・多様性における一致を掲げて」宣教司牧指針の方向性について・菊地東京大司教(全文)

(東京教区ニュース第353号 2018.6.5)

 菊地功大司教が東京大司教に着座して、5か月余りが過ぎた。新潟教区の管理者も兼任し、日々、忙しさに追われる日々である。そんな中にあって、5か月の経験も踏まえ、東京大司教としての方向性の提示も求められている現実もある。聖霊降臨の主日にあたって、司教書簡を発表することとなり、今月号と来月号で、菊地大司教のメッセージを掲載することとなった。

 長い文章ではあるが、ゆっくり時間をかけて読み、大司教の意図をくみ取りたい。


 多様性における一致をモットーに掲げて、私は昨年12月に東京大司教として着座いたしました。私たちの東京教区は、社会の中における単なる組織体ではなく、キリストの体をともに形作る信仰共同体です。しかもこの信仰共同体はキリストによる宣教命令を受けているのですから、現代社会の直中にあって福音宣教共同体として存在しなければなりません。教区をともに形作っているそれぞれの教会共同体が福音に生き、御言葉と御聖体のうちに現存される主イエスと喜びをもって歩みを共にするとき初めて、全体としての教区共同体は福音に生かされた宣教共同体となります。そのために、それぞれの教会共同体が自らの多様性に目覚め、その自覚のうちに全体として一致しようとすることが不可欠です。

 着座してまだ半年しか経過しておらず、教区全体の訪問すらできていない現時点では、具体的な宣教司牧の指針を提示することはできません。しかし、多様性における一致を足がかりにして、これからの宣教司牧指針の方向性をできる限り明示したいと思います。

(2018年5月20日 聖霊降臨の主日に カトリック東京教区 大司教 菊地 功)

1 「多様性」と「一致」

 聖パウロはローマ人への手紙において、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と述べています(ローマ人への手紙十二章四~五節)。
わたしたち自身がまず、それぞれの豊かな個性のうちに、与えられたいのちを生きています。様々な個性が集まって、あたかも一つの体の部分のように互いに結ばれることによって、この世界は成り立っています。当然、そこには様々な考え方や異なる価値観を持った、自分とは意見の異なる人たちが多く存在します。私たちが共同体の中で生きるということは、多様性のうちに生きるということを意味しています。画一的ではない豊かな社会は、私たち自身の多様性があってこそ実現します。

 もちろん多様性は、全体としての体を生かす部分としての多様性であり、共通善に導かれた神からの豊かな賜物を生きる個性でもあります。
同時に私たちには、多様性のうちにありながらも一致していることが求められます。
ヨハネ福音に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。(ヨハネ十七章二十一節)」と記されています。またコリント人への手紙には、「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(一コリント十二章十三節)」と記されています。

 御子が御父と一致していたように、私たちも一つの体として一致するようにと呼ばれているのですが、とりわけキリストに従う者は、御言葉と御聖体によって、キリストの体において一致するようにと招かれています。
同じくコリント人への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です(一コリント十章十六節以下)」とあります。
さらに、エマオへと向かっていた二人の弟子は、イエスの御言葉によって「心は燃え」、食卓においてパンが割かれることによって目が開かれ、エルサレムに残された兄弟たちと再び一致するために旅立ちました(ルカ二十四章十三節以下)。二人の弟子は、御言葉と御聖体によって、キリストの体において兄弟たちと一致するようにと導かれたのです。

2 福音を告げる教会共同体

 福音は教会に集う私たちだけの隠すべき宝ではありません。教皇フランシスコは「福音の喜び」において次のように指摘されています。 「神が実現し、教会が喜びを持って告知するこの救いは、すべての人のためのものです。神はすべての時代の一人ひとりと一つになるための道を整えました。神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません」(福音の喜び113)。

 その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならない」と指摘されます(福音の喜び114)。
さらに教皇は、「聖霊は、たまものの多種多様な豊かさを生み出すと同時に一致を築きます。この一致は決して画一的なものではなく、引き寄せる力を持った多様性の調和です。福音化というものは、聖霊が教会にもたらす多様な豊かさを喜んで認めます」と指摘されます(福音の喜び117)。
東京教区の教会共同体にあっても、聖霊に導かれて、いつくしみのうちに誰ひとり排除することなく、多様性を受け入れ、それぞれに与えられた豊かなたまものを生かしながら、一つの民として一致し、福音を告げ知らせる共同体として日々成長する道を選び取りたいと思います。
ところで教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」において、教会の本質は次の三つの務めであると指摘されています。 「教会の本質はその三つの務めによって現されます。すなわち、神の言葉を告げしらせること(宣教・ケーリュグマ)とあかし(マルテュリア)、秘跡を祝うこと(典礼・レィトゥールギア)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕・ディアコニア)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです。(神は愛25)」

 私は、教区共同体にあっても、この三つの務めが十分に具体化していることが不可欠であると思います。またこの三つの務めは、無関係に存在するのではなく、「互いの前提となり、また互いに切り離すことができない」のですから、教区共同体にあっても三つの務めの相互関連性を深めていく必要があります。

 そこで、多様性における一致を実現し、福音を告げ知らせる教会共同体を育てるために必要だと思われるいくつかの取り組みのポイントを、この教会の本質である三つの務めに導かれながら、記してみたいと思います。これらのポイントは、現時点での私の限られた情報に基づいていますので、最終的な方針ではなく、流動的な検討課題です。今後、これらのポイントについて、それぞれの方面で取り組まれている信徒、修道者、司祭の意見をいただき、ともに検討する中で識別を重ね、具体的な方向性を定めていく努力を始めたいと思います。

3 ─ 1 「神の言葉を告げしらせる こととあかし」

 何よりもまず、私たちにとっての最優先事項は福音宣教であります。教会共同体には既存の組織体として様々な課題があり、同時に教会を取り巻く現実は日々変化する対応を求めています。そういった要求や必要への対応に追われるとき、私たちはもっとも優先すべき福音宣教の務めを後回しにしてしまう誘惑に駆られます。しかし、どう考えても、主イエスご自身から与えられた福音宣教命令は最優先事項であり、後回しにすることはできない課題です。

 福音宣教に優先的に取り組むためには、様々な課題があることは事実ですが、その中でも、以下のような事項に取り組みたいと考えています。

1 修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実
2 滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し
3 継続信仰養成の整備と充実
4 現行「宣教協力体」の評価と見直し
5 カトリック諸施設と小教区・教区との連携

3 ─ 2 「秘跡を祝うこと」

 典礼は、「キリストの神秘と真の教会のまことの本性を信者が生き方をもって表し、他の人々に明らかにするためにきわめて有益である」と第2バチカン公会議の典礼憲章は指摘します(2)。その上で典礼憲章は、「典礼は教会のうちにある人々を日々、主における聖なる神殿、聖霊における神の住まいに築き上げ、キリストの満ちあふれる豊かさに達するまで成長させるのである。同時に典礼は、キリストをのべ伝えるために彼らの力を驚くほど強め、こうして外にある人に対しては、諸国民の中に掲げられたしるしとして教会を示」すと指摘しています(2)。

 教会共同体の典礼を豊かにすることは、一人ひとりの霊的成長のために不可欠であると同時に、力に満ちた福音宣教のためにも不可欠なのです。  考えられる事項はいくつもありますが、中でも以下の点に取り組みたいと考えています。

6 イベントの豊かさだけではなく、霊的にも豊かな共同体の育成
7 信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実
8 文化の多様性を尊重した典礼の豊かさの充実

3 ─ 3 「愛の奉仕を行うこと」

 使徒言行録には初代教会のあり方が、次のように記されています。
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った(使徒言行録2章44─45節)」。
教会はそのはじめから、共同体として愛を実践し、互いに支え合ってきました。キリスト者が個人として愛の業を実践することは大切ではありますが、同時に教会は全体として、「秘跡とみことばをないがしろにすることができないように、愛の奉仕をないがしろにすることもできません(神は愛22)」。

 東京教区においても、多くの方々が個人として様々な愛の奉仕に関わっておられます。また教区にも、様々な取り組みが存在しています。それらを総合して、教区共同体全体の愛の奉仕の業として、一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。
そこで以下の点に取り組みたいと思います。

9 教区全体の「愛の奉仕」の見直しと連携の強化
10 東日本大震災への取り組みに学ぶ将来の災害への備えの充実

 

(東京教区ニュース第354号 2018.7.5)

4 いくつかの個別の課題について

 それぞれの課題について、まだ具体的で詳細な内容はお示しできませんが、その中でも重要と思われる最初の三点について、特にその概要を説明いたします。

 4 ─ 1 修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実

 東京教区においては、現時点で男子の修道会・宣教会が24、女子の修道会・在俗会が60ほど拠点を置いて活動しています(2018年カトリック教会情報ハンドブック)。
すでに、2002年に発表された「福音的使命を生きる」において、宣教協力体の編成にあたって、修道会の協力への期待が述べられています。

 教区内のいくつかの小教区は、修道会の共同体や施設を母体として成立してきた経緯もあります。それぞれの修道会のカリスマや、修道生活の優先事項を尊重しながらも、教区共同体全体の福音宣教のために、これまで以上の相互の協力の可能性を、一緒に模索することができればと期待しています。また相互の協力とは司祭の協力にとどまるのではなく、男女修道者全体として、教区全体の福音宣教や司牧における協力体制を構築するための方策を模索することができればと思います。

 4 ─ 2 滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し

 日本全体を見てもいわゆる外国人居住者は200万人を超え、いまや日本の農業人口に匹敵する規模の外国籍居住者が国内に存在すると言われます。

 なかでも東京教区においては、以前から様々な国籍や民族的背景を持った方々が多数居住しておられ、その中には信徒の方も多く見られます。

 「日本の司教団は、1989年、司教総会にて『外国人労働者への人権問題への関わり』が日本の教会の福音宣教の課題のひとつであるとした。1993年には『国籍を越えた神の国をめざして』を発表し、日本の教会へ『移動する人々を、キリストにおける兄弟姉妹として迎え入れ、様々な違いと共存できる共同体を作りあげていく努力』 を求めた」と2010年の教区報276号に記されています。

 1990年には、まず「国際司牧センター」が創立され、その後現在の「カトリック東京国際センターCTIC」として、様々な必要に対応しています。2002年には「福音的使命を生きる」が発表され、その中では、「外国人の司牧と困難を抱えた外国人へのサポート」が教区の優先課題の三つのうちの一つとして提唱されました。そこには次のように記されています。

 「これについてはすでにカトリック東京国際センター(CTIC)が活動しており、教区としての対応が始まっています。この活動を教区の活動として継続していくことは重要です。

 一方で、かなり多くの教会で外国語のミサが行われ、外国人の共同体が存在しています。外国語ミサの多くは、たまたまその教会に外国語のできる司祭がいたので始まったものや、必要性を感じた教会がその言語のできる司祭を探してきて招くというところから始まったものです。そのため、司祭の交替に伴い、継続性に問題が生じることもありました。これでは、本当の意味で、日本に来ている多くの外国人の霊的ニーズにこたえる態勢であるとは言えません。」

 教区内に居住する外国籍の方々の直面する課題は複雑化し、加えてその人数の増加から、対応すべき課題は山積しています。
CTICは、その活動を始めてから間もなく30年になろうとしていますが、この多様化する現実の前に、その活動を今一度振り返り評価し直すことも必要ではないでしょうか。
また、私は「外国人の霊的ニーズにこたえる」ことが、大切ではあるものの、それが教区共同体との絆を失い、全体との連携のない独立した共同体を生み出すことのないようにしたいと思います。とりわけ、定住する方々も増加する中で、主に日本語を使う子どもたちの存在にも配慮する必要があり、できる限り、小教区共同体との連携の中で、外国人の霊的ニーズに応える方策を探りたいと思います。特に、それぞれの母語による典礼などが提供される教会を、外国籍の信徒の方がミサごとに移動し続けるような事態は避けたいと願っています。

 早急に、外国籍信徒の方々の司牧や諸言語による典礼に関わっている方々を集め、今後の方向性について意見交換を行うことを考えています。

4 ─ 3 継続信仰養成の整備と充実

 2002年に発表された「福音的使命を生きる」は、もう一つの優先課題として、「教会の福音的使命にたずさわる信徒の養成」を掲げ、継続信仰養成の必要性が、信徒の召命の重要性とともに次のように記されています。

 「現状の小教区は、あまりにも司祭に依存しています。信徒ができること、しなければならないことはたくさんあるはずです。それは財務管理や建物管理だけではなく、教会の福音的使命そのものに関わる部分についてです。大人から子供までを対象としたカテキズムや典礼の奉仕者(集会司式者や聖体奉仕者を含む)。病床訪問をしたり、孤独な人や苦しむ人々のために働く人。また、小さなグループで生活と信仰の支え合いをするための奉仕者あるいはリーダー。これらのことのために必要なのは確かな人選と適切な養成です」

 教区共同体が全体として福音宣教共同体となるためには、様々な多様性のうちにその使命を果たす信仰者の養成が不可欠です。しっかりとした養成を企画し実施することで、福音宣教の使命を果たす多様性と一致が確保されます。

 すでに、教区の生涯養成委員会が、「入門講座担当者養成講座」として、入門講座を担当する信徒の奉仕者を養成するための連続した講座を用意してくださいました。
東京以外の教区にいた者としては、毎月の教区報に掲載される東京での様々な研修会や講演会のあまりの豊富さに、いつも驚かされておりました。それにさらに加えるようで恐縮ですが、教区としても今後、教会共同体の様々なレベルでのリーダーを養成するためのコースを充実していきたいと思います。

 なおそれに関連して、信徒の信仰養成の手段について、ここで特に一つのことを明示しておきたいと思います。それは、しばしば話題に上る「新求道共同体の道(以下「道」)」のことです。

 新求道共同体の道(以下「道」)は、1964年にスペイン人信徒キコ・アルグェヨ氏らによって創設された「キリスト教入信と信仰の継続養成の一つの方式」です(「道」規約より)。日本においては1970年代に広島教区でその活動が開始され、その後高松教区をはじめいくつかの教区に活動は広がっていきました。
「道」は2008年にその規約が教皇庁信徒評議会によって認証され、2010年末には「道」のカテキズムも教理省によって認証を受けています。したがって、「道」はカトリック教会における公式の認可を受けた存在です。

 東京教区にもすでに、「道」において信仰生活を営んでいる方が、いくつかの小教区に在籍しておられます。私はまず、この方々の信仰における熱心さには見習うべきところがあるという思いは述べておきたいと思います。

 「道」の規約第1条第2項には、「新求道期間の道は教区において実施される、キリスト教入信と信仰の継続養成の一つの方式として司教に提供されるものである」と記されています。また同じ「道」の規約第26条第1項には、教区司教の権限として「教区に新求道期間の道の実践を許可すること」とあります。したがって「道」をキリスト教入信と信仰の継続養成の方式として東京教区において採用するか否かは、教区司教である私が決定する事項です。

 私は、「道」を東京教区におけるキリスト教入信と信仰の継続養成の方式として採用いたしません。また近い将来に、それを採用することも考えていません。加えて、「道」に限らず、教会共同体育成のために、何らかの既成の方法や特定の運動に頼ることも考えていません。

 教区共同体の中に、様々なカリスマを持った修道会、奉献生活の会、在俗会、運動体、信心会などが存在することは、教区共同体の霊的な成長のために不可欠であり、その多様性は霊的な健全性でもあると考えます。

 同時に、そういった多様性の中において、特定のカリスマだけが優先されることや、その正統性を主張することは、霊的な健全性にとってふさわしくはないと考えます。それぞれが豊かに成長し、教区共同体にあって互いを支え合うことができる存在となることを、心から願っています。

 もちろん福音宣教のことを考え、また私たちの教会共同体のこれからを考えるとき、聖霊の導きに信頼しながら、つねに新しく変えられていくことを拒むことはできません。時代と現実に柔軟に対応しながらも、福音の導きから離れることなく、勇気を持って福音を告げ知らせていく道を探りたいと思います。ひとりひとりの信仰者が、それぞれに与えられた個々のカリスマに生き、それぞれの生き方で福音をあかししなければ、どんな手法を持ってきても教区共同体が生かされることはありません。

5 終わりに

 2002年に発表された「福音的使命を生きる」は、もう一つの優先課題を掲げておりました。それは、「心の病や心の傷を負った人々へのサポート」です。これは現在でも重要な課題の一つでありますから、「愛の奉仕」の課題の中で、これまでの具体的な取り組みの評価を含めて考えていきたいと思います。

 さらに、これら優先課題を実現するための組織である宣教協力体についても、すでにふれたように、一度評価と見直しが不可欠ではないかと考えています。

 これらについての具体的な方策は、今後、司祭評議会や宣教司牧評議会、さらには他の方法での意見聴取を経て、最終的に具体的な方針として定めていきたいと思います。そのための作業は、できる限り早急に開始いたします。

 いろいろな課題を羅列いたしましたが、一番の根本にあるのは、私たち東京教区が共同体として福音宣教を真摯に行うことであります。私たちの信仰生活は、その使命に生きることに尽きると言っても良いでしょう。

 どうぞこれから、私とともに、神の御言葉に生き、福音宣教の道をともに歩んでくださいますように、お願いいたします。

 人となられた神の御言葉の母であり、教会の母である聖母マリアの母としての愛に信頼しながら、聖母の信仰における勇気に倣って、神の示される道を歩み続けましょう。

2018年7月8日

・連載中・解説「バチカンと中国の対話」①~⑧(Vatican News)(2018.7.17 現在)

はじめに

:教皇庁の公式ニュースサイトVaticanNewsが、5月から、「バチカンと中国の対話」というテーマで不定期連載を始めています。6月26日掲載分はバチカン放送日本語課が翻訳、掲載されていますが、7月13日まで7回の連載が続いており、隣国の私たちにも中国との関係を考える際に役に立つ内容が含まれています。「カトリック・あい」では、英語原文を翻訳し、バチカン放送日本語課翻訳分と合わせて転載させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

⑧使徒的継承と司教たちの正当性 (2018.7.17)

(翻訳中)
Legitimising Chinese Bishops ordained without the mandate of the Pope is not a cold bureaucratic act, but rather, a journey of genuinely and profoundly ecclesial discernment. This article picks up where our last one left off, concerning the question of the canonical legitimacy and the civil recognition of Bishops.

By Sergio Centofanti and Fr Bernd Hagenkord, SJ

Catholicity should not be understood in a banal geographic or institutional sense, but in the sense of the integrity of doctrine and of the faith, in fidelity to Tradition in full communion. This deep sense of catholicity touches hearts and soul: catholicity, in fact, is a journey towards an organic unity capable of reconciling diversity in Christ. And so the local Church is structured internally towards the celebration of the Eucharist by the entire People of God, under the presidency of the Bishop, surrounded by the college of priests, and assisted by the deacons.

The path to the legitimisation of the Chinese Bishops ordained without the mandate of the Pope is not and cannot be, then, a cold bureaucratic act; rather, it must be a journey of genuinely and profoundly ecclesial discernment, whereby particular cases are evaluated in order to determine whether the essential conditions exist, such that a given Bishop could be readmitted into full Catholic communion.

Such a journey begins when the interested party repeatedly makes a clear and sincere request to the Holy Father for forgiveness. After this initial request, the process continues with the following stages:

* an evaluation of the request by the Pope, and eventually forgiveness granted by him;

* the remission of canonical sanctions and penalties – especially the latae sententiae excommunication – which the bishop has incurred and which are foreseen by the law of the Church to induce him to repentance;

* sacramental absolution;

* the re-establishment of full communion;

* the acceptance on the part of the Prelate of interior attitudes and public conduct that expresses that communion;

and, almost always,

* a pastoral mandate.

It is also important that a pardoned and legitimised Bishop be accepted by the community to which he is sent as a Pastor. This requires, on the part of the whole community, a contribution of prayer, of vigilance, of obedience, and of collaboration in order to foster communion.

The path of reconciliation, with the particular procedures for the cases of illegitimate Bishops, falls within the normal previsions for the life of the Church whenever ecclesial communion is wounded. Further, with regard to the case of China, the legitimisation of the Bishops is not a modern novelty: it has already taken place in recent decades, although not received and accepted by all. However, in the process of legitimizing Bishops, there are, obviously, also civil implications, which, in certain evaluations of facts, have come to be emphasized to the point of assuming a central importance.

Both a political reading of legitimisation, on the one hand; and misunderstanding of the political signification of the canonical penalties, on the other, have in some cases caused discomfort and embarrassment in some observers, and even in some members of the Church. The practice of legitimising Bishops, explicitly desired by Pope Saint John Paul II, was not warmly received by some sectors of the “clandestine” Church. They saw the risk of the legitimisation of Bishops being interpreted as an endorsement of the “official community” and of Government policy. However, there were other voices within the “clandestine” community in favour of legitimisation. For example, a “clandestine” Bishop of that era, informed of the negotiations with the government Authorities, publicly expressed his appreciation for Pope Saint John Paul II, who, he said, “has opened the heart of Christ and accepted many Bishops of the official community,” and has worked to safeguard the unity and the communion of the Church in China.

Even now, although the question of legitimisation in China seems to concern only a few cases of Bishops, there is still a wave of dissent, spurred by different motives, which must be considered. Everyone, however, should maintain the firm conviction that in China the ecclesial fabric of the diocesan community can only begin to be rebuilt around a legitimate and recognised Bishop.

This is the second part of the final article in a series about the dialogue between the Holy See and China. The first part, “Dialogue with China: more fully Catholic, authentically Chinese” can be found by clicking on the link. 

 

⑦より完全にカトリック的に、より確実に中国的に(2018.7.13)

 中国には、教会法上、違法な司教たちがおり、その一方で、中国政府から公認されていない司教たちがいる。これは、この国で、二つのカトリック教会共同体が共存していることを示すものだ。こうした具体的な問題の解決を目指すために、こうした状況を乗り越えて前向きな刷新を始めるために、対話の精神で交渉が始まる時、取り組まねばならない課題だ。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

 国際的な慣行によれば、国家間の交渉は非公表の形で行われ、最終的な結果だけが公表されるのが普通だ。この理由から、聖座と中国当局のやり取りの詳細はつまびらかでない。にもかかわらず、了解事項にしようとしていることがあるとすれば、それは、教会に二つの事をともに認めるということだろうと想像することができる。その二つとは、二つの教会共同体が併存する教区の司牧責任を一つにすること、司教不在の数多くの教区のための責任も負うようにし、それぞれの教区が、教会と国家の双方から承認され、認知された司牧者を持つことができるようにすること、だ。

 このようなことが、痛みを伴わずにできる、とは思えない。不快、苦痛、犠牲、憤りは避けがたく、新たな緊張を引き起こす可能性さえある。しかし、こうした「針の孔に糸を通す」ようなことであっても、よきことの洗い清めと先駆けになることを、私たち全員が願っている-そこには勝者も敗者もないが、双方の寄与は価値あるものとなるだろう。バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿が語っている-「大事なのは、石板を拭いてきれいにするとか、知らないふりをするとか、たくさんの信徒や司祭の苦痛に満ちた道を魔法で消し去る、というようなことではありません。神の助けのもとに、今よりも穏やかで、兄弟愛に満ちた未来を創るための、たくさんの試練の人間的な、精神的な投資をすることなのです」。

 仮に、異なる感覚を尊重しつつ、中国におけるカトリック教会にとって、より兄弟愛的で一致を進める新たな始まりがあるとすれば、それはまず、より完全にカトリック的に、より確実に中国的になろうと働いている信徒たちの、秘跡と霊的生活に、プラスの効果をもたらすことになるだろう。

 さらに、それは、教会の活動と中国社会とのより大きな調和のための、新たな活力を解放すること、を可能にする。そして、その成否は、関係する一人ひとりの献身と善意にかかっている。中国におけるカトリックは、総人口の一部として純粋に数字でみれば貧弱に見えるが、常に活動的である。社会不安を育てる”外部の力”によって宗教が利用されることを恐れる当局の極めて多くの制限と規制の下でも、福音宣教の刷新された働きは、多くの実を結ぶことが可能だ。

 政府が司教を認知するのが、法律と手続きをもつ国家に関係する問題だとすれば、司教に教会法上の正当性を与えるのは教会に関係する問題、ということになる。このことを理解するために、教会とは何か、を確認する必要がある。紀元後二世紀に、聖イレネオは、教会を「霊的な交わり」-キリストの使徒たちから、司教たちの途切れることのない継承を通して続いてきた教会の伝統を宣言し、伝えるもの-と定義している。教会の伝統の保証としての司教たちの使徒的継承は、教会それ自身を構成するものだ。同時にそれは、教皇が司教を自己の判断で任命しようと、合法的な選任を確認する形をとろうと、使徒的継承と司教職の真正を保証するのが、教会なのである。

 たとえ、法的に適った形で叙階されても、聖ペトロの後継者(教皇)と全世界で活動している他の司教たちと霊的交わりをもたなければ、聖職者としての職務を正当性をもって実行することはできない。その価値があると判断する者に正当性を与え、完全なカトリック的交わりに加わることを改めて認め、司牧の責任をゆだねる権限は、ローマ司教、地上におけるキリストの代理者、カトリック教会全体の霊的指導者(である教皇)に委ねられている。

 中国について言えば、この確信をもって始まる―中国で行われてきた教皇の信認を欠いた新司教の叙階は、不正ではあるが、合法(極めて特別なケースをのぞいて)だった。このような憂うべき変則的な状況にもかかわらず、中国におけるカトリック教会は常に”一つ”を維持してきた。なぜなら、ローマから”離れた”存在として正式に自己を確立することは一度もなく、さらに言えば、(ローマ-教皇-の権限の優越性を否認する教義上の立場を念入りに作り上げることが一度もなかったからだ。

 しかし、考慮すべきもう一つの側面がある。それは、教皇と一致したいという強い熱望が常に、正当性を欠いた形で叙階された中国の司教たちの間に存在してきた、ということだ。こうした司教たちの変則的な状況にもかかわわず、教皇と一致したいという彼らの熱意の認識は、ここ数年の間に生まれてきた二つの対立する意見とは関係がない-正当性を欠いた司教たちが誠実であることを信じる者は、彼らの悔い改めを受け入れる(彼らのうち何人かの不適当な行為を、大目に見ることはないが)-その一方で、彼らの誠実性を信じない者は、頻繁に彼らを非難している。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

① 対話に「魔法の杖」はない (2018.5.2)

 最近のいくつかのしるしはバチカンの中国との対話に重要な進展があったことを示しているかもしれないが、両者の間で公式のいかなる合意も、近くなされるようには思われない。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

 聖座と中華人民共和国の代表者によ接触は、しばらく前から行われている。その目的は、中国における教会に関する問題を、建設的に、対立的なならずに解決しようとすることにある。問題のうち、最大なものは、司教任命という微妙なテーマだ。カトリック教会のこの問題への対応は、全ての関係者にとって好ましいものとなるような協力の形態を始める意図を持った司牧的対応である。魔法の杖ですべての問題を解決できるとは考えてもいない。そのようなものはないからだ。

 イタリアの新聞 “La Stampa”とのインタビューで、バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿はこう語った-「良く知られているように、”新中国”の出現とともに、この偉大な国において教会活動が深刻な明暗とひどい苦しみの時期を経験しています。しかし、1980年代に入って、聖座と中国の代表の接触が始まりました。それは山あり谷ありでしたが、聖座は常に、司牧的な姿勢を保持し、反対を乗り越え、当局との敬意を持った、建設的な対話の姿勢を保ちました。前教皇ベネディクト16世は2007年の『中国のカトリック教徒への手紙』で対話の精神を示し、『正当な文官代表との永続的な争いを通しては、現在の諸問題の解決はできません』と書いています。教皇フランシスコが聖座に就いて以来、対話への建設的な率直さと中国の真正な歴史への忠誠という線に沿って、交渉が続いています」。

 中国における新しい共産党政権の成立は、毛沢東革命の結果だった。毛沢東革命の目的は西欧支配、貧困、無知からの、旧支配階級の圧政からの民衆の解放だったが、神の概念と宗教からの解放でもあった。こうして、特別に困難な歴史的段階、多くのカトリック司祭と信徒にとって厳しい迫害の時が始まったのだった。そうして、1980年代に入り、中国に変化が始まったが、当然ながら、共産主義者のイデオロギーはなお強力で、最近では、治安と社会・文化的生活の文化で規制強化の傾向がでてきている。

 だが、恐らく、これは急激な経済成長を秩序だったものにしようとする試みでもある。経済の急激な発展は一方で、富裕層、新たな機会、独創性を生んだが、他方で、社会構造をかき乱した―汚職が増え、とくに若者たちの間で伝統的価値が失われた。そうした流れの中で、イデオロギー的な厳格さが大きな国内の変化に十分に対応できなくなっている。それは、必然的に、宗教の分野にも触れてくるのだ。

 聖座は、敬意ある対話の雰囲気の中で、教会と社会の善を促進することに貢献する努力に、いつも時間を空けている。世界のカトリック信徒たちは、このことが自分たちと密接に関係していることを、理解する必要がある。それは遠く離れた国で起きていることに関するものではなく、どこに住もうとも、私たちが属する教会の活動と使命に関わるものである、ということを。

②相互信頼に向けた小さな歩み (2018.5.7)

 なぜバチカンが中国当局との対話に熱心なのだろうか?中国では、宗教に敵意を持つ政権によって迫害を受けているにもかかわらず、カトリック信徒たちは信仰を持ち続けている。では、そのような対話が何をもたらせるのだろうか?(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)

  対話は、教会の活動の基礎だ。その機構の中でも、外界との関係においても、教会の行動にとって不可欠な要素だ。対話をするということは、社会、諸宗教、諸文化と関係を持つことを意味する。第二バチカン公会議は、対話―教会関係者の間だけでなく、キリスト教徒でない人々、官民の機関に属する人々、そして善意のすべての人々との対話-を司牧活動の一形態とみなした。公会議が出した「現代世界憲章」はこう述べている-「信じる者も信じない者も皆、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために協力しなければならない…このことは、誠実、かつ見識ある対話無くしては、ありえない」(21項)。

 教皇パルロ6世は、同様の事を回勅“Ecclesiam Suam”で語っている―「教会は、自身が存在している世界と対話するようにせねばなりません。教会は語り、教会はメッセージとなるのです」(67項)。カトリック教会は「教会内外の、善意のすべての人との対話を支える用意がなければなりません」(97項)。

 人々、組織、そして共同体社会との対話は友情につながる理解を深める。すべてのケースにおいて、対話は信頼によって育まれる。相互信頼は、様々な機会に、しばしばひっそりと、つながりなくなされる、多くの小さな歩み、振る舞い、出会いの成果だ。教皇フランシスコは「閉じられていないいくつもの扉がいつも存在します」と2017年5月13日に語っている。

 聖座と中国の間の現在の対話の雰囲気は、最近の歴代教皇による小さな歩みによってもたらされている。それぞれが道を開き、新たなブロックを積み上げ、希望にあふれた思考と行動を奮い起こした-パウロ6世の慎重な外交からベネディクト16世と聖ヨハネ・パウロ2世の明確な意思表示に至るまで、中国当局との積極的な対話を促した。そして、ごく最近では、中国を含む、とても多くの人々、国々との対話を推し進める、教皇フランシスコの個性、教え、振る舞いがある。

