◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑩「四旬節を謙遜をもって自分自身の高慢と戦う機会にしよう」

教皇フランシスコ 2024年3月6日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年3月6日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (Vatican Media)

(2024.3.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われ、「悪徳と徳」についての連続講話を、「高慢」をテーマになさった。先週から続いている感冒のため、ご自身が用意された文章の代読の形で行われた講話の要旨は次の通り。**********「悪徳と徳」についての講話、今日は「高慢」について考えたいと思います。

古代ギリシャ人は「高慢」を、「過剰な輝き」とでも訳せる言葉で定義していました。「高慢」とは、「自画自賛」「うぬぼれ」「虚栄」です。この定義は、イエスが、人間の心から出る悪い思いを説明するために列挙された一連の悪徳の中にも出てきます( マルコ福音書7章22節)。

「高慢」な人とは、自分を実際よりもずっと優れていると考えている人、他者よりも偉大だと思われたくてたまらない人、いつも自分の功績を認められたい人、他者を自分より劣っていると思い見下す人のことです。このような特徴から、「高慢」の悪徳は、前回取り扱った「虚栄」とよく似ているように見えます。しかし、「虚栄」が人間の自我の病だとしても、高慢がもたらす可能性のある「破壊」と比べるなら、それはまだ、子どもっぽい病です。

 古代の修道者たちは、人間の狂気を分析し、一連の悪の中にある種の秩序を見出していました。たとえば暴食のような粗野な罪から始まり、最も心配される恐ろしい悪徳にたどりつきます。すべての悪徳の中で「高慢」は、堂々たる”女王”です。ダンテは『神曲』の中で、高慢を、煉獄の最初の額縁の中にはめ込んでいます。高慢に陥る者は、神から離れた者です。この悪の矯正には、キリスト者が立ち向かうべき他のあらゆる闘いよりも、時間と努力を要します。

 そして、この悪の背後には、深く根付いた罪が隠されている。それは、「神のようでありたい」という、途方もないうぬぼれです。『創世記』に語られる私たちの祖先の罪は、つまるところ、「高慢の罪」です。アダムとエバに、誘惑者はこう唆します―「それを食べると目が開け、神のように… なる」(創世記3章5節)。霊性の作家たちは、日常生活の中で高慢に陥る時のことを注意深く記し、それが、いかに人間関係を台無しにし、兄弟愛の感情を毒するかを語っています。

 高慢の悪徳の症状には、まず、謙虚になる、ということがありません。容易に人を見下す。イエスの「裁いてはならない」という教えを忘れています。建設的な小さな批判、あるいはまったく無害な所見を述べただけで、烈火のごとく怒り、何事にも憤慨し、他者との関係を恨みをもって断ち切ってしまいます。

 高慢に病んだ人には、どうすることもできません。話しかけることも、正すこともできない。彼は自分自身のことを分かっていないからです。このような人に対しては、ひたすら忍耐するしかありません。なぜなら、彼の建物はいつか崩れるからです。イタリアのことわざに、「高慢は馬で行き、歩いて帰る」というのがあります。

 福音書の中で、イエスは多くの高慢な人たちと関わられます。ペトロは自分の忠誠を誇示し、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26章33節)と言いましたが、すぐに他の者たちと同じ体験をすることになります。ペトロも、死を前にして恐れました。もう顔を上げることもできず、苦い涙を流しましたが、イエスに癒され、ついには教会の重みを支えることのできる者になったのです。

 「救い」は謙遜を通して来ます。「謙遜」はあらゆる高慢な態度の”治療薬です。主への賛歌「マニフィカト」の中で、マリアは、「思い上がる者の病んだ心の思いを打ち散らす神」を高らかに歌い上げます。

 この四旬節を、私たち自身の高慢と闘う機会にしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月7日

☩「戦争の恐怖に苦しむ人たちのために祈り、四旬節の旅を続けよう」水曜恒例の一般謁見で

Palestinians walk amid the rubble of destroyed houses in GazaPalestinians walk amid the rubble of destroyed houses in Gaza  (AFP or licensors)

