事」への参加を勧めることが必要だ。(204項)。

 若者の司牧は、シノドス的(注:キリストの下で多様性の中でともに力を合わせて働く、という意味)でなくてはならない-それは「ともにする旅」を形成できることであり、二つの幅の広い行動を含むー第一は「手を差し伸べる」こと、第二は「成長すること」だ。第一に関して、教皇は若い人々自身の能力を信頼している-その能力とは「団結を訴える方法を見つける」こと。「若者は励まされ、感激される自由を与えられることが必要なのです」。

*最も重要なのは、若者一人一人の”勇気”だ

 だが最も重要なのは「若者一人一人が、他の若者の心という”肥沃な土地”に、(注:福音の)メッセージの種を撒くことのできる十分な勇気をもつことです」(210項)。優先すべきは「親しみのある言葉、思いやりのある言葉、相手の心に響く、親しい間柄の、実存的な愛」。若い人々は「説教されるのではなく、”愛の手引き”によって」、彼らに近づいていくことを必要としている。(211項)

(以上、田中典子訳)

*教義や倫理問題ばかり扱わず、“ケリグマ”を中心に

 育成に関して、教皇フランシスコは「教義や倫理問題ばかり扱う‘育成’の集まり… それがもたらす結果は、若者たちは退屈し、キリストと出会い彼に従う喜びの火を失ってしまうこと」(212項)とし、強い神体験に心を動かされることを若い人たちを勧めないように、警告している。

 若い人たちのための教育プロジェクトや育成の課程には、どれも「確かに、キリスト教の教義と倫理の形成が含まれなければならない」が、その中心には、ケリグマー「イエスの死と復活を通しての神との出会いの基礎を成す経験」と「兄弟愛、信仰集団での生活と奉仕の伸長」(213項)が、置かれる必要がある。

 それゆえ、「若者司牧には、いつも、神と、生きているキリストの愛の個人的経験を新たにし、深めるような機会がなければなりません」(214項)。そのことは、若い人たち者たちが「兄弟姉妹のように生活し、お互いを助け、共同体を作り、他者に奉仕し、貧しい人々に近づく」のを助けるはずだ。

 教会は、「ふさわしい環境」、すなわち「若い人たちが、自分たちのものにできる場所、困った時や挫折した時も、うれしい時やお祝いの時も、自由に出入りして温かく迎えられ、いつでもほかの若い人たちに会える場所」(218項)を提供すべきなのだ。

*カトリック学校は「自己批判」が急務

 こうしたことから、教皇は「教育機関における若者司牧」を課題に取り上げ、学校は「自己批判が急務」と断言されている-「いくつかのカトリック学校は自己保身のためだけ建てられているように見えます… ”外から”の誤りから学生たちを守る”掩蔽壕’”になっている学校は、そうした傾向を揶揄した風刺画です」。若者たちは学校を離れた時、「そこで教えられたことと、彼らの生きる世界との間に、乗り越えることのできない断絶があるのを感じます」。その一方で、「どの教育者にとっても一番の喜びとできるのは、学生がしっかりとした、円満な人物になっていくことです」(221)。

 私たちは、文化的な人間形成から精神的な人間形成を切り離すことはできない-「それゆえ、ここに大きな課題があるのです-文化的な消費至上主義の壊滅的な繰り返しに対応すること-思慮深く、断固たる決心をもって、探求、知識、共有をもって」(223項)。「司牧を発展させていく」分野として、教皇は「芸術の重要性」(226)「スポーツの潜在力」(227)「自然保護」(228)などを挙げておられる。

(以上、岡山康子訳)

*人気のある若者司牧が必要だ

 「人気のある若者の司牧ーもっと幅広く、もっと柔軟で、若い人々が具体的に移動する違う場所で、自然な導きと聖霊が既に若い人々の間に撒かれているカリスマを刺激する」ような司牧-が必要だ。そのような司牧は、近隣とその他の場で自然なリーダーとなっている若い信徒たちに、障害、規則、管理、義務的な仕組みを押し付けるのを避けるようにする。私たちに必要なのは、彼らに寄り添い、励ますことだけなのだ(230項)。

「純粋で完璧な若者司牧-深遠な着想に特徴づけられ、世間から守られ、欠陥のない司牧-に主眼を置くことで、私たちは福音を切れ味の悪い、無意味な、魅力のない主張に変えてしまう可能性があります。そのような若者司牧は、結局は、若い人たちの世界から完全に排除され、自分たちを別の存在とみなす”エリート”の若いキリスト教徒-空虚で非生産的な孤独の中で生きている人たちーだけを満足させることになります」(232項)。

*求められるのは「扉が開かれている教会」

 教皇は、私たちにお勧めになる-「扉が開かれている教会でありなさい。『若い人たちのためのいくつかの活動のどれかに参加するように』との教会の教えすべてを、すっかり受け入れねばならない、ことはありません」(234項)。また(注:若い人たちの教会での)場は、「他の人生のビジョンを持つ人たち、他の宗教に属する人たち、あるいはどの宗教とも距離を置いている人たち、の全て」のために設けられる必要がある(235項)。

 このような若い人たちに対する接し方の象徴的な形は、福音書に出てくるエマオでの弟子たちを巡る挿話に示されている-イエスは彼らに質問し、辛抱強く話を聴き、自分たちが何をしているのか分かるように、聖書に照らして何をしたかを理解するように、彼らを助け、「一緒にお泊りください」との願いを聞き入れ、夜を迎える。そして、すぐに、これまで来たのとは逆の方向に歩き始めたのは、弟子たち自身だった(237項)。

*いつも宣教師であるように

 「いつも宣教者であるように」。宣教者になろうとする若者にとって、「長い旅」をすることは必要ない。「聖母マリアに助けを求める巡礼をし、ひとつのしぐさで、友や仲間を一緒に歩くように勧める若者は、良い宣教者なのです」(239項)。「若者司牧は常に宣教です」(240項)。

 若い人たちは自分の自由が尊重されることを必要とする。「それだけでなく、寄り添ってもらうことも必要としています」。寄り添いの場には、まず家庭がなり(242項)、次に共同体がなるべきです。「すべての人が、理解、評価、そして愛情を持って、若い人たちを見守ることが必要です。絶えず批判したり、彼らの歳以上の完璧さを求めたりすることを、避けなければなりません」(243項)。

*相談相手に必要な資質は

 寄り添いに献身する経験豊富な人が不足(244項)しており、「若い女性の中には、教会に模範となる指導的な女性が足りない、と感じている人もいます」(245項)。そうした若い人たちは「私たちにこのように話します」ー相談相手となる人に希望する資質は「教会と世の中にしっかりと関わりをもつ誠実なキリスト教徒、聖性を絶えず求めている人、人を裁かない、心を許せる人、であること。また、若い人たちが必要としていることに積極的に耳を傾け、同じやり方で応えてくれる人、深い愛情を持ち自己を認識している人、相手の限界を認め、霊的な旅の喜びと悲しみを知っている人であることも、条件だ。相談相手として特に重要な資質は、彼ら自身の人間性ー間違いを起こす人間、完璧な人ではなく、赦された罪人である事実-を認識していることです」(246項)。若い人たちの自由を尊重しつつ、どのようにして「一緒に歩くか」を、知っていることも重要だ。

(以上、田中典子訳)

第8章「召命」

 

 「本質的なことは、イエスが一人一人の若者に望んでいることが、何よりも先ず、友情だということを識別し、見出すことです」(250項)。召命は、他の人々に向かう宣教的奉仕への呼びかけです。「なぜなら、私たちの地上での命(生活)は、それが捧げものに変えられた時、完成に達するからです」(254項)。

 「自分の召命を実現するためには、私たちがそうであるところのものすべてを成長させ、芽を出させ、培う必要があります。それは、でっちあげることでも、無から自分自身を造り出すことでもありません。それは、自分自身を神の光に照らして見出し、自分の存在を開花させることです」(257項)。 また、「この、一人一人の若者の命(生活)における『他の人々のための存在』は、通常、二つの基本的課題に結びついています:新しい家族を形作ることと、仕事です」(258項)。

「愛と家庭(家族)」に関して、教皇は書いていますー「若者たちは、愛への呼びかけを強く感じ、共に一つの家庭を形作るのにふさわしい人と出会うことを夢見ています」(259項)。また、結婚の秘跡は「この愛を、神の恵みで包み、それを、神ご自身の中に根付かせます」(260項)。

 神は私たちを、性をもつ者として造りました。神ご自身が性を造りました。性は神の賜物であって、ですから「タブーではありません」。それは、主が私たちに与える賜物であり、「二つの目的を持っています:互いに愛し合うこと、命を生み出すこと。それは、情熱です…真の愛は情熱的です」(261項)。

 教皇フランシスコは考察しています、「分裂、離婚の増加…は、若者たちの中に、大きな苦しみと、アイデンティティーの危機をもたらすことがあります。時折、彼らは、彼らの年齢には相応しない責任を引き受けなければなりません」。

 あらゆる困難にもかかわらず、「私はあなた方に言いたいのです…家庭に賭けるのは価値があり、家庭の中であなた方は、成熟するための最上の刺激、分かち合うべき、最も美しい喜びを見出すでしょう。真剣に愛する可能性を奪われないようにしてください」(263項)。「何も決定的なものはないと信じることは、ごまかしであり、偽りです…私はあなた方にお願いします。革命的であってください。流れに逆らってください」(264項)。

 仕事に関して、教皇は書いています-「私は若者たちに勧めます。他の人々の助けに依存しながら、仕事をせずに生きることを期待しないように。それはいけません。なぜなら、仕事は必要なものだからです。仕事は、この地上での命(生活)の意味の一部であり、成熟、人間的成長、人格的実現の道です。この意味で、貧しい人々をお金で助けることは、いつも、緊急時に対抗するための一時的な対策でなければなりません」(269項)。

 そして、仕事の世界において、どのように若者たちが、排斥(拒否)と疎外の形態を経験しているか、を記した(270項)後で、若者たちの失業に関して明言されている-「それは、政治が、優先課題として考えなければならない…問題です。特に、テクノロジーの発展の急速さが、人件費の削減のこだわりと共に、おびただしい仕事のポストを、機械と取り替ええることが、迅速に起こり得る今日において」(271項)。

 さらに若者たちに言っています-「あなたが、仕事なしでは生きられないこと、時に、見つかった仕事を受け入れなければならないことは、本当です。でも、決してあなたの夢を放棄しないでください。決して、召命を、決定的に地に埋めないでください。決してあきらめないでください」(272項)。

 教皇フランシスコは、この章を「特別な聖別(奉献)への召命」について語りながら、次のように結んでいる。「召命の識別において、神に自身を聖別(奉献)する可能性を除外してはなりません…なぜ、それを除外するのですか?もしあなたが、神の呼びかけに気づき、それに従うなら、それは、あなたの人生を満たすものとなるという確信をもってください」(276項)。

 

第9章:「識別」

 教皇は思い起こしておられるー「識別の知恵がなければ、私たちは、たやすく、その時の流れに任せる操り人形になってしまうでしょう」(279項)。「識別の一つの表現(表れ)は、自分の召命を認識するための努力です。それは、孤独と沈黙の空間(スペース)を必要とする務めです。なぜならそれは、他の誰もわたしたちの代わりをすることは出来ない、非常に個人的な決心だからです」(283項)。

 「召命の賜物は、疑いなく、多くを要求する賜物です。神の賜物は、相互作用を及ぼすもので、それらを享受するためには、自分を危険にさらす必要があります、リスクを冒す必要があります」(289項)。

 識別において若者たちを助ける人には、三つの感性が求められます。第一は、その人への気配りです-「それは自分の言葉を語っている相手に、耳を傾けることです」(292項)。

 第二は、識別することです。つまり、「それは、恵みを誘惑から識別する、適切な点を把握することです」(293項)。

 三番目は、「相手を『前に』進ませている勢いに耳を傾けること」(294項)にあります。このような方法で、相手に耳を傾けている時、「ある時点で、自分(同伴している人)は消え去るべきです。相手が、見出した道に従うに任せるために。主が、弟子たちの前から消え去ったように、消え去ること」(296項)。

 私たちは、「プロセスを生じさせ、寄り添うべきであって、行程を押し付けるべきではありません」。また、それは、常に唯一で自由である人々の行程です。ですから、処方箋を作成するのは困難なのです」(297項)。

 「勧告」は、教皇フランシスコの「一つの望み」で結ばれているー「愛する若者たち、私は、あなた方が、歩みが遅く、臆病な人より早く走るのを見て喜ぶでしょう。私たちが、深く愛する、あの『み顔』-それは、私たちが聖なる聖体祭儀の中で礼拝し、苦しむ兄弟の肉の中に見い出す顔-に引き付けられて走ってください。…教会は、あなた方の勢い、あなた方の直観、あなた方の信仰を必要としています。…そして、私たちがまだ達していない所に、あなた方が達したなら、私たちを待つ忍耐を持ってください」(299項)。

(以上、Sr.岡立子訳)

(了)

2019年4月3日

・使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)」全文翻訳開始!4月6日更新 

(2019.4.4 カトリック・あい)

*2日発表された教皇フランシスコの新たな使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)」の全文を阿倍仲麻呂神父様が仮訳してくださることになりました。いただき次第、順次、以下に掲載させていただきます。翻訳途中の部分はバチカン公式発表の英文を残します。

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  使徒的勧告「CHRISTUS VIVIT(キリストは生きています!)-若者たちとあらゆる神の民へ」   教皇フランシスコ

[阿部仲麻呂試訳]

1.キリストは生きています!彼は私たちの希望であり、この世界で最も美しい若さをもたらします。キリストが触れるとき、あらゆるものは若返り、新たにされ、いのちに満ちあふれます。それゆえ、あらゆる若いキリスト者ひとりひとりに、私は申し述べたいのです。この文書の冒頭に掲げた言葉を、もう一度。「キリストは生きています! そして、彼はあなたが生きることを望んでいるのです」と。

2.彼はあなたの内にいます。彼はあなたと一緒にいます。そして彼は決してあなたを見捨てることはありません。それにもかかわらず、あなたは彼から遠く離れてしまい、さまようかもしれません。それでも、彼はいつでもあなたのそばにいます。生きつづけている御方として。彼はあなたによびかけます。あなたが彼のもとに戻って再びやり直すのを待っているからです。あなたがいまわしい過去に逆戻りし、悲しみに沈み、憤り、恐れ、疑い、失敗していると感じるとき、彼はあなたがたくましさと希望とを回復することができるように、いつでもそばにいてくれることでしょう。

3.私は、大いに愛情をこめて、この使徒的勧告をあらゆるキリスト者の若者たちへと捧げます。どうしてそのようにするのかと言えば、私たちの信仰から生ずるある種の確信をあなたに想い出させると同時に、あなたが聖性において成長し、あなたらしい召命に近づけるように後押しするためです。しかし、そのような意図は、先のシノドスのプロセスのほんの一部分であるにすぎません。

   むしろ、私たち全員が、ひとりの例外もなく、若者から挑戦を受けており、若者をどのように理解し支えているのかについての反省を迫られているのです。それゆえ、私はこのメッセージをあらゆる神の民、つまり司牧者および信仰の目覚めを実感している人びとにも向けています。こうして、私はある場面では若い人たちに直接的に語りかけていますが、他の場面では教会の識別に資するようなもっと総括的な見解を提案しています。

4.私は、昨年のシノドスの際に参列者たちによって表明された実り豊かな反応や討議に触発されました。しかし、この使徒的勧告のなかには、シノドスの参列者によるあらゆる貢献を余すところなく盛り込むことはできませんでした。そのような全体の動きについては、シノドスの最終報告書を読めばよいでしょう。ともかく、この使徒的勧告をまとめる際に、私は自分が最も重要だと考えた、参列者による提案を要約して盛り込もうとしました。

   このようにして、私が使徒的勧告にまとめた内容は、シノドスの会期中にとどろき渡った世界中の信徒たちの無数の声を反映し、代弁することになります。しかも、まだ信徒にはなっていないにもかかわらず、自分の考えを分かち合いたいと感じている若者たちも問題提起してくれましたので、それがきっかけとなって、私には新たな問いかけが生じたのです。

第一章   聖書では、若者についてどのような言及がなされているのでしょうか

5.これから、聖書の豊かさのいくつかを描き出してみましょう。つまり、聖書に描かれている若者たちの姿を浮き彫りにするとともに、さらに主がどのようにして若者たちに出会おうとして近づいているのかを眺めてみましょう。

   ■旧約聖書において

6.聖書のテクストからわかることは、若者たちがあまり高く評価されていなかった時代においてさえも、神は若者たちに対して世間の動きとは異なった見方をしていることです。たとえば、ヨセフは家族のなかでも最年少であったことが書かれています(創世記37・2-3参照)。にもかかわらず、神は夢のなかでヨセフに偉大なことを示しました。それゆえ、ヨセフは二十歳そこそこで、あらゆる重要な課題に応える際に、彼の兄弟たちよりもはるかに秀でていました(創世記37章から47章にかけて参照)。

7.ギデオンの物語では、表面だけを取り繕って体裁を整えるようになる以前の若者たちに特有の素直さが見受けられます。「主が彼とともにおられる」と主の使いから言われたとき、ギデオンは次のように応えました。「ああ、わが主よ、もし主が私たちとともにおられるのなら、なぜこのようなことがすべて私たちに降りかかるのですか」(士師記6・13)。それに対して「主は彼に向かって、『行ってお前の力で、ミディアン人の手からイスラエルを救いなさい。私がお前を遣わすのではないか』と仰せになりました」(士師記6・14)。

8.サムエルは、まだ幼い男の子でした。それでも、主は彼に話しかけました。大人(祭司エリ)の忠告のおかげで、サムエルは神の呼びかけを聴くために心を開きました。「主よ、お話しください。あなたのしもべは聴いております」(サムエル記上3・9-10)。こうして、サムエルはイスラエルの歴史のなかで最も危機的なときに立ち合った偉大な預言者となりました。サウル王もまた、主によって任務を請け負うようにと招かれたときに若かったのです(サムエル記上9・2参照)。

9.ダビデ王は、まだ少年だったときに選ばれました。預言者サムエルが将来のイスラエルの王を探し求めていたとき、ある男(エッサイ)は自分の子どもたちのなかから、王の候補者として年上で経験豊かな者を捧げました。しかし、預言者は、彼らを不適格として斥けました。むしろ、サムエルは、羊の群れの世話をしていた末っ子のダビデを選んだのです。「人間は外観を見るが、主は心を見る」(サムエル記上16・7)。若者の輝きというものは、体力や他人に与える印象よりも、むしろ心のなかにこそあります。

10.ソロモンは、自分の父親を引き継がなければならなかったとき、悩み抜いて神にたずねました。「私は単なる未熟者です。ですから、どのようにふるまうべきかをまったく知らないのです」(列王記上3・7)。それでも、青年期の大胆さが彼を動かし、神の知恵を求めるように努め、自分の使命に邁進するように後押ししました。預言者エレミヤにも、同様のことが起こりました。

 「ああ、私の神、主よ!!  どのように語ればよいのか、私には分かりません。私は、まだ若者にしかすぎないのですから」(エレミヤ1・6参照)。しかし、主はエレミヤに対して「若者にすぎない、と言ってはなりません」と諭し、「彼らを恐れてはなりません。私は、お前とともにいて、お前を必ず救い出すからだ」(エレミヤ1・8)と伝えました。こうして、預言者エレミヤによる使命への献身から分かることは、青年期の生真面目さが神の働きと結びついたときに特別なことが起こり得るという事実です。

11.外国人の軍事司令官のナアマンの身の回りの世話係だった信仰心の篤いユダヤ人の少女が上司の病を治すのを手伝いました(列王記下5・2-6)。年若いルツは、労苦のあまり落ち込んでいた義理の母のそばから離れなかったという意味で、寛大な態度の模範とされました(ルツ記1・1-18参照)が、彼女はまた人生を前向きに乗りきろうとする大胆さをも示しました(ルツ記4・1-17)。

 ■新約聖書において

12.イエスのたとえ話のひとつ(ルカ15・11-32参照)は、「若い」息子が父親の家を離れて、遠くへだたった土地に行きたがっていたことを述べています(ルカ15・12参照)。息子が、是が非でも親から独立したいという考えたことは、親からの離反につながり、放蕩生活に向かいます(ルカ15・13参照)。こうして、彼は孤独と貧困の苦さをおもい知らされました(ルカ15・14-16参照)。

    それにもかかわらず、彼は新たなスタートをきる力を見いだし(ルカ15・17-19参照)、立ち上がって家に帰る決意をしました(ルカ15・20参照)。若いときのおもいはおのづと変化し、最初の純粋さに戻り、立ち上がって、人生を学び直す準備につながります。この新しい決意にもかかわらず、その息子を支持できない人もいるのではないでしょうか。つまり、その息子の兄はいまだに心がかたくななままでした。兄は自分自身にこだわり、自己中心的に考え、羨望のおもいに狂っていました(ルカ15・28-30)。イエスは若い罪びとを称賛します。兄の愛とおもいやりの気持ちが欠けていたにもかかわらず、弟は正しい道に立ち戻り、家族との信頼関係を取り戻そうと努めたからです。

13.イエス御自身は永遠に若々しく、私たちがいままで備えていなかった新たな心を与えようと望んでいます。「あなたがたがいつでも新鮮な練り粉でいるために、古いパン種を取り除いてきれいにしましょう」(一コリント5・7)という聖書のことばに注目してください。聖パウロは私たちに「古い自分」を取り除いて「若々しい自己」を身につけるように勧めています(コロサイ3・9-10)(註1)。

    つまり、「絶えず新たにされている」という若々しさの意味を明らかにするためには(コロサイ3・10)、「思いやり、親切、へりくだり、やさしさ、寛大な心を身にまといましょう。おたがいに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、おたがいに心からゆるし合いましょう」(コロサイ3・12-13)。ひとことで言えば、真の若々しさとは、相手を愛することを意味します。しかし、私たちを他の人びとからへだてるものは、どのようなものであっても魂をかたくなにします。こうして、次のように結論づけられます。「何よりも、これらすべてのことのうえに愛をまといましょう。愛こそが充実した状態をもたらす絆だからです」(コロサイ3・14)。

14.また、イエスの呼びかけは、若者たちを見下したり、馬鹿にした大人たちには響かなかったことを決して忘れないようにしましょう。それどころか、イエスは、「あなたがたのうちで最も偉大な人は幼い子どものようにならなければなりません」(ルカ22・26)と主張しました。彼にとっては年令は特権を確立するためのものではありませんでした。若々しさに価値がないことや尊厳がないことなどはあり得ないからです。

15.聖書では、若者が「兄弟として」扱われるべきであると述べられています(一テモテ5・1)。そして次のようにも、両親に向かって警告しています。「子どもたちをいらだたせてはなりません。子どもたちを無気力にしないためです」(コロサイ3・21)。若者たちは決して落胆したりしません。

 彼らは素晴らしいことを夢見ており、広大な地平線を眺めて、よりいっそうの高みを目指し、世界全体を受け容れ、あらゆることに挑戦し、よりよきことを実現するために自分自身の才能を活用することを望んでいます。だからこそ、私は若者たちから希望を奪わないように、大人たちには絶えず強くお願いします。同時に若者たちには次のように言いたいです。「年令が幼いからと、いかなる人からも軽んじられないように気をつけましょう」(一テモテ4・12)。

(以下翻訳中)

16. Nonetheless, young people are also urged “to accept the authority of those who are older” (1 Pet 5:5). The Bible never ceases to insist that profound respect be shown to the elderly, since they have a wealth of experience; they have known success and failure, life’s joys and afflictions, its dreams and disappointments. In the silence of their heart, they have a store of experiences that can teach us not to make mistakes or be taken in by false promises. An ancient sage asks us to respect certain limits and to master our impulses: “Urge the younger men to be self-controlled” (Tit 2.6). It is unhelpful to buy into the cult of youth or foolishly to dismiss others simply because they are older or from another generation. Jesus tells us that the wise are able to bring forth from their store things both new and old (cf. Mt 13:52). A wise young person is open to the future, yet still capable of learning something from the experience of others.

17. In the Gospel of Mark, we find a man who, listening to Jesus speak of the commandments, says, “All these I have observed from my youth” (10:20). The Psalmist had already said the same thing: “You, O Lord, are my hope; my trust, O Lord, from my youth… from my youth you have taught me, and I still proclaim your wondrous deeds” (Ps 71:5.17). We should never repent of spending our youth being good, opening our heart to the Lord, and living differently. None of this takes away from our youth but instead strengthens and renews it: “Your youth is renewed like the eagle’s” (Ps 103:5). For this reason, Saint Augustine could lament: “Late have I loved you, beauty ever ancient, ever new! Late have I loved you!”[2] Yet that rich man, who had been faithful to God in his youth, allowed the passing years to rob his dreams; he preferred to remain attached to his riches (cf. Mk 10:22).

18. On the other hand, in the Gospel of Matthew we find a young man (cf. 19:20.22) who approaches Jesus and asks if there is more that he can do (v. 20); in this, he demonstrates that youthful openness of spirit which seeks new horizons and great challenges. Yet his spirit was not really that young, for he had already become attached to riches and comforts. He said he wanted something more, but when Jesus asked him to be generous and distribute his goods, he realized that he could not let go of everything he had. In the end, “hearing these words, the young man went away sad” (v. 22). He had given up his youth.

19. The Gospel also speaks about a group of wise young women, who were ready and waiting, while others were distracted and slumbering (cf. Mt 25:1-13). We can, in fact, spend our youth being distracted, skimming the surface of life, half-asleep, incapable of cultivating meaningful relationships or experiencing the deeper things in life. In this way, we can store up a paltry and unsubstantial future. Or we can spend our youth aspiring to beautiful and great things, and thus store up a future full of life and interior richness.

20. If you have lost your inner vitality, your dreams, your enthusiasm, your optimism and your generosity, Jesus stands before you as once he stood before the dead son of the widow, and with all the power of his resurrection he urges you: “Young man, I say to you, arise!” (Lk 7:14).

21. To be sure, many other passages of the word of God can shed light on this stage of your life. We will take up some of them in the following chapters.

 

CHAPTER TWO

Jesus, ever young

22. Jesus is “young among the young in order to be an example for the young and to consecrate them to the Lord”.[3] For this reason the Synod said that “youth is an original and stimulating stage of life, which Jesus himself experienced, thereby sanctifying it”.[4]

Jesus’ youth

23. The Lord “gave up his spirit” (cf. Mt 27:50) on a cross when he was little more than thirty years of age (cf. Lk 3:23). It is important to realize that Jesus was a young person. He gave his life when he was, in today’s terms, a young adult. He began his public mission in the prime of life, and thus “a light dawned” (Mt 4:16) that would shine most brightly when he gave his life to the very end. That ending was not something that simply happened; rather, his entire youth, at every moment, was a precious preparation for it. “Everything in Jesus’s life was a sign of his mystery”;[5] indeed, “Christ’s whole life is a mystery of redemption”.[6]

24. The Gospel tells us nothing of Jesus’ childhood, but it does recount several events of his adolescence and youth. Matthew situates the time of the Lord’s youth between two events: his family’s return to Nazareth after their exile, and Jesus’ baptism in the Jordan, the beginning of his public ministry. The last images we have of Jesus as a child are those of a tiny refugee in Egypt (cf. Mt2:14-15) and repatriated in Nazareth (cf. Mt 2:19-23). Our first image of Jesus as a young adult shows him standing among the crowds on the banks of the Jordan river to be baptized by his kinsman John the Baptist, just like any other member of his people (cf. Mt 3:13-17).

25. Jesus’ baptism was not like our own, which introduces us to the life of grace, but a consecration prior to his embarking on the great mission of his life. The Gospel says that at his baptism the Father rejoiced and was well pleased: “You are my beloved Son” (Lk 3:22). Jesus immediately appeared filled with the Holy Spirit, and was led by the Spirit into the desert. There he prepared to go forth to preach and to work miracles, to bring freedom and healing (cf. Lk 4:1-14). Every young person who feels called to a mission in this world is invited to hear the Father speaking those same words within his or her heart: “You are my beloved child”.

26. Between these two accounts, we find another, which shows Jesus as an adolescent, when he had returned with his parents to Nazareth, after being lost and found in the Temple (cf. Lk 2:41-51). There we read that “he was obedient to them” (cf. Lk 2:51); he did not disown his family. Luke then adds that Jesus “grew in wisdom, age and grace before God and men” (cf. Lk 2:52). In a word, this was a time of preparation, when Jesus grew in his relationship with the Father and with others. Saint John Paul II explained that he did not only grow physically, but that “there was also a spiritual growth in Jesus”, because “the fullness of grace in Jesus was in proportion to his age: there was always a fullness, but a fullness which increased as he grew in age”.[7]

27. From what the Gospel tells us, we can say that Jesus, in the years of his youth, was “training”, being prepared to carry out the Father’s plan. His adolescence and his youth set him on the path to that sublime mission.

28. In his adolescence and youth, Jesus’ relationship with the Father was that of the beloved Son. Drawn to the Father, he grew up concerned for his affairs: “Did you not know that I must be about my Father’s business?” (Lk 2:49). Still, it must not be thought that Jesus was a withdrawn adolescent or a self-absorbed youth. His relationships were those of a young person who shared fully in the life of his family and his people. He learned his father’s trade and then replaced him as a carpenter. At one point in the Gospel he is called “the carpenter’s son” (Mt 13:55) and another time simply “the carpenter” (Mk 6:3). This detail shows that he was just another young person of his town, who related normally to others. No one regarded him as unusual or set apart from others. For this very reason, once Jesus began to preach, people could not imagine where he got this wisdom: “Is this not Joseph’s son?” (Lk 4:22).

29. In fact, “Jesus did not grow up in a narrow and stifling relationship with Mary and Joseph, but readily interacted with the wider family, the relatives of his parents and their friends”.[8] Hence we can understand why, when he returned from his pilgrimage to Jerusalem, his parents readily thought that, as a twelve-year-old boy (cf. Lk 2:42), he was wandering freely among the crowd, even though they did not see him for an entire day: “supposing him to be in the group of travellers, they went a day’s journey” (Lk 2:44). Surely, they assumed, Jesus was there, mingling with the others, joking with other young people, listening to the adults tell stories and sharing the joys and sorrows of the group. Indeed, the Greek word that Luke uses to describe the group – synodía – clearly evokes a larger “community on a journey” of which the Holy Family is a part. Thanks to the trust of his parents, Jesus can move freely and learn to journey with others.

His youth teaches us

30. These aspects of Jesus’ life can prove inspiring for all those young people who are developing and preparing to take up their mission in life. This involves growing in a relationship with the Father, in awareness of being part of a family and a people, and in openness to being filled with the Holy Spirit and led to carry out the mission God gives them, their personal vocation. None of this should be overlooked in pastoral work with young people, lest we create projects that isolate young people from their family and the larger community, or turn them into a select few, protected from all contamination. Rather, we need projects that can strengthen them, accompany them and impel them to encounter others, to engage in generous service, in mission.

31. Jesus does not teach you, young people, from afar or from without, but from within your very youth, a youth he shares with you. It is very important for you to contemplate the young Jesus as presented in the Gospels, for he was truly one of you, and shares many of the features of your young hearts. We see this for example in the following: “Jesus had unconditional trust in the Father; he maintained friendship with his disciples, and even in moments of crisis he remained faithful to them. He showed profound compassion for the weakest, especially the poor, the sick, sinners and the excluded. He had the courage to confront the religious and political authorities of his time; he knew what it was to feel misunderstood and rejected; he experienced the fear of suffering and he knew the frailty of the Passion. He turned his gaze to the future, entrusting himself into the Father’s safe hands in the strength of the Spirit. In Jesus, all the young can see themselves”.[9]

32. On the other hand, Jesus is risen, and he wants to make us sharers in the new life of the resurrection. He is the true youthfulness of a world grown old, the youthfulness of a universe waiting “in travail” (Rom 8:22) to be clothed with his light and to live his life. With him at our side, we can drink from the true wellspring that keeps alive all our dreams, our projects, our great ideals, while impelling us to proclaim what makes life truly worthwhile. Two curious details in the Gospel of Mark show how those risen with Christ are called to authentic youth. In the Lord’s passion we see a young man who wanted to follow Jesus, but in fear ran away naked (cf. 14:51-52); he lacked the strength to stake everything on following the Lord. Yet at the empty tomb, we see another young person, “dressed in a white tunic” (16:5), who tells the women not to be afraid and proclaims the joy of the resurrection (cf. 16:6-7).

33. The Lord is calling us to enkindle stars in the night of other young people. He asks you to look to the true stars, all those varied signs he gives us to guide our way, and to imitate the farmer who watches the stars before going out to plough his field. God lights up stars to help us keep walking: “The stars shine in their watches, and are glad; he calls them and they say: ‘Here we are!’” (Bar 3:34-35). Christ himself is our great light of hope and our guide in the night, for he is the “bright morning star” (Rev 22:16).

The youth of the Church

34. Youth is more than simply a period of time; it is a state of mind. That is why an institution as ancient as the Church can experience renewal and a return to youth at different points in her age-old history. Indeed, at the most dramatic moments of her history, she feels called to return with all her heart to her first love. Recalling this truth, the Second Vatican Council noted that, “enriched by a long and living history, and advancing towards human perfection in time and the ultimate destinies of history and of life, the Church is the real youth of the world”. In her, it is always possible to encounter Christ “the companion and friend of youth”.[10]

A Church open to renewal

35. Let us ask the Lord to free the Church from those who would make her grow old, encase her in the past, hold her back or keep her at a standstill. But let us also ask him to free her from another temptation: that of thinking she is young because she accepts everything the world offers her, thinking that she is renewed because she sets her message aside and acts like everybody else. No! The Church is young when she is herself, when she receives ever anew the strength born of God’s word, the Eucharist, and the daily presence of Christ and the power of his Spirit in our lives. The Church is young when she shows herself capable of constantly returning to her source.

36. Certainly, as members of the Church, we should not stand apart from others. All should regard us as friends and neighbours, like the apostles, who “enjoyed the good will of all the people” (Acts 2:47; cf. 4:21.33; 5:13). Yet at the same time we must dare to be different, to point to ideals other than those of this world, testifying to the beauty of generosity, service, purity, perseverance, forgiveness, fidelity to our personal vocation, prayer, the pursuit of justice and the common good, love for the poor, and social friendship.

37. Christ’s Church can always yield to the temptation to lose enthusiasm because she no longer hears the Lord calling her to take the risk of faith, to give her all without counting the dangers; she can be tempted to revert to seeking a false, worldly form of security. Young people can help keep her young. They can stop her from becoming corrupt; they can keep her moving forward, prevent her from being proud and sectarian, help her to be poorer and to bear better witness, to take the side of the poor and the outcast, to fight for justice and humbly to let herself be challenged. Young people can offer the Church the beauty of youth by renewing her ability to “rejoice with new beginnings, to give unreservedly of herself, to be renewed and to set out for ever greater accomplishments”.[11]

38. Those of us who are no longer young need to find ways of keeping close to the voices and concerns of young people. “Drawing together creates the conditions for the Church to become a place of dialogue and a witness to life-giving fraternity”.[12] We need to make more room for the voices of young people to be heard: “listening makes possible an exchange of gifts in a context of empathy… At the same time, it sets the conditions for a preaching of the Gospel that can touch the heart truly, decisively and fruitfully”.[13]

A Church attentive to the signs of the times

39. “Even though to many young people, God, religion and the Church seem empty words, they are sensitive to the figure of Jesus when he is presented in an attractive and effective way”.[14] Consequently, the Church should not be excessively caught up in herself but instead, and above all, reflect Jesus Christ. This means humbly acknowledging that some things concretely need to change, and if that is to happen, she needs to appreciate the vision but also the criticisms of young people.

40. The Synod recognized that “a substantial number of young people, for all sorts of reasons, do not ask the Church for anything because they do not see her as significant for their lives. Some even ask expressly to be left alone, as they find the presence of the Church a nuisance, even an irritant. This request does not always stem from uncritical or impulsive contempt. It can also have serious and understandable reasons: sexual and financial scandals; a clergy ill-prepared to engage effectively with the sensitivities of the young; lack of care in homily preparation and the presentation of the word of God; the passive role assigned to the young within the Christian community; the Church’s difficulty in explaining her doctrine and ethical positions to contemporary society”.[15]

41. Although many young people are happy to see a Church that is humble yet confident in her gifts and capable of offering fair and fraternal criticism, others want a Church that listens more, that does more than simply condemn the world. They do not want to see a Church that is silent and afraid to speak, but neither one that is always battling obsessively over two or three issues. To be credible to young people, there are times when she needs to regain her humility and simply listen, recognizing that what others have to say can provide some light to help her better understand the Gospel. A Church always on the defensive, which loses her humility and stops listening to others, which leaves no room for questions, loses her youth and turns into a museum. How, then, will she be able to respond to the dreams of young people? Even if she possesses the truth of the Gospel, this does not mean that she has completely understood it; rather, she is called to keep growing in her grasp of that inexhaustible treasure.[16]

42. For example, a Church that is overly fearful and tied to its structures can be invariably critical of efforts to defend the rights of women, and constantly point out the risks and the potential errors of those demands. Instead, a living Church can react by being attentive to the legitimate claims of those women who seek greater justice and equality. A living Church can look back on history and acknowledge a fair share of male authoritarianism, domination, various forms of enslavement, abuse and sexist violence. With this outlook, she can support the call to respect women’s rights, and offer convinced support for greater reciprocity between males and females, while not agreeing with everything some feminist groups propose. Along these lines, the Synod sought to renew the Church’s commitment “against all discrimination and violence on sexual grounds”.[17] That is the response of a Church that stays young and lets herself be challenged and spurred on by the sensitivities of young people.

Mary, the young woman of Nazareth

43. In the heart of the Church, Mary shines forth. She is the supreme model for a youthful Church that seeks to follow Christ with enthusiasm and docility. While still very young, she accepted the message of the angel, yet she was not afraid to ask questions (cf. Lk 1:34). With open heart and soul, she replied, “Behold, I am the handmaid of the Lord” (Lk 1:38).

44. “We are always struck by the strength of the young Mary’s ‘yes’, the strength in those words, ‘be it done’, that she spoke to the angel. This was no merely passive or resigned acceptance, or a faint ‘yes’, as if to say, ‘Well, let’s give it a try and see what happens’. Mary did not know the words, ‘Let’s see what happens’. She was determined; she knew what was at stake and she said ‘yes’ without thinking twice. Hers was the ‘yes’ of someone prepared to be committed, someone willing to take a risk, ready to stake everything she had, with no more security than the certainty of knowing that she was the bearer of a promise. So I ask each one of you: do you see yourselves as the bearers of a promise? What promise is present in my heart that I can take up? Mary’s mission would undoubtedly be difficult, but the challenges that lay ahead were no reason to say ‘no’. Things would get complicated, of course, but not in the same way as happens when cowardice paralyzes us because things are not clear or sure in advance. Mary did not take out an insurance policy! She took the risk, and for this reason she is strong, she is an ‘influencer’, the ‘influencer’ of God. Her ‘yes and her desire to serve were stronger than any doubts or difficulties’”.[18]

45. Without yielding to evasions or illusions, “she accompanied the suffering of her Son; she supported him by her gaze and protected him with her heart. She shared his suffering, yet was not overwhelmed by it. She was the woman of strength who uttered her ‘yes’, who supports and accompanies, protects and embraces. She is the great guardian of hope… From her, we learn how to say ‘yes’ to the stubborn endurance and creativity of those who, undaunted, are ever ready to start over again”.[19]

46. Mary was a young woman whose heart overflowed with joy (cf. Lk 1:47), whose eyes, reflecting the light of the Holy Spirit, looked at life with faith and treasured all things in her youthful heart (cf. Lk 2:19.51). She was energetic, ready to set out immediately once she knew that her cousin needed her. She did not think about her own plans, but went “with haste” to the hill country (Lk 1:39).

47. When her young son needed protection, Mary set out with Joseph to a distant land (cf. Mt 2:13-14). She also joined the disciples in awaiting the outpouring of the Holy Spirit (cf. Acts 1:14). In her presence, a young Church was born, as the apostles went forth to give birth to a new world (cf. Acts 2:4-11).

48. Today, Mary is the Mother who watches over us, her children, on our journey through life, often weary and in need, anxious that the light of hope not fail. For that is our desire: that the light of hope never fail. Mary our Mother looks to this pilgrim people: a youthful people whom she loves, and who seek her in the silence of their hearts amid all the noise, the chatter and the distractions of the journey. Under the gaze of our Mother, there is room only for the silence of hope. Thus Mary illumines anew our youth.

Young saints

49. The heart of the Church is also full of young saints who devoted their lives to Christ, many of them even to dying a martyr’s death. They were precious reflections of the young Christ; their radiant witness encourages us and awakens us from our lethargy. The Synod pointed out that “many young saints have allowed the features of youth to shine forth in all their beauty, and in their day they have been real prophets of change. Their example shows what the young are capable of, when they open themselves up to encounter Christ”.[20]

50. “Through the holiness of the young, the Church can renew her spiritual ardour and her apostolic vigour. The balm of holiness generated by the good lives of so many young people can heal the wounds of the Church and of the world, bringing us back to that fullness of love to which we have always been called: young saints inspire us to return to our first love (cf. Rev 2:4)”.[21] Some saints never reached adulthood, yet they showed us that there is another way to spend our youth. Let us recall at least some of them who, each in his or her own way, and at different periods of history, lived lives of holiness.

51. In the third century, Saint Sebastian was a young captain of the Praetorian Guard. It is said that he spoke constantly of Christ and tried to convert his companions, to the point that he was ordered to renounce his faith. Since he refused, he was shot with arrows, yet he survived and continued to proclaim Christ fearlessly. In the end, Sebastian was flogged to death.

52. Saint Francis of Assisi, while very young and full of great dreams, heard Jesus’ call to become poor like him and to rebuild the Church by his witness. He joyfully renounced everything he had and is now the saint of universal fraternity, the brother of all. He praised the Lord for his creatures. Francis died in 1226.

53. Saint Joan of Arc was born in 1412. She was a young peasant girl who, despite her tender years, fought to defend France from invaders. Misunderstood for her demeanour, her actions and her way of living the faith, Joan was burned at the stake.

54. Blessed Andrew Phû Yên was a young Vietnamese man of the seventeenth century. He was a catechist and assisted the missionaries. He was imprisoned for his faith, and since he refused to renounce it, he was killed. Andrew died uttering the name of Jesus.

55. In that same century, Saint Kateri Tekakwitha, a young native of North America, was persecuted for her faith and, to escape, walked over three hundred kilometres in the wilderness. Kateri consecrated herself to God and died saying: “Jesus, I love you!”

56. Saint Dominic Savio offered all his sufferings to Mary. When Saint John Bosco taught him that holiness involves being constantly joyful, he opened his heart to a contagious joy. He wanted to be close to the most abandoned and infirm of his fellow young people. Dominic died in 1857 at fourteen years of age, saying: “What a wondrous thing I am experiencing!”

57. Saint Thérèse of the Child Jesus was born in 1873. At fifteen years of age, having overcome many difficulties, she succeeded in entering the Carmelite convent. Thérèse lived the little way of complete trust in the Lord’s love and determined to fan with her prayers the fire of love burning in the heart of the Church.

58. Blessed Ceferino Namuncurá was a young Argentinian, the son of the chief of a remote tribe of indigenous peoples. He became a Salesian seminarian, filled with the desire to return to his tribe, bringing Jesus Christ to them. Ceferino died in 1905.

59. Blessed Isidore Bakanja was a layman from the Congo who bore witness to his faith. He was tortured at length for having proposed Christianity to other young people. Forgiving his executioner, Isidore died in 1909.

60. Blessed Pier Giorgio Frassati, who died in 1925, “was a young man filled with a joy that swept everything along with it, a joy that also overcame many difficulties in his life”.[22] Pier Giorgio said that he wanted to return the love of Jesus that he received in Holy Communion by visiting and helping the poor.

61. Blessed Marcel Callo was a young French man who died in 1945. Marcel was imprisoned in a concentration camp in Austria, where he strengthened his fellow prisoners in faith amid harsh labours.

62. The young Blessed Chiara Badano, who died in 1990, “experienced how pain could be transfigured by love… The key to her peace and joy was her complete trust in the Lord and the acceptance of her illness as a mysterious expression of his will for her sake and that of others”.[23]

63. May these and so many other young people who perhaps in silence and hiddenness lived the Gospel to the full, intercede for the Church, so that she may be full of joyous, courageous and committed young people who can offer the world new testimonies of holiness.

 

CHAPTER THREE

You are the “now” of God

64. After this brief look at the word of God, we cannot just say that young people are the future of our world. They are its present; even now, they are helping to enrich it. Young people are no longer children. They are at a time of life when they begin to assume a number of responsibilities, sharing alongside adults in the growth of the family, society and the Church. Yet the times are changing, leading us to ask: What are today’s young people really like? What is going on in their lives?

In positive terms

65. The Synod recognized that the members of the Church do not always take the approach of Jesus. Rather than listening to young people attentively, “all too often, there is a tendency to provide prepackaged answers and ready-made solutions, without allowing their real questions to emerge and facing the challenges they pose”.[24] Yet once the Church sets aside narrow preconceptions and listens carefully to the young, this empathy enriches her, for “it allows young people to make their own contribution to the community, helping it to appreciate new sensitivities and to consider new questions”.[25]

66. We adults can often be tempted to list all the problems and failings of today’s young people. Perhaps some will find it praiseworthy that we seem so expert in discerning difficulties and dangers. But what would be the result of such an attitude? Greater distance, less closeness, less mutual assistance.

67. Anyone called to be a parent, pastor or guide to young people must have the farsightedness to appreciate the little flame that continues to burn, the fragile reed that is shaken but not broken (cf. Is 42:3). The ability to discern pathways where others only see walls, to recognize potential where others see only peril. That is how God the Father see things; he knows how to cherish and nurture the seeds of goodness sown in the hearts of the young. Each young person’s heart should thus be considered “holy ground”, a bearer of seeds of divine life, before which we must “take off our shoes” in order to draw near and enter more deeply into the Mystery.

Many ways of being young

68. We might attempt to draw a picture of young people today, but first I would echo the Synod Fathers, who noted that “the makeup of the Synod brought out the presence and contribution of many different regions of the world, and highlighted the beauty of our being a universal Church. In a context of growing globalization, the Synod Fathers wanted the many differences of contexts and cultures, even within individual countries, to be duly emphasized. The worlds of today’s ‘youth’ are so many that in some countries one tends to speak of ‘young people’ in the plural. The age group considered by the Synod (16-29 years) does not represent a homogeneous category, but is composed of distinct groups, each with its own life experience”.[26]

69. From a demographic standpoint too, some countries have many young people, whereas others have a very low birth rate. “A further differentiating factor is historical: there are countries and continents of ancient Christian tradition, whose culture is indelibly marked by a memory that cannot be lightly dismissed, while other countries and continents are characterized by other religious traditions, where Christianity is a minority presence – and at times a recent one. In other places still, Christian communities, and young people who belong to them, experience persecution”.[27] There is also a need to distinguish young people “with access to the growing opportunities offered by globalization from those who live on the fringes of society or in rural areas, and find themselves excluded or discarded”.[28]

70. There are many more differences, which it would be difficult to examine here. In any event, I see no need for a detailed analysis of today’s young people, their lives and their experiences. At the same time, since I do not want to neglect that reality, I will briefly summarize some contributions received before the Synod and others that I heard in the course of our meetings.

Some experiences of young people

71. Youth is not something to be analyzed in the abstract. Indeed, “youth” does not exist: there exist only young people, each with the reality of his or her own life. In today’s rapidly changing world, many of those lives are exposed to suffering and manipulation.

Living in a world in crisis

72. The Synod Fathers acknowledged with sorrow that “many young people today live in war zones and experience violence in countless different forms: kidnapping, extortion, organized crime, human trafficking, slavery and sexual exploitation, wartime rape, and so forth. Other young people, because of their faith, struggle to find their place in society and endure various kinds of persecution, even murder. Many young people, whether by force or lack of alternatives, live by committing crimes and acts of violence: child soldiers, armed criminal gangs, drug trafficking, terrorism, and so on. This violence destroys many young lives. Abuse and addiction, together with violence and wrongdoing, are some of the reasons that send young people to prison, with a higher incidence in certain ethnic and social groups”.[29]

73. Many young people are taken in by ideologies, used and exploited as cannon fodder or a strike force to destroy, terrify or ridicule others. Worse yet, many of them end up as individualists, hostile and distrustful of others; in this way, they become an easy target for the brutal and destructive strategies of political groups or economic powers.

74. “Even more numerous in the world are young people who suffer forms of marginalization and social exclusion for religious, ethnic or economic reasons. Let us not forget the difficult situation of adolescents and young people who become pregnant, the scourge of abortion, the spread of HIV, various forms of addiction (drugs, gambling, pornography and so forth), and the plight of street children without homes, families or economic resources”.[30] In the case of women, these situations are doubly painful and difficult.

75. As a Church, may we never fail to weep before these tragedies of our young. May we never become inured to them, for anyone incapable of tears cannot be a mother. We want to weep so that society itself can be more of a mother, so that in place of killing it can learn to give birth, to become a promise of life. We weep when we think of all those young people who have already lost their lives due to poverty and violence, and we ask society to learn to be a caring mother. None of this pain goes away; it stays with us, because the harsh reality can no longer be concealed. The worst thing we can do is adopt that worldly spirit whose solution is simply to anaesthetize young people with other messages, with other distractions, with trivial pursuits.

76. Perhaps “those of us who have a reasonably comfortable life don’t know how to weep. Some realities in life are only seen with eyes cleansed by tears. I would like each of you to ask yourself this question: Can I weep? Can I weep when I see a child who is starving, on drugs or on the street, homeless, abandoned, mistreated or exploited as a slave by society? Or is my weeping only the self-centred whining of those who cry because they want something else?”[31] Try to learn to weep for all those young people less fortunate than yourselves. Weeping is also an expression of mercy and compassion. If tears do not come, ask the Lord to give you the grace to weep for the sufferings of others. Once you can weep, then you will be able to help others from the heart.