 カトリック教会は、それ自身を目的とした対話を選ばない。それは、政治的な、あるいは外交的な得点を稼ぐために、重要な原則を売り渡してしまうような「すべての代価を払って妥協する」種類のものではないのだ。中国の場合でいえば、カトリック共同体が経験した迫害を忘れることを意味しない。教会にとって、対話は常に、真実と正義を求めることによって動かされ、基本的人権を尊重し、人間にとって必須の善を達成することを目的とするものだ。

 教会の使命は、たとえ中国においても、その国の構造や行政を変えたり、政治的な権力に挑戦することではない、ということを思い起こすことが重要である。教会が、その使命を純粋に政治的な分野に限るなら、教会の真の本質を裏切り、単なる政治的な多くの中の一つの主役となり、天から与えられた素晴らしい使命を捨て、自身の行動をつかの間の次元に矮小化してしまうことになるのだ。

 真摯で誠実な対話は、教会が 社会の中でカトリック信徒たちの正当な期待を守り、共通善を推進することを可能にする。この文脈で、教会が批判的な言明をする場合、その目的な論争を巻き起こしたり、決めつけをすることではなく、建設的な精神をもってより公正な社会を推進することでなければならない。批評は、司牧的な慈善の確固とした行為だ。なぜなら、それは、弱く、声を上げる力をもたない人々の苦しみの叫びの反映だからである。中国に関して言えば、聖座は誠実で敬意ある対話が、困難で危険を伴うものであっても、確信を持った意見交換の雰囲気を促し、相互理解を深め、ゆっくりと、遠い昔についての、そして最近についての誤解を解いていくことに成功することを、信じている。

 様々な合図は、聖座が国際的に実行している「ソフト・パワー」に、中国が関心を高めていることを示している。中国では、歴史は自然の経過をたどり続け、教会において特別な責任を持つ者は慎重に識別を行う必要がある。それが、聖座が中国当局と四半世紀以上も続けている対話が、時々のしるしを読み取り、歴史における神の実存を確認するために、まぎれもない司牧的な責務となっている理由なのだ。

 

③中国における教会の宣教の必要性 (2018/6/26)

 司祭、信徒、修道者、誰であっても、キリストの弟子たちは皆、どこでも、いつの時代にも、人々の間にあって、光・塩・パン種となる使命を持っている。それは彼らの善き業を見た人々が皆、天の御父に栄光を帰するためである。中国の教会において、それは異なると言えるのだろうか?実際、最近中国が、特に欧米社会との、冷静な比較を試みる代わりに、ある種の閉鎖的態度をとっていると指摘する人々がいる。一方で、教皇庁は、非難や、より率直な批判の態度をとるかわりに、どうして対話や協定を信頼し続けることができるのかと問う声もある。

 教皇庁が持つ、国際社会に対する、特に紛争や危機をめぐる多くの介入経験から推論できるように、対話を求めるのは、隔たりと無理解がより拡大することの危険を自覚しているからであり、そこで対話はチャンスとなるだけでなく、不可欠な選択となるからである。何よりも、教会は自らの信者たちに、とりわけ彼らが大きな苦しみに接している場合に、特別に寄り添う責任を負っていることを忘れてはならない。実際、他の機関にとっては、「同意」、あるいは「譲歩」のしるしとさえ受け取られかねないことが、教会にとっては、道徳的義務であり、福音の要求に応える、霊的な強さのしるしなのである。

 中国においてこのミッションを遂行するには、教会は政界に対し特権を願う必要はない。教会はただ、正当な方法で、ありのままの自分でいなければならない。実際、必要な自由さえ欠如したような、特殊で究極の状態においても、教会はその福音宣教を前進させる方法を追求することができる。さらに、いかなる時代、世界のいかなる場所においても、教会にとって困難と十字架を伴わなかったことはない。むしろ、気づくべきことは、たとえ今日でも、宣教に理想的な条件は、民主主義的により発展した国々においてさえも存在しないように見えるということである。

 一方で、教会は、信仰や、愛、内部の一致なしではやっていけない。そのために教会の中には、信仰と愛における一致を育む非常に特別な仕事がある。それが教皇の任務といわれるものであり、それをつかさどるのはローマ司教、すなわち教皇である。中国における教会のミッションは、その何億という人々を前に、何よりも一致した、信頼性のある教会として存在することにある。そして、中国国民の生活があるところにはできる限り、どこにでも存在することである。どのような機会、状況、環境、あらゆる社会の出来事において、謙遜と、またキリスト教的希望に基づく先見性をもって、彼らと運命を共にし、神が自らお与えになる未来から人類が切り離されないように、良い未来を拓くことである。

 今日、グローバル化や豊かさの普及、生活や環境クオリティ、平和や人権など、また環境や人間関係の消費主義と切り離せない世俗化、他者と対抗しながらも自分たちの利害を追求する国々、宗教的無関心、弱者や社会からはみ出した人々の締め出し、これら現代の大きな挑戦を前に、教会はまさにそこに存在し、世の命のために死に復活したキリストを告げ知らせる必要がある。

 こうしたことは、言葉の上では、もっともらしく簡単に見える。キリスト教徒が良い心がけにあふれているならば、なぜ政府当局はキリスト教徒を恐れたり、彼らの前に多くの障害を置く必要があるのだろうか。実際には、その教会が置かれた具体的な環境を知ることが必要である。ある種の環境では、キリスト教徒の過ちや罪が非難されるだけでなく、彼らの良い行いまでもが、特に最初の頃は、歓迎されないことがある。

 中国の政治当局もまた、かなり前から、宗教は経済の発展と社会正義の発展と共に消え去る表層的な現象ではなく、人間の構成的要素であることに、気付き始めている。純粋な宗教体験は、人々と社会の調和ある発展のために欠かせない要素である。現代の発展し複雑化した社会においても、宗教の存在は大きな活力と刷新力を示している。

 中国において、儒教哲学の伝統的な見方によれば、親切や、友情、教育、権威に対する従順などの道徳の教えと共に、国家はあらゆる形の宗教を、法律をも利用しながら、厳しく管理する権利を持つという考えがある。一方で、19、20世紀の中国の歴史は、文化的・宗教的な要因がからまった、当時の政府に対する、いくつかの反乱や、社会的・政治的な様々な動きを記録している。これらの歴史的出来事をめぐる政治的見解は別とし、ここから宗教一般に対する考えに混乱や偏見が生じたことも念頭に置かねばならない。こうしたことが宗教的分派主義や、宗教感情の政治利用とは全く関係のない、偉大な宗教的伝統に損害を与えることになったといえよう。

 原理主義的で理性を持たないアプローチとカトリック信仰が、全く相容れないものであることを、中国文化と中国社会はより一層、理解するよう求められている。

(翻訳・バチカン放送日本語課・「カトリック・あい」が編集)

 

④対話の主役たち-中国当局とバチカン (2018・6・30)

 カトリック教会、とくに歴代の教皇は、受け入れがたい理論的立場への批判とそうでないものを常に区別することができ、その一方で、実務的な課題を基礎にした対話を求めることができた。

(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 だが、中国当局との制度的な接触が確立したのはごく最近、聖ヨハネ・パウロ2世の治世においてだ。非公表の話し合いは当初は、意味のある結果を生むことなく始まった。だが、聖座は対話を続けることを決断し、中国政府に対して敬意を示し、過去と現在の誤解を乗り越えて、カトリック教会の宗教的な本質と国際的なレベルでの聖座の活動の目的を明確にしようとした。

 理論的な立場と対話の要請の区別に対するいくつかの類似は、カトリック教会に関して、中国の共産党の思考の中に起きているように思われる-社会における宗教の意味と働きについて哲学的な偏見を保ちながらも、そして、中国全土で変化が起きたのではないにしても、信徒への重大な迫害行為を正当化する姿勢から、信徒の個人的な確信に対して一定の理解を示すように少しづつ変わってきている。

 ヨハネ・パウロ2世は2001年に、中国当局との対話の必要性についてこう語った-「聖座が、全カトリック教会の名において、そして、私はそう信じているのですが、全人類家族の利益のために、中華人民共和国の権威者たちとの対話を始めることを望むのは、秘密ではありません。過去の誤解が解けた以上、そのような対話は、中国の人々のため、そして世界の平和のためにともに働くことを、私たちに可能にします」(2001年10月24日のマテオ・リッチ=中国で初めてカトリックを布教したイエズス会士=に関する会議へのメッセージ)。

 そして、ベネディクト16世は2007年に、中国との対話について、「中国のカトリック教会はこの国の機構や行政を変えることを使命としていません。男性たち、女性たちにキリストを宣べ伝えるのが使命なのです」(中国の教会への書簡)と述べている。

 カトリック教会は、福音を宣言する権利と自由を言明している-厳密に政治的な問題は教会に課せられた使命の対象ではない。公正な社会的、公的秩序の構築は第一の、最も重要な政治の責務だ-だが、当時に、最優先すべき人間的、道徳的な責務であり、教会は、明確な論証、倫理構成、そして預言的な声を通して具体的に寄与し、必要な場合には建設的な批判を行う義務を負っている。

 前任者がしたように、ベネディクト16世は、中国の教会に対する書簡のいくつかの箇所で、聖座が中華人民共和国の権威者たちとの対話に前向きであることを強調した。そして、こう期待を述べている-「聖座と中華人民共和国の意思疎通と協力の確固とした形態は-様々な結びつきによって、さまざまな場面での喜びと悲しみを分かち合うことによって、連帯と相互の助けによって、友情は育てられ-ほどなく確立されるでしょう」と。信仰と司牧的な叡智のコンパスを常に忘れず、その一方で、議論される課題の複雑さについて謙虚さをもって認識し、また一方で、正当と認められた非宗教的権威者との常にある闘いを乗り越え、今ある問題への解決策を見つける努力をしなければならない。

 このような聖座の一貫した取り組みと教皇の権威に沿って、教皇フランシスコは、対話への関与を継続することを望んでおられる。そして、忍耐と識別をもって、神への信頼からくる洞察力と倦むことのない不屈の精神をもって、中国政府との公式な交渉を続けようとしておられる。このことは、教皇がなぜ、様々な機会に、偉大な中国を訪問し、そのトップと会見することに強い希望を示されるか、の説明だ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

⑤「対話」と「交渉」 (2018.7.3)

 中国のカトリック教会共同体は、その司教たちとともに –政府から認めらている教会も、認められていない教会も-政府・共産党当局との対話に好意的だ。だが、共通善を作り上げるための真の交渉のリスクを受け入れないなら、教皇フランシスコが強調しているように、 その対話は、純粋に理論的なものにとどまるだろう。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 率直で、敬意のこもった対話は、相手の立場と役目を認識し、多様性のなかで相手を受け入れる態度-共に歩み、豊かにされ、1人1人が他者と相関する。真の対話のために求められるのは、一人ひとりが自分自身の立場に安心感を持ち、相手の主体性を認めることだ。真の対話は、神のキリストにおける顕現の働きの中で行われる。それによって、神は人間と対話し、救いの関係を打ち立てることを望まれる。

 一方で、交渉は-教皇フランシスコによれば-互いに相手から何かを引き出そうとする実務的な手法だ-交渉は常に、「もっと大きなパイの一切れ」を得ることについてのものだ。だが、それは、誰もが「勝者」になるようなやり方でなされる必要がある。だから、どの交渉も、それに続く合意も、常に不完全で、仮のものだ-長い時を経て作り上げられるらせん状の長い道のりのように。

 率直で敬意のこもった、意思疎通、多様性における他者の受容、一人ひとりの立場と役目の認識の独特のスタイルと整合性を持った形で、教皇フランシスコは中国政府との公式の対話を維持、推進する姿勢を取り続けてきた。その中で、真の交渉が再開した-実際のところ、決して容易なものではなかったし、突然、中断されることも時々あった。実際、対話を進め、合意に達する意思が、双方から繰り返し強調されながら、合意に達しようとする段階になって、障害が起き、撤回されることがあった。

 この点で、指摘する価値があるのは、中国の教会-政府公認の教会も非公認の教会も-の関係者の大部分が、これまで進められた対話に好意的だ、ということだ。好意的な関係者の割合がどれほどか、というのは難しいが、中国の司教たちは、政府公認教会、非公認教会と関係なく、対話の再開と合意への進展を支持している。

 政府公認のある司教は、中国政府とバチカンの対話再開のニュースを極めて前向きに歓迎し、「カトリック信者の多数が、教皇を支持し、両者の対話を支持しており、合意に達するよう一所懸命に祈っている」と強調している。

 また政府非公認のある司教は、対話の再開は良いことだ、とし、「今、我々は、言葉だけでなく、事実を見る必要があるが、相手を見、話すことは、見るだけよりもいい、見て、話すことでしか、問題に取り組むことはできないから」と述べた。

 そして、まさにこれが、対話の動態的で困難な術だ-対話は、互いを近づけ、互いの立場を知り、自分の立場を相手に知らせる働きをする、そして、対話の中で、建前を越えて、互いの真意が明らかにされる。対話を進める中で、時として、相手に譲歩し過ぎた、あるいは、自分の正当な要求が否定された、と感じ、自分たちの期待するものを守る、あるいは期待以上のものを提示することで、双方の間に隔たりが生じるのは当然だ。

 しかし、双方が受け入れ可能な合意に達するために、自分自身の期待するものに行き過ぎがあれば、進んで修正することが必要だ。カトリック教会に求められるのは、キリスト教の信仰にとって不可欠なものと、そうでないものを区別することだ。双方が互いに相手を受け入れ、議論と異なる意見を尊重し、問題解決のための異なる提案の基礎となるもっともな理由を理解しようとすることで、真剣な、正しい対話が可能となる。

 こうしたことは、とても疲労困憊するものだ。相互信頼と寛大の精神を持ってのみ、交渉を作り上げる数多くの、しばしば疲れ果てるような道のりの中で、対話のリズムは維持できる。双方は、このような責任ある行動を保ち、合意が遠のいたように、あるいは何も得られないように思われる時も冷静さを保ち、相手の誠実さに信頼する心を育てるような、前向きな姿勢を常に保持しながら、互いを近づける小さな歩みを重ねていかねばならない。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

⑥中国と司教たち:なぜこの問題がそれほど重要なのか?  2018.7.7

 完全なミサ聖祭に向けた道を歩み続け、中国の信徒たちの生活に信頼を与えるために、現在の二つに分かれた教会共同体を一致させる手立てを考える必要がある。そこから、分断を乗り越える力が見つかる。いくつかの分野でまだ弱々しいものを力づけるために協力するように、全ての関係者を招いている。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会士)

 中国における教会活動には、多くの解かねばならない多くの問題がある。聖座と中国当局との交渉で、特に際立っているのが、司教の任命問題、具体的に言えば、司教候補の選定手続きと教皇が任命に果たす役割についてだ。

 他の多くの問題も、この問題と明らかに関連している-その中には、いわゆる”秘密の”(教皇が任命した”地下教会”の)司教たちの中国政府による認証の是非、教皇の任命を受けず、(中国政府公認の愛国教会が認めた)司教たちの教会法上の正当性の有無、中国の司教協議会の構成、教区の範囲の見直し、などがある。これらの問題は、将来の検討と対話の課題とすべきだ。

 教皇ベネディクト16世は2007年の中国の教会に宛てた書簡で、なぜ、司教座の問題がそれほど重要なのか、を次のように説明している。

 「皆さんご存知のように、中国に見られる特定の教会を結びつけ、それと同様に、世界を通じてすべての他の特定の教会との親しいつながりの根拠となっている深い一致は、その基礎を、同じ信仰だけでなく、共通の洗礼、それ以上に、ミサ聖祭と司教座においています。同様に、司教の一致、聖ペトロの後継者である『ローマ教皇との一致は、永続する、目に見える源であり基礎』であり、使徒的継承によって何世紀も続いている、キリストによって聖ペトロと他の使徒たちの上に建てられた教会とそれぞれの時代の教会の、一致の基礎なのです」

 今日、中国におけるカトリック信徒たちが同じ信仰、同じ洗礼、真正のミサ聖祭、そして使徒的継承を維持する司教座を有していることを、誰も疑わない。にも拘わらず、中国のカトリック教会は様々な困難、試練、懸念を経て来ている-亀裂を生じ、痛手を被り、分裂してきた。これは秘跡のレベルで起きてきたわけではなく、秘跡は常に、その基礎において正当なものだった。

 だが、実際的なレベル、兄弟的な関係と経路の共通性のレベルで、そうした亀裂が生じた。これらのレベルは、信仰と慈善の生きた体験にとって、世界における共通の使命と証しの効果と同様に、極めて重要なのだ。誰もが知っているとおり、中国で、一つのカトリック教会という核心において、これが危機の引き金をひき、数多くの教区で二つの教会共同体が作られた-ひとつは”秘密の”あるいは”地下の”教会共同体、もう一つは、いわゆる”官製の”あるいは”愛国の”教会共同体-それぞれが自分の司教たち、司祭たちをもった。

 この危機は、教会内の判断が原因ではなく、構造的な政治的性質を持った環境に条件づけられたものだった。カトリック教会は、2000年を超える歴史の中で、しばしば自己分裂の誘惑に陥って来た。分裂の原因は、さまざまだった。中国で二つの教会共同体を作るに至らしめた明確な原因は、初代教会で、後にも16世紀のヨーロッパの教会で見られたような、厳格な教理的、道徳的なものではない。第一千年紀と第二千年紀の間に起きた、教義的、教会法的なものでさえない。

 中国において教会共同体の分裂を起こした明確な原因は、政治的な種類の、外見的なものだった。過去の責任について安易な修正主義に陥らずに、このように問えるかもしれない-もしも、中国の教会が今日、新しいやり方で世界における固有の存在と役割を考えるように求められたなら、と。これはまた、それぞれの時と場所にある教会に存在する異なった感覚を一つにまとめようとすることで、起きるだろう-世俗的な傾向を強めるほど、精神主義的な傾向を強めるほど、そうなるだろう。こうした二つの傾向は、相手との接触-語り合い、理解し、教会と宣教のために共に歩む-においても続くに違いない。

 だが、霊的な感覚の違いを超えて、具体的な選択も存在し、教皇、宣教の証人への忠誠、利害を持たない教会と霊の追求といった重要な価値を生きる実際的な方法を基礎にして作られる。そして、。適当な手段で異なった立場を乗り越え、より大きな教会の常態を経験するようになるために追求されねばならないことは、恐らく、多様な面で存在する。確かなのは、中国の教会の不一致の状況の中で、誰もが苦しんでいる、あるいは少なくとも不快な気持ちでいる-教会の責任者たち、信徒たちの共同体、おそらく中国政府自身でさえもそうなっていることだ。無理解と誤解が続いていることは誰にとっても好ましいことではない。主が、自分たちのただ中におられるという相手の理解は、教会共同体の愛からもたらされる。

 そしてこのような文脈の中で、司教の任命と特にその情緒的で有効な一致が極めて重要な課題である。なぜなら、それが中国における教会活動の核心にあるからだ。一致に達するために、数多くの障碍を乗り越えねばならない-その第一の障碍は、政治権力が、司教たちの生活と司牧的な役割を多くの方法で規制しているという「中国独特の状況」-一方に、政府の支持を受けてはいるが教皇の認証を得ていない司教たちがおり、他方に、教皇から任命されながら、国家が認めていない司教たちが存在している-である。

 だから、これらの点において教会と政府の責任者の間の合意を追求することは、合意がたとえ不完全であっても、何を置いても必要であり、一層の対立による危害を避けるために緊急な課題なのだ。こうした理由から、現在まで三代の教皇は、カトリックの教会共同体全体の一致を育て、”非合法な”司教たちが完全な霊的交わりに戻り、”政府公認”か”教皇公認”かに関係なく、すでに霊的交わりにある司教たちの忠誠を支持する、という同じ線に沿って対応している。つまるところ、教皇たちは、霊的交わりに満たされて生きる教会の実在への旅を追求してきたのだ。

 中国における教会の状況についての問いに対して、ベネディクト16世は次のように答えている。

 「要素の多様さは、中国におけるカトリック教会の前向きな発展に好ましいものでした…。教皇と一致したい、という強い願いは、正当性を欠いたまま叙階された(”愛国協会”の)司教たちの間でも決してなくなることはなかった。このことは、霊的な道に全ての司教たちが実際に乗り出すことを可能にた-その間に、私たちは忍耐強く歩みを共にし、ともに一つ一つの作業をしました。彼らの間には、霊的交わりの中にのみ、真の司教がいる、という基本的なカトリック的感性がありました。他方で、ひそかに聖別された(”地下教会”の)司教たちは、国家からは承認されていませんでしたが、ローマに忠誠を誓っていることを理由にして、カトリックの司教たちを投獄し、自由を奪うことは、それが純粋に政治的な理由によるもであるにせよ、中国政府にはできなくなっている、という事実から利を得ています。これは、二つのカトリック教会共同体の間に完全な一致を再確立するための、交渉の余地のない前提条件であり、決定的な助けとなるものです。(「この世の光-教皇、教会、そして時のしるし」=2010年、42ページ=より)

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

 

 

2018年7月5日

・次の教皇選挙は-教会史初、西欧の心理と政治による教皇職独占破る「普遍的」選挙(Crux)  

Handicapping history’s first ‘universal’ conclave a fool’s errand

Cardinals attend a Mass celebrated by Pope Francis with the imposition of the pallium upon the new Metropolitan Cardinals, a woolen shawl symbolizing their bond to the pope, during the Solemnity of Saints Peter and Paul in St. Peter’s Square, at the Vatican, Friday, June 29, 2018. Pope Francis made 14 new cardinals on Thursday. (Cardinal: AP Photo/Alessandra Tarantino.)

News Analysis

(2018.6.30 Crux Editor  John L. Allen Jr. )

 ROME -教皇が新たな枢機卿を作るイベントとなる枢機卿会議は、カトリック教会のアイオワ州の新役員決定の幹部会と少しばかり似ている。それは、ローマに教会の新しい王子たちが集まる機会であるだけでなく、すでに王子になっている人々も同じ時に同じ場にいる。その集まりを目にしないわけにはいかないし、その中で、誰が将来の教皇になるかを考えないわけにはいかない。

 そして、その誘惑は、大半の枢機卿にとって最重要の責任は、自分たちの新しいボスを選ぶために、システィナ礼拝堂に列をなして入っていくことだと思う時、とても大きなものになる。

 過去においては、将来の教皇選挙に及ぼす教会会議の影響力を予想するのが相当に容易なことが、しばしばあった-その教皇が保守派あるいは進歩派に不正工作を仕掛けた場合、その側から教皇が選ばれる前兆となり、教皇がバチカン官僚の司教を宣教地にいる司教よりも多く選んだ場合、バチカンを基盤に持つ者を教皇に選ばれる、という具合に。

 実際に、このように一方を不利にするようなシステムがそのとおりに機能することは、決してなかった。1978年の教皇選挙に先立って、ヨハネス23世とパウロ6世の二人の教皇は、第二バチカン公会議の改革の精神に駆り立てられた中道-進歩派を大量に任命していたが、その運命的な年の(注・一度目で選ばれたヨハネ・パウロ1世が進歩派の旗手として期待されながら就任後わずか44日で病死され)二度目の教皇選挙で選ばれたのは、ヨハネ・パウロ2世であり、(注・保守的な)「福音的カトリック」が彼のトレードマークだった。

 同じように、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の次の教皇について、進歩派の多くはこの二人が重要課題とするものに共感する人物になるだろうと落胆していたが、2013年の教皇選挙はフランシスコをもたらした。

 イタリアの古いことわざに、「 “You always follow a fat pope with a thin one”(やせた教皇と太った教皇をいつも追い求めている)」というのがある―意味するところは、教皇選挙はしばしば振り子のような動きをする、前任者に欠けていると思われるものを修正するように、違うたぐいの教皇が選ばれる、あるいは単純に、人々が教会運営の一つのやり方に飽きて、変化を求める、という理由でそうなる―だ。

 最近行われた6回の教皇選挙を振り返ると、最有力候補者が教皇に選ばれたのは2回(1963年のパウロ6世と2005年のベネディクト16世)だけで、あとの4回は予想外の候補が教皇に選ばれた-1958年のヨハネス23世、1978年のヨハネ・パウロ1世とヨハネ・パウロ2世、そして2013年のフランシスコである。

 だが、もしも教皇選挙の結果がめったに予想できないものならば、教皇フランシスコがこれまでに5回、新たな枢機卿を合計で61人任命し、そのうち15人はこれまで一度も枢機卿を出したことのない国の出身者であることから、次の教皇選挙がどうなるか期待するのは形而上学的に不可能ということになる。

 教皇フランシスコによる教皇選挙権を持つ枢機卿団の刷新の結果、次に何が起こるのか誰にも分からなくなった。何が起きるか自信をもって言える者がいたらそれは出鱈目である。

 ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世のもとで、枢機卿団に入れらえた高位聖職者の多数派は、人数が知られており、彼らが待望する教皇について知的な予測作業をすることは、すくなくとも可能だった。例えば、2003年にヨハネ・パウロ2世が(注・オーストラリアの裁判所で先月、性的虐待の罪で有罪判決を受けた)ジョージ・ペルを枢機卿に指名した時、ヨハネ・パウロ2世は教皇座に強烈な進歩派が就くことを支持しない、とみるのは全く不合理ではなかった。ベネディクト16世が2007年に新任の18人の枢機卿のうち、7人をバチカン官僚から選んだ時、次の教皇がバチカン官僚から選ばれるという考え方に敵意を持たないように振る舞うのが安全だった。

 だが、もし、ブルキナファソのフィリップ・ナケレンツバ・ケラオゴ枢機卿、あるいはモーリシャスのモーリス・エバノール・ピアット枢機卿、エチオピアのベルハネイエサス・デメレウ・ソウラフィエル枢機卿、ラオスのルイ‐マリー・リン・マンカネコウン枢機卿、そのほか、あまり世界的に知られていない枢機卿たちがどのようなカテゴリーに入るのか、知っている、という人がいたら、聞きたいのものだ。

 実際のところ、教皇フランシスコが、これまであまり知られていなかった人々を枢機卿団にかなりの割合で招き入れた、というのは正しくない。次の教皇選挙を通常よりも不可解なものとするのに、それだけで十分であるにもかかわらず、である。

 これらの人々は、それぞれの文化、経験-西欧カトリックの議論の対象となっている通常のテーマが全く考慮に入れていない、あるいは重視していないこと-を代表している。例えばイラクでは、ルイス・ラファエル・サコ枢機卿がカルデア教会を率いているが、目の前の教会共同体の命を長らえることに精一杯で、使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」や多宗派との連携を巡る議論に多くのエネルギーを費やすことはできない。中央アフリカ共和国には、ドゥードンネ・ナパラインガ枢機卿がいるが、イスラム教徒とキリスト教徒の過酷な争いの現実が、「女性助祭」の問題を後回しにせざるを得なくしている。

 このように、次の教皇選挙は複雑さと魅力が共存するものとなるだろう。ヨハネ・パウロ2世を選んだ1978年の教皇選挙がイタリア人による教皇職独占を、そして、2013年の教皇選挙が欧州の人々による教皇職独占を打ち破ったとすれば、次の選挙は西欧の心理と政治による教皇職の独占を打ち破ることになるかもしれない。

 言葉を変えれば、カトリック教会の歴史で初の、真の「普遍的」な教皇選挙になるだろう。弱者に有利な持ち点を与えることは不可能だろうが、誰もが注目するテレビ番組となるのは必至だ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

 

.

2018年7月4日

・(解説)使徒的勧告「Gaudete et Exsultate」から学ぶ5つの要点(America-The Jesuit Review)

 では、なぜ私たちが「大いに喜び、喜ぶ」のか?それは、フランシスコが私たちに思い起こさせているように、神が、私たち全員に、聖人となるよう呼びかけているからだ。でも、どうやって私たちは、この呼びかけに答えることができるのだろうか?

 以下に、この教皇フランシスコの新たな、極めて実践的な勧めから、5つの要点を拾い出してみよう。

  (2018.4.9 America-The Jesuit Review‐James Martin, S.J.)