(2024.3.6  Vatican News   Devin Watkins)

 教皇フランシスコは6日の水曜恒例一般謁見で、世界のキリスト教徒に対し、戦争の恐怖に苦しむすべての人々のために祈り、世界の平和を呼び掛けるよう求められた。

 教皇は、謁見の初めに、「まだ先週にかかった風の影響が続いています」と前置きし、「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話はあらかじめ用意された文章を代読者に任せる、とされたうえで、世界の信徒たちに向けて「兄弟姉妹の皆さん、ウクライナと聖地、そして世界の他の地域で戦争の恐怖に苦しむ人々のために祈るよう改めて呼びかけます… 平和を祈りましょう! 平和の賜物を主に祈りましょう」と呼びかけられた。

 そして、ウクライナと聖地の現状を思い起こされた。ウクライナでは、5日夜にも首都キーウや南部オデッサなど様々な都市がロシア軍のドローンに襲撃され、ガザ地区では、ハマスのイスラエル攻撃に対するイスラエル軍の反撃でバレスチナの人々に3万700人をこえる犠牲者が出ている。

 このような中にあって、四旬節を迎えているキリスト教徒たちに対して、教皇は、「四旬節のこの時期、私たちを永遠の愛で愛してくださる神のもとに、心から立ち返るために、人生を覆い隠すあらゆるものから自分を解放する勇気ある努力を続けてください」と願われ、31日の主の復活の大祝日に向けた旅をしっかりと続けるよう、求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年3月6日

☩「主と共に、私たちの『家』を建てよう」四旬節第三主日の正午の祈りで

 

 

2024年3月4日

☩「皆で『もう、たくさんだ』と言おう!」教皇、ガザの戦闘時中止を訴え

(翻訳・編集「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年3月4日

☩「準備のためにイエスに倣って『主の祈り』を唱えよう」-5月25,26日の「第1回世界子どもの日」に向けてメッセージ

教皇フランシスコと子どもたちとの集い 2023年11月6日 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコと子どもたちとの集い 2023年11月6日 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)

(2024.3.2 バチカン放送)

 今年5月25、26両日にカトリック教会の第1回「世界子どもの日」が予定されているが、教皇フランシスコが2日、この日に向けたメッセージを発表された。

 教皇は昨年11月、教皇庁文化教育省が企画した世界五大陸の子どもたちとの集い「子どもたちから学ぼう」を主宰され、その1か月後の12月8日に「世界こどもの日」を今年5月から始めることを発表された。

 その趣旨として、「子どもたちに、どのような世界を伝えたいのか」を考え、「イエスのように、子どもたちを中心に置き」その成長を見守り、支える必要を再認識する機会とすること、と説明されていた。

 今回のメッセージで、教皇は「聖書が教え、イエスが何度も示されたように、皆さんは神の御目に『尊い』ものです」と子どもたちに話しかけ、また世界中のすべての人々に「皆さんは大切な存在。私たちは皆、子、兄弟であり、誰かがこの世に生んでくれなければ、誰も存在することはできず、愛を与え受け取ってくれる他者がいなければ、誰も成長することはできない」とされ、「ご両親と家族の喜びである皆さんは、人類と教会にとっても喜びです」と強調されている。

 そして、また子どもたちに、「人はそれぞれが過去から未来へと続き、地上を覆う長い鎖の一つの輪のようにつながっています。ですから、両親や祖父母のような年上の人々の話に耳を傾けることが大切です」と語られ、「小さい頃から、病気や戦争、暴力や飢餓に苦しんでいる子どもたち、難民となり親から離れた子どもたち、学校に行けない子どもたちがいることを忘れないようにしましょう」と勧められた。さらに、「私たちや世界を新たにするには、皆が一緒にいるだけでなく、イエスと一致していなくてはなりません」とし、イエスから勇気をもらい、聖霊に導かれる必要を説かれた。