77. At times, the hurt felt by some young people is heart-rending, a pain too deep for words. They can only tell God how much they are suffering, and how hard it is for them to keep going, since they no longer believe in anyone. Yet in that sorrowful plea, the words of Jesus make themselves heard: “Blessed are those who mourn, for they shall be comforted” (Mt 5:4). Some young men and women were able to move forward because they heard that divine promise. May all young people who are suffering feel the closeness of a Christian community that can reflect those words by its actions, its embrace and its concrete help.

78. It is true that people in power offer some assistance, but often it comes at a high price. In many poor countries, economic aid provided by some richer countries or international agencies is usually tied to the acceptance of Western views of sexuality, marriage, life or social justice. This ideological colonization is especially harmful to the young. We also see how a certain kind of advertising teaches young people to be perpetually dissatisfied and contributes to the throwaway culture, in which young people themselves end up being discarded.

79. Our present-day culture exploits the image of the young. Beauty is associated with a youthful appearance, cosmetic treatments that hide the traces of time. Young bodies are constantly advertised as a means of selling products. The ideal of beauty is youth, but we need to realize that this has very little to do with young people. It only means that adults want to snatch youth for themselves, not that they respect, love and care for young people.

80. Some young people “find family traditions oppressive and they flee from them under the impulse of a globalized culture that at times leaves them without points of reference. In other parts of the world, even more than generational conflict between young people and adults, there is mutual estrangement. Sometimes adults fail, or do not even try, to hand on the basic values of life, or they try to imitate young people, thus inverting the relationship between generations. The relationship between young people and adults thus risks remaining on the affective level, leaving its educational and cultural aspects untouched”.[32] What harm this does to young people, even though some do not notice it! Young people themselves have remarked how enormously difficult this makes the transmission of the faith “in some countries without freedom of speech, where young people are prevented from attending Church”.[33]

Desires, hurts and longings

81. Young people are aware that the body and sexuality have an essential importance for their lives and for their process of growth in identity. Yet in a world that constantly exalts sexuality, maintaining a healthy relationship with one’s body and a serene affective life is not easy. For this and other reasons, sexual morality often tends to be a source of “incomprehension and alienation from the Church, inasmuch as she is viewed as a place of judgment and condemnation”. Nonetheless, young people also express “an explicit desire to discuss questions concerning the difference between male and female identity, reciprocity between men and women, and homosexuality”.[34]

82. In our times, “advances in the sciences and in biomedical technologies have powerfully influenced perceptions about the body, leading to the idea that it is open to unlimited modification. The capacity to intervene in DNA, the possibility of inserting artificial elements into organisms (cyborgs) and the development of the neurosciences represent a great resource, but at the same time they raise serious anthropological and ethical questions”.[35] They can make us forget that life is a gift, and that we are creatures with innate limits, open to exploitation by those who wield technological power.[36] “Moreover, in some youth circles, there is a growing fascination with risk-taking behaviour as a means of self-exploration, seeking powerful emotions and gaining attention… These realities, to which young generations are exposed, are an obstacle to their serene growth in maturity”.[37]

83. Young people also experience setbacks, disappointments and profoundly painful memories. Often they feel “the hurt of past failures, frustrated desires, experiences of discrimination and injustice, of feeling unloved and unaccepted”. Then too “there are moral wounds, the burden of past errors, a sense of guilt for having made mistakes”.[38] Jesus makes his presence felt amid these crosses borne by young people; he offers them his friendship, his consolation and his healing companionship. The Church wants to be his instrument on this path to interior healing and peace of heart.

84. In some young people, we can see a desire for God, albeit still vague and far from knowledge of the God of revelation. In others, we can glimpse an ideal of human fraternity, which is no small thing. Many have a genuine desire to develop their talents in order to offer something to our world. In some, we see a special artistic sensitivity, or a yearning for harmony with nature. In others, perhaps, a great need to communicate. In many of them, we encounter a deep desire to live life differently. In all of this, we can find real starting points, inner resources open to a word of incentive, wisdom and encouragement.

85. The Synod dealt in particular with three areas of utmost importance. Here I would like to quote its conclusions, while recognizing that they call for greater analysis and the development of a more adequate and effective ability to respond.

The digital environment

86. “The digital environment is characteristic of the contemporary world. Broad swathes of humanity are immersed in it in an ordinary and continuous manner. It is no longer merely a question of ‘using’ instruments of communication, but of living in a highly digitalized culture that has had a profound impact on ideas of time and space, on our self-understanding, our understanding of others and the world, and our ability to communicate, learn, be informed and enter into relationship with others. An approach to reality that privileges images over listening and reading has influenced the way people learn and the development of their critical sense”.[39]

87. The web and social networks have created a new way to communicate and bond. They are “a public square where the young spend much of their time and meet one another easily, even though not all have equal access to it, particularly in some regions of the world. They provide an extraordinary opportunity for dialogue, encounter and exchange between persons, as well as access to information and knowledge. Moreover, the digital world is one of social and political engagement and active citizenship, and it can facilitate the circulation of independent information providing effective protection for the most vulnerable and publicizing violations of their rights. In many countries, the internet and social networks already represent a firmly established forum for reaching and involving young people, not least in pastoral initiatives and activities”.[40]

88. Yet to understand this phenomenon as a whole, we need to realize that, like every human reality, it has its share of limitations and deficiencies. It is not healthy to confuse communication with mere virtual contact. Indeed, “the digital environment is also one of loneliness, manipulation, exploitation and violence, even to the extreme case of the ‘dark web’. Digital media can expose people to the risk of addiction, isolation and gradual loss of contact with concrete reality, blocking the development of authentic interpersonal relationships. New forms of violence are spreading through social media, for example cyberbullying. The internet is also a channel for spreading pornography and the exploitation of persons for sexual purposes or through gambling”.[41]

89. It should not be forgotten that “there are huge economic interests operating in the digital world, capable of exercising forms of control as subtle as they are invasive, creating mechanisms for the manipulation of consciences and of the democratic process. The way many platforms work often ends up favouring encounter between persons who think alike, shielding them from debate. These closed circuits facilitate the spread of fake news and false information, fomenting prejudice and hate. The proliferation of fake news is the expression of a culture that has lost its sense of truth and bends the facts to suit particular interests. The reputation of individuals is put in jeopardy through summary trials conducted online. The Church and her pastors are not exempt from this phenomenon”.[42]

90. A document prepared on the eve of the Synod by three hundred young people worldwide pointed out that “online relationships can become inhuman. Digital spaces blind us to the vulnerability of another human being and prevent us from our own self-reflection. Problems like pornography distort a young person’s perception of human sexuality. Technology used in this way creates a delusional parallel reality that ignores human dignity”.[43] For many people, immersion in the virtual world has brought about a kind of “digital migration”, involving withdrawal from their families and their cultural and religious values, and entrance into a world of loneliness and of self-invention, with the result that they feel rootless even while remaining physically in one place. The fresh and exuberant lives of young people who want to affirm their personality today confront a new challenge: that of interacting with a real and virtual world that they enter alone, as if setting foot on an undiscovered global continent. Young people today are the first to have to effect this synthesis between what is personal, what is distinctive to their respective cultures, and what is global. This means that they must find ways to pass from virtual contact to good and healthy communication.

Migrants as an epitome of our time

91. How can we fail to think of all those young people affected by movements of migration? “Migration, considered globally, is a structural phenomenon, and not a passing emergency. It may occur within one country or between different countries. The Church’s concern is focused especially on those fleeing from war, violence, political or religious persecution, from natural disasters including those caused by climate change, and from extreme poverty. Many of them are young. In general, they are seeking opportunities for themselves and their families. They dream of a better future and they want to create the conditions for achieving it”.[44] Migrants “remind us of a basic aspect of our faith, that we are ‘strangers and exiles on the earth’ (Heb 11:13)”.[45]

92. Other migrants are “attracted by Western culture, sometimes with unrealistic expectations that expose them to grave disappointments. Unscrupulous traffickers, frequently linked to drug cartels or arms cartels, exploit the weakness of migrants, who too often experience violence, trafficking, psychological and physical abuse and untold sufferings on their journey. Nor must we overlook the particular vulnerability of migrants who are unaccompanied minors, or the situation of those compelled to spend many years in refugee camps, or of those who remain trapped for a long time in transit countries, without being able to pursue a course of studies or to use their talents. In some host countries, migration causes fear and alarm, often fomented and exploited for political ends. This can lead to a xenophobic mentality, as people close in on themselves, and this needs to be addressed decisively”.[46]

93. “Young migrants experience separation from their place of origin, and often a cultural and religious uprooting as well. Fragmentation is also felt by the communities they leave behind, which lose their most vigorous and enterprising elements, and by families, especially when one or both of the parents migrates, leaving the children in the country of origin. The Church has an important role as a point of reference for the young members of these divided families. However, the stories of migrants are also stories of encounter between individuals and between cultures. For the communities and societies to which they come, migrants bring an opportunity for enrichment and the integral human development of all. Initiatives of welcome involving the Church have an important role from this perspective; they can bring new life to the communities capable of undertaking them”.[47]

94. “Given the varied backgrounds of the Synod Fathers, the discussion of migrants benefited from a great variety of approaches, particularly from countries of departure and countries of arrival. Grave concern was also expressed by Churches whose members feel forced to escape war and persecution and by others who see in these forced migrations a threat to their survival. The very fact that the Church can embrace all these varied perspectives allows her to play a prophetic role in society with regard to the issue of migration”.[48] In a special way, I urge young people not to play into the hands of those who would set them against other young people, newly arrived in their countries, and who would encourage them to view the latter as a threat, and not possessed of the same inalienable dignity as every other human being.

Ending every form of abuse

95. Recently, urgent appeals have been made for us to hear the cry of the victims of different kinds of abuse perpetrated by some bishops, priests, religious and laypersons. These sins cause their victims “sufferings that can last a lifetime and that no repentance can remedy. This phenomenon is widespread in society and it also affects the Church and represents a serious obstacle to her mission”.[49]

96. It is true that “the scourge of the sexual abuse of minors is, and historically has been, a widespread phenomenon in all cultures and societies”, especially within families and in various institutions; its extent has become known primarily “thanks to changes in public opinion”. Even so, this problem, while it is universal and “gravely affects our societies as a whole… is in no way less monstrous when it takes place within the Church”. Indeed, “in people’s justified anger, the Church sees the reflection of the wrath of God, betrayed and insulted”.[50]

97. “The Synod reaffirms the firm commitment made to adopting rigorous preventative measures intended to avoid the recurrence [of these crimes], starting with the selection and formation of those to whom tasks of responsibility and education will be entrusted”.[51] At the same time, the determination to apply the “actions and sanctions that are so necessary” must be reiterated.[52] And all this with the grace of Christ. There can be no turning back.

98. “Abuse exists in various forms: the abuse of power, the abuse of conscience, sexual and financial abuse. Clearly, the ways of exercising authority that make all this possible have to be eradicated, and the irresponsibility and lack of transparency with which so many cases have been handled have to be challenged. The desire to dominate, lack of dialogue and transparency, forms of double life, spiritual emptiness, as well as psychological weaknesses, are the terrain on which corruption thrives”.[53] Clericalism is a constant temptation on the part of priests who see “the ministry they have received as a power to be exercised, rather than a free and generous service to be offered. It makes us think that we belong to a group that has all the answers and no longer needs to listen or has anything to learn”.[54] Doubtless, such clericalism can make consecrated persons lose respect for the sacred and inalienable worth of each person and of his or her freedom.

99. Together with the Synod Fathers, I wish to thank, with gratitude and affection, “those who had the courage to report the evil they experienced: they help the Church to acknowledge what happened and the need to respond decisively”.[55] Particular gratitude is also due for “the generous commitment of countless lay persons, priests, consecrated men and women, and bishops who daily devote themselves with integrity and dedication to the service of the young. Their efforts are like a great forest that quietly grows. Many of the young people present at the Synod also expressed gratitude to those who have accompanied them and they emphasized the great need for adults who can serve as points of reference”.[56]

100. Thank God, those who committed these horrible crimes are not the majority of priests, who carry out their ministry with fidelity and generosity. I ask young people to let themselves be inspired by this vast majority. And if you see a priest at risk, because he has lost the joy of his ministry, or seeks affective compensation, or is taking the wrong path, remind him of his commitment to God and his people, remind him of the Gospel and urge him to hold to his course. In this way, you will contribute greatly to something fundamental: preventing these atrocities from being repeated. This dark cloud also challenges all young people who love Jesus Christ and his Church: they can be a source of great healing if they employ their great capacity to bring about renewal, to urge and demand consistent witness, to keep dreaming and coming up with new ideas.

101. Nor is this the only sin of the members of the Church; her long history is not without its shadows. Our sins are before the eyes of everyone; they appear all too clearly in the lines on the age-old face of the Church, our Mother and Teacher. For two thousand years she has advanced on her pilgrim way, sharing “the joys and the hopes, the grief and anguish”[57] of all humanity. She has made this journey as she is, without cosmetic surgery of any kind. She is not afraid to reveal the sins of her members, which some try at times to hide, before the burning light of the word of the Gospel, which cleanses and purifies. Nor does she stop reciting each day, in shame: “Have mercy on me, Lord, in your kindness… my sin is always before me” (Ps 51:3.5). Still, let us never forget that we must not abandon our Mother when she is wounded, but stand beside her, so that she can summon up all her strength and all her ability to begin ever anew.

102. In the midst of this tragedy, which rightly pains us, “the Lord Jesus, who never abandons his Church, offers her the strength and the means to set out on a new path”.[58] This dark moment, “not without the valuable help of the young, can truly be an opportunity for a reform of epoch-making significance”,[59] opening us to a new Pentecost and inaugurating a new stage of purification and change capable of renewing the Church’s youth. Young people will be all the more helpful if they feel fully a part of the “holy and patient, faithful People of God, borne up and enlivened by the Holy Spirit”, for “it will be precisely this holy People of God to liberate us from the plague of clericalism, which is the fertile ground for all these disgraces”.[60]

A way out

103. In this chapter, I have taken time to look at the reality of young people in today’s world. Some other aspects will be dealt with in the following chapters. As I have said, I do not claim to be exhaustive in this analysis. I encourage communities to examine, respectfully and seriously, the situation of their young people, in order to find the most fitting ways of providing them with pastoral care. At the same time, I do not want to end this chapter without addressing some words to each of you.

104. I remind you of the good news we received as a gift on the morning of the resurrection: that in all the dark or painful situations that we mentioned, there is a way out. For example, it is true that the digital world can expose you to the risk of self-absorption, isolation and empty pleasure. But don’t forget that there are young people even there who show creativity and even genius. That was the case with the Venerable Carlo Acutis.

105. Carlo was well aware that the whole apparatus of communications, advertising and social networking can be used to lull us, to make us addicted to consumerism and buying the latest thing on the market, obsessed with our free time, caught up in negativity. Yet he knew how to use the new communications technology to transmit the Gospel, to communicate values and beauty.

106. Carlo didn’t fall into the trap. He saw that many young people, wanting to be different, really end up being like everyone else, running after whatever the powerful set before them with the mechanisms of consumerism and distraction. In this way they do not bring forth the gifts the Lord has given them; they do not offer the world those unique personal talents that God has given to each of them. As a result, Carlo said, “everyone is born as an original, but many people end up dying as photocopies”. Don’t let that happen to you!

107. Don’t let them rob you of hope and joy, or drug you into becoming a slave to their interests. Dare to be more, because who you are is more important than any possession. What good are possessions or appearances? You can become what God your Creator knows you are, if only you realize that you are called to something greater. Ask the help of the Holy Spirit and confidently aim for the great goal of holiness. In this way, you will not be a photocopy. You will be fully yourself.

108. If this is to happen, you need to realize one basic truth: being young is not only about pursuing fleeting pleasures and superficial achievements. If the years of your youth are to serve their purpose in life, they must be a time of generous commitment, whole-hearted dedication, and sacrifices that are difficult but ultimately fruitful. As a great poet put it:

“If to regain what I regained,
I first had to lose what I lost;
If to achieve what I achieved,
I had to endure what I endured;

If to be in love now
First I had to be hurt,
I consider what I suffered well suffered,
I consider what I wept for as well wept for.

Because in the end I came to see
That we do not really enjoy what we enjoyed
Unless we have suffered for it.

For in the end I realized
That the blossoms on the tree
Draw life from what lies buried beneath”
.[61]

109. If you are young in years, but feel weak, weary or disillusioned, ask Jesus to renew you. With him, hope never fails. You can do the same if you feel overwhelmed by vices, bad habits, selfishness or unhealthy pastimes. Jesus, brimming with life, wants to help you make your youth worthwhile. In this way, you will not deprive the world of the contribution that you alone can make, in all your uniqueness and originality.

110. Yet let me also remind you that, “when we live apart from others, it is very difficult to fight against concupiscence, the snares and temptations of the devil, and the selfishness of the world. Bombarded as we are by so many enticements, we can grow too isolated, lose our sense of reality and inner clarity, and easily succumb”.[62] This is especially the case with young people, for whenever you are united, you have marvellous strength. Whenever you are enthused about life in common, you are capable of great sacrifices for others and for the community. Isolation, on the other hand, saps our strength and exposes us to the worst evils of our time.

 

CHAPTER FOUR

A great message for all young people

111. Putting all else aside, I now wish to speak to young people about what is essential, the one thing we should never keep quiet about. It is a message containing three great truths that all of us need constantly to keep hearing.

A God who is love

112. The very first truth I would tell each of you is this: “God loves you”. It makes no difference whether you have already heard it or not. I want to remind you of it. God loves you. Never doubt this, whatever may happen to you in life. At every moment, you are infinitely loved.

113. Perhaps your experience of fatherhood has not been the best. Your earthly father may have been distant or absent, or harsh and domineering. Or maybe he was just not the father you needed. I don’t know. But what I can tell you, with absolute certainty, is that you can find security in the embrace of your heavenly Father, of the God who first gave you life and continues to give it to you at every moment. He will be your firm support, but you will also realize that he fully respects your freedom.

114. In God’s word, we find many expressions of his love. It is as if he tried to find different ways of showing that love, so that, with one of them at least, he could touch your heart. For example, there are times when God speaks of himself as an affectionate father who plays with his children: “I led them with cords of compassion, with bands of love. I was to them like those who lift infants to their cheeks” (Hos 11:4).

At other times, he speaks of himself as filled with the love of a mother whose visceral love for her children makes it impossible for her to neglect or abandon them: “Can a woman forget her nursing child, or show no compassion for the child of her womb? Even these may forget, yet I will not forget you” (Is 49:15).

He even compares himself to a lover who goes so far as to write his beloved on the palm of his hands, to keep her face always before him: “See, I have inscribed you on the palms of my hands!” (Is 49:6).

At other times, he emphasizes the strength and steadfastness of his invincible love: “For the mountains may depart, and the hills be shaken, but my steadfast love shall not depart from you, and my covenant of peace shall not be shaken” (Is 54:10).

Or he tells us that we have been awaited from eternity, for it was not by chance that we came into this world: “I have loved you with an everlasting love; therefore I have continued my faithfulness to you” (Jer 31:3).

Or he lets us know that he sees in us a beauty that no one else can see: “For you are precious in my sight, and honoured, and I love you” (Is 43:4).

Or he makes us realize that his love is not cheerless, but pure joy, welling up whenever we allow ourselves to be loved by him: “The Lord, your God, is in your midst, a warrior who gives victory. He will rejoice over you with gladness, he will renew you in his love; he will exult over you with loud singing” (Zeph 3:17).

115. For him, you have worth; you are not insignificant. You are important to him, for you are the work of his hands. That is why he is concerned about you and looks to you with affection. “Trust the memory of God: his memory is not a ‘hard disk’ that ‘saves’ and ‘archives’ all our data. His memory is a heart filled with tender compassion, one that finds joy in ‘deleting’ from us every trace of evil”.[63] He does not keep track of your failings and he always helps you learn something even from your mistakes. Because he loves you. Try to keep still for a moment and let yourself feel his love. Try to silence all the noise within, and rest for a second in his loving embrace.

116. His is “a love that does not overwhelm or oppress, cast aside or reduce to silence, humiliate or domineer. It is the love of the Lord, a daily, discreet and respectful love; a love that is free and freeing, a love that heals and raises up. The love of the Lord has to do more with raising up than knocking down, with reconciling than forbidding, with offering new changes than condemning, with the future than the past”.[64]

117. When he asks something of you, or simply makes you face life’s challenges, he is hoping that you will make room for him to push you, to help you grow. He does not get upset if you share your questions with him. He is concerned when you don’t talk to him, when you are not open to dialogue with him. The Bible tells us that Jacob fought with God (cf. Gen 32:25-31), but that did not keep him from persevering in his journey. The Lord himself urges us: “Come, let us argue it out” (Is 1:18). His love is so real, so true, so concrete, that it invites us to a relationship of openness and fruitful dialogue. Seek the closeness of our heavenly Father in the loving face of his courageous witnesses on earth!

Christ saves you

118. The second great truth is that Christ, out of love, sacrificed himself completely in order to save you. His outstretched arms on the cross are the most telling sign that he is a friend who is willing to stop at nothing: “Having loved his own who were in the world, he loved them to the end” (Jn 13:1).

Saint Paul said that his life was one of complete trust in that self-sacrificing love: “I now live by faith in the Son of God who loved me, and gave himself for me” (Gal 2:20).

119. The same Christ who, by his cross, saved us from our sins, today continues to save and redeem us by the power of his total self-surrender. Look to his cross, cling to him, let him save you, for “those who accept his offer of salvation are set free from sin, sorrow, inner emptiness and loneliness”.[65] And if you sin and stray far from him, he will come to lift you up by the power of his cross. Never forget that “he forgives us seventy times seven. Time and time again, he bears us on his shoulders. No one can strip us of the dignity bestowed upon us by this boundless and unfailing love. With a tenderness that never disappoints but is always capable of restoring our joy, he makes it possible for us to lift up our heads and to start anew”.[66]

120. “We are saved by Jesus because he loves us and cannot go against his nature. We can do any number of things against him, yet he loves us and he saves us. For only what is loved can be saved. Only what is embraced can be transformed. The Lord’s love is greater than all our problems, frailties and flaws. Yet it is precisely through our problems, frailties and flaws that he wants to write this love story. He embraced the prodigal son, he embraced Peter after his denials, and he always, always, always embraces us after every fall, helping us to rise and get back on our feet. Because the worst fall, and pay attention to this, the worst fall, the one that can ruin our lives, is when we stay down and do not allow ourselves to be helped up”.[67]

121. His forgiveness and salvation are not something we can buy, or that we have to acquire by our own works or efforts. He forgives us and sets us free without cost. His self-sacrifice on the cross is so great that we can never repay it, but only receive it with immense gratitude and with the joy of being more greatly loved than we could ever imagine: “He loved us first” (1 Jn 4:19).

122. Young people, beloved of the Lord, how valuable must you be if you were redeemed by the precious blood of Christ! Dear young people, “you are priceless! You are not up for sale! Please, do not let yourselves be bought. Do not let yourselves be seduced. Do not let yourselves be enslaved by forms of ideological colonization that put ideas in your heads, with the result that you end up becoming slaves, addicts, failures in life. You are priceless. You must repeat this always: I am not up for sale; I do not have a price. I am free! Fall in love with this freedom, which is what Jesus offers”.[68]

123. Keep your eyes fixed on the outstretched arms of Christ crucified, let yourself be saved over and over again. And when you go to confess your sins, believe firmly in his mercy which frees you of your guilt. Contemplate his blood poured out with such great love, and let yourself be cleansed by it. In this way, you can be reborn ever anew.

He is alive!

124. Finally, there is a third truth, inseparable from the second: Christ is alive! We need to keep reminding ourselves of this, because we can risk seeing Jesus Christ simply as a fine model from the distant past, as a memory, as someone who saved us two thousand years ago. But that would be of no use to us: it would leave us unchanged, it would not set us free. The one who fills us with his grace, the one who liberates us, transforms us, heals and consoles us is someone fully alive. He is the Christ, risen from the dead, filled with supernatural life and energy, and robed in boundless light. That is why Saint Paul could say: “If Christ has not been raised, your faith is futile” (1 Cor 15:7).

125. Alive, he can be present in your life at every moment, to fill it with light and to take away all sorrow and solitude. Even if all others depart, he will remain, as he promised: “I am with you always, to the end of the age” (Mt 28:20). He fills your life with his unseen presence; wherever you go, he will be waiting there for you. Because he did not only come in the past, but he comes to you today and every day, inviting you to set out towards ever new horizons.

126. See Jesus as happy, overflowing with joy. Rejoice with him as with a friend who has triumphed. They killed him, the holy one, the just one, the innocent one, but he triumphed in the end. Evil does not have the last word. Nor will it have the last word in your life, for you have a friend who loves you and wants to triumph in you. Your Saviour lives.

127. Because he lives, there can be no doubt that goodness will have the upper hand in your life and that all our struggles will prove worthwhile. If this is the case, we can stop complaining and look to the future, for with him this is always possible. That is the certainty we have. Jesus is eternally alive. If we hold fast to him, we will have life, and be protected from the threats of death and violence that may assail us in life.

128. Every other solution will prove inadequate and temporary. It may be helpful for a time, but once again we will find ourselves exposed and abandoned before the storms of life. With Jesus, on the other hand, our hearts experience a security that is firmly rooted and enduring. Saint Paul says that he wishes to be one with Christ in order “to know him and the power of his resurrection” (Phil 3:10). That power will constantly be revealed in your lives too, for he came to give you life, “and life in abundance” (Jn 10:10).

129. If in your heart you can learn to appreciate the beauty of this message, if you are willing to encounter the Lord, if you are willing to let him love you and save you, if you can make friends with him and start to talk to him, the living Christ, about the realities of your life, then you will have a profound experience capable of sustaining your entire Christian life. You will also be able to share that experience with other young people. For “being a Christian is not the result of an ethical choice or a lofty idea, but the encounter with an event, a person, which gives life a new horizon and a decisive direction”.[69]

The Spirit gives life

130. In these three truths – God loves you; Christ is your Saviour; he is alive – we see God the Father and Jesus. Wherever the Father and the Son are, there too is the Holy Spirit. He is the one who quietly opens hearts to receive that message. He keeps alive our hope of salvation, and he will help you grow in joy if you are open to his working. The Holy Spirit fills the heart of the risen Christ and then flows over into your lives. When you receive the Spirit, he draws you ever more deeply into the heart of Christ, so that you can grow in his love, his life and his power.

131. Ask the Holy Spirit each day to help you experience anew the great message. Why not? You have nothing to lose, and he can change your life, fill it with light and lead it along a better path. He takes nothing away from you, but instead helps you to find all that you need, and in the best possible way. Do you need love? You will not find it in dissipation, using other people, or trying to be possessive or domineering. You will find it in a way that will make you genuinely happy. Are you seeking powerful emotions? You will not experience them by accumulating material objects, spending money, chasing desperately after the things of this world. They will come, and in a much more beautiful and meaningful way, if you let yourself be prompted by the Holy Spirit.

132. Are you looking for passion? As that beautiful poem says: “Fall in love!” (or “let yourself be loved!”), because “nothing is more practical than finding God, than falling in love in a quite absolute, final way. What you are in love with, what seizes your imagination, will affect everything. It will decide what will get you out of bed in the morning, what you do with your evenings, how you spend your weekends, what you read, whom you know, what breaks your heart, and what amazes you with joy and gratitude. Fall in love, stay in love, and it will decide everything”.[70] This love for God, that can approach everything in life with passion, is possible thanks to the Spirit, for “God’s love has been poured into our hearts through the Holy Spirit who has been given to us” (Rom 5:5).

133. He is the source of youth at its best. For those who trust in the Lord are “like a tree planted by water sending out its roots by the stream; it shall not fear when heat comes, and its leaves shall stay green” (Jer 17:8). While “youths shall faint and be weary” (Is 40:30), those who wait for the Lord “shall renew their strength, they shall mount up with wings like eagles, they shall run and not be weary, they shall walk and not faint” (Is 40:31).

 

CHAPTER FIVE

Paths of youth

134. What does it mean to live the years of our youth in the transforming light of the Gospel? We need to raise this question, because youth, more than a source of pride, is a gift of God: “To be young is a grace, a blessing”.[71] It is a gift that we can squander meaninglessly, or receive with gratitude and live to the full.

135. God is the giver of youth and he is at work in the life of each young person. Youth is a blessed time for the young and a grace for the Church and for the world. It is joy, a song of hope and a blessing. Making the most of our youthful years entails seeing this season of life as worthwhile in itself, and not simply as a brief prelude to adulthood.

A time of dreams and decisions

136. In Jesus’ day, the passage from childhood was a significant step in life, one joyfully celebrated. When Jesus restored life to a man’s daughter, he first called her a “child” (Mk 5:39), but then addressed her as a “young girl” (Mk 5:41). By saying to her: “Young girl, get up (talitha cum)”, he made her more responsible for her life, opening before her the door to youth.

137. “Youth, as a phase in the development of the personality, is marked by dreams which gather momentum, by relationships which acquire more and more consistency and balance, by trials and experiments, and by choices which gradually build a life project. At this stage in life, the young are called to move forward without cutting themselves off from their roots, to build autonomy but not in solitude”.[72]

138. The love of God and our relationship with the living Christ do not hold us back from dreaming; they do not require us to narrow our horizons. On the contrary, that love elevates us, encourages us and inspires us to a better and more beautiful life. Much of the longing present in the hearts of young people can be summed up in the word “restlessness”. As Saint Paul VI said, “In the very discontent that you often feel… a ray of light is present”.[73] Restless discontent, combined with exhilaration before the opening up of new horizons, generates a boldness that leads you to stand up and take responsibility for a mission. This healthy restlessness typical of youth continues to dwell in every heart that remains young, open and generous. True inner peace coexists with that profound discontent. As Saint Augustine said: “You have created us for yourself, Lord, and our hearts are restless until they find their rest in you”.[74]

139. Sometime ago, a friend asked me what I see in a young person. My response was that “I see someone who is searching for his or her own path, who wants to fly on their two feet, who faces the world and looks at the horizon with eyes full of the future, full of hope as well as illusions. A young person stands on two feet as adults do, but unlike adults, whose feet are parallel, he always has one foot forward, ready to set out, to spring ahead. Always racing onward. To talk about young people is to talk about promise and to talk about joy. Young people have so much strength; they are able to look ahead with hope. A young person is a promise of life that implies a certain degree of tenacity. He is foolish enough to delude himself, and resilient enough to recover from that delusion”.[75]

140. Some young people might hate this stage of life, because they want to continue being children or indefinitely prolong their adolescence and put off having to make decisions. “Fear of the definitive thus generates a kind of paralysis of decision-making. Yet youth cannot remain on hold. It is the age of choices and herein lies its fascination and its greatest responsibility. Young people make decisions in professional, social and political fields, and in other more radical ways that determine the shape of their lives”.[76] They also make decisions about love, choosing a spouse and starting a family. We will look at these issues more closely in the final chapters, when dealing with individual vocations and their discernment.

141. But opposed to these hopes and dreams that generate decisions, there is always the temptation to complain or give up. “We can leave that to those who worship the ‘goddess of lament’… She is a false goddess: she makes you take the wrong road. When everything seems to be standing still and stagnant, when our personal issues trouble us, and social problems do not meet with the right responses, it does no good to give up. Jesus is the way: welcome him into your ‘boat’ and put out into the deep! He is the Lord! He changes the way we see life. Faith in Jesus leads to greater hope, to a certainty based not on our qualities and skills, but on the word of God, on the invitation that comes from him. Without making too many human calculations, and without worrying about things that challenge your security, put out into the deep. Go out of yourselves”.[77]

142. Keep following your hopes and dreams. But be careful about one temptation that can hold us back. It is anxiety. Anxiety can work against us by making us give up whenever we do not see instant results. Our best dreams are only attained through hope, patience and commitment, and not in haste. At the same time, we should not be hesitant, afraid to take chances or make mistakes. Avoid the paralysis of the living dead, who have no life because they are afraid to take risks, to make mistakes or to persevere in their commitments. Even if you make mistakes, you can always get up and start over, for no one has the right to rob you of hope.

143. Dear young people, make the most of these years of your youth. Don’t observe life from a balcony. Don’t confuse happiness with an armchair, or live your life behind a screen. Whatever you do, do not become the sorry sight of an abandoned vehicle! Don’t be parked cars, but dream freely and make good decisions. Take risks, even if it means making mistakes. Don’t go through life anaesthetized or approach the world like tourists. Make a ruckus! Cast out the fears that paralyze you, so that you don’t become young mummies. Live! Give yourselves over to the best of life! Open the door of the cage, go out and fly! Please, don’t take early retirement.

A thirst for life and experience

144. While drawn towards the future and its promise, young people also have a powerful desire to experience the present moment, to make the most of the opportunities life offers. Our world is filled with beauty! How can we look down upon God’s many gifts?

145. Contrary to what many people think, the Lord does not want to stifle these desires for a fulfilling life. We do well to remember the words of an Old Testament sage: “My child, treat yourself well, according to your means, and present your offerings to the Lord; do not deprive yourself of a day’s enjoyment, do not let your share of desired good pass by” (Sir 14:11.14). The true God, who loves you, wants you to be happy. For this reason, the Bible also contains this piece of advice to young people: “Rejoice, young man, while you are young, and let your heart cheer you in the days of your youth… banish anxiety from your mind” (Ec 11:9-10). For God “richly provides us with everything for our enjoyment” (1 Tim 6:17).

146. How could God take pleasure in someone incapable of enjoying his small everyday blessings, someone blind to the simple pleasures we find all around us? “No one is worse than one who is grudging to himself” (Sir 14:6). Far from obsessively seeking new pleasures, which would keep us from making the most of the present moment, we are asked to open our eyes and take a moment to experience fully and with gratitude every one of life’s little gifts.

147. Clearly, God’s word asks you to enjoy the present, not simply to prepare for the future: “Do not worry about tomorrow, for tomorrow will bring worries of its own; today’s trouble is enough for today” (Mt 6:34). But this is not the same as embarking irresponsibly on a life of dissipation that can only leave us empty and perpetually dissatisfied. Rather, it is about living the present to the full, spending our energies on good things, cultivating fraternity, following Jesus and making the most of life’s little joys as gifts of God’s love.

148. Cardinal Francis Xavier Nguyên Van Thuân, when imprisoned in a concentration camp, refused to do nothing but await the day when he would be set free. He chose “to live the present moment, filling it to the brim with love”. He decided: “I will seize the occasions that present themselves every day; I will accomplish ordinary actions in an extraordinary way”.[78] As you work to achieve your dreams, make the most of each day and do your best to let each moment brim with love. This youthful day may well be your last, and so it is worth the effort to live it as enthusiastically and fully as possible.

149. This can also be applied to times of difficulty, that have to be fully experienced if we are to learn the message they can teach us. In the words of the Swiss Bishops: “God is there where we thought he had abandoned us and there was no further hope of salvation. It is a paradox, but for many Christians, suffering and darkness have become… places of encounter with God”.[79] The desire to live fully and experience new things is also felt by many young people with physical, mental and sensory disabilities. Even though they may not always be able to have the same experiences as others, they possess amazing resources and abilities that are often far above average. The Lord Jesus grants them other gifts, which the community is called to recognize and appreciate, so that they can discover his plan of love for each of them.

In friendship with Christ

150. No matter how much you live the experience of these years of your youth, you will never know their deepest and fullest meaning unless you encounter each day your best friend, the friend who is Jesus.

151. Friendship is one of life’s gifts and a grace from God. Through our friends, the Lord refines us and leads us to maturity. Faithful friends, who stand at our side in times of difficulty, are also a reflection of the Lord’s love, his gentle and consoling presence in our lives. The experience of friendship teaches us to be open, understanding and caring towards others, to come out of our own comfortable isolation and to share our lives with others. For this reason, “there is nothing so precious as a faithful friend” (Sir 6:15).

152. Friendship is no fleeting or temporary relationship, but one that is stable, firm and faithful, and matures with the passage of time. A relationship of affection that brings us together and a generous love that makes us seek the good of our friend. Friends may be quite different from one another, but they always have things in common that draw them closer in mutual openness and trust.[80]

153. Friendship is so important that Jesus calls himself a friend: “I do not call you servants any longer, but I call you friends” (Jn 15:15). By the gift of his grace, we are elevated in such a way that we truly become his friends. With the same love that Christ pours out on us, we can love him in turn and share his love with others, in the hope that they too will take their place in the community of friendship he established. And even as he enjoys the complete bliss of the life of the resurrection, we, for our part, can work generously to help him build his kingdom in this world, by bringing his message, his light, and above all his love, to others (cf. Jn 15:16). The disciples heard Jesus calling them to be his friends. It was an invitation that did not pressure them, but gently appealed to their freedom. “Come and see”, Jesus told them; so “they came and saw where he was staying, and they remained with him that day” (Jn 1:39). After that unexpected and moving encounter, they left everything and followed him.

154. Friendship with Jesus cannot be broken. He never leaves us, even though at times it appears that he keeps silent. When we need him, he makes himself known to us (cf. Jer 29:14); he remains at our side wherever we go (cf. Jos 1:9). He never breaks his covenant. He simply asks that we not abandon him: “Abide in me” (Jn 15:4). But even if we stray from him, “he remains faithful, for he cannot deny himself” (2 Tim 2:13).

155. With a friend, we can speak and share our deepest secrets. With Jesus too, we can always have a conversation. Prayer is both a challenge and an adventure. And what an adventure it is! Gradually Jesus makes us appreciate his grandeur and draw nearer to him. Prayer enables us to share with him every aspect of our lives and to rest confidently in his embrace. At the same time, it gives us a share in his own life and love. When we pray, “we open everything we do” to him, and we give him room “so that he can act, enter and claim victory”.[81]

156. In this way, we can experience a constant closeness to him, greater than anything we can experience with another person: “It is no longer I who live, but it is Christ who lives in me” (Gal 2:20). Do not deprive your youth of this friendship. You will be able to feel him at your side not only when you pray, but at every moment. Try to look for him, and you will have the beautiful experience of seeing that he is always at your side. That is what the disciples of Emmaus experienced when, as they walked along dejectedly, Jesus “drew near and walked with them” (Lk 24:15). In the words of a saint, “Christianity is not a collection of truths to be believed, rules to be followed, or prohibitions. Seen that way, it puts us off. Christianity is a person who loved me immensely, who demands and claims my love. Christianity is Christ”.[82]

157. Jesus can bring all the young people of the Church together in a single dream, “a great dream, a dream with a place for everyone. The dream for which Jesus gave his life on the cross, for which the Holy Spirit was poured out on the day of Pentecost and brought fire to the heart of every man and woman, to your heart and mine. To your heart too, he brought that fire, in the hope of finding room for it to grow and flourish. A dream whose name is Jesus, planted by the Father in the confidence that it would grow and live in every heart. A concrete dream who is a person, running through our veins, thrilling our hearts and making them dance”.[83]

Growth in maturity

158. Many young people are concerned about their bodies, trying to build up physical strength or improve their appearance. Others work to develop their talents and knowledge, so as to feel more sure of themselves. Some aim higher, seeking to become more involved and to grow spiritually. Saint John said: “I write to you, young people, because you are strong and the word of God abides in you” (1 Jn 2:14). Seeking the Lord, keeping his word, entrusting our life to him and growing in the virtues: all these things make young hearts strong. That is why you need to stay connected to Jesus, to “remain online” with him, since you will not grow happy and holy by your own efforts and intelligence alone. Just as you try not to lose your connection to the internet, make sure that you stay connected to the Lord. That means not cutting off dialogue, listening to him, sharing your life with him and, whenever you aren’t sure what you should do, asking him: “Jesus, what would you do in my place?”.[84]

159. I hope that you will be serious enough about yourselves to make an effort to grow spiritually. Along with all the other exciting things about youth, there is also the beauty of seeking “righteousness, faith, love and peace” (2 Tim 2:22). This does not involve losing anything of your spontaneity, boldness, enthusiasm and tenderness. Becoming an adult does not mean you have to abandon what is best about this stage of your lives. If you do, the Lord may one day reproach you: “I remember the devotion of your youth, your love as a bride, and how you followed me in the wilderness” (Jer 2:2).

160. Adults, too, have to mature without losing the values of youth. Every stage of life is a permanent grace, with its own enduring value. The experience of a youth well lived always remains in our heart. It continues to grow and bear fruit throughout adulthood. Young people are naturally attracted by an infinite horizon opening up before them.[85] Adult life, with its securities and comforts, can risk shrinking that horizon and losing that youthful excitement. The very opposite should happen: as we mature, grow older and structure our lives, we should never lose that enthusiasm and openness to an ever greater reality. At every moment in life, we can renew our youthfulness. When I began my ministry as Pope, the Lord broadened my horizons and granted me renewed youth. The same thing can happen to a couple married for many years, or to a monk in his monastery. There are things we need to “let go of” as the years pass, but growth in maturity can coexist with a fire constantly rekindled, with a heart ever young.

161. Growing older means preserving and cherishing the most precious things about our youth, but it also involves having to purify those things that are not good and receiving new gifts from God so we can develop the things that really matter. At times, a certain inferiority complex can make you overlook your flaws and weaknesses, but that can hold you back from growth in maturity. Instead, let yourself be loved by God, for he loves you just as you are. He values and respects you, but he also keeps offering you more: more of his friendship, more fervour in prayer, more hunger for his word, more longing to receive Christ in the Eucharist, more desire to live by his Gospel, more inner strength, more peace and spiritual joy.

162. But I would also remind you that you won’t become holy and find fulfilment by copying others. Imitating the Saints does not mean copying their lifestyle and their way of living holiness: “There are some testimonies that may prove helpful and inspiring, but that we are not meant to copy, for that could even lead us astray from the one specific path that the Lord has in mind for us”.[86]You have to discover who you are and develop your own way of being holy, whatever others may say or think. Becoming a saint means becoming more fully yourself, becoming what the Lord wished to dream and create, and not a photocopy. Your life ought to be a prophetic stimulus to others and leave a mark on this world, the unique mark that only you can leave. Whereas if you simply copy someone else, you will deprive this earth, and heaven too, of something that no one else can offer. I think of Saint John of the Cross, who wrote in his Spiritual Canticle that everyone should benefit from his spiritual advice “in his or her own way”,[87] for the one God wishes to manifest his grace “to some in one way and to others in another”.[88]

Paths of fraternity

163. Your spiritual growth is expressed above all by your growth in fraternal, generous and merciful love. Saint Paul prayed: “May the Lord make you increase and abound in love for one another and for all” (1 Thes 3:12). How wonderful it would be to experience this “ecstasy” of coming out of ourselves and seeking the good of others, even to the sacrifice of our lives.

164. When an encounter with God is called an “ecstasy”, it is because it takes us out of ourselves, lifts us up and overwhelms us with God’s love and beauty. Yet we can also experience ecstasy when we recognize in others their hidden beauty, their dignity and their grandeur as images of God and children of the Father. The Holy Spirit wants to make us come out of ourselves, to embrace others with love and to seek their good. That is why it is always better to live the faith together and to show our love by living in community and sharing with other young people our affection, our time, our faith and our troubles. The Church offers many different possibilities for living our faith in community, for everything is easier when we do it together.

165. Hurts you have experienced might tempt you to withdraw from others, to turn in on yourself and to nurse feelings of anger, but never stop listening to God’s call to forgiveness. The Bishops of Rwanda put it well: “In order to reconcile with another person, you must first of all be able to see the goodness in that person, the goodness God created him with… This requires great effort to distinguish the offence from the offender; it means you hate the offence the person has committed, but you love the person despite his weakness, because in him you see the image of God”.[89]

166. There are times when all our youthful energy, dreams and enthusiasm can flag because we are tempted to dwell on ourselves and our problems, our hurt feelings and our grievances. Don’t let this happen to you! You will grow old before your time. Each age has its beauty, and the years of our youth need to be marked by shared ideals, hopes and dreams, great horizons that we can contemplate together.

167. God loves the joy of young people. He wants them especially to share in the joy of fraternal communion, the sublime joy felt by those who share with others, for “it is more blessed to give than to receive” (Acts 20:35). “God loves a cheerful giver” (2 Cor 9:7). Fraternal love multiplies our ability to experience joy, since it makes us rejoice in the good of others: “Rejoice with those who rejoice, weep with those who weep” (Rom 12:15). May your youthful spontaneity increasingly find expression in fraternal love and a constant readiness to forgive, to be generous, and to build community. As an African proverb says: “If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together”. Let us not allow ourselves to be robbed of fraternity.

Young and committed

168. At times, seeing a world so full of violence and selfishness, young people can be tempted to withdraw into small groups, shunning the challenges and issues posed by life in society and in the larger world. They may feel that they are experiencing fraternity and love, but their small group may in fact become nothing other than an extension of their own ego. This is even more serious if they think of the lay vocation simply as a form of service inside the Church: serving as lectors, acolytes, catechists, and so forth. They forget that the lay vocation is directed above all to charity within the family and to social and political charity. It is a concrete and faith-based commitment to the building of a new society. It involves living in the midst of society and the world in order to bring the Gospel everywhere, to work for the growth of peace, harmony, justice, human rights and mercy, and thus for the extension of God’s kingdom in this world.

169. I ask young people to go beyond their small groups and to build “social friendship, where everyone works for the common good. Social enmity, on the other hand, is destructive. Families are destroyed by enmity. Countries are destroyed by enmity. The world is destroyed by enmity. And the greatest enmity of all is war. Today we see that the world is destroying itself by war… So find ways of building social friendship”.[90] It is not easy, it always means having to give something up and to negotiate, but if we do it for the sake of helping others, we can have the magnificent experience of setting our differences aside and working together for something greater. If, as a result of our own simple and at times costly efforts, we can find points of agreement amid conflict, build bridges and make peace for the benefit of all, then we will experience the miracle of the culture of encounter. This is something which young people can dare to pursue with passion.

170. The Synod recognized that “albeit in a different way from earlier generations, social commitment is a specific feature of today’s young people. Alongside some who are indifferent, there are many others who are ready to commit themselves to initiatives of volunteer work, active citizenship and social solidarity. They need to be accompanied and encouraged to use their talents and skills creatively, and to be encouraged to take up their responsibilities. Social engagement and direct contact with the poor remain fundamental ways of finding or deepening one’s faith and the discernment of one’s vocation… It was also noted that the young are prepared to enter political life so as to build the common good”.[91]

171. Today, thank God, many young people in parishes, schools, movements and university groups often go out to spend time with the elderly and the infirm, or to visit poor neighbourhoods, or to meet people’s needs through “nights of charity”. Very often, they come to realize that there they receive much more than what they give. We grow in wisdom and maturity when we take the time to touch the suffering of others. The poor have a hidden wisdom and, with a few simple words, they can help us discover unexpected values.

172. Other young people take part in social programmes that build houses for the homeless, or reclaim contaminated areas or offer various kinds of assistance to the needy. It would be helpful if this shared energy could be channelled and organized in a more stable way and with clear goals, so as to be even more effective. University students can apply their knowledge in an interdisciplinary way, together with young people of other churches or religions, in order to propose solutions to social problems.

173. As in the miracle of Jesus, the bread and the fish provided by young people can multiply (cf. Jn 6:4-13). As in the parable, the small seeds sown by young people can yield a rich harvest (cf. Mt 13:23.31-32). All of this has its living source in the Eucharist, in which our bread and our wine are transformed to grant us eternal life. Young people face immense and difficult challenges. With faith in the risen Lord, they can confront them with creativity and hope, ever ready to be of service, like the servants at the wedding feast, who unknowingly cooperated in Jesus’ first miracle. They did nothing more than follow the order of his Mother: “Do whatever he tells you” (Jn 2:5). Mercy, creativity and hope make life grow.

174. I want to encourage all of you in this effort, because I know that “your young hearts want to build a better world. I have been following news reports of the many young people throughout the world who have taken to the streets to express the desire for a more just and fraternal society. Young people taking to the streets! The young want to be protagonists of change. Please, do not leave it to others to be protagonists of change. You are the ones who hold the future! Through you, the future enters into the world. I ask you also to be protagonists of this transformation. You are the ones who hold the key to the future! Continue to fight apathy and to offer a Christian response to the social and political troubles emerging in different parts of the world. I ask you to build the future, to work for a better world. Dear young people, please, do not be bystanders in life. Get involved! Jesus was not a bystander. He got involved. Don’t stand aloof, but immerse yourselves in the reality of life, as Jesus did”.[92] Above all, in one way or another, fight for the common good, serve the poor, be protagonists of the revolution of charity and service, capable of resisting the pathologies of consumerism and superficial individualism.

Courageous missionaries

175. Filled with the love of Christ, young people are called to be witnesses of the Gospel wherever they find themselves, by the way they live. Saint Alberto Hurtado once said that “being an apostle does not mean wearing a lapel pin; it is not about speaking about the truth but living it, embodying it, being transformed in Christ. Being an apostle does not mean carrying a torch in hand, possessing the light, but being that light… The Gospel, more than a lesson, is an example. A message that becomes a life fully lived”.[93]

176. The importance of witness does not mean that we should be silent about the word. Why should we not speak of Jesus, why should we not tell others that he gives us strength in life, that we enjoy talking with him, that we benefit from meditating on his words? Young people, do not let the world draw you only into things that are wrong and superficial. Learn to swim against the tide, learn how to share Jesus and the faith he has given you. May you be moved by that same irresistible impulse that led Saint Paul to say: “Woe to me if I do not proclaim the Gospel” (1 Cor 9:16)!

