・「現代社会で”荒れ野の声”となる務めを自らに再確認する」-菊地大司教、待降節第二主日

2023年12月 9日 (土) 週刊大司教第146回:待降節第二主日B

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待降節の第二主日となりました。

 来週の土曜日には、東京教区に補佐司教が誕生します。ちょうど12月14日と15日には全国の司教が集まっての司教総会と研修会が東京で開催されますので、その翌日となる司教叙階式には、全国の司教様方が参加してくださる予定です。アンドレア・レンボ司教様のこれ方の働きのために、お祈りをお願いいたします。

 今後、私とアンドレア司教様とで行事などは分担していくことになります。その意味で、私にとっては、これまでしばしばあった、午前と午後の堅信式のダブルヘッダーはなくせるかと期待しています。

 なお東京教区の小教区にあっては、基本的に小教区からのリクエストに応じて訪問のスケジュールを組んでいきますので、主任司祭と小教区の役員の方などと相談の上、主任司祭から教区本部の司教秘書にご相談いただきますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第146回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

待降節第二主日B 2023年12月10日

 いまこの世界に、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる預言者は存在しているでしょうか。世界を支配する神の招きに応え、神が与える使命に徹底的に生きる存在はどこにあるのでしょうか。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」の終わりに、「教会が目指しているのは、地上の権力者に対抗することではなく、むしろ『現代世界へ、信仰、希望、愛をあかしするために・・・開かれた、これこそが教会である家庭の中の家庭』として自らを示すことです」と記しています。(276項)

 その上で教皇は、「私たちは、仕える教会、家から出て行く、聖堂から出て行く、香部屋から出て行く教会になりたいのです。いのちに寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるために、橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためにです」と、教会が現代社会にあって、福音を目に見える形であかしすることの重要性を強調されています。

 教会は神の民であるとする第二バチカン公会議の教会憲章は、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、特に信仰と愛の生活を通してキリストについて生きた証しを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を称える唇の果実を神に捧げることによって行われる(12)」としるし、現代社会にあって、教会が預言者的役割を果たしていくことの必然性を記しています。そして私たちは、その神の民を形作る一員です。私たち一人ひとりには、洗礼者ヨハネに倣って、荒れ野で声を上げる務めがあります。

 教皇フランシスコは、聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであることを強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことの命を伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138項)」と記して、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして、重要であることも指摘されています。

 教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げて証しするリーダーとしての司祭や修道者が必要です。

 私たちは現代社会にあって、荒れ野の声となる務めを自らに再確認すると共に、率先して神の民を率いる司祭・修道者が誕生するように、祈り続けていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月9日

・「麻薬特例法違反で教区司祭再逮捕にお詫び、COP28と宣教地召命促進へお願い」菊地大司教メッセージ

2023年12月 2日 (土) 週刊大司教第145回:待降節第一主日B

2023dec2 しばらくお休みさせていただいておりました週刊大司教を、待降節第一主日から再開いたします。

 この間、東京教区ホームページに公示させていただいたとおり、11月8日、東京教区司祭が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕され、さらに11 月29 日に、同東京教区司祭は覚醒剤取締法違反について処分保留のまま、別件の麻薬特例法違反の容疑で再逮捕されました。

  まだ捜査段階であり、逮捕容疑の詳細も詳らかではないため、詳細については現段階では逮捕の事実以上にお知らせできることがありません。教区司祭が法令違反を持って逮捕されるという事態をおもく受け止め、適正な捜査によって真相が明らかにされることを信じながら、捜査に全面的に協力して参ります。皆さまにご心配とご迷惑をおかけする事態となり、大変申し訳なく思っております。心よりお詫び申し上げます。今後、詳細が明らかにされた段階で、随時改めて皆さまにもお知らせして参ります。

  以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第145回のメッセージ原稿です。

待降節第一主日B  2023年12月03日

   私たちのうちで誰1人として、人生の終わりを免れるものはいません。それぞれの人生を、それぞれに与えられた時間の中で生きるとしても、必ず終わりがやってきます。

 限りがある時間を生きていることをよく知っているにもかかわらず、私たちには対処するには困難がつきまといそうな問題への対処を先延ばしにしようとする傾向があります。しばしば、時間が解決してくれるなどと言って、将来の世代へと負の遺産を残してしまってはいないでしょうか。

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘(159項)されました。

 教皇はより良い世界を実現するためには、いま良ければそれでかまわないという刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への何を残していくのかという責任も視野に入れなくてはならないと、次のように指摘されます。「私たちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです」(159項)

 私たちは、どのような世界を後世に残していこうとしているのでしょう。将来の世代との連帯という視点で考えたことがあるでしょうか。この課題に取り組むことは、今の世界で生きる意味を改めて問い直すことを意味しています。楽なことではありません。

 2015年に「ラウダート・シ」を発表されて以来、教皇様は、地球温暖化の問題や気候変動の問題に発言を繰り返されきました。しかし取り組みを先送りしようとする世界の動きに業を煮やし、10月4日に「Laudate Deum(主を称えよ)」を発表され、具体的な取り組みの必要性と、政治に対する積極的な提言の必要性を強調されました。その上で、教皇様は、ドバイで開催される国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に自ら出席されることを表明されました(注*その後、軽度の疾患にかかられ、医師の判断を受けて出席を断念、パロリン国務長官が会議で教皇のメッセージをだいどくすることになった)。

 「目を覚ましていなさい」という主の呼びかけは、未来を見据えて、今を生きる私たちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとることも求める呼びかけです。教皇様と共に地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自らも行動し続けたいと思います。

 教会は12月の最初の主日を「宣教地召命促進の日」と定めています。この日、私たちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

 もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派ですが、アジアのほぼ全体がいまでも宣教地です。その意味でも、日本を始めアジアにおける福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。皆さまのお祈りをお願いいたします。

2023年12月2日

・「シノドス総会は、教会が『教会』であるための、本当のあり方を再確立しようとする試み」菊地大司教の年間第26主日メッセージ

2023年9月30日 (土) 週刊大司教第144回:年間第26主日A

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 シノドス(世界代表司教会議)通常総会に参加するために、ローマに出かけています。10月末日までの一か月間、ローマから、またシノドスの様子などを報告させていただきます。出発前に準備していた、週刊大司教第144回、年間第26主日のメッセージ原稿です。

