「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」
・・使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」から何を学び、生かすか
はじめに
・講座の狙いは、日本の信徒にほとんど届いていない、教皇が最重要課題の一つとしている「家庭をめぐる問題と対応」についての、教皇の努力、メッセージを受け止め、考え、自分たちの置かれた場で何ができるか、具体的に少しでも新しい試みを始めていく、すでにしているならそれを育てていく、きっかけになること。
・勧告自体は、二度にわたるシノドス、合計で20日以上もかけた議論、それをもとに半年かけて教皇がまとめた、公式英語訳でA4の紙に小さい字で印刷しても75ページあり、1時間ではとても全部を説明できない。
・これを機会に関心をお持ちになり、中央協議会が早く日本語訳を完成、出版してくれれば、それに越したことはないが、いつまで待てばいいか分からない、とすれば、英語版、イタリア語版、フランス語版などすでに入手可能なものを、直接、お読みになる、あるいは小生が進めている日本語訳(一部抄訳)などを使って、一人で、グループでお読みいただければ幸い。
①Amoris Laetitiaが出されるまでの経過
・新聞・テレビを見ても、家庭に関する事件、問題が報道されない日はない。地域社会、教会共同体でも、高齢化の進展、一人暮らしの増加、子育て、若者教育の問題など、家庭をめぐる問題に日々身近に接している。内容、程度は違うが、全世界共通の深刻な問題である。
→4月に読売新聞で連載された[孤絶・家族内事件]第2部「親の苦悩」を「カトリック・あい」に掲載、現在でも閲覧件数でトップクラス。一日で10件近くなる日も。
・2013年春に教皇に就任したフランシスコは、家庭に関わる問題への対応をカトリック教会にとっての最重要課題として取り上げ、「家庭」をテーマに2014年秋、2015年秋と二度にわたる全世界司教会議(シノドス)を招集し、全世界の教区、修道会、教育機関など諸団体から集めた意見・報告・提案をもとに議論を重ね、それをもとに2016年3月に使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」を発表された。
・教皇は就任した年の11月に使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」(2014年6月に日本語訳が中央協議会から刊行)、さらに2015年5月24日に環境回勅「Laudato Si‐ともに暮らす家を大切に」を出した。(2013年6月29日に出た回勅 「信仰の光」は前任者、ベネディクト十六世が草稿をまとめ、フランシスコが引き継いだ。就任から3か月。本人の思いは十分反映されていない)
・そして、二つ目の使徒的勧告「Amoris Laetitia」は、「Evangelii gaudium」を教会、信徒としての基本的な在り方について勧告した「総論」とすれば、その延長上に「家庭」に関する現実を見据えた「各論」「現状分析と実践」の勧告、と言える。
②Amoris Laetitiaとりまとめの過程のユニークさと教皇の思い
・この使徒的勧告を発出するにあたって、教皇は二度のシノドスをもったが、それだけでなく、最初のシノドス前に、世界の司教に、シノドスの準備のための質問状を送り、小教区や修道会、関係機関の声を吸い上げる形で、教区の現状、問題、対応、提案などを事務局に送るよう要請→回答を取り入れた準備書面をまとめて→一回目のシノドスを開き→その結果を書面にして、世界の司教に伝達、教会、信徒に伝え→それに対する意見、提案を求め→それをもとに二回目のシノドスの準備書面をまとめ→二回目のシノドスを開き、できるだけ多くの司教が発言し、議論を徹底するよう分科会方式など運営に工夫し、→その結果を最終文書として、世界の司教に伝達→反応などを踏まえて、教皇が使徒的勧告にまとめた。