177. “Where does Jesus send us? There are no borders, no limits: he sends us everywhere. The Gospel is for everyone, not just for some. It is not only for those who seem closer to us, more receptive, more welcoming. It is for everyone. Do not be afraid to go and bring Christ into every area of life, to the fringes of society, even to those who seem farthest away and most indifferent. The Lord seeks all; he wants everyone to feel the warmth of his mercy and his love”.[94] He invites us to be fearless missionaries wherever we are and in whatever company we find ourselves: in our neighbourhoods, in school or sports or social life, in volunteer service or in the workplace. Wherever we are, we always have an opportunity to share the joy of the Gospel. That is how the Lord goes out to meet everyone. He loves you, dear young people, for you are the means by which he can spread his light and hope. He is counting on your courage, your boldness and your enthusiasm.

178. Don’t think that this mission is soft and easy. Some young people have given their lives for the sake of missionary outreach. As the Korean bishops put it: “we hope that we can be grains of wheat and instruments for the salvation of humanity, following upon the example of the martyrs. Though our faith is as small as a mustard seed, God will give it growth and use it as an instrument for his work of salvation”.[95] Young friends, don’t wait until tomorrow to contribute your energy, your audacity and your creativity to changing our world. Your youth is not an “in-between time”. You are the now of God, and he wants you to bear fruit.[96] For “it is in giving that we receive”.[97] The best way to prepare a bright future is to experience the present as best we can, with commitment and generosity.

 

CHAPTER SIX

Young people with roots

179. I have sometimes seen young and beautiful trees, their branches reaching to the sky, pushing ever higher, and they seemed a song of hope. Later, following a storm, I would find them fallen and lifeless. They lacked deep roots. They spread their branches without being firmly planted, and so they fell as soon as nature unleashed her power. That is why it pains me to see young people sometimes being encouraged to build a future without roots, as if the world were just starting now. For “it is impossible for us to grow unless we have strong roots to support us and to keep us firmly grounded. It is easy to drift off, when there is nothing to clutch onto, to hold onto”.[98]

Don’t allow yourselves to be uprooted

180. This is an important issue, and I want to spend a brief chapter discussing it. If we appreciate this issue, we can distinguish the joy of youth from a false cult of youth that can be used to seduce and manipulate young people.

181. Think about it: if someone tells young people to ignore their history, to reject the experiences of their elders, to look down on the past and to look forward to a future that he holds out, doesn’t it then become easy to draw them along so that they only do what he tells them? He needs the young to be shallow, uprooted and distrustful, so that they can trust only in his promises and act according to his plans. That is how various ideologies operate: they destroy (or deconstruct) all differences so that they can reign unopposed. To do so, however, they need young people who have no use for history, who spurn the spiritual and human riches inherited from past generations, and are ignorant of everything that came before them.

182. These masters of manipulation also use another tactic: the cult of youth, which dismisses all that is not young as contemptible and outmoded. The youthful body becomes the symbol of this new cult; everything associated with that body is idolized and lusted after, while whatever is not young is despised. But this cult of youth is simply an expedient that ultimately proves degrading to the young; it strips them of any real value and uses them for personal, financial or political profit.

183. Dear young friends, do not let them exploit your youth to promote a shallow life that confuses beauty with appearances. Realize that there is beauty in the labourer who returns home grimy and unkempt, but with the joy of having earned food for his family. There is extraordinary beauty in the fellowship of a family at table, generously sharing what food it has. There is beauty in the wife, slightly dishevelled and no longer young, who continues to care for her sick husband despite her own failing health. Long after the springtime of their courtship has passed, there is beauty in the fidelity of those couples who still love one another in the autumn of life, those elderly people who still hold hands as they walk. There is also a beauty, unrelated to appearances or fashionable dress, in all those men and women who pursue their personal vocation with love, in selfless service of community or nation, in the hard work of building a happy family, in the selfless and demanding effort to advance social harmony. To find, to disclose and to highlight this beauty, which is like that of Christ on the cross, is to lay the foundations of genuine social solidarity and the culture of encounter.

184. Along with the stratagems of a false cult of youth and appearance, we are also witnessing attempts to promote a spirituality without God, an affectivity without community or concern for those who suffer, a fear of the poor, viewed as dangerous, and a variety of claims to offer a future paradise that nonetheless seems increasingly distant. I do not want to offer you any such thing, and with great love I urge you not to let yourselves be taken in by this ideology. It will not make you any younger, but enslave you instead. I propose another way, one born of freedom, enthusiasm, creativity and new horizons, while at the same time cultivating the roots that nourish and sustain us.

185. In this regard, I would note that “many Synod Fathers coming from non-Western contexts pointed out that in their countries globalization is bringing with it forms of cultural colonization that sever young people from their cultural and religious roots. The Church needs to make a commitment to accompanying these young people, so that in the process they do not lose sight of the most precious features of their identity”.[99]

186. Today, in fact, we see a tendency to “homogenize” young people, blurring what is distinctive about their origins and backgrounds, and turning them into a new line of malleable goods. This produces a cultural devastation that is just as serious as the disappearance of species of animals and plants.[100] For this reason, in addressing young indigenous people gathered in Panama, I encouraged them to “care for your roots, because from the roots comes the strength that is going to make you grow, flourish and bear fruit”.[101]

Your relationship with the elderly

187. At the Synod, we heard that “the young are focused on the future and they face life with energy and dynamism. But they are also tempted… to give little attention to the memory of the past from which they come, in particular the many gifts transmitted to them by their parents, their grandparents and the cultural experience of the society in which they live. Helping the young to discover the living richness of the past, to treasure its memory and to make use of it for their choices and opportunities, is a genuine act of love towards them, for the sake of their growth and the decisions they are called to make”.[102]

188. The word of God encourages us to remain close to the elderly, so that we can benefit from their experience: “Stand in the assembly of the elders. Who is wise? Cling to him… If you see an intelligent man, visit him; let your foot wear out his doorstep” (Sir6:34.36). In every case, the long years they lived and all they have experienced in life should make us look to them with respect: “You shall rise up before the hoary head” (Lev 19:32). For “the glory of young men is their strength, but the beauty of old men is their grey hair” (Prov 20:29).

189. The Bible also tells us: “Listen to your father who begot you, and do not despise your mother when she is old” (Prov 23:22). The command to honour our father and mother “is the first commandment to carry a promise with it” (Eph 6:2, cf. Ex 20:12; Deut5:16; Lev 19:3), and that promise is: “that it may be well with you and that you may live long on the earth” (Eph 6:3).

190. This does not mean having to agree with everything adults say or approving all their actions. A young person should always have a critical spirit. Saint Basil the Great encouraged the young to esteem the classical Greek authors, but to accept only whatever good they could teach.[103] It is really a matter of being open to receiving a wisdom passed down from generation to generation, a wisdom familiar with human weakness and not deserving to vanish before the novelties of consumer society and the market.

191. The world has never benefited, nor will it ever benefit, from a rupture between generations. That is the siren song of a future without roots and origins. It is the lie that would have you believe that only what is new is good and beautiful. When intergenerational relationships exist, a collective memory is present in communities, as each generation takes up the teachings of its predecessors and in turn bequeaths a legacy to its successors. In this way, they provide frames of reference for firmly establishing a new society. As the old saying goes: “If the young had knowledge and the old strength, there would be nothing they could not accomplish”.

Dreams and visions

192. The prophecy of Joel contains a verse that expresses this nicely: “I will pour out my Spirit upon all flesh, and your sons and your daughters shall prophesy, and your young men shall see visions, and your old men shall dream dreams” (3:1; cf. Acts 2:17). When young and old alike are open to the Holy Spirit, they make a wonderful combination. The old dream dreams, and the young see visions. How do the two complement one another?

193. The elderly have dreams built up of memories and images that bear the mark of their long experience. If young people sink roots in those dreams, they can peer into the future; they can have visions that broaden their horizons and show them new paths. But if the elderly do not dream, young people lose clear sight of the horizon.

194. Perhaps our parents have preserved a memory that can help us imagine the dream our grandparents dreamed for us. All of us, even before our birth, received, as a blessing from our grandparents, a dream filled with love and hope, the dream of a better life. Even if not our grandparents, surely some of our great-grandparents had that happy dream as they contemplated their children and then grandchildren in the cradle. The very first dream of all is the creative dream of God our Father, which precedes and accompanies the lives of all his children. The memory of this blessing that extends from generation to generation is a precious legacy that we should keep alive so that we too can pass it on.

195. That is why it is a good thing to let older people tell their long stories, which sometimes seem legendary or fanciful – they are the dreams of old people – yet are often full of rich experiences, of eloquent symbols, of hidden messages. These stories take time to tell, and we should be prepared to listen patiently and let them sink in, even though they are much longer than what we are used to in social media. We have to realize that the wisdom needed for life bursts the confines of our present-day media resources.

196. In the book Sharing the Wisdom of Time,[104]I expressed some thoughts in the form of questions. “What do I ask of the elders among whom I count myself? I call us to be memory keepers. We grandfathers and grandmothers need to form a choir. I envision elders as a permanent choir of a great spiritual sanctuary, where prayers of supplication and songs of praise support the larger community that works and struggles in the field of life”.[105] It is a beautiful thing when “young men and maidens together, old men and children, praise the name of the Lord” (Ps 148:12-13).

197. What can we elderly persons give to the young? “We can remind today’s young people, who have their own blend of heroic ambitions and insecurities, that a life without love is an arid life”.[106] What can we tell them? “We can tell fearful young people that anxiety about the future can be overcome”.[107] What can we teach them? “We can teach those young people, sometimes so focused on themselves, that there is more joy in giving than in receiving, and that love is not only shown in words, but also in actions”.[108]

Taking risks together

198. A love that is generous and outgoing, that acts and takes risks, may at times make mistakes. Here we may find timely the witness of Maria Gabriella Perin, who lost her father shortly after her birth: she reflects on how this influenced her life, in a relationship that did not last but that left her a mother and now a grandmother. “What I know is that God makes stories. In his genius and mercy, he takes our triumphs and our failures and weaves beautiful tapestries that are full of irony. The reverse of the fabric may look messy with its tangled threads – the events of our life – and maybe this is the side we dwell on when we doubt. But the right side of the tapestry displays a magnificent story, and this is the side that God sees”.[109] When older people look at life closely, often they instinctively know what lies behind the tangled threads, and they recognize what God can create even out of our mistakes.

199. If we journey together, young and old, we can be firmly rooted in the present, and from here, revisit the past and look to the future. To revisit the past in order to learn from history and heal old wounds that at times still trouble us. To look to the future in order to nourish our enthusiasm, cause dreams to emerge, awaken prophecies and enable hope to blossom. Together, we can learn from one another, warm hearts, inspire minds with the light of the Gospel, and lend new strength to our hands.

200. Roots are not anchors chaining us to past times and preventing us from facing the present and creating something new. Instead, they are a fixed point from which we can grow and meet new challenges. It does us no good “to sit down and long for times past; we must meet our culture with realism and love and fill it with the Gospel. We are sent today to proclaim the Good News of Jesus to a new age. We need to love this time with all its opportunities and risks, its joys and sorrows, its riches and its limits, its successes and failures”.[110]

201. During the Synod, one of the young auditors from the Samoan Islands spoke of the Church as a canoe, in which the elderly help to keep on course by judging the position of the stars, while the young keep rowing, imagining what waits for them ahead. Let us steer clear of young people who think that adults represent a meaningless past, and those adults who always think they know how young people should act. Instead, let us all climb aboard the same canoe and together seek a better world, with the constantly renewed momentum of the Holy Spirit.

 

CHAPTER SEVEN

Youth Ministry

202. Youth ministry, as traditionally carried out, has been significantly affected by social and cultural changes. Young people frequently fail to find in our usual programmes a response to their concerns, their needs, their problems and issues. The proliferation and growth of groups and movements predominantly associated with the young can be considered the work of the Holy Spirit who constantly shows us new paths. Even so, there is a need to look at the ways such groups participate in the Church’s overall pastoral care, as well as a need for greater communion among them and a better coordination of their activities. Although it is never easy to approach young people, two things have become increasingly evident: the realization that the entire community has to be involved in evangelizing them, and the urgent requirement that young people take on a greater role in pastoral outreach.

A pastoral care that is synodal

203. I want to state clearly that young people themselves are agents of youth ministry. Certainly they need to he helped and guided, but at the same time left free to develop new approaches, with creativity and a certain audacity. So I will not attempt here to propose a kind of manual of youth ministry or a practical pastoral guide. I am more concerned with helping young people to use their insight, ingenuity and knowledge to address the issues and concerns of other young people in their own language.

204. The young make us see the need for new styles and new strategies. For example, while adults often worry about having everything properly planned, with regular meetings and fixed times, most young people today have little interest in this kind of pastoral approach. Youth ministry needs to become more flexible: inviting young people to events or occasions that provide an opportunity not only for learning, but also for conversing, celebrating, singing, listening to real stories and experiencing a shared encounter with the living God.

205. At the same time, we should take into greater consideration those practices that have shown their value – the methods, language and aims that have proved truly effective in bringing young people to Christ and the Church. It does not matter where they are coming from or what labels they have received, whether “conservative” or “liberal”, “traditional” or “progressive”. What is important is that we make use of everything that has borne good fruit and effectively communicates the joy of the Gospel.

206. Youth ministry has to be synodal; it should involve a “journeying together” that values “the charisms that the Spirit bestows in accordance with the vocation and role of each of the Church’s members, through a process of co-responsibility… Motivated by this spirit, we can move towards a participatory and co-responsible Church, one capable of appreciating its own rich variety, gratefully accepting the contributions of the lay faithful, including young people and women, consecrated persons, as well as groups, associations and movements. No one should be excluded or exclude themselves”.[111]

207. In this way, by learning from one another, we can better reflect that wonderful multifaceted reality that Christ’s Church is meant to be. She will be able to attract young people, for her unity is not monolithic, but rather a network of varied gifts that the Spirit ceaselessly pours out upon her, renewing her and lifting her up from her poverty.

208. In the Synod, many concrete proposals emerged for renewing youth ministry and freeing it from approaches that are no longer effective because they are incapable of entering into dialogue with contemporary youth culture. Naturally, I cannot list them all here. A number of them can be found in the Final Document of the Synod.

Main courses of action

209. I wish simply to emphasize that youth ministry involves two main courses of action. One is outreach, the way we attract new young people to an experience of the Lord. The other is growth, the way we help those who have already had that experience to mature in it.

210. As for outreach, I trust that young people themselves know how best to find appealing ways to come together. They know how to organize events, sports competitions and ways to evangelize using social media, through text messages, songs, videos and other ways. They only have to be encouraged and given the freedom to be enthused about evangelizing other young people wherever they are to be found. When the message is first brought up, whether at a youth retreat, in a conversation at a bar, on school holidays, or in any of God’s mysterious ways, it can awaken a deep experience of faith. What is most important, though, is that each young person can be daring enough to sow the seed of the message on that fertile terrain that is the heart of another young person.

211. In this outreach, we need to use above all the language of closeness, the language of generous, relational and existential love that touches the heart, impacts life, and awakens hope and desires. Young people need to be approached with the grammar of love, not by being preached at. The language that young people understand is spoken by those who radiate life, by those who are there for them and with them. And those who, for all their limitations and weaknesses, try to live their faith with integrity. We also have to give greater thought to ways of incarnating the kerygma in the language of today’s youth.

212. As for growth, I would make one important point. In some places, it happens that young people are helped to have a powerful experience of God, an encounter with Jesus that touched their hearts. But the only follow-up to this is a series of “formation” meetings featuring talks about doctrinal and moral issues, the evils of today’s world, the Church, her social doctrine, chastity, marriage, birth control and so on. As a result, many young people get bored, they lose the fire of their encounter with Christ and the joy of following him; many give up and others become downcast or negative. Rather than being too concerned with communicating a great deal of doctrine, let us first try to awaken and consolidate the great experiences that sustain the Christian life. In the words of Romano Guardini, “when we experience a great love… everything else becomes part of it”.[112]

213. Any educational project or path of growth for young people must certainly include formation in Christian doctrine and morality. It is likewise important that it have two main goals. One is the development of the kerygma, the foundational experience of encounter with God through Christ’s death and resurrection. The other is growth in fraternal love, community life and service.

214. This was something I emphasized in Evangelii Gaudium, and I consider it worth repeating here. It would be a serious mistake to think that in youth ministry “the kerygma should give way to a supposedly more ‘solid’ formation. Nothing is more solid, profound, secure, meaningful and wisdom-filled than that initial proclamation. All Christian formation consists of entering more deeply into the kerygma”[113] and incarnating it ever more fully in our lives. Consequently, youth ministry should always include occasions for renewing and deepening our personal experience of the love of God and the living Christ. It can do this in a variety of ways: testimonies, songs, moments of adoration, times of spiritual reflection on the sacred Scriptures, and even an intelligent use of social networks. Yet this joyful experience of encounter with the Lord should never be replaced by a kind of “indoctrination”.

215. On the other hand, any programme of youth ministry should clearly incorporate various means and resources that can help young people grow in fraternity, to live as brothers and sisters, to help one another, to build community, to be of service to others, to be close to the poor. If fraternal love is the “new commandment” (Jn 13:34), “the fullness of the Law” (Rom 13:10) and our best way of showing our love for God, then it has to have a primary place in every project of youth formation and growth to maturity.

Suitable environments

216. We need to make all our institutions better equipped to be more welcoming to young people, since so many have a real sense of being orphaned. Here I am not referring to family problems but to something experienced by boys and girls, young people and adults, parents and children alike. To all these orphans – including perhaps ourselves – communities like a parish or school should offer possibilities for experiencing openness and love, affirmation and growth. Many young people today feel that they have inherited the failed dreams of their parents and grandparents, dreams betrayed by injustice, social violence, selfishness and lack of concern for others. In a word, they feel uprooted. If the young grow up in a world in ashes, it will be hard for them to keep alive the flame of great dreams and projects. If they grow up in a desert devoid of meaning, where will they develop a desire to devote their lives to sowing seeds? The experience of discontinuity, uprootedness and the collapse of fundamental certainties, fostered by today’s media culture, creates a deep sense of orphanhood to which we must respond by creating an attractive and fraternal environment where others can live with a sense of purpose.

217. In a word, to create a “home” is to create “a family”. “It is to learn to feel connected to others by more than merely utilitarian and practical bonds, to be united in such a way as to feel that our life is a bit more human. To create a home is to let prophecy take flesh and make our hours and days less cold, less indifferent and anonymous. It is to create bonds by simple, everyday acts that all of us can perform. A home, as we all know, demands that everyone work together. No one can be indifferent or stand apart, since each is a stone needed to build the home. This also involves asking the Lord to grant us the grace to learn how to be patient, to forgive one another, to start over each day. How many times should I forgive and start over? Seventy times seven times, as many times as necessary. To create strong bonds requires confidence and trust nurtured daily by patience and forgiveness. And that is how the miracle takes place: we feel that here we are reborn, here we are all reborn, because we feel God’s caress that enables us to dream of a more human world, and therefore of a world more divine”.[114]

218. Along these lines, our institutions should provide young people with places they can make their own, where they can come and go freely, feel welcome and readily meet other young people, whether at times of difficulty and frustration, or of joy and celebration. Some of this is already happening in oratories and other youth centres, which in many cases offer a friendly and relaxed setting where friendships can grow, where young men and women can meet one another, where they can share music, games, sports, but also reflection and prayer. In such places, much can be offered, without great expenditure of funds. Then too, the person-to-person contact indispensable for passing on the message can happen, something whose place cannot be taken by any pastoral resource or strategy.

219. “Friendship and discussion, often within more or less structured groups, offer the opportunity to strengthen social and relational skills in a context in which one is neither analysed nor judged. Group experience is also a great resource for sharing the faith and for mutual help in bearing witness. The young are able to guide other young people and to exercise a genuine apostolate among their friends”.[115]

220. This is not to say that they should become isolated and lose all contact with parish communities, movements and other ecclesial institutions. But they will be better integrated into communities that are open, living their faith, eager to radiate Christ, joyful, free, fraternal and committed. These communities can be settings where they feel that it is possible to cultivate precious relationships.

Youth ministry in educational institutions

221. Schools are unquestionably a platform for drawing close to children and young people. Precisely because they are such privileged places of personal development, the Christian community has always been concerned to train teachers and administrators, and to found its own schools of various kinds and levels. In this field of educating the young, the Spirit has raised up countless charisms and examples of holiness. Yet schools are in urgent need of self-criticism, if we consider the results of their pastoral outreach, which in many cases focuses on a kind of religious instruction that proves often incapable of nurturing lasting experiences of faith. Some Catholic schools seem to be structured only for the sake of self-preservation. Fear of change makes them entrenched and defensive before the dangers, real or imagined, that any change might bring. A school that becomes a “bunker”, protecting its students from errors “from without” is a caricature of this tendency. Yet this image reflects, in a chilling way, what many young people experience when they graduate from certain educational institutions: an insurmountable disconnect between what they were taught and the world in which they live. The way they were instructed in religious and moral values did not prepare them to uphold those values in a world that holds them up to ridicule, nor did they learn ways of praying and practicing the faith that can be easily sustained amid the fast pace of today’s society. For one of the greatest joys that any educator can have is to see a student turn into a strong, well-integrated person, a leader, someone prepared to give.

222. Catholic schools remain essential places for the evangelization of the young. Account should be taken of a number of guiding principles set forth in Veritatis Gaudium for the renewal and revival of missionary outreach on the part of schools and universities. These include a fresh experience of the kerygma, wide-ranging dialogue, interdisciplinary and cross-disciplinary approaches, the promotion of a culture of encounter, the urgency of creating networks and an option in favour of those who are least, those whom society discards.[116] Similarly important is the ability to integrate the knowledge of head, heart and hands.

223. On the other hand, we cannot separate spiritual from cultural formation. The Church has always sought to develop ways of providing the young with the best education possible. Nor should she stop now, for young people have a right to it. “Today, above all, the right to a good education means protecting wisdom, that is, knowledge that is human and humanizing. All too often we are conditioned by trivial and fleeting models of life that drive us to pursue success at a low price, discrediting sacrifice and inculcating the idea that education is not necessary unless it immediately provides concrete results. No, education makes us raise questions, keeps us from being anaesthetized by banality, and impels us to pursue meaning in life. We need to reclaim our right not to be sidetracked by the many sirens that nowadays distract from this pursuit. Ulysses, in order not to give in to the siren song that bewitched his sailors and made them crash against the rocks, tied himself to the mast of the ship and had his companions plug their ears. Orpheus, on the other hand, did something else to counter the siren song: he intoned an even more beautiful melody, which enchanted the sirens. This, then, is your great challenge: to respond to the crippling refrains of cultural consumerism with thoughtful and firm decisions, with research, knowledge and sharing”.[117]

Areas needing to be developed

224. Many young people have come to appreciate silence and closeness to God. Groups that gather to adore the Blessed Sacrament or to pray with the word of God have also increased. We should never underestimate the ability of young people to be open to contemplative prayer. We need only find the right ways and means to help them embark on this precious experience. When it comes to worship and prayer, “in many settings, young Catholics are asking for prayer opportunities and sacramental celebrations capable of speaking to their daily lives through a fresh, authentic and joyful liturgy”.[118] It is important to make the most of the great moments of the liturgical year, particularly Holy Week, Pentecost and Christmas. But other festive occasions can provide a welcome break in their routine and help them experience the joy of faith.

225. Christian service represents a unique opportunity for growth and openness to God’s gifts of faith and charity. Many young people are attracted by the possibility of helping others, especially children and the poor. Often this service is the first step to a discovery or rediscovery of life in Christ and the Church. Many young people grow weary of our programmes of doctrinal and spiritual formation, and at times demand a chance to be active participants in activities that benefit others.

226. Nor can we overlook the importance of the arts, like theatre, painting, and others. “Music is particularly important, representing as it does a real environment in which the young are constantly immersed, as well as a culture and a language capable of arousing emotion and shaping identity. The language of music also represents a pastoral resource with a particular bearing on the liturgy and its renewal”.[119] Singing can be a great incentive to young people as they make their way through life. As Saint Augustine says: “Sing, but continue on your journey. Do not grow lazy, but sing to make the way more enjoyable. Sing, but keep going… If you make progress, you will continue your journey, but be sure that your progress is in virtue, true faith and right living. Sing then, and keep walking”.[120]

227. “Equally significant is the emphasis that young people place on sports; the Church should not underestimate the potential of sports for education and formation, but instead maintain a strong presence there. The world of sport needs to be helped to overcome some of its problematic aspects, such as the idolization of champions, subservience to commercial interests and the ideology of success at any cost”.[121] At the heart of the experience of sport is “joy: the joy of exercising, of being together, of being alive and rejoicing in the gifts the Creator gives us each day”.[122] Some Fathers of the Church used the example of the training of athletes to encourage the young to develop their strength and to overcome idleness and boredom. Saint Basil the Great, writing to young people, used the effort demanded by athletics to illustrate the value of self-sacrifice as a means of growth in virtue: “These men endure sufferings beyond number, they use many means to build their strength, they sweat constantly as they train… in a word, they so discipline themselves that their whole life prior to the contest is but a preparation for it… How then can we, who have been promised rewards so wondrous in number and in splendour that no tongue can recount them, even think of winning them if we do nothing other than spend our lives in leisure and make but half-hearted efforts?”[123]

228. Nature holds a special attraction for many adolescents and young people who recognize our need to care for the environment. Such is the case with the scouting movement and other groups that encourage closeness to nature, camping trips, hiking, expeditions and campaigns to improve the environment. In the spirit of Saint Francis of Assisi, these experiences can be a real initiation into the school of universal fraternity and contemplative prayer.

229. These and various other opportunities for evangelizing the young should not make us forget that, despite the changing times and sensibilities of young people, there are gifts of God that never grow old, for they contain a power transcending all times and places. There is the word of the Lord, ever living and effective, the nourishing presence of Christ in the Eucharist, and the sacrament of Reconciliation, which brings us freedom and strength. We can also mention the inexhaustible spiritual riches preserved by the Church in the witness of her saints and the teaching of the great spiritual masters. Although we have to respect different stages of growth, and at times need to wait patiently for the right moment, we cannot fail to invite young people to drink from these wellsprings of new life. We have no right to deprive them of this great good.

A “popular” youth ministry

230. In addition to the ordinary, well-planned pastoral ministry that parishes and movements carry out, it is also important to allow room for a “popular” youth ministry, with a different style, schedule, pace and method. Broader and more flexible, it goes out to those places where real young people are active, and fosters the natural leadership qualities and the charisms sown by the Holy Spirit. It tries to avoid imposing obstacles, rules, controls and obligatory structures on these young believers who are natural leaders in their neighbourhoods and in other settings. We need only to accompany and encourage them, trusting a little more in the genius of the Holy Spirit, who acts as he wills.

231. We are speaking of truly “popular” leaders, not elitists or those closed off in small groups of select individuals. To be able to generate a “popular” ministry to youth, “they need to learn to listen to the sense of the people, to become their spokespersons and to work for their promotion”.[124] When we speak of “the people”, we are not speaking about the structures of society or the Church, but about all those persons who journey, not as individuals, but as a closely-bound community of all and for all, one that refuses to leave the poor and the vulnerable behind. “The people wants everyone to share in the common good and thus agree to keep pace with its least members, so that all can arrive together”.[125] “Popular” leaders, then, are those able to make everyone, including the poor, the vulnerable, the frail and the wounded, part of the forward march of youth. They do not shun or fear those young people who have experienced hurt or borne the weight of the cross.

232. Similarly, especially in the case of young people who do not come from Christian families or institutions, and are slowly growing to maturity, we have to encourage all the good that we can.[126] Christ warned us not to see only the good grain (cf. Mt 13:24-30). At times, in the attempt to develop a pure and perfect youth ministry, marked by abstract ideas, protected from the world and free of every flaw, we can turn the Gospel into a dull, meaningless and unattractive proposition. Such a youth ministry ends up completely removed from the world of young people and suited only to an elite Christian youth that sees itself as different, while living in an empty and unproductive isolation. In rejecting the weeds, we also uproot or choke any number of shoots trying to spring up in spite of their limitations.

233. Instead of “overwhelming young people with a body of rules that make Christianity seem reductive and moralistic, we are called to invest in their fearlessness and to train them to take up their responsibilities, in the sure knowledge that error, failure and crisis are experiences that can strengthen their humanity”.[127]

234. The Synod called for the development of a youth ministry capable of being inclusive, with room for all kinds of young people, to show that we are a Church with open doors. Nor does one have to accept fully all the teachings of the Church to take part in certain of our activities for young people. It is enough to have an open mind towards all those who have the desire and willingness to be encountered by God’s revealed truth. Some of our pastoral activities can assume that a journey of faith has already begun, but we need a “popular” youth ministry that can open doors and make room for everyone, with their doubts and frustrations, their problems and their efforts to find themselves, their past errors, their experiences of sin and all their difficulties.

235. Room should also be made for “all those who have other visions of life, who belong to other religions or who distance themselves from religion altogether. All the young, without exception, are in God’s heart and thus in the Church’s heart. We recognize frankly that this statement on our lips does not always find real expression in our pastoral actions: often we remain closed in our environments, where their voice does not penetrate, or else we dedicate ourselves to less demanding and more enjoyable activities, suppressing that healthy pastoral restlessness that would urge us to move out from our supposed security. The Gospel also asks us to be daring, and we want to be so, without presumption and without proselytizing, testifying to the love of the Lord and stretching out our hands to all the young people in the world”.[128]

236. Youth ministry, when it ceases to be elitist and is willing to be “popular”, is a process that is gradual, respectful, patient, hopeful, tireless and compassionate. The Synod proposed the example of the disciples of Emmaus (cf. Lk 24:13-35) as a model of what happens in youth ministry.

237. “Jesus walks with two disciples who did not grasp the meaning of all that happened to him, and are leaving Jerusalem and the community behind. Wanting to accompany them, he joins them on the way. He asks them questions and listens patiently to their version of events, and in this way he helps them recognize what they were experiencing. Then, with affection and power, he proclaims the word to them, leading them to interpret the events they had experienced in the light of the Scriptures. He accepts their invitation to stay with them as evening falls; he enters into their night. As they listen to him speak, their hearts burn within them and their minds are opened; they then recognize him in the breaking of the bread. They themselves choose to resume their journey at once in the opposite direction, to return to the community and to share the experience of their encounter with the risen Lord”.[129]

238. Various manifestations of popular piety, especially pilgrimages, attract young people who do not readily feel at home in ecclesial structures, and represent a concrete sign of their trust in God. These ways of seeking God are seen particularly in young people who are poor, but also those in other sectors of society. They should not be looked down on, but encouraged and promoted. Popular piety “is a legitimate way of living the faith”[130] and “an expression of the spontaneous missionary activity of the People of God”.[131]

Always missionaries

239. Here I would point out that it doesn’t take much to make young people missionaries. Even those who are most frail, limited and troubled can be missionaries in their own way, for goodness can always be shared, even if it exists alongside many limitations. A young person who makes a pilgrimage to ask Our Lady for help, and invites a friend or companion along, by that single gesture is being a good missionary. Inseparable from a “popular” youth ministry is an irrepressible “popular” missionary activity that breaks through our customary models and ways of thinking. Let us accompany and encourage it, but not presume to overly regulate it.

240. If we can hear what the Spirit is saying to us, we have to realize that youth ministry is always missionary. Young people are greatly enriched when they overcome their reticence and dare to visit homes, and in this way make contact with people’s lives. They learn how to look beyond their family and their group of friends, and they gain a broader vision of life. At the same time, their faith and their sense of being part of the Church grow stronger. Youth missions, which usually take place during school holidays after a period of preparation, can lead to a renewed experience of faith and even serious thoughts about a vocation.

241. Young people can find new fields for mission in the most varied settings. For example, since they are already so familiar with social networks, they should be encouraged to fill them with God, fraternity and commitment.

Accompaniment by adults

242. Young people need to have their freedom respected, yet they also need to be accompanied. The family should be the first place of accompaniment. Youth ministry can present the ideal of life in Christ as the process of building a house on rock (cf. Mt7:24-25). For most young people, that house, their life, will be built on marriage and married love. That is why youth ministry and the pastoral care of families should be coordinated and integrated, with the aim of ensuring a continuous and suitable accompaniment of the vocational process.

243. The community has an important role in the accompaniment of young people; it should feel collectively responsible for accepting, motivating, encouraging and challenging them. All should regard young people with understanding, appreciation and affection, and avoid constantly judging them or demanding of them a perfection beyond their years.

244. At the Synod, “many pointed to the shortage of qualified people devoted to accompaniment. Belief in the theological and pastoral value of listening entails rethinking and renewing the ways that priestly ministry is ordinarily exercised, and reviewing its priorities. The Synod also recognized the need to train consecrated persons and laypeople, male and female, to accompany young people. The charism of listening that the Holy Spirit calls forth within the communities might also receive institutional recognition as a form of ecclesial service”.[132]

245. There is also a special need to accompany young men and women showing leadership potential, so that they can receive training and the necessary qualifications. The young people who met before the Synod called for “programmes for the formation and continued development of young leaders. Some young women feel that there is a lack of leading female role models within the Church and they too wish to give their intellectual and professional gifts to the Church. We also believe that seminarians and religious should have an even greater ability to accompany young leaders”.[133]

246. The same young people described to us the qualities they hope to find in a mentor, and they expressed this with much clarity. “The qualities of such a mentor include: being a faithful Christian who engages with the Church and the world; someone who constantly seeks holiness; someone who is a confidant without judging. Similarly, someone who actively listens to the needs of young people and responds in kind; someone deeply loving and self-aware; someone who recognizes his or her limits and knows the joys and sorrows of the spiritual journey. An especially important quality in mentors is the acknowledgement of their own humanity – the fact that they are human beings who make mistakes: not perfect people but forgiven sinners. Sometimes mentors are put on a pedestal, and when they fall, it may have a devastating impact on young people’s ability to continue to engage with the Church. Mentors should not lead young people as passive followers, but walk alongside them, allowing them to be active participants in the journey. They should respect the freedom that comes with a young person’s process of discernment and equip them with tools to do so well. A mentor should believe wholeheartedly in a young person’s ability to participate in the life of the Church. A mentor should therefore nurture the seeds of faith in young people, without expecting to immediately see the fruits of the work of the Holy Spirit. This role is not and cannot be limited to priests and consecrated life, but the laity should also be empowered to take on such a role. All such mentors should benefit from being well-formed, and engage in ongoing formation”.[134]

247. The Church’s educational institutions are undoubtedly a communal setting for accompaniment; they can offer guidance to many young people, especially when they “seek to welcome all young people, regardless of their religious choices, cultural origins and personal, family or social situations. In this way, the Church makes a fundamental contribution to the integral education of the young in various parts of the world”.[135] They would curtail this role unduly were they to lay down rigid criteria for students to enter and remain in them, since they would deprive many young people of an accompaniment that could help enrich their lives.

 

CHAPTER EIGHT

Vocation

248. The word “vocation” can be understood in a broad sense as a calling from God, including the call to life, the call to friendship with him, the call to holiness, and so forth. This is helpful, since it situates our whole life in relation to the God who loves us. It makes us realize that nothing is the result of pure chance but that everything in our lives can become a way of responding to the Lord, who has a wonderful plan for us.

249. In the Exhortation Gaudete et Exsultate, I spoke about the vocation of all to grow and mature for the glory of God; I wanted “to repropose the call to holiness in a practical way for our own time, with all its risks, challenges and opportunities”.[136] The Second Vatican Council helped us to recognize anew this call addressed to each of us: “All the faithful, whatever their condition or state, are called by the Lord, each in his or her own way, to that perfect holiness by which the Father himself is perfect”.[137]

God’s call to friendship

250. The first thing we need to discern and discover is this: Jesus wants to be a friend to every young person. This discernment is the basis of all else. In the risen Lord’s dialogue with Simon Peter, his great question was: “Simon, son of John, do you love me?” (Jn 21:16). In other words, do you love me as a friend? The mission that Peter received to shepherd Jesus’ flock will always be linked to this gratuitous love, this love of friendship.

251. On the other hand, there was the unsuccessful encounter of Jesus and the rich young man, which clearly shows that the young man failed to perceive the Lord’s loving gaze (cf. Mk 10:21). He went away sorrowful, despite his original good intentions, because he could not turn his back on his many possessions (cf. Mt 19:22). He missed the opportunity of what surely would have been a great friendship. We will never know what that one young man, upon whom Jesus gazed with love and to whom he stretched out his hand, might have been for us, what he might have done for mankind.

252. “The life that Jesus gives us is a love story, a life history that wants to blend with ours and sink roots in the soil of our own lives. That life is not salvation up ‘in the cloud’ and waiting to be downloaded, a new ‘app’ to be discovered, or a technique of mental self-improvement. Still less is that life a ‘tutorial’ for finding out the latest news. The salvation that God offers us is an invitation to be part of a love story interwoven with our personal stories; it is alive and wants to be born in our midst so that we can bear fruit just as we are, wherever we are and with everyone all around us. The Lord comes there to sow and to be sown”.[138]

Being there for others

253. I would now like to speak of vocation in the strict sense, as a call to missionary service to others. The Lord calls us to share in his work of creation and to contribute to the common good by using the gifts we have received.

254. This missionary vocation thus has to do with service. For our life on earth reaches full stature when it becomes an offering. Here I would repeat that “the mission of being in the heart of the people is not just a part of my life or a badge I can take off; it is not an ‘extra’ or just another moment in life. Instead, it is something I cannot uproot from my being without destroying my very self. I am a mission on this earth; that is the reason why I am here in this world”.[139] It follows that every form of pastoral activity, formation and spirituality should be seen in the light of our Christian vocation.

255. Your own personal vocation does not consist only in the work you do, though that is an expression of it. Your vocation is something more: it is a path guiding your many efforts and actions towards service to others. So in discerning your vocation, it is important to determine if you see in yourself the abilities needed to perform that specific service to society.

256. This gives greater value to everything you do. Your work stops being just about making money, keeping busy or pleasing others. It becomes your vocation because you are called to it; it is something more than merely a pragmatic decision. In the end, it is a recognition of why I was made, why I am here on earth, and what the Lord’s plan is for my life. He will not show me every place, time and detail, since I will have to make my own prudent decisions about these. But he will show me a direction in life, for he is my Creator and I need to listen to his voice, so that, like clay in the hands of a potter, I can let myself be shaped and guided by him. Then I will become what I was meant to be, faithful to my own reality.

257. To respond to our vocation, we need to foster and develop all that we are. This has nothing to do with inventing ourselves or creating ourselves out of nothing. It has to do with finding our true selves in the light of God and letting our lives flourish and bear fruit. “In God’s plan, every man and woman is meant to seek self-fulfilment, for every human life is called to some task by God”.[140] Your vocation inspires you to bring out the best in yourself for the glory of God and the good of others. It is not simply a matter of doing things, but of doing them with meaning and direction. Saint Alberto Hurtado told young people to think very seriously about the direction their lives should take: “If the helmsman of a ship becomes careless, he is fired straightaway for not taking his sacred responsibility seriously. As for our lives, are we fully aware of the course they are taking? What course is your life taking? If it is necessary to give this more thought, I would beg each one of you to give it the highest consideration, because to get it right is tantamount to success; to err is quite simply to fail”.[141]

258. In the life of each young person, this “being there for others” normally has to do with two basic issues: forming a new family and working. Surveys of young people repeatedly confirm that these are the two major issues worrying them and, at the same time, exciting them. Both must be the object of particular discernment. Let us look briefly at each of them.

Love and family

259. Young people intensely feel the call to love; they dream of meeting the right person with whom they can form a family and build a life together. This is undoubtedly a vocation which God himself makes known to them through their feelings, desires and dreams. I dwelt more fully on this theme in the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia. I would encourage all young people to read especially the fourth and fifth chapters of that Exhortation.

260. I like to think that “two Christians who marry have recognized the call of the Lord in their own love story, the vocation to form one flesh and one life from two, male and female. The Sacrament of Holy Matrimony envelops this love in the grace of God; it roots it in God himself. By this gift, and by the certainty of this call, you can go forward with assurance; you have nothing to fear; you can face everything together!”[142]

261. Here, we need to remember that God created us as sexual beings. He himself “created sexuality, which is a marvellous gift to his creatures”.[143] Within the vocation to marriage we should acknowledge and appreciate that “sexuality, sex, is a gift from God. It is not taboo. It is a gift from God, a gift the Lord gives us. It has two purposes: to love and to generate life. It is passion, passionate love. True love is passionate. Love between a man and a woman, when it is passionate, always leads to giving life. Always. To give life with body and soul”.[144]

262. The Synod insisted that “the family continues to be the principal point of reference for young people. Children appreciate the love and care of their parents, they give importance to family bonds, and they hope to succeed in forming a family when it is their time. Without doubt, the increase of separation, divorce, second unions and single-parent families can cause great suffering and a crisis of identity in young people. Sometimes they must take on responsibilities that are not proportioned to their age and that force them to become adults before their time. Often, grandparents are a crucial aid in affection and religious education: with their wisdom they are a vital link in the relationship between generations”.[145]

263. It is true that the difficulties they experience in their own family can lead many young people to ask whether it is worthwhile to start a new family, to be faithful, to be generous. I can tell you that it certainly is. It is worth your every effort to invest in the family; there you will find the best incentives to mature and the greatest joys to experience and share. Don’t let yourselves be robbed of a great love. Don’t let yourselves be led astray by those who propose a life of rampant individualism that in the end leads to isolation and the worst sort of loneliness.

264. Today, a culture of the ephemeral dominates, but it is an illusion. To think that nothing can be definitive is a deceptive lie. “Today, there are those who say that marriage is out of fashion… In a culture of relativism and the ephemeral, many preach the importance of ‘enjoying’ the present moment. They say that it is not worth making a lifelong commitment, making a definitive decision… I ask you, instead, to be revolutionaries, I ask you to swim against the tide; yes, I am asking you to rebel against this culture that sees everything as temporary and that ultimately believes you are incapable of responsibility, incapable of true love”.[146] I have great confidence in you, and for this very reason, I urge you to opt for marriage.

265. Marriage requires preparation, and this calls for growing in self-knowledge, developing the greater virtues, particularly love, patience, openness to dialogue and helping others. It also involves maturing in your own sexuality, so that it can become less and less a means of using others, and increasingly a capacity to entrust yourself fully to another person in an exclusive and generous way.

266. As the bishops of Colombia have taught, “Christ knows that spouses are not perfect and that they need to overcome their weakness and lack of constancy so that their love can grow and endure. For this reason, he grants spouses his grace, which is at once light and the strength enabling them to achieve progressively their ideal of married life in accordance with God’s plan”.[147]

267. For those who are not called to marriage or the consecrated life, it must always be remembered that the first and most important vocation is the vocation we have received in baptism. Those who are single, even if not by their own choice, can offer a particular witness to that vocation through their own path of personal growth.

Work

268. The bishops of the United States have pointed out that “young adulthood often signals a person’s entrance into the world of work. ‘What do you do for a living?’ is a constant topic of conversation because work is a major part of their lives. For young adults, this experience is highly fluid because they move from job to job and even from career to career. Work can dictate their use of time and can determine what they can afford to do or buy. It can also determine the quality and quantity of leisure time. Work defines and influences a young adult’s identity and self-concept and is a prime place where friendships and other relationships develop because generally it is not done alone. Young men and women speak of work as fulfilling a function and providing meaning. Work allows young adults to meet their practical needs but even more importantly to seek meaning and fulfilment of their dreams and visions. Although work may not help achieve their dreams, it is important for young adults to nurture a vision, learn how to work in a truly personal and life-giving way, and to continue to discern God’s call”.[148]

269. I ask young people not to expect to live without working, depending on others for help. This is not good, because “work is a necessity, part of the meaning of life on this earth, a path to growth, human development and personal fulfilment. In this sense, helping the poor financially must always be a provisional solution in the face of pressing needs”.[149] Hence, “together with the awe-filled contemplation of creation which we find in Saint Francis of Assisi, the Christian spiritual tradition has also developed a rich and balanced understanding of the meaning of work, as, for example, in the life of Blessed Charles de Foucauld and his followers”.[150]

270. The Synod noted that in the area of work, young people can “experience forms of exclusion and marginalization, of which the first and most serious is youth unemployment, which in some countries reaches exorbitant levels. Besides making them poor, the lack of work impacts negatively on young people’s capacity to dream and to hope, and it deprives them of the possibility of contributing to the development of society. In many countries, this situation depends on the fact that some sectors of the young population lack adequate professional skills, perhaps because of deficiencies in the system of education and training. Often job insecurity among the young is linked to economic interests that exploit labour”.[151]

271. This is a highly complex and sensitive issue that politics must make a priority, especially at present, when the speed of technological advances and the concern to reduce labour costs can lead quickly to the replacement of many jobs by machines. It is also a crucial societal issue because employment for a young person is not merely a means of making money. Work is an expression of human dignity, a path of development and of social inclusion. It is a constant stimulus to grow in responsibility and creativity, a protection against the tendency towards individualism and personal gratification. At the same time, it is an opportunity to give glory to God by developing one’s abilities.

272. Young people do not always have the chance to decide what kind of work they will do, or how their energies and talents will be spent. Because, alongside their own aspirations, abilities and choices, there is the harsh reality of the job market. It is true that you cannot live without working, and that sometimes you have to accept whatever is available, but I ask you never to give up on your dreams, never completely bury a calling, and never accept defeat. Keep seeking at least partial or imperfect ways to live what you have discerned to be your real calling.

273. When we discover that God is calling us to something, that this or that is what we were made for – whether it be nursing, carpentry, communication, engineering, teaching, art or any other kind of work – then we will be able to summon up our best capacities for sacrifice, generosity and dedication. Knowing that we don’t do things just for the sake of doing them, but rather we endow them with meaning, as a response to a call that resounds in the depth of our being to offer something to others: that is what makes these occupations bring a sense of deep fulfilment. As we read in the ancient biblical book of Ecclesiastes: “I saw that there is nothing better than that a man should enjoy his work” (3:22).

The vocation to special consecration

274. If we are indeed convinced that the Holy Spirit continues to inspire vocations to the priesthood and the religious life, we can “once more cast out the nets” in the Lord’s name, with complete confidence. We can dare, as we should, to tell each young person to ask whether this is the path that they are meant to follow.

275. Occasionally, I would bring this up with young people, and they would respond almost jokingly: “No, that’s not for me!” Yet, a few years later, some of them were in the seminary. The Lord cannot fail in his promise to provide the Church with shepherds, for without them she would not be able to live and carry out her mission. If it is true that some priests do not give good witness, that does not mean that the Lord stops calling. On the contrary, he doubles the stakes, for he never ceases to care for his beloved Church.

276. In discerning your vocation, do not dismiss the possibility of devoting yourself to God in the priesthood, the religious life or in other forms of consecration. Why not? You can be sure that, if you do recognize and follow a call from God, there you will find complete fulfilment.

277. Jesus is walking in our midst, as he did in Galilee. He walks through our streets, and he quietly stops and looks into our eyes. His call is attractive and intriguing. Yet today the stress and quick pace of a world constantly bombarding us with stimuli can leave no room for that interior silence in which we can perceive Jesus’ gaze and hear his call. In the meantime, many attractively packaged offers will come your way. They may seem appealing and exciting, although in time they will only leave you feeling empty, weary and alone. Don’t let this happen to you, because the maelstrom of this world can drive you to take a route without real meaning, without direction, without clear goals, and thus thwart many of your efforts. It is better to seek out that calm and quiet that enable you to reflect, pray, look more clearly at the world around you, and then, with Jesus, come to recognize the vocation that is yours in this world.

 

CHAPTER NINE

Discernment

278. In the Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate, I spoke in rather general terms about discernment. I would now like to take up some of those reflections and apply them to the way we discern our own vocation in the world.

279. I mentioned there that all of us, but “especially the young, are immersed in a culture of zapping. We can navigate simultaneously on two or more screens and interact at the same time with two or three virtual scenarios. Without the wisdom of discernment, we can easily become prey to every passing trend”.[152] Indeed, “this is all the more important when some novelty presents itself in our lives. Then we have to decide whether it is new wine brought by God or an illusion created by the spirit of this world or the spirit of the devil”.[153]

280. Such discernment, “even though it includes reason and prudence, goes beyond them, for it seeks a glimpse of that unique and mysterious plan that God has for each of us… It has to do with the meaning of my life before the Father who knows and loves me, and with the real purpose of my life, which nobody knows better than he”.[154]

281. Here we see the importance of the formation of conscience, which allows discernment to grow in depth and in fidelity to God:“Forming our conscience is the work of a lifetime, in which we learn to cultivate the very sentiments of Jesus Christ, adopting the criteria behind his choices and the intentions behind his actions (cf. Phil 2:5)”.[155]

282. In this process of formation, we let ourselves be transformed by Christ, even as we develop “the habit of doing good, which also is a part of our examination of conscience. We do not simply identify sins, but also recognize God’s work in our daily lives, in the events of our personal history and the world around us, and in the witness of all those men and women who have gone before us or accompany us with their wisdom. This helps us to grow in the virtue of prudence and to give an overall direction to our life through concrete choices, in the serene awareness of both our gifts and our limitations”.[156]

Discerning your vocation

283. A particular form of discernment involves the effort to discover our own vocation. Since this is a very personal decision that others cannot make for us, it requires a certain degree of solitude and silence. “The Lord speaks to us in a variety of ways, at work, through others and at every moment. Yet we simply cannot do without the silence of prolonged prayer, which enables us better to perceive God’s language, to interpret the real meaning of the inspirations we believe we have received, to calm our anxieties and to see the whole of our existence afresh in his own light”.[157]

284. Yet this silence does not make us close in on ourselves. “We must remember that prayerful discernment has to be born of an openness to listening – to the Lord and to others, and to reality itself, which always challenges us in new ways. Only if we are prepared to listen, do we have the freedom to set aside our own partial or insufficient ideas… In this way, we become truly open to accepting a call that can shatter our security, but lead us to a better life. It is not enough that everything be calm and peaceful. God may be offering us something more, but in our comfortable inadvertence, we do not recognize it”.[158]

285. When seeking to discern our own vocation, there are certain questions we ought to ask. We should not start with wondering where we could make more money, or achieve greater recognition and social status. Nor even by asking what kind of work would be most pleasing to us. If we are not to go astray, we need a different starting point. We need to ask: Do I know myself, quite apart from my illusions and emotions? Do I know what brings joy or sorrow to my heart? What are my strengths and weaknesses? These questions immediately give rise to others: How can I serve people better and prove most helpful to our world and to the Church? What is my real place in this world? What can I offer to society? Even more realistic questions then follow: Do I have the abilities needed to offer this kind of service? Could I develop those abilities?