【年間第26主日A 2023年10月1日

 この週刊大司教をご覧いただいている9月30日、私はシノドスに参加するためにローマにおります。事前の予定では、9月30日の晩に、エキュメニカルな祈りの集いがあり、その後、10月3日まで、ローマ郊外で参加者全員が集まり黙想会が行われます。10月4日からバチカンで、今回のシノドス総会の第1会期がはじまります。来年の10月には、同じ参加者で、第二会期が行われる予定になっています。

 シノドス総会参加者に聖霊が豊かに注がれ、識別が深められ、教会のためによりよい道を見いだすことができるように、シノドス総会のために皆様のお祈りをお願いいたします。

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 マタイ福音には、父親の命令に対する兄と弟の答えと、実際の行動についてのイエスの話が記されています。兄は命令を拒んだものの、結局、考えを改め、父親の望み通りにしました。しかし弟は、命令に従うそぶりを見せたものの、結局それに従いませんでした。

 イエスは「どちらが父親の望み通りにしたか」と尋ねていますが、神にとって大切なのは、「結果として、神の望みを実現しようと行動すること」であって、表向きに積極的と思われるようなジェスチャーをすることではない、ということを、明確にされています。

 残念ながら私たちは、見た目にとらわれて人を裁きます。表向きのジェスチャーに、簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時として、「表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだ」と勘違いすらします。でも、それは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、神の目をごまかすことはできません。

 私たちは、神の望みをこの世界の中で実現するように、本当に努め、行動しているでしょうか。その私たちの姿勢を問いかけているのが、今回のシノドス総会です。

 今回のシノドス総会は、「教会が『教会』であるための、本当のあり方を再確立しよう」とする試みです。教会共同体が愛に満ちあふれ、敬虔で、喜びにあふれているのは、福音を告げ知らせるため、それも言葉の知恵によらずに、主の十字架をむなしいものとしないためであります。

 つまり、交わりの共同体は、それ自体が福音を証しする存在、宣教する共同体、でなくてはなりません。共同体が宣教する共同体であるからこそ、誰ひとり排除されることなく、その交わりにすべての人が招かれるのです。そのためにも、教会共同体は、常に、聖霊の導く方向性を識別することが必要であり、その導きに身を任せることで、ジェスチャーではない信仰のあり方を具体的に生きることが可能になります。

 何か雲をつかむような話をしてしまいましたが、公開されているシノドス総会の討議要綱などに目を通していただき、シノドス総会参加者と共に、みなさんそれぞれの場で、祈りと分かち合いのうちに、聖霊の導きを識別する道を歩んでいただければと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年9月30日

・「神の愛と慈しみのまなざしを、利己心、差別意識、排除の心が遮ることのないように」年間第25主日・菊地大司教メッセージ

2023年9月23日 (土)週刊大司教143回:年間第25主日

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 東京教区では悲しいことに、9月に入って帰天する司祭が相次いでいます。森司教様、西川神父様、古賀神父様に続いて、9月20日には星野正道神父様が73歳で帰天されました。葬儀ミサは9月26日の予定です。どうぞパウロ星野正道神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 星野神父様は、長年にわたり教育界で働かれ、特に白百合女子大学で長く教授を務められました。

 9月はこれで、すべての火曜日が、教区司祭の葬儀ミサとなりました。帰天された司祭の永遠の安息をお祈りいただくとともに、彼らの後を継ぐ後継者が与えられるように、司祭の召命のためにも、どうかお祈りくださいますよう、心からお願い申し上げます。

 それでも新しい司祭は、少しづつではありますが、確実に誕生し続けています。9月23日土曜日の午後には、イグナチオ教会でイエズス会に二人の新しい司祭が誕生しました。叙階されたのはアシジのフランシスコ森晃太郎さん、洗者ヨハネ渡辺徹郎さんのお二人です。おめでとうございます。これからのお二人の司祭としての人生に神様の祝福を祈るとともに、その活躍に期待しています。

 以下、23日午後6時配信の週刊大司教第143回、年間第25主日メッセージ原稿です。

【年間第25主日A 2023年9月24日】

 マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。確かに記されている話では、主人は最初の労働者に一日につき一デナリオンの支払いを約束して雇用したのですから、何も約束違反はしていません。

 しかし実際には、明らかに自分より短い時間しか働いていない労働者が、「自分より先に一デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分にはより多くの報いがあるはずだ」と考えるのは、「支払いが、労働の対価である」という考え方からは当然です。実際、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたら、あっという間に労働争議が発生しそうです。

 しかしイエスの本意は、労働の対価としての支払いのことに無いことは、その終わりの方の言葉によって、少し理解できるような気がします。

 「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

 すなわち、イエスはここで、ご自分の慈しみについて語っておられます。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられた命を、神がどれほど大切にしておられるか。その命に対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、慈しみのうちに包み込む対象であることを、この言葉は明確にしています。

 この世界では、往々にして、数字で見える成果によって人間が評価され、格付されます。それが極端になると、人間の命の価値を、能力の優劣によって決定し、「この世界に役に立たない命には存在する意味がない」という暴力的な排除の論理にまで、到達してしまいます。

 数年前に発生した、障害者の方々の施設を元職員が襲撃し、19人の入所者を殺害する、という事件を思い起こします。犯人の「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ」などという主張が、極端に走った命への価値判断を象徴しています。神にとっては、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造された命は、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

 本日は、世界難民移住移動者の日であります。教皇様は「移住か、とどまるか、を選択する自由」をテーマとして掲げられました。メッセージの中で教皇様は、ヨハネパウロ二世のこの言葉を引用しています。

 「移民と難民のために平和的状況を築くには、まず、移民しない権利、すなわち母国に平和と威厳をもって住む権利の保護に真剣に取り組まなくてはなりません」

 その上で教皇様は「移民難民は、貧困、恐怖、絶望から逃れるのです。こうした原因を根絶し、やむにやまれぬ移住に終止符を打つには、私たち全員が、おのおのの責任に応じて、それぞれが協力して行う取り組みが求められます」と呼びかけておられます。

 すべての命は、優劣の差なく、すべてが神の目にとって大切な存在です。その愛と慈しみは、すべての命に向けられています。神の愛と慈しみのまなざしを、私たちの利己心が、差別意識が、排除の心が、遮ることのないようにいたしましょう。

(編集「かとりっく・あい」)

2023年9月23日

・「『赦し』と『慈しみ」は私たちの生涯の課題」年間第24主日・菊地大司教メッセージ

2023年9月16日 (土) 週刊大司教第142回:年間第24主日A

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 東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は19日の火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

