・「キリスト者のあかしとつまずき――虐待の原因・解決策」(阿倍仲麻呂師)

■キリスト者のあかしとつまずき――虐待の原因を考える

 神が責任をもってあらゆるものを慈悲深く見守ってくださることに信頼して生きるのが信仰者の役割です。それは、何か架空の遠い出来事のように感じられますが、イエスはたとえを用いて言っています。

 「王としての神による慈悲深い支えと配慮は、あなたがたのまっただなかにある」(ルカ福音書17章21節)。

 信仰者がいっしょに協力して支え合っているときに、その姿をとおして、神の王としての導きの現実が社会に向けて確かにあかしされてゆく、という意味です。神の目に見えないはたらきは、実に、助け合う人びとの姿のなかにこそあるのです。ということは、私たちのように洗礼を受けたキリスト者も、神の王としての慈悲深い支えを社会のなかで広げてゆけるのです。私たちが協力し合っていればよいのですから。相手のことを思いやって支え合うことが、神の支配の広がりを実現するのです。

 協力する姿そのものが尊いのです。私たちのはたらきをとおして、神が社会に影響力をおよぼします。架空の理念ではなく、私たちのお互いの協力関係が大きな力を持ちます。たしかに、私たちが協力している姿を世間にさらせば、一般の方々も影響を受けます。しかし、逆に、私たちがお互いに無視して傷つけ合っているならば、社会の一般の人びとに対してつまずきを与えてしまいます。

 教会共同体のスキャンダル、自己中心的な利益を優先して他人を切り棄ててしまう動きが生じたときに、社会に衝撃を与えることになります。とくに、昨年(2015年)、騒がれたように、ローマ・カトリック教会の北米の一地域で司祭たちが児童虐待をしていたという事実が発覚しまして、人を導いて守るはずの司祭が自分の興味で欲望のままに動いていたという事件がありました。全米に激震が走りました。

 司祭による児童虐待。この事態は大きなつまずきを社会全体に与えました。教会のなかでキリスト者が他人を傷つける行いを平気でつづけているならば、大きなショックを人びとに与えることになります。
逆に、教会のなかで信仰者同士が助け合って、その励ましに満ちた団結の力強さを示すときに、一般の人たちが感銘を受けながら賞賛を贈ることになります。ですから、小さなふるまいが、相手につまずきを与えることになる場合もあれば、一方で勇気を与える場合もあるわけです。どのように生きるか、という信仰者同士の協力が、いま、問われています。

 アメリカ合衆国のなかでは、精神的に成長の段階が未熟なままで司祭になってしまう人が見過ごされていたわけです。これは、神学養成上の司教の監督不行き届きです。司教たちは、気をつけないと、自分の教区の教会で働く司祭が減っているからという現場の状況に応じて、すぐに人材を得ようとしがちです。簡単に候補者を受け容れてしまって、充分な養成の時間をかけていない場合もあり得るのです。一定期間、神学を修めさえすれば、充分な査定を経ずに認めてしまうのです。働き手が、すぐに欲しいからという理由で、ぞんざいな教育で済ませてしまうのです。精神的に未成熟なままで司祭になった人は現場
で問題を起こします。

 アメリカ合衆国の社会というのは、人間の権利つまり人権を強調するあまり、個人の自由や自己実現を表に出します。それで、家庭が崩壊することもあります。つまり、妻と夫が、それぞれの仕事を優先して相手の気持ちを無視して離婚してゆくという状況がつづいています。自分の自己実現のためだけに生きてしまい、子どもを置き去りにして、家を飛び出す親が続出しています。

 親の愛情を充分に受けずに育った子どもは、大人になって今度は自分の子どもを虐待するようになります。親から虐待された子どもが司祭になった場合、相手を充分に愛せない、つまりゆがんだかたちで相手を囲い込んで私物化してしまい、自分の欲望のことしか考えない、という状況が出てきます。

 ですから、アメリカ合衆国の司祭による児童虐待の問題の背景には、家庭環境の劣悪な状態で愛情を受けずに育った司祭の生活状況があるわけです。悩みをかかえながら司祭職を目指している神学生が司教から充分なアドヴァイスを得ずに、ゆがんだまま進級していった場合に、自分のままならない心の傾きを背負ったままで、結局は相手を理解することができないような人間的な弱さをかかえており、何も解決していない状況で司祭になりかねないわけです。

 ということは、①司祭による児童虐待の根底には、親の責任、家庭のあたたかさが欠如しているという原因があるわけです。そして②司教や養成担当司祭たちによる適切な指導がなされていなかった、という原因もあります。充分な愛情を肉親や指導者たちから受けていなかったということが、虐待を行った司祭たちの欠点に結びつきます。