1.聖性はあなた自身であることを意味する  この勧告を通して、教皇フランシスコは私たちに、聖なる人生の実例を示している:幼きイエスの聖テレジア―小さな仕事の中に聖性を見つけたフランスのカルメル会修道女、聖イグナチオ・ロヨラ―すべてのものに神を見出そうと努めたイエズス会の創設者、聖フィリッポ・ネリ―イタリアのカトリック司祭でユーモアのセンスで知られたオラトリオ会の創設者。

 聖人たちは私たちのために祈り、いかに生きるかの見本を提供してくれるが、私たちには、彼らの抱いた理想の”クッキーの型抜き”のようになることは意図されていない。自分自身であることが意図され、一人ひとりの信仰者に、「自分自身の道を識別」し、「自分自身から最上のものを引き出す」ことが意図されているのだ。トーマス・マートンが「私にとって、聖なる者となることは、自分自身になることを意味する」と言っているように。

2. 日々の生活は聖性につながることができる あなたが聖なる者となるために、司教、司祭、あるいは修道会の会員になる必要はない。誰もが聖なる者となるように招かれている―第二バチカン公会議が私たちに気づかせたように、母親だろうと父親だろうと、学だろうと弁護士だろうと、先生だろうとビルの管理人だろうと、誰もが招かれているのだ。「隣の聖人たち」、フランシスコはそう呼んでいる。私たちがすべきとはこれに尽きる―「愛の中で自分の人生」を生き、自分がするすべてにおいて神の「証言者」となることなのだ。

 そのことはまた、大きな、劇的な振る舞いをすることを意味しない。フランシスコは日々の聖性の見本を示している―子供を育てる愛情のこもった親のような振る舞い、もちろん、「小さなしぐさ」、うわさ話をばらまくことはしないと決心するような、誰でもができる犠牲を払うことも。自分の人生を「使命」と見なせれば、聖性に向けて進むために愛をこめ、親切になることができると、すぐに理解するだろう。

 また、聖なる者となるために「神秘的な歓喜に恍惚」となる、あるいは、目を伏せて歩き回る必要はない。他の人々たちから身を引く必要もない。だが、一つの事から他の事へ走り回る”ネズミの競争”のとりこになりたくもない。動くこととじっくり考えることには、バランスが欠かせない。

3. 避けるべき二つの傾向―グノーシス主義とペラギウス主義 教皇フランシスは、霊的生活における二つの危険を避けるように私たちに求める時、辞書や神学の教科書に向かって人々をさせようとしているのかも知れない。

 危険の一つ目は、グノーシス主義だ。ギリシャ語の gnosis(知ること)からそう呼ばれている―一番大事なことは知っていること、とする古い異端の説だ。慈愛の心をもったり、善い業をする必要はない。必要なのは、正確な知的なアプローチだ―と。現代のグノーシス主義は、信仰は「完全に理解する」ことができる、と考えるように人々を誘い、他の人々にもそうした考え方をとるように強制したい、と思うように仕向ける。「誰ががどのような問いに対しても答えをもっている時」とフランシスコは語る。「それは、彼らが正しい道にいないしるしです」と。言い換えれば、”それのすべてを知る者”であることは、あなたを救うようにはならないのだ。

 二つ目は、ペラギウス主義である。この考え方とかかわりを持つ五世紀の神学者ペラギウスから、この名がついた―この考え方とかかわりを持つ五世紀の神学者ペラギウスからこの名がついた―自分自身の努力を通して、救いは手にすることができる。信奉者たちは、自己の力に信を置き、神の恩寵の必要を感じず、自分たちは確かな法則を知っているという理由で他の人々に優る行動をする。フランシスコは、現代のペラギウス主義者たちは、「律法に憑りつかれ、社会的、政治的な長所に気を取られ、教会の祈祷文、教理、威信をひたすら気にかけています」と語っている。私たちから謙遜さを奪い、他の人よりも優越した立場に置き、神の恩寵に少しの場も残すことがないー聖性にとって真に危険な考え方だ。

4.親切であることこの使徒的勧告には、教皇フランシスコのトレード・マークである「聖なる人生を生きるための実際的な助言」が、たくさん盛り込まれている。例えば、うわさ話をやめる、裁くのをやめる、そして最も大事なのは、冷酷であることをやめる、などだ。

 オンラインを使った動きにも言及されている。この問題についてのフランシスコのコメントは印象的だ―オンラインについて「中傷と悪口が当たり前のようになる可能性があります…公けの話し合いでは受け入れられないようなことが語られる可能性があり、人々は、他人に暴言を吐くことで不快感を与えたことを償うに気を付ける…他の戒めを大事にすると言明しながら、偽証したり、虚言をはいたり、冷酷に中傷することを禁じる第八戒を完全に無視しています」と語っている。 聖なる者であるためには、親切であることだ。

5. 山上の説教の八つの幸せは、聖性へのロードマップ この使徒的勧告の表題から明らかなように、イエスが山上の説教で語られた八つの幸せが、その中心をなしている。八つの幸せは、イエスが聖性を示すものだけでなく、私たちの主ご自身の生き生きした描写でもあるのだ。そして、私たちは、霊において貧しく、柔和で、平和のために働くように、義に飢え、渇くように…と、呼ばれている。 ここで、八つの幸せのうちの一つに注目したい。それは「憐れみ深い人は、幸いである」だ。教皇フランシスコは、憐み―教皇職の中心テーマのひとつ―には二つの側面―他の人々を助け、奉仕するとともに、赦し、理解すること―がある、と語っている。イエスは「復讐をたくらむ人は、幸いである!」とは言われなかったのだ。 では、教皇フランシスコの勧告を煎じ詰めると、聖性とは何なのだろうか?それは、山上の説教の八つの幸せを基礎に置いている―「憐みをもって理解し、行動する」である。(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年6月7日

・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)

(2018.4.11  Tablet  Laurence Freeman)

 聖性についての教皇フランシスコの考えは、大量消費至上の個人主義の手ぬるい凡庸さ、それと同時に、知的説明に走る宗教性に対する、預言的な怒りに根差している。

  新しい使徒的勧告の簡潔で、巧みに作られた5つの章で、教皇フランシスコは、カトリック教会の説教壇から語っているが、その聴き手は、現代の信仰の危機にある全ての人だ。

 彼は、空虚なライフスタイル、目に余る消費、そして貧しい底辺の暮らしをしている人々の中に神を見ようとしないことで生み出された人間の堕落を白日の下に晒している。フランシスコは具現化された霊性、教皇職のもつ決定的な主調―「現実は理想よりも偉大だ」という彼の言葉で表現される―によって、突き動かされているのだ。

 教皇に就任して以来、「福音の喜び」「(家庭における)愛の喜び」に次いで三つ目となる今回の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate (“Rejoice and Be Glad”) は、聖性に関する神学的な学術論文ではなく、聖性への願望を高めようとする信仰にあふれた口説き文句だ。

 こうした願望がなぜ、真の幸せをもたらすことになるのか。それを説明するために、フランシスコは、消費主義の隔絶した浅薄さと対比させて、聖性が個人の道徳的な完全さや他者の賛同に関するものではないことを、私たちに思い起こさせて、こう語る―「聖人の語ることすべてが、福音書に完全に忠実である、ということではありません」。聖人の人生全体を良く見つめる必要があるのだ。

 教皇が名指しするカトリック教会最初の聖人たちは女性たちだ。そして、聖性の「女性らしいスタイル」について述べ、具体的、経験的な聖性というテーマを女性の日常的な振る舞いを例に使って説明している―ある女性が買い物にでかけ、(主婦たちが好むうわさ話の輪に入るのを避け、くたびれて家に戻るが、助けを求める子供に気を配り、沈黙の祈りで一日を終える。聖性は、特種な人や世間から隔絶して暮らす人にあるのではない。私たちのそばに住む良き隣人とかかわること、私たちがすでにやっていることをもっと完全にする方法を見つけ、特別な方法で普通の事をすること、の中にある。聖性は、沈黙の、一人の、静寂の時を必要とするが、「他の人々との交流を避けて静寂を愛することは健全ではない」。

  聖性は、受肉の神秘に基礎を置いた、実際の一生の過程だ。共同体社会は、日々の一瞬一瞬を通して動いていく生き方の実習室であり模範。祈りは、日々の愛の約束と聖イグナチオが識別、心の知力と言明した深い祈りの特別な恩恵を育てるゆえに大切なものだ。これは、小さないくつものしぐさからなるが、明白な、キリストを中心に置いた神秘主義の聖性である。環境問題に関する回勅Laudato Si’で、フランシスコは創造の神秘主義と挑戦的な社会、経済的な論評を結びつけている。今回の使徒的勧告では、教皇はイエスのように、聖性の敵―明確な外部の敵ではなく、ずっと内部に近いもの―を激しくたたいている。

 (物質と霊の二元論をとる)「グノーシス主義」と(原罪を否定し人間 の自由意志と禁欲を強調する)「ペラギウス主義」がカトリック教会でいまだに人気のある異端の害毒だ、と指摘し、このうち「グノーシス主義」については、肉体から離れた絶対化された宗教的主知主義―教皇がしばしば批判する「聖職権主義」の特徴―であり、「ペラギウス主義」は恩寵の常に先取的な役割に対する自己満足的な盲目、との見方を取っている。教皇は直観的に調和よりも独創性を優先する―ということが、教皇の聖性についての理解に不可欠だ。

 これは、聖性の熱情的、預言者的な理解である。教皇は、預言者たちがしたように、いかさまの聖性に怒りを覚える―だが、すぐに、怒りから確信に移る。彼の聖性の手順は誰にでも適用される。ひとりよがりの選民意識と我々作る文化を見て彼を悲しませるような、退屈な凡庸さを、彼はともに避ける。人間が置かれた状態としての孤独は、消費者個人主義によってさらにひどくなる。(注・そうした現代社会において)聖性は「癒し」だ。

 聖書は彼を駆り立てる。フランシスコは、イエスの言葉に直接、立ち戻るように、私たちを強く促す。生き方を変えるよう求めることで私たちを動揺させる。八福(注・キリストが山上の垂訓で説いた八つの幸福の教え)についての評論で、教皇は「心において貧しい人は幸いである」というイエスの言葉を「私たちが真の安心を得る、まさにその場を見出すために自分自身を見つめるよう招くもの」として理解し、柔和さを「常に支配、管理しようとすることで疲弊することから救う既存の文化を否定する徳」と理解している―心に残る洞察において、教皇はこう言っている―「私たちの最も深い願望は、柔和さに満ちている」。

 フランシスコは新たな例をひいて元のテーマに戻る。彼は書いている―聖性は「神秘的な歓喜( 注・キリスト教終末論においてイエス・キリストの再臨の際に起きるとされる現象)に恍惚となる」ものではない。むしろ、寒い夜に家の外で寝ている人に出会った時の私たちの対応に例えられる―と。今の世界における聖性の実際的なプログラムの中で、難民危機は、生命倫理よりも優先すべき課題だが、教皇は、キリスト教が「光り輝く神秘をはぎ取ったNGOのようなもの」になる危険がある、と警告している。自分自身の中にキリストを見出すことは、一人ひとりの中にキリストを歓迎するのを認めることだ。ロシアの霊的古典「巡礼の道」の著者が行っていた絶えることのない心の祈りは、彼を彼の周りで起きていることから彼を引き離すのではない。「長い祈りの沈黙なしには、まず、私たちはできない」―とこのとても活動的な教皇は、私たちにこのように生き生きと思い起こさせる」。

 私たちはまた、この勧告の中にイエズス会士、フランシスコを見る―識別、日課となっている自己究明、瞑想―だ。教皇は、一人ひとりの聖人の人生の中にマルタとマリアの一致を見ている。教皇がいかにして規則正しく聖務日課と個人的な祈りをしているかに、数多く言及している。この疑いのなさは、教皇が日々の祈りの時に置いている大切さを説明する。この中に、私たちは、急進的な仕方―私たちの文化の疎外された世代のためのキリスト教徒の聖性の道を新たにするもの―の中に働く教皇の伝統への本能的な敬意を見るのだ。

 1943年に、シモーヌ・ベイユは「今の時が求める『新たな聖性』、新鮮な泉と創作力」を予見した。この使徒的勧告で、教皇フランシスコは、退屈な凡庸さと宗教的選民主義を拒否する、人の姿をした聖性のプログラムの中に「ささやかな日々の事柄」の包括的な神秘を見ることによって、この「新たな聖性」を雄弁に推奨している。教皇は、全ての人生の目標としての聖性への教会の呼びかけを新にしたのだ。

 「聖性を恐れないように」-フランシスコは強く勧めている。

(Laurence Freeman はベネディクト修道会所属の修道士。キリスト教徒の瞑想の世界協会(WCCM)事務局長

(翻訳・「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

2018年4月18日

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい。大いに喜びなさい)-現代世界における聖性への呼びかけ」(全5章・試訳)

1.「喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ福音書5章12節)。イエスはご自分のために迫害され、侮辱される人々に、このように言われました。主は、私たちのすべてを求められますが、その見返りに、真のいのち、私たちが創られた目的である幸せを、私たちにくださいます。主は私たちに聖なる者であることを望まれます。私たちが当たり障りのない、平凡な生き方に満足することを願っておられません。聖性への呼びかけは、聖書の最初のいくつかのページにあります。主のアブラハムに対する言葉で、こう表現されています-「あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)

2.これから申し上げることは、聖性に関する論文-この重要な課題の理解を助ける定義や区別、あるいは聖化のさまざまな方法についての議論-を意図していません。私の控えめな目的は、聖性への呼びかけを、現代に合った実際的な仕方で、(それに伴って生じる)リスク、挑戦、そしてチャンスも含めて、改めて行うことです。それは、主が、ご自分の前で「聖なる者、汚れのない者にしよう」(エフェソの信徒への手紙1章4節)と、私たち一人ひとりをお選びになったからです。

第1章 聖性への呼びかけ

 *私たちを励まし、同行してくださる聖人たち

3.「ヘブライ人への手紙」は、私たちを「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」(12章1節)ようにと励ます、たくさんの言葉を書いています。アブラハム、サラ、モーセ、ギデオン、その他の人々について語っています(11章1節-12章3節参照)。そして何よりも、「おびただしい証人の群れ」(12章1節)が、目標に向かって常に前進するよう私たちを駆り立てていることを認識しなさい、と私たちに呼びかけているのです。このような証人たちには、私たちの母、祖母、その他の愛する人たちも含まれるでしょう(テモテの手紙Ⅱ・1章5節参照)。彼らの人生は常に完璧ではなかったかも知れませんが、過ちと失敗の最中にあってさえも前に進み続け、主を喜ばせたのです。

4.聖人たちは今、神の前で、私たちとの愛と霊的交わりのきずなを保っています。「ヨハネの黙示録」は、殉教者たちのとりなしについて語る時に、そのことを証言しています-「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わないのですか?」(6章9-10節)。私たちはそれぞれ、このように言うことができます-「神の友たちに取りまかれ、先導され、案内されます・・。私は、実際、一人で運ぶことが絶対にできないものを一人で運ばなくてもいい。すべての神の聖人たちが、私を守り、支え、歩ませるためにおられるのです」¹

5.列福と列聖を行う過程で、英雄的な美徳のしるし、殉教による自己犠牲、そして他の人々のために人生を捧げ続け、死に至るまで捧げ続けるような事例が評価されます。このことは、キリストの模範に倣う行為であることを示しています²。例として、福者マリア・ガブリエラ・サゲッドゥ(1914-1939イタリア・サルディニア生まれ、1983年に列福)を挙げることができるでしょう。彼女はキリスト教徒たちの一致のために命を捧げました。

 聖人たちは”隣り”に

6.しかし、私たちはすでに列福され、列聖された人々だけを考える必要はありません。聖霊は、神を心から信じ、忠実な人々の間に、聖性を豊かに注いでくださいます。なぜなら、「神は、人々を個別的に、全く相互のかかわりなしに聖化し、救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め、忠実に神に仕える一つの民として、確立することを望んだ」₃(第二バチカン公会議「教会憲章」9項)からです。救済の歴史で、主は一つの民を救われました。私たちは、一つの民に属していなければ完全に自分自身ではないのです。それが、誰も一人では、ばらばらの個人では救われないことの理由です。神は、私たちを放っておかれず、人間社会の複雑な対人関係のあやをご存知の上で、ご自分のところに引き寄せようとなさいます。神は一つの民の生涯と歴史に立ち入ることを望まれました。

7. 聖性が神の民の忍耐の中-大きな愛をもって子供たちを育てる両親、家族を支えるために懸命に働く男女、病んでいる人、微笑みを絶やさない高齢の聖職者の中-にあることを考えたいと思います。彼らの日々の忍耐の中に、私は、闘う教会の聖性を見ます。聖性は、私たちの隣りの人たち-私たちの中で暮らし、神の実存を映す人たち-の中に見つかることが、とてもよくあります。「聖性の中流階級」と呼べるかもしれません。⁴

8.聖性のしるしに心を弾ませましょう-そのしるしは、主が「信仰と愛の生活を通して、キリストについて生きた証を広め・・キリストが果たした預言職に参加」⁵(「教会憲章」12項)する者の中で最も謙虚な人々を通して、私たちにお見せになります。私たちは、十字架の聖テレサ・ベネディクタが語ったように、本当の歴史はとても多くの人々によって作られている、という事実を思う必要があります。彼女はこう書いています-「預言の力と神聖さで最も優れた人物たちは、真っ暗な闇夜から抜け出て、前に歩む。だが、大部分の人にとって、神秘的な命の形成の流れは見えないままだ。まことに、世界史の最も決定的な転換点は、歴史書に書かれていない人々によって実質的に確定される。そして、私たちは、隠されていたすべてが明らかにされる日に、自分たち個人の生涯の中で、その決定的な転換点を定めた人々について、初めて知ることになるだろう。⁶

9.聖性は教会の持つ最も魅力的な側面です。しかし、聖霊は、カトリック教会の外においてさえも、とても異なった文脈の中で「キリストの花々を助けるご自身の臨在のしるし」を高く上げます⁷。聖ヨハネ・パウロ二世は「自らの血を流してさえもキリストを証しする人は、カトリック教会、ギリシャ正教会、英国国教会そしてプロテスタント教会の共通の遺産」である、ということを私たちに思い起こさせてくれます⁸。2000年の大聖年の期間中に行われた信仰一致の記念行事で、彼は、殉教者たちは「分裂をもたらしたいかなる原因よりも雄弁に物語る遺産」であると語りました⁹。

 主は呼びかけておられる

10.これらすべてが重要です。それでもなお、この勧告で、私は、主が私たち一人ひとりに、そしてあなたに個人的になさる「聖性への呼びかけ」について特に強調したいと思います-「聖なる者となれ。私が聖なる者だからである」(旧約聖書・レビ記11章44節、新約聖書・ペトロの手紙11章16節)。第二バチカン公会議はこのことについて、はっきりと言明しました-「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自、自分の道において、父自身が完全に持っている聖性に達するよう、主から招かれている」¹⁰(教会憲章11項315)と

11.「各自、自分の道のおいて」と第二バチカン公会議は述べています。私たちは、達成不可能に見える聖性の模範を前にして、失望落胆してはなりません。助けられ、奮い立たされるような例証はいくつかあります。でもそれをまねることを意味しません。なぜなら、そうすることが、私たちのために主が考えておられる道から外れることさえあるかもしれないからです。大事なのは、信徒一人ひとりが自分自身の道を識別し、最善の道-神が自分たちの心に置かれた最も個人的な贈り物―をみつけること(コリントの信徒への手紙112章7節参照)。自分たちにとって意味のないことを真似ることに絶望的な努力をすることではありません。私たちはみな、証人になることを求められていますが、証人になるための実際の道はたくさんあります¹¹。実際に、偉大な神秘家である十字架の聖ヨハネは「Spiritual Canticle」を著わす際、難しくて固いルールを全面的に避けることを選びました。そして彼は、誰もが「自分のやり方」で恩恵を受けることができるように文章を組み立てた¹²、と説明しています。なぜなら、神の命は「ある人にはこのやり方、他の人には別のやり方」で、つながるからです¹³。

12. 様々な形の中で、私にはもう一つ、強調したいことがあります。それは、「女性の特質」を聖性の女性的な形の中に見ることができる、それは、この世界において神の聖性を映すために欠かすことのできない手立てだ、ということです。実際のところ、女性が一番無視され、見過ごされた、これまでの時代にあって、聖霊は、教会において新しい霊的活力にあふれ、重要な改革を行う魅力ある聖人たちを、育て上げました。そうした聖人として、ビンゲンの聖ヒルデガルド、聖ブリジッド、シエナの聖カタリナ、アビラの聖テレジア、リジュ―の聖テレーズを挙げることができます。しかし、また私は、名を知られることのない、あるいは忘れられた女性たち全てのことも思い浮かべます-彼女たちは、それぞれのやり方で、証し人の力によって、家族と共同体社会を支え、改めたのです。

13. このことは、私たちのすべてを捧げ、神が永遠の昔から私たち一人ひとりのために作っておられた唯一の計画を自分のものとするように、刺激し、励まします-「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別した」(旧約聖書・エレミヤ書1章5節)と。

 あなたのためにも

14. 聖となるために、司教、司祭、あるいは聖職者である必要はありません。私たちはしばしば「聖性は、日常の雑事から離れ、祈りにたくさんの時間をかけることのできる人にだけある」と考えがちです。そのようなことはありません。私たちはみな、どこにいようと、愛をもって生活を送り、自分が行う一つ一つの事を通して証しすることで聖となるように、呼ばれているのです。あなたは司教として生きるように呼ばれていますか?-与えられた責任を愛をもって果たすことで、聖となりなさい。あなたは結婚していますか?-あなたの夫、妻を愛し、大切にすることで、聖となりなさい。キリストが教会のためになさったように。あなたは生計を立てるために働いていますか?-あなたの兄弟姉妹に奉仕するために、誠実に腕を振るって働くことで聖となりなさい。あなたは親、それとも祖父、祖母ですか?-子供たち、孫たちに、イエスに倣うにはどうしたらいいかを、辛抱強く教えることで、聖となりなさい。あなたは権限を振るう立場にありますか?-社会の利益を図るために働き、自己の利益を捨てることで、聖となりなさい¹⁴。

15.あなたが受けた洗礼の恵みが、聖性の歩みの中で、実を結ぶようにしましょう。すべてを神に対して開きましょう-どのような状況にあっても、神に顔を向けましょう。聖霊の力が、そうするように助けてくれますから、迷うことがないように。聖性は、結局のところ、あなたの人生において結ぶ聖霊の実(ガラテヤの信徒の手紙5章22-23節参照)なのです。あなた自身の弱さに安住する誘惑にかられるとき、十字架につけられたキリストを見上げて、こう言いなさい―「主よ、私はおろかな罪びとですが、あなたは、私をほんの少しだけ良くする奇跡がおできになります」と。聖ではあるが罪びとたちの集まりである教会には、あなたが聖性に向けて成長するのに必要なのものがすべてあります。主は、聖典、秘跡、聖所、生きた共同体、聖人である証し人、そして神の愛から発する多岐にわたる美徳を教会にお授けになりました―「宝石で飾られた花嫁のように」(イザヤ書61章10節)

16. 主があなたに呼びかけておられる聖性は、いくつものささやかな行いを通して成長します。例を挙げましょう。ある女性が買い物に出かけ、隣の人に会い、話し始め、うわさ話が始まります。でも、彼女は心の中でこう言います。「だめ。だれの悪口も言わない」と―これが聖性に進む第一歩。家に戻った彼女に、子供たちの一人が自分の望みと夢を聴いて、とせがみます。そこで、疲れていても、腰かけて、我慢して、愛をもって彼の話を聞きます―これが、聖性に進むもう一つの犠牲。後で、彼女は、いくらかの後ろめたさを感じますが、聖母マリアの愛を思い出し、ロザリオを取り、心から祈ります―これが聖性へのもう一つの歩み。さらに、この後で、彼女は通りに出て、失望落胆している人に出会い、立ち止まって、やさしい言葉をかけます―さらなる一歩です。

17.時として、人生は大きな試練に出会います。試練を通して、主は、私たちの人生で主の恵みをさらに明らかにすることのできる回心へ、新規まき直しを図るよう呼びかけます―「ご自分の神聖にあずからせる目的」(ヘブライ人への手紙12章10節)で。また、時として、自分がすでにしていることをもっと完全にする方法を見つけることだけを必要とします―「暮らしの中で普通にしていることを、特別な方法で完全なものにするだけのための、霊感がある」¹⁵.ベトナムのグエン・バン・スアン枢機卿( 1928 –  2002)は 刑務所に入れられた時、釈放される日を待つことで時間を無駄に過ごすことを拒否しました。そうする代わりに、「この時を、愛でいっぱいにして生きる」ことを選びました。彼はこう決断しました―「日々あたえられる機会をしっかりと捕えよう。普通ではない仕方で、普通のふるまいをしていこう」¹⁶と。

18.このようにして、神の恵みに導かれ、私たちは、たくさんのささやかな振る舞いによって、神が望まれた聖性を形作ります―自分たちだけで十分な男、女としてではなく、「神のさまざまな恵みの管理者」(ペトロの手紙14章10節)として。ニュージーランドの司教団は、私たちが主の無条件の愛をもって愛することができる、と正しく教えています。なぜなら、復活された主は、その力強い命を、私たちのひ弱な命と共にされます―「主の愛は限りなく、一度与えられたら、決して取り去られることはない。無条件で、常に誠実です。主のように愛するのは容易ではありません。それは私たちが、しばしば弱いからです。しかし、キリストが私たちを愛されたように愛しようと、ひたすら努めることは、キリストがご自身の復活された命を私たちと共にしてくださる、ということを示します。このようにして、私たちの人生に―たとえ、人間的な弱さのただ中にあっても、主の力が働いていることが実証されるのです」¹⁷。

 *キリストにおけるあなたの使命

19.キリスト教徒は、地上での自分の使命を、聖性への道をたどることと見なさずに、考えることはできません。なぜなら、「神の御心は、あなた方が聖なる者となること」(テサロニケの信徒への手紙14章3節)だからです。それぞれの聖人は、歴史の特定の時に、福音の特定の側面を反映し、具体化するために父が計画された使命を帯びています。

20.その使命はキリストにおいて完全な意味を持ち、キリストを通してのみ、理解することができます。その核心に、聖性は、キリストとの一致において、キリストの命の神秘を経験しています。聖性は、独特の、個人的なやり方―キリストと共に常に死に、新たに復活する、という仕方―で、主の死と復活に私たちを結びつける中に存在します。しかし、それはまた、私たち自身の人生で、イエスの地上での生活の様々な側面―公生活に入る前のナザレでの隠れた暮らし、地域社会での暮らし、底辺の人たちへの親密さ、自己犠牲の愛を示す中での貧しさなど―を再現することを必要とします。このような神秘を深く想うことで、ロヨラの聖イグナチオが指摘しているように、私たちの選択と態度に、その神秘が体現されるように導かれます。¹⁸ なぜなら「イエスの生涯のすべては、その神秘のしるし」¹⁹(カトリック教会のカテキズム515項)「キリストの全生涯は御父を啓示するもの」²⁰(同516項)「キリストの全生涯はあがないの神秘」²¹(同517項)「キリストの全生涯は統合の神秘」²²(同518項)であり、「キリストは、私たちがご自分とともにそれを生き、ご自分が私たちと共にそれを生きることができるようにされる」からです。

 21.御父の計画はキリストであり、キリストにおける私たち自身です。結局のところ、私たちの中で愛されるのはキリストです。それは「聖性は、十分に慈愛に満ちて生きる以外の何ものでもない」²⁴からです。結果として「私たちの聖性の大きさは、キリストとキリストの中にある私たち自身に端を発します。その限りにおいて、聖霊の力によって、私たちは全人生を、キリストをひな型として作っていくのです」²⁵。聖人一人ひとりは、聖霊がイエス・キリストの豊かさから取り、神の民に与えられるメッセージなのです。

22.聖人たちの一人を通して主が私たちに語ろうと望まれる言葉を知るために、細部に巻き込まれる必要はありません。それは、そうすることで間違ったり、失敗したりするかも知れないからです。聖人の語ることすべてが福音書に完全に忠実だとは限りません―彼や彼女のすることすべてが正当あるいは完全だとは限りません。私たちが熟慮する必要があるのは、聖人たちの生涯の全体、聖性における成長の旅全体、私たちが個人として彼らの全体として意味するところを理解した時に現れるイエス・キリストの似姿です。²⁶

23.これは、私たちすべてに対する強力な勧めです。あなたはまた、使命として自分の人生全体を見る必要があります。祈りの中で神の声を聴き、あなたに与えられるしるしを知ることで、そのようにしてみなさい。いつも聖霊に尋ねなさい―私が受けた使命を果たす場を識別するために、私の人生の瞬間、瞬間に、私がもとめられる判断の一つ一つに、イエスが何を期待しておられるのでしょうか―と。聖霊があなたの中に、現代世界でイエス・キリストを映すことのできる個人的な神秘を作ってくださるようにしなさい。

24.その言葉の内容、神があなたの人生によって世界に話しかけることを望まれた、というイエスのメッセージをはっきりと理解するようになるように。あなた自身を変容させましょう。あなた自身を聖霊によって新たにされるようにしましょう。そうすることで、あなたの尊い使命に失敗しないようにすることができるのです。あなたがその愛の道を放棄せず、浄化し啓蒙する主の超自然的な恵みにいつも心を開いている限り、主は、あなたが失敗し、道を外しても、使命を全うするようにしてくださいます。

 聖化する行為

25.キリストは神の王国をもたらすためにおいでになりました。キリストを、その王国から離れて理解することができないように、あなたがたの一人ひとりの使命も、その王国の建設と分かちがたいものです―「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)。キリストとその意志と一体となることは、愛、正義、そして普遍的な平和の国をキリストとともに建設する責任を含みます。キリストご自身はあなたとともに―必然的に伴うすべての努力と犠牲において、そして、それがもたらすすべての喜び、豊かさにおいて―このことを経験したいと希望されています。あなた自身の体と魂でこの偉大な事業に最善を尽くすように努めなければ、聖性を成長させることはできません。

26.他の人々との交流を避けて沈黙を愛すること、行動を避けて平和と静寂を望むこと、奉仕を軽んじて祈りを求めることは、いずれも健全ではありません。この世界での私たちの人生で、すべてのものが受け入れられ、統合され、私たちの聖性への道の一部となり得ます。私たちは、行動の最中においてさえも、思慮深くあり、責任と寛大さをもって、ふさわしい使命を遂行することで、聖性において成長することが求められます。

27.聖霊が、私たちに「使命を果たす」ように強く促してから、「使命を放棄せよ」、あるいは「使命を一生懸命に果たそうとするな」と求めることがありうるでしょうか? それでも、私たちには、司牧の約束や責任を、この世界で二の次にする誘惑にかられる時があります。聖性における成長と内的な平和の道に「心の乱れ」があったかのように、です。私たちには、「人生には使命はない、人生が使命なのだ」²⁷ということを忘れる可能性もあります。

28.申し上げる必要もありませんが、不安、誇り、あるいは他の人々に感銘を与える必要からなされるものは、どれも聖性に導くことがありません。そのようにして私たちが行うことが、どれも福音的な意味をもち、イエス・キリストと一層、一体化させる、という約束を証しするように、私たちは強く求められています。例えば、キリスト教の教理を教える人の霊性について、教区司祭の霊性について、務めの霊性について、私たちはよく話します。同じ理由から、私は使徒的勧告「福音の喜び」では福音宣教の使命の霊性を、回勅 「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」では環境に関する霊性を、「(家庭における)愛の喜び」では家庭生活の霊性を、締めくくりの言葉としました。

29.このことは、神の前で、静かにひとり、沈黙の時を過ごすことの必要性を無視することを意味しません。それとは全く反対です。絶えず新製品が出る小物、旅の興奮し、そして限りなく並ぶ日用品―は時として、神の声を聴く場をなくしてしまいます。私たちは、言葉、浅薄な娯楽、そして騒々しさを増す騒音に圧倒され、喜びではなく、人生に意味を失った人が抱く不満でいっぱいになります。私たちは、”rat race”(心身をすり減らす空しい行為)を止めねばならない、と気づくこと、神との心からの対話をするのに必要な個人的な空間を取り戻すことに、どうやって失敗するのでしょうか?そのような空間を見つけることに苦痛を感じるかもしれませんが、それはいつも良い結果を生みます。遅かれ早かれ、私たちは、自分の本当の姿に向き合い、主に入ってきていただかねばならなくなるのです。「底知れない恐ろしい誘惑をじっと見つめる自分を知る、絶望の淵に立ち目もくらむような気持になる、あるいは、自分が完全に孤独で見捨てられたことに気づく」²⁸というようなことがなければ、このようなことは起きないかもしれません。そのような状況の中に、私たちは、自分の任務に十分な献身をもって生きるという、最も強い動機を見出すのです。

 30.私たちの心を乱す様々な事象が世界中に広がり、私たちは、自由な時を絶対化するように導かれ、娯楽やつかの間の快楽を与える趣向に自分自身を委ねることになり得ます。²⁹ 結果として、私たちは自分の使命を不快に感じるようになり、約束はおろそかになり、惜しみない用意を怠らない奉仕の心が薄らいでいきます。そして、私たちの霊的な認識を変えてしまいます。福音を述べ伝えること、あるいは他の人々へ奉仕することに手を抜くようになる時、どのような霊的情熱が健全でいられるでしょうか?