 古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、私にとってはその当時からの知り合いでありました。年齢は私より一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、私が司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに「秋田聖母の日」が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様と私も加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。私がミサを司式させていただきましたので、説教原稿は別掲します。

 以下、16午後6時配信、年間第24主日メッセージ原稿です。

【年間第24主日A 2023年9月17日】

 多分に身勝手な私たちは、自分の過ちは「無条件で赦してほしい」と願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に「赦してしまおう」という気持ちにはなりません。慈しみと赦しは、私たちにとって「生涯の課題」であるとも言えるでしょう。

 本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、赦しと和解について記しています。

 私たちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することができないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ、相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、「自分と神との関係にも深く影響するのだ」と指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、赦しをいただくことはできない。

 私たちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神に赦しを願うことでしょう。しかし神は、神に赦しを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、赦しと和解が実現しなければ、どうして神に赦しを求めることができるだろうかと、シラ書は指摘します。

 マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」というイエスの言葉を記しています。もちろん、「490回赦せばいい」という話ではなく、「七の七十倍」という言葉で、限りない深さを持った神の赦しを示しているのです。またその赦しをいただいたものが、その憐みを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、「他者を裁くものには、神の赦しがないこと」も明示されています。

 私たちは、なぜ、赦し続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、私たちの人生そのものが、「主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだ」と指摘します。

 その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものを赦す慈しみであり、愛するすべての命の救いのために、自らを犠牲にする「愛と慈しみそのもの」の人生です。ですから私たちは、憐み・慈しみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的に赦し、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、私たちが、愛と慈しみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

 「生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度、心を向けましょう。

(編集「かとりっく・あい」=「許す」と「赦す」は、どちらも「ゆるす」と読む同訓異字です。「許す」の意味は、相手の願いや申し出を受け入れたり認めることです。「赦す」の意味は、罪や過失を咎めないことです。聖書でよく使われるのは後者です。ひらがなではこの言葉のニュアンスが伝わりません)

2023年9月16日

・「生きる希望を生み出す『連帯』が、隣人愛の根本にある」菊地大司教の年間第23主日メッセージ

2023年9月 9日 (土)週刊大司教第141回:年間第23主日

2023_09_05_085 年間第23主日となりました。この数日、台風の影響を大きく受けた地域があります。東京教区でも千葉県内で大雨が降り、教会がある地域でも大きな影響があった模様です。今の段階では、教会自体の被害の報告はありませんが、今回の台風に伴う大雨で被害を受けられた皆様に、お見舞い申し上げます。

 東京教区では、先週の森司教様に続いて、8日早朝にセバスチャン西川哲彌神父様が80歳で帰天されました。1年半ほど前、清瀬教会の主任をされていた時に、階段から転落され、その後、入院生活を送っておられました。葬儀ミサは12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行います。西川神父様の永遠の安息をお祈りください。

 以下、9日午後6時配信の週刊大司教第141回、年間第23主日のメッセージ原稿です。

【年間第23主日A 2023年9月10日】

 私たちは、人生の旅路の中で、決して一人で置き去りにされることはありません。私たちは、「世の終わりまでともにいる」と約束された主が、常に歩みを共にしてくださる、と信じています。

 その主は、私たちを共同体へとつないでくださいました。実際に手をつないで歩んでいるわけではなく、実際の人生の旅路では、物理的に一人で歩みを進めることもあるでしょう。しかしわたしたちは、主の名の下に集められた共同体に、信仰の絆で常につながっています。

 この3年間のコロナ禍の間、感染対策のために離ればなれにならざるを得ない事態が続いていたとき、私たちは普及したインターネットによって、互いにつながっているという感覚を持つことができました。私たちの信仰の絆は、インターネットの絆以上の存在です。その絆は、神の与えた掟によって結び合わされているからです。

 パウロはローマ人の手紙に、「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と記しています。その相互の愛の絆によって、私たちは物理的に離れていてもつながっており、世界中の兄弟姉妹とともに、一つの共同体を作り上げています。

 主の名によって集められたその共同体には、主、御自身が常に存在されます。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。

 この主御自身の存在によって結び合わされた私たちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

 私たちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」」とは一体どういうことでしょう。それは、「ただ、ひたすらに優しくすること」でもなければ、「自分の思いを押しつけること」でもありません。自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者が命を生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

 常に共にいてくださる主イエスこそ、私たちが命を生きようとする思いを肯定し、支えてくださる方です。私たちが命を豊かに生きる希望を生み出すことができるようにと、道を共に歩まれる方です。その愛を私たちは心にいただき、主と一致しながら、さらに愛の絆を多くの人へと広げて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年9月9日

・「人間の都合を捨て、神の計画を最優先にする」菊地大司教の年間第22主日メッセージ

週刊大司教第140回:年間第22主日A

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 早いもので、9月となってしまいましたが、まだまだ暑さは続いています。

 9月1日から10月4日までは、教皇様が「ラウダート・シ」の呼びかけに基づいて定めた「被造物の季節」であり、日本の教会はさらに広げて「すべてのいのちを守る月間」としています。教皇様は、今年の被造物の季節の終わりにあたる10月4日、アシジのフランシスコの祝日に、新たなインテグラルエコロジーについての文書を発表される予定と伺っています。

 日本の司教団も、全教会レベルで教皇様の呼びかけに応え、霊的な視点からインテグラルエコロジーの課題に向き合うために、司教協議会に「ラウダート・シ・デスク」を開設し、新潟教区の成井司教様を責任者に任命して、様々な取り組みを始めています。成井司教様の呼びかけを含め、ラウダート・シ・デスクについて、また今年のすべての命を守る月間の取り組みについては、こちらのホームページをご覧ください

 教皇様は8月31日から9月4日までの日程で、モンゴルを訪問されています。モンゴルは、日本からは遠いようで、しかし割と近い国であり、また相撲界などでモンゴル出身者が活躍されています。地政学的には、ロシアと中国に挟まれた地でもあり、この時期、教皇様がモンゴルの地からどういった発信をされるのかが注目されています。。

 9月1日は関東大震災の発生から100年の節目となりました。当時亡くなられた多くの方々の永遠の安息を改めて祈るとともに、教会でもいつ発生してもおかしきないと言われている大きな災害への対応を改めて心しておきたいと思います。いつ起きるのか分からないのが災害です。東京教区にも災害対応チームがありますが、平時から少しづつ備えを進めていかなくてはなりません。ご協力ください。

