・「教会の変化・改革を求める教皇フランシスコ」森一弘司教

1.教会の現状に対する教皇の認識は

  教皇フランシスコが教会の現状をどうご覧になっているかを知るため、教皇に就任されて初めてお出しになった使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)の49項を読んでみましょう。

 「(前略)私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく、偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心できる習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(カトリック中央協議会訳)

  以上でお分かりになる通り、神の憐れみについての理解を深めて、「教会そのものを変えましょう」という呼びかけをなさっているところに、教皇フランシスコの特徴があります。これまでの教皇は、人の生き方、社会の問題には言及しても、教会そのものの改革については直接言及してきませんでした。現教皇は、人々に「悔い改めなさい」と呼びかけるよりも、教会そのものに対して「改めなさい」と呼びかけているのです。

 使徒的勧告「福音の喜び」では、まず、「あわれみの神」」を強調したうえで、教会の現状をどのように見、どうあるべきかを語っているのです。

 もし、皆さんが、主任司祭たちに面と向かって、「安全地帯にしがみつき・・中心であろうと心配ばかり‥強迫観念や手順に縛られている・・そういう今の教会を変えなければならない・・」などと言ったら、皆が皆そうではないでしょうが、「もうここに来るな」と怒る司祭がいるかもしれません。一般の信徒が語っても、おそらく受け止めてもらえなかったでしょう。教会についてこれほど辛辣な言葉を口にした教皇は、これまでおりませんでしたね。

 日本の教会は第二バチカン公会議の結果を受けて、1986年に第一回福音宣教推進全国会議を開きましたが、「カトリック信者としての私たち自身の生活と信仰の遊離、教会の日本社会からの遊離」などを共通の認識として明確にしたものの、教皇フランシスコの言葉ほど明確な表現ではありませんでした。教皇のこのような認識に共感する人は、「よくぞ言ってくださった」と感じる人は、今の日本の教会の信者の中でも少なくなくはないのではないでしょうか。

 そうした現教皇の呼びかけの背景に何があるのか、考えてみたいと思います。

 「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心を与える構造」

 「福音の喜び」の上記の箇所にある「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心」という指摘の背景にあるのは、「秘跡中心主義」です。16世紀の宗教改革の先頭に立ったマルチン・ルターは、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」の三原則野畑を掲げて、権力におぼれ、堕落した教会に立ち向かいました。これに対して、時の教皇、パウルス三世がトレント公会議を招集し、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にしましたが、その柱になったのは、「秘跡」「教義」「掟」でした。

 日本にカトリック宣教師によって伝えられたキリスト教は、まさに欧州でそのようなことを背景にしたものでした。秘跡、教義、掟を中心にしたキリスト教でした。

 許しの秘蹟を求め続ける、遠藤周作の「沈黙」で象徴的に描かれているキチジローの姿の中には、秘跡中心に教会理解があります。秘跡―ミサや赦しの秘跡にあずかってさえいれば、救われるというというメンタリティが深くしみ込んだのが、この時代だったのです。秘跡中心主義は、隠れキリシタンの時代にも受け継がれていたのです。

 「ミサに出て、赦しの秘跡を受けて、亡くなる前に病者の秘跡を受けていれば、救いは保障される」、そうした秘跡を中心とした信仰生活が、宗教改革を契機に起こったプロテスタントとの対立で強調されるようになり、「ミサに出て、黙想会などにも参加したりして教会につながっていれば、安全である」という安易な考え方が、教会全体に染みこんでしまったのです。それが、現代の教会にも受け継がれて、そこから払拭できないでいるのです。

  「世俗社会から信徒を護る城塞」

  教会は世俗社会から信徒を護る城塞であると言う認識が深まるのは、18世紀以降です

  教会は、近代社会の土台となる「自由主義、合理主義、科学技術中心の発展、労働者階級の誕生、資本主義」が芽生えてきたとき、その意味を理解できず、『自由、平等主義、合理主義』を、カトリック教会の信仰に逆らう危険な毒としてとられ、弾圧する側に立って、教会を近代主義から信者を守る『城塞』と位置づけたのです。 信者たちには、たとえ理解できなくても教会の教えを信じ、聖職者たちに従うことを、求め指導したのです。結果として、信者たちの思考停止を生んでしまったのです・

  それが、信仰の日々の生活からの遊離、教会の現実社会からの遊離を助長してしまい、また、それが、一般の人々には敷居の高い、近付きがたい教会を生んでしまったのです。

 「中心であろうと心配ばかりしている教会」

 こうした教会の葉池にあるものは、中世期に確立した教会像です。

 中世期、教教皇は宗教と政治を合わせた絶対的な権力者、王の中の王と理解されるようになり、教皇をはじめとする司教、司祭たちは、地上におけるキリストの代理者として認識されるようになります。

 聖職者は、地上におけるキリストの代理者としての理解は、時代を超えて受け継がれてきており、今もって善良な信者たちの心には染みついてしまっているように思えます。

 近代主義が台頭してきた18世紀以降、ヨーロッパ全体に大きな影響力を及ぼしてしまう近代主義と向き合うため、っかとリック教会は、教皇をピラミッドの頂点とした強固な「中央集権主義体制」が確立したのです。その中心的な人物が、ピオ9世でした。1869年に第一バチカン公会議を招集し、教皇の不可謬権を宣言し、司教は教皇に、司祭は司教に、そして信徒は司祭に従順、という〝ヒエラルヒー″が完成します。教会の統治は聖職者に委ねる、という「聖職者主義」が確立します。

 よく「教会には民主主義がない」という声を聞きますが、司法、行政、立法の三権分離は、教会の構造にはまだ確立していないのです。教会は、中心でなければならないという観念がまだまだ染みついてしまっているのです

 このように教皇フランシスコは司教として現実の社会の現場で活動されて、色々な問題にぶつかってきた経験から、痛切に感じたことを表に出し、「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」という呼びかけをされたのです。

2.教皇フランシスコの目指す教会は

 まず「出て行く教会」です。教会の外に出て、人と向き合い、人それぞれの人生とまじりあうことをイメージされているのだと思います。

 教皇は、ブエノスアイレス司教となって、市内のスラムに入り、住民一人ひとりと言葉を交わし、親しく付き合われました。教皇になられた直後のインタビューで「教会は〝野戦病院″であるべきだ」「扉を開いて歓迎し、受け入れるばかりでなく、新たな道を見出す教会になろう・・信仰を捨てた人や関心のない人たちのために」と語られたのも、その延長上にあります。また、別の雑誌のインタビューで、「私は『神』を信じていますが、『カトリックの神』ではありません・・・おられるのは『神』だけ、イエス・キリスト、人間の姿を借りてこの世に現れた『神』です」と語りました。教皇が見ている眼は、神が人を見ている眼なのです。

 もう一度、使徒的勧告「福音の喜び」に戻りましょう。「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆、かつ創造的であってください」(33項)と教皇は、強く呼びかけられています。

 第二バチカン公会議を受けて日本の教会が開いた1986年の第一回福音宣教推進全国会議も、どこか遠いところで作られた信仰様式に無理やり私たちの生活に合わせるのではなく、現実の生活と日本社会の中で生きる、ということで捉えなおすように、教会を転換していくべきだ、というのが、司教たちの考えでした。

 それから30年経って、教皇フランシスコが、別の言葉でもっとはっきりと語られたのです。このような認識を共有したうえで、前を向いた改革を進めていく。それが、私たちに求められていることではないでしょうか。

(2017.3.11真生会館講座「信仰生活を深め生きる」シリーズより)

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2017年3月17日