 また教皇は、「見よ、私は万物を新しくする」(ヨハネの黙示録21章,5)というイエスの言葉を、第1回「世界子どもの日」のテーマとして紹介され、「イエスと共にいるなら、私たちは新しい人類を夢見、より兄弟愛に満ち、地球に配慮した社会のために努力することができるでしょう」と語られ、「本当に幸福になりたいなら、毎日、大いに祈らねばなりません… 祈りは、私たちを神と直接つなぎ、心を光と温かさで満たし、すべてを信頼と落ち着きのうちに行うことを助けてくれるます」と説かれた。

 そのうえで、教皇は、「いつも御父に祈っておられたイエスのように、私たちも祈り、5月の『世界こどもの日』を準備するために、特にイエスが教えてくださった『主の祈り』を唱えてください」と願われ、最後に、「私たちをいつも愛される神は、父親たちの最も愛情深い眼差し、母親たちの最も優しい眼差しを持っておられ、決して私たちを忘れず、聖霊をもって私たちを見守り、新たにしてくださいます」とメッセージを締めくくられている。

2024年3月4日

☩「正義を行うには、勇気の美徳が必要」教皇、バチカンの裁判所の年度始めのあいさつで

Pope Francis at the inauguration of the 95th Judicial Year in the VaticanPope Francis at the inauguration of the 95th Judicial Year in the Vatican  (Vatican Media)

  教皇フランシスコは2日、新たなバチカンの裁判所の年度初めにあたってのバチカンの関係者たちとの会合であいさつされ、「司法の運営にあたって、真実を追求し、批判に直面する際にも、正義を行うために、勇気と謙虚さの美徳をもって対応する必要」を強調された。

*”自己宣伝”を目的としない「健全な大胆さ」が必要

 

  あいさつで教皇はまず、「正義を行うための勇気と謙虚さの美徳は、英雄的な人に特有の特質」ではなく、「聖霊の働きの成果として、キリストとの出会いによって与えられ強化されるキリスト教徒としての特質。私たちが呼び求めれば誰でも受け取ることができるものです」と指摘。

  その美徳は、特に「善の達成を妨げる内外の圧力を拒否し、忍耐を持って行動する能力に表れます」とされ、「健全な大胆さ、つまり『社会の弱者との、自己宣伝ではなく、連帯を目的とする姿勢』を欠けば、大小さまざまな不正を見過ごす危険がある」と注意された。

 

 

*正義とは常に慈善行為である

 

  迫害されている多くのキリスト教徒を含め、世界中で戦争や人権侵害に苦しむすべての男女の勇気に敬意されたうえで、教皇は「私たち皆が、子供たちの将来のために全力を尽くし、共通の社会を守るために召されています… 『裁く』という仕事には、慎重さ、慈善心、節制に加えて、不屈の精神と勇気という美徳が必要であり、それがなければ知恵は不毛なままになる危険があります」と繰り返された。

 

 

*真実を徹底的に追求する勇気

 

  続けて、司法権の機能について、「まず第一に、『真実を徹底的に追求する勇気』が必要。その際、頭に入れておくべきは、正義を行うことは常に慈善の行為であり、過ちを認めるのを助けるための、『友愛的な矯正』の機会となる、ということです」とされ、特に、深刻でスキャンダラスな行為が明らかになり、制裁が求められるとき、特にそれが教会共同体内部で起きたときには、なおさら必要になります」と強調された。

*適正な手続きを確保する勇気

 また教皇は、「訴訟の適切な進行を確保するよう努力し、批判に直面して勇気を持つことが必要です。 外部から批判に対する最善の対応は、勤勉な沈黙と真剣に仕事に取り組むことであり、それによってバチカンの法廷が権威と公平性をもって司法を執行し、バチカンの法制度の特殊性を尊重しながら適正手続きを確保できるようになります。制度の強靭さと司法行政の堅固さは、司法プロセスのさまざまな段階での裁判官の冷静な判断、独立性、公平性によって証明されるのです」と語られた。

*正義を行う上での識別力を求める「祈りの勇気」

 あいさつの最後に教皇は、「聖霊の光は、常に公正な判決に至るために必要な識別の道を照らしてくれます。 皆さんの仕事にとって、祈りは『時間の無駄』だと考えるべきではありません」「識別は『ひざまずき』の中で行われ、聖霊の賜物を懇願し、個人と教会共同体全体の利益につながる決定を下される。 そのためにも勇気と精神力が必要です」と説かれた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南条俊二)