 また災害などの緊急事態が発生し、パニック状態になるとき、もちろんそこにはヒロイックな助け合いの出来事もあるでしょうが、同時に、先行きの見えない不安が生み出す疑心暗鬼と、心に潜む利己的な指向性が、自らの保身へと人を向かわせるとき、時に流言飛語に踊らされて暴力的な行為を生み出すことがあります。関東大震災の時にも、そのようなパニック状態の中で、朝鮮半島を始め他の地域出身の人たちへの暴力的な行動があったことは当時の裁判などの記録に残されており、人間の負の側面の表れとして、残念で悲しい出来事でありました。

 パニックになったときにこそ、互いに連帯して助け合う世界を実現しようとすることが、神の賜物である生命を守ることにつながります。歴史の中には、世界各地で、災害や戦争などのパニック状態が、人を暴力的な排除差別の行動に駆り立てる事例が記されています。同じことを繰り返してはなりません。そういった排除差別的暴力によって生命を奪われた多くの方々のために、心から祈り、同じ過ちを繰り返すことのないように学びを深め、互いに助け合うことを心に誓いたいと思います。

 以下、2日午後6時配信、週刊大司教第140回、年間第22主日メッセージの原稿です。

【年間第22主日A 2023年9月3日】

 今年の夏は、例年以上の早くから台風の影響があり、特にお盆の帰省時期に台風が重なって交通機関に影響が出たりしました。まだ台風シーズンは終わっていませんから今後どうなるか想像もできませんが、これまでのこの夏の洪水や土砂災害の被害を受けられた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

 「線状降水帯」という言葉も、少し前までは集中豪雨などと言っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。私は30年ほど前に、赤道直下のアフリカのガーナで働いていましたが、日本で言う「夏」はちょうどガーナでは「雨期」でありました。雨期と言っても、朝から晩まで降っていることはなく、午後2時過ぎくらいから、にわかに雲が沸き立ち、すさまじいスコールが降ったり風が吹き荒れたりしたものです。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、まるでかつてのアフリカのような気候になりました。いわゆる「温暖化による気候変動」の結果、なのでしょう。

 気候変動の様々な影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」という文書を発表されました。この文書の副題は、「共に暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

 教皇様は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめ、日本では9月の第一の日曜日にこの祈願日を定めています。またアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として、「被造物の季節」と定められました。

 ここで教皇フランシスコが強調される「環境への配慮」とは、単に、気候変動に対処しようとか、温暖化を食い止めようとか、いう個別の課題にとどまりません。「ラウダート・シ」の副題が示すように、課題は「共に暮らす家を大切に」することです。それは、「この世界で、私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、1人ひとりが真摯に向き合うことに他なりません。

 日本の教会は同じ期間を、さらに視点を広げて、「すべての命を守る月間」として、司教団のラウダート・シ・デスクが、様々な活動を呼びかけています。

 「環境に配慮する」は、今、私たちが享受している生活を変えていくことを意味しており、容易なことではありません。しかし、神が「この世界を創造し守り育み管理するように」と私たちに託された意図を考えれば、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」と私たちも主から叱責されるのは間違いありません。

 主イエスが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われる時、それは私たちに苦行を強いているのではなく、神様の計画を最優先に考えて、人間の都合を捨て去るように求めておられるに違いありません。

(編集「カトリック・あい」)

2023年9月2日

・「自分自身の言葉に責任を持ち、命を生かす言葉を語るものでありたい」菊地大司教の年間第21日メッセージ

2023年8月26日 (土) 週刊大司教第139回:年間第21主日A

En_jpeg_2024_20230824152601 8月も終わりに近づき、そろそろ秋の気配を感じても良い頃なのですが、東京では暑い毎日が続いています。

 先日、「統合」が発表された大阪高松大司教区では、これまでの大阪教区と高松教区とは異なる、全く新しい教区が誕生することになるので、その初代の教区司教である前田枢機卿様も、同様に改めて新しい教区の大司教として、着座をしなくてはなりません。先日発表がありましたが、10月9日の月曜日午後1時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂で、新しい大司教区の設立式と、前田枢機卿様の着座式が行われることになりました。また教区の本部は玉造に、大阪高松大司教区の司教座聖堂は大阪カテドラル聖マリア大聖堂(玉造)となることが発表されています。

 ちょうど私自身は、シノドスに参加するため10月はローマに滞在中のため参加することができませんが、どうか新しい大阪高松大司教区のために、皆様のお祈りをお願いいたします。

 8月18日の夕方6時から2時間ほど、オンラインでそのシノドスの打ち合わせのミーティングが行われました。ミーティングはバチカンのシノドス事務局が主催し、それぞれの大陸別で行われています。アフリカなどは、三日間の実際の集まりを行ったと聞きましたが、アジアは、特に南や東南アジア諸国では休みの季節ではなく、普通の日なので、オンラインで行うことを求めて、結局この日だけになりました。

 シノドスの作業文書の後半には、三つの優先事項と、それぞれの課題が記してありますが、10月のローマでの会議では、参加者全員をこのテーマと課題と言語別に15人ほどずつのグループに分け、基本的にグループでの分かち合いを中心に行うことが示されました。また今回の参加者が、そのまま、来年10月に行われる第二会期にも参加するように求められました。さらに、通常のこれまでのシノドスのように、各国からの報告などは特に行われない模様で、事前に司教協議会からの発表を用意していく必要もない模様です。

 アジアからは参加する枢機卿や司教を始め、司祭、修道者、信徒の参加者も含め、40名以上が参加。その中には、私を含め、日本から3名が参加しました。

 どのような実りが10月の会議から生まれてくるのか想像もつきませんが、聖霊の導きに任せながら、互いに耳を傾け、識別することができればと思います。

 なお先日20日の聖書と典礼の7ページ目に、シノドスについての私のコラムがありますが、そのタイトルがちょっと誤解を招くものになっていたので、訂正しておきます。タイトルは「シノドスの道を歩む教会のゴール」となっています。あながち間違いではないのですが、これだと教会そのものにゴールがあるように読めてしまいます。ゴールは「シノドスのゴール」です。そして本文を読んでいただければ分かるように、ローマで開催される会議が今回のシノドスのゴールなのではなくて、実はゴールは存在しておらず、教会が教会として存在するための姿勢を身につけることを目指してこれからも歩み続けなくてはならないことを記してあります。