・これまでの回勅、使徒的勧告などに見られなかった緻密な準備、末端の信徒、小教区までいきわたるような“双方向”の作業がされた。ここにも、教皇の「家庭」についての強い思い、全世界の教会、信徒とともに取り組みたい、という願いを知ることができる。
③Amoris Laetitia勧告の序章で、教皇本人が語る勧告の意義と読み方・・
(勧告の意義)
・家庭生活における『愛のよろこび』の体験は教会の喜びでもあります。結婚の制度・慣習に多くの危機の兆候が出ているにもかかわらず、結婚して、家庭を持ちたい、という願望は、特に若者たちの間でなお強く・・それに応えるものとして、キリスト教徒の家庭生活に関する意思表明は、実に“よき知らせ”なのです。
・この勧告は、2016年が『いつくしみの特別聖年』であることで、とくに時宜を得たものになりました。それは「勧告が、キリスト教徒の家庭に対して、結婚と家庭生活という贈り物を大切にし、寛大さ、献身、貞節、忍耐の徳で強められる愛の中で、保ち続けるように勧めるもの」であり、「不完全で、平和とよろこびを欠いた家庭生活のどの場においても、いつくしみと親密さのしるしとなるよう、一人一人を励まそうとするもの」だからです。
(勧告の流れ)
第一章で、聖書に霊感を受けて最初の章を始め、適切な基調を定めます。
第二章で、現実にしっかりと根を下ろした姿勢を維持するため、家庭の実際の状況を考察し
第三章で、結婚と家庭に関する教会の教えの本質的な側面を思い起こし、
愛に捧げられた二つの中心的な章(第四、第五章)への地ならしをします
第六章)で神の計画に合わせた健全で実り多い家庭の形成に私たちを導くことのできる司牧的取り組み方に焦点を当てます
第七章を子供たちの養育に充て、
第八章で、慈しみへの招きと主の期待に及ばない状況について司牧上の識別を提示します。(勧告の読み方の勧め)
・2年にわたるシノドスの過程の豊かな実りを受け、勧告は多岐にわたる様々な問題を取り扱うため、ある程度の長文となることが避けられず、勧告全文の速読はお勧めしません。
・家庭をもつ方々自身、家庭生活に関わる使徒職に携わる方々にとって、各章を忍耐強く、注意深く読む、あるいは、それぞれの立場で特に必要と判断される内容を注意を払って読むのがいいでしょう。
・例えば、結婚したカップルは、第4章と第5章にもっと関心を持つでしょうし、司牧者の関心は第6章、そして誰もが第8章から課題を提示されていると感じるに違いありません。
・私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、家庭生活を愛し、育むように呼ばれていると感じること。「家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会」だからです。
④家庭テーマのシノドス後の教皇の使徒的勧告「愛の喜び」要旨 2016.4.5 バチカン放送日本語課
序章・・上記に・・本文は9つの章で構成。
第1章「みことばの光に照らされて」
:神のみことばは、「抽象的な文章の羅列」ではなく、「家族に歩むべき道を指し示す、旅の友」である。また、三位一体の神は愛の共同体であり、「家庭はその反映でなくてはならない」。
第2章「現実と家庭の挑戦」(公式英語訳を翻訳すると「家庭の現実」)
:教皇は「家庭の善は、世界と教会の未来を左右するもの」であるとし、「家庭の具体的な現実に関心を払うことの重要性」を説いている。そして、今日の家庭が抱える問題として、「行き過ぎた個人主義」や、「仮の姿」を選ぶ風潮などを挙げ、こうした傾向の中で、家庭という存在が、「必要な時や便利な時だけ頼る、単なる“仮の場所”となることを懸念している。
教皇は、キリスト者の結婚と家族を守るための責任ある心広い努力を呼びかけ、「教義・生命倫理・道徳の面しか語られず、抽象的で、理想化された結婚に対する考え方」を自から反省し、「人々に幸福への道を示すことができるような、前向きで受容性のある司牧」を訴えている。
そして、教会が家庭のために関心を持つべき課題として、産児制限、信仰生活の弱体化、住居問題、未成年への虐待、移民問題、キリスト教徒や少数民族・宗教への迫害、障害者、高齢者、貧困、事実婚や同性婚、女性への暴力、ジェンダー思想の問題などを挙げている。