286. These questions should be centred less on ourselves and our own inclinations, but on others, so that our discernment leads us to see our life in relation to their lives. That is why I would remind you of the most important question of all. “So often in life, we waste time asking ourselves: ‘Who am I?’ You can keep asking, ‘Who am I?’ for the rest of your lives. But the real question is: ‘For whom am I?’”.[159] Of course, you are for God. But he has decided that you should also be for others, and he has given you many qualities, inclinations, gifts and charisms that are not for you, but to share with those around you.

The call of Jesus our friend

287. To discern our personal vocation, we have to realize that it is a calling from a friend, who is Jesus. When we give something to our friends, we give them the best we have. It will not necessarily be what is most expensive or hard to obtain, but what we know will make them happy. Friends are so sensitive to this that they can already imagine the smile on their friend’s face when he or she opens that gift. This sort of discernment that takes place among friends is what I suggest you take as a model for trying to discover God’s will for your lives.

288. I want you to know that, when the Lord thinks of each of you and what he wants to give you, he sees you as his close friend. And if he plans to grant you a grace, a charism that will help you live to the full and become someone who benefits others, someone who leaves a mark in life, it will surely be a gift that will bring you more joy and excitement than anything else in this world. Not because that gift will be rare or extraordinary, but because it will perfectly fit you. It will be a perfect fit for your entire life.

289. A vocation, while a gift, will undoubtedly also be demanding. God’s gifts are interactive; to enjoy them we have to be ready to take risks. Yet the demands they make are not an obligation imposed from without, but an incentive to let that gift grow and develop, and then become a gift for others. When the Lord awakens a vocation, he thinks not only of what you already are, but of what you will one day be, in his company and in that of others.

290. Sheer vitality and strength of personality combine in the hearts of young people to make them constantly aim higher. This exuberance will be tempered by time and painful experiences, but it is important for “this youthful and still untested yearning for the infinite”[160] to encounter the unconditional friendship that Jesus offers us. More than rules and obligations, the choice that Jesus sets before us is to follow him as friends follow one another, seeking each other’s company and spending time together out of pure friendship. Everything else will come in time, and even failures in life can be an invaluable way of experiencing that friendship, which will never be lost.

Listening and accompaniment

291. There are many priests, men and women religious, lay and professional persons, and indeed qualified young people, who can help the young with their vocational discernment. When we are called upon to help others discern their path in life, what is uppermost is the ability to listen. Listening calls for three distinct and complementary kinds of sensitivity.

292. The first kind of sensitivity is directed to the individual. It is a matter of listening to someone who is sharing his very self in what he says. A sign of this willingness to listen is the time we are ready to spare for others. More than the amount of time we spend, it is about making others feel that my time is their time, that they have all the time they need to say everything they want. The other person must sense that I am listening unconditionally, without being offended or shocked, tired or bored. We see an example of this kind of listening in the Lord; he walks alongside the disciples on the way to Emmaus, even though they are going in the wrong direction (cf. Lk 24:13-35). When Jesus says he plans to go farther, they realize that he has given them the gift of his time, so they decide to give him theirs by offering their hospitality. Attentive and selfless listening is a sign of our respect for others, whatever their ideas or their choices in life.

293. The second kind of sensitivity is marked by discernment. It tries to grasp exactly where grace or temptation is present, for sometimes the things that flit across our minds are mere temptations that can distract us from our true path. I need to ask myself what is it that the other person is trying to tell me, what they want me to realize is happening in their lives. Asking such questions helps me appreciate their thinking and the effects it has on their emotions. This kind of listening seeks to discern the salutary promptings of the good Spirit who proposes to us the Lord’s truth, but also the traps laid by the evil spirit – his empty works and promises. It takes courage, warmth and tact to help others distinguish the truth from illusions or excuses.

294. The third kind of sensitivity is the ability to perceive what is driving the other person. This calls for a deeper kind of listening, one able to discern the direction in which that person truly wants to move. Apart from what they are feeling or thinking right now, and whatever has happened up to this point in their lives, the real issue is what they would like to be. This may demand that they look not to their own superficial wishes and desires, but rather to what is most pleasing to the Lord, to his plans for their life. And that is seen in a deeper inclination of the heart, beyond the surface level of their likes and feelings. This kind of listening seeks to discern their ultimate intention, the intention that definitively decides the meaning of their life. Jesus knows and appreciates this ultimate intention of the heart. He is always there, ready to help each of us to recognize it. We need but say to him: “Lord, save me! Have mercy on me!”

295. In this way, discernment becomes a genuine means of spiritual combat, helping us to follow the Lord more faithfully.[161] The desire to know our personal vocation thus takes on a supreme intensity, a different quality and higher level, one that better respects the dignity of our person and our life. In the end, good discernment is a path of freedom that brings to full fruit what is unique in each person, something so personal that only God knows it. Others cannot fully understand or predict from the outside how it will develop.

296. When we listen to others in this way, at a certain moment we ourselves have to disappear in order to let the other person follow the path he or she has discovered. We have to vanish as the Lord did from the sight of his disciples in Emmaus, leaving them alone with burning hearts and an irresistible desire to set out immediately (cf. Lk 24:31-33). When they returned to the community, those disciples heard the good news that the Lord was indeed risen (cf. Lk 24:34).

297. Because “time is greater than space”,[162] we need to encourage and accompany processes, without imposing our own roadmaps. For those processes have to do with persons who remain always unique and free. There are no easy recipes, even when all the signs seem positive, since “positive factors themselves need to be subjected to a careful work of discernment, so that they do not become isolated and contradict one another, becoming absolutes and at odds with one another. The same is true for the negative factors, which are not to be rejected en bloc and without distinction, because in each one there may lie hidden some value which awaits liberation and restoration to its full truth”.[163]

298. If you are to accompany others on this path, you must be the first to follow it, day in and day out. That is what Mary did, in her own youth, as she confronted her own questions and difficulties. May she renew your youthfulness by the power of her prayers and accompany you always by her maternal presence.

And to conclude… a wish

299. Dear young people, my joyful hope is to see you keep running the race before you, outstripping all those who are slow or fearful. Keep running, “attracted by the face of Christ, whom we love so much, whom we adore in the Holy Eucharist and acknowledge in the flesh of our suffering brothers and sisters. May the Holy Spirit urge you on as you run this race. The Church needs your momentum, your intuitions, your faith. We need them! And when you arrive where we have not yet reached, have the patience to wait for us”.[164]

Given in Loreto, at the Shrine of the Holy House, on 25 March, Solemnity of the Annunciation of the Lord, in the year 2019, the seventh of my Pontificate.

Franciscus

 

 


[1] The Greek word usually translated “new” can also mean “young”.

[2] Confessions, X, 27: PL 32, 795.

[3] SAINT IRENAEUS, Adversus Hæreses, 22, 4: PG 7, 784.

[4] Final Document of the Fifteenth Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, 60. Hereafter cited as FD. The document can be found at: http://www.vatican.va/roman_curia/synod/documents/rc_synod_doc_20181027_doc-final-instrumentum-xvassemblea-giovani_en.html.

[5] Catechism of the Catholic Church, 515.

[6] Ibid., 517.

[7] Catechesis (27 June 1990), 2-3: Insegnamenti 13, 1 (1990), 1680-1681.

[8] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 182: AAS 108 (2016), 384.

[9] FD 63

[10] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Message to Young Men and Women (8 December 1965): AAS 58 (1966), 18.

[11] Ibid.

[12] FD 1

[13] Ibid., 8.

[14] Ibid., 50.

[15] Ibid., 53

[16] Cf. SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on Divine Revelation Dei Verbum, 8.

[17] FD 150.

[18] Address at the Vigil with Young People, XXXIV World Youth Day in Panama (26 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 6.

[19] Prayer at the Conclusion of the Way of the Cross, XXXIV World Youth Day in Panama (25 January 2019)L’Osservatore Romano, 27 January 2019, 12.

[20] FD 65.

[21] Ibid., 67.

[22] SAINT JOHN PAUL II, Address to Young People in Turin (13 April 1980), 4: Insegnamenti 3, 1 (1980), 905.

[23] BENEDICT XVI, Message for the XXVII World Youth Day (15 March 2012): AAS 194 (2012), 359.

[24] FD 8.

[25] Ibid.

[26] Ibid., 10.

[27] Ibid., 11.

[28] Ibid., 12.

[29] Ibid., 41.

[30] Ibid., 42.

[31] Address to Young People in Manila (18 January 2015)L’Osservatore Romano, 19-20 January 2015, 7.

[32] FD 34.

[33] Document of the Pre-Synodal Meeting in Preparation for the XV Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, Rome (24 March 2018), I, 1.

[34] FD 39.

[35] Ibid., 37.

[36] Cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 106: AAS 107 (2015), 889-890.

[37] FD 37.

[38] Ibid., 67.

[39] Ibid., 21.

[40] Ibid., 22.

[41] Ibid., 23.

[42] Ibid., 24.

[43] Document of the Pre-Synodal Meeting in Preparation for the XV Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, Rome (24 March 2018), I, 4.

[44] FD 25.

[45] Ibid.

[46] Ibid., 26.

[47] Ibid., 27.

[48] Ibid., 28.

[49] Ibid., 29.

[50] Address at the Conclusion of the Meeting on the Protection of Minors in the Church (24 February 2019)L’Osservatore Romano, 25-26 February 2019, 10.

[51] FD 29.

[52] Letter to the People of God (20 August 2018), 2: L’Osservatore Romano, 21-21 August 2018, 7.

[53] FD 30.

[54] Address at the Opening of the XV Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops (3 October 2018)L’Osservatore Romano, 5 October 2018, 8.

[55] FD 31.

[56] Ibid.

[57] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Pastoral Constitution on the Church in the Modern World Gaudium et Spes, 1.

[58] FD 31.

[59] Ibid.

[60] Address at the Conclusion of the Meeting on the Protection of Minors in the Church (24 February 2019)L’Osservatore Romano, 25-26 February 2019, 11.

[61] FRANCISCO LUIS BERNÁRDEZ, “Soneto”, in Cielo de tierra, Buenos Aires, 1937.

[62] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 140.

[63] Homily at Mass, XXXI World Youth Day in Krakow (31 July 2016): AAS 108 (2016), 963.

[64] Address at the Opening of the XXXIV World Youth Day in Panama (24 January 2019)L’Osservatore Romano, 26 January 2019, 12.

[65] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 1: AAS 105 (2013), 1019.

[66] Ibid., 3: AAS 105 (2013), 1020.

[67] Address at the Vigil with Young People, XXXIV World Youth Day in Panama (26 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 6.

[68] Address at the Meeting with Young People during the Synod (6 October 2018)L’Osservatore Romano, 8-9 October 2018, 7.

[69] BENEDICT XVI, Encyclical Letter Deus Caritas Est (25 December 2005), 1: AAS 98 (2006), 217.

[70] PEDRO ARRUPE, Enamórate.

[71] SAINT PAUL VI, Address for the Beatification of Nunzio Sulprizio (1 December 1963): AAS 56 (1964), 28.

[72] FD 65.

[73] Homily at Mass with Young People in Sydney (2 December 1970): AAS 63 (1971), 64.

[74] Confessions, I, 1, 1: PL 32, 661.

[75] God is Young. A Conversation with Thomas Leoncini, New York, Random House, 2018, 4.

[76] FD 68.

[77] Meeting with Young People in Cagliari (22 September 2013): AAS 105 (2013), 904-905.

[78] Five Leaves and Two Fish, Pauline Books and Media, 2003, pp. 9, 13.

[79] CONFÉRENCE DES ÉVÊQUES SUISSES, Prendre le temps: pour toi, pour moi, pour nous, 2 February 2018.

[80] Cf. SAINT THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae, II-II, q. 23, art. 1.

[81] Address to the Volunteers of the XXXIV World Youth Day in Panama (27 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 11.

[82] SAINT OSCAR ROMERO, Homily (6 November 1977), in Su Pensamiento, I-II, San Salvador, 2000, p. 312.

[83] Address at the Opening of the XXXIV World Youth Day in Panama (24 January 2019)L’Osservatore Romano, 26 January 2019, 12.

[84] Cf. Meeting with Young People in the National Shrine of Maipú, Santiago de Chile (17 January 2018)L’Osservatore Romano, 19 January 2018, 7.

[85] Cf. ROMANO GUARDINI, Die Lebensalter. Ihre ethische und pädagogische Bedeutung, Würzburg, 3rd ed., 1955, 20.

[86] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 11.

[87] Spiritual Canticle, Red. B, Prologue, 2.

[88] Ibid., XIV-XV, 2.

[89] EPISCOPAL CONFERENCE OF RWANDA, Letter of the Catholic Bishops of Rwanda for Christians in the Extraordinary Year of Reconciliation, Kigali (18 January 2018), 17.

[90] Greeting to Young People of the Father Félix Varela Cultural Centre in Havana (20 September 2015)L’Osservatore Romano, 21-22 September 2015, 6.

[91] FD 46.

[92] Address at the Vigil of the XXVIII World Youth Day in Rio de Janeiro (27 July 2013): AAS 105 (2013), 663.

[93] Ustedes son la luz del mundo. Address in Cerro San Cristóbal, Chile, 1940. The text can be found at: https://www.padrealbertohurtado.cl/escritos-2/.

[94] Homily at Mass, XXVIII World Youth Day in Rio de Janeiro (28 July 2013): AAS 105 (2013), 665.

[95] CATHOLIC BISHOPS CONFERENCE OF KOREA, Pastoral Letter on the occasion of the 150th Anniversary of the Martyrdom during the Byeong-in Persecution (30 March 2016).

[96] Cf. Homily at Mass, XXXIV World Youth Day in Panama (27 January 2018)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 12.

[97] “Lord, make me a channel of your peace”, prayer inspired by Saint Francis of Assisi.

[98] Address at the Vigil, XXIV World Youth Day in Panama, (26 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 6.

[99] FD 14.

[100] Cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 145: AAS 107 (2015), 906.

[101] Video Messsage for the World Meeting of Indigenous Youth in Panama (17-21 January 2019)L’Osservatore Romano, 19 January 2019, 8.

[102] FD 35.

[103] Cf. Ad Adolescentes, I, 2: PG 31, 566.

[104] Cf. POPE FRANCIS AND FRIENDS, Sharing the Wisdom of Time, Chicago, Loyola Press, 2018.

[105] Ibid., 12.

[106] Ibid., 13.

[107] Ibid.

[108] Ibid.

[109] Ibid., 162.

[110] EDUARDO PIRONIO, Message to Young Argentinians at the National Youth Meeting at Cordoba, (12-15 September 1985), 2.

[111] FD 123.

[112] Das Wesen des Christentums. Die neue Wirklichkeit des Herrn, Mainz, 7th ed., 1991, 14.

[113] No. 165: AAS 105 (2013), 1089.

[114] Address at the Visit to the Good Samaritan Home, Panama, (27 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 10.

115] FD 36.

[116] Cf. Apostolic Constitution Veritatis Gaudium (8 December 2017), 4: AAS 110 (2018), 7-8.

[117] Address at the Meeting with Students and Representatives of the Academic World in Piazza San Domenico, Bologna (1 October 2017): AAS 109 (2017), 1115.

[118] FD 51.

[119] Ibid., 47.

[120]Sermo 256, 3: PL 38, 1193.

[121] FD 47.

[122] Address to a Delegation of the International Special Olympics (16 February 2017)L’Osservatore Romano, 17 February 2017, 8.

[123] Ad Adolescentes, VIII, 11-12: PG 31, 580.

[124] EPISCOPAL CONFERENCE OF ARGENTINA, Declaración de San Miguel, Buenos Aires, 1969, X, 1.

[125] RAFAEL TELLO, La nueva evangelización, II (Appendices I and II), Buenos Aires, 2013, 111.

[126] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 44-45: AAS 105 (2013), 1038-1039.

[127] FD 70.

[128] Ibid., 117.

[129] Ibid., 4.

[130] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 124: AAS 105 (2013), 1072.

[131] Ibid., No. 122, 1071.

[132] FD 9.

[133] Document of the Pre-Synodal Meeting for the Preparation of the XV Ordinary Assembly of the Synod of Bishops, Rome (24 March 2018), 12.

[134] Ibid., 10.

[135] FD 15.

[136] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 2.

[137] Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 11.

[138] Address at the Vigil, XXXIV World Youth Day in Panama (26 January 2019)L’Osservatore Romano, 28-29 January 2019, 6.

[139] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 273: AAS 105 (2013), 1130.

[140] SAINT PAUL VI, Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967), 15: AAS 59 (1967), 265.

[141] Meditación de Semana Santa para jóvenes, written aboard a cargo ship returning from the United States in 1946. The text can be found at: https://www.padrealbertohurtado.cl/escritos-2/.

[142] Meeting with the Young People of Umbria in Assisi (4 October 2013): 105 (2013), 921.

[143] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 150: AAS 108 (2016), 369.

[144] Address to Young People from the Diocese of Grenoble-Vienne (17 September 2018): L’Osservatore Romano, 19 September 2018, 8.

[145] FD 32.

[146] Meeting with Volunteers, XXVIII World Youth Day in Río de Janeiro (28 July 2013): Insegnamenti 1, 2 (2013), 125.

[147] EPISCOPAL CONFERENCE OF COLOMBIA, Mensaje Cristiano sobre el matrimonio (14 May 1981).

[148] UNITED STATES CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS, Sons and Daughters of Light: A Pastoral Plan for Ministry with Young Adults, November 12, 1996, Part One, 3.

[149] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 128: AAS 107 (2015), 898.

[150] Ibid., 125: AAS 107 (2015), 897.

[151] FD 40.

[152] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 167.

[153] Ibid., 168.

[154] Ibid., 170.

[155] FD 108.

[156] Ibid.

[157] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 171.

[158] Ibid., 172.

[159] Address of Pope Francis at the Prayer Vigil in Preparation for the XXXIV World Youth DayPapal Basilica of Saint Mary Major (8 April 2017): AAS 109 (2017), 447.

[160] ROMANO GUARDINI, Die Lebensalter. Ihre ethische und pädagogische Bedeutung, Würzburg, 3rd ed., 1955, 20.

[161]Cf. Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 169.

[162] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 222: AAS 105 (2013), 1111.

[163] SAINT JOHN PAUL II, Post-Synodal Apostolic Exhortation Pastores Dabo Vobis (25 March 1992), 10: AAS 84 (1992), 672.

[164] Prayer Vigil with Young Italians at the Circus Maximus in Rome (11 August 2018)L’Osservatore Romano, 13-14 August 2018, 6.

2019年4月3日

・戦闘が終結したイラク、コンテナ病院で日本人外科医が見たものは…(国境なき医師団ニュース)

(2019.3.29 国境なき医師団・日本ニュース https://www.msf.or.jp/)

同僚らとイラクのマストで働く村上大樹医師(右) © MSF同僚らとイラクのマストで働く村上大樹医師(右) © MSF

 国境なき医師団(MSF)は2016 年12月、イラク北部カイヤラにコンテナ病院を設置した。手術室や、集中治療室、薬局など、患者の治療とケアに必要な設備を備えている。外科医の村上大樹医師は、2018年12月から1ヵ月間、このコンテナ病院で活動した。国内避難民キャンプで生活する多くの人の医療ニーズに応えている。村上医師が見たものとは。

戦闘の爪あと…コンテナ病院

いくつものコンテナがつながっている病院(2017年撮影)© Javier Rius Trigueros/MSFいくつものコンテナがつながっている病院(2017年撮影)© Javier Rius Trigueros/MSF

 過激派組織「イスラム国(IS)」が占領していたイラクでは、今も不安定な情勢が続いている。イラク第2の都市・北部の町モスルでは、ISからの奪還を目指すイラク軍との激しい戦闘が勃発。激しい市街戦が展開されたが、2017年7月にイラク軍がモスルを奪還し、戦闘が終結した

 だが、今も多くの地域で、戦闘の爪あとが至るところに残ってカイヤラは、モスルから南に約30キロメートルの場所にある。すぐ側をチグリス川が流れる。カイヤラでも、戦闘で壊れた建物がそのままにされ、廃墟になっている場所が多い。この地域には公立の総合病院があり、ISの戦闘が激しくなる以前は、重症患者などを受け入れる医療施設として機能していた。だが、村上医師によると戦闘で破壊され、現在は復旧作業中だという。周辺には、多くの国内避難民キャンプがあり、それらのキャンプに15万人が住んでいるとも言われている。

 「今、彼らの医療ニーズを満たしているのは、このMSFの病院しかありません。重軽傷など、あらゆる症状の患者に対応しています」と村上医師。MSFはここで、国内避難民を含む人口約20万人を対象にして活動している。

 コンテナ病院は、全てを計算して作られている。とても衛生的な病院で、「働きやすかった」と村上医師。病院内の2つの手術室を交互に使い、1日10件ほどの手術に携わった。

コンテナ病院で産まれた命

 イラクで新年を迎えた村上医師。2019年最初の手術は、帝王切開だった。患者は、国内避難民キャンプに住む20代の母親。間もなく、出産を迎える時期だった。「2人目の子の出産でしたが、母親は妊娠高血圧の症状があり、それによって既に意識障害があり、体がけいれんしていました。緊急に帝王切開をすることになりました」。

 産まれたのは、元気な男の子!母子共に健康で、無事に退院していったという。日本でいう「元旦ベビー」となった。「とにかく元気で安心しました。無事に、すくすくと大きく育ってほしいです」

やけどに苦しむ子どもたち

 コンテナ病院には、毎日たくさんのやけど患者も運ばれてきた。幼い子どもが多かったという。

「やけどが多い理由は、地べたで煮炊きをしている人たちが多いから。避難民キャンプではそれが日常です。子どもの手の届くところに火があるので、子どもが誤って熱い鍋をひっくり返したりするケースも。また、冬は灯油ストーブを使っている人が多いのですが、火をつけたまま給油してしまう人が多くて。それが原因で、ストーブが引火して全身やけど、というケースもありました」

MSFの医師らがやけどの子どもを、コンテナ病院内の手術室で手術する様子(2017年撮影) © Brigitte Breuillac/MSF MSFの医師らがやけどの子どもを、コンテナ病院内の手術室で手術する様子(2017年撮影) © Brigitte Breuillac/MSF

 ある1歳の男の子は、お湯をひっくり返してしまい、上半身の大部分にひどいやけどを負った状態で来院した。

「深部までの熱傷だったので、重症でした。気道熱傷もあり、呼吸も辛そうで。入院してもらい集中治療室でケアをしました。1ヵ月くらい入院していたと思います。栄養状態も悪かったのですが、体力も回復の兆しが見えてきました」

いよいよ皮膚移植をと準備を進めていた矢先、男の子の家族から、思いがけないことを言われた。

「家族から、現地の伝統的な方法で男の子を治療したい、という申し出があったのです。家族が希望する治療とは、チグリス川で取れた大きな魚の皮をやけどの部分につけて、軟膏を塗るというものでした。それを家族はやってみたいと。こちらは皮膚移植を考えていたのですが、どうしても家族の意志が固くて。いろいろと話し合って、家族の思いを尊重することにしました」

退院した男の子。だがその2週間後、村上医師は悲しい知らせを聞くことになる。

「男の子のその後が気になって、病院で働くスタッフに『男の子はどうしているか』と聞いてみました。スタッフは、男の子の家族に電話で連絡をしていたのですが、その時に、男の子が亡くなったことを教えられたそうで

今も街は混沌としている…す。家族も男の子のために、良かれと思ってやったことだと思うのです。これはいつも心がけていることですが、僕たちが信じる西洋医学を押し付けるわけにはいかないと思っています。彼らの選択は、尊重されるべきだと。でも、やっぱり皮膚移植をして、男の子を治してあげたかったです」

 ある時、国内避難民キャンプで大きな爆発が起こり、両手を失った男性が搬送されてきた。「彼は最初、テレビが爆発したのに巻き込まれた、と話していました」と村上医師。でも実際は、爆弾を作っている最中に誤爆し、けがをした男性だったという。

 「どんな状況であれ、負傷して病院にやってきたら、その人は『患者』です。それがMSFの『医の倫理』です。こうした難しいケースに出合うことは少なくありません。医療を必要とする人に平等に、公平に医療を提供するのがMSFの役割。MSFの医師として、やるべきことをやる。それが僕たちの仕事です」

 同僚たちとコンテナ病院の前で。村上医師の他にも日本人医師らが活動している © MSF

 MSFのコンテナ病院で活動して1ヵ月。村上医師は、「イラクには、これからもMSFの助けを必要としている人たちがたくさんいます。コンテナ病院ももちろん、今後も活躍を続けていきます。私たちも活動を続けていきます」 と話している。

2019年3月30日

・「若者シノドス」の最終文書・骨子と全文試訳完成!(3月29日)

*「若者シノドス」最終文書骨子

 *「若者シノドス」最終文書は、約一か月にわたる協議をもとに、起草委員会が原案をまとめ、364か所の修正、追加を経て、全体会議に提出され、詳細に、建設的に検討されたうえ、採択に必要な出席司教たちの3分の2の支持を得て、正式文書となった。会議閉幕直後にシノドス事務局が発表した最終文書の骨子は以下の通り。(バチカン放送)

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

 最終文書の第1部では、若い人々の生活の具体的な諸側面を考察している。

 学校と小教区の重要性を強調し、多くの司祭と司教がオーバーワークとなっていることから、一般信徒が若者に寄り添う訓練を受ける必要があることを確認した。またカトリックの教育機関のかけがえのない役割にも言及。また、課題として、効果的でなく、生き生きとしていないことが多い召命への取り組み、とくに要理教育に関して、小教区の役割を再考する必要が指摘された。

 移民、性的虐待、”使い捨て文化”に関する若者の現実に関する記述も盛り込まれた。とくに、性的虐待に関しては次のように呼びかけた-「そうした虐待が繰り返されることのない、厳格な予防策の実施を固く約束する。まず、指導と教育の役割を担う人物の選定と編成から始める」。

 第1部では、このほか、芸術、音楽、スポーツについても、司牧の手段としての観点から言及されている。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

 第2部ではまず、若者たちを、主が自らを現わされる「聖書に基礎を置いた(神学的な)場」である、というシノドスの認識を示したうえ、若者たちのおかげで、教会は「鈍重さと対応の遅さ」を振り払い、自らを刷新することができる、としている。

 さらに、「(宣教の)使命」は、確実な、持続する幸せをもたらす賜物であるがゆえに、若者たちにとっての「確かな羅針盤」であること、「使命」の概念は「召命」と密接につながっており、洗礼による召命は聖性への呼びかけであること、を指摘している。

 また、別の二つの側面-「使命」の発展における助けと若者たちの召命は、寄り添いと識別の二つの側面をもっていることにも触れている。

第3部「”彼ら”は遅滞なく、発つ」

 シノドスの司教たちが示した人物は、復活したイエスに最初に出会ったマグダラのマリア。すべての若者たちは、様々に異なる人生の展望を持つ者も含めて、神の心の内にある、とした。

 「共に歩む」ことは、司教たちが第3部で強調した教会会議の推進力だ。司教たちは、世界各国・各地域の司教協議会に対して、具体的に司牧面での課題解決を進める目的を持って、識別の手順を踏み続けるように促した。 “Synodality”の定義として示されたのは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、そして私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように、私たちを強く促すことだ。

 会議で繰り返された要望として、司教区と小教区の指導者たちが若者たちと若者たちのためにする訓練と実行を適切なものとするのを助ける各国レベルの「召命の要点についての若者司牧の指針」の取りまとめ、があったことも示された。

 また、若者たちが性の賜物を見出すために、彼らと歩みをともにする、家庭とキリスト教共同体の重要性も指摘され、現在の文化的な状況の中で「性に関するキリスト教的洞察のすばらしさ」を彼らに伝えることの難しさも、同時に示された。そして、「新たな人格形成の道の開発に具体的につながるような適切な方法」を見出すことが緊急の課題だ、としている。

 最後に、最終文書は、このシノドスで出された様々な課題は召命の推進力、聖性への招きとなったとし、「召命の様々な相違は、聖性への唯一の、普遍的な招きに集合される」と述べた。迫害に遭っても、福音への信仰を守るために命を捨てることもいとわない若者たちの聖性を通して、教会はその霊的熱情と使徒的活力を新たにすることができる、と強調している。

・・・・・・・・・・・

*「若者シノドス」最終文書・全文試訳

final document of the synod of bishops

 「若者、信仰、そして召命の識別」に関するシノドス最終文書

*目次

・はじめに

・序文

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

  第1章 声を聴く教会

  第2章 三つの重要な要素

  第3章 アイデンティティーと諸関係

  第4章 今日、若者であること

・第2部「”彼ら”の目は開かれた」

  第1章 若さの賜物 

  第2章 召命の神秘

  第3章 寄り添う福音宣教

  第4章 識別の技法

・第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」

  第1章 教会の共に歩む宣教 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む 

  第3章 新たにされた宣教の活力 

  第4章 欠かせない人格形成

・おわりに

・・聖書の引用か所の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」(2018年12月刊行)を原則として使用します。

*本文

・はじめに

  私たちが今回のシノドスで経験したことは

1.「私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る(使徒言行録2章17節、ヨエル書3章1節)」。これは私たちが、今回のシノドスで経験したことです-共に歩き、聖霊の声に耳を傾けました。聖霊はその賜物の豊かさをもって、私たちを驚かせました。世界に希望をもたらすその勇気と力強さで、私たちを満たされました。

 私たちは聖ペトロの後継者と共に旅をし、彼は私たちを信仰において力づけ、福音宣教への新鮮な活力と熱意をくれました。私たちは、文化と教会用語で広く異なる背景をもって集まってきたにもかかわらず、自分たちを結び付けている霊的な絆を、対話と真の共感への熱意を、最初から知っていました。私たちは共に働き、自分たちの強い関心事項を分かち合い、懸念を伝え、負っている重荷を隠すことはしませんでした。協議の間にされた意見発表は私たちを深く感動させ、福音宣教の共感を目覚めさせましたーともに苦しみ、喜ぶ、一つの身体であることを感じました。私たちはどの人とも、自分が経験した恵みを分かち合いたい、福音の喜びを私たちの教会、そして全世界に、伝えたいと思います。

  若者たちの参加は新たな出発でした。彼らを通して、若者世代全体の声が、このシノドスで、大きく、はっきりと聞こえました。聖ペトロの墓への巡礼者として、彼らとともに歩み、このように共に歩むことが、どのようにして教会が対話の場となり、活力に満ちた友愛を証しするものとなる条件を育てるのかを、私たちは経験しました。この経験のもつ強さは、全ての疲れ、弱さを克服します。主は私たちに、何度も何度も言い続けられますー「恐れるな。私はあなたと共にいる」と。

  準備から始まった会議のプロセス

2.私たちは、司教たちの貢献から、小教区の司祭、修道者、一般信徒、専門家、教員その他多くの方々から、大きな恩恵をいただきました。会議の準備に、若者たちが初めから参加しました-オンラインでの質問、数多くの個人的な貢献、そして何よりも、シノドス準備会合は、そのことを雄弁に物語りました。若者たちの貢献は欠かすことができないもので、まさに、聖書にあるパンと魚の奇跡の話にあるものでした-イエスは、持っていたパンと魚を全部差し出した少年の価値のある振る舞いのおかげで、奇跡を行うことができたのです(ヨハネ福音書6章8‐11節)。

 すべてのこれらの貢献は、シノドス準備書面にまとめられています。同書面は、何週間もの会議を通しての議論にしっかりとした基盤を提供してくれました。今、最終文書は、準備を含めて会議が行った結果をまとめ、未来に向けて送り出します-シノドスに参加した司教たちが、神の言葉に照らして、認識し、解釈し、選択したものを示します。

  シノドスの最終文書は

3. 準備書面と最終文書の関係を明確にすることは重要です。前者は、2年にわたる聴き取りの作業で浮かび上がった包括的で統合的な、議論のための骨格であり、後者は、それを受けて開かれたシノドスの成果であり、シノドスに参加した司教たちが特別に力と熱意を込めて集中的に行った重要な論点をテーマ別にまとめたものです。 このようにして、これら二つの文書の 相違と相互補完性を知ることができます。

 最終文書は今回のシノドスの成果として、教皇に、そして全教会に提示されます(エピスコパリス・ コムニオ」=注:教皇フランシスコが昨年9月に発表したシノドスに関する使徒憲章=18項など参照)。今回のシノドスのプロセスはまだ終わっておらず、実施段階はこれから(同19‐21項参照)であり、最終文書は、教会に求められている次の段階の行程表となるものです。

*この最終文書で使用する「シノドス」は、シノドス全体のプロセスを指す、ないしは2018年10月3日から28日まで開かれた全体会議を指すこととします。

・序文

イエスはエマオに向かう弟子たちと旅をされた

4.   私たちは、若い世代に対する教会の福音宣教を理解するためにぴったりの聖書の箇所として、エマオへの旅を思い浮かべます(ルカ福音書24章13‐35節)。この箇所は、今回のシノドスで私たちが経験したこと、若者たちとの関係で経験することができるようにするために、私たちの教会がどうあるべきか、をよく示しています。

 イエスは、ご自身に起きた事の意味を理解できない2人の弟子、仲間の弟子たちがいるエルサレムを離れた彼らと歩みを共にします。彼らの仲間のようにして、共に歩かれます。イエスは彼らに問いかけ、彼らなりの出来事の顛末を辛抱強くお聴きになり、彼らが経験していることをはっきりと分かるように、助けようとします。そして、彼らに、愛情と力を込めて御言葉を示し、聖書の光の下で、自分たちが経験した出来事を理解するように導きます。

 夕方になって、イエスは、一緒に宿に泊まるようにとの彼らの申し出を受けます-彼らの闇に入られます。イエスの話を聴く時、彼らの心は燃え、はっきりと理解しました-イエスがパンを割かれた時、彼らの目は開かれました。彼らは、すぐさま、これまでとは反対の方向に、旅を再開する選択をします。仲間の弟子たちのところに戻って、復活された主に出会った経験を分かち合います。

 準備書面に続く形で、この最終文書はこの福音書の箇所の諸段階に対応して3部構成になっています。第1部は”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」(ルカ福音書24章15節)で、若者たちが自分自身を見出すという文脈について、シノドスに参加した司教たちが何を認識したか、を明らかにし、その力強さと課題に光を当てます。第2部「”彼ら”の目は開かれた」(同24章31節)は説明的な部分で、今回のシノドスのテーマを理解する基本的な手段を提供します。そして、第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」(同24章31節)は、霊的、司牧と福音宣教の転換のための選択肢を提示します。

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

5.「この日、2人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」(ルカ福音書24章13‐15節)。

 この箇所で、ルカは、彼らが体験した出来事の意味を求める2人の旅人に必要なもの、を伝えています。特に、彼らの旅に加わられたイエスの振る舞いに焦点を当てています。復活された主はすべての若者たちと共に歩み、彼らが期待していることを、それがまだ実現していなくても、お聴きになり、彼らの望みを、それが採るに足らないものであっても、お聴きになります。イエスは歩き、聴き、分かち合われるのです。

 第1章 声を聴く教会

  共感をもって聴き、よく見る

   聴くことの価値

6.聴くことは、自由な出会いです。それには、謙遜、忍耐、理解するための用意、そして、新たなやり方で答えを考え出す決意が求められます。聴くことは、特に、それが内的な調和の性向と聖霊に対する従順さをもってなされた時に、聴く人の心を変えます。聴くことは、単に情報を集めることでも、目的を達成するための方策でもありません。神ご自身が民と関係を持つ仕方なのです。神は民の苦しみをつぶさにご覧になり、叫ぶ声を聴かれて、深く心を動かされ、彼らを救い出されます(出エジプト記3章7‐8節)。教会は、聴くことを通して、御子において一人ひとりの人間に近づかれる神のなさることに共鳴するのです。

(注:英語原文のlistenは「聞く」とも「聴く」とも訳せますが、日本語では、大辞林(小学館刊)にもあるように、「聞く」は「音や声を耳に受ける、感じ取る」場合、「聴く」は「注意して耳にとめる、耳を傾ける」場合に使います。この最終文書の場合は、後者の訳の方が適切と判断し、「聴く」で統一します。)

  若者たちは聞いてもらうことを希望している

7.若者たちは自分たちの人生に方向を与える選択を絶えず続けるように求められています-彼らは聞いてもらえ、認識してもらえ、行動を共にしてもらえるような強い希望を言葉で表現します。多くの人は、彼らの声が社会と教会の輪の中で興味を引いたり、有益だったりすると考えられない、と感じています。ある場面では、彼らの叫び、とくに貧しく、搾取された人の叫びは、少しの注意も払われませんーわずかな年配者だけが彼らの叫びを進んで聴くことができるのです。

  教会で聴くこと

8.カトリック教会には、受け入れ、聴き、聞いてもらえる経験を若者たちに与えることのできる、沢山のイニシアチブとしっかりとした経験があります。今シノドスは、教会共同体が、エマオで弟子たちの目を開かせる前、彼らと歩きながら「やり取りしているその話は何のことですか」(ルカによる福音書24章17節)と尋ねた時のイエスの振る舞いを伝えることに、必ずしもいつも成功するとは限らないことを知っています。時として、若者たちの質問で新鮮さが出てくるようにせず、彼らが示す課題と取り組むことをせずに、前もって作られた答え、出来合いの解決策を提供する傾向がある可能性がある。

 聴くことは、他者の気持ちを理解するという文脈において、贈り物の交換を可能にします。若者たちに共同体に貢献することを認め、新たな感受性を身に着け、新たな問いを考えるのを助けます。同時に、正確に、豊かに心に真に触れることのできる福音の宣言のための条件を整えます。

  司牧者と資格を持った信徒が実践する行為としての聴くこと

9.聴くことは司牧者、何よりも司教たちの職務の大事な要素です-司教たちは頻繁に多くの任務を負わされ、このような必要な奉仕に十分な時間をとろうと苦闘していますが。多くの人は、付き添うことに専念する資格を持った人の不足を指摘しています。聴くことが持つ神学的、司牧的な価値を信じることは、普通に行われている司牧のやり方を考え直し、刷新する必要があること、優先順位を再検討する必要があることを意味します。それ以上に、このシノドスは、若い者たちに付き添う資格を持った司祭職と一般の信徒、男性と女性を準備することの必要性を認識しています。共同体社会の中で聖霊が呼び起こす『神から与えられた聴くことの特別な能力』は、教会の奉仕の一つの形として認知されるでしょう。

  状況と文化の多様性

   複合的な世界

10. このシノドスの構成そのものが、世界の多くの異なる地域の存在と貢献をもたらし、普遍教会であることの素晴らしさを際立てました。地球の一体化が進んでいるにもかかわらず、シノドスに参加した司教たちは、一つの国の中にさえも地域によって状況や文化に多くの相違があることを認識する必要がある、としました。若者たちの世界は全く一様ではなく、国によっては、複合性の中で「若者」という言葉を使う傾向があります。それ以上に、シノドスが「若者」としている年齢層(16歳から29歳)の人々は、同質ではなく、それぞれの人生経験をもつ異なるグループで構成されているのです。

 このような相違の全ては若者たちの具体的な経験に強い影響を与えます-成長の異なった段階、宗教的体験の形、家族構成、そして信仰伝達のための重要性、世代間の関係-例えば、年配者の手本と彼らに対する敬意-社会生活への参加の仕方、将来に向けた姿勢、教会一致と宗教間の問いかけ。このシノドスは文化の多様性の持つ豊かさを認識し、受容し、聖霊の交わりの礼拝においてそれを加えます。

   進む変化

11.特に重要なものとして、国による人口動態の違いがあります。出産率が高く、若者たちが総人口に占めるウエートが大きく、しかも増加している国がある一方で、若者たちの影響力が減退している国が存在します。さらなる違いをもたらす要素は、歴史の結果です-伝統的なキリスト教の伝統のある国々と大陸があり、その文化は容易に見過ごすことのできない記憶によって影響を受けている一方で、他の宗教的な伝統の影響を受ける国々と大陸があり、そこではキリスト教は少数派で、しばしば新参者です。また、他の地域では、キリスト教の共同体と若者たちが迫害を受けています。

   排除と周辺化

12.さらに、国と国の間、として国の中での違いがあります-それは社会構造と経済的な力によって引き起こされ、グローバリゼーションによって増大する機会を利用できる者と、社会の周辺部や田舎に住む者、排除されたり、捨てられたと感じる者を、時として劇的な形で引き離しています。多くの事象が、教会が勇気を奮って後者の側に立ち、排除と周辺化を取り除き、受け入れ、寄り添い、一体化する体制を強化するような選択肢を作るのを助ける必要があることを示しています。このことは、多くのキリスト教徒にも影響を与えている無関心について知り、信仰の社会的な側面を深めることによって無関心を克服する必要性を際立たせます。

   男性と女性

13.男性と女性の違いも見過ごしてはなりません-それは、特徴のある賜物、感受性と人生の経験を伴います。この違いは、支配、排除、差別の元となり得ます-教会も含めてすべての社会は、それから解放される必要があります。

 聖書は、男女を、神の前で対等な者(創世記5章2節参照)しています-性別を基礎にした全ての支配、差別は、人間の尊厳を害するものです。聖書はまた、性による違いを人間の構成の神秘とし、陳腐な類型的なものに矮小化すべきではありません。男女の関係は、助け合い、対話をし、交わりと豊かさの中で共に生きる使命の見地から理解されます(創世記1章27⁻29節、2章21⁻25節参照)-夫婦としての人生、仕事、教育など、人間のあらゆる経験の領域で。神はこの地球を人間の契約に委ねたのです。

   文化的植民地化

14.非西欧の地域からシノドスに参加した司教たちの多くは、「自分たちの国では、グローバリゼーションは文化的植民地化を伴っている-若者たちを彼らの文化と宗教的な土壌から引き抜いている」と指摘しています。教会は、グローバリゼーションの進展の中で若者たちのアイデンティティーの最も価値のある特長を見失わないように、しっかりと彼らを導く必要があります。

 世俗化の進展について、対照的な解釈があります。ある人々がそれを「単なる慣習や民族的、国家的アイデンティティーに基礎を置く信心深さを浄化する、歓迎すべき機会」と見る一方で、「信仰を伝える障害」と見る人々もいます。世俗的な社会において、私たちはまた、神と聖性の再発見を目の当たりにします。教会にとって、このことは、信仰、告白、司牧的随伴の活力の重要さを再発見を刺激する役割を果たすに違いありません。

  今日の教会を概観する

   教会の教育との関わり

15.若者たちが教会を「キリスト教を信じないあるいは他の宗教に所属する同世代の人々にとっても、重要な意味を持つ、活発で関わる力」として見ている地域が多くあります。教会の教育機関は、彼らの信仰、文化的背景、個人・家庭・社会的な環境に関係なく、すべての若者を進んで受け入れる姿勢を希求しています。そうして、教会はこの世界の多くの異なった場所で若者に対する欠かすことのできない教育に貢献しているのです。

 このことは、すべての形、規模の学校-専門的な教育センター、単科大学、総合大学だけでなく、若者のセンター、祈祷会も-における教育を通して、なされています。このような貢献はまた、難民の人々の受け入れをはじめ極めて多様な形の社会活動を通してもなされています。これら全てにおいて、教会は福音の証しと言明を教育活動と人間性を高める活動に結び付けています。文化間、宗教間の対話によって刺激を受けて、教会の教育分野での活動は、人間性を高める真の形として、キリスト教徒以外の人々からも評価されるのです。

   若者の召命教育における活動

16.シノドスの議論の中で明確になってきたのは、若者の召命教育には専門的な傾向が必要とされること、そして、専門的な司牧ケアが全ての若者たちに必要である、ということでした。そして、若者がキリスト教の共同体社会に自分の場を見つけるのを助け、幼少期から大人の生活までの全期間に対応する必要が、司牧のプログラムにあることが強調されました。また、極めて多くの小教区のグループ、活動、若者の集まりがすでに、若者の信仰生活の中で彼らに随伴し、育成する効果的な取り組みをしていることも、指摘されました。

 世界青年の日(WTD)ー三千年期において若者たちを評価の基準に置いた、聖ヨハネ・パウロ二世の預言的な洞察が生んだ行事-は、国レベル、教区レベルの行事と相まって、多くの若者の人生に重要な役割を演じることになりました-彼らが人生の大きな課題に取り組み、社会と教会の中で彼らの役割を責任をもって引き受けるのを助ける「信仰と交わりの生きた経験」を提供したからです。これらの集まりは、福音の受容を深め、人生の選択に生かされるべき個々の共同体社会の通常の司牧的な随伴に力を与えていきます。

   教会の管理運営の重荷

17. 多くの司教が指摘したのは、管理運営の任務の重荷が多くの司牧者のエネルギーをあまりにも殺ぎ落し、時として司牧の道を閉ざしかねなくなっている、ということでした-これは若者たちと出会い、随伴することが難しくなる原因の一つです。司牧的、霊的な任務を優先させるために、司教たちは、教会の管理運営の具体的なやり方を考え直す必要がある、と主張しています。

   小教区の現状

18.小教区は、現在も、個々の地域で、教会の第一の、重要なあり方であり続ける一方、いくつかの地域で小教区が若者たちと関わることに苦闘し、司牧の在り方を見直す必要が出てきています。小教区活動の都市部での低調さ、活力の不足は、時間的、空間的なライフスタイルの変化と相まって、刷新を強く求める声になっているのです。革新の様々な試みがされているとしても、若者の生活の川の流れはしばしば、(注:その試みとは)交わることなく、共同体社会の縁にそって流れます。

  キリスト教への入門

19.多くの参加者はキリスト教入門のプログラムは、子供たち、青年たち、そして若い大人たちに信仰の体験の素晴らしさをもたらすことに、いつも成功するとは限らない、と指摘しています。共同体社会が、交わりの場で神の子供たちの真の家庭である時、信仰を伝える創造的な力が発現します-しかし、代表の論理が幅を利かし、官僚的な組織が支配するところでは、キリスト教入門は堅信の秘跡で終わる宗教的な教習課程だと誤解されてしまいます。ですから、私たちが緊急に必要としているのは、教理講座の方法と家庭と共同体社会における信仰の伝達の繋がりを、深く考え直し、個人的な寄り添いの課程を作ることなのです。

  神学生と奉献者の育成

20.神学校と育成の家は、司祭職と奉献生活に呼ばれた若者たちが、自分たちの召命の選択を深め、使徒職を育てていくことを可能にする最も重要な場です。しかし、時として、その環境は、”候補生”たちのこれまでの経験を十分に考慮に入れず、その重要性を過小評価することがあります。そして、これは、その人の成長を妨げ、神の賜物と心の深い転向の成長よりも、形式的な態度を選ぶ元になります。

第2章 三つの重要な要素

 デジタル環境の新しさ

  浸透する現実

21.デジタル環境は現代世界を特徴づけています。人間の活動の広範な部分が、日常的に、連続的な形で、その環境の中に浸されています。それは、もはや、通信機器を単に「使う」ことではなく、「高度にデジタル化された文化の中で生活する」ことであり、それは、時間と空間に関する考え方、自己理解、他者と世界への理解、意思疎通を図り、学び、自分自身に活気を与え、他者との関係を結ぶ方法に、重大な影響を及ぼしています。 聴くこと、読むことよりもイメージを優先させる現実への近づき方が、人々の学習の仕方、物事を批判的に見る能力の成長に影響を与えています。次のことがすでにはっきりしていますー「デジタル環境は、類似的、あるいは純粋に仮想現実の世界ではなく、多くの人、特に若者たちの日常的な環境の一部をなしている」(ベネディクト16世「第47回世界ソーシャル・コミュニケーションの日へのメッセージ)のです。

  さまざまな機会を提供するネットワーク

22.インターネットとソーシャル・ネットワークは若者が多くの時間を費やし、容易に他の人と会う”広場”になっています-たとえ、すべての人が、特に世界のある地域で、同等にアクセスできないにしても。そして、情報や知識の入手とともに、人々の間の対話、出会い、交換に特別の機会を提供します。それ以上に、デジタルの世界は、社会・政治的な繋がりと能動的な市民の権利の一つであり、最も傷つきやすい人々のために、権利の侵犯を公けにするなど、効果のある権利保護するような自主的な情報の流通を促進することが可能です。多くの国で、インターネットとソーシャル・ネットワークはすでに、若者たちを巻き込んだ、しっかりと確立した対話の場に、とくに司牧的な運動と活動に参加しています。、

  インターネットの暗部

23.デジタル環境はまた、(注:アクセスするために特定のソフトウェア、設定、認証が必要な)”ダークウェブ(Dark web)”の極端なケースを含め、孤独、操作、搾取と暴力の一つにもなっています。デジタル・メディアは、人々を、自主性喪失、孤立、具体的な現実との結びつきを徐々に無くす危険にさらし、真の人間同士の関係の発展を阻害する可能性があります。暴力の新たな形は、”サイバーいじめ”で代表されるように、ソーシャル・メディアを通して広がっています-インターネットはまた、ポルノの氾濫、性的な目的あるいは賭博を通しての搾取のルートの一つでもあります。