 今回のシノドスはこれまでと違い、何かつかみ所がないプロセスのため、様々な憶測を呼んでいます。批判も多く聞こえてきます。しかし、これからの教会の歩みを定める重要な機会である、と感じています。どうか、改めて、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

 以下、26日午後6時配信、週刊大司教第139回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

【年間第21主日A 2023年8月27日)

「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と弟子たちに迫るイエスの言葉は、私たち1人ひとりへの問いかけでもあります。

「あなた自身は私のことをどう考え、どう判断しているのか。自分自身の決断をここで明確にしろ」と、イエスは迫ってこられます。そしてそれは、今の時代に生きている私たちだからこそ、真摯に応えなくてはならない問いかけです。

なぜでしょうか。それは私たちが、あふれんばかりの情報の渦に取り囲まれて生活を営んでいるからに他なりません。いまや分からないことがあれば、ネット上でいくらでも簡単に答えを見い出すことができます。信仰についででさえも、ネット上で問いかければ、誰かが即座に分かりやすい答えを提供してくれる時代です。

そんな時代にイエスは、「あなた方は私を何者だというのか」と問いかけます。つまり、「あふれかえっている情報のどこに、何が述べられていたのかを知りたい」と言っておられるのではないのです。「真偽すら分からない、どこかの誰かが教えてくれた、簡単に理解できる情報」ではなくて、「お前自身は、どう考えるのか」とイエスは迫ります。

「どこかの誰か」が解説してくれる分かりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その言葉に直接耳を傾け、具体的に、個人的に、イエスと出会う中で見い出した「私のイエス」について語るように求めておられるのです。「うわさ話のイエス」ではなくて、「今、そこに生きておられるイエス」について語ることを求めているのです。

私たちがこのあふれんばかりの情報の渦の中で見聞きしていることは何でしょう。無責任な情報の垂れ流しは、前向きな命を生きる力を生み出すよりも、命に対する攻撃や差別を生み出す負の力をより強く持っています。いや、実際に命を奪ってしまうほどの、暴力的な負の力をもって、私たちを、命の尊厳を、軽んじる暗闇に引きずり込もうとしています。

私たちは、自分自身の言葉に責任を持って、命を生かす言葉を語るものでありたいと思います。

命を育む真理の物語は、「どこかの誰かの人間的知恵」から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち「人となられた神の言葉である主イエス」から生み出されます。主の語る言葉を、私たち自身の言葉として語り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月26日

・「神の慈しみ、愛に私たちは信頼を置いている」菊地大司教の年間第20主日メッセージ

2023年8月19日 (土) 週刊大司教第138回:年間第20主日A

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 8月も半ばを過ぎました。今年は荒々しい天候の夏になり、全国的に台風などの影響を大きく受けている地域があります。被害を受けられた多くの皆様に、お見舞い申し上げます。特にこの炎天下で復旧作業にあたられる方々の健康が守られますように、お祈りいたします。

 新潟教区の秋田も洪水の被害を受け、新潟教区の数少ないカトリック学校である秋田市の聖霊高校もあふれた水による被害を大きく受けられました。同じく秋田市郊外にある聖体奉仕会近くでも土砂崩れが発生した、と聞いています。

 9月15日は「秋田聖母の日」で(参加は予約が必要です)、私も巡礼団と一緒に聖体奉仕会を訪れる予定です。今回の災害で、開催も危ぶまれましたが、無事に開催できる見込みです。カトリック新潟教区のホームページには、最新の情報やボランティアの受け付けなどが掲載されていますので、一度ご覧ください⇒秋田豪雨被害と救援活動の状況について(第5報) | カトリック新潟教区 (catholic-niigata.net)

 以下、19日午後6時配信の週刊大司教第138回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

【年間第20主日A   2023年8月20日】

  マタイ福音は、イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時に、カナンの女性が娘の病を癒やしてくれるように求めた話を記しています。

 確かに「イエスの福音はすべての人に告げ知らされなくてはならない」ということを私たちは知っていますが、受難と復活の出来事の前、すなわち旧約の枠組みの中にあっては、救いは選ばれた民にのみ向けられていることは常識でした。

 イエスは、その常識の枠組みを徐々に打ち破られながら、ご自分の受難と復活の後には新しい契約の枠組みの中で、選ばれた一部の民ではなく、すべての人に救いを述べ伝えるように、と弟子たちを導いて行かれます。

 今日の福音には、そのイエスの弟子たちに対する注意深い導きが記されています。すなわち主御自身はどこを見ているのか、その眼差しの向けられる先を教えようとされるイエスの姿です。

 当時の常識の枠を無視しながら、「主よ、私を憐れんでください」と叫び続けるカナンの女性に対し、弟子たちは、「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ますので」とイエスに進言します。

 つまり、常識では対処できない課題に真摯に取り組むのは面倒なので、「厄介払いに、病気でも治してやったらどうでしょう」という進言です。しかし、イエスはその進言に耳を貸しません。イエスが望まれる神の慈しみの業は、厄介払いのために渋々するようなものではないからに他なりません。

 イエスは、まるで挑発するように、「子供たちのパンを取り上げて子犬にやってはいけない」と女性に告げています。そして女性の心の奥が明示される答えを待っていたのでしょう。彼女のイエスに対する信仰は、表面的な病気の癒やしを求めることではなく、もっと深い、心の底からの救い主に対する信頼に基づいた信仰であることを、彼女は、その謙遜さに満ちあふれた答えで証明して見せました。

 イエスが「あなたの信仰は立派だ」とまで認めたその信仰は、どんな困難の中でも、諦めることなく、イエスに対する信頼を深め続ける、神の前での謙遜なその態度に表されていました。

 私たちも、日々の生活の中で様々な困難に直面し、また社会に満ちあふれた暴力や不正義に翻弄され、「主よ、私たちを憐れんでください」と、祈りのうちに声を上げ続けています。時に、状況は全く好転せず、くじけてしまいそうになります。でも、神の力に、その慈しみに、その愛に、私たちは信頼を置きました。その信頼を失うことなく、すべてを治められる御父の前にたたずみ、謙遜にその計らいに身を委ね続けて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月19日

・9月1日から日本のカトリック教会の「すべての命を守るための月間」 ー「正義と平和を大河のように」 

(2023.8.16 カトリック中央協議会ニュース)