31.一人でいることと奉仕、個人生活と福音宣教の努力、をともに満たすことのできる聖性の精神が、私たちには必要です。それがあれば、どの瞬間にも神の目の中で自己犠牲の愛を表すことができるのです。

 もっと生き生きと、もっと人間らしく

32.聖性を恐れないように。聖性があなたの気力、活力、喜びを奪うことはありません。それとは反対に、あなたは、天の父があなたをお創りになった時に考えておられたものとなり、自分自身そのものに誠実になるでしょう。神により頼むことは、私たちをあらゆる形の隷属から解放し、自身のもつ素晴らしい尊厳に気づかせてくれます。この好例を、聖ジョセフィン・バキタ(「カトリック・あい」注・1869 – 1947・スーダン生まれ、奴隷にさせられたのち、イタリアの女子修道会に入り活動)に見ることができます―「ジョセフィンは拉致され、わずか7歳で奴隷に売られ、残酷な主人たちのせいでひどい苦しみを味わった。だが、彼女は、人ではなく、神が『一人ひとりの人間の、一人ひとりの人生の真の主人である』という深遠な真実を理解するようになった。この経験が、この『アフリカの謙虚な娘』にとっての、偉大な賢明さの源となった」と³⁰。

33 .一人ひとりのキリスト教徒が聖性を育てれば育てるほど、私たちの世界のために、より大きな結果を生むことでしょう。西アフリカの司教たちはこのような意見を述べました―「新しい福音宣教の精神のもとで、福音化されるように、あなた方、洗礼を受けた者のすべての力を通して福音化するように、そして、あなた方がどこにあっても、地の塩、世の光としての役割を担うように、私たちは呼びかけられています」³¹

34.あなたの目を高く上げ、あなた自身を神によって愛され、自由にされるようにすることを、恐れないように。聖霊によって導かれることを、恐れないように。聖性があなたの人間らしさを弱めることはありません。なぜなら、それは「あなたの弱さと神の恩寵の力の出合い」だからです。レオン・ブロイ( 1846 – 1917、フランスの作家)の言葉にも、結局のところ「人生で唯一最大の悲劇は、聖人にならないことだ」³²とあります。

第2章 聖性の二つの狡猾な敵

35.ここで私は、私たちを惑わす可能性のある誤った二つの聖性の形―グノーシス主義とペラギウス主義―について述べたいと思います。この二つはキリスト教の歴史の初期からある異説ですが、私たちを悩まし続けています。今も、多くのキリスト教徒が、恐らくそうとは知らずに、この誤った考え―カトリックの真理の面をかぶった人間中心的な内在論を取る―に惑わされることがあります³³。注意したいのは、この二つの形が教義と規範の仮定的な確信が「自己陶酔的で権威的なエリート主義」を生じさせ、それによって、「福音を述べ伝える代わりに、他者を分析し、格付けし、そして恵みへ導くことにではなく、人を管理することに力を費やし」、どちらの場合も、「イエス・キリストに対しても、他者に対しても、真の関心を払っていない」(以上、使徒的勧告「福音の喜び」94項)ことです。

 *現代のグノーシス主義

 36.グノーシス主義は「特定の経験、あるいは一連の論証と少しばかりの情報だけに関心を持っています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は、自らの理性と感情の内在にとざされたまま」なのです³⁵(同94項)。

   神と体を欠いた知性

37.  ありがたいことに、カトリック教会の歴史を通じて、常に明白になってきたことがあります。それは、人の完成度は、情報と知識の量ではなく、慈愛の深さによって計られる、ということです。グノーシス主義者たちはこれを理解しません。なぜなら、特定の教義の複雑さを理解する能力をもとにして他者を判定するからです。彼らは、知性を体から離れたものとして考えるので、他者の中にキリストの傷つけられた体を感じることができず、抽象的な概念の百科事典の中に閉じ込められたようになっています。それで結局のところ、信仰の神秘を具現化しないことで「キリスト無き神、教会無きキリスト、民無き教会」を選ぶのです³⁶。

38.確かにこれは表面的で独断的な見方です―表面にはたくさんの動きがあるのに、内面の心は深く動かされず、影響されもしません。それでも、グノーシス主義は人によっては誤った魅力を感じさせます。なぜなら、グノーシス的なアプローチは、厳格で、人のよっては純粋のように見え、すべてを包含するある種の調和か秩序があるように見えるからです。

39.ここで注意してほしいのは、私が、キリスト教の信仰に対して理性主義が有害だ、と言っているのではない、ということです。理性主義は、教会で―教区の信徒の間でも、それを形成する中心をなす哲学と神学の教師の間でも―存在可能です。グノーシス主義者たちは、「自分たちの説明でキリスト教の信仰と福音のすべてを完全に理解できる」と考えています。自説を絶対的なものとし、自分たちの考え方を他者に押し付けます。福音の教義的、道徳的教えについて熟考するために健全かつ謙虚に理論を使うことは、(注・グノーシス主義のように)イエスの教えをすべての支配を希求する冷酷で厳しい論理に貶めるのとは違います³⁷。

 神秘無き教義

40.グノーシス主義は、最も邪悪なイデオロギーの一つです。なぜなら、知識や表面的な経験を不当に称揚しながら、自分自身の現実についての見方を完全だと考えているからです。そのことに気が付くことすらなく、イデオロギーは独善的になり、近視眼的にさえなります。自己を具現化されない霊性の仮面をかぶる時、なお一層、非現実的になります。グノーシス主義は「本質的に、神秘―それが神と恩寵の神秘だろうと、他者の命の神秘だろうと―を支配することを希求する」³⁸からです。

41. ある人がどの質問に対しても答えをもっている時、それは、その人が正しい道を歩いていないしるしです。偽預言者―自分自身の心理的、あるいは知的理論を売り込むために、宗教を利用する人―になるかもしれません。神は私たちを限りなく超越しています-驚きに満ちています。私たちは神にいつ、どのようにして出会うか、を決める者ではありません-出会いの時と場所を決めることは、私たちに任されていないのです。すべてのことを明らかに、確かなものにしたい、と望む人は、神の超越を制御するという、おこがましいことをすることになります。

42. 私たちには、どこに神がおられないかを言う資格もありません-神はご自身でお選びになった仕方で、一人ひとりの人生に神秘的に存在されるからですし、私たちが確信をもってそれを排除することもできません。ある人の人生が完全に破綻したように見えときでも、悪い行いなどで荒廃したように見える時でさえも、神はそこにおられるのです。私たちが自分自身を、偏見ではなく、聖霊の導きにゆだねるなら、どの人生にも神を見つけることができるし、見つけるに違いありません。これが、グノーシス的な考えが、それが制御できないために、つかむことのできない神秘の一部なのです。

 理解力の諸限界

43.主から受けている真理を把握することは容易でない。そして、それを表現するのはもっと難しいことです。ですから、真理を理解する方法で、他者の人生を厳しく監督する権威づけを、私たちに与えるように主張することはできません。ここで私は、教会において、教理の多くの側面とキリスト教徒の人生を解釈する異なった方法が正しく共存していることを指摘したいと思います―その多様性において(注・哲学や神学や司牧における見解の異なる方針は)「神のみ言葉の豊かな宝を明確にすために役立ち」³⁹(「福音の喜び」40項)ます。寸分の違いもなく皆が守る、教理の一枚岩を夢見る人にとっては「これは望ましくない、混乱を招くもののように思われるかもしれない」(同)のも事実です。実際、グノーシス主義のいくつかの系統は、福音の具象的な単純さを批判し、至高の統一体に、三位一体であり人となった神を取って代わらせようとしました。そうすれば、私たちの歴史の豊かな多様性が消えてしまいます。

44.実際に、教理―あるいは教理の理解と表現と言った方がいいかもしれませんが―は「質問、疑問、尋問・・を提起する精力的な能力を欠いた閉鎖されたシステムではない。人々の問い―苦難、葛藤、夢、試練、それと心配についての問い―にはすべて、解釈する価値がある。私たちが、人となられた神の真理を真剣にとらえようとするなら、その解釈の価値を無視することはできない。その不思議さは、私たちが知りたいと思うのを助長し、彼らの問いは私たちに問いかける」⁴⁰のです。

45.危険な混乱が起き得ます。私たちは「何かを知っているから、あるいは、特定の言葉でそれを説明できるから、自分はすでに聖人だ、完全だし、”無知な大衆”より優れている」と思うことがあります。聖ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会の教養の高い人たちが「自分は他の信徒たちよりも、ともかく優れている」と感じる誘惑に陥らないように警告しました⁴¹。実際のところ、自分が知っていると考える事柄は、神の愛によりよく応えるように、常に私たちを刺激すべきなのです。まさに「あなたは生きるために学ぶ:神学と聖性は分かちがたい」⁴²のです。

46.アッシジの聖フランシスコは、弟子たちの何人かが教えていることを知った時、グノーシス主義への誘惑に陥らせないようにしよう、と思いました。それで、パドヴァの聖アントニオに手紙を書きました―「あなたが兄弟たちに聖なる神学を教えるのを、うれしく思っています。ただし、この勉学の間、祈りと奉献の心を、あなたが消さない限り・・」⁴³と。キリスト教徒の経験を生き生きとした福音から遠ざけるような、一連の知的演習に変える誘惑を、フランシスコは認識していたのです。一方、聖ボナベンツラは、真のキリスト教徒の知恵が隣人に対する慈しみから引き離されることは絶対ない、と指摘しました-―「考えられる最も偉大な知恵は、私たちが与えねばならないものを豊かに分かち合うこと・・慈しみが知恵の友であるのに対して、貪欲は知恵の敵だ」⁴⁴.「黙想と結ばれた行動は、黙想を阻まず、かえってそれを促す。慈しみと献身の業として」⁴⁵。

 *現代のペラギウス主義

47. グノーシス主義は、今も見られるように、もう一つの異端に取って代わられました。時が経つにつれて、多くの人が認識するようになったのは、それが「私たちをもっと良くする、ないしは聖なる者とする知識」ではなく、「私たちがおくっている生活のようなもの」だということでした。しかし、これはグノーシス主義の古い過ちに巧みに回帰しただけでした。グノーシス主義を消し去るというよりも単に変容させただけだったのです。

48.グノーシス主義者が知性に帰したのと同じ力を、次に、もう一つの主義者が人の意志、個人の努力に、帰そうとしました。これは、ペラギウス主義者とセミ・ペラギウス主義者のことです。彼らの下で、神秘と恩寵の場に取って代わったのは、知性ではなく、人の意志でした。すべてのものは「人の意志や努力ではなく、神の哀れみ」(ローマの信徒への手紙9章16節)によっていること、「神がまず私たちを愛してくださった」(ヨハネの手紙1・4章19節)ことが忘れられたのです。

 謙虚さを欠いた意志

49.ペラギウス主義的あるいはセミ・ペラギウス主義的な思考に従う人は、神の恩寵について熱心に語っても、「自分の力だけに信を置き、定められた法規を順守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ、信を置いている」⁴⁶(使徒的勧告「福音の喜び」94項)のです。そのような人々の中には「すべてのことは、神の恩寵をもって成し遂げられ得るのだ」と語っても、心の中では「全てのことは人の意志によって可能となる」という考える傾向があります―まるで、それが純粋で、完璧で、全能であり、恩寵は付け足しであるかのように。彼らは「誰もがすべてすることはできない」⁴⁷ということを、人生において、「人間的な弱さは恩寵による以外に完全に癒されることはない」⁴⁸ということを、認識できません。どの場合にも、聖アウグスティヌスが教えたように、神はあなた方に、できることをするように、できないことは頼むように⁴⁹、そして何よりも、謙虚にご自分に祈るようにとお命じになります―「意のままになるものは与え、したいと思うものは自制しなさい」と⁵⁰。

50.結局のところ、自分の弱さを心から祈りをもって自覚できないことが、私たちの中で恩寵がより効果的に働くのを妨げています。なぜなら、誠実で偽りのない成長の旅を構成する潜在的な善をもたらすための場所が残されていないからです⁵¹。神の恵みは、まさに基礎を置くがゆえに、私たちを皆一緒にスーパーマンにすることはありません。そのような考え方は、自分自身の能力に過度の自信を示すことになります。自らの正当性のもとで、私たちの態度は、恩寵の必要性について語ることに対応するものにはなりません。そして特定の状況において、恩寵に信を置かないようになってしまうのです。もしも、私たちが自分のおかれた具体的で限られた状況にあることを認めることができなければ、主がいつも私たちにお求めになっている現実的で可能な歩みを、目にすることはできないでしょう―一度は主の贈り物に魅せられ、力づけられたとしても。神の恵みは歴史の中で働きます-通常は、私たちをとらえ、次第に変容させます⁵²この歴史的で進歩的な現実を、私たちが拒否すれば、恩寵を拒み、妨げることになります-言葉では恩寵を讃えていても。

51.神がアブラハムに語りかける時、こう言われます―「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(旧約聖書・創世記17章1節)。全き者となるため、神が示されたように、私たちは神の前で謙虚に、その栄光に包まれて生きる必要があります;私たちの人生の中に神の変わらぬ愛を認めつつ、神とともに歩む必要があります。私たちの善のためだけであり得る存在を前に恐れを無くす必要があります。神は、私たちに命を与えてくださった、大いなる愛をくださる父なのです。神を受け入れ、神なしの人生を生きようとするのを止める時、孤独の苦しみは消えます(旧約聖書・詩編139章23-24節参照)。

 このようにして、私たちは、主の喜ばしく、完全な御心を知り(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章1-2節参照)、そして私たちを陶器のように成形していただく(旧約聖書・イザヤ書29章16節参照)のです。私たちはよく、自分の中に神が住まわれる、と言いますが、神の中に私たちが住む、私たちが神の光と愛の中に住むことができるようにしてくださる、と言った方がいい。神は私たちの神殿;全生涯を通じて、主の家に住めるように、私たちは願います(詩編27章4節参照)。「あなたの庭で過ごす一日は、千日に勝る恵みです」(詩編84章11節)。主において私たちの聖性はあります。

 しばしば見過ごされた教会の教え

52.教会は「私たちが自分自身の働きや努力によってではなく、常に私たちを導かれる神の恩寵によって正しい者とされるのだ」と繰り返し教えてきました。教父たちは、聖アウグスティヌス以前の人々さえも、この基本的な信仰を明確に表明しました。聖ヨハネ・クリソストムは「神は私たちが戦い始める前でさえも、贈り物全ての源を私たちに注いでくださる」と言いました⁵³。聖バジルは、忠実な信者たちは神においてのみ輝く、なぜなら「彼らは、真の義を欠いていることを自覚し、キリストを信じることを通してのみ義なる者とされる」からだ⁵⁴、と語っています。

53. オランジュで開かれた二回目の教会会議(注・西暦529年に開催。「神の恵み」についてのいわゆる”ペラギウス論争”にいちおうの終止符を打った)は、神の恵みについて、人は何も要求できず、値せず、買うこともできないこと、そして、それとの協調の全てが同じ恵みに先立つ贈り物だ、ということを、確固たる権威をもって教えました―「清められたいという強い願望さえも、聖霊のあふれるような働きを通して、私たちにもたらされる」⁵⁵と。その後、トリエント公会議(注・1545 ― 1563年開催、プロテスタント対策としての教会改革を議論)は、霊的成長のための協調の重要性を強調しつつ、ドグマ的な教えを再確認しました―「我々は、償いなしで罪を赦される、と言われている。罪を赦されることに勝るものは何もない、信仰も行いも、赦しを受ける恩みに値するものは何もない。なぜなら、『もしそれが恵みによるものとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや、恵みではなくなる』(ローマの信徒への手紙10章6節)からである」⁵⁶。

54.「カトリック教会のカテキズム」はまた、私たちに、神の恵みの贈り物が「人間の知性や意志の力を超えている」⁵⁷(1998項)こと、そして「神の前では、人間には、しかるべき報い、というものはあり得ません。私たちは創造主である神から全てをいただいているので、神と私たちとは想像することさえできないほど、不平等」⁵⁸(2007項)であることへ改めて注意を向けさせます。神の友情は私たちを限りなく超越します-私たちはそれを行いによって買うことができない、神の愛にあふれた働きによって生まれ得る贈り物なのです。このことは私たちを、全く分不相応な贈り物への喜びあふれた感謝の中で生きるように勧めます。なぜなら、「恵みを受けたら、すでに手にしている恵みは価値あるものではあり続けられない」⁵⁹(聖トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ⁻Ⅱ.q.114,a.5)からです。聖人たちは自らの行いをあてにすることを避けました―「人生の黄昏に、私は、空の手であなたの前に立つでしょう。私の行いを数えてください、と主よ、あなたにお願いをいたしませんから」⁶⁰(幼きイエスの聖テレジア「Act of Offering to Merciful Love」Prayers,6)・・・・・・・・・・・・・・・・・

55.これは、カトリック教会がしっかりと持ち続けてきた素晴らしい信念のひとつです。神の言葉の中にとてもはっきりと言明されているので、疑問の余地はあり得ません。愛に関する最高の掟のように、その真実は私たちの生き方に影響を与えるに違いありません。なぜなら、それは福音の真髄から出ているものであり、私たちは、それを知性によって受け入れるだけでなく、人から人へと伝わる愛の源とするからです。しかし、もしも私たちの地上での命と生まれながらの才能が神の贈り物だと認めないなら、私たちは、主の友情の無償の贈り物を讃美することはできません。「私たちは、自分の命が本質的に贈り物だということを、喜びをもって受け入れる必要がある。それは、自分のために何か―自分自身の創造性と自由から生まれる果実―を、と考えるような今の世の中では容易でない」⁶¹ことですが。

56.自由に受け入れ、謙虚にいただいた神の贈り物を基礎においてのみ、私たちは、自身の段階的な変質の中で、自分自身の努力によって共に働くことができるのです⁶²。私たちは第一に、神のものでなければなりません。まず、そこにおられる神に自分自身を差し出し、自分の能力、悪との闘い、そして創造性を神にゆだねる。そうすることで、神の無償の贈り物は私たちの中で成長し、発展していくでしょう。「兄弟たち、神の憐みによって、あなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマの信徒への手紙12章¹節)。それゆえに、教会は、慈しみだけが、恵みの人生で成長を可能とする、と常に教えています。「愛がなければ、無に等しい」(コリントの信徒への手紙1・13章2節)からです。

 新ペラギウス主義者

57.それでもなお、キリスト教徒の中には、他の道―自分自身の努力、人の意志への崇拝、そして自分自身の能力による正当化の道―を取ることを主張する人がいます。その結果は、自己中心とエリート主義で固まった独善、真の愛の喪失です。このことは、さまざまな面に、思慮と行動があからさまにつながらない形でにじみ出ます―法律への妄執、社会的、政治的利益への没頭、教会における典礼、教理、威信への堅苦しいほどの配慮、実際的なことを取り仕切る能力へのうぬぼれ、そして、自助努力と自己充足の段取りについての行き過ぎた関心など―です。キリスト教徒の中には、愛をもって聖霊に導かれようとするよりも、福音の美しさと喜びを伝えることに情熱を注ぐことよりも、そして巨大な群衆の中に、キリストを渇望する迷える人を捜し求めることよりも⁶³、そうしたことに時間とエネルギーを消耗させる人もいるのです。

58.しばしば、というわけではありませんが、聖霊が鼓舞していることとは反対に、教会の日常が、博物館に陳列するにふさわしい物か、選ばれた少数者の所有物になる可能性があります。こうしたことは、あるキリスト教徒の集団が、一定の規則、慣習、あるいは行動様式に過度に重きを置く時に、起こり得ます。そして福音は矮小化され、抑えつけられ、それが持つ単純明快さ、魅力、香りを奪われるようになります。これは恐らく、ペラギウス主義の巧妙な形態かもしれません。神の恵みの人生を、一定の人間の組織に従属させるように思われるからです。それは、集団、運動、共同体に影響を与える可能性があり、なぜ彼らがそれほど頻繁に聖霊において激しい人生を始め、結局は化石化する・・あるいは堕落してしまうのかの、説明になります。

59.私たちが「教会の規則と組織によって方向づけられたものとして、すべてのことは人間の努力に依拠する」と、いったん信じてしまうと、無意識のうちに福音を理解しにくくなり、神の恵みの業にわずかな余地しか残さない青写真のとりこになってしまいます。聖トマス・アクィナスは、教会によって福音に付け加えられた教えは「忠実な信徒たちの行いに負担をかけないように」、節制を強られる必要がある-としています。そうしなければ、私たちの宗教が強制労働のようになってしまいかねないからです⁶⁴。

 *律法の要約

 60.このようなことを避けるために、私たちは「非常に重要なことを追求するように命じる徳のある聖職階級制度がある」ということを心に込めておくとよい。首座大司教は、神を目的、動機とするtheological virtues三つの信・望)にふさわしい、ものです。その中心に愛があります。聖パウロは、真に重要なのは「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)だと言っています。私たちは、愛を堅持するためにあらゆる努力をするように求められています-「人を愛する者は、律法を全うしているのです‥愛は律法を全うするものです」(ローマの信徒への手紙13章8-10節)「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)と。

61.言い換えれば、勧告と規定の茂みの中で、イエスは、二つの顔-父なる神と私たちの兄弟の顔―に気づく道を開きます。もう二つの決まり文句、もうふたつの掟を私たちに示されません。二つの顔、いやただ一つの顔-他の多くの顔に映し出された神の顔-を示されます。私たちの兄弟姉妹の一人ひとり、特に最も小さな人々、最も傷つきやすい人々、自らを守る手立てのない人々、そして助けを求めている人々の中に、神のまさにその姿があります。実に、弱い人間の断片を使って主は究極の芸術作品をおつくりになるのです。なぜなら、「耐え忍ぶもの、人生で価値あるもの、豊かにするものは消えないでしょうか?この二つ-主と私たちの隣人-が持つ豊かさは消え去らない!」⁶⁵からです。

62.主が、新しい形のグノーシス主義とペラギウス主義-教会を圧迫し、聖性への道に沿って進むのを妨げる動き―から、教会を自由にしてくださいますように!このような道から外れた動きは、個々の人の気性と性格によって、様々な形をとります。ですから、私は皆さん全員に、彼らの人生にそのようなことが起きるのか、神の前でよく考え、識別するように強く促したいと思います。

(以上、第一章、第二章「カトリック・あい」南條俊二試訳)

第3章 主の光の中で

63.何が聖性かは、さまざまな説があり、それぞれに、様々な説明と相違があります。それをよく考えてみることは、よいことですが、イエスの言葉に頼り、イエスの真理の教え方を思い返すときほど、それが照らし出されることはありません。イエスは、山上の説教(マタイ福音書5章3節―12節、ルカ福音書6章20節―23節参照)を私たちに与えてくださったときに、聖なるとはどういうことか、とても平易に説明されました。山上の説教は、キリスト教徒の身分証明書のようなものです。ですから、もし誰かが「よいキリスト教徒になるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたら、答えは明確です。私たちは 心の貧しい人々は 幸いである、天の国はその人たちのものである。

67.福音書は私たちの心の深みをのぞき込んで、私たちが、人生で、どこに安心を見出すか見るよう誘いかけてきます。普通、豊かな人々は彼らの富に安心し、もしその富が脅かされたら地上の生活のすべての意味が失われると考えます。イエスはこれを、私たちに「愚かな金持ち」のたとえをもって語られています: 彼は、富があるので安心しきっている愚かな男のことを語られました。なぜなら、まさにその夜、その男の命は取り上げられたからです(ルカ福音書12章16節―21節参照)。

68.富は何も保障してくれません。実に、私たちは、いったん自分たちが豊かだと思うと、それですっかり自己満足に浸り、神の言葉や、兄弟姉妹への愛や、人生で最も大切なことの喜びの場を手放します。そうして、私たちは全ての中で最も素晴らしい宝を得る機会を失ってしまいます。それが(注・山上の説教で)イエスが「心の貧しい人々、貧しい心を持った人々は幸い」と語られた理由です。そこに、主がとこしえの新しさをもってお入りになることができるからです。

69. ここに出てくる霊的な貧困は、ロヨラの聖イグナチオが「holy indifference(聖なる不偏心)」(注・貧困より富がいい、名誉のあるほうがいいとか、病気より健康の方がいいとか、普通の人間の常識ではそう判断するが、イグナチオの基本的心構えとして、そうした世の常識にとらわれず、心を不偏に保って神が自分に望まれる方を選び取る、という心のあり方を意味する。「神のより大いなる栄光」を積極的に生きるための「偏らない心」のこと)と呼んだものと密接に関係します―これは私たちに喜びに満ちた内面の自由をもたらします-「私たちは、すべての被造物に対する振る舞いに、無頓着であるように自分を鍛えねばなりません。そのすべにおいて、私たちの自由な意思が認められ、禁じられてはいない。それゆえ、私たちは、病弱よりも健康な体、貧困よりも富裕、不名誉よりも名誉、短命よりも長命、そしてその他同じようなことすべて―を熱望することはありません」⁶⁸。

70.ルカは「心の」貧しさではなく、単純に「貧しい」人々のことを言っています。(ルカ福音書6章20節参照)。このように、彼もまた、私たちに、簡素で質素な生活をするよう促しています。彼は、最も困窮した人々の生活を分かち合うよう私たちに呼びかけています。それは使徒たちの暮らしであり、つきつめれば、「豊かであるのに貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙二8章9節)、そのイエスの生活に身を置くよう呼び掛けているのです。心が貧しいこと-それが聖性なのです。

 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」

71.初めからすべての方面で紛争、論争、敵対があり、考え方、習慣、そして話し方や衣服に至るまでをを基準に常に私たちは他人を分類している世界にあって、これは強い言葉です。結局、自尊心と虚栄心が支配し、そこでは、人は他者を支配する権利があると考えるのです。それでも、イエスは出来ないと思えるような違うやり方を薦められます。それは、柔和な方法です。これは、イエスが弟子たちと共になさっている仕方です。エルサレムにイエスが入られた時の様子を思いめぐらせてみましょう:「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(マタイ福音書21章5節、旧約聖書ゼカリア書9 章9節)。

72.キリストは言われます:「私は柔和で謙遜な者だから、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ福音書11章29)。もし私たちが常に他人に怒ったり、いらいらしたりしていると、しまいには消耗して疲れ果ててしまいます。でも、偉そうな態度を見せず、他人の欠点や限界を優しさと柔和さを持ってみるなら、私たちは実際に彼らを助けることができ、無駄な不平不満にエネルギーを消耗することを止められるのです。リジューの聖テレーズは「完全な寛容さは、他者の過ちを我慢し、その過ちに憤慨しないことです」⁶⁹と言っています。

73.パウロは柔和さを聖霊の実の一つだ、と言っています(ガラテヤの信徒への手紙5章23節)。彼は、もし私たちの兄弟姉妹の一人の悪い行いが私たちを苦しめるなら、私たちは彼らを叱らなくてはなりませんが、私たちは「柔和な心」で、そうせねばなりません。なぜなら「あなた自身も誘惑されないように」(ガラテヤの信徒への手紙6章1 節)です。私たちが、私たちの信仰や信念を弁明するときでさえ、私たちは、「穏やかに」(ペトロの手紙一3章16節参照)せねばなりません。私たちは、また敵対するものも「優しく」教え導かねばなりません(テモテへの手紙2章25節)。カトリック教会の中で、私たちはしばしば、この神の言葉が求めることに喜んで応じることをしない、という過ちを犯すのです。

74.柔和さは、また、神だけに信を置く人々の心の貧しさの別の表現でもあります。実際、聖書の中では同じ言葉ーanawim-は、通例、貧しい人々と、柔和な人々の両方を意味します。「もし私がそのように柔和だったら、人は私のことを愚か者か、馬鹿者か、弱虫だと思うでしょう」と反論する人がいるかもしれません。時には、そう思われるかもしれません。でも、そう思わせておきなさい。いつもその方が良いのです。なぜなら、そうすれば私たちの最も深い望みがかなうからです。柔和な人々は「地を受け継ぐ」と言うのは、彼らは彼らの人生のうちに神の約束が成就されるのを見るからです。あらゆる状況で、柔和な人々は彼らの望みを主に置きます。そして主に望みを置く人は地を継ぎ…そして豊かな平和に自らをゆだねるであろう(旧約聖書・詩編37章9節、11節参照)。主の側からすれば、主は彼らに信をおかれるのです-「私が顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人」(旧約聖書イザヤ書66章2節)。柔和さと謙遜を持って対応すること-それが聖性なのです。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」

75.世間はまさに反対のことを言います:娯楽、喜び、気晴らしや逃避が良い人生の役に立つと言います。世俗的な人は、家族や周りの人の病気や悲しみの問題を見ないふりをします。視線をそらすのです。世間は悲しみを望んでいない:苦しい状況はむしろ無視して、隠してしまったほうが良いと思います。現実は隠せるのだと信じて、不幸な状況から逃れるためにたくさんのエネルギーを使い果たします。でも、十字架は決して無くならないのです。

76.物事を本当にあるがままに見て、苦しみや悲しみに同情する人は人生の深さに触れ、本物の幸福を見つけることができます⁷⁰。その人は、慰められるのです。世間にではなく、イエスによって。そのような人々は、他の人々の苦しみを共にすることを恐れません-彼らは苦しい状況から逃げないのです。彼らは、苦しむ人々を助けに来たり、彼らの苦痛を理解したり、慰めをもたらしたりすることによって、人生の意味を発見します。

 彼らは、他の人の身は自分たちの身であり近づくことも、彼らの傷に触れることすら恐れません。彼らはすべての距離が消えてしまったかのように、他者への同情を感じます。このように、彼らは聖パウロの説教に喜んで応ずるのです:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。他者と共に悲しむことを知ること-それが聖性なのです。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」

77.飢えと渇きは基本的欲求と我々の生存本能にかかわるので強烈な経験です。同じ強烈さで正義を望み、高潔さにあこがれる人々がいます。イエスは、彼らは満たされる、とおっしゃいます。というのは、遅かれ早かれ、正義が来るからです。私たちは、たとえいつもその努力の結果を見るとは限りませんが、その実現のために協力することは出来ます。

78.イエスは、あまりにしばしば、些細な利益のために台無しにされたり、あの手この手でごまかされたりする世間の正義とは別の正義をお薦めになります。見返りを求める政治の駆け引きで汚職の泥沼にはまるのは、なんとたやすいことか、いつものことで分かっていますし、そこでは何もかもが取り引きなのです。なんと多くの人が、不正で苦しみ、力なく立ち尽くすことか、その一方で、この世のおいしい分け前を取る人々がいるのです。本当の正義のために戦うのをあきらめてしまい、勝者の列に加わることを選ぶ者もいます。これは、イエスがお称えになる、義を飢え渇き求めることとは、全く違います

79.真の正義は、人々が自分でまさに決心するとき、彼らの人生にやってきます:それは、貧しい人々、弱い人々のための正義を追い求めるときに現われます。「義」と言う言葉は、人生のあらゆる面で、神の意思に忠実であることの同義語であり得ますが、その言葉の意味をあまりに一般的に考えると、私たちはそれが特に、最も弱い人々に対する義に示されることを忘れてしまいます-「善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(旧約聖書イザヤ書1章17節)。義のために飢え渇くこと:それが聖性です。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」

80.憐れみには二つの面があります。「与えること-他者を助け、他者に奉仕すること」、もう一つは「赦すことと、理解すること」です。マタイはそれを一つの黄金律で表しました-「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)。カテキズムを読むと、この黄金律が「あらゆる場合」⁷¹(「カトリック教会のカテキズム」1789項、参照1970項)に適合することに気づかせてくれます。特に私たちが「倫理的判断が不確かなものとなり、決定を下すのが困難な状況に立たされる」⁷²(同1787項)時です。

81.与えることと赦すことは、有り余るほど与え、有り余るほど赦してくださる神の完全性、その秤を小さくして私たちの人生の中に再現すること、を意味します。ですから、ルカの福音の中には「完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)という言葉はなく、むしろ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そすれば、あなたがたも与えられる」(ルカ福音書6章36-38節)とあります。ルカは、大事な言葉を付け加えています。「あなた方は、自分の量る秤で量り返されるからである」(同6章38節)。他の人々を理解し、赦すために用いる物差しが、私たちが受ける赦しを測ることになります。私たちが与えるために用いる物差しが、私たちが受け取るものを測ることになります。私たちは決してこれを忘れてはなりません。

 82.イエスは、「復讐しようとする人々は幸いである」とは言われません。イエスは人を赦す人々は「幸いである」と言われ、「七の七十倍までも」(マタイ福音書18章22節)赦す人々についても、そう言われます。私たちは自分たちを赦された者の大きな群、と考える必要があります。私たちは神の憐れみを持って見られているのです。私たちが誠実に主に近づき、主の言葉に注意深く耳を傾けると、時には主の叱責の言葉を聞くこともあるかもしれません-「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ福音書18章33節)。憐れみをもって見つめ、行うこと-それが聖性なのです。