2024年3月3日

☩「”ジェンダー・イデオロギー”は現代の最も醜 い脅威」教皇、バチカン主催のシンポジウムで

Pope Francis addressing international Symposium "Man-Woman: Image of God. Towards an Anthropology of Vocations" in the VaticanPope Francis addressing international Symposium “Man-Woman: Image of God. Towards an Anthropology of Vocations” in the Vatican  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 そして、「この基本的な人類学的真実は、人間が単なる物質的で主要なニーズに還元される傾向がある今日の文化的文脈では、しばしば見落とされています。 しかし、人間はそれ以上のもの、神がご自身の姿に似せて創造された男女は、永遠と幸福への願いを自分たちの中に抱いており、それは神ご自身が、それぞれの心の中に植え付けられ、与えられた使命を実現するよう求められているのです」と説かれた。

 教皇はさらに、「私たちがこの世界に存在するのは、単なる偶然の産物ではありません。私たちは愛の計画の一部であり、自分自身と他の人のために、自分自身の外に出てそれを実現するよう招かれています…。私たちは幸福、人生の充実、そして神が私たちを運命づけた偉大な何かに、招かれています」とされ、聖ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の『瞑想と祈り』を引用する形で、「私たちは一つの同じ使命ではなく、一人ひとりがそれぞれの使命を持っているのです」と語られた。

 このような視点から、今回のシンポジウムは、「人間が神によって召されている召命についての認識を広める」ものであり、「現在の人類学的危機、そして人間とキリスト教の使命を促進する必要性についての課題について考えることに役立つものです」と評価された。

 また教皇は、信徒の役割、叙階された聖職者の奉仕、奉献生活など、教会におけるさまざまな種類の召命の「より効果的な循環」を促進することの重要性を強調し、それらが「死に圧倒された世界に希望を生み出すことに貢献できます」とされたうえで、「このような希望を生み出し、開かれた友愛の世界を築くために神の王国に奉仕することは、現代のすべての女性と男性に託された使命です」と強調された。

 そして、あいさつの最後に、教皇はシンポジウムの参加者に対し、「自分の働きの中に神のご意思を求める際に、リスクを避けることのないように。生きた信仰は、博物館の中にある工芸品ではないことを思い起こすように」と求められ、「聖霊は私たちに忠誠を求めますが、忠誠は、私たちにしばしばリスクを冒させる… 神のご意思を識別し、探求することにリスクを冒しても、勇気をもって前進するように」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年3月1日

☩「地雷は戦争の冷酷な悲劇と罪なき人々の犠牲を思い起こさせる」対人地雷禁止条約発効25年を前に

 

 同条約は、対人地雷の使用・開発・生産・貯蔵・保有・移譲等の禁止と地雷の廃棄等を定めたもので、1997年9月にオスロで起草され、同年12月オタワで署名、1999年3月1日に発効した。

 教皇は「対人地雷が、今でも子供たちをはじめ罪のない人々の犠牲を出し続け、紛争当事国の敵対状態が終わり何年も経ってからも人々に被害を与えている現実」を指摘。「人を欺く爆発装置」の無数の被害者に精神的な寄り添いを示され、「地雷は戦争の冷酷な悲劇と、一般市民が払う犠牲を思い起させます」と語られた。

 そして、地雷被害者への支援と地雷除去に貢献するすべての人々に感謝され、「これらの人々の仕事は、私たちの兄弟姉妹をいたわりつつ、平和のために働く者としての、普遍的召命に具体的に応えるもの」と称えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月28日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑨「神の力は弱さの中で完全に現れる」(コリントの信徒への手紙2・12章9節)

(2024.2.28 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは28日、水曜恒例の一般謁見で、ここ数日の軽いインフルエンザ症状のため、代読の形で「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話を続けられ、「妬みと虚栄の罪」に焦点を当て、妬みや虚栄は危険な悪徳だが、対抗するための治療法がある、自分自身を中心に置かず、弱さを受け入れ、 神が私たちの生活の中で働いてくださるようにすることだ、と説かれた。