2023年すべての命を守るための月間 「ラウダート・シ」デスク 責任司教談話
「正義と平和を大河のように」

 日本のカトリック教会は、2019年に教皇フランシスコが来日して呼びかけられた「すべての命を守るため」というメッセージの実践の一環として、毎年9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」から、10月4日のアッシジの聖フランシスコの記念日までを「すべての命を守るための月間」として定め、2020年からこれを実施しています。これは同時に、世界規模のエキュメニカル行事「被造物の季節(Season of Creation)」に加わるもので、キリスト教諸教派が垣根を越えて共に祝い、活動を行っています。

 今年の「被造物の季節」のテーマ「正義と平和を大河のように」は、アモス書5章24節の「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」から取られています。教皇フランシスコは、今年の「被造物を大切にする世界祈願日」メッセージで、環境に関するさまざまな不正義、たとえば化石燃料の無節操な消費と森林伐採が温暖化や水不足を引き起こしていることに触れたうえで、「貧しい人や次世代の子らに対するこの不正義を止めるために声を上げましょう」、「無数の細流や渓流のように、私たちもいずれは合流して一つの大河に流れ込み、この驚くべき地球の命と人類家族の命を、これから先何世代にもわたって潤せるのか――。手を取り合って、正義と平和の流れが地球全体を巡るよう、果敢に歩んで行きましょう」と呼びかけています。

 昨年の10月、司教団は日本の教会が「総合的な環境保全」を進める歩みを共にするのを支援・推進するために、「ラウダート・シ」デスクを設置しました。これに伴い、今年から「すべての命を守るための月間」をより豊かに過ごすための呼びかけを「ラウダート・シ」デスクが行っていきます。毎年共通して呼びかける行動は、以下の通りです。

  • 毎年9月第一日曜日(被造物を大切にする世界祈願日)に、全国で「すべての命を守るためのキリスト者の祈り」(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)等、環境を大切にする回心を促す祈りをささげる。

  • 期間中、月間の趣旨を心に留め、他教派・他宗教との連携も視野に入れて、祈りと行動のうちに「総合的な環境保全」の実践に取り組む。

  • 「総合的な環境保全」についての理解を育み、環境を守り育てる教育を推進する。特に子供や青年が、楽しく主体的に取り組めるよう工夫する。

  • 行政、自治体、環境保護に取り組む諸団体と連携して活動する。

 今年は、皆様が生きるそれぞれの場での「総合的な環境保全」に配慮した生き方について振り返り、行動するお手伝いとして、パンフレットを作成しました。神が極めて良いものとしてお造りになったこの世界において、私の生活は調和のうちにあるでしょうか。神が造られた全てのものはつながっていて、互いを必要とします。そのつながり、その循環を紡ぐ一人として、私の生き方はどのような影響を与えているでしょうか。自分の視点で考えてみてください。

 もう一つ、カトリック中学校や高校における環境に関わる取り組み紹介を共有することを企画しています。SDGsやラウダート・シ・ゴールズ(LSGs)に関連する活動を短いビデオで紹介してくださっていますので、ぜひ「ラウダート・シ」デスクのウェブサイトからご覧ください。互いの活動から励ましと学びを得る機会になればと願っています。

 「傷つきやすいものへの気遣いの最良の手本であり、喜びと真心をもって生きた、総合的な環境保全の最高の模範である」(LS10)アッシジの聖フランシスコの取り次ぎがありますように。

2023年7月18日 「ラウダート・シ」デスク 責任司教 成井大介

 

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に改めました。なぜかカトリック教会では「ひらがな」表記が多用されています(その一方で、一般には使われることがあまりない、難しい漢字を使用することがある)が、漢字も歴史的に日本社会に定着した立派な日本語であり、文化です。例えば、「命」をひらがな表記にするのを好む教会関係者が多いようですが、命は「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」という深い意味を含んだ会意文字です。ひらがな表記では、そうした意味が伝わりません。一方で、英語の言葉をそのままカタカナ表記にした言葉が氾濫しており、それを教会関係者も安易に取り入れる傾向が強まっています(「インテグラルなエコロジーの歩み」などがその例です)。カトリックを日本文化に土着させようという意識があるなら、その文化の基本にある日本語に敏感であるべきだ、と「カトリック・あい」は考えています。)

2023年8月17日

・改めて「戦争は死だ」と声を上げたい―菊地大司教の年間第19主日メッセージ

2023年8月12日 (土) 菊地大司教の「週刊大司教」137回

2023_04_15_001 8月6日から15日まで、ともに平和旬間を過ごしている日本の教会です。12日は、午前中に平和を祈るミサをカテドラルで捧げ、その後、午後からいくつかの行事がありました。ミサの説教とともに、別途報告します。

 以下、12日午後6時配信の年間第19主日のメッセージ原稿です。

 【年間第19主日A 2023年8月13日】

 日本の教会は、過去の歴史を心に留め、その体験から謙遜に学び、同じ過ちを繰り返すことのないように行動するために、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。この時期、いつもよりさらに力を込めて、平和の実現のために祈り行動するように呼びかけています。

 マタイ福音はパンを増やす奇跡に伴う驚きと喧噪のやまない興奮状態の直後に、イエスが一人山に登って祈られたことを記しています。私たちは、特に感情が高ぶっているときには、どうしてもその感情にとらわれて、思いと行いが先走ってしまう誘惑の中で生きています。

 平和を求める願いも、なかなかそれが実現しないどころか、全く反対に平和をないがしろにするように現実を目の当たりにする時、どうしても心は高ぶり、感情と行動が先走ってしまうこともあります。思いが強ければ強いほど、この現実を目の当たりにすれば、当然の心の動きだと思います。

 しかしそんなときでも、イエスは、心の高ぶりから離れ、一人落ち着いて祈りのうちに振り返ることの大切さを教えています。

 平和旬間は、もちろん、現実の世界の中で次々と起こる命に対する暴力的な出来事を学び、それに対抗して行動するための重要な時期でもありますが、同時に、それが教会が定めた時期なのですから、祈りのうちに平和を願い、黙想し、振り返ることも忘れてはいけません。

 一つの体に様々な役割の部分があるように、キリストの体にも様々な部分があります。平和を求める願いも、具体的な行動でそれを示そうとする人もいれば、祈りを持ってそれを実現しようとする人もいる。それぞれにふさわしい方法で、この平和旬間を過ごしていただければと思います。

 戦争は自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではない」からこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることは可能です。暴力が世界を席巻し、命を守るためには暴力で対抗することも肯定するような風潮の中、私たちは神から与えられた賜物である命を守り抜くものとして、改めて「戦争は死だ」と声を上げたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月12日