 「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

83. 山上の説教でイエスが語られたこの言葉は、心が素朴で、純粋で、無垢な心を持つ人について語っています。愛することのできる心は、愛を傷つけ、弱め、危険にさらすことをみとめません。聖書は私たちの本当の思い、私たちが真に求め、強く望むもの-外見ではなく― を述べるために、この心を使います。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(旧約聖書・サムエル記上16章7節)。神は私たちの心に語りかけることを望まれます(同・ホセア記2章16節)-そこで、律法を書くことを熱望されます(同・エレミヤ書31章33節参照)。ひと言で言えば、神は私たちに新しい心を与えてくださったのです(同・エゼキエル書36章26節)。

84. 「何を守るよりも、自分の心を守れ」(旧約聖書・箴言4章23節)。偽りに穢れたものは、主の目に真の価値は何もない。主は「偽りを避け、愚かな考えからは遠ざかる」(同・知恵の書1章5節)。父なる神は「隠れたところから・・見て」(マタイ福音書6章6節)おられ、不純で不誠実なもの、ただの見せびらかしや見せかけを、お分かりになります。そして御子も同じように「何が人間の心の中にあるか」(ヨハネ福音書2章25節参照)知っておられます。

 85.確かに、愛の働きのない愛はあり得ませんが、この山上の説教は、主が兄弟姉妹に心からの献身を期待しておられることを、私たちに気づかせます。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私には何の益もない(コリントの信徒への手紙一13章3節)。マタイ福音書の中にも、心から出てくるものが、人を汚す(15章18節参照)とあります。殺人、窃盗、偽証、その他の悪い行いも、心から出てくるからです(同19節参照)。心の意図するものから、私たちの行動を決める望みや、最も深い決意が出てくるのです。

86.神と隣人を愛する心(マタイ福音書22章36-40節参照)-誠実に、単に言葉だけでなく愛する心-が純粋な心なのです。その心は神を見ることができます。聖パウロは隣人愛の賛歌の中で「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている(コリントの信徒への手紙Ⅰ・13章12節)」が、真実と愛が打ち勝つ時、私たちは「顔と顔を合わせて」見ることができるのです。イエスは、心が純粋な人々は「神を見る」と約束されます。愛を曇らせるすべてのものを、心から取り去ること-それが聖性なのです。

 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは、神の子と呼ばれる」

87.この山上の説教の言葉は、私たちに、この世界で数多く、果てしなく続く戦争の状況について考えさせます。しかし、私たち自身が、争いの原因になるか、少なくとも、誤解を招く原因になっていることが、よくあります。たとえば、誰かについて何か聞いて、それを何回も言いふらすかもしれません。二度目には、それに尾ひれを付けて、言いふらし続けるかもしれません。そして、人を傷つければ傷つけるほど、満足するように思えます。後ろ向きで、破壊主義的な人々の住むゴシップの世界は、平和をもたらしません。そういう人々は、真に平和の敵です-決して「幸いな人」ではありません⁷⁷。

88.Peacemaker仲裁者は、実際に平和を「作り」ます-社会に平和と友情を打ち立てます。平和の種をまく人々に、イエスはこの素晴らしい約束をなさいました-「その人たちは、神の子と呼ばれる(マタイ福音書5章9節)」のです。イエスは弟子たちに、どこへ行っても「この家に平和があるように!」と祈るように言われました。神の言葉は、すべての信徒に平和のために働くように促します。「清い心で主を呼び求める人々」(テモテへの手紙Ⅱ・2章2節参照)とともに、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」(ヤコブの手紙3章18節)」。そして、私たちの共同体の中で、どうしたらいいか議論する時があったら「平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう(ローマの信徒への手紙14章19節)」、それは、争いよりも一致が望ましいから。⁷⁴

89.福音的平和を「作る」こと-誰も排除せず、ちょっと変わった人や、面倒な難しい人、要求の多い人、人と違う人、人生に打ちのめされた人や、単に無関心な人さえも、抱き締めること-は易しくありません。それは、困難な仕事です-頭と心を大きく開くことがもとめられます。それは、「机上の合意や、少数の幸福な者のための、はかない平和」⁷⁵(使徒的勧告「福音の喜び」218項)、あるいは「少数の人による少数の人のため」⁷⁶(同239項)の計画を作ることについて-ではありません。争いを無視したり、軽視したりしようとすること-でもありません。そうではなく、「対立に面と向かい、解決し、新しい過程の連鎖につなげ」⁷⁷(同227項)なければなりません。私たちは平和の熟練工になる必要があります。平和の建設は沈着、創造力、完成、そして技能が求められる作業なのです。私たちの周り全てに平和の種を蒔くこと-それが聖性です。

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

90.イエスご自身が、私たちにこう警告されています-自分の提唱する道は、流れに逆らい、あなた方に、その生き方によって社会に挑戦させ、結果、あなた方は社会の厄介者にさえなる-と。イエスは、どれほど多くの人がかつて、そして今も、正義のために必死に努力しているという理由だけで、神と他者のために誠実に献身しているという理由で、迫害されているかに、注意を向けます。もし私たちが、あいまいな凡庸の中に沈みたくなかったら、安易な人生を求めるのはやめましょう。それは「自分の命を救いたいと思うものは、それを失う(マタイ福音書16章25節)」からです。

91.福音を生きるとき、私たちは、すべてが容易に運ぶ、と期待してはいけません。なぜなら、権力や世俗的利益への渇望が、私たちが進もうとする道にしばしば立ちふさがるからです。聖ヨハネ・パウロ二世は「社会的な組織や生産と消費の形態が、自己を贈り物として差し出し、人々の連帯を確立することを、一段と難しくさせるならば、社会は不和になってしまいます」⁷⁸と語られました。そのような社会では、政治もマスコミも経済も、宗教でさえも、もつれ合い、真の人間的な社会的発展の妨げとなり、結果として、山上の説教で示された「幸い」を全うするのが容易でなくなるのです-そうしようとする試みは、悪いほうにとられ、疑いの目で見られ、嘲笑されるのです。

92.愛の掟を生き、正義の道をたどる時、どれほど疲れと苦しみを経験しようと、十字架が私たちの成長と聖化の源であり続けます。決して忘れてはなりません。新約聖書が、私たちに「福音のために私たちは苦しみに耐えねばならないでしょう」と告げるとき、それは「まさしく迫害のことを指している」(使徒言行録5章41節、ピリピの信徒への手紙1章29節、コロサイの信徒への手紙1章24節、テモテへの手紙Ⅱ・1章12節、ペトロの手紙Ⅰ・2章20節・4章14-16節、ヨハネの黙示録2 章10節)」と言うことを。

93.ここでは、どうしても避けられない迫害のことを話しています。他者をひどく扱ったことで引き起こされる種類の迫害ではありません。聖人たちは、虚栄心や消極的な言動、辛辣さで他の人を耐え難くさせるような、変わった、超俗的な人ではありません。キリストの弟子たちは、そのような人たちではありませんでした。使徒言行録は繰り返し述べています-弟子たちは「民衆全体から」好意を寄せられていた(使徒言行録2章47節、4章21節・33節、5章13節参照)、彼らを困らせたり迫害したりする権力者たち」(使徒言行録4章1-3節、5章17-18 節参照)はいたが、と。

94.迫害は、過去の現実ではありません。と言うのは、今日、私たちもまた、迫害-現代の極めて多くの殉教者のように、流血による、あるいはもっと巧妙なやり方による、虚偽と中傷による迫害-を経験しているからです。イエスは、私たちを幸いである、と言われます-「私のために身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(マタイ福音書5章11節)時に。またある時には、迫害が、私たちの信仰を戯画化し、私たちが馬鹿げているように見せようとする、あざけりの形をとることもあります。
またある時は、迫害は、私たちの信仰を風刺し、私たちを滑稽に見せようとする嘲笑のかたちをとることもあるのです。福音の道を日々受け入れる-たとえそれが私たちに問題を引き起こそうとも-それが聖性なのです。

*偉大なる基準

95.マタイによる福音書の25章(31節-46節)では、イエスは山上の説教の「憐れみ深い人々は幸い」を、さらに発展させています。もし私たちが、神の目にかなうような聖性を求めるなら、この福音には、私たちを裁く一つのはっきりした基準が述べられています。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたとき飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときの着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 主に忠実に倣って

96.聖性とは、神秘的に恍惚となり無我夢中になることではありません。聖パウロは、「もし私たちが、本当に、新たにキリストについて深く考え始めるのなら、私たちは、特にキリスト自身が、ご自分と一体となりたいと願われた人々の顔を見ることを学ばねばなりません」⁷⁸。 マタイによる福音書25章35節-36節は「ただの慈善への呼びかけではなく、キリストの神秘へと光を流すキリスト論の記述」⁸⁰なのです。貧しい人々、苦しむ人々の中におられるキリストを認めようというこの呼びかけの中に、私たちは、キリストの心そのものが表われ、キリストの最も深い感情と選択が表われているのを見るのです。そして、それに倣おうとあらゆる聖人が努力しているのです。

97.イエスのこれらの妥協を許さぬ要求がある以上、キリスト教徒たちに、真に開いた心sine glossaでそれを認め、受け入れてくれるよう求めるのは私の義務です。すなわち、その勢いをそぐような、どのような「言い訳」もなしに、ということです。私たちの主は、聖性とはこれらの要求から離れては、理解も実行もされない、ということを、とてもはっきりさせておいでです。なぜなら、憐れみ深さは「福音の鼓動する心臓」⁸¹だからです。

98.もし、寒い夜に外で寝ている人に出会ったら、その人を厄介者、怠け者、邪魔者、面倒なものを見てしまった、政治家が解決する問題、あるいは公共の場所に散らかったゴミくずとさえみなすこともあり得ます。または、信仰と慈悲の心で、この人の中に自分と同じ尊厳を持った人間、天の父に無限に愛される存在、神の似姿、イエス・キリストに贖われた兄弟姉妹、を見ることもできます。それでこそキリスト教徒です。聖性とは、この各々の人間の尊厳をはっきり認めることを離れて理解できるものでしょうか⁸²。

99.キリスト教徒にとって、これは、常に健全な不安を伴います。一人の人間を助けることだけで、私たちの努力のすべてを正当化できたとしても、それで十分とは言えないでしょう。例えば、カナダの司教たちは、聖年の聖書的理解は、単に良いことを実行することだけではない、と言っています。それはまた、社会的変革を求めることを意味しているのだと言っています。「後々の世代もまた罪を免除されるためには、明らかに、目標はまさに社会及び経済システムの回復でなければならなりません。もう二度と、排斥など起こり得ないように」⁸³と。

(以上、第三章(99項まで)「カトリック・あい」岡山康子試訳)

 福音の心に打撃となるイデオロギー

100.残念なことに、時として、さまざまなイデオロギーが、私たちを二つの有害な誤ちへと導きます。一つは、福音のこれらの要請を、主との個人的な関係から、主との内的一致から、恵みから、切り離すことです。キリスト教はこうして、アシジの聖フランシスコ、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、カルカッタの聖テレサ、そして多くの人々の人生で明らかにされた輝く神秘を剥ぎ取られた一種のNGOとなります。これらの偉大な聖人たちにとって、黙とう、神の愛、そして福音の朗読は、彼らの隣人への献身の熱意や効果を損なうものでは決してありません。全く逆です。

101.もう一つの有害なイデオロギーの過ちは、他の人々の社会的なつながりを、表面的で、世俗的で、非宗教的で、物質主義的、共産主義的、大衆主義的とみて、疑う人の中に見られます。あるいは、まるで、他にもっと重要なことがあるかのように、あるいは、大事なただ一つのことは特定の倫理的問題や、彼らが守っている道理であるかのように、相対化してまうのです。例えば、まだ誕生していない無垢な命を守ることは、明確で、断固として、熱心でなければなりません。なぜなら、危機に瀕しているのは、人の命の尊厳だからです。人の命は常に神聖であり、あらゆる人への愛-その成長段階を越えて-を求めます。しかし、同じように、既に誕生している哀れな人々-貧しく、見捨てられ、恵まれず、虚弱で年老いて隠れた安楽死にさらされ、人身売買の犠牲となり、新しい形の奴隷制度やあらゆる形の排除の犠牲となっている人々-の命もまた、同様に神聖なのです。私たちは、この世の不正に目をつぶるような”聖性の理想”を目的とするわけにはいきません。そこには、お祭り騒ぎをし、勝手気ままに振る舞い、最新の消耗品のためだけに暮らす人々がいる一方で、それを遠くから眺め、みじめな貧しさのなかで全生涯を送る人々がいるのです。

102.相対主義へと現代世界の欠陥について、例えば、移民の置かれた状況は大したことのない問題だ、と言うことを、私たちはよく耳にします。カトリック信徒の中には、”重大な”生命倫理の問題に比べて、それは二次的な問題だと考える人もいます。支持票を気にする政治家がそのようなことを言うのは理解できますが、キリスト教徒はそうであってはなりません。キリスト教徒に取って、唯一のふさわしい態度とは、自分の子供たちに未来を与えるために命を危険にさらす私たちの兄弟姉妹の立場に立つことです。イエスが「あなた方は、見知らぬ人を受け入れる時、私を受け入れるのだ」(マタイ福音書25章35節参照)と私たちに言われるとき、これが、まさにイエスが私たちに何をお求めになっていることだ、と私たちは悟ることができなのでしょうか?聖ベネディクトはためらうことなく、そうしました。そして、それが自分の修道士たちの生活を「ややこしくする」かもしれなかったにもかかわらず、修道院の扉をたたいたすべての来訪者を「キリストのように」⁸⁵敬意を込めて⁸⁶歓迎するように命じました-貧しい人々と巡礼者たちは「最大の心遣いと配慮」⁸⁷をもって待遇されねばならない―と。

103.似たようなことが、旧約聖書に見られます―「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。「寄留者があなたの土地に共にすんでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国において寄留者であったからである」(同レビ記19章 33 ‐34節)。これは、教皇の創作でも、気まぐれな熱狂でもありません。今の世界においてもまた、私たちは、預言者イザヤが「何が神に喜ばれるのか」と尋ねられた時に示した「霊的な知恵の道」を生きるように招かれています。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出でる」(同イザヤ書55章 7‐ 8節)のです。

 神にとって一番喜ばしい礼拝

104 私たちは、ただ礼拝と祈りによって、あるいは、単に、いくつかの倫理的な掟に従うことによって、神に栄光を与えている、と思うかもしれません。第一の掟が私たちの神との関係にあるのはその通りですが、私たちの生活を計る究極の基準が「自分が他の人々に何をしたか」にあることを忘れることはできません。祈りは最も大切なものです。愛への日々の関わりを育てるからです。私たちの礼拝は、寛容さをもって生きることに自らを捧げる時、そして、祈りの中で受けた神の賜物を兄弟姉妹への思いやりに示されるようにする時、神に喜ばれるものとなります。

105.同じように、私たちの祈りが本物であるかどうかを識別する最善の方法は、自分の生活が、どの適度、慈しみの光で変容させられているか、吟味することでしょう。なぜなら、「慈しみは御父の業であるだけでなく、御父のまことの子らを見分けるための基準にもなる」⁸⁸からです。慈しみは「教会の活力のまさに基礎となるもの」⁸⁹です。この点について、私は、改めて強調したいと思います―慈しみは正義と真理を排除しない―それどころか「慈しみは正義が満たされた状態であり、神の真理の最も輝かしい形の表明である、と言わねばならない」⁹⁰と。慈しみは「天国への鍵」⁹¹なのです。

106.私は、聖トマス・アクイナスを思い起こします。彼は「自分たちの業のうちで最も尊いのはどれか、自分たちの外見的な業のうちで神への愛を最も良く表すのはどれか」と自らに問いかけました。そして、ためらうことなく答えます。「それは、隣人に対する慈しみの業だ⁹²、礼拝さえも凌ぐ」と―「私たちは外見的な犠牲と捧げものによって神を礼拝する。それは、神ご自身の恩恵のためではなく、私たちと私たちの隣人の恩恵のためだ。なぜなら、神は私たちの犠牲を必要としないが、私たちが献身的な愛を奮い起こし、隣人に益をもたらすように、犠牲を捧げることを、私たちにお望みになるからだ。ゆえに、他の人々の欠けた部分を補うような慈しみの業は、隣人の幸せに、もっと直接的に働きかけるものであり、神により受け入れていただける犠牲なのだ」⁹³と。

107.自分の生活をもって神に栄光を捧げることを本当に望む人、自分の存在が「聖なる方」を称えることを本当に熱望する人は、慈しみの業を行うことにおいて、ひたむきで、粘り強くあるように招かれています。カルカッタの聖テレサはこのことをはっきりと認識していました―「そうです。私には人間的な欠点と過ちがたくさんあります…でも、神は身をかがめ、私たちを、あなたを、私を、この世界でご自分の愛と憐みをお示しになるために、お使いになります。私たちの罪、もめ事、過ちをお耐えになります。この世界を愛し、どれほど愛しておられるかをお示しになるために、私たちを頼みとされているのです。私たちが自分たちにかまけすぎれば、他の人々に残される時間はなくなるでしょう」⁹⁴。

108.快楽主義と消費主義は、私たちの破綻を証明することになる可能性があります。なぜなら、自分の楽しみに取りつかれると、最後には、自分自身と自分の権利に気を取られすぎ、楽しみのための自由な時間を是が非でも求めるようになるからです。私たちが、消費社会の熱にかられた欲求―欠乏感、不満感を抱き、すべてを今持ちたいと熱望する状態―に抗し、簡素な暮らしを求めることができないなら、助けを求める人々に対して、現実的な配慮を示すのは、難しくなるでしょう。同じように、皮相的な情報、即席の意志疎通、仮想現実に囚われる時、私たちは自分の貴重な時間を無駄遣いし、兄弟姉妹が身体的な苦しみに遭っていることを何とも思わなくなるでしょう。それでも、このような目まぐるしい活動の最中にも、福音は、今とは違った生活―もっと健やかで、幸せな生活―を与える約束を、告げ知らせ続けるのです。

109.聖人たちの力にあふれた証しは、彼らの生涯―イエスが山上の説教で示された八つの幸福と最後の審判の基準を具体化した生涯―の中で明らかにされています。イエスの言葉は短く、直接的ですが、―キリスト教は何よりも実践を重視するので―誰にとっても実践的で有効な言葉です。これはまた、学びと考察の対象となりえますが、私たちの日々の生活で福音をよりよく生かす助けとなるために他なりません。私は、これらの聖書の素晴らしい箇所を、頻繁に読み返し、これらの箇所に立ち返り、祈り、具体化しようと努めることをお勧めします。そうすることは私たちの為になり、本当の幸せをもたらしてくれるでしょう。

(以上 109項まで「カトリック・あい」Sr.岡立子、南條俊二試訳)

第4章 現代世界における聖性のいくつかの特徴

110.イエスが山上の説教で示された八つの幸せとマタイ福音書25章31-46節が示す聖性の枠組みの中で、主が呼びかけておられる命の道を理解するのに必要な、いくつかの特徴や霊的な姿勢について、私の考えを述べてみたいと思います。聖別の方法はすでに知られているので、説明するまでもないと思いますが、さまざまな祈り方、聖体拝領と赦しの重要な秘蹟、個人的な犠牲の奉献、異なる形の献身、霊的な指導などその他にも沢山の方法があります。ここでは、特に重要な聖性への呼びかけについて、確かな観点からだけ、お話したいと思います。

111. 私が強調したいしるしは、一つの聖性の模範全体ではなく、神と隣人に対する5つの素晴らしい愛の表現-今日の文化に存在するある種の危険と制約からみて特に重要と考えるもの―です。今日の文化には、悩ませたり衰弱させたりするような不安観、時には暴力が見られます;無気力と陰鬱;消費至上主義で培われた自己満足;そしてあらゆる形の霊性の代用品―神とはかかわりのない―それが現在の“宗教市場”を支配しているのです。

*忍耐力、辛抱強さ、そして柔和さ

112.強調したいしるしの第一は、私たちを愛し、支えてくださる神の内に堅固な基礎を置くこと。この内的な強さの源は、私たちが人生の浮き沈みに屈せずやり通すだけでなく、他者の敵意、裏切り、そして失敗に耐えるのを可能にします。

「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」(ローマの信徒への手紙8章31節)-聖人に見られる平安は、ここから来ています。このような内的な力によって、私たちは、テンポが速く、騒がしく、攻撃的な世界で、愛から生まれる誠実さを示すことができるーなぜなら、神にpistis(信頼)を置く人々は、 他者に対してもpistos(誠実である)からです。彼らは、苦難にある人々を見捨てることなく、不安と失望の中にいる人々に寄り添います。そうすることが彼らにすぐさま満足をもたらさないかも知れない、としてもです。13. 聖パウロは、ローマの信徒たちに「悪に悪を返さず」(ローマの信徒への手紙12章17節参照)、「復讐せず」(同19節)、「悪に負ける」ことなく、「善をもって悪に勝ちなさい」(同21節)と述べています。この態度は、「弱さ」ではなく、「真の強さ」のしるしです。なぜなら神ご自身が「忍耐強く、その力は大きい」(旧約聖書ナホム書1章3節)からです。神の言葉は私たちに「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てる」(エフェソの信徒への手紙4章31節)ように強く勧めています。

114.私たちは攻撃的で自己中心的な傾向を認識して闘い、根を張らないようにする必要があります。「怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません」(エフェソの信徒への手紙4章26節)。そうした傾向に圧倒されると感じる時、私たちは「祈りの錨」にいつでもしっかりと、すがりつく ことができます。そうすることで、神の手の中―安らぎの源―に帰ることができます。「どんな ことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求 めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あ なたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への 手紙4章6節-7節)。

115.  キリスト教徒もまた、インターネットや様々なデジタル通信を通じて、言葉の暴力を もつネットワークのとばっちりを受けるときがあります。カトリック系メディアにおいてさえ、許容範囲 の限界が無視され、中傷と名誉棄損が当たり前のようになり、あらゆる倫理的な基準や他者への 名誉に対する敬意が放棄される時があります。その結果、「(注・話す人の顔がみえる)公の議論の場」では受け入れられないような話を「(顔の見えない)ネットワーク」で語り、他人に暴言を吐くことで自分の不満を解消しようとする―という危険な二極分化が起きるのです。

 ひどいことに、そうした人々は折に触れて、他の戒律を支持すると言いながら、偽証 や嘘を禁じるカトリック教会の「第八のおきて」(注・「カトリック教会のカテキズム2464項以降参照)を完全に無視し、冷酷に他者を中傷します。このようなことの中に、どのようにして軽率な舌が地獄によって火を付けられ、 すべてのものを燃やしてしまう(ヤコブの手紙3章6節参照)かを、私たちは知るのです。

116. 神の恵みの業としての内なる力は、今日の暮らしに蔓延する暴力に心騒がせることのないようにしてくれます。神の恵みは、私たちから虚栄心を取り除き、柔和な心を持てるようにしてくれるからです。聖人たちは、他者の失敗に文句をつけるような無駄なエ ネルギーは使いません。兄弟姉妹の落ち度に口をつぐみ、他者を貶めたり、不当に扱うような言葉の暴力を避けます。他者を厳しく扱うことを躊躇し― 自分よりも優れた者と考えます(フィリピへの信徒への手紙2章3節参照)。

117. 無慈悲な裁判官のように他者を見下し、威張りちらし、常に他者に教 えようとするのは、良いことではありません。それ自体が巧妙な形の暴力なので す⁹⁵。十字架の聖ヨハネは別の道を示しました。「常に、あらゆる人から教えを受けることを求めなさい。最も小さい人にさえ教ようと熱心になるよりは」⁹⁶。そして、どうやったら 悪魔を追い払えるか、こう助言しています―「他者の良いことを、自分自身の良い ことのように喜びなさい。そして、あらゆる点で、相手が自分よりも優位になるよ うに願いなさい。心の底からそうしなさい。そうすることで善をもって悪に打 ち勝ち、悪を追い払い、心の平安を得ます。あなたが最も苦手とする人々に 対して一層、そのようにしなさい。そのような方法で自分自身を鍛えないなら、真の慈しみは得られず、慈しみの心を持って前に進むこともできない、と自覚しなさい」⁹⁷。

118 謙遜は辱められることによってのみ心に根付かせることができます。辱められることなしに、謙遜も聖性もありません。もし、あなたがいくつかの辱めを受けることができず、神に捧げることができないなら、謙虚にはなれないし、聖性への道を歩むこともありません。神が教会に授ける聖性は、子であるイエスの辱めをくぐります。

 イエスは聖性への道です。辱めは、あなたをイエスの似姿にします。辱めは、キリス トに倣うために避けられません。なぜなら、「キリストもあなたがた のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(ペトロの 手紙一2章21節)からです。次に、イエスは父である神の謙遜を示します。神は、民の不信仰 と不満に耐えながら、謙虚に旅をともにしてくださいます(旧約聖書・出エジプト記34章 6-9節、知恵の書11章23節-12章2節、新約聖書・ルカ6章36節参照)。それゆえ、辱めを受けた弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたこと 」(使徒言行録5章41節)を喜んだのです。

119. ここで私は殉教の過酷な境遇に置かれた人だけではなく、様々な人々―家族を危険から守るために黙り続ける人々、自分自身を誇るよりも他者を讃えることを望む人々、あるいは、歓迎しない仕事 を選び、時には神に捧げるために不当な処置を耐える選択した人々―が受けるの日々の辱めについても、お話したいと思います。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(ペトロの手紙一2章20節)―こ れは、下を向いて歩き回るとか、ひと言も話さないとか、他者とともにいることから逃げ ることを意味しません。時には、自分本位から解放されるために、あえて穏やかに反対意見を述べ、正義を求め、あるいは、権力者の前で弱者を守ろうとします。それが、自分の名声が傷つけられるかも知れない、としても。

120. 私はそのような辱めが「心地よい」と言っているのではありません。それではマゾヒズム(自己虐待)になってしまいます。そうではなく、辱めは「キリストに倣い、キリストに一致して成長する道」なのです。これは純粋に自然的なレベルでは理解しがたく、世間はそのような考えを冷笑します。そうではなく、辱めは「祈りの中」で求めるべき恵みなのです。「主よ、辱めにあう時、私があなたの足跡に従っているのだということをわからせてください」。

121. このような行動は、キリストのもたらす心の平安を前提にしています。傲慢な自己中心主義から来る攻撃性から解放された平安です。同じ平安、恵みの実りは、私たちの内に信頼を保たせ、耐えず善であるように励まします-詩編に「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない」(23章4節)、あるいは「彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない」27章3節)とあるように。

 私たちは岩である主のうちにしっかりと立って、歌うことができますー「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」(詩編4章8節)。キリストはひと言で言えば、「私たちの平和」(エフェソの信徒への手紙2章14節)です-「我らの歩みを平和の道に導くため」(ルカ福音書1章79節)に来られるのです。キリストが、聖ファウスティナ・コヴァルスカ(1905-1938、ポーランドの修道女)に「人類は、私の愛に信頼して顔を向けるまで、平和を手にすることはできないでしょう」⁹⁸と言われたように。

 ですから、成功、空しい楽しみ、財産、他者に対する権力、あるいは社会的地位を求める誘惑に陥らないようにしましょう。イエスは言われます-「私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)と。

  喜びとユーモアのセンス

122. 臆病で、気難しく、辛辣か憂鬱、あるいは侘しい顔つきをするのとは程遠く、聖人たちは、喜びと上手なユーモアにあふれています。全くの現実主義ですが、前向きで希望に満ちた生気を発散します。キリスト教徒の生活は「聖霊によって与えられる喜び」(ローマの信徒への手紙14章17節)です。なぜなら、「いつくしみの愛の必然的な結果は喜びだからです-愛する人は誰でも愛されている人々と一体となることを喜びます…いつくしみがもたらすのは愛です」⁹⁹(トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ-Ⅱ、q.70、a.3.) 。私たちは、神のみ言葉という素晴らしい贈り物を受け、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって」(テサロニケの信徒への手紙1・1章6節)それを信奉します。神が、私たちを殻から引き出し、生活を変えようとされるのを受け入れるなら、聖パウロが「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4節)と言っているように、喜べるようになります。

123. 預言者たちは、喜びの啓示として、私たちがいま生きている「イエスの時代」を宣言しました。「叫び声をあげ、喜び歌え」(イザヤ書12章6節)。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ」(イザヤ書40章9節)。「山々よ、歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ書49節13章)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る:彼は神に従い、勝利を与えられた者」(ゼカリア書9章9節)。私たちはネヘミアの励ましも忘れるべきではありません。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である!」(ネヘミヤ書8章10節)。

124. マリアは、イエスのもたらした新しさを理解して歌います-「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ福音書1章47節)。そして、イエスご自身も「聖霊によって喜びにあふれ」(ルカ福音書10章21節)ました。彼が自分たちの前を通り過ぎる時、「群衆はこぞって喜んだ」(ルカ福音書13章17節)。イエスが復活した後、弟子たちが行くところは、どこでも「(町の人々は)大変喜んだ」(使徒言行録8章8節)。イエスは私たちに断言します-「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。‥‥私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」(ヨハネ福音書16章20節、22節)。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」(ヨハネ福音書15章11節)。

125. 厳しい時がやって来るかもしれません。その時には十字架が陰を投げかけますが、何ものも超自然的な喜びを壊すことはできません。その喜びは「状況に応じて変化しつつも、消え失せることはありません。それが、自分が無限に愛されている、という個人としての確信から生じるかすかな光であるとしても」¹⁰⁰(使徒的勧告「福音の喜び」6項)。超自然的な喜びを、何ものも壊すことはできません。深い安心感、穏やかな希望、そして世間が理解し、真価を認めることのできない、精神的な充足感をもたらします。

126. キリスト者の喜びには通常、ユーモアのセンスがあります。このことは、例えば、聖トーマス・モア、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、聖フィリップ・ネリに、はっきりと見てとれます。不機嫌には聖性のしるしは見られません。「心から悩みを取り去れ」(旧約聖書・コヘレトの言葉11章10節)。私たちは、主から「楽しませてくださる」(テモテへの手紙Ⅰ・6章17節)ものを豊かに与えていただいているので、悲しみは忘恩のしるしとなり得ます。私たちが自分自身にとらわれ過ぎれば、神からの贈り物を識別できません¹⁰¹。

 127. 父の愛をもって、神は私たちにお告げになります-「子よ、分に応じて、財産を自分のために使え…一日だけの幸せでもそれを逃すな」(旧約聖書・シラ書[集会の書]14章11節、14節)。主は私たちが前向きで、感謝をし、率直であることを望まれます-「順境には楽しめ…神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(同・コヘレトの言葉7章14節、29節)。どのような状況にあっても、私たちはいつも素早く立ち直れるままでいるべきであり、聖パウロに倣うべきです-「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(新約聖書・フィリピの信徒への手紙4章11節)。アッシジの聖フランシスコはこれに従って生きました。彼は一切れの固いパンを前にして感謝に満たされ、顔をなでるそよ風だけのために、神を喜んで賛美することができたのです。

128. これは、現代の個人主義的な消費者主義者の文化が提供する喜び、ではありません。消費者主義は心を膨張させるだけです。つかの間の快楽を提供しても、喜びを与えることはありません。ここで私は、分かち合い、分かち合われる聖体拝領に生きている喜びについてお話します-なぜなら「受けるより与える方が幸い」(新約聖書・使徒言行録20章35節)、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(同・コリントへの信徒の手紙Ⅰ・9章7節)とあるからです。兄弟愛は喜びの許容範囲を広げます-なぜなら、それが他者の善をともに喜ぶことを可能にするからです-「喜ぶ人とともに喜びなさい」(同・ローマの信徒への手紙12章15節)「私は自分が弱くても、あなたが強ければ喜びます」(コリントへの信徒の手紙Ⅱ・13章9節)。その一方で、私たちが「自分の必要だけに注力」するなら、「わずかな喜びしか持たずに生きることになります」¹⁰²(使徒的勧告「(家庭における)福音の喜び」110項)。