24.最後に触れねばならないのは、デジタルの世界では巨大な経済的な打算が働いている、ということです。それは、徐々に浸透していく、見分けのつきにくい管理、良心と民主的な手続きを操作するメカニズム、を作り出すのを可能としています。多くのインターネット・プラットホームの機能は同じような考え方の人同士の出会いを優先し、議論をさせないようにします。このような閉鎖された回路は、偽ニュースと誤った情報の拡散を促進し、偏見と嫌悪を煽ります。偽ニュースによる汚染は、真実を求めようとする感覚を失わせ、特定の利益に合うように事実を捻じ曲げる”文化”です。オンラインでなされる短絡的な判定を通して、個人の評判は危険にさらされます。教会とその司牧者も、そうした現象から逃れることはありません。

 我々の時代の典型的問題としての移民

   多面的な現象

25.世界的に受け止められている移民は構造的な現象であり、一時的な緊急事態ではありません。移民は、一つの国の中、あるいは異なる国の間で起きるようです。教会の関心は、特に、戦争や暴力、あるいは宗教的迫害、気候変動が原因のものも含む自然災害、極度の貧困から逃れようとする人たち-その多くは若者たち-に焦点が絞られます。一般的に、彼らは自分たち自身と家族のための好い機会を求めています。より良い未来を切望し、それを手に入れる条件を作りたいと考えています。今回のシノドスに参加した多くの司教たちは、移民の人々は、私たちの時代に、特に若者たちの置かれている状況に光をあてることのできる”典型”の一つであり、私たちに信仰のもととなる条件、「よそ者であり、国を追われた者」(ヘブライ人への手紙11章13節)であることについて、思い起こさせてくれます。

   暴力と脆弱さ

26.また他の移民たちは、西欧文化に惹かれ、時には、大きな失望をもたらすような非現実的な期待を抱きます。悪質な人身売買業者-しばしば、麻薬カルテルや武器カルテルと結びついた者たち-移民たちの弱みにつけこんで利益を上げます。移民たちは,移動の過程でひんばんに暴力を振るわれ、売買され、心理的、物理的に虐待され、言葉にできないような苦しみを味わいます。私たちは特に、移民たちの脆弱さ-寄る辺のない小さな人たち、あるいは難民キャンプで何年も過ごすことを強いられ、途中の国で長期間囚われ続け、教育も受けられず、才能を発揮することのできないでいる人々を、見過ごしてはなりません。移民を受け入れている国では、移民が地元民から恐れや警戒心を抱かれ、扇動され、政治的目的で利用されていることもあり、人々が閉鎖的になり、外国人恐怖症に繋がる可能性もあります。こうした問題には、断固として対処する必要があります。

   別離と出会いの物語

27.若い移民者たちは生まれ故郷を離れ、しばしば文化的、宗教的なルーツを絶たれることを経験します。彼らが離れたことで共同体社会は、一番壮健で、活力のある部分を失い、打ち壊されたように感じます-特に片親、両親が子供たちを置いて故郷を出てしまう時、残された家族も、そのように感じます。別れ別れになった家族の一員である若者の拠り所として、教会には重要な役割があります。

 ただ、移民の物語は人々と諸文化の出会いの物語でもあります-彼らは、移民先の共同体、社会にとって、全ての人の豊かさと、人間的な発展の機会をもたらします。教会が関わる彼らを歓迎する取り組みは、このような視点から重要な務めであり、移民を受け入れることのできる共同体社会に新たな命をもたらすことができるのです。

   教会の預言的な役割

28.このシノドスに参加した司教たちの多様な背景を考えると、移民という題目には、特に移民が出た国と着いた国の間で、沢山の異なる側面が合わさっていることが、分かります。そして、それ以上に、諸教会から警報が聞こえます-信徒たちは戦争と迫害から逃れることを強制され、そのように強制された移動を自分たちの生存を脅かすものと見なします。教会がそのような見方を包含するという、まさにその事が、移民問題に向かい合う教会に預言的な役割を与えます。

  あらゆる形の虐待を認め、対応する

   真実を明確にし、赦しを願う

29. ある司教たち、司祭たち、修道者たち、そして一般信徒が犯した様々な形の虐待が犠牲者を生み、その多くが若者たちであり、生涯続きかねない、いかなる痛悔もいやすことのできない苦しみをもたらしています。このような現象は社会に広がり、教会にも影響を与え、教会の使命を果たすうえで大きな障害となっています。今回のシノドスは、いかなる虐待も起こさない厳格な措置をとることを、はっきりと確約します-責任ある取り組みと教育を任す人物の選定と編成から始めます。

   原点に立ち返る

30.虐待には様々な形-権力の乱用、良心をないがしろにする行為、性的な虐待、金銭的な脅しーがあります。当然ながら、これら全てを可能にする権力の行使は撲滅すべきであり、極めて多くのケースにおける責任感の欠如、透明性の欠落には異議を申し立てねばなりません。支配への欲求、対話と透明性の欠如、二重生活、霊的な空虚は、心理的な脆弱さとともに、腐敗を起こす元になります。

 聖職者主義は、特に、「召命についてのエリート主義者、排他主義者の見方-聖職者は自由で心の広い奉仕をするよりも、執行されるべき力を与えられている、と解釈する見方-から生まれます。この見方は、自分たちは全ての答えを持ち、何も聴いたり、学んだりする必要のない、ないしは、聞くふりをする集団に属しているのだ、と信じるように私たちを仕向けるのです」(2018年10月3日の第15回通常シノドス第一回全体会議での教皇フランシスコの挨拶)。

   感謝、そして激励

31.今回のシノドスは、自らが苦しめられた罪悪を勇気をもって糾弾した方々に感謝を表明します-この方々は、実際に起きたこと、決然と対応すべきことを教会が知るのを、助けてくれました。また、日々、若者たちのために誠実さと献身の心をもって自らを捧げた、数えきれないほどの男女の一般信徒、司祭、男女の聖職者、そして司教たちを讃え、激励します。彼らの仕事は、静かに成長する森のようです。今回のシノドスに参加した若者たちの多くもまた、彼らとともに居てくれた人々に感謝し、判断の様式の必要性を強調しました。

 主キリスト-ご自分の教会を決して捨てない方-は教会に、新たな道に踏み出す力と手段をくださいます。「時宜を得た行動と制裁の白線を確認することが強く求められ」(2018年8月20日の教皇フランシスコの「神の民への手紙」)ており、今回のシノドスは、慈しみが正義を求めていることを知り、虐待の問題にあらゆる面において、若者たちの価値ある助けを欠くことのなく対処することは、画期的な重要さをもつ改革のための機会になることができるのです。

 

 第3章 アイデンティティーと諸関係

  家庭と世代間の関係

   特別な判断基準としての家庭

32. 家庭は若い人々にとって重要な判断基準であり続けています。子供たちは、両親の愛と世話をありがたく思い、家族の結びつきを大切にし、自分たちも同じような家庭を作ることを希望します。そうした中で、別居、離婚、再婚、そして片親家庭の増加は、間違いなく、若い人々の間に大きな苦しみとアイデンティティーの危機を引き起こします。彼らは、時によって、年齢に不相応な責任を負わされ、通常よりも早く大人になることを強制されます。そうした彼らに、祖父母は世代間の関係の中で決定的なつながりを作る知恵をもって、愛情と宗教教育の面で決定的な貢献を果たすことが、しばしばあります。

   母性と父性の重要さ

33.母と父は、はっきりと異なる役割を持っていますが、子供たちを育て、信仰を伝えていくという点からみれば、共に等しく重要です。母親の存在は、若者たちが自分の成長のために不可欠と考える役割を持ち続けます-たとえそれが、文化的、政治的に十分に認められず、仕事だとされても、です。多くの父親は熱心に自らの役割を果たしますが、場合によって、父親が不在か、かすかな存在であったり、抑圧的、あるいは権威主義的な存在であったりする、という事実を隠せません。このような両義性はまた、霊的の父性の行使にも反映されます。

   世代間の関係

34. 今回のシノドスは、文化的な文脈の難しさにもかかわらず、価値を伝えることに深く関わる多くの両親と教師たちの献身的な活動を、認識します。年配者の役割と祖先の人々への崇敬が教育の重要な要素であり、個人的なアイデンティティの形成に大きく貢献している地域もあります。近親者を含む「拡大家族」-異なる文化を持つ地域では、それが実際の「家庭」を意味しますが-もまた、重要な役割を果たしています。

 しかしながら、若者の中には、家庭の伝統を抑圧的なものと感じ、身元保証を欠いたままグローバル化された文化の刺激を受けて家庭の伝統から離れる動きもあります。その一方で、世界の他の地域では、若者たちと年配者たちに世代間摩擦がない代わりに、互いに疎遠になっている例も見られます。時として、年配者は人生の基本的な価値を伝えようとしなかったり、伝えることに成功しなかったりし、その代わりに”若々しい”生活のスタイルを取り入れ、世代間の関係を逆にするケースもあります。

 こうして、若者たちと年配者たちの関係は、教育や文化の側面に触れることがないまま、情緒的なレベルにとどまるというリスクを冒しているのです。

   若者たちと文化的なルーツ

35.若者たちは未来に注意を集中し、実行力と活力をもって人生と向き合います。しかしまた、彼らは、現在を楽しむことに熱中する誘惑を受け、時として、自分がこれまで辿って来た過去の記憶、中でも、両親や祖父母から伝えられた沢山の資質、自分が暮らしてきた社会から受けた”文化的な荷物”に、少しの注意も払わない傾向があります。過去のもつ生き生きとした豊かさを見出し、過去の記憶を大切にし、自分自身の選択と機会に生かすように、若者たちを助けることは、成長と必要な選択のために彼らに向けられる、正真正銘の愛の行為なのです。

   仲間同士の友情と結びつき

36.世代間の結びつきとともに、同世代の人々の結びつきも看過できません。そうした結びつきは、交流と生まれた時からの家庭の場からの巣立ちの基礎的な体験を象徴するものです。友情と論争-多かれ少なかれ組織的な集団の中で起こるものですが-は、重視されも裁かれもしない環境の中で、他者と交わり、関係を持つ腕を磨く機会となります。集団の体験はまた、信仰を分かち合い、証しの中で互いに助け合うための、素晴らしい資源となります。若者たちは、他の仲間を導き、彼らの間で正真正銘の信徒使徒職を果たすことができるのです。

  身体と情動性

    変化が起きている

37.身体と性的関心は、若者たちの生活と独自性の成長のために、どれほど重要か。それを欠いては、友情と情動性のある人生を歩めないからです。現代社会で、彼らはそれでも、これらに関して、急速な変革の中で起こる現象に出会います。

 何よりも、科学とバイオテクノロジーの分野での進歩は、身体についての知覚に強力な影響を及ぼし、際限のない変容が可能だ、という考え方をもたらします。遺伝子操作の技術進歩、身体の器官に人工的な要素を挿入する(サイボーグ=身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させること)の可能性と、神経科学の進歩は、素晴らしい力を作り出しますが、それと同時に、人類学的、倫理的な問題を引き起こします。

 身体に対する専門技術的な取り組みを無批判に受け入れることは、賜物としての命についての認識と被造物としての限界についての感覚を弱くします-人は、経済的、政治的な力によって欺かれ、あるいは搾取される可能性があるのです(教皇フランシスコの回勅「ラウダ―ト・シ」106項参照)。

 さらに注意しなければならないのは、若者たちの集団の中に、自己探求の道具としてリスクのある行動をとることの、強い感情の高ぶりを求め、認知を得ることの、魅力に取りつかれる、という現象が見られることです。性的な早熟な振る舞い、乱交、買春ツアー、身体を誇張した崇拝など、従来からの現象が続いているのに加えて、今日では、デジタル・ポルノとオンラインを使って人の体を見せる、という行為の氾濫が起きています。若者世代に見せつけられているこのような現象は、曇りのない穏やかな発育にとっての障害となります。若者たちを、全く新しい、個人の選択と経験に影響を与える、イデオロギー的な植民地化に類するものにとっての「肥えた土地」にしてしまう、社会的な力に向かっているのです。

    教会の道徳的教えの受容

38.これは、キリスト教徒の家庭と教会共同体が、神の神秘によって内在した素晴らしい賜物としての性を若者たちが見つけるのを助けようとしている、そうすることで、福音の論理に従った関係をもって生きることを望んでいる、という前提を置いての話ですが、こうした熱望を、時折ではなく、愛情のこもった性教育に注ぐことに、常に成功するわけではありません。性教育が純粋に選択肢として採用されるところでは、若者たちが、イエスキリストへの信奉、情緒のある生き方、そして人格のつながりを持った関係のつながりを把握するのを助ける、という前向きの効果があります。このような結果は、この分野で教会の活力への大きな投資を引き込み、増進するのです。

    若者の問題

39.教会は、この分野で教えを作り、進めて来た、豊かな伝統をもっています。聖ヨハネ・パウロ二世が作られた組織による神学としての「カトリック教会のカテキズム」、ベネディクト16世による回勅「神は愛」、教皇フランシスコの使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」が、その実例です。しかし、若者たちは、こうした教えを知り、それをもとに生活している人々も含めて、教会から「はっきりとした、人間的で共感を呼ぶような言葉を聞きたい」と希望する声が上がっています。そうした声にもかかわらず、性道徳は、教会が裁きと断罪の場として受け止められる限り、無理解と距離を置く原因となっているのです。

 社会の変化と情緒のある新しい生き方、そして倫理的な見方の多様性に直面して、若者たちは真正と献身の価値に敏感になっていますが、進むべき道が分からなくなることがしばしばあります。彼らは、男らしさと女らしさの違い、男女の相互の関係、そして同性愛に関して議論することに、従来よりも、もっとはっきりと熱意を示しています。

   傷つきやすさの諸形態

    仕事の世界

40.仕事の世界は、若者たちが自分の創造性と革新を起こす能力を表現する場であり続けています。それと同時に、彼らはそこで排除と軽視を経験します。一番に、そして最も深刻なのは、失業です。世界の国の中には失業水準が異常に高くなっているところもあります。彼らを貧しくさせるのに加えて、働く場がないことは、夢と希望を抱く若い能力を損ない、社会の発展に貢献する可能性を奪います。

 多くの国で、このような状況は、若者世代の中に-恐らく、教育、訓練制度の欠陥から-十分な専門技能を持たない人々がいることから起きています。若者たちを苦しめる雇用における問題は、労働を搾取する経済的利益と関係しています。

    暴力と迫害

41.多くの若者たちは紛争地域に住んでおり、数限りない異なる形の暴力-拉致、強奪、組織犯罪、人身売買、奴隷、そして性的搾取、戦時強姦、など-を経験しています。さもなければ、自身の信仰ゆえに、社会の中で自分の場を見つけるのに苦闘し、死に至ることもある様々な迫害に遭います。数多くの若者たちが、強制や選択肢の欠如を通して、犯罪と暴力行為-少年兵、武装強盗、犯罪集団、麻薬取引、テロなど-を働きます。このような暴力は多くの若者たちの人生を破壊します。虐待と依存は、暴力と異常な行為と同じように、少数民族と社会的集団で多い、若者たちを刑務所に入れる原因になっています。このような現状全てが教会に問題として示されています。

    軽視と社会的な不快感

42.世界でさらに頻繁に見られるのは、宗教的、民族的、経済的理由から軽視され、社会的に排除される形で苦しんでいる若者たちです。思い起こしましょう-青年期にある人々が置かれている困難な状況、妊娠と堕胎の苦しみ、HIVの広がり、薬物、博打、ポルノなど様々な厄害への依存、そして、家もなく、家族もなく、経済的な支援もないストリート・チルドレン-特に、若い受刑者たちに注意を払う必要があります。教会は、勇気をもって彼らの側に立ち、彼らに寄り添い、彼らが自身の尊厳と共通善を作る役割を取り戻せるようにすべきなのです。

    苦しみの経験

43.広く言われている決まり文句とは反対に、若者たちの世界は、傷つきやすさ、身体的障害、疾病、そして苦痛を味わった経験に深く汚されています。多くの国で、特に若者たちの間で深刻化しているのは、心理的苦痛、抑圧、精神的病い、そして摂食障害ですーそれは、ひどい不幸や社会の中に自信の場を見つけることができないことと関連しています-自殺という悲劇的な現象も忘れてはなりません。

 このような様々な試練を経験する若者たちは、彼らの家族と共に、キリスト教共同体の支援を頼りにしていますが、そうした共同体が常に彼らを歓迎する態勢が整っているとは限らないのです。

    傷つきやすさの原因

44.これらの状況の多くは”捨てる文化”によって、もたらされます-若者たちはその第一の犠牲者です。にもかかわらず、この”文化”はまた、若者たちを堕落させます。キリスト教共同体とその指導者たちは、私たちの世界を苦しめる人間的、社会的、環境的な退廃の一因になります。

 教会がとるべき対応は、困難な状況にあって自身の姿を示し、転向、連帯、そして刷新された教育的な活動を訴えることです。困難な状況の中で生きる若者たちは、教会共同体と共有する貴重な資源を持っており、私たちに、制約に対抗する自分自身を評価するように教え、人間性を育てるように助けてくれます。創造力に終わりはありませんー創造力をもって、福音の喜びによって動かされる共同体は、沈滞と困難な状況に対する選択肢を提示することができます。そうした方法で、「家を建てる者の捨てた石が、隅の石」(詩編118章22節、ルカ福音書20章17節、使徒言行録4章11節、ペトロの手紙1・2章4節参照)となることができるのです。

 

 第4章 今、若者であること

  現代の若者文化の諸側面

    独創性と特異性

45. 若者の世代の現実への接し方には、いくつかの特徴があります。若者たちは、自分たちの独自性が受け入れられ、尊重されることを求めます。若者文化の最もはっきりした特徴は、意思疎通の他の形に加えて、イメージを好み、現実との接し方で、感性と感情を重視し、論理的な分析よりも具体的で、実際になされていることを優先することです。仲間の集まりに属し、ソーシャルメディアで固まるように、友達関係を作ることがとても重要です。若者たちは一般的に自発的で、多様性に対して開放的で、それが彼らを、平和、包括、そして文化と宗教の対話に対して、注意深くさせています。若者たちが、平和的な共存の視点から、どのようにして文化間、宗教間の出会いと対話の開拓者となるかを知っている、ということを裏付ける事実は、世界の多くの地域で、数多く存在します。

    社会的な関わり

46.前の世代と形は違っても、社会的な関わりは、今日の若い人々のはっきりとした特徴です。何人かは異なりますが、多くの人は社会奉仕の活動、活動的な市民であること、社会連帯に率先して関わっており、また、自分たちの才能、技術、創造性を発揮し、責任を果たすための刺激を得るために、寄り添い、励まされることを必要としています。社会的な関わりと貧しい人々との直接のつながりは、信仰を見出し、強め、そして召命の識別をするための機会として基本的なものであることに、今も変わりはありません。

 環境回勅Laudato si’が強調しているように、現在では、環境問題と成長の持続可能性に、強く広範な関心がもたれています。回勅はまた、若者たちには政治的な分野に関わる用意がある、と指摘しています。それは、共通善と作ること-教会が、形成の機会と識別の場を提供することで対応することがいつもはできなかったこと-です。正義を行うことについて、若者たちは、決然とした、首尾一貫した関わりを示し、世俗的な心理に流されないよう、教会に求めています。

    芸術、音楽、そしてスポーツ

47.  今回のシノドスは、若者たちがあらゆる形の芸術的な表現をすることを知っており、高く評価しています。多くの若い人々がこの分野で神から与えられた才能を生かしています- 美しさ、真実、そして徳を増し、人間性と神との関係を成長させています。多くの若者にとって、芸術的な表現はまた、専門職への召命でもあります。私たちが忘れてならないのは、これまで何世紀にもわたって、”美の道”が信仰を表現し、福音を宣教する特別の道となってきた、ということです。

 音楽は特に重要です。文化と言語が感動と本性を引き出すように、若者が常に身を置く現実の環境を作り出します。音楽的な言語はまた、典礼とその刷新に特に関係をもって、司牧のための資質となります。商業利益とつながった嗜好の標準化は、時として、音楽と典礼の伝統的なつながりの輪を傷つける危険をもたらします。

 同じように重視すべきは、若い人々のスポーツ活動への関心の高さです。スポーツの教育と人間形成に持つ、しっかりとした潜在的な力を、教会は過小評価してはなりません。他方、スポーツの世界には、優勝者の偶像化、商業的利益への従属、どのような犠牲を払っても成功させるというイデオロギーなど問題があり、そうした誘惑に打ち勝つように助けられる必要があります。

   霊性と宗教性

     異なった宗教的環境

48. 若者の宗教的体験は、彼らが生きている社会的、文化的な環境から、強い影響をうけます。国によっては、キリスト教の信仰は、強く、生き生きとした共同体の体験であり、若者たちはその共同体に喜びをもって参加しています。

 古来のキリスト教の伝統をもつ、他の地域では、キリスト教徒の大多数は、教会に所属しているという、現実の感覚の体験がない-それでも、縮小的で息苦しいものの見方に対する反動として宗教的な関心の復活を目指し、少数ではあるが前向きに取り組んでいる人が足りないわけではありません。

 その他の地域では、カトリック信徒は、他のキリスト教諸派の信徒たちと少数派を形成しており、そこでは、時として差別や迫害を経験しています。そしてまた、新たな宗教的な派閥や形態が興っている地域もあります-それに共感する人々の間では、既成宗教のいかなる形にも幻滅し、嫌悪するようになっていることが多く見られます。

 もしも、ある地域で、若者たちが公の場で信仰を表面する機会を持たない、あるいは宗教的自由がないと思った場合、他の地域で、政治的なものも含めて歴史的選択の重さを感じる場合、それは教会への信頼を傷つけます。このような違いの全てを考慮に入れずに、若者の宗教性について語ることはできません。

    宗教的探求

49. 一般的に、若者たちは、自分たちが人生の意味を捜していると言い、霊性に関心を示します。  しかし、このような関心は、時として、生きておられる神の神秘との出会いに心を開くことよりも、心理的に幸せな状態を求める形をとることがあります。特に、文化の中には、多くの人が宗教を個人的問題と見、様々な霊的伝統の中から、自分自身の確信を映していると思う要素を選んでいます。そして、”諸宗混淆”ともいえる現象が広がります-全ての宗教は同じだ、とする相対主義的な考えをもつようになるのです。

  信仰共同体への信奉は、人生の意味をつかむための特段の方法と、誰もが見る、ということはありません。そして、それはイデオロギー、あるいは、物質的な自己充足の見方をもった職業的、経済的な意味での成功崇拝を伴い、時として、それにすり替えられることがあります。にもかかわらず、今でも生きている伝統から受け継がれたある種の慣行-神殿への巡礼など-は時折、とても多くの若い人々を巻き込み、しばしば聖母マリアと諸聖人への奉献ともつながって、人々の宗教体験を保持する役割を果たしているのです。

     イエスとの出会い

50.  同様の多様性は若者とイエスの姿との関係においても見られます。多くの若者は、イエスを救い主で神の子だと認識し、しばしば聖母マリアを通して親近感を持ち、信仰の旅に自分たちを関わらせます。他の若者はイエスと個人的な関係を持たず、彼を良い人、倫理的な基準と考えます。また他の若者は、聖霊との強い体験を通してイエスと出会います。しかし、それ以外の若者たちに取って、イエスは人間的な体験から遠く離れ、自分たちの人生とは何の関係もない、過去の人物です。

 たとえ、多くの若者にとって宗教と教会は無意味なものであっても、魅力的で効果的な方法でイエスが提示された時には、その姿に敏感に反応します。多くの方法で、今の若い人々は私たちに、こう言います-「私たちは、イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ福音書12章21節)、こうして、全ての人の心を特徴づける健全な意味での焦燥感-「霊的な願望のもつ焦燥感、神との出会いを求める焦燥感、愛を求める焦燥感」(聖アウグスチヌス会の大練成会の開会ミサにおける教皇フランシスコの説教-2013年8月28日)-を告白するのです。

     典礼を生きることへの熱意

51.   多くの場面で、若いカトリック信徒たちは、祈りの機会と、新鮮で真正で喜びにあふれた典礼を通して日々の生活に刺激を与えるミサを希望しています。 世界の地域によっては、典礼への参加はキリスト教徒としてのアイデンティティーにとって重要な源であり、参加者も高い水準にあります。若者たちは典礼を、神について、教会共同体と宣教活動の出発点について体験する特別の時、と見ています。それにもかかわらず、至る所で秘跡、日曜のミサが放棄され、復活された主と共同体の喜びにあふれた出会いというよりも、道徳的な訓示を受ける場と受け止められている現実が、一方にあります。一般的に、秘跡についての教えが行われているところでも、祭儀を深く味わい、その象徴と式の神秘的な豊かさに浸るための教えの狙いが達成されていません。

  参加と積極的な活動

     若者たちは積極的な参加を希望している

52.  社会の矛盾に直面して、多くの若い人々が自分たちの才能、技術、創造的な能力の成果を提供したいと希望し、責任を負う用意をしています。彼らが最も好むテーマは、社会的、環境的な持続可能性、さまざまな差別、そして 人種差別です。若者たちのこのような問題への関与は、しばしば全く新しい道をとります。それには、移動と政治的な圧力の見地からデジタル・コミュニケーションの潜在力を利用することも含んでいます-ライフスタイルの拡散と、連帯し、環境への気配りのきいた形での、消費と投資の重要な意味を持つモデル、社会と政治における責任と参加の新しい形、最も弱い人々を助ける福祉の新しい形、などです。

    若者が教会と距離を置く様々な理由

53.   今回のシノドスは、かなりの人数の若者が教会に何も求めていない、ということを知っています。それは、彼らが、自分たちの人生にとって教会は重要でない、とみているからです。中には、一人にしておいてほしい、という者もいますが、それは、教会の存在が煩わしい、腹立たしくさえある、と感じているからです。こうした心情は、必ずしも、無批判や衝動的な侮蔑に起因しているとは限らず、深刻で傾聴すべき理由から生まれていることもあるように見受けられます。それは、(注:世界中の教会で起きている)性的、経済的なスキャンダル)、聖職者による若者の感受性に適切に対応する準備の欠落、説教の準備と神の言葉を説明する際の手抜き、キリスト教共同体で若者たちに与えられる受け身的な役割、教会の、現代社会に向けた教理的、倫理的な立場についての説明の難しさ、などの問題です。

    教会の若い人々

54. 若いカトリック信徒たちは単に、司牧活動の末端を引き受けているだけではありません。彼らは、教会組織の活動するメンバー、主の霊が生き、活動する受洗者たちです。彼らは、教会そのものを豊かにするのを助けています-教会がすることだけではありません。彼らは、教会の現在であり、教会の将来だけではありません。若者は多くの教会活動において主役であり、特に、カテキーシスや典礼奉仕、弱い人たちの世話、貧しい人たちとの奉仕活動などに、幅広く活躍しています。また、教会関係の活動団体、協会、修道会も、若い人々に約束と共同責任をとる機会を提供しています。時として、若者たちの活動可能性は、年配の人々や司牧者たちが抱くある種の権威主義と不信に出会うことがあります-そうした人々は、若者たちの創造的な能力を十分に理解せず、彼らと責任を分かち合うことに悪戦苦闘しているのです。

    教会における女性たち

55.  若者たちは、一般社会と教会において、女性への認識を高め、価値を高めることを強く求めています。多くの女性が教会共同体で欠かすことのできない役割を果たしていますが、政策決定に関与することは、具体的な管理責任を求められない場合でも、しばしば困難です。女性の声や見方が不在である場合、価値のある貢献について識別することができなくなり、議論と教会の運営を貧しいものにします。今回のシノドスは、特に男女の互恵についての人類学的、神学的な省察に基礎を置いて、一人一人が避けがたい変化の緊急性をもっと認識することを勧めます。

    若者の仲間たちに向けた宣教

56. 様々な環境の中で、教会活動と集まりの若者たちのグループがあります。彼らは、率直な生活の証し、わかりやすい言葉、そして友情の真の絆を作る力を通して、仲間たちに福音を伝えることに積極的に関与しています。このような信徒使徒職は、通常の若者司牧によっては伝えることにできない人々に、福音をもたらすのを可能にし、それにかかわる人の信仰を成熟させるのを助けます。

     真の友愛にあふれた教会共同体への熱望

57.  若者は、教会に、 真正で、手本となり、的確な、共同責任をもち、そして文化的にしっかりとした、すぐれた模範を示すように求めます。時として、このような要求は批判のように思われますが、友愛にあふれ、喜んで受け入れ、楽しい、献身的な共同体、預言的に戦う社会正義などに個人的にかかわりを持つ、前向きな形のものであることも、しばしばです。若者が期待するものの中で特に顕著なのは、教会が家父長的でなく、もっと率直な対話の姿勢をとることです。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

58.  「 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ福音書24章27-31節)。

 彼らの話を聴いた後で、主は二人に、鋭く、断固とした、権威のある、変革の言葉を投げかけます。そうして、主は穏やかに、しっかりと、彼らの家に入り、一緒にお泊りになり、命のパンをお分けになります-二人の弟子の目を開くようにする御聖体のサインです。

  新たな過ぎ越し-聖霊降臨

    聖霊の働き

59.   聖霊は、二人の旅人の心に火をつけ、目を開かせ、信仰を目覚めさせます。聖霊は、この世界の創造の初めから、キリストにおいてすべてのものを総括する父のご計画が達成されるように、働いています。いつも、どこにおいても、様々な環境と文化の中で働き、困難や苦痛の最中にあっても、正義の固守、真実の追求、希望を持つ勇気を生み出します。聖パウロは言います-「被造物全体が今に至るまで、共に呻いて」(ローマの信徒への手紙8章22節)いる、と。

 若い人々の心の奥底に見出される、愛に生きることへの熱望と健全な休むことのない動きは、すべての被造物の喜びへの大きな願望の一部をなします。聖霊は、キリストを知らない者も含めて、一人一人の中に、美、善、真理に導くように働かれます。

   聖霊は教会を活性化させる

60.   若者は人生の創意に富んだ、生き生きとした段階にあります。それはイエスご自身が体験され、犠牲としておささげになったものです。第二バチカン公会議の若者たちへのメッセージ(1965年12月7日発表)は、教会を、「始まりを喜び、無条件で自らを捧げ、刷新し、新たな征服へと旅立つ能力」を持つ「世界の真の若者」と規定しました。

 教会がこのような顔を見せることを、若い人々は新鮮さと信仰で助けます。その顔の中に、私たちは「偉大な生きておられる方、永遠に若いキリスト」を見るのです。それは若者のために新しい教会を創ることではありません。新しい聖霊降臨に私たちの心を開き、若者たちとともに、教会の若さを再発見することなのです。

     信者の心の内に働く聖霊

61.   キリスト教徒の召命はキリストに付き従うことー洗礼の水を通して、堅信の秘跡を受け、ミサを通してキリストの体の一部となることです。「聖霊が来られ、水、そして火で、あなたはキリストの体であるパンに焼き上げられるのです」(聖アウグスチヌスの説話227項)。キリスト教徒の入門の過程で、成長と使命のために聖霊を新たに注がれる「聖霊降臨」を信者たちに追体験させるのが、堅信の秘跡です。その秘跡の豊かさを再発見し、一人一人の受洗者の個別の召命とカリスマの神学をもってその輪をつかみ、司牧的見地から示された道を大事にすることが重要です。そうすることで、型通りで、重要性のない儀式ではなくなります。どの召命の過程も、聖霊が指導者として付きます。聖霊は、私たちがその過程をうまく進めるように導いてくれる「内なる教師」なのです。

    神についての真の体験

62.   聖霊における召命の識別の第一の条件は、亡くなり、復活されたキリストへの信仰の真の体験ですー信仰は「私たちの闇のすべてにまき散らされる光ではありません。夜道を案内し、旅の安全を確保するランプです」(教皇フランシスコLumen Fidei」57項)。キリスト教共同体の中で、私たちは、意図しなくても、倫理的、治癒的な”一神教”を推奨する危険を冒します。そのような”一神教”は、福音の光と聖霊の力を受けた神との生き生きした出会い、というよりも、安全と安楽のための人間的な要求に応じるものです。

 人生を通してのみ命が目覚めさせられる、というのが真実だとすれば、若い人々が、キリスト教共同体-聖霊との交わりの中で、私たちを父のところに導いてくださるキリストとの友情に真に根差した共同体-との出会いを必要としているのは明白です。

 

 第1章 若さの賜物

    若者たちの中の若者としてのイエス

      イエスという若者

63.  「若者たちのための若者-若者たちの模範となり、主のために彼らを聖なるものとする」(聖イレナエウス「Adversus Haereses異端駁論)」第2巻22章4節)。キリストは、若者として生きておられたという事実によって若者の時代を聖なるものとされました。聖書には、イエスの少年期についてのエピソードが一つだけ語られています(ルカ福音書2章41-52節)-大げさに騒ぎ立てることもなく、質素に、ナザレの労働環境の中で、「大工」(マルコ福音書6章3節)、「大工の息子」(マタイ福音書13章55節)として知られた存在として、過ごされた、と。

 イエスの人生を沈思することは、若さの賜物を理解するために最適な方法ですーイエスは父を無条件で信頼し、弟子たちとの友情を持ち続け、危機においてさえも彼らに対して誠実であり続けました。最も弱い人々、特に貧しい人、病気の人、罪人、そして社会から疎んじられた人に、深い共感を示されました。当時の宗教指導者や政治権力者たちに立ち向かう勇気をもち、誤解され、否定されることを感じる経験があり、迫害の恐怖を経験され、十字架上の死に至るご自身の脆弱さをご存知でした。未来に瞳を注がれ、聖霊の力の中で、御父の御手にご自身を委ねられました。

 イエスにおいて、全ての若者は、恐れと希望をもって、将来への心もとなさと夢をもって、自分自身を見ることができ、イエスに信頼して、自分たちを委ねることができます。彼らにとって、それは、若者とイエスの出会いを沈思するインスピレーションの源となるでしょう。

      主の凝視をもって

64.   キリストの言葉を聴き、交わることは、人生のこの段階について賢明な理解を育てるために、司牧者と育成者の助けとなります。 今回のシノドスは、若者の生活の中に聖霊の働きのしるしを識別するために、イエスの姿勢をもって彼らを見つめようとしました。私たちは信じています-今日においてさえも、神は、若者たちの苦しみと助けを求める願いとともに、若者を、彼らの創造性と献身を通して、教会に、世界に話しかけます。彼らとともに、私たちは自分の時代をもっと預言的に読み取り、時のしるしを認識します。それゆえ、若者たちは、主が明日を創る期待と課題を語る「神学的な活動の場」の一つなのです。

      若さの特質

65. 若さは、個人の人格の成長の一段階として、次のようなことによって特徴づけられます。それは、推進力を一つに集める夢、一貫性とバランスを増長させる人との関係、試行と実験、そして人生の計画を徐々に作り上げる選択、です。

 この段階で、若者たちは、自分のルーツから自身を切り離さずに、ただ一人ではない形で、自立するために、前進することを求められています。社会的、経済的、文化的な環境は、いつも好ましい条件をもたらすとは限りません。多くの若い聖人たちは、若さの特徴が、彼らの素晴らしさの中で、自分たちが変革の真の預言者である日に、光を放つようにするのです。彼らの模範は、若者たちがキリストとの出会いに身をゆだねる時、若者たちができることを知らせます。

 病によって特徴づけられるハンディを持った若い人々も、価値のある貢献をすることができます。今回のシノドスは、彼らが主役となることを理解し、認める活動の場を作るように促します。たとえば、耳の不自由な人のための手話を使って、彼らに合うように工夫された要理講座のプログラム、社会経験と勤労経験を語るような場、です。

      若者たちの”健全な落ち着きのなさ”

66.   若者たちは、落ち着きのなさを経験しています。それは何よりも、彼らの自由と責任への全幅の信頼をもって、受け入れ、敬意を払い、寄り添うべきものです。教会は経験から、彼らの貢献が刷新のために欠かせないことを知っています。若い人々は、いくつかの点で、彼らの司牧者の先を行く可能性があります。

 イエスが復活された朝、彼の愛する若い弟子は、ぺトロより先に墓につきましたーペトロは年を取っており、イエスを裏切ったことで意思消沈していたのです(ヨハネ福音書20章1-10節参照)。同じように、キリスト教共同体で、若々しい躍動は教会にとっての刷新のエネルギーです。

 なぜなら、それが、教会を萎えさせているいかなるものの振り払い、立ち直り、復活された主に心を開くように、助けるからです。同時に、イエスに愛された弟子の振る舞いは、年長者の経験に通じていること、司牧者の役割を認識し、一人で前に進もうとしないこと、の重要性を示しています。ですから、歌声のシンフォニーは、聖霊の果実なのです。

      傷を負った若い人々

67.   若者たちは、ほかの人々と同じように、傷を負っています。それは、自分が被った敗北の傷、差別と不正な扱いを受けた傷、愛されている、認められていると感じない傷、です。身体的な傷と精神的な傷があります。キリストは、受難と死という苦しみに耐える運命を受け入れられ、その十字架を通して、苦しんでいるすべての若い人々のそばに来られます。

 道義的な傷もありますー過ちの重圧、間違ったことをしたことへの罪の意識です。今日では、傷と折り合いをつけることが、よい人生のための必要条件に、従来以上になっています。教会は、試練に遭っている若者たちすべてを、支援するように、そして必要とされるいかなる司牧的な活動を進めるように求められています。

   大人になること

      選択の年齢

68.   若さは、やがて終わりを迎え、大人の人生に道を開ける人生の一つの時間です。大人の人生への移行は自動的になされるのではなく、成熟の旅を意味し、若い人々が過ごす環境に、いつも助けられるとは限りません。青年期の定まりのない延長と決断の延期を好む”暫定の文化”が、世界の多くの地域に広がっています。決断することの恐れは、政策決定をある種の麻痺を引き起こします。

 しかし、若さは、じっとしていることができません。それは、選択の年齢であり、魅惑にあふれるとともに、大きな責任を伴う時期でもあります。若い人々は、職業的、社会的、そして政治的な分野などで、急進的なやり方で、自分の人生を方向付ける決断をします。そのため、これをより正確には「人生の選択」と言うことができます。若い人の繰り返すことのできない唯一つの人生が、最終的に方向付けられるのです。

       派遣のしるしのもとにある人生  

69. 教皇フランシスコは、福音宣教を視野に入れて自分たちの人生を俯瞰することを、若い人々に勧めます。「私たちは人生で『自分は誰なのか?』と頻繁に自問して時を浪費します。生きている間中、『自分は誰なのか?』と問い続けることはありえます。しかし、本当の問いは『誰のために、自分はあるのか?』なのです」(2017年4月8日、サンタマリア・マジョーレ大聖堂での世界青年の日の準備のための祈りの集いで)。

 この言葉は、人生の選択に意義深い光を投げかけます。なぜなら、自己奉献の解放された視野で人生の選択をするように、私たちに勧めるからです。これが、真の、永続する幸せに達する唯一の道なのです!「私にとっての、民のただ中での福音宣教とは、生活の一部分でも、取り外せる装飾品でもなく、人生の中の付録でも、ちょっとした時間のことでもありません。それは、私という存在から、それこそ自己破壊をしない限り私はこの地上に派遣されているのです。そのために、私はこの世にあるのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」273項).

      対話を可能にする教授法

70.  福音宣教は人生の旅の 確かな目標ですが、前もってこれからの進路全てを示す”衛星航法システム”ではありません。自由であることは、必然的にリスクを伴います-”漸進の法”に従って、勇気をもって価値を計り、賢明に付き添われる必要があります。

  福音書は、多くのページをイエスの私たちへの勧めに当てています-自分の十字架を背負うように、という求め(マタイ福音書16章24節参照)を隠さず、勇気を持つように、深みに入るように、寛大で無条件の賜物である戒めに従う論理から離れるように、と。

 イエスは急進的な方です。「イエスはすべてをお与えになり、すべてをお求めになります-すべての愛をお与えになりれ、専心をお求めになります」(2018年10月14日の教皇フランシスコの説教)。最小限主義者の提案で若者たちをミスリードせず、キリスト教に矮小化された、教訓的なイメージを与えるようなルールの山で若者たちを圧倒せずに、私たちは「過ち、失敗、そして危機は、彼らの人間性を強くできる経験だという確かな知識のもとに、彼らの恐れを知らない強さに投資し、責任を引き受けるように教育する」ように求められています。

      権威の本当の意味

71.   成熟の真の旅に着手するために、若者たちは権威のある大人たちを必要とします。(注:ラテン語の)auctoritas(権威)は語源的に「成長させる能力」を意味します-支配する力ではなく、真にものを生み出す力です。イエスが若者たちと出会ったとき、彼らがどのような状態、身分であろうと、たとえ死んでいても、何とかしようとして、彼らに言いました-「起きなさい!成長しなさい!」。そしてイエスの言葉は、おっしゃったことを実現しました(マルコ福音書5章41節、ルカ福音書7章14節参照)。汚れた霊に取りつかれた子を癒すエピソード(マルコ福音書9章14-29節)-これは、今の若い人々にたくさんの形の違和感を与えますが-はっきりしていると思われるのは、イエスが手を伸べたのは、自由を奪うためではなく、自由を働かせるためだった、ということです。イエスはご自分の権威を十分に使われます-若者の成長以外に何ものも望まれず、支配欲、小細工、あるいは誘惑は、痕跡もありません。

      家族の絆

72.   家族は第一の信仰共同体ですーその制約と不完全さにもかかわらず、若者はそこで神の愛を経験し、召命の識別を始めます。今回の前に二回連続して開かれたシノドスとその議論から生まれた使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」が繰り返し強調したのは、「家庭の教会」としての家族の働きは、日々の生活の中で福音の喜びを生き、自分たちの置かれた環境に従って、家族の全てのメンバーがそのように生きるようにし、召命と派遣に心を開き続ける、ということです。

 しかし、家族は、子供たちに召命のレンズを通して未来を考えるように、いつも教えるとは限りません。時として、社会的な地位と個人的な成功への強い願望、両親の野心、あるいは、子供たちの選択を規定してしまう傾向が、識別の余地と決断する条件を少しも残さないことにつながります。今回のシノドスは、召命としての人生について明確な理解に達するように、家族を助ける必要があることを認識します。青年期のイエスについての福音書の記述(ルカ福音書2章41-52節)-両親に従うが、天の父の用事で彼らから離れることができるーは、福音書の見地から家族の関係をどのように解釈するかの問いに、価値のある光を注ぐことが可能です。

   自由への呼びかけ

     自由の福音

73.  自由は、一人一人の真の人生の選択に欠かすことのできない条件です。ただ、不十分な説明がしばしばされるために、誤解されるリスクがあります。教会それ自身が、規則、禁止、義務などを課す施設としての印象を、多くの若い人々に与えます。でも、キリストは「自由を得させるために、私たちを解放」(ガラテヤの信徒への手紙)し、律法による統治から聖霊の統治へと私たちを導かれました。福音の光の中で、自由が不可欠な相関関係にあるのをより明確に知るため、そして、他者との真の出会いに向かうように導く限りにおいて、情熱と感情は重要だと示すための、自由は助けになります。

 このような見方は、「本当の自由は、『真理』(ヨハネ福音書8章31-32節参照)、そして何よりも『(注:キリストが説かれた)愛』(コリントの信徒への手紙1・13章1‐13節、ガラテヤの信徒への手紙5章13節参照)との関連で理解し、受け入れることができる」ということをはっきりと示します-自由は、それ自体が他者の心の中にあるのです。

     responsorial(答唱的な)自由

74.   兄弟愛と連帯‐特に最も低い人との-の生きた経験を通して、若い人々は「真の自由は受け入れられたと感じることからくる」「ほかの人たちのための場を確保すれば確保するほど、自由は大きくなる」ということを学びます。簡素な生活に傾倒する、あるいは環境を大事にする時、彼らは同様の経験をします。互いに認め合い、責任を分かち合うことを経験する時、彼らは自分たちの心の中に、神からくる愛を沈黙のうちに願っているのを発見します。

 このことは超越した次元-自由の中心にあり、誕生、死、友情と愛、罪と赦しという最も強烈な人生経験を通してもたらされるもの-を認識しやすくします。これらは、自由の本質は完全に”答唱”的である、と私たちが知るのを助ける経験なのです。

     自由と信仰

75.  今から50年以上前に、聖パウロ六世は「救いの対話」という表現を初めてお使いになり、御子のこの世における使命を「愛のアピール」という言葉で表されました。そして、私たちは「それに応えるのも、拒むのも自由」(回勅『エクレジアム・スアム(Ecclesiam suam)』75項参照)だ、と付け加えられました。この見方から、個人的な信仰の行為は、自由で解放されたものと思われます。それは、信仰の中身を徐々に充当していくための出発点となるでしょう。

 ですから、信仰は、外から自由へ付け加えられる要素ではなく、真、善、美への良心の願望を満たし、イエスにおいてそれらを再発見するものなのです。過去と現在のとても多くの若い殉教者の証言は-今回のシノドスに強く響き渡りましたが-この世の諸々の権力に直面して、その不正に、場合によっては死にさえも直面して、信仰が私たちを自由にすることの、最も説得力のある保証なのです。                   

     傷つき、あがなわれた自由

76.人間の自由は、個人的な罪による、そして貪欲による傷で、脅かされています。しかし、赦しと慈しみを経験することによって、人々は自分たちを拘禁している障害物を知るようになります。成熟し、決定的な人生の選択において、より大きな(注:雑念のない)透明性をもって決心することが可能になります。教育的な見地から、誤ちや失敗、あるいは屈辱に直面した若い人々が落胆しないように、助けることが重要です。なぜなら、それらが、さらに成熟した自由への旅-その素晴らしさと弱さを知ること-に欠かせない部分を形成するからです。

 しかし、悪は、最終的な決定権をもつものではありません-「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3章16節)からです。神は最後まで私たちを愛され、そうして、私たちの自由を身代金を払ってでも取り戻されます。私たちのために十字架に付けられて亡くなられ、聖霊を注がれ、そして「主の霊のあるところに自由がある」(コリントの信徒への手紙2・3章17節)のです-それは、新たな自由、過ぎ越しの自由、日々の自己の賜物で満たされるもの、なのです。

(以下、翻訳・岡山康子)

  第2章 召命の神秘

  召命の探求

   召命、旅、そして発見

77.サムエル記(同3章1-21節参照)を読むと、識別するための基本的な要素が何であるかがわかります。神が導かれることをよく聞き、認識する、個人的な経験、理解を徐々に深め忍耐強く、丁寧に、神秘を伴って、共同体への使命、であることがはっきりしてくるのです。サムエルは召命を引き受けねばならない運命を決して負わされたのではなく、日々の相互信頼の中での愛の提案、宣教への派遣です。

 若いサムエル同様、男女問わずすべての人間にとって、召命には、特に選別された、という瞬間がある一方、長い旅路が求められます。主の言葉は理解し、解釈するのに時間がかかります。託された使命は、徐々に明らかになるのです。若者は次第に自己を発見していく冒険に魅了され、様々な活動や、出会いや、人との関係から意欲的に学び、日々の生活の中で自分を試していくのです。

 ですが、いろいろな体験をつなぎ合わせ、軌道からそれる危険を克服し、神が示されるサインを認識しながら、信仰の観点から読み取るためには、助けが必要です。召命は、一度には明確になりません。それは、「信仰は旅する範囲でしか、神の言葉によって開かれた地平の向こうに行くことを選んだ範囲でしか、見えない」(教皇フランシスコ回勅「 Lumen Fidei(信仰の光)」9項)からです。

  召命、恵みと自由

78.何世紀もの間、召命の神秘の神学的理解の力点は、そのテーマが作り出された時点の社会、宣教の文脈によって、異なってきました。どの様な場合にも、「召命」という言葉の類似的な性格は、その時々の現実の様々な局面と同様に、認める必要があります。

 これは、時として、全体像の持つ複雑さに常に適切に対応するとは限らないやり方で、個人的な側面を強調してきました。ですから、究極の源が神にある「召命の神秘」を深く取り込むためには、想像力と宗教的言語を純化し、聖書の物語の豊かさと調和を再発見せねばなりません。

 特に、神の選択と人間の自由の相互作用について、あらゆる決定論、あらゆる外在論と切り離して、よく考えることが必要です。召命は、人間がただ復唱するだけの、前もって書かれた台本でもなければ、台本なしのアドリブでもありません。神は私たちを「友」と呼ばれ、「僕」ではない(ヨハネ福音書15章13節参照)のですから、私たちの選択は、神の愛の計画の歴史的な展開に真に貢献するのです。

 一方、救済は、私たちを無限に超えた神秘-ですから、主のなさることに耳を傾けることによってのみ、救済において私たちが果たすように呼ばれている役割を知るのです。この見地から分かることは、召命は真の恩寵の賜物であり、契約の賜物―「私たちの自由」という、最も美しく最も貴重な秘密の宝-なのです。

  創造と召命

79.聖書は「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロサイの信徒への手紙1章16節)と言明し、「召命の神秘」を神の創造そのものに満ちた現実として読み取るよう、私たちに指示しています。

 神は言葉によって創造されたー言葉は存在を呼び寄せ、命を呼び寄せ-そして、闇と混沌の中から、様々な特徴づけを行い、秩序の美と多様性の中の調和を宇宙に刻み込まれました。

 聖パウロ6世教皇は「すべての命は召命である」(回勅「Populorum Progressio(人類の進歩)15項)と言われ、ベネディクト16世教皇は「人間は対話する存在として創造された」と付け加えられました-創造の御言葉は、私たち一人ひとりを個人的に呼ばれ、生命そのものが神からの召命だ、ということ示された」(使徒的勧告「Verbum Domini(主のことば)」77項)と。

  召命としての文化に向かって

80.召命という言葉で人生について語ることは、私たちに、若者の成長にとって大変重要な要素に光を当てることを可能にします-それは、「召命は、運命で決められたり、偶然の産物だったりするものだ」という見方を排除し、そうではなく、自らの意思で苦労して求めるべき「私的財」だ、ということを意味します。