 講話の要旨は次の通り。

**********

 今日は、霊的伝統が遺した悪徳のリストの中から、「嫉妬」と「虚栄」の二つを取り上げたいと思います。

 まず、「嫉妬」から始めましょう。聖書では、「嫉妬」は最も古い悪徳の一つとして登場します(創世記4章参照)。カインがアベルに対する憎しみを爆発させたのは、弟の献げ物に神が目を留められたことを知った時でした。カインは、アダムとエバの長子であり、父の遺産を十分に受け取っていましたが、弟アベルが小さな手柄を立てただけで動揺します。抑えることのできない嫉妬は、相手への憎しみを生み、アベルを殺してしまいました。弟の幸福に耐えられなかったからです。

 嫉妬の根底には、愛と憎しみの関係が存在します。相手の不幸を望む反面、「相手のようになりたい」とひそかに願います。相手の存在は、「自分がなりたいが、実際にはなれないもの」の現れです。相手の幸運は、あってはならないことに思われる。「自分の方が当然、その成功や幸運にふさわしい」と考えるからです。

 嫉妬の根元には、神に対する誤った考えがあります。嫉妬する者は、神が私たちとは異なる、独自の数学を持っておられることを認めることができません。たとえば、イエスの「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ福音書20章)でも、早朝から働いていた者は、最後にやって来た者よりも多額の賃金がもらえる、と信じていました。しかし、主人はすべての労働者を同じ扱いにし、「自分の物を自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさを妬むのか」(同20章15節)と言ったのです。

 私たちは神に自分たちの利己的な論理を押し付けようとする。それに対し、神の論理は「愛」です。神が私たちに与えられる善は、分かち合うために作られています。ですから、聖パウロはキリスト者たちに、このように勧めています―「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し…霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマの信徒への手紙12章10節)。これこそが、嫉妬への特効薬なのです。

 次に、「虚栄」について考えでみましょう。虚栄は嫉妬の悪魔と腕を組んで行きます。この二つの悪徳は、野心家で、自分を世界の中心と思い、すべての物と人、あらゆる賞賛と愛を利用することをためらわない人のものです。

 虚栄は、根拠なくふくらんだ自信。虚栄に満ちた人は、邪魔になるほど自我が大きく、共感に欠け、世界には彼以外の人が存在することに気づきません。人間関係はいつも道具的で、他者に対して横暴です。彼という人物、その手柄、成功は皆に見せびらかされなくてはならない。彼は永遠に自分への関心を乞い続ける。彼の才能が認められない時は、激怒する。彼にとって、間違っているのは相手であり、理解のレベルに達していないのだ、と考えます。

 霊性の大家たちは、虚栄の治療について、あまり助言していません。虚栄の治療法は、虚栄の人自身の中にあるからです。虚栄の人が世間から得ようと望んでいた称賛は、いつか彼から背を向けるからです。虚栄を克服するための最も素晴らしい教えは、聖パウロの証しの中に見ることができます。使徒パウロは、どうしても克服できない自身の一つの欠点に対し、常に決着をつけようとしていました(以下、コリントの信徒への手紙2・12章8‐9節参照)。パウロは「(サタンから送られた使いについて)離れ去らせてくださるように」と三度、主に願いました。ところが、主はこう答えられます―「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」。そして、パウロは虚栄から解放されたのです。パウロの体験の結末は、私たちのものにもなるべきです。「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

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 教皇は、ここ数日、「軽いインフルエンザの症状」を訴えられ、2月28日の一般謁見終了後、ローマ市内のジェメッリ・イゾラ病院を診断のために訪問、再びバチカンに戻られた。 教皇は、先週24日と26日、軽いインフルエンザの症状のため予定されていた謁見を中止されていた。

(編集「カトリック・あい」・聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

2024年2月28日

☩「人生で出会う人々の中にイエスの光を見出そうとしているだろうか」四旬節第二主日の正午の祈りで

教皇フランシスコ 2024年2月25日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2024年2月25日の正午の祈り  (ANSA)