 大胆さと情熱

129. 聖性は parrhesía(パレーシア=信仰者としての能力を勇気を持って話すこと)でもあります―大胆さ、この世において、福音を伝え、足跡を残そうとする衝動です。こうすることを私たちに認めるために、イエスご自身が来られ、穏やかだがしっかりと、もう一度、言われます―「恐れることはない」(マルコ福音書6章50節)。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ福音書28章20節)。これらの言葉は、私たちが前に進み、聖霊が弟子たちを強く奮い立たせたのと同じ勇気をもってイエス・キリストを大胆に宣言することを可能にします。大胆さ、情熱、正々堂々と意見を述べる自由、弟子のような熱心さ―これらすべてがparrhesíaと言う言葉に含まれています。聖書も、神と他の人に開かれた生活の自由を表現するために、この言葉を使っています(使徒言行録4章29節、9章28節、28章31節、コリントの信徒への手紙Ⅱ・3章12節、エフェソの信徒への手紙3章12節、ヘブライ人への手紙3章6節、10章19節参照)。

130. 福者パウロ6世は、福音宣教における障害として、「内から来るためになお一層深刻」な「parrhesíaの欠如」について語られました¹⁰³。私たちはそれほどしばしは、岸辺近くに居続けようとする誘惑にかられることでしょう!それでも、主は私たちに、湖の沖に出て、網を下ろすように招かれます(ルカ福音書5章4節参照)。主は私たちに、主に奉仕して生きることをお命じになります。主にしっかりと繋り、神から与えられた特別な能力すべてを他者への奉仕に使うように、励まされます。私たちが神の愛によって駆り立てられていることをいつも感じることができますように(コリントの信徒への手紙2・5章14節)、そして、聖パウロと一緒に「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ・9章16節)と言えますように。

131. イエスをご覧なさい。彼の深い憐みが、人々に触れました。憐みは彼を、私たちによくあるように、ためらわせたり、臆病にしたり、人前を気にしたりさせませんでした。私たちとは全く正反対です。イエスの憐みは、教えを伝えるためにご自分を積極的に出かけさせ、癒しと解放の教えを伝える使命を果たすために他の人々を送りました。自分の弱さを自覚しましょう。イエスが、私たちの弱さをつかみ、私たちも教えを伝える使命に送り出してくださるようにしましょう。私たちは弱い。けれども、私たちは宝―自分を大きくし、受け取った人をもっと元気に幸せにする宝―を持っています。大胆さと使徒的勇気は、教えを伝える使命の大切は要素なのです。

132. Parrhesía  は聖霊の刻印です― それは、私たちの伝える教えが真正であることを証明します。それは、私たちが宣言する福音の栄光へ導く喜ばしい確信です。それは、誠実な証人(注・キリストのこと=ヨハネの黙示録1章5節参照)―何ものも「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ローマの信徒への手紙8章39節)という確信を私たちに与える証人―に対する揺るぎない信頼です。

133. 私たちは聖霊の助けを必要としています。恐れや行き過ぎた慎重さによって無力にならないように、安全な境界の内側にいることに慣れてしまわないように。閉ざされた場所はかび臭く健康に良くないことを思い起こしましょう。イエスの弟子たちは、危険や脅威によって動けなくなる誘惑にかられた時、 parrhesíaを嘆願する祈りを共にしました―「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(使徒言行録4章29節)と。そして、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(使徒言行録4章31節)のでした。

134. 預言者ヨナのように、私たちは絶えず安全な避難所に逃げたい誘惑にかられます。「避難所」には、個人主義、唯心論、狭い世界での生活、依存症、非妥協的な態度、新しい考えと取り組み方の拒否、教条主義、郷愁、悲観主義、規則や規制を盾にすること―というように、多くの名前があるようです。慣れ親しんだ、安易なやり方のままにしておくのに逆らうことが、私たちはできます。でも、その場合に私たちが受ける挑戦が、嵐、鯨、ウリ科の植物を干上がらせる害虫、あるいはヨナの頭を焦がした風や太陽のようなもののこともあるでしょう。私たちにとって、ヨナがそうだったように、挑戦は、私たちを神―いつも新たな旅に出るように招いておられる神―の優しさに引き戻す役目を果たします。

135. 神は永遠に新しい存在です。神は、私たちを絶えず駆り立てます―社会の周辺部とその先に向けて、新たな歩みを始め、慣れ親しんだものを越えて進むように。神は、私たちを連れていかれます―人間性が最も傷つけられているところに、浅薄な体裁に従おうとする外見の裏で、男女が人生の意味についての疑問への答えを求め続けるところに。神は恐れません!恐れを知らないのです!神はいつも私たちの案と実施計画を超えています。神は社会の周辺部を恐れず、ご自身がしもべの身分となられました(フィリピの信徒への手紙2章6‐8節、ヨハネ福音書1章14節参照)。もしも、私たちが思い切って周辺部に行けば、そこで神を見つけるでしょう―実に、神はそこに、すでにおられます。イエスは、そこにすでにおられます―兄弟姉妹の心の中に、彼らの傷ついた体の中に、彼らの悩みと深い悲しみの中に。そこに、すでにおられるのです。

136. 確かに、私たちはイエスに、心の扉を開く必要があります―イエスは扉の前に立ち、たたいておられます(ヨハネの黙示録3章20節)。それにもかかわらず、私は、おそらくイエスがすでに私たちの内におられ、その腐りかけた自分本位から逃れさせてほしいとを扉を(内側から)たたいておられるではないか、と思うことがあります。福音書に、イエスがどのようにして「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(ルカ福音書8章1節)かが、書かれています。イエスが復活された後、弟子たちがあらゆるところに出かけた時、主は彼らとともにおられました(マルコ6章20節参照)。これは、真の出会いの結果として起こることなのです。

137. 現状に満足しきるのは魅力的です―現状への満足は、ものごとを変えようとすることに意味はない、自分たちにできることは何もない、と告げます。なぜならこれは、物事がこれまで通り、そのまま生き延びようとするやり方だからです。習慣の力によって、私たちはもはや、悪に立ち向かえなくなります。私たちは「成り行きに任せる」か、さもなければ、他人がそうすべきだと決めたようにするようになる。それでも、私たちを無気力から奮い起こし、惰性から解放してくださるように、神にお任せしましょう。いつものやり方を考え直しましょう―目と耳を開き、何よりも心を開いて、現状に満足しきらないように、かといって、復活された主の生き生きとして力のある言葉に不安を感じないようにしましょう。

138. 私たちは、宣教に身を捧げ、卓越した忠誠で他者に仕え、しばしば命の危険を冒し、間違いなく自分の安楽な生活を犠牲にする、すべての司祭、聖職者、一般信徒の模範によって、行動を鼓舞されます。彼らの証言は、「官僚」「職員」よりも、真の命を分かち合うことに熱心な、情熱のある宣教者を、教会が必要としていることを、私たちに気づかせます。聖人たちは、私たちを驚かせ、当惑させます。彼らの人生によって、私たちに、無気力で退屈な平凡な生き方を捨てるように強く促すからです。

139. 主に恵みを願いましょう―私たちが、聖霊から一歩踏み出すように呼びかける時、ためらうことのないように。使徒的な勇気を願いましょう―私たちが、他の人々と福音を分かち合い、キリスト者としての生活を「思い出の博物館」にしようとするのを止めるように。どのような状況においても、聖霊が、復活されたイエスの光の中で過去を熟慮させてくださいますように。このようにして、教会は、立ち止まらず、主の驚くべき贈り物を喜びをもって受け入れるでしょう。

* 共同体の中で

140. 私たちが他者と離れて生きる時、強欲、悪魔のわなや誘惑、そしてこの世の身勝手さと戦うことはとても困難です。あまりにも多くの魅力に攻められ、孤立無援となり、現実の感覚と内的な輝きを失い、それに容易に屈してしまいます。

141. 聖性の成長は、共同体での他者と並んでの旅です。このことはいくつかの深い信仰をもった共同体に見ることができます。時折、カトリック教会は、福音を雄々しく生き、あるいは神に構成員全員の命を捧げた共同体の人々を列聖してきました。例として、the Order of the Servants of Mary (聖母のしもべの会)の創立者である聖なる7人、the first monastery of the Visitation in Madridの福者7人、日本の聖パウロ三木と同志の殉教者たち、韓国の聖アンドレ・デゴンと同志の殉教者たち、あるいは南米の聖ロケ・ゴンザレス、聖アロンソ・ロドリゲスと同志の殉教者たちを思い浮かべることができます。また、アルジェリアのティビリヌのトラピスト会修道士たちによってごく最近なされた証しも思いをはせるべきでしょう―彼らは共同体として殉教に備えました。多くの神聖な結婚においても、二人の男女は他者を聖化するためにキリストがお使いになる手段となるのです。他者とともに暮らし、働くことは、間違いなく霊的な成長への道となります。十字架の聖ヨハネは、彼の信奉者の一人に言いました―「あなたは変えられ、試練を受けるために他者とともに生きているのです」¹⁰⁴と。

142. 各々の共同体は「神が教えられた『復活された主の隠された現存を体験』する場」を創るように求められています¹⁰⁵。み言葉を分かち合い、ともに聖餐を捧げることは、友愛を育み、私たちを、神聖な宣教する共同体にします。そしてまた、真正な、互いに分かち合う神秘的な体験のもととなります。聖ベネディクトと聖スコラスティカがその実例です。聖アウグスティヌスが母の聖モニカとともに味わった崇高な霊的体験も思い浮かべることができます―「母がこの世を去ろうとする日―あなたはご存じだが、私たちには知らされていない日―が今、迫って来た時、あなたの秘密の手はずによってだと私が信じているように―母と私は庭に面した窓に身を寄せて立っていた・・私たちは、あなたの泉―あなたの中にある命の源―から流れ出る水を飲もうと心を開け広げ‥‥そして、その知恵について語り合い、それを求めようと懸命に努力し、心のはずみで、それにいくらか触れた‥‥永遠の命は、私たちが今、思い焦がれた認識の瞬間のようなものかもしれない」¹⁰⁶。

143. しかしながら、そのような経験は、とてもよくあることでも、最も重要なことでもありません。共同生活―家庭、小教区、修道会、あるいはその他どの共同体においても―は、日々のこまごまとしたことから成り立っています。これはイエス、マリア、ヨセフの聖家族に当てはまりました―三位一体の交わりの美しさが模範的な形で反映されていたのです。イエスが弟子たちや一般の人々と分かち合った生活についても言うことができました。

144. イエスが弟子たちに、些細なことにも気をつけるように求めたことを、忘れないようにしましょう。

 婚宴でワインが足りなくなってきた―という、ごく些細なこと。

 1匹の羊がいなくなった―という、ごく些細なこと。

 少額の硬貨二枚を献金したやもめに注意を向ける―という、ごく些細なこと。

 花婿が遅れるかもしれないと、ランプに予備の油を用意する―という、ごく些細なこと。

 何個のパンを持っているか弟子たちに尋ねる―という、ごく些細なこと。

 夜明けに弟子たちを待ちながら、火を起こし、魚を料理する―という、ごく些細なこと。

145. 愛を込めた些細な振る舞いを大事にする共同体¹⁰⁷の人々は、互いにいたわり合い、開放的な、宣教をする環境を作ります。そうした共同体には、復活された主がおられ、御父の計画に従って共同体を聖別してくださいます。ごく些細なことの中に、主の愛の賜物が与えられ、神の慰めを体験する時が、何度もあります。

「冬のある晩、私はいつものように、なすべき小さなことをしていました。…すると、突然遠くに楽器の調和のとれた音色が聞こえました。それから、明るい客間が目に浮かび、そこは、きらきらと光り輝いていて、あらゆる誉め言葉と洗練された会話を交わす、優雅に着飾った若い淑女たちで、一杯になっていました。続いて、私の視線は、自分が助けている貧しく、病弱な人に向きました。美しい旋律の代わりに、彼女が時折漏らす不満だけが聞こえました。…私の心の中に起きたことを、言葉では表現できません―私が確信しているのは、主が真実の光で照らしてくださった、それが、この世の闇の中の祝宴よりも、あまりにも素晴らしい輝きだったので、自分の幸せを信じることができなかった、ということです」¹⁰⁸。

146. 他人はさておいて健康で幸福な生活を目指す私たちを孤立させがちな、増大する消費者中心の個人主義とは反対に、私たちの聖性への道は、イエスの次の祈りに、私たちを、なおいっそう一致させることを、ただ可能にするのです。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)

 不断の祈りの中で

147. 最後に、明白なように思われるかもしれませんが、私たちが心に止めておく必要があるのは、聖性は、超絶的な存在に対していつも心を開いているところにある、それは祈りと賛美で表現される、ということです。聖人たちは、祈りの心と神との霊的交わりを求めることで際立っています。彼らは、この世に心を奪われることが、狭くて、息苦しいことであるだと知っており、自分自身の関心と責任のまっただ中で、神を強く求め、祈りと主の黙想に、心身を打ち込むのです。たとえ、祈りが長くなくても、強い感情を込めたものでなくでも、祈りのない聖性を、私は信じません。

148. 十字架の聖ヨハネは私たちに告げます―「神の現存のなかに、いつも留まろうと努めなさい。現実、想像、あるいはその両方で、あなたのなすべき務めが許す限り」¹⁰⁹と。結局のところ、神への熱望は、私たちの日々の生活に滲み出るのです―「祈り続けるように務めなさい。そして、運動をしている最中でも、祈りを止めないように。食べ、飲み、他の人々と話をする、あるいは何をしていても、いつも神に頼り、神にしっかりと心を寄せなさい」¹¹⁰

149. しかし、日々の暮らしに神への熱望が滲み出るためには、神とだけ過ごす時間も必要です。アビラの聖テレジアにとって、祈りは「私たちを愛してくださっている神との打ち解けた交わり、頻繁な対話です」¹¹¹。私が強調したいのは、このことは、特権を与えられた数少ない人たちだけではなく、私たち全員にとっても、当てはまる、ということです。なぜなら、「私たちはみな、敬慕する方の存在に満たされた、沈黙の時を必要としている」¹¹²からです。神への信頼に満ちた祈りは、神と顔を合わせる出会いのために開かれた心の反響、そこではすべてが平和で、沈黙の中に静かな主の声を聴くことができるのです。

 150.沈黙において、聖霊の光の中で、私たちは主が求められている聖性の道を識別することができます。そうでなければ、どのような決断も、福音を暮らしの中で賛美するのでなく、覆い隠したり、沈めたりするような、まやかしに過ぎなくなるでしょう。弟子たち一人ひとりにとって、師イエスと共に過ごし、言葉を聴き、彼からいつも学ぶことが必須です。もしも私たちがイエスの言葉を聴かないなら、私たちの言葉のすべてが無駄なおしゃべり以外の何ものでもなくなります。

 151.私たちは次の言葉を思い起こす必要があります-「亡くなられ、復活されたイエスの御顔を黙想することは、私たちの人間性を回復させる。たとえ、人間性が人生の苦しみで壊され、罪で傷つけられても。キリストの御顔の力をあたりまえのように思ってはならない」¹¹³。では、質問をします。「あなたにはありますか―主の現存に静かに身をゆだねる時が、主と静かに時を過ごす時が、主のまなざしに浸る時が?主の炎が心の中に燃えるようにしていますか?主の愛とやさしさでもっと、もっと温めてくださるようにしていないなら、あなたはその炎をとらえることはないでしょう。そうだとしたら、あなたはどのようにして、自分の言葉を証しによって他の人々の心に火をつけることができるでしょうか?キリストの御顔をじっと見つめても、自分が癒されず、変えられないと感じたら、主の心の中、傷の中に入りなさい。そこに神の慈しみが宿っているからです¹¹⁴。

152.お願いしたいのは、祈りに満ちた沈黙を、周りの世界から逃れ、否定するものだと絶対に考えない、ということです。祈りを欠かしたことのないロシア人の巡礼者は、祈りが自分を周りで起きていることから切り離すことはない、として、こう語っています-「皆が私に親切にしてくれました。誰もが私を愛してくれているかのように…。心の中に(幸せと慰めを)感じただけでなく、外の世界全体が私にとって魅力と喜び一杯に思われました」¹¹⁵.

153.歴史が消えることもありません。祈りは、神の賜物によって養われ、存在し、私たちの暮らしの中で働いているので、いつも記憶によって印が付けられねばなりません。神の業の記憶は、神と民の契約の経験の中心に位置します。神は、歴史に介入することを望まれ、私たちの祈りは記憶に織り込まれています。私たちは、神の御言葉だけでなく、自分自身の人生、他の人々の人生、そして主がご自身の教会になさったすべてを回顧します。これは、聖イグナチオ・ロヨラが「Contemplation for Attaining Love」¹¹⁶で書いているように、喜ばしい記憶です。彼は、主からいただいた全ての恩恵を心にとめるように、私たちに求めています。祈る時、自分の歴史について考えなさい。そうすれば、たくさんの慈悲をいただていることに気づくでしょう。そして、主がいつもあなたのことを考えてくださっている、ということを、もっとよく知ることができるでしょう-主は決して、あなたを忘れません。ですから、主に、自分の人生のもっとも小さな細部に光を当ててくださるようにお願いするのは意味があります-主がすべてを見ておられるからです。

154. 嘆願の祈りは、神を信頼し、それ自身では何もできないことを理解する心の表現です。神に忠実な人々の人生は、信仰に満ちた愛と大きな信頼から生れる変わることのない嘆願によって特徴づけられます。祈願の祈り-たびたび私たちの心を鎮め、希望をもって絶えるのを助ける祈り―を軽んじないようにしましょう。とりなしの祈りは、神に信頼を置く行為であり、隣人への愛の表現でもあるので、特に価値があります。片寄った霊性をもとに、こう考える人たちがいます-祈りは、神についてひたすら想うこと、心を乱す全てから解放されるべきで、他の人々の名前も顔も介入させてはならない、と。しかし、現実には、とりなしを通して、イエスが私たちに残された二つの掟を実践しようとするなら、私たちの祈りは、神をなお一層喜ばせ、自分の聖性の成長をもっと効果的にするでしょう。とりなしの祈りは、私たちの他の人々に対する兄弟的な思いやりの表現です。なぜなら、それによって、私たちは彼らの人生、深刻な悩み、そして高遠な夢を、包み込むことができるからです。とりなしの祈りに進んで身を委ねる人々について、聖書の次の言葉を当てることができます-「この人こそ、深く同胞を思い、民のために不断に祈っている」(旧約聖書マカバイ記Ⅱ・15章14節)。

155. もし私たちが、神が存在されていると悟るなら、時として静かな驚きをもって神を崇敬し、そして祝祭の歌で神を賛美せざるをえません。そうして、福者シャルル・ド・フーコーの体験に与ります。彼はこう言いました-「神がおられることを信じると、たちまち、神のために生きること以外に何もできないことが分かった」¹¹⁷。神の巡礼者たちの生活の中には、純粋な崇敬の素朴なしぐさが、たくさんあり得ます-たとえば、「神の愛と親密さを象徴する聖像にじっとひとみを凝らす」時のように。「神への愛は、一時立ち止まり、神秘を深く想い、それを沈黙のうちに楽しむ」¹¹⁸のです。

156. 神の御言葉-「蜜よりも甘い」(詩編119章103節)が「両刃の剣」(ヘブライ人への手紙4章12節)よりも鋭い-を祈りを込めて読むことは、私たちに、一時立ち止まり、主の声を聴くことを可能にします。それは私たちの歩みを照らす松明、私たちの進む道の光となります(詩編119章103節参照)。インドの司教たちが思い出させてくださったように「神の御言葉への信心は、美しいが選択可能な数多くの信心の、単なる一つ、ではない。キリスト者の人生における、まさに核心であり、存在の証しなのだ。御言葉には人々の人生を変える力がある」¹¹⁹のです。

157. 聖書の中でのイエスとの出会いは、私たちを聖餐に導き、文字となった御言葉がそこで、最も大きな力を発揮します。なぜなら、生きた御言葉が、実際にそこにおられるからです。聖餐において、唯一の真の神は、この世ができる最大の崇敬をお受けになります。生贄として捧げられるのが、キリストご自身だからです。聖体拝領でキリストの体を受ける時、私たちはキリストとの契約を新たにし、私たちの人生を変容させる御業をさらに周到に行っていただくことを受け入れます。

(以上、第4章「カトリック・あい」田中典子試訳)

第5章、闘い、用心、識別

158.キリスト教的生活は、絶え間ない闘いです。悪魔の誘惑に抵抗し、福音を告げるために、私たちは力と勇気を必要とします。この闘いは素晴らしい。なぜなら、主が私たちの生活で勝利を収めるたびに、私たちが祝うのを可能にするから、です。

*闘いと用心

159.ここで扱っている「闘い」は、この世と、世俗的なメンタリティー-自分自身をだまし、熱意と喜びに乏しい、鈍感で平凡なままにするような-に対する闘いだけではありません。この戦いは、私たち人間の弱さと性癖(怠惰、欲情、怨嗟、嫉妬あるいはそれと似たようなもの)との葛藤に矮小化できるものでもありません。それはまた、悪魔-悪の筆頭-との絶えざる苦闘でもあります。イエスご自身が私たちの勝利を祝福してくださいます。ご自分の弟子たちが福音を告げることで進歩を見せ、悪なるものの抵抗に打ち勝った時、イエスは大変喜ばれました-「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(ルカ福音書10章18節)と。

 神話以上のもの

160.もし、私たちが生命を、単に経験主義的(経験だけに頼った)基準で、超自然的展望なしに眺めることに固執するなら、私たちは、悪魔の存在を認めないでしょう。この悪の力が、私たちのただ中にある、という確信そのものが、私たちに、なぜ、時として、悪がとても大きな破壊力をもっているのかを理解することを、可能にします。

 確かに、幾つかの現実を表現するために聖書作者たちが持っていた知識は、概念上 、限界のあるものでした。例えば、イエスの時代に、てんかんを「悪魔にとりつかれていること」と混同する可能性はありました。しかし、これが、福音の中で語られたすべてのケースが精神的な疾患であったとか、結局、悪魔は存在しない、あるいは働いていない、と、現実を極度に単純化するように、私たちをさせるようなことがあってはなりません。

 悪魔の存在は、聖書の最初のページにあり、それは、悪魔に対する神の勝利をもって終わっています¹²⁰. 実際、「主の祈り」を私たちに残された時、イエスは私たちが、御父に「悪から私たちを解放してください」と願いながら祈りを終えることをお望みになりました。そこで使われている表現は、抽象的な悪について言っているのではありません。より厳密に訳せば「悪魔」です。それは、私たちを苦悩させる「人格的実存」を示しています。イエスは、悪魔の力が私たちを圧倒することのないように、悪魔からの解放を毎日、願うことを、私たちに教えられました。

161.ですから、「悪が、ある神話、表象、シンボル、象徴、または概念だ」とは考えないように¹²¹しましょう。そのような錯覚は、私たちの警戒心を低くさせ、注意をおろそかにし、危険にさらしたままにします。 よりむき出しのままにします。 悪魔が私たちを所有する必要はありません。悪魔は私たちを、憎しみで、悲しみで、うらみで、悪癖で毒します。そして、防御を弱めている間に、私たちの生活、私たちの家族、私たちの共同体を破壊するために利用します。「悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っている」(ペトロの手紙1・5章8節)からです。

 目覚めていること、信頼すること

162.神の御言葉は、私たちに「悪魔の策略に対抗して立つ」(エフェソの信徒への手紙6章 11節)ように、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消す」ように、明確に求めておられます。このような表現は芝居ががったものではありません。なぜなら、私たちの聖性への道はまさに「常に闘い」だからです。このことを悟らない人は、失敗や凡庸に苦しめられるでしょう。この霊的な戦いのために、私たちは、主が与えてくださる強力な武器-信仰に満ちた祈り、神の御言葉の瞑想、ミサの奉献、聖体崇敬、和解の秘跡、慈善活動、共同生活、宣教活動-があります。私たちが不注意であれば、誤った悪の約束にたやすく誘惑されてしまうでしょう。聖人とされたクラ・ブロチェロはこう言っています-「堕天使ルシファーがあなたに自由を約束し、恩典を全部くれても、その恩典が過ち、欺き、そして毒だったら、何の役に立つのか?」¹²²と。

163.この歩みにおいて、全ての善きものの涵養、霊的生活の進歩、そして愛の成長は、悪を相殺する最良の力です。どっちつかずでいることを選ぶ人、わずかばかりのことに満足する人、主に自らを進んで捧げる理想を捨てる人は、悪との闘いに、決して持ちこたえることができません。もっといけないのは、敗北主義に陥ることです。なぜなら「(勝利の)確信を持たずに闘いを始めれば、すでに半分、負けており、自分の才能を埋もれさせてしまいます…キリスト者の勝利は、常に十字架ですが、その十字架は悪の急襲に立ち向かう挑戦的なやさしさを備えた、勝利の御旗でもある」¹²³のです。

 霊的な堕落 

 164 聖性の歩みは、聖霊が私たちに与えてくださる平和と喜びの源です。それと同時に、私たちに「ともし火をともし」(ルカ福音書12章 35節)、注意深くしていることを求めます-「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(テサロニケの信徒への手紙1・5章 22節)、「目を覚ましていなさい」(マルコ福音書13章 35節、マタイ福音書24章 42節)、「眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(テサロニケの信徒への手紙1・5章 6節)。神の律法に反する深刻な過失を犯していない、と思う人は、鈍感で、無気力な状態に落ち込むようになり得ます。彼らは、自らがとがめられるような深刻な事態に置かれていることに何も気づず、それゆえ、自分の霊的生活が徐々に熱意のないものになっていくことを自覚できません。そして遂には、弱体化し、堕落してしまうのです。

 165.霊的な堕落は、罪人が転落するよりもひどい-それは、安楽で自己満足的な盲目の形態のひとつだからです。そこではまた、あらゆることが容認されるようにみえます-欺き、中傷、利己主義、その他の狡猾な自己本位の形-「サタンでさえ、光の天使を装う」(コリントの信徒への手紙2・11章 14節)のです。そうして、ソロモンは命を終えました-大きな罪を犯したダビデは、恥辱を埋め合わせることができたにもかかわらずです。イエスは私たちに、堕落にたやすく繋がるような自己欺瞞に陥らないよう警告しました。悪魔から解放され、人生が正常な状態になったと確信したのに、結局は(その穢れた霊が連れて来た)他の七つの悪霊にとりつかれてしまう人(ルカ福音書11章24∼26節)についてお話になりました。他の聖書の箇所では、次のようなあからさまな表現がされています-「犬は、自分の吐いた物のところへ戻ってくる」(ペトロの手紙Ⅱ・2章 22 節、箴言26章 11節も参照)と。

 識別

166.あるものが聖霊から来るのか、この世の霊、あるいは悪霊から生じるのか。どのようにしたら、私たちはそれを知ることができるでしょうか? 唯一の方法は「識別」です。識別は、知識や常識以上のものを、私たちに要求しますが、強く求めねばならないない賜物です。この賜物をくださるように、信頼をもって聖霊に願い、そして、祈り、考察、朗読、良き助言を通して賜物を育てるように努めれば、私たちは、この霊的な授かりものを受ける中で、確かに成長するのです。

 緊急に必要なこと 

167.識別の賜物は、今日、これまでよりも一段と必要となっています。なぜなら、現代の生活は、活動と気晴らしに巨大な可能性を与え、世はそれらを、すべて価値があり良いものとして提供します。私たちすべて、特に若者たちは「頻繁にチャンネルを切り替える文化」にどっぷりと漬かっています。二つ、あるいはそれ以上の画面を同時並行して操り、二つか三つの仮想空間のシナリオで同時に影響し合うことが、私たちには可能です。識別する知恵がなければ、私たちは、次々と過ぎ去っていく流行の餌食に容易になってしまいます。

168.このことを知っておくことは、自分の人生で何か新しいことが出てきた時、いっそう重要になります。ですから、それが、神によってもたらされる新しいぶどう酒か、それとも、この世の霊、あるいは悪魔の霊が作り出す幻想なのか、判断する必要があります。他の時-悪の力が、今のまま変わらないように、今のままにしておくように、変化に頑に抵抗するように、私たちを仕向ける時-には、それと反対のことが起こり得ます。それでもなお、聖霊の働きを妨げようとします。私たちはキリストの自由をもって、自由です。それでもなお、イエスは私たちに、自分の内面にあるもの-私たちの願望、不安、恐れ、そして疑問-そして、自分の周りで起きるもの-「時のしるし」-を調べるように、そうすることで、完全な自由への道をはっきりと知るようにお求めになります-「すべて吟味して、より良いものを大事にしなさい」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・5章 21節)と。

つねに、主の光に照らされて 

169.識別は、何か特別な時-深刻な問題を解決し、重大な決断をする必要がある時-だけに必要なのではありません。識別は、主によりよく従うように私たちを助ける霊的な闘いの手段です。私たちは常にそれを必要としています-私たちが神の予定表を認識するのを助けてくれるように、神の恵みの促しに気づき損ね、成長への神の招きを無視することのないように。識別はしばしば、小さなこと、取るに足らないように見えるものの中に働きます。なぜなら霊の偉大さは、日々のありふれた現実の中に、現われるからです¹²⁴。それは、偉大で、より良く、より美しいこと全てを拘束されることなく求める努力を意味します-同時に、小さな事柄、その日その日の責任ある務めと献身への気遣い、もです。

 全てのキリスト者の方々に対してお願いします-主との対話の中で、真摯な日々の「良心の究明」をすることを怠らないように。識別はまた、私たちが具体的な手段-主が、その神秘的な、愛のこもった計画のもとに、単なる善意を超えて活動するように、私たちに与えてくださる手段-を見分けることを可能にします。

超自然的な賜物 

170 確かに、霊的識別は、人間的、実存的、心理学的、社会学的、あるいは道徳的知恵の貢献を排斥しません。それを超越します。教会の賢明な規定さえも十分ではありません。識別は恵みであることを、いつも覚えていましょう。識別は、理性と賢明さを含んでいるとしても、それらを越えます。

 なぜなら、それは、神が一人ひとりのためにもっている、唯一の繰り返せない計画の神秘をかいま見ること(直感すること)であり、より多様なコンテクスト(文脈)や限界のただ中で実現されるからです。単に、つかの間の(地上の)幸せ、何か役に立つことをする満足、ましてや、平穏な良心をもちたい、という望みが、かかっているのではありません。私を知り、私を愛してくださる御父の前での、私の命の意味がかかっているのです。私が そのために、私の実存を捧げることの出来る、真の意味-神が一番よく知っておられる真の意味-がかかっているのです。

 識別は、死ぬことのない(終わることのない)命の源そのものに導きます。「唯一の真の神であるあなたを知り、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ福音書17 章2節)。それは、特別な能力を求めません。より頭のよい、学識のある人々だけのものでもありません。御父はご自分を、進んで小さい人々にお示しになるのです(マタイ福音書11章 25節参照)。

171.神は、私たちに様々な仕方で、私たちの仕事の最中に、他の人々を通して、そしていつも、お話しになります。しかし、私たちには、長い祈りの沈黙なしには、まず次のようなことはできません-それは、神の言葉遣いを受け止め、自分が受け取ったと信じる霊感の実際の意味を解釈し、不安を鎮め、そして、神ご自身の光の中で、自分の存在全体を確かめることを、私たちがよりよくできるようにするのを可能にすること、です。このようにして、私たちは、聖霊によってかきたられた命から湧き出る新しい統合が生まれるのを可能にするのです。