 教皇フランシスコは最近、2016年6月4日付に児童虐待防止のための指導者による監督責任についての自発教令(使徒的書簡)を出しまして、司教が司祭たちを充分に監督して育てていない場合は、怠慢という理由で公的に解任されると述べています。

 司教は、ただ事務仕事や信仰上の話題を信徒に向けて語っているだけでは足りません。とくに、司教こそが、司祭養成にも心を砕かねばならないのです。司教は神学生たちの声に耳を傾けて、彼らの心の傷を理解し、保護しながら適切に矯正してゆく義務をもっています。とくに児童虐待に関して、司教が指導者としてのアドヴァイスを怠っているときは、司教としての職務を解任されます。教皇フランシスコは、そこまで厳しいことを述べながら、児童虐待をする司祭が増えないように、司教の監督責任を公けに問おうとしています。

■「修復的司法」(Restorative Justice)というヒント――虐待の解決策

 ところで社会的な方向に「ゆるし=愛」を広げて考察を進める必要があります。人間は社会のなかで他者といっしょに協力しながら生きています。その社会的な人間関係を円滑に行うために様々な法律が制定されています。社会生活と法的な規定とは現代人が生きるうえで重要な意味合いをもっているからです。

 プロテスタント系の法学者のハワード・ゼア博士は1990年以前から「修復的司法」(Restorative Justice)」を提唱しました(Howard Zehr, Changing Lenses: A New Focus for Crime and Justice, Herald Press, 1990.)。「修復的司法」は、従来の「応報的司法」(Retributive Justice)の限界を乗り越えるための法的なシステムです。「応報的司法」では、加害者と被害者の関係性を見究める際に、被害者のこうむった苦しみに沿って加害者に相応の刑罰を課すことで、埋め合わせをします。

 客観的に事件概要を吟味しながら一番適正な刑罰を課すことに重点が置かれます。しかし「修復的司法」の場合は、被害者と加害者と被害者関係者と加害者関係者、さらには事件の起こった地域の住民たちにまで幅を広げて事件の原因と結果を究明しながら全共同体的な視野で反省を行い、崩れてしまった人間関係を修復するとともに二度と同様な犯罪がなされないように地域的な意識を高め、「あたたかい支え合いのコミュニティー」を構築する方向性を自覚的に選びます。

 いわば、「修復的司法」は、以下の六点を強調する立場です。――①被害者にとっての正義の見直し(事件に対する認識、関係者への発言権、生活の回復やトラウマからの解放を実現させること)、②加
害者にとっての正義の見直し(加害者に責任を問いつつ償わせる、加害者の健全化、監視システムの設定、③加害者の家族の尊厳の確保)、④被害者と加害者の関係性を実現する共通場の模索(対話、情報交換)、⑤社会的コミュニティー全体の環境整備(犯罪を起こさせないような「あたたかい関わり」の常態化を目指すこと)、⑥将来的な建設的な展望を開く。

 ゼア博士は「修復的司法」を提唱することで、被害者対加害者、被害者関係者対加害者関係者、加害者対地域社会、などの対立構図だけで法的制裁を目指す枠組みそのものを見直そうとしています。
もちろん「修復的司法」はアメリカのディスカッション型の自己アピール社会では「相互コミュニケーション」の技術を洗練させることで容易に実現可能なのかもしれません。

 しかし、少なくとも日本では困難をかかえています。日本人の大半は、相手と積極的に討議して、自分の権利を公然と主張したり、相手の言い分を客観的に聞き容れるようなオープンな「相互コミュニケーション」に慣れていないからです。それゆえに「修復的司法」は、日本においては一部の大学の講義などでは、ひとつの理想的理論としては参考程度に紹介される場合があっても、法的な現場においては採用されることなく今日に至っています。

 ただし、困難だからといって諦めることは、まだ早いわけで、一度破壊されてしまった人間関係を修復しながら「新たな相互協力の方向性を開く」ひとつの理念的な試みが確かに存在するという事実には希望があると言えるでしょう。困難な状況であっても、「決して諦めない」という気概は、まさにキリスト者の生き方の根幹に関わる姿勢であるわけですが、ゼア博士はキリスト者としての生き方を客観的で社会的な法思想の再構築というシステムの根本的変革にまで関連づける努力をつづけています。

 その意味でキリスト者が自分たちの美点としての「決して諦めない」という姿勢を、どのように社会的にシステム化してゆけるのかどうか、つまりキリスト教の核心を社会生活と緊密に結びつけて洗練させることであらゆる人に奉仕してゆくことができるかを計るヒントが「修復的司法」の発想には潜んでいると言えるのです。

(阿部仲麻呂=あべなかまろ=サレジオ会司祭・2016年、カトリック相模原教会での「主の祈り」についての全14回の講演のなかからの一部抜粋)

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2019年3月2日