 第一のケースで、存在することの価値のある目的が分からないために、召命がないなら、第二のケースで「根無し」と考えられる人間は、「召命を持たない」ということになります。これが、信徒たちの洗礼の自覚を基礎に作られた全てのカトリック共同体社会が「真の召命の文化と召命のために常に祈る責任を育てることができるようにする環境」を作り上げることが重要だ、という理由です。

 イエスに従う召命

  イエスの魅力

81.多くの若者たちは、イエスの姿に惹きつけられます。若者たちにとって、イエスの生き方は善良で美しく思えます。なぜなら貧しく簡素、誠実で深い友情の上に成り立ち、信仰仲間に寛容で誰にも閉ざさず、常に誰に対しても賜物を与えてくださるからです。今日でも、イエスの生活は魅力的であり、感動的で、すべての若者を駆り立てる挑戦なのです。「新しいアダムであるキリストは、父なる神とその愛の神秘の啓示によって、完全に人間となり、その究極の召命をはっきりと示されたのです」(現代世界憲章22)。

  信仰、召命、と弟子たち

82. 実際、イエスは、彼の生き方をもって人々を惹きつけただけでなく、はっきりと信仰への呼びかけをされました。イエスの言葉と行動の中に、神のことを正しく話し、神との関係を正しく述べている。と認めた男女と出会い、彼らを救済へ導く信仰へと向かわせました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」(ルカ福音書8章48節)。

 また彼に出会ったある者たちは、彼の弟子となり証人となるよう、呼びかけられました。イエスに従う人々の中には、常にいろいろな種類の弟子がいました。弟子のほとんどは、日々の生活を共にする中で信仰生活を送りました。また、婦人たちを含め、イエスと共に旅をしながら福音を伝える人々もいました。(ルカ福音書8章1~3節) 当初から、弟子たちは、その集団の中で、それぞれの役割を果たし、イエスの導きと説教の奉仕にかかわりました。

  聖母マリア

83. 召命の神秘を描く聖書に出てくる人物の中で、特に聖母マリアについて思いを巡らすべきでしょう。この乙女の「はい」という受け入れによって、受肉が可能となり、それによって、ほかのすべての教会の使命、聖職が生まれたのです。ですから、聖母はイエスの最初の弟子であり、すべての弟子のモデルなのです。

 信仰を共にして旅しながら、聖母マリアは十字架の足元にまで御子に従い、キリストの復活の後は、初期教会の聖霊降臨に加わりました。母として、そして慈悲深い教師として、教会に寄り添い、あらゆる召命に命を与える聖霊に懇願し、祈り続けました。

 ですから、明らかに「Marian principle」は、抜きんでた役割を持ち、そのあらゆる明示の中で(いろいろなご出現で)教会の全生命を照らしています。聖母と並んで、その配偶者ヨゼフの姿は、召命に対する答えのもう一つのモデルとなっています。

  召命、さまざまな職業

   召命と教会の使命

84. 私たちは、洗礼とは誰にとっても例外なく神聖への招きであることを思い出さないなら、洗礼による召命の重要性を完全に理解することはできません。この呼びかけは必ず教会の使命を分かち合うことに招かれている、という意味です。

 教会の使命の基本的な目的とは神との親交、そして全ての人々の間の親交です。教会の使命は多様で、それぞれが繋がっており、それを通して、教会は、その使命が、「兄弟としての共同体の中で受け取った福音の本当の現れ」であることを理解するのです。キリストに従うそれぞれの異なるやり方は、各自が自分のやり方でイエスの出来事を証明する使命があることを表しており、その中で全ての人が救済をみつけるのです。

   さまざまなカリスマ

85.聖パウロはその手紙の中で、何度もこの度テーマについて書いています。教会のイメージを体にたとえ、体はさまざまな部分で成り立っていて、どの部分もそれぞれ必要で、同時に体全体の一部であるので、全体が一つになってはじめて、体が生きて調和がとれると強調しています。聖パウロはこの(注:キリストにおける)交わりの源は、至上の三位一体の神秘であるとしています。「賜物には様々なものがありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めはさまざまありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きはさまざまありますが、「すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリントの信徒への手紙12章4~6節参照)。

 第2バチカン公会議と、それを受けた教導職(注:教皇)は、聖霊が、常に教会の中で働いて、教会を元気に若返らせるよう、恩寵の賜物を認めて、受け入れ、知識をもって、その重要性を評価するように、教会のカリスマと聖職者たちの正しい神学を詳しく述べるために役立つ指摘をしています。

   職業と召命

86. 多くの若者が、召命という視野をもって、職業に従事しています。しばしば、魅力的ではあっても、キリスト教的価値観と合わないオファーを拒絶し、神の王国への奉仕に実を結ぶよう、彼らの個人的才能をどう使うのが一番良いか問いかけながら、職業を選択します。仕事は、多くの人にとって、自分たちがいただいた賜物を認めて大切にする機会であると考えられています。このようにして、人々は男女とも、創造、贖い,聖別の三位一体の神秘に積極的に参加するのです。

   家庭

87. 最近の家庭に関する2度にわたるシノドスの後に出された使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」は、「教会の中で、家庭の召命は、豊かな貢献です」と述べ、家族が、お互いの愛と、子供たちを産み、教育することを通じて、福音の信仰の証しとなるよう招かれている、という極めて重要な貢献だ、としています。この使徒的勧告に書かれた「豊かさ」について話すことで、今日の若者たちが、結婚の使命の美しさを再発見し、理解するのを助けるために、再びそのメッセージを取り上げることが、いかに重要かを思い起こさせてくれます。

  聖職者としての生活

88. 聖職者となる賜物は、修道士にせよ、司祭にせよ、教会の中の聖霊の働きによるもので、特別な使徒的価値を持ち、無償の愛の喜びに満ちた信仰の証しとなります。信仰共同体や、新しく創設された団体で、(キリストの)同胞としての生活を忠実に正しく生きるなら、それはキリストの信仰の仲間としての一派となり、祈りと黙想のセンターとなり、世代や文化を超えた対話の証しの場となり、福音伝道と慈善のための舞台となるのです。

 世界の周辺地域の、最も貧しい人々の世話をし、助けている多くの聖職者の男女の布教活動は、「外に向いた教会の献身的な姿」を具体的な形で証しています。いくつかの地域で、人数の減少や、高齢化による疲れを経験しても、とくに、その精神と、いろいろなカリスマのミッションを多くの信徒たちと分かち合い、協力して責任を果たすことによって、聖職者としての生活を実り豊かに創造的に続けることができます。教会と世界は、この召命の賜物なしにはあり得ず、それが私たちの人生の(時代の)大きな資産なのです。

   叙任された聖職者の職務

 司祭叙階は、教会である証しの構成要素であり、キリスト教徒の人生に必要、という認識のもとに、教会には常に聖職者への特別の召命があります。それ故、教会は常に司祭志願者の育成と随伴に特別に力を入れてきました。

 しかし、多くの教会で志願者の数が減っていることから、司祭の召命、人々の牧者となるようにというイエスの呼びかけに応える司牧者の召命について、新たな考察が必要になっています。同様に、終身助祭への召命が大きな注目を集めています。なぜなら、その豊かな可能性についてはまだ手が付けられていないからです。

  「独身」という状況

90. 今回のシノドスでは、「独身者」として生きる人々の状況についても考察しましたが、この言葉が実に多様な状況を指し示すことを認めています。結婚しない状況にはあらゆる原因があり、進んで独身の道を選ぶ人もいれば、不本意ながらの人もおり、文化的、宗教的、社会的要因によることも、あり得えます。ですから、非常に幅広い人生の選択肢があることが指摘できます。教会は、このような状況にあっても信仰と賜物のうちに生きるなら、洗礼の恩寵を受け、招かれている神聖さへ向かって進む、多くの道のうちの一つになり得ることを認識しています。

 第3章 寄り添う福音宣教

   寄り添う教会

    選択に直面して

91. 現代社会は、明らかに今まで以上に多元的で選択の可能性が広く、特にますます直線的には行かなくなり、非常に不安的な人生の旅路に直面した時には、選択のテーマにはいろいろなレベルで独自の力が加わってきます。若者は、しばしば規制のない激しい競争の体制の中で、自分を「あらかじめ定められ、変えることのできない冷酷な運命の奴隷」と考えたり、「優秀」という抽象的な理想に苦しめられたり、無邪気な分だけ、アプローチの仕方が揺れ動きます。

 それ故、妥当で、安定した、基礎のしっかりした選択をするために、彼らに寄り添うことが、広く必要とされるのです。正しい選択に向かっての旅路で、彼らの側にいて、支え、寄り添うことは、教会が母としての機能を果たす一つの道であり、それが神の子供たちに自由をもたらします。この種の仕事は、イエス・キリストの神が人々に対してなさったやり方の続きです。常に心から深く、側にいて、ひたむきで愛情に満ちた親密さで、限りないやさしさをもって寄り添うのです。

     共にパンを裂く

92. エマオに向かう弟子たちのエピソードが示すように、寄り添うためには、大切な関係を結びながら、共に道を歩む必要があります。「accompany(寄り添う)」という言葉の語源は、「裂いて分けられたパン(cum pane)」で、このエピソードが象徴する「人間と聖体の恵みの豊かさ」を表しています。

 ですから、「寄り添う」というテーマは、(信仰の)共同体全体に及ぶものなのです。そのテーマのもとに、旅路にある人に「何を参考にしたらいいか」を教え、進路指導をして支えることができる-そのような関係性のドラマを(信仰の)共同体が展開するからです。大人の生活に向かって、人間としてキリスト教徒としても成長するよう寄り添うことは、その共同体が復活し、世の中を新しくできることを示す方法の一つなのです。

 聖体拝領は、キリストの死と復活の出来事の生きた記念であり、与えられた使命を果たすための福音宣教と信仰伝達の特別な空間です。聖体祭儀の集まりでは、イエスに個人的に触れられ、教えを受け、癒されるという経験が、それぞれの人の個人の成長への旅路に寄り添うのです。

     いろいろな環境での役割

93. 寄り添う役割を求められているのは、家族だけでなく、若者たちの生活のさまざまな場面で重要な役割を果たす人々ー教育担当、指導担当、訓練担当、そのほか専門家も含めた関係者ーです。司祭や男女の修道者たちが、それを独占してはいませんが、彼らの召命からくる、あるいは、今回の会議に参加した若者たちが多くの若者たちを代弁する形で再認識をもとめる特定の役割があります。いくつかの教会の体験では、カテキスタの役割を高めて、キリスト教共同体とそのメンバーのために寄り添う役割を与えているところもあります。

     社会人になる過程での寄り添い

94. 寄り添いは、霊的成長やキリスト教徒としての生活の実践に限りません。社会の中で徐々に責任を引き受ける過程、たとえば専門的な分野や社会政治への関わりにおいても、寄り添いは有益です。この意味で、今回のシノドスは「教会による社会教育の重要さ」を指摘しています。今までにないほど文化間、宗教間の関わりのある社会と信仰共同体の中で、自分の殻と相対主義に引き籠る二重の誘惑に負けないためにも、「お互いを豊かにし、友愛の交わりへの可能性を確かめる、多様性をもつ関係に特別に重視」した寄り添いが、必要とされているのです。

    グループと個人についての信仰共同体の寄り添い

      実りある緊張

95. 個人的な寄り添いと信仰の共同体の寄り添いの間には、固有の補完性があります。あらゆる霊性と教会の感性は、それぞれの方法で繋がって補いあうことが求められています。特に、基本的な人生の選択についての識別、あるいはきわどい時期の折衝のような、特に微妙な時には、直接、個人的に寄り添うことが特に役に立ちます。それだけでなく、日々の生活で神との関係を深める方法としても重要です。神学校の生徒や、若い司祭、育成中の修道士や修道女に個人的に寄り添うことの重要性は強調せねばなりません。結婚準備中の男女や、秘跡を受けて間がない人、求道者から霊感を引き出す時も同様です。

      信仰の共同体の寄り添いと、グループでの寄り添い

96. イエスは、弟子たちの集団と生活を共にし、寄り添われました。共同体の経験は、各個人の長所と限界に光を当て、私たちが「共通のものとして受け取った賜物を分かち合わなければ、主に従うことはできない」と謙虚に認めるのを助けてくれます。

 こうした慣行は、今日の教会でも続いています。若者たちは、さまざまなグループ、活動や団体に参加し、そこで、温かく迎えられ、彼らの望む強い人間関係を経験します。このような組織への参加は、キリスト教徒としての入門の旅が終わった段階で特に重要です。なぜなら、若者たちに、キリスト教徒としての召命を成熟させる機会を与えるからです。こうした環境の中で、適切な寄り添いを保証するために、司牧者は存在感を示さねばなりません。これらのグループで、教育担当者、指導担当者は、寄り添いの観点から拠りどころとなり、彼らの間で育まれるむ友情は、仲間同士の寄り添いの基礎となります。

      個人的な霊的寄り添い

97. 霊的な寄り添いは、主なるキリストに従うために、人々が彼らの生活のあらゆる側面を一歩一歩統合してゆくのを助けるためのものです。この過程には三つの要素があります。生活について、イエスとの出会い、そして、神の自由と個人の自由で交わされる神秘的な対話を聴くことです。寄り添う人々は、適切に質問し、若者の答えの中に聖霊の働きがあることが認められるように、喜んで忍耐強く寄り添わねばなりません。

 個人的な霊的寄り添いの中で、人は毎日の生活の中で聖霊の促しを聴いて、信仰の全体像の中から識別し、解釈し、選択することを学びます(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」169-173項参照)。霊的寄り添いのカリスマは、今も昔も、必ずしも叙階司祭でなければならないということはありません。今日ほど、知的な準備よりも、深い経験と人間性を備えた父親や母親、霊的指導者が必要とされている時はありません。この分野で、シノドスは、特に女性や、よく訓練された老若男女の一般信徒たちの中からこの役割を担う大きな人的資源を再発見したいと切に望んでいるのです。

      寄り添いと赦しの秘跡

98. 赦しの秘跡は、信仰生活の中で、限界や弱さだけでなく、罪によって怯む時、私たちを助けて前に進ませるために重要な役割をします。贖罪司祭と霊的寄り添いは、はっきりと区別されねばなりません。なぜなら、形も目的も異なるからです。健全で賢明な段階的な悔い改めの道が司牧的に求められます。そこには、若者たちが道徳的生活を読み取ることを助け、罪に対する正しい判断力を身につけさせ、とりわけ、自らを喜んで赦しの慈悲に委ねることができるように、助けることのできる育てる人々が必要です。

      統合的な寄り添い

99. 今回のシノドスは、霊的側面が、人間的、社会的側面とうまく統合されるような統合的寄り添いを促進する必要を認識しています。教皇フランシスコは「霊的識別は、人間科学から引き出された存在的、心理学的、社会学的、道徳的見識を考慮に入れないものではありません。それは、それらを考慮に入れると同時に、それらを超越するものなのです」(使徒的勧告「喜びなさい、大いに喜びなさい」170項)と説明されています。それは、異なる霊性や文化を尊重しつつ、排除することも混乱することもなく、これらの要素をダイナミックに取り入れることなのです。

 心理学的、あるいは心理療法的寄り添いは、超越的なものに開かれている限り、人格的な統合の旅にとって、基本的なこととなり得ます。そして、(聖職者としての)職業上の成長の可能性に、閉じられていたり、ブロックされていた人格的側面を再び開くことを可能にします。

 若者たちは、何の隠し立てもない、豊かさと壊れやすさをもって生きています。心理学的な助けがあれば、彼らが個人的な歴史を辛抱強く追体験するのを助けるだけでなく、もっと感情的に安定した心の平静に達するのを助ることができるのです。

      叙階司祭の養成と神に捧げる生活の期間の寄り添い

100. 若者たちが司祭養成の家や神学校に入った時、彼らが共同体に深く根を降ろしていけるか、同僚との友情関係が安定しているか、勉強や仕事に取り組んでいけるか、貧しさや苦難と向き合っていけか、確かめることが大切です。

 霊的寄り添いは祈りと内面を見つめることから始めることが不可欠で、特に、自制心や禁欲という面で自分自身の生活を識別することを学びます。「天の国のために結婚しないこと(マタイ福音書19章12節)は、自由、喜び、無償の奉仕、謙遜の証であり、正しいと証明される賜物として、志願あるいは最初の誓願をして受け入れられる前に理解されねばなりません。心理学は、情緒的成長と人格の統合を助けるためのものと理解されるべきで、職業的倫理に従って、育成中の者たちの実際的自由を尊重して使われるべきものです。

 神学校長や司祭養成の責任を負うものは誰も、「養成の旅を統合し、現実の識別に到達し、養成にかかわるすべての人々と相談し、養成の過程を中止して別の召命の道へ進ませるよう導くべきか決定する」という大変重要な役割をもちます。一旦最初の養成の段階が終わると、次の養成の段階へと、特に若い司祭と聖職にある男女に寄り添う必要があります。

 彼らはしばしば、難問と、あまりにも大きすぎるほどの責任に直面しなければなりません。彼らに寄り添う仕事は、しかるべく委託された人たちの肩にかかってくるだけでなく、個人的に司教や上長たちによって行われなければなりません。

    良い寄り添い役

     寄り添うための召命

101. 若者たちに、よく、寄り添う役目の人に必要な資質を説明してくれるよう求められます。寄り添いの仕事は、真の福音宣教であり、寄り添う側に使徒のような、また使徒の教えを伝えられる資質が、要求されます。

 助祭フィリポのように、寄り添い役は、聖霊の呼びかけに従い、キリスト教共同体の象徴であるエルサレムの壁に閉ざされた安全な場所から外に出て、おそらく危険な、人気のない、さみしい場所に向けて出発し、そこで馬車を追うのです。

 馬車に追いつき、異邦人の旅人に出会い、彼は、おそらくは自発的に、予想もしなかった質問を引き出すために、異邦人の旅人との人間的関係を築く方法を見つけねばならないのです(使徒言行録8章26-40節)。要するに、寄り添うためには、「主の聖霊の意のままに、寄り添われる人のために使われるように、我が身を差し出し、謙遜のうちに道を譲る勇気」を持たねばならないのです。

     寄り添い役の人物像

102. 良い寄り添い役とは、バランスがとれ、よく傾聴し、信仰深い祈りの人で、自分の弱さも短所も分かっている人です。それ故、教訓的になったり、甘やかしたりせずに、寄り添う相手の若者の受け入れ方を知っています。必要な時には、兄弟のような叱り方も知っています。

 「寄り添いとは、深い霊的な根付きを必要とする使命だ」という意識があれば、寄り添う若者との関係で、彼らにとって束縛されない助けとなります。すなわち、寄り添う側の意思や選択を押し付けることなく、祈りで支え、自分に心を開いてくれた若者たちの中に、聖霊が与える実りに満足感を得ながら、彼らの旅の結果に敬意を払います。

 さらに、自分が中心的役割を演じたり、相手の中に自主性よりも依存心を生み出してしまう、支配的で操作的な態度をとったりせず、彼らのために奉仕する立場に自分を置きます。この相手への深い敬意は、支配的になったり、虐待やその他あらゆる危険に陥らないための、最大の保証となるのです。

     育成の重要性

103. 寄り添い役はこの役割を果たすために、自分自身の霊的生活を涵養し、この使命をお与えになった神と自分をつなぐ絆を育てる必要があるでしょう。同時に、自分の属する教会共同体の支えも、感じる必要があります。この特別な奉仕のための効果的な養成を受け、自分も、この寄り添って見守る仕事から恩恵を受けられることが重要です。

 注目すべき点は、私たちの「教会である」ことの様々な特質の中で、若者たちが特にその価値を認めるのは、力を合わせて働く用意と能力があることです。このようにして、若者の育成は、もっと重要で、効果的で、機敏なものとなります。力を合わせて働くのに求められる技量には、具体的な関係における徳を養うことが含まれます。それは、相手の話を聴く訓練、相手が自由にできる余地を残す包容力、相手を赦す用意、共同体の真の霊性に従って率直に話をする前向きの姿勢、です。

 第4章 識別のわざ

    識別の場としての教会

     様々な霊的伝統がもつ意味のきらびやかな集まり

104. 召命としての寄り添いは、選択することをを求められた人の側の識別の過程の重要な局面です。「識別」という言葉は、互いに関連はあるものの、いろいろな意味でつかわれます。最も一般的な意味では、識別とは、重要な決定をする過程を意味します。

 二番目ですが、更に重要な意味は、典型的なキリスト教の伝統と我々の目的に関連して、特定の状況で、人や、グループや信仰集団が神の意志を認識し、それに従おうとするための霊的原動力のことを意味します。「すべてを吟味して、よいものを大事にしなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一5章21節)聖霊の声を認識し、聖霊の求めを受け入れようとすることに関する限り、識別とは、イエスの生活態度の極めて重要な特徴であり、特別な行為というよりむしろ基本的な態度のことです。

 教会の歴史を通して、いろいろな聖職者が、異なる歴史的時代背景や異なるカリスマ的感受性に関係して「識別」について異なる強調の仕方で扱ってきました。このシノドスの間に、私たちはその中の言語の違いで変わることのない、共通するいくつかの要素を認識しました。すべての人の生活と歴史の中の神の存在、神の業を認識する可能性,祈りと秘跡に預かる生活と禁欲の役割、聖書の求めに常に関与すること、獲得した確実性について束縛されないこと、日々の生活という観点で常に評価すること、そして、十分な寄り添いの重要性、です。

      聖書と教会の「心」に

105. それが「信仰に根差した内面的態度」(第15回シノドス通常総会の第一回全体会議における教皇フランシスコの挨拶=2018年10月3日)である限り、識別は教会の「心」にあり、その使命は、すべての人に、すでに彼らの人生と彼らの心の中で働いておられる「神との出会い」をもたらすことです。

  それ故、教会は、それぞれの人が瞑想と祈りの環境の中で、彼らの召命を探し求められるよう、信頼と自由の風潮を好むのです。教会は各人の歴史を読み返し、それを聖書に照らし合わせて、脆弱性を発見する実際的な機会を提供します。教会はいろいろな人生の選択を成し遂げる証人との契約を可能にします。そして、貧しい人々との出会いは、人生に何が必須であるかの理解を迅速に深めさせ、一方、秘跡、とくに聖体と赦しの秘跡は、神の意志を発見する道に旅立つ人々を養い、支えます。

  教会共同体の範囲はあらゆる識別に及ぶもので、それは決して、単に個人的範囲に留まるものではありません。同時に、あらゆる個人的識別は、その信徒たちの霊的経験を通して、聖霊が言っていることを聴くよう促すことによって教会共同体に問題を投げかけます。すべての信徒同様、教会そのものもまた常に識別が必要なのです。

識別における良心

     神は「心」に話しかける

106. 識別は、実際にすべての人の心の中に起きている事柄に注意を向けます。聖書の中で「心」という言葉は、その人の内面の中心の場所を指しています。そこで、神がいつも私たちに話しかけておられる御言葉を聴くことは、私たちの生活と私たちの選択を評価する基準となるのです(詩編139章参照)。

 聖書は個人的観点で述べていますが、同時に、共同体の観点で強調してもいます。その上、預言者によって約束された「新しい心」とは、個人的な賜物ではなく、イスラエル全体にかかわるものです。その伝統と救済の歴史の中に、信者はその存在を認められるのです(エゼキエル書36章26-27節参照)。福音書も同じことを言っています。イエスは、内面の重要性を強調し、道徳的な生活の中心は、「心」であると言っています(マタイ福音書15章18-20節参照)。

     「良心」についてのキリスト教的考え方

 107. 聖パウロは、彼の時代の文化からとった「良心」という言葉との関連において、「心」について聖書的伝承が語らねばならなかったものを、詳述しています。「良心」の中で、私たちはキリストと出会い、交わった成果を集めるのですー救済をもたらす変革と新たな自由の受容です。キリスト教の伝統は、「良心」を神との深い関係をもつための特別な場として「良心」を強調します。そこでは神の声が聞こえます-「良心は、人間の最も秘められた中心であり、聖所であって、そこに人間は独り神とともにあり、神の声が人間の内奥で響く」(現代世界憲章16項)。この「良心」は、その時だけの、薄っぺらな感情でもなければ「自意識」でもありません-超越的な存在を証明するもので、各人が自分自身の内面に発見するのですが、それを自分でコントロールしません。

    良心を育てる

108. 私たちの良心を形成するのは一生の仕事です。その中で、私たちは、キリストの本当の想いを養うことを学び、彼の選択の裏にある基準、行為の背後にある意図を取り入れるのです(フィリピの信徒への手紙2章5節参照)。良心の最も深いところに達するために、キリスト教の洞察によれば、沈黙、深い祈りを糧とし、御言葉を黙想しながら聴き、秘跡と教会の教えから得た養分をもとに、内面の生活を涵養することが需要です。

 それだけではなく、私たちに必要なのは、善を行う習慣を育てることですー良心を究明する中で、その習慣を見直すこと-罪を識別することだけでなく、私たちの日々の暮らし、私たちの歴史の出来事、私たちの前を行く、あるいは知恵をもって私たちに寄り添ってくれる数多くの男女の証人の働きの中で、神の業を知ることも含めた訓練です。そのすべてが,私たちの思慮深さを育て、私たちの賜物とその限界を落ち着いて見極め、人生で具体的に選択するうえで全般的な方向付けをします。若いソロモンは何よりもこの賜物を神に願い求めました(列王記上3章9節参照)。

    教会の良心

109. 最も個人的なレベルで、すべての信徒の良心は、いつも教会の良心と関係しています。私たちが、イエス・キリストの中に表される神の本当の顔に近づくことができるのは、教会の瞑想と、その信仰の伝統を通じてだけです。

 ですから、霊的な識別は、可能な善をしることの義務の中で、主イエスとの個人的な関係の光の中で、実践理性の正しい訓練について責任ある決定をするという基礎の上で、良心の誠実な働きとしてみることができるのです。

  識別の実践

    主と親しむこと

 識別の実践

   主と親しむこと

110. 心の奥深くで起こる主との出会いとして、識別は祈りの正真正銘の形として理解されます。それ故、識別は、日々の暮らしの中で、そして黙想、錬成過程、巡礼などの経験を、十分な時間を取って思いめぐらすことを求めます。

 真剣な識別は、主ご自身が現存されるいろいろな形の中で、私たちが主と出会い、親交を深めるすべての機会-秘跡、特にご聖体と赦しの秘跡、神のみ言葉を聴き、瞑想すること、教会共同体でのLectio Divina(神的な読書=聖書を深く味わって読むこととその方法), 普段の生活の中での兄弟愛的な経験、貧しい人々との出会い-主は貧しい人々の中におられます-などによって、助けられます。

    心の態度

111. 聖霊の声を聴くために私たち自身を開くために、特段の内面的な性向が求められます-まず、沈黙と、禁欲が必要な「自身を空にする」ことによる助けを受けて、心を集中させること。同様に基本的なことは、自己認識、自己受容、そして悔い改めー自分の生活を進んで整え、障害となるいかなるものも放棄し、聖霊のみによって導かれる選択をするために必要な内面的自由を取り戻すことです。次に、よい識別をするには、私たちの認識、特定能力が育つのにともなって、心の動きに注意を払う必要があります。そして最後に、識別には霊的な戦いをする勇気が求められる、ということです。私たちの行く手には、悪魔が作り出す誘惑や障害が尽きないからです。

    寄り添いの対話

112. いろいろな霊的伝統では「よい識別をするには、霊的指導者と頻繁な触れ合いをもつことが必要だ」という点で一致しています。私たちの生きた経験を言葉にすることで、本当に自分ではっきりとそれが見えるようになってくるのです。同時に、寄り添い役は、その経験の大切な要素を説明して、母としての存在の教会との仲介をしてくれます。このきめ細かい働きは前の章で考察しました。

    決心と確認

113. イエスと彼の弟子たちの生活の仕方の観点での識別は、不確実性を超えて具体的な方法をとることを可能にし、私たちが決心について責任を持てるところまで導いてくれます。したがって、識別の過程は個人的生活においても、教会や組織などの団体においても、漫然と続くものではありません。

 決心をするには、日々の生活で同様に基本的なことを行って、検証していかねばならないのです。それ故、聖霊の声を聴くためには「内面的な促しを注意深く聴きながら進む」ことが重要なのです。この段階で、日常の現実にかかわることが特に重要になります。さまざまな霊的伝統は、兄弟的生活と貧しい人々への奉仕の価値を指示しています-なされた決断のテストとして、人が自分自身を全部見せる舞台装置として。

(ここから田中典子訳)

第3部 「”彼ら”はすぐさま、発つ」

 

114.「二人は互いに言った。『道々、聖書を説き明かしながら、お話くださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』。すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ福音書24章32-35節)。  私たちは、このみ言葉を聞いて、出会いの喜びを感じます-出会いの喜びは、心を満たし、人生に意味を与え、新たな活力を注ぎ込みます。顔は輝き、人生の旅は新たな活力を得ます。召命の反応の光と力は、共同体社会と全世界に対する宣教となります。遅滞なく、恐れもなく、二人の弟子はエルサレムに戻り、仲間に会って、復活されたイエスとの出会いを知らせようとします。

  若い教会

    復活の象徴

115.  エマオでの弟子たちの(注:イエスの十字架上の死と復活の)過越しの霊感とつながる形で、マグダラのマリアの身に起きた出来事(ヨハネ福音書20章1⁻18節)は、このシノドスの成果として、カトリック教会が若者たちとともに、若者たちのために希求する道-信仰の宣言と宣教につながる復活の道-に光を当てます。主への深い熱望を抱き、夜の闇も恐れず、マグダラのマリアはペトロと他の弟子たちのところに走って行きます-彼女の振る舞いは弟子たちを動かし、その女性らしい献身的な態度は弟子たちの進路を先取りし、彼らのために道を開きます。

 週の初めの日の夜明けに、彼女は驚きの出会いを体験します-イエスを愛していたので、イエスを墓に捜しに行き、愛されていたので、イエスを見つけます。復活されたイエスは、彼女の名を呼ぶことで、彼女にご自身であることを知らせます。そして、ご自分の身体に触れないように、と言います。それは、復活した体は地上にとどめておくべき宝ではなく、分かち合うべき神秘だからです。このようにして、彼女は最初の宣教する弟子、使徒の中の使徒となるのです。自身の傷を癒され(ルカ福音書8章2節)、主の復活の証人となった彼女は、私たちが理想とする若い教会の姿なのです。

    若者たちと歩む

116. 真理を求める情熱、主の素晴らしさへの驚き、分かち合う能力、信仰を宣言する喜びは、教会の活動的な一員となっている多くの若者たちに、今も生きています。これは、単に「若者ために」何かをすることについてだけではなく、「若者との」交わりの中で生き、福音を理解し福音を生き、その証人となる確実な道を探求する中で、共に成長することに関してです。

 教会生活において若者たちの責任ある参加は、選ぶものではなく、洗礼を受けた人生が求められるもの、全ての共同体社会の不可欠な要素なのです。若者たちが受ける試練と彼らの弱さは、私たちの向上を助けてくれます。彼らの問いかけは私たちの意欲をかきたて、彼らの疑いは、私たちが自分の信仰の質を省みるきっかけとなります。彼らの批判もまた、私たちに取って必要です。それは、批判を通して、回心と組織の刷新とお求めになる主の声を、私たちが聴くからです。

    すべての若者に近づこうとする熱望

117. シノドスで、私たちは常に、若者たちー教会に所属し、積極的に活動する若者だけではなく、他の人生観をもち、他の宗教に所属し、あるいは宗教から距離を置く、全ての若者たち-について、自分自身に問いかけてきました。全ての若者は、例外なく、神の心の中に存在するだけでなく、教会の心の中にも存在します。

 しかし、「口で言っていることが、必ずしも、司牧活動の中に実際に表されているとは限らない」ということを、私たちは率直に認めます-しばしば、私たちは、若者の声が届かなかい、自分たちの殻に閉じこもったり、あまりきつくない、楽な活動に多くの時間を費やしたりし、安全と思われる所から抜け出すように強く求める「健全な司牧上の焦燥感を」抑え込みます。しかし、福音は、私たちに大胆であることを求めており、私たちは、仮定や変節をすることなく、大胆に、主の愛を証しし、自分の手を世界の全ての若者に差し伸べたいと思っています。

    霊的、司牧的な、そして宣教の転換

118. 教皇フランシスコが私たちにしばしば思い起こさせるのは、真剣な転換の歩みなしには、このことが不可能だ、ということです。私たちは知っています-これが、単なる新しい活動を始めることに関する問いかけでも、「敗軍の将がするように、注意深く立案された拡張主義的な使徒職計画」(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」96項)を私たちが書きたいのでもないことを。私たちは、信頼できる者となるために教会の改革を実践せねばならない、ということを知っています-それは心を浄化し、生き方を変えることを意味します。

 教会は真にEucharist(聖体)の形を帯びるものでなければならず、聖体を教会活動の源であり頂点にあるものとして祝いますー多くの穀物から作られ、また世界の人々の命のために割かれるパンの形をとっています。このシノドスの成果-聴くことと識別することを通して、聖霊が私たちに奮い起こさせた選択-は、若者とともに歩み、誰のところにも出かけ、神の愛を証しする、ということです。

 宣教のためのsynodality(シノドス様式)あるいは宣教のsynodality(シノドス様式)について語ることで、以上のようなプロセスを説明することもできるでしょうー「シノドス的な教会を現実のものとすることは、神の民すべてを含む新しい宣教のエネルギーのための不可欠な前提条件です」(2018年3月の国際神学委員会文書「教会の活動と宣教におけるsynodality」9章)。

 ここで第二バチカン公会議の預言について言及したいと思います。私たちは今なおこの公会議のあらゆる奥深さ取り入れ、日常的な意味合いの中で発展させる必要がありますー教皇フランシスコが「三千年期の教会に神が期待されるのは、まさにこのシノドス的な道なのです」(シノドス創立50周年記念講演2015年10月7日)と語られる時、私たちにそれを思い起こさせるように。

 シノドスの祈りと討議の成果であるこうした選択が、神の恵みによって、教会が「youth of the world(世界の青年)」となり、さらにそれが明確になるのを可能にすると、私たちは確信しています。

(「カトリック・あい」参考:「書面の文書を作成することを第一の目的としないのが『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」=教皇フランシスコのシノドス閉幕に当たっての言葉=)

 

 第1章 教会の共に歩む宣教

  構造的なダイナミズム

   若者たちは、私たちが共に歩むよう求めている

119.  教会は全体として、今回のシノドスを通して若者に関わるという、極めて明白な選択をしました-教会はこの任務を、新時代を画するような重要性をもつ司牧の優先事項、時間、エネルギー、資源を投資すべきもの、と考えています。若者たちは、シノドスの準備を始める段階から、シノドスに関わること、正当に評価されること、教会の活動の使命について自分たちも共同の主役であると感じること-に強い希望を表明してきました。

 このシノドスで、私たちは、若いキリスト教徒たちと共同責任を担うことが、司教たちにとって、どれほど深い喜びの元となるのか-を体験しました。この体験の中で、聖霊の働きをはっきりと知りますー聖霊は絶えず教会を新しくし、synodalityの実践-年齢、生活の状況、召命によって、存在し、行動し、全ての受洗者と善意の人々の参加を促すこと-を呼びかけます。

  (注:ここで言うsynodalityとは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように強く促すこと-を意味している=「カトリック・あい」)

 また、このシノドスにおいて、私たちは、神の民への思いにおいて司教たちをcum Petro et sub Petro(ペトロと共に、ペトロの下に)結びつけるcollegiality(協働性)が、あらゆるレベルの synodalityの実践を通して、それ自身を表明し、それ自身と豊かにすることが、いかに求められているのかを体験しました。

       シノドスの取り組みは続く

120. 今回のシノドスの会議終了とその成果をまとめた最終文書は、シノドスによる取り組みを閉じるものではなく、一つの段階を構成するものです。若者たちの置かれた具体的な状況、実際に可能なこと、緊急に求められることは、それぞれの国、大陸によって、そして一つの信仰で共通している場合でさえも、大きく異なりますーそれゆえ、私たちは、司教協議会と特定の教会に対して、このシノドスで始まった取り組み継続し、共同の識別の手続きを踏み、このシノドスがしたように、司教でない人たちも議論に参加させるように、お勧めします。

 このような教会における手順を踏む場合、特に、存在が軽視された若者たち、教会共同体との結びつきが希薄な若者たちに配慮した司牧計画を立てることを視野に入れ、兄弟姉妹に対するように聴き、世代間の対話をする必要があります。家族、宗教施設、協会、運動体、そして若者たち自身が、これらの取り組みに参加することを願いましょう。そうすることで、このシノドスの日々に体験した「炎」が広がるように。

      教会のSynodal form(シノドス的な形)

121. シノドスの参加者たちは、共有した体験によって、信仰を宣べ、伝えるために教会がsynodal form(シノドス的な形)を取ることの重要性に気づきました。若者たちの参加は、synodalityに再度、目覚めさせるように促しました-synodalityは「教会の構成要素であり..聖ヨアンネス・クリュソストモス(「カトリック・あい」注:4世紀のギリシャの神学者、コンスタンチノープル主教)が言われたように『教会とシノドスは同義語』なのです-それは、教会というものが、主キリストとの出会いを目指す遍歴の道をたどる神の羊の群れの『共にする旅』に他ならないからです」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)

 Synodalityは教会の活動と使命の両方を特長づけています-教会は、「それぞれの文化と視野を持つ若者と高齢者、男性と女性によって構成された神の民」、そして「片隅に追いやられ、踏みつけにされた人々をはじめとする私たちが互いに構成メンバーであるキリストの体」なのです。意見の交換や信仰を証しする過程で、このシノドスはsynodal styleの確かな基本的特性を蘇らせました-これが私たちに求められている転換の目標なのです。

122.信仰を順に伝えていくことは、関係-共同体社会でのキリスト、他の人々との関係-においてです。宣教の使命を果たすためにも、教会は人との関わりを重視する顔を持つように求められています-参加する人たちの生活を変える過程で、聴くこと、歓迎すること、対話すること、そして共に識別すること-に重きを置く顔です。

  「synodal(シノドス的な)教会とは、聴き、『単に聞きながす以上』によく聴くことをはっきりと理解する-教会です。学ぶべきものを持っている人たちが耳を傾け合う教会です。信仰のある人たち、司教団、ローマ司教(注:教皇)ー聖霊が「諸教会に告げる」(ヨハネの黙示録2章7節)ことを知るために、皆が互いに耳を傾け合い、皆が聖霊-『真理の霊』(ヨハネ福音書14章17節)に耳をすまします」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)。

 このようにして教会は「契約の箱が置かれた『出会いの幕屋』(出エジプト記25章参照)」として姿を現します-活動を続ける躍動する教会、多くの賜物と聖職者たちによって強められた、旅する、寄り添う教会です。このようにして神はこの世にご自分の姿を示されるのです。

  参加し、共同で責任をもつ教会

123. 参加型の共同責任をもつ教会特有の特徴は、共同責任を原動力に、教会員のそれぞれの召命や役割に従って、聖霊がくださる賜物を高く評価することです。この賜物を十分に活かすために、心の転換が、互いに耳を傾け合う用意とともに必要です。それが効力のある共通の意識を作ります。

 このような心的態度に活気づけられて、私たちは「参加し、共同で責任をもつ教会」に向かって進むことができます。教会のもつ多様な豊かさを大切にし、若者を含む一般信徒、男女の修道者、そして集団、協会、活動体の貢献を、進んで受け入れることができます。誰も隅に追いやられたり、自分自身を隅に追いやったりすべきではありません。 これが、多くの教会員を教会活動の決定過程から排除する「聖職権主義」と、この世の宣教に献身させる代わりに檻に閉じ込める「clericalization of the laity(一般信徒の聖職権主義化)」を回避する道です。

 今回のシノドスは、特定の教会と、司教協議会と普遍教会の組織における共同責任の場において、若者たちの積極的な参加が、効果的で、通常なものとなるように、要請します。また、教皇庁の「信徒・家庭・いのちの部署」の若者を担当する局の活動が強化されるように、特に国際的なレベルで若者の声を代表する組織を通してなされるように、要請します。

  識別の共同のプロセス

124.神の民として「共に歩く」という体験は、私たちが、奉仕としての権限の認識をより深めるのを助けます。社会の片隅に住む人々を始めとして共同体の全員とともに、証しと宣教の協働を増進し、それによって信仰の光と聖霊の導きのもとに「時のしるし」を解釈する能力が、司祭たちに求められます。これらの能力とともに、教会指導者は、synodalityへ特別な取り組みが必要となります。この点で、若い一般信徒、若い修道者と神学生のために、共同での取り組みの教育課程を工夫することが、特に権限や共同司牧の遂行のような分野で、極めて望ましいように思われます。

  宣教の形

   宣教の交わり

125. 教会のシノドス的な活動は、本質的に宣教を目指していますー神が「すべてにおいてすべてとなられる」(コリントの信徒への手紙➀15章28節)日まで、教会は「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし、道具」(第二バチカン公会議・ 教会憲章1項)です。聖霊に心を開く若者は、教会が「『私』が理解するという自己中心の道から、『私たち』という教会的な道へと司牧的な移行を可能にするために役に立ちます。

 そこでは、キリストを着た(ガラテヤの信徒への手紙3章27節参照)『私』の一人ひとりが「責任のある、神の民全体の宣教の代理人として、責任をもって行動し、兄弟姉妹とともに暮らしと旅を続けます」(国際神学委員会2018年3月2日発表の「教会の活動と宣教におけるSynodality」107項)。聖霊の励ましと司教たちの導きのもとに、同様の変化がキリスト者の共同体にも起こらなければならず、「私」自身、あるいは「私」の属するものに向かう性向から、全ての人間家族、全ての被造物を含む「私たち」の構築に尽くす方向に進むことが求められています。

   対話による宣教 dynamic

126. その生き生きした動きは、若者とともに行う宣教の方法に的確な結果をもたらします。それは、率直に、妥協することなく、善意の人々すべてと対話することを、私たちに求めます。聖パウロ6世が表明されていますー「教会には…言うべき事、伝えるべきメッセージ、なすべき伝達、があります」(教皇パウロ6世回勅Ecclesiam Suam(自分の教会)65項)と。

 人々と文化の多様性で特徴づけられた世界で、正義に関する連帯、統合、促進という取り組みが、信頼でき、効果的で、「出会いと無償の文化」の意味を示すものであるなら、「共に歩む」ことが欠かせません。キリスト教の他の宗派や様々な宗教の信仰、信念、文化をもつ仲間と日々連絡をとりつつ生活しているのは若者であり、教会一致運動と宗教間対話を実施するように全てのキリスト教共同体を刺激するのも、若者です。このことは、包み隠さず話す勇気、謙虚に耳を傾ける勇気、時には殉教に至ることもある禁欲に努める勇気を、必要とします。

   社会の外周部に向かって

127. 民主主義的なシステムが、参加者の不足と、広範な支持のない小さな利益集団の分不相応な影響力によって、還元主義的、技術主義的、権威主義的な結果がもたらす危険にさらされる場合、対話の実践と共同の解決策の探求が明確な優先事項になります。

 福音への忠実さが、対話を「貧しい人々と大地の二重の叫びへの対応の探求」へと導き(教皇フランシスコ 回勅「ラウダート・シ」49項参照)、若者たちが特に感受性を示す、社会教説の原則-人間の尊厳、財の普遍的な宛先、貧しい人々に望ましい選択、連帯の優位性、下位にある者への配慮、私たちの”共通の家”(注:地球)へのいたわりーによって、社会的なプロセスの促進を確かなものにする方向へと導きます。

 教会の内にある召命は、表に出て対話する共同体の力強い動きの圏外に留まれません。それゆえ、最も貧しく最も弱い人々に優先して注意を向け、その視野の優劣をチェックするために、共に歩む一つ一つの努力が求められているのです。

 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む

    組織から関係へ

     代表派遣から関与へ

128. シノドス的な宣教(ともに歩くこと)は、例外なく教会に適用されるだけではありません。共に旅をすること-刷新され、透明性を高めた共同体で実際に兄弟愛を証しすることーが、個々の共同体に何よりも求められます。社会的背景が日常生活が違っていても、それぞれの地域で、「私たちは神の民であり、福音を具体的に生きる責任がある」ことを認識し、自覚する必要があります。これは「代表派遣」という論理から踏み出すことを含み、司牧的活動を大きく条件付けます。

 秘蹟の準備のための信仰教育のクラスを例にとると、多くの家庭がそれを全面的に小教区に委ねます。そうした考え方は、子供たちが、信仰を「日常生活を照らす現実」としてではなく、「自分たちが存在する別の分野の考えや規則の収集物」と見なす危険を冒す結果を招きます。そのようにならないために、「二人(注:小教区と家庭)は一緒に旅に出る」ことが必要です。小教区は、家庭が「信仰という日常の現実を若者たちが体験」するの助けることを必要とし、家庭は、小教区に「カテキスタなどを通して、子供たちにキリスト教のより本質的なビジョンを示す」ことを求めています。若者や子供たちを共同体に招き入れ、彼らにより広い視野を開きたいからです。本物の関係が彼らの中で発展しないなら、そのような組織は十分ではありません。福音化は、実はこれらの関係のもつ質の高さなのです。

   小教区の刷新

129.  小教区は、より生産的な共同体になろうとしており、その過程で最も弱い人々に対する宣教の陣頭指揮をとらなければなりません。小教区が、必ずしも人々の霊的な要望に応えることに成功しているとは限らない、というしるしが見られます。それは主として、人々のライフスタイルが大きく変えられた、いくつかの要素のためです。私たちは、新しい時間と空間の関係―部分的にはデジタルコミュにケーションがもたらすーと、絶えざる移動を特徴とする「国境のない」文化の中で生きています。

 このような文脈の中で、「小教区は、地理的な境界線で決められ、多岐にわたる対応で信徒、特に若者と関わることはできない」という考えを持つことは、「受け入れがたい停滞、不安がつきまとう司牧サイクル」の中に、小教区を閉じ込めることになります。「教会の共同責任と宣教の意欲」という観点から小教区を考え直すべきです。この観点に基づいて、新しい相乗効果を開拓することです。そのようにして初めて、小教区は、若者の人生に関わることのできる重要な場になるでしょう。

   開かれた、判読可能な組織

130 .さらに、明確な透明性と共有性という同じ線上で、個々の共同体は「若者が彼らのライフスタイルと組織の中に福音の証しを認識できるかどうか」を自問することが重要です。多くの司祭、修道女、宗教者、司教の個人的生活が人々に対する簡潔さと献身によって特徴づけられているのは、疑いのないところですが、大部分の人たち、特に若者にとって、それはほとんど目に見えません。多くの人々から、私たちの教会の世界は理解しにくい、と見られています-私たちの果たしている役割と、それに対する既成概念が、彼らが距離を置く原因になってのです。

 あらゆる形で、日々の生活を人々にもっと近づきやすいようにしましょう。親しみを込めて振る舞い、共に過ごし、活動することが、偏見から解放し、本物のコミュニケーションに必要な状況を作り出でせるのです。イエスは神の国を宣言されました。イエスと同じ道を歩むよう、聖霊は私たちに今日も勧めています。

   教会共同体の生活

    様々な顔からなるモザイク

131.シノドス様式(ともに歩む)に従った宣教する教会の姿は、様々な顔を持つ各地の共同体の中に示されます。教会は決して硬直したモノクロ(単色)としてではなく、様々な、感性、出自、文化をもつ人々の多面体として発展してきました。このようにして教会は人間という脆弱な土器の中に比類ない宝である三位一体の命を伝えてきたのです。聖霊が導く調和は、違いを根絶するのではなく、ともに共鳴させて、交響楽のように調和のある豊かさをもたらします。

 同じ信仰をもつ異なる人々との出会いは、共同体の司牧的刷新を図るための基本条件となります。そのような出会いは、信仰宣言、ミサ、すなわち、正常な司牧活動の基本的領域に関係します。誰もがよく知る知恵は「子供を育てるのは村全体の役割」と言っていますーこの教えは、今日の司牧活動のあらゆる領域に当てはまります。

   地域社会の中の教会共同体

132. 様々な顔をもつ教会共同体を効果的に実現するには、地域と関係を持ち、自らを社会に開放し、そして、市民の様々な機関と関係を持つ姿勢が必要です。外の社会と手をつなぎ、多様性を持つ教会のみが、開かれた方法でその存在をアピールし、現代の課題となっている様々な社会問題ー生態系の危機、雇用問題、家族への支援、社会の片隅に追いやられる人の問題、政治改革、文化と宗教の多元的な共存、正義と平和の追求、デジタル環境問題などーに福音の光をあてることができます。

 このことはすでに教会の集会や活動で実行されています。私たち司教が、これらの挑戦すべき関心事のみに正面から向かうのではなく、権限の一部を縮小しないですむように、すべての人々との対話し、共通善に貢献すること、を若者は要請しています。

   ケリュグマ(最初の福音の告知)とカテケージス(信仰教育)

133.  死から蘇り、御父を明らかにし、聖霊を伝えるイエス・キリストの告知は、キリスト者の共同体にとって本質的な召命です。この告知の一部は、若者に、彼らの命の中に神の愛があることを認識するように、また、共同体をキリストに出会う場として発見するようにと招いています。どんなときでも常に新しい、最も重要なこの告知は、若者に対するカテケージスのまさに基本であり、カテケージスにケリュグマの特質を付与するのです(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」164項参照)。

 私たちは、統合可能なあらゆる手段を提供し、活発に関わり続けねばなりませんーイエス・キリストと福音についての生きた知識、信仰の光に照らされた個人的な体験や歴史的な出来事を読み解く力、祈りとミサに寄り添うこと、レクティオディビナの導入、慈善行為による証しや正義を前進させるための支援と言った手段です。