 

主よ、話してください

 172.しかし、祈りの最中でさえも、思いのままに行動する霊の自由と向き合うのを避けることが可能です。祈りの識別は、聴く-主と他の人々に、現実そのものに、聴く―用意ができたところから生まれることを、思い起こす必要があります。それを、私たちは常に新しいやり方で求められています。聴く用意ができている時のみ、私たちは、自分自身の不完全で不十分な考え、通常の習慣と物の見方を、捨てる自由を得ます。全てが平静、平穏であるだけでは十分ではありません。神が、さらに多くのものを、私たちにくださろうとしていても、不注意に安住している私たちには、それが分からないのです。

173.当然ですが、そのような聴く態度には、究極の基準としての福音に対する従順が伴います。それには、福音を守る教導職への従順も含まれます。私たちが、教会の宝の中に、救いの「今日」のために極めて有益なものなら何でも見つけようとするように。有益なのは、ルールを当てはめることでも、過去になされたことを繰り返すことでもありません。なぜなら、同じ解決方法がすべての状況に適するわけではないし、ある状況において役に立ったものが他の状況では役に立たない結果となることもあるからです。聖霊の識別は、復活された主の永遠の”今日”の前に場所をもたない頑なさから、私たちを解放します。聖霊だけが、一つ一つの状況の中にある不鮮明で、隠れたものに入り込み、その一つ一つの微妙な違いをつかみ取ります-福音の新しさが、異なる光の中で浮かび上がるように。

賜物と十字架の論理

174.識別における進歩に欠かすことのできない条件のひとつは、神の忍耐と神の予定表-決して私たち自身のものではありません-についての理解を育てることです。神は、不信心な者たちの上に火を降らせる(ルカ福音書9章 54節参照)ことも、熱意にあふれた人々が、麦の中に蒔かれた毒麦を根こそぎにする(マタイ福音書13章 29節参照)ことも、お認めになりません。寛容さが求められます。「受けるよりは、与えるほうが幸い」(使徒言行録20章 35節)だからです。

 識別は、この世の生活から逃れるのに何をしたらいいかを見つけるのではなく、私たちが洗礼を受けた時に託された使命をいかにしてよりよく果たすことができるかを知るためのものです。それには、犠牲を払う-すべてを犠牲にする用意ができている-必要があります。「幸せ」は一見、正しく見える、矛盾した論理だからです。私たちが一番それを経験するのは、この世のものでない神秘的な論理を受け入れる時-聖ボナベンツラは十字架を指さしながら「これは私たちの不可避の関係だ」と言っています。私たちがこの動きを始めれば、自分の良心を麻痺させることなく、識別に自分自身を大きく開くことになります。

175.神の前で、私たちが、自分の人生の道を究明する時、立ち入り禁止の区域はありえません。人生の全ての側面で、私たちは成長を続け、神に対してもっと大きなものを差し出すことが可能です-私たちが最も困難だと感じる区域でさえも。それでも、私たちは聖霊に願う必要があります-私たちを自由にし、私たちの人生の幾つかの側面に神が入ることを拒否させる恐怖を追い払ってくださるように、と。

 神は私たちの全てをお求めになりますが、私たちにすべてをお与えにもなります。神が、私たちの人生にお入りになりたいと望まれるのは、それを壊したり、傷つけたりされるためではなく、実りをもたらしてくださるためなのです。識別は、唯我論的な自己分析でも、利己的な自己反省でもなく、神の神秘に近づくために、私たちを残しておく確実な手順なのです-神は、求められた使命を私たちが実行するのを助けてくださいます-私たちの兄弟姉妹のために。

176.私は、以上の考察の最後を、聖母マリアが飾ってくださることを望みます-なぜなら、マリアが、何よりも、イエスのBeatitudes(山上の説教で説かれた八つの幸せ)を生きられたからです。マリアは、神を前にして讃え喜び、全てのことを大切に心に留め、剣がご自身を刺し貫くにまかせた女性です。

 マリアは、聖人の中の聖人、誰よりも祝福された方です。彼女は、私たちに聖性の道を示し、いつも私たちの傍を歩いてくださいます。私たちを転んだままにさせず、時々は、私たちを、裁かずに、抱きしめてくださいます。

 マリアと語り合うことは、私たちを慰め、私たちを解放し、私たちを聖化します。私たちの母マリアは、盛りだくさんの言葉を必要となさいません。何が自分の人生に起きているか、私たちが語ることを必要となさいません。私たちに必要なのは、ささやくことだけです―何回も何回も―Hail  Mary(ラテン語のAve Maria。直訳は「こんにちは、マリア」)…と。

177.私の望みは、ここで述べてきたことが、教会全体が「聖性への強い希望」を促すために新たに自らを捧げられるようにする-その助けとなることです。聖霊に願いしましょう-神のより大きな栄光のために聖人となる強い希望を、私たちの中に注いでください、その希望のために、私たちが互いに励まし合いますように-。このようにして、私たちからこの世が取り去ることのできない幸せを、私たちは分かち合うのです。

 2018年(教皇在位第6年)3月19日、聖ヨセフの祭日 ローマ、聖ペトロのかたわらにて フランシスコ

(以上、第5章「カトリック・あい」Sr.岡立子・南條俊二試訳)

177. It is my hope that these pages will prove helpful by enabling the whole Church to devote herself anew to promoting the desire for holiness. Let us ask the Holy Spirit to pour out upon us a fervent longing to be saints for God’s greater glory, and let us encourage one another in this effort. In this way, we will share a happiness that the world will not be able to take from us.

Given in Rome, at Saint Peter’s, on 19 March, the Solemnity of Saint Joseph, in the year 2018, the sixth of my Pontificate. Francis


[1] BENEDICT XVI, Homily for the Solemn Inauguration of the Petrine Ministry (24 April 2005): AAS 97 (2005), 708.

[2] This always presumes a reputation of holiness and the exercise, at least to an ordinary degree, of the Christian virtues: cf. Motu Proprio Maiorem Hac Dilectionem (11 July 2017), Art. 2c: L’Osservatore Romano, 12 July 2017, p. 8.

[3] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 9.

[4] Cf. JOSEPH MALEGUE, Pierres noiresLes classes moyennes du Salut, Paris, 1958.

[5] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 12.

[6] Verborgenes Leben und Epiphanie: GW XI, 145.

[7] JOHN PAUL II, Encyclical Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 56: AAS 93 (2001), 307.

[8] Encyclical Letter Tertio Millennio Adveniente (10 November 1994), 37: AAS 87 (1995), 29.

[9] Homily for the Ecumenical Commemoration of Witnesses to the Faith in the Twentieth Century (7 May 2000), 5: AAS 92 (2000), 680-681.

[10] Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 11.

[11] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 345.

[12] Spiritual Canticle, Red. B, Prologue, 2.

[13] Cf. ibid., 14-15, 2.

[14] Cf. Catechesis, General Audience of 19 November 2014Insegnamenti II/2 (2014), 555.

[15] FRANCIS DE SALES, Treatise on the Love of God, VIII, 11.

[16] Five Loaves and Two Fish, Pauline Books and Media, 2003, pp. 9, 13.

[17] NEW ZEALAND CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE, Healing Love, 1 January 1988.

[18] Spiritual Exercises, 102-312.

[19] Catechism of the Catholic Church, 515.

[20] Ibid., 516.

[21] Ibid., 517.

[22] Ibid., 518.

[23] Ibid., 521.

[24] BENEDICT XVI, Catechesis, General Audience of 13 April 2011Insegnamenti VII (2011), 451.

[25] Ibid., 450.

[26] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 341-350.

[27] XAVIER ZUBIRI, Naturaleza, historia, Dios, Madrid, 19933, 427.

[28] CARLO M. MARTINI, Le confessioni di Pietro, Cinisello Balsamo, 2017, 69.

[29] We need to distinguish between this kind of superficial entertainment and a healthy culture of leisure, which opens us to others and to reality itself in a spirit of openness and contemplation.

[30] JOHN PAUL II, Homily at the Mass of Canonization (1 October 2000), 5: AAS 92 (2000), 852.

[31] REGIONAL EPISCOPAL CONFERENCE OF WEST AFRICA, Pastoral Message at the End of the Second Plenary Assembly, 29 February 2016, 2.

[32] La femme pauvre, Paris, II, 27.

[33] Cf. CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH, Letter Placuit Deo on Certain Aspects of Christian Salvation (22 February 2018), 4, in L’Osservatore Romano, 2 March 2018, pp. 4-5: “Both neo-Pelagian individualism and the neo-Gnostic disregard of the body deface the confession of faith in Christ, the one, universal Saviour”. This document provides the doctrinal bases for understanding Christian salvation in reference to contemporary neo-gnostic and neo-pelagian tendencies.

[34] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1060.

[35] Ibid.: AAS 105 (2013), 1059.

[36] Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 November 2016: L’Osservatore Romano, 12 November 2016, p. 8.

[37] As Saint Bonaventure teaches, “we must suspend all the operations of the mind and we must transform the peak of our affections, directing them to God alone… Since nature can achieve nothing and personal effort very little, it is necessary to give little importance to investigation and much to unction, little to speech and much to interior joy, little to words or writing but all to the gift of God, namely the Holy Spirit, little or no importance should be given to the creature, but all to the Creator, the Father and the Son and the Holy Spirit”: BONAVENTURE, Itinerarium Mentis in Deum, VII, 4-5.

[38] Cf. Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[39] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 40: AAS 105 (2013), 1037.

[40] Video Message to Participants in an International Theological Congress held at the Pontifical Catholic University of Argentina (1-3 September 2015): AAS 107 (2015), 980.

[41] Post-Synodal Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 38: AAS 88 (1996), 412.

[42] Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[43] Letter to Brother Anthony, 2: FF 251.

[44] De septem donis, 9, 15.

[45] In IV Sent. 37, 1, 3, ad 6.

[46] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1059.

[47] Cf. Bonaventure, De sex alis Seraphim, 3, 8: “Non omnes omnia possunt”. The phrase is to be understood along the lines of the Catechism of the Catholic Church, 1735.

[48] Cf. THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae II-II, q. 109, a. 9, ad 1: “But here grace is to some extent imperfect, inasmuch as it does not completely heal man, as we have said”.

[49] Cf. De natura et gratia, 43, 50: PL 44, 271.

[50] Confessiones, X, 29, 40: PL 32, 796.

[51] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 44: AAS 105 (2013), 1038.

[52] In the understanding of Christian faith, grace precedes, accompanies and follows all our actions (cf. ECUMENICAL COUNCIL OF TRENT, Session VI, Decree on Justification, ch. 5: DH 1525).

[53] Cf. In Ep. ad Romanos, 9, 11: PG 60, 470.

[54] Homilia de Humilitate: PG 31, 530.

[55] Canon 4: DH 374.

[56] Session VI, Decree on Justification, ch. 8: DH 1532.

[57] No. 1998.

[58] Ibid., 2007.

[59] Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I-II, q. 114, a. 5.

[60] ThÉrÈse of the Child Jesus, “Act of Offering to Merciful Love” (Prayers, 6).

[61] Lucio Gera, Sobre el misterio del pobre, in P. GRELOT-L. GERA-A. DUMAS, El Pobre, Buenos Aires, 1962, 103.

[62] This is, in a word, the Catholic doctrine on “merit” subsequent to justification: it has to do with the cooperation of the justified for growth in the life of grace (cf. Catechism of the Catholic Church, 2010). Yet this cooperation in no way makes justification itself or friendship with God the object of human merit.

[63] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 95: AAS 105 (2013), 1060.[64] Summa Theologiae I-II, q. 107, art. 4.

[65] FRANCIS, Homily at Mass for the Jubilee of Socially Excluded People (13 November 2016): L’Osservatore Romano, 14-15 November 2016, p. 8.

[66] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 9 June 2014: L’Osservatore Romano, 10 June 2014, p. 8.

[67] The order of the second and third Beatitudes varies in accordance with the different textual traditions.

[68] Spiritual Exercises, 23d.

[69] Manuscript C, 12r.

[70] From the patristic era, the Church has valued the gift of tears, as seen in the fine prayer “Ad petendam compunctionem cordis”. It reads: “Almighty and most merciful God, who brought forth from the rock a spring of living water for your thirsting people: bring forth tears of compunction from our hardness of heart, that we may grieve for our sins, and, by your mercy, obtain their forgiveness” (cf. Missale Romanum, ed. typ. 1962, p. [110]).

[71] Catechism of the Catholic Church, 1789; cf. 1970.

[72] Ibid., 1787.

[73] Detraction and calumny are acts of terrorism: a bomb is thrown, it explodes and the attacker walks away calm and contented. This is completely different from the nobility of those who speak to others face to face, serenely and frankly, out of genuine concern for their good.

[74] At times, it may be necessary to speak of the difficulties of a particular brother or sister. In such cases, it can happen that an interpretation is passed on in place of an objective fact. Emotions can misconstrue and alter the facts of a matter, and end up passing them on laced with subjective elements. In this way, neither the facts themselves nor the truth of the other person are respected.

[75] Apostolic Exhortation, Evangelii Gaudium (24 November 2013), 218: AAS 105 (2013), 1110.

[76] Ibid., 239: 1116.

[77] Ibid., 227: 1112.

[78] Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 41c: AAS 81 (1993), 844-845.

[79] Apostolic Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 49: AAS 93 (2001), 302.

[80] Ibid.

[81] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 12: AAS 107 (2015), 407.

[82] We can recall the Good Samaritan’s reaction upon meeting the man attacked by robbers and left for dead (cf. Lk 10:30-37).

[83] SOCIAL AFFAIRS COMMISSION OF THE CANADIAN CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS, Open Letter to the Members of Parliament, The Common Good or Exclusion: A Choice for Canadians (1 February 2001), 9.

[84] The Fifth General Conference of the Latin American and Caribbean Bishops, echoing the Church’s constant teaching, stated that human beings “are always sacred, from their conception, at all stages of existence, until their natural death, and after death”, and that life must be safeguarded “starting at conception, in all its stages, until natural death” (Aparecida Document, 29 June 2007, 388; 464).

[85] Rule, 53, 1: PL 66, 749.

[86] Cf. ibid., 53, 7: PL 66, 750.

[87] Ibid., 53, 15: PL 66, 751.

[88] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 9: AAS 107 (2015), 405.

[89] Ibid., 10, 406.

[90] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 311: AAS 108 (2016), 439.

[91] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 197: AAS 105 (2013), 1103.

[92] Cf. Summa Theologiae, II-II, q. 30, a. 4.

[93] Ibid., ad 1.

[94] Cited (in Spanish translation) in: Cristo en los Pobres, Madrid, 1981, 37-38.

[95] There are some forms of bullying that, while seeming delicate or respectful and even quite spiritual, cause great damage to others’ self-esteem.

[96] Precautions, 13.

[97] Ibid., 13.

[98] Cf. Diary. Divine Mercy in My Soul, Stockbridge, 2000, p. 139 (300).

[99] THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae, I-II, q. 70, a. 3.

[100] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 6: AAS 105 (2013), 1221.

[101] I recommend praying the prayer attributed to Saint Thomas More: “Grant me, O Lord, good digestion, and also something to digest. Grant me a healthy body, and the necessary good humour to maintain it. Grant me a simple soul that knows to treasure all that is good and that doesn’t frighten easily at the sight of evil, but rather finds the means to put things back in their place. Give me a soul that knows not boredom, grumbling, sighs and laments, nor excess of stress, because of that obstructing thing called ‘I’. Grant me, O Lord, a sense of good humour. Allow me the grace to be able to take a joke and to discover in life a bit of joy, and to be able to share it with others”.

[102] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 110: AAS 108 (2016), 354.

[103] Apostolic Exhortation Evangelii Nuntiandi (8 December 1975), 80: AAS 68 (1976), 73. It is worth noting that in this text Blessed Paul VI closely links joy and parrhesía. While lamenting a “lack of joy and hope” as an obstacle to evangelization, he extols the “delightful and comforting joy of evangelizing”, linked to “an interior enthusiasm that nobody and nothing can quench”. This ensures that the world does not receive the Gospel “from evangelizers who are dejected [and] discouraged”. During the 1975 Holy Year, Pope Paul devoted to joy his Apostolic Exhortation Gaudete in Domino (9 May 1975): AAS 67 (1975), 289-322.

[104] Precautions, 15.

[105] JOHN PAUL II, Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 42: AAS 88 (1996), 416.

[106] Confessiones, IX, 10, 23-25: PL 32, 773-775.

[107] I think especially of the three key words “please”, “thank you” and “sorry”. “The right words, spoken at the right time, daily protect and nurture love”: Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 133: AAS 108 (2016), 363.

[108] THÉRÈSE OF THE CHILD JESUS, Manuscript C, 29 v-30r.

[109] Degrees of Perfection, 2.

[110] ID., Counsels to a Religious on How to Attain Perfection, 9.

[111] Autobiography, 8, 5.

[112] JOHN PAUL II, Apostolic Letter Orientale Lumen (2 May 1995), 16: AAS 87 (1995), 762.

[113] Meeting with the Participants in the Fifth Convention of the Italian ChurchFlorence, (10 November 2015): AAS 107 (2015), 1284.

[114] Cf. BERNARD OF CLAIRVAUX, Sermones in Canticum Canticorum, 61, 3-5: PL 183:1071-1073.

[115] The Way of a Pilgrim, New York, 1965, pp. 17, 105-106.

[116] Cf. Spiritual Exercises, 230-237.

[117] Letter to Henry de Castries, 14 August 1901.

[118] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 259.

[119] CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS OF INDIA, Final Declaration of the Twenty-First Plenary Assembly, 18 February 2009, 3.2.

[120] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 October 2013: L’Osservatore Romano, 12 October 2013, p. 2.

[121] Cf. PAUL VI, Catechesis, General Audience of 15 November 1972: Insegnamenti X (1972), pp. 1168-1170: “One of our greatest needs is defence against that evil which we call the devil… Evil is not simply a deficiency, it is an efficiency, a living spiritual being, perverted and perverting. A terrible reality, mysterious and frightful. They no longer remain within the framework of biblical and ecclesiastical teaching who refuse to recognize its existence, or who make of it an independent principle that does not have, like every creature, its origin in God, or explain it as a pseudo-reality, a conceptual and imaginative personification of the hidden causes of our misfortunes”.

[122] JOSÉ GABRIEL DEL ROSARIO BROCHERO, “Plática de las banderas”, in CONFERENCIA EPISCOPAL ARGENTINA, El Cura Brochero. Cartas y sermones, Buenos Aires, 1999, 71.

[123] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 85: AAS 105 (2013), 1056.

[124] The tomb of Saint Ignatius of Loyola bears this thought-provoking inscription: Non coerceri a maximo, conteneri tamen a minimo divinum est (“Not to be confined by the greatest, yet to be contained within the smallest, is truly divine”).

[125] Collationes in Hexaemeron, 1, 30.

・(解説)新使徒的勧告‘Gaudete et Exsultate’-「聖性は過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中にある」(La Civilita Cattolica)

Antonio Spadaro, SJ)

‘Gaudete et Exsultate’, Pope Francis calls on us to ‘Rejoice and be Glad’

教皇フランシスコの新使徒的勧告の引用資料、組み立て、そしてその意味は

 教皇に選出されて5年、教皇フランシスコは三つ目の使徒的勧告「Gaudete et Exsultate(現代世界における聖性への招き)」(GE)を発出された。サブタイトルにあるように、勧告の主題は「今日の世界における聖性への招き」だ。教皇はこの勧告で、明瞭な、きわめて重要なメッセ―ジ―肝心なこと、キリスト教徒の人生の真髄は-ロヨラの聖イグナチオ(イエズス会の創始者)がイエズス会士たちに示した言葉を使えば-「すべての事象の中に神を求め、見出す」ことだ。これが、個人、教会いずれの改革においても核心-中心に神を置くこと―である。

 教皇になられるとき、ベルゴリオ枢機卿は、まさにこの理由で「フランシスコ」という名を選ばれた。教皇は、アッシジのフランシスコが担った使命-神を教会の中心に置いた精神的な改革の意味で、教会を”再建”すること-に喜びをもって倣おうとされた。教皇はこの使徒的勧告で述べている-「主は、真の生命を私たちに下さった見返りに、私たち一人ひとりにお創りになった理由である幸せをお望みです(GE1項)。

 この権威のある文書は、「聖性に関する論文-この重要な課題を理解する助けとなるような定義と特質、あるいは聖別のさまざまな方向についての検討などを扱うような論文」を意図していない。教皇の”控えめな目標”は、「私たち自身の時代ために実践的な方法で聖性への呼びかけを、リスクと課題と機会とともに、再利用すること」(GE2項)だ。そしてこの意味で、教皇は「この文書が、聖性への強い希望を作り出すために教会全体を捧げることを可能にすることで助けとなる」(GE 177項)ことを期待している。後で分かるように、このような教皇の強い思いは、心を打つような洞察に裏付けられている。

 この使徒的勧告は、5つの章から成っている。出発点は、全ての人に対する「聖性への招き」だ。ここから、私たちは、聖性を選良主義、知的あるいは篤志の形に変える「二つの狡猾な敵」の明確な身元証明へと進む。それから、福音書のイエスの山上の説教で示された八つの幸福の教えを聖性の肯定的なモデルとして提示する-それは「主の光に照らし出された」もので、あいまいな宗教的イデオロギーではない。つぎに、勧告は、現代世界における聖性のいくつかの特徴-忍耐、柔和、ユーモア、勇気、熱情、共同体生活、そして絶えざる祈り―に言及する。そして、勧告は、霊的生活における「闘い、警戒、そして識別」への言及で締めくくられている。

 勧告は、読みやすく、込み入った説明を必要としない。だが、この短い解説で、文書の提示と同じように、私は何よりも、イエズス会士、司教、そしてついに教皇となったベルゴリオの司牧的省察の中にあるルーツを示したい。そして、そうすることで、勧告の中心テーマと、現代の教会に教皇が発出を希望する明確なメッセージを確認したいと思う。教皇フランシスコにとって何が聖性なのか?どこにそれが生きていると見ているのか?どのような形、どのような前後関係で?どうやって、それは定義されるのか?

*聖性が働く通常の場とは

 聖性は、教皇フランシスコの就任当時から、教皇職の核心になっている。教皇就任から5か月経った2013年8月の本誌 La Civiltà Cattolica とのインタビューで、教皇は、聖性について詳細に語っている。その中心部分の次のようなくだりを再読するのは、勧告の理解に役に立つ。

 「私は、神の民の中に聖性を見ます」。そして、さらに踏み込んでこう語られた-「私は、神の民-子供たちを育てる女性、日々の糧を家に持ち帰るために働く男性、病気の人、たくさんの傷を負いながら種に奉仕することで笑みを浮かべる高齢の司祭たち、懸命に働き隠れた聖性を生きるシスターたち-の忍耐の中に聖性を見ます。

 私にとって、これは通常の聖性です。私はしばしば、忍耐を聖性と結びつけます-それは、人生の様々な出来事や置かれた環境の重荷をhypomoné(我慢)する忍耐だけではなく、日々、前に進み続ける確固とした忍耐でもあります。これは聖イグナチオが語っている「教会の闘士」の聖性です。これは私の両親たちの聖性でした-私の父、私の母、私にとても良くしてくれた祖母ロサの聖性です。私の聖務日課書には、ロサおばあさんの遺言が書かれており、それをよく読み返します。私にとって、祈りのようなものです。彼女は多くの苦難に、道徳的にも、耐えた、慈愛に満ちた人で、いつも勇気をもって前に進みました」。

 このような言葉の中に、勧告 Gaudete et Exsultateの基調と意味、霊的な雰囲気、実際的な応用を知ることができる。教皇はインタビューで、それを鮮明にしている-「”聖なる中流階級”が存在します。私たちはみな、マレグが書いているように、それに属し得ます」。教皇はご自分が大切にしておられる20世紀フランスのカトリック作家、ジョセフ・マレグ氏の著作を引用している。同氏は1876年に生まれ、1940年に亡くなっているが、Gaudete et Exsultateでも、その著作が引用され、「私たちの隣に住む人たち、私たちの真ん中で暮らしている人たちに見つかる聖性は神の臨在を映します」(GE7項)と表現されている。

 メレグは著書「Agostino Meridier」でこう書いている。「聖人たちの魂のみが、宗教的現象を的確に探究するための適切な場となる、という古い考えは、彼にとって不十分と思われる。最も謙虚な魂でさえ、何らかの価値を持っている。聖性の通常の世界でさえも」と。

 だから、聖性は、理想的、抽象的あるいは超人的な模範的人物ではなく、日常の生活の中で、私たちのそばにいる人たちの中に探し求める必要があるのだ。教皇は2016年5月24日のご自分の宿舎、サンタマルタの家での説教でこう話された。「聖性の道は単純明快です。後戻りするな、いつも前に進め。そして力強く」と。これより前、2013年10月14日の説教では「ドライ・クリーニングされた、清潔で、きれいな聖性」に矮小化されるべきではない、とされ、2015年3月5日には「偽りの聖性」と批判されている。私たちは誤りのない完璧な人生(GE22項参照)にではなく、「常には完璧でない生き方をし、過ちと失敗の最中にあっても、前に進み続け、主に対して喜びを証しする人たち」(GE3項)に注意を向ける必要があるのだ。

 先の私たちのインタビューで、教皇は、前任者の教皇職の自己犠牲で示した聖性についてこう語った-「教皇ベネディクトは聖性、偉大さ、謙遜の業をなさいました」。聖性は、謙遜と偉大さを共にもたらし、一般の労働者、祖母、あるいは教皇に、当てはめることができる。それは、同じ聖性だ。おそらく、ベルゴリオもまた、このことをマレグの著書から学んだのだろう。マレグはこのように書いている-「告白することで罪を赦したのがイエスであったから、聖性に関する限り、アルスの主任司祭(Curé dArs)(聖ヴィアンネのこと)の魂と私の魂は、無限なる創造主から等距離にある」。普通の人の魂と祭壇に立つ名誉を受けた人の魂の間にも、非対称や天国への距離の差は存在しないのだ。

*”民”の聖性

 教皇フランシスコは私たちに、聖性がいかに孤独の産物へないかを理解させてくれる-聖性は、神の民の生きた体に住むのだ。1982年に出版した文書の中で、ベルゴリオ神父は「私たちは聖なる体において、聖性を目的に創造されました-その体とは、私たちの聖なる母、教会です」と語り、聖性とは「その人の体への神の訪れのこと」と端的に説明している。今回のこの勧告で、教皇はこのように書いている-「だれも、孤立した個人として、一人で救われることはありません。そうではなく、人間社会に存在する個人同士の関係の複雑な構造をお考えになりながら、神は、私たちをご自身に引き寄せられます。神は、民の人生と歴史に入っていくことをお望みになるのです」(GE6項)。

 それで、私たちは「証しする人々の偉大な群れ」に取り巻かれ、彼らは私たちを「目的地に向かって絶えず前進させる」(GE3項)のだ。2013年に出された使徒的勧告『Evangelii Gaudium (福音の喜び)』(EG)での教皇のことばが、ここに反映されている-教皇はEGで、「ともに生きることの神秘」「混ざりあい、出会う神秘」「腕に抱き、支えあう神秘」「混沌とした潮流に踏み込む神秘」について書き、混沌の中で、それらが、兄弟愛の真の体験、連帯の一団、聖なる巡礼になりうる」(EG87項)と述べている。

 人々のこのような経験は、私たちの次に来る人々とかかわるだけでなく、私たちの先に歩んだ人々を含めた生きた伝統を土台にしている。

 ここで、教皇は、ご自身の二冊目の著書、1987年に書かれた『 Reflexiones sobre la Vida Apostolica』の序文で示された直観を展開していた。その中で、私たちの先人について、このように書いた。

 「男性たち、女性たちの世代から世代へ、私たちのような罪びとたち」は、「日々の生活で多くの試練を生き、闘い、希望の光をどのようにして次の人に渡していくかを知りました。そしてその光が、私たちのところに来ました。それを次の人に実り多く伝えていくのが、私たちの番なのです。ほとんどの男性たち、女性たちは歴史を記しませんでした。一生を通してただ働き-自分たちが罪びとだということを知っていたので―希望の中で救いを歓迎しました」。

 そして、人々は、教理だけでなく、何よりも大事なのは、「日々の事柄に対処した愚直さ」をもって証言を伝えた、と述べていた。

 彼が愛好するフランスの作家の著書を再度引用して、ベルゴリオ神父はこのように書いている。「私たちは、彼らの名前を知りません。彼らは信じる者の民、日々の聖性を代表しています-マレグが好んで使った『聖性の通常の仕方』で。私たちは、彼らが過ごした日々、年月のささやかな物語を何も知りませんが、彼らの命は私たちの中で花を咲かせています。彼らの聖性のかぐわしい香りが私たちのところに届いています」。

 この著書が書かれた30年経った今、この使徒的勧告 Gaudete et Exsultateに同じ表現がされている。そして、それは、ベルゴリオの中にある聖性についての洞察が深い根源をもっていることの証しだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年4月11日

・カトリック教会で女性の役割に変化の動きー女性たちが声を上げ始めた(CRUX)

 Signs suggest a turning point on the role of women in the Church
(2018.3.8 CRUX CONTRIBUTING EDITOR  Claire Giangravè)

ローマ発―カトリック教会内部での女性をめぐる緊張は信徒の生活の中で長い間存在してきたが、バチカン内外の会議や集会、そしてかずかずの不正を暴くメディアの発信などの活発な動きは、この問題が大きな転換期を迎えていることを示している。

 このほどローマで行われたVoices of Faithの会議に出席した女性たちは 「カトリック教会は大変重要な岐路にさしかかっている」と言い、また女性に焦点を当てているバチカン誌の編集者は「教会内文化革命」が起きようとしている、と語っている。時を同じくして、バチカン内で開かれていたラテンアメリカ司教会議には、女性の役割についての討議のために40人の女性が招かた。

 これら女性の役割の展望はそのトーンや集中度の違いこそあれ、一つの共通した脈路は見えてきた「変わる時代が来た」と言うことだ。カトリック教会は「#MeToo」のような世界中で声の上がった熱いフェミニスト運動だけでなく、内部からの重大な変化にも直面しているのだ。

(注・#MeToo=ハッシュタグミートゥー=は、「私(me)も(too)」を意味する英語にハッシュタグ( #)を付けた言い回し。 セクハラなど性的虐待の 被害体験を告白・共有する際にソーシャル・ネットワーキング・サービスで使われる。 2017年10月、ハーヴェイ・ワインスタイン( ハリウッドの映画プロデューサー)によるセクハラ疑惑が報じられたことを受け、女優の アリッサ・ミラノが同様の被害を受けたことのある女性たちに向けて’me too‘と声を上げるよう呼びかけたのが、きっかけで、世界的な動きになった)

Voices of faith会議
過去4年間、カトリック教会内の 重要で、女性に関する最も進歩的な地位の多くを代表する女性たちが参加するVoices of Faithの年次会議がバチカン内で開催されていた。ところが、バチカンの信徒評議会と家庭評議会が統合されてできた「信徒・家庭・いのちの部署」の長官であるケビン・ファレル枢機卿が、会議が指名した11人の講演者のうち3名を承認せず、会場をバチカンの外、テーベレ川を越えたイエズス会本部に移さざるを得なくなった。