第3章「イエスに向かう眼差し:家庭の召命」
:「結婚と家庭に対する教会の教え」の概要を改めて提示。神の恵みとしての男女間の結婚、その不解消性は束縛ではなく「賜物」、「真の愛の源泉である三位一体の神を映し出すもの」と説いている。結婚は「召命」であり、「秘跡」である、とし、同棲する信者、民法上のみの結婚をした信者、離婚して再婚した信者、困難な状況に置かれた家族、傷ついた家族への、教会の司牧的配慮を呼びかけている。
すべてのケースにおいて、当事者たちの責任の重さがいつも同じではないことを考慮し、司牧者は、愛と真理のために状況をじっくり判断することが求められる、と指摘。は教会の教えをはっきり明示する一方で、様々な状況の複雑さや一人ひとりの苦しみを考慮することの必要性を強調。
また、教皇は子どもを授かることのできない夫婦も、人間的・キリスト教的に完全に満たされた夫婦生活をおくることができるとし、子はあくまでも神の賜物であり、子を持つのが当然ということではない。また、一つの命が別の人間の立場から支配されてはならないと、受胎から自然な死までの命の大切さを説いている。
第4章「結婚における愛」(同「結婚生活における愛を考える」)
:結婚における愛について、「相手のためを思う心」、「相互性、優しさ、安定などを、秘跡による特別な不解消性の中に融合した最も大きな友情」と表現。結婚は「神の賜物を段階的に受け入れ完成させていくためのダイナミックなプロセス」と述べている。
教皇は、結婚を避けようとする最近の若者の風潮に対して、「結婚を人生の重荷や到達不可能な理想として恐れてはなりません。『絶えざる成長の歩み』として捉えるように」と励ましている。
第5章「愛は豊かになる」(同「愛は実り多い」)
:家庭における命の受け入れをテーマに取り上げ、「すべての子どもは神の御心の中にある」と述べて、「受胎した瞬間からの命の尊重」を説くとともに、「子どもたちの持つ尊厳と権利の尊重」を強調している。子どもにとって「母と父を持つという自然の権利は、統合的で調和の取れた成長に必要」としている。
また、「母性は必ずしも生物学的な親だけに限られたものではない」とし、家族の無い子どもに家族を与える「養子制度」を容易にするための法整備の必要に言及すると共に、こうしたことが中絶や子どもの遺棄の防止にもつながることを期待している。
第6章「いくつかの司牧的展望」(同「結婚と離婚についての司牧的観点」)
:シノドスの結果に答える「新しい司牧の道」を一般論として示し、これに沿って、「それぞれの教会共同体が、教会の教えと地域の必要に照らした『「より実践的で効果ある提案」を練る必要がある」と強調。2014年、2015年の2回のシノドスで言及された司牧上の配慮が必要な課題を列挙した。
まず、「キリスト者の家族」は常に「家庭司牧の主体であり、単なる目的ではない」と前置して、「司祭・助祭・修道者・カテキスタなど家庭司牧に関わる者の育成」が強く求められており、彼らには教義において堅固であるだけでなく、物事を見る能力が必要、と指摘。教会の様々な召命を生かすために、女性の存在の重要性も強調。
「婚約者」たちの歩みを、結婚前だけではなく、早い時期から導き、結婚の秘跡の価値と豊か
さを発見できるよう助けねばならない。「結婚して間もない夫婦」に対しても、日々の歩みにおいて、忍耐や理解、寛大さと共に成長できるよう導かねばならず、「信仰」を励ます必要。
「様々な家庭の危機」については、「すべての危機には良い知らせが隠されているが、それを知るためには心の耳を澄ますことが必要」とし、「家庭の危機が、赦し赦されることを通して、愛を強め成熟させる機会となることを願う」と。
「離婚」は、「一つの悪であり、その増加は憂慮すべきもの」としたうえで、家族に求められて
いるのは、「愛を強め、傷を癒し、離婚という現代の悲劇が広がることを防ぎ、子どもたちがこの状況の人質となることを避けること」と強調している。一方で、離婚が危機-暴力や、横暴、搾取など-を前に、究極の解決策として、人道的に必要とされる場合もあることを考慮すべき。