 カテケージスのコースは、信仰が、日常生活の具体的な体験、感情と愛情といった感情の世界、勉学や仕事で出会う喜びと失望、に密接につながっていることを例証する必要がありますーコースには、教会の社会的な教えも入れるべきです。美、音楽、その他の異なる芸術的な表現に関する言葉やデジタルコミュニケーションの手段にも開かれるべきです。肉体、情動性、性的関心の重要性について十分に考慮されるべきです。なぜなら信仰教育と愛の教育には深いつながりがあるからです。結局、信仰は実践すべきもの、あるいは現実社会の生きる手段として理解されるべきです。

 若者のカテケージスにおいて、本質、即ち、カテケージスの核心であるキリストとの出会いを見失うことがないように、適切な言語と手段を探し続けることが急務です。YouCat(注:カトリック教会の若者向けカテキズム)、DoCat(注:カトリック教会の社会教説の若者向け版)といったような材料がお勧めですが、だからといって、様々な司教協議会の作ったカテケージスを過小評価するわけではありません。同様に、しばしば若者もいますが、実質的に若者の世代である人たちに奉仕するカテキスタとの関わりも刷新する必要があります。カテキスタの構成に十分に配慮すること、また、カテキスタの司牧が共同体によってさらに広く認識されることが重要です。

   典礼の中心

134. ミサは、共同体の生活と教会のsynodalityをもたらします。ミサは信仰を伝え、宣教する場であり、そこで共同体が私たちの働きではなく、神の恵みによって生かされていること が明らかになります。東方教会の伝統的な言葉を借りれば「典礼は神の僕であるキリストとの出会い」であり、キリストは私たちの傷と結ばれて、私たちのために過越の宴を準備し、兄弟姉妹のためにも同じことをするように派遣します。一般信徒の様々な祭壇奉仕も含めて、崇高な簡素さをもって典礼に関わることは、宣教のための回心に重要な要素であることを、何度も繰り返し言いましょう。

 若者は、ミサに感謝し、深く関わりたいと言ってきましたーミサでは説教や共同体も含めて所作の美しさや配慮が、まさに神について語っています。それ故に、彼らに積極的にミサに参加するように勧めること、彼らがミサという神秘の前で畏敬の念をもって生き生きとしていることが必要ですー若者の音楽と芸術的な感受性を認めることが必要ですが、典礼が純粋に自己表現ではなく、キリストと教会の行動であることを理解できるように彼らを手助けすることも必要です。ミサが長時間にわたる場合、聖体を賛美する価値を見出すことができるよう、若者を助けることも、同じように重要なことです。聖体賛美では黙想と沈黙の祈りを十分に味わうことができます。

135. 信仰の旅で極めて重要なのは、和解の秘跡に実際に与ることです。若者は「愛されたい、赦されたい、和解して欲しい」と願い、慈しみに満ちた御父に抱きしめられることを切望しています。若者がミサに参加し、司祭に近づきやすいようにするために、寛大な心で彼らを受け入れることが必要です。共同体による赦しの秘跡は、若者を告解に近づけ、秘跡の持つ側面をさらに分かりやすいものにします。

136. さまざまな文脈において、民衆信心は、実際に役に立ち、感覚に訴え、素早い仕方で、若者を信仰生活に呼び寄せるのに、重要な役割を果たします。ボディランゲージや情緒的な関わりを大切にし、それをもって、しばしば聖母マリアや諸聖人の瞑想を通して、救いの神に触れようとする熱意をもたらします。

 巡礼は、若者にとって、人生と教会を象徴する旅の体験ですー森羅万象と人の作った物の美を熟視し、兄弟姉妹のように生き、祈りをもって主と繋がることが、識別の最善の条件として改めて示されるのです。

  diakonia(奉仕、援助)の寛大さ

137 若者は、小教区共同体のあり方を刷新し、貧しい人々に身近な、兄弟姉妹的な共同体を作るのを助けることができます。貧しい人々、脇に追いやられている若者たち、一番辛い目に遭っている者たちが、共同体の刷新の主役になれます。彼らは『福音宣教の(注:神の)臣民』と見なされるべきであり、私たちの俗念からの解放を助けてくれます。若者はしばしばdiakonia(奉仕、援助)の重要性に敏感です。

 多くの人々が、積極的にボランティア活動に関わり、奉仕の中に主に出会う道を見つけます。最底辺の人々への奉仕は信仰の実践となります。そこで福音の核心、全てのキリスト教徒の生活の基礎にある(失われている)愛を発見します。貧しい人々、身分の低い人々、病気の人々、高齢者は、苦しむキリストの体ですーですから、彼らへの奉仕は、主と出会う道であり、自身の召命の識別に特別に与えられた場なのです。

 異なった文脈から、移民、難民の人々に対して、特に寛容さが求められます。受容、保護、奨励、共生のために、彼らとともに働く必要があります。貧しい人々を社会的に受け入れることは、教会を慈しみの家にします。

  召命の観点から見た若者に対する司牧の職務

   教会、若者にとっての家

138 キリスト者共同体の関係と質への配慮を基本に、刷新することのできる司牧的アプローチによってこそ、教会は若者たちにとって意味のある、魅力的なものとなるでしょう。そうすることで、教会は「歓迎する家」-信頼と自信の上に建つ家族的な雰囲気で特徴づけられた家-として、彼らに顔を向けることができます。

 このシノドスで若者たちの話を聴いた際に、何度も何度も明らかにされたのは「兄弟姉妹愛への切望」-教会が「多くの人々にとっての家となり、すべての人々にとっての母」(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」 288項)となることを求める声-でした。司牧の職務とは、「教会が若者たちにとっての家となるような、笑顔でいつも歓迎する、具体的で、預言者のような振る舞いを通して、歴史の中で、教会の普遍的な母性を実現する」という仕事なのです。

   司牧的職務における召命の活性化

139. 召命はその人のあらゆる側面をつなぐ蝶番のようなものです。この原理は、個々の信徒だけではなく、司牧的な職務全体にも関係します。それで、すべての司牧的職務が、召命という面だけに、統一された原理を経験する、ということを明確にするのが重要です。

 なぜなら、すべての司牧的職務が、召命の由来とその実現を経験するからです。進行中の司牧的な転向の旅について、分離、独立した分野として司牧的職務を強化することは、誰も求めていません。教会の全ての司牧的アプローチの活性化を求めているのです。そうすることで、召命のすばらしい多様性を効果的に示すことができるからです。司牧的職務の目標は、識別の旅を通して、誰もが「キリストの満ち溢れる成熟した年齢」に達する(エフェソへの信徒の手紙4章13節)ことができるように助けることです。

    若者に対する司牧的な召命に関する職務

140 今回のシノドスの準備段階から、「若者に対する司牧的職務について召命からの観点が必要だ」ということが、非常に明確になりました。そうして、若い世代に対する司牧的アプローチの二つの重要な特徴が明らかになっています。一つは「若者のため」-若い時、という貴重で、繰り返すことのできない時期にある人々を対象とするから。もう一つは「召命」ー若い時は、人生の選択のため、神の呼びかけに応えるための特に恵まれた時期だからです。

 若者司牧の「召命感」は、排他的な感覚ではなく、集約的な感覚で理解される必要があります。神は人生のどの時点の人-母の胎内にある人から年老いた人-にも、呼びかけておられますが、若い時は「神の意思に耳を傾け、有意義に用い、受け入れる、特別な恵みの時」です。

 今回のシノドスは、各国の司教協議会が、召命の観点から「Directory of Youth Ministry若者のための司牧的職務要覧」を準備することを提案しました。教区の指導者や地元の協力者が、若者とともに、若者のために、十分な態勢と行動を提供できるようにするためです。

    ばらばらの状態から統合へ

141. 今回のシノドスに出席した司教たちは、付け焼き刃にならないように、司牧的活動についての計画の必要性を認識する一方で、数回にわたり教会の司牧的な取り組みがが統一性を欠いていることに懸念を表明しました。特に話し合われたのは、若者たちへの司牧的な取り組みの多様性-若者への宗教教育、家族教育や召命教育、学校や大学での宗教教育、社会的、文化的、慈善的な余暇活動など-でした。高度に専門化された部署が沢山出来ても、それがばらばらに動けば、キリストのメッセージが伝わりません。

 ばらばらになっている世界で、若者たちは、生き方を一つにまとめ、日々の経験を解釈し、深く識別するように助けを受ける必要があります。それが最優先事項だ多とすれば、「部署」のための仕事から「プロジェクト」への仕事に移るようにして、異なった領域の協調と統合を進める必要があります。

   行事と日常生活の実りある関係

142. 今回のシノドスでは、「世界青年の日」大会と、関連して大陸、国、教区レベルで行われる多くの行事について、また、協会、運動体、宗教団体、その他の教会の事業体の活動についても、たびたび言及されました。これらの出会いと分かち合いは広範に高く評価されています。なぜなら、あたかも巡礼におけるような、共に旅する機会ー全ての人と兄弟愛を経験し、喜びをもって信仰を分かち合い、教会に近づく機会-を提供するからです。

 多くの若者にとって、出会いと分かち合いは、「変容」の体験となりましたー主のみ顔の素晴らしさを体験し、大切な人生を選んだのです。これらの経験から得た最上の成果は、日々の生活の中に集積されます。それゆえに、さらに徳の高い取り組みの重要な段階として、これらの集積を計画し、経験することが、重要になるのです。

   若者の集会所

143 キリスト教共同体によって若者に捧げられた特定の場所、小礼拝堂、若者のための集会所などは、教会の教育に対す熱意を示すものです。様々な形がありますが、どれも、教会が思春期の、成人の若者を歓迎する家となる特別な場所です。彼らは自分の才能を見出し、奉仕に役立て、その非常に豊かな教育的な財産を、大きな規模で分かち合われるように、家族や社会を支援できるように伝達します。

 「外に目を向ける」という教会の文脈の中で、これらを創造的に柔軟に刷新するー若者が足を運べるように、静的な場の発想を捨て、若者とともに、若者に向かって動く司牧的課題を持った発想に転換するー必要もあります。それが、彼らのふだん生活している所-学校、デジタル的環境、実存的な周辺、田園、仕事、音楽、芸術的表現の社会などーで彼らと出会い、ダイナミックで活動的な新しい形の使徒を生み出すことを可能にするのです。

 第3章 新たにされた宣教の活力

   いくつかの緊急の課題

144. Synodality(キリストの下に多様性をもって共に働くこと=「カトリック・あい」試訳)は、教会が古くからの課題と新しい課題に取り組むことのできる手法ですー教会のすべてのメンバーのもつ才能を集めて、対話をもたらし、若者と共に始めるのです。シノドスの作業の上に建てられる、この最終文書の最初の部分で、キリストが教会に託した使命を実現するために教会の活力を発揮する、ないしは刷新することが急務な分野、私たちがさらに具体的なやり方で対処しようと努める分野など、いくつかの分野を概括しています。

   デジタル環境での宣教

145. デジタル環境は様々なレベルで、教会に課題を提示しています。それ故、デジタル環境で今起きている活発な動きと可能性についての知識を、人類学的、倫理的な観点から深めることが重要です。デジタル環境に入り、キリスト教の宣教を目的とした(デジタルの)コミュニケーションの手段としての潜在的な力を発揮させるだけでなく、(デジタルの)文化と活発な動きに”福音の香り”をつけることになるからです。そのような発想のもとに、既に、いくつかの実施計画が進んでおり、支援され、深められ、分かち合われる必要があります。

 (デジタルの)コミュニケーション手段としてのイメージに多くの人々が優先順位を与えることは、「神のみ言葉を聞き、聖書を読むことをもとにした信仰伝達」のやり方についての疑問を必然的に引き起こします。若いキリスト教徒たち―同年代の人たちのようにデジタルに慣れ親しんでいる人々ーは、そこに信ずべき使命を見出します。中には既にそれに携わっている人もいます。そのうえ、彼らは、現在の高度にデジタル化された環境の中で「成熟した生活パターンを見分けるために、そばにいて欲しい、リスクを避け、チャンスをつかむのを助けて欲しい」と求める人々と同じ若者たちなのです。

146. 今回のシノドスは、カトリック教会に、デジタルの文化と福音宣教のための担当部局を適切なレベルで設けることを期待します。それは、デジタル環境における教会の活動と内省を進め、若者たちの不可欠な貢献を生かすためです。それらの部局の機能としては「個人と共同体のレベルで、良い慣行を互いに交換し広めることへの支援」「デジタルを活用した人材育成と福音宣教のための適当な手段の開発」のほかに、「ネット上での教会に関する偽情報の拡散に対処するために、カトリックサイトであることを証明するシステムの運営」「ネット上で少数者を保護するための、より厳格な政策と手段を整えるように公的機関に求めることの検討」が考えられます。

   移民問題-壁を壊し、橋を架ける

147. 多くの移民は若者です。教会の普遍性は、彼らにこの上ない機会を提供します-故郷の共同体と移住先の共同体の間の対話を育て、恐れとためらいを克服できるように助け、移住によって壊れる恐れのある結束を強める機会です。

 「歓迎する、保護する、支援する、統合する」-教皇フランシスコが移民を支援するために必要な行動をまとめて表わされた四つの動詞は、”シノドス“(注:キリストの下で多様性を持った人々が共に働くこと)の動詞です。これらの動詞の実行は、すべてのレベルで教会の行動を必要とし、キリスト教共同体のすべのメンバーを含みます。

 移民の側も、適切に寄り添われて、受け入れ側の共同体に対して、霊の、司牧の、そして宣教の資源を提供することができます。特別に重要なのは、外人嫌い、人種差別、移民拒否に反対して闘うために、適切な機構を巻き込んだ、政治的、文化的な関与です。

 カトリック教会の人的資源は、多くの修道女の働きからもよく分かるように、人身売買との戦いに必要です。Santa Marta groupー修道会の指導者と法と秩序に責任を持つ人たちの集まり-の役割は極めて重要であり、刺激となる優れた実践の代表的な例です。移住を望まないのに強制されている人々に、故郷に留まる権利を保障する、そして、移住によって人口減少の危機にあるキリスト教共同体に支援を提供する約束を、見過ごすべきではありません。

     ”シノドス”の教会における女性

148. ”シノドス“(注:キリストの下で多様性を持った人々が共に働くこと)的なスタイルで活動しようとする教会は、必然的に、教会、そしてもっと広く社会の中での女性の条件と役割を熟考します。若い男女はこの課題について激しく問いかけます。熟考の成果は、文化の勇気ある変革を通して、日々の司牧の実践を通して、実現していく必要があります。特に重要なのは、責任ある立場も含め、教会の組織のあらゆるレベルでの女性の存在です-同様に、教会の意思決定過程への参加も、聖職者の役割に敬意を払いつつ。これは正義の義務ー救いの歴史と教会の生活の中で、当時のイエスと男女の関わり方や、聖書にみられるある特定の女性が果たす重要な役割からも、インスピレーションを受けます。

     性的関心-明確、自由で、信ずべき言葉

149.現在の文化面の文脈の中で、教会は、肉体性と性的関心についてのキリスト教のビジョンー聖書、伝統、最近の教皇たちの教導権から現れるものーの素晴らしさを伝えるのに悪戦苦闘しています。そのような状況から、新たな人間形成の進め方に合った具体的な表現の仕方を考えることが、強く求められているように思われます。

 私たちは、若者たちに、情動性と性的関心の人類学を提示しなければなりません―それは人生のすべての状態において人の成長の最も確実な意味を示し、貞潔に正しい価値を与えます。その際、最近の教導権で示された仕方で、十分に耳を傾けること、寄り添うこと、識別することに重点が置かれます。このために、信頼できる司牧の働き手ーその人々の感情と性的な面での成熟を前提として-の編成に努めることが必要とされます。

150. 肉体、感情性、性的関心についてさまざまな論点があります。それは深い人類学的、神学的、司牧的な学習を必要とします。それが、どのような形、そのようなレベルでも、地域的なものから普遍的なものまで、最も適当と思われます。

 シノドスで出された論点の中に、男女の特徴、性的傾向の相違と調和に関するものがあります。これに関して、今回のシノドスは、神が一人一人を愛し、教会も同じことをするのだということを強調しますー性を根拠にしたすべての差別と暴力に反対する約束を更新します。同時に、教会は、男女の相違と相互依存の極めて重要な人類学的妥当性について繰り返し言明し、個人の「性的志向」のみに基づいて個人のアイデンティティを定義するのは還元主義者と信じています(バチカン教理省の「同性愛者の司牧ケアに関するカトリック教会の司教たちへの書簡」16項=1986年10月1日)。

 多くのキリスト教共同体は、同性愛者たちに信仰をともに歩む旅を、既に提供しています。今シノドスも、そのような活動が支援されることを勧めます。これらの旅の中で、人々は自分自身のこれまでの人生から意味を読み取るのを助けられますー自由と自己責任をもって洗礼の呼びかけに執着すること、共同体の生活に入り、貢献する強い望みを認識すること、これを実現するための最善の方法を識別すること、です。

 このように、多くの若者は、例外なく、人間関係の質を高め、自身の贈り物に向かって進むにつれて、自分の個性の性的な面を段々と十分に調和させる助けを受けるのです。

     経済、政治、労働、共通の家

151. 教会は、正義、連帯、平和によって特徴づけられた社会的、経済的、政治的な人生―若者が根強く求めるものーの促進に専心しています。そのためには、声なき声の人々のために、世界の指導者に要求を突きつける「声」となる勇気が求められます-腐敗、戦争、武器の取引、麻薬の取引、天然資源の搾取を公然と非難することによって、そして、責任を持つ人々に改めるように求めることによって、「声」となる勇気です。より大きな版図の一部として、このことは、最も弱い人々を包含する責任-彼らが、自身の要求に対する答えを見つけるだけでなく、社会を作り上げるのに貢献できるような道筋を作ること-と切り離すことができません。

152. 今回のシノドスは「『労働は地上における人間の存在の基本的な特質』(聖ヨハネ・パウロ2世回勅「働くことについて」4項)であり、働く場が足りないことは、多くの若者にとって屈辱である」との認識に基づき、現地教会に、若い人々が先頭に立って仕事をするのを助けることなどを通して、彼らが世界の中で自分の席に就けるように助け、共に歩むように勧めます。このような経験は多くの現地の教会でされていますが、支援と強化がなされる必要があります。

153. 正義の促進は、教会の所有物の管理運営にも影響します。若者は、経済と財務が透明で一貫性をもって運営されている教会には親しみを持ちます。回勅「ラウダート・シ」が指摘しているように、環境保護の分野で勇気ある選択が必要とされていますー環境を大切にしないことが、新たな形の貧困を作り出し、若者たちが最初の犠牲者となるからです。

 様々な組織制度は変化しています。そしてこのことは、経済と財政の面で異なった生き方をするのが可能であることを、私たちに示します。若者たちは教会に対して、この分野で、その言葉を通して、だが何よりも、財務運営が人にも環境にもやさしくなれることを示す選択を通して、預言者となるように強く求めています。彼らと一緒になって、私たちはそれができるのです。

154.  環境問題に関する限り、教会における回勅「ラウダート・シ」の具体的な実施指針を示すことが重要です。今回のシノドスで出されたいくつかの発言で、社会政治的な契約に若い人々の場を提供することの重要性、そして、これに関して教会の社会教説が提示している資産、が強調されました。政治に参加する若い人々は、不公平な社会構造に真の変化をもたらすために働くように、支援され、奨励される必要があります。

      文化間、宗教間の文脈

155. 文化と宗教の多元的な共存は、若者の社会生活において増大する現実です。若いキリスト教徒たちは、彼らの信仰が自分たちの人生と日々の活動を一変させる効果を持つ時、福音の素晴らしい証しとなります。彼らは、他の宗教や霊的伝統を持つ若者たちに心を開くように、そして、お互いの知識を好意的に受け止め、偏見や既成概念からの回復をもたらす真の関係を維持するように、求められています。

 そうして、彼らは、宗教間と文化間の対話の新しい形の先駆者となるのですーそれは、排除、過激主義、原理主義から、そして、分派的ないしは大衆迎合的な目的のために宗教を操作することから、渡地たちの社会を解放するのを助けます。福音の証人たち、こうした若者たちは、自分たちの仲間とともに、多様性と、社会の結束と平和を作り上げるための社会的に責任のある宗教的誓約を包含する、市民としての活動の推進者となります。

 このほど、若者たちの提案で、異なる宗教と文化を持つ人々がともに生活を体験する事業が始まりました-そうすることで、明るく活き活きとした、互いの宗教に敬意を払う雰囲気の中で、皆が社会における共有する誓約を積極的に推進するように。

      教会一致の対話のための若者たち

156.  すべてのキリスト教徒の和解の行程に関して、今回のシノドスは、分かれたキリスト教共同体の間に一致を育ようとする多くの若者たちの熱意に感謝します。この方針に最大限の努力をすることで、若者たちはひんぱんに、自身の信仰の根を深いものにし、そして他者が与えてくれるものに向けて、真に心を開くことを経験するのです。たとえ何がしかの相違は残っていても、キリストが既に私たちをひとつにしていることを、彼らは直感的に知っています。

 教皇フランシスコが2014年にバルトロマイ総大主教を訪問された時に表明されたように、「完全な交わりに向けて、今、歩を進めるように、私たちを催促する」のは若者たちです。そして、これは彼らが、今なお私たちを分けている違いの重要性を知らないからではなく、違いを超えて見ることができるからです。彼らはすでに私たちをひとつにしている非常に重要なものを把握できる」(イスタンブールの聖ゲオルギオス大聖堂での教皇フランシスコのあいさつ=2014年11月30日)。

 

(以下翻訳・Sr.岡立子)

  第4章:欠かすことのできない人格形成

      具体性、総合性(多角性)、統合性(一体性)

157. 現在の状況は、社会現象と、個々人の経験の複雑さによって特徴づけられています。具体的な生活において、進行中のさまざまな変化は、相互に影響し合い、選択的な視点をもって対応することはできません。現実の中で、家庭生活と 専門的な任務(仕事)、テクノロジーの使用と共同体を経験する方法、胎児の保護と、移住者の保護など、全ては結びついています。 具体性は私たちに語っています。総合としての、人間 の人類学的ビジョンと、一つの知る方法について語っています。それは 結びつきを決して分離せずに捉え、経験をみことばの光の中で再読しながら学び、抽象的なモデルよりも模範的な証しによって霊感を与えられるに任せます。

 それは、視点の統合に向けられた、養成の新しいアプローチーさまざまな問題の絡み合いをとらえることができ、人格のさまざまな側面を統合することを知っている―を要求します。このアプローチは、御子の受肉の中に、神と人間、地と天の、切り離すことのできない出会いを観想する、キリスト教的ビジョンとの、深い調和の中にあります。

      教育、学校、大学

158.今回のシノドスでは、学校と大学の、専門的養成の、決定的で、かけがえのない務めが、特別に強調されました。なぜなら、それは、大部分の若者たちが、彼らの時間の多くを過ごす場所でもあるからです。

 世界のいくつかの地域では、基礎教育は、若者たちが教会に示す第一の、最も重要な課題です。ですから、優れた教師、活気のある専属司祭、真剣な修養の取り組みによって、この分野で大いに意味のある存在を示すことは、キリスト教共同体にとって重要です。

 カトリックの教育機関は、特別な考察の対象となる必要があります。若者に欠かすことにできない人格形成のための教会の配慮を示すものです。福音と一つの民の文化との出会いのための、そして研究の進歩のための貴重な場であり、信仰と現代世界の諸課題との、異なった人類学的な観点との、科学と技術の挑戦との、社会的慣行の変化との、そして正義への傾倒との、対話を可能にする人格形成のモデルを提示するように求められています。

 そのような環境のもとで、科学、芸術、詩、文学、音楽、スポーツ、メディアなどの分野における若者の創造性の促進に、特別な注意を払うことが必要です。そうすることで、若者は自分の才能を見出し、全ての人々の善のために社会に貢献することが可能になります。

     新しい養成者たちを準備する

159.教会に関する学部と大学に関する、最近の使徒憲章Veritatis gaudiumは、現代の課題に答えることのできる養成プロジェクトのための、いくつかの基本的基準を示しました。「kerygma(キリストの福音)の霊的、知的、実存的考察、すべての分野での対話、賢明さと創造性をもって実践される分野を超えた「ネットワーク」をもつ対話なとについてです。そうした基準は、全ての教育、養成分野に刺激を与えることが出来ます。何よりも先ず、賢明で、経験と真理を合わすことのできるビジョンをもつように助け、新たな教育者を養成するのに役立つでしょう。

 世界的なレベルで教皇庁立の諸大学は重要な役割を演じます。世界の地域、国のレベルで、カトリック大学や研究センターも同様です。
基本的な任務(役割)を果たしています。最高の水準と変わることのない機関の刷新を目指し、定期的な見直しをすることは、若者たちと教会全提出のための素晴らしい戦略的な投資です。

     宣教師の養成

160. シノドスの議論では、若者が中心となる場を与えることへの要請が増大していることが強く指摘されました。若者たちの他の若者たちに対して果たすべき信徒使徒職が速成できないのは明白です。それは、真剣で適切な養成の歩みの成果として生まれてくるべきものです。では、そのような成果を生む養成に、どのように寄り添うべきでしょうか?彼らが福音の真の証人となるために、どのように最良の道具を差し出すことができるでしょうか?

 このような問いかけは、また、たくさんの若者たちの「自分自身の信仰を、もっと良く知りたい」という希望との合致します。聖書の根源、キリスト教の教理の歴史的発展、教義の意味、典礼の豊かさを発見すること。それは、若者たちに、現代の問いかけーその中で、信仰は試練に置かれていますーについて考えることを可能にします。彼らが抱いている希望について、いつでも答えられるように。(ペトロの手紙1・3章15節参照)。 このために、シノドスは、若者のための宣教の経験が、若者たちや若い夫婦たちに対する福音宣教の養成センターの設置によって、福音宣教への派遣で完結する必須の経験によって、強められるよう、提案します。すでにこの種の試みはさまざまな分野でなされていますが、世界の全ての司教協議会が、自分たちの置かれた環境の中で実現を検討することが求められます。

     識別に寄り添う

161. シノドスの会議場には、若者たちのための教育への情熱、長時間にわたる持続、そして経済的な資源に多くの投資をするように、との心からの願いが響きました。討議で浮かび上がった様々な貢献や要望を集めながら、すでに進行中の熟練した経験に耳を傾けることも合わせて、シノドスは、確信をもって全ての教会、修道会、運動、団体、教会関係のその他の活動体に、若者たちに対して識別を考慮した寄り添いの経験を提供するよう提案します。

 こうした経験―それが継続する期間は、文脈と機会によって規定されるべきものですが―は、成人のキリスト者の生活の成熟へ進む時とみなすことができます。 そのような経験は、長期にわたる通常の環境、関係からの超越が含まれるべきであり、少なくとも三つの絶対に欠かすことのできない要素の周りに形成される必要があります。その三つの要素とは、年長の教育者と分かち合う共通の家の必須、純朴、敬意のこもった兄弟的生活の体験、共に生きるための力強く意義深い使徒的な提案、祈りと典礼の生活に基礎を置いた霊性の提示、です。この中に、召命の識別の深い体験を希望する若者たちに、教会が提供できる全ての要素があります。

     結婚への寄り添い

162 結婚への準備の歩みにおいて、その過程を整える様々な正しい方法があることを考慮しながら、二人に寄り添うことが重要であることを再認識すべきです。教皇フランシスコが使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」で言われるように「それは要理をすべて教えることではなく、主張しすぎて彼らをうんざりさせることであってもなりません。…

 それは、結婚の秘跡に向けての『手ほどき』のようなもので、彼らが申し分のない心構えをもってそれを受け、家庭生活をしっかりとした覚悟をもって始めるのに必要なものを彼らに示す」(207項)のです。特に結婚生活の最初の数年間、若い家族への寄り添いを続けることは、彼らがキリスト教共同体に積極的に関わることができるように、助けるためにも重要です。

     神学生と男女の奉献生活者の養成

163 司祭職や、男女の奉献生活への志願者たちの統合的な養成の特有な任務は、教会にとって重要な課題であり続けます。それはまた、男女の奉献生活者たちのための文化的、神学的、堅固な養成の重要性をも求めます。神学校に関しては、第一の仕事は「RATIO FUNDAMENTALIS INSTITUTIONIS SACERDOTALIS(神学校における霊的人間形成)」の新指針を理解し、実行することです。

 今回のシノドスでは、言及する価値のあるいくつかの重要な指摘がありました。第一に、養成担当者の選抜です。優れた資格があるだけでは十分ではありません。共感と深い内的な自由をもって相手の話を聴き、兄弟愛的な関係をつくる能力が求められます。

 第二に、新学生たちに十分に寄り添う中で必要なのは、女性も含めた区別された教育のチームでの真剣で的確な仕事です。異なる召命が影響しあう養成チームの構成は小さいがsynodality(共働性)の価値のある形であり、初期の養成において若者たちの心理に影響を与えます。

 第三に、将来の司牧者や奉献生活者の養成は、共同体のために自らを捧げるよう教えつつ、権限をもつが権威的ではない方法の導き手としての役割を果たす能力を育てることに注力せねばなりません。聖職者至上主義への傾向に打ち勝つこと、チームにおける作業の能力、貧しい人々に対する感受性、ライフスタイルの透明性、他の人々の寄り添いへの積極性など、いくつかの養成の基準に対して、特別な注意を払う必要があります。

 第四に、真剣な初期の識別は極めて重要です。それは、若者たちが、自らの過去について十分に知らず、深く学びもせずに、神学校に、養成の家に入ることを認められるケースが頻繁にあるためです。この問題は「彷徨う神学生」の場合、特にデリケートになります。関係と感情の不安定、教会のルーツの欠如は危険信号です。このような問題で教会の規定を無視するのは、無責任な態度です。キリスト教共同体にとって、とても深刻な結果を招く可能性があります。

 第五に、養成の共同体の規模に関してです。大きすぎるものは、非人格化がおき、歩みの中にいる若者たちに関する知識が不十分になるという危険を犯します。小さすぎる共同体は息が詰まり、依存の論理に悩まされます。これらのケースで、よりよい解決法は、明確な養成プログラムとはっきりと定義された責任のもとに、諸教区による神学校、あるいは諸管区が共有する養成の家にすることです。

    刷新を励ます三つの提案

164. 第一の提案は、信徒、奉献生活者、司祭たちのjoint formation(合同養成)に関してです。養成中の男女の若者たちが家庭と共同体の日々の生活と接触をー女性たちとキリスト者のカップルの存在に特別の注意を払いながらー保つことは重要です。このようにして、養成は、生活の現実に根差し、社会的、文化的文脈に組み込まれるような関係で特徴づけられるものとなります。

 第二の提案は、司祭職あるいは奉献生活への準備のプログラムに、よく計画されたプログラム、それに司牧と福音宣教の経験を通して、若者たちの 司牧に関する特別な準備を含めることです。

 第三の提案は、「RATIO FUNDAMENTALIS INSTITUTIONIS SACERDOTALIS(神学校における霊的人間形成)」の新指針の視点と精神による、人々と状況の確かな識別の中に、経験の視点と共同体の文脈で、養成の行程を援護する可能性について検討を求めることです。このことは、司牧的責任に段階的に組み込まれるのを準備する行程の最終段階で極めて重要です。その説明や実施の方法は、それぞれの国の司教協議会によって、新指針の地域版に従って提示することができます。

結論

     聖なる者となるように呼ばれて

165. 異なった召命の全ては、聖性への、唯一、普遍的な召し出しのもとに集められます。それは、一人一人の若者の心に響く、喜びと愛への呼びかけの成就に他なりません。聖性への唯一の招きに基づいてのみ、異なる人生のさまざまな形が一つにまとまることができるのですー 神が「私たちに望んでおられるのは、聖なる者となることであり、味気なく、平凡な存在に甘んじることではない」(教皇フランシスコの使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい、大いに喜びなさい)-現代世界 における聖性への呼びかけ」1項)と知りながら。

 聖性は、その尽きることのない源を、御父の中に見出します。御父は、ご自分の霊を通して、私たちにイエス、「神の聖者」(マタイ福音書1章 24節)をお遣わしになります。イエスは、私たちのただ中に来ました。私たちの生活の中に、喜びと希望を運ぶイエスとの友情を通して、私たちを聖なる者とするために。教会の通常の司牧全体の中で、イエスの幸いな現存との、生き生きとした触れ合いを回復することは、あらゆる刷新にとっての基本的条件です。

 聖性をもって、世界を目覚めさせる

166. 私たちは、若者たちが聖なる者となるように、聖なる者とならねばなりません。若者たちは、本物で、輝き、透明で、喜びに満ちた教会を叫び求めます。聖なる者たちの教会だけが、そのような求めに応じることができます。若者たちの多くは教会を離れました。それは、教会の中に聖性はなく、凡慮、思い上がり、分裂、堕落しか見つけられなかったからです。

 残念なことに、この世は、教会の人々の聖性によって活力を得るよりも、その中の何人かによる性的虐待に怒りを覚えています。教会は全体として、断固とした、速やかで、根本的な変革を成し遂げねなりません。若者たちは、聖なる者たちを必要としています。聖なる者たちは、「教会の最高に美しい顔は、聖性である」(使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」9項)ことを示しつつ、他の聖なる者たちを形作ります。あらゆる時代、場所、文化の男女が皆、理解できる言葉があります。直接的で輝いているから。それは、聖性の言葉です。

    若者たちの聖性に引きずられて

167. 今回のシノドスの行程の最初からはっきりしていたのは、若者たちが、教会の欠かすことのできない部分を構成している、ということでした。それゆえ、彼らの聖性も教会に欠かすことができません。若者たちの聖性は、最近の数十年間、世界のあらゆる場所で、さまざまな形で花開いています。福音に忠実であろうとして命を犠牲にした多くの若者たちの勇気に、このシノドス会期中、深く思いめぐらすことは、感慨深いものでありました。 シノドスに出席した若者たち-迫害のただ中で、主イエスの受難を共有することを選んだ者たち-の証言に耳を傾け、生きる力を感じました。

 若者たちの聖性を通して、教会は、その霊的な熱情と使徒的な活力を刷新することができます。多くの若者たちの良き生活によって生み出された 聖性の香り高い油は、いつも招かれている満ち溢れる愛へ私たちを連れ戻し、教会と世界の傷を癒すことができます。聖なる若者たちは、私たちを、初めの愛(ヨハネの黙示録2章 4節)に戻るように、突き動かすのです。

(監修「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

2019年3月6日

・米中対立本格化の中、「リベラル国際秩序と多国間主義の未来」を徹底討論、G7に提言ー言論NPO

(2019.3.4 言論NPOニュース)

私たちは3月3日、アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランスのG7加盟国の7カ国に、インド、シンガポール、ブラジルを加えた世界10カ国からのシンクタンクからの参加者が東京に集まり、今回で三回目となる「東京会議2019」を行った。

 世界を代表する10のシンクタンクが東京に集まるのは、戦後世界の繁栄を支えた個人の自由や民主主義、法の支配や、人権の尊重という価値、規範が動揺し、リベラルな世界秩序がさらに不安定化しているからである。

 そして、今、世界では多国間での国際協力が多くの分野で暗礁に乗りかけ、国際社会が分断に向かう可能性すら高まっている。

 そうした重大な局面に、これらの価値を共有する10カ国のシンクタンクはこれまで以上に力を合わせ、議論を行い、世界に声を上げようと考えた。

 私たちの強い問題意識は、ルールに基づく自由秩序と多国間主義の価値に基づく世界を守り、さらに発展させることにある。個人の自由や人権が尊重される世界こそが、私たちの希望なのである。

 今回、私たちは米中の対立を議論の柱に据えた。これは米中対立の行方が、世界経済やそのシステムに緊張を与えているからだけではない。世界は今、国際秩序の未来を決定づける一つの岐路に直面している、と考えたからである。

 この二日間、私たちは議論を行い、多くの点で共通の理解を得た。

 一つは、現在、深刻化する米中関係は、世界の政治経済システムの分断をもたらすべきではない。むしろ、より強いルールに基づく秩序の実現に向けてG7各国がリーダーシップをとらなくてはならない。中国をルールベースの国際経済システムの方向に向かうよう働きかけを続けるべきである。

 そして、何よりも私たち10カ国は、国際関係に自由主義的で、多国間主義に基づく価値や規範をより強く機能させるためには、現在、統治の機能や市民の信頼で多くの困難に直面している民主主義自体をより強靭なものにし、より競争力を高めなくてはならない。

 そして、難民や地球環境、貧困や感染症、大量破壊兵器の管理や軍縮、など多国間主義に基づく国際協力なくして解決できない課題にも対応しなくてはならない。今こそが、その努力を本格的に始める時なのである。

 東京会議における議論の結果として、今年8月にフランスで行われるG7首脳会議に向けたメッセージを出すことにした。G7こそがこの自由と多国間主義、そして民主主義という規範を尊重し、これらの価値や規範を実現するための強いけん引役になるべきと考えるからである。この「東京会議」に集まった10カ国のシンクタンクは各組織の規定の範囲内でこうした議論に参加することで、合意している。
この立ち位置から私たちは、以下の5点に焦点を当てた。

 第一に、G7各国は、個人の自由と民主主義、法の支配および人権やマイノリティーの権利の尊重といった価値の重要性を再認識し、その下での結束をさらに強化すべきである。G7が重視すべきは、ルールに基づく自由貿易と多国間主義に伴う国際協力を機能させることであり、個人の自由を基盤とする民主主義を支持することである。それがいずれも困難に直面していることを認め、より強いリベラルデモクラシーを世界で実現するための作業に共同で取り組むべきである。

 第二に、G7各国はルールに基づく自由貿易を堅持するため、現在、表面化する米中間の対立を既存の国際機関の進化を迫る歴史的なショックとして受け止め、より高いルールベースの経済秩序に向けた努力を開始すべきである。

 そのため、日米欧の三極で協議が進むWTO改革が実現するように結束して取り組み、非市場経済的な行動を制約し、デジタル経済の進展に見合うように、通商ルール自体の高度化を図るべきである。また、G7各国は、個人の権利と自由を保護し促進するためのデジタル技術とAIの適切な使用を提唱すべきである。

 第三に、G7各国はグローバル化やデジタル化の進展を世界全体の包摂的で持続的な成長につなげるためにも、不平等や国内の所得格差の課題に積極的に取り組むべきである。個人生活の安定や個人の自由の拡張、不平等の縮小はわれわれが発展させようとする秩序の土台として尊重すべきものである。

 第四に、G7各国は民主主義自体の競争力の向上に向け、より強靭な民主制度の再構築を急ぐべきである。ポピュリズムや強権政治に陥らず、民主政治に市民の信頼を取り戻すためには、民主主義の機能の意思決定を迅速化するとともに、新しい市民参加の方法を促進し、民主政治自体が課題解決に向かうサイクルを取り戻す必要がある。

 第五に、G7各国はリベラルな国際社会への支持を固めるために、グローバル問題に対して多国間主義に基づく解決の仕組みを標榜するG7以外の民主主義国や個人の自由と多様性を尊重するこれらの国の多くの市民とより連携を深めるべきである。また考えが異なる国々とも連携・協調する方法を模索するべきである。自由な秩序を守り、世界の課題に立ち向かうG7を中核とする取り組みは世界のより多くの人の支持に支えられ、守られるべきものである。

2019年3月3日
「東京会議」参加一同

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 「米中対立の行方とリベラルな国際秩序の行方」を全体テーマとする言論NPO主催の「東京会議2019」は3月3日、東京・ホテルオークラで公開フォーラムが開催されました。この「東京会議」は2年前に立ち上げられたもので、G7各国にインド、ブラジル、シンガポール(1回目はインドネシア)を加えた民主主義の10カ国の有力シンクタンクが参加し、自由や民主主義、世界が直面する課題を議論する場です。そして、議論の結果をG7議長国と日本政府などに提案することを目的にしています。

 今回は、世界が大きく変容する中、リベラルな秩序やマルチラテラリズムの将来、様々なグローバルの問題について同じ規範や価値を共有する10カ国で議論しました。

 戦後秩序が揺らぎ、民主主義が危機に直面する中、「東京会議」が世界10カ国のシンクタンクと協力して取り組むための場に

 開会の挨拶に立った言論NPO代表の工藤泰志はまず、現在、深刻化している米中対立と自由な秩序の問題について、「単なる貿易の問題ではなく、ルールに基づく国際秩序の問題であり、中国がこのシステムの参加者でいられるのか。中国を国際システムから排除するのは賢明ではないが、その可能性は少なからずある。ルールベースの世界秩序を守り発展させるためには、中国経済の構造改革の努力が必要で、それがなければ分断の危険性があるそれともシステムが分断するのか、今、世界は岐路に立たされている」との認識を示しました。

 さらに工藤は、「日本は米国と同盟関係にあり、多くの利害を共有している一方、中国は隣国で、日本は中国の改革開放に尽力してきた。自由で開放的な国際関係を守り、さらに発展させることが日本のゴールだ。対立のゴールは分裂でなく、さらに高いレベルの秩序を目指すべきだ」と説明。そのために、日本は、二つの大国のバランサーとして秩序を守るための努力をする必要があるが、民間側である言論NPOもそうした役割を果たしていきたい、と語りました。

 最後に工藤は、「戦後の秩序を支えた規範が揺らぎ、多くの国際協力が暗礁に乗り上げて民主主義そのものが危機に直面している。こうした危機に対して、価値観を共有する10のシンクタンクが力を合わせて取り組みたい」と、今年の「東京会議」にかける意気込みを語り、挨拶を締めくくりました。

アンケートから、米中対立の解決に揺れている有識者の見解が明らかに

 続いて工藤は、言論NPOが行った有識者アンケートを紹介しました。その中で、米中対立の現状について、5割近くの人が「新冷戦」と認識しており、米国の対中強硬姿勢については、6割以上が党派を超えた米国のコンセンサスだとみている結果となったことを説明。また、8割近くが、米国は中国を「戦略的競争国」として認め、中国の覇権的な行動を抑え込もうとしていると考え、米中対立の行方は、「安保なども含めた長期的な対立」、「国際システムの分断」と考える人も3割を超えている、と語りました。こうした米中対立の解決の手がかりを見いだす人はほとんどおらず、中国のルール順守に期待する人は2割にも達していません。さらに、WTO改革も7割以上が「実現しない」いと考え、中国がルールベースの経済をこれまでも目指していなかった、との声が7割を超えました。

 では、中国とリベラル秩序は共存できるのか、との問いに対しては意見が完全に分かれ、日本の有識者も揺れていることが明らかになりました。こうした結果を踏まえて工藤は、世論が過激になる前に、「冷静に、多角的にこの問題を考える必要がある」と語り、議論が始まりました。

米中摩擦は中国が輸入拡大すればよい、というものではなく、自由で開放された市場か、管理された市場か、という問題

_DZB1273.jpg まず、元米商務省審議官で米経済戦略研究所所長のクライド・プレストウィッツ氏が問題提起者として登壇しました。プレストウィッツ氏は、1980年代にレーガン政権下で日米貿易交渉の米側実務責任者として活躍し、日本の新聞には、日本を苛めた張本人として、「日本にとって、一番危険な人物」と自身が日本語で自己紹介、会場の笑いを誘いました。米議会で、米中問題に一番詳しいと言われる同氏は、「日米の問題は解決し、日本側の担当者とは良い友人になった。同じような経験を米中で、これから実現できることを願っている」と挨拶し、米中対立について説明し始めました。

まず、プレストウィッツ氏は、冷戦後、米国が勝者として浮上し、民主主義とグローバルな自由貿易への経済システムへの期待があったこと。1978年、鄧小平の改革解放で、米日欧の企業が進出し、当面は非市場経済国だが、市場経済になるという期待が広く共有され、中国政治も完全な民主国とはいかないまでも、共産党の役割の縮小を期待して、同氏は中国のWTO加盟に同意したことなど、これまでの歴史を振り返りながら、「現在の米中摩擦は偶然、起きたわけではない」と指摘しました。

 これまで、自由市場の方向に進めようと米中間では、2006年に始まり、18年まで半年ごとに自由なルールや技術移転、知財の保護を議論してきたものの、期待されたような中国の変化には至らず、逆に2012年以降、国営企業は強化され、2015年に中国は『中国製造2025』を発表して、ロボット、AIに関して自立、最先端技術でリーダー的存在になると宣言。これは、中国が自由秩序の代替モデルを持っているのだという宣言でもあった、とプレストウィッツ氏は語ります。

 同時に中国の軍備が拡大され、南シナ海で占領される島も増えるなど、「これらは今の摩擦に入る前に起きたことだ」と指摘。さらに同氏は、「米中摩擦は貿易の紛争なのか、とよく聞かれるが、『ノー』であり、中国が米からの大豆、天然ガスの輸入を増やせば解決する話ではない。基本的に、管理された市場か、自由で開放された市場か、という問題だ」と説明しました。また、米の有識者には、デカップリングは受け入れられない、中国は大きすぎ、投資しすぎているのでデカップリングはできないという議論はあるが、インターネットではデカップリングは既に起きている。それは中国自身が宣言した」とも話しました。

 こうした背景が示唆するところとしてプレストウィッツ氏は、「米中のみならず日本、EUとの間で何らかの解決策が確立することを願っているが、システムの崩壊を、より生産的な形で解決できるのか」と疑問を投げかました。さらに同氏は、サイバー窃盗やターゲティング技術に対応できておらず、WTOの役割は不十分であり、為替介入は多くの国がやっているわけで、IMF制度も不十分だとするなど、「ルールベースの秩序の再構築、という視点で米中の対立を考えなければいけない」と問題を提起しました。

米中対立は二国間交渉にゆだねることなく、グローバルな解決が必要になる

asakawa.jpg 続いて日本側から登壇した財務官の浅川雅嗣氏は「戦後、20世紀末くらいまでは、貿易はGATT・WTO、通貨はIMF、税の世界ではOECDと、マルチの政策協調によって世界経済の安定性を確保していこうという流れだった。その多国間主義に揺らぎが見えたのは90年代後半」と説明。そのきっかけの一つとして、1997年のアジア通貨危機において、IMFの処方箋がアジアの経済実態に合っていなかったこと、そして、ユーロの誕生」を指摘し、それまでのマルチ体制から、二国間あるいは地域主義の動きが出てきたことを紹介。そうした流れを継いで、2000年代は、日本も含めてWTOからFTAに、金融面でもASEAN+3を中心に地域独自の協力が芽生えるなど、多国間一辺倒から舵を切った、と経済界の流れを回顧しました。

 その後、2008年のリーマンショックを経て、グローバル化と経済のIT化によって経済全体のパイは増えたが、富の分配が不十分で格差が顕著になってきたことから、フランスがG7議長国として最も力を入れたいテーマの一つが不平等であることを指摘し、そうした背景にポピュリズムが台頭し、再び、グローバリズムから、ポピュリズムを背景にした二国間主義への帰趨が見られる、と浅川氏は語りました。

 日米貿易摩擦に日本はどのように対処していこうとしているのか。浅川氏は「貿易が不透明だと、投資が落ち込み、米中対立が続けば貿易量が縮小して、赤字解消にはならない。米中貿易摩擦の解消を二国間交渉だけに委ねることなく、グローバルな解決策が必要だ」と主張。その上で、米国は中国のWTO加盟で裏切られた苛立ちがあるだろうが、中国をエンゲージしていく努力を放棄してはいけないとして、デジタル課税の議論に中国も乗ってきていることから、こうしたマルチのチャネルによって、中国をマルチの経済システムに関与させていく努力を続けていく必要性を訴えました。

 日米二人の問題提起を聞いた工藤は、プレストウィッツ氏が貿易だけでなく、中国そのものの運営の仕方が公平ではないために、このままではやっていけないし、エンゲージは終わったのではないかと指摘する一方、浅川氏は、マルチな仕組みの中で中国をエンゲージする努力は続けていくべき、と指摘している点に触れ、「この議論をもっと深めるために、なぜ米国は中国への対応を根本的に変えたのか、米中対立の出口はどこなのか」、と問いかけました。

党派を超えて、中国に強硬な姿勢をとるということがコンセンサスに

_DZB1374.jpg 米国・外交問題評議会(CFR)バイスプレジデントのジェームス・リンゼイ氏は、1990年代に米国は中国を歓迎し、米国民のほとんどが、中国とWin-Winになり、中国はいずれ責任あるステークホルダーになると思っていたが、20年が経ち、「希望的観測だったのかもしれない」と語りました。そして、トランプ大統領の中国へのアプローチには、多くの米国人が懐疑的だが、現在は党派を超えて、ルールを搾取、無視し、リベラルな価値に敵対的な、異なる世界秩序のビジョンを持っている中国に対して強硬な姿勢をとる、とのコンセンサスがあると米国内の現状を説明しました。

 さらにリンゼイ氏は、今の米中対立は米国だけでなく、同盟国も含まれており、トランプは同盟国をなかなか助けないが、同盟国や友好国は中国に圧力をかけ続け、ルールに従うように言ってほしい、と語りました。

唯一の「解」は、米中構造対話で、中国に重層的な強い圧力で関与していく

kawai.jpg 東京大学公共政策大学院特任教授の河合正弘氏は、「米中摩擦は、貿易だけでなく投資、技術、安保に関わる問題だ」と強調します。10年以内に、名目為替レートのGDPで中国が米国を上回ることは確実視され、製造業の付加価値では中国が既にはるかに上を行っていること、さらにはテクノロジーでも中国が急速に伸びている点を指摘し、「そうした状況は一党独裁で進んでいる経済システム、管理された経済システムだからこそであり、米国が指摘している米中対立の根本は、突き詰めればその点にある」と河合氏。「デカップリングし、中国を切り離していいのか、それとも新たな圧力が必要なのか。問題提起者2人の認識はそれぞれ違うが、今までよりも強い圧力のもとに、中国をエンゲージしていくしか解はないのではないか」と強調しました。

さらに同氏は、米中間で構造対話の必要性を説くと同時に、二国間とマルチの対話、アジア地域レベルでの対話など、重層的に圧力をかけていくことの必要性を指摘。同時に、「中国国内にもTPP11に関心を持つ中国国内のエコノミストをはじめ、改革派がたくさんいる。彼らと連携して中国の中を変えていく、という多層的改革が必要だ」と前向きで、具体的な提案をする河合氏でした。