 アイルランドのメアリー・マカリース元大統領は、多くの問題の中でも、とりわけゲイの権利を擁護しているために「好ましからざる人物」とされていたが、水曜日の記者会見で、女性が”be there when the sausage is made”(聖変化に立ちあう)司祭職のような、より重要な役割を担えるよう、カトリック教会に要求した。「我々、話を聞いてもらえない者たちは、発言のルートを与えられないシステムの中で発言しようとしているのです」と述べ、第二バチカン公会議、世界人権宣言、そして教皇たちの”恩着せがましい約束”の後も、何年にもわたって、意見を聞いてもらうための場所を与えられていない、と訴えた。

 Voices of Faithのシャンタル・ゴッツ事務局長は、女性たちが性的虐待、ハラスメントや不平等に対し、ますます抗議の声を上げるようになっている今、女性団体は「変革の必要が差し迫っている、とはっきり言っており、危機的局面に達している」と言明。危機は、女性の召命が減少し続けていることにも表れているが、「これは教会が女性に適切な役割を与えることができないことの結果です」と付け加えた。

修道女たちの反乱
『Ten Things Pope Francis Proposes to Women(教皇フランシスコが女性たちに示す10の提案)』というスペインで出された本の序文で、教皇は「社会の中にしつこく残る男性優位主義的な精神性 が、カトリック教会の中にも広く存在し、 女性に求められる奉仕が、時に奴隷的な仕事に変質している」と警告した。

 バチカンの半公式新聞『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』が発行している月刊誌『Woman Church World』3月号では、この教皇の見解をさらに詳しく解説し、世界中で「時に年金や正当な給与も与えられないまま、男性の聖職者に隷属し、”家内労働”で終わってしまう修道女たち」の冷遇、軽視された実情を記事にしている。例えば、シスター・マリーという名の修道女は「聖職者のためにどれほど尽くしても、その食卓に呼ばれることはほとんどありません」と訴えた。

 Woman Church World編集者のルセッタ・スカラフィア女史は、Cruxのインタビューに「カトリック教会内の女性の問題は昔からありましたが、今、それがますます大きく明らかになってきています。修道女たちが昔のように言いなりでなく、今起きていることに関心をもっているからです。そして、変革を要求しています」と語った。中高年の世代とは異なる教育と人生の経験をした若い女性たちだけでなく、年上のシスターたちも女性問題に関心をもつようになっており、「彼女たちが置かれている立場に怒りを覚えている80歳から90歳のシスターたちに会いました。今まさに、シスターたちが、本当の女性の権利を求めているのです」と語る。

 「さらに、こういう話をいつも聞きます。男性聖職者に従事するする仕事から離れていく修道女たちの動きを『自発的追放』だというのです。これを、外の世界に影響された『修道女たちの反乱』とするのは間違いです。#metoo運動に影響されるほとんどの女性信徒と違って、修道女たちは 女性の学者たちの聖書の解釈学的、神学的な著作をもとにした、彼女たち自身の革命を作り出しているのです」。さらにこう指摘する。「福音書を、あるがままに読むことで、彼女たちはどんなに不正な待遇を受けていたかを感じるのです」。女史によれば、要点は「内面的な文化革命」ということなのだ。

バチカンの女性たち
Voices of Faith会議でカトリックのフェミニストたちがバチカンの「閉鎖された盾」を打ち砕く約束をし、ニューヨークタイムズはシスターたちの公民権剝奪状態を特集した一方、バチカンそのものは粛々と教皇フランシスコの対話路線に沿って進んでいる。

 例えば、ラテンアメリカ司教会議 (CAL) では、「ラテンアメリカの女性たち、カトリック教会の仕事のコラム」と題し3月6~9日にかけ総会が開かれ、社会における主要な女性の問題について40名の女性を含めて話し合われた。教皇フランシスコが、コロンビアのボゴタで60名のラテンアメリカの司教たちへの演説の中で、女性に対し男性優位的態度を意味する「machismo」を非難したことで議題に取り上げられたのだ。
異なる宗教や、カトリック信徒の40名の女性たちが議論に参加し、3月9日には教皇謁見する。世界女性の日に当たる今日は、会議の参加者たちが、バチカンで勤務する多くの女性たちと夕食を共にすることになっている。CALでは、より多くの女性を起用するために、教皇がこのほど示した案件をもとにして、議論を進める。

 教皇フランシスコは昨年、女性助祭の実現可能性を検討するための男女からなる委員会を発足させる一方、「信徒・家庭・いのちの部署」の次官に二人の女性信徒を起用した。だが、スカラフィア女史によると、教皇の助言機関である枢機卿顧問会議(C9)に対する女性の発言を認めることや、司教の任命の検討に修道女や女性宣教者を参加させることなど、まだ解決されていない課題が残されている。「このような問題への取り組みが行われなければ、カトリック教会は早晩、重大な結果を招くことを覚悟しなければならないでしょう」とし、「沈黙での自己満足は、もう終わろうとしているのに、司祭たちはそれに気づいてさえいません」「すべてが自分たちの手の中で破裂しようとしていることに、分かっていないのです」と訴えた。

教皇フランシスコと女性たち
カトリック教会での女性の参加を増やそうとする教皇フランシスコの役割については、希望から失望まで意見は様々だ。

 ゴッツ事務局長は教皇の積極的に対話に臨む姿勢を評価し、教皇フランシスコの女性参加への関心に対して楽観的な意見だ。「私は教皇が女性たちに耳を傾け、カトリック教会の時代遅れの女性恐怖を克服するためのリーダーシップを取ってほしい、と願い続けます」と言う。

 一方で、マカリース元大統領は「教皇フランシスコは、『だんだん消えて、ついには失望に終わる』という道程をたどっています」とし、「教皇が進める聖職者による性的虐待への取り組み、 家庭に関する使徒的勧告『Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び』の発出でも、何も事態は変わっていない」と悲観的な見方をとっている。

 だがまた、スカラフィア女史は、教皇フランシスコによる二つの重要な動きが「カトリック教会の女性たちの役割に深いインパクトを与えました」と語る。一つは、司教あるいは司教によって特別に指名された司祭だけでなく、すべての司祭に、堕胎の罪の赦しすることが認められたこと。もう一つは聖マリア・マグダレナの記念日を、男性の使徒たちの祝日と同じレベルの祝日に格上げしたことだ。そして、こう付け加えた。「まだ教皇ができずにいることがあります。それは女性たちが言わねばならない言葉を聞くこと」だと。

(翻訳・岡山康子)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

2018年3月17日

・言論NPO東京会議のG7首脳会議に向けたメッセージ

(2018 / 03 / 11 言論NPO)「東京会議2018」公開フォーラムの最後に、「北朝鮮の核保有を容認するいかなる声にも賛同しない」など5項目からなる「カナダでのG7首脳会議に向けた緊急メッセージ」が言論NPO代表の工藤泰志より発表され、今年のG7首脳会議議長国であるカナダのナディア・ブルジェー・在日カナダ大使館首席公使に手交されました。

カナダでのG7首脳会議に向けたメッセージ

 世界を代表する10のシンクタンクが、東京に再び集まったのは、自由や民主主義、法の支配、人権の尊重という、戦後世界を支えた共有された価値、規範が動揺し、リベラルな世界秩序が不安定化し、それがどこに向かうのか、未だに見えない状況が続いているからである。そうした局面だからこそ、自由と民主主義、そして多国間主義の価値に基づく世界を目指して、10カ国のシンクタンクが力を合わせなくてはならないと考えた。
米国の現政権は依然、アメリカ第一主義であり、多国間主義に伴う国際協力や自由貿易の前途に不安を与えている。権威主義的な傾向を強める国も存在する。国際社会は、難民、地球環境、感染症、大量破壊兵器の拡散など国際協力無くして解決できない喫緊の課題にも対応しなければならない。
この二日間、私たちは議論し、多くの点で共通の理解を得た。

 一つは、自由と民主主義が持つ今日的な重要性である。
個人の自由や権利を守りながら、世界の利益を各国内のより多くの人に包摂的につなげることは、人類の使命であり、人類の財産となる。グローバリゼーションと技術の急速な進歩は、世界の共通利益でありながら、雇用の不安や格差の拡大という課題を生み出している。そうした時だからこそ、個人の自由と平等、多様性を尊重する民主主義の今日的な意義を問い直し、その促進に努めるべきである。
もう一つは、世界はもはや自国第一主義や、ゼロサムでお互いに悪影響のある重商主義的な勢力拡大の過去に戻ることは許されないということである。
世界の相互発展のためには多国間主義に基づく国際協力、自由でルールに基づく開放された経済こそが必要であり、その中でグローバリゼーションと国内の利益を調和させる努力が今、各国政府に求められている。

    私たちが今年6月にカナダで行われるG7首脳会談に向け、議長がメッセージを出すことにしたのは、G7こそがこの自由と多国間主義、そして民主主義という規範を尊重し守るための実効性のある強いメッセージを世界に発信し、その実現のけん引役になるべきと考えるからである。
もちろん、これらの規範を支えることを、政府に期待するだけでは不十分である。知識層やジャーナリズム、そして市民と力を合わせて、今直面する自由と民主主義の試練に真剣に立ち向かい、行動すべきである。
この「東京会議」に集まった10カ国のシンクタンクは各組織の規定の範囲内で議論に参加することで合意している。
この立ち位置から私たちは、以下の5点に焦点を当てた。

 第一に、G7各国は、自由と民主主義、法の支配および人権の尊重という共通価値の重要性を再認識し、その下での結束をさらに強化すべきである。
さらにG7は、多国間主義に基づく国際協力の枠組みを守り、国連や様々な国際組織がこれまで築き上げてきた国際秩序を維持する根源的な役割を積極的に支えながら、同時に規範に基づく国際秩序を追求すべきである。

 第二に、G7各国は、保護主義的な行動が報復的な行動を招くなど、世界経済、国際秩序に取り返しのつかない影響をもたらしかねないことを重視し、公平な競争条件や質の高いルールに基づく自由貿易をさらに発展させる努力を行うとともに、あらゆる形態の保護主義には対抗する姿勢を示すべきである。

 第三に、G7各国は、グローバリゼーションが、世界全体の包摂的な成長や持続可能な成長につなげるために、当面の主要国の金融政策の動向などにも注意しながら、成長の促進と分配の両面で足並みを揃える必要がある。我々は新たな大きな変革を伴う技術革新が、できる限り健全な社会に貢献できるよう、努力しなければならない。

 第四に、北朝鮮の核開発は世界の平和やNPT体制への決定的な脅威であるとの認識の下に、北朝鮮の非核化と平和的解決に向け、G7は結束して取り組む必要がある。米朝首脳会談の動きを歓迎するのはその目的のためであり、北朝鮮の核保有を容認するいかなる声にも賛同はしない。

 第五に、G7各国は、ルールに基づいた世界のリベラル秩序を維持し、持続的で包摂的な世界の発展を作り出すためにも、世界の利益と国内利益を、バランスを持って考えられる強靭な民主主義を作り上げることが重要である。規範を守り、課題に真摯に立ち向かう政府の不断の取り組みは、市民社会との対話を通してより多くの人の支持に支えられるべきものである。

カナダ政府が設定する5つのテーマ

 「緊急メッセージ」を受け取ったナディア・ブルジェー・在日カナダ大使館首席公使は、同国のジャスティン・トルドー首相が今年のG7サミットにおいて設定しようとしている5つのテーマについて説明。

 まずその一番目として、「すべての人々にとっての成長に資する投資」を挙げ、「長期的な視点から『包摂的成長』を実現するためにはどうすべきかを考えなければならない」と語り、『これはG7にとっての義務である』とその重要性を強調しました。

 二番目として、「将来の雇用に備える」ことを挙げ、グローバリゼーションに伴う雇用構造の変化や、人工知能(AI)に代表される革新的技術が台頭する中で雇用をどう守るのか。とりわけ、教育や職業訓練などを通じた対応整備の必要性を指摘しました。

 三番目としては「女性の社会進出」を挙げ、これは一番目の包摂的成長にも関わる重要テーマであるし、実際にカナダ自身も非常に力を入れている課題であると説明しました。

 四番目には、「海洋環境」を挙げました。人類が共に繁栄していく上では、共通の資産である海洋の保全が不可欠であり、新たな環境管理手法を考える必要があると述べました。

 そして最後の五番目として、「より平和で安全な世界の実現」を提示。「平和と安全」はすべての人々にとって恩恵をもたらすものである以上、国際紛争がます
ます複雑化する今日の状況においては、「G7こそが意思を統一してコミットしていかなければならない」と強調。そしてその際には、民主主義や基本的人権の尊重、ルールベースの世界秩序の維持といった既存の価値や規範を強く意識しながらのコミットメントにならなければならないと指摘しました。

 ブルジェー氏は最後に、そうしたカナダ政府の方針とも合致する今回の「緊急メッセージ」に対して感謝の意を示すと同時に、「本国に持ち帰って必ず活用する」と確約しました。

 シンクタンクの英知を結集すれば、どんな困難な課題解決も可能

 その後、閉会挨拶に登壇した言論NPO理事の近藤誠一氏(近藤外交・文化研究所、元文化庁長官)は、「人類は現在、かつてないほどの大きなチャレンジを受けており、多くの人々が不安にさらされている」と切り出した上で、そうした状況の中では依然としてG7には世界秩序の維持のために強いコミットメントが求められると語りました。

 しかし同時に、「もはや国家だけではすべて解決できる時代ではない」とし、非政府の役割の重要性を強調。そして、「今日の議論を聞いて、シンクタンクの英知を結集していけば、いかなる課題に対しても答えを導き出せると確信した」とこの「東京会議2018」の成功を力強く宣言し、4時間半にわたって繰り広げられた白熱した議論を締めくくりました。

2018年3月13日

・北朝鮮の核開発の放棄と戦争回避のシナリオをどう描くか /「東京会議2018」第2セッション報告

(2018 / 03 / 11 言論NPO)

 公開会議の第二セッションは、藤崎一郎氏(日米協会会長、元駐米大使)による司会進行の下、「北朝鮮の核開発は世界の脅威なのか―核開発の排除と戦争回避のシナリオは描けるのか」をテーマとして議論が行われました。

 議論に先立ち、小野寺五典・防衛大臣による問題提起が行われました。

米朝首脳会談実現でも楽観はできない

 小野寺大臣はまず、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長による米朝首脳会談実現の見通しが立ったことに対して、非核化進展に向けた期待を寄せつつ、「これまでの北朝鮮を見れば決して楽観はできない」と切り出しました。

 その背景として、これまでの北朝鮮による核・ミサイル開発の動きについて概観。1993年のNPT脱退とノドンミサイルの発射実験以降、国際社会との交渉に応じる素振りを見せつつも、それを裏切り続けながら時間を稼ぎ、着実に開発を進展させてきたと振り返りました。

 とりわけ、この2年間の核・ミサイル能力の向上は著しく、ICBMに関しては米欧も射程に収めるなど、北朝鮮は「日本のみならず、国際社会全体にとっての平和と安全を損なう大きなリスク」となったと位置付けました。

 しかし、近年の国際社会の一致した制裁と圧力強化、そして、日本自身もいわゆる「瀬取り」という公海上での船から船への物資・エネルギーの受け取り行為を海上自衛隊が監視し、発見次第国連安保理に対して通報するなど、着実に対応してきたことが、今年に入ってからの一連の北朝鮮の融和的態度を引き出したと評価しました。

もっとも、1994年の枠組み合意、2005年の六者会合共同声明も核・ミサイル開発のための時間稼ぎに使われてきたという苦い反省に言及し、「今回の対話も対話のための対話、時間稼ぎのための対話では意味がない。本当に非核化を前提とした対話を真剣に行おうとしているのか、見極めなければならない」と注意を促しました。

25年前の反省と教訓に基づく日本政府の取り組み

3.jpg そして、日本政府の対応としては、北朝鮮が、「完全で、検証可能かつ不可逆的な方法」で、核・ミサイル計画の放棄にコミットし、非核化に向けた具体的な行動を示すまで圧力を継続していくという、従来から示してきた立場に変わりはないことを強調。さらに、こうした基本的な方針は日米韓で共有されているため、引き続き他の関係各国とも連携しながら、圧力を最大限まで高めていく方針を示しました。

 また、個別の安全保障政策については、その前提として25年前の反省点として、危機に際して、二度の政権交代があるなど、政治的な混乱があったことと、法制度面でも危機に対する備えができていなかったことを挙げました。そしてその結果、1994年の枠組み合意の下では、日本は主体的なプレーヤーとなることなく、「多額の費用負担を担う役割にとどまった」と振り返りました。

 その上で小野寺大臣は、そうした反省と教訓に基づいたこれまでの日本政府の取り組みを紹介。周辺事態法の制定から始まり、武力攻撃事態法、さらには三年前の平和安全法制を始めとした様々な法整備、二度にわたる日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定を始めとする日米同盟体制の強化、BMDシステムや、イージス艦とPAC―3、イージス・アショアの導入促進などからなる防衛体制構築などをその例として挙げました。

 そして、アメリカのマティス国防長官の「防衛力の強化は、外交の後ろ盾となって国際問題の外交的解決に資するためにある」という考え方に賛同を示しつつ、「今後も我が国の防衛に万全を期す」、「融和ムードに気を許すことなく、真に核放棄するまで北朝鮮に圧力を加え続け、世界の成長センターであるこの東アジアに平和を実現する」などと宣言しました。

 小野寺大臣は最後に、居並ぶ世界のパネリスト達に対し、米朝首脳会談実現の見通しが立った直後のまさにこのタイミングで行われるこの「東京会議」は世界中の注目を集めることになるとした上で、「是非、問題解決に向けた処方箋を示してほしい」と大きな期待を寄せ、問題提起を締めくくりました。

 続いて、北朝鮮問題における重要なプレーヤーになるであろう日本、中国、韓国、アメリカから6名のパネリストによる冒頭発言が行われました。

まず、認識を共有すべき

 まず、日本から宮本雄二氏(宮本アジア研究所代表・元駐中国大使)が登壇。宮本氏は北朝鮮が対話路線に転じたことは、国際社会の一致した圧力の成果であるため、今後も一致した対応が重要になるとした上で、「そもそもなぜ北朝鮮に核放棄をさせなければならないのか。対応を一致させるためにはまず認識を一致させる必要がある」と語りました。

 宮本氏は核放棄させなければならない理由としてまず、核を持つことによって最小核抑止力を得て、核を保有する超大国に対しても「行動の自由」を得てしまうことを挙げました。

そしてその次には、核の世界的な拡大という危機を指摘。自国第一主義を掲げるトランプ政権下のアメリカに対し、「有事の際、本当に同盟国を守ってくれるのか」という疑念が高まる中、仮に「もはやアメリカは頼りにならない」と感じさせる事態が起きた場合、日韓も核武装する可能性が浮上すると指摘。そうした状況になると台湾も追随する可能性もあるため、「東アジアの戦略環境は激変する」と懸念を示しました。

しかも、核保有願望がある国は、中東や南米、アフリカまで世界中にあるため、それらの国々も続き、そこからテロ集団に核兵器が渡ってしまうというリスクもあると指摘。だからこそ、核拡散の引き金となり得る北朝鮮の核保有は「何が何でもここで止めなければならない、という共通認識を持つ必要がある」と強く訴えました。

20年の時間を得てしまった北朝鮮

 西正典氏(元防衛事務次官)は、北朝鮮が対話路線に転じた背景には、「もうすでに必要な核・ミサイル技術は獲得したという自信があるのではないか」と分析。その上で、今後の対話の難しさを指摘しました。

 具体的にはまず、北朝鮮が求めていると見られる「体制保証」について、「それはすなわち、朝鮮半島が分断された状態を所与のものとして受け入れるということを意味するが、それでいいのか」と問題提起。

さらに、これまではアメリカの「核の傘」による拡大抑止が機能してきたが、「一方、北朝鮮は自分で『傘』を差している状態になったが、この北朝鮮に対しては誰が傘を被せるのか。わけのわからないロジックになってくる」と指摘しました。

その上で、今後の米朝首脳会談はそうした「トラップの多い状況」で開催されることになると警鐘を鳴らすと同時に、会談実現によって北朝鮮は「さらに20年の時間を得てしまった」ために、今後に対しては「悲観的にならざるを得ない」と率直に吐露しました。

米中首脳会談でアメリカは何を要求するのか

 続いて、中国からは劉鳴氏(上海社会科学院国際関係研究所所長)が発言。劉氏はまず、米朝首脳会談の実現を「衝撃」とその驚きを表現しましたが、日本側の見方とは異なり、制裁や圧力の成果として北朝鮮が対話路線に転じたのではなく、「昨年からすでにそうした対話の意思は示していた」と指摘。ただ、このタイミングとなったのは西氏と同様にICBMプログラムが完成に至ったからであるとの見方を示しました。

 そして、北朝鮮が何を要求するのかはもう分かっているため、米朝首脳会談の焦点は、「アメリカが何を要求するのか」になると分析。その上で、アメリカの意図は「非核化には時間がかかるため、今回の会談でとりあえず当面の状況をコントロールし、それから徐々に非核化に取り組むのではないか」と語り、プロセスを遅らせることが主目的となると予測しました。ただ同時に、トランプ氏、金正恩氏ともに「予測不能」であるため、「二人の動きを注視する必要がある」と付け加えました。

制裁のスクラムを今度こそ崩さないことが大事

 韓国の尹德敏氏(韓国外国語大学校首席教授)は、25年前、国際社会が圧力をかけた結果、当時の金日成主席とカーター元米大統領が会談し、さらに南北首脳会談も行われたことを振り返り、「現在と同じ流れだ」と切り出しました。しかし、当時と今で決定的に異なることとして、「北朝鮮はすでに核、さらには日韓を射程に収めるミサイルを1000発以上保有している」ことを指摘しました。

 こうした状況の中、なすべきこととしては国際社会の連携した制裁継続を挙げましたが、同時に「これまでも制裁すると言ったにもかかわらず、日中韓米いずれも人道支援の名の下に北朝鮮を支援したことがあった」と振り返り、「同じ轍を踏まないように、今度こそ制裁をしっかりと維持する必要がある」と強く訴えました。

言葉だけではなく、行動で示すまで制裁を続けるべき

 同じく韓国の文聖默氏(国家戦略研究統一戦略センター長)は、北朝鮮の最大の目的は、「北主導の朝鮮半島統一と、それに対する最大の障害である米韓同盟の破壊」との見方を示した上で、その鍵を握るものが核保有である以上、「本当に核放棄の意思があるのだろうか」と疑念を示しました。したがって、米朝首脳会談では「アメリカ本土に届くような核ミサイルは放棄するから、日韓に届く程度の核ミサイルは保有させてくれ」というような交渉をしてくる可能性があると予測しました。

 その上で、これに対する対応としては尹氏と同様に、「一貫した制裁と圧力」が肝要であるとし、同時に、IAEAの査察をこれまでとは違う実効的なものとした上で、一つひとつ着実に核廃棄プログラムを実行しない限り、「決して制裁を解除してはならない。言葉だけではなく、行動で示すまで制裁を続けるべきだ」と主張。さらに、米韓同盟の破壊を狙っているのであれば、破壊されないようにより米韓同盟を強固なものとしていくことの必要性も説きました。

不透明な米朝首脳会談の行方

 最後にアメリカからは、ジェームス・ゴーリアー氏(外交問題評議会(CFR)上級客員研究員)が発言。ゴーリアー氏はまず、トランプ大統領の行動特性について解説。まず、自分のアピールを最優先としていること。米朝首脳会談をティラーソン国務長官ですら知らなかったように、独断で物事を決定し、国内的な意思統一を図るという意識が乏しいこと。オバマ前大統領がやらなかったことをやりたがる傾向にあること。政権内にエキスパートを揃えようとしないし、そもそもエキスパートの話など聞こうとしないことなどを挙げました。

 一方金正恩委員長から見れば、会談実現はこれによってアメリカとスタートラインが対等になるとともに、核・ミサイル能力が全世界に知れ渡ることとなったため、「既に勝利したも同然」であると指摘。こうした状況の中での会談の行方は少なくともアメリカにとっては不透明であると語りました。

 その中で国際社会がなすべきこととしては、「どうも発想が『対話は戦争か』の二択になっているのではないか」とした上で、「他にもやることはあるはずだ。各国が抑止力、防衛力も高めることが大事だし、連携して圧力をかけ続けることも大事だ」と促しました。

小野寺大臣の問題提起と6名の冒頭発言を受けて、司会の藤崎氏は「北朝鮮はこれまで裏切りの連続だったが、どうすれば裏切らないようになるのか。非核化をどう担保するのか。圧力の協調をどう続けるか。こうした様々な課題が山積みであるが、未来志向的なアイディアを出してほしい」とパネリスト達に呼びかけ、ディスカッションが始まりました。

米朝首脳会談は成果を挙げられるのか

 イタリアのエットーレ・グレコ氏(国際問題研究所(IAI)副理事長)は、成長センターである東アジアの平和は世界にとっての利益であること、NPT体制の堅持はEUの戦略上重要であることから、北朝鮮のリスクは欧州にとっても大きな課題であると語った上で、米朝首脳会談で求められるのは「非核化に向けた完全な合意」と「国際的な枠組みの構築」、「IAEAによる実効的な検証の確約」であると指摘。

 しかし、ゴーリアー氏が指摘したようなアメリカ国内の意思統一の欠如から「5月の会談までにしっかりとした準備ができるのか」と懸念を示しました。

 インドのサンジョイ・ジョッシ氏(オブザーバー研究財団(ORF)理事長)も、トランプ政権の交渉力を懸念する同時に、金正恩委員長を「思っていたよりもはるかに狡猾であり、交渉では脅威となる相手だ」と警戒しました。

 劉鳴氏は、金正恩委員長よりもむしろトランプ大統領の方が不確実な要素が大きいため、「トランプ大統領にもプレッシャーをかける必要がある」と指摘しました。

 ゴーリアー氏は、通常の外交プロセスであれば、交渉は下(事務方)から固めていき、徐々に上に行って最後にトップ(首脳)が会談するという流れになるとした上で、「しかし、今のアメリカは全く逆だ」と嘆きました。さらに、トランプ大統領が会談について、negotiationではなく、talkと表現していることに着目し、「5月の会談だけで解決の方向が見えるということはないだろう」との見方を示しました。

 ブラジルのカルロス・イヴァン・シモンセン・レアル氏(ジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV)総裁)も、北朝鮮よりもむしろアメリカの狙いが不透明であるとし、国際社会は今回の会談に一喜一憂することなく、「第2、第3の動きを見据えるべきだ」と語りました。

 イギリスのジョン・ニルソン―ライト氏(チャタムハウスシニアリサーチフェロー)も、この首脳会談で終わりなのではなく、今後も引き続き会談があると予測した上で、「そこには日本の安倍首相も入って行くべきだ」と提言しました。

 また、朝鮮戦争は休戦状態とはいえ続いていることに変わりはなく、そして国連軍が関係している以上、「ワシントンD.C.と平壌だけで交渉すべきではない。国連も役割を果たすべきだ」と主張しました。

今後、非核化に向けて国際社会は何をすべきか

 フランスのトマ・ゴマール氏(フランス国際関係研究所(IFRI)所長)は、北朝鮮の非核化の実現可能性について、イランとの核合意が困難な局面を迎えていることに言及しつつ、「同じやり方では北朝鮮との間でも成功しないだろう」とし、これまでとは異なる発想のやり方が求められると述べました。

 カナダのロヒントン・メドーラ氏(国際ガバナンス・イノベーション(CIGI)総裁)も、ゴマール氏と同様の見方を示しつつ、この北朝鮮への対応が「ならず者国家」対応の新たなリーディングケースとなるため、世界の未来のためにも失敗が許されない重要なミッションになるとの認識を示しました。

 シンガポールのオン・ケンヨン氏(S.ラジャトナム国際研究院(RSIS)副理事長)は、中国が制裁に本腰を入れたことが北朝鮮の方向転換につながったことから、今後の戦略についても同様に中国の役割が重要になると主張しました。

 これに対し、劉鳴氏は「中国もできる限りのことはするが、もうすでに力を尽くしている」とやや消極的な姿勢を見せました。また、軍事行動には大きなリスクがあり、制裁もすでに最大限実施しているために、残された交渉カードは少ないとの見方も示した上で、「あとは金正恩委員長にどれだけ誠意があるか」と語り、今後の動向は北朝鮮次第としました。

 そうした不確実性についてはグレコ氏も言及。金正恩委員長が核保有によって自らの体制と生存を確保できると本気で考えているとしたら「非核化の成果は望めない」としました。もっとも、「それでも何らかのアレンジメントはできるかもしれない」とも語りました。

 シモンセン・レアル氏は、不確実性への対処方法としては、北朝鮮を引き込んだ「ゲームを設定すること」を挙げました。シモンセン・レアル氏は、かつての米ソ関係が対立しながらも安定していたのは、お互いが同じゲームの中にいたために相手の行動に予測可能性があったからであるとし、こうした経験が北朝鮮問題でも大きなヒントになると指摘しました。そして、北朝鮮をゲームに引き込むためには、「インセンティブを与えること」が必要であると語りました。

 文聖默氏は、金正恩委員長は核保有こそが自らの体制を保証すると信じていたが、実際には核開発に資源を集中した結果、多くの国民が苦しみ、国内が動揺している実情を紹介。したがって、シモンセン・レアル氏が言うところのインセンティブに関して、「核がなくても体制は維持できる」と思わせることだと語りました。

 もっとも、文聖默氏はその一方で、体制保証をするということはすなわち北朝鮮国内の深刻な人権問題を放置するということを意味するため、「人権問題について圧力をかけていくことは忘れてはならない」と強調しました。

 ニルソン―ライト氏は、仮に体制保証がなされたとしたら、次に金正恩委員長が目を向けるのは国内経済の安定化になるはずだとした上で、制裁を引き続き行いつつ、経済支援のプランを示すことがインセンティブとして有効になると語りました。

 非核化プロセスの実効性確保についても意見が相次ぎました。特に核査察については、宮本氏は過去の経験から見ても、仮に核放棄を確約させることに成功したとしても、その検証は非常に困難であることを指摘。いかにして新しい実効的なチェック体制を構築するか、という点で知恵を絞らなければならないと語りました。

 ニルソン―ライト氏も同様に、これまでとは異なる意識が必要であるとし、「信頼した上での検証」ではなく、「常に不信感を持ちながら検証」することが大事だと説きました。

課題は他にも

 議論では、その他にも様々な課題が提示されました。北朝鮮の安全保障に関する脅威は他にもあるとの意見も寄せられ、メドーラ氏は、北朝鮮がサイバー攻撃を活発化していることに言及。「北朝鮮が有する危険なテクノロジーは核・ミサイルだけではない」と注意を促しました。

 宮本氏は、政策と世論の間で生じ得る齟齬について警鐘を鳴らしました。そこでは、北朝鮮問題のように複雑化した問題をめぐっては、「政府が考える安全保障戦略の正解と、国民が求める結論の間に齟齬が出るかもしれない。そこをどう埋めるか」と問題提起しました。

 議論を受けて最後に藤崎氏は、「緊急有識者アンケート」を実施。13人のパネリストに対し、北朝鮮問題解決の行末について、「①これからも悲観的」、「②もしかしたらうまく行くかもしれない」、「③わからない」の三択を提示。結果は①4票、②4票、③5票と見方が分かれ、これを受けた藤崎氏は、この問題の難しさを示していると語りつつ、だからこそ今後も継続して議論を続けていかなければならないとし、第二セッションを締めくくりました。

2018年3月13日