(2024.2.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは25日、四旬節第二主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「イエスの変容」( 9章2-10節)を観想された。

 説教の要旨は次のとおり。

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 イエスは、弟子たちにご自分の受難を予告された後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、そこで光輝く姿をお見せになりました。そうして、イエスは弟子たちにその時までご自分と共に過ごしたことの意味を明らかにされたのです。

 神の御国の説教、罪の赦し、多くの癒し、様々なしるしは、「イエス」という最も大きな光の閃きでした。間もなく訪れる受難をはじめ、様々な試練の中で、弟子たちはこの光からもう決して目を離すことはできないでしょう。

 「イエスの光から決して目を離してはならない」-これが今日の福音のメッセージです。それは、昔、農夫たちが畑を耕しながら、畝をまっすぐにするために、自らの前方に一点を見つめていたのに似ています。イエスの光輝く御顔を常に目の前に見つめ、決してイエスから目をそらさない―キリスト者はそのように人生を歩むように召されているのです。

 イエスの光に目を開きましょう。イエスは愛、永遠の命です。時には険しさもある人生の中で、慈しみと忠実と希望にあふれるイエスの御顔を求めましょう。祈り、御言葉に耳を傾け、秘跡に与ることが、それを助けてくれます。

 開かれた眼差しを育て、祈りの中に、人々の中に、イエスの光を探すこと、これを四旬節の目標にしましょう。

 皆さん。自分にこう問いかけましょう―「私の人生で歩みを共にしてくださるキリストを、しっかり見つめているだろうか」「そのために、沈黙と祈りと礼拝に時間を割いているだろうか」「自分の内側を照らすイエスの光、出会うあらゆる兄弟姉妹の中で輝くイエスの光を、見出そうとしているだろうか」。

 神の光に輝く方、マリアよ、私たちが眼差しをイエスにしっかりと据え、互いを信頼と愛をもって見つめることができるようにお助けください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月28日

・教皇、ブルキナファソでの教会、モスク襲撃、虐殺に深い悲しみ表明

File photo of internally displaced people  - fleeing jihadist violence in northern Burkina FasoFile photo of internally displaced people – fleeing jihadist violence in northern Burkina Faso  (AFP or licensors)
2024年2月27日

☩教皇「永続的平和を目指し外交的解決に努めて」ーロシアのウクライナ侵攻2年

(2024.2.25 Vatican News   Christopher Wells)  ロシアのウクライナ侵攻2周年

 ロシアによるウクライナ侵攻開始から24日で2年を迎えたが、教皇フランシスコは25日の正午の祈りで、前日24日でまる2年を迎えたロシアによるウクライナ軍事侵攻に言及し、「公正かつ永続的な平和」を目指した外交的解決を改めて訴えた。

 教皇は過去2年間にわたるロシアの一方的なウクライナ侵攻がもたらしている多くの人々の「死、負傷、破壊、苦悩、涙」を悼み、「この悲劇は恐ろしく長く続いており、終わりはまだ見えていません」と嘆かれた。

教皇「永続的平和を目指し外交的解決に努めて」ーロシアのウクライナ侵攻2年

(6行目)「公正かつ公正な解決永続的な平和を求めて外交的解決の条件を作り出すことを可能にするほんのわずかな人間性の回復」

 そして、ロシアのウクライナ侵攻による戦闘長期化は、「欧州全域に被害を及ぼしているだけでなく、恐怖と憎しみの世界的な波を引き起こしています」と述べ、「苦悩するウクライナ国民」への「痛切な同情」と祈りを新たにしながら、「公正かつ永続的な外交的解決の条件」を作り出すことを可能にする「ほんのわずかな人間性の回復」を懇願された。

 教皇はまた、パレスチナとイスラエルはじめ「世界中の戦争や紛争でで引き裂かれた多くの人々のために祈ることを忘れないように」と、世界のすべての人々に呼びかけ、苦しむ人々、特に「怪我を負った罪のない子供たち」に具体的な支援を行うように求められた。