・「私たちは主イエスとの出会いに心を揺さぶられたことがあるだろうか」菊地大司教「主の変容」主日に

2023年8月 5日 (土) 週刊大司教第136回:主の変容の主日

  

 8月6日は、「主の変容」の主日です。また広島の原爆の出来事を記憶するこの日から、9日の長崎の日を経て、15日までは、平和旬間です。

 毎年のように、私たちは平和を考え、平和を黙想し、平和を求めて祈り続けていますが、残念ながら、世界は命に対する暴力に満ちあふれています。くじけることなく、神の平和の実現を叫び続けていきたいと思います。

 8月5日の午後には、広島教区が主催する平和行事に参加し、共にミサの中で平和を祈りました。これについては別途記載します。以下、5日午後6時配信の、週刊大司教第136回目のメッセージ原稿です。

【主の変容の主日A 2023年8月6日】

 主の変容の主日にあたり、マタイ福音はイエスがペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの眼前で栄光を示された出来事を記します。神の栄光に包み込まれたペトロは、あまりの驚きに何を言っているのか分からないまま、そこに仮小屋を三つ建てることを提案した、と福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまり続けたかったのでしょう。

 しかしイエスは、さらなる困難に向けて前進を続けます。モーセとエリヤは律法と預言書、すなわち旧約聖書を象徴する存在です。それは神とイスラエルの民との契約であり、神に選ばれた民の生きる規範でありました。響き渡る神の声は、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げます。つまり、イエスは旧約を凌駕する新しい契約であり、イエスに従う者にとっての生きる規範であることを、神ご自身が明確に宣言されたのです。

 ペトロはその手紙の中で、「私たちは、巧みな作り話を用いたわけではありません」と強調し、キリストの栄光に触れた時、どれほど心を動かされたのか、を強調します。ペトロが伝えたいことの原点は、変容を目の当たりにした時に、彼の心を揺さぶった驚きでありました。私たちは主イエスとの出会いに、心を揺さぶられたことがあるでしょうか。この人生の中で、どのような出会いに心を揺さぶられたことでしょうか。

 教会は今日から10日間を、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかける平和旬間と定めています。

 広島と長崎の日にはじまり終戦の日まで続く10日間は、抽象的な出来事ではなく、そこに1人ひとりの人間の心が揺さぶられた実体験の、積み重ねの10日間です。そしてその10日間にとどまるのではなく、原爆投下と終戦に至るまでの沖縄や南太平洋や中国や朝鮮半島を含めた人間の争いが生んだ悲劇の積み重ねと、いまに至るまで平和を確立することができずにいる中での多くの人の心の思いという、具体的な出来事の積み重ねでもあります。

 私たちは抽象的に平和を語るのではなく、神が愛してやまない賜物である一人ひとりの命が、今、危機に直面している事実を心に刻み、その一人ひとりの体験に心を揺さぶられながら、平和を語らずにはいられません。

 平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢を取り続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、命を暴力的に奪おうとする、すべての行動に抗うことでもあります。平和旬間にあたり、命の創造主が愛と慈しみそのものであることに思いをはせ、私たちもその愛と慈しみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月5日

・「すべてを投げ打ってでも、『宝』を手に入れる」菊地大司教の年間第17主日メッセージ

2023年7月29日 (土) 週刊大司教第135回、年間第17主日A

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 暑い毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 この時期、学校も夏休みに入り、教会のキャンプなど様々な行事があろうかと思います。どうか暑さに気を付けて、無理はなさいませんように。またWYDワールド・ユース・デーに参加する青年たちや同行司教、司祭、修道者も、すでにポルトガルに向けて出発しています。本番の大会が始まる前に、現地の教区との交流のプログラムが用意されています。こちらからフォローください。日本からは、勝谷司教、酒井司教、成井司教も同行しています。ヨーロッパも暑いみたいです。参加者たちの健康のために、またワールド・ユース・デーの成功のために、お祈りください。

 以下、7月29日午後6時配信の週刊大司教第135回、年間第17主日のメッセージ原稿です。

年間第17主日A 2023年7月30日

 マタイ福音は、「宝」について語るイエスのことばを記します。「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」です。ここでイエスが語る「宝」は、経済的な付加価値を与えてくれる財産としての「宝」ではなく、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、命を生かす「宝」であります。

 それをよく表しているのが、第一朗読の列王記の話です。神はダビデの王座を継いだソロモンに、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われます。それに対してソロモンは、経済的な付加価値を持った「宝」を求めることもできたでしょう。しかしソロモンは、自分の利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い、神から喜ばれることになります。その結果として、「知恵に満ちた賢明な心を」神から与えられたと、記されています。

 ソロモンは自分の利益ではなく、自分に託された神の民のための「宝」を求めた。ここに福音に記された、すべてを投げ打ってでも手に入れたくなる「宝」の意味が示されています。

 私たちが求め続ける「宝」は、自分の利己的な欲望を満たす宝ではなく、他者の命を生かし、社会の共通善に資するような「宝」であって、私たちが人生を賭けてでも求め続けなくてはならない「宝」であります。そして私たちには、その「宝」が、イエス・キリストの福音として与えられています。「宝」そのものである主御自身が、常に私たちと歩みを共にしてくださっています。人生のすべてを賭けて、その主に従っていきたいと思います。

 まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、毎年恒例の平和旬間が始まります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。

 夏になって戦争の記憶をたどり、平和を祈るとき、この教皇の言葉を思い出したいと思います。私たちは過去を振り返り平和を祈るとき、将来に対する平和を生み出す責任を担います。

 暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(「カトリック教会のカテキズム」1753項)。「戦争は死です」。賜物である命を生かす神の「宝」から目をそらすことなく、共に歩まれる平和の主に従って行きたいと思います。

2023年8月5日

・「愛と慈しみを社会の中に実現できるように」平和旬間へ東京大司教が教区民に呼び掛け

週刊大司教 2023年8月 4日 (金)2023年平和旬間、東京教区呼びかけ

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東京大司教区の皆様へ  2023年平和旬間にあたって

 暴力が生み出す負の力が世界に蔓延し、命が危機に直面する中で、私たちは「平和が夢」であるかのような時代を生きています。日本の教会は、今年も8月6日から15日までを平和旬間と定め、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかけています。

