・受刑者のためのミサ、教皇訪日を前にしての説教(菊地東京大司教)

(2019.11.6 菊地東京大司教の日記より)

 10月19日には、昨年に引き続いて今年も、受刑者や出所者の支援活動を行っているマザーハウスの主催で、イグナチオ教会を会場に、「受刑者のためのミサ」が捧げられました。マザーハウスの五十嵐さんの話や、実際に刑務所などで教誨を行う司祭と一緒に捧げるミサで、多くの方が参加してくださいました。

Jyukeisha1902

 以下は、当日の説教の原稿です。説教の内容は、実はわたしがこのところ、どこに行っても繰り返しているテーマで、教皇様の訪日に備えるための内容です。

 まもなく11月の23日に、教皇様が来日されます。

38年前にヨハネパウロ二世がはじめて来日されたときは、まだ50代後半の若々しい教皇でしたから、その時と同じように、今年で83歳になられた教皇様が、朝から晩まで精力的に行事をこなすというわけには、今回はいきません。もっといろいろな方々に機会を設けて、直接教皇様に会っていただきたかったのですが、今回は最低限の行事だけとなりました。

 長崎や広島では、核兵器廃絶や平和に関するメッセージが世界に向けて発表されるでしょう。東京では、政府の行事として天皇陛下や首相などとお会いになりますが、教会の行事としては、東北の大震災の被災者を慰め、青年たちと出会い、そして東京ドームでミサを捧げられます。

 教皇様が日本を訪れる一番の目的は何でしょうか。

 今の段階では、どうしても長崎や広島でのメッセージに注目が集まり、それは教会だけではなく、広く一般の方々や政府も、教皇様が核兵器に関する言葉を述べることを重要視しているように感じています。

 しかしわたしは、教皇様の来日の目的は、それだけにとどまるものではないと思っています。訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため」とされています。わたしはこのテーマにこそ、今回の教皇来日の一番の目的が記されいると感じています。

 わたしたちにとって教皇様はもちろんこの世におけるキリストの代理者ですし、世界に10数億人の信徒を抱える巨大組織のトップではありますが、それ以上に重要な役割があります。教皇の地位は、あのガリラヤ湖畔で主イエス御自身が、一番弟子のペトロに天国の鍵を与えて、その首位権を宣言したことに基づいています。

 ですから教皇様にとっては、この世界において、一番弟子の後継者としての役割を果たすこと、すなわち教会共同体という大きな群れの先頭に立って、主から与えられた使命を率先して果たしていくこと、またその姿を模範としてすべての人に示していくこと。それこそが、最も重要な一番弟子の使命なのではないかと思うのです。

 主ご自身が残された命令の中で一番重要な命令は何か。主が十字架上の受難と死に打ち勝って復活され、御父の元へ戻られるとき弟子たちに対して命じた最後の命令であります。

 すなわち「全世界に行って福音を宣べ伝えよ。すべての人に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」という福音宣教命令であります。ペトロの後継者にとって一番大切な努めは、皆の先頭に立って、目に見える形で、この福音宣教命令を模範的に果たしていくことであります。

 2013年3月に教皇フランシスコが選出されて以来、今日に至るまで、彼が率先して語り、行動してきた最優先事項は、まさしくこの福音宣教命令を率先して実行することであります。

 教皇フランシスコは、選出後の初めての司牧訪問先に、地中海に浮かぶランペドゥーザ島を選ばれました。ここはアフリカに一番近いヨーロッパです。難民が押し寄せていました。そこで教皇はミサを捧げ、世界中に向かって、「忘れられて良い人は一人もいない。排除されて良い人は一人もいない」という彼の福音に生きる姿勢を明確に示す説教をされました。

 その説教の中で、世界中の人々が、自分の生活を守ることにばかり固執し、困難を抱える他の人々への思いやりを忘れてしまったと非難し、そういう姿は、むなしいシャボン玉の中に閉じこもっているようだと指摘しました。ここで教皇ははじめて、「無関心のグローバル化」という言葉を使いました。

 教皇フランシスコのこの姿勢は、その後に発表された「福音の喜び」で、さらに明確になります。教皇は、教会のあるべき姿として、「出向いていく教会」であることを掲げ、安楽な生活を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求めました。失敗を恐れずに、常に挑戦を続ける教会です。しかもその挑戦は、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ駆けつける挑戦です。

 そして『福音の喜び』には、「イエスは弟子たちに、排他的な集団を作るようには言いませんでした」という言葉もあります。その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならないのです」と指摘します(114項)。

 神は、この世界に誕生するすべてのいのちを愛しておられる。ひとつとして忘れられることなく、すべてのいのちが与えられた使命を十分に果たすことができる社会が実現されることを求めている。だから教会は、排除するのではなく、弱い立場にある人、世間から忘れられた人、誰からも顧みられない人、困難に直面する人、いのちの危機にある人の元へ、積極的に出向いていかなくてはならない。神の愛しみに満たされて、ともに共同体を作り上げていかなくてはならないーと説かれるのです。

Jyukeisha1901

 若者のためのシノドスの後に発表された『キリストは生きている』という文書には、和解について述べた箇所があります。教皇はまず、「あなたの霊的成長は、何よりも、兄弟的で寛大で思いやりのある愛において示されます」と指摘します(163項)。

 その上で、虐殺事件を経験したルワンダ司教団の文書を引用して、次のように言います。「相手との和解にはまず、その人には神の似姿としての輝きがあると認めることが必要です。・・・真の和解に至るためには、罪を犯した人とその罪や悪行を分けて受け止めることが欠かせません」。

 教会は、神のいつくしみを具体的に表す存在として、社会の中にあって和解の道を常に示す存在でありたいと思います。互いの人間の尊厳、神の似姿としての価値を認め合い、手を差し伸べあう共同体でありたいと思います。

 ですから、わたしたちは、自らの過去を顧みながら許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々には、心と体のいやしがあるように、いつくしみ深い主のみ手が差し伸べられるよう祈りたいと思います。

 犯罪の加害者の、また被害者の御家族の方々の生きる希望のために、祈りたいと思います。そして、すべてのいのちが神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。

福音のメッセージをその言葉と行いで、はっきりと日本のすべての人に示すために、来られる教皇様の模範に倣って、わたしたちも勇気を持って、福音を証しして生きていきましょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年11月7日