 アフリカのコンゴ民主共和国で暴力が激化していることにも言及し、同国の司教たちの平和への祈りの呼びかけに加わり、衝突の終結と「誠実で建設的な対話」への期待を表明された。 ナイジェリアにおいて、頻度が増している誘拐の頻度が増していることにも懸念を示され、「こうした事件の蔓延を可能な限り抑制する努力が払われることを願う」と語られた。

 世界的な異常気象をもたらしている気候変動も取り上げ、深刻な人道的危機をもたらす極度の寒波に襲われているモンゴル国民にも思いやりを示され、 「気候変動がもたらす危機は、世界的な社会問題をも引き起こしており、多くの兄弟姉妹、特に最も弱い立場にある人々の生活に深刻な影響を与えています」とされ、「被造物への配慮に貢献するために、賢明で勇気ある選択ができるように祈りましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月25日

☩「紛争や暴力が続くスーダン、モザンビークに平和が戻るように」正午の祈りで

武力衝突から避難するためバスを待つ人々 2023年4月 スーダン・ハルツーム武力衝突から避難するためバスを待つ人々 2023年4月 スーダン・ハルツーム  (AFP or licensors)

(2024.2.17  バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日の正午の祈りに続いて、スーダンで10か月も続く軍事衝突、モザンビークのカボ・デルガード州で広がる暴力に言及され、これらの地の平和を祈られた。

 スーダンでは、昨年4月、スーダン国軍と準軍事組織による衝突が勃発し、首都を含む各地に戦闘地域が拡大する中、多数の市民が国内外で避難民となっている。

 教皇は、深刻な人道状況を生み、市民を苦しめ、国の未来に悪影響を与えているこの紛争の当事者たちに、戦闘の停止を改めてアピールされ、「スーダンが平和への道を見出し、未来を築くことができるように」祈るよう呼びかけられた。

 また教皇はモザンビークの北東部カボ・デルガード州で広がる武装集団による暴力にも憂慮され、何の罪もない民衆に対する暴力、社会基盤の破壊、治安の不安定化が見られる同州で、数日前にマゼゼのカトリック系施設が放火されたことに言及。「暴力に引き裂かれたカボ・デルガード同州に平和が戻るように」と祈られた。

 さらに、教皇は、アフリカの他の地域で起きている流血の紛争や、パレスチナ、ウクライナにおける戦争などを忘れないように、と信者たちに願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月20日

☩「四旬節を通して神の声を聴く旅をしよう」ー四旬節第一主日の正午の祈り

(2024.2.18  Vatican News  Linda Bordoni)

    四旬節第1主日の18日、教皇フランシスコは正午の祈りに先立つ説教で、荒れ野でサタンの試みを受けるイエスを描いたマルコの福音書(第1節12‐15節)を取り上げ、「荒れ野」が象徴することの重要性を指摘され、「荒れ野―沈黙、内なる世界―に入り、心の声に耳を傾け、真実に触れるように」と信者たちに呼びかけられた。

 そして、教皇は、「荒れ野で、キリストは野獣たちと共におられ、天使たちはキリストに仕えていた。 野獣と天使は彼の仲間でしたが、それは象徴的な意味でです。私たちも”内なる荒れ野”に入ると、野獣や天使に出会うことがあります」とされ、「霊的な生活において、野獣とは、私たちの心を分裂させ、奪おうとする、乱れた情熱と考えることができます。彼らは魅惑的で、注意しないと、私たちは彼らに引き裂かれる危険があります」と注意された。

 さらにそのような”魂の野獣”は「私たちを黙認と不満の中に閉じ込める『富への欲望』、落ち着きのなさと孤独に陥らせる『虚栄心』、『名声への渇望』」であり、私たちの心に不安を生じさせ、自分が認められたい、目立ちたい、という継続的な欲求を引き起こすのです」と警告された。

 そして、「このような”野生の獣”に対しては、戦わねばなりません。 さもないと、彼らは私たちの自由をむさぼり食ってしまう。彼らの存在に気づき、彼らと向き合うために、私たちは荒れ野に行く必要があります」と説かれた。