米中間の三つの分野の乖離とは

_DZB1412.jpg 中国を専門に分析しているフランス国際関係研究所(IFRI)中国研究担当ディレクターのアリス・イクマン氏は、「米中対立が貿易以上の問題であることには同感で、米中には大きな三つの分野での乖離がある」と指摘します。まず、地政学的な違いで、中台関係についての意見の違い、さらに北朝鮮問題では、中国は全く異なる立場をとっていて、アジア太平洋の安保のガバナンスを変えようとしていること。

 次に制度上の違いで、中国は明らかにブレトンウッズ体制が中国抜きで作られたと考え不満を持っており、グローバルなガバナンスを変えようとしていること。最後に、イデオロギーの問題で、中国はソリューションを提供できると言って、米国と違うグローバル・モデルをもたらそうとしていること、具体的には中国は習近平の下、同盟の概念を排除し、非同盟方式を導入、新しい安保体制を作ろうとしている、と3つの分野における乖離を主張するエクマン氏でした。

 さらに同氏は、今後の方向性として、全世界が冷戦のようなものではなくても、もう一度二極化が起こる、と予測します。中国は混乱を歓迎していて、誰が誰の友人なのかが非常に複雑になってくる中、中国は独りではなく、ロシアとの関係強化や途上国との連携を強化しており、曖昧な二極化は民主主義にとって良いことではなく、明確化すべきではないか、と語りました。

米中のどちらかに付く、という選択は避けなければいけない

 この他、様々な意見が出されました。

_DZB1437.jpg 「米中対立は東南アジアにとって好ましいものではない。東南アジアは地域的に中国に近く、人的交流も盛んであるから、米中対立が正面衝突にならないようにお願いしたい」と語るのはシンガポール・S.ラジャトナム国際研究院(RSIS)副理事長のオン・ケンヨン氏。同氏はさらに、「状況の不安定化の動きにどう対抗していくか。既存の経済秩序があらゆる国に裨益するように、国際社会での合意を果たし、米中、どちらかの側につくかというのは避けていかなければならない。一方で、世界の制度は過去に作られたものであり、変えていく必要はある。そうした再構築をしていく役割を日本のような国が中心になってその方法を探求してほしい」と話すのでした。

_DZB1454.jpgカナダのセンター・フォー・インターナショナル・ガバナンス・イノベーション(CIGI) 総裁のロヒントン・メドーラ氏は、中国をシステムに入れた方がよいのか、それとも孤立させたいのかとの問いに対して、「今は中国を追い出す時期ではない」と主張。一方で、急速に進んだグローバル化により、気候変動やサイバーガバナンスなどの新しい課題について国際社会で摩擦が出てきており、これまでのルールでは対応できていないと指摘し、ゲームのルールを改善する必要性を訴えました。

 「米中対立の本質、出口の考え方が出揃った」とする工藤でしたが、「ホワイトハウスを見ていると政権内で温度差がある。トランプは中国を構造的に変えたいと本気で思っているのか。赤字を減らすだけなのか。より根本的なのは、中国に対するプレッシャーは何を目的にしているのか、構造改革を迫っているのか、あるいは、改革は無理だから孤立させるのか。トランプの言動は、リベラル秩序を考えることを気づかせてくれたことでは意味があるが、中国の孤立を求めているとすれば違うのではないか」と、米側に迫りました。

株価が上がれば満足するトランプ大統領は、何を考えているか分からない

 プレストウィッツ氏がこれに答えました。米の議会、産業界などには、ルールベースの秩序を目指している人もいれば、中国の交渉に関わってきた人は、もっと中国に迫っていかないと前進できないと考えており、「いろんな要素がアメリカには存在している」と説明。

 トランプ氏自身については、株式市場を見て、株価が上昇すれば自分の政策はうまくいっていると満足する人間で、「何を考えているか分からない」との認識を示します。一方で、米国通商代表部(USTR)代表のライトハイザー氏については、中国の前向きな対応に期待しているとしつつも、二つのシステムの共存を想定することは困難で、ライトハイザー氏としては、より中国に依存しない方向を目指していると思う」と、冷静な口調で話すプレストウィッツ氏でした。

中国は既にブレトンウッズ体制に組み込まれている

 浅川氏は、エクマン氏が、「ブレトンウッズへの中国の反発」と指摘した点について、「中国の通貨体制がブレトンウッズ体制に組み込まれていることは事実」と主張。さらに、中国は3兆ドルの外貨準備を持っており、その多くは米国債で、ドル基軸通貨体制で運命を一にしていること、また、中国がいろんな国に借款を出しており、ベネズエラやパキスタンでは、債権者で最大のシェアだが、そうした国では焦げ付きが起こり、中国も我々と同じ悩みを持っている」と話します。さらに浅川氏は言葉を続けます。「中国の少子高齢化は着実に進み、潜在成長率は落ちていく。その時、中国経済が破綻したら人民元は暴落し、世界経済にショックを与えてしまう。既に中国は、我々の経済システムに組み込まれているので、構造問題をソフトに解決してくれないと、世界経済は大変なことになる」と話し、中国経済と国際経済は切っても切れない状況になっていることを説明する浅川氏でした。

 工藤はさらに「WTO改革には二つの側面があって、デジタル貿易など新しい分野への対応と、紛争解決機能で、WTOを新しい時代へアップデートできるのか。ここまで経済が連携していると、サプライチェーンのデカップリングは本当に起きるのか」と疑問を投げかけます。

中国は、WTOで経済大国、先進国として振る舞い、支える側になれ

 河合氏は、「ドーハラウンドが全般的にまとまらなかったのは、途上国と先進国の関心事が違ったから」と説明。特に大きな問題として挙げたのは、途上国の定義でした。WTOでは自国は途上国である、と主張すれば途上国の扱いになり、WTOで決められたルールで守らなくていいものが出てくる。中国は1人当たり所得から見れば途上国であるが、WTOが機能していくためには、中国の役割が非常に重要になる、と河合氏。それは中国にとっても、これからの貿易投資を進めていくにはWTOが重要なために、中国が率先して、発展途上国だが経済大国であり、技術大国であり、対外債権大国である、と先進国として振る舞い、WTOを支える側に回っていくように促していくことが重要だと話します。さらに河合氏は、「完全なデカップリングは不可能ではないかもしれないが、膨大なコストがかかり、メリットはない。トランプ氏は株価にこだわっており、トランプ政権でデカップリングはできるはずがない。むしろ、中国が変わる方向に促すことが重要だと」繰り返し語るのでした。

 プレストウィッツ氏は、イギリスのEUからの離脱やトランプの当選は、グローバル化のコストに悩んでいる人がいたからであることに触れ、大学では、自由貿易はWin-Winだと刷り込まれてきたが、明確にできないことがあり、デカップリングのコストは、従来の考え方に縛られてはいけない、との認識を示します。さらに同氏は、グローバリゼーションのコストについては、これまでエコノミストも考えてこなかったが、グローバル化を20年間経験してきた結果ナショナリスティックな政治が台頭してきており、それ自体ハイコストだ」と、今の社会を嘆くようでした。

_DZB1569.jpg これに続けてイタリア・国際問題研究所(IAI)副理事長のエットーレ・グレコ氏は、政治的な対立が進化するとお互いに報復が始まる。その結果、どこかの時点で政治的緊張関係が上回り、経済的関係がダメージを受けること、つまりディカップリングはあり得ないと言い切れない、と主張しました。

私たちの価値観は何か、それをどう守るか、ということを考える時期に

最後に、今回の議論の総括を求められた浅川氏は、中国経済の行く末は楽観視はできないが、中国も改革の努力が必要なことは認識してり、それを外から支えていく。グローバリゼーションは今後も止めることができないために、果実の再分配をどうするかを考える必要がある、との認識をを示しました。

 プレストウィッツ氏は「中国との交渉の背後に何があるか、パネリストの間でも分断がある。アジアの国は選択したくない、というコメントが出たのが印象的だった」と今回の議論を振り返りました。さらに同氏は、法の支配、言論の自由を私たちは信じているのか。開放された市場が良いと信じているのか、というように価値観に関する疑問が出たことについて、「究極的には、我々の価値観は何か、どう守るかに行き着くのかを考える時期に来ている」と締めくくり、第一セッションは終わりました。

 

2019年3月4日

・273人の識者が見た「米中対立とリベラルな国際秩序の将来」ー「東京会議2019」有識者アンケート結果

(2019.3.2 言論NPOニュース)

 言論NPOは3月3日(日)、現在深刻化する米中対立の行方とリベラルな国際秩序の今後を議論するため、G7加盟国とブラジル、インド、シンガポールの計10カ国から世界を代表する有力シンクタンクの代表者を迎え、「東京会議2019」を開催いたします。

 この会議を前にした2月21日から3月1日までに言論NPOの議論づくりにご協力いただいている2000人を対象にアンケート調査を行い、273人から回答をいただきました。ご回答いただいた皆さま、ご協力ありがとうございました。

※属性などのアンケート概要については、最下部をご覧ください

1.米中対立の行方

現在の米中関係を「新冷戦」だと捉える人が半数近い

現在、米中対立が深刻化していますが、この米中対立の現状について、「新冷戦」の状況にあるかと尋ねたところ、「そう思う」(47.3%)との回答が「そう思わない」(37.7%)を上回りました。

【米中関係は”新冷戦”状態か】

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米国の対中強硬姿勢は、党派を超えた米国のコンセンサスとの回答が6割超

次に、米国の対中強硬姿勢について、トランプ政権に限らず、共和党・民主党の党派を超えた米国のコンセンサスか、との問いには66.3%と6割を超える人が「そう思う」と答え、「そう思わない」(28.2%)を大きく上回りました。

【対中強硬姿勢は米国のコンセンサスか】

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8割の人が、米国は中国の覇権的な行動を抑え込もうとしていると回答

こうした米国の対中姿勢については、79.9%と8割の人が「中国を米国にとっての『戦略的競争国』だと認め、様々な中国の覇権的な行動を抑え込もうとしている」と考えており、「中国が改革開放の原点に戻り、ルールやリベラルな秩序を遵守するように迫っている」は14.3%にとどまっています。

【米国の対中姿勢をどう見るか】

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米中対立の行方について、識者の中でも見方が分かれる結果に

では、こうした米中対立の行方について尋ねたところ、最多となったのは「現時点では予測できない」(23.1%)との回答でした。しかし、「対立は世界を巻き込み、グローバル秩序や国際システムの分裂にもつながっていく」(18.3%)、「通商面での対立は長期化するが、他の分野には飛び火しない」(17.9%)、「対立は激化し、政治や外交・安保など他分野も含めた2国間対立に発展する」(17.6%)、「中国が妥協し、対立は徐々に下火になってい」(14.7%)というように各回答が拮抗しており、有識者の中でも見方が分かれました。

【米中対立の行方】

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米中交渉の行方については、交渉延長・追加関税引き上げの見送りが7割に迫る

3月1日に期限を迎えた、米国の対中追加関税引き上げについては、「交渉延長となるため、追加関税引き上げは見送りとなる」が67.8%と7割に迫り、「交渉は妥結に至らず、追加関税が引き上げられる」(9.2%)、「交渉が妥結し、追加関税引き上げは取り止めとなる」(8.8%)を大きく上回りました。

※その後、2月28日にトランプ政権は中国との貿易摩擦解消に向けた交渉の延長を正式表明すると同時に、通商代表部(USTR)は3月2日に予定していた中国製品への追加関税率引き上げを、期限を定めずに延期すると発表している。

【米中交渉の行方】

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日米欧で始まったWTO改革については「実現しない」との回答が7割超

続いて、現在、WTO改革を巡り、日本・欧州・米国の三極の協議が始まっていますが、米国や中国が納得できるWTO改革が実現すると思うかを尋ねました。その結果、73.3%と7割を超える人が「実現しないと思う」と答え、「実現すると思う」(11.7%)を大きく上回り、WTO改革の成功には懐疑的な見方を示しました。

【米中が納得するWTO改革は実現するか】

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7割を超える人が、中国製品の排除を容認すると回答

昨年の12月から米国が中国の華為技術(ファーウェイ)などの製品を政府調達などから排除する強硬策に出ており、同盟国でも同様の動きが広がっています。こうした対応への評価について、最も多かったのが「正しいとは思わないが、やむを得ない対応だと思う」(45.8%)との回答で、これに「正しい対応だと思う」(28.9%)が続き、今回の対応を容認する声が74.7%と7割を超える結果となりました。

これに対して、「誤った対応だと思う」は16.1%にとどまっています。

【中国製品排除は妥当か】

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今後の中国は、対抗姿勢は控え「韜光養晦」路線に戻るとの回答が6割超

今回の米中対立について、中国がどのような対応をとると思うかを尋ねたところ、「あからさまな対抗姿勢は控え、”韜光養晦(とうこうようかい)”路線に戻る」(63.4%)との回答が6割を超えて最多となりました。

一方で、「一歩も引かずに米国への対抗姿勢を強めていく」(11%)との強硬路線や、「改革開放の原点に立ち戻り、市場経済化や国際ルールへの遵守を可能な限り進めていく」(10.3%)との軟化路線はそれぞれ1割程度にとどまっています。

【中国は米国にどう対応するか】

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中国主導の秩序とリベラル秩序の共存については、意見が真っ二つに

中国が進める党や国家主導の秩序と、リベラルな秩序が今後共存していくことは可能かを尋ねたところ、「何らかの形で双方がルールを共有すれば、共存は可能である」(45.4%)と「中国型の秩序はリベラルな秩序と全く相容れないものであり、共存は不可能である」(44.3%)との回答が拮抗し、有識者の間でも意見が分かれました。

【中国主導の秩序とリベラル秩序は共存可能か】

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中国が進めてきた改革開放の動きについては、意見が分かれる結果に

これまで中国が進めてきた改革開放の動きについては、「経済成長のために市場経済化を進めるという意思は当初はあったが、結果は中途半端で途中から国家主導の経済色を逆に強めた」との見方が36.6%で最多となったものの、「改革開放はあくまでも経済成長の手段にすぎず、そもそも市場経済を目指すつもりはなかった」(34.8%)との回答と拮抗しています。

また、「中国はいまだ改革開放や市場経済化の途上にある」との回答も24.5%存在しています。

【改革開放は本当に市場経済化を目指していたのか】

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9割の人が、中国は米国の安全保障上の脅威と回答

中国が米国の安全保障上の脅威となるかどうかを尋ねたところ、「今後そうなると思う」(47.3%)が最多となり、「既にそうなっていると思う」(42.1%)を合わせると、89.4%と約9割の人が、中国は米国の安全保障上の脅威になると考えています。

「そうはならないと思う」との見方は7.7%しかありません。

【中国は米国の安全保障上の脅威となるか】

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4割の有識者が「南シナ海」と「台湾」での米中軍事紛争勃発を予測

米中間での軍事紛争については、「起こらないと思う」との回答が「朝鮮半島」(67%)、「東シナ海」(59%)、「南シナ海」(46.5%)、「台湾」(44.7%)のいずれの地域でも最多となりました。ただし、「南シナ海」では40.7%、「台湾」では39.2%とそれぞれ4割の有識者が米中軍事紛争は「数年以内に起こると思う」、「将来的には起こると思う」と予測しています。

【米中軍事紛争が起こる地域】

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2.リベラルな国際秩序の未来

5割を超える人が、欧米の民主主義の動揺に対する危機感を示した

世界の情勢は依然として不安定な状況が続いている中、56.4%と5割を超える人が懸念すべきこととして「米国や欧州などの先進民主主義国で、民主主義への信頼が揺らぎ、ポピュリズムや権威主義的な傾向が高まっていること」を挙げ、民主主義の動揺に対する危機感を示しました。

これに「多くの国が内向き志向となり、世界の課題にリーダーシップを持って取り組む国が少なくなり始めたこと」(42.1%)、「自国第一主義の傾向が強まり、多国間主義に基づく経済協力の仕組みが崩れ始めていること」(41.4%)、「ルールに基づく世界の自由秩序が壊れること」(27.5%)が続いています。

「世界の秩序が、巨大国家間の交渉で形成される可能性が出てきたこと」を挙げた人は、13.2%にとどまりました。

【世界情勢が不安定な中、特に懸念していることは】

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約9割の人が、多国間主義は何らかの形で続いていくと回答

トランプ大統領の誕生以降、多国間主義を基調とした国際協力が機能していない状況が続いています。こうした状況下で、多国間主義の今後について尋ねたところ、「多国間主義は破綻はしないが、現在の不安定な状況が続く」との回答が68.5%と7割に迫り、最多となりました。これと「問題があったとしても多国間主義は今後も存続していく」(19.4%)との回答を合わせると、87.9%の有識者が何らかの形で多国間主義は続いていくとの見方を示しています。

一方で、「多国間主義は破綻し、超大国間の交渉で物事が決まるようになる」は6.6%にとどまりました。

【多国間主義の今後】

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不安定な状況が続くも、現在の国際秩序は続いていくとの回答が6割を超え最多

ルールに基づく自由な秩序の今後については、「不安定な状況は続くが、現在の国際秩序は存続していく」(62.3%)との見方が最多となりました。
「大国間の対立によって秩序に亀裂が入り、やがて分断していく」という悲観的な回答は18.3%と2割程度です。

もっとも、「現在の危機を乗り越え、将来的にはより強固な秩序となっていく」という楽観的な回答は7.3%にとどまりました。

【ルールに基づく自由な秩序の今後】

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リベラルな秩序や多国間主義を守るため、
「アメリカ」と「日本」のリーダーシップに期待

リベラルな秩序や多国間主義を守るために、どの国・地域がリーダーシップをより発揮するべきかを尋ねたところ、「アメリカ」との回答が54.6%で最多となり、48.7%で「日本」、「ドイツ」が28.9%で続きます。「中国」との回答も15.4%と一定数存在しています。

その他の国や地域は1割にも達しませんでした。

【リーダーシップを発揮すべき国はどこか】

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続いて、日本がリベラルな国際秩序を立て直すためにリーダーシップを発揮することは「可能だと思う」との回答が56%と過半数を超え、「不可能だと思う」との回答の36.6%を上回りました。

【日本はリーダーシップを発揮できるか】

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3.グローバルガバナンス

2019年に最も優先すべき課題として、「サイバーガバナンスの管理」が最多に

世界が直面するグローバル課題の中で、2019年に最も優先すべき課題を挙げてもらったところ、「サイバーガバナンスの管理」(38.8%)が最多となり、「国際経済システムの管理」(37.4%)、「気候変動抑止及び気候変動による変化への適応」(33.3%)、「核拡散防止」(32.2%)の4つの課題が3割を超えました。そして、「国際的暴力紛争の防止と対応」(20.1%)、「国際テロ対策」(16.8%)が続きます。

一方で、「国際貿易の拡大」(4.8%)、「国内暴力紛争の防止と対応」(4%)、「国際開発の促進」(2.9%)、「グローバルヘルスの促進」(2.2%)の4つは1割に届きませんでした。

【2019年最も優先すべきグローバル課題】

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グローバルガバナンスの評価について、
「機能している」が半数を超えたのは3つにとどまる

グローバルガバナンスの現状についての評価は、「機能している(「どちらかといえば」を含む)」との回答が半数を超えたのは「国際貿易の拡大」(51.7%)、「国際テロ対策」(51%)、「国際開発の促進」(50.2%)の3つの課題にとどまりました。

反対に、「機能していない(「どちらかといえば」を含む)」との回答が最も多かったのは「サイバーガバナンスの管理」(78.7%)で8割に迫りました。これに、「気候変動抑止及び気候変動による変化への適応」(68.1%)、「核拡散防止」(66%)、「国際的暴力紛争の防止と対応」(62.6%)、「国際経済システムの管理」(51.3%)、「国内暴力紛争の防止と対応」(50.2%)が続き、6つの課題が過半数を超えました。

【グローバルガバナンスの現状評価】

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今後言論NPOが取り組むテーマは、
「世界秩序の今後」、「民主主義の未来」、「インターネット、サイバー」、「北東アジアの平和」

最後に、今後、言論NPOが世界課題でどのテーマについて議論すべきかを尋ねたところ、最も多かったのが「世界秩序の今後」(58.6%)で、「民主主義の未来」(56.4%)、「インターネットの未来とサイバーセキュリティ」(51.7%)、「北東アジアの平和」(50.9%)の4つのテーマで半数を超えました。これに「多国間主義に基づく国際協力の今後」(46.2%)、「グローバリゼーションと経済格差」(42.9%)が4割台で続いています。

【今後、言論NPOが議論すべきグローバル課題】

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有識者アンケートの概要

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2019年3月4日

・阿部仲麻呂神父の私見「性的虐待へ個人的感想と解決策の提言」

阿部仲麻呂

■個人的な感慨;

*「名前をもつ、かけがえのない、ひとりの尊い人間」として被害者の話を聴き、時間をかけてその境遇を理解する姿勢を見せる必要がある。匿名の統計上の話題のもってゆきかたをしないようにする、繊細で丁寧なかかわり方が重要である。

*イエス・キリストのことばが想い出された。ー「私を信じるこれらの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、その首にろばのひきうすをつけられて、海の中に投げ込まれるとしても、そのほうがその者にとってはまだました」(マルコ福音書9章42節)。

*児童虐待・性的虐待は、子どもの成長を阻害する「犯罪」であり、それ以上に「たましいの殺人」に等しい重大問題である。

*「子どもの成長を阻害すること」は貧しい青少年を社会に増やす結果につながり、社会的文化への重大な背信行為でもある。

*児童虐待・性的虐待への積極的対応を心がけることは、貧しい青少年の諸問題を専門的に解決する使命を生きるサレジオ会の専権事項である。それゆえ、この問題に対処するための専属の会員を任命する必要がある。

■解決策としての提言;

*日本のカトリック教会全体レベルでの児童虐待問題に対処する客観的な第三者を含めた研究チームを発足させる。

*児童虐待被害者や家族のためのケアのための連絡部署を設ける(すでに在る部署を拡大専属化し活動を活性化する)。

*日本のカトリック教会の児童虐待などの調査報告書を作成して教皇に報告し、今後の具体的刷新策を社会的にも公表する。

(2019年2月21日記)

2019年3月2日

・主要な男女諸修道会の総長連合による声明(UISG /USG)について(解説と全文試訳)

(2019.3.2 カトリック・あい)

 先の”性的虐待サミット”を前に、世界の主要修道会総長連合の声明が出されたことはすでに報道していますが、声明の解説と全文試訳を阿倍仲麻呂さまからいただきました。日本の教会の対応を考えるうえでも重要な内容が多く含まれていると思われます。以下に掲載させていただきます。

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■ニュース;「ローマ教皇庁における教皇フランシスコによる、未成年者の保護に関する会議」に先立つ、主要な男女諸修道会の総長連合による声明(UISG /USG)について

 2019年2月19日に、主要な男女諸修道会の総長連合(USIG / USG)は、2月21日から24日に行われる「未成年者の保護に関するバチカンでの会議」の開催前に、あらかじめ教皇フランシスコに謁見して、次のような声明を発表しました。

 「子どもの虐待は、いつでもどこでも、決して容認されません。この点については妥協の余地はありません!」。虐待の危機に対処する上で、これから全世界の司教協議会の会長を招集して行われる、教皇フランシスコによる指導に賛同し、諸修道会の総長たちが総力を挙げて協力することを今回の声明文が誓約しています。いくつかの重要な箇所を以下に引用しておきましょう。(阿倍仲麻呂)

「修道者としての私たちの使徒職のさなかに、子供たちが虐待され、無視され、いじめられ、望まれないという数々の状況に出くわしました」と、声明は述べています。 そして次のようにつづけます。

 「たしかに私たちは直面しているのです。子どもの兵士、未成年者の人身売買、未成年者の性的虐待、未成年者の肉体的および精神的虐待がはびこっており、彼らは私たちに対して叫びをあげているので。私たちは大人として、キリスト者として、修道者として、彼らの生活が変えられ、彼らが育まれる状況が改善されるように働きたいのです」。

 「私たちは、そのような虐待が伝統的な修道会や近代以降の修道団体においても、そして何よりも私たちの教会そのものにおいて起こっているという現実に直面して謙虚に頭を垂れざるをえません。私たちは、教会および教会外のより広い社会で、これまでとは異なる文化を創るべき必要性を感じます。つまり、子どもたちが大切にされ、子どもたちの保護が促進される文化をこそ必要としているのです」。

 「私たち自身の回心のためにも、私たちは被害者たちによりよく耳を傾けるために最善を尽くします。そうは言いながらも、これまでいつでも相手に耳を傾けてこなかったとは限らないことをも謙虚に認めます。私たちは、権限のある者に対して要求される説明責任に関して、この修道者会議で決定されたことを実行するでしょう」。

*2019年2月21日から24日まで、サレジオ会総長およびチェレダ師は、教皇フランシスコとすべての司教協議会の会長とによって執り行われる「未成年者の保護に関するバチカンでの会議」に参加します。それゆえ、どうか、特に祈りを捧げてください。

2019年2月19日、ヴァツラフ・クレメンテ

■主要な男女諸修道会の総長連合(伝統的修道会および近代以降の修道団体;USIG / USG)による会議における声明文;全文 [2019年2月19日]

1.はじめに

 2月21日から24日にかけて教皇庁で開催される「未成年者の保護に関する会議」が始まるに際して、私たち世界中の伝統的修道会および近代以降の修道団体の主要な上長および修道者各人は、教皇フランシスコの主導的な姿勢を支持し、団結します。

 私たちは修道者としての使徒職のさなかに、子どもたちが虐待され、ぞんざいに扱われ、いじめられるという、望まれない数多くの状況に出くわします。たしかに私たちは直面しているのです。子どもの兵士、未成年者の人身売買、未成年者の性的虐待、未成年者の肉体的および精神的虐待がはびこっており、彼らは私たちに対して叫びをあげているのです。だからこそ、いま、私たちは大人として、キリスト者として、修道者として、彼らの生活が変えられ、彼らが育まれる状況が改善されるように働きかけたいのです。

 これらすべての問題に共通するテーマは脆弱性です。子どもたちは私たちの社会で最も弱い立場にあります。貧困状態にさらされている子ども、身体に障害のある子ども、あるいは成長を阻害されている子ども、限界に突き当たっている子ども、より低い社会階級またはカーストに属している子どもは、どうにも解決策のない脆弱性を持つ可能性があります。そのような状態に置かれている子どもが、大人たちから消費され(都合よく使用人扱いされて利用され)、虐待されることになるのです。

2.教会における性的虐待

 今回の特別集会は、子どもたちに対する性的虐待、そして教会の権威者、特に司教、司祭、そして修道者による権限および良心の濫用に焦点を当てています。それは何十年にもわたって積み重ねられてきた現実であり、この状況において虐待を受けた人びとにとっては計り知れないほどの痛みの物語をつむぎだしています。

 そのような虐待が、私たちの伝統的な修道会や近代以降の修道団体も含めて、そして何よりも教会全体で起こったという事実を認識するにつけて、まことに申し訳なく感じます。私たちは、すでに、虐待する人たち(加害者たち)が意図的に自分たちの行動を隠し、操作していることを学びました。このような悪意に満ちた行動の仕方を定義づけて明らかにすることは、まことに困難です。私たちの申し訳なさは、私たち自身もいったい何が起こっているのかを理解していないことによって、ますます増大します。

 世界中の伝統的な修道会および近代以降の修道団体をみわたすにつけて、権威ある立場にある者たちの反応が本来あるべき姿ではなかったことを、私たちは認めます。彼らは警告のサインを見なかったか、あるいは真剣にとらえていなかったのです。

3.会議(「未成年者の保護に関する司教会議」2019年2月21-24日)への期待

 2月21日から24日にかけて、教皇フランシスコが世界中の司教協議会の会長を招集して開催する会議に対して、私たちが願うのは、この3日間に聖霊が力強く働くことです。 3日間の会議は短い時間です。しかし、教会を通して新たな風が吹いていて、すべての参加者に善意があれば、説明責任の重要なプロセと構造を始め、すでにあるものを変革することができると、私たちは確信しています。

 さまざまな文化を適切に尊重しながら、具体策を迅速かつ普遍的なかたちで進めることができるように、新たな前進のステップをイメージし、決定を下すことができるようになります。子どもの虐待は、いつでもどこでも決して行われてはなりません。この点については、一切の妥協の余地はありません。

4.教皇の指導力

 教皇の指導力が、鍵です。彼は、これまで、さまざまな分野で、その手腕を発揮してきました。彼は、虐待を受けた子どもたちの痛みを認め、謝罪の念を深めました。彼は被害者たちと面会しました。彼は自分の過ちに気づくと同時に、これらの被害者たちから学ぶ必要があることを認めました。私たちも、教皇の責務に協力し、これまでなされた過ちを謙虚に認め、告白します。被害者たちに手を差し伸べるために。虐待された人びとに寄り添う方法を、私たちは被害者たちから学びます。

 そして、彼らが自分たちの痛みの物語を私たちに聞かせたいと望んでいるという事実からも学ぶことが欠かせません。私たち自身の成熟のためにも、私たちは被害者によりよく耳を傾けるために最善を尽く
すことを約束すると同時に、それがいつもそうであるとは限らないことを謙虚に認めます。今回の会議で決めたことを着実に実施します。

5.子どもたちの安全を守る文化(セーフガードの文化)

 私たちは、教会と教会外のより広い社会において、これまでとは異なる文化の在り方を必要としています。つまり、私たちは子どもたちが大切にされ、子どもたちの保護が促進される文化を必要としています。新たな文化の在り方を創り出すためのステップは、以下のとおりです。

(1) 教育と医療:私たちが運営するカトリック学校や病院を通して、私たちは新たな価値観を生み出すことができます。これらの機関は現在、虐待の問題に対する認識が高まり、よりよい運営方針とより高い水準の保護のための対策が導入されています。これらの場所の子どもたちは、これまで以上に安全です。たしかに、すべての場合に当てはまるわけではありませんが、私たちの実践は他の人にとってのモデルになることがあります。

(2 )養成:私たちは未成年者や弱い立場にある成人の保護を修道会の養成プログラムに統合し、あらゆる段階で、養成者と養成を受けている人びとの両方にとって適切な指導および教育を確実に与えます。文化的な現状に挑戦する必要があります。先に述べたように、文化や背景がどうであれ、子どもの虐待は決して許されない、または容認できるものではないからです。

(3)霊性(スピリチュアリティ):私たちは霊的指導の専門機関(スピリチュアリティ・センター)に、信仰を深め、人生の意味を問う姿勢で闘い、生きるうえでの助けを求めたいと切望するいかなる被害者に対しても特別な働きかけをするよう求めます。個人的な方法でイエスと出会うことが、私たち全員をいやすことができるものなのです。

 しかし、私たちはまた、聖職者および修道者に虐待されたことのある人は、教会そのものや教会を代表する人からも遠く離れたままでいたいと願うかもしれない、という事実をも理解しています。

 しかし、私たちは、それでも、いやしの旅を歩み始めたいという被害者がいることを知っています。そして、彼らと一緒に旅をするために謙虚に努力します。個人の成長といやしを強調する精神性があることそのものが、数多くの被害者たちにとって特別な贈りものとなり恵みとなるのです。その際に、これまで伝統的になされてきたような罪についての語り方には、特に注意が必要です。虐待された人びとは、しばしば罪悪感や恥や罪意識さえも持ってしまっており、自分を責めています。

 しかし、実際には、彼らにはまったく罪がありません。むしろ、彼らは「加害者によって被害をこうむった者」なのです。これらのステップを、私たちの修道生活をとおして展開される使徒職のなかで洗練させることで、教会全体の歩みを助けることができるようになります。

6.回心

 教皇フランシスコは、虐待との戦いを妨げてきた聖職者中心​​主義の発想を厳しく戒めています。まさしく、虐待の根本的な原因の一つが聖職者中心主義なのです。それに加えて、伝統的な修道会および近代以降の修道団体における家族的な強い連帯意識が――このような家族意識は通常はとてもポジティブなことではあるのですが――虐待の事実を認めずに隠し、明るみに出すことを、より困難にする危険性をはらんでいます。修道会内の家族的な連帯意識が、誤った忠誠心、判断ミス、行動の遅れ、否認、時には隠蔽すら、もたらしました。私たちは、いまこそ転換すべきことを痛感しており、回心したいのです。

 私たちは謙虚に行動したいのです。だからこそ、これまでは死角にかくれていたことを直視すべきです。まず、権威の濫用を見直さなければなりません。私たちは、私たちが奉仕する人びとといっしょに旅をし、透明性と信頼を心がけ、誠実さを取り戻し、真摯な悔い改めをもって前進することを、ここに約束します。

7.具体的な対策(リソース)

 ところで、具体的な対策(リソース)は常に緊急課題です。児童保護の実践を実施している社会を一目見ただけでも、政府の保健サービスでさえも十全たる具体的な対策(リソース)の提供に苦労していることがわかります。あらゆる資源(援助機関、人材など)が効果的かつ効率的に活用されるように、この分野で互いに協力する必要があります。

 伝統的な修道会および近代以降の修道団体は、被害者たちがいやされてゆくような人生の過ごし方をつづけてゆけるように、最も効果的な方法で手を差し伸べるように、修道者各人が被害者の方々に対して協力することを確実にできるように働きます。初期養成ばかりではなく、その後もつづく継続的な生涯養成は、おそらく私たちが一緒に働くことができる最も意味のある分野になり得ます。

 こうして、修道生活に新たに加わる候補者の選別の際にも、虐待問題を真摯に見つめるうえでのよりよい実践を目指しながら協力することができるようになります。このような識別は決しておろそかにできるようなものではなく、確実に実施されなければならないし、最高の品性を目指さねばならないものなのです。

8.両親および女性が関わってくれるような体制づくりへの切なる願い

 私たちは虐待との闘いにおいて、何よりも両親たちの助けを求めます。彼らには、子どもの保護のために全力を尽くすという自然な本能が備わっています。親としての資質が彼らにはあります。それゆえ、彼らのアドバイスやサポートや専門知識が必要になります。

 修道者に対する親からの提言は特に歓迎されます。特に、私たちは母親の役割を強調します。女性こそが、虐待の症例を評価する際に、助言と援助を求められたならば、より強く、より速く、より効果的な行動を起こすことができるからです。もしも、女性の方々が支えていてくれたのならば、虐待の出来事の際の被害者からの申し立てに対する扱い方は異なっていたでしょうし、被害者とその御家族は多大な苦しみを免れていたことでしょう。

9.被害者の方々へのメッセージ

 最後に、最も重要なことではありますが、私たち修道者は被害者の方々とその御家族に心からのメッセージを贈りたいのです。私たちは、これまで、虐待の問題に対処するための努力が足りず、不適切な対処しかしてきませんでした。そして、あなたの苦痛を理解する能力を鍛え上げてはきませんでした。まことに恥ずべき欠如があったことを認めます。

 心からおわびをいたします。申し訳ありません。私たち修道者は伝統的に善きわざを行ってもきましたが、不充分でした。どうか今後も私たち諸修道会の誠意を信じてくださるように御願いいたします。虐待がおよぼす悪影響を最小限に抑えるためにも、どうか私たちと協力して新しい体制を整えてください。

 これから教皇が開催する会議は未成年者の保護に焦点を当てます。しかし、最近のメディアの注目は、修道会の兄弟姉妹同士、神学校の神学生や叙階候補者や指導司祭のあいだでも起こっている虐待や搾取にも焦点を当てています。これは重大で衝撃的な問題です。

 私たちは、効果的な対応策を見つけるために、全力で取り組むことを、ここに誓います。私たちは、修道会への入会を寛大に申し込む人、あるいは神学校で訓練を受ける人が、よりよき養成上の配慮を与えられ、神や隣人を愛したいというまごころを養えるような安全な場所に住めるように心がけます。

   [2019年2月20日 阿部仲麻呂 試訳]

2019年3月2日

・教皇フランシスコ「未成年者の保護に向けて;反省すべき21箇条のポイント」(全文試訳)

(2019.3.2「カトリック・あい」)

「カトリック・あい」を愛読されている阿部仲麻呂さんから、教皇フランシスコが”性的虐待サミット”直前の2月21日に発表された「未成年者の保護に向けて-反省すべき21箇条のポイント」の全文試訳を解説前文と共にご寄稿いただきました。この内容はまさに、日本の司教団が参考あるいは倣うべき具体的内容が多く含まれています。以下に阿部様への翻訳のご苦労への感謝と共に掲載します。

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 教皇フランシスコは「教会における未成年者の保護」に関する司教会議の作業を支援するために共有したいと願う「反省すべき21箇条のポイント」を木曜日(2019年2月21日)に参加者に対して提示しました。バチカンで開催された「教会における未成年者の保護」に関する司教会議の冒頭部で、教皇は参加者といくつかの「ガイドライン」を共有されましたが、会議参加者の仕事を助けるために。その「ガイドライン」には、様々な委員会や司教会議によってあらかじめ策定されていた反省点が反映されたうえで、 21箇条のポイント に集約されています。

教皇は これらの21箇条を会議の出発点として素直に受け入れたうえで しかも絶えず念頭に置いて、創造的な話し合いを心がけるように」と、参加者に切に求めました。それでは、以下に、「反省すべき21箇条のポイント」を掲げておきましょう。

1 一つの案件が生じた場合に、当局の管理下で、しなければならない事について順序立てて説明する実用的なマニュアルを作成すること。

2 訓練を積んだ有識者や専門家をも含めて構成されたチームを任命し、被害者に対してじゅうぶんに耳を傾け、その案件に関する最初の識別を行う場を設けること。

3 生じた案件に対して司教および修道会の長上がじかに関与するための規範を定めること。

4 訴えられた事柄に関する調査、被害者の保護、被害者と加害者の双方がそれぞれ弁護されるための共通の権利を確保すること。

5 民法と教会法の両者を尊重し、市民社会における当局と教会の責任者の双方に通報すること。

6.あらゆる司牧現場において、未成年者のために安全な環境を保つために、定期的に諸規則を点検すること。その際に、教会の使命において、この案件が教会の基本姿勢に沿うかたちで、あらゆる規範や規則は何よりも正義と慈愛の原則にもとづいて統合されていなければならない。

7.司教が告訴された場合に特化した対処の仕方や手続きを整えること。

8 被害者がじゅうぶんにいやされるために必要な、あらゆる支援を提供しつつも彼らに同伴し、彼らの保護および配慮(ケア)を心がけ、彼らのじゅうぶんな回復を目指すこと。

9 司教・修道会の長上・司祭・司牧現場の協働者(信徒)の生涯養成に努めることで、性的虐待の原因および性的虐待がもたらす結果に関しての認識を継続的に深めさせること。

10 被害者が共同体に戻れるような司牧的配慮(ケア)のプロセスを気遣うとともに、加害者の回心と更生のためのプロセスをも整えること。

11 真正なる場合なのか虚偽の場合なのかを峻別し、告訴なのか中傷なのかを適正に区別するために、善意のあるあらゆる人びとやマスメディア関係者との協力を緊密なものとすること。その際に、侮辱や噂や名誉毀損につながるような中傷を避ける必要がある(具体例として、2018年12月21日になされた教皇フランシスコによる教皇庁における訓話を参照すること)。

12 結婚ができるようになる最低年齢を16歳まで引き上げること。

13 性的搾取あるいはパワーハラスメントをめぐる調査や教会裁判上のさまざまな段階においてなされる審議の際に、信徒身分の専門家の参加をも認め、彼らの参加が容易になるようにする規定を設けること。

14 被告人にとっての防御の権利を認めること。つまり、最終的に有罪が立証されるまでのあいだ、自然法および教会法上の無罪を仮定する原則を保つようにすること。それゆえに、告訴されるより以前に、被告人のリストが公になるのを防ぐために留意する必要がある。慎重な予備調査を心がけることによって、被告人が必要以上の非難を受けないように努め、冤罪を生まないようにするべきである。

15 未成年者に対する性的虐待を犯した司祭や司教は、犯した罪に対応するかたちで罰を受けるという伝統上の原則を遵守し、公共の場で聖職者としての職務を遂行させないこと。

16 教区神学生や司祭および修道候補者に対して、人間的・霊的・性心理学的な成熟度を査定すると同時に、それ以上に人間関係の人格的な取り結び方や適切な態度の取り方を深めさせるための初期養成および生涯養成のプログラムを導入すること。

17.司祭候補者や修道候補者に対して、専門家による心理的な鑑定を施すべきこと。

18 教区神学生や修道志願者を、ある神学校から別の神学校へと異動させたり、あるいは司祭や修道者を、ある教区から別の教区や修道院へと異動させる際の規定を公開すること。

19.聖職者・修道者・教会の奉仕者・ボランティアのために、相手との関わりを正常に保つうえでの適切な態度のとりかたの基準を文書化し、適切な人間関係の保ち方に資する許容範囲を説明すること。そして、関係者やボランティアに対して必要な資格要件を明確に示し、彼らの犯罪歴の記録を確認しておくこと。

20 虐待が生じそうな危険性や発生状況に関して、虐待の証拠をどのようにそろえるのかに関して、性的虐待の嫌疑がある場合にどのように見究めて訴えればよいのかに関して、すべての情報やデータを社会的に公開すること。その際に、両親・教員・専門家・市民社会の当局の連携協力が不可欠である。

21.まだ相談窓口が整っていない場合に、虐待をこうむった被害者が実情を訴えやすいように、気軽に連絡しやすい機関を早急に開設すべきであること。つまり、あらゆる犯罪を報告できるような窓口を設けるべきである。そのような機関は、他の機関に従属することのないように独自の自治権を備えておかなければならない。しかも、必要に応じて、それぞれの地域の教区の責任者や専門家(聖職者や信徒)との連携もとらなければならない。さらに、聖職者による不適切な態度によって気分を害した人びとに対して、教会は細心の注意を払って関わらなければならない。

[2019年2月22日(金) 阿部仲麻呂 試訳]

 

 

 

 

2019年3月2日

・”性的虐待サミット”受けスイス、米など動く-日本の司教団も積極対応を(「カトリック・あい」解説改)

(2019.3.2改訂 「カトリック・あい」)

 「教会における未成年者保護」がテーマの全世界司教協議会会長、主要修道会総長たちの会議-分かりやすく言えば”性的虐待サミット”が終わって数日、出席者たちが自分たちの国に結果を持ち帰って、次の段階-具体策の検討-に入る時期を迎えた。司教協議会会長、高見大司教が出席した日本の司教団も当然、その取り組みに着手せねばならない。

 ”サミット”で座長を務めたフェデリコ・ロンバルディ神父(イエズス会士)は24日の最終会見で、バチカンとして、次のような3つの具体的な措置を取ることを明らかにしている。①バチカン市国内の未成年者と成人弱者を保護する法規制を盛り込んだ教皇フランシスコの「Motu proprio( 自発教令)」の近日中の発表②全世界の司教たちに対し、児童保護に関する法的、司牧的義務と責任を説明した「vademecum(規則書)」の送付③未成年者保護と虐待への対応に必要な人員や専門知識が不足している司教協議会を支援するための、専門家による実戦的な”タスク・フォース”を設置-だ。

 すでにスイスの司教協議会は2月25日から27日まで臨時の総会を開き、性的虐待被害者対策の強化を決定、3月1日から実施することを決めた。米国司教協議会も6月をめどに具体的な新ルーツの策定に入ることを明言している。

 スイスの場合、児童性的虐待に関しては教会指導者が司法当局に報告する義務がすでに定められていたが、報告の対象を現在成人している人にも広げ、被害者自身が報告を拒んだ場合でも、教会指導者はその事実を知った場合、可及的速やかに当局に報告しなければならない、と改められた。また各教区は、性的虐待を防止し、そのための基準を策定・実施する責任者を指名することも義務化する、などの措置をとる。

 日本では東京教区などが今年の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を3月22日とし、教区の全信徒の参加を呼び掛けている。そうした対応も必要だが、今、まともな司祭、信徒たちが知りたがっているのは、サミットを受けて、司教団が日本の教会として、どのように受け止め、反省し、具体的にどのような取り組みをしようとしているのか、ではないか。

 教皇フランシスコ肝いりの未成年者保護委員会のメンバーで、会議の準備にもあたったハンス・ゾルナー神父(イエズス会士)はサミットを受けてなすべきことは、まず、司教たちが「責務を果たす意思を持ち、透明性を確保し、説明責任を果たす姿勢を明確にする」ことである、とし、特に「説明責任」について、「会議で提起された考え方と対策案をもとに作業する必要がある。それには神学と教会法、さらに教会組織の核心に迫る必要がある」と司教たちに課題を提起している。

 日本の司教団も、上記のバチカンの規則書の送付などを待つことなく、サミットで示された三つの原則-責任感を持って、透明性を確保しつつ、説明責任を果たす-にもとずき、日本の司教団も真摯に取り組みを進める“やる気”を見せてもらいたい。取り組みの手掛かりとして、教皇が示された”21項目のガイドライン”などが既に公けになっている。その際、「説明責任」とは教皇、バチカンだけに対して、と”誤解”せず、日本の教会、全司祭、全聖職者、全信徒に対して、でもあることを、肝に銘じてほしい。

 小欄では、今回の”サミット”前に、以下のように書いた。

 「日本では、聖職者による性的虐待が大きな問題として世界的に表面化し始めた2002年に、司教団が『子どもへの性的虐待に関する司教メッセージ』を聖職者、修道者、信徒当てに発出し、『不幸にして日本の教会において聖職者、修道者による子どもへの性的虐待があったことが判明いたしました。私たちはこの点に関してこれまで十分に責任を果たしてこなかったことを反省します。私たち司教は、被害者の方々に対し誠実に対応するとともに、その加害者である聖職者、修道者に対しては厳正に対処いたします』と約束した。

 翌年には『聖職者による子どもへの性虐待に対応するためのマニュア』を発行、カトリック中央協議会に『子どもと女性の権利擁護のためのデスク』を設置、その次の年に全国アンケート調査を実施し、回答111件の7割が『(注:聖職者によるセクハラがある』と答え、身体的接触があった、との訴えも17件に上った。だが、その調査結果を『カトリック新聞』で公表したにもかかわらず、現在に至るまで、この回答結果への具体的な対処を含め、全国的な取り組み、対応がなされた、とは聞かない。

 福岡、大阪など教区によっては相談窓口を設け、実態把握や司祭教育に努めているところもあるようだが、その間にも、2009年に大阪でカトリック系大学の学長を務めたこともある司祭が信徒の母子に対する強制わいせつで逮捕されるなどの事件が起きている。

 事件化しなくても、神学生時代に女性との不適切な関係を繰り返し、所属教区からレッド・カードを受けながら、他教区に移って最近叙階し、また同じことが疑われ、彼を信頼していた信徒たちを傷つける司祭もいる。2013年には、何の釈明もなく突然、教区長やその他の要職を放棄して出奔するという、司祭、信徒たちに大きな打撃を与える非常識極まる行動をとり、関係の問題も疑われながら、本人も司教団も未だに説明責任を果たさずにいる高位聖職者もいる」。

 このようなことを二度と繰り返してはならない。以上のように未成年者に対する虐待にとどまらず、日本の場合は、成人女性に対する聖職者の不適切行為が少なくないようだ。小欄の周りでも、直接問題となった司祭、神学生がいる。そうしたことが、一般信徒、とくに教会活動に熱心な誠実な信徒の信頼をどれほど損なっているか。そのことを、改めて認識したうえで、具体策に取り組まねばならないだろう。

  「聖職者による性的虐待の問題への対応はこれまでしっかりなされてこなかったし、今もそうです」-バチカンで28日行われた記者会見で、教皇フランシスコ肝いりの未成年者保護委員会のメンバーで、会議の準備にもあたったハンス・ゾルナー神父(イエズス会士)が述懐した。性的虐待被害者の傷を癒し、二度と繰り返されない策を講じ、カトリック教会の信頼を回復させる展望を開きたい、という教皇フランシスコの強い思いで開かれたサミット。それが終わって4日後の、会議の準備に当たった中心人物のこれが現状評価だ。

 バチカン暫定報道官の声明によると、会議を受けて25日にバチカンの国務省幹部、関係部署と組織委員会のトップ、そして会議の座長を務めたフェデリコ・ロンバルディ神父が出席して開かれたフォローアップ会合では、会議を受ける形で、「神の民」が強く求めている具体的な方策について議論が集中し、24日の会議閉幕後の会見で公表された文書と支援チームの重要性が強調された。そして、それらが可能な限り明確で、時宜を得た形で、可能な限り詳細な内容とすることが、確認された、という。

 だが、関係者の一部が期待していた「それ以上」のものは合意として打ち出されることはなく、具体的な発表もなかった。これは見方によれば、自国に会議の成果を持ち帰って、具体的な取り組みを始めるように、会議に参加した世界の司教協議会会長や主要修道会の総長たちにボールが投げられた、といってもいいだろう。

 バチカン教理省長官補のチャールス・J・シクルーナ大司教が既に会議直前の記者会見で述べているように、「(注:会議に各国の司教協議会の代表として参加した)司教たちは、自分の教区に戻って作業を続けることになる」のだ。会議を受けて、それぞれの国、地域に遭った具体策の検討、実行は、各国、地域の司教団に委ねられている。

 教皇はサミット閉幕のミサで「児童虐待の根絶へ”総力戦”に教会の総員参加」、教会指導者たち、主に世界の司教協議会の会長たちにその先頭に立つよう訴え、具体的に、司教協議会による指針の強化と見直しー起きた虐待を隠蔽したり、深刻にとらえないことのないように、教会のあらゆる組織、場面で防止のための、新しい、効果的な対応を創出するように、と求められた。この教皇の強い思いは、世界の、日本の信徒たちの思いでもある。司教団が、そうした思いにしっかりと応えることを期待したい。

(南條俊二)

 

2019年2月28日