 3年にも及ぶ感染症による命の危機に直面してきた世界は、命を守ることの大切さを経験から学んだでしょうか。残念ながら、平和の実現が夢物語であるように、命を守るための世界的な連帯も、未だ実現する見込みはありません。それどころか、ウクライナでの戦争状態は終わりを見通すこともできず、東京教区にとっての姉妹教会であるミャンマーの状況も変化することなく、平和とはほど遠い状況が続く中で、時間だけが過ぎていきます。

 今年の平和旬間でも、平和のための様々なテーマが取り上げられますが、東京教区では特に姉妹教会であるミャンマーの教会を忘れることなく、平和を祈り続けたいと思います。

 ご存じのように、2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに応え、聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

 具体的な行動として、今年は久しく中断していた「平和を願うミサ」が、8月12日(土)11:00からカテドラルで捧げられます。このミサの献金は、東京教区のミャンマー委員会(担当司祭、レオ・シューマカ師)を通じてミャンマーの避難民の子どもの教育プロジェクト「希望の種」に預けられます。また、8月13日の各小教区の主日ミサは「ミャンマーの子どもたちのため」の意向で献げてくださるようお願いいたします。

 共に一つの地球に生きている兄弟姉妹であるにもかかわらず、私たちは未だに支え合い助け合うことができていません。その相互不信が争いを引き起こし、その中で実際に戦争が起こり、また各国を取り巻く地域情勢も緊張が続いています。そのような不安定な状況が続くとき、どうしても私たちの心は、暴力を制して平和を確立するために暴力を用いることを良しとする思いに駆られてしまいます。

 しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、命を創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

 加えて、「カトリック教会のカテキズム」にも記されている通り、目的が手段を正当化することはありません(1753項参照)。暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定することはできません。「戦争は死です」(ヨハネ・パウロ二世の「広島平和メッセージ」)。

 教皇フランシスコは、2019年に訪れた長崎で、国際的な平和と安定は、「現在と未来の人類家族全体が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能」であると述べられました。その上で、「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。

 本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」と指摘され、軍備拡張競争に反対の声を上げ続けるようにと励まされました。

 命の危機にさらされ、困難の中で希望を見失っている人たちへの無関心が広がる世界では、異なるものを排除することで安心を得ようとする傾向が強まり、暴力的な力を持って、異質な存在を排除し排斥する動きが顕在化しています。平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢を取り続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、命を暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

 平和旬間にあたり、命の創造主が愛と慈しみそのものであることに思いをはせ、私たちもその愛と慈しみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

 カトリック東京大司教区 大司教  菊地功

(編集「カトリック・あい」)

2023年8月5日

・「祖父母と高齢者のための世界祈願日」にあたってー菊地大司教年間第16主日メッセージ

2023年7月22日 (土)週刊大司教第134回:年間第16主日A

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 年間第16主日です。暑い毎日が続いています。大雨の被害を受けられた多くの方々、特に新潟教区の秋田県の皆様には、心からお見舞い申し上げます。

 教会は7月の第四日曜日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めており、今年は23日になります。日本では9月に敬老の日があるので、その前日(敬老の日が必ず月曜日ですから、その前日の主日)にこの世界祈願日を移動することにし、すでに教皇庁の許可を得ています。カレンダーの印刷などの都合もあるため、実施は、来年から、となります。この今年の世界祈願日のために教皇様のメッセージが発表されています。

 司教総会は予定通り終了しました。議決された内容については、後日カトリック新聞などをご覧ください。司教たちのためにお祈りくださった皆様に、心から感謝申し上げます。

 まもなくワールド・ユース・デーがリスボンで開催されます。それに先だって、事前の様々な行事のため、すでに日本を出発したグループもあるようですし、日本の司教協議会が主催するグループも、7月26日あたりから現地に向けて出発することになります。日本からは100名を遙かに超える青年たちが参加されます。司教団主催のグループも、帰国は8月10日頃です。暑い中の長旅です。健康が守られ、現地で良い祝福された出会いがあるように、ポルトガルのリスボンで開催されるワールド・ユース・デーのためにお祈りください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第134回、年間第16主日メッセージ原稿です。

【年間第16主日A 2023年7月23日】

 マタイ福音は、創造主である神が、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に二つを峻別すると語るイエスの言葉が記されていました。このたとえでの刈り入れの時とは、一般的に世の終わりの最後の審判の時であります。

 私たちが生きている今の世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。暴力が支配し、賜物である命が危機にさらされるような現実を目の当たりにする時、神が悪の存在を容認しおられるのか、と考えてしまいます。しかし。福音は、それは「刈り入れの時まで待っておられるのだ」とし、良い麦と悪い麦を見分けられる、その時を待っておられるのだ、と記して良います。

 すなわち、創造主である御父は「悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではない」ということを心に留め、毒麦をしのぐほど、良い麦が世界を支配するように、私たちはただ、傍観するのではなく、良い麦をさらに広くまき続ける努力をしなければなりません。私たちに与えられている使命は、「畑に入って毒麦を抜き取る」ことではなく、「良い麦の種をさらに広くまき続ける」ことに、他なりません。

 教会は7月の第四日曜日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めています。日本では来年以降は、聖座の許可を受けて、敬老の日のある9月にこの祈願日を移行することを決めていますが、今年はまだ7月に行われます。

 少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場を持っていた高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなぐ大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。

 今年のメッセージで教皇は、今年の夏に開催されるワールド・ユースデーに近いことから、若い世代と高齢の世代の交わりに重要性を強調されて、こう述べておられます。

 「主は、若者たちに、年を重ねた人たちと関わることで彼らの記憶を大事に守りなさい、との呼びかけを受け入れるよう、そして高齢者のお陰で自分は大きな歴史の流れに属する恵みを与えられているのだ、ということに気づくよう期待しておられます」

 その上で、教皇は、「『即座に』ということばかりに、つまり『直ちに多くをもらおう、すべてを今すぐに』ということばかりに神経を使う人は、神の働きが見えなくなってしまいます。それに対して神の愛の計画は、過去、現在、未来を貫き、各世代へと及んで、それらを結び合わせます。それは私たちを超越した計画ですが、そこにおいては私たち一人ひとりが重要であり、何よりも自分を超えていくことが求められます」と語られ、「互いの存在に目を向け、すべての人を福音宣教に招かれる主の呼びかけに耳を傾け、支え合いながら共に歩みを続けるように」と招いておられるのです。

(編集「カトリック・あい」)

2023年7月22日