  次に教皇は、荒れ野での天使の存在に注目され、「天使は神の使者であり、私たちを助け、私たちに良いことをしてくれます。彼らの特徴は、『奉仕』にあり、無秩序な情熱とは正反対の立場にある」と指摘。

 「誘惑が私たちを引き裂こうとする一方で、善良な神からの霊感によって私たちを調和させ、団結させます。心を潤し、キリストの”味”、つまり”天国の味”を注いでくれます」とされ、「神からの霊感による考えや感情を私たちが理解するには、沈黙と祈りが必要であり、四旬節がまさに、それを行う時なのです」と強調された。

 説教の最後に教皇は、2つの重要な問いかけをなさった。 「私の心を揺さぶる、乱れた情念、『野獣』とは何なのか?」 「神の声が私の心に語りかけられるようにし、それを良い状態に保つために、私は、しばし『荒れ野』に退くこと、つまり、考察のために場を捧げることを考えているだろうか?」

 そして、「御言葉を守り、邪悪な者の誘惑にさらされることのなかった聖母マリアが、この四旬節の間、私たちを助けてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月19日

☩「キリストと聖霊において、私たちは罪の灰から新しい命に生まれ変わる」ー灰の水曜日ミサ

(2024.2.15 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦は14日、「灰の水曜日」を記念するととも復活祭前の準備期間「四旬節」に入り、教皇フランシスコは、ローマの聖サビーナ教会でミサを捧げ、この中で「灰の式」を行われた。

 「四旬節」は、キリストが公生活を始める前に、荒れ野で40日間の断食を行ったことを思い起こすもので、この四旬節の間、信者は、悔い改め、祈り、断食や節制、施しや愛徳の行為を通し、復活祭によりふさわしい形で与るための準備を行う。その初日となる「灰の水曜日」は、死と痛悔の象徴である灰を頭に受ける「灰の式」が行われる。

 14日午後、教皇はローマ市内アベンティーノ地区に向かわれた。アベンティーノはローマの「7つの丘」の一つで、競技場遺跡チルコ・マッシモをはさんでパラティーノの丘と向かい合っている。周囲には豊富な古代遺跡群、丘の上には中世紀を起源とする教会群がある。

 「灰の水曜日」の一連の儀式は、同地区にある聖アンセルモ教会での導入の祈りから始まり、ここから宗教行列が出発した。行列は諸聖人の連祷を唱えながら、聖サビーナ教会へ向かい、同教会で教皇によるミサが捧げられた。

 ミサの説教で教皇は、「施しをする時、祈る時、断食する時、人目につかないように隠れて行うように」と教えられるイエスの言葉(マタイ福音書6章 1-6. 16-18 節)を取り上げ、「『隠れて行う』『隠れたところに入るように』とのイエスの勧めは、ヨエル書の『今こそ、心から私に立ち帰れ』という主の呼びかけ(2章 12節)同様、私たちを『外側から内側への旅』に導くもの」とされ、「四旬節は、自分の虚飾を脱ぎ捨て、ありのままの姿に戻り、『自分が何者なのか』を自覚して、神の御前に心から立ち返る時なのです」と説かれた。

 そして、「『私たちは塵にすぎず、人間は息にも似た、はかないものだ』ということを思い起すために、祈りと謙遜の精神のうちに、頭に灰を受けましょう」と呼びかけられるとともに、「私たちは『神から愛された塵』です。神の恵みによって、私たちは、イエス・キリストと聖霊において、罪の灰から新しい命へと生まれ変わることができます」と強調された。

 教皇の説教に続き、灰を聖水で祝別し、信者の頭に灰を与える儀式が行われ、「灰の式」で教皇は、バチカンの裁判所の一つ、内赦院の院長マウロ・ピアチェンツァ枢機卿から最初に自らの頭に灰を受けられた。そして、教皇もまた、ピアチェンツァ枢機卿の頭に灰を置かれた。参加者たちが灰を受けた後、感謝の典礼が行われ、四旬節の到来を象徴する儀式は終了した。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月16日