「離婚して再婚した人」と「離婚して新しい関係にある人々」については、特に「配偶者を不当に選ばされた人々への特別な判断と配慮の必要」を示している。「離婚したがその後、結婚していない人」については、「支える糧」として聖体に積極的に近づくよう促すと共に、離婚して再婚した人々に対して、「教会から破門されたかのように感じさせてはならず、教会の一員として迎え、注意深い判断と大きな尊重をもって、見守る必要がある」としている。
「カトリック信者と他のキリスト教教会の信者との結婚」「カトリック信者と他の宗教の信者との結婚」「カトリック信者と無宗教者との結婚」にも特別な配慮が必要であり、これらの結婚を、「エキュメニカルまたは諸宗教対話の機会、また福音を証しする機会」とするよう促している。
「同性愛者」については「不当な差別をせず、すべての人の尊厳を重んじる教会」の立場を明記。ただし、「同性愛者のカップルを、神の計画に従った結婚と家庭と同等に見なすことはできない」としている。
第7章「子どもの教育の強化」(同「より良い子供の養育に向けて」)
:子どもに十分な教育を与えることは、両親にとって「重大な義務」であり、「最優先の権利」であるとしたうえで、教育とは「強制的に、すべてをコントロールすること」ではなく、「責任ある自由を育て、人生の岐路に立った時、良識と知性をもって判断できるように、人間として成長させること」と強調。道徳教育を中心に、教育において配慮すべき点を指摘している。
第8章「弱さを見守り、判断し、補う」(同「結婚生活の弱さに寄り添い、識別し、包み込む」)
:「秘跡としての結婚の教義」と「弱さを見守り、判断し、補う必要」の双方をめぐる考察。
秘跡としての結婚は「キリストと教会の一致の反映であり、それは男女間の自由と忠実に基づく特別な一致」としたうえで、「教会の仕事はしばしば野戦病院の仕事に似ている。多くの信者たちの弱さをいつくしみをもって見守り、判断し、補う必要がある」と述べている。
こうしたことから、司牧者には「キリスト教的結婚を進めること」と「そうでない多くの人々の状況を司牧的に判断すること」の両方が必要。教会の道は常にイエスの道、すなわち「いつくしみと融合」にあり、そこでは「誰もが永久に罪に定められることはなく、神のいつくしみは、誠実な心をもってそれを求めるすべての人に及ぶ」とし、したがって、「離婚して民法上の再婚をした人々についても、個々の複雑な状況を認識することが必要」であり、その状況は「人によって非常に異なるため、厳しすぎる定義で分類したり決め付けたりすることはできない」と注意を促している。(注・このあたりの解釈をめぐって、欧米の関係者、進歩派と保守派の間で、離婚・再婚者への聖体拝領を認めるか否かの意見対立が起きている)
皆を受容するという意味で、2015年のシノドスでも意見されたように、典礼・司牧・教育などの場における排他的な対応を深く反省し、克服する必要がある、とする一方で、「シノドスやこの使徒的勧告から、すべてのケースに適用できるような新しい教会法的規則が生まれることを期待してはならない」と注意し、「責任をとるレベルは、すべてのケースで同じではない(注・つまり、画一的な対応、判断はできない)。特別なケースに出会った場合には、責任ある個人的・司牧的判断を勇気をもって行うこと」。(注・教区レベル、あるいは小教区レベルの責任者に判断をゆだねることを示唆する内容となっている)。
誰をも裁かず、罪に定めず、排除せず、いつくしみの中に生きることを強調し、「教会は関所ではなく、生活の労苦を背負うすべての人々が安らぐ父の家」と念を押している。
第9章「夫婦と家族の霊性」(同「結婚生活の霊性」)
:信仰を表現し強める手段として、家庭の中で祈りを実践するよう促し、「キリストは、たとえ
辛い日々においても、家庭生活を一致させ、光で照らし、十字架の神秘によって困難と苦しみを愛の捧げ物に変えてくださいます」と強調。「どのような家庭も、いつも完璧で型どおりのものではありません」としつつ、「家庭とは『愛する能力を段階的に発展させていく場』です」と述べ、「家庭よ、歩みましょう、歩み続けましょう」「希望を失ってはなりません」と呼びかけ。